1コリント1:18‐25、マタイ27:45-56
宣教という愚かな手段によって
頌栄教会の十字架は遠くから良く見えます。礼拝堂の正面にも大きな十字架が掲げられています。教会としては当たり前のことで、誰も不思議に思いません。しかし、十字架はもともと死刑の道具です。その意味ではギロチンや絞首台と同じです。ならばそれが高く掲げられていたり、部屋の正面にあるのは、本来はとても奇妙なことであり、この世の観点からするならば、愚かなことであるはずです。
教会はその初めから、奇妙で愚かに見えることを行ってきました。他の犯罪人と共に十字架にかけられた一人の男を指差して、この方こそ私たちを救うメシアなのだと宣べ伝えてきたのです。それが世の人々にはつまずきであったり、愚かに見えることを承知の上で、それでもなお十字架にこだわり続けたのです。十字架につけられたキリストを宣べ伝えることにこだわり続けたのです。
今日の第2朗読でパウロも言っていました。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」(1コリント1:22-24)。
そのような「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」が宣べ伝えられて、二千年間も宣べ伝えられ続けて、エルサレムから遠く離れた日本にいる私たちが「十字架につけられたキリスト」のことを聞いています。そのこと自体、まさに神の御業としか言えない驚くべきことです。それは十字架の言葉が、事実、救いをもたらす神の力であり、神の力であり続けてきたことを示していると言えるでしょう。その意味において、宣教は人間の言葉をもってなされますが、その主体は神ご自身であると言えます。パウロも言っているように、「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(1コリント1:21)。
そのような神の御業の中に、今、私たちは置かれているのです。私たちは神に呼び集められた者として、「召された者」として、マタイによる福音書の言葉を聞きました。私たちが「召された者」として耳を傾けるならば、それは確かに「召された者には、神の力、神の知恵であるキリスト」に他ならないのです。
裁きの日の到来
私たちが今日耳にしたのは45節からでした。「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(45-46節)。
かつてアモスという預言者が、神の裁きの日について、次のように預言しました。「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。わたしはお前たちの祭りを悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え、どの腰にも粗布をまとわせ、どの頭の髪の毛もそり落とさせ、独り子を亡くしたような悲しみを与え、その最期を苦悩に満ちた日とする」(アモス8・9‐10)。
「その日が来る」とアモスは告げました。そして、「その日が来たのだ」と新約聖書は伝えているのです。「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と。エルサレムに十字架が立てられたあの日、まさに神の裁きの日が到来したのです。神が白昼に大地を闇とする日、そして、神が喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変えられる日、裁きの日が、ついに到来したのです。
しかし、地上に神の裁きが行われる主の日が到来したにもかかわらず、現実に起こったことは、アモスの預言の通りではありませんでした。地上の人々は嘆きの歌など口にしていなかったのです――たった一人を除いては。神に見捨てられて嘆きの歌を口にしていたのは、ただ一人、十字架の上のキリストだけでした。あの御方だけが大声でこう叫んでおられたのです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味であると説明されています。そのように、ただキリストだけが神に裁かれ、見捨てられた者として、苦悩の叫びを上げておられたのです。
他の人々は、主の日が到来し、神の裁きが地上に行われているなどと夢にも思ってはおりませんでした。ある人は言いました。「この人はエリヤを呼んでいる」と。他の人は言いました。「エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。そのように、本来神の裁きを受けるはずであった地上のすべての人々は、まったく気づかない。そのような人々のただ中で、本来裁かれるはずのない罪なき方が、まるで避雷針のように、すべての人に代わって神の裁きを身に受けておられたのです。キリストは神の怒りを、受けるべき杯として、ただ一人で飲み干しておられたのです。
こうしてただ一人苦難を受けられたイエスは、最後に大声で叫び、息を引き取られたました。十字架につけられた者は、次第に衰弱して死んでゆくものです。ですから、キリストの最期の姿は、自然な死に様ではありません。その姿は明らかに、何か特別なことが起こっていることを示していました。
キリストの死において起こったこと
それは何であるのか。聖書は「そのとき」(51節)という言葉をもって、二つのことを語り始めます。「そのとき」というのは、「すると、見よ!」というのが直訳です。そこで起こっていることに、私たちの注意を促しているのです。「見よ!」という言葉で指し示されているのは、二つの異常な出来事です。もちろん、マタイは、単に事柄の異常さに注目させようとしているのではありません。大事なのは、それが何を示しているのかということです。
まずそこに語られているのは、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」たということです。
「垂れ幕」とは、神殿の一番奥にある「至聖所」と呼ばれる部屋の前にかかっている垂れ幕のことです。その至聖所には通常誰も入ることができません。ただ一年に一回だけ、大祭司が垂れ幕を通って至聖所に入ることが許されています。大祭司は罪を贖う犠牲の血を携えて入るのです。贖いの血を携えなければ通ることができない神殿の垂れ幕は、神と人間との隔てを象徴しています。人間には罪があるゆえに、罪の贖いの犠牲なくしては聖なる神に近づくことはできない。そのことを意味する垂れ幕です。
しかし、その垂れ幕が真っ二つに裂けたのです。「裂けた」と書かれていますが、正確には「裂かれた」と書かれているのです。誰が裂いたのか。神が引き裂いたのです。ですから「上から下まで」と書かれているのです。人間が裂いたら「下から上まで」となるでしょう。あの瞬間、キリストが息絶えた瞬間、神御自身が垂れ幕を引き裂いたのです。
なぜでしょう。もはや隔ては必要がなくなったからです。もはや神に近づくために、罪の贖いが繰り返される必要はなくなったからです。というのも、この地上において最後の犠牲が屠られたからです。この世の罪を完全に贖う真の犠牲が屠られたからです。この犠牲のゆえに、人が罪を赦された者として神に近づく道が開かれたのです。その道が神の御手によって開かれたのです。
そして、さらに次のように続きます。「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」(51‐52節)。
私たちの目に大地は動かざるものと映ります。人間はその確かさの上に家を建て、町を築きます。しかし、大地は決して動かざるものではありません。地震が起これば揺れ動きます。そして、決して裂けるとは思えなかった岩が裂けるのです。キリストの死において始まったのは、まさにそのような出来事でした。最も確かに思えたものが揺り動かされ、打ち壊されたのです。
人間にとって最も確かなことは何か。それは人間が「死ぬ」ということでしょう。死の支配ほど確かなものはありません。死の中に閉じこめられない者は誰もいません。墓に入った者は、二度と外に出てくることはありません。それが最も確かなことです。そうです、確かなことであったはずでした。しかし、その最も確かなものが揺り動かされ、打ち壊されたのです。死の支配が打ち壊されたのです。「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」という描写が指し示しているのはそういうことです。
そして、既に見てきたように、墓が開かれたことは、神殿の垂れ幕が裂かれたことと共に記されているのです。この二つは切り離すことができないのです。人間と神との間にある垂れ幕は引き裂かれ、隔ては取り除かれました。それゆえに、死はもはや人間を支配することはできないのです。人が神と共にある時、もはや死はその人を支配することはできないのです。
その全ては十字架において、十字架につけられたキリストにおいて、この世に起こったことでした。そして、今、信仰によって、召された私たちに起こっていることなのです。私たちは今、神との間の隔てを完全に取り除かれた者として、神の御前に集められているのです。礼拝堂に集まっている私たちも、今、祈りにおいて神の御前に集っている人たちも、皆共に、隔てを完全に取り除かれた者として、神の御前に出て礼拝をささげているのです。そして、死の支配から完全に解放された者として、代々の聖徒たちと共に、神の御前において礼拝をささげているのです。そのすべては十字架につけられたキリストによるのです。
(祈り)
2021年3月28日日曜日
「十字架につけられたキリスト」
2021年3月21日日曜日
「あなたの願いは何ですか」
マタイによる福音書 20:20-28
王座にお着きになるときには
「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした」(20節)。
ゼベダイの息子たちとはヤコブとヨハネです。その母親がイエス様の御前に来てひれ伏した。「二人の息子と一緒にイエスのところに来て」と書かれていますから、ヤコブとヨハネの二人も、イエス様の御前に来て一緒にひれ伏したのでしょう。そこで主は問いかけます。「何が望みか」。
ヤコブとヨハネの母親は答えました。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」(21節)。彼女はイエス様が王座に着いた時のことを考えています。恐らくゼベダイの息子たちも同じです。マルコによる福音書にも同じ話が出てきます。そこでは、この二人の息子たちが直接願ったことになっています。母親が口にした願いは、この二人の願いでもあったということでしょう。そのように、彼らもまたイエス様が王座に着くことを信じているのです。後に見るように、他の弟子たちについても同様のことが言えます。
イエス様が王となられる。イエス様が王座に着かれる!彼らがそのように信じたことは理解できます。なにしろ、それまでに数々の奇跡を目の当たりにしてきましたから。とてつもない神の力がこの御方を通して現実に働くことを目撃してきたのです。しかも、この御方の周りに集まってくる人たちは数千人規模にも膨れあがっていたのです。しかもイエス様は大群衆と共に神の都エルサレムに向かって進んで行かれるのです。
イスラエルが待ち望んでいたことがついに実現するのだ!イエス様を取り巻く巨大な群衆において、そのような期待が一気に膨らんでいったことは容易に想像できます。そのような彼らの期待は、この後の21章にもよく現れています。イエス様がエルサレムに入城する時には、大勢の群衆が自分の服を道に敷き、前に行く者も後に従う者もこう叫んだのです。「ダビデの子にホサナ!」「ホサナ」とは「救ってください!」という叫びです。まさに彼らは救い主として到来した王を迎えたのです。この御方を王とした王国が実現することを信じて、彼らは叫んだのです。「ダビデの子にホサナ!」
今日お読みしたのは、そのような人々の期待と興奮が渦巻く中での出来事なのです。この御方が王座に着く時がやってきた!そこでヤコブとヨハネが母親まで巻き込んで抜け駆けをしたのです。あるいは母親が彼らを巻き込んだのかもしれません。いずれにせよ、イエス様の前にあって、これは三人共通の思いだったはずです。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」。
誰が一番偉いのか
しかし、想像してみますと、これは実に異様な光景であるとも言えます。抜け駆けは普通内緒でするものではないでしょうか。しかし、この場合、他の十人はそこにいるのです。声が聞こえるところにいるのです。いや、そこに他の十人がいるからこそ、彼らにも聞こえるように、イエス様に「おっしゃってください」と願っているのです。まるで、イエス様がこの二人を特別扱いすることが当然であるかのように、この母親はそう言っているのです。そして、明らかに当のヤコブとヨハネも、それを当然のことのように思っていたのです。先にも言いましたように、マルコによる福音書では、この二人が願ったこととして書かれているのです。
もちろん、彼らの願いは、全く根拠のないものではありません。先週読まれたのは17章でした。山の上でイエスの姿が変わったという話です。その高い山にイエス様が連れていったのは、ゼベダイの息子たちとペトロだけでした。実際、その他にも、この三人だけがイエス様にお供することは、少なからずあったものと思われます。この後、26章に書かれていますゲッセマネの園の場面でも、イエス様が共に祈るために連れて行ったのはヤコブとヨハネ、そしてペトロだけでした。
ですから、いよいよイエス様がエルサレムに向かおうとしておられた時、いよいよイエス様が王座に着かれると期待される時、二人の息子の母親は、当然のこととしてイエス様に願ったのです。みんなの前で!「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」。それは実際的に必要なことでもあったのだと思います。三人いますから。このあたりではっきりさせなくてはならない。ペトロは三番目にしておいてもらわなくてはならないということでしょう。
しかし、そのことに腹を立てたのはペトロだけではなかったのです。「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」(24節)と書かれています。ただ抜け駆けをされたからではありません。先を越されたからではありません。彼らが腹を立てたのは、明らかに下に見られたからです。この母親に自分の息子たちよりも下に見られたからです。いや当のヤコブとヨハネによっても下に見られたからです。母親も息子たちも、王座の左右に座ることを当然のこととして語っている姿に、自分たちを他の十人よりも上にいるものとして語っている姿に彼らは腹を立てたのです。
先ほど、「想像してみますと、これは実に異様な光景である」と申しましたが、トータルに見るならば、これはこの世における私たちの経験の中にいくらでも見られることではないかと思います。誰からどのように扱われたかで、自分を高く見積もってみたり、自分を低く見積もってみたり、自分が上だと思えば人を見下してみたり、自分が下だと思えば妬んでみたり嫉んでみたり、人から上に見られれば悦に入り、人から低く見られ軽く見られれば腹を立て・・・。そんな世の中にあの弟子たちは生きていたのでしょうし、そんな世の中に私たちもまた生きているのでしょう。
仕える者になりなさい
だからこそ、そんな弟子たちをイエス様は呼び寄せて、こう言われたのです。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(25‐28節)。
あの母親は主の前にひれ伏して言いました。「王座にお着きになるとき・・」と。そこから始まったのです。それは間違いではありません。イエス様はこの世に来られたまことの王です。この御方こそ王座に着くべき御方です。しかし、今日の聖書箇所を読む時に、決定的に重要なのは、その「王座にお着きになるとき・・・」という言葉をこの母親がいつ口にしたのか、ということなのです。今日の聖書箇所は「そのとき」という言葉から始まっているのです。大事なのは「そのとき」がいつなのか、ということです。
今日の箇所の直前にはこう書かれています。「イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する』」(17-19節)。
エルサレムに上って行く途中、改めて主は御自分の受難を予告されたのです。マタイによる福音書においては、これが三度目の受難予告です。そのことを語るために、あえて群衆を離れて、十二人の弟子だけを呼び寄せられたのです。そして、主が語られたまさに「そのとき」、あの母親が、二人の息子と一緒に来て、ひれ伏し、そしてあの言葉を口にしたのです。「王座にお着きになるとき」と。
彼らは何を聞いていたのでしょう。いや、彼らだけでない、他の十人もいったい主から何を聞いていたのでしょう。本当に聞いていたのでしょうか。
イエス様が予告された御受難について、今日の聖書箇所では、「仕えられるためではなく仕えるため」また「多くの人の身代金として自分の命を献げるため」と主は表現しておられます。主が考えておられたのは「仕えること」だということです。主は引き渡され、死刑を宣告され、侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられることになる。しかし、主が語っておられたのは、ただその苦しみを甘んじて受けるということでも、運命として受容するということでもなかったのです。そうではなく、王座に着くべき御方は「仕えること」を考えておられたのです。仕えるために来られ、仕えるためにエルサレムへと向かっておられたのです。そして、仕えるということはすなわち命を献げる(与える)ことだったのです。主にとって、この世の「命」は仕えるための命、与えるための命だったのです。
イエス様は王です。キリストの王国の王です。しかし、キリストの王国は上下が逆になっている王国なのです。「支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」。それがこの世の王国です。それとは全く逆の、王が民のために仕えて命まで与えてくださった、そのような王国なのです。そのような王国のそのような王の前に、彼らは「そのとき」いたのです。その王から「何が望みか」と聞かれたのです。そのような王国の王座の右と左に座りたいと願うならば、それは何を意味するのでしょう。それは「仕える者となる」ということなのでしょう。彼らはそれが分かっていなかった。だから「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」と言われたのです。
今、主を礼拝している私たちに、主は言われます。「何が望みか」と。私たちが願っていることは何でしょう。それは「仕える者となる」ことでしょうか。
(祈り)
2021年3月7日日曜日
「あなたに天の国の鍵を授ける」
マタイ16:13‐20
教会の土台
「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(18節)とイエス様は言われました。「わたしの教会」と主は言われるのです。教会はキリストの教会です。いかなる意味においても、教会は私たちのものではありません。そして、教会がキリストの教会でありますゆえに、教会を建てるのもキリストの御業です。「わたしがわたしの教会を建てる」と主は言われるのです。
もし、私たちが《私たちの教会》を建てるのならば、その土台も私たちが据えるのでしょう。「私たちはこのような理念に基づいて教会をつくりましょう」と言うこともできる。しかし、それでは「私たちの教会」にはなっても、キリストの教会にはなりません。キリストがお建てになる《キリストの教会》であるならば、その土台を据えるのはキリスト御自身です。
では、その土台とはなんでしょうか。主は言われました。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」。イエス様は弟子のシモンをペトロと呼ばれます。主の用いておられたアラム語ならば「ケファ」となります。「ケファ」とは「岩」という意味です。そして、「この岩(ケファ)の上にわたしの教会を建てる」と主は言われたのです。ですから、直接的には、教会の土台である「この岩」とはペトロのことです。
しかし、「この岩」は単に人間ペトロを指しているのではありません。実際、ペトロその人について言えば、ここで教会の土台である「岩」と呼ばれたにもかかわらず、その直後には「サタン、引き下がれ」(23節)と叱責されています。岩ともなるし、サタンの手先ともなる。それが人間ペトロです。ですから、大事なのはペトロその人ではありません。教会の土台は、ペトロが口にした、「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白なのです。
その信仰告白は、その前に書かれている人々の声と対比されております。イエス様が弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」(13節)と尋ねられました。すると、弟子たちはこう答えたのです。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」(14節)。
今日においても、イエスを歴史上の偉大な人物とみなす人は少なくはありません。偉大な教師であり、預言者である御方。しかし、それだけならば教会でなくても言うのです。イスラムの人々もイエスを偉大な預言者と考えています。この世におけるイエス理解は実に様々です。
しかし、教会の土台となる信仰とは、イエスという御方に向かって、「あなたはメシア、生ける神の子です」と言い表すところにあるのです。イエス様が弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われました。誰かがそう言っているということではなくて、ペトロのように、私たち自身が、自分の口で、この御方に向かって、「あなたはメシアです。生ける神の子です」と告白する。それはすなわち、この御方にこそまことの救いがあることを認めることです。そして、この御方にこそ、私たちを救い得る絶対的な権威と力があることを信じることです。
さて、「あなたこそメシアです。生ける神の子です」という言葉を聞いたイエス様は、ペトロにこう言われました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(17節)。ところが不思議なことに、そのイエス様について、20節にはこう書かれています。「それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた」。
イエス様は「御自分がメシアであることを宣べ伝えなさい」とは言われなかったのです。なぜでしょうか。ペトロはまだすべてを見てはいないからです。ペトロにはまだ見るべきことがあるからです。知るべきことがあるからです。それは他の弟子たちについても同じです。ですから、それまでは誰にも話してはならない、と主は言われたのです。
では、彼らが見るべきこと、知るべきこととは何だったのでしょうか。その直後にこう書かれております。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(21節)。
そのように、彼らはイエス様の受難と復活を見なくてはならないのです。このことを通して、初めて彼らは本当の意味で、イエスをメシアであると告白することができ、またメシアとして宣べ伝えることができるのです。すなわち、イエスを《十字架にかけられて死に、三日目に復活したメシア》として告白し、そのように宣べ伝えることができるのです。
マタイによる福音書1章には「イエス」という名前の由来が記されています。主の天使が夢においてヨセフに現れ、こう言ったのです。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(1:21)。そのように、イエスがメシアとして来られたというのは、「罪からの救い主」として来られたということです。
「罪から救う」。聖書には当たり前のように書かれていますし、そのように日本語にも翻訳されているわけですが、一般的な日本語会話において「罪から救う」という表現はほとんど使われません。しかし、この一般的でない表現こそ、まさにキリスト教の真髄に当たるのです。
人間は古代から現代に至るまで多くの苦悩を背負った存在であることに変わりありません。ですから、人は様々な苦しみからの救いを求めてきましたし、様々な救いが与えられてきたのです。しかし、聖書は、人間の決定的な悲惨、根元的な苦悩は神を失っていることだと語るのです。人が渇いているとするならば、その渇いている事実そのものが悲惨なのではなくて、生ける水の泉を持っていないことが悲惨なのです。私たちに欠けているのは、与えられて補われる「何か」ではないのです。そうではなく、私たちに必要なのは神ご自身なのです。それゆえ、私たちに必要とされているのは私たちが神に帰ることができることなのです。赦された者として神と共に生きることができる、ということなのです。
そのためには何よりもまず、神と人間とを隔てている罪が取り除かれなくてはなりません。神の御子の御苦しみによって、御子の血によって、罪が贖われなくてはならないのです。人間は罪を赦された者として、神のもとに回復されねばならないのです。それゆえ、私たちは《罪から救われなくてはならないものとして》、イエス様に向かって次のように信仰を言い表すのです。「あなたはメシアです。私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださり、復活してくださったメシアです。あなたこそ生ける神の子です」と。これが岩なのです。教会の土台なのです。この岩以外に、いかなるものも教会の土台にはなりません。この岩の上にこそ、キリスト御自身が教会をお建てになるのです。それがキリストの教会なのです。
陰府の力もこれに対抗できない
そして、そのような《キリストの教会》であるからこそ、キリスト御自身がこう宣言されるのです。「陰府の力もこれに対抗できない」と。
「陰府の力」。文字通りには「陰府の門」です。陰府とは死の世界です。ですから、これは「死の力」「死の門」と言いかえてもよいでしょう。死の力がいかに強大であるか、私たちは皆、良く知っています。いかなる人も死の力にはかないません。いかなる権力者も、いかに屈強な人でも、いかに裕福な人でも、いかに優秀な人でも、必ず死に飲み込まれていきます。陰府の門はすべてを飲み込んでしまいます。しかし、キリストは言われたのです。「陰府の力も教会には対抗できない」と。
なぜ陰府の力、死の力はもはや教会に対抗できないのでしょうか。キリストがペトロに対して、すなわちペトロの告白した信仰を土台としている教会に対して、このように言われるからです。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と。教会は天の国の鍵を授けられた民であるからです。
天の国が閉ざされるとするならば、それは人間の罪のゆえに閉ざされるのです。ならば罪深い私たち人間に対して天の国が開かれるとするならば、それは罪の赦しによる以外にありません。その意味において、天の国の鍵とは、《罪の赦し》に他なりません。キリストは、罪の赦しを、教会に与えてくださったのです。キリストが罪の赦しを、天の国の鍵を与えることができるのは、キリスト自らが、罪の贖いを成し遂げられたからです。この御方こそ、私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださり、復活してくださったメシアであり、生ける神の子だからです。その御方が「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と言ってくださったのです。
教会のすべての営みは、この計り知れない恵みによって成り立っています。それゆえにまた、教会のすべての営みは、この計り知れない恵みへの応答としてなされているのです。私たちが今、共に礼拝をささげているのもそのゆえです。
キリストが建てられるキリストの教会として、キリストが集められた神の民として、私たちは週毎に共に礼拝をささげます。この場所に集まれる時も、集まれない時にも、共に礼拝をささげます。これは、この世が与え得るいかなるものによってではなく、「天の国の鍵」という天からの恵みによって成り立っている霊的な出来事なのです。それゆえに、天からの恵みに対して、私たち自身をささげる応答でもあるのです。
そこからこの世に派遣されて、福音を宣べ伝えること、神と人とに仕えて生きることについても同じことが言えます。それは既に与えられている天からの恵みによって成り立っているのです。「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を言い表す者として、キリストの教会として、ここから遣わされていきましょう。
(祈り)