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2026年1月4日日曜日

「従順を学ぶ時」

2026年1月4日 主日礼拝説教 

聖書:ルカによる福音書 2:41‐52

 今日お読みしたのは、イエス様が12歳の時の話です。春になりますと過越祭を祝うためにヨセフとマリアはエルサレムへ巡礼するのを常としておりました。イエスが12歳になった年も、彼らは少年を伴っていつものように都に上りました。

 しかし、そこで一つの事件が起こります。祭りを終え、ガリラヤから来た多くの人々と共に帰路に就いたマリアとヨセフは、一日路を行ったところではたと気づいたのです。「イエスがいない!」慌てふためいて親類や知人の間を探し回ります。見つかりません。彼らは道々尋ねながらエルサレムへと引き返しました。そして三日目に、ついに彼らは少年イエスを見つけ出したのです。なんと彼は神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしているではありませんか。

 マリアは思わず詰問します。「なぜこんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」。マリアがこう言うのも無理はありません。本当に心配していたのです。しかし、少年はそんな母の心配をよそにこう答えたのでした。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。

 どうですか、こういう子ども。普通にこれを読んだら、実に可愛げのない子どもだと思いませんか。ちょっとばかり賢いかもしれないけれど、実に小生意気な子どもです。親の気も知らないでそんな偉そうな口を利く子どもは、少々懲らしめてやらねばならない。親の権威を重んじる常識的なユダヤ人ならば、たいていはそう思うに違いありません。

 しかし、これは聖書の中でイエスの少年時代を伝える唯一の物語なのです。しかも、ここに記されているのは、ルカによる福音書において最初に発せられるイエス様の言葉なのです。さらには「母はこれらのことをすべて心に納めていた」ということが書いてある。このイエス様の言葉、イエス様の行動は後々まで伝えられねばならないほど、やはり大事なことのようです。ではこの物語は後の教会、また今日の私たちにどのような意味を持っているのでしょう。

飼い葉桶から十字架へ
 イエス様が12歳の時。ユダヤ人の子どもは13歳で成人とみなされます。ですから、その直前のことです。成人しますと律法に定められている義務が課せられるようになります。それまでに子どもたちは暗記を中心とした律法の学びを完了せねばなりません。そして、成人としての義務が突然の重荷となることがないように、その前に予行演習をいたします。イエス様が12歳の時にエルサレムに連れて行かれたのも、そのような意味があったものと思われます。

 少年イエスが発見された時、彼は神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておりました。「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた」(47節)と書かれております。しかし、この場面を思い浮かべますときに、私たちの国の12歳の少年を考えてはなりません。既に申しましたように、この時点で律法についてはほぼ一通り学びを完了し、成人として歩みだそうとする直前なのです。学者たちと話をしたり、質問したりする少年がそこにいることは決して奇跡ではありません。ルカには恐らく超自然的な要素を強調する意図はなかったでしょう。私たちが注目すべきことは他にあるのです。少なくとも二つあります。

 第一に注目すべきことは、このエピソードには受難物語と関係する言葉が多いということです。両親は過越祭にイエスを連れていきました。主が十字架にかかられたのは、過越祭の時でした。少年イエスは両親と共にエルサレムへと上りました。主が十字架にかけられたのもエルサレムです。ルカによる福音書は特に大きな部分をエルサレムへと上る旅の物語に費やしているのです。少年イエスが見えなくなって、三日目に再び見いだされたという話は、三日目に復活したことを思い起こさせます。

 第二に注目すべきは、イエス様自身の意識を良く現している49節の言葉です。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(49節)。ここで「当たり前だ」と訳されている言葉。これは後に受難予告に出て来ます。イエス様は御自分の受難を予告してこう言われるのです。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(9:22)。ここで「必ず…することになっている」と訳されているのが同じ言葉です。しばしば「神の必然」と呼ばれる表現です。

 何が必然なのでしょうか。「父の家にいること」です。実は「父の家」と訳されていますが、原文はただ「父のもの(複数)」としか書いてないのです。イエス様はただ神殿のことだけを言っておられるのではないのでしょう。イエス様は父のものの中にいる。父の事柄に関わっている。それは具体的にはやがてエルサレムへと上ることになり、十字架にかけられることになる人生です。そのようにして世の罪を贖い、神の救いの御業を実現することになる歩みです。それが「当たり前だ」と言われたのです。「当然そうなることになっている」と言われたのです。それが神の必然であると。

 つまりこの物語から見えてくるのは何であるかと言うと、12歳の少年イエスが既にその時には天の父の定められた道を自覚的に歩み始めていたということなのです。はっきりと意識して、天の父との関わりの中に生きていた。イエス様が「父」と言ったら、それはヨセフではなくて神なのです。そして、その父の御計画を実現するために、イエス様は既に命を献げて歩み始めていたのです。十字架に向かって歩み始めていたのです。それを現しているのが、このイエス様の言葉なのです。

準備の時を大切に
 しかし、そのような意識を持っていたイエス様がすぐに公の働きをスタートしたかと言えば、そうではありませんでした。3章に入って再びイエス様が登場します。しかし、それは約20年後のことなのです。イエス様の公の活動が開始したのはその歳およそ三十の時でした。私たちが伝えられている主のお働きは、十字架にかけられるまでの約三年ほどなのです。その期間に比べるならば圧倒的に長いそれまでの期間が、この短い一言の陰に隠れてしまっているのです。「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」。

 ヘブライ人への手紙には、そんなイエス様の歩みについて次のような表現が出て来ます。「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」(ヘブライ5:8)。その多くの苦しみの道のりは、その御生涯の最後の一週間だけではありません。既に飼い葉桶から始まっていたと言えます。イエス様にとっては、何よりもまず、父母のもとで一人の子どもとして生きる具体的な生活の場こそ、従順を学ぶ場だったのです。

 考えてみてください。確かにヨセフもマリアも敬虔なユダヤ人であったと思われます。主はその敬虔な家族でお育ちになりました。しかし、ヨセフやマリアはイエスにとっては決して完全な父や母ではありませんでした。ヨセフやマリアがどれほど神を畏れる敬虔な人であったとしても、イエスに対する父なる神の御計画はやはり理解できなかったのです。イエスにとっては、本当に大事な部分においては自分を分かってはもらえない父母だったのです。

 既に天の父との関わりを自覚し、天の父の御心に従って生き始めていたイエス様です。そのようなイエス様にとってマリアとヨセフのもとにおける生活には、多くの人知れぬ苦しみがあったのだと思います。しかし、主はまずその父母のもとに生きるその時を大切にされたのです。人に仕えることを通して神に仕えることを学び、苦しみを耐え忍ぶことを通して父に信頼しどこまでも従っていくことを学ぶ。そのような従順を学ぶ時として大切にされたのです。

 私たちに「従ってきなさい」と言われた方は、そのような御方です。イエス様のわずか三年の公の働きのために、そのような二十年もの従順を学ぶ備えの時が必要であったなら、私たちにはなおさらではありませんか。私たちに与えられている場は、すべて従順を学ぶ場となり得るのです。人に仕えることを通して神に仕えることを学び、人の無理解や不当な扱いや様々な苦しみを耐え忍ぶことを通して、どこまでも天の父に信頼し、従い続けることを学ぶことができる、実に多くの機会を与えられているのです。

 いわば従順を学び、主の御業のために整えられるための学校に、学費も払わずに入れてもらっているとも言えるのでしょう。しかし、実際の学校においても不満ばかり言って授業をサボっていたら何も学ぶことができないように、神の学校としての私たちの生活も、不平や不満ばかり言って折角の授業を無駄にしていたら何も学べません。

 与えられている今の時、今の場所を大切になくてはならない。2026年の初めの礼拝において、改めてそう思わされます。クリスマスの礼拝において申しましたように、人間の幸福は、神様と共に歩んで、神様に用いていただくところにこそあるのです。自分の一生を誰かのために、誰かの救いのために、神様が誰かを愛するために、用いていただく。そこにこそ人間の幸福はあるのです。

 神様が私たちをお用いになる仕方は、もしかしたら稲妻の一瞬の閃きのようであるかもしれません。人生の最後の一瞬、あるいはこの世の生を終えた後でさえあるかもしれません。しかし、まさにこの「ときのために私は生まれたのだ」と言える一瞬があるならば、その人は本当に幸福な人であると言えるし、その一生は永遠の意味を持つのです。

 逆に言えば、神に用いられる一瞬のための備えであるならば、例えそれが人々の目に映ることなく、人々の記憶に残ることなく、いかなる記録にも残ることなくとも、その費やされた時は永遠の価値を持つと言えるのでしょう。イエスの生涯の大部分が、人々の記憶に残ることなく、いかなる記録にも残ることなかったように。そうです。私たちが今の時を備えの時として生きるならば、それは実に価値ある時を生きていることになるのです。与えられている今の時、今の場所を大切にしましょう。備えの時を大切にしましょう。

2025年12月21日日曜日

「真に幸いな人とは」

ルカによる福音書 1:39-56

 今日の福音書朗読は「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」(39節)という言葉から始まっていました。マリアは急いでいました。一刻も早く会って話をしたい人がいたからです。親戚の老婦人エリサベトです。

受胎告知
 この直前には「受胎告知」の場面が書かれています。天使ガブリエルがマリアに現れて、彼女がメシアを身ごもっていることを伝えたというくだりです。天使はマリアに言いました。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」。これが第一声でした。しかし、天使が持ってきた話は、単純におめでたい話ではありませんでした。

 ガブリエルは続けます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。「恐れることはない」と言いますが、これほど恐ろしい話はありません。マリアはこの時、ヨセフと婚約していたのです。マリアはヨセフと共に幸せな家庭を築くことを夢見ていたごく普通の娘だったに違いない。しかし、そんなささやかな望みがこの天使の言葉で打ち壊されてしまいました。

 婚約している娘が身ごもるということがユダヤ人社会においてどのように受け止められるか、マリアが知らなかったはずはありません。天使は「聖霊によって身ごもった」と言いますが、いったい誰がそんな説明を信じるでしょう。事実、今日でも信じない人の方が圧倒的に多いのですから。彼女の場合、姦淫の罪として告発されればまず有罪は免れません。仮にヨセフが告発しなかったとしても、彼との関係は終わりでしょう。しかし、その全てをマリアは受け止めたのです。彼女は言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」。これがマリアの信仰でした。

共に信じる交わり
 しかし、マリアに不安や恐れがなかったはずがありません。ヨセフとの関係が壊れてしまうことを考えたら、どれほど辛く悲しかったか知れません。そんな思いを抱えて、彼女はユダの山里へと急ぎました。エリサベトに会うために。どうしてですか。エリサベトだったら分かってくれるからです。なぜなら、エリサベトもまた神によって男の子を与えられた人だったからです。不妊の年老いた女がただ神の力によって奇跡的に身ごもったのです。彼女ならば分かってくれる。

 いや、それだけではありません。それ以上に大事なことがあります。そこで神のことを語り合えるということです。人生に起こっていることを神の御業として語り合える。マリアはそんなエリサベトに会うために急いだのです。

 マリアは間違ってはいませんでした。確かにエリサベトこそ、マリアが会うべき人でした。「そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した」(40節)と書かれています。この場面は物語がかなり端折られているようにも思います。実際には挨拶の言葉に次いで、これまで起こってきたこと、自分の思いなどをマリアは語ったでしょう。あるいは不思議なことにエリサベトには語らずして事情が分かったということかもしれません。いずれにせよ、大事なことは、深刻な事態に置かれているマリアに対してエリサベトはこう言ったということです。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」(42節)。

 祝福するのは神様です。神様がマリアをも胎内の子も祝福してくださっている。そのように、神がなさっていることとして、一緒に信じて語ってくれた、それがエリサベトでした。彼女は言ったのです。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(45節)。

 マリアがこれから直面せざるを得ない困難は、もちろんエリサベトにも分かっているのでしょう。しかし、エリサベトが目を向けているのはそちらじゃないのです。そうではなくて、神のご計画の方なのです。必ず実現へと向かっていく神の御業について語っているのです。そうです、困難があろうが何があろうが、神の御業を一緒に信じて、一緒に語り合ってくれる人こそ、マリアには必要だったのです。

 このエリサベトがいたからこそ、その後の「マリアの賛歌」が続くのです。そこで爆発的な喜びに満たされてマリアは歌うのです。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(46‐47節)。ここで初めて、マリアの口から「喜ぶ」という言葉が出て来るのです。

 事態は何も変わってはいません。困難が無くなったわけではありません。しかし、一緒に信じるところで、一緒に神の御業について語り合うところで、悩みが喜びに変えられていくのです。不安や恐れが賛美へと変えられていくのです。悩みについて語り合える人や場所はこの世にいくらでもあるかもしれません。しかし、悩み多き人間にとって、本当に必要なのは、当たり前のように神について語り合うことができ、そして、共に信じて神を賛美することができる交わりなのです。そして、それは私たちにも、こうして与えられているのではありませんか。

最も喜ばしきこと
 マリアとエリサベトの間において何が起こったのか。今日の私たちについて言うならば、教会において何が起こり得るのか。マリアが歌っている言葉に、もう少し耳を傾けてみましょう。

 マリアは何を喜んでいるのでしょう。「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と言った後、彼女はこう続けるのです。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」(48節)。そうです。彼女は主が自分に「目を留めてくださった」ことを喜んでいるのです。だからそんな自分について「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」と語るのです。

 しかし、彼女が単純に自分の個人的な「幸い」を考えて喜んでいるのではないことは、このマリアの賛歌全体から明らかです。後半に入ると、例えば、「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ・・・」というような、まるで革命歌であるかのような言葉が続くのです。つまり彼女の目は自分の小さな幸福に向けられているのではなくて、その目はこの世界に向けられているのです。

 この世界とはどういう世界ですか。ここに歌われているように、実際に「思い上がる者」が存在する世界です。「思い上がる者」が権力と富を追い求めている世界です。言い換えるなら、最終的にはカネと力がモノを言うと考えられている世界です。しかし、そこで彼女はこう歌うのです。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」

 マリアは何を言っているのか。――要するに、最後にモノを言うのはカネと力じゃない、と言っているのです。この世の力など、アッという間にひっくり返されるし、この世の富など、アッという間に失われるのです。では最後にモノを言うのは誰なのか。それは神なのだ、と言っているのです。ならば私たちは思い上がってはならないのです。人間がこの世界を動かしているかのように思い上がってはならないのです。

 そして、それは私たち人間にとって、本当は幸いなことなのです。なぜなら、もし人間がこの世界を動かし、その運命を握っているならば、最終的に救いはないからです。それはそうでしょう。こんな愚かで、愚かなことを繰り返している、まことに罪深い私たち人間がこの世界を動かしているならば、どう考えたって最終的に破滅しかないでしょう。

 それは個人の人生を考えても同じです。私たちの人生を動かし、運命を握っているのが、私たち自身であったり、他の人間であったりするならば、どう考えても救いはありません。ろくでもない人間が動かしているのですから。しかし、聖書は「そうじゃない!」と言っているのです。この世界を支配しているのは神なのです。私たちの人生を手にしているのも神なのです。そして、その神が、この世界をも私たちをも救おうとしていてくださるのです。

 マリアはこの世界に目を向け、この世界に生きて働いておられる神、救い主を与え、救いのご計画を進めておられる神に目を向けて歌っているのです。そうすると、「目を留めてくださった」と言って喜んでいる意味も分かるでしょう。自分はこの世においては取るに足りない小さな存在かもしれない。この世においては「身分の低い」者であるかもしれない。しかし、そんなわたしにも神は目を留めてくださって、この世界におけるご計画の中で用いてくださる。わたしは主のお役に立つことができる。そのことを喜んでいるのです。

 もし人が自分の幸・不幸だけを考えているならば、人生はまことに不可解な重荷に満ちていると言えます。なぜ自分がこんな目に遭わなくてはならないのか。なぜ私ばかりがこんな重荷を負わなくてはならないのか。そう言って嘆かざるを得ないのでしょう。しかし、そうではなくて、目をこの世に転じて、この世における神の御業に目を転じ、神がなさろうとしていることを考え始める時、一方的に天使が運んできた重荷の意味もまた見えてくるのです。

 そして、既に傍らにはエリサベトが与えられているのです。当たり前のように神について語り合い、そして、共に信じることができる交わりが与えられているのです。そこにおいて、神に用いていただける喜びを分かち合い、悩みが喜びに変えられ、不安や恐れが讃美へと変えられていくことを共に喜ぶことができる。――こういう人をこそ、こういう人たちをこそ、本当の意味で「真に幸いな人」と呼べるのでしょう。そして、私たちはここにおいて、そのように生きるようにと招かれているのです。

2025年6月1日日曜日

「天に上げられたキリストと 地上に生きるわたしたち」 

2025年6月1日 主日礼拝説教 

聖書:ルカによる福音書 24:44‐53

天に上げられたキリスト
 去る21日の木曜日は教会の暦では「昇天日」と呼ばれまして、キリストの昇天を記念する日でした。キリストの昇天については、今日の福音書朗読でも次のように語られています。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(50‐51節)。キリストの体がまるで風船のようにフワフワと空に上っていった様子を思い描きますと何かとても不思議な感じがいたします。

 しかし、今日の聖書箇所において、本当に不思議なことは別にあるのです。弟子たちがキリストの昇天を悲しんでいないということです。そこには確かに「彼らを離れ」と書かれています。天に上げられるとはそういうことです。しかし、弟子たちは十字架の死においてキリストを失ったあの時のように、悲しみにくれるようなことはなかったのです。それどころか、こう書かれています。「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(52‐53節)。

 彼らは喜んでいました。大喜びでした。喜んだだけではありません。キリストの昇天は、彼らを神殿へと向かわせました。礼拝へと向かわせました。神へと向かわせました。彼らは神を礼拝し、神を誉めたたえていたのです。

 ここから一つのことが明らかになります。キリストが天に上げられるということは、弟子たちにとって、決してキリストが《遠くへ行ってしまう》という出来事ではなかった、ということです。そうではなくて、むしろ逆に、キリストが上げられることによって、《天そのものが近くなる》という出来事だったのです。天が近くなり、神御自身が近くなり、神の救いが近くなる。だから喜ばずにはいられない。だから天に向かわずにはいられない。神を礼拝せずにはいられない。神を誉めたたえずにはいられない。だから「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」のです。

 しかし、彼らは天がどれほど近くなったかということを、本当の意味ではまだ知らないとも言えるのです。それを知るのは、聖霊が彼らに降った後に、自分たちが「教会」であることを意識するようになってからです。本日の第2朗読では、エフェソの信徒への手紙が読まれました。この手紙において、パウロは教会をくりかえし「キリストの体」と呼んでいます。天に上げられたキリストの「体」です。そして、こう言うのです。「わたしたちはキリストの体の一部なのです」。

 そして、何よりも喜ばしいのは、そのように天におられるキリスト、教会の頭であるキリストは、私たちの罪を贖うために十字架におかかりくださったキリストであるということです。私たちを愛し、私たちのために御自身を献げてくださったキリストであるということです。だからこそ、私たちは罪を赦された者として、キリストの体の一部でいられるのです。

 そのような仕方で、私たちは天に上げられたキリストに結ばれているのです。だから、今日の第2朗読において、パウロはこう言っているのです。「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます」(エフェソ4:1)。彼は投獄されているのです。鎖につながれているのです。しかし、彼がどこにいようと、何につながれていようと、彼はキリストの体の一部なのです。天に上げられたキリストに結ばれているのです。すなわち、そのような仕方で天につながっているのです。これ以上近くにはあり得ないという仕方で、天につながっているのです。

 私たちがこの地上にある限り、私たちを取り巻く環境は変化していきます。パウロのように投獄されることはないかもしれませんが、様々な形で束縛を経験し、自由を奪われるという経験はするのかもしれません。しかし、私たちがどのような状態に置かれようとも、私たちは天につながっているのです。私たちは天に上げられたキリストの内にあり、キリストの体の一部だからです。

 だから、あの弟子たちがそうであったように、どのような状態にあっても、喜びをもって天に顔を上げ、喜びをもって神を礼拝することができるのです。天に上げられたキリストに結ばれているならば、私たちは本質的には既に天に属しているのであり、わたしたちは既に救われているからです。(ぜひ、今日、家に帰られたら、エフェソの信徒への手紙1章前半を読んでみてください。)

地上に生きる私たち
 さて、私たちは天に上げられたキリストに結ばれて、既に天に属する者だと申しました。しかし、話はそれで終わりません。キリストは天に上げられる前に、地上のことについて語られたのです。そして、地上における弟子たちの務めについて語られたのです。

 45節以下を御覧ください。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる』」(45‐48節)。

 確かにメシアは苦しみを受けられました。そして、復活されました。そのようにして世の罪の贖いを成し遂げられました。しかし、キリストが成し遂げてくださった罪の贖いの恵みは、人々に届けられ、手渡されなくてはなりません。つまり、宣べ伝えられなくてはならないのです。ですから、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と書かれているのです。誰が宣べ伝えるのですか。もちろん、弟子たちです。すなわち教会です。私たちです。

 「罪の赦しを得させる悔い改め」と書かれていました。「悔い改め」というのは、方向転換をして神に立ち帰ることです。神に立ち帰るならば、神はすべての罪を赦して受け入れてくださる。それが「罪の赦しを得させる悔い改め」です。その意味するところは、ルカによる福音書だけに書かれている有名な例え話に明らかにされています。「放蕩息子のたとえ」と呼ばれているものです。父親のもとを離れ、財産を放蕩の生活によって食いつぶし、飢饉の中で飢え死にしそうになった息子が、はたと我に返ります。自分は本来いるべきところにいない。問題は父のもとにいないことだ。そのことに気付くのです。そして、方向転換をして父のもとに帰って行くのです。そして、父の家に近づいた時に彼が目にしたのは、髪を振り乱して走り寄る父の姿でありました。すべてを赦し、迎えてくれる父の姿だったのです。父は既に息子を赦していました。罪の赦しは既に父のもとにありました。彼は父のもとに帰って、その赦しを受け取ったのです。

 このことが宣べ伝えられなくてはなりません。既に贖いの小羊は屠られました。罪の贖いは成し遂げられました。父のもとには赦しがあります。立ち帰るならば、父は赦しをもって迎え入れてくださいます。父のもとには赦しがあるのに、救いがあるのに、どうして父に背を向けたまま滅びてよいでしょうか。あらゆる国のあらゆる人々に、父のもとには赦しがあり救いがあることを宣べ伝えなくてはなりません。「罪の赦しを得させる悔い改め」が宣べ伝えられなくてはなりません。教会は、私たちは、その恵みの言葉を託されているのです。

 キリストは天に上げられました。私たちは確かに天に上げられたキリストの体です。しかし、私たちは天にのみ向いていてはなりません。地上に目を向けなくてはなりません。地上にいる間に、地上にいる人に、伝えるべきことを伝えなくてはなりません。地上にある間に、地上においてしかできないことを、しっかりとしておかなくてはならないのです。

 しかし、もう一方において、それが決して容易なことではないことは明らかでしょう。そもそも、教会が託された範囲は、「あらゆる国の人々」なのですから。身近な人に神の恵みを伝えることにさえ数多くの困難があるのです。ましてや「あらゆる国の人々」となったら、どれほど多くの隔ての壁を乗り越えなくてはならないことででしょう。

 それゆえに主は言われたのです。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(49節)。「高い所」というのは、キリストが上げられた天です。そのように、イエス様が天に上げられた後に、今度はその天からの力に弟子たちが覆われるのだというのです。天に上げられたキリストが聖霊を地上に注いでくださる。弟子たちは聖霊に満たされ、天からの力に覆われるのです。それが父の約束だと主は言われたのです。

 「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」。それは私たちに与えられた務めです。しかし、私たちは天に上げられたキリストの体として、天に属する者として、それを行うのです。そこで信ずべきことは、私たちに務めを与えてくださった御方は、また必要な力をも与えてくださるということなのでしょう。実際、私たちは「ルカによる福音書」に続く第2巻、「使徒言行録」において、神の力が生き生きと働かれた初期の教会の様子を見ることができるのです。そして、その同じ約束は私たちにも与えられているのです。

 私たちが天にしか関心がないならば、天からの力は必要としないでしょう。しかし、私たちが神の望んでおられるように、地上にいる人、私たちの家族、友人、地域の人々、この世の人々に関心を向けるなら、そして与えられている務めを果たそうとするならば、私たちが天につながっていることを意識し、天からの力を求めることは絶対に必要です。神の力に覆っていただかなくてはなりません。次週は聖霊降臨祭です。キリストの昇天後、弟子たちがひたすら聖霊に満たされることを求めて待ち望んだように、私たちもまた聖霊に満たされることを祈り求め、上よりの力に覆っていただくことを求めましょう。

2023年10月1日日曜日

「金持ちとラザロ」

 ルカによる福音書 16:19-31


人間の無関心・神の関心
 今日の福音書朗読で読まれましたのはイエス様のたとえ話でした。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」その金持ちが死んで葬られた後、死後の世界で苦しみ苛まれることになったという話しです。

 何のためにイエス様はこのような話をなさったのでしょう。実はこの類いの話はユダヤ人社会においては珍しくなかったと言われます。似たような話がいくつも知られていたのです。恐らくイエス様はそのような中から題材を取られたと思われます。何のためだったのでしょう。金持ちの贅沢を戒めるためでしょうか?金持ちに対する「施しの勧め」でしょうか?

 いいえ、恐らくそうではないのです。イエス様が語りかけている相手は金持ちではないからです。この話を聞いているのはファリサイ派のユダヤ人です。少し前を見ると「金に執着するファリサイ派の人々」(14節)と書かれています。これは実に微妙な表現です。普通、ファリサイ派の人は金に執着しているとは思われたくないのです。金に執着して阿漕なことをしている金持ちたちがもう一方にいるからです。その代表は徴税人たちです。ファリサイ派の人たちは、そんな金持ちを軽蔑しているのです。だから彼らと我々は違う、と言いたい。でも本心を言えば、金は欲しい。そんな感じでしょうか。

 実際、表向きにはファリサイ派の人は金に執着などしていないのです。律法にかなった正しい生活をしているので悪い金は入ってこない。だから一般的には貧しいのです。その貧しさの中から、敬虔な行いとして「施し」もするのです。イエス様の話を聞いているのは、そんな人たちです。そんなファリサイ派の人たちに「金持ちに対する戒め」を語っても意味がありません。「施しの勧め」などしなくても、既に彼らはしているのです。

 ではイエス様がこの話をなさったのは何のためでしょう。これを聞いているファリサイ派の人たちに、イエス様は先にこんなことを言っておられます。「あなたたちは自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである」(15節)。そうです、イエス様が問題にしているのは「心」なのです。このたとえ話においても大事なのはその「心」なのです。

 この場合、金持ちなのが問題なのではありません。問題はその「無関心」にあるのです。この金持ちはラザロが門前にいたことは知っています。「ラザロ」の名前さえ知っています。しかし、その苦しみに関心を寄せることはありませんでした。その存在に関心を寄せることはありませんでした。ラザロという人は誰にも心にかけられることはなかった。このラザロに関心を持ったのは犬だけだったと語られているのです。

 これが「無関心」の話ならば、それは彼らにもここにいる私たちにも関わっている話です。金持ちであろうがなかろうが関係ありません。貧しい人が他の貧しい人に無関心ということもあり得ますから。愛の反対は憎しみではなく「無関心」なのだと言った人がいました。罪の本質が愛の欠如にあるとするならば、この金持ちの描写は極端に描かれてはいますけれど、実は誰の内にもある罪深さの描写であると言えます。

 しかし、ここに語られているのは人間の愛の欠如と無関心だけではありません。そうではなく、神の関心と憐れみもまた語られているのです。犬にしか顧みられなかったラザロ。ひとりぼっちで死んでいき、葬られることすらなかったラザロ。誰からも関心を向けられなかったラザロ。しかし、そのラザロに関心を寄せている方がおられた。神様です。「天使たちによって…連れて行かれた」と書かれていますでしょう。それは、要するに神様によって連れて行かれたということなのです。

 死の手前までしか見なければ、ラザロは誰からも顧みられず神からも見捨てられて死んでいった惨めな人と見えるでしょう。しかし、そうではなかったと言うのです。神はラザロを知っておられた。そして、その神が憐れんでくださった。報いてくださった。ラザロが正しい人だったからではありません。貧しかったけれど神を信じる罪のない人であったなどと、どこにも書かれていません。これはラザロがどうであったかではないのです。そこにあるのは人間の苦しみに関心を寄せておられる神の憐れみなのです。

聖書に耳を傾けよ
 しかし、このたとえ話は人間の無関心と神の関心を描き出すに留まりません。さらに話は続きます。そして、イエス様が本当に伝えたかったことは後半部分にあるのです。

 27節以下を御覧ください。金持ちはラザロと共にいる信仰の父アブラハムに向かって叫びます。「父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」。しかし、アブラハムは言うのです。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」モーセの律法の書と預言者の書を彼らは持っている。つまり彼らは聖書を持っているではないか、ということです。聖書に耳を傾けなさい、と。

 これに対して、金持ちはなおも食い下がります。「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」。しかし、これを聞いたアブラハムは彼に言いました。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(31節)。

 死後の世界を知っている者が生き返って、死後の世界の裁きと苦しみを語るなら、それを聞いて人は悔い改めるだろうとこの金持ちは考えました。しかし、本当にそうなのでしょうか。そうではないとアブラハムは言うのです。このたとえ話を通して、イエス様もそう言っておられるのです。

 そもそも死後の世界から誰かが生き返って語らなくても、この話を聞いているファリサイ派の人たちは死後の世界を既に信じているのです。ここに語られているように、神の裁きがあること、人によって死後に行く場所が分かれるというのは、他ならぬファリサイ派の人たちが信じていたことなのです。だから、正しい人間が行くところに行きたくて、アブラハムがいるところに行きたくて、宗教的な義務である施しも実践していたのです。

 しかし、そのようなところから他者への関心、他者への愛は生まれてくるのでしょうか。いいえ、そうならなかったのです。宗教的な義務として施しをしたとしても、その他の善行を積んだとしても、考えているのは自分の救いのことだけだったのです。ですから、救われるために宗教的な義務は果たすのですけれど、例えば、病気で長い間苦しんできた人がイエス様によって癒されても一緒に喜べないのです。悪霊に憑かれていた人がイエス様によって解放されても一緒に喜べないのです。神に背いて生きてきた人が神に立ち帰っても、そこで一緒に喜べないのです。彼らの苦しみにも彼らの救いにも関心がないからです。

 渋谷や新宿で「死後裁きにあう」と大音量でスピーカーを鳴らしている人たちをごらんになったことはありますでしょうか。しかし、他者への関心や愛は、死後の裁きに対する恐怖などから生まれることはないのです。たとえ死後の世界から人が戻っても、死後の世界をリアルに語ったとしても、それによって真の悔い改めが起こることはないのです。この話にしても、イエス様は恐怖を煽るために話しているのではないのです。死後の苦しみをどんなに描き出しても、それによって悔い改めが起こらないことは、イエス様が一番ご存じだからです。せいぜいそこから起こるのは、死後の苦しみをどうしたら免れるかという利己的な関心ぐらいなのです。

 では大事なことは何でしょう。この話の中でアブラハムは言っていました。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と。聖書を持っているではないか。聖書に耳を傾けよと言うのです。

 聖書が語っているのは、死後の世界の話ではありません。聖書を実際に読んだら分かりますが、聖書には「死んだらどうなる」という話はほとんど全く書かれておりません。そうではなくて、聖書が語っているのは人間の罪と神の愛なのです。人間がどれほど神に背いているのか。そして、それにもかかわらず神がどれほど人間を愛し、赦して救おうとしておられるのかということなのです。その神は、最終的には独り子さえもこの世に遣わして、私たちを赦して救うために御子を十字架にかけられたのです。その神の救いの御業を指し示しているのが聖書なのです。

 聖書に耳を傾けなさい。イエス様はこのたとえを通してそう語っておられます。それはさらに言うならば、その聖書の語っていることが、律法と預言者が語っていることが、私において実現していることを知りなさい、罪人を憐れんでくださる神の愛が私において完全に現れされていることを知りなさい、ということでしょう。

 そのイエス様の思いは、弟子たちにしっかりと手渡されたのでした。この福音書の最後の部分にこう書かれています。「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる』」(24:44‐48)。その福音は私たちにも手渡されているのです。

2023年9月3日日曜日

「お返しができない人を招きなさい」

ルカによる福音書 14:7-14

お返しができない人を招きなさい
 ある安息日にイエス様はファリサイ派の議員に招かれて食事の席に着かれました。そこでイエス様は自分を招いてくれた人にこんな話をなさいました。

 「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(12‐14節)。

 招いた人からこんなことを言われたらどうでしょう。少々ムッとしたかもしれません。しかし、彼がファリサイ派の人ならば、イエス様の語っている内容そのものには反発しなかったはずです。ファリサイ派の人たちが大切にし、励んでいる善行の中には「施し」も含まれていたからです。ですから、イエス様の話は多少極端に聞こえたかもしれませんが、貧しい人を招きなさいという教えには心から同意したはずなのです。

 さらに言うならば、イエス様の言っておられるのは、要するに「お返しができない人を招きなさい」ということです。言い換えるならば「人からの報いを求めるな」ということです。なぜか。本当の報いは神から来るからです。「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」とはそういうことです。最終的に神の国に入れられるときに、神様が報いてくださる。――それはファリサイ派の人ならば誰だって信じていることなのです。彼らは死んで終わりだとは思っていない人たちです。その点においては同じユダヤ人でもサドカイ派の人たちとは異なります。彼らは神の国を信じています。神の国における報いをも信じているのです。ですから「報いは神の国において」という教えには喜んで同意したはずなのです。

 それゆえに、今日の朗読箇所には含まれていませんが、話はこう続くのです。「食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、『神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう』と言った」(15節)。これを言った人は間違いなくファリサイ派の人です。彼はイエス様の話を聞いて心から同意したのです。そして、神の国における神からの報いを思ってこう言ったのです。

 そのように、「お返しができない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」という教えは、ある意味ではファリサイ派の人にはとても分かりやすいのです。しかし、イエス様は、ファリサイ派の人も常々口にしているような、単純な「報いを求めない善行の勧め」として、これを語っておられたのでしょうか。

上席を選ぶ様子を見て
 ある言葉が語られた場合、その言葉がどのような場面で語られたのか、ということはとても重要です。語られた場面によって、同じ言葉も全く違って聞こえてくることがあるからです。それでは、この場面そのものに目を向けてみましょう。

 最初に申しましたように、イエス様はファリサイ派の議員に招かれて食事の席に着かれました。しかし、食事に招かれたのはイエス様だけではなく、他にも招待客がいたようです。そして、イエス様が目にしたのは招待を受けた客が上席を選ぶ様子でした。そこで彼らにこんなたとえ話をなさいました。

 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる」(8‐10節)。

 イエス様が言っておられることは、なるほどもっともな話です。そして、それは昔から語られてきたことでもあります。本日の第一朗読でも「高貴な人の前で下座に落とされるよりも、上座に着くようにと言われる方がよい」(箴言25:7)と読まれましたでしょう。

 にもかかわらずイエス様があえてこの話をなさったのは、これが単なる食事の席の問題に留まらないからです。イエス様はここで「たとえ話」をなさっているのです。ただの食事の話ではありません。「婚宴に招待されたら」という話をしたのです。そのような「婚宴」のたとえ話をしたのは、「婚宴」あるいは「祝宴」が神の国を象徴的に表すものとして、旧約の時代から用いられてきたからです。イエス様は単なる謙遜の勧めをしているのではなく、「神の国」の話をしているのです。

 上席を選ぶ彼らの様子。それは単に食事の席だけの話ではありません。それは神の国に対する彼らの態度でもあったのです。彼らが上席を選んでいたのはなぜですか。自分こそ上席にふさわしいと考えていたからでしょう。自分こそ招待されるべき人間だと思っていたからでしょう。そのような思いは神の国についても同じだったのです。自分こそ神の国の上席にふさわしい人間だ、と。自分こそ神の国において報いられるべき人間である、と。実際、招待客の一人は言っていましたでしょう。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」。当然、神の国で食事をする人の中に自分は入っているのです。

 そのような人たちに、イエス様は「婚宴」のたとえ話をされたのです。神の国の話をされたのです。そして、こう締めくくったのです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)。

罪人のわたしを憐れんでください

 そのように、これは一般的な意味における謙遜の勧めではありません。神の国の話です。「高ぶる者」「へりくだる者」についても、一般的な話ではなく、神との関係における話なのです。

 実は、この「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉は、18章においてほとんど同じ形でもう一度出て来ます。そこに至りますとイエス様の意味していることがより明確に現れてきますので、そこも読んでおきましょう。18章9節以下には次のように書かれています。

 「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる』」(18:9‐14)。

 ここに出て来るファリサイ派の人は、明らかに人と人との比較の世界に生きている人です。それこそ「上席」「末席」の世界に生きているのです。だから自分と比較して徴税人を見下すのです。しかし、この徴税人は違いました。人と比較して自らを語っているのではありません。神の御前において自分を正直に認めて、憐れみを乞うているのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と。イエス様が「へりくだる者」と言っているのは、そのような人間の姿です。そのような意味において「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と主は言われたのです。

神の国への招きとは
 そして、最初に見たように、「お返しができない人を招きなさい」という話をなさったのです。なぜ、お返しができない人を招くのか。それは単なる施しの勧めではないのです。単に人から報いを求めなくても神様が報いてくださいますよ、という話でもないのです。

 イエス様は神の国の話をしておられるのです。なぜお返しができない人を招くのか。貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人、お返しができない人たちが招かれた祝宴こそが、神の国を指し示すものとなるからなのです。神の国とはどのようなものなのか。神の招きとはどのようなものなのか。それを指し示す食事となるからなのです。神の国にはお返しができない人が招かれるのです。そうです。神はお返しができない人を招かれるのです。そのことを、上席を取り合っていた招待客たちは知らなくてはならなかったのです。自分たちこそ神の国にふさわしいと思っていたファリサイ派の人たちは知らなくてはならなかったのです。

 お返しができない人の招かれた祝宴が何を意味するのか。――それは、あのファリサイ派のところではなく徴税人のところに身を置いてこそはっきりと見えてきます。他の人と自分を比較して、他の人を見下しているところではなく、自ら胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈るところに身を置いてこそ見えてくるのです。そこに何が見えてくるでしょう。招かれても全くお返しができない貧しい人、ただただ感謝して御厚意を受け取ることしかできない人。それはまさしく神の御前における私の姿ではないか、ということです。

 実際、イエス・キリストによって救われるとは、そういうことでしょう。「罪人のわたしを憐れんでください」としか祈ることのできない私たちが、そんな私たちが憐れみを受け、罪を赦され、義とされ、主の食卓に招かれるのです。それはまさに、お返しができない貧しい人が招かれるということではありませんか。

 お返しができないわたしが招かれている神の国の祝宴――それをはっきりと指し示しているのが、この後に行われる聖餐なのです。ここには、お返しできない者を招いてくださる神の恵みが満ちあふれています。お返しできない私たちが、キリストの体と血を受けて、お返しできない私たちが神の完全な赦しと愛とを受け取るのです。

 お返しのできない者が祝宴に招かれている!――その感謝からこそ、本当の意味で、報いを求めない愛の業が生まれてくるのです。そこで改めて、「お返しができない人を招きなさい」という主の言葉を改めて受け取ることができるのです。「そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」という言葉を、本当に幸いな人として、聞くことができるのです。

2023年8月20日日曜日

「不自由な人・解放された人」

ルカによる福音書 13:10-17

 ある安息日の会堂に、ひときわ喜びに溢れて神を賛美している女性がいました。その人は、つい先ほどまで腰が曲がったまま伸ばすことができませんでした。そのような姿で18年間も暮らしてきた人でした。「病の霊に取りつかれている女」と表現されていますから、高齢によって腰が曲がったのではなく、病的なほど極度に腰が曲がっていたのでしょう。しかし、その日会堂に来られたイエス様が側に呼び寄せてくださいました。そして、「婦人よ、病気は治った」と言って手を置いてくださった。するとたちどころに腰がまっすぐになり、まっすぐになった体をもって喜びに溢れて神を賛美していたのでした。

 しかし、そこにはまた、腹を立てている人もいました。会堂長です。彼はイエスが安息日に病人をいやしたことに腹を立て、群衆に言いました。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」(14節)。この人の怒りもこの人の言葉も、ある意味では私たちにはあまりピンと来るものではありません。ユダヤ人ではない私たちには安息日の戒律そのものが馴染みのないものですから。しかし、この人の姿に目を向けていますと、怒っているその姿は、ある意味で、私たちにとても馴染み深い姿として見えてまいります。今日お読みしたのは、そのような聖書箇所です。

安息日の律法の意味
 それでは、会堂の中で怒っていた会堂長に目を向けてみましょう。彼の怒りにはある正当な理由がありました。安息日については十戒に定められていることがあるからです。聖書には次のように書かれています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」(出エジプト20:8‐10)。これが安息日の戒律です。ですから、会堂長は「働くべき日は六日ある」と言ったのです。七日目は、働いてはならないのだ、と。

 実際、この「いかなる仕事もしてはならない」という部分については細かい規定がありました。何がこの「仕事」に当たるのか。例えば、火を焚くことも「仕事」に当たると考えられました。医療行為も、この「仕事」に当たります。ですから、会堂長からすれば、イエスのしたことは律法違反なのです。ところが当の本人には全く反省の色もない。しかもその横には違反行為によって癒されて喜んでいる女がいる。しかも群衆もまたイエスのしたことを見て喜んでいる。だから怒ったのです。責任感に駆られて怒ったとも言えます。こんなことが野放しにされてはならない、と。

 そのように彼が怒るのには正当な理由がありました。しかし、そもそも安息日に《働くこと》がなぜ問題なのでしょう。もともとイスラエルの民はエジプトの奴隷でした。「働け」という命令は死ぬほど耳にしていたでしょう。その意味で「仕事をしてはならない」という命令は当初十戒が与えられた時には、実に奇妙に響いたに違いありません。なぜ神様はそんなことを命じられたのか、と。

 実は、先ほどお読みした安息日の規定には続きがあるのです。「いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、云々」の後に、こう書かれているのです。「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(11節)。六日の間にこの世界を造られたというのは、創世記に記されている天地創造物語です。神様がこの世界をお造りになった。神様が全部成し遂げられた。七日目というのは、その次の日です。つまり、一から十まで神様がしてくださった。その神様の御業を思う日、それが安息日なのです。

立ち止まらねば神の御業は見えない
 私たちは実際、神様の御業に包まれて存在しているのです。しかし、私たちが動き続け、働き続けていると、そのことが分からなくなります。人間のしていること、人間の成し遂げることがすべてを支えているかのように思ってしまうからです。だからこそ、あえて人間の業を中断して、立ち止まって、休むことが必要なのです。そして、意識的に神の御業に思いを向けるのです。そこから神様への讃美、神様への感謝が生まれます。それゆえに安息日は礼拝の日ともなるのです。

 そのような安息日に、一人の女性が癒されました。この癒された女の人は、もちろんイエス様に感謝したことでしょうが、これを単にイエス様の医療行為とは見ていなかったことは明らかです。この人は腰が伸びてまっすぐになった体をもって、まず神を賛美したのです。その意味では、イエス様のなさったことは、律法違反どころか、まさに安息日に起こるべきことを引き起こしていると言えるでしょう。彼女は確かに神の御業を見て喜んで、神を賛美しているのです。

 そして、同じことを会堂長も見ているはずなのです。しかし、彼は神の御業を見て喜ぶことはありませんでした。どんなに奇跡を経験しても、神様の御業を見ない人は見ない。本当は神の創造の御業の中に存在しているのですから、私たちの人生もまた神の奇跡に満ちているのでしょう。しかし、見ない人は見ない。会堂長はどうして見ることができなかったのでしょう。――立ち止まっていないからです。休んでいないからです。自分がしなくてはならないこと、人間がすべきことで頭がいっぱいだからです。

立ち止まらねば隣の人も見えない
 いや、立ち止まることがなければ、休むことがなければ、神の御業が見えなくなるだけでなく、一緒にいる人間、隣人も目に入らなくなります。

 安息日の律法には、先ほどお読みしましたように、「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」と書かれています。「あなた」だけではないのです。息子、娘のみならず、男女の奴隷も、家畜までも入っているのです。男女の奴隷は勝手に休むわけにはいかないのです。休ませなくてはならないのです。つまり安息日は、他の人をも視野に入れ、心にかけ、休ませ、共に神の御業を喜ぶ日なのです。家畜のことまで心にかけて休ませる日なのです。

 このようなことは、自分が神の御業の中に憩うことがなければできないことです。神の御業を思い、一から十までただ神の恵みの御業によって支えられ、生かされていることに感謝しなかったら、できないことなのです。神の御業の内に安らぐことがないと、隣人もまた見えなくなってくるのです。

 18年間腰が曲がっていた人は、たまたまこの日だけ会堂にいたのでしょうか。そんなことはないでしょう。この会堂長は初めてこの女性を見かけたのでしょうか。そんなことはないでしょう。恐らくそこに集っていた人も、この会堂長も、もう長い間、その曲がった体を目にしていたはずなのです。前を向くことも困難な、ましてや天を仰ぐことはとうていできない、そんな姿をもって礼拝している姿をいつも目にしていたはずなのです。

 「安息日ではなくて、他の日に治してもらえ。安息日はだめだ」と彼は言いました。確かに一日待てば律法違反にはなりません。正論です。しかし、彼の言葉からはっきり分かることがあります。この人は少なくとも、長い間病的に腰の曲がったこの人を見ても、「かわいそうにな。辛いだろうな。いやされるといいのにな」と思ってきた人ではない、ということです。その曲がった体は目に映っても、本当の意味で苦しみや痛みを背負った生身の人間が見えていない。だから、彼女が解放されて喜んで神をほめたたえていても、それが自分の喜びにならないのです。

キリストは束縛から解いてくださる
 このように会堂長の姿を見つめていると、それは決して遠い世界の話ではないことが見えてきます。神の御業を見て喜ぶべき時に喜べない。また神の御業を喜んでいる人と共に喜べない。むしろ怒りを抱き批判的なまなざしを向けている人。それはしばしば私たち自身が陥っている姿かもしれません。しかし、だからこそイエス様があえてこの癒しの業を安息日に行った意味も見えてくるのです。

 イエス様はあの女性に、「婦人よ、病気は治った」と言われました。しかし、そう訳されていますが原文では「解放された」という言葉が使われているのです。そして、後にイエス様はこう言われています。「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(16節)と。そのように、イエス様は今日の箇所において、御自分のしていることを「治療」ではなく、「解放」として語っておられるのです。

 確かに、この女性は不自由な体をもってサタンに縛られていたと言えます。そして、イエス様は彼女をその束縛から解放されました。しかし、縛られていたのは彼女だけだったのでしょうか。解放されなくてはならなかったのは彼女だけだったのでしょうか。そうではないでしょう。まさに縛られている不自由な姿をさらしていたのはあの会堂長ではありませんか。そして、それはしばしば私たちの姿でもあるのでしょう。

 だからこそ解放してくださる方が必要なのです。この女性に起こった解放は実に象徴的な出来事であったと言えます。体が極度に曲がっているならば、その目の先にあるのは自分の足もとです。まず目に入ってくるのは自分自身です。前の人や隣にいる人を見るのは難しい。ましてや、天を仰ぐことは困難です。しかし、彼女はイエス様によって解放され、その体はまっすぐになりました。彼女はまっすぐになった体をもって神を誉め讃えているのです。彼女は神の御業の中に安らぎ、前の人とも、隣の人とも一緒に神を誉め讃えて生きていくのでしょう。

 そのように解放されてまっすぐになった姿をあの会堂長も必要としていたし、私たちも必要としているのです。そのような私たちのためにイエス様は来てくださいました。イエス様はサタンに縛られている者を解放してくださる御方として来てくださいました。イエス様が真の安息日を私たちに与えてくださいます。事実、彼女において現された解放の御業は、既に私たちの内にも始まっているのです。私たちが礼拝の場所に共に集められているとはそういうことです。主の霊による全き解放、神の御業を隣人と共に喜ぶことのできる真の自由、サタンから解き放たれてまっすぐにされた姿を求めてまいりましょう。

2023年7月23日日曜日

「一つとなって主に仕える」

ルカによる福音書 8:1-3

思いを一つにして仕える婦人たち
 イエス様は神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けておられました。その旅には「十二人も一緒だった」(ルカ8:1)と書かれています。実際にはその他の弟子たちも大勢伴っていたものと思われます。

 しかし、今日朗読された箇所においては、十二人ではなく、その他の弟子たちでもなく、共にいた婦人たちに目が向けられています。そこには心を一つにしてイエス様とその一行に仕える多くの婦人たちの姿がありました。彼女たちは自分の持ち物を出し合って、共に一行に奉仕していたのです。

 その中で特に三人の名前が挙げられています。「マグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ」。これらの名前が記されているのは、ルカによる福音書が書かれた時代においてもなお、これらの名前が諸教会に記憶されていたということでしょう。特にマグダラのマリアとヨハナについては、後にキリストが復活した朝、墓に向かった人々の中に名前が記されています。彼らはキリストの復活の証人としても覚えられていたのだと思います。

 しかし、福音書においてはここで初めて登場するのですが、次のように紹介されていることは注目に値します。「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ」(2‐3節)。つまり、彼らについては、キリストの復活の証人であるということよりも、あるいは後の教会において良い働きをしたということよりも、もともと「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた婦人たちなのだ」ということの方が重要だったということなのです。

 ちなみに、「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた」とありますが、厳密に言いますと、ここは原文では「悪霊と病気からいやしていただいた」と書かれています。悪霊からの解放と病気の癒しは並べて書かれているのであって、必ずしも病気の原因が悪霊であったという意味合いではありません。ですから、マグダラのマリアについては病気とは関係なく「七つの悪霊を追い出していただいた」とだけ書かれているのです。要するに彼女たちには病気だけではなく、悪霊に支配されていた過去があったということです。言い換えるならば、神に背いて生きてきた生活があったということなのです。そこから癒された人たちなのです。

 マグダラのマリアについては「七つの悪霊を追い出していただいた」と書かれているわけですが、彼女はいったい何者なのでしょう。いったいどんな罪を犯して生きてきたのでしょうか。実際、「七つの悪霊を追い出していただいた」という表現はこれまで多くの人々の想像をかき立ててきました。そして、マグダラのマリアの人物像について多くの理解が生まれることとなりました。

 ある人は直前の7章に出て来た「罪深い女」こそ、マグダラのマリアに他ならないと言います。確かに今日の聖書箇所は「すぐその後」という言葉から始まっていまして、明らかに前の章と結びつけられています。ならばマグダラのマリアはイエス様に出会った「罪深い女」であり、具体的には娼婦であったのかもしれません。

 しかし、聖書があえて具体的なことを明示しないで、また前に出て来た「罪深い女」と同一人物であるか否かも明らかにしないで、ただ「七つの悪霊を追い出していただいた」としか書いていないことには、そのこと自体に意味があるようにも思います。その内容は誰にも知られる必要はないということです。彼女が何に支配され、どんな罪を犯してきた人であるのかは、もはや重要ではない。もっと重要なことがあるからです。それは何か――キリストの恵みにあずかって救われた人だということです。

 だからこそ、彼女の名前は当たり前のように「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」と並べられているのです。繰り返しますが、マグダラのマリアが何をしてきた人かは分かりません。娼婦であったかもしれないし、なかったかもしれない。しかし、「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」とは全く違った生活をしてきたであろうことは想像できます。「ヘロデ」とはガリラヤを治めていた領主であるヘロデ・アンティパスのことです。ヨハナはいわば高級官僚の妻であった人ですから。

 しかし、クザの妻ヨハナもまた悪霊から解放された人としてここに名前を記されているのです。そこにはまた、マグダラのマリアの場合とは異なった形での悪霊の支配があったということです。彼女は彼女として神に背いた生活があったということです。しかし、ヨハナにおいても重要なことは、彼女が何に支配され、どんなことをしてきた人であるかではありません。キリストの恵みにあずかって救われた人であるということです。それは詳しいことは何も書かれていないスサンナについても言えることでしょう。だから彼らはそれぞれ全く異なる背景を持つ婦人たちであるにもかかわらず、当然のように並べて書かれているのです。

 そして、名前を挙げられている彼らは代表に過ぎないのです。その他にも大勢いたからです。「そのほか多くの婦人たちも一緒であった」と書かれていましたでしょう。その一人一人にもまた、それぞれ生きてきた背景があるのでしょう。しかし、それらは何一つ語られません。語られる必要もありません。大事なことは一つだけだからです。彼らがキリストの恵みにあずかって救われた人だということです。

 だからこそ、彼女たちは全く異なる背景を持ちながら、心を一つにしてイエス様とその一行に奉仕しているのです。「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」(3節)と書かれていました。「持ち物」とありますが、それはただ金品だけを意味するのではありません。自分の「持っているもの」という言葉ですから、そこには金品だけではなく、自分の能力や資質も含まれます。もちろん「持ち物を出し合う」ということもあったでしょうが、さらに広く彼女たちが自分のできることを出し合って、分かち合って、共に仕えたということなのです。

 マグダラのマリアとクザの妻ヨハナは、差し出せるものもできることも異なっていたに違いありません。しかし、それぞれ持てるものを出し合って、一緒に仕えていたのです。そこにおいて一つになれたのです。なぜなら、彼らは同じイエス様の恵みにあずかり、同じイエス様によって救われた者であり、それぞれ差し出すものは、同じイエス様に対する感謝の応答に他ならないからです。

主において同じ思いを抱きなさい
 そのように、今日、私たちに与えられている福音書朗読では、互いに異なる者でありながら、思いを一つにしてイエス様とその一行に仕える婦人たちの姿が描かれていました。しかし、もう一方において本日の第2朗読では、思いを一つにして仕えることのできない婦人たちのことが書かれていました。

 「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです」(フィリピ4:2‐3)。

 フィリピの教会はパウロの伝道によって生まれた教会です。そして、パウロの伝道を支えてきた教会です。フィリピの教会はパウロの喜びであり誇りだったのです。パウロは彼らを「わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち」(1節)と呼んでいます。それはパウロの嘘偽りのない心情だったと思います。

 しかし、その教会にとても残念なことが起こっていました。エボディアとシンティケという二人の婦人が、同じ思いを抱いて、一つとなって奉仕することができなくなっていたのです。彼らはいい加減な人たちでも、不敬虔な人々ではありません。「福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです」とパウロが言うほどの二人です。それぞれ熱心に一生懸命に仕えてきたのでしょう。しかし、往々にして対立は、そのような熱心に真剣に仕えている人たちの間に起こるものなのです。

 そこでパウロは言うのです。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」と。非常に印象的な語り方です。対立している二人を自分の前に並べるようにして、「わたしはエボディアとシンティケに勧めます」とは言わないのです。あくまでも個別に、それぞれに、「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます」と言うのです。それぞれがパウロの勧めを聞かなくてはならないからです。相手がどうであるかではなく、それぞれが自分のこととして聞かなくてはならないからです。

 「主において同じ思いを抱きなさい」。ここで重要なのは「主において」という言葉です。しばしば「主に結ばれて」とも訳されます。同じ思いを抱くことができるとするならば、それは「主において」「主に結ばれて」なのです。そして、「主において」「主に結ばれて」という言葉で表現されている主との関係は、「どれだけ主に仕えているか」という関係性ではあるなせん。それが先に来るのではないのです。イエス様と共に旅をしていた婦人たちの姿を思い起こしてください。マグダラのマリアとクザの妻ヨハナが同じ思いを抱いて仕えていたのは、どちらも同じキリストの恵みにあずかって、同じキリストによって救われた人だったからです。それこそが彼らにとって最も重要なことだったからです。「主において」とはそういうことです。

 「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます」。エボディアは、シンティケのことはとりあえず横に置いて、「主において」「主に結ばれて」という言葉をしっかりと受けとめなくてはならないのでしょう。それはシンティケにおいても同じです。主の恵みにあずかって、主の赦しにあずかって、主によって救われた者として新しく生かされて、そのような自分が今ここにいるのだということをしっかりと受けとめなくてはならないのでしょう。そこで初めて同じ思いを抱いて仕え、一つとなって主に仕えるということが生まれてくるのです。


2023年5月28日日曜日

「求めつづけなさい」 ペンテコステ礼拝

ルカによる福音書 11:5-13

聖霊の満たしを

 今年も聖霊降臨祭(ペンテコステ)を迎えました。毎年祝うこの日は今から約二千年前の教会の誕生、そして教会の宣教の開始を記念した祝祭です。教会がどのように誕生したのか、そして宣教の歴史がどのようにスタートしたのかは、使徒言行録2章に記されています。今日の第二朗読でお読みしました。

 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:1‐4)。

 そこには大変不思議なことが書かれていました。明らかに私たちの日常の経験とはかけ離れています。しかし、毎年、聖霊降臨祭にはこの箇所が読まれます。そこには私たちが毎年思い起こさなくてはならない大切なことが示されているからです。それは教会が神の霊の働きによって始まったということです。教会の宣教は聖霊のお働きなのです。教会が今日に至るまで、しかもエルサレムから遠く離れた日本にまで存在しているのは、聖霊のお働きなのです。ただ人間の知恵と力によるのではないのです。ただ人間の営みによるのではないのです。神は今この時代においても生きて働いておられます。聖霊は今もなお変わることなく働いておられるのです。

 教会はあの時弟子たちが聖霊に満たされたところから始まりました。ならば大切なことは、あの時弟子たちが聖霊に満たされたように、私たち自身もまた聖霊に満たされることなのでしょう。聖霊に満たされるために必要なことは、ただ求めることです。今日の福音書朗読の中で、イエス様がこう言っておられました。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(13節)。

 必要なことは求めることです。私たちの信仰生活においても、往々にして欠けているのは努力ではないのです。頑張りでもないのです。求めることなのです。ですから、イエス様はもっと頑張れと言われるのではなく、求めるようにと言われるのです。主は言われました。「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(9節)。今年の聖霊降臨祭においては、このイエス様の励ましの言葉をしっかり受け止めて、ここから新たに求め始める者となりたいと思います。

求めなさい
 イエス様は「求めなさい」と言われました。しかし、これは一回求めてそれで終わり、という意味合いではありません。イエス様が用いているのは継続を意味する表現です。「求めていなさい」あるいは「求め続けなさい」という意味です。それはその直前のたとえ話からも分かります。真夜中に友人の家に行きパン三つを求め続けた人の話をイエス様はなさったのです。その他のところでも、イエス様は失望しないで祈り続けることの大切さを教えています(18:1)。

 どうして、イエス様はこのようなたとえ話をされたのでしょう。それは求め続けるということが現実には難しいからです。もしそれが容易なことならば、イエス様がそんなことを言わなくても人は求めるでしょうし、求め続けるのです。ここにいる私たちも、あえて「ここから新たに求め始めましょう」などと言わなくても、求め続けているはずなのです。

 しかし、現実にはそういきません。真剣に祈り求めたならば、恐らく誰でも経験することになるのです。祈り求め続けるということを妨げるような出来事はいくらでも起こるということを。様々な試練の中で信仰が揺さぶられます。信仰が試されます。このたとえ話のように「起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません」と言われているかのように、神から拒絶されているかのように思えるようなことは実際に起こるのです。

 求めて失望するよりは求めない方がよい。期待して落胆するよりは、初めから期待しない方がよい。そのような思いは、神との間にも入り込んでまいります。そして、いつの間にか、人間には多くを求めるけれど、神に求めることはない、もはや神に何も期待することもない――、そんな姿になってしまっているかもしれません。

 しかし、だからこそ、イエス様はわざわざこの話をなさって「求め続けなさい」と言われたのです。そして、人間の経験には失望や落胆がいくらでもあることを重々承知に上で、なおもこう言われたのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる」と。そう言って求め続けるよう、励ましていてくださるのです。

探しなさい。門をたたきなさい
 それゆえにまた、イエス様は「求めなさい」と言われただけでなく、さらにこう続けられたのです。「探しなさい。そうすれば、見つかる」と。「探す」という言葉は、「尋ね求める」とも訳せる言葉です。誰を尋ね求めるのでしょう。――神様御自身です。かつて預言者エレミヤは言いました。「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」(エレミヤ29:12‐14)。

 求めにおいて失望落胆する時、拒絶を感じる時、神がどのような御方であるか見えなくなってくるのでしょう。その意味において、神に求め続けることは大事ですが、神を尋ね求め続けることはもっと大事なことなのです。

 イエス様はその御方を「天の父」と呼ばれました。そして、「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」と言われたのです。

 子供たちを愛して、求める以上に良きものを与えようとしていてくださる天の父、その天の父を探すのです。尋ね求めるのです。そうするならば「見いだす」とかつてエレミヤを通して語られ、そして、父を本当の意味で知る独り子もまた「探しなさい。そうすれば、見つかる」と言われたのです。

 そして、さらにイエス様は「門をたたく者には開かれる」と言われました。良きものを与えてくださる天の父が開いてくださるのです。閉ざされた扉を開いてくださる。押してみようが引いてみようが、自分の力ではどうしたって開くことのできなかった扉、こじ開けようとしても開くことのなかった扉が、向こう側から開かれるのです。イエス様は言われるのです。こちらのすべきことはたたくこと。たたき続けること。扉をこじ開けることができなくても、たたくことならだれでもできます。

 そのように、だれでもできることを信じて続けたらよいのです。尋ね求めて、見いだすべき御方を見いだしたなら、それができるのでしょう。良きものを与えてくださる天の父を見いだしたなら、諦めないで、「こんなことして何になる」などと言わないで、安心して続けたらよいのです。門をたたき続けるような小さなことであっても、できることをこつこつと続けることです。

一つになって
 そのように、イエス様は「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と言われました。そして、弟子たちに何よりも求め続けて欲しかったのは聖霊に満たされることだったのでしょう。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と主は言われたのです。

 だから弟子たちは求め続けたのです。さらに言うならば、彼らは一つとなって求め続けたのでした。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると…」(使徒言行録2:1)と書かれていたとおりです。そして、「すると、一同は聖霊に満たされ」と書かれているのです。

 かつて「誰が一番偉いのか」と競い合い、争い合っていた弟子たちでした。しかし、そのような彼らが今や一つになって、集まっていたのです。それはある意味では当然のことでしょう。人間の姿にしか目がいかなければ、人間が行うことにしか目が向かなければ、互いの違いばかりが気になります。互いを比較し、あるいは互いを批判しあい、互いを斥け合うことも起こります。しかし、共に聖霊を求めるならば、共に神のなさることを求めるならば、そこで初めて一同は一つになるのでしょう。

 そのようにして、弟子たちが共に聖霊を求め、聖霊に満たされることによって教会は始まりました。その教会が、試練と迫害の中にあっても常に「良きものを与えてくださる天の父」を常に見いだし、門をたたきつづけ、そして、とうてい開かれ得ないだろうと思われた扉が次々に開かれていった。それが使徒言行録の伝える教会の歩みです。そして、その教会の歴史の中に、ここにいる私たちもまた集められているのです。

 私たちも共に、この時代に生きて働いておられる神の御業に思いを向けましょう。今も生きて働いておられる神の霊に満たされることを共に求めましょう。求め続けましょう。主は言われました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。この言葉をしっかりと受け止めて、ここから新たに求め始める者となりたいと思います。


2023年4月16日日曜日

「復活された主と共に」

ルカによる福音書 24:13-35

 

エマオへと向かう二人の弟子たち
 二人の弟子が、エルサレムから11キロほど離れたエマオという村に向かって歩いていました。もうエルサレムに用はありません。留まる理由もありません。重い心を抱きつつ、彼らはエルサレムを後にしました。

 こんな風にエルサレムを去ることになろうとは、一週間前には夢にも思いませんでした。そう、つい一週間前の日曜日、イエス様は歓呼の声に包まれて、エルサレムに入城されたのです。オリーブ山からエルサレムへと向かう道は、人々の熱狂と興奮で沸き返っていました。人々は自分の服を道に敷いて、ロバに乗ったイエス様を迎えました。夥しい群衆と弟子の群れは、声高らかに神を賛美していました。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」と。

 それはまさに、王の入城でした。偉大なる預言者であり王である御方、イスラエルの待ち望んでいたメシアの入城に他なりませんでした。人々の胸は期待と興奮ではち切れんばかりでした。あの二人もまた、イエスの弟子として、誇らしかったに違いない。「この方こそイスラエルを解放してくださる!」彼らの心は、まさに熱く燃え上がっていたのです。

 つい一週間前のことです。しかし、今や、すべては過ぎ去ってしまいました。興奮が過ぎ去ってしまえば、残るのは虚しさだけです。《あれはいったい何だったのだろう。燃え上がったあの炎は、いったい何だったのだろう》。いずれにせよ、もうそれはどうでも良いことでした。イエスは殺されてしまいました。すべては過ぎ去りました。もはやエルサレムに留まる理由もありません。重い心を抱きつつ、彼らはエルサレムを後にしたのです。

 彼らは「この一切の出来事」について話し合っていました。それはあまりにも辛く悲しい、またあまりにも悔しいできごとでした。しかし、その痛みを分かち合うことのできる仲間はいたのです。このような時に語り合える誰かが一緒にいるということは、それだけでも有り難いことです。

 しかし、ただ人と人とが語り合っているだけならば、先は見えているとも言えます。「二人の弟子が、エマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。」その先にどういう話が続き得るか、私たちにも分かります。「そうこうするうちに、村に着いた。彼らは悲しみながらも、元の生活に戻っていきました」。――これで終わりです。それだけの話です。

 ところが、今日お読みした話はそのような展開にはなっていません。まったく別の方向に進んでいきました。どうしてか。もう一人加わったからです。そこにこそ、私たちが今日教会において、この話を読んでいる意味があるのです。

共に歩んでくださるキリスト
 15節を御覧ください。「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」(15節)。イエス様が静かに近づいて来られました。そして、彼らと共に歩まれました。二人の弟子たちは、その御方が復活されたキリストであることに気づきません。なぜでしょうか。ただ「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」とだけ説明されています。

 彼らは気づかなかった。知らなかった。しかし、既にキリストは共に歩んでくださっていました。そして、既に主は共にいて、彼らに働きかけておられたのです。そして、主は尋ねられました。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」。彼らは暗い顔をして立ち止まりました。クレオパが答えます。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」。

 イエス様が「どんなことですか」と問われますと、彼は語り始めました。その御方は力ある預言者であったこと。彼らは「あの方こそイスラエルを解放してくださる」と望みをかけていたこと。しかし、おの方は十字架につけられ殺されてしまったこと。しかも、その遺体が無くなってしまったこと。暗い顔をして立ち止まった彼らは、これらのことを語りました。

 イエス様はそれを聞いてどうされたでしょう。暗い顔をしていた彼らを慰めてくださったのでしょうか。いいえ、イエス様はこう言われたのです。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(25‐26節)。

 イエス様は彼らの不信仰を嘆かれます。しかし、それだけではありませんでした。彼らが信じられるように、語り始められるのです。こう書かれています。「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(27節)。聖書を解き明かしてくださった。聖書が分かるようにしてくださった。これがイエス様のされたことでした。一緒に歩いてくださっているイエス様がしてくださったことでした。

 やがて、彼らは目指す村に近づきました。二人はなおも先へ行こうとされるイエスを引き止めて言います。「一緒にお泊まりください」。そこでイエス様は共に泊まるため家に入られました。そして、次のように書かれています。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(30節)。この言葉で何を思い出しますか。最後の晩餐でしょう。丁度、あの最後の晩餐で起こったことが、その小さなテーブルにおいても起こりました。すると、突然、二人の目が開けたのです。

 「すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31節)と書かれている。この描写は面白いと思います。目が開け、「見えるようになった」のではないのです。その姿は見えなくなった。私たちが今、復活したキリストの姿が見えないように、彼らにもイエス様は見えなくなりました。しかし、それで良かったのです。もっと重要なことがあるからです。ここまでイエス様が共に歩んでくださっていたのだ、という事実に気づいたということです。彼らが気づく前から主が共にいてくださった。そのことに気づいた。目が開かれて「見えた」のはそのことでした。

 そして、彼らはもう一つのことに気づきます。死んでいたような彼らの心に、いつしか火が燃え始めていることに気づいたのです。その炎は、彼らがかつて興奮し熱狂していた時に燃えていた炎とは違います。大きく燃え上がっていたあの炎は消えてしまいました。しかし、今、それとは異なる、キリストが与えてくださった炎が、静かに、しかし確かに、彼の内に燃え初めているのです。

 彼らは言いました。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)。彼らの内に燃えている炎は、他のどこからでもない、キリストが聖書を解き明かしてくださったところから来たことに彼らは気づいたのです。

一緒にお泊りください
 さて、最初のようにただ二人だけで語り合うのではない、そこにもう一人、キリストが加わってくださる。そして、聖書を悟らせてくださる。――皆さん、それこそが私たちに与えられている信仰の経験なのです。

 物語の最初はこうでした。「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた」。しかし、同じ話し合うのでも、一人加わった後ではこうなっています。「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」(32節)。同じ語り合うのでも、大きな違いではありませんか。

 キリストは今も聖書を解き明かしてくださいます。キリストは今も十字架と復活の意味を悟らせてくださいます。キリストは今もパンと杯を分け与えてくださいます。そして、私たちの心に、この世の熱狂や興奮ではない、本当の命の炎を与えてくださるのです。本当の意味で、「燃える心」を与えてくださるのです。そして、そこに、燃える心を分かち合い、主の恵みを語り合う交わりが生まれるのです。

 しかし、そのためにも大事な一つのことがあります。28節以下を御覧ください。「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた」(28‐29節)。

 彼らの内に起こった全ての良きことは、すべてイエス様の一方的な恵みの御業でした。しかし、その恵みを経験するために、彼らが行った唯一のことがありました。それは彼らがキリストを引き止めた、ということです。「一緒にお泊まりください。」これは復活のキリストに対する祈りです。祈りについて多くを語るルカが、その福音書の最後に記したキリストへの祈りです。キリストと共にいることを願い求める祈りです。

 私たちもまた、キリストと共にいること願います。私たちが毎週、こうして礼拝に集うこと、聖餐卓の周りに集まるということは、まさにこの祈りの具体的な表現であると言えるでしょう。今日も私たちはここにおります。イエス様と共に食卓に着いた彼らが味わった幸いに、私たちもまたあずからせていただきましょう。
(祈り)

2023年4月9日日曜日

「主は生きておられる」

ルカによる福音書 24:1‐12

なぜ死者の中に捜すのか
 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」これが、あの最初のイースターの朝、主の墓に行った婦人たちに与えられたメッセージでした。あれから二千年近く経ったこのイースターにおいて、同じ言葉を私たちは耳にしています。

 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。――実際には、あの朝、あの婦人たちは、「生きておられる方」を捜してはいませんでした。彼らは死者に会いに行ったのです。死んでしまったイエスに会いに行ったのです。その手にあったのは香料と香油でした。それはイエスの「遺体」に塗るためのものでした。

 イエス様が処刑された日、それは金曜日でした。翌日は土曜日、すなわちユダヤ人の安息日です。しかも、その安息日は特別な「過越の安息日」でした。なんとか、安息日に入る前に埋葬を済ませておかなくてはなりませんでした。ユダヤ人の一日は日没と共に始まります。イエス様の埋葬は急を要しました。アリマタヤのヨセフという人が遺体の引き取りを願い出ました。岩に掘られた墓に主の遺体を葬ることになりました。亜麻布で包み、とりあえず葬りだけを済ませましたが、油や香料を塗る時間はありませんでした。

 婦人たちはその墓の位置を確認し、遺体が納められるのを確認しました。そして、安息日が終わる前に香料と香油を準備しました(23:56)。安息日が明けた翌朝早くに墓に行って香料を塗り、遺体の処置をするためでした。彼らはイエスの遺体について最善のことをしたいと思っていたのです。

 主の遺体に香料を塗り、ともかく遺体について為すべきことをした後に、いったいどうして生きていったらよいのか、わからなかったに違いありません。しかし、ともかく生きていかなくてはならないならば、せめてイエス様の思い出と共に生きていくしかないでしょう。せめて心に刻まれたイエスの言葉と共に生きていくしかありません。せめてイエス様に倣って、その教えに従って生きていこうと考えていたのかもしれません。

 その生前の教えが今日に生きる人々になお大きな影響を及ぼしているという偉大な歴史上の人物はいくらでもいます。彼らは死んでも、今なお語っていると言える。ナザレのイエスもまたしばしばそのような一人として挙げられます。その偉大なる高尚な生涯。その比類無き教え。それらは代々の人々の心を動かし、数多くの人生を変えてきたと言えます。しかし、それだけならばやはりイエスは「死者」の一人に過ぎません。 もし教会の伝えているのが「過去の人ナザレのイエス」の教えや生き様でしかないならば、教会のしていることは「死んだ方」に会いに行った、あの日の婦人たちと変わりません。

 しかし、そこで婦人たちは「なぜ、《生きておられる方》を死者の中に捜すのか」と問われたのです。あの御方は生きておられる御方なのだから、死者の中にはいないと言うのです。そして、この言葉を教会は今日に至るまで伝えてきたのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。教会が「イエスは生きておられる」と言う時、既にお話ししてきたように、それは単に教えが生き続けているとか、心の中にイエスの生き様が生き続けておられるという意味ではないのです。

あの方は、ここにはおられない
 御使いたちは言いました。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」イエス様は「ここにはおられない」――「墓の中にいない」とは「死の中に閉じこめられていない」ということです。イエス様は死に支配されてはいないということです。

 象徴的な描写が福音書の中にあります。「見ると、石が墓のわきに転がしてあり」(2節)と書かれている。マルコによる福音書では、わざわざ「その石は非常に大きかった」と書かれています。それは人の力によってはどうすることもできない死という現実を象徴していると言えるでしょう。しかし、それが転がされたというのです。誰によってでしょうか。「転がしてあった」というのですから、それは墓に行った人によってではありません。神によってです。

 神によって死の扉は開かれました。もはやキリストは死によって捕らえられてはいない。死に支配されていない。これがまさしく聖書の言っている「生きている方」という言葉の意味なのです。本当の意味で「生きている」とは「死に支配されていない」ということなのです。

 そうしますと、聖書がここで言っている「生きている」という言葉と、私たちが通常使う「生きている」という言葉は、意味が全く違うということが分かります。確かに私たちもまた、自分を指して「わたしは生きている」と言います。しかし、正確に言うならば、私たちは「生きている者」ではなくて、「死につつある者(The dying)」なのです。死につつあるのは重病の人だけではありません。高齢者だけではありません。元気な若者も同じです。確実に死に向かっているという点では同じです。

 私たちの人生は生まれた時から確実に死によって支配されています。生まれた時から死に向かって歩んでいるのです。もちろんその事実を忘れていることはできます。あたかも死なない者であるかのように生きていることは可能です。しかし、最後までそのように生き続けることはできません。

 私が子供の頃、確かに自分がいつか必ず死ぬのだということは全くリアリティのない話でした。しかし、やがて十代半ばぐらいになりますと、自分の人生が後戻りすることのできないものとして、終わりに向かっていることが実感となりました。つまり人生にはやり直しが利かないことがあるという事実と向き合わざるを得なくなったのです。そこで一つ一つ何かを諦めながら生きていくことになります。取り返しがつかないこともあるのだと知り始めます。人生は後戻りすることなく終わりへと向かっている。その事実を実感としても否定できなくなりました。

 そうしているうちに、やがて身近な人の死に接することが多くなってまいります。私の親友が交通事故で死にました。机を並べていた友が薬を大量に飲んで亡くなりました。私が心から尊敬していた人が、脳腫瘍のために亡くなりました。ある日、私が外からたまたま家に電話を入れると、思いがけなく祖父が息を引き取っていました。年を追うごとに、死は極めて身近な現実となっていきました。

 確かに人は死ぬまでは「生きている」とは言えます。しかし、繰り返しますが、実際には「生きている」時から既に死に支配されているのです。その意味では、産まれた時から、既に墓の中にいるようなものだとも言えます。人生は墓の中に閉ざされているのです。

 しかし、そのような私たちに聖書はキリストの復活を伝えているのです。キリストは生きておられる。本当の意味で「生きておられる方」を私たちに指し示すのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」

 あの御方は私たちのように死の中に閉じこめられていない。神はキリストを復活させられた。なんのためですか。死に支配されている私たちを救うためです。キリストは永遠に「生きておられる」救い主として私たちに与えられたのです。

 その御方はあの二千年前の墓の中にはおられない。教えだけが生きているというのではありません。あの方は今も生きていて、私たちの人生に入ってきてくださるのです。今日、一人の人が洗礼を受けてクリスチャンになります。クリスチャンとは、単にキリストの教えを信じた人のことを言うのではありません。そうではなくて、永遠に生きておられるキリストを人生にお迎えして、キリストと共に生きている人のことを言うのです。

 今も生きておられるイエス様は、死に支配された私たちの人生に入ってきてくださる。「生きておられる方」は罪の赦しとまことの命を携えて、いわば、私たちを閉じこめている墓の中に入ってきてくださるのです。いや、入ってきてくださるだけではありません。「生きておられる方」は、私たちを閉じこめている墓の扉を打ち壊してくださる。ならば私たちはもはや、死の中に閉じこめられた者として生きる必要はないのです。死に支配された者として生きる必要はないのです。もはや「死につつある者」として生きる必要はないのです。

 先ほど、人生は後戻りが出来ないと言いました。しかし、キリストが死の扉を破ってくださるなら、本当はもう後戻りしたいと願う必要もないのです。たとえ年老いても、たとえ重い病気になったとしても、残された日を思いながら生きる必要はないのです。失ったものを数えながら、失う前に戻れたらよいのにと思いながら生きる必要もないのです。キリストが死の扉を破ってくださるなら、私たちはただ人生の終わりに向かっているのではないからです。その先に開かれている復活の世界に、永遠の命の世界に向かって生きているのです。私たちは永遠に生きておられる御方と共に、本当の意味で「生きている者」として生きることができるのです。

2023年4月2日日曜日

「いつものように、いつもの場所で」

ルカによる福音書 22:39‐53

 弟子たちとの最後の晩餐を終えたイエス様は、祈るためにオリーブ山に行かれました。この箇所を読みますと、少なくとも二つのことが強烈に心に迫ってまいります。一つは、主の苦しみの姿です。「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(44節)。そして、もう一つはその祈りの言葉です。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(42節)。

メシアの苦しみ
 まず、そこにはイエス様の苦しむ姿がありました。「苦しみもだえ」と書かれています。マルコによる福音書では「ひどく恐れてもだえ始め」とあります。イエス様の内にあったのは、第一には「恐れ」であったと思われます。そして、それはある意味でとても不思議なことだとも言えます。というのも、イエス様はここに至るまでに少なくとも三回、御自分の受難を予告しておられるからです。

 例えば、18章31節以下にはこう書かれています。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」これは三度目の予告です。つまりイエス様はエルサレムで自分の身に何が起こるかを知っておられたのです。それを知りながら、あえてエルサレムに向かわれたのです。

 この直前の食事についても、これが弟子たちと共にする最後の食事であることを主は明らかに知っておられました。ですから、その食事の際に、「これはわたしの体である」と言ってパンを与え、「これはわたしの血である」と言って杯を回されたのです。さらに言うならば、裏切ったユダが祈りの場所に人々を手引きして連れてくることさえも分かっていたのです。その場所こそが、騒ぎを起こさずにイエスを捕らえるためには格好の場所だったからです。そのことを重々承知の上で、あえて「いつもの場所」に向かったのです。わざわざ捕らえられるために、そこに行くようなものです。

 ならば、そこに本来期待されるのは、捕らえに来る者を静かに待つキリストの姿なのでしょう。恐れることなく、うろたえることなく、ただその時を静かに待つキリストの姿。――しかし、そのような姿はここには見られません。キリストは恐れ、苦しみもだえて祈っておられるのです。ここに描かれているのは、期待はずれとも奇妙とも言える光景です。

 しかし、私たちの期待を裏切るこの異常な姿こそ、キリストの受難が何であるのかを雄弁に物語っているとも言えます。これは単に死に対する恐れでも、肉体的な苦しみに対する恐れでもないことは明らかだからです。

 死を恐れるということについて言うならば、本来、イエス様は死を恐れる必要はありませんでした。死を恐れる必要のない唯一の御方であったとさえ言えます。なぜならば、生をも死をも支配しておられる永遠の神を本当の意味で「父」として知っているわけですから。

 しかも聖書には「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」(1ペトロ2:22)と書かれているのです。それが三年もの間寝食を共にした弟子たちの共通の認識でした。すべてをご存じである父なる神の御前にあっても、罪の負い目のない御方。神の顔を避ける必要のない御方であり、神との完全な交わりの中にあったキリストです。ならば本来、その御方こそ死を恐れる必要のない唯一の方であったはずなのです。

 にもかかわらず、ここでキリストは恐れて、もだえ苦しんでいるのです。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と。――なぜですか。その「杯」が何であるかを知っているからでしょう。肉体的な苦しみならば、その苦しみを泰然として耐え忍んだ人間は歴史上にいくらでもいるのです。しかし、キリストの受けた「この杯」は、単に肉体的な苦しみではないのです。それはメシアとしての苦しみなのです。私たちを救うための苦しみなのです。

 私たちを救うということは、私たちの罪を贖うということです。私たちが救われるために、私たちの罪を代わりに背負うということです。罪人として神の裁きを受け、神に捨てられた者として死んでいかなくてはならない。それがメシアとしての苦しみです。救いをもたらすための苦しみです。

 実際、私たちは神の裁きが何であるかについて、本当の意味では何も知りません。自分の人生が神の御前に問われるということがどういうことかを知りません。人は「神から見捨てられた」などと軽々しく口にすることもありますが、実際に神から見捨てられるという事がどういうことか、何も知らないのです。だから罪の赦しを受けないで死ぬことを、本当の意味で恐れることもないのです。

 しかし、イエス様は違います。罪人として、罪を背負ったまま死ぬことがどれほど恐ろしいことであるか、罪ある者として神に裁かれることがどれほど恐ろしく、悲しく、苦しい事であるかを御存じなのです。この世界の罪、私たち人間の罪を背負うということが、いかなる苦しみであるかを知っておられたのです。それが今日の聖書箇所におけるキリストの恐れと苦しみの姿の中に語られていることなのです。

「御心のままに」と祈るために
 それゆえに、キリストはこのオリーブ山での祈りの時、祈りの場所を必要としたのです。この苦しみを耐え忍ぶために、この苦しみの中を、なお神の御心に従って進んでいくために、祈りの時、祈りの場所を必要としたのです。そこで私たちの心に迫ってまいりますのは、主の祈りの言葉です。主はこう祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」。しかし、さらにこう続けます。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。

 この「御心のままに行ってください」という言葉が、簡単に先の祈りに続いたと考えてはなりません。キリストにおいてさえ、そこから従順の一歩を踏み出すためには、汗を滴らせながら、いよいよ切に祈ることが必要とされたのです。

 そもそも「御心のままに行ってください」と祈るということは、どういうことでしょうか。私たちは「主の祈り」において、「御心が天になるごとく、地にもなさせしめたまえ」と祈ります。そうです、御心が地になるようにと祈っているのです。しかし、現実にはどうですか。そのように祈りながらも、実際には、その御心が地になることを邪魔しているのは、他ならぬ私たち自身ではないですか。

 私たちが試練の中にある時にこそ、私たちの信頼と従順が問われるのでしょう。そこにおいてこそ、自分の十字架を背負ってわたしに従ってきなさいという主の呼び声が聞こえてくるのです。神の御心は、私たちと無関係に実現するのではありません。私たちを用いて、私たちの信頼と従順を通して実現するのです。しかし、実際にはそれを邪魔するものがある。それは私たち自身です。肉なる私たち自身です。その私たち自身が克服されることは、決して簡単なことではありません。人となられた神の子でさえ、従うために、祈りの時、祈りの場所を必要とされたのです。

 しかし、私たちは知っています。いざという時には、そのように祈ること自体、決して容易なことではない。信仰が本当の意味で問われるその時に、従うために祈ることは決して容易ではありません。イエス様と対照的な弟子たちの姿がその事実を浮き彫りにしています。「彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた」(45節)。その眠りは、単なる肉体的な状態ではありません。それはまた、彼らの霊的な状態でもあります。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と主は言われます。しかし、試練の中にあって、目覚めて祈り続けることは難しいのです。

 そこで私たちはこの福音書だけが伝えている言葉に注目したいと思うのです。「いつものように」(39節)。この福音書を読みますと、度々書かれているのは祈るイエス様の姿です。ここだけではありません。ルカによる福音書には、繰り返し出て来ます。いつも祈っているイエス様。そして、エルサレムに着いてからも、度々、そこで祈っておられたのでしょう。「いつものように」。そして、それはイエス様にとって「いつもの場所」だったのです。

 いよいよメシアの苦しみを受ける時を迎え、イエス様が赴かれたのは、その「いつもの場所」でした。そこで、「いつものように」祈られたのです。イエス様が、最終的に「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈り得たのは、そこが「いつものように」祈ることができる、「いつもの場所」だったからです。

 「いつものように」でなければ、いざという時に祈れない。そういうものなのです。だから、「いつものように」「いつもの場所で」ということを大事にしなくてはならないのです。私たちは今、いつものように、いつもの場所に、すなわちこの礼拝堂に集まって祈っています。これを大切にしなくてはなりません。

 実際、ここに集まれることは、常に自明なことではありません。事実、3年前の3月29日、コロナのためにここには誰も集まることができなかったのです。次に集まれると思っていた礼拝堂に集まれなかったのです。コロナだけではありません。その他の理由によって、自分の人生において、これがここに集まることができる最後の日となることはあり得るのでしょう。

 礼拝堂に集まれる時、こうしていつものように、いつもの場所に集まって礼拝することを大事にしましょう。また、いつものように、日々、聖書を読んで祈る時間を大事にしましょう。平穏無事である時にも信仰の友と共に祈る時を大事にしましょう。主は言われます。「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」。そのために大事なのは「いつものように」です。

 今日から受難週に入ります。キリストの御苦しみを思いつつこの一週間を過ごし、復活祭を迎えます。この期間は特に、私たちにとっての「いつものように」の部分を振り返る時でもあります。その期間を経て復活祭から再び新たに歩み始めるのです。そのような一週間を経て迎えるイースターが新たな良きスタートとなりますように。



2023年3月26日日曜日

「捨てられた石はそのままで終わらない」

ルカによる福音書 20:9-19

力を行使できる神

 「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た」(9節)とイエス様は語り始めました。この話はある意味で彼らに身近な話でした。彼らはぶどう園を生活圏内にいくらでも目にすることができたでしょうし、オーナーが遠くに住んでいて農夫たちに管理が任されているぶどう園は決して珍しいものではなかったでしょうから。

 話は次のように続きます。「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した」(10節)。今日の私たちの感覚からするとあり得ないような話に思えますが、治安維持のシステムが確立されていない社会においては、いくらでも起こりえることでしょう。そこではただ力関係だけがモノを言うわけですから。

 主人がある程度の力を持っていれば問題は起こらないのです。しかし、農夫の集団の方が強ければ、このようなことは起こり得ます。遣わされた僕は、主人が力を持っていてこそ、ぶどう園の収穫を回収することができるのです。主人が侮られるならば、その僕も袋だたきにされて追い返されます。

 さらに話は続きます。「そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した」(11‐12節)。こういう展開になりますと、力関係ははっきり見えてきます。明らかに農夫集団の方が強いのです。主人は僕を送り続けますが、事態は何も変わりません。

 そこで主人はある決断をします。「そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう』」(13節)。これが賢い決断であったかどうかは別としまして、主人が農夫よりも弱くて、力による解決ができないなら、これも交渉のための選択肢として考えられなくもありません。

 しかし、そこに主人の無力さを見た農夫集団はぶどう園を一気に自分たちのものにしようと目論みます。「農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった」(14‐15節)。当時の社会において、農園の持ち主が跡取りのないまま死んだ場合には、その農園が農夫のものになるということは実際にあったようです。

 いずれにせよ、このような話は誰が聞いても不快なものです。力ある者たちの暴力によって正義がねじ曲げられ、正しくない者が得をして勝ち誇る。そんな結末で良いはずがないと誰もが思います。この悪い農夫たちをなんとかせねばならない!そこでイエス様は話を続けます。「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」(15‐16節)。

 なんと!弱いと見えた主人は、実は弱くはなかったという話です。彼は武装集団を配下に持っていたのです。そして、悪い農夫たちは成敗されました。このような話が好まれるのは古今東西変わりません。「水戸黄門」に出てくる悪代官も最後には必ず成敗されることになっているのです。そうでなければ、収まりがつかない。イエス様の話を聞いていた人たちにも、恐らくたとえ話の結論は見えていたはずです。悪い農夫は滅ぼされることになる。ですから「そんなことがあってはなりません」という聴衆の言葉は、農夫たちが成敗されたことを言っているのではありません。

 人々はこのたとえ話を、「主人は侮られたままではない」という話として聞いているのです。主人は力を行使することができる。そして、彼らはこれが神についての「たとえ話」だということも分かっていたはずです。なぜなら、旧約聖書において、ぶどう園の主人に喩えられているのは主なる神だからです。神は侮られる御方ではない。全能の力を行使することのできる神である。実際、彼らは主をそのような神として信じているのです。

 だからこそ、彼らは律法を守ることを大切にしていたのです。神が怒りをもって力を行使するような事態を引き起こしてはならないと思っていたからです。この主人が神であるならば、このたとえ話のようなことは起こってはならないのです。だから彼らは言ったのです。「そんなことがあってはなりません!」

力をあえて行使しない神
 しかし、「そんなことがあってはなりません」と言う彼らをイエス様は見つめて、こう言われました。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった』」(17節)。これは詩編118編3節の引用です。イエス様は問われます。それは何を意味するのか。イエス様の問いは、このたとえ話を前提としています。その問いに答えるためには、先のたとえ話をもう一度思い巡らす必要があります。

 実はあの主人は弱くなどなかった。主人は侮られたままではないという結論。そこからこの「たとえ話」をもう一度読み返してみますと、このストーリーはそもそもあり得ない話であることが見えてきます。

 「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した」。この時点で農夫たちは既に反乱を起こしているのです。そして、主人は武力をもって反乱を鎮圧することができるのです。にもかかわらず彼はほかの僕を送るのです。その僕が袋だたきにされれば、三人目を送ります。

 それはこの世においては起こりえないことです。しかし、これが神のなさってきたことだとイエス様は言われるのです。滅ぼす力を持ちながら、それでもなお力を行使せずに僕を送るのです。馬鹿にされようが、侮られようが、見くびられようが、それでもなお忍耐強く呼びかけ続けるのです。そして、実際にイスラエルの歴史において神は預言者を送り続けたのです。

 しかし、イエス様の話はそこに留まりません。主人は言うのです。「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」。直ちに滅ぼすことのできる力を持っているとするならば、この主人の行動はあり得ません。この主人の行動は常軌を逸しています。これほど愚かな行動はありません。「この子ならたぶん敬ってくれるだろう」――息子だからと言って敬うはずはないではありませんか。

 にもかかわらず、主人は息子を送るのです。もはや結末を知りながらあえて送ったとしか言いようがありません。息子がぶどう園の外に放り出されて殺されるかも知れないことを承知の上で送ったとしか言いようがない。そうです、イエス様はそのように送られた息子としてこの「たとえ話」を語っておられるのです。「これがわたしを遣わした父なる神だ」と。

 そうです、イエス様は分かっておられるのです。御自分がこの息子のように、外に放り出されて殺されること。間もなくしてエルサレムの外で、十字架につけられて殺されること。――分かっているのです。御自分が詩編に歌われている「家を建てる者の捨てた石」となることも分かっているのです。

 しかし、捨てられた石はそのままでは終わらないのです。詩編は「これが隅の親石となった」と続くのです。イエス様が心の目で見ておられるのは、御自分が捨てられるところまでではありません。その先を見ておられたのです。独り子さえこの世に送られた神の忍耐と寛容は、十字架によって無に帰してしまうのではありません。むしろ、そこから新しいことが始まるのです。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」そう書かれていることが実現するのだ、と主は言われるのです。

 そして、そのとおりになったと聖書は私たちに教えているのです。キリストを隅の親石とした新しい家が建てられました。それが教会です。捨てられて十字架にかけられたイエス・キリストは、無に帰したのではなく、私たちの罪を贖う犠牲となりました。キリストは復活して隅の親石となられました。そこからイエス・キリストが宣べ伝えられ、罪の赦しの福音が宣べ伝えられるようになりました。ですから、これを書いているルカは、第2巻をも書くのです。「使徒言行録」――教会の物語です。

 主は言われました。「その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」(18節)。これは単なる裁きの言葉ではありません。その向こうに救いが見えているのです。

 教会の宣教によって、人はキリストに出会います。十字架にかけられて復活されたキリストに出会うのです。隅の親石となったキリストに出会うことになるのです。そして、キリストとの出会いの中で、自分こそまさにあの農夫たちの一人であることが見えてくる。神を侮って生きてきた自分自身であること、神の忍耐も寛容も軽んじて生きて来た、自分の罪深さを知ることになるのです。

 そのようにして、ある人はキリストという石の上に落ちる。ある人はキリストという石の下敷きとなる。砕かれたり押しつぶされたりすることになるのです。しかし、そこにこそ人間の救いがある。神を侮ったままで人が救われることは決してないからです。

 これを書いているルカは、そのように砕かれ押しつぶされ、そして救われた人を、少なくとも一人、身近に知っています。ルカが宣教の旅を共にしたパウロです。隅の親石なるキリストとの出会いは、パウロの救いでした。そして、私たちの救いもそこにあるのです。

 このように、このたとえ話は、神は侮られる方でないこと、最終的な裁きを行う力をお持ちの御方であることを語っています。しかし、それだけではありません。その神が限りない忍耐と寛容を示していてくださること、今も私たちに呼びかけてくださっていること、そして、その神が私たちの救いのためにキリストという隅の親石をしっかりと据えてくださったことを指し示しているのです。
(祈り)

2023年3月5日日曜日

「神の国は既に来ている」

ルカによる福音書 11:14‐26

汚れた霊が友達連れて戻って来る
 本日朗読されました福音書において、イエス様はこんな話をしておられました。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」(ルカ11:24‐26)。

 汚れた霊が人から出て行ったり、砂漠をうろついて休む場所を探してみたり、他のお友達連れて戻って来たり、という話は、ある意味では私たちには馴染みのない話です。しかし、もう一方において、イエス様が言わんとしていること、何となく分かるような気もする不思議な話です。「確かにあるある、こういうこと」って、そう思いませんか。

 例えば、人と喧嘩ばかりしている人がいるとします。争いの絶えない人。いつも心に怒りを溜めているような人。いつも他者に悪意を抱いている人。そんな人が、ある日、ふと思い立ちます。私はこんなことをしていていいのだろうか。こんな自分はいやだな。平和な穏やかな人になりたいな。そう思って、とにかく努力を始めます。穏やかな人になろうと努めます。一生懸命心の中から怒りと悪意を追い出そうといたします。そして、ある程度追い出しに成功するわけです。しばらくは、実に穏やかな人として過ごしている。周りの人も「あの人、変わったわねえ」なんて言っている。それがまた嬉しい。

 しかし、残念ながら長く続きません。あることで怒りが爆発し、口汚く誰かを罵ってしまう。すると周りの人から「やっぱり前と同じだね。少しも変わってない」とか言われます。自分でも自分が情けなくて、もう「どうでもいいや」と思ってしまう。どうせ自分はこういう性格に生まれついた不運な人間なんだ。育った環境がいけなかったんだ。そもそも親が悪い。小学校の時の教師が悪かった。そんなことを延々と考えるようになったりする。そして、気付いてみると、前よりも状態が悪くなっている。まるで出て行ったはずの「怒り」という汚れた霊が、「自暴自棄」や「自己憐憫」というお友達を連れてきたみたいです。ありそうな話だと思いませんか。

 これに類することはいろいろと考えることができるでしょう。悪いものを追い出して、クリーンな心を実現しようとする努力は、ある程度は成功するように思います。しかし、どうも長続きしない。一度失敗すると元の木阿弥となってしまう。いや、失敗した自分を責めている内に、さらに様々な悪い思いが心の中に満ちてきて、状態は以前よりずっと悪くなってしまうことも起こります。このように、汚れた霊がお友達を連れて帰って来るというイエス様の一風変わったお話は、今日の私たちにとっても極めて身近な話のように思います。

神の国は来ている
 しかし、それは身近な話であるかもしれませんが、それだけだったら救いがないと思いませんか。結局、努力したってだめなんだ。頑張って心を掃除して整えてみたところで、どうせ汚い霊がお友達連れて帰って来る場所を作っているだけなんだ、という話ならば、まことに救いのない話です。

 もちろん、イエス様はそのようなことを仰りたいのではありません。実は、この話はその前から続いているのです。その前には、口の利けない人が癒されたという話が出ています。そして、それにつづくイエス様の言葉として、この話が記されているのです。

 14節をご覧ください。そこには「口の利けない人がものを言い始めた」と書かれています。実際、この人はどれほど嬉しかったことか知れません。嬉しかったのは、ただ言葉が話せたからではありません。もともとこのような口の利けない人や「悪霊に憑かれている」と見られる人は、宗教的に差別されているのです。汚れた人として、神から遠ざけられている人として見なされるのです。罪を犯したからこんなことになったのだとも言われるのです。自分でもきっとそう思っていたに違いない。その人にとって、神は遠い遠い存在だったのです。

 しかし、そのような人のところに、イエス様が来てくださった。福音を携えて、罪の赦しの言葉、救いの言葉を携えて来てくださった。いや言葉だけでなく、イエス様のなさることそのものが神の恵みの現れでした。口が利けるようになった人の内に喜びがあったとするならば、それは神の恵みに触れた喜びなのです。神様に見捨てられてなどいない。そうではなくて神様から顧みられ愛されている。そのことを知った喜びなのです。

 ではその癒された人だけが神の恵みにあずかっていたのでしょうか。解放され癒された人だけが殊更に神に愛されているのでしょうか。いいえ、そうではありません。主はこう言われたのです。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(20節)。

 癒された人だけに神の恵みが来たのではありません。イエス様のなさっていることはしるしなのです。神の国が来ていることのしるしなのです。神の恵みの支配が既に到来している。救いは到来している。イエス様の周りに集められた人々のところに既に来ているのです。癒された人だけではありません。その周りにいる人にも、苦しみから解放された人にも、いまだに苦しんでいる人にも、神の圧倒的な恵みは既に来ているのです。メシアであるイエス様が来られたとは、そういうことなのです。

喜べなかった人たち
 神の国は既に来ている。その喜びがイエス様の周りには満ち溢れていたに違いありません。しかし、もう一方でそれを喜べない人たちがいました。彼らは言いました。「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」(15節)と。こう言っていたのは誰でしょう。この福音書には書かれておりません。マタイによる福音書には「ファリサイ派の人たち」と書かれています。

 彼らは極めて真面目なユダヤ人たちです。自分の内から悪いものを追い出して、生活からも悪いものを追い出して、宗教的にも道徳的にも清く生きることを願っていた、そういう人たちです。汚れたものは大嫌い。汚れた生活をしている異邦人などとは絶対に付き合わない。律法を守ろうとしない連中となど、絶対に一緒に食事などしない。とにかく清い者となることは、一大関心事だった。そういう人たちです。それはとても良いことでしょう。しかし、彼らは神の恵みが悪霊に憑かれた人たちに現されることを喜べませんでした。

 考えてみてください。もしこれが、戒律を厳格に守り、清さを求めている人たちに神の恵みが現されたというのなら、彼らは文句を付けなかったと思います。あるいは一生懸命に努力している自分たちに、神の特別な恩恵が現されたというのならば、決して文句をつけることはなかったと思うのです。しかし、律法を守らない人たち、自分が見下している人たち、自分が汚れた人と見なしている人たちに無条件で神の恵みが現されることは、喜べませんでした。また、そのように教え、行動されるナザレのイエスはまことに赦しがたい存在だったのです。

 そのような人たちにこそイエス様は、友達連れて戻ってくる汚れた霊の話をされたのです。自分で頑張って掃除してきれいにしたつもりでいると、汚れた霊が友達連れて戻ってくるよ、と。実際、この福音書を読み進んでいきますと、そのことが明らかになってまいります。そのことがイエス様との関わりで明らかになるのです。彼らの内に、妬み、憎しみ、敵意、殺意のようなものが満ち満ちてくるのです。そして、結局それらがイエス様に対して噴出することとなるのです。いや、彼らだけではありません。民の長老たちや祭司長たちに煽動された民衆も、やがて「十字架につけろ!」と叫び出すことになるのです。これが清さを求めていた人々の内に満ちてしまったものです。汚れた霊の悪友たちです。

主の住まわれる家を造ること
 そうならないために大事なことはなんですか。イエス様はこう言われました。「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」(21‐22節)。ここで「強い人」とはサタンのことです。そして、「もっと強い者」とはイエス様のことです。もっと強い者が神の無条件の恵みを携えてきてくださいました。もっと強い者が「神の国はあなたたちのところに来ている」と言ってくださいました。この「もっと強い者」なるイエス様に来ていただくことです。私たちの心に、そして私たちの生活の中に。そして、あなたたちのところに来ていると言われる「神の国」、神の恵みの支配をもたらしていただくことです。

 信仰生活とは一生懸命に努力して自分を清める作業ではありません。信仰生活とは、悪いものを追い出してきれいな空き家をつくるのではなく、神の恵みを携えて来てくださったイエス様をお迎えすることです。私たちの心に、そして私たちの生活に。恵みをもって治めてくださる「もっと強い者」なるイエス様をお迎えし、主が住まわれる家を造ることなのです。

(祈り)

2023年2月26日日曜日

「悪魔の誘惑に要注意」

ルカによる福音書 4:1‐13

 教会の暦では、キリストの御受難を覚えるレントに入りました。その第一主日である本日、与えられていますのは、イエス様が洗礼を受けた後、荒れ野において悪魔から誘惑を受けたことを伝えている聖書箇所です。私たちはこの箇所を通して、主が受けられた誘惑について思い巡らし、私たちが打ち勝たねばならない誘惑とは何であるかを共に考えたいと思います。

人はパンだけで生きるものではない
 初めに1節から4節までをお読みしましょう。「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。『神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。』イエスは、『「人はパンだけで生きるものではない」と書いてある』とお答えになった」(4:1‐4)。

 この場面を想像してみてください。ここで「石」は単数です。ならば出てくるパンも一つです。空腹の時に、その欠乏を一つのパンによって満たそうとすることが、そんなに悪いことなのでしょうか。こんなつまらないことを要求するために、悪魔は現れたというのです!悪魔なら悪魔らしく、もっと悪いことを要求すべきではないでしょうか。空腹ならば強盗でもして金を奪え、と言っているならば、いかにも悪魔らしいと言えるでしょう。しかし、これが悪魔の誘惑なのだと聖書は伝えているのです。大きな悪への誘いだけが悪魔の誘惑なのではありません。むしろ「どこが悪いのか」と思えるような小さな行為への誘いにこそ、悪魔の誘惑があるのです。

 この場合、何が問題なのでしょう。イエス様の答えを聞いてみましょう。主は申命記の言葉を引用して、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」と答えられました。ということは、悪魔のこの小さな誘いの中に、「人はパンだけで生きられる」と思わせる誘惑があるということです。実は、主の引用された申命記の言葉は、次のように続きます。「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)。つまり、「人はパンだけで生きられる」と思わせる誘惑とは、言い換えるならば、「人は神の言葉によって生きる」という真理から引き離す誘惑に他ならないのです。

 実際、こんなことを考えてみてください。ある人の生活上に困難な問題が生じたとします。そして、彼は自らにこう語りかけます。「こんな大変な時に、教会どころじゃないだろう。聖書なんか読んでいる場合じゃないだろう。」そのようなことは私たちの誰にでも起こり得ると思いませんか。空腹の時には「パンさえあれば」と考える。何かが足りなくて困っている時には、必要なものさえ与えられればと思うものです。何か悩みがあれば、この悩みさえ解決すればと考える。そのようにして、神の言葉を求めること、神の御心を尋ね求めることは二の次、三の次になってしまいます。

 神の言葉を求めずに、ただパンだけを求めていたら、実際その人はパンを得るかもしれません。悩みの解決を得るかもしれません。それは喜ばしいことに見えるでしょう。しかし、ただ欠乏が満たされて一件落着となってしまうなら、その人はその後、「人はパンだけで生きるものではない」と語る人になるでしょうか。「困難の中にあるからこそ神の言葉を求めよう。大変な時だからこそ、神の言葉によって生きるのだ。」そのように自らに語り、また他の人に語り得る人になるでしょうか。ならないでしょうか。こうして改めてそこに自分の身を置いてみると、イエス様が受けられた極めて特殊な誘惑は、私たちにとっても非常に身近な誘惑であることが分かるのです。

あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ
 次に5節から8節までをお読みしましょう。「更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。『この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。』イエスはお答えになった。『「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある』」(4:5‐8)。

 これが第二の誘惑です。少なくとも「石をパンにせよ」という第一の誘惑よりは分かり易いように思えます。人類の歴史において、まさに悪魔に心を売り渡すようなことをして権力と繁栄を手に入れようとした人は星の数ほどいるからです。

 しかし、改めてよく考えますと、話はそれほど単純ではありません。そもそも、キリストが自分の欲望を満たすために国々の権力や繁栄を求めるでしょうか。いくら悪魔でも、いや悪魔だからこそ、そのくらいのことは分かるはずです。そうしますと、ここで語られているのは、「正しい道を外れてでも権力と繁栄を手にしなさい」といった単純な誘惑ではなさそうです。

 確かに、人が私利私欲のために権力と繁栄を求めるとするならば、そこに悪魔の誘惑があるということはとても分かり易いと思います。しかし、これが良きことの実現のためであったらどうでしょう。神の国の実現のために、権力と繁栄を得るということであったらどうでしょう。例えば、教会を考えてみてください。教会が国々の権力と繁栄を得るという事態が起こった時に、果たしてそこに悪魔の誘惑があると教会は考えるでしょうか。

 仮に、有力な政治家が、あるいは各分野において指導的な立場にある人々が、影響力の大きい著名人や有名人が洗礼を受けキリスト者となったらどうでしょう。それは喜ばしいことであるには違いありません。しかし、それは一人の罪人が神のもとに立ち帰ったことにおける喜びであるはずです。しかし、その時、教会はそのことを喜ぶのではなくて、教会に影響力や支配力が加えられたことを喜ぶようになるかもしれません。そこに悪魔の誘惑があることを果たして考えることができるでしょうか。

 実際に、イエス様が誘惑を受けた時から約300年後、ローマの皇帝コンスタンティヌスが回心してキリスト者となりました。それまで迫害を受けていた教会は、ローマの国教となりました。教会はまさに「国々の権力と繁栄」を手にするようになりました。教会はそれを《教会の勝利》と見なしました。しかし、そこに悪魔の誘惑はなかったでしょうか。

 イエス様は「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と言って悪魔を斥けました。そこには確かに「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」ということから引き離す誘惑があったのです。先に述べたようなことが教会に起こる時、誰も自分が悪魔にひれ伏して、悪魔を拝んでいるなどとは考えないでしょう。しかし、いつの間にか、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という神の言葉から引き離されてしまうということが起こり得ます。それよりも力や繁栄を与えてくれる他のものの方が重要に思えてくるのです。    その時、人は知らないうちに、悪魔の誘惑に陥り、悪魔に膝をかがめているのかもしれません。その意味で、これは信仰者個人としても、教会としても身近な誘惑であると言えるのです。

あなたの神である主を試してはならない
 最後に9節から13節までをお読みしましょう。「そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。『神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。「神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。」また、「あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。」』イエスは、『「あなたの神である主を試してはならない」と言われている』とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」(4:9‐13)。

 私は高いところが苦手です。痛いことは嫌いです。勇敢でもありません。ですから、勇敢な人を羨ましく思います。命がけで行動した人の話を聞くと単純に感動します。そのような人を神が奇跡的に助けられたという話ならなおさらです。しかし、それは私だけではないかもしれません。神に信頼して大きな決断をなした人を、神が奇跡的に助けられたという話を、信仰の証しとして耳にすることがあります。それを聞いた人は、「わたしもあのようでありたい」と思うかもしれません。

 しかし、注意しなくてはなりません。聖書はそのようなところにも悪魔の誘惑があると語るのです。悪魔はイエス様に、神の子として神に信頼した命がけの行動を求めたのです。悪魔は要求の正当性を、聖書を引用して裏付けることさえしています。もし、イエスが飛び降りるなら、その行為は父なる神への揺るぎ無い信頼の証となる。また、その信頼に応えてくださる神の愛を実証することになる。そして、人々がそれを見て神を信じるようになる。――それは喜ばしいことではないでしょうか。しかし、主はこう言って悪魔の要求を斥けたのです。「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」。

 一見すると命がけの信仰の決断と行為が、実は神を試みることでしかない。そのようなことが起こります。何が欠けるとそうなるのでしょう。それは神への従順です。そして、神に従順であり得るのは、神の御心を求める人だけです。神の御心に関心のない人は、神が求めもしないのに神殿の屋根から飛び降りるようなことをするのです。それは信仰の行為ではなく、神を試みる行為でしかありません。

 他者の信仰的な行為に感動し触発されて何かをしようとしている時、私たちは注意せねばなりません。神が他の人に求めたことをあなたにも求めているとは限らないからです。それは悪魔の誘惑かもしれません。

 イエス様は、悪魔の求め従って神殿の屋根から飛び降りるようなことはしませんでした。主にとって重要なのは、父なる神が願っていることを実現することだったからです。イエス様が父への信頼を示されたのは、神殿の屋根の上ではなく、十字架の上でありました。主は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)と言って、息を引き取られたのです。主は最後まで悪魔の誘惑に屈しませんでした。

 私たちも、主の助けを求めつつ、悪魔の誘惑に打ち勝たねばなりません。そのためには、御言葉に耳を傾け、何が悪魔の誘惑であるのかをしっかりと見極めねばならないのです。

(祈り)

2023年2月19日日曜日

「招き、迎え、天からの恵みを分かち合う」

ルカによる福音書 9:10-17

主が迎えられるなら
 「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13節)。そうイエス様は弟子たちに言われました。「彼ら」とは集まっていた大群衆です。男だけでも五千人はいたと言います。女性と子どもを合わせたら一万人を越えていたことでしょう。

 なぜそのような大群衆がそこにいたのか。イエス様がベトサイダにいることが知れてしまったからです。「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った」と書かれています。しかし、それだけではありません。なぜそこに大群衆がいたのか。イエス様が彼らを「迎え」たからです。「イエスはこの人々を迎え」と書かれている。11節に使われているのは「喜んで迎える」という意味の言葉です。

 弟子たちからすれば想定外のことでした。「イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた」(10節)と書かれていますように、予定としては彼らとイエス様だけで静かに過ごすはずだったのです。イエス様はどうして「予定がある」って言って断ってくれなかったのでしょう。「弟子たちも宣教旅行の後で疲れているのだから」とどうして言ってくれなかったのでしょう。

 ともあれイエス様はそうなさいませんでした。「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」(11節)。もちろんスケジュールはイエス様がお決めになるのです。仕方ありません。イエス様がお働きを終えたら、ともかく群衆を早々に解散させたらよいと弟子たちは考えていたと思います。

 やがて日も傾いてきました。十二人の弟子たちはそばに来てイエス様に言いました。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」(12節)。

 ユダヤ人の社会では旅人をもてなすことが美徳と考えられていました。あの大群衆も個々人については旅人ですから、それぞれ散り散りに村々に行くならば、彼らを迎え入れてくれる家もあるでしょう。食事を出してくれる家もあるでしょう。なければお金を出して宿を取り、食べ物を買うまでのことです。

 ところがイエス様は弟子たちにこう言われたのです。「《あなたがたが》彼らに食べ物を与えなさい」。「彼ら」とはイエス様が迎えた人々です。そうです、イエス様が迎えたのです。しかし、今度は弟子たちがこの大群衆を迎えなくてはならなくなりました。「あなたがたが食べるものを整えて、彼らを迎えてもてなしなさい」と主は言われるのです。そのように、イエス様が彼らを迎えたのなら、弟子たちもまた彼らを迎えることになるのです。

 さて、私たちはしばしば喜びをもって、どんな人をも受け入れてくださるイエス様について語ります。「イエス様は全ての人を愛しておられます」「イエス様は全ての人を招いておられるのです」と口にします。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というイエス様の言葉を愛唱している人は少なくありません。しかし、私たちはよくよく考えなくてはなりません。イエス様がすべての人を受け入れてくださるなら、わたしの隣にはいて欲しくない人がいることになるかもしれません。イエス様が招かれるのなら、私たちもまた招き迎えることになるのです。その意味で、「すべての人を招き迎える教会」という今年の年度主題を改めて考えさせられる聖書箇所であるとも言えます。

天からの恵みを分かち合う
 さて、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われた弟子たちは、すぐさま「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」(13節)と答えました。

 もちろん弟子たちはすべての人々のために食べ物を買いに行くつもりなどありません。要するに「無理です」と言っているのです。パン五つと魚二匹しかないのに、彼らに食べ物を与えるのは絶対に無理です、と。 しかし、彼らが持っているもので足りないことなど、イエス様は重々ご承知なのです。その上で彼らを人々に向かわせられたのです。

 五つのパンと二匹の魚を手にして途方に暮れている弟子たちに、主はこう命じられました。「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」(14節)。弟子たちはただ主の言われるままに、人々を座らせました。その後に起こった出来事は、次のように記されています。「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」(16‐17節)。

 いったい、そんなことがあるものか。どうしてそんなことが起こり得ようか。そう思う人がいても不思議ではありません。実際、そこで何が起こったのかは、良く分かりません。しかし、この物語が伝えようとしているメッセージそのものは明瞭です。群衆が満たされたとするならば、それは弟子たちの持っていたものによってではなかった、ということです。

 弟子たちは群衆を満たすだけのものは持っていませんでした。しかし、それを弟子たちはイエス様に差し出した。イエス様がそれを受け取られた。そして、イエス様が祝福し、裂いて弟子たちに渡してくださった。弟子たちはそれを汗水流して人々のもとに運んだのです。そうです、それが「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」という言葉の意味するところだったのです。

 では、そこで弟子たちがキリストから受け、群衆に手渡したものはいったい何だったのでしょうか。群衆が受けたものはいったい何だったのでしょうか。パンと魚。食べる物。確かにそうです。しかし、群衆がただパンと魚を食べて満腹したというだけならば、本質的には私たちがバイキングに行って腹いっぱいになるのと変わりません。そんなことを伝えるためにこの物語が四つの福音書に記されているのではないのです。

 彼らは単にパンと魚によって満たされたのではありません。そうではなくて、天の恵みを共に分かち合う喜びによって満たされたのです。そのパンが弟子たちの懐からではなく天から与えられていることは明らかだったからです。彼らの多くは、かつてイスラエルが荒れ野において「マナ」と呼ばれる天からのパンによって養われたことを思い起こしたことでしょう。あるいは詩編において「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(詩編23:1)と歌われていることを思い起こしたことでしょう。そして、メシアの王国が到来する時に、そこで祝宴が行われるという人々が抱き続けてきた希望を思い起こしたことでしょう。群衆が味わっていたのは、まさに神と人とが共にあり、人と人とが共にあって恵みを分かち合う神の国の喜びだったのです。

これはわたしの体である
 考えてみれば、それは本来、集まっていた群衆と全く無縁のものではなかったはずです。というのもイエス様がそこで口にした賛美の祈りの言葉は、恐らくユダヤ人なら誰でも知っている祈りの言葉であったに違いないからです。食事において捧げられる讃美の祈りがある。それは本来食事というものが、天から与えられて分かち合われるものであることを意味します。それは神と人との交わり、人と人との交わりを指し示しているものであるはずなのです。

 そのように食事というものが本来持っているはずの喜びが、ここで改めてリアルに手渡されることになりました。天の恵みを共に分かち合う喜びが、とてつもなく豊かに手渡されることになりました。なぜでしょうか。その食卓の主としてパンを手渡しているのが、他ならぬイエス・キリストだからです。神と人とが共に住み、人と人とが共に住む神の国をもたらすために、私たちの救いのためにこの世に来られたメシアだからです。

 この福音書を読んでいきますと、この場面と同じように、食卓の主人として祈りを捧げるキリストの姿に行き当たります。22章に記されている最後の晩餐の場面です。「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』」(22:19)。

 そして私たちは、その主の言葉どおりに事が進んでいったことを知っています。「これはわたしの体である」と言われた主は、その言葉のとおり、パンだけでなく、自分自身をも裂いて渡してしまうおつもりでした。――その翌日、主は十字架にかけられて死なれたのです。イエス様は私たちの罪の贖いのために、自らの体を、自らの命を裂いて渡してくださいました。私たちが罪を赦された者として、神と共に生き、人と共に生きるようになるためです。あのガリラヤの草の上で人々が味わい知ったことが、本当の意味で実現するためでした。

 そのようにキリストは神に感謝して御自分の体を裂いて私たちに手渡してくださいました。しかし、それはただ私たち自身が満たされるためではありません。主が迎えられる人々がいるのです。主は言われるのです。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。主が迎えられる人々を、私たちもまた迎えるのです。主の命を手渡すために迎えるのです。それは、命の糧を手渡し、天からの恵みを分かち合い、共に喜びに満たされるために他なりません。それが主の望まれる教会の姿です。

(祈り)

2023年2月12日日曜日

「差し伸べられたイエスの御手」

ルカによる福音書 5:12-16

あの時起こった驚くべきこと
 今日の聖書箇所にはまことに驚くべき出来事が伝えられています。その一つは、重い皮膚病がたちどころに癒されたということです。目の前でこの癒しが起こったらどれほど衝撃的であるかは容易に想像することができます。しかし、実はそれ以上に、そこに居合わせた人たちにとってはわが目を疑うような驚くべき出来事が少なくとも二つ記されています。一つは、重い皮膚病を患っている人が自らイエス様に近づいたということであり、もう一つは、イエス様が手を差し伸べてその人に触れたということです。

 ところで「重い皮膚病」は、1997年以前の版では「らい病」となっていました。「重い皮膚病」と表記されるようになったのは、それが狭い意味でのハンセン病を指す言葉ではなく、かなり広い意味を持っている言葉だからです。いずれにせよ、ここで重要なことは、その病気が当時のユダヤ人社会においては「汚れ(けがれ)」として認識されたということです。

 この病にかかった人は、他の人々に近づくことが許されていませんでした。いや、それどころか、人々が誤って触れることがないように、歩く時には「わたしは汚れた者です」と叫びながら歩かなくてはなりませんでした。この病にかかった人は家族から追い出されました。町の中に住むことは許されませんでした。重い皮膚病を患うということは、ユダヤの社会において、いわば社会的な生命を断たれることを意味したのです。

 しかし、「汚れている」と見なされることの本当の苦しみは、ただ社会的な隔離に起因するものではありませんでした。「汚れ」の宗教的な意味こそが、その人を苦しめたのです。人々は彼を指さして言ったことでしょう。あの病人が出た家は呪われている。きっと先祖が罪を犯したか、あるいは本人が罪を犯したからに違いない、と。そして、病気の人自身も、自らをそのように見ざるを得なかったのです。私は神に打たれたのだ。私は神から見捨てられたのだ、と。不幸な出来事に遭遇した時に、私たちも「神から見捨てられた」と感じることはあるかもしれません。しかし、重い皮膚病の人が神との間に感じていた断絶感はもっと深くリアルなものだったのです。

 そのような重い皮膚病を患っていた人が、自分の方からイエス様に近づいていきました。しかも、まさにイエス様の手の届くところまで近づいたのです。それは常識的にはあり得ない驚くべきことでした。弟子たちや共にいた人々の驚愕と怒りに満ちた表情が目に見えるようです。そのようなことをすればただでは済まないことは本人もまた分かっていたはずです。

 それにもかかわらず、「自分は汚れている」と思っていたであろうこの人が、イエス様に近づいたのです。その驚くべき行動を起こさせる何かが、イエスの内にあったということでしょう。実は、似たようなことが同じこの章の後半にも書かれています。罪人や徴税人たちがイエス様の周りに集まるようになるのです。それもまた実に驚くべきことです。しかし、そうさせる何かが、イエス様の内にあったのです。

 それは何であったのか。徴税人たちや罪人たち、そしてあの重い皮膚病の人が、イエスに現れた神の権威や力を見ただけならば、絶対に近づくことはなかったでしょう。しかし、そうではなかった。彼らはイエスの内に《神の憐れみ》を見たのです。イエスの内に見た神の憐れみにすがるようにして、その人は言ったのでした。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と。

 そして、この場面において、まさに神の憐れみがはっきりと形を取って現わされたのです。人々はもう一つの驚くべきことを見たのです。主はこの重い皮膚病の人に、その手を伸ばされた。そんなことをする人は今の今まで誰もいなかったはずです。しかし、主はその伸ばされた御手をもって、誰も触れることのなかったこの人に触れたのです。それはその人にとって、まさに神が憐れみをもって伸ばされた神の御手に他なりませんでした。彼は神の憐れみに触れたのです。

今も起こっている驚くべきこと
 「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去った」(13節)。そう書かれているとおり、長年彼を苦しめていた病気は癒されました。しかし、それで「めでたし、めでたし」という結末ならば、今日の朗読箇所は半分以下の長さになるでしょう。

 しかし、実際にはそうなっていません。話は次のように続きます。「イエスは厳しくお命じになった。『だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい』」(14節)。

 癒されたこの人は、嬉しかったことでしょう。喜びのあまり有頂天になっていたに違いない。しかし、その人に対して主は厳しく命じられます。「だれにも話してはいけない。」癒されたことを言いふらすな、ということです。これについては後で触れます。

 もう一つの命令は、「行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい」ということでした。これは何かと言うと、社会復帰のための正式な手続きなのです。つまりイエス様はきちんと手続きをして「社会に戻れ」と言っているのです。これまでは共同体の外に隔離されていたのです。ある意味では人と関わらないで生きてきた。しかし、彼は今や、人間との社会的な関わりの中に戻っていかなくてはならないのです。

 それは、場合によっては自分を追い出した家族のところに戻っていかなくてはならないということです。そうでなかったとしても、いずれにせよ、彼は自分を一度は追い出した共同体の人間関係に戻っていかなくてはならないのです。ただ喜んで浮かれている場合ではないのです。イエス様はその現実に彼を向き合わせるのです。

 人と人との関係に戻ると、そこで何が起こってきますか。様々な葛藤の中に置かれることになるでしょう。それは私たちもよく知っていることです。そして、人間関係における葛藤の中においてこそ、本当の意味で自分の汚れが見えてくるようになるのです。これまで彼は皮膚病のゆえに「汚れた者」とされていました。しかし、人間社会における葛藤において、彼は自分の内にある汚れを見ることになるのです。自分の内にねたみがある。悪意がある。貪欲がある。憎しみがある。時には殺意さえも存在する。自分の内に汚いものがいっぱいあることを知ることになるのです。

 イエス様御自身、あるところで、人間を本当の意味で汚すものについてこう言っています。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」(マルコ7:20‐23)。

 だから彼は病気が癒されて、それで救われたような気になっていてはならないのです。癒されたことだけを喜んで、それを言いふらすようなことであってはならないのです。それゆえに主は「だれにも話してはいけない」と言われたのです。話すべき時はまだ先なのです。本当の救いが語られるためには、自らの罪について、そしてキリストについて、知るべきことがあるのです。

 今までは病気のゆえに神との断絶を意識していたのでしょう。しかし、神との断絶をもたらしているのは病気そのものではないのです。内にある自分の罪なのです。そのことを知ってこそ、彼は本当の意味で救いを求めることになるのです。キリストのもとにかけよって、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言って、本当の意味で神の憐れみにすがることになるのです。

 そう考えてみますと、ここに描かれている重い皮膚病の人の姿は、後に罪からの救いを求めることになるであろう彼自身の姿を示していると言えるでしょう。そして、さらには、後にキリストの救いを求めることになるすべての人の姿をも指し示していると言えるのです。そうです、これは私たちの姿でもあるのです。

 そして、ここに描かれているように、キリストのもとにかけよって、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言って、神の憐れみにすがるなら、キリストが手を伸ばして私たちに触れてくださるのです。その時、その「キリスト」とは、十字架において私たちの罪を贖い、三日目によみがえって今も生きておられるキリストです。その御方に触れていただかなくてはならない。「よろしい。清くなれ」という言葉と共に。

 それは今日、どのようにして起こるのでしょう。それはキリストの霊が注がれて誕生した教会の宣教において起こるのです。あの時起こったことが、今も確かに起こっているのです。復活のキリストによって。その体である教会を通して――。今、私たちがここに身を置いているということは、そういうことなのです。

 今日の福音書の場面を想像してみてください。深く憐れんで、手を差し伸べて、あの重い皮膚病の人に触れておられたイエス様の姿を想像してみてください。「よろしい。清くなれ」と言われたイエス様の御声を想像してみてください。自ら汚れを覚えているあの人を主は退けられませんでした。「汚れた者よ、離れろ」とは言われませんでした。そうではなく、主は深く憐れんで自ら手を伸ばしてくださいました。そうです、主は同じように、私たちを退けず、主の御手は同じように私たちにも伸ばされました。だから今、私たちはここにいるのです。それは驚くべきことです。

 そして、主が御手を伸べて私たちに触れてくださる目に見える形、それが洗礼なのです。そして、神の伸ばされた御手は私たちに触れ続けてくださる。最終的に私たちが完全に清められ救われる終わりの時まで。その目に見える形が聖餐なのです。今日、聖餐式は行われませんが、変わることなく聖餐卓はここに置かれており、私たちはその周りに集められています。そのことの意味を、そこに与えられている驚くべき恵みを、深く思い巡らしたいと思います。


2023年2月5日日曜日

「豊かな実りのために必要な忍耐」

 ルカによる福音書 8:4‐15

神の言葉という種
 「聞く耳のある者は聞きなさい」。そうイエス様は言われました。ルカによる福音書ではわざわざ「大声で言われた」と書かれています。「聞く耳」の話が出て来るのは、もう一方において「語られる言葉」があるからです。その言葉とは、もちろんイエス様の語る言葉です。宣教の言葉です。今日は4節からお読みしたのですが、8章の始めには次のように書かれています。「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった」(8:1)。イエス様は「神の国」を宣べ伝えていたのです。福音(良き知らせ)を告げ知らせていたのです。

 「すぐその後」とありましたが、その直前にはこんな話が書かれています。イエス様がファリサイ派の人に招かれて、一緒に食事をしていた。すると一人の女がそこに入ってきた。その女が香油の入った石膏の壺を持って来て、「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」その後の展開は割愛しますが、最終的にイエス様はその女にこう語っています。「あなたの罪は赦された」(7:48)。そして、さらに言うのです。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(同50節)。

 ここには、イエス様の宣教の中心が何であったか良く現れています。それは罪の赦しと救いです。イエス様は神の権威をもって罪の赦しを宣言し、救いを宣言されたのです。

 そのようにイエス様は語られました。単に言葉をもって神の国の福音を宣べ伝えただけではなく、行動をもって宣べ伝えたのです。神の赦しと救いへの招きをただ語るだけでなく、行動をもって宣べ伝えられた。この罪深い女のエピソードもその一つです。イエスという存在そのものが語っている。いわばイエス・キリストという存在そのものが神の言葉だったのです。

 「神の言葉」に限らず、「言葉」はそれ自体の内に力をもっています。何かをもたらし、何かを引き起こす力を持っています。しかし、言葉が何をもたらすかは言葉自体によっては決まりません。受け取る側によって左右されるのです。実際、ある言葉がある人には喜びをもたらします。しかし、同じ言葉が別な人には怒りをもたらします。そのように、何をもたらすかは、受け取り手によって左右されます。

 その意味で「言葉」は「種」に似ています。「種」はその内に実りをもたらす力を持っています。しかし、実りは「種」だけによって決まるのではありません。それを受け入れる「土地」によって左右されるのです。ですから、今日の箇所でもイエス様は種蒔きのたとえ話をするのです。神様はキリストを通して神の言葉を語られました。キリストの言葉によって、その行動によって、最終的には十字架と復活によって、神の言葉をこの世界に与えられました。そして、キリストの体なる教会を通して御言葉が今も宣べ伝えられています。

 宣べ伝えられている神の言葉は、人間を救う力を持っていますし、救いの実りを豊かに実らせる力を持っています。しかし、救いをもたらすか否かは、神の言葉だけによって決まるのではありません。それを聞く側によって左右されるのです。ですから、イエス様は種蒔きのたとえ話をして、そして大声で言われたのです。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。種が蒔かれたならば、後は聞く耳の問題だ、ということです。

種は百倍の実を結ぶ
 さて、たとえ話の内容は極めて単純です。イエス様は種が落ちた四種類の土地について語っておられます。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」(5‐8節)。

 道端に落ちた種については、イエス様がこのように説明しています。「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである」(12節)。神の言葉が蒔かれた。しかし、そこで実りが見られないことがある。その一つの場合がこれです。道端というのは、人が通って踏み固められた、畑の中に出来た道のことです。道端に落ちた種は「人に踏みつけられ」と書かれています。いかにも受け入れられないで粗末にされている感じがイエス様の言葉に表れています。

 イエス様の宣教の言葉、イエス様の行為、イエス様の存在が受け入れられない――そのような事は現実に起こっていました。イエス様の周りに集まる群衆の中には、ファリサイ派の人たちや律法学者たちもいたのです。敵意と反感をもって聞いている人たちです。彼らは初めから受け入れる気がありません。既に踏み固められた道のように、固まってしまっている自分の考えがあるのです。自分の考えていることと同じような考えならば受け入れます。自分の考えていることと異なるならば受け入れません。自分の既に持っているものが基準です。だから福音が入っていきません。せっかく蒔かれた種は悪魔が持っていってしまいます。そのようなことはイエス様に対しても起こりましたし、今も起こり得ることです。

 石地に落ちた種については、イエス様がこのように説明しています。「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである」(13節)。この場合、神の言葉は受け入れられたのです。喜びをもって。しかし、喜びが与えられた、というだけで満足しているならば、それは根が深く降ろされていない種のようなものなのです。根が降ろされていなければ、やがて枯れてしまいます。試練が起こってきた時に「身を引いてしまう」、すなわち信仰から離れてしまう。それが石地に落ちた種の場合です。

 茨の中に落ちた種については、イエス様がこのように説明しています。「そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである」(14節)。茨の方が麦よりも成長が速いのです。なので茨があると覆われて、成長が妨げられてしまいます。

 その茨とは、第一に「思い煩い」だと言います。思い煩いが生じるのは不足や困窮の場合です。もう一方で茨とは「富や快楽」だと言います。富や快楽が問題となるのは、満ち足りている場合です。不足していても、満ち足りていても、そこには成長を妨げるものがあるということです。思い煩いや富や快楽の方が大きくなれば、成長はストップしてしまいます。それが茨の中に落ちた種です。

 さて、このようなたとえ話を通してイエス様が仰りたいのは、「あなたはこの三つの内のどれですか」ということではなかろうと思います。主は「聞く耳のあるものは聞きなさい」と叫んでおられるのです。イエス様は聞いて欲しいのです。さらにはその蒔かれた種が豊かな実を結ぶことを望んでおられるのです。農夫ならば当然です。収穫を期待して蒔くのです。

 先に道端、石地、茨の地という三通りの土地について見てきましたが、これらは別々の場所にある三種類の土地の話ではなく、一つの畑の話です。繰り返しますが、道端というのは、人が通って踏み固められた、畑の中に出来た道のことです。石地とは、畑の中で取り除ききれなかった石が残った場所のことです。茨もまた、根っこを取り除ききれなくて、残っていた根から生え出た茨が麦と一緒に伸びてきたという話です。

 ですから、道端や石地や茨の地が永遠にそのままであるとは限らない。皆、良い土地になり得る一つの畑です。イエス様が本当に語りたいのは、良い土地についてなのです。主は言われました。「また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」(8節)。

 「百倍の実を結んだ」という言葉を聞いて、私たちは過去の偉大なキリスト者を思い浮かべる必要はありません。ジョン・ウェスレー、マルチン・ルーサー・キング牧師、マザー・テレサなどを思い浮かべる必要はありません。確かにそこには神の言葉の結んだ豊かな実りがあったことでしょう。しかし、それらの人々は決して特別な人々ではないのです。蒔かれているのは、同じ種なのです。私たちに蒔かれているのと同じ種。私たちに蒔かれているのも、私たちが生きている場において、百倍の実を結ぶことのできる同じ種なのです。

 主は言われました。「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」(15節)。まずは聞き方です。「立派な善い心で御言葉を聞き」と主は言われます。別に立派な人間になれと言っているのではありません。聞き方の話です。「立派な善い心で御言葉を聞き」とは、これまで見た三種類の土地の逆を考えたらよいのでしょう。御言葉を受け入れ、そこに留まることです。

 ですから、「よく守り、忍耐して」と書かれているのです。ただ最初の喜びで満足しているのでなく、受け入れた種が自分の内にしっかりと根を降ろすことを求めていくことです。そのような信仰生活を妨げたり、そこから引き離そうとしたりするものはいくらでもあります。試練があり、困難がある。富や快楽への誘惑がある。しかし、そのような中で信仰の生活に留まり、共に神を礼拝し、主の御言葉に耳を傾ける生活に留まるのです。そこには忍耐が必要とされます。忍耐強く留まることは、私たちがすることです。そして、神が豊かな実りを与えてくださいます。

 実際、どうでしょう。コロナ禍の三年間は私たちの忍耐が問われた三年間だったのではないでしょうか。私たちは御言葉に留まってきたでしょうか。信仰に留まってきたでしょうか。私たちの信仰生活はこの三年間を経てどうなったでしょうか。忍耐を経て豊かな実を結んできたでしょうか。道端も、石だらけの地も、茨の地も、良い地になり得る一つの畑です。私たちは本来の私たちのあるべき姿に立ち帰りたいと思います。神の与えてくださる豊かな実りのために。


2023年1月29日日曜日

「いざという時に惑わされないために」

ルカによる福音書 21:1‐9

貧しいやもめの献金
 今日の朗読箇所の前半部分は献金の話です。「イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。『確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである』」(1-4節)。レプトン銅貨は当時の一番小さなコインです。それが二つ。小さな、とても小さな献げものです。しかし、大事なポイントは二つあります。第一に、これは「乏しい中からの献げ物」であるということ、第二に、これは「信頼の献げ物である」ということです。

 第一に、これは「乏しい中からの献げ物」でした。イエス様は言われました。「あの金持ちたちは皆、《有り余る中から》献金したが、この人は、《乏しい中から》…入れたからである」。ここに明らかな対比があります。お金について言えば、これはとても分かり易い話です。ある人は自分の状態を、この貧しいやもめに重ねて見るでしょう。ある人は自分の状態を「あの金持ちたち」に重ねて見ることができるでしょう。また、ある人は「その中間ぐらい」と言うかもしれません。

 しかし、考えてみますなら「乏しい中から」という言葉が関係するのは、必ずしもお金の話だけではありません。経済的に豊かな人が「乏しい」という言葉と全く無縁かと言えば、決してそうではないでしょう。「お金はあるけれど、時間がない」という人だっているでしょう。お金も時間もあるけれど、年老いて体力が乏しいという人だっているでしょう。あるいは能力に乏しい、愛に乏しいと感じている人もあろうかと思います。

 そのような乏しさの中で、私たちはしばしば考えるのです。豊かだったら献げられるのに、と。時間がもっとあったら神様に奉仕できるのに。体力があったら、若さがあったら、もっと仕えることができるのに。もっとあの人のように有能だったら、あの人のように愛に溢れた人だったら、神様のお役に立てるのに、と。

 しかし、あのやもめは「乏しい中から」神に献げたのです。乏しい中からの献げ物だからレプトン銅貨二つなのです。そんな献げ物が、実際的に何の役に立つかと言われても仕方ない、そんな献げ物かもしれません。しかし、それが役に立つかどうかなんて考えないで、あのやもめは「乏しい中から」献げたのです。同じように、忙しい人はレプトン二つ分の時間しか献げられないかもしれない。病気の人は、レプトン二つ分のことしかできないかもしれない。でも、イエス様は言われるのです。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」と。イエス様はそのように見ていてくださる御方です。

 そのようにイエス様は貧しいやもめを指し示します。その一つの理由は、イエス様と一緒にこのやもめを見ていた弟子たちが、やがては同じ立場に置かれることになるからです。やがて迫害の中にあって、様々な制約の中にあって、その乏しさの中から自分自身を献げて教会を形作っていくことになるのです。ですからこの「やもめ」の姿は「教会」と関係しているのです。その意味で私たちもまた、目を向けなくてはならない姿がそこにあります。

 そして、第二に、これは「信頼の献げ物」でした。イエス様はこうも言われました。「この人は…持っている生活費を全部入れたからである」と。生活費を全部入れたのは、明らかにそれでも大丈夫だと思っているからでしょう。自分が自分の生活を支えているのではない。神様が生かしてくださっている。その信頼があってこその献げ物です。

 ここに書かれているように持っている生活費を全部献げるというようなことは、恐らくはある特別な日における特別な献げ物だと思います。彼女が毎日同じことを繰り返しているとは思えない。しかし、その特別な献げ物に見る「神への信頼」は一朝一夕で形作られるものではありません。貧しい生活の中にあって、この日だけでなく、これまで毎日毎日、神に信頼して生きてきたということです。ならば、彼女の献げたレプトン二つは、信頼に生きる毎日の生活をお献げしたものであるとも言えるでしょう。

 これもまた弟子たちがしっかりと見ておかなくてはならないことでした。やがて彼ら自身、神への信頼の生活を神に献げることになるからです。迫害の時代にあって、信仰生活そのものが命がけになるのですから。その点では私たちは置かれている状況が違うとも言えます。しかし、献げ物において大事なのは、その背後に信頼の生活があることであるという点は同じです。私たちの献金にしても、私たちの献身にしてもそうなのです。時として様々な乏しさの中からほんの僅かばかりのものを献げるにしても、大事なのは、それを受け取ってくださる神様に毎日信頼して生きている、その神様と共に生きているということなのです。

見事な石と奉納物によって飾られた神殿
 そして今日の聖書箇所の後半に入り、話は次のように続きます。「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた」(5節)。要するに、イエス様がレプトン銅貨二つを献げるやもめに注目させているのに、そのもう一方で人々は神殿の見事な石と奉納物で飾られていることに見とれている。そのように話はつながっていくのです。

 どうしたって人の目はそちらに向くのでしょう。紀元前20年にヘロデ大王によって修復・増築が開始された神殿。それから数十年を経たイエス様の時代においてもまだ工事が続いているような大建築。完成したら未来永劫に残ると思えるような壮麗な建物。そちらの方に、どうしたって目が向きます。一人のやもめの貧しい献げ物。そこにどんなに神への信頼の生活が現れていたとしても、それは実に些細な小さな不確かなものとしか見えない。

 実際、生活費全部献げて、その後どうなったかは書いていません。普通に考えるならば、すぐにこの女は困ったことになったとしか思えない。信仰生活というものは、見ようによってはそんな不確かなものにしか見えないものです。「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたんだよ」と言われても、聞く人によっては、「はあ、でもそれが何なの」というような話です。それよりは、目の前の大きな神殿の方がよほど重要に見えるし、また確かなものに見える。人の目はそちらに惹かれていきます。

 しかし、イエス様はその神殿についてこう言われたのです。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(2節)。要するに、重なった石が一つも残らないほどに完全に崩壊するということです。

 これを聞いた弟子たちは、「そんな馬鹿な」と思ったことでしょう。その巨大な神殿が崩壊などということはあり得ない、と。しかし、イエス様は正しかったのです。紀元70年、威容を誇ったヘロデの神殿はローマ軍によって徹底的に破壊されることとなりました。

 しかし、それは何も特別なことではないことを私たちは知っています。確かに見えるもの、絶対に崩れそうにないものが瞬くまに間に崩壊することがあることを、私たちは、本当はよく知っているのです。建物ばかりではありません。同じように、絶対的な権力を誇っていた国家の体制が崩壊することがある。絶対に倒れるように見えない大企業が崩壊することもある。「健康には自信があります」と言っていたその健康がガラガラと崩れていくこともある。「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と主が言われたことは、現実には様々な形で起こります。

 そのような崩壊が起こる時、社会においても個人の人生においても、何かが崩れてしまうという危機的状況に置かれる時というのは、ある意味で本当に大事なことに目が開かれる転機となり得ます。わたしはいったい何に目を向け、何を追い求め、何に寄り頼んで生きてきたのかを問わざるを得なくなるからです。本当に変わらない確かなものは何か、失われない価値あるものは何か。そちらに真剣に目を向けることにもなる。もしそうなるならば、崩壊の経験というものも大きな意味を持つことになります。

 しかし、現実にはそうならないことが多いのも事実です。人は危機に置かれる時に、安易な救いに飛びつきやすいからです。それこそイエス様が言われるように、偽メシアについて行ってしまうということが起こり得る。だからイエス様は言われたのです。「惑わされないように気をつけなさい」(8節)。人々はこう質問したのです。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」。しかし、イエス様はその質問を無視するかのように言われたのです。「惑わされないように気をつけなさい」。

 いざという時に「惑わされない」ためにはどうしたら良いのでしょう。「わたしがそれだ」「時が近づいた」という言葉、様々なこの世の言葉に翻弄されないためにはどうしたら良いのでしょう。そのためには、普段のあり方が重要になってくるのでしょう。いざというときには、普段どう生きているかが、どうしても出てしまうものなのです。この世の目に見えるもの、確かそうに見えるものにしか目を向けていなければ、それが崩壊した時に、他の似たようなものを求めますし、飛びつきたくなるものです。

 ならば、どこに目を向けるべきなのでしょう。あの貧しいやもめです。神に信頼して貧しさの中から全てを献げた、あのやもめの生活の方が、見事な石で出来た神殿よりも、イエス様の目にはよほど確かなものと見えたに違いありません。そのように、変わることのない御方、崩れることのない御方と共に生きる生活をしっかりと築いていくことです。神を礼拝し、神に信頼し、貧しい自分自身を献げながら生きる生活を築いていくことなのです。今、もし今、平穏無事であり安定の中にいるとするならば、いざという時にではなく、今この時の信仰生活を大切にすることです。いざという時に惑わされないために。

2023年1月15日日曜日

「生け捕りにされた男」

ルカによる福音書 5:1‐11

沖へ漕ぎ出して漁をしなさい
 「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」(5節)。そうペトロは言いました。徹夜の苦労もすべて無駄に終わった。そんな朝の出来事です。実を結ばない労苦は心を疲弊させます。ペトロや他の漁師たちは身も心も疲れ果てていたことでしょう。本当なら一刻も早く身を横たえて休みたかったに違いない。しかし、何もとれなかった漁の後でも、網は洗わなくてはなりません。全く役に立たなかった網を洗わなくてはならない。それもまた虚しいことです。そのような報われない労苦の虚しさは、私たちにも多かれ少なかれ身に覚えがあります。一生懸命やったけど、何にもならなかった。しかも後始末だけが山のように残っている。そんなことがあるものです。

 そんな朝、憔悴しきった漁師たちが網を洗っている一方で、その湖の畔には朝からハイテンションで大騒ぎしている夥しい人々の群れがありました。その中心にいたのは、ナザレのイエスと呼ばれるあの方です。イエスを追い求めて大勢の群衆が押し寄せてきたのです。彼らはイエスの宣べ伝える神の言葉を聞こうとして集まってきました。漁師たちは、そんな群衆の騒ぎを尻目に、黙々と網を洗っていたことでしょう。するとあの方が近づいて来られたのです。そして、勝手にシモンの舟に乗り込んだかと思うと、シモン・ペトロにこう言いました。岸から少し漕ぎ出してくれないか。

 勘弁してくださいよ。疲れているんですよ。そう言いたくもなるでしょう。しかし、実はこのシモン・ペトロ、イエス様と初対面ではありませんでした。しかも、大きな借りがある。4章を見ると、シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたときに、イエス様に癒してもらったという話が書かれています。なのでシモンとしては無下に断るわけにもいきません。イエス様をお乗せして、舟を少し漕ぎ出すことになりました。

 イエス様は舟に腰を下ろして群衆に教え始められました。シモン・ペトロははからずも一番近いところでイエス様の言葉を聞く機会を得たとも言えます。良く聞こえたことでしょう。同じ舟の中ですから。しかし、耳に届いていても、その言葉を《自分への語りかけ》として聞いているとは限りません。いや、同じ舟の中にいるとむしろそれは難しいことでしょう。イエス様と一緒に群衆に向いているのですから。「うん、うん、いいこと言うなあ」と頷きながら聞いていたかもしれませんが、たとえそうであってもペトロにとってイエス様の言葉はあくまでも「群衆への語りかけ」でしかなかったに違いないのです。

 耳に聞こえていても、それは所詮群衆への語りかけ。そんなことは今日の教会でも起こります。聖書の言葉も聖書の解き明かしも耳には届いている。この会堂にはマイクもスピーカーもありますから確実に耳に届いていることでしょう。しかし、イエス様と同じ舟の中にいて、すべての言葉を他の人に対する語りかけとして聞いているかもしれません。

 しかし、イエス様とペトロとのかかわりは、それで終わらなかったのです。イエス様はさらに《ペトロに》話しかけられました。ある特定の具体的な状況にいるペトロに語りかけられたのです。その特定の状況とは、夜通し苦労して何一つとれなかったという虚しさの極みです。そこにいたペトロにイエス様はこう言われたのです。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。

 もちろん、この言葉がペトロの耳にどう響くかをイエス様が知らなかったはずはありません。イエス様の目は岸にある二そうの舟を見ていました。漁師たちが舟から上がって網を洗っているのを見ていました。一匹の魚をも得ることなく、ただ汚れるだけ汚れた網を洗っている、疲労と落胆に沈んだ漁師たちの顔を、主の目が見過ごしていたとは思えません。主はすべて分かっておられるのです。その上で言われるのです。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。

 群衆への語りかけとして聞いているうちは何の問題もないのです。一般的な「良い教え」として聞いているうちは、喜んで聞いていられるのです。しかし、自分への語りかけとなった時、そこには葛藤が生じ始めます。信じて従うかどうかが問われるからです。

 明らかに、ペトロの内には大きな葛藤が生じたに違いありません。ペトロはこう答えるのです。「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」(5節前半)。その意味するところは明らかです。さらに労苦を重ねることに何の意味があるのか、ということです。そんな苦労をするのはもうイヤだ、ということです。何も期待できないことのために苦労するのはまっぴらごめんです。それが「何もとれませんでした」という言葉に込められたペトロの心です。

 しかし、ペトロの言葉はそれで終わりませんでした。さらに彼は言いました。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5節後半)。5節の前半が彼の心の叫びであるのに対して、後半は彼の意志による決断を示しています。彼は心情に従いはしなかった。ともかく、沖へと漕ぎ出すのです。彼が沖に出たいからではなく、それがイエス様の言葉であるからです。ただそのゆえにその言葉に従ったのです。心の中に抱いていた思いがいかなるものであれ、「お言葉ですから」と言って従うことと、「お言葉ですけれども」と言って従わないことは、決定的に異なるのです。

 ペトロは主の言葉に従い、沖に漕ぎ出しました。その結果、何が起こったでしょうか。福音書の物語は次のように続きます。「そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった」(6‐7節)。

 どんなに心に葛藤があろうが、頭で理解できなかろうが、とにかく主の御言葉に従った時、そこで奇跡が起こりました。そうです。主に従った者だけが体験できることがあるのです。従ってはじめて分かることがあるのです。自分を脇に置いて他人事のように聞いていては絶対に得られないものがある。従ってはじめて受け取ることができるものがあるのです。

人間を捕る漁師にしてあげよう
 しかし、ペトロは主の御言葉に従って、単に多くの魚を得ただけではありませんでした。もしそれだけならば、単純に大漁を喜んだはずでしょう。「イエス様を信じて儲かった」と言って喜んだはずです。しかし、ペトロはそう言わなかったのです。そうではなくて、ペトロは、イエス様の足もとにひれ伏して言ったのです。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と。

 何が起こったのか。――彼は生ける神と出会ったのです。自分がまさに生ける神の前に立っていることを悟ったのです。自分の人生が神の御前にあるということを悟ったのです。それはいわば神の光が差し込んでくるようなものです。それまで薄暗い人生に、神様の光が射し込んでくる。光が射し込んでくると何が見えてくるか。汚れです。家を考えてみればわかりますでしょう。薄暗ければ汚くたって気にならない。しかし、光が入ってきたらほこりや汚れも見えてきます。それと同じです。逆説的ですが、主に従って生きようとするときに、初めて自分がどれほど不信仰であり不従順であるかも見えてくるのです。へりくだって主の言葉に従って生きようとするときに、初めて自分がいかに不遜で傲慢に生きているかも見えてくるのです。「わたしは罪深い者なのです」と言わざるを得ない自分であることが見えてくる。

 しかし、そこでペトロは驚くべき言葉を耳にしたのでした。それは恐らく彼が生涯忘れることのできなかった主の御言葉であろうと思います。主は、ひれ伏したペトロに、「恐れることはない」(10節前半)と言われました。「恐れることはない」。それはキリストを通して語られた神の宣言です。「恐れることはない」という言葉が神の側から語られるとき、人はもはや「主よ、わたしから離れてください」と言う必要がなくなるのです。「恐れることはない」という言葉が与えられるとき、神のリアリティの前に恐れおののかざるを得ない罪人が、再び頭を上げることができるのです。

 いや、ペトロはただ頭を上げることが許されただけではありません。イエス様はさらにペトロに「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節後半)と言われたのです。「人間をとる漁師」とは、正確に言うならば、「人間を生け捕りにする漁師」ということです。捕らえるのは殺すためではありません。真に生かすためです。

 ペトロはやがてその本当の意味を知ることになります。なぜなら、ペトロ自身、主によって生け捕りにされた者だからです。実りのない労苦の虚しさに呻いていた彼の人生に、イエス様が神の言葉を携えて入ってこられた。そして、彼を捕らえて真に生きる者としてくださったのです。さらにそのようなイエス様の働きへと、ペトロは新たに召されたのでした。捕らえられた者が主と共に捕らえる者とされ、生かされた者が主と共に人を生かす者とされたのです。

 やがてペトロは初代教会の中心的な指導者となります。主のために大きな働きをなす人になりました。しかし、彼は決して忘れなかったに違いありません。すべてはあのガリラヤ湖畔にてはじまったことを。「あの時、主はこの《わたし》に語りかけられた。主がこの《わたし》に語りかける言葉を聞いたのだ。そして、心の中で葛藤しながらも、ぶつぶつ言いながらも、ともかくあの方に従ったのだ。まことに不信仰極まりない、不従順極まりない、まことに罪深い不遜な私が、『お言葉ですから』と言って従ったのだ。そして、真実なる主は私を赦し、人間を生け捕る漁師にしてくださった」。そうペトロは証しし続けたに違いありません。だから、聖書にこの物語が残っているのです。

 そして、私たちが、聖書を通して語り掛けられる主の言葉を《わたしへの言葉》として聞き、「お言葉ですから」と言って従うならば、今日お読みしたこの物語は私たちの物語ともなるのです。

(祈り)

2023年1月8日日曜日

「洗礼を受けられたキリスト」

ルカによる福音書 3:15‐22

正しい審きを行われる方は来られる
 「民衆はメシアを待ち望んでいた」と書かれていました。「メシア」とはもともと「油注がれた者」という意味です。その昔、王様が任職される時には、油が注がれたものでした。ですから「油注がれた者」と言えば第一には「王」です。人々が救い主として待ち望んでいたのはかつてのダビデのような力ある王でした。そして、正しい審きを行ってくれる王でした。

 力ある王を待ち望んでいたのは、彼らがこの世の支配に対して無力だったからです。ユダヤ人からすれば異教徒であるローマの皇帝に支配されていたからです。それゆえに、メシアがローマ皇帝の支配を打ち破り、彼らを異教徒の支配から解放してくれるのを待ち望んでいたのです。メシアがダビデの王座を回復し、イスラエルの王国を再建してくれるのを待ち望んでいたのです。

 また、彼らが正しい審きを行ってくれる王を待ち望んでいたのは、現実に行われている裁きが正しくなかったからです。正義が実現していなかったからです。神の律法に反することがまかり通っていたからです。不義なる力によって彼らは抑圧され、苦しめられていたからです。だから、メシアが現れて正しい審きを行い、正義を回復してくださることを待ち望んでいたのです。

 そのような民衆は、荒れ野に現れて説教していた洗礼者ヨハネについて、「もしかしたら彼がメシアではないか」と思っていました。なぜなら、ヨハネは正しいことを語っていたからです。神の裁きについて力強く語っていたからです。

 ヨハネの言葉には確かに力がありました。その言葉を聞いた時に、ローマの兵士たちでさえ「このわたしたちはどうすればよいのですか」(14節)と尋ねたほどでした。ですから、このヨハネが正義を語るだけでなく、正義を実現してくれるメシアであると民衆が考えたのは当然の成り行きでした。

 しかし、ヨハネは民衆の期待を真っ向から否定してこう言ったのです。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(16節)。要するに、私はメシアではない、ということです。もっと優れた方が来られる。「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と。

 それは何を意味するのでしょう。「聖霊」という言葉は「聖なる風」という意味にもなります。「聖なる風と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。恐らくヨハネがもともと言いたかったのは、「その方は、正しい裁きを行ってくださる」ということです。だからその後に脱穀場の話が出てくるのです。

 農夫は風が吹いているところで箕の中にある麦を放り上げます。すると殻とか藁屑は風に吹かれて飛ばされるので、麦粒が箕の中に残るのです。そのようにメシアは正しい審きを行って、正しい者と正しくない者とを振り分けられる。聖なる風が吹いて麦と殻とを分けるのだ。そして、麦は倉に入れられる。すなわち救いに入れられる。殻は消えることのない火で焼き払われる、すなわち永遠の刑罰を受けることになる。そのようなメシアが来られるとヨハネは語ったのです。

悔い改めなさい
 しかし、ここで大事なポイントは、メシアがローマ人という麦だけを脱穀するのではない、ということです。異教徒麦だけを脱穀するのではないのです。「脱穀場を隅々まできれいにし」というのですから、全部脱穀するのです。異邦人だろうがユダヤ人だろうが、信仰者だろうが不信心な者だろうが、全部脱穀するのです。言い換えるならば、神の前ではすべての人間が平等に問われるということです。だからヨハネは救いを待ち望んでいたユダヤ人たちに対しても、「悔い改めよ」と言ったのです。「我々の父はアブラハムだ」などという考えを起こすな、と。

 「悔い改め」とは、方向転換をすることです。それまでの生き方を方向転換して、神に立ち帰ることです。当たり前の話ですが、方向転換は方向が間違っていることを認めない限りできません。苦しみを負った民衆が、ただ現実を嘆き、誰かを呪っているだけならば、人生の方向を変えようとはしないでしょう。誰かが悪いためにこのような苦しみを負っているのだ、と考える人は、方向転換をしようとはしないのです。

 そうです、当時の人々に限りません。いつの時代であっても、今日でも、悪を自分の外にしか見ていない人は、方向転換することもありません。世の中が悪い、社会が悪い、時代が悪い、環境が悪い、親が悪い、夫が悪い、妻が悪いなどと言っている限り、生きる方向はいつまで経っても変わらないのです。

 しかし、そうではない人々がいたのです。他のところに悪を見ていた人が、ヨハネの言葉を聞いて、自分の内にある悪に気付いたのです。他の誰かではなく、そもそも自分の生き方そのものが問題なのではないか、そもそも神との関係が正しくないのではないか、ということに気付いた人々がいたのです。自分こそ赦しを必要としている罪人ではないか、と気付いた人々がいたのです。

 そして、そのような人たちは、プライドもしがらみもかなぐり捨てて、ヨハネのもとに来て洗礼を受け、水の中に沈んだのです。私を赦してください。これまでの私を葬ってください。新しく生きたいのです。そのような切なる願いをもって水に沈んだのです。それがヨハネの宣べ伝えていた「悔い改めのバプテスマ」(3:3)でありました。

洗礼を受けられたキリスト
 さて、そのような「悔い改めのバプテスマ」をキリストもまた受けられたのだ、と今日の福音書朗読は伝えているのです。しかも当たり前のように、民衆がバプテスマを受けたこととキリストがバプテスマを受けたことを並べているのです。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」(21節)と書かれていましたでしょう。

 これは不思議なことです。キリストはなぜ洗礼を受けたのでしょうか。あのイエスというお方もまた、他の民衆と同様に、自分の内に罪を自覚していたのだ、ということでしょうか。

 いいえ、そうではありません。イエスが洗礼を受けた後、話は次のように続くのです。「天が開け、 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(21-22節)。

 聖霊は審きの風としてではなく、神の言葉をともなって静かに鳩のようにイエス様の上に降ったのです。そして、その言葉はこう語っていた。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。これに似た言葉は詩編2編に出て来ます。つまりこれは神の任職による王の即位を意味する言葉なのです。確かにこの御方は来るべき王でありメシアなのだと語られているのです。すなわち、この御方こそ神の心に適う正しい方、この方こそ、正しい審きを行う権威ある方ということです。

 洗礼者ヨハネのメッセージによれば、メシアは「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」、そういう存在のはずでした。神の審判を具現するメシアであるはずでした。そうです。そのメシアは確かに来られたのです。しかし、その御方は箕を持ってはいませんでした。実際には脱穀を開始されませんでした。そうではなくて、罪を裁く権威を持った正しいお方が、なんと!悔い改めて神の赦しを求める罪人と同じ列に並ばれ、同じ水の中に沈まれたというのです。

 それはまさに始まりでした。この福音書を読み進みますときに、やがて私たちはその御方を罪人たちのテーブルに見ることになります。正しい人たちはその様子を見てつぶやきます。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一所にしている」(15:2)と。さらに私たちはイエス様が人々からこうささやかれるのを耳にします。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」(19:7)と。

 話はそれで終わりません。最終的に、私たちはどこでキリストを目にするのでしょうか。その方は二人の犯罪人と一緒にゴルゴタの丘に引かれて行きます。「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた」(23:32‐33)。

 あの日、罪人と一緒に並ばれ、罪人と同じ水の中に立たれた主は、罪人と同じところにい続けてくださいました。罪を裁く権威をお持ちのお方が、罪の赦しを携えて、共にい続けてくだささいました。いや、それは単に2000年前の過去の話ではありません。主は今もなおそのようなキリストとして共にいてくださっているのです。キリストの体なる教会がこの世に存在し、福音が宣べ伝えられ、今もなおバプテスマが行われ、今もなおキリストの食卓の周りに集められて聖餐が行われているとはそういうことなのです。

 ならば悔い改める罪人は救われます。必ず救われます。そのようなキリストが共にいてくださるならば、必ず救われるのです。その真理を今も指し示しているのが、今日お読みした物語、キリストがバプテスマを受けたというこの物語なのです。

 ヨハネは言いました。「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。しかし、罪人と同じ水に沈んでくださったお方が、「聖霊と火で洗礼をお授けになる」と言われるならば、それはもはや、ヨハネが考えていたように、殻を吹き飛ばし焼き払われるという意味ではありません。そうではなくて、キリストは罪を赦されて新しく生き始めた人々を聖なる霊の力に満たしてこの世界に送り出されるのです(使徒1:8)。罪人を救うキリストの体として、キリストの福音を携える者として。

(祈り)

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