2017年7月30日日曜日

「神は聞いていてくださる」

2017年7月30
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記 21章9節~21節

イシュマエルの誕生
 「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」(9‐10節)。

 ここにはアブラハムの二人の息子が出て来ます。一人はアブラハムの妻サラが産んだ子、イサクです。もう一人は「エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子」です。その子の名前はイシュマエルと言います。

 イシュマエルはアブラハムが86歳の時の子供です(16:16)。イサクはアブラハムが100歳の時の子供です(21:5)。そうしますと、単純に考えてこの二人の年の差は14歳になります。今日の箇所においては、既にイシュマエルは16歳から17歳ほどになっているはずです。しかし、アブラハムが子供を産んだ年を見てお分かりのように、創世記における年齢は私たちの抱くイメージとはかなり違います。今日お読みした物語においては、まだ二人とも幼子であるものとして読んだ方が理解しやすいでしょう。

 ここにはそのような二人の息子が出て来ます。妻サラの産んだ子だけではありません。エジプト人の女奴隷が産んだ子が出て来るのです。そこには当然、理由があります。イシュマエルが誕生する次第は創世記16章に記されています。次のような話です。

 アブラハムの妻サラには子供がいませんでした。16章ではまだ名前がアブラムとサライとして出てきますが、子供のいないサライがアブラムに一つの提案をしました。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」(16:2)。今日の私たちの常識からすれば驚くべき提案ですが、当時の社会においては大して珍しいことではなかったようです。他の場面でも似たような提案が当然のことのように出てきますから(創世記30章)。

 しかし、重要なのはサライがこう提案した理由です。サライは子供がいなくて寂しいからこのような提案をしたのではないのです。跡継ぎがいないと困るから、このような提案をしたわけでもないのです。これは神の約束に関わっていることだったのです。

 そもそもの出発点は、神がアブラムにこう言われたことでした。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」(12:1‐2)。「あなたを大いなる国民にする」とは、要するに子孫を増やすということです。アブラムもサライもこの主の言葉を信じて、旅に出たのです。これがそもそもの発端でした。

 さらには創世記15章においても、主はアブラムを外に連れ出してこう言っておられます。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして、言われたのです。「あなたの子孫はこのようになる。」

 しかし、実際には子供は生まれませんでした。先ほど引用した16章はこのような言葉で始まります。「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった」(16:1)。神様の約束が実現に向かって進んでいるとは思えませんでした。昨日も今日も何も変わらないのです。何も変わらない日々は永遠に続くように思えました。そこで出てきたのが先ほどの提案だったのです。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」(2節)。

 「主はわたしに子供を授けてくださいません」――要するに、「神がしてくださらないならば、私たちの手で実現しましょう」ということです。「もう神に期待することはやめにして、私たちのできる仕方で実現しましょう」ということです。そして、実現したのです。アブラハムは子孫を得ることとなりました。それがイシュマエルでした。しかし、それは「神の約束の成就」ではありませんでした。

 当然のことながら、アブラハムがイシュマエルを見る時に、「神様、あなたは真実な御方です」と感謝の祈りを捧げることはできなかったはずです。事実は逆だったからです。過去のある時点において、アブラハムもサラも、神が真実な方であることを信じることをやめた時があった。イシュマエルはまさにその事実を指し示す存在だったからです。

もう苦しまなくてよい
 やがて時満ちて、サラにも子供が生まれました。それは神の約束の成就でした。その誕生の次第は今日お読みしました箇所の直前に記されています。アブラハムはその子をイサクと名付けました。「笑い」という意味です。サラは言いました。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」(6節)。その場はまさに喜びと「笑い」に満ちていたことでしょう。真実なる神が与えてくださる喜びです。神の真実なることを知る喜びです。信仰のもたらす喜びがそこにあります。それは確かに信仰生活の一つの姿ではあります。

 しかし、そのすぐ後に今日読まれた聖書の言葉があるのです。「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」(9‐10節)。

 「イサクをからかっているのを見て」。自分の子供がからかわれていたら、サラが腹を立てるのも無理はないでしょう。――しかし、これは一つの意訳です。もとの言葉は「笑っている」という言葉です。必ずしも嘲って笑っているとは限りません。

 そうです。イシュマエルは笑っていたのです。その「笑う」という言葉によってイサク誕生の場面とつながります。神が与えてくださった喜びと笑いに満ちたイサクの誕生。その笑いに満ちているはずの生活の中に、こうして敵意と争い、それゆえの苦しみが入り込んでいるのです。「あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません」。そのように相続問題という形で入り込んできているのです。

 どうしてそのような問題が入り込んできたのか。イシュマエルという存在がはっきりと指し示しています。それは不信仰によってだ、と。過去のある時点において、アブラハムもサラも、神が真実な方であることを信じることをやめた時があった。確かにあった。その事実が、今、形を取って現れてきているのだ、と。

 「このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。」そう書かれています。神の約束においては、もともと相続問題に由来するこの苦しみはなかったことは分かっています。これは過去のある時点において、神が真実な方であることを信じることをやめた結果であることも分かっているのです。

 その結果、自分が苦しむだけではない、サラはサラとして苦しみ、ハガルとイシュマエルも苦しむことになってしまった。アブラハムは、あの時のことを悔やんだかもしれません。なぜ待てなかったのだろう。なぜ神に期待することをやめてしまったのだろう。なぜ神に信頼し続けなかったのだろう。しかし、悔やんでも過去が変わるわけではありません。

 しかし、神はそんなアブラハムに現れてこう言われたのです。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」(13節)。

 神はこのような事態をもたらしたアブラハムの過去を責めませんでした。そうではなく、「苦しまなくていい。心配しなくていい」と言ってくださったのです。ここに語られていることは何ですか。つまりは不信仰の結果について、神がすべて面倒を見るから、ということでしょう。「あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」。そう神は言ってくださったのです。

 そのように、たとえそれが人間の不信仰の結果であれ、罪の結果であれ、愚かさの結果であれ、人間がどうすることもできない事態に、神は慈しみ深く関わってくださるのです。そのような御方が言われるのです。だからもう苦しまなくていい。心配しなくていい、と。

神は聞いていてくださる
 そして、神はそのような神であることを、ハガルとその子に対して現されたのでした。それが14節以下に書かれていることです。

 「アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた」(14節)。こうしてハガルはアブラハムの家を立ち去ることとなりました。彼女と子供はベエル・シェバの荒れ野をさまよいます。やがてハガルの革袋の水が尽きました。もはやどうすることもできません。子供は次第に弱っていきます。自分は子供を助けることができない。目の前で子供が死んでいくのを見るのは耐えられませんでした。ハガルは灌木の日陰に子供を置いて、遠く離れていきました。子供が泣き出します。母親も遠くで泣いている子供を見て、声を上げて泣きました。

 しかし、もはや泣くことしかできないハガルに、神は御使いを遣わしてこう語られたのです。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」(17‐18節)。

 泣く声を主は聞いておられました。泣く声は神への祈りとして聞かれていたのです。泣く声の中の言葉にならない祈りを主は聞いておられた。その悲しみも、苦しみもすべて神は聞いていてくださった。その上でまず一番必要なものを与えてくださったのです。それは水ではありませんでした。泣いている子供にとっては、母親に抱き締めてもらうこと。ハガルにとっては、その子をしっかりと抱き締めてあげることでした。

 すると彼女の目が開かれたのです。「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた」(19節)。当然のことながら井戸は前からそこにあったのでしょう。彼女が絶望して大声で泣いていたその時に、既にその側には神の備えがあったのです。神は目を開いて、その事実を見せてくださったのでした。

 もちろん、それでハガルが過去に帰れるわけではありません。彼女は今置かれている現実を受け入れなくてはなりません。しかし、彼女もまたアブラハムと同じように、彼女が知った神の慈しみの中を生きていくのです。泣く声さえも祈りとして聞いていてくださる神。そして、その嘆きの中に既に備えを置いてくださっている神。そのような神を知った人としてハガルは生きていくのです。イシュマエルと共に。イシュマエルという名前には意味があります。「神は聞いていてくださる」という意味です。

2017年7月23日日曜日

「賢い人と愚かな人」

2017年7月23
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 7章24節~29節

この御方はだれですか
 今日は「山上の説教」の最後の部分をお読みしました。次のように締めくくられていました。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(28‐29節)。

 イエス様の語り方は、ユダヤ人の律法学者たちとは明らかに異なっていました。それは「山上の説教」だけを読んでもわかります。律法学者なら、あくまでも「律法」を権威あるものとして語ります。律法学者はどんなに高名なラビであっても権威ある律法を解釈する者に過ぎません。そのような者として語ります。しかし、イエス様の語り方はそうではありませんでした。律法が命じていることを引き合いに出した上で、「しかし、わたしは言っておく」と続けるのです。

 イエス様は律法のもとに自らを置いて語るのではなく、律法を与えた神の位置に身を置いて語るのです。神の権威をもって神の言葉を語るのです。「彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」とはそういうことです。だから群衆は驚いたのです。

 もちろんそれは群衆の驚きだけでは済みません。そんなことをしていれば、やがては律法を重んじる人々の怒りを引き起こすことにもなるのでしょう。律法学者から神を冒涜する者と見なされることにもなるのでしょう。

 しかし、そのようなことは百も承知の上で、イエス様は大胆にもこのように語られるのです。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」(24節)と。

 「わたしのこれらの言葉」とは、神の位置に身を置いて語ってきた言葉です。ならばそれを「聞いて行う者」というのは、ただ「教えを実践する者」という意味ではありません。そうです。ここには「聞いて行う者」と「聞くだけで行わない者」が出て来るのですが、ここで問題になっているのは単に「教えを聞いて実践するか否か」ということではないのです。聞くだけで実践しなかったら意味がありませんよ、といった表面的なことではないのです。

 ここで問題とされているのは、そもそも主の御言葉をどのように受け止めているか、ということなのです。イエス様の語られる言葉を「神の言葉」として受け取っているか、そうでないのか。「しかし、わたしは言っておく」と語られるその言葉に神の権威を認めて、その権威に服して生きようとしているのか、そうでないのか、ということなのです。

 それは直接その場でイエス様の言葉を聞いた人に対してだけでなく、この福音書を通してイエス様の言葉を聞いている私たちにも問われていることでもあります。そのつもりでマタイは書いているのです。私たちは本当にその御方に神の権威を認め、その言葉を神の言葉として受け取っているのでしょうか。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と言われるその御方は、わたしにとって、あなたにとって、いったいどのような御方なのでしょうか。

権威ある者として
 「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。そのようにイエス様は「権威ある者」として語られました。それが「神の権威」であるならば、それは第一に人間に命じることのできる権威を意味するのでしょう。

 神は創造者です。人間は造られた者です。神がそのような神ならば、神は本質的に人間に対して「命じる権威」を持っています。神の律法を与える権威を持っているのです。従順を求める権威を持っているのです。ですから、その権威をもって語られるイエス様も命じるのです。「しかし、わたしは言っておく」と語り、「聞いて行うこと」を求めるのです。従順を求められるのです。

 それゆえに、イエス様の語られる言葉を神の言葉として聞くということは、イエス様が命じる権威を持っていることを認めることでもあります。私たちに対するそのような絶対的な権威を認めるということです。私たちに従順を求めることのできる絶対的な権威を認めて、その権威に服するということです。

 そして、当然のことながら、命ずることができるということは、裁くこともできるといことでもあります。命ずることのできる権威は、命じたことに従わない者を罪に定めることのできる権威でもあるからです。

 神はすべての人間に命じる権威を持っています。神は律法を与える権威を持っています。それゆえに、律法違反を裁く権威を持っています。イエス様に神の権威を認め、イエス様の語られる言葉を神の言葉として聞くということは、イエス様に絶対的な裁きの権威を認めるということでもあります。人間を裁いて罪に定める権威を認めるということです。私たちに対する最後の言葉を持っている御方として、イエス様を見るということです。

 それは恐ろしいことでしょうか。いいえ、そうではありません。罪に定める権威を持っているということは、罪を赦す権威を持っているということでもあるからです。最終的に人間を罪に定めることができるのは神です。それゆえに、最終的に人間の罪を赦すことができるのも神なのです。イエス様の語られる言葉を神の言葉として聞くといことは、この御方に罪を赦す絶対的な権威を認めるということでもあるのです。

 実際、そのことが問われる場面が後の9章に出て来ます。イエス様のもとに連れて来られた中風の人を主が癒された場面です。イエス様はその人を癒される前に、中風の人にこう言われたのです。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(9:2)。山上の説教において、権威ある者として教えられたイエス様は、同じ権威をもって、神の権威をもって罪の赦しを宣言されるのです。

 しかし、それを見ていた律法学者が心の中でつぶやくのです。「この男は神を冒涜している」と。イエス様に神の権威を認めなければ、当然そうなるのです。ですから、山上の説教におけるのと同じ事がそこで問われているのです。その御方に神の権威を認め、その言葉を神の言葉として受け取るのかどうかということです。

 イエス様は律法学者たちの心を見抜いてこう言われました。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」(9:6)。そして、中風の人にこう命じたのです。「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」。そのように、命じる権威と罪に定める権威、罪を赦す権威は一つなのです。

 そのような権威をもって語られているからこそ、山上の説教において繰り返し語られる「あなたがたの天の父は」という言葉もまた意味を持つのです。先週読まれました「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」という言葉も意味を持つのです。このような言葉は神の権威を持たない者が語ったとしても、意味がないからです。それは辛い時の気休め程度にはなるかもしれませんが、本質的には無意味でしょう。

 しかし、その御方は権威ある者として語っておられるのです。神の権威をもって語っておられるのです。最終的に罪に定めることのできる権威をもって、それゆえに罪を赦すことのできる絶対的な権威をもって語っておられるのです。「あなたがたの天の父は」と。そのように、私たちを神の子どもたちとして語るのです。そして、今この世にいる時から、神の子どもたちとして生き始めるようにと命じられるのです。神の絶対的な権威をもって「わたしは言っておく」と語られるのです。

嵐が来ても倒れないように
 さて、今日の聖書箇所は岩の上に家を建てた賢い人、砂の上に家を建てた愚かな人について語ります。そこで問題となっているのは土台です。そして、このように語られる神の権威、キリストにおいて現されたこの神の権威こそが、人生を支える揺るぎない土台となるのだということです。それゆえに、イエス様の語られる言葉を「神の言葉」として受け取るか否か、語られるその御方に神の権威を認めて、その権威に服するか否かということが決定的に重要な意味を持つのです。

 もう一度お読みします。イエス様は言われました。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(24‐27節)。

 「雨が降り、川があふれ、風が吹いて」という言葉は様々な意味に取ることができます。それはこの世における様々な試練を意味するとも言えます。最終的に誰もが直面しなくてはならない自分自身の「死」の問題であるとも言えます。あるいは、終わりの日の裁きを意味するとも言えるでしょう。いずれにせよ、洪水や風に象徴されるのは、人間の力が及ばない現実です。人間の力が及ばない現実は襲って来る。そして私たちの存在が根底から揺さぶられるようなその時は来るのです。その時に私たちは岩の上に立っているのでしょうか。それとも砂の上に立っているのでしょうか。

 もちろん、キリスト教との関わり方は幾通りもあるのでしょう。教養としてのキリスト教、生活指針としてのキリスト教、文化としてのキリスト教・・・そのような関わり方もあろうかと思います。「イエス様の言葉は知っています。毎週聞いています」という程度の関わり方もあろうかと思います。

 しかし、どこに家を建ててきたかが問われる時は来るのです。岩の上にあるのか砂の上にあるのかが問われるのです。嵐の中で問われるのです。神の権威をもって語られる御方とどう関わってきたか。神の権威によって裁かれ、神の権威によって罪を赦された者として、神の権威をもって語られた神の言葉をどう受け止めてきたか。どのように従ってきたか。砂の上に建ててきたのか。岩の上に建ててきたのか。それが問われるのです。

 それゆえにこのたとえ話は私たちに対する招きの言葉でもあります。この御方は神の言葉を語られます。神の言葉に聞き従いなさい。あなたの人生という家を、神の権威という揺るぎない岩の上に建てなさい。嵐が来ても倒れないように、と。

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