2025年10月8日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 19:1~24

サムエル記上 19:1~24

  サウルはミカルを与えるとの約束をもってダビデに無理な戦いを強い、自分で手を下すことなくペリシテ人の手によってダビデを殺害しようと試みました。しかし、その試みは失敗に終わったのみならず、ミカルを与えざるを得なくなったことで、かえってダビデを王位継承権を持つ一人にしてしまうという皮肉な結末となったのです。しかもその戦いによってダビデの名声はいよいよ高められることとなりました。

 追い詰められたサウルはついに直接息子のヨナタンと家臣とにダビデ殺害を指示するに至ります。もちろんイスラエルの人々はダビデを慕っているわけですから、公に殺害するわけにはいきません。あくまでも内部の人間だけに出された極秘の命令ということだったのでしょう。もはやダビデの命は風前の灯でした。

 しかし、命を狙われたダビデは、まさにその内部の人間によって、すなわちヨナタンによって、また妻のミカルによって助け出されることになるのです。そして、さらには不思議なことに、もはや政治的・軍事的な力は何も持たなくなっていた、あのかつての士師サムエルによって、ダビデの命は守られるのです。それがこの章に記されている出来事です。

 サウルが息子のヨナタンにもダビデを殺すよう命じたところをみると、この時点において、サウルはまさかヨナタンがダビデの側につくことを予想してはいなかったものと思われます。どんなにヨナタンがダビデと親しかったとしても、ヨナタンはあくまで王位継承第一位にある王子だったからです。サウルは、もちろん自分の王位が脅かされることについて恐れてはいたに違いありませんが、それにもまして、ダビデの殺害は息子のためであるという思いが強かったことでしょう。ダビデが勢力を持てば、ヨナタンの王位継承が脅かされることになるからです。それは後に20:21でサウルが語っているとおりです。

 しかし、ヨナタンはダビデの側につきました。彼はダビデの命が狙われていることを本人に知らせます。「わたしの父サウルはあなたを殺そうとねらっている。朝になったら注意して隠れ場にとどまり、見つからないようにしていなさい。あなたのいる野原にわたしは出て行って父の傍らに立ち、あなたについて父に話してみる。様子を見て、あなたに知らせよう」(2‐3節)。

 そして、さらに自らはサウルの説得にまわります。ダビデは何ら死に値する罪を犯してはいないこと、むしろサウルにとって大変役に立っていること、などの理由を挙げて、そのダビデを殺害することは罪を犯すことになると、ヨナタンは父サウルに忠言したのです。

 驚いたことに、サウルは素直にヨナタンの言葉を聞き入れます。ヨナタンがダビデをかばう場面は20章にも出てきますが、19章と20章では、その反応が著しく異なります。この時点では、ヨナタンがダビデをかばって語ることは、サウルにとってはまったく想定外の意表を突く出来事だったからかもしれません。また、ここはヨナタンの手前、一度命令を引っ込めておいた方が有利であると考えたのかもしれません。後でヨナタンに知られないような形でダビデを確実に亡き者にしようとしたのでしょう。

 しかし、そこにいかなる思惑があったにせよ、ここでサウルがヨナタンの言葉を聞き入れて、とにかくも「主は生きておられる。彼を殺しはしない」と誓ったことは極めて大きな意味を持っています。「主は生きておられる」というのは、誓約する時に用いる定型的な決まり文句です。その意味するところは、誓いをもし破ったら、生きておられる主が幾重にも罰してくださってよいという意味です。すなわち、主によって呪われてもかまわないという意味です。

 ここで確かにサウルはそのように語っているのです。しかし、そのような伝統的な言葉は、彼にとってあくまでも形式でしかありません。本当の問題は、サウルにとって、主は「生きておられる主」ではないところにあるのです。その問題性は、既に前の章でサウルがダビデに「主の戦いをたたかってくれ」(18:17)と言っているところにも現れております。サウルはそれが「主の戦い」であるとは思っていないのです。いや、思いたくないのです。むしろ「主の戦い」であることを否定するためにそう言ったのです。「主の戦い」に出て行ったダビデが戦死すれば、主が介入される「主の戦い」であることを否定できるからです。

 そのようなサウルの誓いの言葉ですから、いとも簡単に破られてしまいます。サウルに悪霊が降った時、サウルは自らの手でダビデを殺そうとしました。そして、誓いを破ったから主から罰せられるとは思っていないのです。あるいはまだ殺してはいないから、厳密には破ってはいないという言い訳もあったかもしれません。いずれにせよ、誓ったことを反故にしたことについては、全く意識にも上らないのです。

 一方、ダビデの方はと言えば、驚いたことに、サウルの誓いをそのまま信じて職務に戻るのです。ダビデは、かつて自分が殺されそうになったサウルの館で、再び彼の傍らにおいて竪琴を奏でます。単なる形式に過ぎない「主は生きておられる」という言葉は、ダビデにとっては、いわば命のかかった言葉でありました。彼は、「主は生きておられる」という言葉に命がけの信頼を置いて職務に戻ったと言えるでしょう。結果的には再び槍で突き刺されそうになります。しかし、生ける主はダビデを守り通されるのです。

 重要なことは、誓ったサウルが本当に「主は生きておられる」と考えていたかどうかではありません。事実として、主が生きておられるのか否かが重要なのです。そして、生きておられる主は、確かにサウルの言葉を聞いておられたのです。また、ダビデがサウルの誓いの言葉を、まさに誓いの言葉として受け取って、主に信頼して職務に戻ったことを見ておられたのです。そうです、人間が認めようが認めまいが、主は生きておられるのです。人はその事実をこそ恐れるべきなのです。

 結果的にはダビデは再びサウルの槍を逃れることとなり、即座に自分の家に戻ります。サウルはダビデの家に使者を遣わして彼を見張らせました。朝になったら捕らえて殺すためでした。民衆に知れないように、秘密裡に殺害しようと企んだのです。しかし、ミカルは家を見張るサウルの使者に気付いたのでしょう。ダビデを夜のうちに逃がします。

 ちなみに、詩編59編には「サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき」という表題が付いています。この詩編は夜逃げをしたあのダビデの中に神への揺るぎない信頼を見て、その信仰を歌い上げているものです。一方では主に信頼して多くのペリシテ人に立ち向かう戦う人ダビデがいます。一方では、ただ逃げるしかない逃亡者ダビデがいます。しかし、聖書はそこに同じ信仰を見ているのです。

 ダビデはどこに向かったのでしょうか。ラマのサムエルのもとに行きました。彼は預言者の間においては指導的な立場にいたようですが、先にも申しましたように、政治的な力はとうに失っておりました。そこにダビデを守ることのできる武装集団がいたわけでもありません。彼がサムエルのもとに赴いたということは、かつて自分に油を注いでくださった主をただひたすら純粋に慕い求めたということでしょう。それ以外にサムエルのもとに赴く理由はありませんから。

 そしてダビデの信仰に主は応えてくださいます。主ご自身が直接的にダビデを守られた次第がここには大変ユーモラスに描かれています。サウルはラマのナヨトに使者を遣わします。すると、神の霊がサウルの使者の上に降って預言する状態、すなわちいわば恍惚状態になったのです。ダビデを殺害するために来たものがむしろ神に捕らえられてしまったということでしょう。そのようなことが三度続きまして、ついにサウル自身がラマに向かいます。

 そこでサウル自身にも神の霊が降り、預言する状態になったまま、ラマのナヨトまで歩き続けます。彼は、一昼夜、サムエルの前に裸のままで倒れておりました。そのゆえに「サウルもまた預言者の仲間か」ということわざができました。

 このことわざには見覚えがありますでしょう。10章12節です。それはサウルに初めて神の霊が降ったときのことでした。神の霊が降り、王として備えられつつあった、祝福に満ちた時が、かつてこの人にもあったのです。しかし、今や、その預言する状態にある姿は同じでありましても、そこにいるのは必死で自分の王位にしがみつき、王位を脅かすものをなんとか抹殺しようとしているサウルでしかないのです。主の祝福の中に留まり得なかった者の悲哀に満ちた姿がそこにあります。


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