2022年4月27日水曜日

祈祷会用:ヤコブの手紙 1:9~18

 ヤコブの手紙 1:9‐18

 先週は、試練について語られている御言葉を聴きました。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」具体的に最も身近な試練は迫害であったわけですが、「いろいろな試練」と書かれているところには、もっと広い意味での様々な苦難が含まれているものと思われます。そのような試練を喜ぶとするならば、そして忍耐強く信仰に留まるとするならば、そこに神の御心を見ることのできる神からの知恵が必要なのでしょう。ですから、「あなたがたの中で知恵に欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい」と勧められているのです。そして、この内容は12節へと続きます。

 その間に挟まっている9節以下の部分は、貧しい兄弟と富んでいる者について語られています。一見、前後との脈絡がないように思えます。実際、この部分がなくても話は通じます。なぜ突然、貧富の話が出てくるのでしょう。

 その一つの理由として考えられることは、現実にこれを読んでいる教会の中に貧富の問題があったということです。初期の教会を構成していたメンバーの多くは貧しい人々でした。奴隷の身分であった人も少なくありませんでした。しかし、貧しい人たちだけがいたのかと言えば、決してそうではありません。富んでいる人々もいたのです。奴隷と主人が兄弟として一緒の食卓を囲んでいたのです。経済的格差による身分の違いが厳然としていた当時の社会において、それは絶対にあり得ないことだったのです。そのあり得ないことが起こっていること自体が、また救いの証しでもあったのです。

 しかし、地上にある教会は完全ではありませんから、そこにまた貧富の問題、差別の問題も生じることはあったのです。そのような事情はパウロの手紙にも見られますし、このヤコブの手紙においても大きな部分を裂いてその問題が扱われています。ここで貧富の話が出てくるのは、後に扱われる問題に、前もって触れておくという意味もあったのでしょう。

 しかし、理由はそれだけではありません。あえて「試練」の話の中に置かれているのは、ここに書かれていることが「試練」に関係しているからです。実際、「試練」というテーマは、貧しい者にも富める者にも関係しているのです。

 貧しい者の苦しみの多くは欠乏から来ます。あるいは「貧しい者」というこの言葉は直訳すると「身分が低い者」となりますから、他者から見下されたり、卑しめられたりすることも含まれているのでしょう。しかし、そのような貧しい者に対して、「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい」と言われているのです。ここで「高められること」と訳されていますが、これは必ずしも未来のことを意味する表現ではありません。口語訳ではむしろ「自分が高くされたこと」と訳されています。もっと直訳に近いのは、「自分の高い身分」としている新改訳聖書です。

 ここであえて「貧しい《兄弟》は」と言われているのは、どんなに貧しくても、あくまでも「兄弟」であることが強調されているということです。つまり神の家族に属しているのです。互いに兄弟であると同時にキリストの兄弟でもあるのです。神の子とされているのです。王の王、主の主である方の家族とされているのです。既に、この上なく高貴な者とされているのです。この世における貧しさや身分の低さではなく、神によって与えられているその驚くべき事実に目を向けなくてはならない。そのことを喜び、そのことを誇れ、とヤコブは言っているのです。

 また富んでいる者の苦しみは、失うことへの恐れから、あるいは実際に失うことから来るものです。事実、当時のキリスト者は、財産を没収されることも少なくなかったのです。キリスト者となったために全財産を失い、名誉も失い、人々から卑しめられるようになることもあったのでしょう。そのようなことは、それまで人々からの誉れを受けてきた人にとっては実に辛いことであったに違いありません。しかし、「富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい」とヤコブは言うのです。なぜか。「富んでいる者は草花のように滅び去るからです」(10節)。

 これは必ずしも富んでいるから裁きを受けるという話ではありません。富は永遠ではなく、永遠に富んでいる者であり続けることはできない、という至極当たり前のことを言っているのです。いわば草花のようなものだと言われれば、それはそうでしょう。草は枯れ、花は散るときが来るのです。そして、富める者も必ず死を迎えます。富は死を免れさせはしません。続くと思っている人生は途中で絶たれるのです。そして当然のことながら、富をその向こうまで持って行くことはできません。全部手放すことになります。

 富んでいる者が低くされることを「誇る」とするならば、富が永遠ではなく草花のようなものだということを、身をもって知ることになるからでしょう。そして、もっと大きな価値、天の富に目を向ける者となれるからなのです。

 さて、12節において再び「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」という話に戻ります。その理由として、4節では、「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」と語られていました。ここでは同じことが次のように表現されています。「その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」と。

 先週申し上げたように、救いを完成し、私たちを完全に、大人にしてくださるのは神様です。ここに書かれていることは、人間の努力目標ではありません。私たちは、ただ忍耐をもって信仰に留まるだけです。神が精錬してくださるのです。しかし、その結果について、なんと神様はあたかも私たちが勝ち取ったかのように、栄冠をくださるというのです。神様がしてくださったにもかかわらず、私たちを誉めてくださる。もちろん忍耐することは大変なことです。でも、神様はそのことをも分かっていてくださる。認めてくださるのです。

 だから私たちは信仰に留まるのです。「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはならない」(13節)とヤコブが言うのはそのためです。簡単に言えば、「神様が悪い」と言ってはいけない、ということです。苦しい時、辛い時、どうしても言いたくなるかもしれません。「私が神様を離れて罪を犯したとしても、それは神様が悪いんだからね」、と。苦しみが誘惑として働くとき、そう言って自分が罪を犯すことを正当化したくなる。それは「神が罪へと誘惑したんだ」と言っているのと同じです。

 しかし、ヤコブはそうではないと言うのです。そこで罪へと引っ張って行くのは、神ではなく自分の欲望だと。それはそうなのです。同じ苦しみが誘惑にもなるし、忍耐から練達を生じる試練ともなる。神の意図は私たちを滅ぼすことではありません。私たちは忍耐強く信仰に留まることが求められているのです。

 そこで大切なことは、神の善意を信じることです。御父は、良い贈り物をくださる御方です。良いだけでなく、「完全な賜物」と書かれています。御父がくださる賜物は完全です。神様は不完全なものを私たちにくださるのではありません。この地上の父親は子どもに与えるものについて失敗することはありますが、天の御父が私たちにくださるものに、失敗はありません。

 そして、その御父は決して変わることはありません。イエス様を通して示された神の愛は、今日においても決して変わらないのです。天体には移り変わりがあります。変化があります。影があれば光が当たる部分もあり、それは刻一刻と変わります。しかし、御父は違います。神の善意は変わりません。その善意に満ちた御心によって、御父は真理の言葉を私たちに与え、新しく生まれさせてくださいました。私たちを神の国の初穂としてくださいました。私たちがキリスト者であるとはそういうことです。

 この賜物こそまさに完璧な賜物です。私たちには、既に全き救いが与えられているのです。私たちは既に与えられているものが完全に現れるのを待っているのです。忍耐強く信仰に留まりましょう。

(祈り)

2022年4月24日日曜日

「見ないで信じる者は幸いです」

ヨハネによる福音書 20:19‐31

第一の日であり第八の日
 復活したキリストが弟子たちに現れたのは、「その日、すなわち週の初めの日の夕方」であったと書かれています。「週の初めの日」とは、私たちが「日曜日」と呼んでいる日のことです。次に主が現れた日は「八日の後」(26節)と表現されています。これは「八日目」と訳しても良いのですが、要するに「一週間後」です。やはり日曜日のことです。

 ここに「八日の後(八日目)」という表現が出てくることには意味があります。ユダヤ人の安息日は土曜日です。週の七日目です。現在もそうです。これは天地創造物語で、創造の業を終えられた神が七日目に安息された、という話に由来しています。ところがキリスト者は、極めて早い時期から、七日目の安息日ではなくて週の初めの日を「主の日」と呼んで、その日に集まるようになりました。今日、私たちがそうしているようにです。

 そして、その週の初めの日である主の日を、古代のキリスト者たちは、わざわざ「第一日」ではなくて「第八日」と呼ぶようになったのです。なぜ「第八日」なのか。神様の最初の創造が第一日から第七日によって表現されているとするならば、第八日はそれに属さない日だということです。新しい創造、新しい世界に属する日だということです。つまりこの世にありながら、来るべき世を経験する日、完全なる救いの世界を経験する日だということです。そういう意味で「第八日」なのです。

 今日お読みしました聖書箇所は、「週の初めの日」と「八日の後(第八日)」について語っているのです。つまり今日の聖書箇所が私たちに伝えようとしているのは、単に「あの日にこんなことがありました」ということではないのです。「私たちが集まる主の日に、いったい何が起こるのか」ということなのです。

逃げてきた物の集まり
 それでは、週の初めの日の「弟子たちの集まり」が、当初どのように描写されているかに目を向けましょう。次のように書かれています。「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(19節)。これが弟子たちの集まりの最初の姿です。それは《恐れのゆえに逃げてきた者の集まり》でした。その場所は、恐ろしい世から逃れる場所でした。戸に鍵をかけて、閉じこもる場所でした。

 そこに集まっている弟子たちには、共通していることがありました。みんなイエスを見捨てて逃げたということです。皆が同じ弱さをさらけ出しました。弱さをさらけだしたのが、自分だけでないというのは、ある意味でありがたいことです。他にも自分と同じような人がいると安心です。他の人の弱さを見て安心し、ただ傷をナメあっているだけの集まり。弟子たちの集まりもまた、そうなる可能性はありました。

 もし19節の前半までがすべてであるならば、弟子たちの集まり、すなわち後の教会は、世にも惨めな集団でしかありません。しかし、聖書はその先を語るのです。あの時、弟子たちの集まりは19節の前半で終わらなかった。確かに恐れがあったかもしれません。弱さもあったかもしれない。しかし、それで終わらなかったのです。何と書かれていますか。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(19節)。そうです、弟子たちの集まりに復活されたイエス様が来られた。それが主の日に起こることなのです。

あなたがたに平和があるように
 主が来られて何が起こっているでしょう。20節を御覧ください。「そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ」(20節)。ここには驚くべきことが書かれています。イエス様が復活して現れたということではありません。「弟子たちは、主を見て喜んだ」ということです。本来なら、それはあり得ないことです。主がお見せになったのは、手とわき腹でした。そこには大きな傷があるのです。主が苦しみ抜かれた十字架刑のゆえの傷です。手とわき腹を見せるということは、まさに彼らの裏切り、彼らの過去の罪を突きつけているようなものではありませんか。

 しかし、彼らは「主を見て喜んだ」と書かれているのです。なぜですか。20節の「そう言って」という小さな言葉が重要なのです。主は「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。罪を突きつけ、断罪することのできるはずのお方が、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださったのです。そこにあるのは罪の赦しです。彼らは復活の主によって赦された人々としてそこにいるのです。

 これが主の日に起こることです。主の日に集まる時、復活の主が来られる。そこでまずは罪が明らかにされ、罪の現実が突きつけられます。いわば手とわきを見せられるのです。あなたの罪のために十字架で死んだのだ、と。しかし、そのイエス様が、私たちにも「平和があるように」と語ってくださるのです。

トマスにも現れて
 弟子たちが受けたことを、さらに一人の人物に焦点を当てて語っているのが、24節以下に書かれている物語です。

 ここにトマスという人物が登場してまいります。彼は、他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言ったとき、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ったのです。これは変な話です。他の弟子たちは「主を見た」と言っていたのですから、本来は「わたしも主を見るまで信じない」と言うのが普通でしょう。釘跡に指を入れるなどということを、普通の人は言いません。

 明らかに彼は、異常なほどに「釘跡」と「わき腹の傷」にこだわっているのです。それはすなわち、トマスがイエス様を思い出そうとするとき、彼の脳裏に浮かんでくるのはイエス様の優しい笑顔などではなかったということです。今思い出せるのは、太い釘で貫かれた手と足。その傷から流れ出る真っ赤な血潮。そして、既に息絶えたイエス様の体を貫くローマ兵の長く太い槍。その傷口から滝のように流れ出る真っ赤な血しぶき。それしか思い出せないということでしょう。

 しかも、その姿を思い出している自分は、今なお生き延びているのです。なぜですか?逃げたからです。本当は、一緒に死ぬつもりでいたのです。かつてイエス様がユダヤに向かおうとした時、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(11:16)と言ったのはこのトマスでした。しかし、自分は逃げた。そして、イエス様は死にました。手には大きな穴が開き、わき腹には大きな傷を持つ死体となりました。

 そんなトマスにとって、同じように主を見捨てた他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言って喜んでいる姿がどのように映ったか、想像するのは難しくありません。それは、まことに赦しがたい姿であったに違いない。だから、「わたしは決して信じない」と言ったのです。そんなこと信じないで、見捨てて逃げた自分の罪に苦しみながら生きていく方が、ずっと真実で正しいことのように思えたことでしょう。

 しかし、イエス様は、そのようなトマスに現れてくださったのです。確かにトマスの生き方は真実かもしれない。けれどトマスが一生罪の重荷を負い続けて生きることをイエス様は望まれませんでした。

 トマスが考えていたように、確かにその手には釘の跡がありました。過去の罪が水に流れて消えてしまうわけではありません。罪の事実は消えません。しかし、イエス様はトマスにも言ってくださったのです。「平和があるように」と。そして、主は言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。

 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。現に目の前に現れたイエス様を見ているのに、本来信じるも信じないもないでしょう。しかし、トマスにはこの言葉が必要でした。これは明らかに「わたしは信じない」と言っていたトマスへの呼びかけです。――「わたしは決して信じない」なんてもう言わなくていい。わたしが復活して、「平和があるように」と言ってここ共にいることを、平和を与えようとしていることを、信じてもいい。主はそう言っておられるのです。そうです。トマスは、イエス様によって赦され、平和を与えられた者としてそこにいるのです。

 トマスは信じました。だから、トマスはひれ伏したのです。「わたしの主、わたしの神よ」。彼はもはやただ罪を負い続けて生きていく人ではありません。キリストを主として、神として従って生きて行くのです。これが第八の日である主の日に起こったことでした。

 いや、それだけではありません。なお一つのことを申し上げたいと思います。21節以下を御覧ください。第一であり第八の日に起こるのは、ただ罪の赦しだけではありません。罪の赦しにあずかり、イエス様の平和をいただいた者は、さらに主によって世に遣わされていくのです。彼らは罪の赦しにあずかり、イエス様の平和をいただいた者は、聖霊に満たされ、新しい命に満たされ、まことに「生きる者」となって、この世に遣わされていくのです。それこそが、第一であり第八の日である主の日に起こることなのです。

 そして、それは本質的には目に見えない霊的な出来事です。トマスは、復活の主を見ました。しかし、見たこと自体は重要なことではありません。主は言われるのです。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)。なぜか。重要なのは目に見えない出来事だからです。

 私たちはこうして今も週の初めの日に集まります。集まっているお互いは目に見えます。説教者も目に見えます。だから主の日の集まりには確かに目に見える経験、すなわち感覚的にとらえられる経験が伴っているのでしょう。それは感動であり、喜びをもたらすかもしれません。そして、今の時代、インターネットを介して、同じ場所にいなくても目で見ることもできるし、耳で聞くこともできる。感覚的な経験を共有することもできるのでしょう。

 しかし、私たちは単に目に見えること、感覚的にとらえられることを求めて集まっているわけではないのです。主の日に起こっていることの本質は、目に見えない霊的なことなのです。それこそが目に見えることよりもはるかに重要なのです。それは人間の行うことではなく、人間が為し得ないこと、復活された主がなさることだからです。主は生きておられます。

(祈り)

2022年4月20日水曜日

祈祷会用:ヤコブの手紙 1:1~18

ヤコブの手紙 1:1‐18

 ヤコブの手紙第一章には「試練」という言葉が繰り返し出てきます。また「誘惑に遭う」あるいは「誘惑する」という言葉が出てきます。名詞と動詞の違いはありますが、基本的には同じ言葉が用いられています。「試練」と「誘惑」は、日本語としてはかなり意味合いが異なりますが、原文では同じ言葉です。

 それが指し示している具体的な事柄は信仰者の身に降りかかってくる苦難です。当時のキリスト者にとっては、迫害ということが大きな割合を占めていたに違いありません。しかし、ここに「いろいろな試練」とありますように、苦難の内容は必ずしも迫害だけではありません。ある場合は、教会の中に生じた混乱が苦しみの原因であったかもしれません。あるいはパウロが経験したように肉体に与えられた棘、すなわち病気かもしれません。苦難の内容は必ずしも単純ではありません。

 いずれにせよ、そのような苦しみは、確かに「誘惑」として働きます。人間を神から引き離し、罪へと引きずり込む力として働きます。しかし、そのように苦難が悪魔の力として働く場面は、また同時に、そこにおいて私たちの信仰が試される場面でもあります。信仰の内容が問われるのです。いったい誰を信じているのか。何を信じているのか。信仰を言い表して洗礼を受けたこと、信仰を言い表して聖餐に与っていること、それはいったい何を意味しているのか。内容を問われるのです。

 それゆえ「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(ヤコブ1・2)と書かれています。苦難が誘惑すなわち悪魔の力としての意味しか持たないならば、どう考えてもそれは喜びにはなりません。しかし、そうではないのです。私たちが経験するのは、単なる誘惑以上のことなのです。

 信仰が問われること、試されることは、それ自体悪ではありません。それはむしろ時として必要なことです。神にとってではありません。人間にとって必要なのです。それは良きものが私たちの内に生じるためです。聖書はそれを「忍耐」と呼びます。「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」(3節)。

 信仰が試される時、信じてきたことの中身が問われます。私たち自身、もう一度自分の足場を見直さざるを得なくなります。そして私たちは、既におぼろげに見えているものを、もう一度はっきり見ようと望むようになります。目を凝らします。するとより良く見えてきます。信仰の内容と共に希望がはっきりと見えてくるのです。それが試練の中で起こるのです。

 そのように、信仰が試される場は、信仰が確かにされる場ともなり得ます。そのように人は信仰に留まる力を与えられるのです。そして、信仰に留まるということは、時として具体的な苦難の中にあえて留まるということをも意味します。放棄しない。逃げ出さない。神の御心がそこにあるならば、留まり続ける。それが忍耐です。信仰が試されることで、そこに忍耐が生じるのです。

 そして、ヤコブはさらにこのように言います。「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(4節)。「あくまでも忍耐しなさい」というのは、「忍耐を十分に働かせなさい」という表現です。忍耐が働く時、それはさらに良きものをもたらすのです。しかし、それにしても「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」というのは言い過ぎではないでしょうか。確かに、これが単なる私たちの努力目標であるならば、とうてい受け入れることはできない。しかし、これは努力目標ではなく、信仰に留まるところにおける神の御業として語られているのです。

 ここの「完全」という言葉は「大人」を表す言葉です。そこにイメージされているのは成長です。そして、成長させてくださるのは神ご自身なのです。この箇所との関連で思い起こされるのは、ローマの信徒への手紙5章のパウロの言葉です。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3‐4)。

 ちょうど、ヤコブが言っていることは、この「練達」に当たります。これは金属に例えますならば、精錬を経て純度が上げられ、合格の品質となったことを意味する言葉です。そのように神が私たちを精錬してくださるのです。忍耐の働きは無駄におわりません。私たちを信仰者として成長させ、完成へと向かわせ、神の国へと備えるのです。そのことにおいて、私たちの内には大きな希望がますます確かにされていくのです

 しかし、そうは言いましても、「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」というヤコブの勧めは、やはり困難な勧めであると言えます。具体的な「試練」については、なかなか「この上ない喜び」とは思えないものです。しかし、そのような私たちであるからこそ、さらに次のように書かれているのです。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」(5節)。

 ここで語られているのは一般的な意味における「知恵」ではありません。上手に苦難を回避して世渡りするための知恵ではありません。そのような知恵ならば神に求める必要はないでしょう。しかしもし私たちが単に苦難を回避するだけでなく、直面している現実の中に神が与えてくださっている意味や神の目的を見出し、忍耐強く留まろうとするならば、神からの洞察力、神からの知恵が必要となります。だから神に求めねばならないのです。

 実際、私たちの日常には、「なぜ」と問わざるを得ないことは少なくありません。「なぜこんなことが起こるのか」。「なぜ私はこんな目に遭うのか」。自分の周りを見回しても、わけの分からないことがあまりに多いように思えます。しかし、私たちが「なぜ」と口にする時、必ずしも答えを求めているとは限りません。私たちが本当に分かりたい、知りたい、と思っているとは限らない。人にせよ神にせよ誰かを責めたいだけかもしれません。

 もし本当に答えが欲しいなら、もし本当に分かりたいと思うなら、知りたいと思うなら、やはり私たちは本気で神に向かわなくてはならないのです。本気で神に求めなくてはならないのです。現実を理解するための知恵を、本気で神に求めるべきなのです。「もう神を信じられない」などとつぶやいている場合ではありません。聖書は、「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません」(6‐7節)と語ります。そうです、疑ってなどいる場合ではありません。私たちは、神に求め神から受けるのでなければ、結局は人の知恵、自分の知恵、自分の理解力をもって生きるしかないのです。そして、自分の知恵をもって生きるなら、結局、一生「なぜ、なぜ」とぼやきながら生きるか、どこかで諦めて、問うことを終わりにするしかないのです。

 苦難は自動的に忍耐を生み出し、練達へと導くわけではありません。それは自然に信仰者の成長へと結びつくわけではありません。先にも申しましたように、それは第一には誘惑として働くのです。悪魔の力として働くのです。そのような誘惑に陥らないために必要なのは神からの知恵です。ですから、ヤコブが言うように、私たちは、誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えくださる神に、願い求めるべきなのです。

(祈り)

2022年4月17日日曜日

「復活されたキリストの御声が心に届くとき」

ヨハネによる福音書 20:11‐18
 

美しい再会の場面
 週の初めの日、つまり日曜日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行きました。イエス様の遺体に香料を塗るためでした。愛するイエス様が死んでしまった。せめてその遺体に香料を塗ってさしあげたい。そう思って彼女は墓に向かったのです。

 しかし、墓に着いてみますと、なんと墓の入り口を塞いでいたはずの大きな石が取りのけてありました。見るとイエス様の遺体がありません。誰かが持ち去ってしまった!彼女はそう思いました。すぐにペトロのところに行ってこの事態を伝えます。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」(2節)。

 その後に、ペトロともう一人の弟子が墓に走って行ったという話が続きます。彼らが墓に行って中をのぞいてみると、聖書には「亜麻布が置いてあった」と書かれています。彼らがそれを確認したことが、細かく描写されています。それは要するに、《マリアは間違っていた》ということを示しているのです。

 死体を持ち去るのに、わざわざ亜麻布をほどいて中身だけを持って行くような人はいません。マリアは明らかに間違っていた。「主が墓から取り去られた」のではないのです。彼女がまだ気付いていない大事なことがあるのです。

 そのように大事なことにまだ気付いていないから、彼女は泣き続けます。それが今日お読みした場面です。「マリアは墓の外に立って泣いていた」(11節)。泣きながら、墓の中を見ると、「イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた」と書かれています。彼らは言いました。「婦人よ、なぜ泣いているのか」(13節)。

 しかし、マリアはなおも泣き続けながら言います。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら、後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた、と書かれています。ところが、それがイエス様だとは気付かない。本当はイエス様がすぐ近くにおられるのに、マリアは気付かない。そう、彼女が気付いていなかった重大なこと――それは、イエス様が復活なさったこと、イエス様は生きておられ、しかも彼女のすぐそばにおられる、ということだったのです。

 彼女はそのことに気付いていなかった。だから、再びイエス様を背にして泣き続けます。そのようなマリアに主は言われます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。」天使と同じ事を聞かれます。しかし、マリアは園丁だと思って、泣きながら答えます。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」

 すると、イエス様はただ一言、「マリア」と声をかけられました。「マリア」――。その一言で十分でした。マリアには分かったのです。自分の名前を呼ぶその声で分かった。彼女は振り向いて言いました。「ラボニ」すなわち「わたしの先生」。これまでいくどとなくそう呼んでいたように、いつものようにイエス様を「ラボ二」と呼んだのです。聖書の中で最も美しい再会の場面です。

なぜ泣いているのか
 さて、今日の聖書箇所では「泣く」という言葉が繰り返されています。マリアが「泣いていた」ということが、殊更に強調されています。彼女は、まさに泣くことしかできない者としてそこにいるのです。死んでしまったイエス様に香料を塗ることだけが、彼女にできるせめてものことでした。しかし、その遺体さえも無くなってしまった。もう泣くしかありません。

 いや、泣くことしかできない者として泣いていたのは、この時だけではないでしょう。イエス様が捕らえられてしまったとき、彼女はどうすることもできなかった。イエス様が十字架を背負ってゴルゴタの丘へと向かっていた時、彼女はどうすることもできませんでした。手足を釘で刺し貫かれて、イエス様が叫び声を上げているとき、彼女はどうすることもできませんでした。イエス様が十字架の上で息絶えようとしていたとき、彼女はどうすることもできませんでした。そして、イエス様は物言わぬ屍として取り降ろされ、墓に葬られました。そこで彼女はただ泣くことしかできなかったのでしょう。

 人と人との間を引き裂き、引き離す、死の力は残酷です。そして、その残酷な死の力に対して人間は無力です。どんなに愛していても、どんなに大切に思っていても、死の力は奪い去っていきます。その残酷な現実を、遠い国の戦争の報道において毎日知らされます。そして、私たちの人生においても、繰り返し、繰り返し思い知らされます。その残酷な死の力の支配の前に、人間はただ泣くしかない。その点においては、あのマリアも二千年後に生きている私たちも同じです。

 しかし、そのような私たちに、今日の聖書箇所は一つの大事な出来事を伝えているのです。あのとき、あそこで、確かに泣くことしかできなかったマリアだったのだけれど、その彼女に語り掛ける声があった。「なぜ泣いているのか」。彼女は二度も耳にしたのです。「なぜ泣いているのか」。ただ泣くことしかできないマリアだけれど、本当はもう泣く必要はなかった。聖書はそのことをはっきりと示しているのです。なぜ、泣く必要はないのか。そこにイエス様がおられるからです。共におられるからです。彼女はただ気づいていないだけだからです。

 彼女が泣く必要がないのは、死んだと思っていたイエス様が《死んでいなかったから》ではありません。イエス様は《復活して》そこにおられるのです。すなわち、残酷な死の力を打ち破ってそこにおられるのです。死を打ち破ったイエス様が共におられるならば、人間がどれほど無力であっても、もはや死は人間を絶望させることはできないということでしょう。だから泣く必要はない。マリアは、まだ気づいていないだけなのです。

わたしにすがりつくのはよしなさい
 では、どうしてマリアは気づいたのか――。復活したイエス様の姿を《見た》からではありません。聖書はあえてそのことを強調して書いています。後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが「見えた」。しかし、「見えた」その時には気づかなかったのです。気づいたのはその姿によってではなく、その「言葉」によってでした。「マリア」という呼びかけの言葉。それはただ音声としての言葉が耳に聞こえたということではありません。その言葉が心に届いた。心に響くイエス様の声、その御声を通して、「ああ、イエス様が近くにいてくださったのだ、気づく前から本当はそこにいてくださったのだ」と分かったのです。

 そのように、マリアがイエス様に気づいたのは、目に見えるその姿によったのではありませんでした。ですから、目に見えるその姿にすがりつこうとするマリアに対して、イエス様は言われるのです。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。

 イエス様は「わたしの父…のところへわたしは上る」と言われました。イエス様は父のもとに、天に帰って行かれるのです。確かに、イエス様は復活されてマリアに現れました。後に弟子たちにも現れます。しかし、それはある限られた特別な出来事です。ずっと続くのではありません。イエス様は天に帰られ、目に見えない御方となられるのです。いつまでも、見える姿で現れたキリストにしがみついていてはいけない。イエス様は目に見えない御方でよいのだ、ということをマリアは理解しなくてはならなかったのです。

 実際、彼女が見る前から、イエス様はすぐ近くにいてくださったのです。マリアが泣いていたとき、イエス様は既に彼女の近くにいてくださったのです。後ろを振り向いてもまだ分からなかった。でも彼女が分からなかったときにも、イエス様はそこにいてくださったのです。「なぜ泣いているのか。もう泣かなくても大丈夫」と言ってくださる方が、一緒にいてくださったのです。

 繰り返しますが、そのことに気づいたのは、イエス様の呼びかけの声が心に響いた時でした。実際、マリアはイエス様が天に帰られた後も、繰り返しこの呼びかけを心に聞いていたことでしょう。たとえ、その御方が目には見えなくても。――そして、それは後の弟子たちの経験であり、後の教会の経験でもあったのです。それゆえに、この一人の人に起こった特別な出来事を、世々の信仰者は自分のこととして読んできたのです。

 今日はイースターです。キリストの御復活をこうして毎年私たちは祝います。私たちはマリアのように目に見える姿で復活の主と相見えるわけではありません。しかし、私たちもまた知っています。イエス様が私たちに呼びかけてくださること。死を絶望ではなくしてしまったお方が、今も私たちに語りかけてくださること。そして、復活されたキリストの御声が心に届くとき、私たちは改めて知るのです。ただただ泣くしかなかった時にも、私たちが気づかなかっただけで、イエス様はすぐ近くにいてくださったのだということを。

2022年4月10日日曜日

「立て、さあ行こう」

マルコによる福音書 14:32-42

立て、行こう
 「立て、行こう」と主は言われました。以前用いられていた口語訳聖書では「立て、さあ行こう」と訳されていました。説教題はそちらから取りました。

 「立て、行こう」。その言葉は、弟子たちにとって、深い心の痛みと共に記憶された言葉であったに違いありません。というのも、それはイエス様が苦しみもだえて祈っていた時に、その傍らで眠りこけていた弟子たちに語られた言葉だったからです。

 しかも、眠りこけていたのは一度ではありません。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか」(37節)。そう言われて、なおも同じ失敗を繰り返した時、弟子たちは「イエスにどう言えばよいのか、分からなかった」(40節)と書かれています。

 そして、三度目。もはや弁解の言葉もありません。その時に主はこう言われたのです。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」(41‐42節)。

 それだけではありません。「立て、行こう」と主は言われたのですが、弟子たちは結局最後まで主と共に行くことはできなかったのです。この直後に、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げてしまいます。遠く離れてついていったペトロも、結局は三度主を否んでしまいます。そのように、「立て、行こう」という主の言葉は、全く情けない惨めな自分自身を認めざるを得なかった状況において、深い心の痛みと共に記憶された言葉であったに違いないのです。

 しかし、その言葉を彼らは記憶から消し去ろうとはしませんでした。一生誰に語ることもなく自分の心の奥深くにしまい込んでしまうこともできたのでしょう。しかし、彼らはそうしなかった。彼らは自分たちの恥をさらしながら語り始めたのです。惨めなありさまをさらけ出しながら、あの時のことを語り続けたのです。だからこそ、聖書にまで書き記されて公に読まれることとなったのです。

 それはなぜか。「立て、行こう」という言葉に従えなかった、あの日で終わりにはならなかったからです。イエス様の心も知らずに眠りこけていた弟子たちのままで終わらなかったからです。イエス様を見捨てて逃げ去ったあの弟子たちのままで終わらなかったからです。イエス様を三度否んだペトロで終わらなかったからです。そのまま主は捕らえられて十字架にかけられて死んで、それで終わりにはならなかったからです。主は復活されたのです。そして、復活の主が彼らを再び招いてくださったのです。

 彼らにはよくわかったのでしょう。あの時、イエス様は眠りこけていた彼らが、すぐに自分を見捨てて逃げ出すことも、ペトロが三度否むことも全部承知の上で、「立て、行こう」と言ってくださったのだ、ということを。それゆえに彼らは改めて復活の主から、赦しの恵みと共に、「立て、さあ行こう!」という言葉を受け取ったのです。そして、主がかつて言われたように、今度は自分の十字架を背負って従って行ったのです。

 そして、代々の教会もまた、そのように主が語られる「立て、さあ行こう」という言葉を聞き続けてきたのです。その言葉をゲツセマネの園における物語と共に聞き続けてきたのです。

御心に適うことが行われますように
 ゲツセマネの園に目を移しましょう。そこに見るのは、ひどく恐れ、苦しみもだえ、悲しみにうちひしがれながら祈るイエス様の姿です。イエス様はペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人に言われました。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」(34節)。そして、主は少し進んで行って、地面にひれ伏して、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われたのでした。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」(36節)。

 取りのけてほしい「この杯」とはいったい何なのでしょうか。十字架につけられて殺されること――確かにそうです。しかし、それが意味するのはただ単に肉体的・精神的苦痛ではありません。確かに十字架刑は残酷な刑罰です。しかし、十字架刑によって殺されたのは何もイエス・キリストだけではないのです。現にイエスと共に二人の犯罪人が十字架にかけられていたことを私たちは知っています。

 肉体的・精神的苦痛を言うならば、世の中にはもっと大きな苦しみを味わいながら死んでいった人もいたはずです。イエス様が「この杯」と呼んでいるものが、そのように既に誰かが経験したことのある苦しみであろうはずがありません。「この盃」――それはメシアとしての苦しみでした。それは、私たちの救いのために、全ての人の罪を代わりに背負って、神に裁かれて死んでいくことを意味したのです。

 私たちは確かに自分が罪人であるとは思っています。この世が罪に満ちた世界であることも知っています。しかし、自分についてもこの世についても、罪の大きさを本当の意味では知らないのです。罪が正しく裁かれ、その審判に従って報いられることが、どれほど恐ろしいことであるか、私たちは知らないのです。それを本当に知っていたのはイエス様です。罪が何であるか。罪ある者が赦しを得るために、身代わりに罪を背負うということがどういうことであるか。それがどれほど恐ろしく、悲しく、苦しいことであるか。それを知っていたのは、本当の意味で父なる神を知るキリストだけでした。

 だから主は恐れたのです。そして願い求めたのです。「この杯をわたしから取りのけてください」と。しかし、そのキリストの願いに対する答えは、神の沈黙でした。沈黙しておられる神に主は呼びかけます。「アッバ、父よ」と。どこまでも信頼を込めて「アッバ」と呼びかけるのです。

 そのようなイエス様にとって、父の「沈黙」は明確な父の答えに他なりませんでした。主は分かっていたのです。神の揺るぎない御心があることを。断固として、人間の救いを実現しようとしておられることを。それゆえ主は祈ります。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(36節)。

誘惑に陥らないために祈りなさい
 しかし同時に、父の御心に信頼をもって従うことが決してキリストにとって容易なことではなかったことをも、私たちはここに伝えられているのです。イエス様の祈りの言葉は先に見たとおり、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と記されていました。それはある意味では完結した祈りです。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と言うならば、それ以上語るべき言葉はないでしょう。しかし、39節にこう書かれているのです。「更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた」。

 もちろんこれは単に二回祈ったという意味ではありません。最初の時に弟子たちは眠っていたので聞き逃しているはずですから。二回目が同じ言葉であることは分かりません。さらに言えば、二回目の時も眠っていたのですから、同じ言葉で祈っていたのをいったい誰が聞いていたのでしょう。

 要するに考えられることは、弟子たちが眠りこける前から、イエス様は同じ言葉で繰り返し祈り続けていたということです。あるいはルカによる福音書では「いつものようにオリーブ山に行かれると」(ルカ22:39)、「いつもの場所に来ると」(同40節)と書かれていますから、イエス様はエルサレムに来られてから毎日のようにそのように祈っていたのかもしれません。

 「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。言葉として口にするのは簡単です。しかし、神の御心として苦しみを受け取ること、父の愛を信じて受け取ることはとても難しい。それはイエス様にとっても難しいことだったのです。苦しみの中で繰り返される祈りなくしては、できないことだったのです。

 そのような祈りなくして、最終的に自ら立ち上がり、「立て、行こう」と前に向かって歩み出すことはできなかったのです。イエス様でさえそうだった。弟子たちならなおさらです。ですから主は弟子たちに言われたのです。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(38節)。

 「立て、行こう」と言われる方に従おうとする時、その御方に従うゆえに、時として負わなくてはならない苦しみがあり悲しみがあります。父の御心としてどうしても受け取らなくてはならない杯がある。聖書はしばしばそれらを「試練」という言葉で表現します。しかし、その同じ言葉が「誘惑」とも訳されるのです。いかなる苦しみも悲しみも「誘惑」となり得る。すなわち神から引き離す力として働くのです。そのような誘惑に陥らないためには、主がゲツセマネにおいてなさったように、同じようにするしかないのです。

 そこから「アッバ、父よ」と祈る。祈り続けるのです。そこから立ち上がって、前に歩き始めることができるまで祈り続けるしかないのです。ゆえに「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と主は言われたのです。

 しかし、立ち上がる時には一人で立ち上がるのではなく、一人で前に歩き出すのではありません。聖書はキリストについてこう書いています。その御方は「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)と。その御方が言ってくださいます。「立て、さあ行こう」と。

(祈り)

2022年4月6日水曜日

祈祷会用:マルコによる福音書 14:12~26

マルコによる福音書 14:12-26

 主は言われました。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい」(13‐15節)。

 イエス様のこの言葉は、彼らが既にいかに危険な状態にあったかを物語っています。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていました(1節)。そのような状況のもと、過越の食事の準備は秘密裏に行われなくてはなりません。集まる場所を当局に知られてはならないのです。

 「水がめを運んでいる男」が目印でした。水くみは女の仕事なので、水がめを運んでいる男はそういるものではありません。だからすぐにその人であると分かります。その男を見つけたら何も言わずについて行く。そうすれば怪しまれずに過越の食事が出来る場所に着くことができます。

 そのように、弟子たちが準備をする前に、イエス様が前もってその時と場所を用意しておいてくださいました。既にそこには「席が整って用意のできた二階の広間」があるのです。なぜなら、その食事を誰よりも望んでおられたのはイエス様だからです(ルカ22:15)。主が望まれ、主がその時と場所を備えておられた食事。それがあの「最後の晩餐」だったのです。

 その食事が何であったのかは、22節以下のイエス様の言葉にはっきりと言い表されています。イエス様は御自分を与えようとしておられたのです。パンとぶどう酒を用意したのは弟子たちだったかもしれません。しかし、その食事はイエス様が、自分の体と血とを与えるための食事でした。「取りなさい。これはわたしの体である」と。「これはわたしの血、契約の血である」と。そして、実際、イエス様は文字通り、自分の体と血とを差し出すことになることをご存知だったのです。

 そのように主の十字架によって救われる全ての人に先立って、主の食卓に招かれたのが、あの十二人でした。主は御自分を与える食事のために、その時と場所とを備えられました。それゆえに、これは「最後の晩餐」と呼ばれますが、実は最後の晩餐ではないのです。彼らが受けるのは、救いのために裂かれた体であり、血であるからです。ならば、それが最後になってしまうはずがありません。

 主はこう言われました。「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(25節)。主は十字架における御自分の死を思いつつ、その心の目は「神の国」に向けられていたのです。「神の国で新たに飲むその日」について主は語られたのです。それは神の国の祝宴です。神の愛が満ち溢れ、喜びが満ち溢れる救いの宴です。彼らは主の体と血とを受ける時、まさに神の国における完全な救いに招かれている者として、食事の席に着いているのです。

 あの十二人は、そのような食事をするために、備えられた場所に向かいました。「夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた」(17節)。そうです。「十二人」――そこにはユダも含まれます。ユダもまたその食事に招かれていたのです。

 今日の聖書箇所の直前にはユダの裏切りについて記されています。「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った」(10節)。なぜユダは裏切ったのか。聖書には何の明確な理由も記されていません。もしかしたら、はっきりと理由が書かれていないことに意味があるのかもしれません。恐らく本当に重要なのは裏切りの「理由」ではないのです。そうではなくて、それでもなお主の食卓に招かれていたという事実なのです。

イエス様を裏切ったユダは、その後、素知らぬ顔をして仲間のところに戻ったのでしょう。そして、「夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた」。ユダの裏切りを誰も知らない。知っていたのは本人と、そしてもう一人、イエス様だけでした。

 一同が席に着いて食事をしていた時に、主はこう言われました。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(18節)。ユダの裏切りを知っていたのなら、その裏切りから身を守ることはいくらでもできただろうと思います。もしイエス様がここでユダを指差して、「この男がわたしを裏切ろうとしている」と言ったなら、きっと他の11人はユダを捕えて縛り上げたに違いありません。ユダは酷い目に遭わされたに違いない。イエス様はそのような形でユダの裏切りに対して鉄槌を下すこともできたはずです。しかし、イエス様はユダの名を口にしませんでした。

 弟子たちは、裏切ったのがイスカリオテのユダだとは夢にも思っていませんでした。ですから代わる代わるに「まさかわたしのことでは」と言い始めたのです。しかし、ユダには分かったはずなのです。イエス様が誰のことを言っておられるのか、はっきりと分かったはずなのです。いわばユダだけがはっきりと分かる仕方で、イエス様はユダの心に語りかけておられたのです。「あなたのことは、分かっているよ」。ユダにはそう聞こえたに違いありません。

 主はユダの名前を最後まで口にすることなく、ただこう言われました。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(20‐21節)。

  イエス様が人に対して「生まれなかった方が良かった」などと言われたのは、後にも先にもここだけです。およそイエス様の口にふさわしからぬ言葉に思えます。しかし、イエス様は裏切られた自分のことを思ってこう言っているのではないのです。裏切ったユダのことを思って、こう言っておられるのです。生まれなかった方が《その者のために》よかった、と。イエス様からすれば、不幸なのは裏切られた自分ではないのです。裏切ったユダなのです。

 いや正確に言うならば、不幸なのは裏切ってなお立ち帰ろうとしないユダなのです。彼は主の食卓に招かれていたのです。イエス様と一緒に鉢に食べ物を浸していたのです。イエス様はそこで御自分の体と血とを与えようとしておられたのです。だからこそ、主は愛と赦しをもってその心に呼びかけておられたのです。その食卓は、先にも申しましたように、神の国の救いへの招きでもあったからです。

 しかし、それでもなおユダはイエス様の愛に心を閉ざしたままでした。彼は罪の赦しに背を向けてしまうのです。神の憐れみから自らを締め出してしまうのです。暗闇の中に出ていってしまうのです。イエス様には、もうそのことが分かっていたのかもしれません。それがどれほど不幸なことであるか、人間には分からないものです。それを一番よく知っていたのは、そして痛んでいたのは、イエス様御自身だったのです。

 これが「最後の晩餐」として知られている食事の場面です。最後ならざる「最後の晩餐」です。最初に招かれたのはあの十二人でした。その食卓が、今時を経て「聖餐卓」という名をもってここにも置かれています。

 ユダが招かれていたように、私たちも主の食卓に招かれています。ユダが、素知らぬ顔をして食卓に着いたように、私たちもまた、素知らぬ顔をして席に着くのでしょう。しかし、ユダのすべてをキリストがご存じであったように、キリストは私たちのこともご存じです。私たちが何を考え、何を語り、何をしてきたか、すべてご存じです。それでもなお主は私たちを愛していてくださいます。すべてを与え尽くすほどに愛していてくださいます。ユダは主の愛と赦しを受け取りませんでした。立ち返りませんでした。今日の聖書箇所は私たちに問いかけているのでしょう。あなたはどうするのですか、と。
(祈り)

2022年4月3日日曜日

「あなたは今どこに立っていますか」

ローマの信徒への手紙 5:1‐11

神の栄光にあずかる希望
 パウロは今日の聖書箇所で「苦難をも誇りとします」と語っています。「誇りとする」は「喜ぶ」とも訳せる言葉です。「苦難を喜ぶ」。不思議な言葉です。しかし、実際には「苦難」を肯定的に捉えるものの見方は、この世において決して珍しくはありません。「艱難汝を玉にす」と言われ、「堪忍は一生の宝」とも言われます。

 しかし、パウロは世の中の一般的な格言を語っているのではありません。1節に明らかなように、彼は信仰に関わることを語っているのです。正確に言いますと、そこに書かれているように、「信仰によって義とされた者」について語っているのです。

 「信仰によって義とされる」とは、1節に語られていますように、「神との間に平和を得ている」ということに他なりません。罪のゆえに神との平和を失っていた者が、罪を赦され、神との正しい関係に回復され、神との間に平和を得たのです。そのようにして得られた「神との平和」は、まず何をもたらすのでしょうか。――「神との平和」は希望をもたらすのです。パウロは、神との平和を得ている自分自身を次のように表現しています。「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」(2節)。

 ここに書かれています「今の恵み」を直訳すると「その中に私たちが立っているところの恵み」となります。あたかも「恵み」という何か大きな家の中に立っているかのような表現です。今日の説教題は「あなたは今どこに立っていますか」です。その答えは、聖書によるならば、「恵みの中」ということになります。恵みという大きな家の中に立っているのです。

 しかし、それは当然のことではありません。ですから殊更に「このキリストのお陰で」と書かれています。その家の扉はキリストが開いてくださったのです。わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたイエス様が、恵みへの扉を開いてくださったのです。そして、開かれた扉を通って、恵みの中へと導き入れられたのです。

 その「恵み」の中に立っている者として、「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」(2節)と彼は語ります。「神の栄光にあずかる」とは、神との完全な交わりであり、神との交わりの内にある本来の人間の姿の回復です。それはまさに「神の栄光にあずかる」としか表現できない、最終的な完全な救いです。

 それは「恵み」の中に立っているからこそ語り得ることだとも言えます。恵みの外には希望がなかったのです。パウロはこの手紙の3章においてこう語っています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(3:23)。「神の栄光を受けられない」とは救われないということです。人間が自分の罪を背負ったまま、罪人として裁かれ、罪人として滅びるということです。何の希望もありません。

 しかし、そこにキリストが来られて、恵みの扉を開いてくださったのです。私たちはキリストを信じる信仰によって導かれ、恵みの中に入ることができたのです。パウロはそのようにして、既に恵みの中に導き入れられた者として語っているのです。だからこそ、その幸いをこのように表現するのです。「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています!」と。そうです、神との平和を与えられ、恵みの中に立っている人は、もはや希望のない者ではあり得ません。神の栄光にあずかる希望が与えられているのです。

苦難をも誇りとします

 そのように、神の栄光にあずかる希望を与えられた者として、今、私たちは恵みの中に立っているのです。今、実際に私たちの人生に何が起こっていたとしても、今、どのような状況に置かれていたとしても、たとえ苦難の中にあったとしても、繰り返しますが、私たちは恵みの中に立っているのです。

 それゆえに、最初に見たように、パウロは「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」と言うのです。その理由が3節と4節に記されています。「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(3-4節)。

 苦難さえも、恵みの中にあるのです。恵みの方が苦難よりも大きいからです。私たちは恵みの中に立っているのですから苦難さえも恵みの中にある。ならば苦難は苦難に終わりません。何と書かれていますか。苦難は「忍耐」を生み出すのです。

 「忍耐」とは何でしょうか。聖書が言っている「忍耐」というのは、もともと「留まる」という意味の言葉から来ています。あえて「留まる」。言い換えるならば簡単に逃げ出さないということです。
 水は低い方に自然に流れていきます。そのように、私たちの心も自然のままでは苦しみの少ない方に、楽な方に、流れていきます。苦しいことからは逃げ出したくなりますし、難しいことは投げ出したくなります。ふと気づいてみると、いつも捜しているのは楽に逃れる方法です。逃げ道です。

 しかし、もう一方で、私たちは良く知っているのです。苦しみから逃げたところで、その先には別の苦難が待っている。そこからまた逃げても別な苦しみが待っている。苦しみの全くない人生などあり得ないのです。ある程度長く生きていれば老いをも経験し、最後には誰もが死と向き合わなくてはならなくなります。最後には逃げられなくなるのです。逃げ道を見つけることが上手であることは何の解決にもなりません。

 本当は分かっているのです。私たちに必要なのは、逃げ道などではなくて、現実と向き合うことのできる勇気なのです。現実としっかり向き合い、必要ならばそこに留まることのできる力なのです。それを聖書は「忍耐」と呼ぶのです。

 人間が逃げないで、留まるときに、そこで大事なことが見えてきます。苦難の中で、私たちはいったい誰に信頼して生きるのか、ということです。そこにおいて神に信頼して生きるということが、本当の意味でリアルに重要になってまいります。その意味において、苦難は信仰を成長させる契機となるのです。忍耐をもって留まるときに、そこで信仰が育つのです。そのように成長した信仰者の姿、火で精錬されて純化された金属のような信仰者の姿。それを表現しているのが「練達」という言葉です。

 そして、「練達」が与えられ、信仰が確かにされるとどうなりますか。信仰が確かになるということは、希望が確かになるということでもあるのです。こうして神の栄光にあずかる希望がさらに確かにされていくのです。

 希望があるゆえに、苦難から忍耐へ、忍耐から練達へ、練達から希望へ。――このような良き循環を支えるのは、繰り返しますが、「恵みの中に立っているのだ」という自覚です。そして、恵みの中に生きる者の心に注がれる神の愛です。苦難の中にあってなお、その心の中に注がれる神の愛です。ですからパウロは確信をもって次のように宣言するのです。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(5節)。

神の愛が心に注がれているから
 そこで、パウロはさらに「神の愛」の何たるかを説き明かし、希望の根拠を明らかにしていきます。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(6‐8節)。

 パウロはここでキリストについて語ります。ナザレのイエスというお方としてこの地上を歩まれ、十字架にかかられて死なれた方のことを語り始めるのです。神の愛はどこにおいて示されたのか。それは十字架にかかられたキリストにおいてだと言うのです。

 「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません」(7節)。これが人間の理解できる限界です。自分自身が価値を見出すことができるもののためになら命を捨てることができる。それは理解できます。しかし、キリストにおいて示された神の愛とはそのような限界を越えています。価値ある者のためではなく価値なき者のために、義しい人のためではなく罪人のために、キリストは死んでくださいました。

 私たちが信心深かったからではありません。私たちが強く、正しい人間であったからではありません。弱く、不信心であり、罪人である私たちのためにキリストは死んでくださいました。それは私たちの罪が赦されて義とされるためでした。私たちが神との間に平和を得るためでした。このキリストの十字架にこそ、神の愛は示されたのです。

 5節に語られている神の愛とは、この愛に他なりません。つまり、「聖霊によって心に神の愛が注がれる」とは、十字架において示された神の愛が分かるということなのです。時間的にも空間的にも離れているあの出来事の中に神の愛を見、その愛をもって今この私もまた愛されているのだ、ということが分かるということは決して当たり前のことではありません。その理解は人から生じるものではありません。神だけが為しえることです。それゆえ「聖霊によって」と書かれているのです。神の霊によって神の愛を知るのです。

 私たちはレント(受難節)の期間を過ごしています。私たちの罪のために十字架にかかられたイエス様の御苦しみに心を向けて過ごすように、私たちに与えられている特別な期間です。ですから、私たちは節制し、この期間をふさわしく過ごそうと努めます。しかし、この期間において本当に大きなことは、私たちが行う何かではありません。本当に大きなことは、聖霊によって神が私たちに為そうとしておられることです。すなわち、キリストの御苦しみを指し示し、十字架において現された神の愛を悟らせ、聖霊によって私たちの心に神の愛を注ごうとしていてくださるのです。そして、私たちを神の栄光にあずかる希望を誇りとする者として、苦難をも誇りとする者として、確かに恵みの中に立っている者として生かそうとしていてくださるのです。事実、私たちは恵みの中に立っているのですから。

 レントの期間もあと二週間弱となりました。私たちは残された期間、どのように過ごしたらよいのでしょうか。主はどのような導きを与えてくださっているでしょうか。
(祈り)
 

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