2017年8月6日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 9章9節~15節
わたしに従いなさい
今日お読みしました物語は、ある徴税人が主によって招かれたところから始まります。その人の名は「マタイ」です。彼は十二弟子の一人でありまして、伝統的にはマタイによる福音書はこの人によって書かれたとされています。既にシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネが主の弟子とされた経緯が四章に書かれていました。次第に弟子の群れが形成されつつありました。その弟子の群れにマタイが加えられたというのがここに書かれている出来事です。
ところで、「弟子」という言葉が繰り返し出てくるのですが、これはユダヤ人の言葉では「タルミード」と言います。そして、「タルミード」と言いますと、一般的には、ユダヤ教の教師(ラビ)のもとで律法を学ぶ生徒を指します。ラビの言葉に耳を傾け、質問をし、聞いたことを復唱し暗記する。また、ラビの生活を倣い、律法に従った生活を学ぶ。それが弟子(タルミード)です。
実際、イエス様の弟子たちも、そのような一般的なタルミードの生活していたのだと思います。イエス様の言葉に耳を傾け、復唱し暗記する。またイエス様の生活を良く見て倣う。弟子たちがそのようにしてくれたおかげで、イエス様の言葉、イエス様の物語が今日に至るまで残っているのです。
そのように、外から見るならば、明らかにイエス様は一人のラビであり、シモンやアンデレたちはタルミードでありました。ですから福音書において、イエス様がしばしば「ラビ」とか「先生」と呼ばれているのです。しかし、もう一方において、イエス様はユダヤ教のラビとしてはあまりにも異質な存在であったことも事実です。その故に、他のラビたち、律法学者たちと繰り返し衝突が起こったことを聖書は伝えています。
そもそも、弟子の取り方からして、イエス様は通常のラビと決定的に違っていました。その違いが今日の聖書箇所に良く表れています。一般的には、タルミード(弟子)になりたい人がラビを選び、弟子入りするのです。そのような世界は、私たちの身近な習い事などにもあるので、容易に理解できるでしょう。そこには当然のことながら、弟子入りする者の求道心が前提とされているのです。
しかし、イエス様の場合、そうではありませんでした。他の福音書においてイエス様はこんなことを言っています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。普通のラビはそんなことは言わないのです。しかし、イエス様の言われたことは確かに事実です。ペトロやヨハネがイエス様を教師として選んだのではありませんでした。漁をしていた彼らの生活の中に、イエス様の方から入り込んできたのです。そして、イエス様が彼らを招いて弟子としたのです。
この場面のマタイも同じです。「イエスはそこをたち」(9節)と書かれています。つまり、これは前の場面の続きなのです。イエス様が自分の町、カファルナウムに帰って来た。その事が知れると、大勢の群衆がイエス様の周りに集まってきました。中風の人を床に寝かせたまま連れて来るような人たちもいたのです。しかし、もちろんすべての人がイエス様のもとに集まったわけではないでしょう。そんなことに関心のない人もいたのです。事実、マタイは行かなかったのです。収税所に座って仕事をしていたのです。ナザレのイエスがカファルナウムに帰ってきたことなど、どうでも良かったのです。
彼は「収税所に座って」いました。彼は徴税人です。今日の聖書箇所で、繰り返し徴税人は罪人と並べられています。それは理由のないことではありません。異邦人であるローマ人のために同胞から税金を取り立てる仕事が神に逆らうものとして蔑まれていただけではありません。実際、その業務には不正が入り込む余地がいくらでもありましたし、不正な利得が蓄えられることが行われてきたのです。ですから、「収税所に座っていた」と何気なく表現されているのですが、その言葉は、このマタイという人が、その時まさに罪深い生活の中にどっかりと腰をおろしていたことを暗に示しているのです。
しかし、そのようなマタイに、イエス様の方から目を止められたのでした。そして、彼に言ったのです。「わたしに従いなさい」と。そこで何が起こったのでしょうか。「彼は立ち上がってイエスに従った」と書かれております。
この「立ち上がる」という言葉は、「復活する」という意味で用いられる言葉でもあります。立ち上がったマタイ、復活したマタイ――確かにそうでした。罪の生活の中にどっかりと腰をおろしていた彼が、神との関わりに新しく生き始めた。それは確かに《復活》と表現することができるでしょう。もちろん、それで突然正しく立派な人間になるわけではないでしょう。しかし、ともかく立ち上がったのです。そして、キリストと共に新たに歩みはじめました。それがマタイに起こり、代々のキリスト者に起こり、そして私たちに起こったことなのです。
わたしが来たのは罪人を招くため
そのようにイエス様がマタイを招かれたこと、そしてマタイが立ち上がったことを念頭に置きますと、その後の食事の場面の意味が見えてまいります。10節を御覧ください。「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた」(10節)と書かれています。イエス様は、ここにおいてマタイの仲間と一緒に食事をしているのです。
このような箇所を読みますときに、ともするとこれを単純に「イエス様は誰をも分け隔てしなかった」という話にしてしまいやすいものです。社会から排斥されていた人たちを、イエス様は差別しなかった。彼らとも一緒に食事をしたのだ、と。そんなイエス様に倣いなさいという話にしてしまいやすい。しかし、これはそのような話ではないのです。
ファリサイ派の人たちは「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と弟子たちに言いました。その時、イエス様は「誰をも分け隔てしてはならないからだ」とは答えなかった。そうではなくて、イエス様はこう答えられたのです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(12‐13節)。
「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」。イエス様が引用された言葉は、お気づきと思いますが第一朗読で読まれたホセア書6章6節の御言葉です。ホセア書では「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく」となっていました。そうです、イエス様は父なる神が望んでおられることをしておられたのです。父なる神が喜ぶことをしておられたのです。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。それは徴税人や罪人を愛しておられたからです。そこにあったのは、神に背を向けて生きてきた人たちに対する、深い深い憐れみだったのです。
この福音書を書いたマタイには、その意味することが良く分かっていたに違いありません。なぜなら、にマタイもまたイエス様に招かれた罪人の一人であったからです。そして、イエス様によって生き返らせていただいた一人であったからです。
イエス様が罪人を招くのは、罪から救うためです。イエス様が自らを医者にたとえたように、イエス様が罪人を招くのは罪の病を癒すためです。罪の病とは神との断絶です。永遠の命の源である神から離れてしまっていることです。そのままでは死んでしまうから、罪によって滅びてしまうから、イエス様は罪人を招かれるのです。それゆえに、招かれた罪人は昔からまことの医者なるキリストに、このように祈ってきたのです。「主イエス・キリストよ、罪人なる私を憐れんでください。」と。
そして、事実イエス様はこの地上において、罪人に対する憐れみを目に見える姿で現してくださいました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。そうです、主は罪人を招くために来てくださいました。そして、その罪を全て代わりに負って、十字架にかかって死んでくださったのです。
そして、三日目に復活された憐れみの主が、今も食事の席に私たちを招いてくださっているのです。その意味において、私たちは皆、マタイの家において主と共に食事をする徴税人であり罪人です。この礼拝堂はマタイの家です。罪人たちがイエス様と共に囲んでいる食卓こそ、この聖餐卓なのです。
2017年8月6日日曜日
2017年7月30日日曜日
「神は聞いていてくださる」
2017年7月30日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記 21章9節~21節
イシュマエルの誕生
「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」(9‐10節)。
ここにはアブラハムの二人の息子が出て来ます。一人はアブラハムの妻サラが産んだ子、イサクです。もう一人は「エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子」です。その子の名前はイシュマエルと言います。
イシュマエルはアブラハムが86歳の時の子供です(16:16)。イサクはアブラハムが100歳の時の子供です(21:5)。そうしますと、単純に考えてこの二人の年の差は14歳になります。今日の箇所においては、既にイシュマエルは16歳から17歳ほどになっているはずです。しかし、アブラハムが子供を産んだ年を見てお分かりのように、創世記における年齢は私たちの抱くイメージとはかなり違います。今日お読みした物語においては、まだ二人とも幼子であるものとして読んだ方が理解しやすいでしょう。
ここにはそのような二人の息子が出て来ます。妻サラの産んだ子だけではありません。エジプト人の女奴隷が産んだ子が出て来るのです。そこには当然、理由があります。イシュマエルが誕生する次第は創世記16章に記されています。次のような話です。
アブラハムの妻サラには子供がいませんでした。16章ではまだ名前がアブラムとサライとして出てきますが、子供のいないサライがアブラムに一つの提案をしました。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」(16:2)。今日の私たちの常識からすれば驚くべき提案ですが、当時の社会においては大して珍しいことではなかったようです。他の場面でも似たような提案が当然のことのように出てきますから(創世記30章)。
しかし、重要なのはサライがこう提案した理由です。サライは子供がいなくて寂しいからこのような提案をしたのではないのです。跡継ぎがいないと困るから、このような提案をしたわけでもないのです。これは神の約束に関わっていることだったのです。
そもそもの出発点は、神がアブラムにこう言われたことでした。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」(12:1‐2)。「あなたを大いなる国民にする」とは、要するに子孫を増やすということです。アブラムもサライもこの主の言葉を信じて、旅に出たのです。これがそもそもの発端でした。
さらには創世記15章においても、主はアブラムを外に連れ出してこう言っておられます。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして、言われたのです。「あなたの子孫はこのようになる。」
しかし、実際には子供は生まれませんでした。先ほど引用した16章はこのような言葉で始まります。「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった」(16:1)。神様の約束が実現に向かって進んでいるとは思えませんでした。昨日も今日も何も変わらないのです。何も変わらない日々は永遠に続くように思えました。そこで出てきたのが先ほどの提案だったのです。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」(2節)。
「主はわたしに子供を授けてくださいません」――要するに、「神がしてくださらないならば、私たちの手で実現しましょう」ということです。「もう神に期待することはやめにして、私たちのできる仕方で実現しましょう」ということです。そして、実現したのです。アブラハムは子孫を得ることとなりました。それがイシュマエルでした。しかし、それは「神の約束の成就」ではありませんでした。
当然のことながら、アブラハムがイシュマエルを見る時に、「神様、あなたは真実な御方です」と感謝の祈りを捧げることはできなかったはずです。事実は逆だったからです。過去のある時点において、アブラハムもサラも、神が真実な方であることを信じることをやめた時があった。イシュマエルはまさにその事実を指し示す存在だったからです。
もう苦しまなくてよい
やがて時満ちて、サラにも子供が生まれました。それは神の約束の成就でした。その誕生の次第は今日お読みしました箇所の直前に記されています。アブラハムはその子をイサクと名付けました。「笑い」という意味です。サラは言いました。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」(6節)。その場はまさに喜びと「笑い」に満ちていたことでしょう。真実なる神が与えてくださる喜びです。神の真実なることを知る喜びです。信仰のもたらす喜びがそこにあります。それは確かに信仰生活の一つの姿ではあります。
しかし、そのすぐ後に今日読まれた聖書の言葉があるのです。「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」(9‐10節)。
「イサクをからかっているのを見て」。自分の子供がからかわれていたら、サラが腹を立てるのも無理はないでしょう。――しかし、これは一つの意訳です。もとの言葉は「笑っている」という言葉です。必ずしも嘲って笑っているとは限りません。
そうです。イシュマエルは笑っていたのです。その「笑う」という言葉によってイサク誕生の場面とつながります。神が与えてくださった喜びと笑いに満ちたイサクの誕生。その笑いに満ちているはずの生活の中に、こうして敵意と争い、それゆえの苦しみが入り込んでいるのです。「あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません」。そのように相続問題という形で入り込んできているのです。
どうしてそのような問題が入り込んできたのか。イシュマエルという存在がはっきりと指し示しています。それは不信仰によってだ、と。過去のある時点において、アブラハムもサラも、神が真実な方であることを信じることをやめた時があった。確かにあった。その事実が、今、形を取って現れてきているのだ、と。
「このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。」そう書かれています。神の約束においては、もともと相続問題に由来するこの苦しみはなかったことは分かっています。これは過去のある時点において、神が真実な方であることを信じることをやめた結果であることも分かっているのです。
その結果、自分が苦しむだけではない、サラはサラとして苦しみ、ハガルとイシュマエルも苦しむことになってしまった。アブラハムは、あの時のことを悔やんだかもしれません。なぜ待てなかったのだろう。なぜ神に期待することをやめてしまったのだろう。なぜ神に信頼し続けなかったのだろう。しかし、悔やんでも過去が変わるわけではありません。
しかし、神はそんなアブラハムに現れてこう言われたのです。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」(13節)。
神はこのような事態をもたらしたアブラハムの過去を責めませんでした。そうではなく、「苦しまなくていい。心配しなくていい」と言ってくださったのです。ここに語られていることは何ですか。つまりは不信仰の結果について、神がすべて面倒を見るから、ということでしょう。「あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」。そう神は言ってくださったのです。
そのように、たとえそれが人間の不信仰の結果であれ、罪の結果であれ、愚かさの結果であれ、人間がどうすることもできない事態に、神は慈しみ深く関わってくださるのです。そのような御方が言われるのです。だからもう苦しまなくていい。心配しなくていい、と。
神は聞いていてくださる
そして、神はそのような神であることを、ハガルとその子に対して現されたのでした。それが14節以下に書かれていることです。
「アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた」(14節)。こうしてハガルはアブラハムの家を立ち去ることとなりました。彼女と子供はベエル・シェバの荒れ野をさまよいます。やがてハガルの革袋の水が尽きました。もはやどうすることもできません。子供は次第に弱っていきます。自分は子供を助けることができない。目の前で子供が死んでいくのを見るのは耐えられませんでした。ハガルは灌木の日陰に子供を置いて、遠く離れていきました。子供が泣き出します。母親も遠くで泣いている子供を見て、声を上げて泣きました。
しかし、もはや泣くことしかできないハガルに、神は御使いを遣わしてこう語られたのです。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」(17‐18節)。
泣く声を主は聞いておられました。泣く声は神への祈りとして聞かれていたのです。泣く声の中の言葉にならない祈りを主は聞いておられた。その悲しみも、苦しみもすべて神は聞いていてくださった。その上でまず一番必要なものを与えてくださったのです。それは水ではありませんでした。泣いている子供にとっては、母親に抱き締めてもらうこと。ハガルにとっては、その子をしっかりと抱き締めてあげることでした。
すると彼女の目が開かれたのです。「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた」(19節)。当然のことながら井戸は前からそこにあったのでしょう。彼女が絶望して大声で泣いていたその時に、既にその側には神の備えがあったのです。神は目を開いて、その事実を見せてくださったのでした。
もちろん、それでハガルが過去に帰れるわけではありません。彼女は今置かれている現実を受け入れなくてはなりません。しかし、彼女もまたアブラハムと同じように、彼女が知った神の慈しみの中を生きていくのです。泣く声さえも祈りとして聞いていてくださる神。そして、その嘆きの中に既に備えを置いてくださっている神。そのような神を知った人としてハガルは生きていくのです。イシュマエルと共に。イシュマエルという名前には意味があります。「神は聞いていてくださる」という意味です。
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記 21章9節~21節
イシュマエルの誕生
「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」(9‐10節)。
ここにはアブラハムの二人の息子が出て来ます。一人はアブラハムの妻サラが産んだ子、イサクです。もう一人は「エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子」です。その子の名前はイシュマエルと言います。
イシュマエルはアブラハムが86歳の時の子供です(16:16)。イサクはアブラハムが100歳の時の子供です(21:5)。そうしますと、単純に考えてこの二人の年の差は14歳になります。今日の箇所においては、既にイシュマエルは16歳から17歳ほどになっているはずです。しかし、アブラハムが子供を産んだ年を見てお分かりのように、創世記における年齢は私たちの抱くイメージとはかなり違います。今日お読みした物語においては、まだ二人とも幼子であるものとして読んだ方が理解しやすいでしょう。
ここにはそのような二人の息子が出て来ます。妻サラの産んだ子だけではありません。エジプト人の女奴隷が産んだ子が出て来るのです。そこには当然、理由があります。イシュマエルが誕生する次第は創世記16章に記されています。次のような話です。
アブラハムの妻サラには子供がいませんでした。16章ではまだ名前がアブラムとサライとして出てきますが、子供のいないサライがアブラムに一つの提案をしました。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」(16:2)。今日の私たちの常識からすれば驚くべき提案ですが、当時の社会においては大して珍しいことではなかったようです。他の場面でも似たような提案が当然のことのように出てきますから(創世記30章)。
しかし、重要なのはサライがこう提案した理由です。サライは子供がいなくて寂しいからこのような提案をしたのではないのです。跡継ぎがいないと困るから、このような提案をしたわけでもないのです。これは神の約束に関わっていることだったのです。
そもそもの出発点は、神がアブラムにこう言われたことでした。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」(12:1‐2)。「あなたを大いなる国民にする」とは、要するに子孫を増やすということです。アブラムもサライもこの主の言葉を信じて、旅に出たのです。これがそもそもの発端でした。
さらには創世記15章においても、主はアブラムを外に連れ出してこう言っておられます。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして、言われたのです。「あなたの子孫はこのようになる。」
しかし、実際には子供は生まれませんでした。先ほど引用した16章はこのような言葉で始まります。「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった」(16:1)。神様の約束が実現に向かって進んでいるとは思えませんでした。昨日も今日も何も変わらないのです。何も変わらない日々は永遠に続くように思えました。そこで出てきたのが先ほどの提案だったのです。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」(2節)。
「主はわたしに子供を授けてくださいません」――要するに、「神がしてくださらないならば、私たちの手で実現しましょう」ということです。「もう神に期待することはやめにして、私たちのできる仕方で実現しましょう」ということです。そして、実現したのです。アブラハムは子孫を得ることとなりました。それがイシュマエルでした。しかし、それは「神の約束の成就」ではありませんでした。
当然のことながら、アブラハムがイシュマエルを見る時に、「神様、あなたは真実な御方です」と感謝の祈りを捧げることはできなかったはずです。事実は逆だったからです。過去のある時点において、アブラハムもサラも、神が真実な方であることを信じることをやめた時があった。イシュマエルはまさにその事実を指し示す存在だったからです。
もう苦しまなくてよい
やがて時満ちて、サラにも子供が生まれました。それは神の約束の成就でした。その誕生の次第は今日お読みしました箇所の直前に記されています。アブラハムはその子をイサクと名付けました。「笑い」という意味です。サラは言いました。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」(6節)。その場はまさに喜びと「笑い」に満ちていたことでしょう。真実なる神が与えてくださる喜びです。神の真実なることを知る喜びです。信仰のもたらす喜びがそこにあります。それは確かに信仰生活の一つの姿ではあります。
しかし、そのすぐ後に今日読まれた聖書の言葉があるのです。「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」(9‐10節)。
「イサクをからかっているのを見て」。自分の子供がからかわれていたら、サラが腹を立てるのも無理はないでしょう。――しかし、これは一つの意訳です。もとの言葉は「笑っている」という言葉です。必ずしも嘲って笑っているとは限りません。
そうです。イシュマエルは笑っていたのです。その「笑う」という言葉によってイサク誕生の場面とつながります。神が与えてくださった喜びと笑いに満ちたイサクの誕生。その笑いに満ちているはずの生活の中に、こうして敵意と争い、それゆえの苦しみが入り込んでいるのです。「あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません」。そのように相続問題という形で入り込んできているのです。
どうしてそのような問題が入り込んできたのか。イシュマエルという存在がはっきりと指し示しています。それは不信仰によってだ、と。過去のある時点において、アブラハムもサラも、神が真実な方であることを信じることをやめた時があった。確かにあった。その事実が、今、形を取って現れてきているのだ、と。
「このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。」そう書かれています。神の約束においては、もともと相続問題に由来するこの苦しみはなかったことは分かっています。これは過去のある時点において、神が真実な方であることを信じることをやめた結果であることも分かっているのです。
その結果、自分が苦しむだけではない、サラはサラとして苦しみ、ハガルとイシュマエルも苦しむことになってしまった。アブラハムは、あの時のことを悔やんだかもしれません。なぜ待てなかったのだろう。なぜ神に期待することをやめてしまったのだろう。なぜ神に信頼し続けなかったのだろう。しかし、悔やんでも過去が変わるわけではありません。
しかし、神はそんなアブラハムに現れてこう言われたのです。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」(13節)。
神はこのような事態をもたらしたアブラハムの過去を責めませんでした。そうではなく、「苦しまなくていい。心配しなくていい」と言ってくださったのです。ここに語られていることは何ですか。つまりは不信仰の結果について、神がすべて面倒を見るから、ということでしょう。「あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」。そう神は言ってくださったのです。
そのように、たとえそれが人間の不信仰の結果であれ、罪の結果であれ、愚かさの結果であれ、人間がどうすることもできない事態に、神は慈しみ深く関わってくださるのです。そのような御方が言われるのです。だからもう苦しまなくていい。心配しなくていい、と。
神は聞いていてくださる
そして、神はそのような神であることを、ハガルとその子に対して現されたのでした。それが14節以下に書かれていることです。
「アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた」(14節)。こうしてハガルはアブラハムの家を立ち去ることとなりました。彼女と子供はベエル・シェバの荒れ野をさまよいます。やがてハガルの革袋の水が尽きました。もはやどうすることもできません。子供は次第に弱っていきます。自分は子供を助けることができない。目の前で子供が死んでいくのを見るのは耐えられませんでした。ハガルは灌木の日陰に子供を置いて、遠く離れていきました。子供が泣き出します。母親も遠くで泣いている子供を見て、声を上げて泣きました。
しかし、もはや泣くことしかできないハガルに、神は御使いを遣わしてこう語られたのです。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」(17‐18節)。
泣く声を主は聞いておられました。泣く声は神への祈りとして聞かれていたのです。泣く声の中の言葉にならない祈りを主は聞いておられた。その悲しみも、苦しみもすべて神は聞いていてくださった。その上でまず一番必要なものを与えてくださったのです。それは水ではありませんでした。泣いている子供にとっては、母親に抱き締めてもらうこと。ハガルにとっては、その子をしっかりと抱き締めてあげることでした。
すると彼女の目が開かれたのです。「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた」(19節)。当然のことながら井戸は前からそこにあったのでしょう。彼女が絶望して大声で泣いていたその時に、既にその側には神の備えがあったのです。神は目を開いて、その事実を見せてくださったのでした。
もちろん、それでハガルが過去に帰れるわけではありません。彼女は今置かれている現実を受け入れなくてはなりません。しかし、彼女もまたアブラハムと同じように、彼女が知った神の慈しみの中を生きていくのです。泣く声さえも祈りとして聞いていてくださる神。そして、その嘆きの中に既に備えを置いてくださっている神。そのような神を知った人としてハガルは生きていくのです。イシュマエルと共に。イシュマエルという名前には意味があります。「神は聞いていてくださる」という意味です。
2017年7月23日日曜日
「賢い人と愚かな人」
2017年7月23日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 7章24節~29節
この御方はだれですか
今日は「山上の説教」の最後の部分をお読みしました。次のように締めくくられていました。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(28‐29節)。
イエス様の語り方は、ユダヤ人の律法学者たちとは明らかに異なっていました。それは「山上の説教」だけを読んでもわかります。律法学者なら、あくまでも「律法」を権威あるものとして語ります。律法学者はどんなに高名なラビであっても権威ある律法を解釈する者に過ぎません。そのような者として語ります。しかし、イエス様の語り方はそうではありませんでした。律法が命じていることを引き合いに出した上で、「しかし、わたしは言っておく」と続けるのです。
イエス様は律法のもとに自らを置いて語るのではなく、律法を与えた神の位置に身を置いて語るのです。神の権威をもって神の言葉を語るのです。「彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」とはそういうことです。だから群衆は驚いたのです。
もちろんそれは群衆の驚きだけでは済みません。そんなことをしていれば、やがては律法を重んじる人々の怒りを引き起こすことにもなるのでしょう。律法学者から神を冒涜する者と見なされることにもなるのでしょう。
しかし、そのようなことは百も承知の上で、イエス様は大胆にもこのように語られるのです。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」(24節)と。
「わたしのこれらの言葉」とは、神の位置に身を置いて語ってきた言葉です。ならばそれを「聞いて行う者」というのは、ただ「教えを実践する者」という意味ではありません。そうです。ここには「聞いて行う者」と「聞くだけで行わない者」が出て来るのですが、ここで問題になっているのは単に「教えを聞いて実践するか否か」ということではないのです。聞くだけで実践しなかったら意味がありませんよ、といった表面的なことではないのです。
ここで問題とされているのは、そもそも主の御言葉をどのように受け止めているか、ということなのです。イエス様の語られる言葉を「神の言葉」として受け取っているか、そうでないのか。「しかし、わたしは言っておく」と語られるその言葉に神の権威を認めて、その権威に服して生きようとしているのか、そうでないのか、ということなのです。
それは直接その場でイエス様の言葉を聞いた人に対してだけでなく、この福音書を通してイエス様の言葉を聞いている私たちにも問われていることでもあります。そのつもりでマタイは書いているのです。私たちは本当にその御方に神の権威を認め、その言葉を神の言葉として受け取っているのでしょうか。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と言われるその御方は、わたしにとって、あなたにとって、いったいどのような御方なのでしょうか。
権威ある者として
「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。そのようにイエス様は「権威ある者」として語られました。それが「神の権威」であるならば、それは第一に人間に命じることのできる権威を意味するのでしょう。
神は創造者です。人間は造られた者です。神がそのような神ならば、神は本質的に人間に対して「命じる権威」を持っています。神の律法を与える権威を持っているのです。従順を求める権威を持っているのです。ですから、その権威をもって語られるイエス様も命じるのです。「しかし、わたしは言っておく」と語り、「聞いて行うこと」を求めるのです。従順を求められるのです。
それゆえに、イエス様の語られる言葉を神の言葉として聞くということは、イエス様が命じる権威を持っていることを認めることでもあります。私たちに対するそのような絶対的な権威を認めるということです。私たちに従順を求めることのできる絶対的な権威を認めて、その権威に服するということです。
そして、当然のことながら、命ずることができるということは、裁くこともできるといことでもあります。命ずることのできる権威は、命じたことに従わない者を罪に定めることのできる権威でもあるからです。
神はすべての人間に命じる権威を持っています。神は律法を与える権威を持っています。それゆえに、律法違反を裁く権威を持っています。イエス様に神の権威を認め、イエス様の語られる言葉を神の言葉として聞くということは、イエス様に絶対的な裁きの権威を認めるということでもあります。人間を裁いて罪に定める権威を認めるということです。私たちに対する最後の言葉を持っている御方として、イエス様を見るということです。
それは恐ろしいことでしょうか。いいえ、そうではありません。罪に定める権威を持っているということは、罪を赦す権威を持っているということでもあるからです。最終的に人間を罪に定めることができるのは神です。それゆえに、最終的に人間の罪を赦すことができるのも神なのです。イエス様の語られる言葉を神の言葉として聞くといことは、この御方に罪を赦す絶対的な権威を認めるということでもあるのです。
実際、そのことが問われる場面が後の9章に出て来ます。イエス様のもとに連れて来られた中風の人を主が癒された場面です。イエス様はその人を癒される前に、中風の人にこう言われたのです。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(9:2)。山上の説教において、権威ある者として教えられたイエス様は、同じ権威をもって、神の権威をもって罪の赦しを宣言されるのです。
しかし、それを見ていた律法学者が心の中でつぶやくのです。「この男は神を冒涜している」と。イエス様に神の権威を認めなければ、当然そうなるのです。ですから、山上の説教におけるのと同じ事がそこで問われているのです。その御方に神の権威を認め、その言葉を神の言葉として受け取るのかどうかということです。
イエス様は律法学者たちの心を見抜いてこう言われました。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」(9:6)。そして、中風の人にこう命じたのです。「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」。そのように、命じる権威と罪に定める権威、罪を赦す権威は一つなのです。
そのような権威をもって語られているからこそ、山上の説教において繰り返し語られる「あなたがたの天の父は」という言葉もまた意味を持つのです。先週読まれました「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」という言葉も意味を持つのです。このような言葉は神の権威を持たない者が語ったとしても、意味がないからです。それは辛い時の気休め程度にはなるかもしれませんが、本質的には無意味でしょう。
しかし、その御方は権威ある者として語っておられるのです。神の権威をもって語っておられるのです。最終的に罪に定めることのできる権威をもって、それゆえに罪を赦すことのできる絶対的な権威をもって語っておられるのです。「あなたがたの天の父は」と。そのように、私たちを神の子どもたちとして語るのです。そして、今この世にいる時から、神の子どもたちとして生き始めるようにと命じられるのです。神の絶対的な権威をもって「わたしは言っておく」と語られるのです。
嵐が来ても倒れないように
さて、今日の聖書箇所は岩の上に家を建てた賢い人、砂の上に家を建てた愚かな人について語ります。そこで問題となっているのは土台です。そして、このように語られる神の権威、キリストにおいて現されたこの神の権威こそが、人生を支える揺るぎない土台となるのだということです。それゆえに、イエス様の語られる言葉を「神の言葉」として受け取るか否か、語られるその御方に神の権威を認めて、その権威に服するか否かということが決定的に重要な意味を持つのです。
もう一度お読みします。イエス様は言われました。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(24‐27節)。
「雨が降り、川があふれ、風が吹いて」という言葉は様々な意味に取ることができます。それはこの世における様々な試練を意味するとも言えます。最終的に誰もが直面しなくてはならない自分自身の「死」の問題であるとも言えます。あるいは、終わりの日の裁きを意味するとも言えるでしょう。いずれにせよ、洪水や風に象徴されるのは、人間の力が及ばない現実です。人間の力が及ばない現実は襲って来る。そして私たちの存在が根底から揺さぶられるようなその時は来るのです。その時に私たちは岩の上に立っているのでしょうか。それとも砂の上に立っているのでしょうか。
もちろん、キリスト教との関わり方は幾通りもあるのでしょう。教養としてのキリスト教、生活指針としてのキリスト教、文化としてのキリスト教・・・そのような関わり方もあろうかと思います。「イエス様の言葉は知っています。毎週聞いています」という程度の関わり方もあろうかと思います。
しかし、どこに家を建ててきたかが問われる時は来るのです。岩の上にあるのか砂の上にあるのかが問われるのです。嵐の中で問われるのです。神の権威をもって語られる御方とどう関わってきたか。神の権威によって裁かれ、神の権威によって罪を赦された者として、神の権威をもって語られた神の言葉をどう受け止めてきたか。どのように従ってきたか。砂の上に建ててきたのか。岩の上に建ててきたのか。それが問われるのです。
それゆえにこのたとえ話は私たちに対する招きの言葉でもあります。この御方は神の言葉を語られます。神の言葉に聞き従いなさい。あなたの人生という家を、神の権威という揺るぎない岩の上に建てなさい。嵐が来ても倒れないように、と。
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 7章24節~29節
この御方はだれですか
今日は「山上の説教」の最後の部分をお読みしました。次のように締めくくられていました。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(28‐29節)。
イエス様の語り方は、ユダヤ人の律法学者たちとは明らかに異なっていました。それは「山上の説教」だけを読んでもわかります。律法学者なら、あくまでも「律法」を権威あるものとして語ります。律法学者はどんなに高名なラビであっても権威ある律法を解釈する者に過ぎません。そのような者として語ります。しかし、イエス様の語り方はそうではありませんでした。律法が命じていることを引き合いに出した上で、「しかし、わたしは言っておく」と続けるのです。
イエス様は律法のもとに自らを置いて語るのではなく、律法を与えた神の位置に身を置いて語るのです。神の権威をもって神の言葉を語るのです。「彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」とはそういうことです。だから群衆は驚いたのです。
もちろんそれは群衆の驚きだけでは済みません。そんなことをしていれば、やがては律法を重んじる人々の怒りを引き起こすことにもなるのでしょう。律法学者から神を冒涜する者と見なされることにもなるのでしょう。
しかし、そのようなことは百も承知の上で、イエス様は大胆にもこのように語られるのです。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」(24節)と。
「わたしのこれらの言葉」とは、神の位置に身を置いて語ってきた言葉です。ならばそれを「聞いて行う者」というのは、ただ「教えを実践する者」という意味ではありません。そうです。ここには「聞いて行う者」と「聞くだけで行わない者」が出て来るのですが、ここで問題になっているのは単に「教えを聞いて実践するか否か」ということではないのです。聞くだけで実践しなかったら意味がありませんよ、といった表面的なことではないのです。
ここで問題とされているのは、そもそも主の御言葉をどのように受け止めているか、ということなのです。イエス様の語られる言葉を「神の言葉」として受け取っているか、そうでないのか。「しかし、わたしは言っておく」と語られるその言葉に神の権威を認めて、その権威に服して生きようとしているのか、そうでないのか、ということなのです。
それは直接その場でイエス様の言葉を聞いた人に対してだけでなく、この福音書を通してイエス様の言葉を聞いている私たちにも問われていることでもあります。そのつもりでマタイは書いているのです。私たちは本当にその御方に神の権威を認め、その言葉を神の言葉として受け取っているのでしょうか。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と言われるその御方は、わたしにとって、あなたにとって、いったいどのような御方なのでしょうか。
権威ある者として
「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。そのようにイエス様は「権威ある者」として語られました。それが「神の権威」であるならば、それは第一に人間に命じることのできる権威を意味するのでしょう。
神は創造者です。人間は造られた者です。神がそのような神ならば、神は本質的に人間に対して「命じる権威」を持っています。神の律法を与える権威を持っているのです。従順を求める権威を持っているのです。ですから、その権威をもって語られるイエス様も命じるのです。「しかし、わたしは言っておく」と語り、「聞いて行うこと」を求めるのです。従順を求められるのです。
それゆえに、イエス様の語られる言葉を神の言葉として聞くということは、イエス様が命じる権威を持っていることを認めることでもあります。私たちに対するそのような絶対的な権威を認めるということです。私たちに従順を求めることのできる絶対的な権威を認めて、その権威に服するということです。
そして、当然のことながら、命ずることができるということは、裁くこともできるといことでもあります。命ずることのできる権威は、命じたことに従わない者を罪に定めることのできる権威でもあるからです。
神はすべての人間に命じる権威を持っています。神は律法を与える権威を持っています。それゆえに、律法違反を裁く権威を持っています。イエス様に神の権威を認め、イエス様の語られる言葉を神の言葉として聞くということは、イエス様に絶対的な裁きの権威を認めるということでもあります。人間を裁いて罪に定める権威を認めるということです。私たちに対する最後の言葉を持っている御方として、イエス様を見るということです。
それは恐ろしいことでしょうか。いいえ、そうではありません。罪に定める権威を持っているということは、罪を赦す権威を持っているということでもあるからです。最終的に人間を罪に定めることができるのは神です。それゆえに、最終的に人間の罪を赦すことができるのも神なのです。イエス様の語られる言葉を神の言葉として聞くといことは、この御方に罪を赦す絶対的な権威を認めるということでもあるのです。
実際、そのことが問われる場面が後の9章に出て来ます。イエス様のもとに連れて来られた中風の人を主が癒された場面です。イエス様はその人を癒される前に、中風の人にこう言われたのです。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(9:2)。山上の説教において、権威ある者として教えられたイエス様は、同じ権威をもって、神の権威をもって罪の赦しを宣言されるのです。
しかし、それを見ていた律法学者が心の中でつぶやくのです。「この男は神を冒涜している」と。イエス様に神の権威を認めなければ、当然そうなるのです。ですから、山上の説教におけるのと同じ事がそこで問われているのです。その御方に神の権威を認め、その言葉を神の言葉として受け取るのかどうかということです。
イエス様は律法学者たちの心を見抜いてこう言われました。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」(9:6)。そして、中風の人にこう命じたのです。「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」。そのように、命じる権威と罪に定める権威、罪を赦す権威は一つなのです。
そのような権威をもって語られているからこそ、山上の説教において繰り返し語られる「あなたがたの天の父は」という言葉もまた意味を持つのです。先週読まれました「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」という言葉も意味を持つのです。このような言葉は神の権威を持たない者が語ったとしても、意味がないからです。それは辛い時の気休め程度にはなるかもしれませんが、本質的には無意味でしょう。
しかし、その御方は権威ある者として語っておられるのです。神の権威をもって語っておられるのです。最終的に罪に定めることのできる権威をもって、それゆえに罪を赦すことのできる絶対的な権威をもって語っておられるのです。「あなたがたの天の父は」と。そのように、私たちを神の子どもたちとして語るのです。そして、今この世にいる時から、神の子どもたちとして生き始めるようにと命じられるのです。神の絶対的な権威をもって「わたしは言っておく」と語られるのです。
嵐が来ても倒れないように
さて、今日の聖書箇所は岩の上に家を建てた賢い人、砂の上に家を建てた愚かな人について語ります。そこで問題となっているのは土台です。そして、このように語られる神の権威、キリストにおいて現されたこの神の権威こそが、人生を支える揺るぎない土台となるのだということです。それゆえに、イエス様の語られる言葉を「神の言葉」として受け取るか否か、語られるその御方に神の権威を認めて、その権威に服するか否かということが決定的に重要な意味を持つのです。
もう一度お読みします。イエス様は言われました。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(24‐27節)。
「雨が降り、川があふれ、風が吹いて」という言葉は様々な意味に取ることができます。それはこの世における様々な試練を意味するとも言えます。最終的に誰もが直面しなくてはならない自分自身の「死」の問題であるとも言えます。あるいは、終わりの日の裁きを意味するとも言えるでしょう。いずれにせよ、洪水や風に象徴されるのは、人間の力が及ばない現実です。人間の力が及ばない現実は襲って来る。そして私たちの存在が根底から揺さぶられるようなその時は来るのです。その時に私たちは岩の上に立っているのでしょうか。それとも砂の上に立っているのでしょうか。
もちろん、キリスト教との関わり方は幾通りもあるのでしょう。教養としてのキリスト教、生活指針としてのキリスト教、文化としてのキリスト教・・・そのような関わり方もあろうかと思います。「イエス様の言葉は知っています。毎週聞いています」という程度の関わり方もあろうかと思います。
しかし、どこに家を建ててきたかが問われる時は来るのです。岩の上にあるのか砂の上にあるのかが問われるのです。嵐の中で問われるのです。神の権威をもって語られる御方とどう関わってきたか。神の権威によって裁かれ、神の権威によって罪を赦された者として、神の権威をもって語られた神の言葉をどう受け止めてきたか。どのように従ってきたか。砂の上に建ててきたのか。岩の上に建ててきたのか。それが問われるのです。
それゆえにこのたとえ話は私たちに対する招きの言葉でもあります。この御方は神の言葉を語られます。神の言葉に聞き従いなさい。あなたの人生という家を、神の権威という揺るぎない岩の上に建てなさい。嵐が来ても倒れないように、と。
2017年6月4日日曜日
「それは突然はじまった」
2017年6月4日 聖霊降臨祭
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 2章1節~11節
神のお働きに心を向けよう
今日はペンテコステ(聖霊降臨祭)です。毎年この日には使徒言行録2章が読まれます。教会がどのように誕生し、その宣教の歴史がどのようにスタートしたかを伝える聖書箇所です。もう一度お読みします。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:1‐4)。
実に奇妙な描写です。しかし、代々の教会はこの奇妙な物語を毎年繰り返し朗読しながら聖霊降臨祭を祝ってきたのです。それはなぜでしょう。それはこの物語に耳を傾けて、繰り返し思い出さなくてはならないことがあるからです。「宣教は神が開始され、神が継続しておられる、神のお働きである」ということです。私たちが、まず人間がすることにではなく、まず神のお働きに思いを向けるようにと、この出来事は伝えられているのです。
先ほどの聖書箇所を御覧ください。2節に「突然」と書かれています。それは「突然」始まったのです。つまり人間が考えて、人間が計画して、人間が準備して実現したことではない、ということです。
続いて、「激しい風が吹いて来るような音」が聞こえたと書かれています。「ような」という言葉は大事です。あくまでもその「ような」音なのであって、私たちが日常に経験する「激しい風」とは異なるものです。また、それは「天から」聞こえた、と記されております。それは、単に方向を言っているのではありません。この世界の中からではなくて、向こうから、神から来ていることを意味しています。また「炎のような舌」が現れたことが記されています。これも明らかに人間の経験の中にある「炎」でもなければ「舌」でもありません。
これらすべての表現は、この出来事が向こうから到来したことを示しています。こちらが引き起こしたのではない。人間が教会を生み出したのではないし、人間が宣教を開始したのでもないのです。教会は、誰か強力な指導力を持つ人物が現れて弟子たちをとりまとめて作ったのではないのです。弟子たちが自主的に一つのイデオロギーのもとに団結して教会を作ったというのでもない。共通の課題や共通の敵に対して一つにまとまった結果、教会が生まれたのでもないのです。
既に見たように、ここに書かれている激しい風も、炎も、この世界から出たのではなく、神からのものです。この風はこの世の思想の風でもないし、この炎は人間が煽って燃え上がる熱狂や情熱でもありません。そんなものとは全く関係なく教会は誕生し、教会の働きは開始したのです。
だから代々の教会は、教会の全ての営みにおいても、天からの出来事、聖霊による出来事が起こっていると信じてきたのです。
例えば、この後に洗礼式があります。水を用意することも、水をかけることも人間がすることです。しかし、もし洗礼式が単に人間が行うことであり、この世のことであるに過ぎないなら、これほどつまらないものはありません。洗礼を受ける人は、水をかけられて冷たい思いをするだけです。しかし、実際にはそうではないからこそ、2000年間も教会はこれを続けてきたのです。
迫害があろうが何があろうが、止めなかったのです。単なるこの世のことではないからです。そこで天からの出来事が起こるからです。神の霊による出来事が起こるからです。そこで人はキリストと一つになり、キリストによる罪の贖いにあずかり、キリストと共に死んで新しく生まれるのです。そこに天からの出来事、神による目に見えない出来事が起こるのです。
その後の聖餐も同じです。小さなパンのかけらと小さなカップが分けられます。パンとぶどう汁を用意することも、それを分け与えることも人間がすることです。この世のことです。もし聖餐式がこの世のことであるに過ぎないなら、これほどつまらないものはありません。しかし、実際にはそうではないからこそ、2000年間も教会はこれを続けてきたのです。
途中で止めてしまわなかった。迫害があろうが何があろうが、止めなかったのです。なぜなら、単なるこの世のことではないからです。そこで天からの出来事が起こる。神の霊による出来事が起こる。私たちがパンを目で見、この舌で味わい、食べて内に入るように、それほど確かに、キリストの十字架による罪の贖いの恵みに私たちは繰り返し与るのです。またパンがこの肉体の命を養うように、キリストの体と血とにあずかって、永遠の命の養いを受けるのです。
いや、特に洗礼と聖餐だけに限りません。この礼拝そのものが既に神の御業なのです。私たちがこうして目に見えない御方に向かい、心を合わせて讃美をしている。毎日辛い目に遭っている人であっても日曜日にはここに来て神を誉めたたえる。当たり前のことですか。しかも、もともと全く違うところにいた私たちが、全く違うように生きてきた私たちが、今、こうして心を合わせて礼拝を捧げている。当たり前のことですか。そうではありません。そこで既に天からの出来事に触れているのです。私たちは今日、ここにおいて神の大きなお働きのただ中にいるのです。
神のお働きのために用いていただこう
今年もこの奇妙な物語が読み上げられました。私たちはこれを聞いて、まず神のお働きに思いを向けてきました。「宣教は神が開始され、神が継続しておられる、神のお働きである」と。
その上で、今度は「人間」に思いを向けることにしましょう。そこには「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」たことや「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」たことだけが書かれていたのではありません。さらに次のように書かれていたのです。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(4節)。
聖霊に満たされたのは人間です。ほかの国々の言葉で話しているのも人間です。わたしや皆さんと同じ人間です。この物語は明らかに人間についても語っているのです。「聖霊に満たされた」人間についてです。
「聖霊に満たされる」という言い方に良く似た表現が聖書には出て来ます。例えば、「怒りに満たされる」。新共同訳ですと「憤慨する」(ルカ4:28)などと意訳されています。あるいは、「恐れに満たされる」という表現。「妬みに満たされる」という表現。いずれも意味合いは分かりますでしょう。
怒りに満たされたことありますか。もう腹が立って、腹が立って仕方がない。もう我慢ができなくなってしまう。自分の押さえが利かなくなってしまう。怒りによって動かされるままに、言わなくてもいいことを言ったりいたします。叩いてはいけないのに叩いたりしてしまうこともある。そのように、「満たされる」というのは、「支配される」ことなのです。自分が自分を支配できずに、怒りによって支配され、動かされてしまう。それが「怒りに満たされる」ということです。
満たされるのが「怒り」であるのは決して望ましいことではありませんが、これが「聖霊」だったらどうでしょう。聖霊によって満たされ、神の霊によって支配されるのなら、それは実に喜ばしいことです。神の愛によって動かされる、すべての人を救いたいという神の思いによって動かされる。この世界を救う神の力に満たされ、私たちを通して神の救いの力が現れ、神の御業が現れる。そのように、まさに神様御自身に支配され、神様が御自身を現してくださる。それが聖霊に満たされるということです。
「一同は聖霊に満たされた」。神様はそこにいた一同を聖霊に満たしたのです。何のためですか。もちろん、彼らを用いるためにです。そのようにして、あらゆる国々、あらゆる言語を持つすべての民族に、救いを実現するためです。その意味で、「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」という出来事は、極めて象徴的な出来事だったと言えるでしょう。神はこの世界の救いのために彼らを用いようとしておられたのです。
考えて見れば不思議なことです。この世界を救うならば、神様が直接なさった方がよいのではないでしょうか。それこそ激しい風が吹いて来るような音が天から響くような仕方で、炎のような舌が現れるような不思議な仕方で、完全に超自然的な仕方で天から直接人々を救ったらよいではありませんか。
ところが、どうも神様はそのようなことを望んではおられないようです。あくまでも神様は人間を用いて人間を救おうとしておられる。激しい風が吹いて来るような音が天から響いたのは最初だけです。炎のような舌が現れたのも最初のこの時一回限りです。それ以降は、人を聖霊に満たし、人を用いて、人を通して神様は救いの御業を進めてこられたのです。
そのようにして、この下北沢に教会が存在しているのです。そのようにして、私たちもここに集められているのです。実際そうでしょう。突然、炎のような舌が現れて、その舌に導かれてここに来た人、いますか?いないだろうと思います。誰かが神に用いられたから、わたしがここにいるし、皆さんもここにいるのでしょう。そのように、人間を通して働かれる神の御業の中に私たちも存在しているのです。ならば、今度は私たちの番ではありませんか。神様は私たちをも聖霊に満たし、私たちを用いて、さらに救いの御業を進めようとしておられるのです。
聖霊に満たされることを求めましょう。あの弟子たちが「心を合わせて熱心に祈っていた」ように、ひたすら祈り求めましょう。怒りや恐れに満たされて、妬みに満たされて、支配されて、人生を使われてしまうのは悲しいことです。聖霊に満たされ、聖霊に支配されて生きることを求めましょう。それは単に私たち自身のためではありません。私たちの家族の救いのためであり、友人の救いのためであり、さらに言えば、この世の救いのためなのです。神は私たちを用いて人を救おうとしておられる。神の救いを運ぶ器とならせていただきましょう。
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 2章1節~11節
神のお働きに心を向けよう
今日はペンテコステ(聖霊降臨祭)です。毎年この日には使徒言行録2章が読まれます。教会がどのように誕生し、その宣教の歴史がどのようにスタートしたかを伝える聖書箇所です。もう一度お読みします。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:1‐4)。
実に奇妙な描写です。しかし、代々の教会はこの奇妙な物語を毎年繰り返し朗読しながら聖霊降臨祭を祝ってきたのです。それはなぜでしょう。それはこの物語に耳を傾けて、繰り返し思い出さなくてはならないことがあるからです。「宣教は神が開始され、神が継続しておられる、神のお働きである」ということです。私たちが、まず人間がすることにではなく、まず神のお働きに思いを向けるようにと、この出来事は伝えられているのです。
先ほどの聖書箇所を御覧ください。2節に「突然」と書かれています。それは「突然」始まったのです。つまり人間が考えて、人間が計画して、人間が準備して実現したことではない、ということです。
続いて、「激しい風が吹いて来るような音」が聞こえたと書かれています。「ような」という言葉は大事です。あくまでもその「ような」音なのであって、私たちが日常に経験する「激しい風」とは異なるものです。また、それは「天から」聞こえた、と記されております。それは、単に方向を言っているのではありません。この世界の中からではなくて、向こうから、神から来ていることを意味しています。また「炎のような舌」が現れたことが記されています。これも明らかに人間の経験の中にある「炎」でもなければ「舌」でもありません。
これらすべての表現は、この出来事が向こうから到来したことを示しています。こちらが引き起こしたのではない。人間が教会を生み出したのではないし、人間が宣教を開始したのでもないのです。教会は、誰か強力な指導力を持つ人物が現れて弟子たちをとりまとめて作ったのではないのです。弟子たちが自主的に一つのイデオロギーのもとに団結して教会を作ったというのでもない。共通の課題や共通の敵に対して一つにまとまった結果、教会が生まれたのでもないのです。
既に見たように、ここに書かれている激しい風も、炎も、この世界から出たのではなく、神からのものです。この風はこの世の思想の風でもないし、この炎は人間が煽って燃え上がる熱狂や情熱でもありません。そんなものとは全く関係なく教会は誕生し、教会の働きは開始したのです。
だから代々の教会は、教会の全ての営みにおいても、天からの出来事、聖霊による出来事が起こっていると信じてきたのです。
例えば、この後に洗礼式があります。水を用意することも、水をかけることも人間がすることです。しかし、もし洗礼式が単に人間が行うことであり、この世のことであるに過ぎないなら、これほどつまらないものはありません。洗礼を受ける人は、水をかけられて冷たい思いをするだけです。しかし、実際にはそうではないからこそ、2000年間も教会はこれを続けてきたのです。
迫害があろうが何があろうが、止めなかったのです。単なるこの世のことではないからです。そこで天からの出来事が起こるからです。神の霊による出来事が起こるからです。そこで人はキリストと一つになり、キリストによる罪の贖いにあずかり、キリストと共に死んで新しく生まれるのです。そこに天からの出来事、神による目に見えない出来事が起こるのです。
その後の聖餐も同じです。小さなパンのかけらと小さなカップが分けられます。パンとぶどう汁を用意することも、それを分け与えることも人間がすることです。この世のことです。もし聖餐式がこの世のことであるに過ぎないなら、これほどつまらないものはありません。しかし、実際にはそうではないからこそ、2000年間も教会はこれを続けてきたのです。
途中で止めてしまわなかった。迫害があろうが何があろうが、止めなかったのです。なぜなら、単なるこの世のことではないからです。そこで天からの出来事が起こる。神の霊による出来事が起こる。私たちがパンを目で見、この舌で味わい、食べて内に入るように、それほど確かに、キリストの十字架による罪の贖いの恵みに私たちは繰り返し与るのです。またパンがこの肉体の命を養うように、キリストの体と血とにあずかって、永遠の命の養いを受けるのです。
いや、特に洗礼と聖餐だけに限りません。この礼拝そのものが既に神の御業なのです。私たちがこうして目に見えない御方に向かい、心を合わせて讃美をしている。毎日辛い目に遭っている人であっても日曜日にはここに来て神を誉めたたえる。当たり前のことですか。しかも、もともと全く違うところにいた私たちが、全く違うように生きてきた私たちが、今、こうして心を合わせて礼拝を捧げている。当たり前のことですか。そうではありません。そこで既に天からの出来事に触れているのです。私たちは今日、ここにおいて神の大きなお働きのただ中にいるのです。
神のお働きのために用いていただこう
今年もこの奇妙な物語が読み上げられました。私たちはこれを聞いて、まず神のお働きに思いを向けてきました。「宣教は神が開始され、神が継続しておられる、神のお働きである」と。
その上で、今度は「人間」に思いを向けることにしましょう。そこには「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」たことや「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」たことだけが書かれていたのではありません。さらに次のように書かれていたのです。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(4節)。
聖霊に満たされたのは人間です。ほかの国々の言葉で話しているのも人間です。わたしや皆さんと同じ人間です。この物語は明らかに人間についても語っているのです。「聖霊に満たされた」人間についてです。
「聖霊に満たされる」という言い方に良く似た表現が聖書には出て来ます。例えば、「怒りに満たされる」。新共同訳ですと「憤慨する」(ルカ4:28)などと意訳されています。あるいは、「恐れに満たされる」という表現。「妬みに満たされる」という表現。いずれも意味合いは分かりますでしょう。
怒りに満たされたことありますか。もう腹が立って、腹が立って仕方がない。もう我慢ができなくなってしまう。自分の押さえが利かなくなってしまう。怒りによって動かされるままに、言わなくてもいいことを言ったりいたします。叩いてはいけないのに叩いたりしてしまうこともある。そのように、「満たされる」というのは、「支配される」ことなのです。自分が自分を支配できずに、怒りによって支配され、動かされてしまう。それが「怒りに満たされる」ということです。
満たされるのが「怒り」であるのは決して望ましいことではありませんが、これが「聖霊」だったらどうでしょう。聖霊によって満たされ、神の霊によって支配されるのなら、それは実に喜ばしいことです。神の愛によって動かされる、すべての人を救いたいという神の思いによって動かされる。この世界を救う神の力に満たされ、私たちを通して神の救いの力が現れ、神の御業が現れる。そのように、まさに神様御自身に支配され、神様が御自身を現してくださる。それが聖霊に満たされるということです。
「一同は聖霊に満たされた」。神様はそこにいた一同を聖霊に満たしたのです。何のためですか。もちろん、彼らを用いるためにです。そのようにして、あらゆる国々、あらゆる言語を持つすべての民族に、救いを実現するためです。その意味で、「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」という出来事は、極めて象徴的な出来事だったと言えるでしょう。神はこの世界の救いのために彼らを用いようとしておられたのです。
考えて見れば不思議なことです。この世界を救うならば、神様が直接なさった方がよいのではないでしょうか。それこそ激しい風が吹いて来るような音が天から響くような仕方で、炎のような舌が現れるような不思議な仕方で、完全に超自然的な仕方で天から直接人々を救ったらよいではありませんか。
ところが、どうも神様はそのようなことを望んではおられないようです。あくまでも神様は人間を用いて人間を救おうとしておられる。激しい風が吹いて来るような音が天から響いたのは最初だけです。炎のような舌が現れたのも最初のこの時一回限りです。それ以降は、人を聖霊に満たし、人を用いて、人を通して神様は救いの御業を進めてこられたのです。
そのようにして、この下北沢に教会が存在しているのです。そのようにして、私たちもここに集められているのです。実際そうでしょう。突然、炎のような舌が現れて、その舌に導かれてここに来た人、いますか?いないだろうと思います。誰かが神に用いられたから、わたしがここにいるし、皆さんもここにいるのでしょう。そのように、人間を通して働かれる神の御業の中に私たちも存在しているのです。ならば、今度は私たちの番ではありませんか。神様は私たちをも聖霊に満たし、私たちを用いて、さらに救いの御業を進めようとしておられるのです。
聖霊に満たされることを求めましょう。あの弟子たちが「心を合わせて熱心に祈っていた」ように、ひたすら祈り求めましょう。怒りや恐れに満たされて、妬みに満たされて、支配されて、人生を使われてしまうのは悲しいことです。聖霊に満たされ、聖霊に支配されて生きることを求めましょう。それは単に私たち自身のためではありません。私たちの家族の救いのためであり、友人の救いのためであり、さらに言えば、この世の救いのためなのです。神は私たちを用いて人を救おうとしておられる。神の救いを運ぶ器とならせていただきましょう。
2017年5月28日日曜日
「平和のきずなで結ばれて」
2017年5月28日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 エフェソの信徒への手紙 4章1節~16節
神から招かれたのですから
今日の聖書箇所には「神から招かれたのですから」と書かれていました。そのように聖書は「神の招き」について語ります。そう、私たちは神に招かれて、神に呼ばれてここにいるのです。
教会に身を置いていること、神を礼拝していること、聖書の言葉に耳を傾けていること、神を信じていること、洗礼を受けたこと、これらすべてのことは、単に私たちがそうしたいと思ったから実現したのではありません。思い起こしてみてください。それらは私たちの意志とは無関係に与えられた様々な出来事や様々な出会いがあって、初めて実現したことです。それらはすべて向こうからやってきたものです。
向こうからやってきた全てを通して、神が招いてくださった。そうして、私たちは集められたのです。ですからそのような集まりは初めの頃から「エクレーシア」と呼ばれていました。日本語ですと「教会」と訳されます。しかし、「エクレーシア」とはもともと「呼び集められたもの」という意味です。神に呼び集められた共同体、それが教会です。
神が私たちを集めたのならば、そこには神の意図があるはずです。人が薪を集めるなら、それは火にくべるためです。神が人を集めるならば、それは地獄の火にくべるためであってもおかしくはありません。人間の罪深さを思い、自分自身の罪深さを思うならば、それもまた一つの可能性です。本来ならば、そちらの方の可能性が高いとも言えます。
しかし、集められた私たちは全く異なる言葉を聞いたのです。神からの断罪の言葉ではなく、神に呼び集められて、赦しの言葉を聞いたのです。イエス・キリストは私たちの罪の贖いとして十字架にかかってくださった。その十字架のゆえに「あなたの罪は赦された」という言葉を聞いたのです。
「神から招かれたのですから」。私たちを招き、呼び集めてくださったのは、イエス・キリストの神でした。私たちを救うために、イエス・キリストをこの世に送ってくださった神でした。私たちを愛し、赦し、救ってくださる神が、私たちを招いてくださいました。それゆえに、今、私たちはここにいるのです。
ふさわしく歩みなさい
そのように、聖書は「神の招き」について語ります。ならば、そこには「招かれた者」としてのふさわしい生活があるはずです。それゆえに「神から招かれたのですから」という言葉はこう続くのです。「その招きにふさわしく歩み(なさい)」。
「神の招きにふさわしい歩み」とはどのような生活を意味するのでしょう。神に招かれ、救いの恵みにあずかった人々に、神どのような生活を期待しておられるのでしょうか。先ほどの言葉はこう続くのです。「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(1‐3節)。
神が望んでおられるのは、神に招かれた者たちが一つになることです。単に個々の人間がそれぞれ優れた徳を身に着けることを望んでおられるのではありません。一つになることです。ですから、パウロは「一つ」という言葉を連呼するのです。「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです」(4節)。「体」とはこの場合、教会のことです。私たちは神に招かれた者として、一つの希望、神の国の希望を共有しているのです。
さらに続けます。「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」(5‐6節)。
そのように神が望んでおられるのは私たちが一つになることです。引き裂かれたこの世界のただ中で、分かれ争い憎み合っているこの世界のただ中で、招かれた私たちが一つになることです。そのようにして神の国を指し示すしるしとなることです。
そこで大事になってくるのが「一切高ぶることなく、柔和で・・・」と続く部分なのです。「高ぶることなく」と訳されているのは「謙遜」という意味の言葉です。「謙遜」「柔和」「寛容」「忍耐」。これらはすべて人と人との関わりに関係しています。招かれ、呼び集められた者たちが一つとなるために必要とされるものなのです。
そして、それらはすべて「こちら側」のことなのです。人と人とが一つになれない時、私たちは相手側を問題にしてしまうものでしょう。他者を問題にしてしまうものでしょう。しかし、まず省みなくてはならないのは自分自身なのです。「謙遜」「柔和」「寛容」「忍耐」。他者がどうであるかではなく、まずはこちら側のことなのです。
その上で「共に」ということが語られます。「平和のきずなで結ばれて」。この「きずな」というのは「共に結びつけるもの」という意味の言葉です。きずなというのは自分一人が結ばれていても意味がありません。共に結ばれてこそ「一つにする」という意味を持つのです。
共に結びつける「平和のきずな」は自分たちが造り出したものではありません。それは与えられたものです。「神から招かれたのですから」。そのように神から招かれて、与えられたのはキリストでした。
キリストこそが、私たちに与えられた「平和のきずな」です。最初の弟子たちが、ユダヤ人たちを恐れて家の戸に鍵をかけて閉じこもっていたとき、復活したイエス様が真ん中に立ってこう言われました。「あなたがたに平和があるように」。そして、聖書にはこう書かれているのです。「そう言って、手とわき腹とをお見せになった」(ヨハネ20:20)。手とわき腹には傷跡があるのです。十字架にかけられた傷跡があるのです。十字架にかけられたキリストこそが、私たちの平和です。私たちに与えられた「平和のきずな」です。
私たちは、あの御方の十字架のゆえに罪を赦され、あの御方によって共に結びあわされているのです。ならば大事なのは、私たちそれぞれが平和のきずなであるイエス様にしっかりとつながって生きていることでしょう。そうあってこそ、「霊による一致を保つ」ことができるのです。それは神の霊による一致です。
異なる者たちが信仰において一つに
そのように、神が望んでおられるのは私たちが一つになることです。それが神の招きにふさわしく歩むということです。そして、既に述べたように、それは平和のきずなで結ばれた、神の霊による一致です。人為的に造り出されたような全体主義的な一致ではありません。多様性が否定され、皆が同じであることを強要され、個が全体の中に解消されてしまうような一致ではありません。
ですからパウロはさらにこう続けるのです。「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」(7節)。今度は「一人一人」の話が出てくるのです。
一人一人にはキリストの賜物のはかりによって、異なる恵みの賜物が与えられているのです。ここでは特に教会の職務との関連において語られています。「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです」(11節)。実際には今日の私たちの教会においては「使徒」という務めはありませんし、「預言者」という職務も見られません。それらは歴史的に変遷するものです。いずれにせよ、ここで言いたい最も大事なことは、主が異なる働きを各自に与えているということです。
私たちは互いに異なることを重んじなくてはなりません。自分に与えられていないものが他の人に与えられていることを喜ばなくてはなりません。与えられている賜物が異なるのは、務めが異なるからなのだということを認めなくてはなりません。他の人と同じことを同じようにしようとする必要はありませんし、他の人に同じことを同じようにすることを要求してはならないのです。大事なことは、12節にあるように、互いに異なる者が一緒に「キリストの体を造り上げ」ていくことなのです。
パウロが言うように教会はキリストの体です。それは既にキリストの体であるということでもあります。しかし、それゆえにまた教会は「キリストの体」として目に見える形に造り上げられねばならないのです。
それはどのように造り上げられていくのでしょう。今年の年度聖句は今日の聖書箇所から取られました。毎週の週報に書かれています。「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」(16節)。
私たちは「神から招かれました」。そして、これが招きにふさわしく歩んで一つとなっていくという具体的な姿です。キリストにあって、あらゆる節々が補い合うことによってしっかりと組み合わされるとは私たちそれぞれにとって何を意味するのか。おのおのの部分が分に応じて働いて体を成長させるということは、この教会にとってどのようなことなのか。自ら愛によって造り上げられていく教会とはいかなる教会であるのか。この課題に今年度じっくり取り組んでいきたいと思います。
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 エフェソの信徒への手紙 4章1節~16節
神から招かれたのですから
今日の聖書箇所には「神から招かれたのですから」と書かれていました。そのように聖書は「神の招き」について語ります。そう、私たちは神に招かれて、神に呼ばれてここにいるのです。
教会に身を置いていること、神を礼拝していること、聖書の言葉に耳を傾けていること、神を信じていること、洗礼を受けたこと、これらすべてのことは、単に私たちがそうしたいと思ったから実現したのではありません。思い起こしてみてください。それらは私たちの意志とは無関係に与えられた様々な出来事や様々な出会いがあって、初めて実現したことです。それらはすべて向こうからやってきたものです。
向こうからやってきた全てを通して、神が招いてくださった。そうして、私たちは集められたのです。ですからそのような集まりは初めの頃から「エクレーシア」と呼ばれていました。日本語ですと「教会」と訳されます。しかし、「エクレーシア」とはもともと「呼び集められたもの」という意味です。神に呼び集められた共同体、それが教会です。
神が私たちを集めたのならば、そこには神の意図があるはずです。人が薪を集めるなら、それは火にくべるためです。神が人を集めるならば、それは地獄の火にくべるためであってもおかしくはありません。人間の罪深さを思い、自分自身の罪深さを思うならば、それもまた一つの可能性です。本来ならば、そちらの方の可能性が高いとも言えます。
しかし、集められた私たちは全く異なる言葉を聞いたのです。神からの断罪の言葉ではなく、神に呼び集められて、赦しの言葉を聞いたのです。イエス・キリストは私たちの罪の贖いとして十字架にかかってくださった。その十字架のゆえに「あなたの罪は赦された」という言葉を聞いたのです。
「神から招かれたのですから」。私たちを招き、呼び集めてくださったのは、イエス・キリストの神でした。私たちを救うために、イエス・キリストをこの世に送ってくださった神でした。私たちを愛し、赦し、救ってくださる神が、私たちを招いてくださいました。それゆえに、今、私たちはここにいるのです。
ふさわしく歩みなさい
そのように、聖書は「神の招き」について語ります。ならば、そこには「招かれた者」としてのふさわしい生活があるはずです。それゆえに「神から招かれたのですから」という言葉はこう続くのです。「その招きにふさわしく歩み(なさい)」。
「神の招きにふさわしい歩み」とはどのような生活を意味するのでしょう。神に招かれ、救いの恵みにあずかった人々に、神どのような生活を期待しておられるのでしょうか。先ほどの言葉はこう続くのです。「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(1‐3節)。
神が望んでおられるのは、神に招かれた者たちが一つになることです。単に個々の人間がそれぞれ優れた徳を身に着けることを望んでおられるのではありません。一つになることです。ですから、パウロは「一つ」という言葉を連呼するのです。「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです」(4節)。「体」とはこの場合、教会のことです。私たちは神に招かれた者として、一つの希望、神の国の希望を共有しているのです。
さらに続けます。「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」(5‐6節)。
そのように神が望んでおられるのは私たちが一つになることです。引き裂かれたこの世界のただ中で、分かれ争い憎み合っているこの世界のただ中で、招かれた私たちが一つになることです。そのようにして神の国を指し示すしるしとなることです。
そこで大事になってくるのが「一切高ぶることなく、柔和で・・・」と続く部分なのです。「高ぶることなく」と訳されているのは「謙遜」という意味の言葉です。「謙遜」「柔和」「寛容」「忍耐」。これらはすべて人と人との関わりに関係しています。招かれ、呼び集められた者たちが一つとなるために必要とされるものなのです。
そして、それらはすべて「こちら側」のことなのです。人と人とが一つになれない時、私たちは相手側を問題にしてしまうものでしょう。他者を問題にしてしまうものでしょう。しかし、まず省みなくてはならないのは自分自身なのです。「謙遜」「柔和」「寛容」「忍耐」。他者がどうであるかではなく、まずはこちら側のことなのです。
その上で「共に」ということが語られます。「平和のきずなで結ばれて」。この「きずな」というのは「共に結びつけるもの」という意味の言葉です。きずなというのは自分一人が結ばれていても意味がありません。共に結ばれてこそ「一つにする」という意味を持つのです。
共に結びつける「平和のきずな」は自分たちが造り出したものではありません。それは与えられたものです。「神から招かれたのですから」。そのように神から招かれて、与えられたのはキリストでした。
キリストこそが、私たちに与えられた「平和のきずな」です。最初の弟子たちが、ユダヤ人たちを恐れて家の戸に鍵をかけて閉じこもっていたとき、復活したイエス様が真ん中に立ってこう言われました。「あなたがたに平和があるように」。そして、聖書にはこう書かれているのです。「そう言って、手とわき腹とをお見せになった」(ヨハネ20:20)。手とわき腹には傷跡があるのです。十字架にかけられた傷跡があるのです。十字架にかけられたキリストこそが、私たちの平和です。私たちに与えられた「平和のきずな」です。
私たちは、あの御方の十字架のゆえに罪を赦され、あの御方によって共に結びあわされているのです。ならば大事なのは、私たちそれぞれが平和のきずなであるイエス様にしっかりとつながって生きていることでしょう。そうあってこそ、「霊による一致を保つ」ことができるのです。それは神の霊による一致です。
異なる者たちが信仰において一つに
そのように、神が望んでおられるのは私たちが一つになることです。それが神の招きにふさわしく歩むということです。そして、既に述べたように、それは平和のきずなで結ばれた、神の霊による一致です。人為的に造り出されたような全体主義的な一致ではありません。多様性が否定され、皆が同じであることを強要され、個が全体の中に解消されてしまうような一致ではありません。
ですからパウロはさらにこう続けるのです。「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」(7節)。今度は「一人一人」の話が出てくるのです。
一人一人にはキリストの賜物のはかりによって、異なる恵みの賜物が与えられているのです。ここでは特に教会の職務との関連において語られています。「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです」(11節)。実際には今日の私たちの教会においては「使徒」という務めはありませんし、「預言者」という職務も見られません。それらは歴史的に変遷するものです。いずれにせよ、ここで言いたい最も大事なことは、主が異なる働きを各自に与えているということです。
私たちは互いに異なることを重んじなくてはなりません。自分に与えられていないものが他の人に与えられていることを喜ばなくてはなりません。与えられている賜物が異なるのは、務めが異なるからなのだということを認めなくてはなりません。他の人と同じことを同じようにしようとする必要はありませんし、他の人に同じことを同じようにすることを要求してはならないのです。大事なことは、12節にあるように、互いに異なる者が一緒に「キリストの体を造り上げ」ていくことなのです。
パウロが言うように教会はキリストの体です。それは既にキリストの体であるということでもあります。しかし、それゆえにまた教会は「キリストの体」として目に見える形に造り上げられねばならないのです。
それはどのように造り上げられていくのでしょう。今年の年度聖句は今日の聖書箇所から取られました。毎週の週報に書かれています。「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」(16節)。
私たちは「神から招かれました」。そして、これが招きにふさわしく歩んで一つとなっていくという具体的な姿です。キリストにあって、あらゆる節々が補い合うことによってしっかりと組み合わされるとは私たちそれぞれにとって何を意味するのか。おのおのの部分が分に応じて働いて体を成長させるということは、この教会にとってどのようなことなのか。自ら愛によって造り上げられていく教会とはいかなる教会であるのか。この課題に今年度じっくり取り組んでいきたいと思います。
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エフェソの信徒への手紙,
新約聖書
2017年4月16日日曜日
「終わりは新しい始まりに」
2017年4月16日 復活祭
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 28章1節~10節
終わりを見つめる人々
今年もこうして復活祭を共に祝えますことを嬉しく思います。復活祭は喜びの祝祭です。その喜びの祝祭においてキリスト復活の物語が朗読されました。今年はマタイによる福音書から読まれました。それは喜びの物語です。
しかし、先ほど読まれましたように、その物語は喜びから始まっているわけではありません。それは深い深い悲しみから始まります。こう書かれていました。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」(1節)。
そのように、彼女たちは「墓を見に行った」と書かれています。実際には墓を見に行ったわけではありません。他の福音書を読むと分かります。彼らは香料と油を塗って御遺体の処置をするために行ったのです。しかし、今日お読みした箇所では、単純に「墓を見に行った」と書かれているのです。
その二日前、イエス様が葬られたその日にも、墓を見つめる二人の姿がそこにありました。聖書にはこう書かれています。「ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた」(59‐61節)。
葬りを終えてヨセフが立ち去った後も、ずっとそこに座ったまま墓を見つめ、墓の入り口をふさぐ大きな石を見つめて動こうとしない彼女たちの姿がそこにありました。その思いは、ある意味で痛いほど分かります。彼女たちが墓を見つめていたのは、そこにイエス様が葬られたからです。それはイエス様の最終的に行き着いた場所だったからです。それは彼女たちが行き着いた場所でもありました。
どれほど前かはわかりませんが、彼女たちにもイエス様との出会いの時があったのでしょう。それぞれイエス様に従い始めました。一緒に旅をしてきました。喜びも悲しみも共有しながら一緒に歩いてきました。
しかし、そのイエス様が捕らえられてしまいました。イエス様が鞭打たれて血まみれになっていたとき、彼女たちは何もすることができませんでした。イエス様が十字架の上で苦しみの極みにあったとき、彼女たちは何もすることができませんでした。イエス様から多くの多くの愛を受けてきました。けれど何一つお返しできませんでした。何もしてあげられませんでした。そして、彼女たちが見つめる中で、イエス様は息を引き取られました。
イエス様の遺体は取り下ろされ、墓に葬られました。終わりました。すべては終わったのです。あの日二人はイエス様が葬られた墓を見つめて座っていました。すべては終わったという事実を見つめて座っていました。
そして、三日目の朝、二人は再びその同じ場所に向かいました。彼女たちは「墓を見に行った」。そこに物語の終わりがあるから。終わったという事実があるから。
また、この場面に登場してはきませんが、この二人の背後に、やはり同じように終わりを見つめている人々がいました。イエス様の弟子たちです。
彼らが今日の箇所に登場しないのは、彼らがイエス様を見捨てて逃げてしまったからです。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と誓ったペトロ。口々に同じように言った弟子たち。しかし、実際には、鶏が二度鳴く前に三度イエス様を知らないと否んでしまいました。他の弟子たちも、イエスを残して逃げてしまいました。
見捨てられることによる絶望というものがあります。しかし、誰かを見捨てることによる絶望もあります。裏切った自分自身、見捨ててしまった自分自身に対する自責の念による絶望。それは同じように深いものだと言えるかもしれません。
彼らにもイエス様との出会いの時がありました。イエス様に従い始めました。一緒に旅をしてきました。喜びも悲しみも共有しながら一緒に歩いてきました。イエス様から多くの多くの愛を受けてきました。しかし、そのイエス様を彼らは見捨ててしまいました。見捨てられたイエス様は十字架にかけられて死にました。墓に葬られました。
すべては終わりました。イエス様が葬られた墓。そこにあったのはイエス様と弟子たちの物語の終わりでもありました。
終わりは新しい始まりに
あの朝、二人の婦人たちは、そのような「墓を見に行った」のです。そこに終わりがあるから。終わったという事実があるから。その事実を彼女たちは改めて目にすることになるはずでした。
しかし、そこで彼女たちは全く異なるものを見ることになりました。彼女たちはこのような言葉を聞きました。「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」。どうしてか。どうしても見なくてはならないものがあったからです。そこにイエスはおられない、ということです。
主の御使いは彼女たちにこう言いました。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」(5‐6節)。
二人がそこに見たのは、「終わり」ではなく、「始まり」でした。終わりであると思われたところにキリストはおられませんでした。復活されたキリストは既に墓から歩み出しておられました。キリストは既に先に進んでおられました。神によって新しいことが既に始まっていました。「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」。御使いを通して神が見せてくださったのは、「終わり」ではなく新しい「始まり」でした。
神は、「終わり」を「始まり」に変えることのできる神です。神がそのような神でなかったら、あそこで終わっていたのです。墓で終わっていたのです。弟子たちも終わっていたのです。教会が世に存在することもなく終わっていたのです。神が「終わり」を「始まり」に変えることができる神であるからこそ、弟子たちはあそこで終わりになりませんでした。それゆえにキリスト教会が今日もなお存在しているのです。そのような神であるゆえに、今、私たちもここにいるのです。
あの婦人たちは、新しい始まりとなった墓を見せていただきました。いや、見せていただいただけでなく、それを伝える人になりました。神の使いは彼女たちにこう言ったのです。「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」(7節)。
こうして、彼女たちは伝える人になりました。終わりではないことを伝える人になりました。彼女たちは弟子たちに伝えることを託されたのです。キリストはよみがえられた。神は終わりを始まりに変えてしまわれた。もうキリストは先に進んでおられる。先に進んで待っていてくださる。だから弟子たちもまた、そこに立ち止まっていてはいけないのだ、と。
「もう終わりだ」と思っているところに立ち止まっていてはいけない。絶望の暗闇に座り込んでいてはいけない。後悔と自責の暗闇に座り込んでいてはいけない。そう、彼らもまたそこから歩み出さなくてはならないのです。なぜなら、キリストが先に進んで行って、そこで待っていてくださるから。神によって既に新しいことが始まっているのだから。弟子たちのところに行って言いなさい。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」と。
ガリラヤ――それは弟子たちがイエス様に出会った場所です。そこで主が待っていてくださる。そこから彼らはもう一度イエス様に従い始めることができるのです。しかし、それは単にこの三年余りの時間の経過がなかったかのように、時間軸上を逆戻りするということではありません。ただ単に「振り出しに戻る」ということではありません。
確かに人は過去に戻れたらと思うかもしれない。過去に戻ってやり直せたらどんなにいいだろう、と思うかもしれない。しかし、必要なのは過去に戻ることではないのです。元に戻ることではないのです。
弟子たちはイエス様と出会った場所に戻ります。ガリラヤに戻るのです。しかし、ガリラヤで待っているのは、復活されたキリストなのです。十字架にかかられ、そして復活されたキリストなのです。つまり最初に従ったあの時と、神によって新しく与えられた歩みとの間には、十字架が立っているのです。罪の贖いの十字架が立っているのです。
神は終わりを新しい始まりにしてくださる。それは十字架に基づくのです。罪の赦しの恵みに基づくのです。だから必要なのは元に戻ることではないのです。そうではなくて、罪を赦していただいて新しく歩み出すことなのです。
イエスを見捨てて逃げていったあの弟子たちは、罪を赦された者として、神の恵みによって新たに生かされた者として従い始めるのです。一度死んでよみがえった者として、キリストに従い始めるのです。そのようにして絶望の中から歩み出し、復活の主に従い始めた弟子たちから教会は始まりました。そのようにして、今日に至るまであの日の知らせは伝えられ続けているのです。
弟子たちに伝えられたキリスト復活の福音は、私たちにも伝えられています。私たちもまた、終わりを新しい始まりにしてくださる神によって、新しく歩み出すことができるのです。
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 28章1節~10節
終わりを見つめる人々
今年もこうして復活祭を共に祝えますことを嬉しく思います。復活祭は喜びの祝祭です。その喜びの祝祭においてキリスト復活の物語が朗読されました。今年はマタイによる福音書から読まれました。それは喜びの物語です。
しかし、先ほど読まれましたように、その物語は喜びから始まっているわけではありません。それは深い深い悲しみから始まります。こう書かれていました。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」(1節)。
そのように、彼女たちは「墓を見に行った」と書かれています。実際には墓を見に行ったわけではありません。他の福音書を読むと分かります。彼らは香料と油を塗って御遺体の処置をするために行ったのです。しかし、今日お読みした箇所では、単純に「墓を見に行った」と書かれているのです。
その二日前、イエス様が葬られたその日にも、墓を見つめる二人の姿がそこにありました。聖書にはこう書かれています。「ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた」(59‐61節)。
葬りを終えてヨセフが立ち去った後も、ずっとそこに座ったまま墓を見つめ、墓の入り口をふさぐ大きな石を見つめて動こうとしない彼女たちの姿がそこにありました。その思いは、ある意味で痛いほど分かります。彼女たちが墓を見つめていたのは、そこにイエス様が葬られたからです。それはイエス様の最終的に行き着いた場所だったからです。それは彼女たちが行き着いた場所でもありました。
どれほど前かはわかりませんが、彼女たちにもイエス様との出会いの時があったのでしょう。それぞれイエス様に従い始めました。一緒に旅をしてきました。喜びも悲しみも共有しながら一緒に歩いてきました。
しかし、そのイエス様が捕らえられてしまいました。イエス様が鞭打たれて血まみれになっていたとき、彼女たちは何もすることができませんでした。イエス様が十字架の上で苦しみの極みにあったとき、彼女たちは何もすることができませんでした。イエス様から多くの多くの愛を受けてきました。けれど何一つお返しできませんでした。何もしてあげられませんでした。そして、彼女たちが見つめる中で、イエス様は息を引き取られました。
イエス様の遺体は取り下ろされ、墓に葬られました。終わりました。すべては終わったのです。あの日二人はイエス様が葬られた墓を見つめて座っていました。すべては終わったという事実を見つめて座っていました。
そして、三日目の朝、二人は再びその同じ場所に向かいました。彼女たちは「墓を見に行った」。そこに物語の終わりがあるから。終わったという事実があるから。
また、この場面に登場してはきませんが、この二人の背後に、やはり同じように終わりを見つめている人々がいました。イエス様の弟子たちです。
彼らが今日の箇所に登場しないのは、彼らがイエス様を見捨てて逃げてしまったからです。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と誓ったペトロ。口々に同じように言った弟子たち。しかし、実際には、鶏が二度鳴く前に三度イエス様を知らないと否んでしまいました。他の弟子たちも、イエスを残して逃げてしまいました。
見捨てられることによる絶望というものがあります。しかし、誰かを見捨てることによる絶望もあります。裏切った自分自身、見捨ててしまった自分自身に対する自責の念による絶望。それは同じように深いものだと言えるかもしれません。
彼らにもイエス様との出会いの時がありました。イエス様に従い始めました。一緒に旅をしてきました。喜びも悲しみも共有しながら一緒に歩いてきました。イエス様から多くの多くの愛を受けてきました。しかし、そのイエス様を彼らは見捨ててしまいました。見捨てられたイエス様は十字架にかけられて死にました。墓に葬られました。
すべては終わりました。イエス様が葬られた墓。そこにあったのはイエス様と弟子たちの物語の終わりでもありました。
終わりは新しい始まりに
あの朝、二人の婦人たちは、そのような「墓を見に行った」のです。そこに終わりがあるから。終わったという事実があるから。その事実を彼女たちは改めて目にすることになるはずでした。
しかし、そこで彼女たちは全く異なるものを見ることになりました。彼女たちはこのような言葉を聞きました。「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」。どうしてか。どうしても見なくてはならないものがあったからです。そこにイエスはおられない、ということです。
主の御使いは彼女たちにこう言いました。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」(5‐6節)。
二人がそこに見たのは、「終わり」ではなく、「始まり」でした。終わりであると思われたところにキリストはおられませんでした。復活されたキリストは既に墓から歩み出しておられました。キリストは既に先に進んでおられました。神によって新しいことが既に始まっていました。「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」。御使いを通して神が見せてくださったのは、「終わり」ではなく新しい「始まり」でした。
神は、「終わり」を「始まり」に変えることのできる神です。神がそのような神でなかったら、あそこで終わっていたのです。墓で終わっていたのです。弟子たちも終わっていたのです。教会が世に存在することもなく終わっていたのです。神が「終わり」を「始まり」に変えることができる神であるからこそ、弟子たちはあそこで終わりになりませんでした。それゆえにキリスト教会が今日もなお存在しているのです。そのような神であるゆえに、今、私たちもここにいるのです。
あの婦人たちは、新しい始まりとなった墓を見せていただきました。いや、見せていただいただけでなく、それを伝える人になりました。神の使いは彼女たちにこう言ったのです。「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」(7節)。
こうして、彼女たちは伝える人になりました。終わりではないことを伝える人になりました。彼女たちは弟子たちに伝えることを託されたのです。キリストはよみがえられた。神は終わりを始まりに変えてしまわれた。もうキリストは先に進んでおられる。先に進んで待っていてくださる。だから弟子たちもまた、そこに立ち止まっていてはいけないのだ、と。
「もう終わりだ」と思っているところに立ち止まっていてはいけない。絶望の暗闇に座り込んでいてはいけない。後悔と自責の暗闇に座り込んでいてはいけない。そう、彼らもまたそこから歩み出さなくてはならないのです。なぜなら、キリストが先に進んで行って、そこで待っていてくださるから。神によって既に新しいことが始まっているのだから。弟子たちのところに行って言いなさい。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」と。
ガリラヤ――それは弟子たちがイエス様に出会った場所です。そこで主が待っていてくださる。そこから彼らはもう一度イエス様に従い始めることができるのです。しかし、それは単にこの三年余りの時間の経過がなかったかのように、時間軸上を逆戻りするということではありません。ただ単に「振り出しに戻る」ということではありません。
確かに人は過去に戻れたらと思うかもしれない。過去に戻ってやり直せたらどんなにいいだろう、と思うかもしれない。しかし、必要なのは過去に戻ることではないのです。元に戻ることではないのです。
弟子たちはイエス様と出会った場所に戻ります。ガリラヤに戻るのです。しかし、ガリラヤで待っているのは、復活されたキリストなのです。十字架にかかられ、そして復活されたキリストなのです。つまり最初に従ったあの時と、神によって新しく与えられた歩みとの間には、十字架が立っているのです。罪の贖いの十字架が立っているのです。
神は終わりを新しい始まりにしてくださる。それは十字架に基づくのです。罪の赦しの恵みに基づくのです。だから必要なのは元に戻ることではないのです。そうではなくて、罪を赦していただいて新しく歩み出すことなのです。
イエスを見捨てて逃げていったあの弟子たちは、罪を赦された者として、神の恵みによって新たに生かされた者として従い始めるのです。一度死んでよみがえった者として、キリストに従い始めるのです。そのようにして絶望の中から歩み出し、復活の主に従い始めた弟子たちから教会は始まりました。そのようにして、今日に至るまであの日の知らせは伝えられ続けているのです。
弟子たちに伝えられたキリスト復活の福音は、私たちにも伝えられています。私たちもまた、終わりを新しい始まりにしてくださる神によって、新しく歩み出すことができるのです。
2017年3月26日日曜日
「このままでは終わらない」
2017年3月26日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 17章1節~8節
キリストの復活の輝き
「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」(1節)と書かれていました。六日前に何があったかは16章に書かれています。ペトロがイエス様に対して「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と信仰を言い表しました。またその日を境に、イエス様は御自分の受難について語り始められました。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(同21節)。それから六日の後のことでした。
イエス様に連れられて高い山に登ったペトロとヤコブとヨハネは、そこで不思議な光景を目にすることになりました。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(2節)。しかし、彼らが目にしたのは一緒にいるイエス様の姿が変化したことだけではありませんでした。彼らはそこに二人の人物を見たのです。一人はモーセ。もう一人はエリヤでした。モーセは律法を代表する人物です。エリヤは預言者を代表する人物です。この二人で旧約聖書全体を代表していると言えます。そのような二人が現れてイエス様と語り合っていたのをペトロたちは見たのです。
イエス様と共にモーセとエリヤが立っている。すなわち、イエス様と共に旧約聖書が立っている。それは何を意味するのか。イエス様が受けることになる苦難は、旧約聖書と無関係ではない、ということです。それは起こるべきこととして旧約聖書に既に語られていたということです。聖書の預言の言葉によって指し示されていた。言い換えるなら、それはすべて神の御心によるのだ、神の御計画によるのだ、ということです。
ならば苦難は苦難で終わらない。十字架で終わらない。人間の罪がキリストを十字架にかけて、それで終わりではない。全てが成し遂げられたなら、その先があるのです。イエス様は言われました。「三日目に復活することになっている」と。
あの日、あの山の上でペトロたちが見たキリストの顔は太陽のように輝いていたと書かれていました。服は光のように白くなったと書かれていました。ペトロたちがあの山の上で見せていただいたのは、まさに天の御国の輝き、復活の輝きに他なりませんでした。ちょうど雨雲の隙間から太陽の光が差し込むように、復活の光がイエス様の御生涯の一こまに差し込むのを彼らは前もって見せていただいたのです。
彼らはやがてキリストが捕らえられるのを見ることになるのでしょう。この御方が不当な裁きにかけられ、鞭打たれ、ボロボロにされて十字架につけられるのを見ることになるのでしょう。そして、見捨てられた者として死んでいくのを見ることになるのでしょう。しかし、神は彼らに前もって見せてくださったのです。すべては神の御手の中にあり、ご計画の中にあることを。そして、その御心において十字架の先には復活があることを。ペトロたち三人は先に見せていただいたのです。
とはいえ、その意味はあの山の上にいた時には分からなかったに違いありません。イエス様が実際に十字架にかけられ、そして復活されるまでは、この山の上の出来事の意味も分からないのです。ですから、今日の箇所の直後にはこう書かれているのです。「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた」(9節)。
そのように、あの山の上の出来事は一旦封印されたのでした。しかし、そのように封印された出来事が、今やこうして福音書に記されているのです。やがて後の日に、口止めされていた彼らが語り出したのです。キリストが復活したからです。その意味を知った彼らが語り出したのです。キリストの受難の前に、既に彼らが復活の光を垣間見ていたことを、彼らは語り出したのです。今日の第二朗読においてもペトロが書いていましたでしょう。「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです」(2ペトロ1:16)。
私たちもまた変えられる
そのように、三人の弟子たちが山の上における神秘的な体験の中で目にしたのは、やがて起こるキリストの復活を指し示す出来事でした。しかし、それだけではありません。彼らが目にしたのは、彼ら自身の復活、そしてここにいる私たちの復活をも指し示す出来事だったのです。
今日お読みした箇所において、特に「イエスの姿が彼らの目の前で《変わり》」と書かれていることを見落としてはなりません。この福音書は単にペトロたちが栄光に輝くキリストを見たことを語り伝えてきたのではないのです。キリストがペトロたちの目の前で《変化したこと》を伝えてきたのです。
実はこの「変わる」という言葉ですが、それは例えば芋虫が蝶になるような変化を表すような言葉です。しかも、厳密に言いますと、それは「変わる」と書かれているのではなくて、「イエスの姿が《変えられた》」と受け身で書かれているのです。「変わる」のと「変えられる」のでは意味合いが違います。イエス様は神の御子でありながら、神の側にいる者としてではなく、私たちと同じ人間の側に身を置いて、「(神によって)変えられた」と書かれているのです。この御方は一人の人間として栄光の姿に「変えられた」のです。
ならばペトロが見たものは、ただキリストの復活を指し示すだけではありません。それは私たちの復活をも指し示す出来事なのです。救われた人間が神によって最終的にどのように変えられるのか、ということを示す出来事でもあるのです。主は一人の人間として「変えられた」姿を垣間見せてくださった。天の御国の姿を垣間見せてくださった。それは私たちもまた変えられるのだ、という希望を与えるためでしょう。
先ほどの続きを御覧ください。キリストの御姿が変わり、モーセとエリヤと共に語り合っている姿を見たペトロは、イエス様にこう言いました。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(4節)。彼の言っていることは明らかに変でしょう。簡単な幕屋であったとしても、にわかにそんな仮小屋など作れるはずないのですから。しかし、その気持ちは分かります。そこにいつまでも留まりたかったのでしょう。栄光に輝くキリスト、その栄光に包まれて現れたモーセやエリヤと共に留まりたい。天の栄光に触れたその甘美な恍惚感の中に少しでも長く留まりたかったのでしょう。
しかし、ペトロたちは山の上に留まるために連れて来られたのではないのです。ですからペトロの提案は却下されました。光り輝く雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がしたのです。神自らペトロたちにこう語られました。「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。これに聞け」。「聞け」とは「聞き従え」という意味です。
父なる神は、確かにイエス様について「これはわたしの愛する子」と言われました。その「愛する子」は、神秘の山の上に留まっている御方ではないのです。山の下へと向かわれるのです。そして、弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(24節)と言われるのです。
ならば弟子たちは山の上に留まっていることはできません。キリスト教信仰は、山の上のようなところ、非日常的な神秘の世界に逃げ込むためにあるのではありません。キリスト教信仰は、現実から逃避するためのものではありません。そうではなくて、現実としっかりと向き合うことができるために、信仰は与えられているのです。まさにキリストが遣わされたこの世界のただ中で、日常生活のただ中で、イエス様に従っていくのです。
そして私たちが山の上ではなく、現実の世界のただ中に身を置いて、そこでキリストに従って生きようとするならば、そこで初めて本当の意味で自分の罪深さも見えてくるのでしょう。いかに愛に欠けているか、いかに自己本位であるか、いかに自分が醜いエゴイストであるかが分かります。そう、わが内にこそ罪の暗闇がある。その時、悔い改めと罪の赦しを求める祈りも切実なものとなるのです。
そして、もう一つ――自分は変えていただかなくてはならないことが、骨身に染みて分かるようになるのでしょう。自分の醜さを知るゆえに、変えられたいと切に願う。自分が芋虫の姿であると知るゆえに、変えられたいと切に願う。それは自分を捨て、自分の十字架を負ってキリストに従おうとする時にこそ、切実な願いとなるのです。
その時、この山の上の出来事は私たちにとって決定的に大きな意味を持つのです。キリストの姿が変えられた。その姿を指し示して神は私たちに言われるのです。あなたも変えられると。あなたはいつまでも芋虫のままじゃない。あなたは蝶になるのだ。あなたは栄光に輝くキリストと同じ姿となるのだ、と。
後にパウロが次のように語っています。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント3:18)。この「造りかえられる」という言葉は、先ほどイエス様に用いられていた「変えられる」という言葉と同じです。私たちもまた「変えられる」のです。主と同じ姿に。この「主と同じ姿に」とは、ペトロたちが垣間見た復活の栄光の姿のことです。
そのように私たちに、驚くべきことが起こります。天の御国において実現します。芋虫はいつまでも芋虫のままではありません。私たちは、いつまでも芋虫のままではないのです。やがて復活の栄光の姿に変えられるのです。そして、それは既に信仰生活において、主の霊の働きによって始まっているのです。この世において味わうのは一部分に過ぎないかもしれませんが、確かに始まっているのです。だからこのままでは終わらない。だから私たちは絶望しません。絶望しないで現実と向き合うことができます。絶望しないで自分とも向き合うことができます。天の御国において完成する私たちの姿を主が既に見せてくださったからです。
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 17章1節~8節
キリストの復活の輝き
「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」(1節)と書かれていました。六日前に何があったかは16章に書かれています。ペトロがイエス様に対して「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と信仰を言い表しました。またその日を境に、イエス様は御自分の受難について語り始められました。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(同21節)。それから六日の後のことでした。
イエス様に連れられて高い山に登ったペトロとヤコブとヨハネは、そこで不思議な光景を目にすることになりました。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(2節)。しかし、彼らが目にしたのは一緒にいるイエス様の姿が変化したことだけではありませんでした。彼らはそこに二人の人物を見たのです。一人はモーセ。もう一人はエリヤでした。モーセは律法を代表する人物です。エリヤは預言者を代表する人物です。この二人で旧約聖書全体を代表していると言えます。そのような二人が現れてイエス様と語り合っていたのをペトロたちは見たのです。
イエス様と共にモーセとエリヤが立っている。すなわち、イエス様と共に旧約聖書が立っている。それは何を意味するのか。イエス様が受けることになる苦難は、旧約聖書と無関係ではない、ということです。それは起こるべきこととして旧約聖書に既に語られていたということです。聖書の預言の言葉によって指し示されていた。言い換えるなら、それはすべて神の御心によるのだ、神の御計画によるのだ、ということです。
ならば苦難は苦難で終わらない。十字架で終わらない。人間の罪がキリストを十字架にかけて、それで終わりではない。全てが成し遂げられたなら、その先があるのです。イエス様は言われました。「三日目に復活することになっている」と。
あの日、あの山の上でペトロたちが見たキリストの顔は太陽のように輝いていたと書かれていました。服は光のように白くなったと書かれていました。ペトロたちがあの山の上で見せていただいたのは、まさに天の御国の輝き、復活の輝きに他なりませんでした。ちょうど雨雲の隙間から太陽の光が差し込むように、復活の光がイエス様の御生涯の一こまに差し込むのを彼らは前もって見せていただいたのです。
彼らはやがてキリストが捕らえられるのを見ることになるのでしょう。この御方が不当な裁きにかけられ、鞭打たれ、ボロボロにされて十字架につけられるのを見ることになるのでしょう。そして、見捨てられた者として死んでいくのを見ることになるのでしょう。しかし、神は彼らに前もって見せてくださったのです。すべては神の御手の中にあり、ご計画の中にあることを。そして、その御心において十字架の先には復活があることを。ペトロたち三人は先に見せていただいたのです。
とはいえ、その意味はあの山の上にいた時には分からなかったに違いありません。イエス様が実際に十字架にかけられ、そして復活されるまでは、この山の上の出来事の意味も分からないのです。ですから、今日の箇所の直後にはこう書かれているのです。「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた」(9節)。
そのように、あの山の上の出来事は一旦封印されたのでした。しかし、そのように封印された出来事が、今やこうして福音書に記されているのです。やがて後の日に、口止めされていた彼らが語り出したのです。キリストが復活したからです。その意味を知った彼らが語り出したのです。キリストの受難の前に、既に彼らが復活の光を垣間見ていたことを、彼らは語り出したのです。今日の第二朗読においてもペトロが書いていましたでしょう。「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです」(2ペトロ1:16)。
私たちもまた変えられる
そのように、三人の弟子たちが山の上における神秘的な体験の中で目にしたのは、やがて起こるキリストの復活を指し示す出来事でした。しかし、それだけではありません。彼らが目にしたのは、彼ら自身の復活、そしてここにいる私たちの復活をも指し示す出来事だったのです。
今日お読みした箇所において、特に「イエスの姿が彼らの目の前で《変わり》」と書かれていることを見落としてはなりません。この福音書は単にペトロたちが栄光に輝くキリストを見たことを語り伝えてきたのではないのです。キリストがペトロたちの目の前で《変化したこと》を伝えてきたのです。
実はこの「変わる」という言葉ですが、それは例えば芋虫が蝶になるような変化を表すような言葉です。しかも、厳密に言いますと、それは「変わる」と書かれているのではなくて、「イエスの姿が《変えられた》」と受け身で書かれているのです。「変わる」のと「変えられる」のでは意味合いが違います。イエス様は神の御子でありながら、神の側にいる者としてではなく、私たちと同じ人間の側に身を置いて、「(神によって)変えられた」と書かれているのです。この御方は一人の人間として栄光の姿に「変えられた」のです。
ならばペトロが見たものは、ただキリストの復活を指し示すだけではありません。それは私たちの復活をも指し示す出来事なのです。救われた人間が神によって最終的にどのように変えられるのか、ということを示す出来事でもあるのです。主は一人の人間として「変えられた」姿を垣間見せてくださった。天の御国の姿を垣間見せてくださった。それは私たちもまた変えられるのだ、という希望を与えるためでしょう。
先ほどの続きを御覧ください。キリストの御姿が変わり、モーセとエリヤと共に語り合っている姿を見たペトロは、イエス様にこう言いました。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(4節)。彼の言っていることは明らかに変でしょう。簡単な幕屋であったとしても、にわかにそんな仮小屋など作れるはずないのですから。しかし、その気持ちは分かります。そこにいつまでも留まりたかったのでしょう。栄光に輝くキリスト、その栄光に包まれて現れたモーセやエリヤと共に留まりたい。天の栄光に触れたその甘美な恍惚感の中に少しでも長く留まりたかったのでしょう。
しかし、ペトロたちは山の上に留まるために連れて来られたのではないのです。ですからペトロの提案は却下されました。光り輝く雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がしたのです。神自らペトロたちにこう語られました。「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。これに聞け」。「聞け」とは「聞き従え」という意味です。
父なる神は、確かにイエス様について「これはわたしの愛する子」と言われました。その「愛する子」は、神秘の山の上に留まっている御方ではないのです。山の下へと向かわれるのです。そして、弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(24節)と言われるのです。
ならば弟子たちは山の上に留まっていることはできません。キリスト教信仰は、山の上のようなところ、非日常的な神秘の世界に逃げ込むためにあるのではありません。キリスト教信仰は、現実から逃避するためのものではありません。そうではなくて、現実としっかりと向き合うことができるために、信仰は与えられているのです。まさにキリストが遣わされたこの世界のただ中で、日常生活のただ中で、イエス様に従っていくのです。
そして私たちが山の上ではなく、現実の世界のただ中に身を置いて、そこでキリストに従って生きようとするならば、そこで初めて本当の意味で自分の罪深さも見えてくるのでしょう。いかに愛に欠けているか、いかに自己本位であるか、いかに自分が醜いエゴイストであるかが分かります。そう、わが内にこそ罪の暗闇がある。その時、悔い改めと罪の赦しを求める祈りも切実なものとなるのです。
そして、もう一つ――自分は変えていただかなくてはならないことが、骨身に染みて分かるようになるのでしょう。自分の醜さを知るゆえに、変えられたいと切に願う。自分が芋虫の姿であると知るゆえに、変えられたいと切に願う。それは自分を捨て、自分の十字架を負ってキリストに従おうとする時にこそ、切実な願いとなるのです。
その時、この山の上の出来事は私たちにとって決定的に大きな意味を持つのです。キリストの姿が変えられた。その姿を指し示して神は私たちに言われるのです。あなたも変えられると。あなたはいつまでも芋虫のままじゃない。あなたは蝶になるのだ。あなたは栄光に輝くキリストと同じ姿となるのだ、と。
後にパウロが次のように語っています。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント3:18)。この「造りかえられる」という言葉は、先ほどイエス様に用いられていた「変えられる」という言葉と同じです。私たちもまた「変えられる」のです。主と同じ姿に。この「主と同じ姿に」とは、ペトロたちが垣間見た復活の栄光の姿のことです。
そのように私たちに、驚くべきことが起こります。天の御国において実現します。芋虫はいつまでも芋虫のままではありません。私たちは、いつまでも芋虫のままではないのです。やがて復活の栄光の姿に変えられるのです。そして、それは既に信仰生活において、主の霊の働きによって始まっているのです。この世において味わうのは一部分に過ぎないかもしれませんが、確かに始まっているのです。だからこのままでは終わらない。だから私たちは絶望しません。絶望しないで現実と向き合うことができます。絶望しないで自分とも向き合うことができます。天の御国において完成する私たちの姿を主が既に見せてくださったからです。
2017年3月19日日曜日
「試練は喜びに」
2017年3月19日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ペトロの手紙Ⅰ 4章12節~19節
ペトロの手紙Ⅰ 4:12-19
驚き怪しんではなりません
「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません」(12節)。そのように聖書は語ります。それは、実際に試練が身にふりかかる時に、「思いがけないこと」が生じたように思う人がかつても今も、少なくないからでしょう。
考えてみれば不思議です。この手紙が宛てられているのは、今日の私たちよりも迫害がずっと身近であった教会です。キリストを信じたならば苦しみに遭うことになるだろう、と覚悟して洗礼を受けた人たちです。そのような人たちでさえ、実際に試練が身にふりかかってきた時には「思いがけないこと」が生じたように思うことがあり得た。だからこのような言葉を聴かなくてはならなかったのでしょう。ならば、今日の私たちにおいてはなおさらです。その意味では、私たちこそ心に留めなくてはならない御言葉であるとも言えます。
もしキリストを信じるということが、ただ自分の平安を得るため、ただより良い幸福な生活を手に入れるためであるならば、キリストを信じたゆえに平安を失うような出来事に遭遇したり、「火のような試練」と表現されるような出来事に直面したりするならば、「キリストを信じているのに、いったいどうして?」ということになるでしょう。
しかし、キリストを信じるということが、ただ自分の平安や幸いを得る手段ではなくて、キリストに従うということであるならば、そしてこの世の救いのために仕えるということであるならば、キリスト者が苦しむことは、ある意味では当然のことなのです。それはなぜか。キリストは私たちを救うために苦しんでくださったからです。キリストを信じて神に立ち帰った者として、今度はキリストの体として救いの御業に参画していくということならば、だれかが神に立ち帰ることを願って生きるならば、キリストの苦しみにも与るのはある意味では当然のことなのです。
むしろ喜びなさい
とはいえ、ペトロはただ歯を食いしばって試練を耐え抜けと言っているのではありません。「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど《喜びなさい》」と彼は言うのです。それはむしろ喜ぶべきことだということが分かっているからです。どのような意味において、それは「喜ぶべきこと」なのでしょう。
試練を喜びとすることについて語っているのはペトロだけではありません。ヤコブもまた次のように言っています。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(ヤコブ1:2‐4)。またパウロも言っています。「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3‐4)。このように試練は一つのプロセスとして理解されているのです。イメージとしては、金属の精錬のようなものでしょう。それは迫害が身近であった教会においては共通の理解だったのだと思われます。そのような意味で、確かに試練は喜ぶべきものと言うことができます。
しかし、今日の箇所において語られているのはもう一つの別なことです。先ほどお読みした「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい」という言葉は次のように続きます。「それは、キリストの栄光が現れる時にも、喜びに満ちあふれるためです」(13節)。ペトロは、「キリストの栄光が現れる時」のことを考えているのです。すなわちキリストが再び来られる終わりの時、私たちの救いが完成するその時のことを考えているのです。神の御国において満ち溢れるであろう喜びのことを考えているのです。
喩えて言うならば、私たちはちょうどプレゼントを手渡されようとしているところにいるのです。プレゼントが差し出されます。相手の手から自分の手に渡るのに、ある程度の時間がかかるでしょう。そのような場面で、皆さんは自分の手にプレゼントが移って初めて喜びますか。そうではないでしょう。まだ自分が手にしていない時に、既に喜んでいるはずです。
私たちはキリストと結ばれて完全な救いというプレゼントを既に差し出されているのです。それはまだ手にしていなくても既に私たちのものなのです。その差し出されたプレゼントをやがて自分の手に受け取るための「現在」なのです。それは信仰が試される「現在」であるかもしれません。しかし、それはその時を迎えるためのプロセスなのです。
栄光の霊がとどまってくださるから
そして、もう一つ喜べる理由をペトロは示しています。その喜びは終末に関わるだけではありません。現在にも関わるのです。彼は言います。「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」(14節)。「とどまってくださる。」これは将来のことではなく、現在のことです。
ここで神の霊について、あえて「栄光の霊がとどまる」と表現されているのには理由があります。ペトロがイメージしているのは、例えば列王記上8章のような場面なのです。ソロモンが神殿を建て、その至聖所に主の契約の箱が運び入れられた時の話です。そこにはこう書かれています。「祭司たちが聖所から出ると、雲が主の神殿に満ちた。その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が主の神殿に満ちたからである」(列王上8:10‐11)。
パウロはギリシアの詩人のこのような言葉を引用していました。「我らは神の中に生き、動き、存在する」。それは間違いではありません。確かに神はどこにでもおられます。しかし、今読んだ箇所に書かれているのは別のことです。どこにでも神はおられる、というのではなく、まさに神がここに現臨してくださり、栄光を現してくださる。そのような神の臨在をイスラエルの民は「シェキーナー」と呼びました。
そして、あの神殿で起こったことが、あなたたちに起こるのだ、とペトロは言っているのです。人はどこで神の臨在に触れるのか、そして、人はどこで神の栄光を輝かせることになるのか。それは試練の中においてなのだ、ということです。人がキリストのゆえに非難される時、その人は栄光を失うのではなくて、むしろそこで神のリアリティに触れ、神の栄光を輝かせるのです。ならば、それは喜びにつながるのでしょう。
キリスト者として苦しみを受けるのなら
それゆえにペトロは言います。「あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」(15‐16節)。
「キリスト者(クリスチャン)」という言葉が出て来ました。原文では「クリスティアノス」。「キリストに属する者」という意味です。もともとアンティオキアにおいて始まった、いわば《蔑称》です。キリストを信じる者をバカにする呼び名でした。いわば「キリスト馬鹿」といったところでしょうか。キリストを信じた人たちが、年がら年中「キリスト」と言って、キリストを愛し、キリストを喜んでいる姿がはたから見たら滑稽だったのでしょう。
しかし、ペトロはそう呼ばれて馬鹿にされても気にするな。むしろ「神をあがめなさい」と言うのです。このような初期のキリスト者の姿を思います時、改めて考えさせられます。私たちは、馬鹿にされるほど、あるいはそのゆえに苦しめられるほどクリスティアノスだろうか。むしろ単なる善人であるように思われているほうがおかしいのではないか、と。
私は学生時代に出会った一人の友人を思い起こします。彼は同じ研究室の後輩でした。学部4年の時には完全にアンチ・キリストで、研究室でも下品な冗談ばかりを言っていた男でした。ところがその彼が修士1年目の時にキリスト者となり、一転して毎日口を開けばキリストの話をするようになったのです。
研究室の皆は彼を馬鹿にしました。彼は陰口をたたかれ、中傷されました。確かにキリストを伝えるのに、もう少し馬鹿にされない工夫はできたかもしれません。しかし、今思い起こすと、まさに彼はクリスティアノスでありました。そして、馬鹿にされても神をあがめていたのです。今日の箇所を読みますと、馬鹿にもされなければ気にもかけられない、もしかしたら信じていることすら知られてもいないキリスト者とは、いったい何なのかと改めて思わせられます。
福音に従わない者たちの行く末を案じて
そして、さらにペトロは言います。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか」(17節)。まず神の御前において問われるのはこの世ではありません。裁きは神の家から始まるのです。キリスト者が受ける苦難は、ある意味においてはまずキリスト者から神の御前に裁かれるということを指し示している出来事であるとも言えるでしょう。
そこで私たちが救われるとするならば、それはただ一重にキリストの十字架による贖いのゆえです。キリストの十字架がなければ、私たちの内いったい誰が救われると言えるでしょう。間違ってはなりません。私たちが救われるとするならば、それは当然のことなのではないのであって、まさに「正しい人がやっと救われる」のです。そのあのノアの時に、ノアとその家族が、かろうじて救われたようにです。もちろん私たちにおいてその「正しさ」というのは、信仰による義です。そのように十字架のゆえに「やっと救われる」ならば、確かにペトロが言うごとく「神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか」と案じるのが当たり前ではありませんか。
ならば自分の平安と幸福の事だけ考えて、試練が降りかかれば「思いがけないこと」のように思うようなキリスト者であってよいはずがありません。私たちが福音を証ししながらこの世をクリスティアノスとして生き抜くということは、この世に対する私たちの大きな責任なのです。ですからペトロは言うのです。「だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」と。
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ペトロの手紙Ⅰ 4章12節~19節
ペトロの手紙Ⅰ 4:12-19
驚き怪しんではなりません
「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません」(12節)。そのように聖書は語ります。それは、実際に試練が身にふりかかる時に、「思いがけないこと」が生じたように思う人がかつても今も、少なくないからでしょう。
考えてみれば不思議です。この手紙が宛てられているのは、今日の私たちよりも迫害がずっと身近であった教会です。キリストを信じたならば苦しみに遭うことになるだろう、と覚悟して洗礼を受けた人たちです。そのような人たちでさえ、実際に試練が身にふりかかってきた時には「思いがけないこと」が生じたように思うことがあり得た。だからこのような言葉を聴かなくてはならなかったのでしょう。ならば、今日の私たちにおいてはなおさらです。その意味では、私たちこそ心に留めなくてはならない御言葉であるとも言えます。
もしキリストを信じるということが、ただ自分の平安を得るため、ただより良い幸福な生活を手に入れるためであるならば、キリストを信じたゆえに平安を失うような出来事に遭遇したり、「火のような試練」と表現されるような出来事に直面したりするならば、「キリストを信じているのに、いったいどうして?」ということになるでしょう。
しかし、キリストを信じるということが、ただ自分の平安や幸いを得る手段ではなくて、キリストに従うということであるならば、そしてこの世の救いのために仕えるということであるならば、キリスト者が苦しむことは、ある意味では当然のことなのです。それはなぜか。キリストは私たちを救うために苦しんでくださったからです。キリストを信じて神に立ち帰った者として、今度はキリストの体として救いの御業に参画していくということならば、だれかが神に立ち帰ることを願って生きるならば、キリストの苦しみにも与るのはある意味では当然のことなのです。
むしろ喜びなさい
とはいえ、ペトロはただ歯を食いしばって試練を耐え抜けと言っているのではありません。「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど《喜びなさい》」と彼は言うのです。それはむしろ喜ぶべきことだということが分かっているからです。どのような意味において、それは「喜ぶべきこと」なのでしょう。
試練を喜びとすることについて語っているのはペトロだけではありません。ヤコブもまた次のように言っています。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(ヤコブ1:2‐4)。またパウロも言っています。「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3‐4)。このように試練は一つのプロセスとして理解されているのです。イメージとしては、金属の精錬のようなものでしょう。それは迫害が身近であった教会においては共通の理解だったのだと思われます。そのような意味で、確かに試練は喜ぶべきものと言うことができます。
しかし、今日の箇所において語られているのはもう一つの別なことです。先ほどお読みした「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい」という言葉は次のように続きます。「それは、キリストの栄光が現れる時にも、喜びに満ちあふれるためです」(13節)。ペトロは、「キリストの栄光が現れる時」のことを考えているのです。すなわちキリストが再び来られる終わりの時、私たちの救いが完成するその時のことを考えているのです。神の御国において満ち溢れるであろう喜びのことを考えているのです。
喩えて言うならば、私たちはちょうどプレゼントを手渡されようとしているところにいるのです。プレゼントが差し出されます。相手の手から自分の手に渡るのに、ある程度の時間がかかるでしょう。そのような場面で、皆さんは自分の手にプレゼントが移って初めて喜びますか。そうではないでしょう。まだ自分が手にしていない時に、既に喜んでいるはずです。
私たちはキリストと結ばれて完全な救いというプレゼントを既に差し出されているのです。それはまだ手にしていなくても既に私たちのものなのです。その差し出されたプレゼントをやがて自分の手に受け取るための「現在」なのです。それは信仰が試される「現在」であるかもしれません。しかし、それはその時を迎えるためのプロセスなのです。
栄光の霊がとどまってくださるから
そして、もう一つ喜べる理由をペトロは示しています。その喜びは終末に関わるだけではありません。現在にも関わるのです。彼は言います。「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」(14節)。「とどまってくださる。」これは将来のことではなく、現在のことです。
ここで神の霊について、あえて「栄光の霊がとどまる」と表現されているのには理由があります。ペトロがイメージしているのは、例えば列王記上8章のような場面なのです。ソロモンが神殿を建て、その至聖所に主の契約の箱が運び入れられた時の話です。そこにはこう書かれています。「祭司たちが聖所から出ると、雲が主の神殿に満ちた。その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が主の神殿に満ちたからである」(列王上8:10‐11)。
パウロはギリシアの詩人のこのような言葉を引用していました。「我らは神の中に生き、動き、存在する」。それは間違いではありません。確かに神はどこにでもおられます。しかし、今読んだ箇所に書かれているのは別のことです。どこにでも神はおられる、というのではなく、まさに神がここに現臨してくださり、栄光を現してくださる。そのような神の臨在をイスラエルの民は「シェキーナー」と呼びました。
そして、あの神殿で起こったことが、あなたたちに起こるのだ、とペトロは言っているのです。人はどこで神の臨在に触れるのか、そして、人はどこで神の栄光を輝かせることになるのか。それは試練の中においてなのだ、ということです。人がキリストのゆえに非難される時、その人は栄光を失うのではなくて、むしろそこで神のリアリティに触れ、神の栄光を輝かせるのです。ならば、それは喜びにつながるのでしょう。
キリスト者として苦しみを受けるのなら
それゆえにペトロは言います。「あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」(15‐16節)。
「キリスト者(クリスチャン)」という言葉が出て来ました。原文では「クリスティアノス」。「キリストに属する者」という意味です。もともとアンティオキアにおいて始まった、いわば《蔑称》です。キリストを信じる者をバカにする呼び名でした。いわば「キリスト馬鹿」といったところでしょうか。キリストを信じた人たちが、年がら年中「キリスト」と言って、キリストを愛し、キリストを喜んでいる姿がはたから見たら滑稽だったのでしょう。
しかし、ペトロはそう呼ばれて馬鹿にされても気にするな。むしろ「神をあがめなさい」と言うのです。このような初期のキリスト者の姿を思います時、改めて考えさせられます。私たちは、馬鹿にされるほど、あるいはそのゆえに苦しめられるほどクリスティアノスだろうか。むしろ単なる善人であるように思われているほうがおかしいのではないか、と。
私は学生時代に出会った一人の友人を思い起こします。彼は同じ研究室の後輩でした。学部4年の時には完全にアンチ・キリストで、研究室でも下品な冗談ばかりを言っていた男でした。ところがその彼が修士1年目の時にキリスト者となり、一転して毎日口を開けばキリストの話をするようになったのです。
研究室の皆は彼を馬鹿にしました。彼は陰口をたたかれ、中傷されました。確かにキリストを伝えるのに、もう少し馬鹿にされない工夫はできたかもしれません。しかし、今思い起こすと、まさに彼はクリスティアノスでありました。そして、馬鹿にされても神をあがめていたのです。今日の箇所を読みますと、馬鹿にもされなければ気にもかけられない、もしかしたら信じていることすら知られてもいないキリスト者とは、いったい何なのかと改めて思わせられます。
福音に従わない者たちの行く末を案じて
そして、さらにペトロは言います。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか」(17節)。まず神の御前において問われるのはこの世ではありません。裁きは神の家から始まるのです。キリスト者が受ける苦難は、ある意味においてはまずキリスト者から神の御前に裁かれるということを指し示している出来事であるとも言えるでしょう。
そこで私たちが救われるとするならば、それはただ一重にキリストの十字架による贖いのゆえです。キリストの十字架がなければ、私たちの内いったい誰が救われると言えるでしょう。間違ってはなりません。私たちが救われるとするならば、それは当然のことなのではないのであって、まさに「正しい人がやっと救われる」のです。そのあのノアの時に、ノアとその家族が、かろうじて救われたようにです。もちろん私たちにおいてその「正しさ」というのは、信仰による義です。そのように十字架のゆえに「やっと救われる」ならば、確かにペトロが言うごとく「神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか」と案じるのが当たり前ではありませんか。
ならば自分の平安と幸福の事だけ考えて、試練が降りかかれば「思いがけないこと」のように思うようなキリスト者であってよいはずがありません。私たちが福音を証ししながらこの世をクリスティアノスとして生き抜くということは、この世に対する私たちの大きな責任なのです。ですからペトロは言うのです。「だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」と。
2017年3月5日日曜日
「神の言葉によって生きる」
2017年3月5日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 4章1節~11節
3月1日は「灰の水曜日」と呼ばれる特別な日でした。レント(受難節)の最初の日です。灰の水曜日から始まってレントの期間はイースターまでの46日間です。日曜日を抜かしますと40日間となります。そのような40日間のレントに入りまして最初の主日に与えられていますのが、イエス様が40日間荒野で断食したという話です。その荒野においてイエス様が悪魔から誘惑を受けられました。このレントの期間、まず私たちに語りかけられていますテーマは「誘惑」についてです。このテーマはここにいる私たち全ての人に関わっています。「誘惑」に無関係な人間などいないからです。
「誘惑」について
そのような「誘惑」について、今日の箇所には少なくとも四つのことが語られています。
第一に、誘惑を受けること自体は罪ではない、ということです。言い換えるならば、誘惑を受けることと罪を犯すことは別のこととして区別されなくてはならない、ということです。今日の箇所ではキリストが誘惑を受けているのです。そして、もう一方において聖書は繰り返し、キリストは罪を犯さなかった、と語っているのです。
ヘブライ人への手紙にも、キリストについてこう書かれています。「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)。この「試練に遭う」という言葉は、今日の聖書箇所に出て来た「誘惑を受ける」という言葉と同じ言葉です。
キリストはわたしたちと同様に試練を受けられ誘惑を受けられましたが、罪を犯しませんでした。宗教改革者マルティン・ルターがこんなことを言っていました。「あなたは頭の上の空を鳥が飛ぶのを妨げることはできない。しかし、髪の毛に巣をつくることを防ぐことはできる。」鳥が頭の上を飛ぶことと、巣をつくらせることとは別のことです。誘惑を受けることと罪を犯すことは別のことです。
また、キリストが洗礼を受けた話の直後に悪魔から誘惑を受けた話が続いていることは注目に値します。洗礼の時にキリストは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞きました。今日の箇所で悪魔は言います、「神の子なら」と。
「誘惑」につい語られている第二のことは、神の子であるゆえに受ける誘惑がある、ということです。信仰者となったら、洗礼を受けたら、誘惑を受けることはなくなるか。あるいはせめて少なくなるのか。――そんなことはありません。私たちが神を天の父と呼んで生き始めるならば、神の子供として生き始めるならば、悪魔にとっては敵になるでしょう。悪魔に憎まれることになるでしょう。だからこそ、主は弟子たちにそのことに関する祈りを教えられたのです。「天におられるわたしたちの父よ、…わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」。「悪い者」とは悪魔のことです。ご存じ、「主の祈り」の六番目の祈りです。神を「天におられるわたしたちの父」として祈るなら、絶対に必要な祈りです。
しかし、悪魔が私たちを憎んでいるとしても、必ずしも苦しみや災いを持ってくると思ってはなりません。いや、むしろ悪魔は親切な顔をしてやってくるのです。今日の箇所もそうでしょう。悪魔は、空腹に苦しむイエス様に助言を持ってきたのです。
「誘惑」について語られている第三のことは、「誘惑」はしばしば「助け」の顔をしてやってくるということです。悪魔はしばしば助言を持ってくるのです。窮乏を切り抜ける助言、必要が満たされるためのアドバイスを持ってくるのです。「こうすればあなたの今の窮乏は切り抜けられるよ。そのためにあなたの持っている力を使いなさい。できるでしょう」と。
そうです、そのように「誘惑」は力のあるところに働くのです。それが「誘惑」について語られている第四のことです。誘惑は弱い部分に働くのではなく、むしろ人間の強い部分に働くのです。どうですか。皆さんに「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」という誘惑が来ると思いますか。思わないでしょう。そのような誘惑は来ない。なぜならできないからです。できないところには誘惑は働きません。
しかし、他のことだったら私たちにもできるかも知れません。自分の窮乏を救うために、あるいは誰かの窮乏を救うためにできることがあるかもしれない。その力がある時に、神の望むとおりにその力を使うのではなく、悪魔の望むとおりにその力を使わせようとする誘惑は働くのです。できるからこそ人は罪を犯すのであり、できるからこそ罪への誘惑が働くのです。
神の言葉から引き離す誘惑
さて、今日の箇所にはイエス様が三つの誘惑を受けたことが書かれていますが、今日は特にその第一の誘惑に注目したいと思います。3節をもう一度お読みします。「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』」(3節)。
それにしても、不思議な話です。「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」がどうして「誘惑」なのでしょう。空腹であるならばパンを盗んできなさい、という話ならなるほど誰が聞いても悪魔の誘惑らしいと言えます。先ほど、できるからこそ罪への誘惑が働くと申しました。例えば、「自分の能力や立場を利用して、たとえ不正な手段であっても窮乏を救え」という言葉なら、なるほど「悪魔の誘惑」らしいと言えるでしょう。「誰かを踏みつけてでも自分の必要を満たせ」と言うならば、どう見ても悪魔の望むとおりに自分の力を使わせようとする誘惑だと言うことができます。しかし、イエス様が石をパンになるように命じることは、どう見ても不正な手段云々の話ではありません。他者を害するものでもなさそうです。どうしてこれが誘惑なのでしょうか。
この誘惑の意味を理解するには、誘惑する者を退けるイエス様の言葉から考えるのがよいと思います。主は次のような言葉をもって悪魔を退けられたのです。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(4節)と。
このイエス様の言葉から考えますと、この悪魔の誘惑は「人をパンだけで生きるものにしてしまう」という誘惑であるようです。それはまた「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ところから引き離してしまう誘惑であると言えるでしょう。要するに、そのような神との生ける関係から引き離してしまう誘惑です。
そもそも「誘惑」と言いますと、すぐに連想されるのは犯罪への誘惑や、不正や不道徳への誘惑でしょう。しかし、悪魔のねらいはどうもそのような表面的なことにあるのではなさそうです。もっと深いところにある。もっと根源的な問題へと誘って行くのです。
それは何か。神とその言葉から引き離すことです。「神の言葉によって生きる」という神との生きた交わりから引き離すことなのです。そのようにして神から引き離し、まことの命から引き離すことなのです。
あえて言うならば、悪魔にとっては私たちが法律にひっかかる罪を犯すかどうかはどうでも良いことなのです。刑務所に入るようなことをするかどうかは、どうでもよいことなのです。悪魔にとっては人間を神から引き離してしまえれば、それで良いのです。神とその言葉から引き離すことができれば、それでよいのです。
実際、そのような誘惑は今も私たちの間に働いているではありませんか。不正を行ったわけではない。誰かを傷つけたわけでもない。この世的に見ても不道徳を咎められるようなことをしたわけではない。窮乏の救いをただひたすら求めてそれを得ただけ。自らの必要を満たしただけ。空腹だからパンを求めてパンを得ただけ。そのような場合、それ自体はいかなる悪とも見えません。しかし、「パンさえ得られればよいのだ」としか思っていなければ、そして、神を求めることもその手段でしかないならば、窮乏が解決された途端に、もはや神を求めることもなく、神の御言葉を求めることもなくなってしまうことは起こりえます。神との交わりなんてどうでも良くなってしまって、神を天の父と呼ぶことも礼拝することもなく歩み始めてしまう。そのようなことはいくらでも起こると思いませんか。そうなれば、悪魔は誘惑に成功したことになるのでしょう。
人は神の言葉で生きる
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。窮乏を解決するパンが与えられるならば、それは本来、神との関係を深めるものとならなくてはならないのです。それは神の言葉によって生きる生活を確かにするものとならなくてはならないのです。そのことをイエス様の言葉は示しているのです。
イエス様が誘惑を退ける時に用いた言葉は旧約聖書の申命記からの引用です。もとの聖書箇所には次のように書かれています。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(申命記8:2‐3)。
もとになっているのは、イスラエルが荒れ野を旅していた時の話です。荒れ野で食料が無くなり、彼らが飢えた。その時に、神は「マナ」という食べ物を与えてくださったのです。しかし、それはただ単に彼らを空腹から救うためではありませんでした。「マナ」が与えられたのは、彼らが神への信頼と従順に生きるようになるためだったのです。ですから、神様はマナを集めることについて条件を与えられました。「毎日必要な分だけ集める」ということでした。二日分集めてはならないのです。ただし、安息日の前日だけは二日分集めてよい。その代わり、安息日には集めようとしてはならない。それが条件でした。
「明日の分まで集めてはならない」ということは、要するに、「明日のことは神に信頼し、今日を神に従順に生きる」ということでしょう。そのようにして、窮乏から救われた今もなお、いや窮乏から救われた今だからこそ、いよいよ神に信頼し、神に従順に生きていくわけでしょう。しかし、実際にはそうならなかった。イスラエルの人たちは、二日分集めたり、安息日に集めたりしたのです。
ここに書かれている第一の誘惑というのは、実は、旧約聖書においてイスラエルの民が繰り返し陥ってきた誘惑に他ならないのです。そしてまた、私たちが陥ってきた誘惑に他なりません。そこにイエス様は人間として身を置いてくださっているのです。そして、主はその誘惑に打ち勝ってくださった。私たちに代わって悪魔に宣言してくださっているのです。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と。
そのようなイエス様と共に生きるように私たちは招かれているのです。この主の御言葉が読まれる受難節のこの時、私たちは神の言葉によって生きる生活へと立ち帰り、悪魔に打ち勝ちたもう主に従って行くようにと招かれているのです。
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 4章1節~11節
3月1日は「灰の水曜日」と呼ばれる特別な日でした。レント(受難節)の最初の日です。灰の水曜日から始まってレントの期間はイースターまでの46日間です。日曜日を抜かしますと40日間となります。そのような40日間のレントに入りまして最初の主日に与えられていますのが、イエス様が40日間荒野で断食したという話です。その荒野においてイエス様が悪魔から誘惑を受けられました。このレントの期間、まず私たちに語りかけられていますテーマは「誘惑」についてです。このテーマはここにいる私たち全ての人に関わっています。「誘惑」に無関係な人間などいないからです。
「誘惑」について
そのような「誘惑」について、今日の箇所には少なくとも四つのことが語られています。
第一に、誘惑を受けること自体は罪ではない、ということです。言い換えるならば、誘惑を受けることと罪を犯すことは別のこととして区別されなくてはならない、ということです。今日の箇所ではキリストが誘惑を受けているのです。そして、もう一方において聖書は繰り返し、キリストは罪を犯さなかった、と語っているのです。
ヘブライ人への手紙にも、キリストについてこう書かれています。「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)。この「試練に遭う」という言葉は、今日の聖書箇所に出て来た「誘惑を受ける」という言葉と同じ言葉です。
キリストはわたしたちと同様に試練を受けられ誘惑を受けられましたが、罪を犯しませんでした。宗教改革者マルティン・ルターがこんなことを言っていました。「あなたは頭の上の空を鳥が飛ぶのを妨げることはできない。しかし、髪の毛に巣をつくることを防ぐことはできる。」鳥が頭の上を飛ぶことと、巣をつくらせることとは別のことです。誘惑を受けることと罪を犯すことは別のことです。
また、キリストが洗礼を受けた話の直後に悪魔から誘惑を受けた話が続いていることは注目に値します。洗礼の時にキリストは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞きました。今日の箇所で悪魔は言います、「神の子なら」と。
「誘惑」につい語られている第二のことは、神の子であるゆえに受ける誘惑がある、ということです。信仰者となったら、洗礼を受けたら、誘惑を受けることはなくなるか。あるいはせめて少なくなるのか。――そんなことはありません。私たちが神を天の父と呼んで生き始めるならば、神の子供として生き始めるならば、悪魔にとっては敵になるでしょう。悪魔に憎まれることになるでしょう。だからこそ、主は弟子たちにそのことに関する祈りを教えられたのです。「天におられるわたしたちの父よ、…わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」。「悪い者」とは悪魔のことです。ご存じ、「主の祈り」の六番目の祈りです。神を「天におられるわたしたちの父」として祈るなら、絶対に必要な祈りです。
しかし、悪魔が私たちを憎んでいるとしても、必ずしも苦しみや災いを持ってくると思ってはなりません。いや、むしろ悪魔は親切な顔をしてやってくるのです。今日の箇所もそうでしょう。悪魔は、空腹に苦しむイエス様に助言を持ってきたのです。
「誘惑」について語られている第三のことは、「誘惑」はしばしば「助け」の顔をしてやってくるということです。悪魔はしばしば助言を持ってくるのです。窮乏を切り抜ける助言、必要が満たされるためのアドバイスを持ってくるのです。「こうすればあなたの今の窮乏は切り抜けられるよ。そのためにあなたの持っている力を使いなさい。できるでしょう」と。
そうです、そのように「誘惑」は力のあるところに働くのです。それが「誘惑」について語られている第四のことです。誘惑は弱い部分に働くのではなく、むしろ人間の強い部分に働くのです。どうですか。皆さんに「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」という誘惑が来ると思いますか。思わないでしょう。そのような誘惑は来ない。なぜならできないからです。できないところには誘惑は働きません。
しかし、他のことだったら私たちにもできるかも知れません。自分の窮乏を救うために、あるいは誰かの窮乏を救うためにできることがあるかもしれない。その力がある時に、神の望むとおりにその力を使うのではなく、悪魔の望むとおりにその力を使わせようとする誘惑は働くのです。できるからこそ人は罪を犯すのであり、できるからこそ罪への誘惑が働くのです。
神の言葉から引き離す誘惑
さて、今日の箇所にはイエス様が三つの誘惑を受けたことが書かれていますが、今日は特にその第一の誘惑に注目したいと思います。3節をもう一度お読みします。「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』」(3節)。
それにしても、不思議な話です。「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」がどうして「誘惑」なのでしょう。空腹であるならばパンを盗んできなさい、という話ならなるほど誰が聞いても悪魔の誘惑らしいと言えます。先ほど、できるからこそ罪への誘惑が働くと申しました。例えば、「自分の能力や立場を利用して、たとえ不正な手段であっても窮乏を救え」という言葉なら、なるほど「悪魔の誘惑」らしいと言えるでしょう。「誰かを踏みつけてでも自分の必要を満たせ」と言うならば、どう見ても悪魔の望むとおりに自分の力を使わせようとする誘惑だと言うことができます。しかし、イエス様が石をパンになるように命じることは、どう見ても不正な手段云々の話ではありません。他者を害するものでもなさそうです。どうしてこれが誘惑なのでしょうか。
この誘惑の意味を理解するには、誘惑する者を退けるイエス様の言葉から考えるのがよいと思います。主は次のような言葉をもって悪魔を退けられたのです。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(4節)と。
このイエス様の言葉から考えますと、この悪魔の誘惑は「人をパンだけで生きるものにしてしまう」という誘惑であるようです。それはまた「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ところから引き離してしまう誘惑であると言えるでしょう。要するに、そのような神との生ける関係から引き離してしまう誘惑です。
そもそも「誘惑」と言いますと、すぐに連想されるのは犯罪への誘惑や、不正や不道徳への誘惑でしょう。しかし、悪魔のねらいはどうもそのような表面的なことにあるのではなさそうです。もっと深いところにある。もっと根源的な問題へと誘って行くのです。
それは何か。神とその言葉から引き離すことです。「神の言葉によって生きる」という神との生きた交わりから引き離すことなのです。そのようにして神から引き離し、まことの命から引き離すことなのです。
あえて言うならば、悪魔にとっては私たちが法律にひっかかる罪を犯すかどうかはどうでも良いことなのです。刑務所に入るようなことをするかどうかは、どうでもよいことなのです。悪魔にとっては人間を神から引き離してしまえれば、それで良いのです。神とその言葉から引き離すことができれば、それでよいのです。
実際、そのような誘惑は今も私たちの間に働いているではありませんか。不正を行ったわけではない。誰かを傷つけたわけでもない。この世的に見ても不道徳を咎められるようなことをしたわけではない。窮乏の救いをただひたすら求めてそれを得ただけ。自らの必要を満たしただけ。空腹だからパンを求めてパンを得ただけ。そのような場合、それ自体はいかなる悪とも見えません。しかし、「パンさえ得られればよいのだ」としか思っていなければ、そして、神を求めることもその手段でしかないならば、窮乏が解決された途端に、もはや神を求めることもなく、神の御言葉を求めることもなくなってしまうことは起こりえます。神との交わりなんてどうでも良くなってしまって、神を天の父と呼ぶことも礼拝することもなく歩み始めてしまう。そのようなことはいくらでも起こると思いませんか。そうなれば、悪魔は誘惑に成功したことになるのでしょう。
人は神の言葉で生きる
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。窮乏を解決するパンが与えられるならば、それは本来、神との関係を深めるものとならなくてはならないのです。それは神の言葉によって生きる生活を確かにするものとならなくてはならないのです。そのことをイエス様の言葉は示しているのです。
イエス様が誘惑を退ける時に用いた言葉は旧約聖書の申命記からの引用です。もとの聖書箇所には次のように書かれています。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(申命記8:2‐3)。
もとになっているのは、イスラエルが荒れ野を旅していた時の話です。荒れ野で食料が無くなり、彼らが飢えた。その時に、神は「マナ」という食べ物を与えてくださったのです。しかし、それはただ単に彼らを空腹から救うためではありませんでした。「マナ」が与えられたのは、彼らが神への信頼と従順に生きるようになるためだったのです。ですから、神様はマナを集めることについて条件を与えられました。「毎日必要な分だけ集める」ということでした。二日分集めてはならないのです。ただし、安息日の前日だけは二日分集めてよい。その代わり、安息日には集めようとしてはならない。それが条件でした。
「明日の分まで集めてはならない」ということは、要するに、「明日のことは神に信頼し、今日を神に従順に生きる」ということでしょう。そのようにして、窮乏から救われた今もなお、いや窮乏から救われた今だからこそ、いよいよ神に信頼し、神に従順に生きていくわけでしょう。しかし、実際にはそうならなかった。イスラエルの人たちは、二日分集めたり、安息日に集めたりしたのです。
ここに書かれている第一の誘惑というのは、実は、旧約聖書においてイスラエルの民が繰り返し陥ってきた誘惑に他ならないのです。そしてまた、私たちが陥ってきた誘惑に他なりません。そこにイエス様は人間として身を置いてくださっているのです。そして、主はその誘惑に打ち勝ってくださった。私たちに代わって悪魔に宣言してくださっているのです。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と。
そのようなイエス様と共に生きるように私たちは招かれているのです。この主の御言葉が読まれる受難節のこの時、私たちは神の言葉によって生きる生活へと立ち帰り、悪魔に打ち勝ちたもう主に従って行くようにと招かれているのです。
2017年2月26日日曜日
「安らかに信頼していることにこそ力がある」
2017年2月26日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 14章22節~32節
安心しなさい
弟子たちはガリラヤ湖の上で漕ぎ悩んでいました。何時間もの間、吹き付ける激しい逆風と打ち付ける激しい波に翻弄されて、既に明け方近くになっていました。どんなにか疲れていたことでしょう。どんなにか怖かったことでしょう。しかし、彼らの舟の中にイエス様はおられないのです。目に見える姿でそこにはおられないのです。
そこに見る弟子たちの姿は、ある意味で後の教会の姿を表していると言えます。キリストは十字架にかかられた後、復活して弟子たちに現れました。しかし、復活したキリストの顕現は、その後ずっと続いたわけではありません。使徒言行録によるならば、その期間は四十日であったと伝えられています。その期間の終わりを、聖書は「キリストの昇天」として伝えています。その後二千年にわたる長い教会の歴史において、キリストは目に見える姿で共にいることはありませんでした。
教会が迫害の嵐の中にあった時にも、キリストは見える姿では教会にはおられませんでした。教会がこの世の様々な外部からの力に翻弄されている時、悪魔の力によって内側からかき乱されている時、キリストは目に見える姿で共にはおられませんでした。信仰者が涙を流し、叫び声を上げている時、キリストは、目に見える姿において共にはおられませんでした。漕ぎ悩むキリスト不在の舟。それは一面においてこの世の教会の姿です。
しかし、それはあくまでも一面に過ぎません。物語は次のように続きます。「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』」(25‐27節)。
「湖の上を歩いて」という表現は実に印象的です。「そんなことあり得ない」と誰もが思いますでしょう。そうです、その通りなのです。ここで重要なことは、まさに「そんなことあり得ない」という仕方でキリストが近づいて来られた、ということなのです。人の思いを超えた仕方で、キリストが近づいて来られ、そして語りかけてくださったのです。
そのように、目に見える姿ではキリストのおられない教会に、目に見える姿ではキリストのおられない信仰者の生活に、キリストが近づいてきてくださいます。そして、語りかけてくださるのです。しかし、それは人間の思考を超えた現実であり、神の霊による出来事なのです。それこそが、代々の教会の経験してきたことでありますし、私たちに与えられている経験でもあるのです。
そして、もう一つ重要なことがあります。キリストが特に湖の上を「歩いて」来られた、と表現されているということです。「湖」と訳されていますが、これは「海」という言葉です。そして、「海」というのは、当時の人々にとっては、人間が支配することのできない恐るべき混沌の力を象徴するものに他ならなかったのです。まさに舟はそのような力によって翻弄され、滅びに瀕しているのです。しかし、キリストはその恐るべき混沌の力を踏みつけて近づいて来られるのです。湖の上を歩いて来られたとはそういうことです。
この箇所を読んでいますと、ヨハネによる福音書に記されているキリストの言葉、最後の晩餐における言葉が思い起こされます。主は弟子たちにこう言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。まさに漕ぎ悩む弟子たちに近づいて来られたのは、そのような勝利者キリストの姿に他なりませんでした。
だからこそ、近づいて来られたキリストはこう言われるのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。この「安心しなさい」という言葉は、先ほど引用しましたヨハネによる福音書の「勇気を出しなさい」というのと同じ言葉です。ですから、ここで言われているのは単に「幽霊ではないよ。わたしだよ」と言っているのではありません。「わたしだ」というのは、「わたしがいる」という意味でもあります。つまり、イエス様は御言葉によって御自分を示して、「わたしがいるではないか。安心しなさい。勇気を出しなさい。大丈夫。恐れることはない!」そう言ってくださるのです。
なぜ疑ったのか
そう言ってくださる方がおられるなら、こちら側として重要なのは信頼することなのでしょう。今日の第一朗読においても、次のような言葉が読まれました。「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と」(イザヤ30:15)。今日の説教題はここから取りました。問題は私たちの側の信頼です。
そこで福音書においても具体的に「信頼」を表した一人の男の話をするのです。ペトロの話です。「すると、ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。』イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ」(28‐29節)。
「わたしだ。わたしがいる」。海を踏みつけて歩かれるキリストがおられる。ペトロはそのことを知って、自分自身も海の上に立ち、キリストのもとに行こうとしました。ペトロは「来なさい」とのキリストの言葉を聞いたのです。それゆえに、彼は海の上をキリストのもとへ歩んでいきます。一歩、また一歩と。キリストの言葉を聞き、その御方に信頼するときに、彼もまた海を足の下に踏んで歩くことができたのです。もはや闇の力に翻弄される者ではありません。いかなる力も彼を滅ぼすことはできません。信じる者はキリストと共に海の上に立つのです。
しかし、話はそれで終わりません。次のように続きます。「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた」(30‐31節)。
しばらく行くとペトロは強い風が吹いていることに気付きます。恐れに捕らわれます。そして海に沈み始めます。キリストはそのようなペトロの心の動きを「疑い」と呼ばれました。「なぜ疑ったのか」とキリストは言われるのです。「疑い」とは何でしょうか。これはもともと二つの方向に進んでいくことを意味する言葉です。「二心」という言葉に近いかもしれません。ペトロの心は分かれてしまったのです。
先ほどのイザヤ書の言葉にも続きがありました。主は「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と言われます。しかし、こう続くのです。「しかし、お前たちはそれを望まなかった。お前たちは言った。『そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう』と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない」(イザヤ30:15‐16)。
主は「信頼せよ」と言われる。しかし、人は言うのです。「そうしてはいられない」と。「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と言うのです。だから逃げなければならなくなるのだ、と主は言われるのです。
ペトロもそうでした。一方において、キリストとその御言葉への信頼へと向かいます。しかし、もう一方で彼の心は、風が吹いている中で海の上にいるという現実に向かうのです。そして思うのです。「こうしてはいられない」と。このままでは沈んでしまう、と。だから沈み始めるのです。
主はそんなペトロに言われました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。この言葉は身につまされます。実に痛い言葉です。強い風に気がついて怖くなって沈み始めたペトロの姿は人ごとではないからです。「そうしてはいられない」と言って馬に乗って逃げようとする姿も人ごとではないからです。
しかし、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」というこの言葉は私たちにとって慰めでもあります。イエス様は海に沈み行くペトロを海の底に見送りながらそう言ったのではないからです。「主よ、助けてください」と叫ぶペトロに向かって、イエス様はすぐに手を伸ばして捕まえて、そして言った言葉です。「すぐに」です。そして、イエス様がペトロを捕まえたのであって、ペトロが必死で手を伸ばしてイエス様をつかんだのではないのです。
「主よ、助けてください」は字義通りには「主よ、お救いください」という言葉です。「お救いください」と叫ぶペトロをイエス様は沈むままにはさせない。そうです、イエス様は沈むままにはさせないのです。つかんでおられるのは、海の上を歩いて来られた方なのです。「わたしがいるではないか。安心しなさい。勇気を出しなさい。大丈夫。恐れることはない!」と言われる方なのです。
ならば、そのイエス様の言われる「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」は、ただ不信仰をとがめているのではありません。もう一度信じることへの招きに他ならないのでしょう。なぜ疑ったのか。信じなさい。信じなさい。そう主は呼びかけておられるのです。
漕ぎ悩む弟子たちに海を踏みつけて近づかれ、沈み行くペトロの手をつかんで引き上げられたイエス様は今も生きておられます。今日も私たちのところに近づいて来られて語りかけていてくださいます。何度でも私たちを引き上げて語りかけていてくださいます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。ここからもう一度、主に信頼し、従ってまいりましょう。
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 14章22節~32節
安心しなさい
弟子たちはガリラヤ湖の上で漕ぎ悩んでいました。何時間もの間、吹き付ける激しい逆風と打ち付ける激しい波に翻弄されて、既に明け方近くになっていました。どんなにか疲れていたことでしょう。どんなにか怖かったことでしょう。しかし、彼らの舟の中にイエス様はおられないのです。目に見える姿でそこにはおられないのです。
そこに見る弟子たちの姿は、ある意味で後の教会の姿を表していると言えます。キリストは十字架にかかられた後、復活して弟子たちに現れました。しかし、復活したキリストの顕現は、その後ずっと続いたわけではありません。使徒言行録によるならば、その期間は四十日であったと伝えられています。その期間の終わりを、聖書は「キリストの昇天」として伝えています。その後二千年にわたる長い教会の歴史において、キリストは目に見える姿で共にいることはありませんでした。
教会が迫害の嵐の中にあった時にも、キリストは見える姿では教会にはおられませんでした。教会がこの世の様々な外部からの力に翻弄されている時、悪魔の力によって内側からかき乱されている時、キリストは目に見える姿で共にはおられませんでした。信仰者が涙を流し、叫び声を上げている時、キリストは、目に見える姿において共にはおられませんでした。漕ぎ悩むキリスト不在の舟。それは一面においてこの世の教会の姿です。
しかし、それはあくまでも一面に過ぎません。物語は次のように続きます。「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』」(25‐27節)。
「湖の上を歩いて」という表現は実に印象的です。「そんなことあり得ない」と誰もが思いますでしょう。そうです、その通りなのです。ここで重要なことは、まさに「そんなことあり得ない」という仕方でキリストが近づいて来られた、ということなのです。人の思いを超えた仕方で、キリストが近づいて来られ、そして語りかけてくださったのです。
そのように、目に見える姿ではキリストのおられない教会に、目に見える姿ではキリストのおられない信仰者の生活に、キリストが近づいてきてくださいます。そして、語りかけてくださるのです。しかし、それは人間の思考を超えた現実であり、神の霊による出来事なのです。それこそが、代々の教会の経験してきたことでありますし、私たちに与えられている経験でもあるのです。
そして、もう一つ重要なことがあります。キリストが特に湖の上を「歩いて」来られた、と表現されているということです。「湖」と訳されていますが、これは「海」という言葉です。そして、「海」というのは、当時の人々にとっては、人間が支配することのできない恐るべき混沌の力を象徴するものに他ならなかったのです。まさに舟はそのような力によって翻弄され、滅びに瀕しているのです。しかし、キリストはその恐るべき混沌の力を踏みつけて近づいて来られるのです。湖の上を歩いて来られたとはそういうことです。
この箇所を読んでいますと、ヨハネによる福音書に記されているキリストの言葉、最後の晩餐における言葉が思い起こされます。主は弟子たちにこう言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。まさに漕ぎ悩む弟子たちに近づいて来られたのは、そのような勝利者キリストの姿に他なりませんでした。
だからこそ、近づいて来られたキリストはこう言われるのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。この「安心しなさい」という言葉は、先ほど引用しましたヨハネによる福音書の「勇気を出しなさい」というのと同じ言葉です。ですから、ここで言われているのは単に「幽霊ではないよ。わたしだよ」と言っているのではありません。「わたしだ」というのは、「わたしがいる」という意味でもあります。つまり、イエス様は御言葉によって御自分を示して、「わたしがいるではないか。安心しなさい。勇気を出しなさい。大丈夫。恐れることはない!」そう言ってくださるのです。
なぜ疑ったのか
そう言ってくださる方がおられるなら、こちら側として重要なのは信頼することなのでしょう。今日の第一朗読においても、次のような言葉が読まれました。「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と」(イザヤ30:15)。今日の説教題はここから取りました。問題は私たちの側の信頼です。
そこで福音書においても具体的に「信頼」を表した一人の男の話をするのです。ペトロの話です。「すると、ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。』イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ」(28‐29節)。
「わたしだ。わたしがいる」。海を踏みつけて歩かれるキリストがおられる。ペトロはそのことを知って、自分自身も海の上に立ち、キリストのもとに行こうとしました。ペトロは「来なさい」とのキリストの言葉を聞いたのです。それゆえに、彼は海の上をキリストのもとへ歩んでいきます。一歩、また一歩と。キリストの言葉を聞き、その御方に信頼するときに、彼もまた海を足の下に踏んで歩くことができたのです。もはや闇の力に翻弄される者ではありません。いかなる力も彼を滅ぼすことはできません。信じる者はキリストと共に海の上に立つのです。
しかし、話はそれで終わりません。次のように続きます。「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた」(30‐31節)。
しばらく行くとペトロは強い風が吹いていることに気付きます。恐れに捕らわれます。そして海に沈み始めます。キリストはそのようなペトロの心の動きを「疑い」と呼ばれました。「なぜ疑ったのか」とキリストは言われるのです。「疑い」とは何でしょうか。これはもともと二つの方向に進んでいくことを意味する言葉です。「二心」という言葉に近いかもしれません。ペトロの心は分かれてしまったのです。
先ほどのイザヤ書の言葉にも続きがありました。主は「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と言われます。しかし、こう続くのです。「しかし、お前たちはそれを望まなかった。お前たちは言った。『そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう』と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない」(イザヤ30:15‐16)。
主は「信頼せよ」と言われる。しかし、人は言うのです。「そうしてはいられない」と。「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と言うのです。だから逃げなければならなくなるのだ、と主は言われるのです。
ペトロもそうでした。一方において、キリストとその御言葉への信頼へと向かいます。しかし、もう一方で彼の心は、風が吹いている中で海の上にいるという現実に向かうのです。そして思うのです。「こうしてはいられない」と。このままでは沈んでしまう、と。だから沈み始めるのです。
主はそんなペトロに言われました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。この言葉は身につまされます。実に痛い言葉です。強い風に気がついて怖くなって沈み始めたペトロの姿は人ごとではないからです。「そうしてはいられない」と言って馬に乗って逃げようとする姿も人ごとではないからです。
しかし、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」というこの言葉は私たちにとって慰めでもあります。イエス様は海に沈み行くペトロを海の底に見送りながらそう言ったのではないからです。「主よ、助けてください」と叫ぶペトロに向かって、イエス様はすぐに手を伸ばして捕まえて、そして言った言葉です。「すぐに」です。そして、イエス様がペトロを捕まえたのであって、ペトロが必死で手を伸ばしてイエス様をつかんだのではないのです。
「主よ、助けてください」は字義通りには「主よ、お救いください」という言葉です。「お救いください」と叫ぶペトロをイエス様は沈むままにはさせない。そうです、イエス様は沈むままにはさせないのです。つかんでおられるのは、海の上を歩いて来られた方なのです。「わたしがいるではないか。安心しなさい。勇気を出しなさい。大丈夫。恐れることはない!」と言われる方なのです。
ならば、そのイエス様の言われる「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」は、ただ不信仰をとがめているのではありません。もう一度信じることへの招きに他ならないのでしょう。なぜ疑ったのか。信じなさい。信じなさい。そう主は呼びかけておられるのです。
漕ぎ悩む弟子たちに海を踏みつけて近づかれ、沈み行くペトロの手をつかんで引き上げられたイエス様は今も生きておられます。今日も私たちのところに近づいて来られて語りかけていてくださいます。何度でも私たちを引き上げて語りかけていてくださいます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。ここからもう一度、主に信頼し、従ってまいりましょう。
2017年2月19日日曜日
「弱いときにこそ強い」
2017年2月19日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章1節~10節
わたしも誇ることにしよう
「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう」(1節)。誇ることは無益だと分かっています。わかった上で、パウロはあえて誇ってみせるのです。それは今日お読みした12章から始まっているのではありません。既に11章から始まっています。パウロはあえて多くの言葉を費やして誇ってみせるのです。
それはなぜなのか。前の章にこう書かれています。「多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう」(11:18)。それだけ聞くならば、「みんなが自慢話をするならば、わたしだってできなくはないぞ」と言っているだけに聞こえなくもありません。しかし、もちろんパウロはそんな理由で自分を誇ったりはしません。
問題はこの「多くの者」が誰かということなのです。それは異なる教えを宣べ伝える教師たちのことなのです。パウロが11章で「偽使徒」(11:13)と呼んでいる人々です。彼らはパウロがコリントの教会を去った後に入ってきた教師たちです。彼らが教会にもたらした混乱が、コリントの教会に宛てたパウロの手紙の背景となっているのです。
既に彼らはコリントの教会において大きな影響力を持つようになっていました。彼らがいかに強力な支配力をもっていたかは、「実際、あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています」(11:20)という言葉にも現れております。これだけ読むとまるで今日のカルト教団のようです。そのような教師たちに、コリントの教会はついて行ったのです。
なぜ彼らについて行ったのか。「多くの者が肉に従って誇っている」とありました。誇っているのは、誇れるものを持っていたからです。その一つとして考えられるのは神秘体験です。ですから、パウロも今日の箇所において神秘体験について語るのです。他にも誇り得る特別な何かを持っている教師たちだったのでしょう。
そのような教師たちにコリントの人たちはついて行きました。誇り得る特別なものを持っている彼らについていきました。それは明らかに、自分もまたそれを得たいからでしょう。誇り得る何かを得たいからでしょう。自分には誇り得る何もないと思っている人ならば、なおさらではありませんか。誇り得る何かを持っている人は魅力的に見える。「あなたも持てるよ」と言われればついていきたくもなる。
しかし、問題は彼らについていっても、キリストのもとにはたどり着かないということにあるのです。彼らに支配に徹底的に従ったとしても、神に従って生きることにはならない。たとえ彼らのように自らを誇れる人間になれたとしても、キリストと共に生きる人にはなれないということなのです。
そこでパウロは一緒に誇ってみせるのです。「多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう」と言って誇ってみせるのです。先にも言いましたように、彼らの誇りの一つは神秘体験でした。だから今日の箇所ではパウロも自らの体験を語り出すのです。「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう」と。
弱さ以外に誇るつもりはありません
しかし、そのようにあえて誇ってみせるのは、自分を優位に見せるためではないのです。「私の方が偽使徒の彼らより優れているのだから、わたしに従いなさい」という意味ではないのです。パウロは「誇っても無益だ」ということは分かっているのです。どちらが誇るべきものを持っているかを比較することも、どちらが優位にあるかを競うことも、全く無益だということを知っているのです。
ですから、パウロは「主が見せてくださった事と啓示してくださった事について」語るのですが、それを全く他人事として語るのです。「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです」(2‐4節)。
「十四年前」。パウロはそれがいつ起こったかもはっきりと覚えていました。彼は天の楽園にまで引き上げられた。それが実際に起こったことか幻であったのかは分かりません。本人にも分からないのです。しかし、それは主が見せてくださった事、啓示してくださった事として強烈に記憶に刻まれたことなのでしょう。
そのような体験は、コリントの教会の人たちが、それこそ喉から手が出るほどに欲しかったものだったのだと思います。それはまさに他の人の持っていないものを持つことになるから。自らを優位に置くものを持つことになるから。宗教的な世界においては、他の人に誇り得るものを持つことになるから。
しかし、パウロはそれを自分が誇るべきこととしては語らないのです。「キリストに結ばれていた一人の人」のこととして語るのです。そして、「このような人のことをわたしは誇りましょう」と言うのです。つまり偽使徒たちが肉に従って誇っているようなことならパウロにもないわけではない。しかし、パウロはあえて自分のこととして誇らない、というのです。それは本当に誇るべきものは別にあるからです。「このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」(5節)。
すべてはこのことを語るためだったのです。「多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう」と言って誇ってきたのはこのためだったのです。「誇っても無益だ」と分かっていながら、あえて誇ってきたのはこのためだったのです。「自分自身については、弱さ以外に誇るつもりはありません」。それは11章で誇った後においても、既に語られていたことでした。「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」(11:30)。
キリストの力が宿るように
そこでパウロは自分の身に与えられた「とげ」の話を始めるのです。「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました」(7節)。この「とげ」が具体的に何を意味するのかは語られていません。古くから様々な推測がなされてきました。ある人は、パウロはてんかんであったかもしれないと言います。パウロは目の病気であったのかもしれないと言う人もあります。いずれにせよ、それは何らかの苦しみが続いていたということなのでしょう。
そして、それはいかなる意味においても、誇りとは結び着かないものとして語られています。それは「思い上がることのないように」と与えられたものだ、と。しかも、その苦しみによって人間が磨かれたという意味合いもない。「艱難汝を玉にす」というものでもない。それは「わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使い」だと言うのです。そこには、この「とげ」が少なからず宣教の妨げになったという意味合いも含まれているのかもしれません。
いずれにせよ、その「とげ」自体が誇りとなり得る要素は完全に排除されているのです。純粋な意味で「弱さ」。誇りとは対極にある「弱さ」です。
しかし、パウロはそのような「弱さを誇る」と言うのです。それはなぜか。パウロは話を続けます。「この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(8‐9節)。
誇り得る何かを持つこと、そのようにして自らを誇り得る人間になることよりも、もっともっと大事なことがあることをパウロは示しているのです。キリストの力が宿ること。キリストの力が弱さの中において現れること。私たちの人生が私たちの力の現れではなく、キリストの力の現れとなること。教会の働きが、私たちの力の現れではなく、キリストの力の現れとなることです。
私たちにおいて、どう考えても誇りとは結び着かない弱さはどこにありますか。キリストの力の現れを必要としている弱さはどこにありますか。「サタンから送られた使い」としか言いようのない「とげ」はどこに刺さっていますか。
そこにこそキリストの力が現れるのだと信じるのでなければ、弱さを嘆いて、弱さを卑下して生きるだけのことでしょう。しかし、そこにこそキリストの力が現れるのだと信じる人は、弱さをもった自分をそのまま差し出して祈るのでしょう。人は卑下して生きることもあり得るし、だからこそキリストを求める人となることもできるのです。
主は私たちにも言われます。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。この言葉を、信仰によって私たちへの言葉として受け止めますか。そうならば、パウロと共に信仰をもって言い表しましょう。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章1節~10節
わたしも誇ることにしよう
「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう」(1節)。誇ることは無益だと分かっています。わかった上で、パウロはあえて誇ってみせるのです。それは今日お読みした12章から始まっているのではありません。既に11章から始まっています。パウロはあえて多くの言葉を費やして誇ってみせるのです。
それはなぜなのか。前の章にこう書かれています。「多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう」(11:18)。それだけ聞くならば、「みんなが自慢話をするならば、わたしだってできなくはないぞ」と言っているだけに聞こえなくもありません。しかし、もちろんパウロはそんな理由で自分を誇ったりはしません。
問題はこの「多くの者」が誰かということなのです。それは異なる教えを宣べ伝える教師たちのことなのです。パウロが11章で「偽使徒」(11:13)と呼んでいる人々です。彼らはパウロがコリントの教会を去った後に入ってきた教師たちです。彼らが教会にもたらした混乱が、コリントの教会に宛てたパウロの手紙の背景となっているのです。
既に彼らはコリントの教会において大きな影響力を持つようになっていました。彼らがいかに強力な支配力をもっていたかは、「実際、あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています」(11:20)という言葉にも現れております。これだけ読むとまるで今日のカルト教団のようです。そのような教師たちに、コリントの教会はついて行ったのです。
なぜ彼らについて行ったのか。「多くの者が肉に従って誇っている」とありました。誇っているのは、誇れるものを持っていたからです。その一つとして考えられるのは神秘体験です。ですから、パウロも今日の箇所において神秘体験について語るのです。他にも誇り得る特別な何かを持っている教師たちだったのでしょう。
そのような教師たちにコリントの人たちはついて行きました。誇り得る特別なものを持っている彼らについていきました。それは明らかに、自分もまたそれを得たいからでしょう。誇り得る何かを得たいからでしょう。自分には誇り得る何もないと思っている人ならば、なおさらではありませんか。誇り得る何かを持っている人は魅力的に見える。「あなたも持てるよ」と言われればついていきたくもなる。
しかし、問題は彼らについていっても、キリストのもとにはたどり着かないということにあるのです。彼らに支配に徹底的に従ったとしても、神に従って生きることにはならない。たとえ彼らのように自らを誇れる人間になれたとしても、キリストと共に生きる人にはなれないということなのです。
そこでパウロは一緒に誇ってみせるのです。「多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう」と言って誇ってみせるのです。先にも言いましたように、彼らの誇りの一つは神秘体験でした。だから今日の箇所ではパウロも自らの体験を語り出すのです。「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう」と。
弱さ以外に誇るつもりはありません
しかし、そのようにあえて誇ってみせるのは、自分を優位に見せるためではないのです。「私の方が偽使徒の彼らより優れているのだから、わたしに従いなさい」という意味ではないのです。パウロは「誇っても無益だ」ということは分かっているのです。どちらが誇るべきものを持っているかを比較することも、どちらが優位にあるかを競うことも、全く無益だということを知っているのです。
ですから、パウロは「主が見せてくださった事と啓示してくださった事について」語るのですが、それを全く他人事として語るのです。「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです」(2‐4節)。
「十四年前」。パウロはそれがいつ起こったかもはっきりと覚えていました。彼は天の楽園にまで引き上げられた。それが実際に起こったことか幻であったのかは分かりません。本人にも分からないのです。しかし、それは主が見せてくださった事、啓示してくださった事として強烈に記憶に刻まれたことなのでしょう。
そのような体験は、コリントの教会の人たちが、それこそ喉から手が出るほどに欲しかったものだったのだと思います。それはまさに他の人の持っていないものを持つことになるから。自らを優位に置くものを持つことになるから。宗教的な世界においては、他の人に誇り得るものを持つことになるから。
しかし、パウロはそれを自分が誇るべきこととしては語らないのです。「キリストに結ばれていた一人の人」のこととして語るのです。そして、「このような人のことをわたしは誇りましょう」と言うのです。つまり偽使徒たちが肉に従って誇っているようなことならパウロにもないわけではない。しかし、パウロはあえて自分のこととして誇らない、というのです。それは本当に誇るべきものは別にあるからです。「このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」(5節)。
すべてはこのことを語るためだったのです。「多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう」と言って誇ってきたのはこのためだったのです。「誇っても無益だ」と分かっていながら、あえて誇ってきたのはこのためだったのです。「自分自身については、弱さ以外に誇るつもりはありません」。それは11章で誇った後においても、既に語られていたことでした。「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」(11:30)。
キリストの力が宿るように
そこでパウロは自分の身に与えられた「とげ」の話を始めるのです。「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました」(7節)。この「とげ」が具体的に何を意味するのかは語られていません。古くから様々な推測がなされてきました。ある人は、パウロはてんかんであったかもしれないと言います。パウロは目の病気であったのかもしれないと言う人もあります。いずれにせよ、それは何らかの苦しみが続いていたということなのでしょう。
そして、それはいかなる意味においても、誇りとは結び着かないものとして語られています。それは「思い上がることのないように」と与えられたものだ、と。しかも、その苦しみによって人間が磨かれたという意味合いもない。「艱難汝を玉にす」というものでもない。それは「わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使い」だと言うのです。そこには、この「とげ」が少なからず宣教の妨げになったという意味合いも含まれているのかもしれません。
いずれにせよ、その「とげ」自体が誇りとなり得る要素は完全に排除されているのです。純粋な意味で「弱さ」。誇りとは対極にある「弱さ」です。
しかし、パウロはそのような「弱さを誇る」と言うのです。それはなぜか。パウロは話を続けます。「この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(8‐9節)。
誇り得る何かを持つこと、そのようにして自らを誇り得る人間になることよりも、もっともっと大事なことがあることをパウロは示しているのです。キリストの力が宿ること。キリストの力が弱さの中において現れること。私たちの人生が私たちの力の現れではなく、キリストの力の現れとなること。教会の働きが、私たちの力の現れではなく、キリストの力の現れとなることです。
私たちにおいて、どう考えても誇りとは結び着かない弱さはどこにありますか。キリストの力の現れを必要としている弱さはどこにありますか。「サタンから送られた使い」としか言いようのない「とげ」はどこに刺さっていますか。
そこにこそキリストの力が現れるのだと信じるのでなければ、弱さを嘆いて、弱さを卑下して生きるだけのことでしょう。しかし、そこにこそキリストの力が現れるのだと信じる人は、弱さをもった自分をそのまま差し出して祈るのでしょう。人は卑下して生きることもあり得るし、だからこそキリストを求める人となることもできるのです。
主は私たちにも言われます。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。この言葉を、信仰によって私たちへの言葉として受け止めますか。そうならば、パウロと共に信仰をもって言い表しましょう。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」
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コリントの信徒への手紙Ⅱ,
新約聖書
2017年2月12日日曜日
「心の貧しい人々は幸いだ」
2017年2月12日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 5章1節~3節
弟子たちへの言葉
「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」(1‐2節)と書かれていました。ちなみに原文では「そこで、イエスは口を開き、《彼らに》教えられた」となっています。つまり近くに寄って来た「弟子たち」に教えられたと書かれているのです。
もちろん、そこには群衆もまたいるのです。今日の箇所の直前には「大勢の群衆が来てイエスに従った」(4:25)と書かれていますから。この大群衆を見て、イエス様は山に登られたのです。もちろん群衆も付いていったことでしょう。しかし、そこで主は群衆全体に語りかけるのではなくて、近くに寄って来た弟子たちに語られた。それがこの5章から7章の山上の説教です。
ですから構図的にはそこに二重の輪があることを心に留めなくてはなりません。内側には弟子たちがいます。外側には群衆がいます。内側にはイエス様の語りかけを自分自身に対する語りかけとして聞いている人々がいます。外側には、いわば外からそれを見ている人々がいる。彼らはイエス様が弟子たちに語りかけるのを見ています。その「教え」について外側から評価します。その評価は彼らの反応として現れます。山上の説教の最後にはこう書かれています。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた」(7:28)。その教えはまことに驚くべきものであった。それは外側からなされた評価です。
さて、そこで問題は「では私たちはどこにいるのか」ということです。もしかしたら群衆がいる外側の輪であるかもしれません。外から見て、外から聞いて、外から評価して、判断を下して、それで終わり、ということは起こり得ます。しかし、福音書に記されている言葉は、明らかに群衆の位置から読まれることを意図されてはいないのです。今日お読みした言葉もそうです。それは《私への語りかけ》として聞くように書かれているのです。
幸いなるかな!
そこで今日読まれたイエス様の第一声はこのような言葉でした。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(3節)。ぜひとも、私たちは内側の輪に入って、私たち自身への語りかけとして、この言葉を聞こうではありませんか。
イエス様のこの言葉は文語訳の聖書ではこうなっていました。「幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。」この方が語順としては原文に忠実です。イエス様の言葉は「幸福なるかな!」という叫びから始まります。聞いている者たちに「あなたたちはなんて幸せなんだ」と言うのです。この言葉を自分自身への語りかけとして聞いていますか。
イエス様は私たちに対して「幸いなるかな!」と言った上で、さらに私たちを「心の貧しき者」と呼ぶのです。「幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者。」一度聞いたら忘れられないような強烈な言葉です。それが強烈なのは、あまりにも意外な組み合わせだからでしょう。
それはその場で直接この言葉を耳にした人にしても同じだったろうと思います。むしろ私たちが考える以上にインパクトが強かったはずです。というのも、ここで言われている「貧しさ」というのは、少々不足しているとか何かが足りないというレベルの話ではないからです。これは「物乞い」とさえ表現できる言葉なのです。いわば何も持っていない。そのような極度の貧しさを意味する言葉なのです。そのような極度の貧しさと「幸いなるかな!」という叫びはどうしたってリンクしないのです。
しかも、イエス様はここで「心の貧しい人々は」と言っているのです。実は、ルカによる福音書では単純に「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6:20)となっています。それはそれで意外な組み合わせと言えなくもありません。しかし、この福音書ではわざわざ「心の貧しい人々は」と言っているのです。この「心」というのは一般的には「霊」と訳される言葉なのです。それはいわば人間存在の最も深い本質的部分と言っていい。その「霊」における貧しさについて語られているのです。ただ物質的に困窮しているというだけでないのです。本質的に根源的に「貧しい人々」と言われているのです。
極度の貧しさ
そこで私たちはまず私たちの「貧しさ」に目を向けなくてはならないのでしょう。そもそも私たちは本質的に根源的に「貧しい人々」なのでしょうか。いや、ここで言う「貧しさ」を知るためには、「私たちは貧しいのだろうか」と問うよりも、「私たちは本当に貧しくないのだろうか」と問う方が良いのかもしれません。私たちは何かを持っているのでしょうか。持っているとするならば、それはいったい何なのでしょう。
それが財産であれ、健康であれ、愛する人であれ、何かが失われる時、それは私たちの意志とは無関係に失われることを私たちは知っています。本質的には何一つ私たちの支配下にはないということです。言い換えるならば、本当の意味で私たちが所有するものは何一つないということです。
実際、自分の「命」ほど、「これは私のものだ」と思いたいものはないでしょう。「私のもの」と主張したい。他の誰の手にも渡したくない。しっかりと自分の手で握りしめていたい。最後まで自分の思い通りになるものであって欲しい。それが「命」です。でも、実際にはどうですか。この世における「命」。この世における人生。絶対に思い通りにはならない。そうです「命」ですら、本当は「私のもの」ではないのです。
その一方で、間違いなく私たち自身に属するものはあります。私たちが確実に持っているものがある。何でしょう。あえて言うならば、私たちに本質的に属するのは「罪」と「死」です。
私たちが人に対して負っている「負い目」、そして神に対して負っている「負い目」は、間違いなく《私たち自身》が人生において行ってきたことに由来します。それは間違いなく私たち自身の「罪」であり、私たちが神の御前において支払うべき負債なのであって、それは間違いなく「私たちのもの」です。
そして、「死」もまた「私たちのもの」です。「死」は未来のどこかにあるのではありません。私たちは常に死を背負いながら生きているのです。私たちは生きながらにして「死」を負った存在ですから、それゆえに誕生した時から私たちは常に「死につつある(dying)」存在なのです。
そのように、私たちが確実に持っているのは「罪」と「死」だけだと言うことができます。いわば借用証書だけを所有しているようなものです。それは本質的、根源的な貧しさです。その根源的な貧しさの中から、ただ「憐れんでください」と叫ぶしかない。物乞いがそうするように、神に向かって「憐れんでください」と叫ぶしかない。救ってもらうしかない。それが聖書の教える私たち人間の現実なのです。
天の御国は彼らのもの
しかし、そのような貧しい者として、憐れんでもらうしかない、救ってもらうしかない者として、ともかく彼らはイエス様の元にたどり着いたのです。私たちもまた、こうしてイエス様のもとにたどり着いたのです。そして、イエス様の弟子として、イエス様の語りかけを私自身への語りかけとして聞いて生きていこうとしているのです。そのような彼らに対して、そしてここにいる私たちに対して、イエス様は言われるのです。「幸いなるかな!」と。
それはなぜなのか。主はこう続けられます。「天の国はその人たちのものである」。貧しいならば与えていただくしかありません。憐れんでいただくしかありません。救っていただくしかありません。しかし、それでも幸いなのです。なぜなら「天の国はその人たちのものである」と宣言することのできる御方のもとにいるからです。天の国とは神の救いです。神による完全な救いです。主はその救いを宣言してくださるのです。なぜなら、イエス様こそがその救いを与えるために来られた御方だからです。
ここで「幸いなるかな」と叫んでおられる方について、使徒パウロはコリントの教会に宛てて書いた手紙の中でこう言っています。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(2コリント8:9)。
豊かであった主が貧しくなってくださいました。罪の負債のない方が、私たちの負債を肩代わりしてくださいました。死に支配されない御方が私たちの死を引き受けてくださいました。そのようにして、私たちを貧しさの極みから救ってくださいました。そのようにして、天の国から限りなく遠かった私たちに天の国を与えてくださいました。
「天の国はその人たちのものである」と主は言ってくださったのです。「天の国はいつかその人たちのものとなるだろう」と言われたのではないのです。キリストのもとにあって、既に「幸いなるかな!」という宣言を聞いているのです。天の国は既に私たちのものなのです。既に天の国の生活が始まっているのです。キリストのもとにあって、救われた者として神と共に生きる生活が既に始まっているのです。外の輪から眺めているのではなくて、主の言葉を、私たち自身への語りかけとして聞こうとしているのなら、それは私たちに語りかけられている言葉なのです。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国は彼らのものである」。
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 5章1節~3節
弟子たちへの言葉
「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」(1‐2節)と書かれていました。ちなみに原文では「そこで、イエスは口を開き、《彼らに》教えられた」となっています。つまり近くに寄って来た「弟子たち」に教えられたと書かれているのです。
もちろん、そこには群衆もまたいるのです。今日の箇所の直前には「大勢の群衆が来てイエスに従った」(4:25)と書かれていますから。この大群衆を見て、イエス様は山に登られたのです。もちろん群衆も付いていったことでしょう。しかし、そこで主は群衆全体に語りかけるのではなくて、近くに寄って来た弟子たちに語られた。それがこの5章から7章の山上の説教です。
ですから構図的にはそこに二重の輪があることを心に留めなくてはなりません。内側には弟子たちがいます。外側には群衆がいます。内側にはイエス様の語りかけを自分自身に対する語りかけとして聞いている人々がいます。外側には、いわば外からそれを見ている人々がいる。彼らはイエス様が弟子たちに語りかけるのを見ています。その「教え」について外側から評価します。その評価は彼らの反応として現れます。山上の説教の最後にはこう書かれています。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた」(7:28)。その教えはまことに驚くべきものであった。それは外側からなされた評価です。
さて、そこで問題は「では私たちはどこにいるのか」ということです。もしかしたら群衆がいる外側の輪であるかもしれません。外から見て、外から聞いて、外から評価して、判断を下して、それで終わり、ということは起こり得ます。しかし、福音書に記されている言葉は、明らかに群衆の位置から読まれることを意図されてはいないのです。今日お読みした言葉もそうです。それは《私への語りかけ》として聞くように書かれているのです。
幸いなるかな!
そこで今日読まれたイエス様の第一声はこのような言葉でした。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(3節)。ぜひとも、私たちは内側の輪に入って、私たち自身への語りかけとして、この言葉を聞こうではありませんか。
イエス様のこの言葉は文語訳の聖書ではこうなっていました。「幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。」この方が語順としては原文に忠実です。イエス様の言葉は「幸福なるかな!」という叫びから始まります。聞いている者たちに「あなたたちはなんて幸せなんだ」と言うのです。この言葉を自分自身への語りかけとして聞いていますか。
イエス様は私たちに対して「幸いなるかな!」と言った上で、さらに私たちを「心の貧しき者」と呼ぶのです。「幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者。」一度聞いたら忘れられないような強烈な言葉です。それが強烈なのは、あまりにも意外な組み合わせだからでしょう。
それはその場で直接この言葉を耳にした人にしても同じだったろうと思います。むしろ私たちが考える以上にインパクトが強かったはずです。というのも、ここで言われている「貧しさ」というのは、少々不足しているとか何かが足りないというレベルの話ではないからです。これは「物乞い」とさえ表現できる言葉なのです。いわば何も持っていない。そのような極度の貧しさを意味する言葉なのです。そのような極度の貧しさと「幸いなるかな!」という叫びはどうしたってリンクしないのです。
しかも、イエス様はここで「心の貧しい人々は」と言っているのです。実は、ルカによる福音書では単純に「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6:20)となっています。それはそれで意外な組み合わせと言えなくもありません。しかし、この福音書ではわざわざ「心の貧しい人々は」と言っているのです。この「心」というのは一般的には「霊」と訳される言葉なのです。それはいわば人間存在の最も深い本質的部分と言っていい。その「霊」における貧しさについて語られているのです。ただ物質的に困窮しているというだけでないのです。本質的に根源的に「貧しい人々」と言われているのです。
極度の貧しさ
そこで私たちはまず私たちの「貧しさ」に目を向けなくてはならないのでしょう。そもそも私たちは本質的に根源的に「貧しい人々」なのでしょうか。いや、ここで言う「貧しさ」を知るためには、「私たちは貧しいのだろうか」と問うよりも、「私たちは本当に貧しくないのだろうか」と問う方が良いのかもしれません。私たちは何かを持っているのでしょうか。持っているとするならば、それはいったい何なのでしょう。
それが財産であれ、健康であれ、愛する人であれ、何かが失われる時、それは私たちの意志とは無関係に失われることを私たちは知っています。本質的には何一つ私たちの支配下にはないということです。言い換えるならば、本当の意味で私たちが所有するものは何一つないということです。
実際、自分の「命」ほど、「これは私のものだ」と思いたいものはないでしょう。「私のもの」と主張したい。他の誰の手にも渡したくない。しっかりと自分の手で握りしめていたい。最後まで自分の思い通りになるものであって欲しい。それが「命」です。でも、実際にはどうですか。この世における「命」。この世における人生。絶対に思い通りにはならない。そうです「命」ですら、本当は「私のもの」ではないのです。
その一方で、間違いなく私たち自身に属するものはあります。私たちが確実に持っているものがある。何でしょう。あえて言うならば、私たちに本質的に属するのは「罪」と「死」です。
私たちが人に対して負っている「負い目」、そして神に対して負っている「負い目」は、間違いなく《私たち自身》が人生において行ってきたことに由来します。それは間違いなく私たち自身の「罪」であり、私たちが神の御前において支払うべき負債なのであって、それは間違いなく「私たちのもの」です。
そして、「死」もまた「私たちのもの」です。「死」は未来のどこかにあるのではありません。私たちは常に死を背負いながら生きているのです。私たちは生きながらにして「死」を負った存在ですから、それゆえに誕生した時から私たちは常に「死につつある(dying)」存在なのです。
そのように、私たちが確実に持っているのは「罪」と「死」だけだと言うことができます。いわば借用証書だけを所有しているようなものです。それは本質的、根源的な貧しさです。その根源的な貧しさの中から、ただ「憐れんでください」と叫ぶしかない。物乞いがそうするように、神に向かって「憐れんでください」と叫ぶしかない。救ってもらうしかない。それが聖書の教える私たち人間の現実なのです。
天の御国は彼らのもの
しかし、そのような貧しい者として、憐れんでもらうしかない、救ってもらうしかない者として、ともかく彼らはイエス様の元にたどり着いたのです。私たちもまた、こうしてイエス様のもとにたどり着いたのです。そして、イエス様の弟子として、イエス様の語りかけを私自身への語りかけとして聞いて生きていこうとしているのです。そのような彼らに対して、そしてここにいる私たちに対して、イエス様は言われるのです。「幸いなるかな!」と。
それはなぜなのか。主はこう続けられます。「天の国はその人たちのものである」。貧しいならば与えていただくしかありません。憐れんでいただくしかありません。救っていただくしかありません。しかし、それでも幸いなのです。なぜなら「天の国はその人たちのものである」と宣言することのできる御方のもとにいるからです。天の国とは神の救いです。神による完全な救いです。主はその救いを宣言してくださるのです。なぜなら、イエス様こそがその救いを与えるために来られた御方だからです。
ここで「幸いなるかな」と叫んでおられる方について、使徒パウロはコリントの教会に宛てて書いた手紙の中でこう言っています。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(2コリント8:9)。
豊かであった主が貧しくなってくださいました。罪の負債のない方が、私たちの負債を肩代わりしてくださいました。死に支配されない御方が私たちの死を引き受けてくださいました。そのようにして、私たちを貧しさの極みから救ってくださいました。そのようにして、天の国から限りなく遠かった私たちに天の国を与えてくださいました。
「天の国はその人たちのものである」と主は言ってくださったのです。「天の国はいつかその人たちのものとなるだろう」と言われたのではないのです。キリストのもとにあって、既に「幸いなるかな!」という宣言を聞いているのです。天の国は既に私たちのものなのです。既に天の国の生活が始まっているのです。キリストのもとにあって、救われた者として神と共に生きる生活が既に始まっているのです。外の輪から眺めているのではなくて、主の言葉を、私たち自身への語りかけとして聞こうとしているのなら、それは私たちに語りかけられている言葉なのです。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国は彼らのものである」。
2017年2月5日日曜日
「聞いているあなたがたは幸いだ」
2017年2月5日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 13章10節~17節
悟らせないために?
弟子たちはイエス様に尋ねました。「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」(10節)。
なぜたとえを用いるのか。普通は話をわかりやすくするためでしょう。しかし、イエス様がそのようにたとえ話を用いていたならば、このような弟子たちの質問は出てこなかったはずです。弟子たちが尋ねたのは明らかにイエス様の意図がわからなかったからでしょう。というのも、イエス様のたとえ話は決して分かりやすくはなかったからです。
一つのたとえ話が今日の箇所の直前に出ています。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」(3‐8節)。
なるほど話としては誰にでも理解できます。難しい言葉は出て来ません。しかし、何を言わんとしているのかは、誰にでも理解できるという話ではありません。実際、他の福音書では弟子たちがイエス様に説明を求めています(マルコ4:10)。何を言わんとしているかが分からなかったからです。
だからこそ、ここでも弟子たちは尋ねているのです。「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか。どうして分かりにくい話をなさるのですか。謎でしかないような話をするのはなぜですか」と。するとイエス様はこうお答えになりました。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」(11節)。
びっくりするようなイエス様の答えです。悟ることが許されていない人たちに天の国の秘密を悟られないためだと言うのです。どう思いますか。イエス様は全ての人に天の国のことを伝えたくて宣教しておられたのではないのでしょうか。全ての人が悟ることを望んでおられたのではないのでしょうか。
いや、それどころかさらにイエス様はこんなことまで言われるのです。「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(12節)。分かる人はもっと分かるようになる。分からない人はますます分からなくなる。そういうことでしょう。どう思いますか。あまりにも意地の悪い答えに聞こえませんか。
見ても見ず、聞いても聞かず
しかし、その続きを読みますと、イエス様がどうしてそう言われたのかが少しずつ見えてまいります。主はこう続けられました。「だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」(13節)。
イエス様がどのような人たちを念頭に置いて語っているのか、ここにはっきりと現れています。「見ても見ず、聞いても聞かず」という人たちです。イエス様が「彼ら」と言っているのは、そのような人たちのことなのです。では「見ても見ず、聞いても聞かず」とはどのような人たちを意味するのでしょう。
イエス様はさらにイザヤ書を引用してこう言います。「イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない』」(14‐15節)。
これはギリシア語訳旧約聖書からの引用なので若干言葉は違いますが、本日の第一朗読で読まれたイザヤ書6章からの引用です。それはイザヤが預言者として神に召され、立てられた時のことを伝えている箇所です。
イザヤは「誰を遣わすべきか」という神の声を聞きました。そこでイザヤが応えます。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」。そこで神様は言うのです。「行け」。イザヤは神の言葉を人々に伝えに行くことになります。しかし、そこで神様は奇妙なことを言われるのです。行って人々にこう語れと言うのです。「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない」。
つまりこういうことです。神様はイザヤを人々のもとに遣わすのですが、もう初めから分かっているのです。そこには見ようとしない、聞こうとしない人々がいるのです。理解して悔い改めることもない人々がいるのです。イザヤがどんなに神の言葉を伝えても、受け入れようとしない人たちがいるのです。彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。イザヤはそのことを覚悟の上で、なお神の言葉を語らなくてはならないということなのです。
そして、イエス様もまた、かつてのイザヤと同じところに立たされていることをご存じなのです。かつてイザヤが語った預言の言葉が、御自分の前でも実現しているのを見ておられるのです。「イザヤの預言は、彼らによって実現した」と。実際、イエス様の前にも「見ても見ず、聞いても聞かず」という人たちがいるのです。受け入れようとしない人たちがいるのです。だから「彼らにはたとえを用いて話すのだ」と主は言われるのです。
実は、イエス様は最初から「たとえ」を用いて話していたわけではありません。イエス様がガリラヤにおいて宣教を開始された頃の様子は4章に記されています。その時のメッセージは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4:17)でした。実に明快なメッセージです。そこから始まりまして、この13章に至るまで、「たとえ話」はほとんど出てきません。イエス様は神の権威をもって伝えるべき内容をはっきりと語られたのです。
いや、語られただけではありません。イエス様は見せてくださいました。イエス様のなさること全てが「天の国は近づいた」ということのしるしでした。かつて洗礼者ヨハネが捕らえられている牢獄から使いを遣わしてイエス様に尋ねさせたことがあります。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。その時イエス様は答えて言われました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」(11:4‐6)。
そのようにイエス様の言葉だけでなく、なさること全てが語っていたのです。天の国は近づいた、と。今こそ神に立ち帰るべき時である、と。
しかし、そのような言葉と行いによるイエス様の宣教によって、次第に人々は二通りに分かれていきました。一方では、イエス様に従っていく人たちがおりました。しかし、もう一方においては、イエス様の言葉を批判的に聞いている人たち、さらにはあからさまに敵対する人たちもまた起こってきたのです。既に12章において「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」(12:14)という物騒な話が書かれていました。まさに「見ても見ず、聞いても聞かず」という人々です。
だからこそイエス様はたとえを用いて語り始めたのです。「たとえ話」は、冷ややかに、批判的に、外から眺めるようにして聞いていても、何を言わんとしているのか、さっぱり分からないような話です。外に身を置く限り、種蒔きの話は農業の話でしかないのです。しかし、イエス様に従おうとして、この「わたし」に語りかける言葉として、その中に身を置いて聞く時に、見えてくることがある、聞こえてくることがある――それがたとえ話しというものです。その中に身を置かなかったら分からない。だからイエス様に対するあり方によって、悟る者と悟らない者に分かれていくのです。イエス様は、それを意図して語っておられるのです。
それは最終的には、たとえ話だけでなく、イエス様という御方そのものが、そのような存在だからでしょう。冷ややかに、批判的に、外から眺めるようにして見ていても、イエス様という御方はわからない。しかし、その御方の弟子として耳を傾け従い始める時に、聞こえるべきことが聞こえてくる。見えるべきものが見えてくるのです。その時には、もはやイエス様にとって「あの人たち(彼ら)」ではなく、「あなたがた」になっているのです。
あなたがた、幸いな者たちよ!
そうです、私たちがイエス様にとって「あの人たち」ではなく、「あなたがた」になるならば、弟子たちに語られた16節以下もまた私たちについての言葉となるのです。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」(16‐17節)。
イエス様を救い主として見ることができる。イエス様の言葉を神の言葉として聞くことができる。そのような者として、イエス様から「あなたがたは」と呼ばれる者として生きることができる。それがどれほど幸いなことかを本当の意味で知っているのはイエス様だけなのでしょう。イエス様の言葉は、原文においては「あなたがた、幸いな者たちよ!」という言葉から始まるのです。溢れる感動をもってイエス様は語っておられるのです。
この言葉を代々のキリスト者たちは、迫害の中にあろうが、いかなる困難の中にあろうが、殉教を目の前にしようが、聞き続けてきたのです。「あなたがた、幸いな者たちよ!」と言われるイエス様の言葉を。なぜ幸いなのか。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているのだ」と主は言われます。なぜ幸いなのか。私たちが見ていること、聞いていることは、「天の国」に関わることだからです。永遠の命に関わることだからです。永遠の救いに関わることだからです。過ぎゆくことのない、朽ちてしまうこともないからです。それこそ死んでもそれで終わりではない、神の完全な救いに関わることだからです。
それを拒絶することはどれほど不幸なことか。信じ従う者として見て、聞いていることがどれほど幸いなことか。本当の意味で知っているのはイエス様です。その御方が今日も私たちに語っておられます。「あなたがた、幸いな者たちよ!」「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」と。そうです、幸いな私たちがここにいます。幸いな者としてここから再び出て行くのです。
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 13章10節~17節
悟らせないために?
弟子たちはイエス様に尋ねました。「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」(10節)。
なぜたとえを用いるのか。普通は話をわかりやすくするためでしょう。しかし、イエス様がそのようにたとえ話を用いていたならば、このような弟子たちの質問は出てこなかったはずです。弟子たちが尋ねたのは明らかにイエス様の意図がわからなかったからでしょう。というのも、イエス様のたとえ話は決して分かりやすくはなかったからです。
一つのたとえ話が今日の箇所の直前に出ています。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」(3‐8節)。
なるほど話としては誰にでも理解できます。難しい言葉は出て来ません。しかし、何を言わんとしているのかは、誰にでも理解できるという話ではありません。実際、他の福音書では弟子たちがイエス様に説明を求めています(マルコ4:10)。何を言わんとしているかが分からなかったからです。
だからこそ、ここでも弟子たちは尋ねているのです。「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか。どうして分かりにくい話をなさるのですか。謎でしかないような話をするのはなぜですか」と。するとイエス様はこうお答えになりました。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」(11節)。
びっくりするようなイエス様の答えです。悟ることが許されていない人たちに天の国の秘密を悟られないためだと言うのです。どう思いますか。イエス様は全ての人に天の国のことを伝えたくて宣教しておられたのではないのでしょうか。全ての人が悟ることを望んでおられたのではないのでしょうか。
いや、それどころかさらにイエス様はこんなことまで言われるのです。「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(12節)。分かる人はもっと分かるようになる。分からない人はますます分からなくなる。そういうことでしょう。どう思いますか。あまりにも意地の悪い答えに聞こえませんか。
見ても見ず、聞いても聞かず
しかし、その続きを読みますと、イエス様がどうしてそう言われたのかが少しずつ見えてまいります。主はこう続けられました。「だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」(13節)。
イエス様がどのような人たちを念頭に置いて語っているのか、ここにはっきりと現れています。「見ても見ず、聞いても聞かず」という人たちです。イエス様が「彼ら」と言っているのは、そのような人たちのことなのです。では「見ても見ず、聞いても聞かず」とはどのような人たちを意味するのでしょう。
イエス様はさらにイザヤ書を引用してこう言います。「イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない』」(14‐15節)。
これはギリシア語訳旧約聖書からの引用なので若干言葉は違いますが、本日の第一朗読で読まれたイザヤ書6章からの引用です。それはイザヤが預言者として神に召され、立てられた時のことを伝えている箇所です。
イザヤは「誰を遣わすべきか」という神の声を聞きました。そこでイザヤが応えます。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」。そこで神様は言うのです。「行け」。イザヤは神の言葉を人々に伝えに行くことになります。しかし、そこで神様は奇妙なことを言われるのです。行って人々にこう語れと言うのです。「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない」。
つまりこういうことです。神様はイザヤを人々のもとに遣わすのですが、もう初めから分かっているのです。そこには見ようとしない、聞こうとしない人々がいるのです。理解して悔い改めることもない人々がいるのです。イザヤがどんなに神の言葉を伝えても、受け入れようとしない人たちがいるのです。彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。イザヤはそのことを覚悟の上で、なお神の言葉を語らなくてはならないということなのです。
そして、イエス様もまた、かつてのイザヤと同じところに立たされていることをご存じなのです。かつてイザヤが語った預言の言葉が、御自分の前でも実現しているのを見ておられるのです。「イザヤの預言は、彼らによって実現した」と。実際、イエス様の前にも「見ても見ず、聞いても聞かず」という人たちがいるのです。受け入れようとしない人たちがいるのです。だから「彼らにはたとえを用いて話すのだ」と主は言われるのです。
実は、イエス様は最初から「たとえ」を用いて話していたわけではありません。イエス様がガリラヤにおいて宣教を開始された頃の様子は4章に記されています。その時のメッセージは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4:17)でした。実に明快なメッセージです。そこから始まりまして、この13章に至るまで、「たとえ話」はほとんど出てきません。イエス様は神の権威をもって伝えるべき内容をはっきりと語られたのです。
いや、語られただけではありません。イエス様は見せてくださいました。イエス様のなさること全てが「天の国は近づいた」ということのしるしでした。かつて洗礼者ヨハネが捕らえられている牢獄から使いを遣わしてイエス様に尋ねさせたことがあります。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。その時イエス様は答えて言われました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」(11:4‐6)。
そのようにイエス様の言葉だけでなく、なさること全てが語っていたのです。天の国は近づいた、と。今こそ神に立ち帰るべき時である、と。
しかし、そのような言葉と行いによるイエス様の宣教によって、次第に人々は二通りに分かれていきました。一方では、イエス様に従っていく人たちがおりました。しかし、もう一方においては、イエス様の言葉を批判的に聞いている人たち、さらにはあからさまに敵対する人たちもまた起こってきたのです。既に12章において「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」(12:14)という物騒な話が書かれていました。まさに「見ても見ず、聞いても聞かず」という人々です。
だからこそイエス様はたとえを用いて語り始めたのです。「たとえ話」は、冷ややかに、批判的に、外から眺めるようにして聞いていても、何を言わんとしているのか、さっぱり分からないような話です。外に身を置く限り、種蒔きの話は農業の話でしかないのです。しかし、イエス様に従おうとして、この「わたし」に語りかける言葉として、その中に身を置いて聞く時に、見えてくることがある、聞こえてくることがある――それがたとえ話しというものです。その中に身を置かなかったら分からない。だからイエス様に対するあり方によって、悟る者と悟らない者に分かれていくのです。イエス様は、それを意図して語っておられるのです。
それは最終的には、たとえ話だけでなく、イエス様という御方そのものが、そのような存在だからでしょう。冷ややかに、批判的に、外から眺めるようにして見ていても、イエス様という御方はわからない。しかし、その御方の弟子として耳を傾け従い始める時に、聞こえるべきことが聞こえてくる。見えるべきものが見えてくるのです。その時には、もはやイエス様にとって「あの人たち(彼ら)」ではなく、「あなたがた」になっているのです。
あなたがた、幸いな者たちよ!
そうです、私たちがイエス様にとって「あの人たち」ではなく、「あなたがた」になるならば、弟子たちに語られた16節以下もまた私たちについての言葉となるのです。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」(16‐17節)。
イエス様を救い主として見ることができる。イエス様の言葉を神の言葉として聞くことができる。そのような者として、イエス様から「あなたがたは」と呼ばれる者として生きることができる。それがどれほど幸いなことかを本当の意味で知っているのはイエス様だけなのでしょう。イエス様の言葉は、原文においては「あなたがた、幸いな者たちよ!」という言葉から始まるのです。溢れる感動をもってイエス様は語っておられるのです。
この言葉を代々のキリスト者たちは、迫害の中にあろうが、いかなる困難の中にあろうが、殉教を目の前にしようが、聞き続けてきたのです。「あなたがた、幸いな者たちよ!」と言われるイエス様の言葉を。なぜ幸いなのか。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているのだ」と主は言われます。なぜ幸いなのか。私たちが見ていること、聞いていることは、「天の国」に関わることだからです。永遠の命に関わることだからです。永遠の救いに関わることだからです。過ぎゆくことのない、朽ちてしまうこともないからです。それこそ死んでもそれで終わりではない、神の完全な救いに関わることだからです。
それを拒絶することはどれほど不幸なことか。信じ従う者として見て、聞いていることがどれほど幸いなことか。本当の意味で知っているのはイエス様です。その御方が今日も私たちに語っておられます。「あなたがた、幸いな者たちよ!」「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」と。そうです、幸いな私たちがここにいます。幸いな者としてここから再び出て行くのです。
2017年1月22日日曜日
「福音は神の力」
2017年1月22日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 1章16節~17節
わたしは福音を恥としない
この教会には塔があってその頂には十字架が掲げられています。礼拝堂の中に入りますと正面に大きな十字架が目に飛び込んできます。いかにも教会らしいと言えるでしょう。しかし、これが十字架ではなくてギロチン台だったらどうでしょう。塔にはギロチン台が掲げられている。正面にはギロチン台が置かれている。そんな教会に来たいと思いますか。
しかし、皆さん、十字架はもともとギロチン台と同じように死刑の道具だったのです。ですから、教会に十字架が掲げられているということは、ギロチン台が掲げてあるほどに、本来は奇妙なことなのです。そして、さらに言うならば、その死刑の道具にかけられて他の犯罪人と共に処刑された一人のユダヤ人を指さして、この方こそ神からのメシア、救い主なのだと宣べ伝えてきたのです。それは本来、とても奇妙なことなのです。この世の観点からするならば、まことに愚かなこと、馬鹿馬鹿しいことであり、受け入れがたいことであるはずなのです。
さて、今日の第二朗読においてパウロはローマの教会に書き送っています。「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」と。福音というのは「良い知らせ」という意味です。グッド・ニュースです。良い知らせなら、当然、伝えたいと思うのでしょう。しかし、その良い知らせ、福音についてパウロはさらにこう言います。「わたしは福音を恥としない」(16節)と。
「恥とする」とか「恥としない」という話題が出て来るのはなぜでしょう。考えてみてください。誰もが聞いて容易に納得できること、十人中十人が口を揃えて「本当にそのとおりですね。嬉しいことですね」と言ってくれることについては、「恥じとする」とか「恥としない」ということは問題になりません。しかし、本当は「良い知らせ」なのだけれど、簡単には受け入れがたいこと、一見愚かに見えること、バカにされたり、拒否されたりするかもしれないことであるならば話は別です。それをなおもあえて語り続けるのか、それとも引っ込めてしまうのか、「恥とするのか恥としないのか」が問題になるのです。
そして、先にも見ましたように、死刑の道具である十字架をかかげて、十字架にかけられた救い主について語る「福音」は、明らかに後者なのです。教会は、誰もが当たり前のように受け入れることができるような話を伝えてきたのではないのです。しかし、パウロは言うのです。「わたしは福音を恥としない」と。そして、教会もそう言い続けてきたのです。教会はそれを引っ込めませんでした。語り続けたのです。そのようにして、今日もなお十字架をかかげているのです。それはなぜでしょうか。
パウロは単純にその理由を次のように語ります。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(ローマ1:16)。これが理由です。どんなに愚かに見えようとも、その福音は信ずる者に救いをもたらす神の力だからです。馬鹿にされようが笑われようが、現実にその神の力を知っているからです。
福音は救いをもたらす神の力である
この「神の力」について考えてみましょう。「神の力」について語られているのは、ここだけではありません。聖書において繰り返し語られています。なぜ「神の力」が頻繁に話題に上るのでしょうか。――その理由ははっきりしています。それは人間が無力であるからです。聖書において「神の力」が語られる時、その背景にあるのは人間の弱さであり無力さなのです。
パウロが「救いをもたらす神の力」について語る時もまた同様です。彼もまた、人間の弱さと徹底的に向き合うところにおいて、神の力について語っているのです。では、人間の弱さ、無力さが最も鮮明に現れるのはどこにおいてでしょうか。――それはこの手紙において明らかにされています。それは究極的には《罪と死の問題》においてなのです。人間は罪に対して、死に対して、全く無力な存在なのです。
パウロはこの同じ手紙の中で、人間というものの現実を次のように語っています。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ローマ7:18‐19)。
わたしの中に悪いものが住んでいる!それをパウロは「罪」と呼びます。この罪の力はリアルです。内に住んでいる悪いものは、様々な目に見える結果を生み出します。私たちの人生はその目に見える結果の集積です。私たちが自分で気づいていることばかりではありません。気づいていないこともまた、いくらでもあります。忘れてしまっていることもあります。確かに私たちは自分の罪深い行いを忘れることはできます。しかし、例えば借金を忘れたからと言って借金が消えないように、罪を忘れても罪の事実は消えません。罪は水に流れません。人間はそのように罪を宿したまま、そして罪の結果という負債を抱えたまま、必ず死を迎えます。人生の終わりを迎えます。そのことに関して人間はどうすることもできません。
そのように人間は、罪と死という人生の根本問題について全く無力なのです。だからこそ、そこにおいては「神の力」が語られなくてはならないのです。本当に力ある御方が救ってくださるのでなければ、希望はないからです。そのように、自分が罪に対しても死に対しても無力であるという事実を認めるところにおいてこそ、神の力が語られ得るのです。また救いをもたらす神の力を信ずる信仰が語られ得るのです。言い換えるならば、幻想を捨てて、徹底的にリアリストになるところから、信仰は始まると言うことができるのです。
福音には神の義が啓示されている
そのように福音は「救いをもたらす神の力」だと語られていました。では、どのような意味において、福音は「救いをもたらす神の力」なのでしょう。福音はどのように救いをもたらすのでしょうか。パウロは次のように言っています。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」(17節)。
福音には「神の義」が啓示されている!だから福音は救いをもたらす神の力なのだと、彼は言っているのです。しかし、その「神の義」とは何でしょう。「義」という言葉を漢和辞典などで調べますと、第一の意味は「正しい、道にかなった」などと説明されています。この言葉で私たちが思い浮かべる第一の言葉は「正義」でしょう。そうしますと、「神の義」は「神の正しさ」、人間の罪を正しく裁く「神の正義」を意味することになります。
しかし、神の義が、一面的にそのような裁きをもたらす「神の正しさ」ということだけを意味するとするならば、そのような「神の義」が啓示されることは福音にはならないはずです。罪ある私たち人間は、その御前でただ恐れおののくばかりです。ですからルターはかつて「わたしはあの『神の義』という言葉を憎んでいた」とさえ書いています。それは喜びにはなり得ないのです。
ですから、ここで語られている「神の義」とは、単に罪人を罰する神の正しさのことではありません。もちろん、神は正しい御方です。しかし、その正しい神は、その正しさによって人間を滅ぼしてしまわれるのではなく、人間を神との正しい関係に回復しようとされたのです。そのように神が与えてくださる神との正しい関係――それこそがここで語られている「神の義」なのです。
では、神はどのようにして、人間を御自身との正しい関係に回復してくださるのでしょう。――それは罪の赦しによってです。かつて預言者ミカは言いました。「あなたのような神がほかにあろうか、咎を除き、罪を赦される神が。…主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる」(ミカ7:18‐19)。
神は、私たちの罪を海の深みに投げ込んで沈めてしまうことのできる御方です。そうやって私たちは義とされるのです。実際には、神は私たちの罪を海の深みに投げ込まれたのではありませんでした。そうではなくイエス・キリストという御方の人生に投げ込まれたのです。イエス・キリストは、私たちの罪を投げ込まれた者として、たった一人で私たちすべての者の罪を背負って、罪の贖いの犠牲として、十字架の上で死なれたのです。
この十字架にこそ、神の義が啓示されているのです。この十字架のゆえに、ユダヤ人であろうが、ギリシア人であろうが、どんな人であろうが、罪を赦されて、義とされて、神との正しい関係に、神との交わりに生きることができるのです。もはやただ死にゆく罪人として生きる必要はないのです。罪の負債を背負ったまま、死んでいく必要はないのです。神との関わりにおいて、新しい命、永遠の命に生きることができるのです。その意味において、この福音こそ、私たちを救う神の力なのです。
ですから、教会はこの福音を引っ込めてしまわなかったのです。十字架の言葉が、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであったとしても、それを引っ込めてしまわなかったのです。「福音を恥としない」と言い続けたのです。宣べ伝え続けたのです。そして信じることを求めたのです。
私たちも今、十字架がかかげられている礼拝堂において、礼拝を捧げています。それはこの世に対する表明でもあります。私たちもまた、「福音を恥としない」ということを、主の日の礼拝という私たちの行動をもって示しているのです。そして、私たちは一週間の生活の場へと散らされていきます。十字架の福音を恥としないものとして、この福音をたずさえて、この世に出ていくのです。
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 1章16節~17節
わたしは福音を恥としない
この教会には塔があってその頂には十字架が掲げられています。礼拝堂の中に入りますと正面に大きな十字架が目に飛び込んできます。いかにも教会らしいと言えるでしょう。しかし、これが十字架ではなくてギロチン台だったらどうでしょう。塔にはギロチン台が掲げられている。正面にはギロチン台が置かれている。そんな教会に来たいと思いますか。
しかし、皆さん、十字架はもともとギロチン台と同じように死刑の道具だったのです。ですから、教会に十字架が掲げられているということは、ギロチン台が掲げてあるほどに、本来は奇妙なことなのです。そして、さらに言うならば、その死刑の道具にかけられて他の犯罪人と共に処刑された一人のユダヤ人を指さして、この方こそ神からのメシア、救い主なのだと宣べ伝えてきたのです。それは本来、とても奇妙なことなのです。この世の観点からするならば、まことに愚かなこと、馬鹿馬鹿しいことであり、受け入れがたいことであるはずなのです。
さて、今日の第二朗読においてパウロはローマの教会に書き送っています。「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」と。福音というのは「良い知らせ」という意味です。グッド・ニュースです。良い知らせなら、当然、伝えたいと思うのでしょう。しかし、その良い知らせ、福音についてパウロはさらにこう言います。「わたしは福音を恥としない」(16節)と。
「恥とする」とか「恥としない」という話題が出て来るのはなぜでしょう。考えてみてください。誰もが聞いて容易に納得できること、十人中十人が口を揃えて「本当にそのとおりですね。嬉しいことですね」と言ってくれることについては、「恥じとする」とか「恥としない」ということは問題になりません。しかし、本当は「良い知らせ」なのだけれど、簡単には受け入れがたいこと、一見愚かに見えること、バカにされたり、拒否されたりするかもしれないことであるならば話は別です。それをなおもあえて語り続けるのか、それとも引っ込めてしまうのか、「恥とするのか恥としないのか」が問題になるのです。
そして、先にも見ましたように、死刑の道具である十字架をかかげて、十字架にかけられた救い主について語る「福音」は、明らかに後者なのです。教会は、誰もが当たり前のように受け入れることができるような話を伝えてきたのではないのです。しかし、パウロは言うのです。「わたしは福音を恥としない」と。そして、教会もそう言い続けてきたのです。教会はそれを引っ込めませんでした。語り続けたのです。そのようにして、今日もなお十字架をかかげているのです。それはなぜでしょうか。
パウロは単純にその理由を次のように語ります。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(ローマ1:16)。これが理由です。どんなに愚かに見えようとも、その福音は信ずる者に救いをもたらす神の力だからです。馬鹿にされようが笑われようが、現実にその神の力を知っているからです。
福音は救いをもたらす神の力である
この「神の力」について考えてみましょう。「神の力」について語られているのは、ここだけではありません。聖書において繰り返し語られています。なぜ「神の力」が頻繁に話題に上るのでしょうか。――その理由ははっきりしています。それは人間が無力であるからです。聖書において「神の力」が語られる時、その背景にあるのは人間の弱さであり無力さなのです。
パウロが「救いをもたらす神の力」について語る時もまた同様です。彼もまた、人間の弱さと徹底的に向き合うところにおいて、神の力について語っているのです。では、人間の弱さ、無力さが最も鮮明に現れるのはどこにおいてでしょうか。――それはこの手紙において明らかにされています。それは究極的には《罪と死の問題》においてなのです。人間は罪に対して、死に対して、全く無力な存在なのです。
パウロはこの同じ手紙の中で、人間というものの現実を次のように語っています。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ローマ7:18‐19)。
わたしの中に悪いものが住んでいる!それをパウロは「罪」と呼びます。この罪の力はリアルです。内に住んでいる悪いものは、様々な目に見える結果を生み出します。私たちの人生はその目に見える結果の集積です。私たちが自分で気づいていることばかりではありません。気づいていないこともまた、いくらでもあります。忘れてしまっていることもあります。確かに私たちは自分の罪深い行いを忘れることはできます。しかし、例えば借金を忘れたからと言って借金が消えないように、罪を忘れても罪の事実は消えません。罪は水に流れません。人間はそのように罪を宿したまま、そして罪の結果という負債を抱えたまま、必ず死を迎えます。人生の終わりを迎えます。そのことに関して人間はどうすることもできません。
そのように人間は、罪と死という人生の根本問題について全く無力なのです。だからこそ、そこにおいては「神の力」が語られなくてはならないのです。本当に力ある御方が救ってくださるのでなければ、希望はないからです。そのように、自分が罪に対しても死に対しても無力であるという事実を認めるところにおいてこそ、神の力が語られ得るのです。また救いをもたらす神の力を信ずる信仰が語られ得るのです。言い換えるならば、幻想を捨てて、徹底的にリアリストになるところから、信仰は始まると言うことができるのです。
福音には神の義が啓示されている
そのように福音は「救いをもたらす神の力」だと語られていました。では、どのような意味において、福音は「救いをもたらす神の力」なのでしょう。福音はどのように救いをもたらすのでしょうか。パウロは次のように言っています。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」(17節)。
福音には「神の義」が啓示されている!だから福音は救いをもたらす神の力なのだと、彼は言っているのです。しかし、その「神の義」とは何でしょう。「義」という言葉を漢和辞典などで調べますと、第一の意味は「正しい、道にかなった」などと説明されています。この言葉で私たちが思い浮かべる第一の言葉は「正義」でしょう。そうしますと、「神の義」は「神の正しさ」、人間の罪を正しく裁く「神の正義」を意味することになります。
しかし、神の義が、一面的にそのような裁きをもたらす「神の正しさ」ということだけを意味するとするならば、そのような「神の義」が啓示されることは福音にはならないはずです。罪ある私たち人間は、その御前でただ恐れおののくばかりです。ですからルターはかつて「わたしはあの『神の義』という言葉を憎んでいた」とさえ書いています。それは喜びにはなり得ないのです。
ですから、ここで語られている「神の義」とは、単に罪人を罰する神の正しさのことではありません。もちろん、神は正しい御方です。しかし、その正しい神は、その正しさによって人間を滅ぼしてしまわれるのではなく、人間を神との正しい関係に回復しようとされたのです。そのように神が与えてくださる神との正しい関係――それこそがここで語られている「神の義」なのです。
では、神はどのようにして、人間を御自身との正しい関係に回復してくださるのでしょう。――それは罪の赦しによってです。かつて預言者ミカは言いました。「あなたのような神がほかにあろうか、咎を除き、罪を赦される神が。…主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる」(ミカ7:18‐19)。
神は、私たちの罪を海の深みに投げ込んで沈めてしまうことのできる御方です。そうやって私たちは義とされるのです。実際には、神は私たちの罪を海の深みに投げ込まれたのではありませんでした。そうではなくイエス・キリストという御方の人生に投げ込まれたのです。イエス・キリストは、私たちの罪を投げ込まれた者として、たった一人で私たちすべての者の罪を背負って、罪の贖いの犠牲として、十字架の上で死なれたのです。
この十字架にこそ、神の義が啓示されているのです。この十字架のゆえに、ユダヤ人であろうが、ギリシア人であろうが、どんな人であろうが、罪を赦されて、義とされて、神との正しい関係に、神との交わりに生きることができるのです。もはやただ死にゆく罪人として生きる必要はないのです。罪の負債を背負ったまま、死んでいく必要はないのです。神との関わりにおいて、新しい命、永遠の命に生きることができるのです。その意味において、この福音こそ、私たちを救う神の力なのです。
ですから、教会はこの福音を引っ込めてしまわなかったのです。十字架の言葉が、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであったとしても、それを引っ込めてしまわなかったのです。「福音を恥としない」と言い続けたのです。宣べ伝え続けたのです。そして信じることを求めたのです。
私たちも今、十字架がかかげられている礼拝堂において、礼拝を捧げています。それはこの世に対する表明でもあります。私たちもまた、「福音を恥としない」ということを、主の日の礼拝という私たちの行動をもって示しているのです。そして、私たちは一週間の生活の場へと散らされていきます。十字架の福音を恥としないものとして、この福音をたずさえて、この世に出ていくのです。
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