2024年11月10日【子ども祝福礼拝】
聖書:ガラテヤの信徒への手紙 3:6-14
キリストは呪いとなって
今日は子どもたちと共に「子ども祝福礼拝」をお捧げしています。先ほど、私たちは子どもたち一人 一人のために祝福を祈りました。今日の聖書箇所にも「祝福」という言葉が繰り返し出てまいります。しかし、先ほど朗読された時に気づかれたと思いま すが、そこにはまた「呪い」という言葉も繰り返し出てくるのです。「祝福」の対極にある「呪い」について語ることなくして、「祝福」については語り得ないということなのです。
「呪い」ということについては、次のように書かれていました。13節を御覧下さい。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」(13節)。
「キリストは、わたしたちのために呪いとなってくださった」とはどういうことでしょう。「呪いとなった」とは「呪われた者となっと」という意味です。呪われた者となる とは、言い換えるならば神から完全に見捨てられるということです。それがキリストの苦しみだったのです。磔にされて単に肉体的に苦しんだということではないのです。
それゆえ に、キリストは十字架の上で叫ばれたのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)。そのようにキリストは実際に捨てられたのです。愛する天の父から捨てられたのです。そこにこそキリストの最大の苦しみがあったのです。
人は神に見捨てられていないこと、神に愛されていることさえ信じることができれば、苦難に耐えていくことができるのです。かつてブレーズ・パスカルは病気の苦しみの中にこう祈りました。「主よ、わたしをどんな時にも、あなたの御心にかなう者にしてください。今のように病気をしている時には、自分の苦しみの中であなたをあがめさせて下さい。」そのように祈れるのは、見捨てられていないと知っているからなのです。 この手紙を書いているパウロもまた、そのような人のひとりです。多くの苦難を耐え忍んできましたが、そこには常に神の愛と希望の光が差し込んでいるのです。
しかし、逆に言えば、この神から見捨てられてしまうということは、もはや一筋の光も差し込むことのない、完全な絶望の暗闇に置かれるということを意味するのです。キリストが「呪いとなってくださった」とは、そういうことなのです。
律法の呪いから贖い出してくださった
それは何のためですか。私たちを「呪いから贖い出す」ためだと聖書は教えているのです。「呪いから贖い出す」とは「呪いから救い出す」という意味です。私たちが呪いを受けないためだ、というのです。これは何を意味しますか。キリストが呪いを受けてくださらなかったら、私たちが呪いを受けていたということです。本来、呪われた者となるべきであったのは、神から見捨てられるはずだったのは、私たちだったということなのです。
どう思われますか。もしかしたら多くの人は、このような箇所を読んで、「いや、私は神から呪われたり、見捨てられたりするほど悪い人間ではない」と思うかもしれません。真面目に生きてきた人ならなおさらそう思うことでしょう。
しかし、本当にそうなのでしょうか。この世の人間関係を考えてみてください。私たちの考えること、語っていること、行なっていることの大部分は人の目から隠されています。もし、仮にすべてがさらけ出されたらどうでしょう。心の中で考えていることまで、そのすべてがつまびらかにされたならどうでしょう。人はそれでも、なおあなたを愛するでしょうか。それとも、あいそをつかされ、軽蔑され、見捨てられることになるでしょうか。
もっとも人と人との間であるならば、それは「お互い様でしょう」ということにもなるかもしれません。しかし、神と人との間においては、そうはなりません。聖なる神の前にすべてが明らかにされたならどうでしょう。いや、既に神に御前においては全てが明らかなのです。そこで問題となるのは、人と比較して良いか悪いかということではないのです。だからあえて「律法の呪い」と言われているのです。人からどう見られるかと言うことではないのです。神がどう見られるかということが問題となるのです。ならば、そのような神の前において、「私は呪いではなく祝福を受けるにふさわしい人間です」と胸を張って言える人間ははたしてここにいるのでしょうか。正直に自分自身を振り返るなら、確かに私たちは、本来、神から呪われて、永遠に見捨てられても仕方のない者なのだろうと思うのです。
しかし、そのような私たちを、神は見捨てなかったのです。私たちのすべてをご存じの上で、私たちがどんな人間かをご存じの上で、また、この世がどれだけ罪に汚れているかをご存じの上で、それでもなお愛してくださったのです。それゆえに、私たちの罪をすべてキリストの上に置かれ、キリストを裁かれ、私たちの代わりに御子キリストを捨てられたのです。キリストが、わたしたちのために呪いとなってくださった、呪われた者となってくださった。それは私たちが呪いを受けないためなのです。見捨てられないためです。
「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」。キリストが呪いとなってくださったので、呪いを受けてくださったので、私たちが受けるべき呪いはもう残っていません。あとは私たちが祝福を受け取るだけなのです。そうです。信じて、感謝して、受け取るだけなのです。そして、神に感謝しながら、神と共に生きたらよいのです。その時、もはや何ものも私たちを神の愛から引き離すことはできないのです。もはや死でさえも神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。
ただ信仰によって
そのように、ただ信じて、感謝して、受け取ったらよい。しかし、もう一方において、それが時として人間にとって難しいことも事実です。というのも、私たちはギブ・アンド・テイクの世界に慣れ過ぎているからです。ですから、単純に受け取ることができない。祝福を受け、救われるためには、まず人間の側から何かを差し出さなくてはならないと考えるのです。
この手紙を受け取ったガラテヤの人たちも、そのように考えていたようです。彼らはユダヤ人ではないのに、ユダヤ人のように割礼を受け、律法を守らなくてはならないと考えた。律法にかなった善い行いをまず差し出すことによって、救いを得ようと考えたのです。 いや、彼らが考え出したわけではありません。そのように教える人たちがいたのです。彼らは惑わされたのです。
確かに、ガラテヤの人たちにとっても、またいつの世の人にとっても、「ただ信じて、感謝して受けるだけ」というよりも、「救われるためには、律法を守らなくてはならない」という教えの方が分かりやすいのかもしれません。先にも申しましたように、何かを得るためには、代価を支払わねばならないと考える世界に慣れ過ぎていますから。
しかし、そのようなこの世界においても、例えば、既に代価が払われているものを受け取るのに、改めて代価を払って受け取ろうとしたら、それは愚かなことでしょう。いや、それは愚かであるだけでなく、悪しきことでもあります。それは代価を払ってくださった方の善意を踏みにじることでもあるからです。実際には、キリストにおいて支払われたのは、とてもなく大きな代価なのです。それはキリストの命ですから。それほどの代価を払ってくださった方の善意を踏みにじることになるのです。
さらにいえば、そこから感謝の生活は絶対に生み出されることはありません。自分の行いと引き換えに、神の祝福と救いを得るならば、そこに生まれてくるのは感謝ではありません。自分の正しい行いによって獲得したという誇りです。熱心になればなるほどますます自らを誇るようになるのでしょう。その熱心さは、世にも恐るべき傲慢な人間を造り出す。パウロは自らの経験から、そのことをよく知っているのです。
間違ってはなりません。救いは私たちの行いと引き替えに獲得するのではないのです。祝福を受けるのは、私たちが何かを行うことによってではないのです。求められているのはただ一つ。「信仰」です。信じて、感謝して、受け取ることだけです。
それゆえに、彼はアブラハムを引き合いに出すのです。彼こそは、まさに、ただ神の言葉を信じ、感謝して、受け取って、祝福を受け継いだ人だからです。そして、パウロは次のように断言するのです。「それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」(9節)。
ここにいる私たちにも、同じ祝福と救いの約束は与えられています。今も神様は、私たちに対してキリストの十字架を通して語りかけてくださっているのです。キリストが私たちの受くべき呪いをすべて受けて下さった。もはや私たちは呪われた者として生きる必要はありません。もはや見捨てられた者のように絶望する必要はありません。どんなときにも神に愛されている者として、神と共に生きることができる。神は十字架を通して語っていてくださるのです。必要なことはただ一つ。信じて、感謝して、受け取り、感謝をもって神と共に生きることです。祝福され、救われた者を、もはや何ものも、死でさえも、神の愛から引き離すことはできないのです。