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2024年11月10日日曜日

「わたしたちが祝福を受けるため」

2024年11月10日【子ども祝福礼拝】

聖書:ガラテヤの信徒への手紙 3:6-14

キリストは呪いとなって
 今日は子どもたちと共に「子ども祝福礼拝」をお捧げしています。先ほど、私たちは子どもたち一人 一人のために祝福を祈りました。今日の聖書箇所にも「祝福」という言葉が繰り返し出てまいります。しかし、先ほど朗読された時に気づかれたと思いま すが、そこにはまた「呪い」という言葉も繰り返し出てくるのです。「祝福」の対極にある「呪い」について語ることなくして、「祝福」については語り得ないということなのです。

 「呪い」ということについては、次のように書かれていました。13節を御覧下さい。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」(13節)。

 「キリストは、わたしたちのために呪いとなってくださった」とはどういうことでしょう。「呪いとなった」とは「呪われた者となっと」という意味です。呪われた者となる とは、言い換えるならば神から完全に見捨てられるということです。それがキリストの苦しみだったのです。磔にされて単に肉体的に苦しんだということではないのです。

 それゆえ に、キリストは十字架の上で叫ばれたのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)。そのようにキリストは実際に捨てられたのです。愛する天の父から捨てられたのです。そこにこそキリストの最大の苦しみがあったのです。

 人は神に見捨てられていないこと、神に愛されていることさえ信じることができれば、苦難に耐えていくことができるのです。かつてブレーズ・パスカルは病気の苦しみの中にこう祈りました。「主よ、わたしをどんな時にも、あなたの御心にかなう者にしてください。今のように病気をしている時には、自分の苦しみの中であなたをあがめさせて下さい。」そのように祈れるのは、見捨てられていないと知っているからなのです。 この手紙を書いているパウロもまた、そのような人のひとりです。多くの苦難を耐え忍んできましたが、そこには常に神の愛と希望の光が差し込んでいるのです。

 しかし、逆に言えば、この神から見捨てられてしまうということは、もはや一筋の光も差し込むことのない、完全な絶望の暗闇に置かれるということを意味するのです。キリストが「呪いとなってくださった」とは、そういうことなのです。

律法の呪いから贖い出してくださった
 それは何のためですか。私たちを「呪いから贖い出す」ためだと聖書は教えているのです。「呪いから贖い出す」とは「呪いから救い出す」という意味です。私たちが呪いを受けないためだ、というのです。これは何を意味しますか。キリストが呪いを受けてくださらなかったら、私たちが呪いを受けていたということです。本来、呪われた者となるべきであったのは、神から見捨てられるはずだったのは、私たちだったということなのです。

 どう思われますか。もしかしたら多くの人は、このような箇所を読んで、「いや、私は神から呪われたり、見捨てられたりするほど悪い人間ではない」と思うかもしれません。真面目に生きてきた人ならなおさらそう思うことでしょう。

 しかし、本当にそうなのでしょうか。この世の人間関係を考えてみてください。私たちの考えること、語っていること、行なっていることの大部分は人の目から隠されています。もし、仮にすべてがさらけ出されたらどうでしょう。心の中で考えていることまで、そのすべてがつまびらかにされたならどうでしょう。人はそれでも、なおあなたを愛するでしょうか。それとも、あいそをつかされ、軽蔑され、見捨てられることになるでしょうか。

 もっとも人と人との間であるならば、それは「お互い様でしょう」ということにもなるかもしれません。しかし、神と人との間においては、そうはなりません。聖なる神の前にすべてが明らかにされたならどうでしょう。いや、既に神に御前においては全てが明らかなのです。そこで問題となるのは、人と比較して良いか悪いかということではないのです。だからあえて「律法の呪い」と言われているのです。人からどう見られるかと言うことではないのです。神がどう見られるかということが問題となるのです。ならば、そのような神の前において、「私は呪いではなく祝福を受けるにふさわしい人間です」と胸を張って言える人間ははたしてここにいるのでしょうか。正直に自分自身を振り返るなら、確かに私たちは、本来、神から呪われて、永遠に見捨てられても仕方のない者なのだろうと思うのです。

 しかし、そのような私たちを、神は見捨てなかったのです。私たちのすべてをご存じの上で、私たちがどんな人間かをご存じの上で、また、この世がどれだけ罪に汚れているかをご存じの上で、それでもなお愛してくださったのです。それゆえに、私たちの罪をすべてキリストの上に置かれ、キリストを裁かれ、私たちの代わりに御子キリストを捨てられたのです。キリストが、わたしたちのために呪いとなってくださった、呪われた者となってくださった。それは私たちが呪いを受けないためなのです。見捨てられないためです。

 「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」。キリストが呪いとなってくださったので、呪いを受けてくださったので、私たちが受けるべき呪いはもう残っていません。あとは私たちが祝福を受け取るだけなのです。そうです。信じて、感謝して、受け取るだけなのです。そして、神に感謝しながら、神と共に生きたらよいのです。その時、もはや何ものも私たちを神の愛から引き離すことはできないのです。もはや死でさえも神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。

ただ信仰によって
 そのように、ただ信じて、感謝して、受け取ったらよい。しかし、もう一方において、それが時として人間にとって難しいことも事実です。というのも、私たちはギブ・アンド・テイクの世界に慣れ過ぎているからです。ですから、単純に受け取ることができない。祝福を受け、救われるためには、まず人間の側から何かを差し出さなくてはならないと考えるのです。

 この手紙を受け取ったガラテヤの人たちも、そのように考えていたようです。彼らはユダヤ人ではないのに、ユダヤ人のように割礼を受け、律法を守らなくてはならないと考えた。律法にかなった善い行いをまず差し出すことによって、救いを得ようと考えたのです。 いや、彼らが考え出したわけではありません。そのように教える人たちがいたのです。彼らは惑わされたのです。

 確かに、ガラテヤの人たちにとっても、またいつの世の人にとっても、「ただ信じて、感謝して受けるだけ」というよりも、「救われるためには、律法を守らなくてはならない」という教えの方が分かりやすいのかもしれません。先にも申しましたように、何かを得るためには、代価を支払わねばならないと考える世界に慣れ過ぎていますから。

 しかし、そのようなこの世界においても、例えば、既に代価が払われているものを受け取るのに、改めて代価を払って受け取ろうとしたら、それは愚かなことでしょう。いや、それは愚かであるだけでなく、悪しきことでもあります。それは代価を払ってくださった方の善意を踏みにじることでもあるからです。実際には、キリストにおいて支払われたのは、とてもなく大きな代価なのです。それはキリストの命ですから。それほどの代価を払ってくださった方の善意を踏みにじることになるのです。

 さらにいえば、そこから感謝の生活は絶対に生み出されることはありません。自分の行いと引き換えに、神の祝福と救いを得るならば、そこに生まれてくるのは感謝ではありません。自分の正しい行いによって獲得したという誇りです。熱心になればなるほどますます自らを誇るようになるのでしょう。その熱心さは、世にも恐るべき傲慢な人間を造り出す。パウロは自らの経験から、そのことをよく知っているのです。

 間違ってはなりません。救いは私たちの行いと引き替えに獲得するのではないのです。祝福を受けるのは、私たちが何かを行うことによってではないのです。求められているのはただ一つ。「信仰」です。信じて、感謝して、受け取ることだけです。

 それゆえに、彼はアブラハムを引き合いに出すのです。彼こそは、まさに、ただ神の言葉を信じ、感謝して、受け取って、祝福を受け継いだ人だからです。そして、パウロは次のように断言するのです。「それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」(9節)。

 ここにいる私たちにも、同じ祝福と救いの約束は与えられています。今も神様は、私たちに対してキリストの十字架を通して語りかけてくださっているのです。キリストが私たちの受くべき呪いをすべて受けて下さった。もはや私たちは呪われた者として生きる必要はありません。もはや見捨てられた者のように絶望する必要はありません。どんなときにも神に愛されている者として、神と共に生きることができる。神は十字架を通して語っていてくださるのです。必要なことはただ一つ。信じて、感謝して、受け取り、感謝をもって神と共に生きることです。祝福され、救われた者を、もはや何ものも、死でさえも、神の愛から引き離すことはできないのです。

2024年4月28日日曜日

「霊の結ぶ実は愛である」

ガラテヤの信徒への手紙 5:16‐26

律法によって歩むこと

 今日の第二朗読で読まれたガラテヤの信徒への手紙には、「霊」と「肉」という言葉が繰り返されていました。ここで語られている「肉」とは「肉体」のことではありません。この「肉」とは、私たち人間が共通して持っている罪深い性質のことです。

 動物園の虎を思い描いてみてください。その虎を檻から出して町中に野放しにしたら、恐らく大変なことになるでしょう。虎はその本能にまかせて何をしでかすか分かりません。それと同じように、私たち人間の内には、何の制約もなく野放しにしたら、それこそ何をしでかすかわからない「わたし」がいるのです。それが「肉」と表現されているものです。

 実際、「肉」を野放しにしたら「肉」は何をしでかすのか、その肉に従って生活したら、どのようなことが起こり得るのか、そのリストが19節に挙げられています。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」(19‐21節)。

 ここに書かれていることは、一つ一つ特に説明はいらないでしょう。たしかにこれが「肉の業」だと言えば、本当にそのとおりだと思います。そして、私たちも分かっているのです。そのような「肉」が野放しにされて、自由にその「肉の業」を行うようであってはならないし、この「肉」に従って生活してはならないということを。そのように生きて絶対に幸せにはならないし、それどころか、それは滅びへと向かう生活ともなる。そんなことは皆が知っていることです。。

 ですから、虎を鎖でつなぎ止めたり、檻に入れたりするように、私たちも「肉」をつなぎ止めたり、押さえ込もうとするのです。ユダヤ人にとりましては、まさにその機能を果たしていたのが「律法」、すなわち宗教的戒律だったのです。律法を持っているということは実に安全なことだったのです。それを遵守するということは身を守ることでもあったのです。

 それはユダヤ人でない私たちであっても、ある程度理解できることです。例えば様々な規則や法律、次々に定められる条例などを考えてみてください。確かに、様々な規則や国家の法律は、「肉」が野放しになって肉の業を行わないための鎖となり、檻となっているのです。もちろん、ただ規則があるからというだけで、私たちは自らを規制するわけではありません。もう一方において、私たちは多かれ少なかれ道徳的・倫理的な意志を持っているわけです。私たちは自分の意志の力をもってある程度、肉を押さえ込んでいるわけです。

 そのようにユダヤ人たちは、与えられているモーセの律法によって、また律法を遵守して生きようとする意志によって、肉の活動をつなぎ止め、あるいは封じ込めてきたのです。少なくとも彼らはそう思っていたのです。ですから、当然のことながら、キリストを信じた後でも、やはり律法を遵守することは大事なことだと考えるユダヤ人クリスチャンは少なくなかったのです。いや、教会の中にはユダヤ人以外の異邦人クリスチャンもいるのだから、彼らにも律法を守らせるべきだと考える人たちがいたのです。

 そのように律法が重んじられ、律法の遵守によって神の御前に義しい者となろうと思っている人が少なからずいた教会、それがこの手紙の宛てられているガラテヤの教会でした。そしてそのような律法を遵守して生きようとする意志の力によって「肉」は確実に押さえ込まれている教会である・・・はずでした。

 しかし、実際にはどうだったのでしょう。今日お読みした箇所の直前にはこんなことが書かれています。「だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」(15節)。今日の箇所の直後にもこんなことが書かれています。「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう」(26節)。今日の箇所は、そんな言葉に囲まれているのです。

 変な話だと思いませんか。敵意や争いやねたみなどは、それこそ「肉の業」であったはずです。しかし、律法によって、人間の意志の力によって、外側から肉を押さえ込もうとしていった時に、かえって「肉の業」が活発に表に現れる結果となっていたというのです。

 いや、「変な話だと思いませんか」と言いましたが、実はこのようなことは、私たち自身、身近なところでいくらでも経験していることだろうとも思います。規則によって、あるいは義務を課すことによって秩序を保とうとする人たち、人間の意志の力によって正しくあろうとする人たちが多くなればなるほど、そこには争いと対立が起こりやすくなるのです。そねみやねたみ、怒りが支配するようになるのです。また、隠れた不道徳、覆い隠されたみだらな行いもまた増えていく。

 パウロにとってそそのようなことは自らの経験から分かり切っていたことなのです。パウロ自身、かつてファリサイ派に属し、律法を落ち度無く守ってきた人でしたから。それは福音書を読んでも分かります。イエス様の周りに登場するファリサイ派の人たちの姿、どうですか。文句ばかり言っている人たち。怒りと殺意に燃えて、イエスを亡き者にしようとしている人たち。これが神様の望んでいる姿であろうはずがない。

 確かに「肉」を野放しにしてはならないのです。しかし、律法によって、規則によって、人間の意志の力によってこれをつなぎ止めておこうとすると、どうしてもそこは喜んで互いに愛し合って生きる世界にはならなくて、怒りをもって互いに裁き合う世界となり、また表面だけきれいに取り繕う世界になってしまうのです。そのような形で、かえって「肉の業」が現れるようになってしまう。ならば一体どうしたらよいのでしょう。

霊に従って歩むこと
 そこでパウロは言うのです。「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」(16節)と。律法によるのではない、しかも肉を野放しにするのでもない、もう一つのあり方がある。それは霊の導きに従って歩むことである。そうパウロは言っているのです。

 ここで言われている「霊」とは、人間の霊のことではなく、神の霊、聖霊のことです。パウロが語っているのは、律法を遵守して自分の意志の力によって肉を克服しようとする生き方に対して、ひたすら聖霊の導きを求める生き方。言い換えるならば、生ける神との親しい交わりに生き、神の導きによって生きる、という生き方です。

 さて、教会の暦においては、聖霊降臨祭が近づいてきました。それは、今からおよそ二千年前の一つの出来事に由来する祭りです。復活したキリストは弟子たちにこう言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)。そして、弟子たちはどうしましたか。ひたすら聖霊が降るのを待ち望み、祈り求めました。そして、彼らが集まって祈っているところに聖霊が降りました。その出来事を記念するのが「聖霊降臨祭(ペンテコステ)」です。今年は5月19日です。

 あの日、天から降った聖霊、神の霊は、今もこの地上において生きて働いておられます。そして、キリストを信じる者の内に住んでくださいます。ですから、私たちは信仰生活を、ただ良い教えを学んでそれを実践していくことであるかのように考えてはなりません。私たちはただキリスト教的な規範によって生きるのではなく、聖霊によって生きるのです。私たちは生ける神の霊が私たちの内に宿り、私たちの心と体と生活を導いてくださることを信じ、神と共に生きるのです。

 私たちが神と共に生き、聖霊の導きを求めて生き始めると、一体何が起こってくるのでしょう。17節以下にこう書かれているとおりです。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」(17節)。

 いわば私たち自身が戦場となるのです。肉と霊との戦いの場となるのです。私たちの内には葛藤が生じます。それまで肉に従って喜んで行っていたことが苦しみとなります。悲しみとなってまいります。キリスト者となった後に、自分の罪深さに悩み、涙を流すようになることを驚いてはなりません。それは当然のことなのです。肉に対立する聖霊が来られたのですから。それは必然的なプロセスです。そして、それは幸いなことなのです。そのプロセスを経て、肉は支配力を失い、肉の望むところに反する聖霊が支配するようになるのです。

 それは律法のように外側から課せられた変化ではありません。神が聖霊によって内側から起こされる変化です。そのような神による内的変化を、パウロは「霊の結ぶ実」と表現しています。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」(22‐23節)。特に、肉については「肉の業」と言われていたのに対し、霊については「霊の結ぶ実」と語られていることに注意してください。実は私たちが作るべきものではなくて、《実る》ものです。実というものは命から生ずるのです。

 「霊の結ぶ実は愛である」と書かれています。私たちは、何らかの規範や規則に従うことによって、愛の人になることはできません。さらに「喜び、平和」と続きます。人間の力によって喜びと平和に満ちた人になることはできません。寛容以下のすべての事柄についても、同じことが言えます。これらは神と共に生きるとき、信仰によって生きるとき、命の現れとして生じるものなのです。聖霊が私たちの内に結んでくださる実なのです。

 リンゴの実を得るために、一生懸命にリンゴの実自体を「作ろう」とするならば、それは愚かなことです。リンゴの実はリンゴの木に実るものだからです。ですから、大切なことは、リンゴの木を育てることです。同じように、私たちにとって大切なことは、私たちの力によって肉を克服して「愛、喜び、平和…」を私たちの人生に作り出そうとすることではないのです。信仰生活の木を丁寧に育てていくことなのです。ひたすら神を求め、聖霊の導きを求め、神と共に生きる生活を形作っていくことなのです。「霊の導きに従って歩みなさい」とは、そういうことです。

2023年9月10日日曜日

「キリストの十字架こそが誇り」

ガラテヤの信徒への手紙 6:14-18

誇りたいため
 今日はパウロがガラテヤの教会に宛てた手紙の最後の部分をお読みしました。手紙の最後に至って、パウロはこう言っています。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(14節)。言い換えるならば、キリストの十字架こそがわたしの誇りだ、ということです。あくまでも「このわたしには」という話です。一般論ではありません。「すべての人がそうあるべきだ」という主張は、ここにはありません。

 そのように、あくまでもパウロ自身の話なのですが、このような言葉に出会いますと、やはり私たち自身のことを考えざるを得なくなります。ではパウロではなく、「このわたしには」何が誇りなのだろう。何を誇りとして生きているのだろう。何によっても奪われない、最後まで失わない誇りとは何なのだろうか。今日、この箇所を共に読んでいる私たちには、改めてそのことが問われているようにも思います。

 何を誇りとして生きているのか。実は、今日の聖書箇所の直前には、別の誇りに生きる人たちのことが書かれているのです。「割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます」(13節)。それに対して「しかし、このわたしには…」とパウロは語り初めているわけです。

 「あなたがたにも割礼を望んでいます」。ガラテヤの信徒たちが割礼を受けることを望んでいる人たちがいました。その前には「あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」という言葉もあります。ガラテヤの信徒たちのほとんどはユダヤ人ではなかったと思われます。割礼を受けていない人たちです。異邦人がイエス・キリストの福音を聞いて信じてキリスト者となりました。その彼らに割礼を受けさせ、ユダヤ人にしようとしていた人たちがいたというのです。

 彼らがガラテヤの信徒たちに割礼を受けさせようとしていたのは「誇りたいため」だと言います。自分たちが誇るために、彼らをユダヤ人にしようとしていた。もちろん「私たちが誇れるように、あなたがたは割礼を受けなさい」などと露骨に言う人はいないでしょう。彼らは「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた教師たちなのです。そうです、救われるために「割礼を受けなさい」と言っていたのです。

 しかし、彼らは「あなたがたの肉について誇りたい」だけだとパウロは言うのです。パウロ自身はユダヤ人です。だから分かるのです。かつて彼もそのように生きていましたから。そうです、誇りたいのです。「誇りたい」というのは誰に対してですか。もちろん他の人間に対してです。どうして人に対して誇りたいのか。他の人間が自分をどのように見なすかが重要だからです。だから人に対して優位にあること、自分の価値あることを示したいのです。

 紀元一世紀の頃のユダヤ教世界においては、異邦人への伝道が盛んに行われていたことが知られています。実際、ユダヤ教の世界に惹かれて会堂に出入りする異邦人は少なくありませんでした。会堂に出入りする異邦人は、「神を畏れる人たち」と呼ばれていました。その中にはローマの百人隊長であったコルネリウスのような人までいたことが伝えられています(使徒10:1)。

 そのように異邦人が教えを乞い、会堂に出入りし、さらには割礼を受けてユダヤ人のコミュニティの一員になるということ――それはユダヤ人にとって、自分たちの優位性の証明でもあり、人間の内にある「誇りたい」という欲求を十分に満足させるものだったのです。

 ガラテヤの異邦人キリスト者に割礼を受けさせようとしているユダヤ主義者たち。彼らはそうしている限り、同胞であるユダヤ人からの迫害を免れることができるでしょう。しかし、それだけではありません。パウロは彼らの内に、他のユダヤ人と同じ、「誇りたい」という動機があることを、パウロは知っていたのです。

 そのように宗教的な世界にさえ、そのような「誇りたい」という思いがついてまわります。そのような「誇りたい」という思いは、繰り返しますが、常に人に対してです。人に対して誇りたいのは、人からどう見なされるかが重要だと思っているからです。人に対して優位にあること、自分の価値あることを示したいのです。

十字架こそが誇り
 しかし、ここでパウロは言うのです。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」。そこでパウロはイエス・キリストを指し示すのです。しかも、惨めな、無残な、十字架にかかっている姿を指し示すのです。そして言うのです。この十字架こそわたしの誇りだ、と。

 パウロが指し示す、イエス・キリストの十字架に目を向けてみましょう。そこには何が見えてくるでしょう。まず、そこに見えてくるのは神の正しい裁きです。神が正しく裁かれるとは、こういうことだということです。

 十字架にかけられているキリスト。なぜキリストは十字架にかけられているのか。なぜそこで血を流し、苦しんでいるのか。なぜキリストは呪われた姿で死んだのか。聖書は言います。それは私たちの罪を代わりに負われたからだ、と。私たちに代わってキリストは死なれた。それは何を意味しますか。キリストが身代わりになってくださらなければ、そこにいるのはわたしであり、あなただということです。神が正しく裁かれるならば、十字架の上で呪われた者として滅びていくのは、わたしであり、あなただということです。

 その意味において、私たちのつまらない誇りなどは、十字架の前では意味を全く失います。そこで向き合うことになるのは、私の全てをご存じであり、全てを見ておられる方だからです。何が本当に善なることであり、何が本当に悪であるのかを分かっておられる方だからです。その御方を前にして、自分自身を誰かに対して誇ったところで、そんな誇りなど、神の正しい裁きの前においては、簡単に吹っ飛んでしまうようなものでしょう。

 わたしがしてきたこと、あなたがしてきたこと、それが神の御前で正しく裁かれるならば、本来いるべきところは十字架の上ではないか。――十字架が示しているのは、そういうことです。十字架の前に身を置くならば、神の正しい裁きの前に身を置くならば、人はもはや何も誇れなくなります。そこにおいては、どんな人であっても、ただの一人の罪人に過ぎないからです。

 しかし、イエス・キリストの十字架をさらに見つめるならば、もう一つのものが見えてきます。正しい神の裁きの向こうに見えてくるのは神の愛に他ならないのです。そこに釘づけられているのは、わたしではないのです。あなたではないのです。そうではなくて、神の独り子なのです。その御方が十字架にかけられているのです。わたしの代わりとして、あなたの代わりとして。

 キリストはただ「全人類のために」十字架にかかられたのではありません。パウロは、この同じ手紙の中で次のように語っています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(2:20)。そうです、パウロは「全人類のために身を献げられた神の子」とは言わないのです。「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」と彼は言うのです。

 そのように、イエス様は全人類のためではなくて、わたしの代わり、あなたの代わりになってくださったのです。言い換えるならば、わたしが救われるためには、あなたが救われるためには、独り子を十字架にかけても良い、御子を身代わりにしても良いと神は思われたということです。私たちが罪を赦されて、神の子として生きるようになるためには、どれほど大きな犠牲を払っても厭わない。そう神は思われたということです。それほどに私たちを価値ある存在として見てくださったということです。

 だからこそ、イエス・キリストの十字架こそがわたしの誇りだとパウロは言うのです。人に対する誇りではありません。もはや人に誇る必要などないからです。人がどう見なすかは関係ないからです。そもそも、それが本来あるべき姿なのでしょう。人がどう扱うか、人が何を言うか、人がどう見なすかによって、自分の価値を決めさせてはならないのです。人間の価値は神が決めるのです。神が価値ある存在として見てくださったなら、人が何を言おうと、どう扱おうと関係ないのです。

 ですからパウロはさらにこう続けるのです。「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」(14節)。世はわたしに対しては死んだもの、わたしは世に対しては死んだもの。だから、世が何を言おうが、世がどう見なそうが、どう扱おうが関係ないのです。その意味で「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」(12節)と語られている人々とは対極にいるのです。

 実際、パウロは迫害の中にいるのです。世は彼を疫病のような人間と呼びました。世のクズのように扱い、お前などいないほうがよい、と言うのです。しかし、それで何が変わるわけでもありません。何も損なわれることはない。パウロにとっては十字架こそが誇りだからです。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」。

 この言葉の前に、改めて問われています。私たちは何を誇りとして生きているのでしょう。人に対して一生懸命に誇りながらこれからも生きていくのでしょうか。人の言葉や扱いによって自分を値踏みしながら生きていくのでしょうか。私たちの内にある誇りは、最後まで失われずに残るものなのでしょうか。「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」このパウロの言葉を前に、私たち自身について、よく考えたいと思うのです。

2023年7月16日日曜日

「互いに重荷を担いなさい」

ガラテヤの信徒への手紙 6:1ー10

互いに重荷を負いなさい
 聖書の中にこんな話が出てきます。ペトロがイエス様に尋ねました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。するとイエス様が答えます。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18:22)。

 人を赦すこと。人を赦し受け入れることのできる広い心を持つこと。それが大事であることは私たちもよく分かっています。憤ってばかりいる人、恨みを抱き続けている人よりは、人を赦すことのできる人になりたいとも思いますし、心の広い寛容な人になりたいとも思います。

 しかし、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」となると、話は別です。七の七十倍になったら、もはや実際的には数えられません。「今回赦したら490回目ですよ」ということは起こり得ない。要するに何回赦したか「数えるな」ということです。数えないで赦しなさい、ということです。そうなりますと話は違ってまいります。

 どんなに人を赦すことが大事だと思っていても、さすがにこのイエス様の言葉はあり得ない。それこそ赦しがたい人々の顔がちらちらと思い浮かんでくるかもしれません。そんな人たちを何度も赦すなんて、絶対にあり得ない!――それが自然な反応だと思います。

 いや、これは単純に《できるかできないか》の問題ではないのです。「そもそもそれは正しいことなのか」という問いが生じてくるからです。何度も赦して本当に良いのか。その人が同じことを繰り返すだけではないか。赦してやるのではなくて、二度と同じ過ちを犯さないように、むしろ一度徹底的に痛めつけた方が、本人のためなのではないでしょうか。

 いずれにせよ、徹底的に痛めつけるかどうかは別として、人はただ赦されるだけでなく、正されなくてはならない。それは誰もが普通に考えることだろうと思うのです。実際、今日の第二朗読において、パウロもまたこう言っていました。「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」(1節)。この「正しい道に立ち帰らせなさい」というのは意訳でありまして、「正しなさい」というのが直訳です。

 パウロも、誰かが罪に陥ったなら、その人はただ赦されるだけでなく、正されなくてはならないと言うのです。ただ、「もう二度としないように徹底的に痛めつけて正しなさい」とは言いません。「柔和な心で(正しなさい)」と言うのです。どうも、これがとても重要なポイントであるようです。

 パウロが、あえて「柔和な心で」と言うのは、実際には柔和になれない状況があるからなのでしょう。考えてみてください。教会内の人間関係においても、この社会の人間関係においても、問題になるのは一般的な意味で「だれかが何かの罪に陥ったら」という場合ではないのです。そうではなくて、ペトロが言っているように「わたしに対して罪を犯したなら」という場合なのです。つまり誰かによって《自分が》苦しい思いをする、痛い思いをする、理不尽な重荷を負わされる。そのような場合なのです。あるいは直接的に自分が被害を受けないとしても、間接的に、誰かが被害を受けることによって、自分も不快な思いを強いられる。あるいは共同体全体が不利益を被る。そんな場合もあるでしょう。

 自分に重荷がやってこない「どこか他所の誰かの罪」の話なら、恐らくいくらでも柔和になれるのです。おだやかに対処もできるのです。しかし、現実には往々にしてそうはならない。私たちが気づく罪というのは、私たち自身にも関わってくるから気づくのです。何らかの形で私たち自身の重荷にもなるから気づくのです。ですからパウロもまたこれを一般的な話にしないで、すぐさま続けてこう言うのです。「互いに重荷を担いなさい」(2節)。

 他人の罪や悪に気づくのはそれほど難しいことではありません。その罪に怒りを向けることも難しくはありません。それは努力しなくても自然に起こります。人を裁くことは簡単です。非難することも簡単です。断罪することも簡単です。こちらが強ければ、徹底的に痛めつけることも、あるいは簡単なことなのかもしれません。

 しかし、本当の意味で「正すこと」はとても難しい。「互いに重荷を担いなさい」とあるように、それはあえて重荷を背負うことでもあるからです。重荷を背負うつもりがなくても、人に怒りを向けることはできます。人を裁くことも、非難することもできます。重荷を背負うつもりがなくても、痛い目に遭わせることはできるかもしれません。しかし、重荷を背負うつもりがなければ、正すことはできません。

 ちなみに「正す」が直訳だと言いましたが、これはまた「修繕する」という意味の言葉でもあるのです。破れたところを繕う。ボロボロになってしまったものを繕う。誰かが罪を犯すなら、その人に必要なのは、ただ怒りを向ける人でも、非難する人でも、痛めつける人でもないのです。そうではなく、重荷を負うつもりで、こつこつと修繕する人、ボロボロになっているところを繕ってくれる人、そのように関わり続けてくれる人こそが必要なのです。「柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい、修繕しなさい」とはそういうことです。

 するとそこで、やはりあのイエス様の言葉が響いてまいります。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」そこに語られている、最も深いところにおける赦しの心が必要となってくるのです。

私たちの重荷を負ってくださった神
 とはいえ、それは難しい。なんと難しいことかと思います。しかし、だからこそ私たちは、そのように生き、そのように私たちに関わってくださったイエス様に目を向け続けなくてはならないのでしょう。「赦しなさい」と言われたあの御方は、私たちのちっぽけな「赦しの心」とは比較にならない、とてつもなく大きな、神の「赦しの心」をその身をもって現してくださった方だからです。

 今日の福音書朗読は、食事の席に着いておられたイエス様のところに、突然、その町で罪深い女として知られていた女性が泣きながら入ってきたという話でした。彼女は後ろからイエスの足もとに近より、涙で足をぬらしては自分の髪の毛でぬぐい、足に接吻して香油を塗り始めたというのです。

 食事の席に赤の他人が入って来ること自体は当時の社会において決して珍しいことではありませんでした。また、食事をする人は、今日のように椅子に座っているわけではなくて、横になって肘をつきながら食事をしていますから、足元に近寄ったということも、さほど不自然な行動ではありません。しかし、それらを差し引いても、やはりこれは本来起こりえない話です。それはファリサイ派のシモンの家だったからです。

 神の律法を厳格に守り、清く敬虔な生活をしているファリサイ派のシモン。その家に、罪深い女として知られている人が入ってくることは、まずあり得ません。入ってくれば、裁かれ、非難され、断罪されるに決まっているからです。そのあり得ないことが起こったのはなぜか。理由は一つしか考えられません。イエス様がそこにおられたからです。

 つくづくイエス様という御方は不思議な方だと思います。シモンが「先生」と呼んでいるように、イエス様は一面においてはユダヤ教の一教師なのです。ラビです。しかし、普通の教師になら絶対に近づかないような罪人や徴税人たちが、イエス様に引き寄せられるように集まってくるのです。なぜですか。イエス様の言葉、行動、その存在そのものに、神の大きな「赦しの心」が現れていたからでしょう。

 そして、この場面では罪深い女として知られている女性が近づいてきた。この女性にとってもイエス様は、罪深い自分をそのまま持って行くことのできる御方だったのです。罪深い者が自分の罪に泣きながらでも安心して近づくことのできる御方だったのです。そこには神の赦しがあるから。大きな神の「赦しの心」が現れているから。イエス様は彼女に宣言されました。「あなたの罪は赦された」と。そして言われたのです。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。

 しかし、そう言われたイエス様は、重荷を背負うつもりでおられたのです。私たちすべての者の罪の重荷を背負うつもりでおられたのです。苦しみを自ら引き受けるつもりでおられたのです。そのように神は重荷を負うつもりで私たちと関わってくださったのです。罪ある私たちを断罪するのではなく、滅ぼすのではなく、大きな赦しの心をもって、自ら重荷を負うつもりで、私たちと関わってくださったのです。この世に御子を遣わされ、十字架にかけられたとは、そういうことなのです。

 私たちもまた、今ここにおいて、キリストに現れた大きな神の「赦しの心」に触れています。そこから、私たち自身に必要な小さな「赦しの心」をいただくのです。それはすぐに失われてしまうようなものですから、繰り返し福音の言葉と共に受け取らなくてはならないのです。そのようにして、神によって重荷を負っていただいた者として、互いに重荷を負いながら生きていくのです。裁き合いながらではなく、決裂を繰り返しながらでなく、柔和な心をいただいて、お互いの破れを繕いながら共に生きていく者となりたいと思います。

2023年5月7日日曜日

「キリスト・イエスにおいて一つ」

ガラテヤの信徒への手紙 3:26‐4:7

キリスト・イエスに結ばれて
 「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(26節)。そのように書かれていました。

 私たちは神の子どもたちです。私たちには、どんな時にも、どんなところからも、呼び求めることができる天の父がいます。私たち自身がもはや何もなし得なくなった時にも、それこそ人生の最後の日を迎えた時にも、全幅の信頼を置いて呼び求めることのできる天の父がおられます。「アッバ、父よ」という言葉が今日の聖書箇所に記されていました。「アッバ」とは子どもが家庭において父親に呼びかける言葉です。親しみと愛情を込めた呼びかけです。どんな時にも、私たちは「アッバ、父よ」と、天の父を呼び求めることができるのです。

 「アッバ、父よ」とは、もともとイエス様の祈りの言葉でした。イエス様が、苦しみの極みにあったゲッセマネにおいても口にされた祈りの言葉です。まさに神の子としての祈りの言葉でした。それは、本来イエス様だけが口にすることができる呼びかけの言葉でした。 しかし、今や聖書は私たちにこう言うのです。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」と。私たちもまた、イエス様と同じように祈ることができる。「アッバ、父よ」と呼びかけて生きることができるのです。

 罪のないイエス様が祈ったように、同じように、罪ある私たちが祈ることができる。生涯を通して神に従い通したイエス様と同じ言葉で、神に背いてばかりいた私たちが、それでもなお神の子どもたちとして、父を呼ぶことができる。それは本来ならば、あり得ないことです。

 ですから、パウロはただ単純に、「あなたがたは皆、神の子なのです」とは言いません。「あなたがたは皆、信仰により、《キリスト・イエスに結ばれて》神の子なのです」と言うのです。「キリスト・イエスに結ばれて」というのは、「キリスト・イエスの中にあって」というのが直訳です。

 私たちは、キリストの中に身を置くのです。私たちのために十字架におかかりくださったキリストを信じて、その中に身を置くのです。言い換えるならば、キリストが与えてくださった罪の赦しの恵みの中に身を置くのです。その具体的な目に見える形は洗礼です。ですから先の言葉はこのように続くのです。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(27節)と。

 「キリストに結ばれて」「キリストの中にあって」という言葉が「キリストを着ている」と言い換えられました。意味は同じであることはすぐに分かります。しかし、「キリストを着ている」とは実に味わい深い言葉です。私たちはキリストの中に身を置きます。言い換えるならば、キリストを着せていただくのです。私たちは裸で神の前に立てないから、キリストを着せていただくのです。キリストを信じるとはそういうことです。

 キリストを着せていただくということは、神は罪人である私たちを直接ご覧になるのではないということです。神はキリストを通して見てくださる。キリストを着ている者として、キリストによって罪を贖われた者として、私たちを見てくださるのです。だからこそ、私たちはイエス様と同じように神の子どもたちとして父を呼ぶことができるのです。罪を赦していただいた者として、私たちは、キリストを着た神の子どもたちとして父を呼び求めることができるのです。

キリスト・イエスにおいて一つ
 そして、キリストを着ているということが神との関係において極めて大きな意味を持つだけでなく、これは私たちお互いの関係においても大きな意味を持つのです。先の言葉はこのように続きます。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(28節)

 当時の教会にはユダヤ人がおりギリシア人がいました。この両者は異なる者たちの代表です。またそこには奴隷がおり自由な身分の者がいました。男がおり女がいたのです。異なる者が共にいるということは、時として極めて不快な状況を作り出すことがあります。異なる者が共にいてなお一つとなるということは、往々にしてとても難しいことです。それは私たちも良く知っています。

 しかし、彼らは頑張って努力して違いを乗り越えて、互いに理解し合うことによって一つになるのではないのです。あるいは共通の目標を目指すことによって、あるいは強力なリーダーによって統率されることによって一つとなるのでもないのです。そうではなくて、「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだから」と語られているのです。決定的に重要なのは「キリスト・イエスにおいて」ということなのです。

 「キリスト・イエスにおいて」と訳されていますが、これは先に出てきた「キリスト・イエスに結ばれて」と同じ言葉です。これまでの話から、これをさらに「キリストを着て」と言い換えてもいいでしょう。そこにはキリストを着ているユダヤ人がいるのです。キリストを着ているギリシア人がいるのです。キリストを着ている奴隷がおり、キリストを着ている自由人がおり、キリストを着ている男と女がいるのです。

 そして、「キリストを着ている」ということが決定的に重要なこととなるならば、当然のことながら、その服の中にいるのがユダヤ人であるかギリシア人であるかは重要性を失うことになるのです。この世における様々な違いは重要性を失うのです。ここで言われているのはそういうことです。

 そのように、ユダヤ人であろうが、ギリシア人であろうが、この世においていかなる立場の違いがあろうが、置かれている境遇の違いがあろうが、さらに言うならば物事の考え方の違いがあろうが、感性の違いがあろうが、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」と語られているのです。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と。

子であれば相続人でもあります
 そして、さらに今日の箇所においては4章5節にも「神の子とする」という言葉が出てきます。4節からお読みします。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(4:4‐5)。

 日本語では「神の子となさる」と訳されているのですが、実は原文では「養子とする」という言葉が用いられています。口語訳では「わたしたちに子たる身分を授けるためであった」となっています。こちらの方が直訳に近いのです。

 当時のギリシア・ローマの世界では、買い取った奴隷をあえて解放して、家族の一員として迎えるというような制度があったそうです。その奴隷は、代価を払って買い取られた時点で新しい主人のものとなるのですが、その主人が「お前はわたしの息子になるのだよ」と言うならば、もはや奴隷ではなくなるわけです。そして、息子になったと同時に、その主人の財産の相続人ともなるのです。

 パウロが思い描いているのはそのようなことです。これが私たちにも起こったのだ、と言うのです。それゆえに7節ではこう書かれているのです。「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」(7節)。

 相続人であるということは、将来受け取るものがあるということです。まだ見ていないもの、手にしていないものが将来私たちを待っているということです。この手紙の5章5節にはこう書かれています。「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです」。

 私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされました。罪人でありながら、神によって義とされました。私たちはそのままキリストを着せられて神の子とされました。ですから、その意味において、私たちは救われたと言えます。しかし、私たちが既に見ているもの、信仰生活において経験することは、まだ与えられた救いのほんの一部であり、その片鱗でしかありません。

 私たちはやがて、自分が神の養子にされたということがどういうことかを、本当の意味で知ることになるでしょう。その時、私たちが神の子どもたちとして神の国の栄光を一緒に見る時、この世においてキリストを着せられていたということがどれほど大きな恵みであったかを知ることになるでしょう。そのような途轍もなく大きな恵みに共にあずかっていたのに、しばしばそのことを一緒に喜べず、互いの違いばかりに目を向け、互いを批判し合い、互いに不平を言い合い裁き合っていたことが、どれほど愚かなことであったかを、本当の意味で知ることになるでしょう。

 私たちは今、御言葉によって、自分が何者であるかを今一度心に刻みたいと思うのです。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」このことを共に喜び祝うことができるところにおいてこそ、そしてこの大いなる恵みを共に伝えていくところにおいてこそ、教会は一つとなることができるのです。

2022年7月17日日曜日

「大切なのは愛の実践を伴う信仰」

ガラテヤの信徒への手紙 5:2‐11
 

割礼を受けていないキリスト者
 ご存知のように、イエスの弟子たちは皆ユダヤ人でした。最初のキリスト者は皆、ユダヤ人でした。教会にはユダヤ人しかいなかったのです。彼らは皆、ユダヤ人として割礼を受けていた人たちであり、ユダヤ人としての戒律を守ることを大切にしていたのです。

 しかし、やがて福音がユダヤ人以外にも伝えられていきました。ユダヤ人でない異邦人がイエス・キリストを信じて洗礼を受け、キリスト者になっていきました。彼らは割礼にも律法にも全く縁がありませんでした。彼らは、異邦人のまま神の愛を知り、異邦人のままキリストを受け入れ、異邦人のまま罪を赦され、異邦人のままキリスト者として生活していたのです。それでよかったのです。

 しかし、パウロが去った後、そこにユダヤ人の教師たちが入ってきました。そして、彼らは、異邦人キリスト者も、神との契約のしるしである割礼を受け、戒律を守るべきであると主張しました。そうしなければ救われない、と。この教えは少なからぬ影響を及ぼすことになりました。

 救われるためには戒律を守らなくてはならない。正しい人間にならなくてはならない。そのような教えはある意味では大変分かり易い。なので、彼らの主張を受け入れて、救われるために割礼を受ける人々が起こってきました。しかし、パウロはそのような教えに対し、真っ向から反対しました。そして、この手紙を書いたのです。

いくら払ったらいいですか?
 さて、この割礼や律法の話は私たちと全く関係のないように聞こえるかもしれません。しかし、実はそうでもないのです。ここで少し時間をとって、こんなことを想像してみてください。あなたは誰かにプレゼントをしようと思っています。何日も何日もかけて考え抜いて、真心を込めて用意しました。ついにそれを手渡す日がやってきました。あなたは愛を込めてそのプレゼントを渡します。相手はそれを受け取りました。そして、ひとことこう言ったのです。「ありがとう。で、いくら払ったらいい?」。

 皆さん、どう思いますか。悲しいでしょう。情けないでしょう。しかし、パウロがここで問題にしているのは、まさにそのようなことなのです。人間はあまりにも取引きに慣れすぎているのです。ですから、神の救いという愛の賜物でさえ、何かを支払って買い取ろうとするのです。人間の行為と引き替えに救いを得ようとするのです。先にも言いましたように、そのような教えの方が分かり易いのです。ですからパウロはこのように言っているのです。「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです」(2‐3節)。

 「あなたがた」というのは、ガラテヤの異邦人キリスト者です。ただキリストの十字架のゆえに罪を赦された人たちです。それゆえにただ神の恵みによって救われるのだということを知った人たちです。その彼らが「割礼を受けて、律法を守らなければ救われない」という教えを受け入れて割礼を受けるということは何を意味しますか。救いを恵みのプレゼントとして受け取ることをやめて、あたかも「いくら払ったらいいですか」と問うようなものなのです。

 そこでパウロは言うのです。「もし救いを恵みとして受けるのではなくて、代金を支払うことによってそれを買おうとするならば、全額を支払わなくてはなりません。それはとてつもない額になることを知っていますか」と。3節で彼が言っているのは、そういうことです。「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです」。律法全体――それが代金だというのです。律法を守ることによって救いを得ようとするならば、律法のすべてを完全に守らなくてはならない。つまり完全に正しい人にならなくてはならないのです。

 もちろん、ここには「割礼を受けて律法を守ること」と引き替えに救いを得ようとしている人はいないでしょう。しかし、他のものが、無意識のうちに神との取引の材料になっているかもしれません。善行や奉仕がそのような材料になるかもしれません。良い人間になりますから救ってください、一生懸命に奉仕しますから救ってください、と。いや、それだけでなく、洗礼や聖餐、礼拝することでさえ、そうなるかもしれないのです。真面目に教会生活しますから救ってください、というように。

 皆さん、それらは皆、本当は神の恵みの賜物なのです。洗礼も、聖餐も、礼拝に出席することも、教会生活も、教会の交わりも、奉仕も何もかも、それは神様との取引きの材料ではないのです。それはもともと、すべて恵みとして与えられているのです。キリストの十字架を通して、罪の赦しと共に、ただ一方的な恵みとして与えられているのです。ですからそれらは恵みとして、感謝して受けるべきものなのです。しかし、それが恵みの賜物だと分からないと、いつの間にか、それが救いを得るために《行わなくてはならないもの》に変質してしまうのです。

 私たちが、なんらかの行いによって救いを得ようとするならば、私たちは神の律法のすべてを完全に守らなくてはなりません。自分の行いによって、神から義と認められなくてはなりません。神と取引きをしようとする人は、とてつもない高額を支払わなくてはならないのです。そして、その支払いは――不可能です。

大切なのは愛の実践を伴う信仰
 では、「いくら払ったらいいですか」ではなくて、本来はどうあるべきなのでしょうか。パウロは次のように言っています。「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(5‐6節)。

 私たちが救われる、救いを得るということは、代価を払って何かを獲得することとは異なるのであって、それは「待ち望む」という言葉によって表現されるべきことなのです。待ち望むのです。ただ受け取るために手を伸ばして、待ち望むのです。手を伸ばすこと、それが信仰です。そのように信じて、待ち望んで、そして受け取るのです。

 このことについては、先ほど想像していただいたプレゼントを誰かにあげる場合とは逆に、今度はプレゼントをもらう側に立ってみると良く分かります。

 誰かがあなたに長い時間をかけて、心を込めて準備したプレゼントを差し出すとします。「はい、これをあげますよ」と。そこで「いくら払ったらいいですか」などという馬鹿な事は言わず、単純に「ありがとう!」と言って手を伸ばしたとします。そのプレゼントが相手の手から自分の手に移るまでに、ある程度の時間はかかりますでしょう。しかし、まだプレゼントを実際に手にしていない時点でありましても、もう既に相手の「愛」そのものはいただいているわけです。ですからまだ実際に手にしていなくても、プレゼントの大事な部分は、既に味わっているのです。だからうれしい。だから喜びがある。そうでしょう。――私たちはちょうどその時点にいるのです。「待ち望む」というのは、そういうことなのです。

 「義とされた者の希望が実現すること(直訳では「義の希望」)」を待ち望んでいるとパウロは言います。私たちに手渡されようとしている救いは、聖書において様々な言葉をもって表現されています。神の国に入ること。神の国を受け継ぐこと。主と顔と顔とを合わせて相まみえること。罪と死から解放されること。復活の体を与えられること。神の栄光にあずかること。やがて神様ご自身が、私たちの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださること。そうです、そのような時が来るのです。

 しかし、それはまだ実現してはいません。確かに私たちはまだ手にしてはおりません。しかし、それは神の愛によって既に用意され、イエス・キリストにおいて差し出され、手を伸ばす私たちに手渡されようとしているのです。まだ手にはしていないのですが、もう既に神の愛そのものはいただいているのです。

 ですから、そこで大切なのはただ信仰だけなのです。言い換えるならば、手を伸ばし続けることなのです。代金を払うためではなくて、感謝をもって救いを受け取るために手を伸ばし続けることなのです。それは割礼を受けたユダヤ人キリスト者であろうが、割礼を受けていない異邦人キリスト者であろうが変わらないのです。大切なのは信仰です。

 その大切な「信仰」について、パウロは少し言葉を加えて、「愛の実践を伴う信仰」と表現しています。直訳すれば、「愛を通して働く信仰」です。言い換えるならば、愛と一つになった信仰です。どうして「信仰」と「愛」が結びつくのでしょう。――それは、《愛》に対しては《愛》をもって応答するのが最もふさわしいあり方だからです。

 プレゼントを受け取るときのことをもう一度考えてみてください。愛をもって準備されたプレゼントを受け取るのに、「いくら払えばいい?」と尋ねることは愚かなことですが、同じように、「タダでくれるというのなら、もらっておきましょう」と言って無造作に手を出すのも愚かなことでしょう。「どうせ恵みによって救われるのだから、どう生きたっていいでしょう。大事なのは信仰だけですよ」というのは、そういうことです。明らかにどちらもふさわしい受け取り方ではありません。

 神様が愛をもって差し出してくださった救いを受け取るのに最もふさわしいあり方は、私たちも神様を愛する愛をもって手を伸ばすことなのです。愛に対するふさわしい応答は《愛》なのです。そして、神様を愛するということは、神様が愛してやまない私たちの隣人をも愛することでもあるはずなのです。神を愛することと人を愛することは一つなのです。神を愛する愛であり人を愛する愛――大切なのはその愛の実践を伴う信仰だけです。それが神の愛に対する応答であり、私たちが救いを待つ待ち望み方です。

(祈り)

2020年3月15日日曜日

「キリストがわたしの内に」

ガラテヤ2:15‐21 

 第2朗読においてガラテヤの信徒への手紙が読まれました。今日、特に心に留めたいのは20節の言葉です。大変印象的な言葉です。パウロは言います。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(20節)。

生きているのは、わたしではありません
 「生きているのは、もはやわたしではありません」。それはすなわち、「わたしは生きていない」「わたしは既に死んだ」ということです。実際には生きているパウロが、自分を既に死んだ者と見なしているのです。しかも、ただ死んだと言うだけではありません。その直前には、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」(19節)と彼は言うのです。

 パウロの言葉を理解するために、この手紙を少し遡ってみることにしましょう。15節にはこう書かれていました。「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」(15節)。これは当時のユダヤ人のごく一般的な理解です。

 ユダヤ人は一つの自負を持っていました。《我々は神の律法を持っている》という自負です。すなわち、正しい神が何を求めておられるかを知っている、ということです。ですから、神が何を求めているかも知らずに生活している異邦人を「罪人」と呼んで蔑んだのです。

 しかし、パウロはユダヤ人の間で一般的に語られていたその言葉を取り上げて問題にするのです。確かに、我々は律法を持っている。正しい神の要求が何であるかを知っている。しかし、本当にそれを完全に実行することができるのか。律法を守ることによって、神から「正しい者」と認められる人間はいるのか。――否、そんな人は一人もいないのではないか。それゆえ16節の最後において、パウロは言い切るのです。「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない」(16節)と。「義とされない」とは「正しい者と認められない」ということです。

 「だれ一人として義とされない」――これは実は、文字通りではありませんが、詩編の引用なのです。詩編143編に次のような言葉があります。「あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません」(詩編143:2)。既にいにしえのユダヤ人が、その深い洞察をもって、自分自身について、人間というものについて、そう告白しているのです。そして、パウロもその言葉に同意します。パウロ自身、正しい人間になることを求めたのでしょう。律法によって義とされることを望んだのでしょう。しかし、そのパウロもまた、同じ結論に行き着かざるを得なかったのです。「御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません」と。

 正しい神の要求を完全に満たすことによって、正しい者と認められる者は誰もいない。それは異邦人であろうがユダヤ人であろうが関係ないのです。すべての者は、神に正しいとは認められないままで、神の裁きのもとにある者として、死んでいかなくてはならないということです。私たちの人生は、神との正しい関係にはなかったものとして、神の裁きのもとにあるものとして総括されねばならないということです。

 しかし、そこでパウロは一つの重大な真実を知ったのです。何を知ったのでしょう。もう一度16節を御覧ください。「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました」。そう彼は言うのです。律法の実行によって義とされる道は固く閉ざされていました。しかし、パウロはそこに、もう一つの道が開かれていることを発見したのです。それは「イエス・キリストへの信仰」という道でした。

 パウロがイエス・キリストについて語る時、それは十字架につけられたキリストのことに他なりません。先ほど、私たちは皆、神に正しいとは認められないまま、神の裁きのもとにある者として、死んでいかなくてはならないと申しました。しかし、そのような私たちが受けるべき裁き、受けるべき神の怒りを、すべて引き受けてくださった御方がおられるのです。それがイエス・キリストなのです。その御方は、自らは完全に神に従い通された正しい御方であるにもかかわらず、私たちのために、十字架の上で神に裁かれた者として死んでくださったのです。

 そのキリスト・イエスについて、「わたしたちもキリスト・イエスを信じました」とパウロは語ります。日本語では分かりませんが、そこには「キリスト・イエスの《中へ》(信じる)」と書かれているのです。つまり、自分の全存在をキリストの中に投げ込んでキリストと一つになることです。「わたしは律法の実行によっては義とされません。神の裁きのもとにある者として死ぬしかありません。私たちはただ十字架につけられたあなたに自分をまかせるしかありません。」そう言って、自分の身柄をキリストに引き渡してしまうことです。

 そうしてキリストと一つとなる時に、キリストの死は私たちの死となるのです。私たち自身は十字架につけられて死んではいません。にもかかわらず、既に十字架につけられて裁かれて死んだものと見なされるのです。神が私たちをそのように見なしてくださる。神の律法に背いた者として、律法に基づいて裁かれるべき罪人は既に死んだのです。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」とはそういうことです。そこにこそ、私たちの罪が赦され、義とされることの根拠があるのです。

キリストがわたしの内に生きておられる
 さて、先にお読みしました16節に続く17節と18節は難解でありまして、様々な解釈がなされてきました。今日は、その一つ一つを紹介することはしません。皆さんがそれぞれ考えを巡らしてください。ここではただ一つのこと、「…キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか」という問いに対して、「決してそうではない」とパウロが断言しているということを心に留めたいと思います。

 「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」――これを「律法を実行しなくても義とされる」と単純に読み替える人は、昔も今も少なくありません。つまり「神の前に正しくなくても義とされるのだな。別に罪を犯していても、神に背き続けていても、結局は義と認められるのだな」と考えるわけです。ローマの信徒への手紙を読みましても、「恵みが増すようにと、罪の中に留まるべきだろうか」(ローマ6:1)などという言葉が出てまいります。

 そうなりますと、当然のことながら、「キリスト教は《律法によらずに義とされる》という言葉をいいことに、平気で罪を犯す人間を造り出す」という批判、すなわち「キリストは罪に仕える者である」という批判が起こってくるでしょう。しかし、パウロはそのような非難に対して、全面的に否定するのです。キリストは罪に仕える者だって?決してそうではない!と彼は断言するのです。問題はどこにあるのでしょうか。「人は律法を実行しなくても義とされる」と単純に読み替えたところに問題があるのです。

 良く見てください。パウロは、「ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」と言っているのです。「イエス・キリスト」という御方との関わりが決定的に重要だということです。イエス・キリストを信じて、イエス・キリストという御方の内に自らを投げ込んで、イエス・キリストと一つになって、その死にあずかって、キリストと共に十字架につけられた者として、私たちは義とされるのです。

 そして、キリストは十字架につけられただけではありません。キリストは復活されたのです。十字架につけられたキリストと結ばれたならば、復活したキリストとも結ばれて一つになるはずです。キリストの死にあずかったならば、キリストの命にもあずかることになるのでしょう。人がキリストと共に死んだ者とされるのは、キリストの命にあずかって新しく生きるためなのです。

 「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです」とパウロは言いました。律法の実行によらずして義とされるのは、律法を与えた神と無関係に生きるようになるためではありません。神の御心や神の求めとは無関係に生きるようになるためではありません。神に背いた生活を安心してできるようになるためではありません。「それは神に対して生きるためだ。神にしっかりと向いて、神のために生きるためなのだ」とパウロは言うのです。そして、キリストの死にあずかっただけではなく、キリストの命にもあずかった新しい生を、パウロは次のように表現しているのです。「キリストがわたしの内に生きておられるのです」と。

 もともと旧約聖書の世界に、「わたしの内に生きておられるメシア」などという概念はありませんでした。これは、メシア=キリストの到来、その十字架と復活、そして昇天と聖霊の降臨によって開かれた、全く新しい地平です。ファリサイ派ユダヤ人パウロが、キリスト者であるパウロとなったということは、彼が「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と語る者となったということに他なりませんでした。

 私たちにとっても、キリスト者としての生活とは、「キリストがわたしの内に生きておられるのです」と語りながら生きていくことに他なりません。私たちは、この言葉を本当の意味で自分の言葉として生きることを、これからも求めていきたいと思います。

(祈り)

2014年9月21日日曜日

「わたしたちを救い出すために」

2014年9月21日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 1章1節~5節


 今日の聖書箇所はガラテヤの信徒への手紙の冒頭部分です。当時の手紙の典型的な様式に従って、まず差出人と受取人とが明記されています。差出人はパウロ、受取人はガラテヤ地方の諸教会の人々です。そして、他の手紙においてもパウロがしているように、続けて挨拶の言葉が添えられています。「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(3節)。

 「恵みと平和があるように」。それは挨拶の決まり文句です。しかし、パウロはただ形式的にその言葉を用いているのではありません。ですから、言葉をさらに続けるのです。その恵みと平和を与えるために、イエス・キリストが何をしてくださったかを書いているのです。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」(4節)。

 「恵みと平和があるように」。私たちもその言葉をここで耳にしています。その願いと祈りをもって書かれた言葉を耳にしています。私たちは恵みと平和にあずかるようにとここに集められて、今、その言葉を耳にしているのです。しっかりと受け取って、新しい週の歩みへと送り出されたいと思います。

この悪の世から救い出そうとして
 「恵みと平和があるように」。その「恵みと平和」は、「《わたしたちの父である神》と、主イエス・キリストの恵みと平和」と表現されています。その「恵みと平和」はわたしたちの父である神に由来します。これは神のご意志によるのです。私たちが願う前に、神が与えようと望んでくださいました。4節に書かれている、「わたしたちの神であり父である方の御心」とは、私たちの願いに先立つ神のご意志です。神が私たちの救いを願い、恵みと平和があるようにと願ってくださいました。

 その救いのご意志に従って、キリストが御自身を献げてくださいました。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」ですから、そのようにして与えられる恵みと平和は、「わたしたちの父である神と、《主イエス・キリストの》恵みと平和」と呼ばれているのです。

 そこには「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして」と書かれています。「この悪の世」と言うのですが、この言葉で何を思い浮かべるでしょうか。新聞やテレビで報道される凶悪な犯罪でしょうか。道徳的に退廃した社会のありさまでしょうか。確かに犯罪のある世界は「この悪の世」の一面でしょう。この世の不道徳も「この悪の世」の一面でしょう。しかし、パウロはただそのような社会を見て「この悪の世」と言っているのではないのです。

 彼が生まれ育ったのはユダヤ人の社会です。それは決して世俗的な退廃的な世界ではありませんでした。ある意味においてそれは非常に敬虔な、そして道徳的にも破綻していない、いわば「清い社会」だったのです。そのような環境において彼は育ったのです。この手紙を受け取る人々にとってもそうです。彼らの内において力を持っていたのは律法を遵守すべきことを訴えていたユダヤ主義者です。ガラテヤの教会にはその影響を受けたキリスト者がたくさんいたのです。そのような背景において、この言葉が用いられているのです。パウロは決して不敬虔な、世俗的な、退廃的な世界を見て「悪の世」と言っているのではないのです。そうではなくて、非常に宗教的な、敬虔な、まじめな、道徳的な、戒律遵守が求められる共同体にも、パウロは「この悪の世」の一面を見ていたのです。

 「この悪の世」というのは「悪い今の世」というのが直訳です。「今の世」という表現を使うのは、「来るべき世」のことを考えているからです。「来るべき世」は神の救いの到来した世界です。神の国です。それに対する「今の世」です。その「今の世」は悪い。どのような意味で「悪い」のでしょう。犯罪があるからでしょう。不道徳があるからでしょう。苦しみや悲しみがあるからでしょうか。どのような意味で「悪い」のでしょう。

 聖書は「今の世」を一つの物語をもって表現しています。良く知られているエデンの園の物語です。正確に言うならば、エデンの園を失った物語です。私たちはエデンの園にはいない。それが「今の世」です。どのようにエデンの園を失ったか、物語の筋はご存じでしょう。

 園の中央には「善悪の知識の木」がありました。それは神様がそこから取って食べるなと言われた木でした。しかし、人間はそこから取って食べました。そして、神が近づかれた時、人は神の顔を避けて園の木の間に隠れました。そこに見るのは関係の破れです。神と人との関係の破れ。もはやそこには平和に満ちた関係はありませんでした。

 さらに何が起こったでしょう。神様が男に「取って食べるなと命じた木から食べたのか」と問いました。その時、彼はこう答えたのです。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(創世記3:12)。そこに見るのは関係の破れです。人と人との関係の破れ。自分を正しい者として他者を責めるところに、もはや平和に満ちた関係はありませんでした。そのようにして、彼らはエデンの園を失いました。神と共に生き、人と共に生きる園を失いました。

 これが「今の世」です。このように神様と人との関係が破れてしまった世界。人と人との関係が破れてしまった世界。その痛みと苦しみとを背負っている世界。それが「今の世」です。実際そうでしょう。神様との関係が崩れた世界において、人間の歴史は戦争の歴史です。殺し合いの歴史です。国と国、民族と民族ではなくとも、身近に私たちは小さな戦争をいくらでも見て聞いて体験しているではありませんか。私たちは毎日どれだけの悪口を聞き、どれだけの中傷や争いを目にしていることでしょう。

 それはパウロが目にしてきた、敬虔な真面目な清い社会においても同じだったのです。むしろ正しさが求められる社会こそ、裁き合いの社会に他ならなかったのです。正しさの主張が声高に語られるところにおいてこそ、神と人との破れがあり、人と人との破れがある。そこにこそ人間の罪の最も恐ろしい姿があるのです。

与えられた恵みと平和
 しかし、イエス・キリストは、そのような「この悪の世」からわたしたちを救い出そうとして、御自身を献げてくださいました。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」と書かれているとおりです。

 「わたしたちの罪」というのは複数で書かれています。諸々の罪です。単に不道徳な行いだけではありません。私たちの敵意が、妬みが、憎しみが、悪口が、中傷が、怠慢やだらしない行為が、エゴイスティックな行為が、悪魔に誘惑されて行った諸々の行いが、さらには自分たちを絶対に正しいとする主張が、神との関係、人との関係を壊してきたのです。

 そのような私たちの諸々の罪のために、キリストは御自身を献げてくださいました。御自身を献げるということは、自ら苦しみを負うということを意味しました。私たちの諸々の罪が赦されるために、罪の贖いの犠牲として、十字架の上で死ぬことをさえ良しとして、自ら苦しみを負ってくださいました。そのようにして、神と私たちの間に平和を打ち立ててくださったのです。それは御子の苦しみによって打ち立てられた平和です。

 それは父なる神の「御心に従って」なされたことでした。私たちが願ったからではなく、神が望んでくださいました。私たちのために、御子が苦しむことを良しとしてくださいました。先に、御自身を献げるということは苦しみを負うということだと申しましたが、私たちはここに父なる神の御苦しみをも思います。そのようにして、私たちに御自身との平和を与えてくださいました。そのことがあるからこそ、その御方を「わたしたちの神であり父である方」と呼べるのです。それは神の苦しみによって打ち立てられた平和です。

 そのように平和が打ち立てられたのは、私たちが罪を赦された者として生きるためです。赦された者として生きるということは、そのような者として互いに赦し合って生きるということです。それはしばしば苦しみを伴うのでしょう。苦しみを経なくては、人と人との和解も実現しないのでしょう。しかし、御子が御自身を献げてくださったことを思う時、神が苦しみを負って平和を与えてくださったことを思う時、私たちの間にも和解が起こります。人と人との間に平和が生み出されるのです。私たちは神との間に平和をいただき、人との間にも平和をいただくのです。

 神様はそのように、「この悪の世」から救い出して、新しい生活を与えてくださるのです。「来るべき世」に属する生活を与えてくださるのです。それは恵みです。本来、私たちが受けるに値しない恵みです。それはただ神がそうお望みくださり、キリストがその御心に従い、御自身を献げてくださったゆえに与えられた恵みです。神との間の平和は恵み。人と人との間の平和も恵みです。

 もちろん、恵みによる救いが完全に実現するのは「来るべき世」においてです。私たちが見ることのできるのは完全なるものではありません。「今の世」「この悪い世」は厳然として続いているのです。しかし、それでもなお「今の世」からの救いは既に始まっているのです。キリストは「この悪い世」から救い出すために、御自身を献げてくださいました。キリストによって既に始まっているのです。私たちはその救いを味わい始めているのです。それが信仰生活です。パウロも言っているではありませんか。「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と。そうです、私たちはそのような言葉を耳にしています。私たちは恵みと平和にあずかるようにとここに集められて、今、その言葉を耳にしているのです。私たちは信仰によって受け取るのです。恵みを受け取るのです。神との平和、人との平和を受け取るのです。しっかりと受け取って、新しい週の歩みへと踏み出しましょう。

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