2020年5月31日日曜日

「枯れた骨は生き返るか」

エゼキエル書37:1‐14

我々の骨は枯れた
 今年の聖霊降臨祭においては、第一朗読においてエゼキエル書が読まれました。今日は特に、預言者エゼキエルを通して語られた神の言葉に耳を傾けたいと思います。

 預言者エゼキエルは預言者エレミヤとほぼ同時代の人です。共にユダ王国滅亡の時代を生きた預言者です。彼とエレミヤの大きな違いは、エレミヤが主にエルサレムで活動したのに対し、エゼキエルが捕囚の地において活動した預言者であったところにあります。ヨヤキン王と共に上層階級の人々がバビロンに移された第一次バビロン捕囚の際、エレミヤはエルサレムに残され、一方のエゼキエルは捕囚民と共に捕囚の地へ捕らえ移されました。そして、その地において、エゼキエルは預言者としての召しを受け、捕囚民の間において神の言葉を語り始めたのです。捕らえ移されて5年ほど経った頃のことでした。

 その時点では、まだエルサレムは破壊されてはいませんでした。神殿も残っていました。ダビデ王家もまだ存在していました。ヨヤキム王も捕囚ではありますがまだ生きています。それが捕らえ移された人々の希望でした。エゼキエルが活動していたその頃、解放と救いを語る預言者は少なくありませんでした。そして、人々は彼らの言葉に熱狂的に耳を傾けたのです。必ず自分たちはエルサレムに帰還することができる。必ず元の生活に戻れる。そう信じて、希望を抱き続けたのです。

 しかし、彼らが帰還を夢見ていたエルサレムは、それから十年も経たない内に、バビロン軍に包囲され、陥落することとなりました。都の城壁は徹底的に破壊され、神殿も焼き払われてしまいました。そして、その知らせがやがて捕囚の地の人々にも伝えられることとなりました。人々は深い絶望の淵に叩き落されることとなりました。そんな人々の言葉が、今日お読みした11節にも記されています。「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」(11節)。そのような人々に対して預言者はいったい何を語れば良いのでしょうか。神はその答えをエゼキエルに幻をもって示されたのでした。

 「主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた」(1‐2節)。そのように、エゼキエルは幻の中で、骨に満ちた谷の中に連れていかれます。そこには非常に多くの骨がありました。わざわざ「それらは甚だしく枯れていた」と書かれています。イスラエルには、死んだ後三日間は死んだ人の魂が屍の周りを漂っているという俗信がありました。死んで間もなくならばまだ希望はある。しかし、そこにあったのはすべて枯れた骨なのです。すなわちもはやまったく希望がないということを意味します。完全な死の支配がそこにあるのみです。

 11節において神がこの幻を説明しています。「これらの骨はイスラエルの全家である」と言われています。イスラエルの人々は「我々の骨は枯れた」と言っているのです。その時、神もまた、彼らが枯れた骨であることに同意するのです。「これらの骨はイスラエルの全家である」と。もちろん、人々が「我々の骨は枯れた」と言っても、実際に枯れているわけではないでしょう。あくまでも比喩的な表現です。絶望をそう表現しているだけです。しかし、神が彼らの言葉に同意して、「これらの骨はイスラエルの全家である」と言われる時、それはもはや比喩的表現ではないのです。神は知っているのです。彼らは、本当に枯れた骨なのだということを。つまり、彼ら自身の内には本当の意味で全く希望がないということです。なぜなら、彼らの絶望は彼ら自身の罪から来ているからです。そのことを一番良く知っているのは神御自身なのです。

 エルサレムが陥落したということは、人々にとっては災いなのでしょう。悲劇的な出来事なのでしょう。しかし、本当は単なる災いでも悲劇でもないのです。そうではなくて、それは神の裁きのもとにおいて、彼らの罪が明らかにされた出来事なのです。預言者が呼びかけても、耳を傾けようとはしなかった。神が「立ち帰れ」と語ろうとも、神に背を向け、神から離れたままだった。まさにそのようなイスラエルの全家が神に裁かれた出来事なのです。彼らの状態は、彼らが認識しているよりも本当はずっとずっと深刻なのです。神から見るならば、彼らは本当に枯れた骨だからです。

 さらに言うならば、彼らは、エルサレムが陥落して、初めて枯れた骨になったのではないのです。むしろ、神に逆らい、神の言葉に逆らい、神から離れていた時に、彼らは既に死んでいたのです。罪の内に死んでいたのです。エルサレムが陥落して国が滅びたのは、既に死んでいたことが明らかになったに過ぎないのです。もともと絶望的な状態にあったのです。その絶望が表に現れたに過ぎないのです。

枯れた骨に預言せよ
 しかし、その希望のない枯れた骨について、主はエゼキエルに問うのです。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」と。エゼキエルは答えます。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」。エゼキエルの答えは、単に「全く絶望的です」ということを言い換えているに過ぎません。人間の側から見るならば望みはどこにもないのです。絶望です。ならば神の側にそのまま返すしかありません。「あなたのみがご存じです」と。

 そこで、神はエゼキエルに命じられます。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る」(4‐5節)。その映像を思い描いてみてください。文字通り骨に語りかけている人がいたとすれば、それはまったく意味のないことのように見えるではありませんか。しかし、神の言葉をイスラエルに語るということは、まさにそのようなことに他ならないのです。

 いや、本来、イスラエルに限らず、人間に神の言葉が語られるということはそういうことなのでしょう。神の言葉が語られるということは、単に悪い者が良き者になるための教えが語られるといった類のものではないのです。人間は、何か良いことを教えられて、より良い者になればなんとかなるという状態にはないのです。枯れた骨は枯れた骨なのです。少しばかり手直ししても枯れた骨なのです。

 骨に語ることにもし意味があるとするならば、それは神の言葉が語られるところにおいて、神の霊が働くからです。語る行為そのものが人を生かすのではありません。語られた言葉の説得力や影響力が人を生かすのではありません。神の霊を通してなされる神の御業が人を生かすのです。神が生き返らせるのです。最初の創造において、土から作られた人に神が息を吹き込むと、その人は生きる者となりました(創世記2:7)。同じように、神から離れ、罪のために死んでいた人間を再び生かすのは神の霊の働きによるのです。

 エゼキエルは命じられたように預言しました。白骨死体の群れに語りかけているエゼキエルの姿を想像してみてください。彼の行為は客観的に見るならば愚かな行為でしかありません。語る者は自らの行為の無力さを知りつつ語ります。それはいつの時代の預言者も同じでした。今日教会において語られる説教においても同じです。福音の宣教は、それ自体の無力さを常に伴う務めなのです。パウロが「宣教という愚かな手段」(1コリント1:21)と表現しているとおりです。

 しかし、その一見愚かに見える行為を通して事が起こり始めます。「わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った」(7‐8節)。神の言葉が語られる時に、現実が動き始めるのです。死んでいたものが、再び生きている者の形を取り始めるのです。しかし、それはまだ準備段階です。人間の形となったとしても、命はまだその内にはありません。「しかし、その中に霊はなかった」と続いているとおりです。

  本当に重要なのはその後に起こることです。主はエゼキエルに「霊に預言せよ」と言うのです。彼は命じられるままに預言します。「すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった」(10節)と書かれております。ここではじめて「生き返った」と表現されるのです。神の霊が来る時に、生き返るのです。

 「枯れた骨は生き返るか」。今日の説教題ですが、今日の聖書箇所ははっきりと「その通りである!」と私たちに答えてくれています。第2朗読は、毎年聖霊降臨祭において耳にしている箇所ですが、ここにおいても私たちははっきりと、「枯れた骨は生き返る」という事実を語り聞かされているのです。

 イエスを見捨てて逃げ去った弟子たち。そのような形において、神の子を十字架へと追いやった自らの罪と向き合わされた弟子たち。まさに神から見て枯れた骨でしかない自分たちであることを思い知らされた弟子たち。その彼らが再び集められたのです。カタカタと音を立てて、骨と骨が近づいた。そして、人の形となっていったのです。その彼らの内に天からの霊が降ったのです。枯れた骨の集まりでしかなかったものが、生きた神の民となりました。それが教会の誕生であると聖書は私たちに伝えているのです。それが教会の宣教の始まりです。

 その宣教の歴史の先に私たちが今いるのです。教会の歴史は、枯れた骨が生き返らされてきた歴史です。宣教によって、神の霊のお働きによって、枯れた骨が神の民として生き返らされてきた。私たちもそこに加えられました。枯れた骨でしかなかった私たちが、生き返らされてそこに加えられました。ならば、私たちは神の霊によって生かされた神の民として、どのように歩んだらよいのでしょうか。

2020年5月24日日曜日

「天の礼拝、地上の礼拝」

ヨハネの黙示録 5:6-14

ヨハネの涙 今日は第二朗読においてヨハネの黙示録が読まれました。パトモス島に抑留されていた時に、ヨハネが神によって見せていただいた幻です。彼は幻の中において、開かれた天の門を通り、いつしか天の玉座の前にいたのでした。そこで彼は二十四人の長老たちが冠を玉座の前に投げ出して礼拝し、また不思議な天の生き物が絶え間なく主を誉め称えているのを見たのでした。

 そして、この5章に入りまして、「またわたし(ヨハネ)は、玉座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た」(1節)と書かれています。そこに記されているのは神の御心です。すなわち、裁きと救いをもたらす神のご計画です。

 そこで一人の力強い天使が、「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者はだれか」と大声で告げるのを見ました(2節)。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開くことのできる者、見ることのできる者は、だれもいなかった、と言うのです。そこでこう書かれています。「この巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見当たらなかったので、わたしは激しく泣いていた」(4節)。

 これは一見奇妙な描写に見えます。思い描いて見ると、まるで中身を見せてもらえないで駄々をこねて泣きわめいている子供みたいです。しかし、よくよく考えますと、ヨハネの涙や嘆きには思い当たるところがあると気付きます。私たちもまた、苦しみや悲しみをもたらす現実に直面して、泣いたり叫んだりするわけですが、もっとも悲しいのは、そのような試練の中にあってしばしば神の御心が分からないということなのでしょう。神が何を為そうとしているのか分からない。最終的にどこに向かわせようとしているのか分からない。神のご計画が分からない。そのような時に、私たちは泣かざるを得ないのです。

 しかも、ヨハネはここで、この封印を解くにふさわしい者がこの世界の中にいないことを突きつけられるのです。人間の中に誰一人としてふさわしい人がいない。それは当然、人間には罪があるからということでしょう。だから誰もふさわしくはない。それを突きつけられたら泣くしかないでしょう。どんなに苦しいことがあっても、悲しいことが起こっても、その理由も目的も結局は分からないとなれば、泣くしかないのです。

 しかし、そこで「泣くな」という声をヨハネは聞いたのでした。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる」(5節)。メシアが既に勝利を得られた。だから泣かなくていい。そのメシアが巻物を開いてくださるのです。

屠られた小羊 そこから今日の箇所に入ります。ヨハネがそこに見たのは、「屠られたような小羊」でした。確かに小羊は立っている。復活して立っているのです。しかし、そこには屠られた傷跡がありました。それは十字架の傷跡を持つキリストに他なりません。イエス様は傷を持つ御方であり続けてくださる。私たちのために十字架にかかられたキリストであり続けてくださる。その事実をヨハネは目にするのです。

 もちろん、ヨハネは屠られた小羊こそ勝利を取られた御方であることを、その時初めて知ったわけではありません。それは福音の言葉として既に地上の教会において聴いていたはずですし、ヨハネ自身もこれまで多くの人々に宣べ伝えてきたはずです。神の御心を明らかにし、それを実現するにふさわしい方。最終的な審判者であり、救い主である御方をヨハネは知っていたはずなのです。

 そうです。私たちも知っている。私たちも福音の言葉を通して聞いてきました。しかし、現実の苦しみに満ちた世界に目を向けている間に、いつの間にかキリストが誰であるかを忘れ、御心の巻物は永遠に封印されているかのように感じて、御心が分からないと言っては泣いているというのも事実です。だからこそ、私たちは繰り返し主の日の礼拝において屠られた小羊、しかも復活して立っている小羊を仰がなくてはならないのでしょう。あのヨハネのように。

 小羊が玉座の御前に立っておられます。ヨハネはその御方に七つの角と七つの目があるのを見たのでした。七は完全を現す数字です。角は力です。その御方は傷を持つ小羊でありながら無力ではありません。七という数字に表される完全な力をお持ちです。その御力をもって裁きと救いを実現することがおできになる。そのような御方が立っておられる。そして、その御方の七つの目。計り知れない叡智をもって全地をくまなく見ておられるキリストの目です。それは全地に遣わされている神の七つの霊であると語られています。あえて「七つ」と書かれているのは、そのお働きが完全であるからです。

 天のキリストの眼差しは遠いところからの眼差しではないのです。この地上において生きて働かれる神の霊のおられるところに、キリストの目もまたあるのです。その眼差しからいかなる地上の現実も洩れることはありません。「全地に遣わされている」と書かれているとおりです。流刑の地パトモス島も、また、苦しみの中にある教会も例外ではありません。現在のこの散らされている教会の現実もまたそうです。近くで見ていてくださる御方がいるのです。七つの目を持つ小羊が王座の前に立っておられるのです。

 ヨハネは、その小羊なる方が、確かに巻物を受け取るのを見ました。未来は私たちの知らない運命の手の中にあるのではなくて、私たちのために屠られて、そして復活して立っておられる小羊の手の中にあるということです。すると四つの生き物と二十四人の長老は、小羊の前にひれ伏して、小羊を誉めたたえます。巻物を手にしておられる方が、どれほど素晴らしい御方かを知っているからです。まさに手にするに最もふさわしい御方が手にしていてくださることを、彼らは知っているのです。

天に連なる私たちの礼拝 一方、私たちは残念ながら、まだ十分に巻物を手にしておられる御方のことを知りません。しかし、有り難いことに、四つの生き物と二十四人の長老が、香のいっぱい入った金の鉢を小羊のところに持って行ってくれていると言うのです。その香とは何か。「この香は聖なる者たちの祈りである」(8節)と書かれています。聖なる者たちとは、後で見ますが、それは私たちのことなのです。

 私たちはまだ、神の御計画が書かれた巻物を手にしておられる御方を十分に知らないのです。ですから、この地上において恐れたり、嘆いたりしているのでしょう。恐れながら、嘆きながら、この地上の礼拝と生活において祈ります。讃美を歌って祈るにしても、本当の信頼と喜びをもって小羊に栄光を帰するところからはほど遠い。そんな祈りであり礼拝です。しかし、それを天の長老が小羊のところに携えていってくれるのです。そうやって、私たちもまた礼拝に参加させていただいているのです。私たちが今日、それぞれの場所で捧げるまことに不信仰な粗末な礼拝も、このようにして天の礼拝に連なっているのです。

 そして、四つの生き物と長老たちは、新しい歌をうたいます。「あなたは、巻物を受け取り、その封印を開くのにふさわしい方です。あなたは、屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、御自分の血で、神のために人々を贖われ、 彼らをわたしたちの神に仕える王、また、祭司となさったからです。彼らは地上を統治します」(9‐10節)。

 屠られた小羊のしてくださったことが、ここに高らかに歌われています。ここに歌われているのは、まさに私たちに直接関係していることです。私たちはもともと神の民ではなかったのです。異邦人だったのです。しかし、恵みからずっとずっと遠くにいた私たちをも、小羊は御自分の血で、神のために贖ってくださいました。神のものとし、「神に仕える王、また祭司」としてくださったのです。

 私たちは「神に仕える王」としていただきました。当時、ローマ帝国においては、それぞれの地域に支配者が立てられていました。その上に皇帝が支配していたのです。ですから皇帝は「地上の王たちの支配者」と呼ばれていました。しかし、聖書はそれに否を唱えるのです。「地上の王たちの支配者」は皇帝ではない。真の支配者はキリストであると。ですから1章5節ではイエス・キリストが「地上の王たちの支配者」と呼ばれているのです。そのキリストが支配する王たちとは誰か。それは私たちだというのです。私たちは最終的に、キリスト以外の何ものにも支配されることはないのです。キリストに支配される王ですから。

 そしてまた、キリストは私たちを「祭司」としてくださいました。祭司は神と人との間に立つのです。もちろん、真に神と人との間に立って執り成してくださるのはまことの大祭司なるキリストだけです。しかし、その大祭司のもとにある祭司として、私たちもまた務めを果たすのです。

 そのように小羊は、私たちを神に仕える王としてくださいました。祭司としてくださいました。そのために小羊自らが血を流して、私たちを贖ってくださいました。それは本当はこの上ない喜びであるはずです。しかし、私たちはなかなかそれが分からない。ですので、先に天の長老たちが喜びをもって歌っていてくださるのです。

 いやそれだけではありません。そこに万の数万倍、千の数千倍の天使たちが現れて小羊を誉めたたえます。また、天と地と地の下と海にいるすべての被造物が誉めたたえます。屠られた小羊は、天使たちのために屠られたのではなくて、私たちのためでしょう。なのに、まず天使たちが屠られた小羊をふさわしく讃えていてくれているのです。全被造物が先に誉めたたえていてくれているのです。「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です。」「玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように」と。

 そして、この讃美の歌声の最後に、四つの生き物が「アーメン」と叫ぶのです。「そのとおり!」と叫ぶのです。この幻が書き記されて私たちに伝えられているのは、私たちも遅ればせながら、その「アーメン」を唱和できるようになるためであるに違いありません。私たちもまた、地上において「そのとおり。アーメン」と信仰を言い表して天の礼拝に連なる地上の礼拝をおささげするのです。
(祈り)

2020年5月17日日曜日

「神の愛から引き離されることはない」

ローマの信徒への手紙8:28‐39

神はわたしの味方である
 「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(31節)。そうパウロは言います。

 もし神がわたしたちの味方であるならば――。これは事実に反する仮定ではありません。言わんとしていることは「神がわたしたちの味方なのだから」ということです。そして、この手紙において明らかにされているように、その根拠はキリストにあります。神が、この歴史においてただ一度、決定的に、ご自身の愛を現わしてくださった出来事に、その根拠を見ているのです。それは続けて32節に書かれているように、神が「わたしたちすべてのために、御子をさえ惜しまず死に渡された」という出来事です。

 パウロがこの表現を用いる背景には、旧約聖書における一つの物語があります。それは、アブラハムが自分の子であるイサクを神に捧げたという物語です(創世記22章)。アブラハムは神の言葉に従い、モリヤの山にイサクを連れて行き、祭壇を築き、焼き尽くす献げ物として捧げるために息子を屠ろうとしました。まさにその時、神はアブラハムを止められ、こう言われたのです。「あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」歴代誌の記述によれば、このモリヤの山はエルサレムの神殿のあるシオンの山を指します(歴代下3:1)。その同じエルサレムにおいて、今度は神御自身が独り子を惜しまず、私たちのために死に渡されたのでした。その事実のゆえに、ただその一事のゆえに、パウロは「神がわたしたちの味方なのだから」と言うのです。

 根拠はキリストである。それ以外ではない。――それはどれほど強調しても強調し過ぎることはありません。というのも、私たちはしばしばキリストから目を逸らし、他のところに根拠を求めようとするからです。私の願いが叶ったか、叶わないか。私の苦しみが解決されたか、されないか。癒されたか、癒されないか。そこにしか目が向かなければ、自分の願い通りになれば「神様は私の味方だ」と言い、願い通りにならなければ「神様は私に敵対しているのだ」と言うようになるのでしょう。しかし、パウロが目を向けているのは、そのような目の前のことではないのです。

 「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」パウロは過去におけるキリストの出来事だけに目を向けているのではありません。同じように彼が目を向けているのは未来における救いの完成です。

 「すべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」それは私たちが神の国を受け継ぎ、神の栄光を受け、永遠の命に輝くその時を思いつつ語っている言葉でしょう。最終的な救いを得ずしては何も得ないのと同じです。しかし、神の栄光にあずかるならば、それはすべてを得ることでもあるのです。独り子を与えてくださった神から、すべてを与えられること以外、何を期待することができるでしょう。そうパウロは言っているのです。

 もちろんパウロは、終わりの日が審判の時でもあることを知らないわけではありません。この手紙の2章には次のように書かれています。「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」(2:5)神は神であられるゆえに、正しく世を裁かれます。神は義を貫かれるのです。

 神の正しさの基準は神の律法です。それはただユダヤ人だけに与えられているのではありません。異邦人もこの裁きを免れないのです。なぜなら、異邦人はその心に神の正しい要求が書き記されているからです。そして、パウロは言います。「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう」(2:16)。ただ人の目に明らかなことだけではありません。隠れた事柄が問われるのです。

 このような審判において、私たちを訴える声が上がるでしょう。私たちの罪を指摘されるならば、恐らく、どれもこれも真実だ、と認めざるを得ない訴えであるに違いありません。私たちは抗弁できません。パウロはここで、最後の審判におけるサタンの告発を考えているのかも知れません。それがサタンであれ、誰であれ、隠れた事柄を裁かれる神の前で訴えられたら、私たちは抗弁のしようがありません。

 パウロは、このような最終的な神の審判を軽く考えはしません。しかし、それでもなお彼は言うのです。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです」(33節)。パウロは、再びキリストを仰いで語ります。神が私たちのために与えてくださった独り子を仰ぐのです。その方において、私たちの罪の贖いは成し遂げられました。それゆえ、他ならぬ神が私たちを義としてくださるのです。私たちを最終的に罪に定めることのできる神が、私たちを義としてくださるのです。

 彼は続けます。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」(34節)。そこには復活され、天に挙げられたキリストがおられます。神の権威の座に、キリストはおられます。その御方は、私たちを愛し、ご自身を捨てられ、私たちのために十字架にかかられ、死の苦しみを味わわれた方です。弟子たちが見たように、復活されたキリストの手には、その十字架のしるし、釘の跡がありました。復活の栄光の姿でありますのに、その手とわき腹には、十字架における死の苦しみの跡がありました。キリストが執り成してくださるとは、そのご自身の成し遂げられた御業をもって、私たちのために執り成してくださると言うことです。

何ものも神の愛から引き離せない
 それゆえ、パウロの最終的な確信は、何ものもこの愛から私たちを引き離すことはできない、ということでした。彼は言います。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」(35節)。

 艱難、苦しみ、迫害…これらは人間が人間に対して為し得る事柄です。人間は苦しみを与えることができるでしょう。迫害することもできるでしょう。剣をもって殺すことさえできるでしょう。これらは、恐らくパウロ自身の経験から出た言葉であろうと思われます。彼は、最終的には命を脅かす迫害者の剣すら、受けなくてはならないかも知れないと考えているのです。それはパウロにとって、不思議なことではありませんでした。なぜなら、既に聖書に記されているからです。「『わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです」(36節)。

 彼がここに引用しているのは、詩編44編23節です。そこに記されているのは、信仰者の苦しみです。いや、恐らく、苦しむ信仰者の姿を聖書に求めるならば、その例は枚挙にいとまがないでしょう。もちろん、私たちはパウロと同じような迫害や艱難を経験しているわけではありません。しかし、どのようなことにせよ、キリストを信じて神の子とされることは、決して苦しみを免れることを意味しないことを、私たちもやはり聖書の言葉と実生活から、同じように知らされているのでしょう。

 しかし、パウロはそこでなお「これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」(37節)と宣言するのです。以前の口語訳では「勝ち得て余りがある」と訳されていました。苦難が過ぎ去ったからではありません。苦難は終わりの日まで続くでしょう。しかし、その苦難のただ中で、「勝ち得て余りあり!」と叫んでいるのです。なぜでしょうか。彼はただ一つ、揺るぎ無い事実を知っているからです。それは、だれもキリストの愛から私たちを引き離すことはできない、ということです。いかなることがあろうとも、それらは私たちを、キリストの愛の届かないところに連れ去ることはできないのです。そして、キリストの愛から引き離されないならば、その人は絶対に敗北者にはならないのです。

 そして、パウロが視野に入れているのは、ただ人間が人間に対して為し得ることだけではありません。人間を超えた力でさえ、恐れるに足りないことを示します。「天使も、支配するものも」というのは明らかに超自然的・霊的な被造物を指しています。また、その後の「現在のものも、未来のものも」は時間的な広がり、「高い所にいるものも、低い所にいるものも」は空間的な広がりを示しています。何時いかなる所のものも、ということです。そして、その先頭の「死」と「生」とが置かれています。これは要するに「死のうが生きようが、神の愛から離されることはない」ということです。これこそまさに究極の勝利宣言と言うことができるでしょう。勝ち得て余りあり!

 さて、本日の聖書箇所は28節の大変よく知られた御言葉から読み始められました。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)。「万事」ですから、そこには喜ばしい事ばかりが含まれているのではありません。そこには災いとしか思えないような事、不運としか思えないような事も含まれるのでしょう。新型コロナウイルスのパンデミックによって今、私たちが経験しているすべての事もまた「万事」に含まれるのでしょう。その「万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」と言うのです。どうしてそんなことが言えるのでしょうか。

 それは「万事」だけを見ていては言えないでしょう。これはいわゆる「ポジティブな考え方」ではありません。これは信仰の言葉なのです。すなわち、神との関わりにおいて初めて口にできる言葉なのです。ですから、昔の人はそれを明確にしなくてはならないと思ったのでしょう。あえて「神」という言葉を加えている写本があるのです。それゆえに、例えば「万事が益となるように神が共に働かせてくださる(God causes all things to work together for good)」という訳もあるのです。

 その背後には、既に見てきたように、この後にパウロが溢れ出る感謝と喜びをもって語る彼の確信があるのです。「神の愛から離されることはない」という確信です。死のうが生きようが、神の愛から離されることはない。ならばその神が、「万事が益となるように共に働く」ようにしてくださるのです。私たちはそのような世界に生きているのです。今も、そして永遠に。
(祈り)

2020年5月10日日曜日

「新しい心、新しい霊」

エゼキエル書 36:24‐28

恵みの上にある生活
 「わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる」(24節)。そう語られていました。「すべての地から集め」と言われているのは、すべての地に散らされているからです。「お前たちの土地に導き入れる」と言われているのは、実際には自分の土地から離れたところに散らされているからです。

 ここで「お前たちの土地」と言われていますが、その土地はもともと彼らの土地ではありませんでした。彼らはもともとエジプトの奴隷だったのです。その奴隷であった民が神によって解放され、エジプトから導き出され、荒れ野を導かれ、やがて神が約束されたその土地に導き入れられたのです。

 それは聖書において「乳と蜜の流れる地」と呼ばれる豊かな土地でした。そこに導き入れられたのは、彼らがそれを受けるに相応しかったからではありませんでした。彼らがエジプトから導き出されたのも、約束の地を与えられたのも、すべては神の恵みによったのです。その土地の上に営まれる生活は、まさに神の恵みの上に成り立っている生活でした。

 そのように、神の恵みによって与えられた生活であるならば、大切なことは神の恵みに応えて生きることなのでしょう。ですから、約束の地に入る直前に、モーセはこう言っているのです。

 「あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」(申命記6:10‐13)。

 恵みに応えて生きるとはこういうことでしょう。今の生活を恵みによって与えてくださった御方を決して忘れないこと。その御方のみを畏れ、その御方に仕えること。「仕える」とは「礼拝する」という意味です。主を尊び、畏れ敬い、主を礼拝して生きること。それが恵みに応えて生きるということです。

恵みを踏みにじった人々 しかし、今引用したようなモーセの言葉が、こうして書き残されているのはなぜなのか。――それはいつの時代においても、主を忘れるということが起こり得るからでしょう。人がどんなに大きな恵みを受けても、その御方を忘れるということは起こり得るのです。どんなに大きな恵みを受けても、与えてくださった方を尊びもせず、感謝もせず、礼拝することもなくなる。そのようなことは起こり得ることです。そして、事実そのようなことが繰り返しイスラエルにおいて起こったのです。

 エゼキエル書に戻ります。今日お読みした箇所の少し前にはこんなことが書かれています。「主の言葉がわたしに臨んだ。『人の子よ、イスラエルの家は自分の土地に住んでいたとき、それを自分の歩みと行いによって汚した』」(16‐17節)。彼らは恵みの上に生活していたのに、その恵みを象徴する土地を「汚した」というのです。言い換えるなら、神の恵みを踏みにじったということです。何によって。「自分の歩みと行い」によってです。そうです、人は恵みの上に生活させていただいていても、自分の歩みによってその恵みを踏みにじって汚すようなことをするのです。

 その後に、「自分の歩みと行いによって汚した」ということが、別の表現で言い換えられています。「彼らが地の上に血を流し、偶像によってそれを汚したからである」(18節)。「血を流す」とは他の人間を傷つけること、さらには殺すことです。「偶像によって」とは、神ならぬものを神とすることによって、ということです。他の人間を人間として大切にしないこと、神を神として大切にしないこと。人を人とせず神を神としないこと。恵みを与えてくださった神を忘れたそのような生活によって、そのような歩みによって、人は神の恵みを踏みにじり汚すのです。それがイスラエルの歴史において起こったことでした。

 その結果どうなったのでしょう。「わたしは彼らを国々の中に散らし、諸国に追いやり、その歩みと行いに応じて裁いた」(19節)と書かれています。彼らは恵みによって与えられた土地を汚したので、その土地を失うことになりました。恵みを踏みにじるなら、恵みを失うことになるのです。恵みの上に成り立っていた生活を失うことになるのです。

神の赦しにより再び恵みの中へ
 しかし、そのような人々に対して、主は今日の聖書箇所でこう語っておられるのです。「わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる」。彼らは確かに土地を失いました。しかし、土地そのものが消えて無くなったわけではありません。しかも、それは依然として「お前たちの土地」と呼ばれているのです。

 彼らは恵みの上に成り立っていたかつての生活を失いました。しかし、恵みそのものが無くなってしまったのではありません。神は彼らの土地に再び導き入れることがおできになる。赦しの神は、罪を赦して恵みの中に再び導き入れることがおできになるのです。神は人が恵みを失ったままでいることを望んではおられないのです。人を恵みの中に導き入れ、人を恵みの中に回復することを望んでおられるのです。聖書が私たちに伝えているのはそのような神様です。「わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる」と言われる神なのです。

 そのようにイスラエルは神に赦され、再び自分たちの土地に入れられます。もちろん、それは必ずしも元の生活が直ちに回復することを意味しません。この36章には繰り返し「廃墟」という言葉が使われています。そうです、彼らが再び自分たちの土地に導き入れられるなら、そこで廃墟を目にすることになるのです。廃墟とは何か。罪の結果です。人は罪の結果を見ることになる。罪は赦されても廃墟は残るのです。

 そのように、イスラエルは自分たちの土地に導き入れられても、そこで廃墟を見ることになるのです。しかし、そこではまた逆のことも言えるのでしょう。イスラエルはそこで廃墟を見ていたとしても、すでに自分たちの土地の上にいるのです。神によって罪を赦していただいたのなら、たとえ廃墟のような現実を目にしていたとしても、既に恵みの中にあるということもまた事実なのです。だから既に恵みの中にあることを信じて生きたらよいのです。そして、恵みの中にあるならば、神が廃墟を建て直してくださると信じたらよいのです。神が恵みの上に営まれる生活を回復してくださる、と。

わたしの霊をお前たちの中に置く
 そのように、神が廃墟を建て直してくださいます。36章の最後にはそのような神の約束が書かれているのです。

 しかし、今日の聖書箇所は、それ以上に大事なことがあるのだということを私たちに伝えています。神が廃墟を建て直してくださるということは、ただ元通りにしてくださることを意味しないのです。ただ失われたかつての生活が戻ってくるということを意味しません。神が望んでおられるのは廃墟が変わることではなくて、廃墟をもたらした人間が変わることなのです。恵みを踏みにじって生きてきた人間そのものが変わることなのです。神は廃墟を建て直すこと以上に、人間が変わることに関心を持っておられるのです。

 それゆえに主は言われるのです。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」(25‐27節)。

 これが神の望んでおられることであり、行おうとしていたことなのです。ならばエゼキエルの言葉を聞く人々もまた、廃墟が建て直されること以上に、このことをこそ願い求めなくてはならないのでしょう。そのようにして、彼らは約束の地の上で、神の民として再び生きることができるのです。「お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる」(28節)と書かれているとおりです。

聖霊降臨祭に向けて
 「早くコロナ禍が収束して、みんなが教会に集まれるようになりますように」。――現在、世界中の教会で口にされている祈りだと思います。そして、廃墟を建て直したもう神様は、再び礼拝堂に集まることができるようにしてくださるに違いありません。

 しかし、だからこそ、もっと大事なことがあるのだということをエゼキエル書から私たちは聞かなくてはならないのでしょう。神様にとって、礼拝堂に人が集まって聖餐を行えるようになること以上に重要なことは、恵みを踏みにじって生きてきた私たちそのものが変えられることであるはずなのです。そこにこそ真の回復はあると言えるのでしょう。私たちが何も変わらず以前のままで、ただ再び集まれるようになったとしても、それは聖書が語る回復とは何の関係もありません。

 「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く」。また、「わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」と、神様はそう言ってくださいました。そして、その神の御心は、長い時を経て、あのイエスの弟子たちの内にもはっきりと現された事実を、私たちは知らされているのです。キリストの復活から五〇日目。五旬祭の日の出来事でした。その日を記念して、私たちは毎年聖霊降臨祭を祝います。その日が今年も近づいてきました。

 散らされた姿で、私たちはレントの時を過ごしてきました。散らされた姿で復活祭を迎えました。今、聖霊降臨祭に向かおうとしている時、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く」と主は言われます。そのことが実現し、神によって新たにされた者として、神によって集められた者として、再び礼拝堂において礼拝を捧げられることを私たちは求めたいと思うのです。そして、教会が本当の意味で回復された姿を見ることを共に祈り求めたいと思うのです。
(祈り)

2020年5月3日日曜日

「キリストが教会の扉をたたかれる時」

ヨハネの黙示録3:14‐22

キリストを閉め出してしまった教会
 教会がキリストを外に閉め出してしまって、もはや教会にはキリストがおられない。そんなことがあり得るのでしょうか。教会がキリストを外に閉め出してしまって、もはや聖餐の場にキリストはおられない。そんなことがあり得るのでしょうか。――今日お読みした聖書箇所は、確かにそのようことがあり得ることを明瞭に示しています。

 今日は第2朗読においてヨハネの黙示録が読まれました。「黙示録」と呼ばれていますが、内容的には手紙です。差し出し人と宛先は1章に書かれています。「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ」(1:4)。時は紀元1世紀も終わりの頃。皇帝ドミティアヌスの治世。帝国規模に広がった迫害の中で苦しんでいた教会に宛てられた手紙です。それは集まって共に礼拝する中で朗読されるために書かれた手紙です。

 差し出し人であるヨハネはパトモスと呼ばれる島にいました(1:9)。その島は流刑地の一つでした。ヨハネは囚われの身としてそこにいたのです。そのヨハネがある主の日に声を聞きます。声の主は復活されたキリストでした。主はヨハネに言われました。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ」(1:11)。そうしますと、差し出し人はヨハネですが、実際にはキリストから七つの教会への手紙と言うこともできるでしょう。

 そのような手紙の中で次のように語られていました。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(20節)。ここで語っておられるのはキリストです。ここでキリストがたたいておられるのは、まだキリストを信じていない未信者の心ではありません。繰り返しますが、これは教会に宛てられた手紙なのです。

 この言葉は、14節に見ますように、「ラオディキアにある教会」の天使に書き送られた言葉です。つまり、その教会に対して語られた言葉なのです。外に立っておられる主がたたいておられるのは、教会の扉であり、キリスト者の扉なのです!教会がキリストを外に閉め出してしまって、もはや教会にはキリストがおられない。そんなことがあり得るのでしょうか。――そうです、あり得ることなのです。

あなたがたは熱くも冷たくもない では、キリストを閉め出してしまったラオディキアの教会とはどのような状態にあったのでしょうか。ラオディキアのキリスト者はどのような人々だったのでしょうか。主は15節以下で次のように語っておられます。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(15‐16節)。

 彼らは冷たくはなかったのです。冷たくはないというのは、キリストを否み、信仰を捨てた人々ではない、ということです。彼らは棄教したわけではないのです。教会の迫害者の側にいるわけでもありません。彼らはあくまでもキリスト者です。ラオディキアの教会は、あくまでも教会なのです。

 しかし、彼らは冷たくはないのですが、熱くもないのです。これは単に熱心でない、ということではありません。熱心に伝道し、熱心に奉仕をしていない、ということでもありません。むしろ、彼らはもしかしたら、いわゆる熱心なキリスト者であり、熱心な教会であったかもしれないのです。

 ここで「冷たくも熱くもない」と言われていることの内容は、17節に次のように説明されています。「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(17節)。

 ラオディキアは商業都市として栄えた町であり、いわば当時の世界の商業的中心地でありました。そこにある教会は、貧しいエルサレムの教会と比べて、豊かな人々が比較的多かったに違いありません。サポートする側とされる側ということを言うならば、明らかにサポートする側の教会だったと思います。「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」という言葉は傲慢に聞こえますが、しかし、実際にはそのような豊かな教会が、貧しい教会を支えていたのです。熱心に支えていたのです。そして、そのような教会は、全教会の中においても重要な位置を持っていたのでしょう。

 いや、単に経済的な豊かさだけではありません。ラオディキアの教会は、霊的な意味においても豊かな教会、指導的な立場にある教会を自認していたのではないかと思われます。彼らは「わたしは見えている」と思っていたのです。見えている人々は、見えていない人々を指導せねばならないと思うのでしょう。手引きしなくてはならないと思う。「あなたの目からおが屑を取らせてください」(マタイ7:4)と言って、奉仕することが自分たちの努めであると思うのです。

 しかし、主はラオディキアの教会に言われます。「 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」そして、イエス様はこう言って勧めるのです。「裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身につける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい」(18節)と。

 「わたしから買うがよい」とイエス様が言われるということは、要するに、彼らはそれらをイエス様にこれまで求めてはいなかった、ということを意味するのでしょう。イエス様から得ることなくして、豊かになっていたのです。豊かなつもりでいたのです。イエス様に求めることなくとも、目の見える者として振る舞えたのです。イエス様によって目に塗る薬を与えられずとも、目の見える者のように他者を裁くことさえできたのです。いつのまにか、自分の貧しさが分からなくなり、熱心にイエス様に求めることもなくなってしまった。イエス様に祈り求めることなくして、他者に何かを与え得るかのように、他者に何かを為し得るかのように思っていたのです。そのようにして、いつの間にか、イエス様を教会から閉め出してしまっていたのです。自分の信仰生活からも閉め出してしまっていたのです。

 「熱くも冷たくもなく、なまぬるい」とはこういうことです。それはいわゆる「なまぬるいクリスチャン」のことではないのです。見たところ熱心なキリスト者、熱心な教会かもしれないのです。「なまぬるいので、口から吐き出そう」――それは要するに傲慢なキリスト者のことなのです。自分の貧しさを知らない、目の見えないことを知らない、傲慢なキリスト者、傲慢な教会のことなのです。

熱心に努めよ。悔い改めよ
 しかし、ありがたいことに、キリストは教会をそのような状態に放ってはおかれません。教会が、キリスト者が、イエス様を閉め出したままの傲慢な状態、それゆえに惨めな状態であり続けることを、主は良しとはされないのです。主は愛する者を皆、「叱ったり、鍛えたりする」と言われるのです。

 私たちは実際、しばしば主の御手によって、自分の傲慢さ、そして自分の惨めさを思い知らされるのです。「なぜ教会にこんなことが起こるのか。なぜ私の人生にこんなことが起こるのか」と思えるような事ごとを通して、私たちは自分自身を思い知らされるのです。そこで、主は言われるのです。「だから、熱心に努めよ。悔い改めよ」と。

 主の懲らしめの時、それは言い換えるならば、主が教会の扉をたたかれる時です。また、キリスト者の人生の扉をたたかれる時なのです。主は扉をたたき続けられます。諦めることなくたたき続けられます。私たちは主のノックの音、そして呼びかける声を聞くのです。そして、主の声を聞いて自ら扉を開けて主を迎える。それこそが、ここで語られている悔い改めに他なりません。扉を大きく開いて、主をお迎えするのです。

 そうする時に、主は私たちと食事を共にしてくださるのです。ここに語られているのは、特にパン割き、すなわち聖餐のことであろうと思われます。主が共に食事をしてくださってこそ、聖餐が本当の意味で聖餐となるのです。聖餐が聖餐となるのは、扉を開けることによってなのです。すなわち、悔い改めによってなのです。

 3月1日の主の日、私たちは聖餐式の執行を中止しました。新型コロナウイルスの感染リスクが高いとの判断に基づく決断でした。恐らく戦時中を除いて教会としては初めての聖餐の執行中止であったと思います。そして、その主日以降、私たちは聖餐式を行うことができていません。イースターにさえ、私たちは聖餐を行うことができませんでした。それはある意味では主が聖餐を行うことをお許しにならなかったからであると言えるでしょう。

 私たちはそのような事態の中で、「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ」と呼びかけられているのです。そのような私たちはいったいいつ共に聖餐にあずかることができるのでしょうか。主は言われるのです。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(20節)。

 私たちが再び集まって聖餐が行えるようになるのは、感染拡大が収束に向かうことによってではないのです。そうではなく、主がたたく音を私たちがしっかりと聞いて、悔い改めた者として扉を開けることによって、主が私たちと食事を共にしてくださるのです。私たちは、そのように真の聖餐を行うことができる時に向けて、私たち自身を備えたいと思うのです。

(祈り)

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