2021年4月25日日曜日

「神からの賜物と務めと働き」

コリントの信徒への手紙一 12:3-13

特別な力が与えられたら?
 福音書を読みますと、そこにはイエス様のなさった悪霊の追放や病気の癒しなど、神の力による数々の奇跡が描かれています。使徒言行録を読みますと、イエス様だけでなく、使徒たちによっても数々の奇跡がなされている場面に出会います。そして、今日お読みしましたコリントの信徒への手紙にも、このようなことが書かれていました。「ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています」(8‐10節)。

 「知恵の言葉」「知識の言葉」「奇跡を行う力」など、ここに書かれているのが具体的にどのようなものであるか明確に説明されているわけではありません。しかhし、ともかく超自然的な能力について書かれていることはわかります。コリントの教会には、このような超自然的な能力が与えられている人が少なからずいたようです。

 もちろん信仰生活とは神と共に生きることですから、信仰生活において人間の理解を超える神の力の現れがあっても、それ自体は不思議なことではありません。私たちもまた気づいていないだけで、本当は不思議な神の力の現れによって守られ、支えられ、助けられて今ここにいるとも言えるのでしょう。しかし、そのような超自然的な神の力が顕著に日常的に現れていたのが、この手紙が宛てられているコリントの教会だったのです。

 さて、そのような神の力の現れが与えられたらどうなるかを考えてみましょう。先ほどのリストの中で一番わかりやすいのは「病気をいやす力」(9節)だと思います。例えばそのような力について考えてみましょう。ある日、「病気をいやす力」が与えられました。その人が手を置いて祈ると、病気の人が次々にいやされていきます。その人はいったい何を考えるでしょうか。

 その人はこう考えるかもしれません。「この特別な力が与えられたのは、これをもって神と人とに仕えるためだ。わたしには特別な務めが与えられているのだ。」そのように「務め」が与えられたと理解して、一生懸命に仕える。その結果として、病を負って苦しんでいる人たちの間において具体的な働きが進められていくでしょう。まさにその人を通して神の働きが現れることになるでしょう。

 しかし、それとは異なったシナリオも考えられます。その人は他の人にできないことができることによって、他の人を自分より下に見るようになりました。他の人は自分に従うべきだと考えるようになりました。自分の特別な力を利用して、他の人々を支配するようになりました。こういうこともあり得ます。人は自分に与えられた能力をもって仕えることもできるし支配することもできるのです。

 さらにもう一つのことを考えてみましょう。そのような特別な力を与えられた人が二人いたとします。一人には「病気をいやす力」が与えられた。もう一人には「預言する力」が与えられたとします。さてこの二人は何を考えるでしょう。

 彼らは考えました。「自分に与えられていない力がもう一人には与えられている。また自分に与えられている力がもう一人には与えられていない。それはなぜか。それぞれ務めが異なるからだ。仕える仕方が違うからだ。それらが異なるのは互いに補い合うためなのだ」と。そして、共に働くようになりました。こうして彼ら二人を通して、苦しみを負っている人々の間で、神の働きが進められていきました。

 しかし、この場合も違うシナリオが考えられます。彼らは互いに与えられている能力を比較し合うようになりました。いったいどちらが優れているのか、と。こうして互いは対立するようになりました。周りの人々もこの対立に加わります。いったいどちらが優れているのか。どちらに付くべきか。こうして対立する二つのグループができあがりました。このようなこともまたあり得ることでしょう。人は自分に与えられた能力をもって仕える者として協力することもできるし、支配しようとする者として対立することもできるのです。

 さて、ここまでの話で分かりますように、このようなことは何も超自然的な能力に限ったことではありません。人は与えられている力をもって仕えることもできるし支配することもできる。協力することもできるし対立することもできるのです。

いろいろありますが
 そこで実際、コリントの教会はどうであったのか。どうもこの手紙を読む限り、第一のシナリオではなく、第二のシナリオに従って事は進んでいたようです。仕えるのではなく支配する方向に、協力し補い合うのではなく、対立し争い合う方向に事は進んでいた。それゆえにパウロは次のように書いているのです。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」(4‐6節)。

 ここで繰り返されている言葉があります。「いろいろありますが」という言葉です。そうです「いろいろある」のです。この世では、ある能力や資質が「あるかないか」が重要視されます。「あるかないか」で自分と誰かとの比較が起こります。しかし、聖書は「あるかないか」ではなくて「いろいろある」と言うのです。あの人に与えられているものが自分にないとするならば、自分には別なものが与えられているのです。「いろいろある」のですから。そうです。与えられているものが異なるだけの話なのです。

 今、「与えられているもの」と表現しました。今日の聖書の言葉を用いるならば「賜物(カリスマ)」です。「賜物」というのは「恵み(カリス)」という言葉から派生しているのです。「恵み」というのは、要するに自分の努力によって獲得したものではない、ということです。あるいは、自分の行いに対する報酬ではない、ということです。純粋に恵みとして「与えられたもの」。それが「賜物」です。

 ならばそれはいかなる意味においても他者に対して誇るべきものではありません。それが恵みとして与えられているならば、それはあくまでも「仕えるため」なのでしょう。これを聖書は「務めにはいろいろありますが」と表現します。この「務め」はもともと例えば食卓で給仕をすることなどに用いる言葉であり、「奉仕」とも訳されます。ここに書かれているように「賜物」がいろいろあるのは、「務め」もいろいろあるからです。いろいろな仕え方があるからなのです。ならば大切なことは自分の仕え方を見いだすことなのでしょう。そのためには、自分に与えられている賜物について高ぶってはならないし、与えられていない賜物について卑下してもならないのです。高ぶりも卑下も自分に与えられている務めを見失わせるからです。

 そして、そのようにいろいろな「務め」が与えられているのは、いろいろな「働き」がこの世の現実において現れるためなのです。その「働き」は「私たちの働き」でありながら同時に「神の働き」でもあります。「働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」(6節)と書かれているとおりです。この「すべての場合に」というのは「すべての人の中で」とも訳せる言葉です。この世にはありとあらゆる人がいます。またありとあらゆる場合があります。そこで神が働かれるとするならば、それこそ、その働きは「いろいろある」はずです。そのように神がいろいろな働きをなさるために、いろいろな形において仕える人が必要なのです。

 そのように「いろいろありますが」という言葉を繰り返しながら、もう一方でパウロはもう一つの言葉を繰り返します。それは「同じ」という言葉です。「同じ霊です」「同じ主です」「同じ神です」。「霊」「主」「神」という言葉に、聖霊・キリスト・父なる神の三位一体を見る人もいます。いずれにせよ、同じ神によることを言い換えているのです。

 私たちはいろいろな賜物を与えられている。いろいろな務めを与えられている。そのように私たちの側は「いろいろ」です。しかし、それはあくまでも《同じ神に》仕えるための「いろいろ」なのです。ならばそれは共に仕えるための「いろいろ」なのであり、互いに補い合うための「いろいろ」なのです。私たちは補い合うという意味において互いに仕え合いながら、同じ神に仕え、この世に仕える者とされているのです。それを今日の聖書箇所では「皆一つの体となるために洗礼を受け」(13節)と表現しています。体ならば大変分かりやすい。いろいろな各部分が補い合いながら共に仕えているのが体というものでしょう。そのような体となるために私たちは洗礼を受けたのです。そのような体、それが教会です。

 さて、今年の年度主題は、週報の中央に縦書きされているように「愛し合い、仕え合う教会」です。この一年間、このテーマに取り組みます。そこで改めて、「愛し合い、仕え合う教会」であるとは、いったいどういうことなのかを繰り返し考えることになるでしょう。それは少なくとも、単にお互いが親しくて仲の良い教会ということではなさそうです。

 ではどういうことなのか。今日の聖書箇所を読みますと、「愛し合い、仕え合う教会」であるために、少なくとも一つの大切なことが見えてきます。それは一人ひとりが《自分自身を生きている》ということです。他と比較して高ぶるでもなく、卑下するでもなく、手は手として、足は足として、自分自身を生きている。誰かに仕える者として、互いに補い合う者として、自分自身を生きている。それは自分の仕え方を知っているということであり、そして、何を補ってもらわなくてはならないかを知っているということでもあるのでしょう。だから喜んで他者を補い、仕え、そして、喜んで補ってもらう。そのような一人ひとりの在り方と互いの関係性。それが「愛し合い、仕え合う教会」であるためには不可欠であるように思います。
(祈り)

2021年4月18日日曜日

「神の言葉は真実です」

列王記上17:17-24

干ばつの予告
 今日は17章から始まる「エリヤ物語」の一部をお読みしました。その背景となっているのは紀元前9世紀、イスラエルの王アハブの時代です。アハブについては次のように書かれています。「オムリの子アハブは彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った」(16:30)。主に背いた王アハブ。いや、主に背いたのは王だけではありませんでした。イスラエルの多くの人々のまた主に背を向けていたのです。そのような、いわばイスラエルの霊的暗黒時代に、彗星のごとく現れたのが預言者エリヤという人物でした。17章は次のような言葉から始まります。「ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。『わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう』」(1節)。

 エリヤがアハブ王の前に立つまでのことは何一つ書かれていません。しかし、ある程度想像することはできます。彼は主に背を向けたイスラエルのあり様を憂い、イスラエルが主に立ち帰ることを祈り求めていたのでしょう。「わたしの仕えているイスラエルの神」とありますが、これは「わたしがその御前に立っているイスラエルの神」というのが直訳です。エリヤは常に生ける神の御前に立っていたのです。イスラエルの救いを求めて。そして、その祈りの答えは、何年も続く干ばつだったのです。「数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう」。エリヤはそれを良しとしたのです。それゆえに、その言葉をもってアハブの前に立ったのです。

 聖書はただ単に、人々が問題なく生活し、豊かで幸福であればそれで良いとは言いません。聖書が最も重く見ているのは神と人との関係なのです。逆に言うならば、たとえ災いと見えることがあったとしても、それ自体が人間にとって本質的な不幸なことではないのです。神に背いていること自体が本当の意味での不幸なのです。ですから、主に背いている国が主に立ち帰るためならば、主の答えがたとえ干ばつであったとしてもそれを良しとする。そんな人物が聖書にはこうして登場してくるのです。

ケリト川のほとりへ
 そのようにエリヤがアハブ王の前に立ったところからこの17章は始まります。普通に考えるならば、まさに戦いの火ぶたは切って落とされ、ここからエリヤの本格的な活動が始まるように思います。ところが不思議なことにそうなっていないのです。主はエリヤにこう命じたのでした。「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる」(4節)。主はケリトの川のほとりにエリヤを隠してしまわれた。いよいよ戦いが開始したと思われた時に、主はエリヤを表舞台から引っ込めてしまわれたのです。なぜでしょう。隠れたところにおいて、エリヤ自身がまず準備されねばなかったからです。

 まずエリヤ自身が準備されるため、彼が完全に主に寄り頼まざるを得ないところに、主に養っていただかなければ生き得ないところに追いやられたのでした。主はエリヤを養うために、よりによって烏を用いられました。烏は律法によれば汚れた鳥とされています。その汚れた鳥に養われるということは、屈辱以外の何ものでもありません。しかし、主は時として自尊心を打ち砕くような方法を用いられます。まさに「そこで」、エリヤは主の言葉が真実であることを経験することになるのです。

 「エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった」(5節)と書かれています。彼はそこにとどまり、主の言葉を待ちました。しかし、とどまって待つということは、時として最も難しいことでもあります。待たねばならない時、人は信仰が揺さぶられます。雨は降りません。エリヤはそこにとどまって、毎日水位の下がっていく川を目にしなくてはなりませんでした。事態は悪くなっていきます。しかし、エリヤは涸れつつある川を見ながら、「そこにとどまった」のです。そして、まさにその「川も涸れてしまった」ときに、「また主の言葉がエリヤに臨んだ」と書かれているのです。

シドンのやもめによって養われる
 さて、エリヤに臨んだ主の言葉はこうでした。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる」(9節)。この主の言葉はエリヤにとってさらなる試練を意味しました。「やもめ」は聖書において常に弱い立場にある者の代表です。干ばつによる飢饉が全地を襲っている時に、いかなる「やもめ」であっても苦境に立たされていることは想像できます。そのような人を、「身を粉にして助けなさい」と命じられたならまだ従いやすいと思います。しかし、主はそうは言われない。そのような苦境にある者に養われることを命じたのです。

 エリヤはサレプタに着くと、町の入り口で一人のやもめに出会います。これが主の語られた人であることをエリヤは悟りました。エリヤは言います。「器に少々水を持ってきて、わたしに飲ませてください」。そして、さらに「パンも一切れ、手に持ってきてください」と願います。すると彼女はこう答えました。「わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」(12節)。

 この言葉はエリヤの胸に深く突き刺さったと思います。エリヤの信仰は大きく揺さぶられたに違いありません。考えてみてください。先にも申しましたように、エリヤにとって、この干ばつは神の答えだったのです。これはイスラエルが神に立ち帰るためであると信じたのです。それゆえに、新約聖書では、「エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした」(ヤコブ5:17)という書き方までされているのです。

 しかし、その干ばつによって、実際に死に瀕しているやもめに出会うのです。信仰のゆえに自らが苦しみに遭うことは確かに信仰の試練であると言えるでしょう。しかし、自分の信仰のゆえに他者が苦しむ時、それはより大きな試練となるに違いありません。しかし、それでもなおエリヤはなおも主を信じるのです。主はこのやもめに命じて自分を養わせると言われた。それゆえに、エリヤは自分が主に信頼するだけでなく、このやもめにも信じることを求めるのです。エリヤは言います。「恐れてはならない。…まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持ってきなさい」。

 自分たちの食べるものすらわずかしかないのに、その彼らからパンを取り上げることはあまりにも理不尽ではないか。そう思わずにはいられないところですが、エリヤは主が養ってくださることを信じ、主の御言葉を告げるのです。「主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」。するとやもめは行って、エリヤの言葉どおりにしました。主の御言葉を信じたのです。そして、主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、主は彼らを養われたのでした。

主の言葉は真実です
 ところが話はここで終わりません。ここからが今日の朗読箇所に当たります。思わぬ不幸がその家を襲いました。彼女の息子が病気にかかり、死んでしまったのです。彼女はエリヤを責めて言いました。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか」(18節)。彼女は異教の地、シドンの人です。その彼女がエリヤを通して主なる神を知ったとき、その神の御前において、確かに彼女には思い起こされる罪があったのでしょう。子供が死んでしまった時、彼女はそれを神の裁きであると受け取ったのです。エリヤが来たためにもたらされた神の裁きである、と。

 エリヤは災いをもたらし罪を思い起こさせる者として詰られました。しかし、それこそまさに、エリヤがイスラエルとの関係において立たされていたところだったのです。自分が語った主の言葉のとおり、干ばつが続いている。人々は苦しんでいるのです。まさにエリヤはイスラエルに対して、災いをもたらし罪を思い起こさせる者となっているのです。

 しかし、そこでもなおエリヤは信仰にとどまります。エリヤは彼女の手から息子を受け取り、階上の部屋に行って寝台に寝かせました。彼は子供の上に三度身を重ねて主に願います。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」と。すると、主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになったと書かれています。しかし、ここで重要なことは奇跡そのものではありません。聖書は、このやもめの言葉を伝えています。彼女はこう言ったのです。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」と。

 彼女の言葉はエリヤにとっても大きな意味を持っていたに違いありません。この言葉こそエリヤにとって、再びアハブの前に立つための最終的な準備だったのです。彼女の子供と同じように、イスラエルの大地は雨を受けることなく死んだような状態になっています。そこにおいて人々は苦しんでいます。まさに自分の罪を思い起こさせられる出来事がそこで起こっているのです。しかし、それが最後の姿ではありません。そのことを経てなお先に起こるべきことがあるのです。これらすべては彼女と同じように、この言葉が人々の口に宿るためなのです。「主の言葉は真実です」と。

 こうしてエリヤは再びアハブの前に立つことになります。神によって準備された人として。この教会も、また私たちの個人の人生においても、信仰が揺さぶられるような過程を通ることがあるのでしょう。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにおいて、また教会も自由に集まることができない現実において、今まさに信仰が揺さぶられるような過程を通らされている人も少なくないのだろうと思います。しかし、その時こそまさに、主の御言葉は真実であることを知る時なのです。それはまた、私たちを通して誰かが主の真実を知り、「主の言葉は真実です」と言い表すようになるために他ならないのです。
 
(祈り)

2021年4月4日日曜日

「あの方は、墓の中にはおられない」

マタイによる福音書 28:1‐10

キリストの「おはよう」
 「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」(9節)と書かれています。実は、この「おはよう」は、以前の口語訳聖書では「平安あれ」と訳されていました。しかし、もとのギリシア語はごく普通のあいさつの言葉です。朝ならば、まさにごく普通の「おはよう」です。

 イエス様が現れて「おはよう」と言われたこの場面――キリストの復活については、四つの福音書がそれぞれの仕方でいくつもの場面を伝えておりますが、その中でも特に好きな箇所の一つです。

 考えてみてください。この婦人たちは少し前まで絶望のどん底にいたのです。イエス様が死んでしまった。彼らの希望は永遠に失われてしまった。もう生きていけないとも思ったでしょう。しかし、そのような彼女たちが驚くべき出来事に遭遇するわけです。主の天使からキリストの復活を告げられました。そして、その彼女たちが走って行った行く手にイエス様が立っていました。天使から告げられたことを現実に目にしているのです。まさに彼らにとっては天地がひっくり返るような出来事です。

 しかし、当のイエス様はいつものように、ごく普通の日常の言葉をかけられるのです。「おはよう」と。いくらなんでも、ここで「おはよう」はないだろうと思います。繰り返しますが、彼女はつい先ほどまで絶望のどん底にいたのです。その絶望を覆す出来事なんですから、ここは何か特別な宗教的な深淵な言葉が語られてもよい場面だろうと思うのです。しかし、そうではありませんでした。「おはよう」ですって。どうですか、皆さん。

 実はもう一つ私の好きな場面がありまして、それは今日の箇所ではないのですが、ルカによる福音書に出てきます。復活されたイエス様が弟子たちに現れるのです。その時のことがこう書かれているのです。「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた」(ルカ24:41-43)。

 弟子たちはこの直前まで絶望のどん底にいたのです。その絶望を覆す出来事がここで起こっているわけです。ならば、ここは何か特別な言葉が語られるか、あるいは特別な行為が期待される場面だと思うのです。しかし、そこでイエス様はいつものように、これまで幾度となく繰り返されてきたように、当たり前のように焼き魚をむしゃむしゃ食べるのです。復活のキリストの顕現というこの上ない宗教的な厳粛な場面で、焼き魚食べるのはいかがなものかと思うのです。

 しかし、先にも言いましたように、私は聖書が伝えるこれらの場面が大好きです。改めてイースターの喜びとはこういうものだな、と思うからです。イースターの喜びは、「キリストの復活とは何ぞや」という難しい議論の上に成り立っているのではないのでしょう。日常の言葉をもって伝えられる、単純素朴なものであるはずです。

 私たちが今日耳にしているのは、子供向けのおとぎ話や寝物語の類ではありません。そうではなく、非常に厳しい現実の中で読まれ、そして聞かれ、伝えられた物語だということを忘れてはならないのです。教会の外からは迫害がありました。生まれて間もない教会の内にはいつも混乱がありました。キリスト者の毎日の生活には、それこそ数えきれないほどの重荷があり労苦があったに違いない。そのような中で、これらの物語は伝えられてきたのです。単純素朴に、日常の言葉で、復活の主の現れが伝えられてきたのです。

 困難な状況の中で、それこそ命がけで主の復活を伝えてきた人々の声が聞こえるような気がします。「辛いことはある。悲しみもあるけれど、今はただ一緒に主の御復活を喜ぼうじゃないか。単純に復活されたイエス様が一緒にいてくださることを喜ぼうじゃないか」と。そのように、今日一緒に礼拝している私たちにも呼び掛けられているのでしょう。去年のイースターには礼拝堂にいたのは私一人でした。いまだに皆が集まって礼拝することができない私たちです。そのような教会生活において、牧師としても信徒としても、ある意味では、自分の弱さ、罪深さ、エゴイズム、そして不信仰と向き合わざるを得なかった一年間でした。そして、今もなおその継続の中に置かれている私たちです。しかし、そのような私たちにも、こうしてイースターが与えられているのです。そして、このような現実のただ中で呼びかけられているのです。「一緒に主の御復活を喜ぼうじゃないか。復活されたイエス様が一緒にいてくださることを喜ぼうじゃないか」と。

 新しい始まりを告げる者に
 先にも申しましたように、婦人たちが登場するこの場面はもともと深い絶望と悲しみから始まります。こう書かれていました。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」(1節)。そのように、彼女たちは「墓を見に行った」と書かれています。実際には墓を見に行ったわけではありません。他の福音書を読むと分かります。彼らは香料と油を塗って御遺体の処置をするために行ったのです。しかし、今日お読みした箇所では、単純に「墓を見に行った」と書かれているのです。

 その二日前、イエス様が葬られたその日にも、墓を見つめる二人の姿がそこにありました。聖書にはこう書かれています。「ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた」(59‐61節)。

 葬りを終えてヨセフが立ち去った後も、ずっとそこに座ったまま墓を見つめ、墓の入り口をふさぐ大きな石を見つめて動こうとしない彼女たちの姿がそこにありました。その思いは、ある意味で痛いほど分かります。彼女たちが墓を見つめていたのは、そこにイエス様が葬られたからです。それはイエス様の最終的に行き着いた場所だったからです。

 イエス様が鞭打たれて血まみれになっていたとき、彼女たちは何もすることができませんでした。イエス様が十字架の上で苦しみの極みにあったとき、彼女たちは何もすることができませんでした。イエス様から多くの多くの愛を受けてきました。けれど何一つお返しできませんでした。何もしてあげられませんでした。そして、彼女たちが見つめる中で、イエス様は息を引き取られました。

 イエス様の遺体は取り下ろされ、墓に葬られました。終わりました。すべては終わったのです。あの日二人はイエス様が葬られた墓を見つめて座っていました。すべては終わったという事実を見つめて座っていました。そして、三日目の朝、二人は再びその同じ場所に向かいました。彼女たちは「墓を見に行った」。そこに物語の終わりがあるから。終わったという事実があるから。

 しかし、そこで彼女たちは全く異なるものを見ることになったのです。彼女たちはこのような言葉を聞きました。「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」。どうしてか。どうしても見なくてはならないものがあったからです。そこにイエスはおられない、という事実です。

 主の御使いは彼女たちにこう言いました。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」(5‐6節)。

 二人が「終わり」としての墓の中に見たのは、「終わり」ではなく、「始まり」でした。「終わり」である墓の中にキリストはおられませんでした。キリストは既に墓から歩み出しておられました。キリストは既に先に進んでおられました。神によって新しいことが既に始まっていました。「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」。神が見せてくださったのは、新しい「始まり」でした。

 いや、あの婦人たちは新しい始まりを見せていただいただけでなく、それを伝える人になりました。神の使いは彼女たちにこう言ったのです。「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」(7節)。

 彼女たちは恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去ります。すると、行く手に立っていたのは、墓から既に歩みだしておられたイエス様でした。そして、主は言われるのです、「おはよう」と。そして、主御自身が同じ言葉を語ってくださいました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と。

 こうして、彼女たちは伝える人になりました。終わりではないことを伝える人になりました。キリストはよみがえられた。神は終わりを始まりに変えてしまわれた。もうキリストは先に進んでおられる。先に進んで待っていてくださる。だから弟子たちもまた、そこに立ち止まっていてはいけないのです。「もう終わりだ」と思っているところに立ち止まっていてはいけないのです。絶望の暗闇に座り込んでいてはいけないのです。後悔と自責の暗闇に座り込んでいてはいけないのです。彼らもまたそこから歩み出さなくてはならない。なぜなら、キリストが先に進んで行って、待っていてくださるから。神によって既に新しいことが始まっているからです。キリストが復活されたということ、そして復活されたキリストがお会い下さり、共にいてくださるとはそういうことなのでしょう。

 今日、私たちにもこうしてイースターが与えられています。今日、私たちにもキリストの復活が伝えられています。主の復活を共に喜ぼうと私たちにも呼び掛けられています。墓から歩み出された復活の主が共におられるならば、私たちは決して終わりにはいません。今日私たちは新たな信仰生活の始まりにいるのです。

(祈り)

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