2022年8月31日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙一 3:8~22

 ペトロの手紙一 3:8‐22

 今日お読みしたところには、「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(8‐9節)と書かれていました。

 「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません」と書かれているところからも、この手紙を受け取った人々は、悪意を持つ人々によって苦しめられたり、侮辱されたりしている人たちだということが分かります。既にお話ししましたように、これが書かれましたのは既に教会に対する迫害が激しくなり始めていた時代なのです。そのような中に生きているキリスト者を励まし力づけるためにこの手紙は書かれたのです。

 さらにペトロは14節以下でこうも言っています。「しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」(14‐16節)。

 彼らは不当な苦しみを受けています。正しいことを行なって苦しんでいるのです。彼らはキリスト者や教会に対するいわれのない中傷を耳にします。いや、それだけでなく、キリスト御自身に対する悪意に満ちた言葉を耳にしているのです。そのような人々に対して語る時、穏やかに敬意をもって弁明するようにとペトロは勧めているのです。

 そして、そのような話の流れの中で、ペトロはキリストについて語り始めます。それが18節以下です。22節まで続きます。似たような話の流れは、既に2章18節以下の「召し使いたちへの勧め」で見てきました。ですからペトロがなぜキリストについて語り始めているのか、その理由は明らかでしょう。この勧めの言葉が正しいとしても、その実行は困難だからです。キリストに目を注ぐことなくして、不当な苦しみに打ち勝つことは出来ないからです。彼らが人々を恐れたり、心を乱したりしないためには、そのことが必要なのです。敵意を持つ人々に対しても、自己防衛的な弁明ではなくて、真に愛と謙遜をもって穏やかに敬意をもって信仰の希望を語り得るためには、キリストに目を向けることがどうしても必要だからです。

 彼らが聞かなくてはならなかったのは次のことです。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです」(18節)。教会が不当な苦しみを受ける以前に、キリストこそ、まさに不当な苦しみを受けられた方なのだ、正しい方が苦しまれたのだ、とペトロは語ります。

 しかも、「キリストは正しくない者たちのために苦しまれたのだ」と言います。正しくない者たちとは誰のことでしょうか。不当に苦しめる人々でしょうか。迫害し、敵意をもって向かってくる人々でしょうか。そうではないのです。キリストの苦しみはあなたがたのためだったのだ、とペトロは言うのです。他ならぬあなたがたを神のもとへ導くためだったではないか、と言うのです。

 敵意を持つ人々を愛することは困難です。怒りと憎しみの感情が沸き上がってきます。悪を行なわれたら二倍にして報復したくなるのが私たちの自然な心情です。「悪いのは彼らではないか」と言いたくなる。しかし、そこで私たちはキリストを見なくてはならないのです。そこには、他ならぬ私たちの罪のために不当な苦しみを背負った御方がおられるのです。その御方を見つめる時に私たちの内にある思いが変えられていくのです。

 しかし、今日特に心に留めたいのは、その先のことです。ペトロは私たちの罪のために苦しまれたキリストを指し示して、直接21節の「復活」および22節の「昇天」に話を進めるのではなく、その間において語っていることがあるのです。彼はあえて「捕われていた霊たちのところへ行って」宣教されたキリストのことを語るのです。それはいったなぜなのかをよく考えたいと思うのです。

 私たちは、使徒信条においてキリストに関しての信仰を言い表す時、「十字架につけられ、死にて葬られ」という言葉の次には「陰府にくだり」と続くことを知っています。しかし、実はこの「陰府にくだり」という言葉はもともとの使徒信条にはなくて、これが加えられたのは紀元前4世紀の半ばであると言われているのです。その「陰府にくだり」が加えられた聖書的な典拠として知られているのが、今日お読みした箇所なのです。

 実際には、ここはかなり解釈の難しい箇所です。単純ではありません。しかし、確かにキリストが陰府にまで降って受肉以前に死んだ人たち、あるいは福音を聞くことなく死んだ人たちに宣教したという理解は古くからありまして、紀元2世紀まで遡ります。そして、この聖書箇所、また「キリストの陰府くだり」の信仰は、ある意味では古くからあった問い、すなわち、「地上における生存中に福音を聞く機会を持たなかった人々はその後どうなるのか?」という問いに対する、一つの答えでもあったと考えられるのです。

 しかし、ペトロがキリストの苦難を語るだけでなく、さらに「捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」と語っているのは、単に死んだ人への関心からではありません。もっと大きな理由があったのです。もう一度20節をご覧下さい。「捕らわれていた霊たち」について、「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です」と説明されているのです。

 神はノアの箱舟製造を通して警告を与え、彼らの悔い改めを待っておられた。しかし、彼らは最後まで悔い改めなかったのです。そこで洪水となった。これは明らかに神の裁きです。神の裁きによって滅ぼされた。ならば彼らはそれで終わりであるはずなのです。

 しかし、その人々をもキリストは心にかけ宣教されたのだ、とペトロは言っているのです。キリストの目おいては、彼らはまだ終わりではないのです。キリストは、あの時に最後まで悔い改めようとしなかった人々をも追い求めたのだと言うのです。ならば、ましてや今この地上に生きている人を、キリストが追い求めていないはずがない。キリストが宣教しようとしていないはずがない。そういうことでしょう。

 あのノアの洪水はバプテスマの予表であるとペトロは言います。ならばノアの箱舟に乗り込んで救われた8人はバプテスマを受けて救われる人を表していることになります。すると箱舟に乗らなかった人々に宣教するため陰府にまで降られたキリストは、今はどこに行って宣教しようとしておられるのですか。バプテスマを受けていない人々のところに行って宣教しようとしておられるということになるでしょう。

 実際、その人々がどんなにキリストやキリスト者を侮辱する人であっても、不当な苦しみを与える人であっても、キリストは彼らを追い求めておられるということなのです。あのノアの時に逆らい続けた人がキリストの目から見て終わりでないならば、ましてや今この地上にある人が、たとえどのような状態であっても、キリストの目から見て終わりであるはずがない。キリストがあきらめてしまっているはずがない。そういうことなのです。

 そのことが見えてきますと、なぜペトロが「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」(9節)と言われているのか、なぜ、「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」(16節)と言われているかが分かってきますでしょう。キリストはただ苦難を耐え忍んだ方として模範であるだけでなく、宣教においても模範である御方だからです。

2022年8月28日日曜日

「あなたの信仰があなたを救った」

マルコによる福音書 10:46‐52

 イエス様がエルサレムへと向かう旅の途中のことです。イエス様が弟子たちや大勢の群衆と一緒にエリコの町を出て行こうとしていた時、道端に座っていた盲人の物乞いが突然叫び出しました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。多くの人々が彼を叱りつけ黙らせようとしました。しかし、その男は黙りません。ますます大声で叫び続けます。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」。

力ある王を求める人々
 なぜ人々は彼を「黙らせようとした」のでしょう。単に「うるさかったから」ではありません。大勢の群衆がざわめきながら移動している最中です。一人の叫び声などたかが知れています。黙らせようとしたのは、恐らく、その男が無礼であると映ったからです。もしローマの皇帝が行進をしている時に、誰かが「憐れんでください」と叫び出して直訴したら、無礼者として制止されるでしょう。この場面はそれに近いと言えます。イエスの一行に人々が見ていたのは、まさにエルサレムへと向かう王の行進なのです。それがはっきりと分かりますのはエルサレムに入城する時です。次のように書かれています。「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って道に敷いた」(11:8)。そこをイエスの一行が歩いて行く。まさに王の入城のような光景です。

 そのように、人々にとってイエス様はまさに王様だったのです。いや、正確に言うならば、王となるべき御方、間もなく即位すべき御方だったのです。イエス様に従う群衆の数はエリコを出る時点で相当な数に上っていたものと思われます。過ぎ越しの祭りのためにエルサレムへと同行していた巡礼者の群れではありません。皆、イエス様が王になると信じてゾロゾロとついて行ったのです。ユダヤはローマの支配下にありました。しかし、イエス様は必ず我々をローマの支配から解放してくださるに違いない。そして、かつてダビデが王であった時のように、偉大なるイスラエルの王国を再建してくださるに違いない。そう信じて、ついて行ったのです。

 もちろんそのことを一番期待していたのはイエス様が選ばれた十二人の弟子たちでした。自分たちは特別だと思っていますから。当然、イエス様が打ち建てる王国においては特別なポジションが用意されていると信じています。ですから、今日お読みした箇所の少し前には、ヤコブとヨハネという二人の弟子が、こんなことをお願いしたことが書かれているのです。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)。「栄光をお受けになる」とは、「王になる」という意味です。その時には私たちをナンバー2、ナンバー3にしてくださいとお願いしているのです。そのように抜け駆けする者も現れてくる。当然、他の弟子たちは腹を立てました。皆、同じことを考えているのですから。

 ところで、いったいどうして弟子たちは、また大勢の群衆は、イエス様が王となることなど期待できたのでしょうか。どうしてそんなことが実現すると思ったのでしょうか。常識的には考えられないことでしょう。ローマの支配は絶対的なものでしたから。にもかかわらず、人々が新しい王国の到来を期待したのは、明らかに彼らがイエス様の力を見たからです。病気の人が癒される。悪霊に憑かれた人が解放される。五千人以上の人々が満腹させられる。人々はイエス様のなさる一つ一つの奇跡に計り知れない《神の力》の現れを見たのです。

 力に期待して、力ある者の後に着いて行く集団。力に救いを求め、力による偉大な事業の実現を求める集団。ここに見るのはそのような集団です。そして、そのような集団にとって、助けを求めて叫んでいる一人の弱い人などは、邪魔者以外の何ものでもありません。それは偉大な事業の実現にとって妨げでしかないのです。「この御方をなんと心得る!王となるべき御方であるぞ。ダビデの王国を再興する御方であるぞ。物乞いなどに関わり合っている暇などあるか!」叱りつけた人々の思いは、大方そのようなものであったに違いありません。

王の憐れみを信じた人
 しかし、あの男は黙らなかったのです。制止されても叫び続けたのです。ナザレのイエスは絶対に憐れんでくださる。声さえ届けば、絶対に憐れんでくださる。彼はそう確信していたのです。もちろん、この男もイエス様が王となるべき御方であると信じています。「ダビデの子イエスよ」と彼は叫びました。ダビデの子孫として来られたまことの王であると信じているのです。しかし、それでもなお、その王は一人の盲人の物乞いを憐れんでくださる王だと信じているのです。

 なぜでしょうか。彼はイエス様のことを伝え聞いて知っていたからです。知っていなかったら、「ナザレのイエスだ」と聞いても叫び出すことはなかったでしょう。彼は既に聞いて知っていた。問題はそこで彼が何を聞いていたかです。単に神の力の現れを聞いたのではなかった。そうではなくて彼が聞いていたのは「憐れみ」だったのです。イエス様の御業を通して現わされた《神の憐れみ》を聞いていたのです。だから「憐れみ」を求めて叫んだのです。

 先に申しましたように、目の見える人々はイエス様の奇跡に《神の力》を見たのです。だから力ある王としてのイエスに期待をかけた。しかし、目の見える人が、必ずしも事の本質を見ているとは限りません。むしろ聞くだけだったこの男にこそ、大事なものが見えたのです。《神の力》ではなく、《神の憐れみ》です。一人の小さな者も見過ごしにされない神の憐れみです。

 聞くだけだったこの男には分かったのです。神の憐れみの王国が到来したのだ、ということを。その事実を彼は見えないその目で既に見ていたのです。苦しみのどん底で這いつくばっている一人の人間にも、目を留めて憐れんでくださる神の憐れみが到来した!神の憐れみを体現してくださるメシアがついに来られた!彼はその事実を心の目で既に見ていたのです。

 だから彼は叫んだのです。力の限りに叫んだのです。「ダビデの子イエスよ、わたしを《憐れんでください》」と。――そして、この人は間違っていませんでした。イエス様は立ち止まって言われたのです。「あの男を呼んできなさい」。

見えるようになりたいのです
 彼は躍り上がってイエス様のもとに来ました。イエス様はその人に言われます。「何をしてほしいのか」。この男はすぐさま答えました。「先生、目が見えるようになりたいのです」。この人は目が見えないゆえに苦しんできました。物乞いをしなくてはならなかったのも、そのゆえでしょう。だから、目が見えるようになりたかった。確かにそうでしょう。

 しかし、目が見えるようになることで、彼が本当に見たかったのは何なのでしょうか。それは神の憐れみではなかったかと思うのです。神の憐れみの現れであるイエス様の姿を見たかったに違いない。今まで耳にしてきた御方を憐れみの到来を、何よりもその自分の目で見たかったのだろうと思うのです。

 彼の願いはかなえられました。イエス様は言われました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。そして、「盲人は、すぐ見えるようになった」と書かれています。しかし、目が見えるようになった彼はそのまま立ち去りませんでした。「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」と書かれているのです。彼は開かれた目をもってイエス様の姿を追ったのです。彼の目はイエス様を追いながら、なお道を進まれるイエス様について行ったのです。

 さて、聖書に書かれているのはここまでです。しかし、バルティマイにとって話がそれで終わりにはならなかったことは容易に想像できます。見える目をもってイエス様の姿を追って行った先には何が待っていたのでしょうか。この直後に書かれているのはイエス様がエルサレムに入城されたという出来事です。そして、そのエルサレムにおいて、主は十字架にかけられて殺されることになるのです。つまりこの盲人は、目が見えるようになったために、そしてイエス様に付いていったがゆえに、その目でイエス様が十字架にかけられ殺される姿を見なくてはならなかったのです。

 「見えるようになんて、ならなければよかった!わたしは見たくなかった!」彼は心底そう思ったに違いありません。しかし、もしそれで終わりなら、彼が経験したことは神の憐れみなどではあり得ないし、彼の目が開かれたというこの物語も語り伝えられることはなかったでしょう。

 なぜこの物語が伝えられたのか。なぜ聖書に書かれているのか。そのことを考えて改めて読みますときに、この盲人の物乞いの名前があえて書き記されている事に気づかされます。もともと物乞いの名前を皆が知っていたはずがありません。にもかかわらず、福音書に名前があるということは、この福音書が書かれた頃、バルティマイがキリスト者として教会において良く知られていた人物だったということです。他に名前が記されている、あの十二人のようにです。彼はイエスに従った。そして、ティマイの子、バルティマイの名は、教会の歴史の中に書き残されることとなりました。

 言い換えるならば、十字架につけられたイエス様を目にした悲しみは、それで終わらなかったということです。やがて彼は知ることになったのです。このキリストの十字架こそ、罪の贖いの犠牲であり、罪の赦しと救いに他ならないということを。その意味において、彼はその開かれた目で、神の憐れみを見た人だと言えるでしょう。私たちの罪を赦すため、罪のあがないの犠牲として御子をさえ死に引き渡される、神の計り知れない憐れみを彼は見たのです。彼はその開かれた目をもって、神の憐れみの王国が確かにイエス・キリストにおいて到来したことを見たのです。

 「あなたの信仰があなたを救った」。主が彼の目を癒された時、主はそう言われました。そして、確かに彼は、ただ目を癒された人ではなく、救われた人として、どんな小さな一人に対しても向けられている計り知れない神の憐れみを、今もなお私たちに指し示しているのです。そして、彼と共に信じるようにと、主は私たちを招いていてくださっています。私たちもまた、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉を聞くことができるように。

(祈り

2022年8月24日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙一 3:1~7

ペトロの手紙一 3:1‐7

 当時のペトロが目にしていたのは、今日よりもずっと男性優位の社会でした。家庭もまた男性中心の結婚観によって形成されていました。ほとんどの場合、妻は夫の所有物としか見なされませんでした。妻が夫に従うのは当然ことであり、他に選択肢などありませんでした。そのような社会の中に置かれていた教会は、当時の結婚観、夫婦観とどのように向き合っていたのでしょうか。


 一見、当時の結婚観を何の修正も加えずに受け入れていたように見えなくもありません。今日お読みしましたペトロの手紙には「妻たちよ、自分の夫に従いなさい」と書かれておりますし、他のパウロの手紙にも同様の勧めが記されています。しかし、そこに見落としてはならないことがあります。この世と同じように「妻たちよ、自分の夫に従いなさい」と語っていたにもかかわらず、教会の中には当時の社会の中には決して見られなかった全く新しい家庭の姿が存在していたのです。


 そのような新しい家庭の姿は7節に垣間見ることができます。「同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません」(7節)。そこに描かれているのは夫と妻が「命の恵みを共に受け継ぐ者として」生活を共にしている家庭なのです。永遠の命を共に受け継ぐ者として、神の国を仰ぎ望みながら、共に祈りながら生活している夫婦の姿なのです。そのような夫婦関係は、既存の結婚観を拒否したり破壊したりすることによって得られたのではないのです。福音のもたらす命の力によって内側から形成されていったのです。


 しかし次のように言う人がいるかもしれません。「そのようなことが起こるとするならば、夫もまたキリスト者である場合に限られるのではありませんか。確かに夫が神を畏れる人であるならば、『妻たちよ、自分の夫に従いなさい』と語られても、妻が不当に貶められることはないでしょう。しかし、神を畏れぬ夫ならどうなるのでしょうか。その場合には不当な上下関係を改革するために戦うことの方が重要ではないでしょうか。」


 しかし、そのような御言葉を信じない夫に対してであっても、ペトロは「妻たちよ、自分の夫に従いなさい」と言うのです。なぜでしょうか。その理由はいたって単純です。「夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです」(1‐2節)。


 ここで「信仰に導かれる」と意訳されていますが、もとの言葉は「獲得する」という意味の言葉です。本当に獲得しなくてはならないのは、自分の権利ではないのです。対等な地位ではないのです。社会的な平等ですらないのです。本当に獲得しなくてはならないのは、人間なのです。この場合ならば「夫」です。人間を神のもとに獲得しなくてはならないのです。夫が御言葉を信じない人であるからこそ、神のもとに獲得しなくてはならないのです。


 平等の権利を獲得するための戦い方というのは、確かにあるでしょう。しかし、人間を得るための戦い方はそれとは異なります。神のもとに人を得るのはイエス・キリストの福音によるのです。しかし、当時の夫婦関係の中にあっては、妻は夫に言葉をもって福音を伝えることは許されていなかったのです。しかし、福音を「聞かせる」ことができないとしても、「見せる」ことは可能です。もちろん、夫が礼拝に共に参加するのでないかぎり、神を礼拝している姿を見せることはできません。しかし、普段の生活している姿は見せることができます。「神を畏れるあなたがたの純真な生活」、そのような「無言の行い」を見せることはできるのです。


 もちろん、ここに書かれていることは、必ずしも夫婦の間の事柄に留まらないでしょう。人が従属的な立場に置かれるという場面は、他にもいろいろと考えられます。職場において、教師と生徒の関係において、親子や兄弟の間において、地域社会において、しばしば人はそのような立場に置かれます。そのような立場にある時、しばしば私たちは言葉をもってキリストを伝えることに困難を覚えます。しかし、そのような秩序の枠の中においても、無言の行いは人を獲得する力を持つのです。


 もちろん逆のことも言えます。言葉をもって福音を伝える環境にある。事実そのように言葉をもって伝えている。しかし、その言葉をもって伝えていることが「無言の行い」によって否定されてしまう、ということも起こります。実際、ここに書かれている「神を畏れるあなたがたの純真な生活」という言葉は実に重い言葉です。「神を畏れる純真な生活」が問題となるとき、私たちは皆、付け焼き刃のようなものではどうにもならないことを良く知っています。それは内面から現れ出るものでなくてはならないのです。


 それゆえに、続く次の言葉は重要です。「あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです」(3‐4節)。


 外面を装うことは、ある意味で容易なことです。お金さえかければ、いくらでも飾り立てることができます。一方、内面的な人柄を飾ることは容易ではありません。その装いには時間がかかります。内面的な人柄を装うためには、普段からそのことに心を向けていなくてはなりません。


 ここに書かれていることはお洒落に対する批判でも、「女はおしとやかであるべし」などという陳腐な教訓などでもないのです。そうではなくて、普段の生活において、私たちがどこに心を向けているかを問題にしているのです。ペトロは、「このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです」(4節)と言っています。大事なことは、何が神の御前で価値があることなのか、を考えられることなのです。


 さて、既に見ましたように、この箇所は特に、未信者である夫との生活について書かれているところです。この部分を、私たちが普段接している未信者の方々に置き換えて考えてもよいでしょう。その中には、信仰に全く関心のない方、あるいはさらにキリスト教に対して拒否反応を示される方々がいるかもしれません。そのような関わりの中で、時として、「神にとって重要なこと、本当に重要なことを、彼らは分かっていない」などと考えてしまうことがあるかもしれません。


 しかし、今日の聖書箇所は、ある意味で全く逆のことを語っているのです。すなわち、御言葉を信じない人である夫こそが、まさに外面的な飾りや派手な衣服などではなく、神の前で価値あるものに目を向けているのだ、と言うのです。彼らこそが、まさに朽ちないもので飾られた内面的な人柄に目を向けているのだ、神を畏れる純真な生活がそこにあるかどうかを見ているのだ、ということです。


 ですから、御言葉を信じない人との関わりにおいてこそ、神の御前に価値のある装いが真に重要になるのです。実際、そうではありませんか。私たちの周りの未信者の方々の方が、教会の人よりも良く見ていると思います。実に鋭く見ているものです。そのような関わりの中において、付け焼き刃は何の役にも立ちません。地味ではあるけれどしっかりと内実を持った信仰生活、神を礼拝し神を畏れる生活こそが、真に人間を神のもとに獲得し、現実を変革する力を持つのです。

(祈り)


2022年8月21日日曜日

「神の憐れみ、とこしえの慈しみ」

イザヤ書 54:1‐8

不妊の女よ
 本日は第一朗読において、イザヤ書54章が読まれました。預言者を通して語られた神の言葉です。その主題は、罪の赦しと回復です。

 時は紀元前六世紀。バビロニアの軍事侵攻により、かつてダビデ・ソロモンの王国として繁栄を極めたユダ王国は、ついに滅亡することとなりました。王国の都エルサレムの城壁は破壊され、彼らの心の拠り所であったエルサレムの神殿も焼き払われてしまいました。そして国の主だった人々は、異国の地バビロンへ捕らえ移されていきました。世界史においてはバビロン捕囚と呼ばれる出来事です。

 それから五十年近くの時が流れました。バビロンの捕囚民は、新しい時代の到来を肌で感じていました。キュロス率いるペルシア軍がバビロンの都を制圧し、バビロニアに代わってペルシアがオリエント一帯を支配する時代が到来したからです。ペルシアの統治の仕方はそれまでのものとは全く異なっていました。ペルシアの王キュロスは、被占領民族を支配するに当たり、それぞれの民族の文化と宗教を重んじる政策を採ったからです。その結果、バビロンに捕囚となっていたユダの人々もまた、キュロスの勅令により、ユダの地に帰還しエルサレムを再建することが許されたのです。

 その時をひたすら待ち望んでいた人々は、希望に胸を膨らませ、祖国再建の燃えるような情熱をもって、エルサレムへと帰っていきました。その様子はエズラ記に詳細に記されております。しかし、彼らを待っていたのは冷たい現実でした。城壁は崩れ落ち、かつて神殿が存在していたところは瓦礫の山です。しかも、彼らの周りはこの再建を快く思わない諸民族に囲まれていました。激しい妨害にも遭いました。彼らが抱いていた希望が次第に潰えていったとしても不思議ではありません。

 彼らが荒れ果てたエルサレムを目の当たりにした時に、思い起こされるのは捕囚に至るまでのイスラエルの歴史でした。それは一言で言うならば、神に逆らい背き続けてきた歴史でした。結局、彼らが目にしているその荒れ果てた状態は、ただ敗戦の結果なのではなく、神の呼びかけを拒否し続けた罪の結果に他ならなかったのです。暗い過去を思うとき、現在と未来に希望が持てなくなる。それは彼らと置かれている状況が異なる私たちにも分かることでしょう。過去の罪を思うならば、現在と未来に希望が持てなくなるのです。

 しかし、そのような彼らに、いやそのような希望を失った彼らだからこそ、神は預言者を通して語られたのです。「喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声を上げ、喜び歌え、産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは夫ある女の子供らよりも数多くなると主は言われる」(1節)。

 古代イスラエルにおいて不妊がどれほど辱めの対象となったかは、旧約聖書の至るところに見ることができます。夫に捨てられた女というものも、当時の社会においては、これ以上ない悲惨な状態にありました。そのような「不妊の女」「夫に捨てられた女」として語られているのは、明らかにこれを聞いているイスラエルの人々です。彼らにもそれは分かったはずです。自分たちがどれほど惨めな状態にあるか、骨身に染みて分かっていたでしょうから。

 しかし、そのような、どう考えても喜び得ない現実の中で、神は預言者を通してなおも「喜べ」と言われるのです。驚くべき神の呼びかけです。「喜べ」と言われるのは、なぜでしょうか。それは、彼らがどのような状態にあろうとも、どん底にあろうとも、神は彼らを回復することができるからです。人間の側だけを見ているならば希望はありません。しかし、希望は向こうから、神の方からやってくるのです。こちら側だけを見ていたら、到底喜び得る状態にないかもしれない。しかし、神の方から「喜べ」という声が響いてくるのです。それが信仰の世界です。

歓声を上げ、喜び歌え
 そもそも、「喜べ」という呼びかけは、何か根拠がなければ意味を持ちません。冬山に遭難して死にそうな人に、根拠もなく「喜べ」とは言わないでしょう。しかし、助けがすぐそこまで来ていることを知っているならば、その人は言うことができる。「喜べ!もうすぐ助けが来るぞ」と。

 どう考えても喜べない状態にある人々に、なおも神が「喜べ」と言われるのは、彼らが喜んで良いという根拠があるからです。その根拠は人間の側でなく神の側にあるのです。それは何か。――神による徹底した罪の赦しです。最終的に罪の「赦し」は神しか与えることができません。その神が、彼らの罪を赦してくださる。神が「喜べ」と言われるのは、そのような意味なのです。

 4節には、次のように語られています。「恐れるな、もはや恥を受けることはないから。うろたえるな、もはや辱められることはないから。若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな」(4節)。

 「若いときの恥」というのは、捕囚となる前のイスラエルの犯してきた諸々の罪です。神から離れ、偶像に惹かれ、神から遣わされた預言者が繰り返し立ち帰るようにと呼び掛けたにもかかわらず、悔い改めて立ち帰ろうとはしなかったイスラエルの過去です。そして、「やもめのときの屈辱」というのは、バビロンに捕囚となった後のイスラエルの受けてきたことです。その苦しみは、ある意味ではすべて過去の罪の結果であり、自ら蒔いたものを刈り取ることとなった惨めな現実と言ってよいでしょう。

 主はそれをもう忘れてよいと言われるのです。なぜでしょうか。「あなたの造り主があなたの夫となられる。…捨てられて苦悩する妻を呼ぶように、主はあなたを呼ばれる。若いときの妻を見放せようかとあなたの神は言われる。わずかの間、わたしはあなたを捨てたが、深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる」(5-7節)。そのように主は言われるからです。

 神はそのように罪ある者を取り扱ってくださるのです。確かに、神が人間をこらしめることはあります。罪は自らに苦しみを招きます。しかし、神のこらしめは永遠ではありません。神は再び憐れんでくださるお方です。そして、永遠なのは、その憐れみであり、慈しみの方なのです。「ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむとあなたを贖う主は言われる」(8節)。

信じる者として生きる
 さて、ここまで読みまして、私たちは二つのことに注意を向けなくてはなりません。その第一は、神の赦しがどのようにもたらされたか、ということです。今日は54章を読みました。その直前には新共同訳において「主の僕の苦難と死」と小見出しが付けられています。一般的には「苦難の僕の歌」と呼ばれる部分です。今日はその内容に深く触れることはできませんが、そこには名も知れぬ一人の人が、人々の罪を代わりに背負い、苦しみを受けるということが書かれているのです。この歌の最後はこう締めくくられているのです。「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった」(イザヤ53:12)。

 その歌に、今日の箇所は続いているのです。苦難の僕の歌に、回復の預言が続いているのです。この配置は明らかに意図されたものです。神の一方的な赦しは、誰かがその罪を代わりに負うことなくして実現しないということです。そして、それをもたらしたのがこの「苦難の僕」なのです。そこで古くからこの「苦難の僕の歌」はキリストの預言として読まれてきたのです。キリストの苦難なくして、罪の赦しはないのです。

 そして、もう一つ。私たちが忘れてはならないことは、罪の赦しによって確かな回復の希望が与えられたなら、その信仰に従って行動すべきだということです。信じたならば、そのように行動しなくてはなりません。2節に戻りますが、そこにはこう書かれています。「あなたの天幕に場所を広く取り、あなたの住まいの幕を広げ、惜しまずつなを伸ばし、杭を堅く打て」(2節)。人がまだいないのに、住まいの幕を広げることは愚かに見えることでしょう。そんなことに意味があるのでしょうか。――あるのです。それが信仰的な行動です。彼らは回復を信じたのなら、イスラエルの再建に着手しなくてはならないのです。まだ回復された現実を見ていないとしても、信じたのなら、既に見ているように行動すべきなのです。

 私たちも同じです。罪を赦され贖われ、神のものとされました。神の回復と豊かな祝福の中に生きているのです。そして、やがて私たちは永遠の御国において完全に救われた者として、神が用意してくださったすべての祝福に与るでしょう。とはいえ、私たちは完全に救われる神の御国をまだ見てはいません。私たちには、苦しみがあり、悲しみがあり、希望を奪っていく現実があるのでしょう。しかし、最終的な救いを信じているのなら、まだ見ていなくても、神に感謝を献げ、救われた者として行動し、生活すべきなのです。こちら側だけを見て、希望のない者のように生きてはなりません。希望は向こう側から、私たちを赦し、回復してくださる神の側から来るのです。
(祈り)

2022年8月17日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙一 2:18~25

ペトロの手紙一 2:18-25

 「召し使いたち」というのは、一般家庭の下働きをしている奴隷たちです。中には「善良で寛大な主人」のもとで幸福に暮らしていた奴隷たちもいたことでしょう。しかし、もう一方で「無慈悲な主人」のもとにいる奴隷たちも確かにいたに違いありません。そのような主人に仕えるならば、不当な扱いを受け、理不尽な苦しみを味わうことにもなるのでしょう。そのような辛い境遇にある人々もまた教会の中にはいることを重々承知の上で、ペトロはなおこう語りかけるのです。「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」(18節)。

 それはどうしてか。彼はこう続けます。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」(19節)。これが理由です。

 この部分だけを読みますと、人間が苦しみを耐えているのを楽しんで眺めている、それこそサディスティックな「無慈悲な主人」としての神の姿を思い描く人がいるかもしれません。しかし、そうではないのです。ペトロはこう続けます。「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです」(20節)。

 そのように、ペトロが思い描いているのは、ただ不当な苦しみを耐えている人の姿ではないのです。そうではなくて、ここに書かれているように、「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶ」人の姿なのです。たとえ善を行ったとしても苦しみしか返ってこないことが分かっているのに、苦しみを受けることになって耐え忍ばなくてはならないことが分かっているのに、それでもなおあえて悪を返すのではなく、相手に対して善を行う方を選ぶ人。ペトロが思い描いているのは、そのような人の姿なのです。そして、言うのです。「それこそ神の御心に適うことです」と。

 「御心に適うこと」という言葉が2回繰り返されていますが、このカリスという言葉は通常「恵み」と訳されます。ですからこの部分は、「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神と共にある恵みなのです」とも訳せるのです。

 「神の恵み」。それはただ人に与えられてそこに留まるものではありません。人に与えられた恵みは、人を通って他者へと向かうものなのです。言い換えるならば、他者へと向かって現れる時に、与えられた恵みはこの世界に目に見えるものとなるのです。

 ここに恵みを与えられた人がいます。その人は無慈悲な主人に仕える人です。無慈悲な主人なのに、不当に扱うことしかしない主人なのに、それでもなお主人を愛して、心から主人を愛して、心から畏れ敬って、忠実に仕えようとする召し使いの姿がそこにあります。そこに現れているのは何か。神の恵みが形を取って現れているのです。まさに、憎しみと怒りの連鎖によってがんじがらめになっていることの世界に、この世界からではない天から来る恵み、神の恵みが形を取って現れているのです。

 そして、ペトロは言うのです。「あなたがたが召されたのはこのためです」。そうです、このために彼らは召されてキリスト者とされました。そのために私たちもまた召されてここにいるのです。「あなたがたが召されたのはこのためです」。そして、ペトロは召してくださった方のことを語り始めるのです。「というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」(21節)。

 イエス様が模範を残してくださいました。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」(22節)。そう書かれています。ならば、本来苦しみを受ける理由はありませんでした。しかし、その御方はののしられました。苦しめられました。それは明らかに不当な苦しみでした。しかし、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」(23節)。そのように主は不当な苦しみを耐え忍ばれました。その意味でイエス様は父なる神に裁きをゆだねて忍耐する姿を見せてくださった模範であったと言えます。

 しかし、イエス様は忍耐の模範である以上に、恵みの現れとしての模範でした。ペトロはこう続けるのです。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(24節)。

 イエス様が担ってくださったのは「わたしたちの罪」だったのだとペトロは言います。この24節はイザヤ書53章をもとにした当時の讃美歌であったろうと言われます。これを読んでいる人たちがこれまでに幾度となく歌ってきた歌かもしれません。そこに歌われているのは、繰り返し聞いてきた福音の言葉です。それを今、不当な苦しみを受けている人たちに、不当な苦しみを受けているからこそ、改めて語って思い起こさせるのです。「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました」。そう、主が担ってくださったのは、他ならぬ「わたしたちの罪」でした、と。

 そのように、イエス様の受けた苦しみは私たちの罪のためだった。それは言い換えるならば、イエス様を不当に苦しめたのは私たちだった、ということです。あの方に傷を負わせたのは私たちだったということです。あの方を傷だらけにして十字架にかけたのは私たちだったということです。その私たちが負わせた傷に対して、あの方が私たちに返したのは――癒しでした。そのつもりであの方は傷を負われたのです。「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」とあるとおりです。そこに見るのは「恵み」です。天からの恵み以外の何ものでもありません。

 その御方のもとに今、あなたがたはいるのだとペトロは語ります。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」(25節)。主の日の集まりにおいて、主の晩餐を共に食する集まりにおいて、この手紙は繰り返し読まれたに違いありません。

 主の裂かれた体、主の流された血をいただきながら、主が受けられた傷、そして与えられた癒しを思いつつ、この手紙の言葉を思い巡らしたことでしょう。恵みの現れそのものである御方と共にいる幸いを思いつつ、この手紙の言葉を一つ一つ受け取ったことでしょう。

 もはやさまよっている羊ではないのです。そうです、私たちもまた、主のもとにいる羊として、この言葉を聞いているのです。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。

 その魂の牧者である御方が、今日もその足跡に続くようにと招いておられます。「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍び、恵みの現れとなりなさい」と。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。


2022年8月14日日曜日

「主があなたに求めておられることは何か」

申命記 10:12‐11:1

主を畏れ、主を愛しなさい
 「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か」(12節)。今日の第一朗読の言葉です。私たちの願いや求めを神様に持って行く前に、まず私たちは神様の願いと求めに関心を向け、神様の語りかけに耳を傾ける者でありたいと思います。

 「今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か」。今日の聖書箇所はこのように続きます。「ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか」(12‐13節)。

 本当に大事なことは多くはありません。ある意味ではこれだけです。あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩みなさい。主を畏れて生きていきなさい。――主を畏れて生きるとはどういうことでしょう。それは神を怖がって生きるということではありません。続けて書かれているように、主を愛することです。

 今日お読みした申命記にはモーセの説教が記されています。荒れ野を旅してきたイスラエルの民が、間もなく約束の地であるカナンの地に入ろうとしています。その時にモーセが彼らに語った説教です。その説教において繰り返し語られているのは「主を愛しなさい」という言葉です。6章5節にもこうあります。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と。イエス様はこれが最も重要な第一の掟であると言われました(マタイ22:38)。

 ある意味で、これは聖書の語る独特なメッセージであるとも言えます。イスラエルの周辺諸国の諸宗教には「神を愛する」という概念はありませんでしたから。それは日本の宗教事情を考えても分かりますでしょう。例えば日本人が最も宗教的になる初詣の時に、「神さま、私は神さまを愛します!」と言いに行く人はいないでしょう。それはカナンの世界も同じです。

主を礼拝し、主に従いなさい
 しかし、私たちは「主を愛する」ことを、単に情緒的なこととして捉えてはなりません。ここで言われていることは、単に神さまを好きになりなさい、ということではないのです。もしそうであるならば、申命記は34章も必要ありません。申命記が34章もあるのは、イスラエルの人たちが約束の地であるカナンの地に入った後に、どのように生活をしたらよいかという具体的な事柄が記されているからです。そのように、愛するということは具体的な行為と生活に関わることなのです。これは例えば結婚を考えても自明のことでしょう。愛するということは、心の中のことや口先だけのことではないのです。それは愛して生きるという《生活》なのです。信仰における神と人との関わりも同じです。

 では、主を愛するとは具体的にどのようなことでしょうか。第一に、それは主に仕えることです。12節にこう書かれております。「主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え」。では、神に仕えるとはどういうことでしょう。実は、申命記において「主に仕える」という言葉が第一に意味することは、主を礼拝するということなのです。仕える者としてイメージされているのは礼拝者であり、礼拝する民なのです。ですから、申命記には礼拝に関することが数多く語られているのです。

 どうして、ここで礼拝のことが出てくるかと言いますと、イスラエルの民が入っていくカナンの世界には、既に土着のバアル礼拝があるからです。バアル礼拝とは、豊穣神礼拝です。それは豊作と繁栄を求めての礼拝です。すなわち、それは人間の欲望や願望が中心に置かれている礼拝なのです。

 そのようなカナンのバアル礼拝は、私たちにとって、決して無縁ではありません。この国の宗教事情は、聖書に出て来るカナンの世界のそれに非常に良く似ています。それゆえに、私たちの献げる礼拝も、いつの間にか人間中心の人間の願望の投影でしかなくなるということは十分にあり得ます。私たちの礼拝がバアル化することは起こり得ることなのです。

 バアル化した礼拝とは、要するにそこでは「主があなたに求めておられることは何か」ということには関心がなくなってしまう礼拝です。自分の求めにしか関心が向かない礼拝です。キリスト教から私は何を得られるか。教会から何を得られるか。礼拝に出て私は何を得られるか。そのことにしか関心のない人は、願望が満たされなくなった時に、礼拝者でもなくなります。それをバアル化した礼拝というのです。それでは本当の意味で主を愛していることにはならないでしょう。

 私たちが主を愛するのは、まず主が私たちを愛してくださったからです。先ほど「主を愛する」ということが繰り返し出てくると申しましたが、もう一つ繰り返し出てくるのは主が愛してくださったという記述です。主が愛してくださった、主が救ってくださった、その恵みに対する愛の応答が礼拝なのです。主の愛に応えて主に仕えるのです。主が愛して、私たちを招いてくださいました。だから、私たちは招きに応え、愛してお仕えし、主を礼拝するのです。

 そして、主を愛するということは、第二に、主に聞き従うことです。「わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って」(13節)と書かれているとおりです。「戒め」「掟」という言葉と「律法主義」を単純に結びつけてはなりません。「律法主義」とは、主を愛することを抜きにして、「掟だから従う」というあり方です。

 主を愛することを抜きにした掟への従順は、必ず神様との取り引きになっていきます。従順と引き替えに主の好意を引きだそうとするのです。そこには心が伴いませんから形だけの従順が残ります。それを律法主義と言うのです。

 そのように愛なくして真の従順はありません。しかし、その逆もまた言えます。従順なくして真の愛もありません。主を愛していると言いながら、主の求めておられることが何であるかに関心がなかったら、それは主を愛していることにならないでしょう。イエス様もまたこう言っておられます。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」(ヨハネ14:15)。

あなたが幸いを得るために
 しかし、ここで最も重要なことは、この主の求めがどこに向かっているのかということなのです。最終的に次のように書かれています。「あなたが幸いを得ることではないか。」主は私たちが主を畏れ、主を愛し、主を礼拝し、主に従って生きることを求めておられます。それは私たちが幸いを得るためなのです。私たちが求める以前に、主が私たちの幸いを望んでおられるのです。

 新共同訳で「幸い」と訳されておりますこの言葉は、実は聖書に600回以上も繰り返し出てきます。多くの場合は「良い」と訳されます。その中でも一番印象的なのは聖書の冒頭にあります天地創造物語だと思います。そこでこの言葉が繰り返されております。神は光を創造されました。そこにこう書かれています。「神は光を見て、良しとされた」。

 先の申命記の言葉も、「あなたが良きものを得るため」と訳すこともできます。このことは聖書の語る幸いが何であるかをはっきりと示していると言えます。幸いとは、神が良きものとして創造されたこの世界の中で、神が創造された良きものを、神の良き御意志のもとに受け取って、それらを享受して生きることなのです。それこそが神の求めておられることなのです。

 しかし、そのことを神が求めておられるということは、現実には人間が本当の意味で幸いを得ていないからであるとも言えるでしょう。それは先の天地創造の物語に続く「エデンの園の物語」において描かれているとおりです。

 エデンの園には、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木がありました。人はそれを大いに喜んで食べてよかったのです。エデンの園を大いにエンジョイしてよかったのです。

 しかし、エデンの園の中央には、食べてはならない木がありました。それは神の戒めを象徴しています。エデンの園には、神の戒めがありました。彼らは神に創造された者として、神への従順を求められたのです。

 逆に言うならば、その実を食べてはならない木があるからこそ、エデンの園がエデンの園であり得たのです。しかし、彼らは食べてはならない木から食べました。食べてはならない木が、もはや食べてはならない木ではなくなりました。彼らは食べてはならない木を失い、神への従順を失った時、エデンの園そのものも失ったのです。

 エデンの園の物語は、まさに現実のこの世界の有り様を見事に描き出しています。この世界は神が創られ、神が良しとされた世界であるにもかかわらず、現実には、人間は本当の意味でこの良い被造物世界を享受して生きてはいないのです。むしろ目に見えるモノとの関わり、隣人との関わりが、喜びと楽しみを生み出すのではなく、現実には多くの災いと悲しみをもたらしているのです。

 しかし、その世界のただ中に神はイスラエル民を置かれたのです。そして、言われたのです。「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。」主は彼らが幸いを得ることを望まれたのです。それは単に彼らのためではなく、何が真の幸いであるかを、この世界に表すためでした。

 そして、今、同じ言葉を耳にしている私たちがここにおります。私たちは本当の意味で「幸いな人」にならなくてはなりません。私たちが幸いになることを、主が求めておられるからです。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。あなたが幸いを得ることではないか、と。私たちが幸いを得るために主が私たちに求めておられることがあります。多くはありません。ただ、あなたの神、主を畏れて生きること。主を愛して生きることです。そのような新しい一週間へと歩み出しましょう。

(祈り)

2022年8月10日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙一 2:11~17

ペトロの手紙一 2:11‐17

 今日の箇所には「悪人呼ばわり」(12節)という言葉が出てきます。当時のキリスト者が、人々から「悪人呼ばわり」されていたという事情が伺えます。具体的にどのようなことを言われていたのかは分かりませんが、まだ国家レベルの迫害が始まる以前から、様々な謂われのない誹謗中傷を受けていたようです。15節に書かれている「愚かな者たちの無知な発言」も同じです。これはもう少し広く、キリスト者や教会に対する誹謗中傷だけでなく、キリスト御自身やキリストの父なる神、あるいは神を信じる信仰そのものに対する暴言を含むものと考えられます。

 そのように、キリスト者となってからその信仰の故に嫌な思いをすることがあったとしても決して驚くに価しないということは、私たちの心に留めるべきことなのでしょう。それはキリスト者が初めから経験してきたことなのです。そのようなことが起こり得るこの世に、私たちは「仮住まい」の生活をしているのです。「いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから」(11節)と書かれているとおりです。

 旅人であるとは目的地があるということです。放浪者ではありません。モーセに率いられていたイスラエルの民が約束の地に向かっていたように、私たちもまた神の国へと向かっているのです。この世界は、辛いこともたくさんありますが、これが私たちの最終的な目的地ではないのです。

 しかし、だからと言って、「旅の途中で嫌なことがあったとしても気にするな」という話をするために、このことを言っているのではありません。この地上に生きるキリスト者には、この世における責任があるのです。イスラエルが諸国民の祝福のために地上に置かれていたように、私たちもまた諸国民(異教徒と訳されている言葉を直訳すれば「諸国民」)のために置かれているのです。

 9節に次のように書かれていたことを思い起こしてください。「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」(9節)。それゆえに、その民が地上の諸国民の間でどう生きるかが問題になってくるのです。そこで具体的に心に留めるべきことがあります。それが今日お読みした箇所に書かれている内容です。

 消極的には「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」(11節)ということです。「肉」というのは肉体のことではありません。人間の罪深い性質のことです。その肉が欲するところに従うとどのような形で現れてくるかはガラテヤ書5章に列挙されています。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」(ガラテヤ5:19‐21)。このようなことを行う肉の欲するままに生きてはならないということです。

 肉は救われた魂(1:9)に戦いを挑んできている敵なのですから、仲良くしてはならないのです。遠ざけなくてはなりません。キリスト者として謂われのない中傷を受けるのなら良いのですが、肉に従って生きて肉の業をばらまいて「謂われのある中傷」を受けるようであってはならないのです。

 これはより積極的に表現をするならば、「立派に生活しなさい」(12節)となります。この「立派に生活すること」あるいは「立派な行い」というのは、信仰から生じる行いのことです。キリストを信じ、キリストを愛するところから、そのようなキリストとの生き生きとした交わりから生まれる行いです。そうでなければ人々は「神をあがめるようになる」のではなくて、あなたを誉めるようになるでしょう。

 そこには「よく見て」という表現があります。これは観察するという意味です。しかも、継続的に観察しているという表現になっています。私たちがキリストについて語ったり救いについて語ったりする言葉を人々は聞いてくれないかもしれません。しかし、キリスト者の生活を見てはくれています。観察してくれています。そこにおいては、言葉よりも姿そのものが雄弁に語ります。そこでは見せかけは通用しません。家族の中では特にそうでしょう。本当にキリストから来ていることが重要なのです。すなわち根底にある信仰生活そのものが問われるということです。

 13節以下には、より具体的に「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです」(13‐15節)と書かれています。そのように語っているのはペトロだけでなく、既にパウロも語っていることです(ローマ13:1以下)。

 どうしてこのようなことが語られなくてはならないのでしょうか。それは宗教的熱心あるいは熱狂主義というものが反社会的な行動を生み出すことがあるからです。特にその熱心が「怒り」という要素と結びついた場合はそうなります。実際、熱心党と呼ばれるセクトはその道を行ったのです。今日においても実例に事欠くことはないでしょう。

 そのような方向に対して、ペトロはノーと言っているのです。キリスト者が誹謗されるなら、キリスト御自身が中傷されるなら、その口を封じるために必要なのは暴力でも議論でもないのです。善を行うことだ、とペトロは言うのです。この「善」もまた、当然のことながら信仰から生じる善き行動を意味するのでしょう。ですから「主のために」と書かれているのです。あえて暴力を選ばない、あえて論争を選ばない、そうではなくて愛することを選ぶ時、人々はそこに「主のために」生きているキリスト者の姿を見ることになるのです。

 そして、さらにペトロは言います。「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい」(16節)。パウロも言っています。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13)。

 キリスト者は律法のもとに生きてはいません。キリスト者の生活は戒律に支配された生活ではありません。「このことは禁じられているから、わたしはしない」という生き方はしません。「このことは禁じられていないから、やっていいのだ」という考え方もしません。

 そうではなくて、「私を愛していてくださる神は何を望んでおられるのだろうか」を考えるのです。「神の僕として行動しなさい」とはそういうことでしょう。本当の自由とは、肉に従う自由ではありません。それでは罪の奴隷になってしまいます。そうではなく、神の僕として仕えることのできる自由です。時には自分の権利を放棄することもできる自由、あえて仕えることもできる自由、愛することのできる自由です。

 そこには「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」(17節)と書かれています。先に述べた、制度に従うこともそうですが、「そうせざるを得ないから」と言って従うのは自由人の姿ではありません。そうではなくて、神がお望みならば喜んでそうします、というのが本当の自由な人の姿なのです。自由な人として生きることを求めましょう。

2022年8月7日日曜日

「互いに補い合い、配慮し合って生きるため」

コリントの信徒への手紙一 12:14‐26

あなたがたはキリストの体
 今日の聖書箇所の直後には、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(27節)と書かれています。今日の箇所においてパウロが語っているのは、キリストの体なる教会についてです。「キリストの体」とパウロが言う時、それは単にものの喩えではありません。「教会は体のようなものだ」と言っているのではなく、「教会はキリストの体である」と言っているのです。

 これを書いているパウロはもともと教会の迫害者でした。しかし、迫害の手を伸ばすためにダマスコへと向う途中、彼は天からの光に照らされ、地に打ち倒され、そこで天からの声を聞いたのです。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と。パウロが「あなたはどなたですか」と問うと答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(使徒9:5)。

 パウロが迫害していたのは教会でした。捕らえて投獄していたのは個々のキリスト者でした。しかし、キリストは「なぜ、わたしを迫害するのか」と言われたのです。教会がキリストの体であるとはそういうことです。体の一部が迫害されるならば、「なぜ、わたしを迫害するのか」と主は言われるのです。そのように各部分がキリストと分かちがたく結ばれている。そのようにキリストが私たちを自分自身として見ていてくださるのです。神はそのように私たちとキリストとを結び合わせてくださいました。

 このようなキリストと各部分との関係を念頭に置いてこそ、また各部分お互いの関係を考えることができるのです。まずお互いの関係が先にあるのではありません。それが分からないと、今日の聖書箇所に書かれているような問題が起こります。

わたしは要らない

 パウロはコリントの教会の中のある人たちに語り掛けます。「足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか」(15‐16節)。

 コリントは当時有数の大都市でした。そのような大都市にある教会に対して、パウロはこの手紙の冒頭でこう語り掛けています。「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」(1:5)。そこには多くの優れた伝道者や教師たちがいたようです。商業的中心地であるだけでなく、文化的な中心であるその都市においても、豊かな知識をもって人々に語りかける力を持っていた人たちがいたのです。

 それだけではありません。そこには神の霊の著しい働きが見られました。その教会は、聖霊の賜物においても豊かな教会でした。12章8節以下には、賜物のリストが挙げられています。そこには奇跡を行う人、癒しを行う人、預言をする人などがいたのです。使徒言行録に描かれているような、奇跡や癒しの業が当たり前のように起こっていた教会だったと思われます。

 しかし、そのように著しい働きをする人々が数多く存在している一方で、そのような人々と自分を比べて、自分は必要のない存在だと感じていた人たちもまたいたようです。「わたしは手ではないから、体の一部ではない」とは、いわばそのような人たちの心の声です。

 そして、教会の話に限らず、人と自分を比較して、心がこんなことを言い出すことがあることを、確かに私たちも知っています。私は頑張っても手にはなれないし・・・。手と同じこともできないし・・・。そんな私はここには必要ではない。私は要らない。私はいてもいなくても同じ。そう心が語り出します。

 これが自分の外に響いている声ならば、人の噂にせよ、マスコミの報道にせよ、「声」は事実そのものではないことを私たちは知っています。ですから、何かを聞いても、一応「ほんとうかな?」とも考えますし、単純に無条件で信じるわけではないでしょう。しかし、これが自分の心が語る言葉になりますと、無条件で丸々信じてしまうのです。本当は、心の声もまた、単なる心の声なのであって、事実そのものではないにもかかわらず。

 だから、パウロは言うのです。「足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか」。心が何を思おうが、心が何を語ろうが、それは事実そのものではないし、心の声で事実が変わるわけでもありません。キリストの体について言うならば、私たちがどう思うかが先にあるのではなく、キリストの体の部分とされているという事実が先にあるのです。

 私たちはただ恵みにより信仰によって救われたのです。私たちは恵みによって神に受け入れられたのです。恵みによってキリストに結ばれたのです。神の恵みによってキリストの体の部分とされたのです。「そこで神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」(18節)と書かれている通りです。私たちがどう思おうが、どう感じようが、神が望まれたゆえに、私たちは神によってキリストの体の一部として「置かれた」のです。

お前は要らない
 さて、パウロはさらにこう続けます。「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」(21節)。これは今まで述べてきたことと表裏一体であると言えます。「わたしは要らない」という声があるところには、「あなたは要らない」という声もまたあるからです。必ずしも別な人の言葉ではありません。「わたしは要らない」と言う人は、立場が変われば「あなたは要らない」と言い出すのです。

 それは大事なことが分かっていないからです。要るかいらないかは私たちが決めることではない、ということです。先に見たように、神は「ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれた」のです。強い部分であろうが、弱い部分であろうが、神が望みのままに置かれたのです。それゆえに、パウロはさらにこう言うのです。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(22節)。

 ここで「ほかより弱く見える部分」とは、ただ肉体的な弱さやハンディキャップだけを意味するのではありません。私たちの抱えている《弱さ》はそれこそ多種多様です。この言葉は「信仰の弱さ」をさえ意味するのです。この手紙の8章においては、信仰的に未成熟な人、まだ異教的な部分を引きずっている人などについて語られていますが、そのような人たちが「弱い人々」と呼ばれているのです。さらに言うならば、これまで自分の強さで困難を乗り切ってきたゆえに他の人の弱さをなかなか受け入れることができないという《弱さ》を抱えている人もいるでしょう。

 そのように人の抱える《弱さ》は多様です。ある意味では、誰もが欠けた部分を持っている。その意味では誰でも「ほかより弱く見える部分」であり得ると言えるでしょう。そのような弱い部分はないに越したことはないと私たちは通常考えているのでしょう。しかし、聖書は言うのです。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」。

互いに配慮し合って一つとなるために
 いやそれだけではありません。24節にはこう書かれています。「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」要するに、人間の目には「見劣りのする部分」としか見ないかもしれないのだけれど、実はそこに神様が特別になさっていることがあるのだ、と言っているのです。神様が特別に目をかけ「引き立たせて」おられる。神様が特別に与えている美しいものがあるのです。弱さの中においてこそ神様がなさっていることがあるのです。ならば、そこにこそお互い目を向けるべきなのでしょう。

 そのように、神様は教会の中に「ほかよりも弱く見える部分」を残され、その部分に神様御自身が特別な美しさを与えられます。それは何のためでしょうか。「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」(25節)とパウロは言うのです。

 「ほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」。そう言えなくなる時に、私たちは分裂へと向かっているのです。弱く見える部分を神が引き立たせておられることに目を向けなくなる時、そこに神の与えている美しいものがあることに目を向けなくなる時、私たちは分裂へと向かっているのです。神のなさっていることではなく、お互いの弱さにしか目を向けなくなるなら、「わたしは要らない」「お前は要らない」と言い始めるからです。

 神様は恵みによって私たちをキリストの体の部分としてくださいました。「神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」。キリストは、私たちが強かろうが弱かろうが、御自分と同一視するほどに大切に思ってくださいます。その恵みの事実がまず先にあるのです。そこで神様が私たちに望んでおられるのは「わたしは要らない」と言うのでもなく、「お前たちは要らない」と言うのでもなく、お互いの様々な弱さのあるところにおいてこそ「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」(25節)と言えるキリストの体を形づくっていくことなのです。

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