2020年6月28日日曜日

「その日が来れば」

ミカ4:1-3

追いやられ、遠く連れ去られた人々へ
 本日の第一朗読は「終わりの日」という言葉から始まりました。「終わりの日」という言葉から連想されるのは「世の終わり」でしょう。そして、多くの人が「世の終わり」と聞いて思い描くのは世界の破局であろうと思います。しかし、今日朗読された箇所に語られているのは破局ではありません。明らかに「終わりの日」という言葉は、全く異なった意味合いで用いられているのです。それは新しい時の始まりです。

 それゆえに、今日の箇所の後には、「その日が来れば」(6節)という言葉も語られることになるのです。新しいことが始まるからです。しかも、それを言っているのは人間ではありません。「その日が来れば、と主は言われる」と書かれていますでしょう。人間ではなく主御自身が全く新しいことを始められるということです。そこにこそ、私たちの希望があるのです。

 さて、今日朗読された1節から3節の言葉を、もともと耳にしていたのは、どのような人たちだったのでしょうか。先ほど読みました「その日が来れば」ということについて、こう書かれています。「その日が来れば、と主は言われる。わたしは足の萎えた者を集め、追いやられた者を呼び寄せる。わたしは彼らを災いに遭わせた。しかし、わたしは足の萎えた者を、残りの民としていたわり、遠く連れ去られた者を強い国とする。シオンの山で、今よりとこしえに、主が彼らの上に王となられる」(6‐7節)。

 「その日が来れば…追いやられた者を呼び寄せる」と主は言われます。その「追いやられた者」は、「遠く連れ去られた者」とも表現されています。そこには加えて「わたしは彼らを災いに遭わせた」とあります。彼らは神の裁きを経験した人々だということです。神の裁きを経験し、追いやられ、遠く連れ去られた人々。それは、紀元前6世紀にユダ王国が滅亡した時、バビロンに捕らえ移され、捕囚となった人々のことです。その捕囚民が、象徴的に「足の萎えた者」と表現されているのです。この預言の言葉は、もともとはそのような人々が聞いた言葉なのです。

 それはこの直前の3章を読むとよくわかります。3章にはエルサレムに対する裁きの預言が語られています。預言者イザヤとほとんど同じ時期に活動していた預言者ミカが、特に政治的指導者たちや宗教的指導者たちに向けて語った裁きの預言です。その一部分をお読みしますのでお聞きください。「聞け、このことを。ヤコブの家の頭たち、イスラエルの家の指導者たちよ。正義を忌み嫌い、まっすぐなものを曲げ、流血をもってシオンを、不正をもってエルサレムを建てる者たちよ。頭たちは賄賂を取って裁判をし、祭司たちは代価を取って教え、預言者たちは金を取って託宣を告げる。しかも主を頼りにして言う。『主が我らの中におられるではないか、災いが我々に及ぶことはない』と」(3:9‐11)。

 まだユダ王国が滅びるなどと、人々が夢にも思っていなかった時代です。エルサレムはまだ王国の都として栄えていました。神殿も存在していました。政治的宗教的な体制も揺らぐことなく存在していました。しかし、そこに語られているように、指導者たちは主の御心にではなく、自分の利益にしか関心がありませんでした。それでも宗教的な儀式だけは滞りなく行われていますから、それで安心しきっているのです。「主が我らの中におられるではないか、災いが我々に及ぶことはない」と。

 それゆえミカは神の裁きを宣告するのです。「それゆえ、お前たちのゆえにシオンは耕されて畑となり、エルサレムは石塚に変わり、神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる」(3:12)。それはもちろん立ち帰るようにとの神の呼びかけでもあります。初めから滅ぼすつもりなら、このようなことを語る必要もないのですから。それは宗教的な儀式の中に安住している、神に背いた人々への呼びかけなのです。しかし、彼らはその呼びかけに応えることはありませんでした。かくしてミカの預言の言葉は実現することとなりました。やがてエルサレムは破壊され、神殿は焼き払われ、ユダ王国は滅亡したのです。エルサレムの指導者たちをはじめ、主だった人々はバビロンに捕らえ移されていきました。

その日が来れば すべては人間の罪が自らにもたらした結果に他なりませんでした。神に背いてきたのですから、神に見捨てられたとしても仕方がないのでしょう。しかし、そのような捕囚の民が耳にしたのは、神の憐れみと救いの言葉だったのです。それが今日読まれたこの聖書の言葉なのです。本来ならば聞くことができないはずの、恵みの言葉です。

 とはいえ、捕囚となった人々にとって、この恵みの言葉は、目にしている現実とはあまりにもかけ離れた言葉に聞こえたに違いありません。「主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる」(1節)と主は言われます。しかし、現実には「主の神殿の山」はもうないのです。神殿がないのですから。「山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる」とありますが、現実にはどの山々よりも惨めな状態にあるのです。

 さらには「もろもろの民は大河のようにそこに向かい多くの国々が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と」(1‐2節)と書かれています。諸国の人々が主を求めてエルサレムに集まってくると言うのです。実際に起こっていることは、まさにその正反対です。イスラエルがその罪のゆえに、諸国民の間に散らされてしまっているのです。

 実は今日お読みした1節から3節は、ほとんど同じ形でイザヤ書2章に出てくるのです。つまりこの言葉は直接彼らに語られた言葉というよりは、伝えられてきた言葉だということです。ですから同じ言葉が別の経路で伝えられてイザヤ書の中にも残っているわけです。伝えられてきた言葉なら、簡単に捨てられることもあり得るのでしょう。「バカバカしい。こんな現実離れした言葉が何の役に立つか!」そのようにして、この預言の言葉が歴史の中に消えていったとしても不思議ではありません。しかし、彼らはこの御言葉を捨てなかったのです。神の言葉として、彼らの内に留めたのです。だからこうしてミカ書に残っているのです。

 彼らはどうして「バカバカしい」と言って捨ててしまわなかったのか。それは冒頭にある「終わりの日に」という言葉の故なのです。考えてみてください。「終わりの日に」と語られるということは、「まだ終わりではない」ということです。「今はまだ途中である」ということです。確かに神の約束からは、全くかけ離れた現実を見ています。いまだ惨めな状態にあるのです。しかし、それはまだ途中なのです。結論ではないのです。まだ終わってはいない。今はまだ途中だということを彼らは受け止めたのです。そして、そのように今が途中であることを認めて前に目を向けてこそ、途中である今をどう生きたらよいかも見えてくるのです。

 5節にはこう書かれています。「どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む」。それが彼らの目にしているこの世の現実です。もろもろの民は大河のように主の山に向かう、ということは起こっていないのです。だから「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」ということも実現していないのです。しかし、途中であるならばそれでもよいのです。その時に大事なことは何か。先の言葉はこう続きます。「我々は、とこしえに我らの神、主の御名によって歩む」。

 追いやられたところで、遠く連れ去られたところで、とにかく彼らは「主の御名によって」歩んでいくのです。問題は周りがどうであるかではありません。自分がどう歩んでいるかなのです。自分と主との関係がどうなっているかということこそ、問わなくてはならない。そのように主の御名によって歩むなら、主御自身が希望を語ってくださるのです。「その日が来れば」と。

 さて、「その日が来れば、と主は言われる。わたしは足の萎えた者を集め、追いやられた者を呼び寄せる」(6節)と語られていた「その日」は来たのでしょうか。捕囚となった人々は、紀元前6世紀後半にはエルサレムへの帰還を許され、神殿を建て直すことができました。その意味では実現したとも言えます。しかし、このミカ書の言葉が聖書に残されて、こうして繰り返し今も読まれているということは、まだ「終わりの日に」というその「終わり」は来ていないということでもあるのでしょう。

 まだ終わってはいない。今なお途中であるということについては、私たちにしても同じなのです。私たちが目にしているこの世界は救いが完成した世界ではありません。第2朗読では「わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう」(ヘブライ12:29)と書かれていました。しかし、私たちはその御国をまだ見ていないのです。私たちはこの世において、苦しみ悩みながら、バビロン捕囚民のように耐え忍ばなくてはならないという現実は、確かにあるのでしょう。私たちは御国を見るまでは、これからも幾度となく涙を流さなくてはならないのでしょう。

 しかし、私たちは、既に神の憐れみと救いの言葉を聞いているのです。イエス・キリストという御方によって、その十字架と復活を通して、神は既に決定的な仕方で、お語りくださったからです。神は私たちにも終わりの日を指し示し、「その日が来れば!」と語ってくださる神なのです。私たちは確かにその途上にあるのです。ならば大事なことは、その途上の今をどう生きるのかということなのでしょう。「我々は、とこしえに、我らの神、主の御名によって歩む」。これは私たちの言葉でもあるのです。

(祈り)

2020年6月21日日曜日

「神の求めておられる正しさとは何か」

ハバクク書2:1-4

 預言者ハバククは言います。「わたしは歩哨の部署につき/砦の上に立って見張り/神がわたしに何を語り/わたしの訴えに何と答えられるかを見よう」(1節)。歩哨とは見張りの兵士です。砦の上に立って見張っているのです。敵から町を守るため、僅かな変化も見逃さないように、小さな兆しをも見逃さないように、目を凝らして、全神経を集中させて、歩哨は砦の上に立って見張ります。

 そのような見張りに立つ兵士のように、全神経を集中させて、ハバククは神の言葉を聞こうとしているのです。神の答えを見ようとしているのです。神はわたしに何を語ってくださるのか。わたしが訴えて祈ったことについて、神はどのように答えてくださるのか。絶対に聞き逃さないように、絶対に見逃さないように、彼はひたすら神の言葉を、神の答えを待ち望むのです。

主よ、いつまで
 このハバククという預言者についてはほとんど何も知られておりません。ただハバクク書の内容から、紀元前600年頃に活動した預言者であることは分かります。ユダ王国が滅亡へと向かっていた時代です。今日はそのような背景を持つハバクク書を途中からお読みしました。実はこの書物、こんな嘆きの言葉から始まるのです。

 「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに、いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに『不法』と訴えているのに、あなたは助けてくださらない」(1:2)。

 「いつまで、あなたは聞いてくださらないのか」という言葉から、ハバククが長い間祈り続けていたことがわかります。単に個人的な助けを求めていたわけではありません。この社会における「不法」について神に訴えていたのです。御心に反することが行われているからです。

 かつてユダの国にはヨシヤという王がいました。神に従う、敬虔な名君でした。ヨシヤの時代に、宗教改革が行われました。この改革は国内に良き秩序の回復をもたらしました。失われていた正義が回復されていきました。世を憂いていた人々は皆、ヨシヤの改革に期待していました。輝かしい時代の到来を信じていました。しかし、そのヨシヤが志半ばにして死んでしまいました。ひとつの時代が終わりました。そして、そこから崩壊が始まりました。

 先ほどの、ハバククの嘆きの言葉はこう続きます。お聞きください。「どうして、あなたはわたしに災いを見させ、労苦に目を留めさせられるのか。暴虐と不法がわたしの前にあり、争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。律法は無力となり、正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう」(1:3‐4)。

 ヨシヤの跡継ぎとなったのは息子のヨアハズでした。しかし、この王は当時の超大国であったエジプトの権力によって三ヶ月ですげ替えられました。代わりに立てられたのはヨヤキムという王でした。ヨヤキムの時代は、まさにこの預言者の言葉どおりの時代でした。支配者層による弱者の抑圧、果てしなく繰り広げられている争いと暴力。「神に逆らう者が正しい人を取り囲む」と書かれています。正しい人は圧倒的少数でした。だから、力によって正義が曲げられてしまうのです。

 ユダの国がそのような正しさのない状態にあることをハバククは神に訴えてきました。だからこそ、嘆きもまたあるのです。「いつまで、あなたは聞いてくださらないのか」。それは、ある意味で、神の正しさを問う嘆きでもあるのでしょう。正しさの失われている状態を野放しにして、訴えているのに何もしてくれない。神は本当に正しいのか、という問が生まれます。それはハバククでなくても、社会のありようを見て、今日の私たちも感じていることかもしれません。神は本当に正しいのか。

わたしはカルデア人を起こす
 そんなハバククに主は一つの答えを与えられました。そして、神の答えはハバククのまったく予期していなかったものでした。主は言われたのです。「見よ、わたしはカルデア人を起こす。それは冷酷で剽悍な国民。地上の広い領域に軍を進め、自分のものでない領土を占領する」(1:6)。

 「カルデア人」とは当時にわかに東方から勢力を強めてきたバビロニア帝国のことです。オリエントの覇権がアッシリアからエジプトへ、さらにバビロニアへと移っていった時代です。神はそのバビロニアが攻めてくると告げたのです。現実にバビロニアは周辺諸国を占領して勢力を拡大し、迫ってきていました。国内の混乱に加えて外国の襲来です。事態はさらに悪くなりつつありました。それが神のなさろうとしていたことだと、ハバククは知らされたのです。

 ある意味で、それは神の正しい裁きであり、正しい懲らしめであるとハバククは理解しました。彼はこう言っています。「主よ、あなたは我々を裁くために彼らを備えられた。岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため彼らを立てられた」(1:12)。しかし、それで単純に納得できたかと言えば、そうではありません。現実に目に映っているのは、バビロニア軍という、より大きな力による暴虐ですから。今日は細かく見ることはできませんが、ハバクク書を読みますと、彼の内に根源的な問いが残っていることがよく分かります。――神は正しいのか。

 神が正義の神であるとするならば、この世において目にすることは実に不可解です。神が正しい御方であるならば、なぜこんなことが起こるのか。なぜこんなことが許されるのか。そう問わざるを得ないことは、いくらでもあるのでしょう。それはハバククの時代も現代も同じです。そこで「神も仏もあるものか」と言う人はいるのでしょう。もう神など信じないと口にする人もいるのでしょう。

 しかし、そこでハバククは神に背を向けないのです。彼はこう言うのです。「わたしは歩哨の部署につき/砦の上に立って見張り/神がわたしに何を語り/わたしの訴えに何と答えられるかを見よう」。見張りに立つ兵士のように、全神経を集中させて、神の言葉を聞こうとするのです。神の答えを見ようとするのです。神はわたしに何を語ってくださるのか。神はどのように答えてくださるのか。絶対に聞き逃さないように、絶対に見逃さないように、彼はひたすら神の言葉を、神の答えを待ち望むのです。

正しい人は信仰によって生きる
 そんなハバククに主は言われました。「主はわたしに答えて、言われた。『幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ。定められた時のために、もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる』」(2:2‐4)。

 この「幻」とは、その後に書かれているように、神によって「定められた時」「終わりの時」に向かっている神の御計画です。最終的な救いに向かっている神の御計画です。神の救いの約束であり、神が与えてくださっている希望です。それを書き記せ、というのです。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと大きく書き記せ、というのです。

 それはなぜでしょうか。それは神の約束は確実に終わりの時に向かって進んでいるからです。人間の目には、全く進んでいないように見えるかもしれない。むしろ逆行しているようにさえ見えることがあるかもしれません。しかし、「そうではない!」と神は言われるのです。それは「定められた時」「終わりの時」すなわち救いの完成の時に向かってまっしぐらに進んでいるのだ、と。

 それならば、人のなすべきことは、信じて「待つこと」です。信頼して待つことなのです。「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。」そして、主は言われるのです。「神に従う人は信仰によって生きる」と。

 「神に従う人」と訳されている言葉は直訳すると「正しい人」です。「正しい人は信仰によって生きる」と書かれているのです。これまで見てきたように、ハバククが問題にしていたのは「正しさ」でした。最終的に残る根源的な問いは、神は正しいのか、ということだったのです。しかし、本当は神の御前にある時、私たちは神に正しさを問う側ではなく、神から正しさを問われる側にいるのでしょう。「そう言っているあなたは本当に正しいのか」と。

 神は今、ハバクク自身に、「正しい人」であることを求められるのです。神の求めておられる正しさとは何か。神が望んでおられる「正しい人」とはどのような人なのか。それは信仰によって生きる人だというのです。すなわち、どこまでも神とその真実に信頼して生きる人なのです。その正しさを主はハバククに求められました。そして、ここにいる私たちにも求めておられるのです。「正しい人は信仰によって生きる」と。

(祈り)

2020年6月14日日曜日

「主の名を呼ぶ者は誰でも救われる」

ローマ10:5‐13

律法による義、信仰による義
 「掟を守る人は掟によって生きる」(5節)。パウロが引用していますように、確かに旧約聖書にそう書かれています。レビ記18章5節からの引用です。「生きる」というのは、神との交わりにあって神の命に与ることです。真に人が「生きる」というのは、神との交わりによるのであって、それは神の掟を守ることによって得られると確かに旧約聖書は語っています。これを「律法による義」といいます。律法によって得られる神との関係です。

 イスラエルの人々が掟を守ることによって義を得、命を得ようとしたのは、確かにそのような聖書の言葉に基づいてのことであったに違いありません。そして、彼らは真剣にこのことを努めたのです。しかし、本当に努力した時に、ある人は気づくことになる。神に従順に生きようとすれば、人間がいかに罪深く、いかに神に対して不従順であるかを知ることになる。人間が自分の行いによって義に至るということは、まさに自力で天にまで上っていくようなものだと気づくのです。
 
 多くの敬虔な人々が、律法を守る努力をしていながらも、いかに救いについて不確かであったかは、イエス様のもとを尋ねてきた人々の言葉からも伺い知れます。幼い頃から律法は遵守してきたと自負する青年がいました。しかし、彼は主にこう尋ねたのです。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19:16)。神との正しい関係なくして永遠の命はないことは分かっている。そして、神との正しい関係を築くのは、やはり人間の行いによるのだと思っている。しかし、真面目に考える人は気づくのです。それは自力で天にまで上るようなことだと。パウロもまたそのような一人だったようです。

 しかし、6節でパウロはこう続けます。「しかし、信仰による義については、こう述べられています。」これは直訳すると「信仰による義がこう言っている」と書いてあるのです。「律法による義」ではなくて、「信仰による義」が私たちに向かって言っているのです。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない」と。

 頑張って天にまで上ろうとしなくていい。それはなぜか。私たちのために、キリストが降ってきてくださったからです。それはキリストがしてくださったことです。私たちは何もしていません。私たちが天にまで上ろうとするのは、すべてキリストがしてくださったことを否定するようなことです。私たちが自分の力でキリストを地上にまで引き降ろしたと言うに等しいのです。

 また信仰の義はこうも言っています。「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」私たちは神との関係を築くために、一生懸命に苦難を背負って底なしの淵にまで下っていこうとしなくてよいのです。なぜなら、キリストご自身が苦難の道をたどって陰府にまで、最も深い暗闇の中にまで下ってくださったからであり、神が御自らキリストを死者の中から引き上げ、復活させられたからです。人間は何もしませんでした。神が成し遂げられたのです。私たちが陰府にまで降っていこうとするのは、すべて神がしてくださったことを否定するようなことです。それは私たちがキリストを死者の中から引き上げたと言うに等しいのです。

 要するに、少々分かりにくい表現ではありますが、「信仰の義」が言っているのは「すべて神がしてくださった」ということです。神との正しい関わりは人間が造り出すのではなく、神が与えてくださるのです。それが「信仰による義」です。人間は信仰によって受けるだけなのです。

あなたの口、あなたの心にある それゆえ、このように語られています。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」そうです。救いの言葉は、近くにあるのです。どこにでしょう。福音が宣べ伝えられているところにです。信仰の言葉が語られているところにです。御言葉は近くにあります。後は、あなたの口にあり、あなたの心にあればよいのです。そこに「信仰による義」もまたあるのです。

 では、信仰の言葉が「口にあり心にある」とは、具体的にどういうことでしょうか。9節以下にはこう書かれています。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(9‐10節)。

 心と口が関わっているのです。しかし、一般的に「信仰」と言われます時、それは心にしか関わっていないものと理解されているのではないでしょうか。心で「信じる」のですから、それで十分であると。しかし、パウロが信仰と言うとき、それは単に「心」にだけではなく、「口」にも関係しているのです。

 いや、さらに言うならば、「心で信じる」ということと「口で公に言い表す」ということは一つのこととして語られているのです。別々のことではないのです。信じてから言い表すのでもなければ、言い表していることを信じるようになるのでもないのです。それは9節と10節で順序が違っていることからも分かります。9節では「言い表し、信じる」。10節では「信じて、言い表す」。別々のことでしたら、これは成り立ちません。

 「口でイエスは主であると公に言い表し」と言われています。「イエスは主である」という言葉は、私たちが礼拝で唱えている使徒信条のようなものが出来る前にあった、初めの頃の信仰告白の表現です。「イエスは主である」。――この言葉の根拠は、イエスの復活です。神はこのお方の死をもって私たちの罪を贖われ、この御方を復活させて、私たちが信ずべき主としてくださいました。このお方において、私たちの救いに必要なすべては成し遂げられました。それゆえに私たちは「イエスは主である」と言い表して、イエスを主として生きていくのです。

 そこで大事なことは、「「口で公に言い表し」ということです。「公に言い表す」という言葉は、しばしば「告白する」とも訳されますが、実はこの言葉の元の意味は「同じことを言う」という意味なのです。教会が信仰の言葉を伝えます。そして、伝えられた人が、代々の教会と同じことを共に口で言い表すのです。そのようにして、代々の教会の信仰の中に身を置くのです。そのように「告白すること」と「心に信じる」ということとが一つとなっているのが、聖書の語るところの信仰に他ならないのです。

 そのように代々の教会が宣べ伝えてきた信仰の言葉が「あなたの口、あなたの心にある」ということが大切なのです。そして、そのように主を信じ、「イエスは主である」と告白して生きる者は、誰も失望することはない、と約束されています。なぜなら、その人には「信仰による義」が与えられているからです。


 私たちは今日、この礼拝堂に集まって礼拝をささげています。ここに集まることができるのはまだ少人数です。他の多くの人は、今同じ時間に、祈りによってこの礼拝とつながって、それぞれ礼拝をささげています。今日、礼拝堂における礼拝においては、かつてのように声高らかに讃美歌を歌うことはできませんでした。教会に滞在することのできる時間も短く、礼拝後に歓談することもできません。宗教的な欲求を含め、様々な欲求の満たしを求めて集まったのなら、少し物足りないということになるかもしれません。

 しかし、本当はそんなことよりも遥かに大きく、とてつもなく重要なことが、今目に見える形で起こっているのです。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」と語られていたことが、現に今ここに起こっているのです。私たちが今、ここに体験しているのは、神の救いの目に見える現れなのです。

 それゆえに、続く12節以下もまた、私たち自身のこととして聴くことができるのです。「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです」(ローマ10:12-13)。そうです。これは私たちのことを言っているのです。
(祈り)

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