2019年5月26日日曜日

「力ある神の言葉を求める信仰」

ルカ7:1‐10

 私たちは毎週集まって、神の言葉を求めて祈ります。先ほども「どうぞ命の御言葉をここに集う私たち一同にお与えください」と祈りました。私たちは神の言葉を求めてここにいます。神の言葉を求めて、聖書に耳を傾けます。

 しかし、私たちが本当に「神の言葉」を求めているかどうかは、繰り返し自らに問わねばなりません。私たちが「人の言葉」しか求めていないなら、「人の言葉」しか与えられないでしょう。そして、そこには「人の言葉」が成し得ること以上のことは期待できないでしょう。さて、私たちは「神の言葉」を求めているのでしょうか。

そうしていただくのにふさわしい人です
 今日の福音書朗読には、「百人隊長」が登場してきました。ガリラヤの領主であったヘロデの軍隊の中級士官です。ユダヤ人ではありません。異邦人です。彼についてはこう書かれていました。「ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ」(2‐3節)。この百人隊長がどういう人であったか、ここによく現れています。

 「重んじられている部下」とありますが、これは「彼にとって大切な奴隷」というのが直訳です。もしかしたら家の奴隷の話かもしれません。7節では「僕」と訳されています。それが家の奴隷であれ、あるいは軍隊の部下であれ、いずれにせよ彼はその人を一人の人間として大切にしていたことが伺えます。その僕が病気になったとき、彼はイエスの助けを求めたのです。異邦人である軍人が、支配下にあるユダヤ人の一人に助けを求めたことは、それ自体、驚くべきことです。それは、自分のためではなく僕の癒しのためでした。

 しかもその際に、彼は自分の部下を送ったのではなく、ユダヤ人の長老たちに取り次ぎお願いしたのです。「ユダヤ人の長老たちを使いにやって」と訳されていますが、内容的には異邦人ある百人隊長が、ユダヤ人である長老たちに頭を下げてイエスとの仲立ちをお願いしたということでしょう。そして、頼まれた長老たちは頼まれた以上のことをしたのでした。その百人隊長のためにイエス様に熱心に願ったのです。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」(4‐5節)。

 「自ら会堂を建ててくれたのです」とありますが、それは単に会堂建築の費用を出してくれたという話ではありません。ただお金を出してくれたぐらいで、ユダヤ人が異邦人について「そうしていただくのにふさわしい人」などと言うことはまずありません。もともとユダヤ人は異邦人を汚れた者と見なして「犬」と呼び、異邦人はそのようなユダヤ人を忌み嫌っているという関係ですから。

 しかし、そのような中にあって、この百人隊長はまさに「そうしていただくのにふさわしい人」と言われているのです。ただ会堂建ててくれただけでなく、その人となり、その人の生活、すべてが評価されていたということなのでしょう。もしかしたら使徒言行録に出て来るコルネリウス(使徒10:1)のように、自ら会堂に出入りし、律法を学び、主なる神を愛する、いわゆる「神を畏れる人々」と呼ばれる一人だったのかもしれません。

 先ほどお読みしたように、百人隊長が願ったのは「部下を助けに来てくださるように」ということでした。そう長老たちに言付けたのです。しかし、当然のことながら、そこで本当に求めているのは神による癒しです。長老たちもそれは分かっているはずです。ですから、ここで「ふさわしい人」というのは、「神に願いを聞き入れられるのにふさわしい人」という意味合いでもあるのです。さらに言うならばそれは「資格がある」という言葉です。この百人隊長は神の恩恵にあずかる「資格がある」と言われているのです。

 なるほど、彼の人となりを考えるならば、長老たちの言葉にもうなずけます。実際、私たちがその場にいても同じことを言ったかもしれません。それは通常私たちが考えていることでもあるのでしょう。わたしに神に何かを願う資格があるか。資格がないか。神に何かをしていただく資格があるか。資格がないか。――ところが、この物語では百人隊長がそのように人間性においても生き方においても「そうしていただくのにふさわしい人」であるから、神は願いを聞き入れて僕を癒してくださった、という話になっていないのです。

御言葉をください
 話は次のように続きます。「そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。『主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください』」(6‐7節)。

 ユダヤ人の長老たちは百人隊長について「ふさわしい人、資格のある人」と言いましたが、この百人隊長自身は「わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました」と言うのです。百人隊長自身は自らを「ふさわしくない、資格がない」と言うのです。屋根の下に迎えられない。お伺いするのもふさわしくない。そう彼は言うのです。

 それは彼が異邦人であり、イエス様がユダヤ人であるということもあるのでしょう。ユダヤ人が汚れていると見なす異邦人の家に、ユダヤ人であるイエス様をお迎えするわけにはいかない。それがこの言葉の意味することの一つではあるでしょう。しかし、恐らくそれだけではありません。ただ有能な医者を迎えるという話なら、彼はそう言わなかったと思います。「ふさわしくない、資格がない」と彼が言ったのは、この御方において神の権威と力が現れていることを知っていたからであるに違いありません。だからこそ、他の誰かではなくイエス様を求めたのです。

 もとより人間のできることなど求めていないのです。必要なのは人間がすることではなくて、神の成し得ることだからです。だからこそイエス様を求めたのです。しかし、だからこそ当然であるかのように迎えることはできないのです。そこに現れているのは神の御業だからです。神の御前では一人の罪人としてへりくだらざるを得ないからです。人の前ではいくらでも誇れるかも知れませんが、神の御前においては、「わたしはふさわしくありません。資格がありません」としか言いようがないのです。

 そのような者として、彼はどうしたのか。御言葉を求めたのです。「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」。イエス様が語られるならば、その言葉は必ず事を成すと信じているのです。なぜでしょうか。彼がそう言った理由は次のように説明されています。「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」(8節)。

 百人隊長が語っているのは、「言葉」の背後にある「権威」についてです。権威を持つ言葉には力がある。事を成す力がある。イエス様が語られる御言葉は、まさにそのような権威と力を持った神の言葉であることを、彼は信じているのです。だから、全幅の信頼をもってただイエス様の語られる神の言葉を求めたのです。

 ヨハネによる福音書においては、イエス様御自身が次のように語っています。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(ヨハネ14:10‐11)。

 「信じなさい」とイエス様が言っておられますけれど、今日お読みしたのは、まさにそのように信じてその御言葉を求めた一人の人が現にいたのだという話なのです。要するに、先に信仰へと招かれていたはずのユダヤ人が信じない中で、それを信じたのが異邦人であったあの百人隊長だったということなのです。

ふさわしいからではなく
 今日の箇所はこのように締めくくられていました。「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。『言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない』。使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた」(9節)。

 先にも申しましたように、この物語は、百人隊長が「そうしていただくのにふさわしい人」であるから、神は願いを聞き入れてくださり、部下が元気になった、という話になってはいません。イエス様がここで賞賛しているのは、彼の人となりでも行動でもないのです。「ふさわしくない」というへりくだった姿ですらないのです。そうではなくてイエス様が目を留められたのは彼の「信仰」でした。イエス様が語られる御言葉は、神の権威と力を持った神の言葉であることを信じ、そして求めた、その信仰でした。

 私たちが求めているのは、人間の成し得ることですか。それとも神様だけが成し得ることですか。人の業ですか。それとも神の御業ですか。私たちの最終的な救いについてはどうですか。それは人間の成し得ることですか。それとも神様だけが成し得ることですか。私たちが救われるとするならば、それは明らかに神の御業なのでしょう。ならば私たちはふさわしい者ですか。資格のある者ですか。「ふさわしい」か「ふさわしくないか」を言うならば、もとよりふさわしい人などひとりもいないのでしょう。

 ふさわしくないならば、「ふさわしくありません」と言ってへりくだったらよいのです。そして、ふさわしくない者のために十字架におかかりくださり、復活して今も生きておられる主の御言葉を求めたらよいのです。生きておられる主が語られる、神の権威と力を持った神の言葉を、信じてひたすら求めたらよいのです。神の言葉が、神の言葉として求められ、聞かれるところにおいて、神の御業が豊かに現わされるのです。

(祈り)

2019年5月19日日曜日

「キリストの友として生きる」

ヨハネ15:12‐17

キリストから友と呼ばれた私たち
 私たちは一月ほど前に復活祭を祝いました。主イエスは復活して今も生きておられる。これが私たちの信仰です。私たちは単に過去の偉大な人物とその教えを信じているのではありません。私たちは、今も生きて働いておられる救い主を信じているのです。ならば重要なのは生きておられる主と私たちとの関係です。それゆえに聖書は様々な表現をもって、私たちとキリストとの関係を語っているのです。

 例えば、イエス様は私たちの王として語られています。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました」(コロサイ1:13)と聖書は教えています。また古代の世界において、王はしばしば羊飼いに例えられました。ですからイエス様も自らを指して「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)と言われました。良い羊飼いは一匹一匹の羊を知っていて、命がけで羊を守り、羊を生かします。主は私たちにとって、そのような羊飼いです。

 あるいは、イエス様は私たちの兄としても語られています。パウロはローマの信徒たちにこう書き送りました。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです」(ローマ8:29)。神様は御子なるキリストを長子とした大きな家族を作ろうとしておられます。その意味において、イエス様は私たちにとって偉大なる「お兄さん」です。

 その他にもいろいろ挙げることができるでしょう。しかし、今日の福音書朗読との関係において特に心に留めたいのは、私たちの「友」としてのイエス様です。これもまた、教会が大切にしてきたイメージです。この後に歌います「いつくしみ深き」(讃312)という讃美歌は、そのようなイエス様と私たちの関係をうたった歌です。今日の箇所で主はこう言っておられました。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(15節)。

 「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われた主は、人がその友に心を開くように、弟子たちにその心を開いて語られました。イエス様の心の内にあったのは「父から聞いたこと」でした。「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせた」と主は言われます。それは父なる神から聞いたこの世の救いの計画でした。この世が救われるためにイエス様が十字架にかからなくてはならないということでした。イエス様は御自身に関わるすべてを語られました。父から聞いたことに従い、御自分が今、何をしようとしているかを、弟子たちに語られました。弟子たちはイエス様にとって「僕」ではなく「友」だからです。

 そして、イエス様にとって「友」であるのは、あの時、そこにいた弟子たちだけではありません。時を経て、今私たちもまた弟子たちが聞いていたのと同じ御言葉を聞いているのです。それは単に世々の教会が今日まで伝えてきたということではありません。宣教の主体はキリストです。すなわち、生きておられる主が、父の救いの計画を私たちにも語ってくださり、十字架の意味を私たちに対して明らかにしてくださったということなのです。私たちにキリストの福音が宣べ伝えられていること、私たちがあの弟子たちと同じように主の食卓の周りにいて御言葉を聞いていること――それらすべては、私たちがキリストから友と呼ばれていることの目に見えるしるしなのです。

キリストの友として生きる
 そして、細かいことですが「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と訳されているこの言葉には、意味合いとしては「わたしは既にあなたがたを友と呼んだ」という表現が使われているのです。この時、初めて弟子たちが主から友と呼ばれたわけではないのです。主は既に友と呼んでくださっている。ですから、その前に書かれている13節、14節の御言葉もまた、既に友と呼ばれている者に対して語られた言葉なのです。

 主は言われました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)。イエス様はここで愛についての一般論を語っているのではありません。これは最後の晩餐におけるイエス様の言葉です。イエス様はまさに「友のために」命を捨てようとしておられたのです。

 「これ以上に大きな愛はない」とはどういうことですか。これ以上愛しようがないということです。イエス様はこれ以上愛しようがないほどに友を愛しておられた、ということです。弟子たちは、既に友と呼ばれている者として、この言葉を聞いていたのです。私たちもまた、既に友と呼ばれている者として、この言葉を聞いているのです。――あなたがたこそ、わたしが愛している友だ、命を捨てるほどに愛している友なのだ、と。

 しかし、それだけではありません。弟子たちは、既に友と呼ばれている者として、もう一つの言葉を聞いたのです。主はさらにこう言われました。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(14節)。

 「友と呼ばれている」ことと、「友である」ということは、必ずしも同じことではありません。「友と呼ぶ」ということは一方通行でも成り立ちます。相手がどう思っていようが、相手が友としてふさわしくなかろうが、その人を「友と呼ぶ」ことは可能です。友として関わることも、友として心を打ち明けることも、一方通行でも成り立ちます。しかし、友達同士という関係は一方通行では成り立ちません。そこには「友と呼ばれている」だけでなく、そう呼ばれている者が本当に「友である」ということが必要です。

 イエス様が弟子たちを友と呼んだことは、ある意味では一方的なことであったと言えます。弟子たちが何かをしたからではなく、弟子たちがふさわしかったからでもなく、後に書かれていますように、イエス様が一方的に選んだのです。イエス様が招き、彼らを友と呼んで、心の内を打ち明けて、父から聞いたことをすべて知らせたのです。そして、友のために命を捨ててくださった。イエス様が弟子たちを友と呼んだとするならば、そして、ここにいる私たちを友と呼んでくださっているとするならば、それはイエス様の一方的な愛に他なりません。

 しかし、イエス様はただ一方的に弟子たちを「友と呼ぶ」だけでなく、本当の意味で友であって欲しいと願っておられるのです。しかし、その時にイエス様は「わたしがあなたがたを友として愛したように、あなたがたもわたしを友として愛して欲しい」とは言われないのです。主はこう言われました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節)。「掟」というのは実に厳めしい言葉ですが、要するに、これこそが主の望んでおられることだ、ということです。そして、主は言われるのです。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」。

 主は私たちを友と呼んでくださいました。命を捨てるほどに私たちを愛して、友と呼んでくださいました。そして、真実な友であって欲しいと願っておられます。私たちも、主から友と呼ばれるだけでなく、イエス様の友でありたい、イエス様の友として生きたいと思います。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」。この御言葉にどうお応えしたらよいのでしょう。

 主は言われました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ならば、主が私たちを愛したように、互いに愛するということは、「友のために自分の命を捨てること」であるに違いありません。しかし、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と主が言われる時、イエス様と同じように十字架にかかることを求められているわけではないことは明らかです。

 実は、ここで用いられている「命」という言葉は、「魂」とも訳せる言葉であり、要するに「自分自身」を意味する言葉なのです。ですから、「自分」を捨てる、と言い換えてよいでしょう。そして、「捨てる」という言葉も、本来、「置く」あるいは「差し出す」という言葉なのです。

 友のために自分自身を差し出す。それはイエス様においては、私たちの救いのために文字通り命を捨てることを意味しました。私たちの罪を贖うために十字架の上で死なれることを意味しました。そして、私たちには私たちそれぞれに自分自身の差し出し方があるはずなのです。他者のために、互いのためにこの世の命を用いる、命の用い方があるはずです。イエス様が愛してくださったように、互いに愛し合うとはそういうことなのでしょう。そのようにして、私たちはイエス様の友として生きるのです。

実を結び、その実が残るように
 そして、私たちがイエス様から友と呼ばれるだけではなく、イエス様の友として生きるということは、ただ私たちお互いにのみ関わるのではなく、教会だけに関わるのではなく、広くこの世界に関わっているのです。イエス様の関心は弟子たちにのみ向けられているのではなく、広くこの世界全体に向けられているからです。

 16節にはこう書かれています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(16節)。

 イエス様は弟子たちを友と呼び、心の内を打ち明けて、父から聞いたことをすべて知らせただけではありません。その弟子たちを、友を、この世界に送り出されるのです。この世界に送り出されたイエス様の友が、出かけて行って実を結ぶためです。しかも、その実が残るためです。

 その実が何であるかは具体的には書かれてはおりません。それは宣教の実、救いの実と理解することもできますし、より広く、愛の結ぶ実として理解することもできるでしょう。しかし、その実が何であれ、そのために送り出される弟子たちの能力や資質が問題にされていないことは明らかです。

 「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」と言われるならば、この世に送り出される側としては、いったい自分に何ができるだろうかと考えてしまうかもしれません。能力があるかないか、強いか弱いか、若いか年老いているかを問題にしたくなるかもしれません。今の自分がどのような状態にあるかを問題にしたくなるかもしれません。しかし、イエス様はただ「わたしが選んだのだ」と言われるのです。「そんなあなたをわたしは選んだのだ。そんなあなたを友にしたいと思ったのだ」と言われるのです。先にも申しましたように、イエス様が「友と呼ぶ」ということについては、ただイエス様の一方的な愛に基づくのです。

 ならば大事なことは、ただ一つだけなのでしょう。イエス様の友として生きることです。具体的には、17節において、もう一度確認するかのように改めて繰り返されています。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。私たちが心を向けるべきことは、私たちがどのような実を結び得るか、どれほどの実を結び得るかではありません。どのように生きているかです。イエス様から、これ以上に大きな愛はない愛をもって、友と呼ばれました。ならば常に心を向けるべきことは、ただイエス様の友として生きているか否かなのです。

(祈り)

2019年5月12日日曜日

「命のパンを求め続けよう」

ヨハネ6:34‐40

天から降って来て命を与えるパン
 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)。イエス様はそう言われました。

 「命のパン」。不思議な言葉です。私たちの日常では使われない言葉です。「命のパン」とは何を意味しているのでしょう。今日は34節からお読みしましたが、その直前の33節にはこう書かれています。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」。「命のパン」とは、「命を与えるパン」という意味のようです。さらに遡りますと、27節で主は人々にこう勧めておられます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」。そうしますと、この「命」とは「永遠の命」のことであり、「命のパン」とは、「永遠の命に至る食べ物」を指しているものと思われます。

 このようにイエス様は、天から降って来て、世に命を与えるパンについて語られました。

 「天から降って来るパン」――これもまた私たちの日常には馴染みのない言葉です。天からパンが降るのを見たことはないでしょう。私もありません。しかし、これを聞いていたユダヤ人たちにはピンと来るものがあったはずです。というのも、旧約聖書の中に、天から降ってきたパンの話が出てくるからです。

 ユダヤ人の先祖は、モーセに率いられてエジプトを脱出しました。そしてただちに荒れ野に導かれます。荒れ野には食べ物がありません。大喜びでエジプトを脱出した彼らは、やがて空腹を訴え、不平を言い始めました。

 そこで主はモーセに言いました。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる」(出16:4)。そして、マナという不思議な食べ物を与えられたのでした。まさにそれは天からのパンでした。こうして彼らは天からのパンによって養われ、旅を続けることができたのです。天からのパンは荒れ野にいたイスラエルの民に命を与え、彼らを生かしました。その意味において、確かにマナは彼らにとって「命のパン」でした。

 しかし、神がマナを降らせたのは、単に彼らの肉体的な飢えを満たすためではなかったのです。後にモーセがマナについて、次のように民に語っています。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(申命記8:3)。

 逆説的でありますけれど、神がパンを与えたのは、「人がパンだけで生きるのではない」ことを知らせるためだった、と言うのです。つまり、人が本当の意味で「生きる」ということは、単に食物による生命維持以上のことだということです。人が真に「生きる」とは、神の言葉によって生きることだ、と神は言われるのです。すなわち、神が人に語られ、人が愛と信頼と従順をもって神に応える。そのように人が神と共に生きることこそ、本当の意味で「生きる」ということなのです。

 言い換えるならば、そのような神との交わりこそが「命」なのです。「永遠の命」とは、永遠なる神との交わりに他なりません。その意味からしますと、命のパンとは、イスラエルの民が食べたマナそのものではありません。命のパンとは彼らに与えられた神の御言葉なのです。「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と語られているとおりです。

 イエス様は今日の箇所において、そのような「命のパン」について語っておられるのです。間違ってならないのは、イエス様はここで「命のパン」について語っているのであって、「精神的なパン」について語っているのではない、ということです。物質的に満たされるのではなく、精神的に満たされることが必要だ、と言っているのではないのです。

 精神的な満足感や充実感が必要なだけならば、様々な事によって満たされ得るのです。事実、多くの人々は、そのような心の必要を満たすために奔走しているのでしょう。心を満たすものを提供するビジネスはいくらでもあるのです。しかし、必要なのは精神的な何か、ではありません。必要なのは「命」なのです。

 イエス様が「命のパン」について語られたのは、この世界が命を失っているからでしょう。そうでなければ「命のパン」について語る必要はありません。「天から降って来て、世に命を与えるパン」について語られたのは、この世界が神との交わりによる真の命を失っているからです。それは宗教的に見えるユダヤ人社会においてもそうだったのです。彼らも「命のパン」を必要としていたのです。それは、今日の世界においても同じです。この世は「命のパン」を必要としているのです。

 この世界は苦しんできました。今も苦しみ続けています。多くの問題がこの世界を苦しめているように見えます。人類どころか生物全体の存続を脅かしている核問題と環境問題を抱えるこの世界は、まさに死に瀕した状態に見えます。しかし、本当は、死に瀕して苦しんでいるのは解決困難な諸問題のゆえではないのです。神の言葉を失い、神との交わりを失い、命を失っているからなのです。世界は本当の命に飢えているのです。「命のパン」が必要なのです。

わたしが命のパンである
 そこで、イエス様はこう言われたのです。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。御自分を指して、「わたしが命のパンである」と宣言されたのです。これはある意味で歴史上の誰も口にすることがなかった驚くべき宣言です。

 イエス・キリストが命のパンであるということは、第一に、この御方こそ神の御言葉であり神の啓示である、ということを意味します。神は、かつて預言者を通して語られました。人間の言葉や文字によって語れました。しかし、最終的には人間の言葉によってではなく、御子をお遣わしになることによって語られたのです。イエス・キリストという一人の御人格をもって、この世に語りかけられたのです。ヨハネによる福音書の1章では、このことが次のように表現されていました。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1:14)。

 そして、第二に、イエス・キリストが命のパンであるということは、実際にこの御方が私たちに神との交わりを与え、命にあずからせてくださることを意味します。そして、それは丁度、パンが人に食されて肉体に命を与えるのと同じ仕方において起こるのです。パンは口に入れられ、噛み砕かれ、消化されて命を与えます。いわば、パンは自らを与えることによって人に命を与えるのです。そのように、キリストもまた自らを与えることによって命を与えるパンとなられたのです。

 ですから、イエス様はこの後に、もっと露骨な表現をもって、御自分の為そうとしていることを語られます。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」(6:53‐55)と主は言われるのです。

 「わたしの肉を食べよ。わたしの血を飲め」。このことが一体何を意味するのか、その時聞いていた者は誰一人理解できなかったに違いありません。しかし、やがて弟子たちはその意味するところを知ることになるのです。それはイエス様が十字架の上で肉を裂かれ、血を流されることを意味していたのだということを知ることになるのです。あの十字架上のイエス様の姿は、いわば「わたしの肉を食べよ。わたしの血を飲め」というイエス様の叫びそのものだったのです。

 私たちを神との交わりへと導き、命を与えるためには、そのようにイエス様が自分自身を与え尽くして死ななくてはなりませんでした。なぜなら、私たちが神と共に生きるためには、まず私たち自身の罪が取り除かれなくてはならないからです。

 罪は私たちが忘れ去ることによって除かれるのではありません。私たちが忘れても、罪は残ります。それは神の御前に残るのです。罪は命をもって贖われなくてはなりません。私たちの罪は、私たちの罪を代わりに負って死んでいく贖いの犠牲によって、担われ、取り除かれるのです。こうして、主は御自分を与えることにより、私たちに命を与える「命のパン」となってくださったのです。

そのパンをいつもわたしたちにください
 しかし、よくよく考えてみますと、「パンが与えられること」イコール「飢え渇きを免れること」ではありません。パンを手にしている人が飢えて死ぬことはあり得えることなのです。その人がパンを食べなかったら、パンが与えられていても、やはり飢えて死ぬのです。

 確かに、主は私たちが生きるための「命のパン」となってくださいました。「命のパン」は既に与えられているのです。二千年前に既に与えられているのです。しかし、そのことは自動的に命の飢えを免れ、滅びを免れることを意味してはいません。人は「命のパン」を求め、それを自分自身で食べなくてはならないのです。それゆえに、主は「わたしが命のパンである」と言われただけではなく、さらに次のように言われたのです。「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と。

 キリストのもとに来る者とは、キリストを信じる者です。命のパンであるキリストを食べるとは、キリストを信じることです。ここで語られているのは、イエスという一人の御方と、私たち自身との、人格的な関係です。

 私たちは、単にキリスト教という宗教を信じるように求められているのではありません。単に聖書という聖典を信じるように求められているのでもありません。単にイエスの《教え》を信じるようにと言われているのでもありません。ただ単に、キリストについての「何か」を信じるようにと求められているのではありません。私たちを愛して御自分の命を与えてくださり、復活して今も生きておられるこの御方を求め、この御方を信じるようにと呼びかけられているのです。

 彼らは言いました。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」。彼らは自分が何を求めているか、その時には知りませんでしたが、私たちは何を、いや「誰を」求めるべきかを既に知らされています。私たちこそ常に「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うべきなのでしょう。キリストは、今も御自分の体である教会を通して、私たちを御許に招き、こう言っておられるのですから。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と。

(祈り)

2019年5月5日日曜日

「キリストの手足に残る傷跡」

ルカ24:36‐43

  「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(36節)と書かれていました。明らかにドアをノックして入ってきたようには書かれていません。それこそ亡霊のように突然、彼らの真ん中に現れたという書き方です。ヨハネによる福音書では殊更に「自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(ヨハネ20:19)とまで書かれています。鍵をかけていた部屋に、イエス様が突然現れた。だから彼らは亡霊を見ているのだと思って恐れおののいたのです。

 今日の聖書箇所の直前には、イエス様の姿が突然「見えなくなった」(31節)という話が書かれています。先週お読みした箇所です。そのように復活したイエス様は、突然見えなくなったり現れたりされるのです。にもかかわらず、そのイエス様が今日の箇所ではこう言っておられるのです。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」(39節)。

 どう考えてもおかしいでしょう。亡霊ならまだわかります。突然に現れたり消えたりしても文句は言いません。亡霊ですから。しかし、肉や骨があると言うならば、突然消えたり現れたりしないでほしいと思います。しかも、イエス様はわざわざ「ここに何か食べ物があるか」と言われるのです。そして、差し出された焼き魚を「彼らの前で食べられた」というのです。突然現れたり消えたりする方ならば、焼き魚を食べるのだけはやめて欲しい。どう考えてもおかしいでしょう。もしここでイエス様がまた突然見えなくなったら、食べた焼き魚はどうなるのでしょう。焼き魚まで消えるのでしょうか。

 しかし、こういう理屈に合わない奇妙な話を、キリスト教会はこの二千年間大真面目に伝えてきたのです。それは単に「理屈に合おうが合うまいが、実際に見たんだからしょうがないだろう」ということではないのです。もしその程度のことなら、それを実際に見ていない次の世代か、あるいはその次の世代でこの話は消えていったはずです。しかし、そうではなくて、幾世代も伝えられてきたというのは、これが私たちの救いに関わるとても大切なことを語っている話であるからに違いありません。そのメッセージを、私たちはしっかり聞き取らなくてはならないのです。

 今日の箇所において、復活したイエス様は、明らかに御自分が「亡霊ではない」ということにこだわっています。「「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」(39節)。体のない「霊」ではなくて、「体を持っているのだよ」ということがイエス様にとっては相当重要のようです。それこそ魚を食べてデモンストレーションまでなさるほどに、こだわっておられる。

 実は、このイエス様のこだわりこそ、後の教会もまた徹底的にこだわり続けてきたことなのです。このこだわりを、後の教会は次のように表現しました。「我は体のよみがえりを信ず」――毎週、私たちが口にしている使徒信条の言葉です。

体のよみがえりを信ず
 皆さんは使徒信条のこの言葉をどんな思いで口にしておられるでしょうか。これが「我は体のよみがえりを信ず」ではなくて、「霊魂の不滅を信ず」という言葉であったら、この国の多くの人にとっても、ずっと理解しやすかったと思います。実際、特に信仰を持っている人でなくても、「肉体は滅びても霊魂は生き続けている」と考える人は少なくないでしょう。

 実は、その点に関しては、初代教会の置かれていたギリシア・ローマ世界においても、今日の私たちと事情はさほど変わらなかったのです。霊魂が人間の本質であり、善なるものであり、不死であり不滅であるということは、多くの人々にとって、極めて自明のことだったのです。しかし、そのような人々の間で、なお教会は「我は霊魂の不滅を信ず」ではなくて、「我は体のよみがえりを信ず」という言葉をもって信仰を言い表してきたのです。そして、キリストが体をもって復活したことを、二千年もの長きに渡って伝えてきたのです。そこに私たちの希望もあると語ってきたのです。

 それはなぜなのか。――「体のよみがえり」という言葉でなければ、表現し伝えることができない信仰と希望の内容があるからなのです。

 「我は体のよみがえりを信ず」と言う場合、その「体」とは、他ならぬ、それぞれ固有の人生を生きてきた、この「体」に他なりません。キリストにおいても復活したのは、マリアから生まれ、十字架に至るまでの固有な人生を生きてきたその「体」です。私たちにおいてもそうです。目に見えるこの世界に関わり、目に見える他の人間に関わりながら、それゆえに多くの喜びと共に、時に多くの苦しみ悩みや悲しみを伴いながら、ある限られた年月を生きてきた「体」です。その「体」の復活について聖書は語っているのです。正確に言うならば、神によって「復活させられる」と聖書は語っているのです。そこに死ぬべき人間の救いを見ているのです。そこに死を越えた希望を見ているのです。

 それは確かに理解困難な事柄です。本日第二朗読ではコリントの信徒に宛てたパウロの手紙が読まれました。今日の聖書箇所の前には、「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」という問いが出て来ます。それに対して、パウロが言葉を尽くして体の復活について説明しています。しかし、それでもなお、ある意味ではよく分からない。死の克服については神の領域なのであって、人間の理解を越えた神秘です。

 しかし、それでもなおはっきりと語り得ることはあります。それがどのようなことであれ、神が「体」を復活させてくださるとするならば、その「体」は神にとって決して無意味なものではあり得ない、ということです。従って、その「体」をもって生きた一生もまた、神の御前に無意味なものではあり得ない。どのような傷が刻まれた一生であっても、その一生を生きてどのような傷が刻まれた体であっても、その体を神が栄光の体によみがえらせてくださるのです。それが神の国における出来事であり、神の最終的な救いなのだということを、弟子たちは見せていただいたのでしょう。

 イエス様はあの時、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」と言われたのです。釘の跡があるからです。それはまさに《十字架にかかって死んだあの体が復活したのだ》ということです。神を愛して、人を愛して生きて、それでもなお憎まれ、苦しめられ、裏切られ、見捨てられ、十字架に釘づけられて死んでいった、まさにその体が神によって復活させられたのです。神の国における栄光の姿に!その姿を弟子たちは見たのです。そのことを教会は伝えてきたのです。

 イエス様は救いが何であるか、希望が何であるかを見せてくださいました。この体が滅び、この体から解放され、苦難に満ちた人生から解放され、この世界との関わりから解放されるところに希望があるのではないのです。そこに救いがあるのではないのです。そうではなくて、私たちは、この体をもって為されたすべてが意味あるものとして生きるところ、体をもって為されたすべてが完成し、この一生が完成するところへと向かっているのです。そこでは私たちの体がかかわったすべてが生きるのです。苦しみも生きるのです。涙を流したことも生きるのです。悩み続けてきたことも生きるのです。何年も何年も病気で苦しむ人もいるのでしょう。その人生が終わると共にすべてが無に帰して、病気であったことも何の意味のなかったかのようにすべてが消え去って終わるのですか。いいえそうではないのです。病気で苦しんできたことも生きるのです。病気を耐え抜いた《その体が》神の国に復活するのです。すべてが生きるのです。何一つ無駄に地に落ちることはない。イエス様においては、十字架におかかりになったことさえも生きたではありませんか。すべてが生きて私たちは栄光の姿へと変えられる。私たちはそこに向かっているのです。

永遠の傷跡によって
 そして、最後に一つのことに目を向けて終えたいと思います。これまでキリストの体の復活と私たちの体の復活を同列に並べて語ってきました。それは決して間違いではないのです。今日の第二朗読で読まれたパウロの手紙でもそのように語られていますから。しかし、そのことに違和感を覚えながら聞いておられた方があるならば、ある意味では健全だと思います。というのも、キリストの体と私たちの体は決定的に異なるからです。

 あの御方の体はただ神と人とを愛するために用いられた体であり、そのために捧げられた一生でした。私たちの体はそうではありません。私たちの体はただ悩みや苦しみを負ってきた体であるだけではありません。私たちの体は、神に背くことを行い、人を傷つけ、苦しめてきた体なのです。そのような一生なのです。そのような体やその体が営んできた一生を、キリストと同列に扱えるはずがありません。本来ならば、キリストの復活は、単純に私たちの復活の希望に結びつくはずがないのです。

 だからこそ、キリストの復活が「体のよみがえり」であることに、今一度しっかり目を向ける必要があるのです。キリストは復活して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」と言われたのです。十字架の釘の跡を示して、「まさしくわたしだ」と言われたのです。そこにあった傷跡は、ただ私たちと同じ一人の人間として、苦しみを負って死んでいったことを示しているだけではないのです。あの傷跡は、私たちを救うために来られたメシアとして、私たちの罪を贖う犠牲として、確かに十字架の上で死なれたその体であることを示しているのです。その体が、神によって復活させられたのです。それはすなわち、その御方による罪の贖いが完全に成し遂げられたことを意味するのです。

 復活されたキリストの体には、傷跡がありました。復活された体になおも残された傷跡ですから、それは永遠に残る傷跡です。私たちの罪が赦され救われるために、イエス様は永遠に手と足に傷跡を持つ御方となられました。私たちが「体のよみがえりを信ず」と喜びをもって言い表すことのできる唯一の根拠がそこにあります。キリストの十字架による「罪の赦し」こそが根拠なのです。

 手と足に傷を持つ御方のゆえに、私たちは罪の赦しにあずかり、なおもこの体をもって生きていくのです。罪の赦しが与えられているからこそ、この体をもって共に主を礼拝し、この体をもって世に遣わされ、この体をもってこの世界にかかわり、人と人とのかかわりの中に生きていくのです。今この時を生きているこの体こそが、やがて復活せられる体です。この体をもって、私たちはすべてが生かされる復活の時、救いの完成の時へと向かっているのです。キリストは体をもって復活されました。それゆえに、私たちは今日も共に私たち自身について信仰を言い表します。「体のよみがえりを信ず」と。


(祈り)

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