2020年3月29日日曜日

「キリストと共に葬られ、キリストと共によみがえる」

コロサイの信徒への手紙2:11-15

罪の中で死んでいたあなたがた
 「肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです」(2:13)。割礼はユダヤ人であることのしるしです。ですから、「肉に割礼を受けず」ということは「ユダヤ人でなく異邦人である」ということを意味します。そして、異邦人の無割礼が象徴しているのは、神との交わりの喪失です。これを聖書は「死んでいたあなたがたを」と表現します。命の源である神から離れていることを、霊的に「死んでいる」と表現しているのです。

 私たちは肉体的な死については大いに問題にし、それゆえにまた苦しみ悩みますが、本当は霊的な死の方がより重大かつ本質的な問題なのです。それは神との関係ですから。それはこの世のことではなく、永遠の救いと滅びに関わることなのです。

 もちろん神との関係、人間の霊的な状態というものは、この世における具体的な生活と深く結びついています。目に見えるものは目に見えないものと深く結びついているのです。死んでいるならば、それが「霊的な死」であっても、それは現実に目に見える形になって現れてくるのです。

 ですから、パウロはまた、特に「罪の中に死んでいた」と語っているのです。「罪」と訳されている言葉は、他の箇所では「過ち」と訳されている言葉です。もともとは「道を踏み外すこと」を意味します。人生はそのような意味における過ちに満ちています。ですからここで「罪(過ち)」は複数で書かれているのです。

 私たち人間は神にかたどって創造されました(創世記1:27)。私たちは神の栄光のために創造されたのです。それゆえに私たちの人生には神の目的があるのです。しかし、私たちはその道を踏み外してきたのです。道から外れて歩んできたのです。私たちが道を踏み外して犯してきた数え切れない罪の中で死んでいたのです。その「罪」こそ、私たちが霊的に死んでいることの現われです。ですからパウロは、「罪の中にいて死んでいたあなたがた」と表現しているのです。それが神の目に映っている人間の姿です。

罪の証書を破棄されて
 しかし、パウロはコロサイの信徒たちに言うのです。「罪の中に死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです」と。私たちは自分自身を生かすことは出来ません。霊的に死んでいる人を生かすことができるのは神様です。ではどのようにして私たちを生かしてくださったのでしょうか。

 第一に、私たちの罪を赦すことによってです。罪が赦されることなくして、私たちが再び神様との交わりを回復する道はないからです。パウロは言います。「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」(13‐14節)。

 私たちの罪と過ちは、神様の前にある多額の借金のようなものです。借金であるならば、私たちの負債を明らかにし、返済を要求する借用証書が存在します。借金を無くすには返済するしかありません。しかし、私たちの借金はどれぐらいの額なのでしょう。

 イエス様は私たちの罪を一万タラントンの借金に喩えられました(マタイ18:24)。これは一人の労働者が休みなく働いて約17万年分の給料に相当します。私たちが道を踏み外し、神の栄光を汚してきた罪、そしてこれから犯すかも知れない罪の大きさを私たちは本当の意味で知りません。それは聖書によって教えられねば分からないのです。聖書はそれを一万タラントンに匹敵する莫大な額であると教えているのです。私たちは人に対して犯してきた事柄さえ、完全に償うことはできません。ましてや、人間に対してではなく、神のみが知り得る神に対する諸々の罪を、私たちは到底償うことはできないのです。

 しかし、驚くべきことに、神様はこの借用証書を神自ら破棄してしまわれたと言うのです。「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」(13‐14節)。

 借用証書が合法的に破棄されるためには、借金が返済されなくてはなりません。ここで言われていることは、私たちの罪の借金はすべて完済されたということです。キリストがその命をもって支払ってくださったのです。私たちの罪の代価を、罪のない神のひとり子が肩代わりしてくださったのです。

 十字架にかかられたキリストの血潮の価値は、私たちの理解を超えています。その価値は神にしか分かりません。そうです、私たちには分からないのです。しかし、わかっていることはあります。その十字架の死によって借金は支払われ、借用証書は破棄されたということです。私たちはこの恵みをただ受け取るだけです。キリストを信じる信仰によって、私たちはキリストと一つとなり、キリストの死をわたしのための死として受け取るのです。

 それを最も良く表しているのが、信仰をもって受けるバプテスマです。コロサイの信徒たちはバプテスマを受けることによって何を経験したのでしょうか。12節でパウロはこう言っています。「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」

 私たちの教会では、洗礼式のとき、頭に少量の水をつけます。これを滴礼と言います。しかし、全身を水に沈める「浸礼」という仕方で洗礼式をする教会もあります。いずれにしても内容は同じです。それはキリストと共に死ぬことを意味するのです。すなわち、キリストがその死によってなしてくださった一切のことを、自分のこととして受け取るのです。そして、一度死んだ者とみなされ、一切の罪を赦され、証書を破棄されて、キリストと共に復活するのです。私たちは復活したものとして、罪を赦され生かされた者として、神と共に歩み始めるのです。

 もちろん、水そのものが人を救うのではありません。洗礼という儀式によって救われるのではありません。私たちは神の恵みにより、信仰によって救われるのです。しかし、その信仰を「信じているという意識」あるいは「信じているという感覚」と考えるならば、それほど心許ないものはありません。そのような私たちに救いの恵みを確かなものとして受け取らせるのが洗礼なのです。

悪魔の力から解放されて
 そして、神は第二に、悪魔の力からの解放によって私たちを生かしてくださいます。「そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました」(15節)と書かれていました。「支配と権威」というのは、当時使われていた表現であって、様々な霊的な力、目に見えない力を表しています。パウロはそのような表現を用いて、この世界に働いている悪しき霊的な力、悪魔の力について語っているのです。すなわち、人を神から引き離し、霊的な死をもたらす力です。パウロはそのようなもろもろの支配と権威について、「神はそのような力の武装を解除してしまったのだ」と言うのです。

 ここで用いられているのは、勝利の凱旋将軍の比喩です。かつて、戦争に勝ってローマに凱旋してきた将軍は、自ら戦車の上に立ち、武装解除された敵の捕虜たちをそのあとに従えてさらしものにしたのです。同じように、十字架にかかられ、復活されたキリストは、すでに悪魔の力に対して決定的な勝利を取っておられるのです。悪魔はキリストの前に力を失っているのです。

 私たちはキリストの十字架によって罪を赦され、神との交わりに入れられました。このようにして霊的に死んでいた私たちは生かされたのです。しかし、この新しい命を自分の手で守らなくてはならないならば、私たちの信仰生活は極めて心もとないものとなるでしょう。私たちを神から引き離し、命を失わせ、滅ぼそうとする悪魔の力は強いからです。私たち自身の力ではとても対抗できません。

 しかし、私たちは「キリストと共に」生かされているのです。キリストは勝利者です。キリストは力ある方です。だからこの御方から離れない限り、大丈夫なのです。

 「主われを愛す」という子ども賛美歌がありますが、そこにこう歌われています。「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ」。私たちは弱くとも、この御方は強いのです。この方に結ばれて歩むならば、悪魔は私たちに対して力を持ちません。悪魔は私たちを滅ぼすことが出来ません。何ものも神の愛から私たちを引き離すことは出来ません。私たちは「キリストと共に」生かされたのですから、「キリストと共に」歩んでゆけばよいのです。

(祈り)

2020年3月25日水曜日

祈り会用:ヘブライ人への手紙、9:15-28

 15節において、話は再び「新しい契約」に戻ります。既に8章において、エレミヤ書31章31節以下に基づいて語られていました。その約束の中心は「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」という言葉です。本来、神に対して「あなたはわたしの神です」と言えない者に対して、神様の方から「わたしはあなたたちの神である」と言ってくださる。また「わたしはあなたの民です」と言えないような者に対して、神様の方から「あなたたちはわたしの民だ」と言ってくださる。それが新しい契約です。ですから、そこでは罪の赦しが前提とされています。「わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである」とエレミヤの預言に語られているとおりです。

 この契約の仲介者となってくださったのがイエス様なのです。「罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので」と書かれています。このゆえに、私たちは神に対して「あなたはわたしたちの神」と言うことができ、「わたしたちはあなたの民」と言うことができる。だから希望が持てるのです。それを聖書は「永遠の財産を受け継ぐ」と表現しています。永遠という言葉は、神との関わりにおいてしか使えないのです。「あなたはわたしの神です」と呼べるからこそ、永遠の希望を持てるのです。キリストはそのような契約の仲介者です。

 ですから、私たちにとって大事なことは、この新しい契約が「有効」であるとの確信なのです。それゆえにその有効性が言葉を尽くして語られているのです。まず取り上げられているのは、「遺言」の例です。ギリシア語では「契約」も「遺言」も同じ単語です。遺言は遺言者が死んだら有効になるでしょう。だから同じように、この遺言(契約)もキリストが死んだゆえに有効なのだと言っているのです。

 一読して分かりますように、この議論は「新しい契約」が有効であることの証明にはなっておりません。遺言者が死ぬことと、キリストが死んだことは意味合いが全く違うからです。どうも彼は「遺言」の例もって「新しい契約」の有効性を証明しようとしているのではなさそうです。これは「有効性」の話の導入に過ぎないのです。本当に言いたいのはその次です。「だから、最初の契約もまた、血が流されずに成立したのではありません。」最初の契約においてもやはり血が流されました。契約締結の時だけでなく、その後の祭儀において繰り返し血が流されたのです。なんのためですか。罪の赦しのためです。22節に「こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです」と書かれているとおりです。

 最初の契約、すなわちエジプトの奴隷であった者たちがエジプトから導き出されて与えられた契約もまた、それは神と人との契約ですから、神が彼らに「わたしはあなたたちの神である。あなたたちはわたしの民である」と言ってくださることを意味しました。その時に律法が与えられました。しかし、そこには既に罪の赦しが前提とされていたのです。ですから、繰り返し動物が屠られ、血が流されたのです。最初の契約もまた、血が流されての契約、罪の赦しがあってこその契約だったのです。

 しかし、それはあくまでも「写し」に過ぎませんでした。天の聖所においては、そのような写しではなく、完全な清めが行われねばならなかったのです。かつては旧い契約における大祭司が、契約の箱を挟んで、見えざる神の前に立って動物の血を注いだわけですが、まことの大祭司キリストは、本当の意味で完全な罪の贖いのために、父なる神の前に立ってくださったのです(24節)。

 最初の契約が動物の血が流されることにおいて有効とされたのなら、ましてやキリストの血によって、新しい契約は完全に「有効」となったはずではありませんか。しかも、最初の契約においては、大祭司が毎年、血を携えて至聖所に入らなくてはならなかったのですが、キリストにおいてはそうではありません。既に繰り返し語られていたように、一回限り、決定的なことが行われたのです。ここにおいても、キリストが聖所に入られたのは、「度々御自身をお献げになるためではありません」と書かれているとおりです。キリストは「世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れて」くださったのです。

 さて、ここに書かれているような、新しい契約が有効であるのか、そうでないのかという議論は、私たちにとって重大なこととして響いているでしょうか。私たちが本当に神の民であり得るのか、私たちは本当に神を「わたしたちの神よ」と呼び得るのか。それは私たちにとって重大な問題となっているでしょうか。なっていないとするならば、それはなぜなのでしょうか。その場合、恐らく私たちに一つ言えることは、私たちが自分の置かれている立場を理解していないということであろうと思うのです。神様を礼拝できて当たり前。お祈りできて当たり前。信仰生活ができて当たり前。ともすると、私が決心して神様を「信じてあげた」ぐらいにさえ思っているかもしれません。「わたしたちの神よ」と呼べることを当然のことのように考えているのではありませんか。

 しかし、私たちの置かれている立場は、本来はいわば未決囚なのです。正しい裁判にかけられるのを待っている囚人なのです。27節にはこう書かれています。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」と。このことを真剣に受け止めるならば、どうですか。新しい契約が有効であることは極めて重大な問題ではありませんか。罪の赦しが有効でなかったら、御子が執り成してくださるのでなければ、その裁きの座の前で、自分一人で自らについて語らなくてはならないのです。有罪判決は免れないでしょう。

 私たちが、罪の赦しを告げられて、新しい契約に入れられて、安心して神を「父よ」とさえ呼ぶことができて、裁きを恐れず死ぬことができる。それは、本来、天地がひっくり返るような驚くべきことなのです。そうです。だからこそ、その実現のためにまさに天地がひっくり返るような驚くべきことが起こったのです。神の子キリストが大祭司ともなって、自らの血をもって罪の贖いをしてくださるということが起こったのです。ヘブライ人への手紙は、そのことを私たちに告げているのです。

2020年3月22日日曜日

「真実な神がしてくださったこと」

コリントの使徒への手紙二 1:18‐22

「然り」であると同時に「否」?
 「神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、『然り』であると同時に『否』であるというものではありません」(18節)。そう書かれていました。しかし、普通に考えるなら、この文章の繋がり方はおかしいと思います。

 「『然り』であると同時に『否』である」とは「信頼に値しない」という意味です。「はい」が同時に「いいえ」だったら信頼に値しないでしょう。「行きます、あるいは行きません」という人を頼りにできるか。その人に何かを頼むことができるか。できません。「行く」か「行かないか」どちらかにしてほしいと思います。でないと、信頼することができない。そのように、「『然り』であると同時に『否』である」とは「信頼に値しない」ということです。

 なぜこのような話が出てきたかと言いますと、その背後には、パウロがコリント訪問の計画を変更したということがあります。どのような変更があったのかは、どうもよく分かりません。いずれにしてもパウロが「やります」あるいは「行きます」と言ったことを変更したことは確かです。「やりません」「行きません」になった。「はい」が「いいえ」になりました。このようなことは、通常の社会生活の中でまま起こり得ることです。

 しかし、何らかの事情が重なったのでしょう。パウロは「はい」と言ったのに「いいえ」と言う、信頼のおけない人物だという評価が下されたようです。パウロの言葉は信用できない、と。さらには、パウロという人間そのものに対して、彼は不真実である、不誠実であるという評価が下されたのでしょう。ですから、そのことに対して、パウロは弁明をしているのです。なぜなら、これは彼の宣教にも関わることだからです。

 パウロにはパウロなりの理由があるのです。信仰的な理由があるのです。神に従うゆえの変更だったのでしょう。それはコリントの人たちに対しても、精一杯真実であり誠実であろうとしての変更だったのです。今日の箇所の直後にはこう書かれています。「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです」(23節)。確かなことは分かりませんが、理由の一部はこのようなところにも垣間見えます。

 ですから、今日の箇所の直前でもパウロはこう言っているのです。「このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって『然り、然り』が同時に『否、否』となるのでしょうか」(17節)。もちろん、答えは「そうではない」ということです。人間的な考えによって、「はい」が「いいえ」になったのではない、ということです。

 ならば、最初の話に戻りますが、この18節は変なのです。ここでパウロは「わたしはコリントの信徒たちに対して不真実なことはしていない」と言いたいわけでしょう。ならば最初に来るのは、「神は真実な方です」ではなくて、「わたしは真実です」という主張が来るのでしょう。そして、自分が真実であることを弁明し、論証し、その上で「だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、『然り』であると同時に『否』であるというものではありません」と言うのでしょう。それならば話は通じます。。

 ということで、この繋がり方は変なので、以前の口語訳聖書では「神の真実にかけて言うが、あなたがたに対するわたしの言葉は、『しかり』と同時に、『否』というようなものではない」(18節口語訳)と訳されていたのです。しかし、「神の真実にかけて言うが」というのはあくまでも意訳です。むしろ話の流れとしては、「神の真実」の方が重要になってくるのです。

神は真実な方です
 その先を読みますと、パウロは自分の真実についての弁明などはそっちのけで、「神の真実」の話へと流れていきます。次のように続きます。「わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです」(19節)。

 神の子イエス・キリストの話になりました。神の子イエス・キリストの話であるならば、それは人間にとって救いに関わる話です。救いについては、神が「然り」と言ったら「然り」なのです。神が「否」と言ったら「否」なのです。神が「然り、わたしはあなたがたを救う」と言われたら、神の救いは実現するのです。「否、わたしは救わない」と言われれば、救われないで滅びるのです。

 では、神は私たちについて何と言われたのでしょう。神はキリストにおいて何と言われたのでしょう。「然り」なのでしょうか。「否」なのでしょうか。「然り」であると同時に「否」という、まったく不確かな、信頼に値しないようなことが語られたのでしょうか。いいえ、そうではありません。「イエス・キリストは『然り』と同時に『否』となったような方ではない」とパウロは力説するのです。そして、「この御方(イエス)においては、『然り』だけが実現したのです」と語るのです。

 私たちの救いの話です。それは既に旧約聖書において約束されていたことです。神が救いについて語っておられたのです。その約束がまさに「然り」として実現したということです。ですからパウロはこう続けるのです。「神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです」。パウロは何を言いたいのでしょう。「神は真実な方です」ということです。神の真実なることは、イエス・キリストにおいて完全に現されたのです。

 そして、キリストにおいて完全に現れた神の真実なることの故に、今のパウロがあることを彼はよく知っているのです。神によって救われた者として、今神と共にあるのは、彼が救われるに値するからではなくて、神が真実だったからなのです。それはここにいる私たちにしても同じです。今、私たちがこうして神と共にあるのは、神が真実な方だからです。

 神が約束どおりキリストをお送りくださり、約束どおり罪の贖いを成し遂げてくださり、約束どおり新しい契約を与え、約束どおり神の民としてくださったのです。私たちの救いについて神は「然り」と言われ、その「然り」が実現して、今私たちはここにいるのです。そのように神の真実なることを知るゆえに、私たちは神をたたえるのでしょう。ここに集まっている者も、今、自宅において祈りを合わせ礼拝している人たちも、共に神をたたえているのでしょう。

 だからパウロもこう言っています。「それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』ととなえます」(20節)。まさに私たちが今していることです。「アーメン」とは「そのとおりです。真実です」という意味です。真実なる神の「然り」に対する私たちの「然り」です。

真実なる神に応えて
 そして、大事なことは、この真実なる神の現れであり「然り」そのものであるイエス・キリストと私たちが神によって結ばれているということです。パウロはこのように続けます。「わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました」(21‐22節)。

 神が私たちをキリストに固く結びつけてくださいました。これは私たちをキリストの中に固く保ってくださっているという意味の言葉です。私たちは神の真実の現れ、神の「然り」であるキリストの内に、しっかりと守られているのです。真実なる神様がそうしてくださいました。私たちが聖霊を与えられ、信仰によって歩んでいるとはそういうことです。これをパウロは、「(神が)わたしたちに油を注いてくださった」と表現しています。また、聖霊を与えてくださったのは、神がわたしたちに「証印を押して」くださったということだというのです。

 そのように真実なる神がしてくださったことによって、真実なる神の現れであるキリストの内にあって、この信仰生活は成り立っているのです。ならばそこで、当然のことながら「神の真実」と「私たちの真実」とは切り離せないものとなるのでしょう。「神の真実」によってなされたすべてのことに対する私たちの応答は「私たちの真実」であるはずだからです。

 だからこそ、最初の話に戻りますが、パウロはこう語っているのです。「神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、『然り』であると同時に『否』であるというものではありません」(18節)。普通に考えるならば、これは繋がりがおかしい、と冒頭に申し上げましたが、この繋がりこそが、パウロにとって信仰に生きるということに他ならないのです。

 「神は真実な方です。」私たちはそこにどのような言葉を続けるのでしょうか。神の真実に対して、私たちは私たちの真実をもって、どのようにお応えして生きようとしているのでしょうか。

2020年3月18日水曜日

祈り会用:ヘブライ人への手紙、9:1-14

  天の聖所の写しである地上の聖所については最初の契約の中にその規定がありました。聖所の作り方、礼拝の仕方には定まった形があったのです。ここで著者は、読者にとって身近なエルサレムの神殿ではなくて、聖書に記されている幕屋の作り方と礼拝の規定に言及します。聖所である幕屋は入り口の垂れ幕とは別に「第二の垂れ幕」によって中が仕切られています。その手前が「第一の幕屋」あるいは「聖所」と呼ばれ、第二の垂れ幕の向こうは「至聖所」と呼ばれていました。至聖所には契約の箱が置かれています。その中にはマンナの入っている壺、芽を出したアロンの杖、契約の石版が入っていました。そして、その蓋が「償いの座」もしくは「贖いの座」と呼ばれていたのです。

 この至聖所にある「贖いの座」については、出エジプト記において次のように語られています。「この贖いの座を箱の上に置いて蓋とし、その箱にわたしが与える掟の板を納める。わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る」(出エジプト25:21‐22)。つまり、この贖いの座こそ、神の臨在するところであり、神とお会いする場所として定められているのです。

 しかし、その神の臨在の場、贖いの座がある至聖所には、通常、祭司たちは入ることができません。「以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます」(6‐7節)。大祭司は、自分と民の罪の贖いをするために、贖いの血を携えていくのです。しかし、そのように罪の贖いがなされたとしても、祭司たちでさえ「第一の幕屋」までしか入れないということなのです。つまり本当の意味で神の御前には出られない。神の臨在の前に立つことはできないということです。このことは何を意味しているのでしょうか。この幕屋の構造は、基本的に聖所への道はまだ開かれていないということを意味するのです。贖いの犠牲の血をもってしても、人々は聖所の中心である臨在の場に行けないのですから。

 この幕屋の構造は、「今という時の比喩」であると著者は言います。この場合、「今という時」とは、旧約に属するレビの系統の祭司がまだ存在する時を指しています。つまり、そこでは供え物といけにえとが献げられているのです。動物犠牲の血が罪の贖いとして流されているのです。年に一度は大祭司がその犠牲の血を携えて贖いの座の前に入っていくのです。それは他の律法の規定、すなわち食物規定や種々の洗いに関する規定と同じなのであって、暫定的なものに過ぎないのです。それは「肉の規定」と呼ばれています。それはあくまでも外的な行為に過ぎないのであって、「礼拝する者の良心を完全にすることができないのです」(9節)。

 この最後の言葉は重要です。民が神の臨在の場に行くことができないのは、ただ単に垂れ幕が隔てているからではないのです。入ってはいけないという規定があるからではないのです。そうではなくて、動物犠牲は「礼拝する者の良心を完全にすることができないから」なのだというのです。

 真に神を求める人は、神を礼拝しようとする者は知っているのです。神が求めておられるのは、動物の犠牲そのものではない、ということを。既にダビデがそのことを語っています。「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」(詩編51:18‐19)。

 本来人間の心はただ形だけの礼拝ではなく、真に神が求めているものを献げ、まことの礼拝を捧げ、神との生きた交わりが与えられることを求めてやまないのです。それゆえにまた、良心は真の赦しを切望するのです。この詩編においても「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください」(同3‐4節)とダビデは祈っています。これは人間が聖なる神を慕い求める時に、当然のごとく起こる良心の叫びなのです。しかし、この良心の求めは、旧約の祭儀においては完全に満たされることはありませんでした。それが神ならぬ偶像であるならば、いくらでも気安く近づけるのです。ですから、神ならぬ代替物で人間は自分の良心をごまかすのです。そのようにイスラエルの人たちもごまかしてきたのです。そして、まことの神に対しては、やはり近づけない。あの幕屋の構造が示している通りなのです。「供え物といけにえが献げられても、礼拝する者の良心を完全にすることができない」。

 しかし、その不完全なるものの終わりの時が来たのです。真の大祭司が現れたからです。写しではなくて、その実体なる聖所において執り成してくださる大祭司が現れたのです。「けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(11‐12節)。これまで写しである聖所に仕える祭司たちの儀式によって幾度となく予告されていた、「ただ一度」にして永遠なる祭儀が執り行われたのです。それは完全な贖いです。そして、永遠の贖いなのです。

 そして、このキリストの血こそが、「わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するように」させるのです。ここで「死んだ業」は「生ける神」と対比されています。生ける神との交わりをもたらさない業のことです。それが何を意味するのかは、それぞれ静まって考えてみる必要があります。それは神に背いた悪い行いだけではありません。自分の力によって神との交わりを実現しようとして行う善い業、そして結局は良心の満足は得ず失望に終わる試み、あるいはその結果として神の代替物へと逃れていくことをも含みます。ただキリストの血のみが、そのような死んだ業から良心を解放し、まことの神との交わり、生ける神を礼拝することへと人を導くのです。

2020年3月15日日曜日

「キリストがわたしの内に」

ガラテヤ2:15‐21 

 第2朗読においてガラテヤの信徒への手紙が読まれました。今日、特に心に留めたいのは20節の言葉です。大変印象的な言葉です。パウロは言います。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(20節)。

生きているのは、わたしではありません
 「生きているのは、もはやわたしではありません」。それはすなわち、「わたしは生きていない」「わたしは既に死んだ」ということです。実際には生きているパウロが、自分を既に死んだ者と見なしているのです。しかも、ただ死んだと言うだけではありません。その直前には、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」(19節)と彼は言うのです。

 パウロの言葉を理解するために、この手紙を少し遡ってみることにしましょう。15節にはこう書かれていました。「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」(15節)。これは当時のユダヤ人のごく一般的な理解です。

 ユダヤ人は一つの自負を持っていました。《我々は神の律法を持っている》という自負です。すなわち、正しい神が何を求めておられるかを知っている、ということです。ですから、神が何を求めているかも知らずに生活している異邦人を「罪人」と呼んで蔑んだのです。

 しかし、パウロはユダヤ人の間で一般的に語られていたその言葉を取り上げて問題にするのです。確かに、我々は律法を持っている。正しい神の要求が何であるかを知っている。しかし、本当にそれを完全に実行することができるのか。律法を守ることによって、神から「正しい者」と認められる人間はいるのか。――否、そんな人は一人もいないのではないか。それゆえ16節の最後において、パウロは言い切るのです。「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない」(16節)と。「義とされない」とは「正しい者と認められない」ということです。

 「だれ一人として義とされない」――これは実は、文字通りではありませんが、詩編の引用なのです。詩編143編に次のような言葉があります。「あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません」(詩編143:2)。既にいにしえのユダヤ人が、その深い洞察をもって、自分自身について、人間というものについて、そう告白しているのです。そして、パウロもその言葉に同意します。パウロ自身、正しい人間になることを求めたのでしょう。律法によって義とされることを望んだのでしょう。しかし、そのパウロもまた、同じ結論に行き着かざるを得なかったのです。「御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません」と。

 正しい神の要求を完全に満たすことによって、正しい者と認められる者は誰もいない。それは異邦人であろうがユダヤ人であろうが関係ないのです。すべての者は、神に正しいとは認められないままで、神の裁きのもとにある者として、死んでいかなくてはならないということです。私たちの人生は、神との正しい関係にはなかったものとして、神の裁きのもとにあるものとして総括されねばならないということです。

 しかし、そこでパウロは一つの重大な真実を知ったのです。何を知ったのでしょう。もう一度16節を御覧ください。「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました」。そう彼は言うのです。律法の実行によって義とされる道は固く閉ざされていました。しかし、パウロはそこに、もう一つの道が開かれていることを発見したのです。それは「イエス・キリストへの信仰」という道でした。

 パウロがイエス・キリストについて語る時、それは十字架につけられたキリストのことに他なりません。先ほど、私たちは皆、神に正しいとは認められないまま、神の裁きのもとにある者として、死んでいかなくてはならないと申しました。しかし、そのような私たちが受けるべき裁き、受けるべき神の怒りを、すべて引き受けてくださった御方がおられるのです。それがイエス・キリストなのです。その御方は、自らは完全に神に従い通された正しい御方であるにもかかわらず、私たちのために、十字架の上で神に裁かれた者として死んでくださったのです。

 そのキリスト・イエスについて、「わたしたちもキリスト・イエスを信じました」とパウロは語ります。日本語では分かりませんが、そこには「キリスト・イエスの《中へ》(信じる)」と書かれているのです。つまり、自分の全存在をキリストの中に投げ込んでキリストと一つになることです。「わたしは律法の実行によっては義とされません。神の裁きのもとにある者として死ぬしかありません。私たちはただ十字架につけられたあなたに自分をまかせるしかありません。」そう言って、自分の身柄をキリストに引き渡してしまうことです。

 そうしてキリストと一つとなる時に、キリストの死は私たちの死となるのです。私たち自身は十字架につけられて死んではいません。にもかかわらず、既に十字架につけられて裁かれて死んだものと見なされるのです。神が私たちをそのように見なしてくださる。神の律法に背いた者として、律法に基づいて裁かれるべき罪人は既に死んだのです。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」とはそういうことです。そこにこそ、私たちの罪が赦され、義とされることの根拠があるのです。

キリストがわたしの内に生きておられる
 さて、先にお読みしました16節に続く17節と18節は難解でありまして、様々な解釈がなされてきました。今日は、その一つ一つを紹介することはしません。皆さんがそれぞれ考えを巡らしてください。ここではただ一つのこと、「…キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか」という問いに対して、「決してそうではない」とパウロが断言しているということを心に留めたいと思います。

 「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」――これを「律法を実行しなくても義とされる」と単純に読み替える人は、昔も今も少なくありません。つまり「神の前に正しくなくても義とされるのだな。別に罪を犯していても、神に背き続けていても、結局は義と認められるのだな」と考えるわけです。ローマの信徒への手紙を読みましても、「恵みが増すようにと、罪の中に留まるべきだろうか」(ローマ6:1)などという言葉が出てまいります。

 そうなりますと、当然のことながら、「キリスト教は《律法によらずに義とされる》という言葉をいいことに、平気で罪を犯す人間を造り出す」という批判、すなわち「キリストは罪に仕える者である」という批判が起こってくるでしょう。しかし、パウロはそのような非難に対して、全面的に否定するのです。キリストは罪に仕える者だって?決してそうではない!と彼は断言するのです。問題はどこにあるのでしょうか。「人は律法を実行しなくても義とされる」と単純に読み替えたところに問題があるのです。

 良く見てください。パウロは、「ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」と言っているのです。「イエス・キリスト」という御方との関わりが決定的に重要だということです。イエス・キリストを信じて、イエス・キリストという御方の内に自らを投げ込んで、イエス・キリストと一つになって、その死にあずかって、キリストと共に十字架につけられた者として、私たちは義とされるのです。

 そして、キリストは十字架につけられただけではありません。キリストは復活されたのです。十字架につけられたキリストと結ばれたならば、復活したキリストとも結ばれて一つになるはずです。キリストの死にあずかったならば、キリストの命にもあずかることになるのでしょう。人がキリストと共に死んだ者とされるのは、キリストの命にあずかって新しく生きるためなのです。

 「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです」とパウロは言いました。律法の実行によらずして義とされるのは、律法を与えた神と無関係に生きるようになるためではありません。神の御心や神の求めとは無関係に生きるようになるためではありません。神に背いた生活を安心してできるようになるためではありません。「それは神に対して生きるためだ。神にしっかりと向いて、神のために生きるためなのだ」とパウロは言うのです。そして、キリストの死にあずかっただけではなく、キリストの命にもあずかった新しい生を、パウロは次のように表現しているのです。「キリストがわたしの内に生きておられるのです」と。

 もともと旧約聖書の世界に、「わたしの内に生きておられるメシア」などという概念はありませんでした。これは、メシア=キリストの到来、その十字架と復活、そして昇天と聖霊の降臨によって開かれた、全く新しい地平です。ファリサイ派ユダヤ人パウロが、キリスト者であるパウロとなったということは、彼が「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と語る者となったということに他なりませんでした。

 私たちにとっても、キリスト者としての生活とは、「キリストがわたしの内に生きておられるのです」と語りながら生きていくことに他なりません。私たちは、この言葉を本当の意味で自分の言葉として生きることを、これからも求めていきたいと思います。

(祈り)

2020年3月11日水曜日

祈り会用:ヘブライ人への手紙、8:1-13

 イエス様がメルキゼデクと同じような祭司であることについての話は続きますが、この著者は語ろうとしていることをここで短く要約しておくのが良いと思ったようです。この1節、2節にすべてが言い尽くされていると言えるでしょう。私たちには大祭司が与えられています。大祭司というのは、犠牲を献げるために任命されているのです。ですから、「この方も、何か献げる物を持っておらなければなりません」(3節)。しかし、この著者はこの話を9章後半まで置いておきます。その前にこの大祭司がどこにおられるかに注目させます。私たちの信仰告白においても言い表しているように、キリストは天に昇られ、全能の父なる神の右に座しておられるのです。つまりイエス様は天においてその務めを果たしておられるのだ、ということです。御子が地上に来られた時、地上には既に律法によって定められたレビの系統の祭司たちがおりました。ですから、復活と昇天がなければ、イエス様は祭司ではあり得ません。4節に書かれているとおりです。

 さて、ここには注目すべき対比があります。地上における祭司と天上における祭司です。そこで問題はどちらが本来的な祭司なのか、ということです。既に明らかにされてきたように、それは天上における祭司なのです。では、地上の祭司がしてきたことは、いったい何なのでしょう。そこで心に留めるべきは、「人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋」という言葉です。天上の大祭司なるイエス様が仕えている天の聖所のことです。

 「天の聖所」に対応しているのは「地上の聖所」です。地上の聖所と言えば、これを読んでいる読者はすぐにエルサレムの神殿を思い起こすことでしょう。特に神殿の一番奥にありまして垂れ幕によって仕切られています至聖所と呼ばれる部分です。イエス様が十字架にかかられた時、上から下まで真っ二つに裂けたと言われているのは、この垂れ幕のことです。この一番奥に至聖所があるという神殿の形はモーセの時代にまで遡ります。もちろん、その時には建造物としての神殿ではなく幕屋です。しかし、構造は同じなのです。

 さてこのように幕屋があり神殿がある。当然のことながら、読者にとって身近なのは、この目に見える聖所の方です。ですから「天の聖所」と聞きますと、まず「地上の聖所」があって、それを比喩に用いて天のことを表現しているのだと考えてしまいます。私たちも、常々そのような考え方をしているものでしょう。例えば、「天の父」と言いますと、神様を「たとえて言うならば私たちのお父さんのような方」として理解しているのだと考える。「父の家」と言いますと、まず地上の家があって、それを比喩的に用いて天の御国を表現するならば、「父の家」になるのだ、というように考えているのではないですか。この場合も「天の聖所」というのは比喩的表現だと考えてしまっているかもしれません。

 しかし、本当はそうではないのだと今日の箇所は教えているのです。まず地上の聖所があるのではなくて、まず天の聖所があるのだ、と。その根拠となっているのは、出エジプト記25:40です。ご存じのように、この部分は神様がモーセに幕屋建設の指示を与えているところです。モーセはシナイ山で律法を受けます。その時に幕屋建設の指示をも受けるのです。その時、神様はモーセにこう言われたのです。「あなたはこの山で示された作り方に従い、注意して作りなさい」(出25:40)。ここで「作り方」となっていますが、そのギリシア語訳がヘブライ8:5に引用されていますように、それは「型」あるいは「原型」と訳せる言葉なのです。つまりモーセが最初の聖所を作る前に、その原型があったということです。どこにあるのでしょう。神様が示したのですから、それは神のもとに、天にあるのです。

 天の聖所は比喩的表現なのではないのです。まず天の聖所があるのです。そして、地上の聖所は「天にあるものの写しであり影であるもの」だと言うのです。その写しに仕えているのが地上のレビ系統の祭司だと言うのです。なららレビ系統の祭司たちもまた写しにすぎません。こうして千年以上も続いてきた地上の聖所とそこにおける祭司の意味が明らかにされました。それは天にあるものを不完全ながらも地上に示すものだったのです。

 そのように長い間、天にあるものの写しに仕えてきた祭司たちによって示されてきた、まことの祭司が現れたのです。それがわたしたちの大祭司、イエス・キリストです。その方の務めは写しに仕える務めよりもはるかに優っていることを、この著者は新約と旧約ということからさらに説明します。

 ここで引用されているのはエレミヤ書31章31節以下の部分です。モーセが与えられた幕屋建設の指示は律法として与えられました。律法は神と民との契約に基づいて与えられました。その契約については「わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約」(9節。引用もとはエレミヤ31:32)と呼ばれています。この契約に基づいて律法が与えられ、その中に幕屋建設と祭司制度もあったのですが、もしそれが完全であるならば「第二の契約」すなわち「新しい契約」が与えられる必要はなかったのです。しかし、実際には、神はエレミヤを通して「新しい契約」について語っておられるのです。「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る」と。

 「新しい契約」と表現されたということは、それまでの契約は古びてしまったということを意味します。つまり神様はこの地上の目に見える神殿も、そこにおける祭司制度も古びてしまったもの、消え去るべきものと見られたということです。「神は『新しいもの』と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます」(13節)。

 そして、その新しい契約は実現したのです。イエス様が最後の晩餐において「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」と言われたようにです。そして、事実イエス・キリストの血が流されることになったのです。もはや古き律法の時代、古き祭司制度の時代は過ぎ去りました。その写しが示していたように、本来の大祭司が本来の祭儀を行うために天の聖所に入られたのです。私たちはそのまことの大祭司の執り成しのもとにあるのです。

2020年3月8日日曜日

「光の子として歩みなさい」

エフェソ5:6‐14

以前は暗闇でした
 「光の子として歩みなさい」。神様はパウロを通して、かつてエフェソの教会の人たちにそう語りかけました。そして今、頌栄教会の私たちにも、同じように語りかけておられます。「光の子として歩みなさい」。なぜでしょう?わたしたちは既に主に結ばれて光となっているからだ、と聖書は教えています。キリストを信じ、キリストに結ばれるということは、光となることなのです。

 神様は私たちを教会に導き、キリストに出会わせてくださいました。それは私たちを光とするためでした。イエス様御自身も言われたではありませんか。「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)と。イエス様は「世の光になりなさい」とは仰いませんでした。今日の箇所でも「光となりなさい」とは語られてはいません。「光となっています」と言われているのです。せっかく光にしていただいたのです。ならば限られたこの一生を光の子として歩みたいものです。

 「光の子として歩みなさい」という勧めの意味を理解するためには、その前に書かれていることにまず心を向ける必要があります。そこには、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが」と語られています。「暗闇でした」です。「暗闇の中にいた」ではありません。「あなたは暗闇の中にいた可哀想な人でした。とっても不幸な人でした」と言っているのではないのです。「あなたは暗闇そのものだった」と言っているのです。

 今日、自分が暗闇の中を生きているように感じている人は少なくないと思います。暗い人生であると感じている人も少なくないでしょう。しかし、実は暗闇は自分の外にあるのではない。暗闇はあなた自身の内にあるのであって、あなた自身が暗闇をもたらしてきた張本人だったのだ。暗闇そのものだったのだ、と聖書は言っているのです。

 このことを認識することは大事なことです。いつも他の人を悪者にしている私たちですから。しかし、今は受難節です。他の誰でもない《私たちの》罪を負って十字架にかかってくださったキリストの御受難を思うときです。そのような意味において自らを省みる時です。

 キリストなくしては、わたしは暗闇でしかない。暗闇をもたらす暗闇そのものでしかない。そのことが心底分かってこそ、ここに書かれていることが、どれほど大きな恵みであるかも見えてくるのでしょう。あなたは確かに暗闇だったけれど、今は主に結ばれて光となっているのですよ。あなたは既に光となっているのだから、光の子として生きられるはずなのですよ。「光の子として歩みなさい」とはそういうことです。

 主に結ばれて光としていただいているならば、そう神様が仰るなら、わたしは光の子として歩みたい。その願いが大事なのです。その願いがなければ、ここに書かれていることは、不可能なことを要求する厳しい戒めにしか聞こえないでしょう。

 「光の子として歩みなさい」――この言葉を私たちに与えられている恵みとして受け取りたいと思うのです。既に光とされているからこそ、こう語られているのですから。その上で、「光の子として歩む」ということがいかなることかを、さらに御言葉に聴いていきたいと思います。

キリストの光をもたらす人に
 光に何よりも期待されているのは、照らすことでしょう。明るく照らし出すことです。私たちは周りを明るく照らすことが期待されているのです。それはいわゆる「明るい人になる」ということではありません。周りの雰囲気を明るくすることが大事なのではありません。実はそのようなことよりも、遥かに激しいことが書かれているのです。11節以下をご覧ください。そこには「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです」(11‐12節)と書かれているのです。「暗闇の業を明るみに出す」――これが周りを照らすということです。

 しかし、「暗闇の業を明るみに出す」というのは、単に他人の隠れた罪を暴いて責め立てることではありません。そのようなことは何も聖書が語らなくても、世の中で自然に行われていることです。「暗闇の業を明るみに出す」ということの意味を正しく理解するためには、その続きを読まねばなりません。そこにはこう書かれているのです。「しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです」(13‐14節)。

 この最後の「光となるのです」が重要なのです。光に照らされて、罪が罪であると明らかにされると、今度は照らされたものが光となっていく。暗闇であったものが光となるのです。そのような仕方で光を照らすことを言っているのです。――何の話か、もうお分かりでしょう。キリストの救いの光を照らすということです。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」と語られていたことを思い起こしてください。そのことが、私たち自身に起こっただけでなく、今度は私たちの周りに起こってくるということです。

 ですから、次のように続くのです。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる」(14節)。これは旧約聖書の引用ではありません。恐らくは当時歌われていた賛美歌の一節です。ここで重要なのは「キリストはあなたを照らされる」という言葉です。ここにおいて先ほどから語られてきた「光」が何であるかが明らかにされているのです。

 神様が呼びかけておられるのです。「死者の中から立ち上がれ」と。罪の中に死んでいる者よ。死んだままで良いのか。立ち上がれ。よみがえれ。そう呼びかけて、罪からの救いをもたらすキリストの光を照らそうとしておられるのです。そのために神は教会を用いようとしておられるのです。先に主に結ばれて光とされた者を光として用いようとしておられるのです。そのようにキリストの救いの光を照らすために用いようとしておられるのです。

 実際、そうでしょう。私たち自身も先に主に結ばれた人々を通して、キリストの光に照らされたのではありませんか。先に主に結ばれた教会があったから、キリストの光に照らされたのでしょう。キリストの光によって私たち自身の姿が見えてきたのでしょう。私たち自身の姿も見えてくるようになったのでしょう。そのようにして悔い改めへと導かれ、神の赦しをいただいて、神と共に生きるようになったのでしょう。そのようにキリストの光、恵みの光に照らされて、罪が罪として明らかにされるのです。キリストの光に照らされて、初めて私たちのしてきたことが「口にするのも恥ずかしいこと」であることが認識されるのです。まさに闇の業であるということが分かってくるのです。

 しかし、キリストの光が罪を明らかにする時、暗闇が暗闇であることを明らかにする時、それは断罪し絶望させるためではないのです。人はもはや光から逃げなくても良いのです。なぜなら、キリストが照らすその光は、人を起き上がらせる恵みの光だからです。キリストが救ってくださるのです。「明らかにされるものはみな、光となる」(14節)のです。

 そのようなキリストの光をこの世に輝かせる者となる、それが「光の子として歩む」ということに他なりません。先ほども言いましたように、誰かの罪を暴いて、責め立てるだけならば、この世において行われてきたことです。そのために光の子として歩む必要はありません。いくらでも上手にできるようになるのでしょう。しかし、誰かの救いを願い、キリストの光を輝かせるということならば、光の子として歩んでいることが必要です。「今は主に結ばれて、光となっています」とあるように、あくまでも「主に結ばれて」なのです。光はもともと私たちの内にあるのではありません。キリストから来るのです。

 ですから主に結ばれてキリストと共にある具体的な生活が重要になってくるのです。光の子として「歩む」ということです。この「歩む」というのは継続を表す表現で書かれています。キリストに結ばれて歩み続けるのです。キリストに結ばれて生きていく生活が形作られていくことを意味するのです。

 新型コロナウイルス感染症のゆえに、主に結ばれているものとして、このように具体的に主の日に集まることが非常に難しくなってまいりました。実際、主の体と血とにあずかる聖餐式、目に見える形で主につながる聖餐式を、今月は行うことができませんでした。しかし、このように共に集まれなくなった時こそ、聖餐を行うことが困難になった時こそ、キリストに結ばれること(キリストの内にあること)、キリストの体である教会に結ばれていることが何を意味するのかを改めて考える機会でもあるのでしょう。そして、主に結ばれて光の子として歩むとはどういうことなのかを考える機会でもあるのでしょう。私たちはその意味でも、このような形で与えられたレントの時を大切にしたいと思うのです。

2020年3月4日水曜日

祈り会用:ヘブライ人への手紙、7:20-28

ヘブライ7:20-28
 律法によるレビの系統の祭司と、メルキゼデクと同じような祭司と、どちらが優っているのか。すなわちどちらが本来的な祭司なのか。それはメルキゼデクと同じような祭司なのだとこの著者は語ります。

 先週読みましたように、そのような本来的なメルキゼデクと同じような祭司が立てられたということは、律法による祭司制度が不完全であることを意味します。また、祭司制度が変更されたこと、すなわちモーセの律法が変更されたこと、さらには以前の掟が弱く無益なために廃止されたことを意味するのです。メシアが到来するとはそういうことなのです。そして、そのメシアは到来したのです。人類史上に決定的なことが起こったのです。イエスという御方こそ、完全なる祭司、メルキゼデクと同じような祭司であるのです。

 この著者はさらに詩編110編において「主が誓った」ということに注目します。こう書かれているからです。「主はこう誓われ、その御心を変えられることはない。『あなたこそ、永遠に祭司である』」。レビの系統の祭司が立てられることについては、神が誓われたということは記されていません。しかし、メシアについては、神の誓いによってメルキゼデクに等しい祭司として立てられているのです。その点においても、メシアは律法に基づいて立てられた祭司たちよりも本来的な祭司であることがわかります。

 神は特別に誓いをもって祭司を立てられました。以前にも触れましたように、誓いというのは、現在の私たちで言えば、判をついて契約書を交わすようなものです。それは約束についての保証なのです。人間ならば通常は自分よりも偉大なものを指して誓うわけであって、自らよりも偉大なもののない神が誓うというのは変なのですが、その変なことを語るほどに、これは確実なことだということであり、信頼を求める言葉であるということです。何を信ずべきなのか。メシアこそレビの系統にまさった本来的な祭司であること、そしてさらに彼は永遠に祭司であることです。「あなたこそ、永遠に祭司である」と。

 このことが、当時の教会にとっても、また今日の私たちにとっても極めて重要なことなのです。イエス様は私たちにとっていかなる御方であるかを決定的な仕方で指し示す言葉だからです。

 レビの系統の祭司たちの場合には、律法に従って人間が祭司に任命されます。死に定められた人間が祭司となるのです。それゆえに、務めをいつまでも続けることはできません。次々と任命が繰り返されることになります。イエス様の場合も同じように、「大祭司はすべて人間の中から選ばれ」(5:1)と書かれているように、私たちと全く同じ人間となられました。しかし、この御方がかつてのレビ系統の祭司と決定的に異なるのは、十字架のみならず復活を経て、永遠に生きておられるということです。「しかし、イエスは永遠に生きておられるので、変わることのない祭司職を持っておられるのです」(24節)。

 この手紙の読者たちは、繰り返し任命されて連綿と続いてきたレビの系統の祭司という存在こそ、神との契約の目に見える保証であり、罪と贖い交わりを回復する務めであると見られてきた世界の中で育ってきたのです。一方、彼らはキリスト者としてはいわば第二世代ですから、生前のイエスを直接触れ合ったわけではありません。ですから、目に見えるという意味においてなら、神殿の祭司の方がずっと続いていて自分たちと関わっている存在なのです。(もっともAD70年における神殿の崩壊と共に祭司制度も崩壊していくわけですが。)それゆえに、イエス様が「永遠に生きている」として語られると共に、イエスが「常に生きていて」人々のために執り成していてくださることが、あらためて指し示されなくてはならなかったのです。「常に」という言葉が示しているのは、その時代その時代に生きる人々とイエス様との関わりであるからです。

 それは時間的な距離感としてはもっと遠い私たちにとっては、さらに重要な意味を持っていると言えるでしょう。二千年前のイエスと現代の私たちといかなる関係があるか、と世の人は問います。永遠なる祭司としての任命、またそれを現実とするイエス様の復活がなければ、せいぜいイエスの教えが今も生きていると言えるぐらいのことでしょう。しかし、この著者は言うのです。イエスは復活して「常に」生きておられる。だから私たちと関わりがあるのだ、と。「それでまた、この御方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」(25節)。

 また、さらにこの御方がレビ系統の祭司と決定的に異なる点が語られています。律法による大祭司は、まず自分の罪のために、次の民の罪のために毎日いけにえを献げる必要がありました。しかし、この御方は自分のために罪の贖いの犠牲を献げる必要はありません。なぜなら、この御方は「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司」(26節)であるからです。しかも、この御方が献げる犠牲は、罪を取り除くことにおいて不完全であるために毎日献げられねばならない犠牲ではなく、ただ一度にして完全に人間の罪を取り除く犠牲である御自分の体だったのです。このことについては9章に詳細に論じられることになります。

 このように比較されてきましたレビ系統の祭司と大祭司キリストの両者は、共に神の言葉によって任命されたと言えます。一方は律法によって。もう一方は既に見てきたように神の誓いの言葉によってです。一方は弱さを持った人間を大祭司に任命するものでしたが、他方は永遠に完全な者とされている御子を大祭司として任命するものだったのです。

 このようにイスラエルの長い歴史の中で続けられてきた律法による祭司の任命は、この地上においてただ一度だけなされる完全な罪の贖いを為し、永遠に生きて執り成しを続ける真の大祭司の任命を予表するものであったことが分かります。そのように予告編を見続けてきた人類の歴史は、ついにキリストの到来をもって本編を見ることになったのです。私たちはそのような時代に生きているのです。この御方は、御自分を通して神に近づく私たちを完全に救うことがおできになるのです。

2020年3月1日日曜日

「生きている神の言葉」

ヘブライ4:12‐16

神の言葉は両刃の剣
 レントに入りました。その最初の主日の第2朗読として、ヘブライ人への手紙が読まれました。

 「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(12節)。

 ここでは「神の言葉」について語られています。私たちは先ほど、心を合わせて神の言葉を求めて祈りました。そして、神の言葉を求めて聖書の言葉に耳を傾けました。私たちが毎週そのように祈り、聖書を開くのは、神が「語りかける神」であると信じているからです。神は私たちの祈りを聞いてくださるだけではない。私たちの賛美を受け入れてくださるだけではありません。神は語られるのです。聖書が朗読され、聖書が解き明かされるとき、私たちは語り給う神の御前に置かれ、神の言葉を聞いているのです。

 そして、神の言葉は生きていると書かれています。神の言葉は力を発揮するのだと書かれています。生きている神の言葉はどのように力を発揮するのでしょうか。神の言葉は両刃の剣に喩えられています。その両刃の剣はこの世のいかなる剣よりも鋭いと語られています。そのような両刃の剣として力を発揮するのです。

 神の言葉が両刃の剣のように力を発揮するということは、私たちが切られるということでもあります。刺し貫かれるということでもあります。「精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに」と書かれています。人間の非常に深い所まで切られるということです。どれほど深くにまで及ぶのでしょう。「心の思いや考えを見分けることができる」。それほどに深くにまで及びます。

 心の思いや考えというのは、人の目から隠しておける部分です。実際、私たちは心の思いや考えをある程度隠しながら生きているものでしょう。そして、時には深く、深く、誰からも分からないところに、隠しておくこともできるのでしょう。しかし、神の言葉はそこにまで切り込んでくるのです。そのような私たちの隠れた思いや考えを見分けるほどに刺し貫いてくるのです。それはすなわち、深いところにある心の思いや考えまでも、神によって見られ、判断され、裁かれるということです。

 そのようなことが、神の御前に集まり、神の言葉を求めるところにおいて起こるのです。それは私たちの日常にはないことです。私たちは通常はジャッジする側にいますから。私たちは物事を主体的に判断し、他の人々や物事を裁きながら生きているのでしょう。そして、時として、そのように裁く者として神にも向かうのだと思います。そのように裁く者として聖書にも向かうのかもしれません。

 しかし、神の言葉を求めるところにおいては、立場は逆転します。神が語られる場においては、神が判断し、神が裁く側に立つのです。人間は裁かれる側に置かれるのです。神が人間に語られるのです。その言葉は最も深いところにまで及びます。

 実際、神を礼拝する生活をスタートし、神の言葉に耳を傾けるようになると、そのことを経験し始めます。「神は確かにわたしを知っておられる」と思わずにはいられない時が確かにあるのです。私が抱いているこの思いは誰にも話してはいないのに、誰にも知られてはいないはずなのに、確かに神は知っておられる。墓場に至るまで秘めておこうと思っていたその心の思いについてさえも神は知っておられる。聖書の朗読を聞きながら、また聖書の解き明かしを聞きながら、そう思わずにはいられない時があるのです。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」と書かれているとおりです。

 それは昔から人々が経験してきたことなのです。もはや神の言葉の前には隠し立てすることはできない。そのことを思い知らされてきたのです。それゆえ彼はさらにこう続けます。「更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」(13節)。

 神の御前でなければ、私たちは他の人のことを言っていられるのです。神が語られるところにいるのでなければ、私たちが他の人について語れるのです。あの人が悪い、この人が問題だ。家族が悪い、政治家が悪い、世の中が悪い、と。しかし、神の言葉が私たちの最も深い心の思いや考えにまで及び、神の御前においてすべてがさらけ出されていることを知るなら、私たちはもはや他人を問題にしているわけにはいきません。問われているのは私たち自身だからです。「この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」。神が私たちに語られるとは、そういうことです。

 それはある意味で恐ろしいことでもあります。知られているということは恐ろしいことです。心の思いや考えまでも判断されているということは恐ろしいことです。エデンの園においてアダムとエバは、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れました(創世記3:8)。彼らがしたことは私たちにも良く分かります。まことに神が語られるところに身を置いて、私たちが他の誰かではなく自分自身のことを申し述べねばならないとするならば、神の顔を避けて、隠れたくもなるのでしょう。

大胆に御座に近づこう
 しかし、そこで神の顔を避けないで、園の木の間に隠れないで、暗闇の中に身を置かないで、光の中にとどまり、神の言葉にとどまり、信仰にとどまるところにこそ、まことの救いもあるのです。なぜなら、神は憐れみの神であり、恵みの神であるからです。そのような神であるからこそ、私たちのために、偉大な大祭司、神の子イエスを与えてくださったのです。それが14節以下に書かれていることです。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」(14節)。

 「大祭司」とは何であるか。続く5章に記されています。もともとは罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命された人のことです。彼は罪のための供え物やいけにえを献げて、神の御前に立って人々のために執り成しをするのです。

 そのように、イエス様が大祭司であるとは、イエス様もまた、罪のための犠牲を献げて、私たちのために執り成しをしてくださる御方だということです。大祭司は罪の贖いのための犠牲を献げます。イエス様が罪のために献げてくださった犠牲とは御自身の命です。イエス様はただ一度、十字架において完全な罪の贖いの犠牲を献げてくださいました。そして、永遠に私たちのために執り成してくださる大祭司となってくださったのです。

 その大祭司である神の子イエスについては、次のように書かれています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(15節)。

 「試練」という言葉は「誘惑」とも訳せる言葉です。本日の福音書朗読で読まれたマタイによる福音書4章では「誘惑」と訳されていました。あの御方は、私たちと同じこの体をもって、地面の上を歩いてくださいました。この世においてこの体をもって生きるということがどれほど過酷なことであるかを自ら味わってくださいました。私たちが苦しみの中で何を感じるのか、どんな行動をとってしまうのか、そこにどんな誘惑があるのか、どれほど激しい罪との戦いがあるのか、すべて知っていてくださるお方です。

 だからこの大祭司は私たちの弱さを分かってくださるのだと語られているのです。私たちが自らの弱さと罪に深い悲しみを抱くとき、同じように悲しんでくださる御方です。時として自分で自分を罰したくなるほど、打ち叩きたくなるほど悲しい思いをする時に、その悲しみを分かってくださる御方です。その方が大祭司として私たちのために執り成していてくださるのです。「彼らの罪を赦したまえ」と。

 先にも述べましたとおり、そのような大祭司を与えてくださったのは、他ならぬ父なる神御自身なのです。「すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されている」と書かれていました。そのように、私たちの全てを知っておられる方が、私たちの罪も過ちも全てご存じの方が、それでもなお私たちが神に近づくようにと、大祭司であり罪の贖いの犠牲でもある御方を与えてくださったのです。ですから、その大祭司の存在そのものが神の呼び声に他ならないのです。「わたしに立ち帰りなさい。わたしに近づきなさい」と。

 だからもう、私たちは神の顔を避けて、隠れる必要はないのです。暗闇の中に逃げ込む必要はないのです。光の中に立ち帰ることができるのです。神の言葉に耳をふさいで生きる必要もないのです。安心して神の言葉を求めたらいい。そこには既に神の憐れみがあります。そこには既に神の恵みがあります。だからこう書かれているのです。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(16節)。

 それゆえに、私たちは今日もこうして、恵みの座に近づき、神の言葉を神の言葉として受け取って生きるのです。私たちの最も深いところまで刺し貫く両刃の剣よりも鋭い神の言葉として受け取って生きるのです。神の言葉が私たちの最も深いところまで刺し貫くゆえに、そこにまで神の憐れみと恵みが届くのです。だからこそ神の言葉が刺し貫く最も深いところからの信頼をもって生きることができるのです。誰も奪うことのできない最も深いところに希望をいただいて生きていくことができるのです。これからも両刃の剣より鋭い、生ける神の言葉を共に求めていきましょう。

(祈り)

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