コロサイの信徒への手紙2:11-15
罪の中で死んでいたあなたがた
「肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです」(2:13)。割礼はユダヤ人であることのしるしです。ですから、「肉に割礼を受けず」ということは「ユダヤ人でなく異邦人である」ということを意味します。そして、異邦人の無割礼が象徴しているのは、神との交わりの喪失です。これを聖書は「死んでいたあなたがたを」と表現します。命の源である神から離れていることを、霊的に「死んでいる」と表現しているのです。
私たちは肉体的な死については大いに問題にし、それゆえにまた苦しみ悩みますが、本当は霊的な死の方がより重大かつ本質的な問題なのです。それは神との関係ですから。それはこの世のことではなく、永遠の救いと滅びに関わることなのです。
もちろん神との関係、人間の霊的な状態というものは、この世における具体的な生活と深く結びついています。目に見えるものは目に見えないものと深く結びついているのです。死んでいるならば、それが「霊的な死」であっても、それは現実に目に見える形になって現れてくるのです。
ですから、パウロはまた、特に「罪の中に死んでいた」と語っているのです。「罪」と訳されている言葉は、他の箇所では「過ち」と訳されている言葉です。もともとは「道を踏み外すこと」を意味します。人生はそのような意味における過ちに満ちています。ですからここで「罪(過ち)」は複数で書かれているのです。
私たち人間は神にかたどって創造されました(創世記1:27)。私たちは神の栄光のために創造されたのです。それゆえに私たちの人生には神の目的があるのです。しかし、私たちはその道を踏み外してきたのです。道から外れて歩んできたのです。私たちが道を踏み外して犯してきた数え切れない罪の中で死んでいたのです。その「罪」こそ、私たちが霊的に死んでいることの現われです。ですからパウロは、「罪の中にいて死んでいたあなたがた」と表現しているのです。それが神の目に映っている人間の姿です。
罪の証書を破棄されて
しかし、パウロはコロサイの信徒たちに言うのです。「罪の中に死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです」と。私たちは自分自身を生かすことは出来ません。霊的に死んでいる人を生かすことができるのは神様です。ではどのようにして私たちを生かしてくださったのでしょうか。
第一に、私たちの罪を赦すことによってです。罪が赦されることなくして、私たちが再び神様との交わりを回復する道はないからです。パウロは言います。「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」(13‐14節)。
私たちの罪と過ちは、神様の前にある多額の借金のようなものです。借金であるならば、私たちの負債を明らかにし、返済を要求する借用証書が存在します。借金を無くすには返済するしかありません。しかし、私たちの借金はどれぐらいの額なのでしょう。
イエス様は私たちの罪を一万タラントンの借金に喩えられました(マタイ18:24)。これは一人の労働者が休みなく働いて約17万年分の給料に相当します。私たちが道を踏み外し、神の栄光を汚してきた罪、そしてこれから犯すかも知れない罪の大きさを私たちは本当の意味で知りません。それは聖書によって教えられねば分からないのです。聖書はそれを一万タラントンに匹敵する莫大な額であると教えているのです。私たちは人に対して犯してきた事柄さえ、完全に償うことはできません。ましてや、人間に対してではなく、神のみが知り得る神に対する諸々の罪を、私たちは到底償うことはできないのです。
しかし、驚くべきことに、神様はこの借用証書を神自ら破棄してしまわれたと言うのです。「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」(13‐14節)。
借用証書が合法的に破棄されるためには、借金が返済されなくてはなりません。ここで言われていることは、私たちの罪の借金はすべて完済されたということです。キリストがその命をもって支払ってくださったのです。私たちの罪の代価を、罪のない神のひとり子が肩代わりしてくださったのです。
十字架にかかられたキリストの血潮の価値は、私たちの理解を超えています。その価値は神にしか分かりません。そうです、私たちには分からないのです。しかし、わかっていることはあります。その十字架の死によって借金は支払われ、借用証書は破棄されたということです。私たちはこの恵みをただ受け取るだけです。キリストを信じる信仰によって、私たちはキリストと一つとなり、キリストの死をわたしのための死として受け取るのです。
それを最も良く表しているのが、信仰をもって受けるバプテスマです。コロサイの信徒たちはバプテスマを受けることによって何を経験したのでしょうか。12節でパウロはこう言っています。「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」
私たちの教会では、洗礼式のとき、頭に少量の水をつけます。これを滴礼と言います。しかし、全身を水に沈める「浸礼」という仕方で洗礼式をする教会もあります。いずれにしても内容は同じです。それはキリストと共に死ぬことを意味するのです。すなわち、キリストがその死によってなしてくださった一切のことを、自分のこととして受け取るのです。そして、一度死んだ者とみなされ、一切の罪を赦され、証書を破棄されて、キリストと共に復活するのです。私たちは復活したものとして、罪を赦され生かされた者として、神と共に歩み始めるのです。
もちろん、水そのものが人を救うのではありません。洗礼という儀式によって救われるのではありません。私たちは神の恵みにより、信仰によって救われるのです。しかし、その信仰を「信じているという意識」あるいは「信じているという感覚」と考えるならば、それほど心許ないものはありません。そのような私たちに救いの恵みを確かなものとして受け取らせるのが洗礼なのです。
悪魔の力から解放されて
そして、神は第二に、悪魔の力からの解放によって私たちを生かしてくださいます。「そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました」(15節)と書かれていました。「支配と権威」というのは、当時使われていた表現であって、様々な霊的な力、目に見えない力を表しています。パウロはそのような表現を用いて、この世界に働いている悪しき霊的な力、悪魔の力について語っているのです。すなわち、人を神から引き離し、霊的な死をもたらす力です。パウロはそのようなもろもろの支配と権威について、「神はそのような力の武装を解除してしまったのだ」と言うのです。
ここで用いられているのは、勝利の凱旋将軍の比喩です。かつて、戦争に勝ってローマに凱旋してきた将軍は、自ら戦車の上に立ち、武装解除された敵の捕虜たちをそのあとに従えてさらしものにしたのです。同じように、十字架にかかられ、復活されたキリストは、すでに悪魔の力に対して決定的な勝利を取っておられるのです。悪魔はキリストの前に力を失っているのです。
私たちはキリストの十字架によって罪を赦され、神との交わりに入れられました。このようにして霊的に死んでいた私たちは生かされたのです。しかし、この新しい命を自分の手で守らなくてはならないならば、私たちの信仰生活は極めて心もとないものとなるでしょう。私たちを神から引き離し、命を失わせ、滅ぼそうとする悪魔の力は強いからです。私たち自身の力ではとても対抗できません。
しかし、私たちは「キリストと共に」生かされているのです。キリストは勝利者です。キリストは力ある方です。だからこの御方から離れない限り、大丈夫なのです。
「主われを愛す」という子ども賛美歌がありますが、そこにこう歌われています。「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ」。私たちは弱くとも、この御方は強いのです。この方に結ばれて歩むならば、悪魔は私たちに対して力を持ちません。悪魔は私たちを滅ぼすことが出来ません。何ものも神の愛から私たちを引き離すことは出来ません。私たちは「キリストと共に」生かされたのですから、「キリストと共に」歩んでゆけばよいのです。
(祈り)