フィリピの信徒への手紙 2:1‐11
パウロは今、獄中にいます。もしかしたら、生きて外に出ることはできないかもしれない。そのパウロがひたすら願ったのは、自分が解放されることではありませんでした。フィリピの教会の人々が「心を合わせ、思いを一つ」にすることだったのです。
しかし、人と人とが「心を合わせる」ということは、何と難しいことでしょうか。表面的な争いや混乱をなくすことは、さほど難しいことではないかも知れません。秩序を保つことだけなら上からの強制力によって成し遂げられます。強者が一人いれば秩序は保たれます。しかし、「心を合わせ」ることは、支配力や強制力によって成し遂げることはできません。それは平穏であること以上のことです。それをパウロは教会に求めているのです。
これはある意味で驚くべきことでもあります。教会には様々な人が集まっています。いや正確にはキリストによって集められています。ですからそこに属する人々は、それぞれ生まれ育った環境も違います。生活事情も違います。社会的な思想についても異なる背景を持っています。ある人は奴隷です。ある人は自由人です。ある人はユダヤ人であり、ある人は異邦人です。しかし、そのような教会について、パウロは「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つに」することを本気で願っているのです。
そのようにパウロが語り得るのは、前提があるからです。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」(1節)と彼は言うのです。「あるなら」と書かれていますが、それは「あるのだから」という意味です。
彼らはキリストの励ましに既に与っているのです。愛の慰めに与っているのです。これは明らかに、《神の愛の慰め》ということでしょう。そして、聖霊による交わりが与えられているのです。そこに語られているのは、三位一体の神による救いの恵みです。その恵みに共に与っているはずなのです。それが教会です。ならば同じ恵みに与っているものとして、《一つとなっていること》は教会にとって本質的に重要なことなのです。
では、どうしたら良いのでしょう。そこでパウロの具体的な勧めの言葉に耳を傾けましょう。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(3‐4節)。ある意味では拍子抜けするほど、ありきたりのことしか書かれていません。しかし、そこで考えたいと思うのです。ありきたりのことが本当の意味で問題とされ得るのは、神の御前においてです。この言葉においてライトが当てられているのは、人間の行動の内面にある最も深い動機の部分なのです。それは通常いくらでも繕うことができるのです。「世の人々のためなのだ」と言うことができる。「神のために、キリストのために」と言うことのできるのです。
しかし、本当にそこにあって人を動かしているのは、もしかしたら利己心や虚栄心かも知れないのです。へりくだっている素振りは見せることができるかも知れません。しかし、本当にそこにあるのは傲慢さであり高ぶりであるかも知れないのです。その深い部分が本当の意味で問題とされ得るのは、神の御前において、神との関わりにおいてなのです。ですから、キリストを信じ、神を礼拝する《教会》に、あえてこのようなことが書かれているのです。主の御前において、聴くべき言葉だからです。
それゆえに、パウロはここで話を終えないのです。「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」(5節)。そう言ってパウロはキリストについて語り始めるのです。と言いましても、これはパウロ自身の言葉ではありません。彼が引用しているのは当時の教会において歌われていた讃美歌であると言われます。
この美しく整ったキリスト賛歌は二つの部分に分かれます。前半は6節から8節です。後半は9節から11節です。この歌と先ほどの「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって…」という勧めとのつながりは明白です。この歌の中に「自分を無にして」という言葉や「へりくだって」という言葉が出てくるからです。まさに《まったく利己心に生きなかった方》《徹底的にへりくだられた方》としてキリストの姿が提示されているのです。
しかし、パウロは、単に「このイエスさまの姿に倣いましょうね」という意図で、この歌を引用しているのではありません。8節の「十字架の死に至るまで」という言葉に注目に値します。先ほどこの歌は前半後半に分かれると申しましたが、実は前半部分の方が少し長いのです。歌としてのリズムを乱しているのは、この「それも十字架の死に至るまで」という言葉です。引用する際にパウロが書き加えたのです。つまり、ここにパウロの強調点があるということです。
パウロが「十字架の死」について語る時、彼の念頭にあるのは、「わたしたちの模範として死なれた」ということではありません。「わたしたちの罪のために死なれた」ということです。ここに歌われているのは、キリストの従順を通して実現された、十字架の死を通して実現された、神の救いの御業なのです。ですから、最終的に、「すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」という言葉に至るのです。
キリストは神と等しい者であることに固執しようとは思われませんでした。御自分を無にして、僕の身分となられました。人間と同じ者になられました。そして、徹底的に低くなられて十字架の死に至られました。何のためですか。誰のためですか。私のためであり、あなたのためです。
それは罪人である私たちを救うためでした。腹の底にある利己心によって動き、虚栄心を満たすために事を図り、大義名分によって高ぶりを覆い隠している、罪深い私たちを救うためでした。人を貶めて満足し、自分が高くされることばかりを追い求めている、そのような私たちを救うためでした。そのような私たちの罪を贖い、私たちが罪を赦されて神と共に生きるようになるために、キリストは神の栄光を捨てて十字架の死に至るまで従順に、神の御心に従われたのです。
これは恐らくフィリピの教会の人たちが、繰り返し歌ってきた讃美歌なのでしょう。彼らが礼拝をする時に、パンを裂き、ぶどう酒を分け合い、キリストの死を覚えつつ礼拝するなかで、この歌をうたってきたのでしょう。まことに私たちのために十字架にかかってくださったイエスこそ、私たちの主であると歌ってきたのでしょう。そのように、彼ら自身が口にしてきた歌を、彼ら自身が口にしてきた信仰を、今、パウロは彼らに指し示すのです。
そして、これを読んでいる私たちにも指し示しているのです。そのように歌い、そのように信仰を言い表し、そのようにキリストの体と血にあずかる者として、私たちは先の勧めの言葉をも受け取るのです。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」。そこにおいて初めて一つとなることができるのです。
2021年9月29日水曜日
祈祷会用:フィリピの信徒への手紙 2:1~11
2021年9月26日日曜日
「たとえ世界が明日終わるとしても」
テサロニケの信徒への手紙二 3:6-13
怠惰な生活をしている人
「働かざるもの食うべからず」という言葉があります。その言葉の出所は本日の第2朗読で読まれた聖書箇所だと言われています。今日はテサロニケの教会に宛てたパウロの手紙が読まれました。
「働かざるもの食うべからず」という言葉は、場合によってはとても残酷な言葉となります。いつの時代でも、働きたくても仕事のない人、あるいは働きたくても病気で働けない人はいるものですから。しかし、新共同訳に見るように原文では「働きたくない者は」(10節)となっているのであって、働きたくても様々な事情で働けない人には当てはまりません。
しかし、この箇所において重要なことは、そもそもパウロは労働そのものを話題にしているわけではない、ということです。もう一度その前後を含めてお読みします。「実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、『働きたくない者は、食べてはならない』と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです」(10‐11節)。
パウロはここで「怠惰な生活をしている者」を問題にしているのですが、ここで言われている「怠惰な生活」とは何もしないでぶらぶらしていることではありません。確かに「少しも働かず」と書かれていますように通常の労働はしていません。しかし、パウロに言わせれば「余計なこと」はしているのです。これは「お節介」とも訳せる言葉です。そのように余計なお節介をしている本人は、それなりに忙しくしているのです。そのようにここに書かれている「怠惰な生活」というものは、私たちが一般的に考えるような「怠惰な生活」とは異なるのです。
それが何を意味するかは2章まで遡るとわかります。このようなことが書かれていました。「霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」(2:2)。このようなことを書かざるを得なかったのは、実際には動揺したり慌てふためいたりする人たちがいたからです。
「主の日」とは最終的な神の裁きの日です。すなわち、最終的な神の裁きは始まっているということです。これを聞いて、動揺したり慌てふためいたりする者がいたのです。あるいは「既に来てしまった」とまでは言わなくても、いつ再臨があるかは分からないのだからという危機感から、例えば仕事を辞めてしまったり、通常の日常生活を放棄する者が現れたのです。そして、ただひたすら信仰に関わることだけに専念しようと思ったのです。それこそ伝道のために日夜かけずりまわる人がいたことでしょう。あるいは世の生活から離れてひたすら祈りに専念する人がいたことでしょう。教会の奉仕のために身を粉にして働いている人もいたかもしれません。
ですから、この「怠惰な生活」をしている人とは、何もしないで怠けている人というよりは、むしろ見ようによっては極めて熱心な信仰者にさえ見える人々なのです。しかし、それにもかかわらず、パウロは彼らのしていることについて、「余計なことをしている」と言うのです。余計なお節介であると。そして、そのような人たちに命じるのです。「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」(12節)。危機感によって動かされないで、慌てふためいたりしないで、とにかく落ち着いて普通の生活を続けなさいと命じているのです。
危機意識に動かされることの危険
しかし、ここでどうしても考えざるを得ないことがあります。そう言っているパウロはどうなのでしょう。パウロは普通のユダヤ人としての日常生活を放棄した人ではなかったでしょうか。彼もまたファリサイ派の生活を捨てて、伝道のために旅を続けているわけでしょう。確かに彼はテント職人を続けながら伝道の旅をしていました。テサロニケにいた時もそうでした。彼がここに書いているとおりです。「だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです」(8節)。そうです、そのとおりです。しかし、それでも反論したくなります。パウロよ、いつもそうであったわけではないでしょう、と。
実際、パウロはコリントに着いた当初はテント造りをしながら伝道していたのですが、「シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念した」(使徒18:5)と書かれているのです。この手紙はその頃のコリントにおいて書かれたと考えられますので、実はこの手紙を書いている時点では、パウロは通常の労働はしていないのです。まさにそのように、生計を立てるための仕事から離れて走っているとしか見えないパウロが、「落ち着いて仕事をしなさい」と言っているのです。
そこで私たちは、改めてこれを書いているパウロと、ここで言われている「怠惰な人々」との違いをしっかりと見極めなくてはならないのだと思います。パウロが伝道のために奔走しているのはなぜでしょうか。それは終末の到来を考えたときに、この世の営みに意味を見いだせなくなったからとか、もはや伝道にしか意味が見出せなくなったから、という理由によるのではないのです。そうではなくて、パウロはキリストによって召され、キリストに命じられてそうしているのです。つまりそれは伝道者としての召命によるものなのであって、単に危機感によって動かされているのではないのです。
キリストが命じておられることであるか。キリストが本当に望んでおられることなのか。――そのことを考えずにただ危機感に駆られて行動することは、時にとても大きな危険をはらむことになります。「世の終わりが来る」という危機感。そのような終末的危機意識に煽られる時、容易に日常生活の放棄が起こります。いやただ仕事を放棄するだけでなく、歴史的に見るならば、そこには危険な殺人集団が生み出されることもあれば、集団自殺が引き起こされることもあったのです。「宗教は怖い」と言う人がいます。ある意味で当たっています。危機意識によって動かされた宗教的熱狂ほど怖いものはありません。そこで人は何をしでかすかわからないからです。
パウロはテサロニケにいたときから、終末的危機意識から来る熱心さ、しかも通常の生活を軽視した形での熱心さが大きな問題になるであろうことを既に予感していたのでしょう。ですから、パウロは援助を受けて伝道することもできたのですが、あえて通常の仕事をしながら伝道したのです。日常の当たり前の生活を大切にして見せたのです。それは「身をもって模範を示すため」(9節)だったと語られています。そして、言葉によっても、「働きたくない者は、食べてはならない」(10節)と教えたのです。
たとえ世界が明日終わるとしても
しかし、パウロはただ危機意識から来る熱狂を問題にしているだけではありません。そこには、もっと根の深い問題があったからです。そもそもギリシア人は、もともとこの世界における労働そのものに大きな価値を見てはいなかったのです。労働は奴隷の務めとさえ考えられていたのです。それは目に見えるこの世界を価値なきものと見る世界観から来ています。物質的なるものは悪であり、見えざる霊魂こそが善であるとする霊肉二元論です。容易に想像できるように、そのような思想は、この世の生活を非本質的なものと考える人々を生み出したのです。そのような人々にとってはむしろ死ぬことこそ救いなのでした。彼らにとって死とは魂の牢獄からの解放に他ならなかったのですから。
そのような人生観において宗教は現実逃避と容易に結びつくものとなります。宗教はいくらでも現実逃避の手段となるのです。そのような素地をもった人々が福音を受け入れたとき、キリスト教信仰もまた、日常生活の放棄や現実逃避と結びついていくことはいくらでも起こり得ることでした。パウロはそのことが分かっていたからこそ、あえてこの世における労働を強調して、自ら模範を示したのです。
それは今日の私たちもまた考えねばならない事柄です。宗教が現実逃避と結びつく要素は、この国の一般的な宗教観にも根強く存在するからです。この世から逃れることが救いだと考えている人は決して少なくない。ありきたりの日常から離れて、ひとときでも非日常的な世界に身を置くことのできる時間を宗教に求める人は少なくないのです。さらには、テサロニケの「怠惰な」人たちのように、この世から隔絶したところに完全に身を置くことを願う人もいる。そのようにして、人はカルト宗教に捕らえられていくのです。
しかし、聖書は全く逆のことを語っているのです。この目に見える世界は無価値などころか、この世界こそ神が造られた世界なのだと言うのです。エデンの園の物語を思い起こしてください。そこには何と書かれていますか。神は人を造って、園に住まわせ、「人がそこを耕し、守るようにされた」(創世記2:15)と書かれているのです。労働は本来、神からの委託であり、神からの賜物でもあるのです。いわば、この目に見える世界との関わりにおいて神との交わりを経験する契機でもあったのです。
この世界は神が造られた世界であるゆえに、神にとってこの上なく大事な世界なのです。どれほど大事かと言えば、独り子を目に見える体を与えてこの世界を歩ませるくらい大事なのです。また最終的にキリストをこの世界に再臨させると約束されたくらい大事なのです。それゆえに、この世に生きる私たちの人生も神にとっては重大事なのです。神は関心をもってご覧になっておられるのです。私たちがこの世に生きる、当たり前の日常生活、同じことの繰り返しかもしれない労働の生活、あるいは様々な苦難を耐え忍びながら神を信じて生きる生活、そのすべてが神様にとっては、大きな意味を持っているのです。
「たとえ世界が明日終わるとしても、今日私はリンゴの木を植える」。マルティン・ルターが言ったとされている有名な言葉です。これは信仰者にとって、決して忘れてはならない姿勢を語っているのでしょう。世の終末に限らず、危機は誰にでも訪れます。それは社会における危機かもしれません。現在のパンデミックもまたその一つでしょう。あるいは個人の人生における危機かもしれませんし、自身の終末を迎えるという時もまたその一つでしょう。
終末的危機感に限らず、危機的な状況がある時に正しい意味での危機感を持つことは大事です。しかし、危機感に支配され、危機感に駆り立てられて行動してはならないのです。そのような時こそ神に信頼して、落ち着いて、本当に為すべきことを見出さなくてはならないのです。自分が神から託されている務め、その時に本当にしなくてはならないことを見出し、忠実に行うことこそが大事なのです。それは、場合によっては、ごく当たり前の生活をそのまま落ち着いて継続することかもしれないのです。パウロが「落ち着いて仕事をしなさい」と言っているように。
(祈り)
2021年9月22日水曜日
祈祷会用:フィリピの信徒への手紙 1:27~30
フィリピの信徒への手紙 1:27‐30
「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」(27節)とパウロは勧めます。ここで「生活を送る」と訳されているのは、「市民として生活する」という言葉です。パウロは他の一般的な言葉を用いないで、あえてこの言葉を用いました。フィリピの人には一番ピンとくる言葉だったからです。
フィリピの町は、ローマの植民都市でした。そこにおける生活は何もかもローマ式でした。マケドニア地方にありながら、ギリシャ流ではない、ローマの植民都市としての生活があったのです。そのことを背景に、パウロはフィリピの人に勧めるのです。「キリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。」つまり、「フィリピの市民には、ギリシャ流ではない生活、ローマを本国とする者としてふさわしい生活があるように、あなたがたにはキリストの福音に与った者としてふさわしい生活があるのです。そのような生活を送りなさい」ということです。福音に与った者の本国は天にあります(3:20)。つまり福音にふさわしい生活とは、この地上にあって天に属するものとして生きる生活に他ならないのです。
では、天を本国とする生活とは、どのような生活を意味するのでしょうか。この地上において、さながら天に生きているがごとく、いつも平安でかつ平和な生活を意味するのでしょうか。いいえ、パウロはどうもそのような生活を考えてはいないようです。彼は言います。「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう」(27節)。さて、何を聞けるのでしょうか。「あなたがたはひとつの霊によってしっかりと立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと」(27‐28節)。
確かにキリストの福音に与ったものは、内なる平安をいただくでしょう。しかし、それは必ずしも平穏無事であるということを意味しません。それは「戦い」なのです。何のゆえの、何のための戦いでしょうか。パウロは、「福音の信仰のため」の戦いであると言っています。福音の信仰によって天を本国として生きるようになった者には、その福音の信仰のための戦いがあるのだ、ということです。そこには二つの意味が含まれています。第一に、それは福音の信仰に生き抜くための戦いであり、第二に、それは福音の信仰を宣べ伝える宣教の戦いです。
キリスト者は天を本国としながらも地上に生きています。そして、この地上の世界はキリストを主としているわけではありません。それゆえに、この世においてキリストを主として生きる時、戦いを伴うのは当然のことなのです。パウロは特にここで「反対者」が起こることについて語っています。迫害について語っているのです。事実、キリストを信じるゆえに、具体的な危害を加えられるということを、フィリピの信徒たちも経験してきたのです。
もちろん、今日の私たちが置かれている状況は違います。具体的な迫害を経験することは少ないかもしれません。しかし、戦いがあるのは、必ずしも「反対者たち」が起こることにおいてだけではないでしょう。ある人にとっては、キリストを週毎に礼拝して生きるということだけでも、大きな犠牲を払いながら進められる戦いであるに違いありません。またある時は、それよりも苛酷な「自分の罪との戦い」であるかも知れません。いずれにしても、私たちが地上に生きている限り、福音にふさわしい生活は、戦いを伴うものなのです。
そして、さらに積極的な意味で、私たちの戦いは、福音の信仰を宣べ伝える宣教の戦いです。30節でパウロはこのように言っています。「あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。」フィリピの人々がかつて見たパウロの戦いとは、言うまでもなく、フィリピにおける宣教の戦いです。その初めの様子は使徒言行録16章に詳しく記されています。パウロの宣教によって、紫布商人リディアが救われ、占いの霊に憑かれていた女奴隷が救われました。しかしその結果、フィリピの町に騒ぎが起こり、パウロは捕えられ、鞭打たれ、投獄されることとなったのです。しかし、パウロは宣教の戦いをやめませんでした。なぜなら彼は、自分が救われるためにキリスト御自身が戦いを経験されたことを知っていたからです。
今の時代、福音を宣べ伝えることによって投獄されるということはまずないでしょう。しかし、そうではあっても、やはり誰かの救いのために働くということは、多くの労苦を伴うひとつの戦いであることには違いありません。私たちはそれぞれ、この宣教の戦いへと召されているのです。もし私たちが、自らの罪が赦され、滅びから救われ、天の御国の民とされたことだけで満足しているなら、それは単なるエゴイストでしかありません。単なるエゴイストを造るためにキリストは十字架にかかられたのではないのです。
さて、今まで見てきましたように、キリストの福音にふさわしい生活を送るということは、決して平和な安泰な生活を意味するのではなく、むしろ共に心を合わせて戦われるべき熾烈な戦いに他なりません。言うまでもなく、戦いは苦しみを伴うものです。ならばキリストの福音にふさわしい生活を送ろうとするとき、苦しみは避けて通れないものであるということになります。苦しみは避けたいと思うのが自然です。ところが、この苦しみということについて、私たちはここに驚くべき発言を聞くのです。「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(29節)。
これをパウロが語っていることを考えるとき、この言葉は大変な重みをもつ言葉として迫ってきます。なぜなら、パウロは他の誰よりも、キリストのために苦しんできた人物だからです。パウロ自身が、他の手紙において次のように書いています。「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした」(2コリント11:23)これに続いて具体的にどのような目に遭ったかを記しています。彼はまさに苦しみの人でした。そして、この手紙を書いているときにも、彼は獄中にいるのです。もしかしたらそこで地上の生涯を終えなくてはならないかも知れないのです。そのような時に、「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」と彼は言っているのです。
そう表明するのは、彼自身がその恵みを経験しながら生きてきたからです。ですから、パウロはこれが恵みであるということについて、なんら解説を加えません。そんなことに多くの言葉を費やしても意味がないからです。それは私たちについても同じです。これは説明されるべき事柄ではなくて、経験されるべき事柄です。私たちがキリストのために苦しんで、初めて経験される恵みなのです。だから戦いを安易に回避してはならないのです。苦しみから逃げてはならないのです。
「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。」この言葉をもって主は私たちを日々の生活へと送り出してくださいます。私たちはこの言葉に具体的にどのように応えていくのでしょうか。
2021年9月15日水曜日
祈祷会用:フィリピの信徒への手紙 1:12~26
フィリピの信徒への手紙 1:12-26
パウロは獄中にいます。自由を奪われ、さらには命までも脅かされています。パウロの身に起こったことは、誰の目にも福音の前進を阻むものとして映ったことでしょう。しかし彼は言うのです。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」と。「前進」という言葉は、道を切り開いて進むことを表す言葉です。ある人は「開拓的前進」と訳しています。パウロが投獄されることによって、今まで道がなかった所に道ができるのです。そのようにして、福音が前進していくのです。
その前進はどのようにして起こったのでしょうか。パウロはこう続けます。「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り…」(13節)。そこに新しい出会いが生まれました。ローマの兵士たちとの出会いでした。彼は監禁されている間、四六時中ローマ兵の監視下に置かれることになったからです。一説によれば、監視は六時間毎の四交代制で行われたと言います。彼らはその時間、いやでもパウロと共にいなくてはなりませんでした。
「わたしが監禁されているのはキリストのためである」とパウロは彼らに語ります。そのキリストとは誰であり、何をしてくださったかを語ったことでしょう。四交代制でしたら、一日四人には語ることができます。やがてキリストとパウロとの関係は、兵営全体に知れ渡ることとなりました。それはパウロが投獄されなかったら起こりえなかったことでした。福音を阻むように見える出来事の中で、神は福音の進む道を切り開いて前進させて行ったのです。
いや、それだけではありません。パウロはさらに続けます。「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」(14節)。
この手紙に繰り返されている言葉、それは「喜び」です。彼らは、自由を奪われ、命さえ奪われるかもしれないのに、なおそこで喜びをもって生きていたパウロの姿だったのです。そこに人々が見たのは、人間の自由よりも、そしてこの世の命よりも、もっと大いなるものだったのです。この世の命よりもはるかに価値ある、キリストによる永遠の救いだったのです。それゆえに、彼らは「恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになった」とパウロは言います。そのようにして神は福音を前進させてくださったのです。
パウロはさらにこう続けます。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです」(15‐17節)。
なんと、パウロが身動きの出来ない時に、こんなことが起こっていたのです。パウロはそのために苦しんできたのでしょう。しかし、驚くべきことに、パウロはそれでもなおこう言うのです。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」(18節)。それはなぜか。それが純粋に愛の動機からのことでなくても、人間の不純な動機が入り込んでいたとしても、それでもなお福音は前進することを知っているからです。
だから自分が獄中にいることについて、パウロは全く気に病んでいません。獄中にあろうがなかろうが、パウロが願うのはただ一つのことだけなのです。「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」(20節)。
「これまでのように今も」とパウロは言います。パウロはこれまで、各地を駆けめぐって御言葉を宣べ伝え、人々を救いに導き、教会を建て上げ、牧会者を指導してきました。それがパウロの「これまで」でした。しかし、「今」は違います。獄中にある「今」、同じことはできません。確かに人のなし得ることは、その時々において異なります。ですから、パウロは「わたしの働きによってキリストが公然とあがめられるように」とは言いません。「働きによって」でしたら、「生きるにも」は分かりますが「死ぬにも」という言葉は続き得ません。
だから「わたしの働きによって」ではなく「わたしの身によって」と彼は言うのです。最終的に意味を持つのは、その人の人格を含めた存在そのものなのです。その存在そのものによってキリストがあがめられることです。「あがめられる」と訳されているのは「大きくされる」という意味の言葉です。パウロの願いは自分が大きくされることではなく、キリストが大きくされることだったのです。
「これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるように」――その根底にあるのは、次の言葉に言い表されているパウロの信仰です。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(21節)。
「生きるとはキリスト」の対極にあるのは、「生きるとは《わたし》」というあり方です。キリストが大きくなることではなく、《わたし》が大きくなることこそが生きることの意味として据えられるなら、人の目にも、自分の目にも、《わたし》が大きくなり得なくなった時に、生きることの意味は失われます。生きることの意味を見失った人もまた、「死ぬことは利益なのです」と言うかもしれません。「もう死んだほうがましだ」と。しかし、それは「生きるとはキリスト」に続く「死ぬことは利益なのです」とは、全く意味が異なります。
苦難に次ぐ苦難の中にありますから、パウロも確かにこう言っています。「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」(23節)。それはパウロの正直な心情であったに違いありません。しかし、そこで「この世を去って、キリストと共にいたい」とパウロが言っているその「キリスト」とは、彼が「生きるとはキリスト」と言っているその「キリスト」に他ならないのです。だから、「これまでのように今も」どのような境遇に今置かれていたとしても、この身によってキリストがあがめられるために、この世にあるこの身をもってどう生きるのかが重要になるのです。
2021年9月12日日曜日
「分け隔てをしてはなりません」
ヤコブの手紙 2:1-13
分け隔てをしてはなりません
今日の箇所では、「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」(1節)と語られています。それが人道的に良くないことだから「人を分け隔てしてはなりません」と言っているのではありません。主イエス・キリストを信じる信仰と「分け隔て」とは本来相容れないものであるからです。それゆえに、「《わたしたちの主イエス・キリストを信じながら》、人を分け隔てしてはなりません」と言っているのです。
そして次のような一例が挙げられています。「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」(2‐4節)。
いかにもえげつない話です。世の人が聞いたなら、「信仰云々の前に人としてどうなのか」と言われるかもしれません。しかし、ここに書かれているのは、単にこの世の差別意識が教会にも持ち込まれたという単純な話ではないのです。このようなことは、教会生活を大事にし、教会のことを真剣に考える敬虔な人々であるからこそ、起こっていたのかも知れないのです。
そもそも、初期の教会で「立派な身なりの人」が優遇されていたとするならば、それはそのような人の存在が教会にとって有利であったからです。実際には貧しい人が多く、奴隷の身分の人も決して少なくはなかった初期の教会の話です。聖餐のパンや食事も、主に共同体の中の比較的裕福な人々が用意したのです。集会の場所もある程度広い場所が確保できる裕福な人たちが提供していたのです。
そればかりではありません。迫害もあれば、様々な形での妨害もあります。6節以下に書かれているように、この世の富裕層から酷い目に遭わされたり、脅かされたりすることが実際にあったのでしょう。そのような時、教会の中にある程度力を持った人間がいること、富裕層の人たちがいることは実際的に大きな助けとなったことが考えられるのです。
ですから、ヤコブがここで挙げている一例は、先にも申しましたように、実際には不敬虔でいかにもこの世的な人々によって起こるだけでなく、一見すると敬虔で信仰的で教会をとても大切にしている人々によっても起こるのです。教会を大切に思う人が、教会を守りたい一心で、ある人の存在を教会にとって有利か否か、役に立つか否かという判断をしてしまう。そして、それが結果的に「分け隔て」や「差別」を生み出してしまうということが起こるのです。
ですから、それはこの例のような金銭的な富だけでなく、能力や年齢、性別などによっても起こり得ます。例えば、日本の多くの教会において、「若い人がもっと教会に来て欲しい」と言う声が聞かれます。それは純粋に若い人たちを愛して、若い人たちに福音を伝えたいという願いから出た言葉であるかもしれません。しかし、同じ言葉であっても、「日本の教会は高齢化しているから、もっと若い人たちに来て欲しい」という意味であったらどうでしょう。教会を維持するために必要だというだけならば、今日の聖書箇所に書かれている事例と内容的には少しも変わりません。それは「お金持ちがもっと教会に来て欲しい」と言うのと変わらないでしょう。そのように、今日の聖書箇所のようなあからさまな形でなくて、時として非常に見えにくい形で、分け隔てや差別は起こってくるのです。
そして、さらに言うならば、そのような分け隔ては「他者」に対して行われるだけではありません。「自分」に対しても起こり得ます。他の人について「あの人は必要、あの人は必要ではない」というだけでなく、自分についても「わたしは必要な人」と考え、あるいは「わたしは必要ない人」と考える。しかし、それは他者を見る目がそのまま自分に向けられているだけなのです。自分は貧しいからいてもいなくてもいい人。自分は能力がないから必要ない人。そのように、自分は~だから必要のない人と思っている人は、まず自分が他の人をどう見て、どう判断しているかを省みてみる必要があろのです。
目を向けるべきところに向けて
そこで私たちは特に、4節の御言葉を心に留めたいと思います。「あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」(4節)。
ここで「誤った考え」とあるのは原文では「悪い考え」という言葉です。確かに差別は悪いことです。それは「悪い考えに基づく判断だ」と言うことができるでしょう。しかし、ここでヤコブが言っているのは、そのようなことではありません。冒頭で触れたように、要するにそれは信仰とは相容れないということなのです。あくまでも問題は信仰に関わることなのです。信仰によって本当に見るべきところに目を向けているか、信仰によって価値あるものを価値あるものとして見ているかどうか、ということなのです。そうなっていない時に起こってくる考えとそれに基づく判断。それが「悪い考えに基づいて判断を下した」と書かれている内容なのです。
ですから「よく聞きなさい」と言って、ヤコブは見るべきところに目を向けさせようとします。「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」(5節)。彼はどこに目を向けていますか。肉の目が見ているのは、教会の中にいる貧しい一人の信徒です。しかし、ヤコブが指し示しているのは、神が信仰に富ませてくださったという事実です。そうです、既にこの上なく豊かなのです。
神が信仰に富ませてくださった。その「信仰」とは、1節にあるように「栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じる信仰」です。すなわちイエス・キリストによって実現したことに心を向ける信仰です。それは、キリストの十字架のゆえに罪の赦しにあずかったこと、神に受け入れられ神の子供たちとされ、そこに書かれているように「御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者」とされたということです。
そのように、神が既にしてくださった偉大なことがあるのです。神が既にしてくださった偉大なことに、私たちが等しく与っているという事実があるのです。そのようなお互いであることに目を向けないから、他のことに目が行くのです。この世的な違いに目が行くのです。自分たちにとって有利か不利か、役に立つか立たないかというところにばかり目がいくのです。そして結果的には神がしてくださった大いなることを踏みにじることになるのです。例えばここに書かれているように「貧しい人を辱めた」という形で起こってくるのです。
憐れみは裁きに打ち勝つ
さて、このように今日の聖書箇所においては「人を分け隔てしてはなりません」という勧めがなされていたのですが、最後に、この部分が次のように締めくくられていることに注目しておきたいと思います。次のように書かれています。「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです」(13節)。
ここで「憐れみをかける」という話が出て来るのはいささか唐突な感じがしないでもありません。「人を分け隔てしない」ということと「憐れみをかける」ということは、基本的には別なことのように思います。また、そのように扱うことが正しいように思えます。というのも、「分け隔てをしない」ということが、イコール「憐れみをかける」ということになりますと、何か上から人を見て「分け隔てをしないであげよう」という意味合いにもなりかねませんから。
しかし、今日の福音書朗読において読まれたイエス様のたとえ話に耳を傾ける時、「憐れみをかける」という言葉は全く違った意味合いをもって響いてまいります。そこで語られていたのは、王によって一万タラントンの借金を帳消しにされた家来の話でした。借金を帳消しにされた家来が外に出ると、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会います。百デナリオンは一万タラントンの六十万分の一です。自分は六十万倍もの借金を帳消しにしてもらったにもかかわらず、彼はその仲間の首を絞めて「借金を返せ」と言い、借金を返すまでと牢に入れた」というのです。
それを聞いた王は怒りました。そして、こう言ったのです。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(マタイ18:32‐33)。
この王とは神であり家来は私たちです。「憐れんでやるべきではなかったか」と神は言われます。その根拠は神の「憐れみ」です。「わたしがお前を憐れんでやったように」と神は言われるのです。ですから、要するに「憐れみをかける」とは、神がしてくださったことに目を向けて、神がしてくださったことに基づいて判断し、行動することなのです。
「分け隔てをしない」ということは、まさにそのようなことではありませんか。神様がしてくださったことに基づいて判断し、行動するならば、分け隔ては起こらないはずなのです。そうでない判断は「悪い考えに基づく判断」と呼ばれていました。ちなみに4節で「判断を下した」と訳されているのは「裁く者となった」という言葉です。悪い考えに基づく裁き、すなわち神がしてくださったことを思わない「裁き」、それが「憐れみをかけない」ということです。「憐れみをかけない」ならば、「憐れみのない裁きが下されます」と語られているのです。
私たちに対する神の憐れみがなかったかのように私たちが他者を裁くなら、そのように私たちも神に裁かれることになるでしょう。自分が裁く裁きで裁かれるのです。逆に神の憐れみが先にあることを思いつつ、それに基づいて裁く(すなわち「判断する」)なら、そのように神もまた憐れみに基づいて裁いてくださるのです。私たちにおいて「憐れみが裁きに打ち勝つ」なら、神においても「憐れみが裁きに打ち勝つ」のです。そうです、その時には憐れみの方が裁きよりも遙かに大きいのです。
(祈り)
2021年9月8日水曜日
祈祷会用:フィリピの信徒への手紙 1:1~11
フィリピの信徒への手紙 1:1-11
今日は「フィリピの信徒へ手紙」の冒頭部分をお読みしました。最初に挨拶があり、3節から手紙の本文に入ります。原文においては「わたしは感謝します!」という言葉から始まります。これは実に印象的な書き出しです。さらには「あなたがた一同のために祈る度に、喜びをもって祈っています」(4節)と言うのです。なぜでしょう。その理由は5節に書かれています。「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです」(5節)。
パウロが二回目の伝道旅行においてフィリピを訪れた時、彼らに初めてイエス・キリストの福音が宣べ伝えられました。彼らは福音を聞いてキリストを信じ、彼らの信仰生活がスタートしました。それは彼らが始めたことと言えなくはありません。しかし、それ以上に重要なことは、神が始められた善き事があるということです。神の救いの御業が始まっているのです。「福音にあずかっている」とはそういうことです。
ですから、パウロはその神の御業に目を向けてこう言うのです。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)。そうです、だから「わたしは感謝します!」と言っているのです。神に感謝しているのです。
そのように神が始められた善き業がある。完成へと向かう神の善き業が進行中である。その神の御業に目を向けることは重要です。しかし、もう一方において、彼らが福音を信じて実際に信仰生活をスタートし、それが継続しているという人間の側の側面に目を向けることもまた重要です。パウロはここで「最初の日から今日まで」という言葉を使っているのです。
この世における様々な困難や誘惑の中にあってなお、共に集まり、神を礼拝し、新しい命に生きる共同体に連なっている――それがここで語られていることに他なりません。フィリピの教会には、後に見るように、実際には問題が山積していました。パウロとの関係も常に良好であったわけではありませんでした。しかし、パウロは彼らを思い起こす度に喜びをもって祈るのです。彼らが「今日まで」福音にあずかり続けていること、信仰生活を続けているということがどれほど大きなことかが分かっているからです。それゆえに喜びをもって祈っているのです。
そのようにパウロが「最初の日」だけでなく「今日まで」を重く見ているのは、その先に「キリスト・イエスの日」があるからです。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)。
「キリスト・イエスの日」というのは、終末におけるキリスト再臨の日です。神が定められた終わりの日です。私たちがキリストと相見えることになる終わりの日です。その日までに、善い業を始められた方がその業を成し遂げてくださると言うのです。そのようにして、私たちが「キリスト・イエスの日」に向けて備えられるのです。
具体的にパウロはどのようなことを考えているのでしょうか。それは続く祈りの言葉によく現れています。9節以下をご覧ください。
「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(9‐11節)。
パウロは「愛がますます豊かになるように」と祈ります。しかも、「知る力と見抜く力とを身に着けて…愛がますます豊かになるように」と祈るのです。「知る力」というのは「知識」とも訳せる言葉です。「見抜く力」というのは、鋭い感覚をもって判断することのできる判断力です。この二つが必要なのは、そこに書かれているように「本当に重要なことを見分けられるように」(10節)なることが必要だからです。
愛は打算を越えます。愛は時として愚かになることでもあります。しかし、それは単なる熱狂や暴走とは一線を画します。本当に愛が豊かとなるためには、知る力と見抜く力が必要なのです。時として感情に振り回されない冷静な鋭い判断力が必要とされます。実際、それらを抜きにした「愛」なるものが、単に人迷惑なだけであったり、あるいは人をだめにしてしまうことがどれだけあるか知れません。神に対する愛や献身のの名のもとに、今日に至るまでどれだけ思慮を欠いた破壊的な行為がなされてきたことでしょう。最終的に何が本当に重要なことかが分からないままで、「愛が豊かになるように」なることはないのです。
そして、その「本当に重要なことを見分けられるように」ということに続いて、先に申しました「キリストの日に備えて」という言葉が続くのです。そもそも、本当に重要なこと、とは何でしょうか。それは最終的に「キリストの日」において、キリストが重要と見なしてくださることでしょう。それゆえパウロは、「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり」と続けるのです。
「愛」について語られる時、そこでまた「清さ」が語られるということは大事なことです。なぜなら、この世においては、愛の名の付く愛ならぬものがいくらでもあるからです。「清い者」と訳されている元の言葉は、「太陽のもとにおいて調べられたもの」を意味する言葉です。光にさらされても大丈夫なもの、ということです。私たちが愛と呼び、本当に重要だと呼んでいるものは、愛そのものであるキリストの光に照らされて、それでも大丈夫であるのか。それでもなお愛と呼べるのか。そのことが問われるのです。
さて、こうしてみますと、「愛が豊かになる」とサラリと書かれていますが、とてつもなく大きな課題であることが分かります。果たして、私たちはこの言葉を受け止めきれるのでしょうか。しかし、私たちはそこで、パウロがこのことを「祈っている」という事実を忘れてはならないのです。
このように書いているパウロ自身、「キリストの日への備え」が人間の努力によっては完成され得ないものであることを良く知っているのです。ですから、パウロは祈りの最後をこう締めくくるのです。「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(11節)と。ここには「私たちの努力が実を結んで」とは書かれていないのです。「義の実」はイエス・キリストによって与えられるのです。
先に見てきたように、神によって善い業が既に始められているのです。そして、始められた方がその業を成し遂げてくださるのです。そのように信じてパウロは祈っているのです。同じように私たちも祈るのです。信じて祈り続けるのです。
(祈り)
2021年9月5日日曜日
「和解と一致のために」
コリントの信徒への手紙 1:10-17
分裂した教会
「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」(10節)。今日の礼拝で朗読された聖書の言葉です。「みんな勝手なことを言わないように。仲たがいしないように」なんて、まるで幼稚園の先生が口にするような勧めです。そんなことは言われなくても、ある程度成長すればだれでも分かっていることです。しかし、そんな当たり前のことがあえて聖書において勧められているのは、当たり前のことを当たり前のように実行することが、いかに難しいことかということなのだろうと思います。
実際、仲たがいなしに共に生きることは難しい。一つになることは難しい。それは教会についても例外ではありません。コリントの教会には、このように語られなくてはならない事情がありました。続きをお読みします。「わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです」(11‐12節)。
そこには「わたしはパウロにつく」と言う人々がいました。コリントの教会は、使徒言行録16章に記されているように、パウロとその一行の開拓した教会です。ですからそこにパウロを殊更に慕う人たちがいたとしても不思議ではありません。しかし、あえて「わたしはパウロにつく」と言う人々がいたのは、もう一方に、パウロに敵対する人たちがいたからです。その事情はこの手紙の先の方まで読みますと明らかになってきます。そのような教会だからこそ、パウロを使徒として受け入れ、あえて彼を支持することを表明する人たちがいたのです。
また、ある者たちは「わたしはアポロにつく」と言っていました。アポロという人物は使徒言行録18章において「アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家」(使徒18:24)と紹介されています。アレクサンドリアはヘレニズム文化の一大中心地でした。そこが出身地であるとわざわざ書いてあるのは、彼が教養豊かな人物であったことを言いたいのでしょう。教養豊かな雄弁家がパウロの去った後のコリントにやってきて活動していたのです。他方、パウロについてはコリントの一部の人たちから「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(2コリント10:10)と評されていました。パウロよりもアポロとの関係を強調する一群の人々が現れたとしても不思議ではありません。
また、ある人々は「わたしはケファにつく」と言っていました。ケファというのはペトロのことです。ペトロはイエス・キリストの直弟子です。また、いわば教会の本家とも言うべきエルサレムの教会の代表的人物でした。恐らくはユダヤ人を中心としたエルサレムの教会の優位性を主張していたユダヤ人キリスト者の一群が、ペトロとの特別なつながりを強調していたものと思われます。
しかし、今日特に注目したいのはその次です。そこには「わたしはキリストにつく」という人々がいたというのです。明らかにこのグループだけは異質でしょう。「キリストにつく」という主張は、「パウロであれアポロであれペトロであれ、それがどれほど偉大な人物であっても、私たちは人間にはつかない」という主張の表れです。キリストとの霊的な関係を強調するグループです。
そもそも決して完全ではない「人間」を持ち上げて、あの人につくとかこの人につくとか言っているから分裂が起こるのであって、キリストにこそしっかりと結ばれることが大事なのである。そう言われたらなるほどもっともな話に聞こえます。しかし、皮肉なことに、キリストとの関係を強調する人たちが、《自分たちこそキリストについている》と主張する集団を形成することによって、分裂と仲たがいの一要因となっていたのです。
しかも、そこに造り出される分裂は極めて深刻なものであると言えます。なぜなら「パウロにつく」「ペトロにつく」というような言葉、つまり人間とのつながりは相対化され得ますが、「キリストにつく」という言葉は絶対的な意味を持つことになるからです。「自分たちこそキリストについているのだ」という主張は「他の人々はキリストについていない」すなわち「偽物のキリスト者だ」という主張にもなるわけですから。それは極めて深刻な分裂を生み出すことになるのです。
キリストの体であるのだから
そこで私たちは、今日読まれた聖書の言葉に、改めて耳を傾けねばなりません。パウロは、まず前置きして語り始めます。「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します」(10節)。これは、これは言い換えるならば、「わたしではなく、主イエス・キリストが勧めているのだ」ということです。「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」というのは、パウロではなく、他ならぬキリストの願いであり、キリスト御自身が求めていることなのだ、ということです。
逆に言えば、分裂した状況をあえて続けるということは、キリストの願いを踏みにじることになる、ということなのです。それは最後の「キリストにつく」と言う人たちについても言えるのです。どれほど心情的にキリストを愛し慕う思いに溢れていたとしても、実際にはキリストの望まれないことを行っているということがあり得るということです。
そこで決定的に重要な意味を持つ言葉は13節の言葉です。「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」(13節)。パウロがこのように語るのは、これが他ならぬ「教会」における話だからです。彼はこの手紙の後の方で次のように語っています。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(1コリント12:27)。
この世の人は教会を単なる人間の集まりと見るかも知れません。事実人間が集まっているわけで、天使の集まりではありません。ですから教会は人間が持つ弱さや欠けや罪深さをそのまま内に有しています。しかし、それでもなお聖書は教会を「キリストの体」と呼ぶのです。神はそう見ていてくださるということです。
それはキリストに結ばれ、キリストの命が通っている体です。キリストが御心をこの地上に実現するために用いてくださる体です。私たちはその部分だと言うのです。一人ひとりは、それぞれかけがえのないキリストの体の部分なのです。ならばそこに分裂が生じ、互いが反目し合うようになるならば、それはキリストの体をバラバラにしてしまうことになるではありませんか。「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」とはそういうことです。
パウロはそこであえて「パウロにつく」と言っている人たちに語りかけます。「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか」(13節)。先にも申しましたように、コリントの教会には、パウロには敵対する人々がいたのです。もし誰かが私たちに敵対していたとするならば、私たちは一人でも多くの人が自分を理解してくれて、味方になってくれることを求めるのではないですか。しかし、パウロ自身は、「わたしはパウロにつく」と言っている人々の存在を喜んではいなかったのです。彼にとっては、自分の味方がいることよりも、キリストの体が一つとなることの方が大事だったからです。
「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか」。――答えは分かっているはずです。いいえ、そうではありません。キリストです。キリストこそが十字架におかかりくださった唯一の御方です。だからそのキリストの体は重んじられなくてはならないのです。パウロに反対する人たちによってパウロの名誉は傷つけられてきたのかもしれません。パウロの立場は損なわれてきたのかもしれません。しかし、パウロにとっては自分の名誉にせよ立場にせよ、キリストの体を傷つけてまでも守らねばならないものではなかったのです。
さらにパウロは言います。「あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」。「パウロの名によって」と訳されていますが、もともとは「パウロの名の中へ」という言葉です。「パウロの名の中に入れられる、パウロに結びつけられる、そのような洗礼を受けたのか」と問うているのです。そうではありません。彼らは、キリストの名の中に入れられる、キリストに結ばれる、そのような洗礼を受けたはずです。そのようにしてキリストの体の一部となったのです。
その後でパウロが「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためである」(1:17)と言っているからと言って、彼が洗礼を重んじてはいないと考えてはなりません。むしろ、ここでキリストとの関連でどうしても話に出さなくてはならないほど重要に考えているのです。
洗礼はご存じの通り水を用いて行います。水は手に触れることができるし、目に見ることもできます。そして、洗礼式は、目に見える教会の中において行われます。そのことによって、洗礼は、目に見えないキリストとの信仰的な関わりを、目に見えるこの地上の現実と結びつけるのです。洗礼というものは、キリストとの関係をただ心の中のことにすることを許さないのです。私たちを目に見える教会と結びつけ、キリストの体に結びつけるからです。
ですから、逆に言うと、洗礼を重んじないとどうなってしまうのか。洗礼を重んじない信仰生活はどうなるのか。そのような信仰は極めて個人的な心情的なものとなってしまうのです。ですから、キリストを愛すると言う人々が、「わたしはキリストにつく」という人々が、実際にはキリストの体を傷つけたり破壊したりするという、まことに矛盾に満ちたことが起こるのです。
決定的な出来事はただ一度かぎり、あのカルバリの十字架において起こりました。聖書はその事実に私たちの目を向けさせます。私たちのために、この地上で、現実に血を流してくださって罪を贖ってくださったのは、ただこの方お一人です。その御方の前では、すべてが相対化されます。あらゆる人間も、あらゆる人間の主張や体験も相対化されます。キリスト者となるとは、洗礼によって、その御方の体の一部となることです。その事実こそが重要なのです。本当の意味で「わたしはキリストにつく」と言いたいならば、自分がキリストの体の一部であり、他の人々と共に一つの体とされているのだということを、決して忘れてはならないのです。
(祈り)