申命記 10:12‐11:1
主を畏れ、主を愛しなさい
「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か」(12節)。今日の第一朗読の言葉です。私たちの願いや求めを神様に持って行く前に、まず私たちは神様の願いと求めに関心を向け、神様の語りかけに耳を傾ける者でありたいと思います。
「今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か」。今日の聖書箇所はこのように続きます。「ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか」(12‐13節)。
本当に大事なことは多くはありません。ある意味ではこれだけです。あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩みなさい。主を畏れて生きていきなさい。――主を畏れて生きるとはどういうことでしょう。それは神を怖がって生きるということではありません。続けて書かれているように、主を愛することです。
今日お読みした申命記にはモーセの説教が記されています。荒れ野を旅してきたイスラエルの民が、間もなく約束の地であるカナンの地に入ろうとしています。その時にモーセが彼らに語った説教です。その説教において繰り返し語られているのは「主を愛しなさい」という言葉です。6章5節にもこうあります。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と。イエス様はこれが最も重要な第一の掟であると言われました(マタイ22:38)。
ある意味で、これは聖書の語る独特なメッセージであるとも言えます。イスラエルの周辺諸国の諸宗教には「神を愛する」という概念はありませんでしたから。それは日本の宗教事情を考えても分かりますでしょう。例えば日本人が最も宗教的になる初詣の時に、「神さま、私は神さまを愛します!」と言いに行く人はいないでしょう。それはカナンの世界も同じです。
主を礼拝し、主に従いなさい
しかし、私たちは「主を愛する」ことを、単に情緒的なこととして捉えてはなりません。ここで言われていることは、単に神さまを好きになりなさい、ということではないのです。もしそうであるならば、申命記は34章も必要ありません。申命記が34章もあるのは、イスラエルの人たちが約束の地であるカナンの地に入った後に、どのように生活をしたらよいかという具体的な事柄が記されているからです。そのように、愛するということは具体的な行為と生活に関わることなのです。これは例えば結婚を考えても自明のことでしょう。愛するということは、心の中のことや口先だけのことではないのです。それは愛して生きるという《生活》なのです。信仰における神と人との関わりも同じです。
では、主を愛するとは具体的にどのようなことでしょうか。第一に、それは主に仕えることです。12節にこう書かれております。「主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え」。では、神に仕えるとはどういうことでしょう。実は、申命記において「主に仕える」という言葉が第一に意味することは、主を礼拝するということなのです。仕える者としてイメージされているのは礼拝者であり、礼拝する民なのです。ですから、申命記には礼拝に関することが数多く語られているのです。
どうして、ここで礼拝のことが出てくるかと言いますと、イスラエルの民が入っていくカナンの世界には、既に土着のバアル礼拝があるからです。バアル礼拝とは、豊穣神礼拝です。それは豊作と繁栄を求めての礼拝です。すなわち、それは人間の欲望や願望が中心に置かれている礼拝なのです。
そのようなカナンのバアル礼拝は、私たちにとって、決して無縁ではありません。この国の宗教事情は、聖書に出て来るカナンの世界のそれに非常に良く似ています。それゆえに、私たちの献げる礼拝も、いつの間にか人間中心の人間の願望の投影でしかなくなるということは十分にあり得ます。私たちの礼拝がバアル化することは起こり得ることなのです。
バアル化した礼拝とは、要するにそこでは「主があなたに求めておられることは何か」ということには関心がなくなってしまう礼拝です。自分の求めにしか関心が向かない礼拝です。キリスト教から私は何を得られるか。教会から何を得られるか。礼拝に出て私は何を得られるか。そのことにしか関心のない人は、願望が満たされなくなった時に、礼拝者でもなくなります。それをバアル化した礼拝というのです。それでは本当の意味で主を愛していることにはならないでしょう。
私たちが主を愛するのは、まず主が私たちを愛してくださったからです。先ほど「主を愛する」ということが繰り返し出てくると申しましたが、もう一つ繰り返し出てくるのは主が愛してくださったという記述です。主が愛してくださった、主が救ってくださった、その恵みに対する愛の応答が礼拝なのです。主の愛に応えて主に仕えるのです。主が愛して、私たちを招いてくださいました。だから、私たちは招きに応え、愛してお仕えし、主を礼拝するのです。
そして、主を愛するということは、第二に、主に聞き従うことです。「わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って」(13節)と書かれているとおりです。「戒め」「掟」という言葉と「律法主義」を単純に結びつけてはなりません。「律法主義」とは、主を愛することを抜きにして、「掟だから従う」というあり方です。
主を愛することを抜きにした掟への従順は、必ず神様との取り引きになっていきます。従順と引き替えに主の好意を引きだそうとするのです。そこには心が伴いませんから形だけの従順が残ります。それを律法主義と言うのです。
そのように愛なくして真の従順はありません。しかし、その逆もまた言えます。従順なくして真の愛もありません。主を愛していると言いながら、主の求めておられることが何であるかに関心がなかったら、それは主を愛していることにならないでしょう。イエス様もまたこう言っておられます。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」(ヨハネ14:15)。
あなたが幸いを得るために
しかし、ここで最も重要なことは、この主の求めがどこに向かっているのかということなのです。最終的に次のように書かれています。「あなたが幸いを得ることではないか。」主は私たちが主を畏れ、主を愛し、主を礼拝し、主に従って生きることを求めておられます。それは私たちが幸いを得るためなのです。私たちが求める以前に、主が私たちの幸いを望んでおられるのです。
新共同訳で「幸い」と訳されておりますこの言葉は、実は聖書に600回以上も繰り返し出てきます。多くの場合は「良い」と訳されます。その中でも一番印象的なのは聖書の冒頭にあります天地創造物語だと思います。そこでこの言葉が繰り返されております。神は光を創造されました。そこにこう書かれています。「神は光を見て、良しとされた」。
先の申命記の言葉も、「あなたが良きものを得るため」と訳すこともできます。このことは聖書の語る幸いが何であるかをはっきりと示していると言えます。幸いとは、神が良きものとして創造されたこの世界の中で、神が創造された良きものを、神の良き御意志のもとに受け取って、それらを享受して生きることなのです。それこそが神の求めておられることなのです。
しかし、そのことを神が求めておられるということは、現実には人間が本当の意味で幸いを得ていないからであるとも言えるでしょう。それは先の天地創造の物語に続く「エデンの園の物語」において描かれているとおりです。
エデンの園には、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木がありました。人はそれを大いに喜んで食べてよかったのです。エデンの園を大いにエンジョイしてよかったのです。
しかし、エデンの園の中央には、食べてはならない木がありました。それは神の戒めを象徴しています。エデンの園には、神の戒めがありました。彼らは神に創造された者として、神への従順を求められたのです。
逆に言うならば、その実を食べてはならない木があるからこそ、エデンの園がエデンの園であり得たのです。しかし、彼らは食べてはならない木から食べました。食べてはならない木が、もはや食べてはならない木ではなくなりました。彼らは食べてはならない木を失い、神への従順を失った時、エデンの園そのものも失ったのです。
エデンの園の物語は、まさに現実のこの世界の有り様を見事に描き出しています。この世界は神が創られ、神が良しとされた世界であるにもかかわらず、現実には、人間は本当の意味でこの良い被造物世界を享受して生きてはいないのです。むしろ目に見えるモノとの関わり、隣人との関わりが、喜びと楽しみを生み出すのではなく、現実には多くの災いと悲しみをもたらしているのです。
しかし、その世界のただ中に神はイスラエル民を置かれたのです。そして、言われたのです。「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。」主は彼らが幸いを得ることを望まれたのです。それは単に彼らのためではなく、何が真の幸いであるかを、この世界に表すためでした。
そして、今、同じ言葉を耳にしている私たちがここにおります。私たちは本当の意味で「幸いな人」にならなくてはなりません。私たちが幸いになることを、主が求めておられるからです。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。あなたが幸いを得ることではないか、と。私たちが幸いを得るために主が私たちに求めておられることがあります。多くはありません。ただ、あなたの神、主を畏れて生きること。主を愛して生きることです。そのような新しい一週間へと歩み出しましょう。
(祈り)
2022年8月14日日曜日
「主があなたに求めておられることは何か」
2022年6月12日日曜日
「それでもなお主はあなたの神」
申命記 6:4-9
あなたの神、主を愛しなさい
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(4‐5節)。
これはモーセの言葉です。モーセの遺言と言ってもよいでしょう。なぜなら、モーセはまもなく自分が世を去ることを知っていたからです。「あなたの神、主を愛しなさい」。それが何を意味するのか。そこに至るまでの四十年の荒れ野の旅を思い起こす時に見えてきます。どのような旅であったのか。モーセは次のように語っています。
「あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。あなたは荒れ野で、あなたの神、主を怒らせたことを思い起こし、忘れてはならない。あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた」(9:6‐7)。
そのように背き続けてきた民に、それでもなお約束の地を与えてくださるとするならば、それは恵み以外の何ものでもありません。彼らは主を愛してはこなかったのです。そうではなくて、主が彼らを愛して来られたのです。その神の恵みによって、約束の地における新しい生活が与えられるのです。そこで改めて語られているのです。「あなたの神、主を愛しなさい」と。ならばそこで求められているのは、神に立ち帰り、恵みに応えて生きるということに他なりません。
しかし、私たちはもう一つのことを考えておく必要があります。話は約束の地を得たところで終わらないということです。私たちは申命記を読んでおりますが、イスラエルの歴史の物語はさらに続くのです。
ヨシュア記から列王記へと向かう歴史物語は何を伝えているのでしょう。約束の地を得たイスラエルは、やがてそこにおいて王国を形成することになります。しかし、その王国は南北に分裂し、やがて北王国が滅び、南王国も滅んでいくのです。南のユダ王国は滅亡し、主だった人々はバビロンに連れ去られることになる。そこで列王記は終わります。つまりイスラエルは約束の地を与えられたのですが、先に四十年の荒れ野の旅を振り返ってモーセが語ったのと同じように、イスラエルは約束の地においても主に背き続けて、最終的に約束の地を失うことになるのです。
私たちが読んでいる申命記が今の形にまとめられたのは、そのような時代においてです。そのように約束の地を失った時代に、人々は改めてモーセの語り掛けを聞くことになりました。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。
国は滅び、約束の地は失い、いわば、もう終わりだとしか思えないところにおいて、彼らはもう一度聞いたのです。「あなたの神、主を愛しなさい」。すべてを失ってしまったとしか思えないところにおいて、彼らは再び耳にしたのです。「あなたの神、主を愛しなさい」。ならば何を意味しますか。まだ終わっていないということです。すべてを失ってなどいないということです。そこにはまだ残されているのです。立ち帰るべき御方が残されているのです。愛すべき御方が残されているのです。
今日は申命記6章をお読みしていますが、30章には次のような言葉が出てきます。やがて王国が滅亡することを予見しているような言葉です。「わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる」(30:1‐3)。さらにこう書かれています。「あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる」(30:6)。
そして、実際に国が滅びた時に、主はそのとおりに彼らにしてくださったのです。「あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる」。そのようにしてくださった。主は彼らにもう一度語ってくださった。「あなたの神、主を愛しなさい」と。だからこそ、今このような形で申命記が残っているのです。
それは私たちと無関係な遠い昔の話ではありません。失って初めて気づく。そのようなことが私たちにも、確かにあります。神によって恵みとして与えられていた生活が、恵みであると分からない。だから軽んじてしまうのです。ないがしろにしてしまう。そして、恵みとして与えられていたものを失って初めて気がつくのです。ああ、恵みだったのだ、と。私たちは本当に愚かなものですから、そんなことを繰り返しているのでしょう。新型コロナのパンデミックによって経験したのも、そのようなことなのでしょう。失って気づくのです。あのイスラエルの民のように。
しかし、そこでなお人は神の呼び声を聞くのです。「あなたの神、主を愛しなさい」と。なぜなら神の愛は失われていないからです。神がそのような神であるからこそ、最終的には独り子をさえ惜しまずに世に与えられたのです。神は御子を十字架にかけることさえなさったのです。御子を私たちの身代わりにして、私たちの罪を赦して、私たちが生きられるようにしてくださったのです。申命記に書かれていたように、そのように、私たちもまた主を愛して生きられるようにしてくださったのです。だからこそ、私たちは今ここにいるのではありませんか。
語り聞かせなさい
この大いなる恵み。「あなたの神、主を愛しなさい」となおも語られていることの大いなる恵み。この恵みをこそ、伝えていかなくてはならないのです。後の世代に語り伝えていかなくてはならないのです。今日の聖書箇所は次のように続きます。「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」(6‐7節)。
今日、六月の第2主日は、教会の暦においては「子どもの日」とされています。私たちはこの礼拝において、特に子どもたちのために、後の世代のために祈りたいと思います。そして、後の世代に対する責任を改めて自覚したいと思うのです。私たちが子供たちに語らなくてはならないのは、私たちが本当に伝えなくてはならないのは、神の恵みなのです。今もなお「あなたの神、主を愛しなさい」と言ってくださっている神の恵みなのです。主を愛して命を得ることができるようにしてくださっている神の恵みなのです。
しかも、「家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも」とあります。そこまで言うか、と驚きを覚えます。しかし、モーセにこのことを語らせているのは、他ならぬ神の熱情なのです。神御自身がどれほど子供たちのことを考えておられるか、どれほど子供たちに伝えて欲しいと思っておられるか、ということでしょう。
そのように神の恵みを伝えるためには、まず私たち自身が繰り返し思い起こすことが必要なのです。ですから、モーセは次のように語ります。「更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(8‐9節)。
私たちがどれほど大きな愛をもって愛されているか、どれほど大きな愛をもって主は私たちの神となっていてくださるのか、どれほど大きな愛をもって、「あなたの神、主を愛しなさい」と語ってくださっているか、私たちは忘れてしまいやすいのです。人間はそれほどに愚かなものなのです。主がエジプトから導き出してくださっても、また約束の地に導き入れてくださっても、どんなに大きなことをしてくださっても、人は忘れてしまうのです。その恵みに基づく神の言葉を忘れてしまうのです。だから「自分の手に結んでおきなさい。額に付けておきなさい。戸口の柱にも門にも書き記しておきなさい」とまで言われなくてはならないのです。
そのような神の民の愚かさはイエス様御自身もよくご存じでした。ですから、イエス様もこう言われたのです。「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と。そう言って、裂かれたパンを渡されたのです。ご存じでしょう。最後の晩餐での出来事です。「記念として行いなさい」。そのことを繰り返し行わなかったら、忘れてしまうから。イエス様が自らの体を裂いて渡されるようなことをされたとしても、それすらも忘れてしまうのが人間だからです。
ですから、教会はイエス様を記念してパンを分かち合うことを行ってきたのです。それを二千年間、繰り返し行ってきたのです。ですから、この礼拝堂にも聖餐卓が置かれています。その背後には十字架があるのです。しかも、聖餐は単なる「しるし」ではありません。聖霊のお働きによって、そこにキリストが現臨してくださるのです。キリストが現に私たちに触れてくださり、キリストの贖いの恵みに、現実に繰り返し私たちは与るのです。
私たちは今日もここにおいて、改めて「あなたの神、主を愛しなさい」という言葉をしっかりと受け止め、また「これを語り聞かせなさい」という主の求めを大事なこととして受け止めて、ここから新たに遣わされてまいりましょう。