2014年12月28日日曜日

「光の中を共に生きる」

2014年12月28日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 1章1節~2章2節


喜びが満ち溢れるため
 先週、私たちはクリスマスを祝いました。キリストがこの世に来られたことを共に喜び祝いました。神の独り子がこの世に来てくださいました。人間が目で見たり、手を伸ばして触れたりすることのできるほどに近くまで来てくださいました。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます」(1節)とヨハネが書いているとおりです。

 ヨハネがその御方の内に見たものをひと言で表現するならば、それは「命」でした。ヨハネはさらにそれを「永遠の命」と表現します。「永遠の命」とは何でしょう。「命」の本質は「愛」にこそあります。愛し合って共に生きている時に、人は本当の意味で生きているのです。憎み合っている時、人は命を失っているのです。命とは愛に満ちた交わりです。永遠の命とは神との愛に満ちた交わりです。

 イエス様はこの世に来られて、永遠の命を見せてくださいました。父なる神と共に生きるということがどういうことかを見せてくださいました。神を「アッバ、父よ」と呼びながら、その愛と信頼に満ちた交わりを実際に見せてくださいました。そうです、ヨハネは確かに永遠の命を見たのです。彼は言います。「この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」(2節)。

 いや、ヨハネは見せていただいただけではありませんでした。弟子たちはキリストと共に「天におられるわたしたちの父よ」と祈る者とされました。そのように、キリストと共に、また父なる神と共に生きる者とされました。永遠の命にあずかって生きる者とされました。

 そして、ヨハネは今、御父と御子イエス・キリストとの交わりへと他の人々を招きます。手紙を書いて、この読者をも招きます。どのようにして。この世に現れた「永遠の命」を伝えることによってです。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(3節)。

 その目的は何でしょう。彼はさらに続けます。「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」(4節)。二回「わたしたち」が出てきますが、一回目と二回目は意味合いが違います。最初の「わたしたち」は永遠の命を伝える「わたしたち」です。そこには伝えられる「あなたがた」がいるのです。しかし、その「わたしたち」と「あなたがた」が一つとなって、一つの「わたしたち」になるのです。これが二つ目の「わたしたち」。その一つとなった「わたしたち」の喜びが満ち溢れるようになるためにこれを書いているのだ、とヨハネは言うのです。

 そして、一つとなった「わたしたち」がさらに誰かに永遠の命を伝える。そして、伝えられた「あなたがた」と伝える「わたしたち」が一つとなっていく。そこに喜びが満ち溢れる。教会が二千年間続けてきたのはこのことです。そのようにして、私たちにも伝えられたのです。そして、伝えてきたのです。そして、喜びを共にしてきたのです。それが目に見える形ではっきりと現れるのは洗礼式でしょう。先週の日曜日に二人の方が洗礼を受けられました。洗礼を受けた二人も喜び、他の者も皆喜び、一つとなった「わたしたち」が共に喜びにあずかりました。

 御父と御子イエス・キリストとの交わり、すなわち神との交わりの中に共に生きるところにこそ、私たちの喜びがあります。教会の喜びがあります。こうして一緒に神を誉め讃え、神の言葉に耳を傾け、神に祈り、神への信仰を共に言い表すところに、教会の喜びがあるのです。私たちは週毎に共に捧げる礼拝の中に、また共に営んでいく信仰生活の中に、もっともっと満ち溢れる喜びを経験させていただきましょう。

光の中を歩む
 そのためにも、5節以下に書かれていることは重要です。そこには私たちが共に神との交わりを持って生きようとする時に、どうしても避けては通れない事柄について書かれているからです。すなわち、信仰をもって生き始めてなお犯してしまう罪の問題です。一方において、神に従いたいと思う自分がいる。しかし、もう一方において神に背いた行いをしてしまう自分がいる。キリストを信じて新しく生まれた私は確かにいる。しかし、もう一方において古い自分も生きている。いや信仰生活が長くなれば、なおさら自分の罪深さの自覚も増してくる。それは信仰生活において誰もが経験する事だろうと思います。

 そこで私たちが心に留めるべき第一のことは、5節に書かれている「神は光である」というメタファーです。神は光である。その神と共に生きていくならば、当然、光の中を生きていくことになる。信仰生活とは光の中を共に歩んでいくということなのです。

 それまで暗闇の中を歩いていた人が、光の中を歩き始めるなら何が起こってくるでしょう。それまで見えなかったものが見えてくるのです。自分自身の問題も見えてくる。自分は正しいと信じて疑わなかった人が光の中を歩き始めると、自分は決して正しくはないということが見えてくる。周りの人たちの悪に憤っていた人が光の中を歩き始めると、自分の内にこそ悪があることが見えてくる。信仰者として生き始めたら、かえって自分が悪い人間になったように感じることがあります。しかし、「神は光である」ということならば、それは当然起こってくるはずのことなのです。

 私たちは、「神は光である」ということ、そして信仰生活とは光の中を歩くことだということを心に留めねばなりません。そこで重要なことは何か。闇の中に戻らないということです。見えてきたものも、光を遠ざければ見えなくなるでしょう。そのように、自分自身を神から遠ざけてしまうなら、自分自身をも見ないで済むかもしれません。あるいは見えてきたものに対して目を閉じてしまえば、見ないで済むのでしょう。それは実質的には暗闇に身を置いているのと同じです。

 この手紙が書かれた頃、光の中を歩む生活とは全く相容れない思想を唱える教師たちが教会の中に入り込んできていました。彼らは霊肉二元論によって、この肉体を魂の牢獄として考えた。すなわち真で善なる魂は肉体という牢獄に囚われているのであって、この肉体が行うことになんら責任を負うことはないし、なんら影響を受けることもないとしたのです。そして、その牢獄である肉体から魂が解放されるところにこそ救いがあると教えたのです。それはある意味ではとても魅力的な思想でした。何をしても罪であると考える必要はないからです。実際、「わたしには罪はない」と主張する人々がいたのです。

 しかし、ヨハネは言うのです。「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません」(6節)。その思想によって自分の罪を見ないで済むようになるかもしれないけれど、それは闇の中を歩くことに他ならないのだと彼は言うのです。実際、当時の異端思想によらずとも、私たちもまた、闇の中を歩ませ、罪を罪として認めないようにさせる様々な思想に取り囲まれているのでしょう。しかし、闇の中を歩くところに満ち溢れる喜びなどないのです。

罪を告白するなら
 大切なことは、光の中を歩き続けることです。ヨハネは言います。「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(7節)。私たちが暗闇の中を歩いてしまうなら、もはやキリストとの関わりはなくなります。キリストの十字架も罪の贖いも不必要でしょうから。光の中を歩くところにこそ、キリストとの交わりがあるのです。そこには私たちの罪のために血を流してくださったキリストがおられるのです。私たちの罪を清める御方として共にいてくださるのです。

 ではどのようにして、光の中を歩き続けるのでしょう。この手紙は次のように続きます。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(8‐9節)。

 ここに書かれているように、「自分に罪がない」と言わないことです。むしろ「自分の罪を公に言い表すなら」と書かれています。聖書協会訳では「告白する」となっています。もともとは「同じことを言う」という意味の言葉であり、「同意する」という意味を持っています。それは必ずしも人々の前に言い表すことを意味しません。罪を告白する。それはまず神に対してです。神と同じことを言うのです。神に同意するのです。神が罪だとするならば、「その通りです」と罪を認めることです。

 そして、私たちが自分の罪を神の御前で認める時、そこに全く逆説的なことが起こるのです。「神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」。真実で正しい方であるならば、その後に来る言葉は「赦し」ではなくて「裁き」であるはずでしょう。しかし、赦してくださると言うのです。なぜでしょうか。2章2節に書かれていますように、イエス・キリストがわたしたちの罪、全世界の罪を償ういけにえとなってくださったからです。だから、真実で正しい方が赦してくださるのです。罪を償ういけにえとなられた御子イエスの血が私たちの罪を清めるのです。

 神との交わりの中に留まるためには、神の御前で正直であることです。暗闇の中に身を置いてしまわないことです。そのようにして御父と御子イエス・キリストとの交わり、すなわち神との交わりの中に共に生きるところにこそ、私たちの互いの交わりもあります。そこに私たちの喜びがあります。教会の喜びがあります。私たちは週毎に共に捧げる礼拝の中に、また共に営んでいく信仰生活の中に、もっともっと満ち溢れる喜びを経験させていただきましょう。

2014年12月14日日曜日

「沈黙の恵み」

2014年12月14日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 1章5節~25節


 イエス・キリストが年およそ30にして公の活動を始めるに先立って、ユダヤに現れ一世を風靡した人物がいました。洗礼者ヨハネです。彼はイエス・キリストの先駆者的役割を果たすこととなりました。今日お読みしたのは、その洗礼者ヨハネの誕生にまつわる物語です。

主は恵み深い
 洗礼者ヨハネの父親はザカリアという祭司でした。母親のエリサベトもまた祭司の家系に属するアロン家の娘でした。彼女については次のように語られています。「しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた」(7節)。そのような二人の間に神によって与えられたのがヨハネでした。明らかにその誕生自体は神の奇跡として描かれています。しかし、今日の聖書箇所において重要なのはその誕生が予告されたということです。

 「予告」は聖書にしばしば出て来るモチーフです。アブラハムはイサクの誕生を予告されました。マノアの妻はサムソンの誕生を予告されました。マリアはイエスの誕生を予告されました。聖書の中で神様は予告をされるのです。人間の意向を打診しないで、一方的に予告するのです。何を意味しますか。人間の意向とは関係なく天において定められていることがある、ということです。

 それはヨハネという名前の命名の仕方にもよく現れています。イスラエルにおいて子供の名前は父親が付けるのが習わしでした。しかし、ザカリアに現れた天使はこう言ったのです。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」(13節)。神様は父親であるザカリアが子供の名前を決める前に、その子の名前を勝手に決めてしまわれたのです。

 親が考えるべき名前を神様が先に定めておられたというのは実に象徴的です。この子供の人生については、親が何を願おうが、何を考えようが、親の思いとは関係なく神様が定めておられることがある、ということです。その子供を通して神様がなさろうとしていることがある。主のご計画が先にあるのです。

 実際、その子の人生についての予告が次のように続きます。「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」(14‐17節)。このことについては、その親でさえ関与することができないのです。ザカリアがヨハネの命名にさえ関わることができなかったようにです。

 そのように人間の関与できない神の定めとご計画というものがある。それは私たちの経験とも一致します。私たち自身についても、私たちの人生についても、ほとんどの事柄は私たちの意志や意図とは関係なく定められたものです。親にも私たち自身にも神様は意向を打診してはくれませんでした。生まれる前から定められていることは山ほどあります。

 人間が関与できない神の定めとご計画がある。それはある意味では私たちにとって恐ろしいことに思われます。私たちは常々物事が私たちの願い通りに運ぶことを望んでいますから。そして、そうなるようにできる限りの事をしているのでしょう。ですから自分のコントロールの及ばないことがあるのはいやなのです。それは恐ろしいことでもあるのです。

 しかし、神様は御使いをザカリアにこう言われたのです。「その子をヨハネと名付けなさい」。人間の意向とは関係なく付けられた名前、それは「ヨハネ」でした。それは「主は恵み深い」という意味です。主は恵み深い――ならば、ザカリアは我が子に名前を付けることができなくてもよいのでしょう。主は恵み深い――ならば、その子の人生に自分が関与できない主のご計画があってもよいのでしょう。主は恵み深い――ならば、その子の人生に自分のコントロールが及ばなくてもよいのでしょう。そうです、ただ一つのことを知っていればよいのです。それは「主は恵み深い」ということです。

 その「ヨハネ(主は恵み深い)」と名付けられた子は、やがて天使の告げられた通り、人々を主に立ち帰らせる人となり、イエス・キリストの先駆者となりました。「イエス」という名前は「主は救い」を意味します。その名前もまたヨハネの時と同じように先に神によって定められ告知されたものでした。そのように、イエス様の人生にも、親が関与することのできなかった、定められた計画がありました。それは最終的に十字架にかかって全ての人の罪の贖いを成し遂げることでした。そのように「イエス(主は救い)」と名付けられた御方において、「ヨハネ(主は恵み深い)」という事実が完全に現されることとなったのです。私たちは確かにそのことを知らされているのです。

沈黙の恵み
 しかし、今日の聖書箇所はただ天使による予告の話に留まりません。やはりこの箇所において私たちの目を引きますのは、ザカリアの口が利けなくなったということであり、しかもその理由が「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」(20節)と語られていることでしょう。

 口が利けなくされた。それは天罰でしょうか。神の予告を信じないと罰せられるという話でしょうか。それにしても、十月十日の間口が利けなくなるというのは少々厳しすぎやしませんか。この場面だけを見ますとそんなことを考えてしまいますが、先の方まで読みますと、どうも当のザカリア自身はこれを神の罰として耐え忍んできた様子でもないのです。

 子供が産まれて八日目、割礼を施して子供に名前を付ける日に、ザカリアは字を書く板を出させて「この子の名はヨハネ」と書きました。「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」(64節)と聖書は伝えているのです。言葉が話せるようになった時、最初に出てきたのが神への賛美だったということは、言葉が話せない時にも既に心の中に神への賛美が満ちていた、心の中では神を賛美していた、ということでしょう。このように、口が利けなかった期間は決して罰などではなく、ザカリアにとっては賛美が満ちるプロセスだったことが分かるのです。

 既に見てきましたように、生まれてくるヨハネには親も関与することのできない、既に定められた神の計画がありました。そのように人間が関与することのできない神の定め、神の計画というものはあります。私たちについてもあります。しかし、人間は計画そのものには関与できないにせよ、それはヨハネの誕生の物語やイエス様の誕生の物語を見ても分かりますように、神様単独で実現するのではないのです。神様は人間を用いて、人間を通して実現されるのです。神の御子はマリアの胎に宿ってからこの世に誕生するのです。神様はあえてそうなさるのです。さらに言えば、主は御自身の救いを実現するのに、あえて教会の宣教という手段を用いられるのです。主はそうなさってきたし、今もそうしておられます。

 そのように神は人間を用いて事を進められます。そこで人間に求められているのは何か。信仰なのです。かつてアブラハムがイサクの誕生を予告された時もそうでした。求められていたのは信仰でした。「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と天使はザカリアに言っています。一方、妻のエリサベトは後にマリアにこう語っています。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。このように、主とその御言葉を信じるか信じないかということは、主の目に決して小さなことではないのです。

 ところで、日本語の「信仰」という言葉は、事柄を的確に表しているように思います。同じ言葉を「信心」とは訳さないのです。あくまでも「信じて仰ぐ」と訳すのです。信じて仰ぐなら目を向けている先はあくまでも神様の側です。こちら側ではありません。

 ところが私たちは往々にしてこちら側のこと人間の側のことばかりに目が行きます。こちら側の事ばかりが気になります。ザカリアも言っていますでしょう。「わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(18節)。そのように、こちら側に目が行って、主がなさろうとしていることがあるのだ、主が定め、主が計画し、主が実現しようとしていることがあるのだ、という方向にどうも目が行きません。神様のなさることならば、それは時として人間の常識や限界を越え出るような仕方で実現されるのだ、というところになかなか目が行きません。

 実際、私たちも同じようなことを言っていることがあるでしょう。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。わたしは病弱ですし、能力もありませんし、性格も良くありませんし、不注意でミスばかりしてますし、家族の問題もありますし、云々。教会についても同じようなことが言えるでしょう。十分な人数がいませんし、経済的にも十分ではありませんし、互いの間にいろいろ問題もありますし…。このような私たちを用いて神様が神様の御業を進めようとしているのだということ信じない理由なら、いくらでも挙げられるのです。こちら側を見ていれば。いくらでも見えてくるし、列挙することができるでしょう。

 ザカリアもそうだったと思うのです。信じないためのこちら側の理由はいくらでも語り続けることができたのでしょう。しかし、主は恵み深い御方でした。彼を強制的に黙らせたのです。沈黙させたのです。そうです、人間は黙らなくてはならない時があるのです。神様の前で人間の側のことを並べ立てることをやめて、黙らなくてはならない時があるのです。私たちが黙らなければ、ぶつぶつ言い続け、こちら側のことを言い続けるならば、時として強制的に黙らされることもあるのです。そのように、沈黙して、ただひたすら神の定めとご計画、それを実現する計り知れない神の力に思いを向けるべきときがあるのです。

 ザカリアはこの沈黙の恵みをいただいて、その内に主への賛美が満ちてゆき、主への賛美が一杯になって、やがて開かれたその口から賛美が溢れ出しました。このアドベントの時、私たちも同じ恵みをいただいて、私たち自身の内に主への賛美を満たしていただき、来る御子の御降誕の祝いにおいて心からの賛美を共に捧げたいものです。

2014年12月7日日曜日

「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに」

2014年12月7日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 55章1節~11節


 主は預言者を通して語られました。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」と。「来なさい」と主は繰り返されます。渇いたまま、何も持たないまま、来なさい、と。

渇いている者は来るがよい
 エルサレムが破壊され、ユダの国が滅亡し、主だった人々がバビロンに捕囚とされて既に50年近くの月日が過ぎようとしていた頃、捕囚民たちは皆、新しい時代の到来を肌で感じていました。バビロンを征服したペルシアの王キュロスの統治の仕方はそれまでのものとは全く異なっていたからです。彼は被占領民族を支配するに当たり、その民族の文化と宗教を重んじる政策を採ったのです。その結果、バビロンに捕囚となっていたユダの人々もまた、ユダの地に帰り、エルサレムを再建することが許されたのでした。ついに解放の時が来たのです。

 今日の第一朗読はそのような時代を背景とした預言です。で主は預言者を通して語られたのです。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」(1節)。

 これは何を意味するのでしょうか。ただ故郷に帰れる時が到来したのではないということです。神のもとに帰るべき時が来た。それこそが重要なのです。今までの生活を後にして、渇きを癒す水のもとに行くべき時が来たのです。魂の飢えを満たしてくださる方のもとに帰るべき時が来たのです。いわば信仰の生活をもう一度建て直すべき時が来たのです。

 バビロンが与えてくれるものを追い求める時代は終わりました。バビロンが提供してくれるもので自分を満たさなくてはならない時代は終わりました。もう既に彼らは知っていたはずなのです。バビロンから何を得たとしても、何をもって自分を満たそうとしても、本当の飢え渇きはこの世からのものでは満たされないということを。主も言われるのです。「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか」(2節)。

 良きものは主から来るのです。本当の満たしは主から来るのです。主は言われます。「わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」(3節)。いや、それだけではありません。さらに主はこう続けます。「わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」(同)。「とこしえの契約」です。それはすなわち、ぜったいに関係が切れないということです。主は絶対に見捨てられない。そのような関係に入れられるということです。

 さてこれらの言葉がバビロンの捕囚民にどれほど大きな意味を持っていたかを改めて思います。現実に彼らがバビロンを後にしてエルサレムへと帰還するとするならば、そこには様々な困難が予想されるでしょう。不安や恐れもあることでしょう。しかし、彼らは旅立ったのです。それは故郷への旅立ちではなく、まさに主のもとへと行く旅立ちだったのです。主のもとにこそ良きものがある。主のもとにおいてこそ魂は豊かさを楽しむことになる。主のもとにおいてこそ、魂に命を得るのだ。そして、我らは永遠に失われることのないとこしえの関係に生きるのだ。彼らの旅立ちは、そのような信仰の生活の再建へと向かう旅立ちに他ならなかったのです。

近くにいますうちに
 しかし、そのようにエルサレムへと帰還した捕囚民を待ち受けていたのは、予想していたとはいえ、実に厳しい現実でした。彼らが目の当たりにしたのは崩れ落ちた城壁であり、焼け落ちた神殿でした。
 廃墟となったエルサレム。しかし、そこで彼らが直面したのは単に生活上の困難ではありませんでした。そうではなく、彼らが直面したのは、イスラエルの罪とその結果だったのです。彼らが目の当たりにしたのは、神に背くということ、背き続けるということが、どれほどの悲惨をもたらすのかという事実だったのです。彼らは神の呼びかけに背き続けた先祖の罪を思ったことでしょう。しかし、それは彼らにとって他人事ではなかったはずです。彼らは自らの罪、バビロンで生きてきた自分たちの罪をも思わずにはいられなかったに違いないのです。

 そのように、神のもとに行こうとするならば、信仰に生きようとするならば、神の御前における自分の罪とどうしても向き合わざるを得なくなるのでしょう。そこで人は神の御前に恐れを覚え、聖なる神と罪ある人間との埋めることのできない大きな隔たりを思わざるを得ないのです。

 しかし、主はそのような彼らに対し、預言者を通してこう語られるのです。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる」(6‐7節)。

 なんと主は近くにいてくださると言うのです。主は罪ある人間の近くにいてくださる!誰でも尋ね求めさえすれば見いだすことができるほどに近くにいてくださる。呼び求めることができるほどに近くにいてくださるのです。主が近くにおられるのは、裁いて滅ぼすためではありません。豊かな赦しをもって近くにいてくださるのです。人間がすべきことは、立ち帰ることなのです。主の憐れみを信じて、豊かな赦しを信じて、立ち帰ることなのです。

わたしの道は異なる
 とはいえ、現実に罪のもたらした荒廃が目の前にある時に、罪の結果が厳然として目の前にある時に、罪の赦しを信じることが難しいことも事実です。罪のもたらした廃墟が回復することを信じることはさらに難しいのかもしれません。彼らは神の裁きによって廃墟となったエルサレムを前にして、神の赦しを信じることができたのでしょうか。その廃墟が本当に建て直されると信じることができたのでしょうか。

 しかし、主は彼らに言われるのです。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」(8‐9節)。

 私たちも時として思わずにはいられないのでしょう。「こんなわたしは赦されるはずがない」と。しかし、それは人間の思いです。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる」のです。「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」これが主の思いです。

 「この廃墟が建て直されるはずはない」。それもまた人間の思いです。「天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」と主は言われます。廃墟は永遠に廃墟であるように人には思えます。荒れ野は永遠に荒れ野であるように思えるのです。しかし、51章にはこのような言葉があります。「主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」(51:3)。これが主の思いです。それは私たちの思いを、高く超えているのです。

 エルサレムの廃墟に直面した彼らに必要なことは、ただ彼らの分を弁え、へりくだることだったのです。そうです、私たちに必要なことも、私たちの思いと主の思いは異なる、私たちの道と主の道は異なるということを認めてへりくだることです。そして、私たちの思いとどれほど異なろうが、ただ主が語られる言葉に信頼することなのです。

 主はこう言われます。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(10‐11節)。私たちの思いとどれほどかけ離れていようと、私たちの道とどれほど異なっていようと、最終的に神の御言葉こそが成就するのです。

 さて、私たちはアドベントの季節にこの御言葉を耳にしています。キリストの到来を思いつつ、この言葉を聞いています。このように語られた主は、預言者を通して語られるだけでなく、最終的に独り子を世に遣わされて語られました。まさに御自分の言葉そのものであられるキリストを世に遣わされて決定的な仕方で語られたのです。

 キリストは言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(同35節)。そして、「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と言われたとおり、キリストは十字架において父なる神の御心を成し遂げられたのです。神の御子の血による罪の贖い!それは私たち人間には想像することもできなかった神の思いであり、私たち人間の道とは大きく異なる神の道に他なりませんでした。

 私たちはキリストの到来と、そのキリストにおいて成し遂げられた神の御業を知る者として、改めて今日の御言葉を聞いているのです。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」。そして、主は言われます。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに」。

2014年11月30日日曜日

「心が鈍くならないように」

2014年11月30日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 21章25節~36節


 今日からアドベント(待降節)に入ります。教会の暦におきましてはアドベントから新年が始まります。この「アドベント」という呼び名は「到来」を意味するラテン語に由来します。「キリストの到来」です。アドベントは、今から約二千年前にキリストがこの世界に到来したことを思うだけでなく、世の終わりにおいてキリストが再びこの世界に来られることを思う期間でもあります。そのようにアドベントは一年の初めに置かれていますが、内容的には「始まり」よりむしろ「終わり」に思いを向ける期間でもあると言えます。

身を起こして頭を上げなさい
 ところで「終わり」という言葉は、様々な意味を持ち得ます。「完成」「完了」意味することもあれば、「破局」を意味することもあります。一般的に「世の終わり」という言葉が用いられる時に人がイメージするのは後者でしょう。

 今日の聖書箇所においてイエス様もまた「終わり」について語っておられますが、その言葉の多くは破局としての「終わり」を連想させるものです。今日の朗読箇所の直前にはエルサレムの滅亡が予告されています。「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい」(20節)。そして、この予告は約40年後に実現することとなります。エルサレムの滅亡はユダヤ人にとってまさに破局です。

 そして、今日の箇所に入って、イエス様はユダヤ人だけでなく他の諸国民にとっても破局としか思えないことを語り始めるのです。「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである」(26節)。

 古代の人々にとって天体は不変の秩序を代表するものでした。たとえ国家の体制が崩壊するようなことがあっても、変わることなく太陽は昇り沈みます。月と星は定められたとおりに動くのです。それは信頼できるものの代表とも言えます。しかし、その天体が揺り動かされると主は語られたのです。いわば、世の信頼できる秩序はもはや何も残っていないということです。そこで人は「なすすべを知らず」、不安と恐れを抱きます。主は明らかに破局としての終わりについて語っているように見えます。

 しかし、イエス様はさらにこう続けるのです。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(27‐28節)。

 解放し救ってくださる御方、大いなる力と栄光を帯びた方は「雲に乗って来る」と書かれています。「雲に乗って」という表現は旧約聖書のダニエル書から来ています(ダニエル7:13)。要するに人間が普通考えるような仕方では来ない。予期せぬ時に、予期せぬところから、予期せぬ仕方で来られるということです。

 だから、この世界が無力感と不安と恐れに包まれる時、同じように不安と恐れに支配されてはならないのです。その時こそ、あなたがたが身を起こし、頭を上げるべき時だ、と主は言われるのです。「あなたがたの解放の時が近いからだ」と。

わたしの言葉は決して滅びない
 そこでイエス様はさらに重ねて、たとえを用いて語られます。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」(29‐31節)。

 これも普通に読むならば、とても変な話だと言えます。葉が出始めると、夏の近づいたことがおのずと分かる。それは聴いている人たちが経験から知っていることでした。「葉が出始めたこと」から「夏が近づいたこと」は自然に連想できることなのです。そして、「それと同じように」と主は言われるのです。「それと同じように」ならば、どういう言葉が続くのが自然でしょう。「それと同じように、これらのことが起こるのを見たら、破局が近づいていると悟りなさい」となるのでしょう。不安や恐れを抱かせる出来事が起こるのを見たら、自然に連想できることですから。しかし、イエス様はそうは言われないのです。「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」と。

 「あなたがたは」とは、「わたしを信じるあなたがたは」という意味でしょう。主を信じるならば、この世と同じように考えてはならないのです。新緑から夏を連想するように、不安や恐れを呼び起こす出来事から、破局としての終わりではなく完成としての終わり、「神の国」を思うべきなのです。そこで明らかに求められているのは、主とその御言葉への信頼です。ですから主はさらに御自分の言葉について次のように宣言されるのです。「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(32‐33節)。

 「天地は滅びるが」と主は言われます。エルサレムが滅びるどころの話ではありません。天体が揺り動かされるどころの話ではありません。イエス様はこれまでの話を究極にまで押し進めます。「天地は滅びるが」と言われるのです。しかし、たとえそのようなことが起こったとしても、「わたしの言葉は決して滅びない」と宣言されるのです。イエス様の言葉が最終的に残るのです。主が言われたとおりになるのです。主が言われるとおり、そこになお救いがあるのです。人の子は大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来られるのです。救いは予期せぬ時に、予期せぬところから、予期せぬ仕方で到来するのです。

 このように、主を信じる者は、最終的にたとえ天地が滅び行くとしても、すべてが過ぎゆくようなことがあっても、近づいているのは破局ではなく、神の国なのだと信じることが求められているのです。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と宣言される主に信頼することが求められているのです。

心が鈍くならないように
 さて、主が語っておられるのは「終わり」についての話です。しかし、「終わり」についての話は、ただ「終わり」にのみ関わるのではありません。「終わり」をどう見るかが現在の生き方を方向付けるからです。既にイエス様の言葉を聞いて感じておられると思いますが、ここでイエス様が語っておられることは、今、私たちがどのように生きるのかということと深く関わっているのです。

 実際、私たちが日々直面しているのは、エルサレムが滅亡するような出来事ではありません。現在この世界が直面しているのは、天体が揺り動かされるような事態ではありません。もっとずっと小さなことでしょう。しかし、そのような終末的事態ではなくとも、この世において確かだと思えたものが次々と崩れていくとき、自分が頼りにしていたものが次々と失われていくとき、人は何を考えるのでしょう。何をしても、どうあがいても、事態が悪くなっていく一方であるとき、いったい人は何を考えるのでしょう。無力感と不安と恐れに満たされる時、人は何を考えるのでしょう。そこで人が考えるのは破局としての終わりではないでしょうか。最終的に希望などない、と。

 しかし、私たちが信じている主は「あなたがたは、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」と言われる御方なのです。「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」と言われる御方なのです。主は「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と宣言される御方なのです。そうです、私たちはこの主とその御言葉に信頼して生きるのです。目に映るところによって、神がなさろうとしていることを判断してはならないのです。救いは予期せぬ時に、予期せぬところから、予期せぬ仕方で到来するのです。最終的に人の子が「雲に乗って」来られると語られているようにです。

 そのように、私たちはどのような時にも、目に映るところがどうであれ、主のみ言葉に信頼し、希望をもって生きる。主が「終わり」について語っておられるのは、今、私たちがそのように生きるためです。ですから、主はさらにこう言われるのです。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(34‐36節)。

 生き生きとした希望を失う時、破局としての終わりしか考えられなくなるとき、醒めた心をもって生きられなくなります。本当の意味で現実的に生きられなくなります。「心が鈍く」なってしまいます。自分で自分の心をあえて鈍くしてしまうこともあるでしょう。「放縦や深酒で」と書かれているのはそのような場合です。あるいは望まずとも心が鈍くなってしまうこともあるでしょう。「生活の煩いで」とはそのような場合です。煩いの種となっていることしか考えられなくなるのです。そのように主がなさることに希望をもって目が向けられなくなる。心が鈍くなってしまいます。

 だから私たちはそうならないためにも、私たちが信じている主がどのような方であるかを思い起こさねばならないのです。終わりについて主が語られたことを思い起こさねばならないのです。その意味において、アドベントという季節が与えられていることは幸いなことです。

 最終的な救いは人間が考えるような仕方で来るのではありません。人の子は雲に乗って来られるのです。私たちが信じているのは「あなたがたは、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われる御方です。そのことを忘れて、希望を失って心が鈍くなったまま、終わりの時を迎えるようなことがあってはなりません。最終的に人の子が到来する時に、希望をもって待ち望んでいた者として、人の子の前に立つ者でありたいと思います。

2014年11月16日日曜日

「わたしは必ずあなたと共にいる」

2014年11月16日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 出エジプト記 3章1節~15節


 モーセはミディアン地方で羊飼いをしていました。エジプトから逃れミディアンに住み着いてから既に四十年もの歳月が流れていました。そこで妻も娶りました。子どもも産まれました。そこには羊飼いとしての平和な生活がありました。

 しかし、モーセの内には絶えざる痛みがありました。それはイスラエル人としての痛みでした。同胞であるイスラエル人たちが長い間エジプトにおいて奴隷とされ、追い使う者のゆえに苦しめられていたからです。モーセは彼らの苦しみを知っていました。追い使う者のゆえの叫びを知っていました。しかし、もう一方においてモーセには分かっているのです。巨大なエジプトの権力を前にして、自分の為し得ることなど何もない、と。実際、モーセはその巨大な権力から逃げてきたのです。苦しみ同胞を見捨てて、四十年前、エジプトからミディアンへ。

 今日お読みした聖書箇所は、そのようなモーセに神様が出会われた次第を伝えています。主はモーセに呼びかけられたのです。「モーセよ、モーセよ」と。そして、主は燃える柴の中からモーセに語りかけられたのでした。

わたしは降って行く
 「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る』」(7‐8節)。

 神様が御自身を現されたなら、一人のイスラエル人として神様に問いたいことは山ほどあったと思います。なぜイスラエル人であるというだけで産まれたばかりの男の子が皆殺しにされなくてはならなかったのか。なぜイスラエルの母親は子を失った人として嘆きながら生きなくてはならなかったのか。なぜイスラエル人であるというだけで、男たちは馬やロバのごとくに扱われなくてはならなかったのか。その苦しみにはいったい何か意味があるのか。

 しかし、主がモーセに現れた時、主は長きに渡るイスラエルの苦しみについて、何一つ説明してはくださいませんでした。それはモーセが知る必要のないことだったからです。モーセが知るべきことは別なことだったのです。

 主はこう言われたのです。「わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」。これがモーセの知らされたことでした。神は苦しむ者に目を留めてくださる。神は苦しむ者の叫びに耳を傾けてくださる。叫びにも現すことができないその深い痛みをも知ってくださる。神は見て、聞いて、知ってくださる神であるということです。

 皆さん、私たちが今、礼拝しているのはそのような神様です。そのような神であることをモーセだけでなく、やがてイスラエルは知ることとなりました。そして、長いイスラエルの歴史を通じて、神がそのような神であることを決して忘れなかった人たちが後々にもいたのです。国を失っても、神殿が他国の軍隊によって破壊されるようなことがあっても、捕囚の民として異国の地に捕らえ移されるようなことがあっても、決して忘れることはなかった。だから今もこうして聖書に残されているのです。神は、見て、聞いて、知ってくださる神であるという神御自身の言葉が。

 やがてそのイスラエルの歴史の中にイエス様は来られ、その体をもって神がそのような神であることを現してくださいました。神は苦しむ者に目を留めてくださる。神は苦しむ者の叫びを聞いてくださる。神は知っていてくださる。イエス様がベトザタの池のほとりに横たわっている病人に目を留められたように、主が彼の悲しみに耳を傾けられたように、そして長い間の苦しみを知ってくださったように。

 わたしたちもこの世の苦難について問いたいことはたくさんあるのでしょう。私たちの人生に起こってくる様々な出来事について問いたいことはたくさんあるのでしょう。神はその全てに必ずしも答えてはくださらない。しかし、キリストによって、知るべきことは知らされているのです。私たちが信じる神様は、苦しんでいる者に目を留めてくださる神様だということ。神は、苦しんでいる者の叫びに耳を傾けてくださる神であるということ。そして、言葉にならない、声にさえならないような深い痛みさえも知ってくださる神であること。たとえ誰も目を留めてくれないかのように見えたとしても、誰の耳に届かないかのように見えたとしても、誰も分かってはくれないと思えたとしても、実はそうではないのです。

 いや、神は、見て、聞いて、知ってくださるだけではありません。主はこう言われました。「それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る」(8節)。モーセが知ったのは、「わたしは降って行く」と言われる神様です。私たちが信じているのは、そのような神様です。神は見て、聞いて、知って、そして憐れんでくださる。神が憐れんでくださるならば、その憐れみは天に留まってはいないのです。憐れみの神は降ってきてくださる。この世界において憐れみを現すために。神の憐れみはこの世界の中に形を取るのです。

 出エジプトは、まさに神の憐れみがこの世界に形をとったものでした。いや、神の憐れみはそこに留まりませんでした。神は人となられた、と聖書は伝えます。イエス・キリストの存在そのものが、まさに降って来られた神の現れに他なりませんでした。いや、神の憐れみはそこに留まりませんでした。復活して天に上げられたキリストは、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。聖霊が降って教会が誕生しました。教会が今なお地上に存在すること、私たちが御もとに招かれていること、それはまさに神の憐れみが天に留まってはいないことの目に見えるしるしなのです。

 だから私たちは、ここに集まっているのです。共に祈ります。見て、聞いて、知ってくださる神に祈ります。私たちは神が降りたもう神であり、既に降って来られた神であり、生きて働きたもう神であることを信じているからです。神の憐れみは天に留まってはおられないのです。

今、行きなさい
 しかし、そこでもう一つの大切なことに目を留めなくてはなりません。主はさらにこう言われました。

 「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(9‐10節)。

 主は、「わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地…へ彼らを導き上る」と言われたのではなかったでしょうか。しかし、その直後に主は言われるのです。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」話が違うではありませんか。主が降ってきて救い出すはずではないのでしょうか?

 そうです、確かに主が救い出すのです。モーセにできるはずがありませんから。巨大なエジプトの権力に太刀打ちできるはずがないのです。イスラエルの民がエジプトから解放されるとするならば、それはモーセがするのではなく、神様が降ってきてするのです。

 しかし、それでもなお「今、あなたが行きなさい」と主は言われるのです。モーセは行かなくてはならない。行って何をするのでしょう。何ができると言うのでしょう。モーセは言います。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(11節)と。そんなことできるわけないでしょう!いったいわたしを何者だと言うのですか!そうモーセは言わざるを得ません。しかし、主の答えはこうでした。「わたしは必ずあなたと共にいる」。

 主が共にいると言われる。ならば、モーセが何者であるか、何者でないかは大して重要ではないのです。実際モーセがしたことは、その後の物語に一つ一つ書かれていますが、すべてモーセに難なくできることでした。例えば、杖でナイル川の水を打つこと。杖を取って池の上に手を伸ばすこと。杖で土の塵を打つこと。すべて主に命じられて行ったことは、せいぜいその程度のことです。

 しかし、その程度のことを神は用いて、イスラエルをエジプトから解放されたのです。神は確かに降って来て、エジプト人の手から彼らを救い出されました。しかし、そのために主はモーセの行動を求められたのです。主は単独で事をなされない。モーセと共に行動されるのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」とはそういうことです。

 私たちは神の御前に祈ります。声を上げます。聞いて下さる神に、苦境を訴えます。必要を訴えます。神は祈りを聞いてくださる。そして、神は祈りに応えてくださる。降りたもう神が、祈りに応えてくださるのです。しかし、神様は単独で事をなされない。祈りに応えてくださる時に、神は私たちを用いられるのです。言い換えるならば、私たち自身が祈りの答えの一部となるのです。そうです。私たちは祈る者であると同時に、祈りの答えの一部となるために召されてもいるのです。

 実際、教会が行ってきたこと、計画してきたことは、せいぜい人間ができる範囲のことに過ぎないではないですか。教会が祈り求めてきたことはそれよりも遙かに大きいことでしょう。しかし、それでもなお、私たちは私たちにできることを行うのです。愚か者のように杖でナイルを打ち、池の上に手を差し伸べるのです。どれもこれも人間のできる範囲のことでしかないけれど、それでよいのです。そこにはまた見えざる神の御手が動いているからです。神は降って来られる神だからです。大切なことは、ただ神が召してくださることに従順であることです。「行きなさい」と言われるならば、行くことです。主がさせてくださる小さなことに忠実であることです。主は言われます。「行きなさい」と。そして、言われます。「わたしは必ずあなたと共にいる」と。

2014年10月26日日曜日

「偶像から生ける神のもとへ」

2014年10月26日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 14章8節~17節


 今日の説教題は「偶像から生ける神のもとへ」となっています。これは今日の聖書箇所から取りました。第一回目の宣教旅行の途上、リストラにおいてパウロとバルナバが人々に語った言葉です。「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです」(15節)。さて、「偶像を離れる」とは何を意味するのでしょう。「生ける神に立ち帰る」とはいかなることを意味するのでしょうか。

偶像を離れて
 パウロとバルナバが、このように叫ばざるを得なかったのは、人々がパウロとバルナバにいけにえを献げようとしたからでした。つまり彼ら自身が礼拝の対象にされそうになったからでした。

 事の次第は先に朗読されたとおりです。細かくは後ほど見ることになりますが、発端は一人の人が奇跡的に癒されたことでした。パウロが福音を告げ知らせていたその場において、生まれながら足の不自由な人が癒され、立ち上がって歩き出したのです。

 この出来事を目撃した人々が騒ぎ出しました。彼らは「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と声を張り上げて叫びました。そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、パウロを「ヘルメス」と呼んだのです。人々が口にしていたのは「リカオニアの方言」でした。それゆえに、パウロとバルナバは何が起こっているのか分からなかったものと思われます。

 しかし、ゼウスの神殿の祭司が雄牛数頭と花輪を運んで来るに至って、彼らはようやく事態を飲み込みます。祭司は群衆と一緒になって二人を礼拝し、いけにえを献げようとしていたのです。そこでパウロとバルナバはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中に飛び込んでいきました。そして彼らに向かって叫んだのです。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです」(15節)。

 ちなみに「偶像」と書かれていますが、これは意訳です。原文では「虚しいもの」と書かれているのです。「虚しいもの」というのはパウロたちユダヤ人の表現で神々の像を指すのです。そのような意味において旧約聖書にも繰り返し出てきます。

 しかし、礼拝の対象となるのは、必ずしも彫ったり鋳て造ったりした像だけではありません。この場面においては、人間であるパウロとバルナバが礼拝の対象とされているのです。ゆえに「わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません」と叫ばざるを得ませんでした。ですからパウロとバルナバが「偶像を離れて」と言っているのは、ただ単に神々の像を造って拝むようなことをしない、という意味ではないのです。

 では「偶像を離れて」の「偶像(虚しいもの)」とは何なのでしょう。それは人間が偶像をどう扱うかを見るとよく分かります。実は今日の朗読はリストラでの伝道の途中までだったのですが、残された18節以下を読むとよく分かるのです。「こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した」(18‐19節)。

 これが「偶像」を拝むということです。あれほど熱狂してパウロとバルナバを崇め祭り、祭司と共に犠牲まで献げようとしていた群衆が、ここでは一転して、石打の刑に加わって石を投げつけているのです。ユダヤ人たちがどのようにして群衆を抱き込んだのかは分かりません。パウロたちの存在による不利益があることを吹き込んだのでしょうか。いずれにせよ、パウロとバルナバの存在は、彼らにとって都合が悪くなったのです。

 そして、都合が悪くなったとき、パウロとバルナバとはもはや彼らにとって神ではなくなったわけです。それは当然です。もともと神ではないのですから。もともと神ではないものを神としているから、都合によって神となったり神でなくなったりするのです。都合によって礼拝の対象になったり、礼拝の対象にならなかったりする。人間がそれを信じることもできるし、捨てることもできる。そのようなものを「偶像」と言うのです。

生ける神に立ち帰る
 そのような「偶像」と対比して、パウロとバルナバは「生ける神」を指し示すのです。「この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです」(15‐17節)。

 彼らが語っているのは、この世界を造られた神、創造主である「生ける神」です。人間が信じようが信じまいが神であられ、人間が認めようが認めまいが、この世界において御自身を現し続けておられる「生ける神」です。現実に人間の生活に関わり続け、恵みを与え、生きるに必要なものを与え、人間の心を喜びで満たしていてくださる。そのように生き生きと働いておられる「生ける神」について語っているのです。

 しかし、もちろんこれがパウロたちの語りたかった全てではありません。続きがあるのです。「わたしたちは福音を告げ知らせているのです」と彼らは言いました。パウロたちが「福音」と言う時、その中心はイエス・キリストです。創造主である「生ける神」が救い主イエス・キリストをこの世界に与えてくださいました。「生ける神」がその独り子を与えてくださり、私たちの罪の贖いの犠牲として十字架にかけてくださいました。このキリストの十字架によって、「生ける神」は御自分を侮ってきた私たち、背き続けてきた私たちの罪を赦し、「生ける神」が御自分のもとに私たちを招いてくださいました。

 それゆえにパウロたちは言うのです。「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。」偶像を離れて、「生ける神に立ち帰る」時、そこには何があるのですか。「生ける神」に信頼して生きる新しい生活があるのです。完全な救いに向かって神に信頼して歩いていく新しい生活があるのです。

 その意味において、そもそもの発端となった、足の悪い人の癒しの出来事は極めて象徴的な出来事となったと言えます。まさに「生ける神」に立ち帰り、「生ける神」を信じて生きるとはどういうことかが、その人の上にはっきりと現れているからです。すなわち、それは立ち上がり、歩き始めることなのです。

立ち上がって歩き出す
 もう一度、その人の内に起こった出来事を見てみましょう。次のように書かれていました。「リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、『自分の足でまっすぐに立ちなさい』と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした」(8‐10節)。

 その人はパウロの話すのを聞いていた。パウロが福音を伝えるのを聞いていたのです。その宣教の言葉によって、その人の内に信仰が生まれました。パウロがその人に目を向けた時、彼がそこに見たのは福音の宣教によって生み出された信仰でした。それは「いやされるのにふさわしい信仰」と表現されています。要するに、そこにパウロが見たのは、偶像を離れて、生ける神に立ち帰った人の信仰だったのです。それゆえにパウロは彼にこう言ったのです。「自分の足でまっすぐに立ちなさい」。

 考えてみてください。彼は生まれてこの方一度も立って歩いたことはないのです。聖書はわざわざ「生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった」(8節)と書かれているのです。そのような人に「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と言うならば、通常は返って来る言葉は決まっているでしょう。「立てないから座っているのではないか!」そして、そこに座り続けているに違いありません。

 しかし、パウロはその人に信仰を見たのです。生ける神に立ち帰り、生ける神を信じる信仰を見たのです。だから命じたのです。「自分の足でまっすぐに立ちなさい」。そして、彼もまたその言葉に従ったのです。生ける神への信頼をもって従ったのです。「その人は躍り上がって歩きだした」と書かれています。しかし、それは必ずしも癒されて嬉しくて躍り上がったことを意味しません。原文では単純に「飛び上がった」と書かれているだけです。つまり勢いよくまっすぐに立とうとしたということです。今まで一度も立ったことのない人がです。

 もちろんここに書かれているのは神による癒しの奇跡です。しかし、大事なことは、この人が生ける神に信頼して、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」という言葉に応答したということなのでしょう。それは彼にとって、まさに生ける神からの呼びかけだったに違いありません。その呼びかけに彼は応えたのです。

 そして、彼はそこから歩き始めました。歩いて生きる人生というのは、彼にとって全く未知の領域です。そこには座っていた時よりもずっと多くの困難が待っているかも知れないのです。しかし、彼は生ける神に信頼して立ち上がったように、生ける神に信頼して歩き始めたのです。

 確かに「偶像を離れて、生ける神に立ち帰る」ということは、そのようなことなのでしょう。それはイエス・キリストを通して与えられた生ける神の呼び声に応えて信頼をもって立ち上がること、そして信頼をもって歩き始めること。そして、信頼をもって歩き続けることです。

 実際、この足を癒された人にせよ、またパウロの宣教によって信じた他の人たちにせよ、待っていたのは決して平坦な道のりではなかったはずです。パウロが石で打たれて殺されそうになったとするならば、福音を聞いて偶像を離れ、生ける神に立ち帰った人々も迫害を免れることはなかったでしょう。しかし、彼らは生ける神の呼び声に応えて立ち上がった人たちです。それゆえに苦難が降りかかることがあっても、生ける神に信頼して歩み続けたのです。

 そして、生ける神はまさに偶像ならぬ生ける神であることを彼らの間に現され、そのようにしてリストラにも教会が形づくられていったのです。そうです、そのように代々の教会は形づくられ、この頌栄教会も形づくられ、生ける神に立ち帰り、生ける神を信じて生きている私たちがここにいるのです。

2014年10月12日日曜日

「あなたがたの内におられるキリスト」

2014年10月12日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コロサイの信徒への手紙 1章21節~29節


キリストの苦しみ
 「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし」(24節前半)。――そうパウロは書いていました。「苦しむことを喜びとする」。通常、私たちはそのようなことは言いません。むしろ苦しみは喜びを失わせます。

 しかし、「苦しむことを喜びとする」と言い得る時が全くないわけではありません。それはその苦しみが愛する者のための苦しみである時です。自分の苦しみが意味のないものではなく、無駄になってしまうものではなく、愛する者のためになる苦しみである時、苦しむことは喜びをも伴います。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし」いう言葉から、コロサイの教会を愛してやまないパウロの思いが伝わってまいります。

 しかし、パウロが「苦しむことを喜びとする」と言っているのは、ただ彼らを愛しているからだけではありません。さらにパウロはこう続けるのです。「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(同後半)。

 「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」というのは不思議な表現です。しかし、ともかくパウロが自分の苦しみをキリストの苦しみと結びつけていたことは分かります。さらに言うならば、自分の苦しみをキリストの苦しみの一部として見ていたということでしょう。キリストの苦しみの欠けている部分を満たしているのですから。

 いずれにせよ、パウロの苦しみが先にあるのではないのです。キリストの苦しみが先にあるのです。その欠けている部分をパウロは満たしているだけだというのです。パウロはコロサイの教会を愛し、コロサイの人たちのために喜んで苦しみをも耐え忍んでいたのでしょう。しかし、彼がそうする以前に、キリストがコロサイの教会を愛し、コロサイの人たちのために苦しみを耐え忍んでくださっているのです。パウロはその苦しみの一部を満たしているに過ぎないのです。

 では、その「キリストの苦しみ」とは何なのでしょう。「キリストの苦しみ」と聞くならば、すぐに思い浮かぶのは十字架です。私たちの罪のために負ってくださったキリストの苦しみです。罪の贖いのための苦しみです。しかし、罪の贖いの苦しみならば、「キリストの苦しみの欠けたところ」があるはずがありません。

 罪の贖いの苦しみは、キリストにおいて全うされているのであって、そこにパウロの入る余地はありません。キリストは独りですべての人の罪を負われたのです。キリストは独りで父なる神の裁きを受けられたのです。キリストは独りで苦しまれ、独りで死なれたのです。キリストは独りで私たちの罪を贖ってくださったのです。罪の贖いの御業は、完全にキリストの御業なのであって、人間が参加する余地などないのです。そもそも、ここで「苦しみ」と訳されている言葉は、罪の贖いのための苦しみについては一度も使われていない言葉なのです。

 では、何なのか。それはパウロがどのように「キリストの苦しみの欠けたところ」を満たしていたかを考えれば分かります。パウロの苦しみとは何であったのか。それは宣教のための苦しみです。彼は言うのです。「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました」(25節)。また、彼は言います。「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。 このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています」(28‐29節)。

 そのようにパウロの苦しみは宣教のための苦しみです。宣教のための労苦であり闘いなのです。そのためにパウロは投獄さえされたのです。この手紙は獄中から書いているのです。彼は人々を愛し、教会を愛し、神の言葉を伝えるために、キリストを伝えるために苦しみを負ってきたのです。

 しかし、彼は知っているのです。自分の労苦が先にあるわけではない。自分の苦しみが先にあるわけではない。そうではなくて、キリストが先に労苦しておられる。キリストが苦しんでおられるのです。キリストがコロサイの教会をも、他の教会をも愛して、喜んで苦しみを担っておられる。自分の苦しみは、その「キリストの苦しみ」の一部に過ぎないのだと分かっていたのです。だから彼は言うのです。「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」と。

あなたがたの内におられるキリスト
 それでは、さらに近づいて、「キリストの苦しみ」に、またその一部を満たしているパウロの苦しみに目を向けてみましょう。

 先にも触れましたように、パウロはこう言っていました。「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました」(25節)。そのように余すことなく伝えるべき「御言葉」とは何であるのか。それは26節に書かれています「秘められた計画」だと言うのです。

 「秘められた計画」は、聖書協会訳では「奥義」となっていました。「奥義」と言いますと、特別な人々だけに知らされた秘密のようなものを連想するかも知れません。事実、この言葉は、当時の密儀宗教においても用いられていた言葉です。しかし、パウロがそのような閉ざされた秘密を意味していないことは明らかです。それは代々にわたって隠されていたけれど、今や神によって明らかにされたのです。そして、全ての人に宣べ伝えられねばならないのです。

 ではその「奥義」とは何なのか。いや、この問いかけは正確ではありません。聖書は、それが「何であるか」ではなくて、「誰であるか」を語っているからです。「その計画(奥義)とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(27節)と。

 神の救いの御心は、一人の御方を通して、完全に現わされました。十字架の死と復活に至る一人の御人格を通して、完全に現わされたのです。このキリストを通して、神に敵対するこの世界をなお愛される神の愛が明らかにされました。キリストを通して、神の赦しが現わされました。奥義とは、この一人の御方です。キリストです。ですから、御言葉を伝えることを自らの務めとして語っていたパウロは、ここで「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えて」いるのだ、と言うのです。

 そして、キリストが宣べ伝えられる時、そのキリストとは、もはや過去の存在ではないのです。生ける御人格として、キリストは人と出会われるのです。聖霊のお働きにより、生けるキリストと人との出会いが起こるのです。そして、キリストが信ずる者たちの内に留まられるのです。ですからパウロは言うのです。「あなたがたの内におられるキリスト」と。

 「あなたがたの内におられるキリスト」――ここで語られている「あなたがた」とは、27節で「異邦人」と呼ばれている「あなたがた」です。その異邦人である「あなたがた」については、21節で次のように語られていました。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。」そのような「あなたがた」です。神に敵対しているのですから、神に裁かれて滅ぼされても仕方のない「あなたがた」です。しかし、そのような「あなたがた」の内にキリストが来てくださったのだ、というのです。「あなたがたの内におられるキリスト」とパウロは言うのです。

 そして、キリストのおられるところに罪の赦しもまたあるのです。今日はお読みしませんでしたが、14節にこう書かれています。「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(14節)。キリストのおられるところに罪の赦しがある。ゆえに、そこには神と人との和解があります。神と人との間に平和があります。そして、神と人との間が平和であるところにこそ、まことの希望はあるのです。それゆえ、「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」と語られているのです。

 だからこそ、このキリストをパウロは宣べ伝えているのです。パウロの苦しみはそのための苦しみです。ならば、キリストの苦しみもそのための苦しみです。キリストが「あなたがたの内におられるキリスト」となられるための愛であり、そして苦しみです。

 実際、それがここにいる私たちにも現されたキリストの愛であり、キリストの苦しみではありませんか。ここに異邦人である私たちがいます。かつて神に敵対していた私たちがいます。キリストに対して固く戸を閉ざしていた私たちがいます。今もそこにしばしば舞い戻ってしまうような私たちがいます。しかし、キリストはそのような私たちを愛してくださいました。そして、私たちの内におられるキリストになろうとしてくださいました。そこにまた「キリストの苦しみ」がありました。私たちの内におられるキリスト、栄光の希望となるために苦しんでくださいました。

 事実、その「キリストの苦しみ」の一部をその身をもって満たした人たちがいたではありませんか。キリストの苦しみを苦しんだ人たち、自分自身を献げて労苦した人たちがいました。だからここに教会が立っているのでしょう。だから今もなおキリストが宣べ伝えられているのでしょう。私たちの現在は、ただ「キリストの苦しみ」によって成り立っているのです。そのようにして、キリストは「私たちの内におられるキリスト」となられたのです。

 ならば大事なことは何ですか。パウロは言っています。「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(23節)。またこうも言っています。「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています」(28節)。「完全な者」とは「欠陥がない」という意味ではなくて、むしろ「成熟した大人」を意味する言葉です。

 そうです、大切なことは信仰の踏みとどまること。そして、キリストにあって成熟を目指して進むことです。キリストは私たちの内にいてくださいます。この方こそ栄光の希望です。そして、今度は私たちが宣教の労苦を担い、キリストの苦しみの一部を満たしていくのです。

2014年9月21日日曜日

「わたしたちを救い出すために」

2014年9月21日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 1章1節~5節


 今日の聖書箇所はガラテヤの信徒への手紙の冒頭部分です。当時の手紙の典型的な様式に従って、まず差出人と受取人とが明記されています。差出人はパウロ、受取人はガラテヤ地方の諸教会の人々です。そして、他の手紙においてもパウロがしているように、続けて挨拶の言葉が添えられています。「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(3節)。

 「恵みと平和があるように」。それは挨拶の決まり文句です。しかし、パウロはただ形式的にその言葉を用いているのではありません。ですから、言葉をさらに続けるのです。その恵みと平和を与えるために、イエス・キリストが何をしてくださったかを書いているのです。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」(4節)。

 「恵みと平和があるように」。私たちもその言葉をここで耳にしています。その願いと祈りをもって書かれた言葉を耳にしています。私たちは恵みと平和にあずかるようにとここに集められて、今、その言葉を耳にしているのです。しっかりと受け取って、新しい週の歩みへと送り出されたいと思います。

この悪の世から救い出そうとして
 「恵みと平和があるように」。その「恵みと平和」は、「《わたしたちの父である神》と、主イエス・キリストの恵みと平和」と表現されています。その「恵みと平和」はわたしたちの父である神に由来します。これは神のご意志によるのです。私たちが願う前に、神が与えようと望んでくださいました。4節に書かれている、「わたしたちの神であり父である方の御心」とは、私たちの願いに先立つ神のご意志です。神が私たちの救いを願い、恵みと平和があるようにと願ってくださいました。

 その救いのご意志に従って、キリストが御自身を献げてくださいました。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」ですから、そのようにして与えられる恵みと平和は、「わたしたちの父である神と、《主イエス・キリストの》恵みと平和」と呼ばれているのです。

 そこには「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして」と書かれています。「この悪の世」と言うのですが、この言葉で何を思い浮かべるでしょうか。新聞やテレビで報道される凶悪な犯罪でしょうか。道徳的に退廃した社会のありさまでしょうか。確かに犯罪のある世界は「この悪の世」の一面でしょう。この世の不道徳も「この悪の世」の一面でしょう。しかし、パウロはただそのような社会を見て「この悪の世」と言っているのではないのです。

 彼が生まれ育ったのはユダヤ人の社会です。それは決して世俗的な退廃的な世界ではありませんでした。ある意味においてそれは非常に敬虔な、そして道徳的にも破綻していない、いわば「清い社会」だったのです。そのような環境において彼は育ったのです。この手紙を受け取る人々にとってもそうです。彼らの内において力を持っていたのは律法を遵守すべきことを訴えていたユダヤ主義者です。ガラテヤの教会にはその影響を受けたキリスト者がたくさんいたのです。そのような背景において、この言葉が用いられているのです。パウロは決して不敬虔な、世俗的な、退廃的な世界を見て「悪の世」と言っているのではないのです。そうではなくて、非常に宗教的な、敬虔な、まじめな、道徳的な、戒律遵守が求められる共同体にも、パウロは「この悪の世」の一面を見ていたのです。

 「この悪の世」というのは「悪い今の世」というのが直訳です。「今の世」という表現を使うのは、「来るべき世」のことを考えているからです。「来るべき世」は神の救いの到来した世界です。神の国です。それに対する「今の世」です。その「今の世」は悪い。どのような意味で「悪い」のでしょう。犯罪があるからでしょう。不道徳があるからでしょう。苦しみや悲しみがあるからでしょうか。どのような意味で「悪い」のでしょう。

 聖書は「今の世」を一つの物語をもって表現しています。良く知られているエデンの園の物語です。正確に言うならば、エデンの園を失った物語です。私たちはエデンの園にはいない。それが「今の世」です。どのようにエデンの園を失ったか、物語の筋はご存じでしょう。

 園の中央には「善悪の知識の木」がありました。それは神様がそこから取って食べるなと言われた木でした。しかし、人間はそこから取って食べました。そして、神が近づかれた時、人は神の顔を避けて園の木の間に隠れました。そこに見るのは関係の破れです。神と人との関係の破れ。もはやそこには平和に満ちた関係はありませんでした。

 さらに何が起こったでしょう。神様が男に「取って食べるなと命じた木から食べたのか」と問いました。その時、彼はこう答えたのです。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(創世記3:12)。そこに見るのは関係の破れです。人と人との関係の破れ。自分を正しい者として他者を責めるところに、もはや平和に満ちた関係はありませんでした。そのようにして、彼らはエデンの園を失いました。神と共に生き、人と共に生きる園を失いました。

 これが「今の世」です。このように神様と人との関係が破れてしまった世界。人と人との関係が破れてしまった世界。その痛みと苦しみとを背負っている世界。それが「今の世」です。実際そうでしょう。神様との関係が崩れた世界において、人間の歴史は戦争の歴史です。殺し合いの歴史です。国と国、民族と民族ではなくとも、身近に私たちは小さな戦争をいくらでも見て聞いて体験しているではありませんか。私たちは毎日どれだけの悪口を聞き、どれだけの中傷や争いを目にしていることでしょう。

 それはパウロが目にしてきた、敬虔な真面目な清い社会においても同じだったのです。むしろ正しさが求められる社会こそ、裁き合いの社会に他ならなかったのです。正しさの主張が声高に語られるところにおいてこそ、神と人との破れがあり、人と人との破れがある。そこにこそ人間の罪の最も恐ろしい姿があるのです。

与えられた恵みと平和
 しかし、イエス・キリストは、そのような「この悪の世」からわたしたちを救い出そうとして、御自身を献げてくださいました。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」と書かれているとおりです。

 「わたしたちの罪」というのは複数で書かれています。諸々の罪です。単に不道徳な行いだけではありません。私たちの敵意が、妬みが、憎しみが、悪口が、中傷が、怠慢やだらしない行為が、エゴイスティックな行為が、悪魔に誘惑されて行った諸々の行いが、さらには自分たちを絶対に正しいとする主張が、神との関係、人との関係を壊してきたのです。

 そのような私たちの諸々の罪のために、キリストは御自身を献げてくださいました。御自身を献げるということは、自ら苦しみを負うということを意味しました。私たちの諸々の罪が赦されるために、罪の贖いの犠牲として、十字架の上で死ぬことをさえ良しとして、自ら苦しみを負ってくださいました。そのようにして、神と私たちの間に平和を打ち立ててくださったのです。それは御子の苦しみによって打ち立てられた平和です。

 それは父なる神の「御心に従って」なされたことでした。私たちが願ったからではなく、神が望んでくださいました。私たちのために、御子が苦しむことを良しとしてくださいました。先に、御自身を献げるということは苦しみを負うということだと申しましたが、私たちはここに父なる神の御苦しみをも思います。そのようにして、私たちに御自身との平和を与えてくださいました。そのことがあるからこそ、その御方を「わたしたちの神であり父である方」と呼べるのです。それは神の苦しみによって打ち立てられた平和です。

 そのように平和が打ち立てられたのは、私たちが罪を赦された者として生きるためです。赦された者として生きるということは、そのような者として互いに赦し合って生きるということです。それはしばしば苦しみを伴うのでしょう。苦しみを経なくては、人と人との和解も実現しないのでしょう。しかし、御子が御自身を献げてくださったことを思う時、神が苦しみを負って平和を与えてくださったことを思う時、私たちの間にも和解が起こります。人と人との間に平和が生み出されるのです。私たちは神との間に平和をいただき、人との間にも平和をいただくのです。

 神様はそのように、「この悪の世」から救い出して、新しい生活を与えてくださるのです。「来るべき世」に属する生活を与えてくださるのです。それは恵みです。本来、私たちが受けるに値しない恵みです。それはただ神がそうお望みくださり、キリストがその御心に従い、御自身を献げてくださったゆえに与えられた恵みです。神との間の平和は恵み。人と人との間の平和も恵みです。

 もちろん、恵みによる救いが完全に実現するのは「来るべき世」においてです。私たちが見ることのできるのは完全なるものではありません。「今の世」「この悪い世」は厳然として続いているのです。しかし、それでもなお「今の世」からの救いは既に始まっているのです。キリストは「この悪い世」から救い出すために、御自身を献げてくださいました。キリストによって既に始まっているのです。私たちはその救いを味わい始めているのです。それが信仰生活です。パウロも言っているではありませんか。「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と。そうです、私たちはそのような言葉を耳にしています。私たちは恵みと平和にあずかるようにとここに集められて、今、その言葉を耳にしているのです。私たちは信仰によって受け取るのです。恵みを受け取るのです。神との平和、人との平和を受け取るのです。しっかりと受け取って、新しい週の歩みへと踏み出しましょう。

2014年9月14日日曜日

「最もすぐれた道」

2014年9月14日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章31節~13章13節


できるようになりたい?
 「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(12:31後半)。そう書かれていました。別の訳では「最もすぐれた道」。今日の説教題ともなっています。しかし、そもそもパウロはどうして「最高の道」「最もすぐれた道」について語っているのでしょう。その直前にはこう書かれています。「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」(同前半)。そのように、「最高の道」の話は、「賜物を受ける」という話に続いているのです。

 「賜物」という言葉は日常の言葉ではないので、これを「能力」あるいはその能力を用いた「働き」という言葉に置き換えると分かりやすいかもしれません。「賜物を受ける」とは、要するに「できるようになる」ということです。

 私たちは自分についても他人についても何かが「できる」か「できないか」を気にしながら生きています。どのような働きをしているかいないか、役に立っているかいないかが気になります。他の人ができることが自分にできなかったり、他の人が良い働きをしているのに自分が全く役に立っていなかったりすると、他人を羨んだり落ち込んだりすることもあるのでしょう。だから自分も「できるようになりたい」と思うのです。

 「できるようになりたい」と思うこと自体は悪いことではありません。より良い働きができるようになること、より大きな働きができるよういなることを求めること自体は悪いことではありません。ですからパウロは「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と言うのです。

 実際、コリントの教会の人たちはそのことに熱心でした。私たちが一般に言うところの能力や働きだけでなく、それこそ奇跡的な超自然的な能力や働きについても熱心に求めていたようです。そのような「パワー」を宗教に求める人は、今日も珍しくはないので、私たちにも分からなくはありません。

 そのような超自然的な能力や働きをも含めて、パウロは「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と言います。しかし、だからこそ彼は続けるのです。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と。その「最高の道」「最もすぐれた道」とは何でしょう。その続きの朗読を先ほど聞いて、既にお気づきのことと思います。そこで繰り返されている言葉は何か。「愛」です。パウロはここで「愛」について語っているのです。「愛」こそが、その「最高の道」であり「最もすぐれた道」だと言うのです。

 いや、さらに言うならば、その「最高の道」を歩むのでないならば、どんな能力を得たとしても、どんな働きをしたとしても無益だとさえ言うのです。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどらややかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(13:1‐2)とはそういうことです。

 それだけではありません。その「最高の道」を歩むのでないならば、他の人のために何をしようとも、どんな大きな自己犠牲があっても無益だというのです。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」(13:3)と彼は言うのです。

 実に激しい言葉です。一般論ではなく、「わたし」という言葉を用いて、パウロ自身の存在を指し示しながら語っているだけに、強烈に迫ってくる言葉です。どうして、パウロはコリントの人たちにここまで語らなくてはならなかったのでしょうか。それはコリントの人たちが、様々なことを「できるようになりたい」と願いながら、そして実際に有能な人や大きな働きをしている人が決して少なくはなかったにもかかわらず、もう一方においてお互いの間に分裂があり、仲たがいや争いが絶えなかったからです。まさに豊かな賜物をいただいていながら、バラバラだったからです。だからこそ、パウロは歩むべき「最高の道」について語るのです。愛について語るのです。

愛は忍耐強い
 しかし、そこで語られる「愛」とは、一般に通常考えられている「愛」とは恐らく異なるものです。愛は自然に生じる感情ではありません。「愛する」ということと「好きだ」ということは異なります。彼は言います。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(13:4‐7)。

 この箇所を読みます時に思い出されるのは。カトリックの岡田武夫大司教が柏教会の神父であられた時に書いていたこんな文章です。「罪は人と人とを引き離し、バラバラにし、対立させ反目させます。それは人間のコントロールの外にある闇の力のようなものです。だれでも他者とひとつになりたいと願いながら、ついつい人と争ったり人を恨んだりしてしまうのです。それは罪のなせる業です。わたしたちは、ひとつになるためには、罪とたたかわなくてはなりません。」

 「罪」と聞くと「犯罪」という言葉を連想するかもしれません。あるいは「不道徳」という言葉を思い浮かべるかもしれません。しかし、「犯罪」も「不道徳」も、人と人とを引き裂く罪の一つの側面に過ぎません。それはあくまでも一面なのであって、罪そのものはそう単純ではありません。なぜなら、「罪」は時として道徳的な顔をしたり、正義の仮面をかぶってやってくるからです。そして、互を引き離し、バラバラにし、しばしば正義の名のもとに殺し合うことさえさせるからです。

 先ほど引用した文章にあったように「ひとつになるためには、罪とたたかわなくてはなりません」。人間とではなく、罪と戦わなくてはなりません。バラバラにする力とたたかわなくてはなりません。どうしてこの文章を引用したか、もうお分かりでしょう。パウロが語る「愛」とは、まさにこの戦いに他ならないのです。バラバラにする力とのたたかいです。

 どのように戦うのですか。人間相手の戦いならば、武器を手にして戦えるでしょう。しかし、罪との戦いであるならそうはいきません。どのように戦うのですか。忍耐強くあることによってです。情け深くあることによってです。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。実際、これは大きな戦いでしょう。

 何かができるようになること。確かに大事です。より良い働きをすること、より大きな務めを担えるようになること。確かに大事です。だからより大きな賜物を求めたらいい。能力を求めること、働きを求めることは悪いことではありません。しかし、バラバラにする力、分裂と争いをもたらす力と戦う人になることは、もっと大事なことなのです。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」。その道を歩もうとしないなら、与えられたどんなに大きな能力も、大きな働きも、無に等しいものとなってしまうのです。いや、罪の翻弄された能力や働きほど恐ろしいものはありません。

愛は決して滅びない
 とは言うものの、私たちはここで改めて考えざるを得ません。その道を歩むことはなんと困難なことでしょう。実際、これまでどれほどその戦いに苦戦してきたことでしょう。何度敗北を喫してきたことでしょう。

 私たちは現実に、自分の内にも、自分の周りにも、教会の中にも、この世界の至るところにおいても、罪の力がありとあらゆる形を取って猛威を振るっているのを目の当たりにしているのです。自分の心の内に働く罪の力にさえ苦戦を強いられているのに、いったいこの世界に働いている巨大な罪の力とどう戦ったらよいのでしょう。普通に考えたら、最後は罪の勝利に終わるのであって、世界は崩壊して終わりを迎えるとしか思えないのでしょう。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」とパウロは言いました。しかし、ただその「最高の道」を歩きなさいと言うだけならば、これほど過酷な勧めはありません。

 しかし、パウロはここで単にその「最高の道」を歩きなさいと勧めているのではないのです。実際、「~しなさい」という勧めや命令の表現は全く用いてはいないのです。「愛を追い求めなさい」という言葉は14章になって初めて出て来るのです。その前にパウロは何を語っていますか。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。…」と書いていって、そしてこのように宣言しているのです。「愛は決して滅びない!」

 最後に勝つのは罪ではありません。愛が最後に勝つのです。愛が最後まで残るのです。愛という道を行く時、私たちは幾度となく困難を経験し、敗北の惨めさを味わうかもしれません。しかし、私たちがその道を行くことは決して無駄に終わらないのです。無に帰してしまうことはないのです。どんな大きな能力も働きもそれ自体は一時的なものです。しかし、愛は永遠です。なぜなら、愛は永遠なる神の本質だからです。ヨハネの手紙に「神は愛です」(1ヨハネ4:16)と表現されているとおりです。

 実際、愛なる神、神と人、人と人を引き離す罪の力とたたかわれる神は、御自身がそのような御方であることを私たちに現してくださいました。罪との戦いとしての「愛」を神はキリストにおいて現してくださったのです。「愛」が何であるかを神はキリストにおいて現してくださったのです。そして、その「愛」が永遠であることを、神はキリストの十字架と復活において現してくださったのです。

 そのキリストの中に、私たちは招き入れられ、キリストの体の部分とされているのです。この前の章にこう書かれているとおりです。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(12:27)。私たちはキリストの体の部分として、ここに書かれている「最高の道」「最もすぐれた道」を歩んでいくのです。ならば、どんなに困難を極めていたとしても、今は度々敗北するようなことがあっても大丈夫なのです。キリストにおいて現された愛は決して滅びないからです。

 パウロが今日の箇所で語っているとおり、確かに私たちが見ているのは、不完全な途中の状態でしかありません。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」(13:12)と語られているとおりです。私たちが知るところは一部分に過ぎません。しかし、最終的には完成を見るのです。完全な愛を知ることになるのです。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」。その道を共に進んでいきましょう。

2014年9月7日日曜日

「呼びかけ続ける神」

2014年9月7日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 12章1節~12節


祭司長、律法学者、長老たちに向けて
 「イエスは、たとえで彼らに話し始められた」(1節)。今日の福音書朗読において私たちが聞いたたとえ話は、群衆に向けて語られたものではなくて、ある特定の「彼ら」に対して語られた話です。その「彼ら」とは11章27節に出てきた「祭司長、律法学者、長老たち」です。イスラエルの指導者たちです。このたとえは彼らに対して語られたのです。

 時はイエス様がエルサレムに入城されて二日目です。火曜日のことです。その二日後の夜、イエス様は捕らえられ、金曜日に主は十字架にかけられることになります。つまりその時に向けて、イエスの逮捕と処刑の準備が着々と進められていた時の話なのです。その準備を進めていたのが、他ならぬこの「彼ら」です。祭司長、律法学者、長老たちなのです。

 もちろん、イエス様はそのことをご存じです。既にエルサレムに来られる前から、主は弟子たちにこう語っておられましたから。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」(10:33)。そのように、今日お読みしたたとえ話は、間もなく殺されようとしている方が自分を殺そうとしている人々に語りかけている話なのです。

 そして、殺そうとしている人々は、そのたとえが自分たちの話であることをはっきりと理解したのです。「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った」(12節)。これが今日朗読された箇所の結末です。

 彼らはこのたとえ話が自分たちの話だと理解しました。息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった農夫たちとは自分たちのことだと理解しました。イエスが自分をこの殺される「息子」にたとえていることも理解したことでしょう。思い当たることがあるからです。実際、目の前にいるナザレのイエスというこの男を必ず捕らえて殺してやると決意していた彼らですから。群衆さえいなければ、すぐにでも捕らえて殺してやりたいと思っていた彼らですから。「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいた」と聖書は語っているのです。

 しかし、この「当てつけて」という訳はある意味では一面的な翻訳です。確かに彼らは「当てつけられた」と感じたに違いない。しかし、もともとの言葉には「当てつけ」というネガティブなニュアンスはありません。ただ「彼らに向けて語られた」と書かれているだけです。

 確かに彼らは「これは自分たちの話だ」と思って腹を立てたかもしれません。「当てつけやがって!」と。しかし、イエス様はただ単に「彼らの話」をしたかったのではないのです。このたとえ話の中心は悪い農夫たちではないのです。そうではなくて、ぶどう園の主人なのです。「ぶどう園の主人」によってたとえられているのは神様です。イエス様は、父なる神の話をなさりたかったのです。自分が間もなく殺されようとしている時に、自分を殺そうとしている人たちに、父なる神のことを話したかったのです。それは今、彼らがどうしても聞いておかなくてはならない話だったからです。

呼びかけ続ける神の話
 たとえ話の内容を見ていきましょう。話は次のように始まります。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した」(1‐3節)。

 ぶどう園の主人は、「これを農夫たちに貸して旅に出た」と書かれています。ここには主人の信頼が語られています。主人は農夫たちを信頼して、ぶどう園の管理を託しました。主人は農夫たちを信頼して、ぶどう園における仕事を与えました。しかし、農夫たちは主人の信頼を裏切りました。農夫たちは分を忘れて、あたかもぶどう園の所有者であるかのように振る舞うのです。

 そのように人は神の信頼を裏切ります。私たちは神を信じるとか信じないとか言いますけれど、それ以前に神が人間を信じてくださるのです。そのように神はアダムとエバを信じてエデンの園を託されましたし、私たちに人間にこの世界の管理を託してくださっています。そして、そのように祭司長、律法学者、長老たちはイスラエルにおける指導者としての務めを託されたのです。神が信頼してくださって託してくださったのです。しかし、人間は神の信頼を裏切るのです。神を侮るようになるのです。神が主人だとは認めなくなるのです。神が何を求めているかなど、どうでもよくなるのです。自分が何を得るかが何よりも重要になるのです。神の求めに答えるつもりなど、さらさらない。何かを求められること自体、いやなのです。「農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した」。

 しかし、イエス様はこのような話を続けます。「そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された」(4‐5節)。ここに語られているのはまことに驚くべきことです。農夫たちが僕を侮辱したり殺したりしたことではありません。もっと驚くべきことは、この主人が《繰り返し》僕を送ったということです。

 このたとえ話の後にイエス様はこんな問いかけをしています。「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」(9節)。そうです、この主人はそのような力を持っているのです。農夫たちを全滅させる力を持っているのです。この主人が神様のことを喩えているならば、なるほどそうでしょう。神は無力ではありません。御自分を侮る者、逆らう者、信頼を裏切る者をただちに滅ぼすことがおできになるのでしょう。

 しかし、この主人は農夫たちを直ちに滅ぼしてしまうのではなく、「他の僕」を送るのです。農夫たちは遣わされた僕の頭を殴り、侮辱して帰らせます。それでもなお「もう一人」を送ります。その僕は殺されます。しかし、そのようなことが起こったにもかかわらず、主人はなおも「多くの僕」を送ります。

 これはイスラエルの歴史において実際に起こったことでした。神はそのように預言者たちを送られました。これを聞いている祭司長たちにとっては、洗礼者ヨハネがそれに当たります。預言者というのは未来を予告する人のことではありません。日本語では「言葉を預かる者」と書くように、彼らは神の言葉を託されて伝える人たちです。預言者とは、いわば神の呼びかけなのです。神はイスラエルに預言者を遣わし、立ち帰るようにと、繰り返し呼びかけられたのです。

 いや、それだけではありません。このたとえ話はさらに驚くべき展開を見せることになります。このように書かれています。「まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った」(6節)。この主人の行動は常軌を逸して愚かであると言わざるを得ないでしょう。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」――今まで僕たちを侮辱したり殺したりした農夫たちが、息子だからと言って敬うはずはないではありませんか。あまりにも愚かです。

 しかし、この主人の愚かとしか言いようがない行動こそ、このたとえの中心なのです。イエス様はこのようなたとえによって、わたしの父なる神は、このような御方だ、と語っておられるのです。「『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った」――イエス様は、この最後に送られた「息子」として語っておられるのです。その「息子」として、「わたしの父である神は、愚かとしか言いようがないほどあなたたちを愛して、あなたたちが立ち帰るように呼びかけておられるのだ」と語っておられるのです。この父なる神のことを彼らに話したかったのです。神はこのような御方なのだということを話したかったのです。そして、これこそ私たちもまた、このたとえから聞かなくてはならないことなのです。

捨てられた石が隅の親石となった
 もちろん、イエス様はそれでも彼らは自分を殺すであろうことは分かっていました。イエス様の話は続きます。「農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった」(7‐8節)。そうです、イエス様は分かっておられたのです。実際この数日後に、イエス・キリストはエルサレムの外にあるゴルゴタの丘で、十字架にかけられて殺されることになるのです。

 結局、愚かとしか言いようのない神の愛の呼びかけも無駄に終わってしまったように見えます。主人が息子を送ったこと自体、無意味に思えます。普通に考えたなら、結論は見えています。「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」(9節)。

 そうです、これが結論のはずでした。それで全ては終わりのはずです。しかし、そこでイエス様はなおも詩編118編を引用して話を続けるのです。「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える』」(10‐11節)。

 「家を建てる者の捨てた石」とはイエス・キリストのことです。イエス様は確かに人の手によって捨てられました。十字架にかけられたということは、そういうことです。神の最後の呼びかけも無に帰してしまったかのように見えます。しかし、それで終わりではありませんでした。むしろ、そこから決定的に新しいことが始まったと言うのです。捨てられたはずの石が、新しい家の隅の親石となった、と。

 イエス様の言われるとおりでした。捨てられて十字架にかけられたイエス・キリストが、私たちの罪を贖う犠牲となりました。そこから罪の赦しの福音が、新たに宣べ伝えられるようになりました。そこから教会が誕生しました。イエス・キリストは、確かに教会の親石となったのです。神はそのような形において、イエス・キリストを十字架にかけた祭司長、律法学者、長老たちへの呼びかけを継続されたのです。そして、神を侮り、神の信頼を裏切っているこの世界への呼びかけを継続され、今に至っているのです。

2014年8月3日日曜日

「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」

2014年8月3日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 6章1節~10節


 「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(6:1)。これが今日私たちに与えられている神の言葉です。「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」。そのように書かれているのは、神からいただいた恵みを無駄にしてしまうことがあり得るからでしょう。

 そうならないために二つの大事なことがあります。一つは、《どのような恵みをいただいたか》を繰り返し思い起こすことです。もう一つは《どのように恵みをいただいたか》を繰り返し思い起こすことです。その《どのような》については、今日お読みした箇所の前に書かれているので、そこを見ておく必要があります。《どのように》については、今日の聖書箇所に書かれていました。私たちが神からいただいた恵みを無駄にしてしまわないために、《どのような》そして《どのように》という二つの面から、神からいただいた恵みに目を向けましょう。

どのような恵みをいただいたか
 「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」。「神からいただいた恵み」とは何か。パウロはどのような恵みについて語っているのか。今日の聖書箇所の直前に書かれているパウロの言葉を読みますと、何度も繰り返されている言葉があることに気づきます。「和解」です。そこに書かれているのは神と人間との「和解」の話です。

 「和解」とは関係の回復です。「和解」が話題になるということは、もともと関係が悪かったということです。そのことをドラマチックに伝えている物語があります。有名なエデンの園の物語です。アダムとエバが、神が食べるなと言われた木から取って食べたという話です。

 その物語が語っている内容は極めてシンプルです。私たち人間は神様が望まないことをしているといことです。神様が「ノー」と言われることを行っているということです。その結果どうなったか。神様が近づかれた時、アダムとエバは神の顔を避けて、園の木の間に隠れたと書かれているのです。そこに描かれているのは大昔の話ではありません。「アダム」という名はもともと「人」という意味ですから、これは人間ならば誰でも思い当たる話です。

 人に対してならいくらでもごまかしは利くものです。しかし、神に対してはごまかしが利きません。神の前においては全てが明らかです。神がまことの神ならば、その前で顔を上げることのできる者は、本当は一人もいないのでしょう。エデンの園の物語は確かに私たちの物語です。

 しかし、そのような私たちをなおも神は愛してくださいました。関係を壊したのは私たちの方であるのに、神はその関係を回復しようとしてくださったのです。神の方から和解の手を伸ばしてくださったのです。5章18節以下には次のように書かれていました。「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(5:18‐19)。

 「人々の罪の責任を問うことなく」。――確かにそう書かれていました。罪を裁くことのできる御方が、罪の責任を問うことのできる御方が言われるのです。「わたしはあなたたちの罪の責任を問わない」と。「罪の責任を問う」とは、直訳すると「罪過を数え立てる」という意味の言葉です。私たちはしばしば互いに罪過を数え立てているのでしょう。一つ一つを問題にし、その一つ一つについて償いを求め、あるいは心の中の記録にしっかりと記帳するのでしょう。しかし、神はそのようなことをされないのだ、と言うのです。神は罪の記録をあえて破棄されるのです。もはや数え立てることはないと言われるのです。

 神は私たちの罪過を数え立てることなく、一方的に和解の手を伸ばしてくださいました。イエス・キリストをこの世に遣わされたとはそういうことです。神に背いたこの世界に、神に顔向けできないこの世界に、神はキリストを遣わされ、御自身の愛を示されたのです。最終的には十字架において、キリストを罪の贖いの犠牲とすることによって、この世を愛する愛を完全に現されたのです。イエス・キリストという御方は、まさにこの世界に一方的に伸ばされた神の和解の御手に他なりませんでした。

 そのようにして、私たちは神と和解させていただいたのです。神によって罪を赦され、神に顔を上げ、神に祈り、神を礼拝して生きる者としていただいたのです。そのように神と共に生きる生活を与えられたのです。5章21節にはこう書かれています。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」。そうです、キリストが罪とされたために、もともとどう考えても義しくない私たちが、義ではない者が、義としていただいたのです。

 これこそまさに神の恵みです。神からいただいた恵みです。私たちは《どのような恵みをいただいたか》を忘れてはなりません。

どのように恵みをいただいたか
 そして、私たちは《どのように恵みをいただいたか》をも思い起こさねばなりません。

 先ほど、キリストはこの世界に一方的に伸ばされた神の和解の御手であると申しました。しかし、コリントの教会の人たちのほとんど全ては、直接イエス・キリストを見たことはなかったに違いありません。そのような彼らが、神と和解させていただき、神と共に生きるようになったのはどうしてか。キリストのことを伝えてくれた人たちがいたからです。彼らの場合、パウロたちが「和解の言葉」を伝えてくれたからです。パウロたちが彼らに言ってくれたのです。「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(5:20)と。それは私たちにしても同じでしょう。どのように恵みをいただいたか。誰かが私たちにキリストを伝え、和解の言葉を伝えてくれることによってです。

 今日お読みしたところには、そのように「和解の言葉」を伝えたパウロたち自身のことが書かれています。ここを一回読んだだけでも、パウロたちがどれほどの労苦をもってコリントの人々や他の地域の人々に「和解の言葉」を伝えていたかがわかります。

 パウロは言います。「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています」(3‐4節)。パウロにとって大事だったのは、「和解の言葉」を伝えるという奉仕の務めそのものが非難されないことだったのです。彼自身が非難されることはいくらでもあったに違いありません。実際、そこには「苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓」など、彼が経験してきた状況が並べられています。それらはパウロ自身に対する非難や誤解、敵意や反感によってもたらされたものでしょう。

 さらには8節以下を見ると、彼が「栄誉を受けるとき」だけでなく「辱めを受けるとき」があったことがわかります。「好評を博するとき」だけでなく「悪評を浴びるとき」があるのです。そのような中にあっても、神の僕としての実を示してきた。なんのためですか。奉仕の務めが非難されないためです。つまずきとならないためです。それはただ一重にキリストを伝え、「和解の言葉」を伝えるために他ならないのです。

 そのようにして、和解の言葉は伝えられたのです。そのようにして、コリントの人たちは神の恵みをいただいたのです。それは私たちも同じです。ここに教会があるのはどうしてですか。私たちの信仰の先輩たちが伝道を続けてきたからです。和解の言葉を伝え続けてきたからです。さらには遠くカナダから故郷での生活を捨てて未知の国日本にまで来てくれた人たちがいたからです。多くの労苦や誤解や中傷を受ける中にあっても、神の僕としての実を示して仕えて来られた多くの人たちがいたからです。そのようにして私たちもまた神の恵みをいただいたのです。

無駄にしてはいけません
 そのように、私たちもまた《どのような恵みをいただいたか》そして、《どのように恵みをいただいたか》を思い起こしたいと思うのです。その上で、今日の御言葉をもう一度しっかりと受け止めたいと思うのです。「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」。ならば、その意味するところは明らかででしょう。

 私たちは、ただ神の一方的な恵みによって和解させていただいたのです。本来なら園の木の間に身を隠さざるを得ないような私たちが、罪を赦された者として、安心して神に祈り、神を礼拝して生きることができるのです。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。私たちは神と共に生きるのです。この世界がどう変わろうとも、私たちの人生に何が起ころうとも、信仰を放棄してはなりません。神と共に生きるのです。その意味において、神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。

 しかし、それだけではありません。神からいただいた恵みは、実際には「和解の言葉」を託された人たちの愛と労苦によって私たちに伝えられたものでした。そのようにして、神と和解させていただいた私たちが、今度は「和解の言葉」を託されているのです。パウロたちが自分たちの労苦を語るのは、ただ同情を求めてのことではありませんでした。そうではなくて、彼らとの関係を確かなものとして、コリントの人たちと共に教会を建て上げたかったからでしょう。そして、共に労苦し、共に神の僕として生き、共に「和解の言葉」を伝えていきたかったからでしょう。求められていることは私たちにおいても同じです。その意味においても私たちは聖書の言葉を聞かなくてはなりません。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。

2014年7月6日日曜日

「キリストによって派遣されて」

2014年7月6日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 6章1節~13節


ここから派遣される私たち
 日曜日の礼拝は「招詞」から始まります。招きの言葉から始まるのです。それは私たちが主によって招かれて今ここにいることを意味します。私たちはそのように主によって招かれ集められた者として共に礼拝を捧げます。そして、礼拝の最後には「祝祷」が行われます。祝祷は派遣のための祈りです。私たちは、神の祝福を受け、ここから派遣されて出て行くのです。そして、一週間の生活を経て再び招かれてここに集まるのです。

 このことは、私たちの人生のホームがどこにあるかということと関わっています。私たちのホームはここにあるのです。日曜日の礼拝にあるのです。ここから遣わされるのです。そして、ここに帰ってくるのです。その意味で教会は「行くところ」ではありません。教会は帰ってくるところです。私たちの日常生活の場は、家であれ、職場であれ、学校であれ、すべて派遣先です。私たちは派遣されている者として生活するのです。それが信仰者としての日常生活です。

 では派遣先において、私たちはどのような意識をもって生活したらよいのでしょう。何を考えて生きたらよいのでしょう。そこで私たちが今日目を向けたいのは、主が弟子たちを派遣したという話です。主は派遣された者たちに、何を求められたのでしょうか。

汚れた霊を追い出すために
 主は弟子たちを二人ずつ組にして遣わされました。そこで目に留まりますのは、主が遣わす際に、彼らに「汚れた霊に対する権能」(7節)を授けられたというくだりです。そのような権能を授けたのは、もちろん「汚れた霊」を追い出すためです。そこに派遣の一つの目的が明確に表現されていると言えるでしょう。彼らは汚れた霊を追い出すために送り出されたのです。主によって派遣されるとはそういうことです。

 「汚れた霊を追い出す」と言いましても、私たちはそこでオカルト的な悪魔払いのようなことを考える必要はないでしょう。「汚れた霊」が何であれ、それが追い出されるということは、要するに生活が変わるということです。人々の生活が変わるということは、共同体に変化がもたらされるということです。それは家庭であるかもしれませんし、職場であるかもしれませんし、学校の友人関係かもしれませんし、あるいは社会全体、この世界全体を意味するかもしれません。いずれにせよ、汚れた霊が追い出されるということは、神の御心にかなった変化がもたらされるということです。「御心の天になるごとく、地にもなさしめたまえ」と祈っているではありませんか。それが現実に様々な形で起こるということでしょう。

 私たちは変化をもたらすために送り出されるのです。「汚れた霊」に様々な名前を付けて考えてみてください。例えば「憎しみ」が追い出されたらどうなりますか。「敵意」が追い出されたらどうなりますか。「淫らな思い」が追い出されたらどうなりますか。それは具体的な変化をもたらすことでしょう。イエス様は別な箇所ではこう言っておられます。「あなたがたは地の塩である」(マタイ5:13)。「あなたがたは世の光である」(同14節)。これもまた同じです。塩を投入するのは変化をもたらすためです。灯を置くのも変化をもたらすためです。その人が存在することで周りが変わるのです。信仰者がこの世界に遣わされ、それぞれの場所に置かれるとはそういうことです。

神に対する信頼
 そこでさらに目に留まりますのは、遣わすに当たってイエス様が弟子たちに与えられた不思議な命令です。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」(8‐9節)と書かれているのです。要するに、送り出す際に弟子たちの持ち物を全部没収してしまったということです。

 なんとも無茶な話です。しかし、主があえてそうされたのは、遣わされて行く者にとってどうしても必要なことがあるからなのでしょう。それは何であるのか。主がなさったことから、少なくとも二つのことを考えることができます。それは「神に対する信頼」と「人に対するへりくだり」です。その二つはここから遣わされて行く私たちもまた忘れてはならないことなのでしょう。

 イエス様によって持ち物を取り上げられ、お金も取り上げられて、弟子たちは全く神に寄り頼まざるを得ない状況に追い込まれることとなりました。杖一本で出かけるとなったら、神が養ってくださることを信頼して出かけるしかないでしょう。弟子たちは、いつにもまして真剣に「日ごとの糧を与えたまえ」と祈ったに違いありません。

 そのように様々な欠乏は神への信頼と祈りを学ぶ学校となります。必ずしもあの弟子たちのように食べ物がない、お金がないという貧しさだけではありません。私たちが経験するのは、様々な具体的な問題に対する自分の無力さという「貧しさ」かもしれません。能力のなさ、資質のなさを思い知らされるような経験によって自分の「貧しさ」を知ることになるかもしれません。しかし、そこでこそ神への信頼と祈りとを学ぶことになるのでしょう。

 「汚れた霊に対する権能」を授けられた者として生きるなら、そのように遣わされた者として生きるなら、どうしても必要なのは神に対する信頼なのです。なぜなら与えられている権能の源は神にあるからです。自分の力によってこの世界を変えるようにと送り出されているのではないからです。まず大事なのは、あの弟子たちがそうであったように、いかなる困窮の中にあっても神に信頼して生きる人として、人々の間に存在することなのです。

人に対するへりくだり
 そして、もう一つ。それは「人に対するへりくだり」です。イエス様は弟子たちの持ち物とお金を没収してこう言われました。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい」(10節)。当時のユダヤ人社会においては、旅人を泊めたり、もてなしたりすることは、信仰的な美徳と考えられておりましたので、決して珍しいことではありませんでした。イエス様は、そのような習慣を背景として語っているのです。要するに、「誰もがするように、旅先で誰かの世話になれ」と言っているのです。しかも、その土地にいるかぎり、「その家にとどまるように」と言っている。世話になり続けよ、と言っているのです。

 彼らは、新しい村に足を踏み入れる度に、繰り返し身を低くせざるを得なくなりました。まず泊めてもらわなくてはならない。食べさせてもらわなくてはならない。そのような弱い者として彼らは村に入っていくことになったのです。無一文ですから、何をするにも助けが必要なのです。

 そのように、イエス様は、弟子たちが何かを与える前に、まず何かを受ける者とされたのです。上の者が下の者に何かを教えるかのように、あるいは強い人間が弱い人間を助けるかのように、弟子たちが村々に入っていくことを主はお許しになりませんでした。伝道がそのような形でなされることを主は望まれなかったということです。

 一般的に言いまして、使命感に燃えている人は、往々にして受ける側に身を置くことを嫌います。与える側だけに身を置こうとするのです。「わたしは人の世話にはなりたくない」「わたしは人に迷惑はかけたくない」――いつの間にか私たちも口にしているかもしれません。しかし、与える側にばかり身を置きたがる人は、本当の意味で人と共に生きることはできないのです。同じ人間として、同じ地平に立って、他者と大切なものを分かち合うことができない。そういうものです。人の世話になりたくない人は、おそらく良き神の働き人にはなれないのです。

 弟子たちは、「汚れた霊に対する権能」を行使する前に、人に対してへりくだることを学ばねばなりませんでした。それは私たちも同じです。私たちの中には、家族で一人だけのキリスト者という方も少なくないでしょう。ご家族に神様の恵みを伝えたい、福音を伝えたいと思っているに違いありません。しかし、もしかしたらその前に、まず家族に「助けてください」と素直に言える人にならねばならないのかもしれません。知らず知らずに自分を上に置いていることが、しばしば福音宣教の妨げになっていることがあるからです。


 さて、そのように弟子たちは物乞いのような仕方で村に入って行ったにもかかわらず、そして事実人々のお世話になっていたにもかかわらず、その働きについてはこう記されています。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(12節)。彼らが行ったところに悔い改めが起こりました。悪霊が出て行きました。癒しが起こりました。人々の生活に具体的な変化が起こりました。村々に神の御心にかなった変化が起こりました。御心の天になるごとく地にもなるのを彼らは実際に目の当たりにしました。

 それが彼ら自身に由来するものでないことは明らかでした。彼らは何も持っていない物乞いのようなありさまだったのですから。それはイエス様が授けてくださった「汚れた霊に対する権能」によるのです。そこに現れているのは神の御業に他ならないのです。それゆえに彼らは主の御名をあがめたことでしょう。そのことを私たちもまた期待してここから出て行くべきなのです。様々な形における私たちの貧しさにもかかわらず、私たちを通して神の御業が現れることを期待して、ここから遣わされてまいりましょう。

2014年6月15日日曜日

「神の子どもとして生きる」

2014年6月15日 
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 8章12節~17節


肉に従って生きるのではなく
 今日の礼拝では次のような御言葉が読まれました。「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません」(ローマ8:12‐13)。

 「肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務」とは何でしょう。聖書が「肉」と言う時、それはいわゆる「肉欲」を指すのではありません。「肉欲に従って生きなければならないという、肉欲に対する義務」と言っているのではありません。もろもろの欲望に従って生きている人は、何もそれが義務だからということで、そのように生きているわけではありませんから。

 ここで言う「肉」とは、生まれながらの私たち自身です。信仰者となる以前の私たち、自分の努力と頑張りだけで生きてきた私たちです。信仰者となって後も、古い自分は生きています。ですから同じ原理で生きようとする。ただ自分の力で神の御心に従って生きようとするのです。ですからパウロは言うのです。「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません」。

 では「肉に対する義務」でないとするならば、いったい何に対する義務なのでしょう。実は、この文は途中で終わっているのです。(パウロの手紙では時々このようなことがあります。)しかし、パウロが本来意図していた続きは明らかです。「肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。そうではなく、霊に従って生きなければならないという、霊に対する義務です」。その後に霊と肉を対比して次のように語っていることからも分かります。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」(13節)。

 では「肉に従って生きる」のではなく「霊に従って生きる」とは、どのように生きることを意味するのでしょうか。パウロはさらにこう続けます。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(14節)。ここに「霊に従って生きる」ということがどういうことか、はっきりと書かれています。霊に従って生きるということは、神の霊に導かれて生きることです。神の霊に導かれて生きるということは、神の子として生きることなのだと聖書は言っているのです。

 キリスト者にはキリスト者としての生き方があるべきだ。それは誰でも考えることでしょう。「わたしたちには一つの義務があります」とパウロも言います。何の義務もない。何の責任もない。別にどのように生きても良いのです、とは言わないでしょう。しかし、私たちが考えなくてはならないのは、肉に従ってキリスト者らしく生きることではないのです。自分の力を振り絞って神の御心に従って生きることでもないのです。そんなことをしたら「死にます」と彼は言うのです。これは肉の内に働く罪の力の大きさを知るパウロだからこそ言える言葉なのでしょう。人間の内にある罪の問題は、人間の頑張りではどうにもならないほど深刻なものだということが分かっているからこそ言うのです。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」と。

 大事なことは、「霊に従って生きる」ことなのです。それはすなわち、神の子どもとして生きることなのです。そのように生きてこそ、「霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」(13節)と書かれていることも実現していくのです。体を通して現れる罪深い行いが絶たれるのです。それは肉によってではなく「霊によって」なのです。

霊に従って生きる
 では、「霊に導かれる神の子」として生きるとは、どういうことでしょうか。具体的に私たちはどのように「霊に従って」生きたら良いのでしょうか。続きをお読みします。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(15節)。

 ここには二つの大事な認識があります。「霊に従って」生きる時に決定的に重要になるのは、この二つの認識なのです。第一は神についてです。私たちが受けたのは、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではない」と書かれているのです。つまり、私たちが信仰者となるということは、神の奴隷になることではないということです。言い換えるならば、神は奴隷の主人のような御方ではないということです。

 この手紙が書かれた頃、ローマ帝国内には奴隷と呼ばれる人たちがたくさんいました。初期の教会の構成メンバーの多くは奴隷の身分の人たちでした。ですから、パウロが「奴隷」と「恐れ」を結び付けて語っていることについては非常に身近なイメージとして捉えられたと思います。奴隷は主人の言うことを聞きます。奴隷は主人に従います。どうしてですか?言うことを聞かないと打ち叩かれるからです。痛い思いをするのはいやです。だから主人に従うのです。いつ打ち叩かれるか、ビクビクしながら言うことを聞いて一生懸命に働きます。これが奴隷と主人の関係です。

 私たちの信仰生活が、そのような奴隷と主人との関係のようになってしまうことは確かに起こり得ることでしょう。従順でないと打ち叩かれる。間違ったことをしてしまったら罰を与えられる。御心に沿わないことをすれば災いに遭う。最終的に救われないかもしれない。神の国にも入れてもらえないかもしれない。だから神様の言いつけを守る。従順に生きる。いつ神様に怒られるか、神様に認めてもらえるか、ビクビクしながら神様に従う。――もしそうならば、それは奴隷と主人の関係以外の何ものでもありません。

 そこから生まれるのは何ですか。「肉に従って生きる」という生活でしょう。頑張って、努力して、恐ろしい神様に認めてもらうしかないのですから。しかし、パウロは言うのです。あなたがたが受けたのは「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」ではありません、と。

 そこで大事なもう一つの認識があります。それは私たちについてです。「あなたがたは、…神の子とする霊を受けたのです」。ここに「神の子とする」とありますが、実際には「養子にする」という言葉が用いられているのです。私たちは「養子にされたのだ」というのです。

 私たちは自分が神の子どもとしてふさわしいかどうか、いつも自分の方を見て考えるのでしょう。そして、自分はふさわしくないなどと言うのです。しかし、養子にするかどうかは神が決めるのです。神が受け入れるならば、私たちがふさわしかろうがなかろうが関係ないのです。神が受け入れてくださるならば、私たちは神の養子となるのです。

 ふさわしいかふさわしくないかを言うならば、もとより私たちは皆、ふさわしくはないのです。これは神の特別な恵みなのです。だから、特別な手続きによって養子とされたのです。養子とする霊、聖霊が降って教会が誕生する前に、何が起こったのかを私たちは知らされているではありませんか。イエス・キリストの十字架と復活です。イエス様が十字架において私たちの罪を全て代わりに負ってくださったから、私たちの罪を贖ってくださったから、だからこそ私たちは安心して養子となることができるのです。これは神がなさったことだからです。

 そして、パウロが念頭に置いているローマの養子縁組においてはもう一つ大事なことがありました。一度養子とされるならば、もといた家の子どもとしての権利は完全に失いますが、同時に新しい家の権利に完全にあずかることになるのです。つまり、養子となった場合、その家に実の子どもがいたとしても、なんら区別はなされないのです。親との関係において、立場的には全く同じところに立つことになるのです。

 これを神との関係において考える時に、私たちは驚くべきことがここに語られていることに気づきます。父なる神との関係において「実の子」と言えば、それはイエス様ではありませんか。しかし、私たちが「養子とされる」ということは、立場的にはイエス様と全く同じところに立つことになるのです。ですからその後には「キリストと共同の相続人」などと書かれているのです。これこそが、私たちの持つべき自己認識です。

 それは何を意味するのでしょう。イエス様がこの地上で神を「アッバ、父よ」と呼んでいたように、私たちも同じように「アッバ、父よ」と呼ぶことができるということです。ですからこう書かれているのです。「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と。

 「アッバ」というのは、小さい子が親しみと信頼を込めて「パパ」と呼ぶのと同じです。私たちは福音書を読む時に、そのように父の名を呼び続けながら地上の歩みを進められたイエス様の姿を見ることになります。しかし、なんとそこに私たちもいるというのです。私たちも同じように父の名を呼んで、祈って生きることができるのです。そして、父なる神が御子なるイエス様に応えられたように、私たちの祈りにも父として応えてくださるということなのです。

 このように、私たちが神の子どもとして生きるということは、具体的には「アッバ、父よ」と呼びかけながら、祈りながら生きていくということに他なりません。神の霊に導かれた神の子どもとして生きるということは、絶えず祈りながら生きるということなのです。

 私たちが祈ることをやめてしまうなら、私たちは肉に従って生きることになってしまうでしょう。そして、罪との戦いに負け続け、敗北感に苛まれるだけの信仰生活となってしまうことでしょう。あるいは表向きだけを繕いながら生きるか、あるいはキリスト者としての生活を放棄するかしかないでしょう。

 その意味でも、「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」という言葉は真実です。そうならないためにも、私たちは父を呼びながら生きていくのです。そのようにして父に依り頼みながら、悔い改めながら、赦していただきながら、助けていただきながら、生きたらよいのです。祈りの生活を失ってはなりません。せっかく養子にしていただいたのですから。

2014年6月1日日曜日

「永遠の命とは」

2014年6月1日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 17章1節~13節


永遠の命などいらない?
 ただいま唱和しました「使徒信条」の最後の言葉は「とこしえの命を信ず」でした。「とこしえの命」。今日の福音書朗読にも「永遠の命」という言葉が出てきました。ヨハネによる福音書には何度もこの言葉が出てきます。よく知られているのは3章16節でしょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)。

 イエス・キリストが来られたのは、私たちが「永遠の命」を得るためだと聖書は言います。しかし、「永遠の命などいらない」と仰る方がいました。そんなのまっぴらごめんだ、と。お分かりになりますでしょうか。その人は「永遠の命」をただ「ずっと長く生きること」と理解したのです。生きることが苦しみの連続である人にとっては、それが終わらないということは地獄以外の何ものでもないでしょう。「永遠の命」が「不死」を意味するならば、「そんなものいらない」と言う人がいても不思議ではありません。

 「不死」ではないにせよ、日本は世界一の長寿国です。様々な健康法が開発され、医学も進歩しました。昨今話題になっている再生医療が実用化するならば平均寿命は飛躍的に伸びるかもしれません。しかし、日本人は長寿であるから幸せかと問われるならば、必ずしもハイとは答えられないでしょう。明らかに、人間にとって重要なのは単に命の「長さ」ではないのです。そうではなくて命の「質」なのです。どのように生きているのか、ということなのです。

 「永遠の命」が単に「長さ」の話ならば、「そんなものいらない」となるのでしょう。しかし、聖書が「永遠の命」について語る時、それは「長さ」の問題ではないのです。それは「質」の問題なのです。どのように生きるのか。人はどのように生き得るのかということなのです。そこで心に留めたいのは、今日の福音書朗読の中で読まれたイエス様の言葉です。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(3節)。

永遠の命とは神を知ること
 主はまず「唯一のまことの神であられるあなたを知ることです」と言われました。神を知ること。それは単に神についての知識を得ることではありません。神を知ること。それは愛と信頼における交わりです。神との交わりです。それが何を意味するのかは、この祈りそのものがよく表しています。

 これは最後の晩餐において最後に捧げられた祈りです。主は間もなく捕らえられ、裁かれ、十字架にかけられることを知っているのです。ですから主は祈りの中でこう言われます。「父よ、時が来ました」(1節)。それは十字架にかけられる時に他なりません。しかし、そこで主はこう続けるのです。「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」。

 これは驚くべき言葉ではありませんか。「時が来ました」。その十字架の時は、イエス様が最も惨めな姿で死んでいく時なのでしょう。しかし、イエス様にとって、それは父の栄光を現す時なのです。イエス様は父なる神への愛と信頼のゆえに、ただ父の栄光を現すことを願うのです。

 それはすなわち、自分に与えられた使命を果たすことでした。主は心の中で既に十字架にかけられた自分自身を見ています。否、既にその先を見ている。すべてを成し遂げて父のもとに帰って行く時を思いつつ祈っているのです。「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と。既に成し遂げた喜びに溢れているのです。

 十字架を前にして、しかし喜びに溢れて、愛と信頼をもって「父よ、父よ」と繰り返されるイエス様の祈りの姿。これが父を知る子の姿です。「知る」とはこういうことです。単なる知識ではありません。愛と信頼における交わりです。そのようにイエス様が見せてくださった父なる神との交わりに入れられること。そのように永遠なる神を「知る」こと。それが永遠の命だと言うのです。それは「長さ」の問題ではなくて「質」の問題なのです。人はそのように生き得るのです。

永遠の命とはイエス・キリストを知ること
 しかし、イエス様はただ「唯一のまことの神であられるあなたを知ることです」とは言われませんでした。続けて「あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と言われたのです。それはイエス様の中では切り離すことのできないことだったのです。

 イエス様は既に成し遂げられたかのように、喜びに溢れて「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と祈りました。そして、福音書を読み進んでいきますと、その同じ言葉を人々は十字架の上から聞くことになるのです。イエス様は十字架の上で叫ばれたのです。「成し遂げられた」と。ヨハネによる福音書においては、これがイエス様の最後の言葉です。「イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた」(19:30)。

 何が成し遂げられたのでしょう。「行うようにとあなたが与えてくださった業」とは何なのでしょう。それは「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)となることでした。世の人の罪を代わって背負って死んでいく小羊となること、罪を贖う犠牲となることでした。何のためですか。私たちが、罪を赦された者として、神との交わりに入れられるためです。イエス様が見せてくださった父と子との交わりに、私たちもまた入れられるためだったのです。すなわち、神を知るためです。ですから、それはまた神が遣わされたイエス・キリストを知ることでもあるのです。

 そのように、人はイエス・キリストの成し遂げてくださった救いの御業のゆえに、赦された人として、永遠なる神との交わりに生きることができるのです。そのように永遠なる神を知ること。神が遣わされたイエス・キリストを知ること。それが永遠の命です。それは「長さ」の問題ではなくて「質」の問題なのです。人はそのように生き得るのです。

 そして、その命を主が与えるならば、何ものもそれを奪うことはできないのです。それはいかなるこの世の権力によっても、あるいは病によっても死によっても奪われることのない命です。なぜなら、何ものもイエス・キリストにおける神の愛から私たちを引き離すことはできないからです。神との交わりを奪うことはできないからです。それが「永遠の命」です。

互いの愛の完成に向かって
 そして、「永遠の命」について、さらに一つのことに目を向けたいと思います。主はこのように祈られました。「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」(11節)。

 既に見てきたように、イエス様は父なる神を知るということがいかなることかを地上において示してくださいました。父と子との間における愛と信頼における交わり。それはまさに永遠の命そのものでした。イエス様は永遠の命を見せてくださいました。そして、私たちをその交わりに招いてくださいました。しかし、今主は、その父と子との交わりが、私たちお互いの間にも実現するようにと祈っておられるのです。「わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」と。

 「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。しかし、それは私たちと神との関係に留まりません。私たちが唯一のまことの神とイエス・キリストを知るということは、父と子が一つであることを知ることです。そして、父と子が一つであることを知るということは、そのように私たちもまた一つとなることでもあるのです。私たちお互いの間にも愛と信頼における交わりが実現していくことでもあるのです。私たちはその愛の完成へと向かっているのです。

 私たちが見ているのはまだ一部分でしかありません。私たちは救いについても永遠の命についても部分的に知るに過ぎません。私たちはやがて完全な救いにあずかる時が来るでしょう。私たちは既に与えられている永遠の命が何であるかをはっきりと知る時が来るでしょう。それはただ神との完全な交わりの中に入れられるということではありません。そうではなく、お互いの愛が完成する時でもあるのです。

2014年5月25日日曜日

「奪い去られることのない喜び」

2014年5月25日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 16章12節~24節


悲しみは喜びに変わる
 今日の福音書朗読も先週に引き続き最後の晩餐の場面です。イエス様は弟子たちに言われました。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」(16節)。この言葉を耳にした弟子たちの間でざわめきが起こります。ある者たちは互いに言いました。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう」(17節)。

 イエス様が彼らを置いて遠くに行ってしまう。そんな予感が彼らの心に広がっていました。他の福音書を読みますと、主は既にあからさまに御自分の受難について語っておられました。誰も信じたくなかったに違いない。しかし、確かに危険が迫っていることは弟子たちも感じていたのです。本当に主は死んでしまうのか。では「またしばらくすると、わたしを見るようになる」とはどういう意味か。不安と混乱がさらに広がります。イエス様はそんな彼らがその意味を尋ねたがっていることを知っていました。そこで主は彼らにはっきりと言われたのです。「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ」(20節)。

 「悲嘆に暮れる」。その言葉が何を意味するかは弟子たちにも明らかでした。これは誰かが死んだ時に嘆き悲しむことを意味する言葉です。イエス様は御自分が殺されることになることを、ここでもはっきりと語っておられるのです。イエス様が死んでしまって、弟子たちは嘆き悲しむことになるだろう、と。

 しかし、主はさらにこう続けるのです。「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と。そして、悲しみが喜びに変わる様を出産に喩えてこう言われました。「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」(21節)。彼らが悲しむとしても、それは産みの苦しみと同じだというのです。産みの苦しみの先には喜びがある。同じように、弟子たちの悲しみの先にも喜びがある。いや、その悲しみがあるからこそ、その先に大きな喜びもあるのです。

 そのように、産みの苦しみについて語られた上で、主は言われます。「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」(22節)。福音書はこのイエス様の言葉が実現したことを伝えています。この直後にイエス様は捕らえられることになります。裁きにかけられます。鞭で打たれ、十字架にかけられます。主は十字架の上で息絶えてしまいました。弟子たちは深い悲しみに沈みます。しかし、それから三日目、週の初めの日の夕方、弟子たちが集まっていたところに復活された主が現れます。「弟子たちは、主を見て喜んだ」(20:20)と福音書は伝えます。主が言われたとおりになりました。

 しかし、「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」という先の言葉は、次のように続きます。「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」。となりますと、それは単に再会の喜びと考えることはできません。復活されたイエス様は、その後、天に帰られるのです。弟子たちはこの世に残ります。しかも、そこで起こってくるのは迫害です。イエス様が予告されたとおりです。彼らの大部分は殉教の死を遂げることになるのでしょう。それでも奪われない喜びについて語られたのです。永遠の喜びです。単なる再会の喜びではありません。では何なのか。そこで私たちはもう一度、先ほど読みました「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」という主の言葉について考えてみたいと思うのです。

再会の喜びではなく
 「あなたがたは悲しむ」と主は言われました。その悲しみは、先に述べましたように、イエス様が死んでしまうことによる悲しみです。イエス様を失う悲しみ、喪失の悲しみです。それはただ愛する人を失ったというだけではありません。イエス様こそ彼らの拠り所であり、彼らの未来であり、希望だったのです。あの弟子たちはイエス様と一緒に旅をしていた時、いつだって「誰が一番偉いか」と言って争っていた人たちです。しかし、イエス様が死んだ時、もはやそこには「誰が一番偉いか」と言って争う人はいなかったでしょう。当然です。そもそもこの世に生きることの意味そのものを失ってしまったのですから。イエス様が死んだ時、ある意味では彼らもまた死んだのです。残っているのは屍です。生ける屍として余生を送るしかないのです。

 いやそれだけではありません。すべてを失って生ける屍になっただけならまだよいのです。彼らにはとてつもなく重い罪責が残ったのです。彼らはイエス様を見捨てて逃げていくことになるのです。彼らが見捨てたイエス様が十字架にかけられて死んでいくことになるのです。彼らはイエス様を見捨てた人間として生きていかなくてはならないのです。イエス様を否んだ人間として生きていかなくてはならないのです。

 彼らはすべてを失うだけでなく、自分の罪を知った人として生きていくことになる。イエス様は分かっているのです。そのイエス様が言われたのです。「あなたがたは悲しむことになる」と。ですから、その悲しみとは単に喪失の悲しみではありません。そうではなくて、この自分という存在を悲しむ悲しみです。人間の負う最も深い悲しみです。

 しかし、その悲しみが喜びに変わると主は言われたのです。単なる再会によって、彼らの悲しみは喜びに変わると思いますか。ならないでしょう。皆さんだったらどうですか。自分が裏切って、見捨てて、否んで、見殺しにしてしまった人と、仮に再会できたとして、その再会は喜びになりますか。悲しみが喜びに変わりますか。なるはずがないでしょう。

 イエス様の復活は、弟子たちにとって単なる再会以上の出来事だったのです。それは何か。それは弟子たちにとって「赦し」だったのです。神の赦しそのものだったのです。あの日、週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて部屋に鍵をかけて閉じこもっていました。その弟子たちに復活されたイエス様は現れて、こう言われたのです。「あなたがたに平和があるように」(20:19)。断罪されて呪われても仕方ない彼らに対して、イエス様は「あなたがたに平和があるように」と言ってくださったのです。一言も責めることなく、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださったのです。

 イエス様は彼らにその手とわき腹をお見せになりました。手には釘の跡、わき腹には槍の跡がありました。それは確かに十字架にかけられたイエス様でした。私たちの罪のために死なれたイエス様でした。私たちの罪が赦されるために、代わりに死んでくださったイエス様でした。命を捨てるほどに愛してくださったイエス様でした。その御方が復活されたのです。弟子たちが喜んだのは、単に再会できたからではありません。そこに神の赦しがあったからです。だから悲しみは喜びに変わるのです。どんなに重い罪を負った悲しみであっても、喜びに変わるのです。

わたしの名によって願いなさい
 それは赦された人としてイエス様と共にある喜びです。赦された人として神と共にある喜びです。もう下を向いていなくてよいのです。顔を伏せていなくてよいのです。あのアダムとエヴァがしたように、園の木の間にかくれていなくてよいのです。顔を背けている必要はないのです。顔を上げることができる。イエス様がまっすぐに父なる神を見上げ、信頼の交わりに生きられたように、その交わりの中に私たちも身を置いて生きることができるのです。

 そのように神との交わりから来る喜びを、何ものも奪うことはできません。なぜなら誰も神を奪うことはできないからです。神の愛から私たちを引き離すことはできないからです。主は言われました。「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」。最終的には「死」さえも、その喜びを奪うことはできない。死によって神から引き離されることはないからです。

 そのように、イエス様が言っておられる喜びは神と共にある喜びです。ですから、主は続けて祈りについて話をされるのです。主は言われました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(23‐24節)。

 神様と共にある喜びをこの世において味わい知る具体的な場面は祈りの時です。御子なるイエス様がそのお働きをした時のように、父に願い、そして父が答えてくださって、神様の栄光が現れる。その喜びを私たちもまた味わうことができるのです。

 それはひとえに十字架にかかってくださったイエス様がよみがえられたからです。私たちが祈ることができるとするならば、それは十字架にかかられたイエス様の御名が与えられているからです。イエス様が「わたしの名によって願いなさい」と言ってくださったからです。

 イエス様の御名によって祈る祈りにおいて、私たちは喜びで満たされます。この世から得た喜びは人によって奪われるかもしれませんが、イエス様が与えてくださった喜び、神と共にある喜び、この世においては祈ることによって与えられる喜びが奪われることはありません。なぜなら人は全ての自由を奪われても、祈ることはできるからです。

 そして、その喜びは永遠です。死を越えた喜びです。やがて永遠の御国において、その全てを味わうことになるでしょう。その時、主が言われたことを本当の意味で理解することになるのでしょう。「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」と主が言われたその意味を。

2014年5月18日日曜日

「わたしにつながっていなさい」

2014年5月18日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 15章1節~11節


人を見ないで、イエス様を見なさい?
 私はキリスト者である両親のもとに生まれ育ちました。母の胎にいる時から教会に通っていたとも言えます。幼い頃から教会の中を走り回って育ちました。教会に集まる大人たちの姿を見て大きくなりました。そのような私が中学生から高校生になった頃、教会の人たちからしばしば聞かされた言葉がありました。「人を見てつまずいてはいけないよ。人を見ないで、イエス様を見なさい」。

 教会に行ったことのない人の中には、教会を天使のような人たちの集まりだと思っている人もいるようですが、教会の中を駆け回って育った子どもはそうは思っていません。中学生ぐらいになれば分かります。教会は必ずしも天使の集まりではない。むしろ天使から相当遠い人もけっこういたりする。分かっているのです。ですから教会の大人たちが口にする「人を見ないで、イエス様を見なさい」という言葉が大嫌いでした。どう聞いても言い訳にしか聞こえませんでしたから。「人を見てつまずいてはいけないよ」なんて言う前に、見られて大丈夫な人になるべきでしょう。「人を見ないで」なんて言わないで、まず皆さんが見られて大丈夫な人になってくださいよ。そんなことを心の中でつぶやいていたものです。

 それは生意気盛りな年頃の私が、自分自身いいかげんな生活をしていることを棚に上げて言っていたことなので、今考えるとお恥ずかしい限りなのですが、ある意味では正しいことを言っていたと思うのです。キリストを信じる信仰は生活において目に見える形を取るのであって、それを次の世代に見せることができることは大事なことなのです。パウロは言っています。「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」(フィリピ3:17)。少なくともパウロは「人を見てはいけないよ」などとは言いません。

 しかし、もう一方において「イエス様を見なさい」と言うこと自体は正しいことです。それは今日の福音書朗読からも分かります。イエス様は言われるのです。「わたしにつながっていなさい」(4節)。あくまでもイエス様につながっていることが大事なのです。他の何かではなくて、他の誰かではなくて、イエス様につながっていることが大事なのです。

内実が問われる時
 今日お読みしたのは、最後の晩餐におけるイエス様の言葉です。実は、最後の晩餐におけるイエス様の言葉は14章で一旦終わっているのです。「さあ、立て。ここから出かけよう」と言っていますから。にもかかわらず15章にはこの「ぶどうの木のたとえ」が続きます。この話はヨハネによる福音書にしか出てきません。話の流れとしては不自然ですけれど、ヨハネとしては、やはりどうしても書かずにはいられなかったのでしょう。イエス様につながることが、どれほど大事なことかを知るゆえに。

 ヨハネによる福音書は、四つの福音書の中では一番最後に書かれたものです。紀元一世紀も終わり頃に書かれたと言われます。つまり教会が誕生してから既に60年ほどの時を経ているのです。この間に、聖霊降臨から始まった教会の爆発的な伝道の働きによって、特にパウロによる三回の伝道旅行によって、ローマ帝国におけるかなり広い地域に福音が宣べ伝えられ、教会の基礎が据えられていきました。さらにこの間に、教会の秩序、職制なども次第に整えられていったことを新約聖書の多くの書簡から読み取ることができます。教会は確かに成長していきました。

 しかし、その一方で教会にはその初期から分裂や争いがありました。間違った教えによる混乱もありました。教会が誕生して60年も経てば、イエス様の直弟子たち、復活したイエス様にお会いした人たちのほとんどはもう生きてはいません。第一世代を失う中で教会の様々な営みにおける形骸化も起こってきたことでしょう。初期にはなかったような指導者たちの腐敗や堕落も起こってきたことでしょう。そしてさらに、そこには迫害もありました。ヨハネによる福音書が書かれた頃、キリスト教会はユダヤ教社会から完全に切り離されることになりました。それはユダヤ人の迫害の対象となることを意味しただけでなく、ローマの公認宗教であるユダヤ教界から追放されるということは、ローマ帝国の迫害の対象となることをも意味していました。教会は大きな試練に直面することになりました。教会は大きく揺さぶられることとなりました。そのような中で教会を去って行く人々も少なからずいたのです。

 そのように考えますと、ヨハネによる福音書が書かれた頃は、まさにキリスト者がキリスト者であることの内実を問われた時代でもあったと言えるでしょう。教会に集う人たちが、いったい何につながっているのか、いったい誰につながっているのかを問われる時代でもあったのです。だからこそヨハネは書いたのです。イエス様あの時、十字架にかかられる直前、最後の晩餐の席においてこう言われたではないか。「わたしにつながっていなさい」と。あくまでもイエス様につながっていることが大事なのです。他の何かではなくて、他の誰かではなくて、イエス様につながっていることが大事なのです。

主につながるために
 そこで私たちは改めて、これが最後の晩餐におけるイエス様の言葉であることを意識しなくてはなりません。最後の晩餐と言えば、すぐに思い起こされるのは聖餐式でしょう。聖餐式の時には、最後の晩餐においてイエス様がなさったことと語られたことがいつも読み上げられます。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(1コリント11:23‐26)。

 私たちの行っている聖餐式、さらには聖餐卓を中心において行っている礼拝は、この主の制定の言葉に基づいて行っているのです。代々の教会は、この主の言葉に基づいて、パンを裂き、杯を飲んできたのです。しかし、ヨハネによる福音書の最後の晩餐の部分を読んでみてください。このイエス様の言葉は書かれていないのです。代わりに何が書かれていますか。イエス様が弟子たちの足を洗った話です。そして、イエス様の長い説話です。

 イエス様が言われた「これはあなたがたのためのわたしの体である」という言葉は恐らく誰でも知っていた言葉なのです。しかし、ヨハネはここで、聖餐の起源となる言葉ではなく、いわばその意味を伝えようとしているのです。イエス様が語られた多くの言葉をもう一度書き記しながら、私たちが何のために集められているのかを再確認しようとしているのです。その中に今日お読みした言葉もあるのです。「わたしにつながっていなさい」と最後の晩餐の時に主は言われた。そのように、今、主は「わたしにつながっていなさい」と言って、主は聖餐卓のまわりに私たちを集めてくださるのです。主は「わたしにつながっていなさい」と言って、「主の死が告げ知らされる」場所に集めていてくださるのです。罪の赦しの十字架が語られる場所に集めていてくださるのです。

豊かな実を結ぶ
 「人を見てつまずいてはいけないよ。人を見ないで、イエス様を見なさい」。そのような言葉が言い訳として使われるならば確かにそれは間違いです。しかし、「人を見てつまずいてはいけないよ」という言葉そのものは間違ってはいません。人を見てつまずくのは、そこに信仰の実りが見られないと思えるからでしょう。しかし、実りを判断するのは私たちのすることではありません。イエス様は「わたしの父は農夫である」と言われます。実りを判断するのは農夫である父がすることです。他の枝に実が見られないからと言って、自分が幹から離れてしまうというのは、考えてみればおかしな話です。大事なことは他の人に信仰の実りを求めることではなくて、自分が実を結ぶことなのでしょう。

 ヨハネによる福音書が書かれた頃の教会はどうだったのでしょう。そこには混乱もあったでしょう。堕落も見られたことでしょう。つながっているように見えながら実を結ばない、形だけになった様々な営みもあったことでしょう。教会が様々な試練によって揺さぶられる時、教会から離れて行った人たちもあったことでしょう。しかし、それらすべてについて判断するのは農夫のすることです。自分の実りについてすら、判断するのは農夫のすることであって、私たち自身のすることではありません。主はただ「わたしにつながっていなさい」と主は言っておられるのです。そして、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(5節)と励ましていてくださるのです。

 私たちが考えなくてはならないのは他者の実りのことではありません。自分の実りのことですらありません。そうではなくて、つながっていることです。枝は自分で実を結ぶことはできないのですから。イエス様も言っておられます。「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」と。

 「わたしにつながっていなさい」。イエス様につながっていることをひたすら求めていったらよいのです。そのためにイエス様が集めてくださっている場所を大切にしたらよいのです。福音が語られている場所を大切にしたらよいのです。主が「これはわたしの体です」「これはわたしの血です」と言って分け与えてくださるパンと杯を大切にしてそれにあずかったらよいのです。実は命によって結ばれます。命が通うならば自ずと実は結ばれます。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」これが私たちに与えられている主の約束です。

2014年5月11日日曜日

「私たちに求められていること」

2014年5月11日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 13章31節~35節


今や、栄光を受けた
 今日の福音書朗読は、最後の晩餐の部屋からユダが出て行ったという場面です。その直前にはイエス様がユダにパン切れを渡して、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われたことが書かれていました(27節)。ユダがしようとしていたこと、それはイエスを裏切ってユダヤ人たちに引き渡すことでした。「この御方は私が裏切ろうとしていることを知っている」――ユダにははっきり分かったと思います。そう、ユダとイエス様だけが知っていた。他の弟子たちには何のことか分かりませんでした。「祭りに必要な物を買いなさい」と言われたのだと思った人がいました。貧しい人に何か施すようにと言われたのだと思った人もいました。ただユダとイエス様だけが知っていました。そして、ユダは出て行きました。

 そこでイエス様は言われたのです。「今や、人の子は栄光を受けた」。――いや、それはおかしいでしょう。イエス様はこう言うべきではありませんか。「今や、人の子は辱めを受けた」。信頼していた弟子に裏切られたのですから。ユダが出て行ったことで、ちょうど時限爆弾のスイッチが入れられたように、確実に十字架刑に向かって時計の針は動き始めていたのです。それゆえにまもなく自分が捕らえられ、鞭打たれ、十字架にかけられることも、イエス様には分かっていたのです。

 しかし、そこでイエス様は「今や、人の子は栄光を受けた」と言われたのです。いや、それだけではありません。「神も人の子によって栄光をお受けになった」というのです。神の遣わされた独り子が裏切られるならば、神御自身も侮辱を受けたことになるではありませんか。御子は人間によって有罪とされるのです。御子が人間によって鞭打たれてボロボロにされるのです。十字架につけられて殺されるのです。それは神御自身が人間によって辱めを受けることではありませんか。ユダが出て行った。今やそうなることが決定的になったのです。しかし、イエス様は言われたのです。「神も人の子によって栄光をお受けになった」と。

 いったい栄光とは何なのでしょう。イエス様が「栄光」と呼んでおられるものについては、少なくとも一つのことがはっきりしています。それは人間から何を受けるかということとは関係ないということです。この世から何を受けるかということとは全く関係ないということです。人間から裏切りを受けようが、侮辱を受けようが、どう扱われようが、全く関係ないということです。

 むしろイエス様が言われる「栄光」は、何を受けたかではなくて何を与えたかに関わっています。それは愛であり命です。イエス様は愛するために来られたのです。イエス様の命は愛のゆえに与えるための命だったのです。イエス様は後にこう言っています。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)。まさにその愛が実現する時、それが十字架にかかられる時なのです。だからそれは栄光の時なのです。なぜならそれは愛が全うされる時だからです。

 それは父なる神においてもそうなのです。神は独り子をこの世に遣わされました。それは神の愛のゆえでした。その愛は、一方において人間によって踏みにじられたと言えます。そうです、人間は神の愛を踏みにじったのです。しかし、それでも神は栄光を受けられたのです。神の愛の計画は全うされたからです。御子において全うされたからです。人間が侮辱しようが、十字架にかけて殺そうが、神の愛の業は全うされたのです。神の愛は貫かれたのです。御子によって御父が栄光を受けることを人間はいかなる仕方においても妨げることはできませんでした。御子によって神は栄光を受けられたのです。

 改めて思います。私たちが日頃「栄光」と呼んでいるものとはいったい何なのでしょう。人間が必死に求めてきた「栄光」とは何なのでしょう。十字架の時の到来において、イエス様は宣言されたのです。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と。それはこの世から何を受けるかということとは全く関係ありませんでした。誰からどういう扱いを受けようが全く関係ありませんでした。それはただ愛することのみと関わっていたのです。命を与えることのみと関わっていたのです。

互いに愛し合いなさい
 そして、そのように十字架へと向かわれる主がこう言われたのです。そのように愛を全うして父のもとに帰ろうとしている主がこう言われたのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34節)。

 本日の第一朗読でこのような言葉が読まれました。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」(レビ記19:18)。隣人を愛すること、それは古くから伝えられてきた主の命令です。しかし、主は弟子たちに「新しい掟」を与えられます。その新しさとは、キリストがしてくださったことによる新しさです。神が御子を通して実現してくださったことによる新しさです。すなわち、既に見てきたように、御子を通して神が御自身の愛を完全に現してくださったということです。

 主はもはや「自分自身を愛するように」とは言われません。「わたしがあなたがたを愛したように」と言われます。主が言っておられるのは十字架の愛です。命を捨てる愛です。しかし、ここである変換が起こっています。主は「わたしが命を捨てたように、互いに命を捨てなさい」という意味で言っておられるのではないのです。原文では「わたしがあなたがたを愛したように」とは一回限り決定的に起こったこととして表現されています。それに対して、「互いに愛し合いなさい」は継続的なこととして表現されているのです。

 イエス様が私たちを愛してくださいました。それは一回限りの決定的な出来事として起こりました。私たちの罪の贖いのために命を捨ててくださいました。そのように愛しなさいと言われます。しかし、私たちはイエス様が命を捨てたのと同じ意味において命を捨てることはできません。私たちはいかなる意味においても誰か他の人の罪の贖いとして自分の命を差し出すことはできません。イエス様は命を捨ててくださいました。その事実を私たちの内において変換しなくてはなりません。ただ一度決定的な仕方で起こったことを、私たちの毎日の事柄に、継続的な事柄に変換しなくてはなりません。私たちは命の捨て方ではなくて、命の用い方、日々繰り返される命の与え方を見出さねばならないのです。

 そのように「互いに愛し合いなさい」と主は言われます。「互いに」という言葉は、自分以外に誰か少なくとも一人共に存在していることを前提としています。自分一人では「互いに」は成り立ちません。誰かが他にいるということです。その他にいる「誰か」は何のためにそこに存在しているのでしょう。私たちは往々にして他にいる「誰か」を見る時に、何かを求める対象としてしか見ていません。自分に与えてくれる人。自分を愛してくれる人。自分を守ってくれる人。自分を幸せにしてくれる人。親にしても、子どもにしても、夫にしても、妻にしても、友人にしても、コンビニの店員にしても、私たちは誰かがそこにいるならば、何らかの要求をもってその人を見ているものです。「わたしの望んでいるもの、与えてよ。わたしの願っているようにしてよ」。そして、しばしば要求が満たされない。欲しいものが与えられない。すると腹が立つ。怒りが起こる。そうやって争いが起こります。そうしている限り「互いに愛し合う」ということは起こりません。

 自分の他に誰かがいる。その「誰か」は何のためにそこに存在しているのでしょう。私たちが何かを要求するためではなく、私たちが愛することができるようにと、神はその人を共に置かれたのです。私たちが命を与えることができるように、神はその「誰か」を与えてくださったのです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」というイエス様の言葉が実現するために、「互い」が存在しているのです。

 そして、既にお気づきのことと思いますが、この「互いに」が第一に意味しているのは、親子でもなければ、友人関係でもなければ、店員さんと客との関係でもありません。それは教会です。主は言われました。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(35節)。牧師と信徒との関係においても、信徒同志の関係においても、教会の「お互い」をただ要求の対象としか見ていないならば、そこからは欲求不満と怒りと争いしか生まれてきません。そのようにしている限り「互いに愛し合う」ということは起こらないでしょう。

 弟子たちはイエス様によって集められました。そのようにして、彼らは互いのために命を与える機会を与えられたのです。互いを愛する機会を与えられたのです。仕える機会を与えられたのです。時には赦しを与えなくてはならない。そのような機会を与えられたのです。イエス様はあえて互いに異なる人々を集められました。そこには漁師もいれば徴税人もいれば熱心党出身者もいたのです。お互いが違えば違うほど、与える機会は多くなります。仕える機会も多くなります。赦し合う機会も多くなるでしょう。そのようにして命を与える機会は多くなるのです。そのように弟子たちはイエス様のもとに集められました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という言葉が目に見える形で実現するためでした。

 そのように私たちもここに集められております。主は私たちにも言われます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」そして、さらに言われます。「 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。これが私たちに求められていることです。

2014年5月4日日曜日

「命を捨てるほどの愛」

2014年5月4日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 10章7節~18節


羊を知っている羊飼い
 イエス様は言われます。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる」(14‐15節)。

 イエス様がなぜこのようなことを言われたのか。それはもう一方に羊飼いならぬ「盗人」がいるからです。「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」(10節)。この「盗人」が何を指すのかは定かではありません。偽メシアと考える人もいますし、ユダヤの権力者を考える人もいます。いずれにせよ、それは羊を滅ぼそうとする力です。そのように、人を苦しめ、神から引き離し、滅ぼそうとする力は形を変えて常にこの世界に働いています。そのような中に羊である信仰者は生きているのです。

 羊であるということは無力だということでもあります。だから不安や恐れを覚えざるを得ない。実際に私たち自身もそうでしょう。何か大きな力が働いたら、大きな苦しみが襲ったら、あるいは大きな力による迫害にあったら、自分は簡単に神から引き離されてしまうのではないか。自分の信仰など簡単に失われてしまうのではないか、と。しかし、そのような私たちに主は言われるのです。「わたしは良い羊飼いである」。

 「良い羊飼」。それは羊を知っている羊飼いです。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(14節)。

 羊飼いは羊と共に生活をしていました。羊の一匹一匹に名前をつけて養っていたと言います。今日の朗読箇所には入っていませんでしたが、3節には「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と書かれています。私たちから見ると羊は皆同じように見えますが、羊飼いは羊の一匹一匹を見分けることができるのです。羊飼いにとって羊たちは、あくまでも単なる《羊の群れ》ではなく、一匹の羊が他の羊の代わりには絶対になれない、それぞれかけがえのない羊なのです。

 イエス様が、「わたしは良い羊飼いである」と言われたとき、念頭に置いておられたのは、そのような羊飼いと羊の関係です。羊飼いが羊を知っていると言う場合、それは羊について知っているという意味ではありません。個々の羊を知っているということです。イエス様は、私を知っておられ、あなたを知っておられるのです。

 実際、イエス様と弟子たちの物語は、イエス様の言葉が真実であることを証しています。確かにイエス様は彼らのことを知っておられました。彼らの内側に潜んでいる弱さや罪深さまでも知っていました。弟子たちが自分を知る以上に、イエス様の方が彼らのことを知っていました。やがて弟子たちが御自分を見捨てて逃げ去っていくことまでイエス様は知っていました。ペトロが御自分を三度否むであろうことまでも知っておられました。ペトロも弟子たちも、自分で自分のことが分かっていませんでした。しかし、弟子たちはやがて、イエス様に《知られていたこと》を知ることになるのです。

 「わたしは良い羊飼いである」と主は言われます。主は羊飼いとして、私たちを知っていてくださいます。主に背いてきた私たちの罪も、私たちが決して外に現そうとしない、内に秘められた弱さも、主は知っておられます。

羊のために命を捨てる羊飼い
 そのように御自分の羊を知り尽くした上で、主はさらに言われるのです。「わたしは羊のために命を捨てる」と。「良い羊飼い」は羊を知っているだけでなく、羊のために命を捨てる羊飼いです。

 羊飼いが羊を守るために命を捨てるとするならば、それは羊を愛しているからです。羊が自分の命よりも大事だからです。「わたしは良い羊のために命を捨てる」と言っているのではありません。良いのは羊飼いであって羊ではありません。イエス様は、やがて御自分を見捨てて逃げていくような、そんな弟子たちを前にして、この言葉を語られたのです。「わたしは羊のために命を捨てる」と。

 「あなたは私の命よりも大事だ」と本気で言ってくれる人が一人でもいますでしょうか。もしかしたら、いるかもしれません。いたらそれは幸せな人です。しかし、人間の愛にはやはり限界があります。あなたのすべてを知り尽くした上で、あなたが内に秘めている弱さも、表には現われていない諸々の罪も、すべてを知り尽くした上で、なお「あなたは私の命よりも大事だ」と本気で言ってくれる人となると、どうでしょう。自分のことを考えると、「それはありえないだろう」と言わざるを得ない。

 しかし、イエス様はそのあり得ないようなことを語っておられるのです。やがて弟子たちは知ることになるのです。十字架にかけられたイエス様を目の当たりにして、一つの事実を知ることになるのです。あの御方は、私たちの弱さをご存知だった。私たちがあの御方を見捨てて逃げ去ることもご存知だった。結局は我が身のことしか考えない者であることもご存知だった。しかし、そんな私たちのためにあの御方は命を捨ててくださった。「わたしの羊たちよ、お前たちはわたしの命より大事なのだ」と、あの御方は本気でそう言っておられたのだ、と。

 そのことが、ヨハネの手紙にはこう表現されています。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」(1ヨハネ3:16)。そこまで愛してくださった方が、復活して、今も生きておられて、永遠に良き羊飼いでいてくださる。世々の教会はそのことを信じ、宣べ伝えてきたのです。だから今日もなお、この言葉が礼拝の中で朗読されているのです。

 イエス様は、私たちを知っていてくださいます。ここにいる私たち一人ひとりを、その弱さも、その罪も、何もかも知り尽くしておられます。その御方はまた、私たちの罪を贖うために、私たちを救うために命を捨ててくださった御方です。その御方が、今日も私たちに言っておられます。「わたしは良い羊飼いである」と。

 ならばもはや恐れる必要はありません。弱い羊であっても恐れる必要はありません。人を苦しめ、神から引き離し、滅ぼそうとする力が形を変えて常にこの世界に働いていたとしても恐れる必要はありません。良い羊飼いがいてくださるからです。

囲いの外に向かう羊飼い
 そして、私たちはその「良い羊飼い」がさらにこのように言われるのを耳にします。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(16節)

 イエス様は、既に集められている羊の群れだけでなく、囲いの外の広い世界のことを考えておられます。主はまだ囲いに入っていないほかの羊のことを考えておられます。主は「その羊をも導かなければならない」と言われるのです。それゆえに、羊飼いは囲いの外の羊を求めて出て行かれます。御自分の羊を捜し求めて出て行かれます。羊飼いは羊を呼び求めて声を上げます。そして、羊はその声を聞き分けて、羊飼いのもとに集まってくるのです。

 それがこの二千年間、世界の歴史の中に起こってきたことでした。羊飼いであるイエス様の声が、今や全世界に響き渡っているのです。そして、羊の群れは全世界に広がる群れとなりました。だからこの国にも教会があるのです。だから私たちも今ここにいるのです。

 考えてみてください。私たちはもともと囲いの外にいた羊でした。囲いの外をさまよっていた者でした。しかし、私たちの耳に、キリストの呼び声が届いたのです。私たちを捜し求めるキリストの呼び声が聞こえてきました。皆さんは、御自分の意志で教会に足を運んだと思っておられるかもしれません。御自分の決断によって求道し、洗礼を受けたと思っておられるかもしれません。しかし、それは伝えてくれた誰かがいたから実現したことなのです。すなわち、その前にキリストが私たちを呼び続けておられたのです。この日本にも、キリストの呼び声が響き渡っていたのです。そして、その声を耳にした時、私たちの魂がその声を聞き分けたのです。懐かしい声、私を愛してくださる御方の声、良き羊飼いの声――その声を聞いて、その声に導かれて、私たちは羊飼いのもとにやって来たのです。

 そのような私たちにイエス様は言ってくださいました。「あなたは囲いの中にいなかったけれど、あなたは確かに私の羊です。私はあなたを知っています。あなたのすべてを知っています。そして、私はあなたのために命を捨てました。私はあなたに永遠の命を与えます。あなたは決して滅びない。だれもあなたをわたしの手から奪うことはできません」と。だから、私たちはイエス様のもとにあって、イエス様の羊として主と共に永遠に生きるのです。

 そして、イエス様は私たちにも改めてこう言われるのです。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」。私たちは、そのようなイエス様の後に従うのです。今度は私たちがこの世にあって、羊飼いの呼び声になるのです。私たちが伝道するとはそういうことです。羊飼いの呼び声になるのです。また誰かが、良い羊飼いの声を聞き分けて、羊飼いのもとに来るためです。「こうして羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(16節)のです。

2014年4月27日日曜日

「あなたは宝を宿す土の器です」

2014年4月27日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章7節~18節


宝を宿す土の器
 私たちは宝を内に宿す土の器です。本日の第二朗読において次のような言葉が読まれました。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」(7節)。

 わたしたちは「土の器」です。それが意味するのは弱さであり脆さです。最終的には壊れてしまう。それが土の器です。土の器であることを意識するのは、特に苦しみの中に置かれた時でしょう。困難の中に置かれた時です。強さを要求される時です。強さを要求される時、人はまた自らの弱さや脆さをも知ることになります。

 しかし、単なる土の器ではありません。宝を内に宿す土の器です。宝とは何か。イエス・キリストです。この直前にパウロはこう言っています。「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」(5節)。宣べ伝えるパウロ自身は土の器です。彼はそのことを良く知っているのです。しかし、彼は宝を内に持っています。宣べ伝えられるのは器ではなく宝の方です。それはイエス・キリストです。

 先週、私たちは復活祭を共に祝いました。そこにおいて読まれたのは、主が十字架につけられて三日目の朝の出来事を伝える聖書箇所でした。あの朝、三人の婦人たちが墓に向かいました。イエスの遺体に香油を塗るためでした。しかし、墓に着いた時、墓を塞ぐ石は取りのけられていました。そして、中にいた白い衣を着た若者がこう言いました。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」(マルコ16:6)。

 「十字架につけられたナザレのイエス」。その御方は、私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださったキリストです。私たちの罪が赦されるために、贖いの犠牲として死んでくださったキリストです。その御方が復活なさったのです。「あの方は復活なさって、ここにはおられない」。あの方は墓の中にはおられない。復活して永遠に生きておられる救い主です。その御方こそ、今日に至るまで宣べ伝えられてきたイエス・キリストです。「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」とパウロが言っていたイエス・キリストです。

 しかし、イエス・キリストが宣べ伝えられるということは、ただキリストについての知識が伝えられるということではありません。私たちは、あの御方が私たちに代わって十字架についてくださったという知識を内に宿すだけではありません。聖霊のお働きによって復活されたイエス・キリスト御自身が宿ってくださるのです。パウロは別の手紙で次のように語っています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。今日の朗読箇所においても「イエスの命がこの体に現れる」「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れる」という表現が出てきます。

 私たちが単にキリストについての知識を持つだけならば、教会はキリストについての知識を与える学校のようなものでしかありません。しかし、教会は聖霊降臨によって誕生したのです。私たちの内には神の霊が生きて働いておられるのです。聖霊のお働きによってキリストが私たちに宿ってくださるのです。そして、キリストが私たちのこの体を通して生きて働かれるのです。教会という共同体を通してキリストが働かれるのです。それゆえに私たちは「キリストの体」とも呼ばれているのです。

 その私たち自身は土の器です。先ほど申しましたように、土の器であることを意識するのは、特に苦しみの中に置かれた時です。困難の中に置かれた時です。しかし、そこで私たちは自分の弱さや脆さに意識を留めてはならないのです。自分が土の器であることに目を向け続けていてはならないのです。キリストという宝が土の器に宿ってくださるのは何のためなのか。4章7節をもう一度お読みします。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」。

 そうです。それは「並外れて偉大な力が神のもの」であることが明らかになるためなのです。私たちから出たのではないことが明らかになるためなのです。キリストが私たちの内に、私たちを通して働かれます。それは神の力によるのです。私たちの人生は、私たちを通してキリストが働かれる舞台となるのです。神の並外れて偉大な力が現れるための舞台となるのです。

 ならば私たちは、自分の弱さや脆さから目を転じなくてはなりません。土の器のあちらこちらが欠け始めて、壊れつつある現実にばかり目を向けていてはなりません。そこから目を転じなくてはなりません。私たちを通して働かれる神の並外れて偉大な力に、期待の目を向けなくてはならないのです。

イエスの命が現れるために
 その意味において、ここにパウロ自身の経験が記されていることは、私たちが期待の目を神の御業に向けるための大きな助けとなります。彼は言います。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(4:8)。

 伝道者として彼がどれほどの苦難に遭ってきたか。それは恐らく私たちの想像を絶するものでしょう。「四方から苦しめられても」と彼は言います。この手紙の後の方で彼は次のように書いています。「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(11:24‐27)。しかし、彼は行き詰まることはありませんでした。

 それだけではありません。「途方に暮れても」と彼は言います。先ほど引用した聖書箇所はこう続きます。「このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」(同28‐29節)。外側からの迫害だけではありません。教会内の混乱。だれかが弱っている時に助ける術が見つからず、一緒に弱るしかないもどかしさ。途方に暮れざるを得ないことはいくらでもあったに違いない。しかし、かれは望みを失うことはなかったのです。

 それはなぜか。土の器に宝を宿しているからです。キリストが生きておられるからです。ならばイエスの命が現れてくるのです。苦しみが深くなり、キリストの十字架の苦しみ、そして死と一つになればなるほど、復活の命も現れてくるのです。それをパウロは次のように書いています。「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」(10‐11節)。

 そしてパウロはこれを自分一人の特殊な体験として語っているのではありません。あくまでも「わたしたち」と彼は語ります。それは同労の伝道者たちを念頭に置いてとも言えますし、さらには同じように土の器に宝を宿している人すべてに共通することであるとも言えます。キリストがおられるならば、その復活の命は神の偉大な力として現れてくるのです。そこでは「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」ということが起こってくるのです。

 もちろん、私たちが置かれている状況はパウロの置かれている状況とは異なります。しかし、私たちは私たちとして「四方から苦しめられる」ということもあるのでしょう。「途方に暮れる」こともあるのでしょう。「虐げられる」ことも「打ち倒される」こともあるのでしょう。しかし、その時こそ私たちはイエスの命が、復活の命が、豊かに現れることを期待すべきなのでしょう。私たちは行き詰まることはありません。望みを失うことはありません。見捨てられることはありません。滅びることはありません。それはイエスの命が豊かに現れる時に他ならないのです。

 そして、最後にもう一つのことに目を向けましょう。続くパウロの言葉は非常に興味深いものです。11節から続けてお読みします。「わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります」(11‐12節)。

 先ほど、「その時こそ私たちはイエスの命が、復活の命が、豊かに現れることを期待すべき」と言いました。しかし、イエスの命が現れるのは、それはただ私たち自身のためではありません。「わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります」とパウロは言うのです。イエスの命が現れるのは、「あなたがた」すなわち他の人のために命が働くためなのです。私たちの信仰生活は他の人のためにあるのです。他の人にイエスの命が働くためなのです。

 ですから、パウロは土の器に宿した宝をただ自分の内に留めてはおかないのです。パウロが言っていた言葉を思い起こしてください。「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」(5節)。これはただパウロなどの伝道者だけの話ではありません。土の器に宝を宿す全ての人に言えることです。

 「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになる」のは特にどのような時なのでしょう。イエスの命が他の人に働くのを見るのはどのような時なのでしょう。それは福音を伝える時ではありませんか。土の器に過ぎない私たちが、他の人の救いのために用いられる時ではありませんか。

 私たちはその意味においても、土の器である私たちを通して神の御業が現れることを期待しましょう。イエスの命が現れて生き生きと働かれることを期待しようではありませんか。私たちは宝を宿す土の器なのですから。

2014年4月20日日曜日

「新しい命に生きるため」

2014年4月20日  イースター礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 16章1節~8節

    ローマの信徒への手紙 6章3節~11節

あの方はここにはおられない
 「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」(6節)。イエス様が葬られているはずの墓に向かった婦人たちが、そこで耳にした言葉です。

 「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが…」。そうです。そのとおりです。彼女たちが求めていたのは、「十字架につけられたナザレのイエス」でした。遺体として墓に納められているはずのナザレのイエスでした。彼女たちは、死んだイエスに会うために墓に来たのです。彼女たちの手にあったのは香料と香油でした。それは十字架につけられて死んでしまったイエスの遺体に塗るためのものでした。

 イエス様が処刑された日は金曜日でした。翌日は土曜日、すなわちユダヤ人の安息日です。なんとか安息日に入る前に埋葬を済ませておかなくてはなりません。ユダヤ人の一日は日没と共に始まります。イエス様の埋葬は急を要しました。アリマタヤ出身の議員であったヨセフという人が遺体の引き取りを願い出て、岩に掘られた墓に主の遺体を葬ることになりました。しかし、時間切れです。とりあえず亜麻布を買って遺体を包み、墓に納めるところまでは済ませませしたが、香油や香料を塗る時間はありませんでした。マグダラのマリアとヨセの母マリアは心を痛め、安息日が明けたら香油を塗って遺体の処置をしたいと願って遺体が納められた墓を見つめていたのです。

 日曜日の朝、墓に向かっていた彼女たちは生前のイエスを思い起こしていたことでしょう。あの御方の語られた言葉。あの御方のなされた愛の業。あの御方は死んで過去の人になってしまったけれど、その生き様と教えとは今も心の中に生きている。あの御方は過去の人になってしまったけれども、これからもその教えに従って生きていきましょう。そのような決意を胸に墓に向かったのかもしれません。これからもあの方が納められている墓を度々訪れましょう。そこであの方のことを思い起こし、その教えを決して忘れないようにしましょう、と。

 しかし、あの婦人たちが墓に着いた時、そこに遺体となったイエス様はいなかったのです。過去の人となったナザレのイエスはいなかったのです。そこで彼女たちが聞いたのはこのような言葉だったのです。「あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」。あの方はここにはおられない。墓の中にはおられない。死者の中にはおられない。そこから歩み出してしまった。復活したイエス・キリストは死の扉を打ち破って永遠に生きておられる。これが今日お読みした福音書が伝えていることです。

 ですから、教会は決してイエスを過去の人のひとりとして伝えてこなかったのです。今日、はじめて教会に来られた方もあるかもしれません。教会へようこそ!せっかくですからどうぞ心に留めてください。教会はイエス・キリストについて、「あの方は死んだけれどもその教えは今も生きている」というようには伝えてこなかったのです。そうではなくて、「主はよみがえられた」「イエスは生きておられる」と伝えてきたのです。

 キリスト教の歴史における最古の信仰告白の言葉は「イエスは主である」(1コリント12:3)だと言われます。「イエスは主であった」ではないのです。あくまでも「イエスは主である」。現在の主として伝えてきたのです。実際、教会の祭りとしてはクリスマスが良く知られていますが、クリスマスよりも復活を祝う「復活祭」の方がずっと古いのです。そもそも日曜日に礼拝を行うのは、それがキリスト復活の日だからです。日曜日には、過去の人イエスではなくて、復活して永遠に生きておられるイエス・キリストを思ってここに集まっているのです。

私たちが新しい命に生きるため
 「あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」。そのようにあの御方は過去の人ではなく現在の主です。今ここにいる私たちを愛し、私たちを救ってくださる御方です。私たちが今ここに座っているということは、既に復活の主が私たちの人生に関わっていてくださるということでもあるのです。

 しかし、復活されたキリストを最も鮮やかに指し示しているのは、この後に行われる「洗礼式」であり「聖餐式」です。特に洗礼式については、今日の第二朗読において次のように語られていました。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(3‐4節)。

 この言葉などは、それこそキリストは生きておられるという信仰なくしてまったく意味をなさないでしょう。洗礼は何を意味しているのか。「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち」と聖書は表現しているのです。洗礼は単なる形式的な儀式ではありません。もしそうならば遠の昔に失われてしまっていることでしょう。しかし実際には、教会は洗礼を二千年の長きに渡り、時には多くの殉教者の血が流される中、命がけで行い続けてきたのです。何のために。何のために人々は洗礼を受けてきたのでしょう。「キリスト・イエスに結ばれるため」。復活して生きておられる救い主と結ばれるためなのです。

 少し細かいことを申し上げます。「キリスト・イエスに結ばれるため」と書かれていますが、この翻訳は事柄の一面を表しているに過ぎません。原文では「キリスト・イエスの中へ」と書かれているのです。「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」は、直訳するなら「キリスト・イエスの《中へ》バプテスマされた」となります。変な日本語です。しかし、この方がイメージとしては思い描きやすいかもしれません。「キリスト・イエスに結ばれる」のですが、それは「キリスト・イエスの中へ」という形でキリストに結ばれるのです。「キリスト・イエスの中へ」。そのように自分自身をいわばキリストの中に投げ込んで沈めてしまう。そのように自分自身を完全にキリストにゆだねてしまう。それがキリスト・イエスを信じる信仰です。その目に見える出来事が洗礼なのです。

 自分自身を投げ込んで完全にゆだねてしまえる。考えてみれば、それは何よりもありがたいことです。それはそうでしょう。世の中にやっかいなものは数あれど、一番やっかいなのは他ならぬ自分自身ですから。幼い子どもならいざしらず、ある程度長く生きていれば、自分が決して正しい人間でないことは分かります。自分の汚さや醜さに嫌気がさすこともあるでしょう。正しく生きようと思う人ならなおさら正しく生き得ない自分自身であることは骨身に染みて分かるものです。一生の間には幾度もそんな自分を葬ってしまいたいと思うこともあるのでしょう。

 しかし、そんな自分を丸ごとゆだねることのできる御方がいてくださる。そんな自分を丸ごと受け取ってくださる御方がいてくださる。それがイエス・キリストなのです。イエス・キリストについて、あの婦人たちが聞いた言葉はこうでした。「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」。私たちが、やっかいな自分自身を安心してゆだねることができるのは、その御方が「十字架につけられたナザレのイエス」であるからです。その御方は、私たちの罪を贖うために十字架で死んでくださったキリストです。私たちの罪を代わりに背負って死んでくださったキリストです。私たちに苦しみの源が他ならぬ私たち自身であり、私たちの罪であるならば、その私たち自身をゆだねることができるのはこの御方以外にはありません。

 このイエス・キリストの中において、イエス・キリストに起こったことが私たち自身にも起こるのです。すなわち、イエス・キリストが死んで葬られたように、私たちもまた葬られるのです。葬ってしまいたかった私たち自身の葬りが起こるのです。その意味で洗礼式は目に見ることのできる葬りの式でもあります。もちろん、葬りで終わりではありません。そこから新しく始まるのです。キリストが葬りで終わらなかったようにです。そこから新しい命に生き始める。その意味で洗礼式は目に見える復活の式であり新しい誕生の式でもあります。

 ですから、そこから新しい生活が始まります。「信仰生活」と呼ばれる新しい生活が始まります。キリストと共に生きる新しい生活が始まります。そのキリストは過去の人ではありません。教えだけが今も生きているというのではありません。「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」。その御方と共に生きる生活がここにあります。日曜日には、過去の人イエスではなくて、復活して永遠に生きておられるイエス・キリストを思って私たちはここに集まっているのです。今、私たちがここに身を置いているのは、新しい生活の具体的な一齣に他ならないのです。

2014年4月6日日曜日

「何のための人生ですか」

2014年4月6日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 10章35節~45節


人の子は仕えるために来た
 今日の福音書朗読においてイエス様は御自分についてこう言っておられます。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(45節)。

 「人の子」すなわちメシアであるイエス様ご自身は何のためにこの世に「来た」のか。何のためにこの世に生まれ、何のためにこの世に生きているのか。それは「仕えるため」だと主は言われました。それは言い換えるならば、「命を献げるため(与えるため)」だと言うのです。この「命」は「永遠の命」と言う時には使われない言葉です。「魂」とも訳されますが、この世の命のことです。イエス様にとって「仕える」ということはこの世の命を与えることに他なりませんでした。

 今日の礼拝説教には「何のための人生ですか」という題を付けました。皆さんならば何と答えますか。「何のための人生ですか」。イエス様に問うならば、御自分についてこう答えられることでしょう。「仕えるための人生です。与えるための命です」と。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。

 イエス様の仕え方。イエス様の命の与え方。それはイエス様に固有の事柄であって、全ての人に共通のことではありません。イエス様の仕え方。主はそれを「多くの人の身代金として自分の命を献げる(与える)」と表現しました。「身代金」は解放するために払うお金です。言い換えるならば、その人を買い戻すための代価です。

 「身代金」といいますと誘拐された人の解放を思い浮かべてしまいますが、旧約聖書に出て来るのは、例えば貧しさのゆえに身売りした人を血縁の者が買い戻すために支払う買い戻し金です。その人を買い戻すということは、その人が負っている負債を代わりに支払うということでもあります。他の訳では「あがない」あるいは「贖いの代価」などと訳されています。イエス様の仕え方。それは多くの人の負債を代わりに支払うための代価として自分の命を与えるということでした。

 「多くの人」というのはユダヤ人の表現の仕方で「すべての人」という意味です。全ての人の負債。全ての人の負い目。それは罪の負い目に他なりません。私たち全ての人が負っている罪の負い目。その全てを代わりに支払うために命を与えるということは、全ての人の罪を代わりに負って苦しみを受け、十字架の上で死なれることを意味しました。イエス様はそのためにエルサレムに向かっておられたのです。主は今日の聖書箇所の直前においてもこう言っておられます。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」(33‐34節)。それがイエス様の仕え方、イエス様の命の与え方でした。

 それはあくまでもイエス様に固有の事柄です。私たちはイエス様と同じように罪の贖いとして自分の命を与えることはできません。私たち自身が罪人ですから。自分自身の罪をさえ贖うことはできませんから。私たちはキリストではありません。しかし、「仕える」という点においては同じです。この「仕える」ということに関して、主はあえて自分自身を指し示して語られたのです。

 主は一同を呼び寄せてこう言われました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(42‐44節)。キリストと同じではありませんが、私たちには私たちの「仕え方」があるのです。「命の与え方」があるのです。何のための人生ですか。仕えるための人生です。与えるための命です。

あなたがたの間では
 しかし、ここでイエス様が「あなたがたの間では」と言い、「あなたがたの中で」と語っておられることは重要です。主は一般論を語っておられるのではなくて、具体的な「あなたがた」ついて語っておられるのです。その「あなたがた」はどのような人たちだったのでしょう。

 今日の聖書箇所は、その「あなたがた」がどのような人たちだったかを大変よく表している一つの出来事を伝えています。事の発端は次のとおりです。「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると、二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください』」(35‐37節)。

 「栄光をお受けになるとき」とは直訳すると「あなたの栄光の中で」と書かれているのですが、具体的にはイエス様が王となることを指しています。彼らはやがてイエスが王となることを確信していました。だから「一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」という願いが出て来るのです。弟子たちが、そう考えたのも無理はありません。それまでに数々の奇跡を目の当たりにしてきましたから。とてつもない神の力がこの御方を通して現実に働くことを目撃してきたのです。しかも、この御方の周りに集まってくる人たちは数千人規模に膨れあがっていたのです。しかもイエス様はエルサレムに向かっておられる。待ち望んでいたことがついに実現するのだ!彼らの期待はいよいよ膨らみます。

 その期待の中でゼベダイの子ヤコブとヨハネが抜け駆けをしたのです。ヤコブとヨハネ。兄弟で王座の左右を占めることを彼らは望んだ。いや、望んだだけでなくそれを口にしたのです。直接イエス様に対して。しかも、他の弟子たちの前で。考えてみれば不思議な光景です。普通抜け駆けに関することは裏で話すのであって、表だって話はしないでしょう。しかし、ここで彼らはあえてそれをしているのです。そこに彼らの意識がよく現れています。彼らは自分たちの望みがそれなりの妥当性を持っていると確信しているのです。

 そう思わせる根拠はありました。ヤイロの娘を生き返らせた時、そこに伴うことが許されたのはペトロとヤコブとヨハネの三人だけでした(5:37)。イエス様が高い山に連れて行って御自身の姿の変容をお見せになったのもこの三人でした(9:2)。この二人が他の弟子たちと自分たちを比べてある種の優越意識を持っていたとしても不思議ではありません。あるいはこの三人の中においても互いの比較があったとも言えるでしょう。その中でペトロを出し抜くために兄弟二人が手を組んだのですから。

 このような彼らに対して、「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」(41節)と書かれています。そう怒ったのです。それは単に出し抜かれたことに対する怒りではありません。明らかにヤコブとヨハネが自分たちの優位を当然として語ったことに対する怒りです。それは自分たちが下に見られたことに対する怒りとも言えます。そのように怒るのは、彼らもまた同じように他者と自分を比較しながら生きているからです。実際、前の章にも「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」(9:34)と書かれています。皆同じです。これがイエス様の弟子たちです。そのような姿は私たちにも覚えがあります。人を見下してみたり、人をねたんでみたり、高く見られて喜んでみたり、低く見られて腹を立てたり、それがイエス様の言っていた「あなたがた」です。

 そしてさらに考えるならば、互いの比較が起こり、優劣や上下関係が問題となるのは、そこに多様性があるからです。異なるから比較が起こるのです。ものの見方や感じ方、考え方が異なって、時として対立が生じるからこそ、そこで優劣や上下が問題になるのです。そこで「だれがいちばん偉いか」ということが議論になるのです。対立がある時には、相手を従わせたくなるからです。違いが対立を生む時には、相手を同化したくなるからです。

 確かに弟子たちの集団は雑多な人々の集まりでした。そこには漁師もいれば元徴税人もいれば、元熱心党員の者もいたのです。どう考えても一色ではありません。それは後の教会においても同じです。そこにはユダヤ人がおりギリシア人がいる。奴隷がいれば自由な身分の者もいる。男もいれば女もいるのです。それはこの世界全体の縮図であるとも言えます。それがイエス様の言っていた「あなたがた」なのです。

仕え方を探し求める
 その「あなたがた」に対してイエス様は言われたのです。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(43‐44節)。異なる者が共にいるならば、そこには常に分裂へと向かう力が働きます。そこで互いを比較し、優劣を競い合い、それぞれが上に立というとするならば、互いを支配して同化しようとするならば、分裂に至らざるを得ないでしょう。

 しかし、本来、異なる者には異なる「仕え方」があるのです。異なる者には異なる「命の与え方」があるのです。異なる者がお互いに比較するのではなく、優劣を競うのではなく、支配しようとするのではなく、それぞれが自分たちの「仕え方」を探し求めるならば結果は違ってくるのでしょう。「命の与え方」を見つけ出すならば、結果は違ってくるではありませんか。そこでは異なる者たちが対立していた者たちが一つとなれるのでしょう。

 もちろん、そんなことはきれい事だと言う人もいるでしょう。現実離れした理想論、子どもじみたナイーブな思想だと。しかし、私たちは忘れてはなりません。先に見たように、イエス様は御自分を指し示してこれを語られたのです。いわば十字架を指し示して語っておられるのです。十字架の上で血みどろになって自分の命を注ぎだしている姿、そうやって仕える姿を指し示して語っておられるのです。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と。それはきれい事ですよ、あまりにナイーブですよ、と言いたいなら、主の十字架の前で言わなくてはなりません。言えますか。


 何のための人生ですか。仕えるための人生です。与えるための命です。「仕え方」を探し出すこと、「命の与え方」を見つけ出すことこそが人生の課題です。ユダヤ人とギリシア人、奴隷と自由人というのはピンとこなくても、例えば若者と高齢者、病気の人と元気な人、活気を好む人と静寂を好む人、様々な異なる家庭環境、様々な政治的立場、などなど、私たちにおいても互いの違いはいくらでも挙げることができるでしょう。しばしばそこに分裂へと向かう力が働くことも事実です。しかし、大切なことは、それぞれが「仕え方」を探すことなのです。「命の与え方」を見つけ出すことです。仕えるための人生です。与えるための命です。

2014年2月23日日曜日

「いざとなったら屋根を破壊せよ」

2014年2月23日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 2章1~12節


 今日の箇所には、他人の家の屋根を破壊して病人をつり降ろしたという極めて過激な話が書かれていました。ということで、今日の説教題も「いざとなったら屋根を破壊せよ」という少々激しいものとなっております。しかし、そんな説教題をつけておいて今更言うのもなんですが、この屋根を破壊した行為にばかり気を取られてしまうのは望ましいことではないのです。実はそこにはもっと過激なことをする過激な人物が存在しているからです。

 その過激な人物とはイエス様です。その御方は多くの人の前で、特に律法学者たちもいる場所で、罪の赦しを宣言したのです。しかも、自分が罪を赦す権威を持っていることを主張し、それを示すために行動を起こしたのです。私たちにはピン来ないかもしれませんが、当時の人たちにとって、それは恐らく他人の家の屋根を破壊することよりも過激なことだったのです。そこでまずは、そのイエス様の行動に目を向けることにしましょう。

あなたの罪は赦される
 イエス様はつり降ろされた中風の人に向かって、「子よ、あなたの罪は赦される」(5節)と宣言されました。日本語訳ではいつ「赦される」のははっきりしません。未来のことのようにも読めます。しかし、イエス様が言っているのは、現在のことです。「今、ここにおいて、あなたの罪は赦されるのだ」と宣言しているのです。ですから、この言葉を「あなたの罪は赦された」と完了形にしている写本もあります。主はこの人に、その時その場で罪の赦しが完全に与えられていることを宣言されたのです。

 この宣言がどんな事態をもたらすか、イエス様が知らなかったはずはありません。先にも触れましたように、これは尋常ならざる言葉なのです。普通の教師ならば絶対に口にしない言葉です。罪の赦しのバプテスマを授けていたあのヨハネでさえ口にしなかった言葉なのです。ヨハネが言葉として語り得たのは悔い改めまでだったのです。言葉として口にしたら絶対に問題になる。実際、そこにいた律法学者たちはこの発言を問題ありとしました。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(7節)。

 彼ら考えていたことは間違ってはいません。罪の赦しは権威と結びついてこそ初めて意味を持つのです。罪に定める権威、断罪できる権威があってこそ、初めて罪の赦しも言い渡すことができるのです。イエス様がなさっていることは、まさに最終的に罪に定める権威を持ち、また罪を赦す権威をお持ちの神と自分とを等しい者とすることに他ならなかったのです。それは彼らの目には神への冒涜としか映らなかった。当然のことでしょう。

 もちろん、イエス様はそんなことは百も承知の上であえてそのことをしたのです。ですから、主はさらに事を押し進められます。彼らが心の中で考えていることを見抜いて、こう言われました。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(8‐11節)。そして、その中風の人が癒されたという話が続きます。

 癒しの奇跡はここに初めて書かれているわけではありません。それまでに多くの癒しをなさったことが既に記されています。しかし、ここに至って癒しの行為そのものがはっきりとした主張を持つものとされているのです。「罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」という部分は「罪を赦す権威を持っていることをあなたがたが知るようになるために…」というのが直訳です。イエス様はただ中風の人のために癒しを行ったのではないのです。個人的な事柄ではないのです。「あなたがたが知るようになるために」――そうです、イエス様はあの一人の人に罪の赦しを宣言されただけでなく、この癒しの業によって、自らが罪を赦す権威を持っていること、神と等しい権威を持っていることを公に宣言されたということなのです。

 さて、このような過激な主張を伴ったイエス様の宣教は、御自身が何のためにこの世に来られたのかを明らかに示しています。言い換えるならば、人間が救われるために本当に必要としているのが何であるかを示していると言えます。

 人は病気であれば癒しを求めます。欠乏があれば満たしを求めます。苦しみがあれば解放を求めます。すべてこの世においては必要なことです。しかし、この世において必要とされている全てが最終的には必要ではなくなる時がきます。それは人生の終末であるかもしれないし、世の終末であるかも知れない。いずれにせよ、全ては必要なくなるのです。そこで問われるのは、ただ神との間が平和であるかどうかなのです。

 そして、それはただ最終的に必要なだけでなく、最初から必要なのです。人間が救われるためには、まず神によって赦されねばならない。人間は赦しを必要としているのです。神との正しい関係と交わりの中に回復されねばならないのです。ですから、続く物語において、主は御自分が何のために来られたかをはっきりと語られるのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(17節)。主は赦しを与えるために来られたのです。

 そして、そのような過激な主張を伴う宣教の行き着く先に何が待っているのかをも主は分かっていたはずです。ご存じのように、主の行為と言葉はやがて主御自身を十字架へと追いやることになるのです。「神を冒涜している」と律法学者たちは心の中でイエス様を非難しました。そして、最終的に最高法院においてイエス様が死に定められた時、その罪状は冒涜罪だったのです。その意味で今日の場面はキリストの受難を指し示しているとも言えます。「子よ、あなたの罪は赦される」という宣言は、やがて十字架と復活を経て全ての人に宣べ伝えられることになるのです。そのようにして私たちにも伝えられたのです。

屋根を壊してでも
 さて、そのように、まずイエス様のなさったことに目を向ける時、ここに登場する人々が屋根を破壊したという行為もまた、私たちにとって大きな意味を持つことになるのです。

 事の顛末はこう伝えられています。「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」(1‐4節)。

 以前にもカファルナウムの家に大勢の人々が集まったという話が出ていました。シモンとアンデレの家(1:29)での話です。そこでイエス様がいろいろな病気にかかっている大勢の人をいやしたことが書かれています。恐らく、今日の話もシモンとアンデレの家で起こった話なのでしょう。

 シモン・ペトロはこの出来事に真っ青になったと思います。自分の家が集会中に破壊されたわけですから。生涯忘れ得ない強烈な記憶となって残ったに違いない。マルコによる福音書は伝承によればペトロの説教をもとにして書かれたと言われますから、それが本当なら屋根破壊事件がマルコによる福音書に書き残されたこともうなずけます。しかし、それだけが理由ではありません。そこにはこう書かれているのです。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」(5節)。明らかに、信仰とは何かを教えるための一例として、この出来事は伝えられたのです。

 もちろん、この出来事で信仰のすべてが表現されているわけではありません。また、この時点で中風の人が求めていたのも、運んだ四人が求めていたのも、ただ病気が癒されることだったのかも知れません。しかし、ここには「信仰」というものの本質が確かに示されているのでしょう。イエス様のもとに行きたい!イエス様のもとに連れて行きたい!たとえ屋根をぶっ壊してでも!――信仰とはそういうものだと聖書は教えているのです。

 肉体の癒しを求めるためでさえ、ここまでやった人たちがいたのだと聖書は伝えています。彼らは病気を癒してくださる人としかイエス様を知りませんでした。それでもなおここまで「イエス様のもとに行きたい!イエス様のもとに連れて行きたい!」と思って行動したのです。ましてや、この福音書を書いた人も、読んだ人も、そして私たちも知っているのです。本当に近づくべきイエスとは誰か。それは罪の贖いのために十字架にかかられ、そしてよみがえられた救い主であり、それゆえにただひとり神の権威をもって罪の赦しを与えることができる救い主であり、この方こそ、私たちに向かって「あなたの罪は赦される」と宣言することができる御方である、と。

 もちろん、彼らがイエス様に近づこうと思った時に行く手を阻まれたように、私たちがイエス様に近づくのを妨げるものはあるのでしょう。それは時に、この世のしがらみであるかも知れないし、自分の内にあるつまらぬプライドであるかも知れません。人間関係におけるわだかまり、あるいは過去のつまずきが後々までイエス様に近づくのを妨げることもあるのでしょう。様々なものへの執着がイエス様に近づくのを妨げることもある。実際どうですか。今、あなたがイエス様に近づくのを妨げているものはありますか。近づくためには破壊しなくてはならない屋根はありますか。それらは本当に永遠なる神との交わりよりも大事なものなのでしょうか。永遠の救いよりも大事なものなのでしょうか。

 さらに言うならば、あの中風の人は、自分一人ではイエス様に近づくことはできなかったのです。屋根を破壊したのは他の四人だったのです。そうまでもして「連れていきたい」と思ったのです。ここに伝道するキリスト者、伝道する教会の姿を私たちは見ることができます。

 私たちは、自らイエス様に近づくためにここにいます。しかし、それだけではありません。私たちは、誰かがイエス様に近づくのを助ける者としてここにいるのです。あの四人の男たちのようにです。誰かをイエス様のもとにお連れするために、時として屋根を破壊しなくてはならないこともあるのです。その屋根とは、私たちにとって何でしょう。今週はそのことをじっくりと考えてみましょう。誰かをイエス様のもとにお連れするのを妨げているのは何でしょう。

 それが何であれ、聖書ははっきりと教えています。「いざとなったら屋根を破壊せよ!」と。

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