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2023年9月24日日曜日

「信心は利得の道であるのか」

テモテへの手紙一 6:1-12

神の愛を現す機会に
 初期の教会には奴隷の身分の人たちが少なくありませんでした。新約聖書に度々奴隷の身分の人たちへの勧めが記されているのはそのような事情によります。今日お読みしたのもそのような箇所の一つです。

 ここでパウロは、まず1節において、主人が信者でない場合について、次のように勧めています。「軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません」(1節)。

 もともと尊敬できる主人の下にいるなら何の問題もないのです。このような勧めは必要ありません。しかし、実際には必ずしもそのような主人ばかりではないのでしょう。そのような主人から不当な扱いを受けていたらどうなるでしょう。表面的には恭しく主人に仕えているように見えながら、その心の内において主人を軽蔑するということも起こるのでしょう。

 そのような奴隷がキリスト者になった場合、不信心な主人を心の中ではいよいよ見下すようになるということも起こり得ることです。私は救いの真理を知った。主人は偉そうにしているけれど、最も大切な真理を知らない。私はキリストによって救われた。主人は救いのなんたるかを知らない。神の国も永遠の命も知らない、と。しかし、そのように人を見下す思いがあると、表面を繕っても、行動の端々に出てしまうものです。鼻持ちならない態度として現れてしまいます。

 主人は思うでしょう。「キリストの教えとやらは人を生意気にさせる。この教えは実に鼻持ちならない人間を作り出す教えだ」と。そして、キリストを罵るようになるかもしれません。どうでしょう。彼の態度は、主人に神の御名と教えとを冒涜する機会を与えてしまうことにもなってしまいます。だからパウロは、「軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名とわたしたちの教えが冒涜されないようにするためです」(1節)と言っているのです。

 さらに2節においては、主人がキリスト者の場合について書いています。そこでは別の問題が起こってまいります。主人と奴隷は主の御前においてはまったく平等な兄弟となるのです。すると、それまでただ上下関係のゆえに従っていた人は、従順さを失うことになるかもしれません。

 だからパウロは言うのです。「主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです」(2節)。そうです、むしろ今こそ主人を重んじて熱心に仕えるべきだというのです。なぜでしょうか。主人は「神に愛されている者だから」だとパウロは言うのです。

 つまり主人に仕えることの意味が変わったのです。かつてはただ上下関係のゆえに、あるいは恐れのゆえに従順に仕えていたかもしれません。しかし、今は違うのです。仕えることは、「神に愛されている者」に、神の愛を現す機会となるのです。奴隷が主人を愛して仕える時、彼は神の愛を運ぶ器となるのです。そのように、同じ仕えるにしても、その意味が変わるのです。

 信仰を持ったからと言って、キリスト者になったからと言って、この世における立場が変わらないことはいくらでもあります。いや、通常はそうなのでしょう。置かれている環境が全く変わらないこともあります。しかし、そこにいる意味が変わるということは起こり得るのです。人は置かれている環境に不満を抱き、不平を言いながら生きることもできます。しかし神は、その時と場所を、神の愛を現す機会に変えることができるのです。

利得の道としての信心なら
 そして、パウロは言います。「これらのことを教え、勧めなさい」と。「これらのこと」が何を指しているのかは必ずしも明確ではありません。しかし、そう語る理由ははっきりしています。3節にありますように「異なる教え」を説いている教師たちがいるからです。彼らは5節では「信心を利得の道と考える者」と表現されています。すなわち、彼らは信心を「自分が何かを得る手段」としか考えていなかったということです。

 恐らくパウロが具体的に念頭に置いていたのは「お金」の話です。9節に「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります」と書かれていることから分かります。実際に彼らは、信心を金持ちになる手段と考え、そのように教えていたようなのです。そして、そのような教えは二千年を経てなお今日にも見られます。キリストを信じるなら物質的にも豊かになるという教えです。「繁栄の神学」や「繁栄の福音」など呼ばれます。

 実のところ、そのような「利得の道」はいつの時代も多くの人々の心を惹きつけてきたのです。特に、先に触れた奴隷の身分の人たちや様々な形で社会において抑圧されている人、不当に扱われている人々の心を惹きつけたであろうことは想像に難くありません。小さいから、弱いから、持っていないから軽んじられるのだと思うなら、大きくなること、強くなること、持っている側の人間になることを願って、「利得の道」を求めるようになることはあり得ることでしょう。

 しかし、そのような「利得の道」と考えられた信心は、いったい何をもたらすのでしょう。もしかしたら、本当に儲かるかもしれません。豊かになれるかもしれません。それは確かにあり得ることです。現代においても成功の道を説く多くの人が語っているように、人間の強烈な願望が成功や富をもたらすことはあり得ることなのです。実際、彼らの語る「利得の道」が結果を出していなかったら、放っておいても消えていったことでしょう。恐らくは結果を出していたのです。しかし、改めて問いたいと思うのです。そのような「利得の道」は、いったい何をもたらすのでしょう。

 パウロはこう書いています。「その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです」(4‐5節)。これが彼の見ていた現実だったのです。確かに、富や力に限らず、要するに「自分が何を得るか」ということにしか関心がなければ、自分の欲求が満たされるか否かにしか関心がなければ、「信心を利得の道と考え」ているならば、そのような神信心から「ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じる」のは無理のないことだとも言えるでしょう。

 そして、もう一つ確かなことがあります。少なくとも、そのような信心からは、最初にみた奴隷の身分の人に対する勧めや、「仕えることによって神の愛を運ぶ器になることができるのだ」「神はこの状況を、神の愛を現す機会としてくださったのだ」という理解は生まれてこない、ということです。

真の利得の道
 しかし、そこまで言いながらも、パウロはもう一方において「信心が利得の道であること」を一面的に否定はしません。「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です」(6節)と彼は言うのです。なぜでしょう。彼は続けます。「なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです」(7節)。

 「世を去るときは何も持って行くことができない」――それは誰もが知っていることです。ならば残るものは何かということも明らかです。それは裸のわたし自身です。この世の命を生きてきたわたし自身です。神との関わり、そして人との関わりの中に生きてきたわたし自身です。ならば、この世に置いていくものをどれだけ得たかということよりも、どう生きてきたかということの方が遙かに重要なことなのでしょう。神と共にどう生きてきたのか。人と共にどう生きてきたのか。それだけが残るのです。

 そして、もう一つのことも明らかです。何も持っていくことができないならば、本当に得なくてはならないものは、向こう側にあるということです。こちら側で得るものは全て置いていかなくてはならないのですから。私たちが本当に求めなくてはならないもの、得なくてはならないもの、それを聖書は「永遠の命」と表現します。そうとしか表現できない、神が与えてくださる最終的な救いです。それこそが、それだけが人間にとって真の利得なのです。だからこそパウロは「大きな利得の道です」と言うのです。

 そこでパウロはテモテに言います。「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」(11‐12節)。

 「永遠の命を手に入れよ」とパウロは言います。自分の行為や努力と引き替えに「永遠の命を手に入れよ」と言われているわけではありません。永遠の命は、私たちが差し出せる何かと引き替えにできるような、安っぽいものではありません。それはただイエス・キリストの十字架のゆえに、成し遂げられた罪の贖いのゆえに、私たちに与えられる賜物です。代価を払ってくださったのはキリストであって、私たちが支払うのではありません。私たちはただ神に召され、「命を得よ」と語られたのです。そのようにして、備えられている永遠の命に向かってスタートしたのです。

 しかし、恵みによって備えられている命を獲得するに至るまでには、それを妨げようとする力が働くのです。それは迫害であるかもしれませんし、罪の誘惑であるかもしれません。それゆえに、なおも走り抜こうとするならば、そこには戦いがあるのです。

 だからこそ、この世においても追い求めるべきものがあるのです。それはあの教師たちが追い求めていた利得とは異なります。それとは異なるものを追い求める必要があるのです。「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」と語られているのはそういうわけです。それこそが、信仰の戦いを戦い抜くために必要だからです。そして、私たちがひたすら求めていくときに、誰が与えてくださるかも知っています。それは永遠の命を与えてくださる神御自身です。その意味においても、信心は大きな利得の道なのです。

2021年7月4日日曜日

「すべての人々のためにささげる祈り」

テモテへの手紙一 2:1-7

すべての人々のために祈りなさい

 パウロは若き同労者であるテモテにこう書き送りました。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」(1節)。

 この手紙を受け取ったとき、テモテはエフェソの諸教会の牧会に当たっていたようです。この手紙を読みますと、その働きは困難を極めていたことが察せられます。「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい」(5:23)ということまで書かれています。肉体的にも精神的にも相当に弱っていたのでしょう。パウロがこの手紙を書き送ったのは、何よりもそのような若き牧者を励まし、また助けとなる具体的な指示を与えるためでした。そこでパウロは個人的な事柄を述べた後、このように勧めるのです。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」

 まずは祈ること。問題がどれほど多くても、困難がどれほど大きくても、対症療法的に動き回るのではなくて、まずは祈ること。しかも、それはただ直面している問題について、その解決を神に願い求めるということではなく、その祈りはすべての人々のために執り成すこと、感謝することをも含むのです。テモテはまずそのように祈らなくてはならないのです。いや、これはテモテだけではありません。8節以下には教会に対する指示が書かれていますから、ここで勧められているのは単にテモテ個人についてではなく、教会全体がそのように祈ることをも意味しているのでしょう。問題がどれほど多くても、困難がどれほど大きくても、教会の為すべきこと、それはまず、すべての人のために願い、祈り、執り成し、そして感謝することです。

 もちろん、「すべての人々のために」と言いましても、文字どおりすべての人々のために個々に祈ることはできないでしょう。これは明らかに、いかなる人をも祈りから除外してはならない、という意味でもあるに違いありません。「こんな人のために祈れない。ましてや感謝などできるものか」と言ってはならないということです。その具体的な実例として、「王たちやすべての高官のためにもささげなさい」と書かれています。それは「王たちや高官のため」に祈ることが必ずしも自明のことではなく、むしろそのことに困難を覚えるような事情があったからでしょう。

 それはある程度想像できることです。王たちや高官とは、具体的には皇帝や地方総督に代表されるローマの支配体制を指していると考えられます。この手紙が書かれた時点においてローマの国家権力による迫害や弾圧がどの程度起こっていたのかは定かではありません。しかし、少なくともパウロは現に囚われの身となっているのであり、カイザルの囚人となっているのです。さらに言うならば、教会を構成していた人々の多くは貧しい人たちであり、奴隷の身分の人たちも少なくありませんでした。たとえ国家による迫害ではなくても、この世の権力によって踏みにじられてきた人たちが教会にはいくらでもいたのです。そのような教会に対して、パウロはあえてこう語りかけるのです。「王たちやすべての高官のためにも、願いと祈りと執り成しと感謝とをささげなさい」と。

 そしてまた、後の時代、ローマの国家権力による迫害が激しくなった時代になってもなお、この手紙は読まれ続けていたことを忘れてはなりません。まさに王たちや高官たちの命令によって捕らえられ、殺される危険があるときでさえ、その礼拝において「王たちやすべての高官のためにも、願いと祈りと執り成しと感謝とをささげなさい」という言葉が朗読されたということです。そして、実際に祈られたのでしょう。その時、彼らは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)というイエスの言葉をも思い起こしたに違いありません。その意味でパウロがここで言っている「すべての人々のために」という言葉は、実に重い言葉であり、そのような言葉として私たちもまた受け止めなくてはならないのだと思います。

神は唯一、仲介者もひとり
 そのようにパウロは、まず第一に、「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい」と勧めます。それはなぜなのか。理由がその後に書かれています。まず書かれているのは、特に「王たちやすべての高官のために」と語ったことについての理由です。「わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです」(2‐3節)。

 先にも申しましたように、教会には、既存の社会において踏みにじられてきた人たちが少なくありませんでした。もしそのような人々が、宗教的熱狂主義や原理主義に陥ってしまったならどうなるでしょう。神の名のもとに反社会的な行動や破壊的な行動を取ることが、信仰に熱心であることだと取り違えるかもしれません。だからこそ、パウロはあえて「王たちやすべての高官のためにも祈りなさい」と言うのです。神はそのような熱心さを喜ばれない。神が望んでいるのは「わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送る」ことだと言うのです。

 しかし、パウロが「すべての人々のために」祈ることを勧めるのには、もっと大きな理由があります。パウロは言います。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(4節)。これこそが、ただ王たちや高官のためだけでなく、「すべての人々のため」に祈る理由です。

 先に触れましたように、心情的には「王たちや高官のために」祈ることが困難なことはいくらでもあったに違いありません。王たちや高官でなくとも、「あんな人のために祈れるか」と思ってしまうことは、私たちにおいてもあるかもしれません。しかし、「あんな人のために祈れるか」と私たちが言うとき、神は言われるのです。「わたしはその人が救われて真理を知るようになることを望んでいるのだ」と。

 そこでパウロは、恐らく当時の教会において繰り返し唱えられていたであろう信仰の言葉を引用するのです。「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです」(5‐6節)。

 なぜ「すべての人々」なのか。第一に、「神は唯一」だからです。神が唯一だということは、すべての人間がこの神との関わっているということを意味します。「神は唯一」であるならば、神はキリスト者だけの神ではありません。すべての人の神なのです。そのすべての人が救われることを神は望んでおられるのです。もちろん、そこでもなお、人間の側が神の救いを受け入れるか拒否するかという問題は残ります。しかし、神がすべての人が救われることを望んでおられることを私たちが常に心に留めていることは大事なことです。神が閉め出しておられないのに、私たちが閉め出してはならないのです。

 そして、なぜ「すべての人々」なのか。第二に、「神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとり」だからです。仲介者が一人ということは、すべての人がこの御方によって仲介されなくてはならない、ということです。だから、神はすべての人が真理なるキリストを知ることを望んでおられるのです。それこそが教会の宣教の根拠です。教会がキリストを宣べ伝えるのは私たちがそうしたいという以前に、神がそのことを望んでおられるからなのです。

 ところで「神と人との間の仲介者」について語られるということは、人は神に直接的には近づくことができないということをも意味します。これが聖書の語る極めて重要な認識です。それは、古くはモーセの幕屋の構造に、後にはエルサレムの神殿の構造によく表わされています。聖所の奥にはもう一つの部屋がある。これが至聖所です。そして、その間は垂れ幕によって隔てられているのです。この垂れ幕は、罪深い人間が神に近づくことはできないことを象徴しているのです。

 人間が作った自分のための偶像ならば、人はいくらでも自由に近づくことができます。こちらに罪があろうがなかろうが関係ありません。しかし、神がまことの神であり生ける聖なる神であるならば、罪ある人間は近づくことができない。アダムとエバがしたように、神の顔を避けて園の木の間に隠れざるを得ないのです。

 それゆえに、人間が神に近づくためには仲介者が必要なのです。そして、イエス・キリストが仲介者となってくださったのです。パウロはあえて「人であるキリスト・イエス」と書きました。この御方が「人である」ということが決定的に重要な意味を持っているからです。イエス様は、いわば人間の代表として、神の裁きを受けてくださったのです。「この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました」(6節)と書かれているのはそういうことです。あの十字架の上でイエス様が死んだとき、いったい何が起こったと書かれていますか。あの神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたと書かれているのです(マルコ15:38)。もはや神と人との間の隔てがなくなったのです。罪が贖われたからです。

 偉大な教師、宗教的な指導者は歴史の中にいくらでもいます。しかし、すべての人の贖いとして御自身を献げてくださった「神と人との間の仲介者」はただおひとりです。イエス・キリストが御自身を献げてくださったこと、それは神の意志を世に示す決定的な証しでした。十字架にかけられたキリストは、「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられる」という神の心を証ししているのです。

 さて、冒頭において触れましたように、確かにテモテは多くの問題を抱えていました。私たちもそうなのでしょう。この世界にも、教会にも、日々頭を抱えざるを得ない現実があるのでしょう。しかし、そのような諸問題にだけ目を向け、その解決だけを求めていてはならないのです。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられる。」その神の望んでおられることにこそ私たちの思いを向けるべきなのです。「まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」。そうです、そうする時に、目の前の問題についてもふさわしい関わり方が見えてくるに違いありません。

(祈り)

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