2020年11月29日日曜日

「今この時を生きる」

マタイ24:36-44

 今日から待降節(アドベント)に入りました。週報に書きましたように、クリスマスまでのこの期間は、キリストの到来を心に留める期間です。それは馬小屋に生まれた第一の到来だけでなく、王の王、主の主として来られる第二の到来、キリストの再臨を覚える期間でもあります。

ノアの時と同じである
 主の再臨については、使徒信条において次のように告白されています。「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。」特に、この「生ける者と死ねる者とを」という言葉について、ファン・ルーラーというオランダの神学者が非常に印象的な言葉をもって講解しています。今日の箇所ともかかわりますので、ご紹介いたします。

 「彼(キリスト)は生きている者をも裁かれるでしょう。最後の審判の日には、既に死んだ者たちだけがそこに存在するのではありません。そこには生きている者もまた存在するのです。これは素朴な表現ですが、そこには重要なことが語られております。最後の審判の日は、一見、何の変哲もない普通の日なのです。それは歴史上の多くの日々のうちの一日です。生活はごく普通に営まれています。しかし、まさにその日、人の子は帰って来られるのです、思いがけなく、夜にやってくる盗人のように。」(A.A.van Ruler "IK GELOOF"より)。

 今日読まれました福音書において、イエス様もまたその日を、一見すると何の変哲もないごく普通の日として語っておられます。それは「ノアの時と同じ」だと言うのです。36節以下をご覧ください。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである」(36‐39節)。

 「ノアの時」というのは、直訳すると「ノアの日々」という言葉です。「洪水になる前は」とは、直訳すると「洪水になる前の日々は」です。「日々(days)」――そうです、そこには当たり前のように人々が食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりして過ごしてきた、なんの変哲もない「日々(days)」があったのです。それに対して、「ノアが箱舟に入るその日」は、単数の「日(the day)」です。人々は、まさに「その日」も、いつもと同じ「日々」と同じだと思っていたのです。しかし、そうではありませんでした。それは特別な「日」、「裁きの日」となったのです。

 ある日が、突然、特別な日となってしまうということについて言えば、類似の経験からある程度理解できます。もう9年以上前になってしまいましたが、今なお鮮明な記憶として残っているのは2011年3月11日の大震災でしょう。そして、ある日、首都圏に直下型の大地震が起こるならば、同じように、いつもと同じ日々であると思っていたその日は、突如として「特別な日」となるはずです。

 ならば、キリストの再臨の日も、それと同じであろうことは理解できますし、キリストが語っておられることは想像することもできます。それは「ノアが箱舟に入るその日」と同じです。あるごく普通の日と見える一日が、それまでの歴史を総括し、私たちの人生をも総括する特別な日となるのです。

 ところで、ここでノアの時代の人々について、彼らが滅びたのは悪行のゆえであるとは語られていないことは注目に値します。ただ「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」と語られているだけです。イエス様の言葉の元となっている創世記6章のノアの物語の冒頭は、実はこうなっているのです。「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた」(創世記6:11)。だから、神はノアに「わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」(同13節)と言われたのです。しかし、イエス様は人々の不法そのものには全く言及しておられないのです。

 そのように、イエス様が問題にしておられるのは、他のことなのです。それは、彼らが神の正しい裁きの日を考えずに生活していたことです。ある一日が、特別な一日、裁きの一日となることを思うことなく生活していた、ということなのです。これまでの日々のように、明日も、またその次の日も、自分の手の中にあるかのように、自分のコントロール下にあるかのように生きていたことが問題とされているのです。そのような神なき日常性の上に、神の裁きは臨むことになるのです。

 その時、それまでの当たり前の生活の中において、決定的な区別と分離が起こります。神に受け入れられるのか、神に退けられるのか、神に救われるのか、滅びるのか、二通りに分かれるのです。神によって分けられるその区別に比べるならば、この世のいかなる区別も取るに足りないものとなるでしょう。

 そこではまったく個々の人間が問われることになります。まさに神は、個々の人間に真剣に向かわれるのです。「一人は連れて行かれ、もう一人は残される」(40、41節)とはそういうことです。神が個々の人間と真剣に向き合われ、かかわられる。そこで私たちは他のだれをも問題にできません。親を問題にできません、子供を問題にできません、最終的には何事も妻のせいにも、夫のせいにもできません。「わたし」がどうであるか、「わたし」がどう生きてきたかの問題となるのです。神の裁きにおいては皆、一人の人間です。「一人は連れて行かれ、もう一人は残される」。そういうことです。

だから目を覚ましていなさい
 では、私たちはどうすべきでしょうか。教会は、神を見失ったこの世界に、滅びに瀕しているこの世界に、まず何にもまして、キリストを宣べ伝えるべきでしょうか。もちろんそうです。神の裁きが真剣に受け止められるならば、そこではまた、悔い改めの必要性、罪からの救いの必要性も真剣に受け止められねばならないからです。私たちは、神の御前にあるこの世界に、キリストの名によって「罪の赦しを得させる悔い改め」(ルカ24:47)を宣べ伝えねばなりません。それは教会の大きな使命です。

 しかし、少なくともこの箇所においては、別の事柄が語られていることにきちんと耳を傾けなくてはなりません。主は言われます。「だから、目を覚ましていなさい」(42節)。これは世に対する言葉ではありません。その後に「いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」と書かれています。そのように、これは「自分の主」を知っており、「自分の主」の帰りを待っているはずの者、すなわちキリスト者に対する言葉なのです。つまり、私たちは、まずこの世をではなく、自らを問わねばならないのです。教会は、キリスト者は、まず自らを省みなくてはならないのです。

 目を覚ましているとは、42節の言葉から明らかなように、主の帰りを待つ者として、備えつつ生きるということです。その意味するところについては、今日は朗読されませんでしたが、続く45節以下に次のように書かれています。「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」(45‐46節)。

 主人を待つ僕について、主人が望んでいるのは、僕が有能であることではありません。単に僕が良く働くことでもありません。主人が望んでいるのは、僕が忠実であることです。忠実な僕は、主人の意思を重んじます。主人が願うことを行おうとします。そして、主人が託してくださっている務めを重んじます。主人が託してくださっている人々(この場合、使用人)を重んじます。

 総じて言えば、忠実な僕とは主人を重んじる僕のことです。それは主人を愛している僕であると言いかえてもよいでしょう。主人を愛している僕は、主人の帰りを待ちわびます。ですから、主人がいつ帰ってきてもよいように備えます。その結果、彼は主人が帰ってきたとき、言われているとおりにしているのを見られることになります。忠実である僕は、こうして賢い僕でもあります。主人は、小さなことに忠実であった賢い僕に、さらに大きなことを託します。

 このように、私たちに求められているのは、主を待つ者として忠実な賢い僕として生きることです。「目を覚ましていなさい」とはそういうことです。ここに明らかなように、忠実であることが問われるのは、私たちの日常です。私たちの「日々」です。すなわち、ごく普通の日常生活であり、毎日のことです。日曜日だけのことではありません。このことは、皆で毎週日曜日に教会に集まることのできない私たちが、特に心にとめるべきことであろうと思います。

 ちょうど8ヶ月前の3月29日、頌栄教会は日曜日にこの場所に皆で集まることができなくなりました。私たちだけではありません。新型コロナウイルスのパンデミックにより、世界中の教会が日曜日に集まることの困難に直面しました。そのことによって何が起こったのか。頌栄誌にも書きましたが、このことによって、いわゆる“サンデークリスチャン”が成り立たなくなったのです。日曜日に教会に行けないのですから。それは改めて世界中のキリスト者が、真に神と共に生きるとはいかなることか、御言葉に聴いて生きるとはいかなることかを問われることになりました。日曜日に集まれない自分が、今、聖書を手にしているということが何を意味するのか。同じように聖書を手にしている友がいることが何を意味するのか。そのことに改めて、目を向けされられる出来事となりました。御言葉に聴いて生きるためには、自ら祈って聖書を開かざるを得なくなったのです。

 実際には、多くの教会でインターネットを介してのオンライン礼拝が始まりました。わたしはそれにはそれなりの意味があろうかと思います。一概に否定するものではありません。しかし、あくまでも用いる「人」によると思いますが、もしオンライン礼拝が、違った形でのサンデークリスチャンを作り出してしまうなら、自ら聖書も開かない、ただ日曜日の1時間ほど画面の前にいるだけのクリスチャンを作り出してしまうなら、それこそ災いであると言わざるを得ません。

 「目を覚ましていなさい」と主は言われます。それは日々のことです。特にアドベントのこの期間、あるべき姿に立ち帰り、日々御言葉に聴き、祈りつつ歩んでまいりましょう。

(祈り)

2020年11月22日日曜日

「羊と山羊が分けられる時」

マタイ25:31-46

 来週の日曜日からアドベント(待降節)に入ります。教会の一年はアドベントから始まりますので、この日曜日は一年最後の日曜日ということになります。ゆえに、この日は「終末主日」と呼ばれまして、特に「終わり」について考える日とされています。ということで、今日の福音書朗読では「最後の審判の話」が読まれました。

右に置かれるか左に置かれるか
 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く」(31節)と書かれていました。人の子、すなわち再び来られるキリストが栄光の座に着かれるのは、最終的な裁きを行うためです。そこで話は次のように話が続きます。「そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」(32-33節)。

 ここでまず、集められた「すべての国の民」のところに身を置いて、イエス様の言葉に耳を傾けてみましょう。

 そこで聞こえてくるのは、当時のごくありふれた牧羊風景を背景とした話です。昼間には山羊も羊も同じところに一緒に放牧されています。しかし、夜になると山羊は寒さを嫌うので小屋に入れられます。一方、羊は新鮮な空気を好むので戸外の囲いの中に集められます。そのように、夜になると羊飼いによって羊と山羊は分けられるのです。それと同じように、今は全く区別されないように見えたとしても、最終的に、「すべての国の民(つまり全世界の人々)」は、羊と山羊に、右と左に分けられることになるという話です。

 そして、右側の人々に向かって王がこう言うのです。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」。また、左側の人々には王がこう言うのです。「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」。

 さて、このように「すべての国の民」のところに身を置いてイエス様の言葉に耳を傾けていますと、やはりここで考えざるを得なくなります。果たしてわたしは羊なのだろうか。それとも山羊なのだろうか。最終的に右に置かれるのか。それとも左に置かれるのか。しかも、それは暫定的なこの世の審判の話ではなく、最終的な裁きの話です。そこで右になるのか左になるのかは小さなことではありません。その意味で、大変恐ろしい話であるともいえます。

 もちろん、「恐ろしい話」が必ずしも「悪い話」とは限りません。「恐ろしい話」には、それなりの教育的な意味があるからです。実際、日本昔話にせよ、西洋の童話にせよ、恐ろしい話は少なくありません。そう考えますと、今日の箇所も教育的な意味において、愛の行いを促すための物語として読むことができるでしょう。最終的には王なるキリストの前で、羊と山羊に分けられるのだ。そこで山羊の側ではなく、羊の側になりたかったら、生きている間に、実際に行動をもって「最も小さい者」に愛を示しなさい。なぜなら、「最も小さい者」にしたことは、キリストにしたことに他ならないから、と。実際、この箇所はしばしばそのように読まれてきたのです。

 しかし、この「恐ろしい話」を読んで、ただ単に最後の審判において山羊の側に置かれないために、羊の側になるために、永遠の火を逃れて神の国に入るために、自分が救われるために、善行や隣人愛の行為を積み上げるとするならばどうでしょう。それはそれで何かがおかしいと言わざるを得ないでしょう。それではまるで自分が救われるために他の人を踏み台にするようなものではありませんか。それはもしかしたら愛の名を借りた究極のエゴイズムと言えなくもありません。

 そもそも、そのような善行や隣人愛ですと、イエス様がなさった話とは全く違った結果になってしまうのです。ちょっと想像してみてください。私たちがイエス様の話を聞いてこう考えたとしましょう。「そうか、最も小さい者にしたことはキリストに対してしたことになるんだな。今、この人にしていることも、キリストに対してしていることになるんだな。キリストに対して多くの愛を示してきたわたしとして、救われるために必要なことを行ってきたわたしとして、最終的にキリストの前に立つことになるのだな。」そう思いながら、そのように人生を送って、やがて王なるキリストの前に立ったとしたらどうでしょう。ここに出て来る「羊たち」とはかなり違ったことを口にするのではありませんか。

 この話に出て来る羊たち、すなわち右側の人たちはこう言っているのです。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」(37‐39節)。いいえ、あなたのために、何一つしてはおりません、と彼らは言っているのです。そう言って驚いているのです。

 キリストのためにあれもこれもしてきたと思っている人は、それゆえに自分は羊の側であると思っている人は、「いつわたしたちはそのようなことをしたでしょうか」とは言わないだろうと思います。むしろ他の人を指さして言い始めるかもしれません。「あの人たちは山羊ですよね」。――もしそうであったなら、そこにあるのは、この右側の人々とは全く異なる姿なのでしょう。最後の審判、救いか滅びかを動機づけとして行動するところには、どうも大きな落とし穴がありそうです。

最も小さい者として
 さて、まず集められた「すべての国の民」のところに身を置いて、イエス様の言葉に耳を傾けてきました。確かに、そこに身を置いたら、山羊の側になるか羊の側になるかが気になるのは無理もありません。しかし、この話においては、そこだけが唯一の身の置き場ではないのです。王は言うのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)と。その「最も小さい者の一人」のところに身を置いてみるならば、どうでしょう。イエス様の言葉、王の言葉はどのように聞こえてくるでしょうか。

 実際、私たちはある意味では皆、「最も小さい者の一人」なのではないでしょうか。それは「何かをしてあげる側」に身を置いている時にはわからない。人のために「何かをしてあげている」という意識を持っている時にはわからない。しかし、ある日ある時から、ここに書かれているように、食べさせてもらったり、飲ませてもらったり、宿を貸してもらったり、見舞ってもらったり、訪ねてもらったり、ということは起こり得ることです。自分では何一つ為しえない状況で、苦しんで悩んで、助けてもらうしかなくて、自分の無力さや小ささを痛感せざるを得ない状況に置かれることは常に起こり得ることなのでしょう。

 しかし、それは目に見える形で現れただけなのであって、本当は、もともと多くの人に助けられながら、他の人によって支えられながら、やっとやっと生きているのだろうと思うのです。大きな顔をして生きているけれど、実は気づいていないだけで、本当は自分一人ではわが身一つどうすることもできない、そんな小さな存在なのでしょう。この「最も小さい者の一人」という言葉を聞いて、まず誰かほかの人を考えるというのは、もしかしたら恐ろしく傲慢なことなのかもしれません。

 そのような「わたし」として「最も小さい者の一人」のところに身を置いてみるならば、何が聞こえてくるでしょう。どんな風景が見えてくるでしょう。イエス様はわたしの傍らに立っておられます。そのイエス様が向かっておられるのは「すべての国の民」です。すなわち全世界です。イエス様は全世界に向かって、イエス様はたった一人の「わたし」を指さしてこう言われるのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)。「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」(45節)。

 そこに聞こえてくるのは何でしょう。それはこの世の常識では推し量ることのできない愛、たった一人の「小さい者」に向けられた、計り知れないイエス様の愛に他なりません。その「小さい者」を、イエス様は「これはわたしの兄弟だ」と言ってくださるのです。そして、わたしが助けを受けるならば、イエス様御自身が受けたかのように感じてくださる。わたしが誰かの愛情に接して心温まる喜びを感じたならば、イエス様自らがその愛の行為を受けたかのように共に喜んでくださる。またもう一方で、わたしが不当な扱いを受けるなら、蔑ろにされたり、軽んじられたりするならば、イエス様御自身が蔑ろにされたり軽んじられたりしたかのように怒ってくださる。「永遠の火に入れ!」とは実に激しい言葉ではありませんか。しかし、それほどにイエス様はこのわたしのことを思っていてくださるということでしょう。

 そのように私たち自身の傍らに立ってくださるイエス様が見えてきますと、もう一つのことが見えてくるはずなのです。他の人の傍らに立っているイエス様です。イエス様が私たちを大切に思ってくださったように、主は他の人たち、私たちの周りの人たち、特に助けを必要としていたり愛されることを必要としている他の人たちについてもこう言われるのです。「これはわたしの兄弟だ。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのだ」と。

 わたしは今、「羊と山羊が分けられる時」という説教題を付けたことをある意味で後悔しています。私たちが目を向けるべきところは、羊の側になるか山羊の側になるかではない。右に置かれるか、左に置かれるかではないのです。そうではなくて、この王なるキリストが「最も小さな者の一人」――そのたった一人をどれほど大切にしているかということなのです。

 そして、これを語られたイエス様が望んでおられることは、その認識から始まっていくのです。地獄の火を免れるための善行でもない、神の国に入るために積み上げる功徳でもない、いかなる形においても自分自身に栄光を帰さない、もしかしたら自分の記憶にさえも残らない、そんな愛の行いが、小さいながらもそこから始まっていくのです。そして、それは小さなことであっても、決して主の目に軽んじられることはないのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と主は言われるのです。

(祈り)

2020年11月15日日曜日

「天の父の見様見真似」


マタイによる福音書 5:38-48

悪人に手向かってはならない
 「目には目を、歯には歯を」という言葉が出てきました。よく知られた言葉です。旧約聖書には次のような表現で書かれています。「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない」(レビ24:19‐20)。もともとは、無制限な報復に歯止めをかける意味を持つ条文です。例えば、歯を折られたからといって、命まで奪ってはならないということです。

 そのように旧約聖書には「目には目を、歯には歯を」と書かれているのですが、イエス様は「しかし、わたしは言っておく」と言いまして、さらにこう続けるのです。「悪人に手向かってはならない」と。ここで主が語っておられるのは、相手が害を加えてくる場合、しかも、それが明らかに「悪」である場合についてです。いくつかのケースが挙げられています。

 第一に語られているのは、右の頬を打つ人についてです。あくまでも「悪人」ということですから、相手が正当な理由をもって頬を打つ場合ではありません。こちらが悪くて殴られたのではなく、相手が不当にも殴ってきた場合です。さらに言うならば、右利きの人が殴る場合、通常は右の頬は打ちません。右の頬を打つのは手の甲で打つ場合です。ユダヤ人の世界では侮辱の表現です。痛みに耐えるよりも、侮辱に耐える方が難しいとも言えます。しかし、イエス様はその侮辱をあえて受け入れて、反対側の頬も向けよと言われるのです。

 次の「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」(40節)はどうでしょう。これは裁判の場面です。これも相手が「悪人」ということですから、明らかに前提となっているのは不当な訴えです。例えば権力によって曲げられた裁判によって不当にも何かが奪われる場合です。そのように力ある者によって不当に何かが奪われようとする時に、こちらも何らかの力を行使して戦うのではなくて、むしろ上乗せして与えてしまいなさい、と主は言われるのです。

 第三に挙げられているのは不当な強制です。恐らくここで念頭に置かれているのはローマの占領軍による強制です。異邦人による強要はユダヤ人にとって極めて屈辱的なことでした。しかし、ここでも主はその屈辱に何らかの形で報復するのではなく、「一ミリオン行くように強いられたら、二ミリオン一緒に行ってやったらよいではないか」と主は言われるのです。

 第四の「求める者」や「借りようとする者」も、「悪人」ということですから、ただ困っていて借りに来る人の話ではありません。悪意をもってだまし取ろうとする人です。借りても返す意志がなく、踏み倒そうとしているような人です。そのような人に背を向けるな、と主は言われるのです。

弟子たちへの教え
 さて、このようなイエス様の言葉を耳にしますと、すぐに始まりますのは、「このような教えが実社会に適用できるのか。このような教えによって社会の秩序は成り立つのか」という議論です。そしてまた、私たちはそのような議論の中に逃げ込みたくなるものです。「これは現実的ではない」と。しかし、イエス様はこの世界に対して一般的な教えを述べているのではありません。主は弟子たちに語りかけているのです。イエス様に従い、神を天の父として仰いで生きようとしている弟子たちに語りかけているのです。しかも、一般的な話ではなくて、あえて「《あなた》の右の頬を打つなら」とか「《あなた》を訴えて下着を取ろうとする者には」と言っているのです。これを聞いている《あなたは》どうするのか、ということです。

 実際この後の時代、弟子たちは、教会は、個々のキリスト者は、本当に「どうすべきか」を問われることになったのです。なぜなら、そこにはユダヤ人たちからの迫害があり、さらにはローマの国家権力による迫害があったからです。その時に、当然のことながら、「報復すべきだ」「戦うべきだ」「我々も武器を取るべきだ」という声が起こっても不思議ではないでしょう。しかし、彼らは繰り返しこの主の御言葉を思い起こしたのです。それは復活されたキリストが、繰り返しこの御言葉を語りなおされたということでもあるでしょう。「悪人に手向かってはならない」と。

 これは「悪に手向かってはならない」ということではありません。否、本当の意味で悪に立ち向かうために、悪に打ち勝つために、悪人に手向かわないのです。力を行使すること、報復することを放棄するのです。そうです、ここで求められているのは、本当の意味で打ち勝つことなのです。実際そうではありませんか。報復できたら、本当に悪に勝ったことになるのか。ならないのです。報復は報復の連鎖を生み出すことになるでしょう。連鎖が目に見える形で残らなくても、そこには憎しみが残るでしょう。それで本当に悪に勝ったことになるのか。悪魔に勝ったことになるのか。ならないのです。

 後にパウロがこう言っています。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12:21)と。悪に対する本当の勝利は、悪人そのものを勝ち取った時です。そもそもそれが神の戦い方でした。神が人間を勝ち取る戦い方でした。神は人間を裁いて力をもって滅ぼすことによって勝利を得ようとは思われなかったのです。そうではなくて神が望まれた勝利は、人間が悔い改めて、神を愛するようになることだったのです。それゆえにキリストは苦難を受けられた。キリストは人間の手によって十字架にかけられたのです。神はそれを良しとされたのです。相手を叩きのめすことは力があれば力をもってできることです。しかし、相手の悪に打ち勝って相手の心を勝ち取るのは、力の行使によってはできないのです。

 この御言葉との関連で思い起こされるのは、マルチン・ルーサー・キング牧師によって導かれたアメリカの公民権運動です。1967年に行われた南部キリスト教指導者会議での演説でキング牧師はこう語りました。「確かに暴力によって、あなたは殺人者を殺すことはできるかもしれない。しかし殺人行為そのものを殺すことはできない。暴力によって嘘つきを殺すことはできるかもしれない。しかしあなたは真理を確立することはできない。また暴力によってあなたを憎悪する者を殺すことはできるかもしれない。しかしあなたは暴力によって憎悪そのものを殺すことはできないのだ。暗闇は暗闇を消すことができない。それができるのは光だけだ」。私たちは、あまりにもしばしば、暗闇で暗闇を消そうとしている、同じ悪によって悪を消そうとしていることが多いのです。

敵を愛し、迫害する者のために祈れ
 さらに主は、「報復するな」というところに留まらず、「愛すること」を求められました。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44節)。この言葉を聞いても、やはり私たちの内に起こる自然な反応は、「それは無理だ」「それは理想ではあっても現実的ではない」ということでしょう。さらには「それは偽善的だ」と言う人さえあるかもしれません。というのも、多くの人は「愛は自発的ものだ」と考えているからです。自然に溢れてくるものが愛だと思っている人は、他の誰かから「愛しなさい」と命じられて愛するのは、何か純粋なものではない偽善的な愛である、と感じるのでしょう。

 しかし、イエス様は「敵を好きになりなさい」と言っているのではないのです。聖書が語る愛とは、自然に起こってくる感情ではありません。先の場合と同じように、ここでも問題となっているのは、私たちが「どうするのか」ということです。すなわち私たちの決断です。そして、決断に基づく行為です。イエス様は、具体的にどうしなさいと言っておられますか。「祈りなさい」と言っておられるのです。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と。

 主がそのように命じる根拠は、私たちと神との関係です。先ほども触れましたように、この言葉は世の中の人一般に語られているのではありません。弟子たちに語られているのです。イエス様に従い、神を天の父と呼んでいる人に対して語られているのです。ですから、イエス様はこう続けます。「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(45節)。

 「あなたがたの天の父の子となるため」。そうイエス様は言われました。「あなたがたの天の父」と言っておられるのです。まず神が「わたしたちの天の父」となってくださいました。私たちは、神を「天にまします我らの父」と呼ぶことができる。イエス様はそのように祈りなさいと言われました。神を天の父と呼べるということは、決して当たり前のことではありません。神が私たちの天の父となってくださったのは、私たちがふさわしいからではありません。もともと全くふさわしくない私たちが、神を天の父と呼べるとするならば、それは父が、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」という御方だからです。

 そのような神が、そのような神だからこそ、正しくない私たちのためにも、雨を降らせるどころか、御子をさえ世に降されて、御子をさえ十字架にかけて、罪を贖ってくださったのです。そのようにして、私たちの罪を赦して、私たちの天の父となってくださったのです。そのように神が私たちの天の父となってくださったから、私たちもまた父の子となっていくのです。それはすなわち、天の父がしてくださったように、私たちも父と同じようにすることです。その具体的な現れが、例えば「敵を愛し、迫害する者のために祈る」ということなのです。

 そして最終的に、主はこう言われるのです。「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。「天の父が完全である」とは文脈から明らかなように「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」ということです。すなわち、その完全さとは、無償の愛としての完全さです。

 愛なる父は、私たちが復讐心でいっぱいになったまま生きることを望まれないのです。憎しみでいっぱいのまま生きることを望まれないのです。悪に負けたまま生きることを望まれないのです。むしろ、子どもたちが善をもって悪に打ち勝って生きることを望んでおられる。愛なる父は、私たちが「天の父の子」として生きることを望んでおられるのです。それが「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」ということです。パウロは同じことを別の表現でこう言っています。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(エフェソ5:1)。
(祈り)

2020年11月8日日曜日

「恵みの門が開かれている時」

マタイによる福音書 3:1‐12

 マタイによる福音書には、他の福音書と同じように、主の先駆けとして洗礼者ヨハネのことが記されています。ヨハネの口から出る厳しい言葉が、ファリサイ派やサドカイ派の人々に対して投げかけられています。マタイは何のためにこれらを書き記したのでしょうか。この福音書はユダヤ教徒を直接の読者としてはいません。ならば目的は明らかです。その時代の教会に聞かせるために、キリスト者に聞かせるために、このヨハネの言葉もまた書き記されたのです。

 人々に対して悔い改めが呼びかけられています。それは私たちに対して悔い改めが呼びかけられていることを意味します。ヨハネはメシアの到来のために、道を備えようとしています。私たちは既にメシアが来られたことを知っています。そして、その御方が終わりの日に再び来られることを信じ、告白しております。洗礼者ヨハネの言葉が主の第一の到来への備えであったように、今日聞かれている彼の言葉は、私たちにとって、主の再臨への備えなのです。

悔い改めよ、天の国は近づいた
 はじめに1節から6節までをお読みします。
 「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」』ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(1‐6節)。

 洗礼者ヨハネという人物が突然登場します。彼がどこの誰であるかはさほど重要ではないようです。関心が向けられているのはその働きです。キリストとの関わりにおいて、彼が何を為したか、ということです。聖書はこのヨハネについて「荒れ野で叫ぶ者の声」だと言います。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ声だ、と言うのです。主が来られるために道が整えられなくてはなりません。救い主をお迎えするために道が備えられなくてはなりません。

 それは何を意味するのでしょう。ヨハネは叫びます。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」道が整えられるために求められているのは悔い改めです。救いの到来に備えて整えられなくてはならない道は悔い改めです。悔い改めなきところに救いはありません。悔い改めとは、単に悔いることではありません。後悔する人はいくらでもいます。後悔から自己嫌悪に陥る人もあるでしょう。しかし、いかなる後悔も自己嫌悪も、それ自体は救いをもたらすことはありません。悔い改めとは方向を変えることです。悔い改めとは神に立ち帰ることです。神を離れた生活、神に逆らった生活の方向を転換し、神に立ち帰ることなのです。

  それは後悔とは違って、人間の内から自然に出てくるものではありません。これは神からの呼びかけがあって始めて起こり得ることです。ですから、神の言葉を伝える預言者が繰り返し遣わされたのです。ここでも洗礼者ヨハネが神によって遣わされ、悔い改めへの呼びかけがなされているのです。

 方向転換をして神に立ち帰ることが呼びかけられているのは、「天の国は近づいた」からです。天の国というのは、いわゆる極楽のことではありません。ユダヤ人が「天」という時、それはしばしば「神」を意味します。神の名を口にすることを避けて「天」と呼ぶのです。それゆえ「天の国」とは「神の国」に他なりません。神の国とは、神の王国です。王としての神の支配を意味します。神が絶対的な王として来られるところにこそ人間の救いがあるのです。

 しかし、神が王として来られるところに、救いと共に裁きがあります。救いと裁きは同じ神の行為の裏表なのです。これは少し考えれば誰にでも分かることです。神が王として来られることは、神を愛し待ち望む者にとっては救いです。しかし、神を憎む者にとっては恐るべき裁きです。神に従う者にとっては救いです。神に逆らう者にとっては恐るべき裁きです。世が救われる時は、世が裁かれる時でもあります。だから、悔い改めが呼びかけられているのです。この悔い改めへの呼びかけに応え、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々はヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けたのでした。

悔い改めにふさわしい実を結べ
 続いて7節から10節までをお読みします。
 「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。「我々の父はアブラハムだ」などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。』」(7‐10節)

 ヨハネのもとに、ファリサイ派やサドカイ派の人々も大勢やってきました。これは驚くべきことです。少なくとも彼らが神の裁きを真剣に考えたということを意味します。彼らは、自分自身が神との関わりにおいて危機的状況にあることを理解しました。ですから、神の怒りを免れようとしたのです。しかし、単に神の怒りを免れようとすることと、悔い改めとは異なります。

 それゆえに、ヨハネは彼らに対して「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言うのです。これは単に「善い行いをしなさい」とか「善い人間になりなさい」という意味ではありません。「実」は命の通うところに実るのです。ですから、根本的に問われているのは、神との関係なのです。求められているのは、単に神の裁きを逃れようとすることではなくて、苦境や危機を逃れようとすることではなくて、真に神に立ち帰ることなのです。立ち帰って神と共に歩む、命の通った生活が求められているのです。

 そのためには、悔い改めを妨げる一切の拠り所が捨て去られなくてはなりません。彼らにとって、それはユダヤ人としての誇りでした。「我々の父はアブラハムだ」という誇りでした。そんなものは、かえって悔い改めの妨げになるのです。「だからどうした」とヨハネは言うのです。「言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」つまり、真の悔い改めをなし、ふさわしい実を結ぶことに比べたら、アブラハムの子だなどというユダヤ人の誇りなどは、微塵の価値もない。むしろそれらは捨て去られなくてはならない。そして、これは単に彼らだけの話ではありません。先にも申しましたように、これらの言葉は私たちが聞くために書き記されているのです。

恵みの門が開かれている時に
 最後に11節以下をお読みします。
 「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(11‐12節)。

 ここでイメージされているのは脱穀の様子です。農夫が箕をもって麦を空中に放るのです。すると風がもみ殻を吹き分けます。そして麦は倉に入れられ、殻は焼き払われることになる。それがメシアを通して行われる最終的な神の裁きだと語られているのです。そして、そのメシアが来られたのです。それがイエスという御方です。福音書はそのことを伝えているのです。この御方こそ、まことの王であり、最終的な裁きの権限を持っておられる御方なのです。

 しかし、ヨハネがここで語っていないことを私たちは既に知らされています。メシアは第一の到来においては、人を罪に定め、裁きを執行する方としてではなく、人を罪から救う方として来られたということです。キリストは吹き分ける箕を手に持つ方としてではなく、私たちの罪を担い、十字架を背負われる方としてこの世に来られたのです。

 それは何のためですか。私たちが罪の赦しを得、神に立ち帰って、神と共に生きる者となるためです。そして、私たちはやがてその御方を再び迎えることになるのです。最初に申しましたとおり、そのような私たちに向けて、これらのヨハネの言葉は記されているのです。恵みの門が開かれている時に、私たちが悔い改め、立ち帰り、神と共に生きるためです。

 この洗礼者ヨハネの聖書箇所は、年によってはアドベントに読まれる箇所でもあります。今月の29日からアドベントに入ります。今年は少し早く、キリストの到来に思いを向けるよう導かれているのには、恐らく深い意味があるのでしょう。というのも、明らかに今年は特別なアドベントを過ごすことになるからです。

 私は今年の春、教会に集まれなくなった中で過ごしたレントの期間を思い起こします。世界中の教会で、日曜日に教会に集まれなくなるということが起こりました。そのことによってどうなったか。ただ日曜日に説教を聞くだけの“サンデークリスチャン”みたいなものは成り立たなくなったのです。それはすなわち、信仰に生きるとはいかなることかを問われる厳粛な時でもありました。本当に神と共に生きるとはいかなることか。御言葉と共に生きるとはいかなることか。神を礼拝する神の民として生きるとはいかなることかを問われたのです。そんなレントを過ごしました。そして、イースターを集まって祝うことはできなかったけれど、いつにもまさる復活祭の恵みをいただいたのだと思います。

 集まれなくなってちょうど8か月が過ぎたところで、今年のアドベントを迎えます。改めて神から悔い改めが呼び掛けられるのでしょう。例年なら12月20日がクリスマス礼拝です。しかし、明らかに皆が集まることができないその日、私たちは本来の「待降節第四主日」として過ごすことになります。まだ飾り布は紫です。そのように、今年は特別なアドベントの期間をいただきます。神に立ち帰り、神を礼拝し、日々、御言葉と共に祈りつつ共に歩みましょう。そうしてこそ、今年、備えられている特別なクリスマスの恵みにもあずからせていただけるのだと思います。恵みの門が開かれている時に、立ち帰らせていただきましょう。

(祈り)

2020年11月1日日曜日

「人生において決定的に重要な時とは」

テサロニケの信徒への手紙一 4:13‐18

神のラッパが鳴り響く時

 本日の第一朗読においては「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(コヘレト3:1)と語られていました。「定められた時」。もちろんお定めになるのは神様です。

 何事にも神の定められた時がある。その中でも、特に、人間にとって決定的に重要な、ある神の定められた時がある。今日の第2朗読では、その決定的に重要な神の定められた時について語られていました。それは何か。「キリストの再臨」です。キリストが再び来られるその時です。私たちが使徒信条においてキリストについて「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と言い表している、その時です。

 テサロニケの信徒たちがどのようにキリストの再臨を信じていたかは、1章において次のように語られています。「すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」(1:9‐10)。

 キリストの再臨の時は、第一には神の最終的な裁きの時に他なりません。この罪と不正に満ちた世界を、神が最終的に正しく裁いてくださる。それが「来るべき怒り」と表現されています。悪が大きな力を持つ時に、それを誰も裁くことができなくなる。それがこの世の現実です。しかし、そのようなこの世のありさまが永遠に続くのではありません。神が最終的に正しく裁き、神が決着をつけられるのです。

 もちろん私たちも罪に満ちたこの世の一人として、罪ある人間の一人として、神の裁きを他人事にはできません。私たちの人生もまた、すべて神の御前にあります。私たちもまた神の裁きのもとにある。しかし、そこで「この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」と聖書は語るのです。

 来るべきキリストは、かつて来られたキリストです。私たち罪人を招いてくださった方、そして私たちの救いのために十字架におかかりくださった御方です。その方が再び来られるのです。だからこそ、私たちはキリストを待ち望むことができる。その御方は私たちの救い主だからです。キリストに再びお会いする時、私たちは、罪の赦しが何であるかを、本当の意味で知ることになるのでしょう。救いが何であるかを知ることになるのでしょう。キリストの再臨の時、それは最終的な救いの時でもあるのです。

 その出来事がどのように起こるのか。パウロは次のように教えています。「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」(1テサロニケ4:16‐17)。

 そこでは「合図の号令」、「大天使の声」、「神のラッパの鳴り響く音」について語られています。それらによって表現されているのは圧倒的な《神の主権》です。「その時」は神が主権をもってお定めになり、一方的に実現するということです。そこには人間の都合や予定などが入る余地など、まったくないということです。「待ってください、まだです」という余地はないということです。私たちは個人の人生の終わりがそのようなものであることを知っています。「待ってください」が通用しない。同じことが、この世界全体にも言えるということです。


空中で主と出会うため

 そして、死者の復活について語られています。これについては後に触れます。まずは生きている間にキリストの再臨があった場合を考えてみましょう。その時には、「わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます」(17節)と書かれています。なぜ「空中」と表現されているのか。それは「地上ではない」ということです。つまりそこで人間に起こることは、この地上の人生の延長ではないということです。

 私たちのこの地上の歩みの延長にないことが起こる。それは私たちが聖書を理解する上でもとても大事なことです。例えば、この手紙の3章には次のようなパウロの祈りが記されています。「そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン」(3:13)。今、私たちが地上で経験していることの延長において、「非のうちどころのない者となる」ということが実現すると思いますか。思えないでしょう。しかし、キリストの再臨における私たちは、単なる地上の歩みの延長にいるのではないのです。

 そのような「神の定められた時」が来るのです。その時について、イエス様ご自身は福音書の中でこう言っておられます。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である」(マルコ13:32)。ならば本来、私たちの人生における一瞬一瞬は、その時となる可能性と共にあるのです。いつかは分からないのですから。私たちは予定を立てます。しかし、そこにはいつでも「御心ならば」がついて回ります。明日のことを考えます。しかし、いつでも「御心ならば」が前提なのです。

 それゆえに、この再臨の信仰は重要です。なぜなら、これがないと、いつも昨日から今日へと引いた線の延長上に明日を考えるようになるからです。そして、実際、人間は通常そのように生きているのでしょう。そのことがしばしば諦めと倦怠をももたらします。昨日から今日の延長に明日があるのなら、諦めるしかないことはいくらでもあるからです。昨日も苦しかった。今日も苦しかった。その延長としてしか明日を見ることができなければ、明日も必ず苦しいに違いないと思うわけでしょう。そのように、苦しみもまた永遠に続くかのように思ってしまう。決定的な「その時」は、神によって定められていることを忘れているからです。


眠りについた人たちも

 さて、先にも触れたようにテサロニケの信徒たちはキリストの再臨を待ち望む人々でした。自分が生きている間にキリストは再び来られると信じていました。それはパウロも同じです(15節)。それがキリストの再臨を信じる本来のあり方です。しかし、そのように信じていた仲間の中に、再臨の前に死んでしまう者が起こってきました。それは大きな動揺を呼び起こしたようです。それゆえにパウロは次のように書き送ります。「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」(13節)。

 「眠りについた人」はどのような状態にあるのか、死後の世界はどうなっているのかについて、聖書はほとんど何も語りません。パウロもそのことについてほとんど関心を向けません。大事なことはただ一つ。死んで終わりでない、ということです。だから「眠り」と表現しているのです。

 そして、終わりではないのですから、「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません」ということも言えるのです。要するに、キリストの再臨のときに、生きていようが死んでいようが関係ないということです。いやむしろ死んだ人の方が先だ、とパウロは言っているのです。

 これは私たちが生きていく上で極めて重要な認識です。なぜなら、私たちは自分の人生を考える時にも、他の人の人生を考える時にも、「死」という「その時」を決定的に重要なこととして考えているからです。自分についても、他の人についても、「あと何年生きられるか」ということは小さなことではないでしょう。また「どのように死ぬか」ということも決して小さなことではないでしょう。若くして事故で亡くなることは、実に不幸なことと見なされます。事件に巻き込まれて亡くなったなら、不幸な人として語られるのでしょう。

 しかし、本当は、人間にとって決定的に重要な時は、「死の時」ではないのです。最初から申し上げていますように、人間にとって決定的に重要な時とは、キリスト再臨の時なのです。その時に生きていていようが、既に死んでいようが、大きな違いはないのです。本当の意味でキリストと相まみえることとなる「その時」こそが、私たちにとって最も重要な時なのです。私たちすべての人間存在は死に向かっているのではなく、神の定められた「その時」へと向かっているのです。

 それは神が定められる時です。人間はそれがいつであるかを知りません。先にも申しましたように、私たちの人生における一瞬一瞬が、その可能性と共にあるのです。ならば、その一瞬一瞬の「今」こそが、人生における最も重要な時であるとも言うことができるのでしょう。それゆえに、イエス様は繰り返し「目を覚ましていなさい」と言われたのです。キリストの再臨を信じる信仰は、「今」を大切にして生きることへと、私たちを向かわせるのです。

(祈り)


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