2024年4月28日日曜日

「霊の結ぶ実は愛である」

ガラテヤの信徒への手紙 5:16‐26

律法によって歩むこと

 今日の第二朗読で読まれたガラテヤの信徒への手紙には、「霊」と「肉」という言葉が繰り返されていました。ここで語られている「肉」とは「肉体」のことではありません。この「肉」とは、私たち人間が共通して持っている罪深い性質のことです。

 動物園の虎を思い描いてみてください。その虎を檻から出して町中に野放しにしたら、恐らく大変なことになるでしょう。虎はその本能にまかせて何をしでかすか分かりません。それと同じように、私たち人間の内には、何の制約もなく野放しにしたら、それこそ何をしでかすかわからない「わたし」がいるのです。それが「肉」と表現されているものです。

 実際、「肉」を野放しにしたら「肉」は何をしでかすのか、その肉に従って生活したら、どのようなことが起こり得るのか、そのリストが19節に挙げられています。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」(19‐21節)。

 ここに書かれていることは、一つ一つ特に説明はいらないでしょう。たしかにこれが「肉の業」だと言えば、本当にそのとおりだと思います。そして、私たちも分かっているのです。そのような「肉」が野放しにされて、自由にその「肉の業」を行うようであってはならないし、この「肉」に従って生活してはならないということを。そのように生きて絶対に幸せにはならないし、それどころか、それは滅びへと向かう生活ともなる。そんなことは皆が知っていることです。。

 ですから、虎を鎖でつなぎ止めたり、檻に入れたりするように、私たちも「肉」をつなぎ止めたり、押さえ込もうとするのです。ユダヤ人にとりましては、まさにその機能を果たしていたのが「律法」、すなわち宗教的戒律だったのです。律法を持っているということは実に安全なことだったのです。それを遵守するということは身を守ることでもあったのです。

 それはユダヤ人でない私たちであっても、ある程度理解できることです。例えば様々な規則や法律、次々に定められる条例などを考えてみてください。確かに、様々な規則や国家の法律は、「肉」が野放しになって肉の業を行わないための鎖となり、檻となっているのです。もちろん、ただ規則があるからというだけで、私たちは自らを規制するわけではありません。もう一方において、私たちは多かれ少なかれ道徳的・倫理的な意志を持っているわけです。私たちは自分の意志の力をもってある程度、肉を押さえ込んでいるわけです。

 そのようにユダヤ人たちは、与えられているモーセの律法によって、また律法を遵守して生きようとする意志によって、肉の活動をつなぎ止め、あるいは封じ込めてきたのです。少なくとも彼らはそう思っていたのです。ですから、当然のことながら、キリストを信じた後でも、やはり律法を遵守することは大事なことだと考えるユダヤ人クリスチャンは少なくなかったのです。いや、教会の中にはユダヤ人以外の異邦人クリスチャンもいるのだから、彼らにも律法を守らせるべきだと考える人たちがいたのです。

 そのように律法が重んじられ、律法の遵守によって神の御前に義しい者となろうと思っている人が少なからずいた教会、それがこの手紙の宛てられているガラテヤの教会でした。そしてそのような律法を遵守して生きようとする意志の力によって「肉」は確実に押さえ込まれている教会である・・・はずでした。

 しかし、実際にはどうだったのでしょう。今日お読みした箇所の直前にはこんなことが書かれています。「だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」(15節)。今日の箇所の直後にもこんなことが書かれています。「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう」(26節)。今日の箇所は、そんな言葉に囲まれているのです。

 変な話だと思いませんか。敵意や争いやねたみなどは、それこそ「肉の業」であったはずです。しかし、律法によって、人間の意志の力によって、外側から肉を押さえ込もうとしていった時に、かえって「肉の業」が活発に表に現れる結果となっていたというのです。

 いや、「変な話だと思いませんか」と言いましたが、実はこのようなことは、私たち自身、身近なところでいくらでも経験していることだろうとも思います。規則によって、あるいは義務を課すことによって秩序を保とうとする人たち、人間の意志の力によって正しくあろうとする人たちが多くなればなるほど、そこには争いと対立が起こりやすくなるのです。そねみやねたみ、怒りが支配するようになるのです。また、隠れた不道徳、覆い隠されたみだらな行いもまた増えていく。

 パウロにとってそそのようなことは自らの経験から分かり切っていたことなのです。パウロ自身、かつてファリサイ派に属し、律法を落ち度無く守ってきた人でしたから。それは福音書を読んでも分かります。イエス様の周りに登場するファリサイ派の人たちの姿、どうですか。文句ばかり言っている人たち。怒りと殺意に燃えて、イエスを亡き者にしようとしている人たち。これが神様の望んでいる姿であろうはずがない。

 確かに「肉」を野放しにしてはならないのです。しかし、律法によって、規則によって、人間の意志の力によってこれをつなぎ止めておこうとすると、どうしてもそこは喜んで互いに愛し合って生きる世界にはならなくて、怒りをもって互いに裁き合う世界となり、また表面だけきれいに取り繕う世界になってしまうのです。そのような形で、かえって「肉の業」が現れるようになってしまう。ならば一体どうしたらよいのでしょう。

霊に従って歩むこと
 そこでパウロは言うのです。「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」(16節)と。律法によるのではない、しかも肉を野放しにするのでもない、もう一つのあり方がある。それは霊の導きに従って歩むことである。そうパウロは言っているのです。

 ここで言われている「霊」とは、人間の霊のことではなく、神の霊、聖霊のことです。パウロが語っているのは、律法を遵守して自分の意志の力によって肉を克服しようとする生き方に対して、ひたすら聖霊の導きを求める生き方。言い換えるならば、生ける神との親しい交わりに生き、神の導きによって生きる、という生き方です。

 さて、教会の暦においては、聖霊降臨祭が近づいてきました。それは、今からおよそ二千年前の一つの出来事に由来する祭りです。復活したキリストは弟子たちにこう言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)。そして、弟子たちはどうしましたか。ひたすら聖霊が降るのを待ち望み、祈り求めました。そして、彼らが集まって祈っているところに聖霊が降りました。その出来事を記念するのが「聖霊降臨祭(ペンテコステ)」です。今年は5月19日です。

 あの日、天から降った聖霊、神の霊は、今もこの地上において生きて働いておられます。そして、キリストを信じる者の内に住んでくださいます。ですから、私たちは信仰生活を、ただ良い教えを学んでそれを実践していくことであるかのように考えてはなりません。私たちはただキリスト教的な規範によって生きるのではなく、聖霊によって生きるのです。私たちは生ける神の霊が私たちの内に宿り、私たちの心と体と生活を導いてくださることを信じ、神と共に生きるのです。

 私たちが神と共に生き、聖霊の導きを求めて生き始めると、一体何が起こってくるのでしょう。17節以下にこう書かれているとおりです。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」(17節)。

 いわば私たち自身が戦場となるのです。肉と霊との戦いの場となるのです。私たちの内には葛藤が生じます。それまで肉に従って喜んで行っていたことが苦しみとなります。悲しみとなってまいります。キリスト者となった後に、自分の罪深さに悩み、涙を流すようになることを驚いてはなりません。それは当然のことなのです。肉に対立する聖霊が来られたのですから。それは必然的なプロセスです。そして、それは幸いなことなのです。そのプロセスを経て、肉は支配力を失い、肉の望むところに反する聖霊が支配するようになるのです。

 それは律法のように外側から課せられた変化ではありません。神が聖霊によって内側から起こされる変化です。そのような神による内的変化を、パウロは「霊の結ぶ実」と表現しています。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」(22‐23節)。特に、肉については「肉の業」と言われていたのに対し、霊については「霊の結ぶ実」と語られていることに注意してください。実は私たちが作るべきものではなくて、《実る》ものです。実というものは命から生ずるのです。

 「霊の結ぶ実は愛である」と書かれています。私たちは、何らかの規範や規則に従うことによって、愛の人になることはできません。さらに「喜び、平和」と続きます。人間の力によって喜びと平和に満ちた人になることはできません。寛容以下のすべての事柄についても、同じことが言えます。これらは神と共に生きるとき、信仰によって生きるとき、命の現れとして生じるものなのです。聖霊が私たちの内に結んでくださる実なのです。

 リンゴの実を得るために、一生懸命にリンゴの実自体を「作ろう」とするならば、それは愚かなことです。リンゴの実はリンゴの木に実るものだからです。ですから、大切なことは、リンゴの木を育てることです。同じように、私たちにとって大切なことは、私たちの力によって肉を克服して「愛、喜び、平和…」を私たちの人生に作り出そうとすることではないのです。信仰生活の木を丁寧に育てていくことなのです。ひたすら神を求め、聖霊の導きを求め、神と共に生きる生活を形作っていくことなのです。「霊の導きに従って歩みなさい」とは、そういうことです。

2024年4月24日水曜日

祈祷会用」出エジプト記 15:1~21

出エジプト記 15:1-21

 イスラエルがエジプトを脱出すると、エジプト軍が追って来ました。そして海辺で宿営している彼らについに追いつきます。前は海、後ろはエジプト軍という危機の中で、モーセはイスラエルの民に言いました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」(14:13)

 「あなたたちのために行われる主の救い」――それは単に、追い迫るエジプトの軍隊を主が打ち破ってくださるということではありませんでした。彼らはその前に、海の中に開かれる道を見たのです。彼らはイスラエルの民の《終わり》でしかなかったそのところに、《終わり》を突き抜けて進み行く新しい道が開かれるのを目の当たりにしたのです。

 しかし、神によって道が開かれるということは、そこを歩いて通らなくてはならないということをも意味します。道を開かれるのは主ですが、歩いていくのは彼らが自らしなくてはならないことです。誰も代わって歩いてはくれません。信仰とはそういうものです。信じるのは自分であり、信じて歩み出すのも自分なのです。他の人が代わりになれません。

 海に開かれた道を歩いて行くのは恐ろしいことであったに違いない。「水は彼らの右と左に壁のようになった」(22節)と書かれているのですから。その中を渡りきることができる保証はどこにもありません。彼らは何の確かさも持ち合わせていません。ただ信じるしかないのです。約束の地へと導くと約束された主の真実と、彼らを救われた神の恵みを信じるしかない。そのように、彼らは信仰によって歩くことを求められたのです。

 モーセは「静かにしていなさい」と言いました。つぶやいてはならない。疑ってはならない。絶望してはならない。希望のない者のように、嘆き悲しんではならないのです。私たちには口を閉ざし、静まるべきときがあるのです。そして、ただ主の真実と恵みに寄り頼んで、主が開いてくださった道を進んで行くのです。

今日の箇所は、そのように主が開いてくださった道を歩いて行ったイスラエルがうたった歌です。これは「海の歌」として語り伝えられた古い歌の一つです。

 ちなみに、21節は「ミリアムの歌」と呼ばれ、旧約聖書の中に出てくる歌の中でも最古のものの一つと言われています。1節から18節の「海の歌」は、このミリアムの歌をもとにして、これが拡大されて造られてきた歌であると考えられます。このような歌は唱われながら伝えられていきます。そうしている内に、歴史の中でふくらんでくるのです。ですから、後の時代の話まで入ってきています。エジプト脱出の話だけではないのです。たとえば17節以下をご覧ください。「嗣業の山」とはシオンの山であり、エルサレムの話がここにうたわれています。そのエルサレムが「あなたの住まい」と呼ばれるようになるのはダビデの時代です。そのように歌い継がれる中で拡大されてきたことがわかります。

 そのように、イスラエルの人たちはこの歌を歌い継ぎながら、拡大してきたのです。それは何を意味するのでしょうか。彼らは、出エジプトをもたらした神は、その後々までもずっと変わらないと信じていたということです。出エジプトの出来事というのは、あの時だけの話ではないのです。その御業を現された神は後の時代の人々の神でもあるのです。賛美を歌い継ぐとはそういうことなのです。

 これを読んでいる私たちも、出エジプトの出来事を、あの時だけの話だと思って読んではならないのです。いや、新約の時代に生きる私たちならば、さらにこの歌を拡大することもできるでしょう。私たちならば、この神はまた、イエスを復活させた神なのだ、という言葉を加えることができるからです。私たちをも罪と死の中から復活させてくださり、新しい命に生かしてくださった神だと歌うことができるのです。

 そのようなことを思いつつ、この歌をじっくり味わいたいと思います。このような歌は、私たちの歌として、解釈するよりも喜びをもって味わうことが大事です。そのために、大事なポイントを三つだけ挙げておきたいと思います。

その第一は、この歌にうたわれているのは、「この方こそ、わたしの神」と呼ぶことのできる喜びであるということです。単に「救われてよかった。危機を脱することができてよかった」と喜んでいるのではないのです。そうではなくて、彼らは「主を讃美して」いるのです。神に向かって歌っているのです。神の力強い御業を歌っているのです。そして、その御方が「わたしの神」であることを喜んでいるのです。「この方こそわたしの神」と。

 これが歌として伝えられているということは、先にも言ったように、後の時代の人も拡大しながら同じように賛美して歌ってきたということです。実際に葦の海を渡った人が「この方こそわたしの神」と言って喜んで歌っているのではないのです。これを実際には経験していない人たちもまた、「この方こそわたしの神」と言って喜びの声を上げるのです。それが賛美をうたうということなのです。だから「主はわたしの歌」という言葉も出て来るのです。

 単に自分の個人的体験から「この方こそわたしの神」と讃美する信仰と、神の民の歴史を共有して「この方こそわたしの神」と賛美する信仰の違いをしっかりと見なくてはなりません。私たちの喜びは単に、「苦しい時、神様が助けてくださった」という喜びではないはずです。イスラエルをエジプトから導き出した神、あの方が「わたしの神なのだ」という喜びをもって神をほめたたえる。イエスを死者の中から復活させた神、あの神こそ「わたしの神なのだ」という喜びをもって神をほめたたえる。賛美とはそのようにささげるものなのです。

そして、第2に注目したいのは、この歌が主への畏れをもって歌われているということです。単に救われたことを喜ぶのではなく、この方こそ「わたしの神」であると歌うことは、神を真に畏れることへもつながるのです。単に起こった出来事を喜んでいるだけであるならば、神を畏れる人にはなりません。

 ここでは何が歌われているでしょうか。それは「敵が滅ぼされた」ということです。「敵」とは単にイスラエルの敵という意味ではありません。既にみてきたように、問題は神への敵対にあるのです。私たちが読んできたのは、かたくなに敵対し続ける者の話だったのです。そのように敵対する者を「わらのように焼き尽くす」(7節)神について歌われているのです。これは驚くべき言葉です。エジプトと言えば、当時において他に並ぶもののない超大国なのです。エジプトというのは、いわば人間の力の極まった姿なのです。しかし、それは「わら」に過ぎないと歌われているのです。神は「息をふきかけるだけ」で超大国の軍隊を滅ぼせる神なのです。

 もちろん、そのような神であるのは、あの出エジプトの時だけではありません。その認識こそが、神への畏れをもたらします。敵対する者に対する神の裁きを歌うときこそ、また、神に敵対するのではない、神の民とされていることがどれほど幸いなことかということも分かるのでしょう。その幸いを歌うこともできるのでしょう。

それはまた、第3の点にかかわってきます。この歌を歌う者は、「贖われた民」の中に身を置いて歌っているということです。

 13節では「贖われた民」と語られています。16節では「買い取られた民」と歌われています。これらは言葉は違いますが、意味合いは同じです。奴隷が買い取られて自由にされるという社会的な習慣を背景にして歌われているのです。イスラエルが神の民とされたのはそういうことであると。

 誰かが奴隷を買い取った上で、その奴隷を自由の身にするとしたら、それは全くその人の好意によるのであり、一方的な恵みとしか言いようがないでしょう。もしそんなことが実際に起こったならば、「なぜそんなことをしてくださるのですか」と問うしかない。そのような出来事であるに違いありません。イスラエルがエジプトから解放されたとは、まさにそのような出来事だったのです。

 力強い神、超大国さえ息をもって滅ぼすことができる神は、同じくイスラエルをも滅ぼすことができたはずですし、滅ぼされても不思議ではない民でした。しかし、神はそうなさらなかったのです。イスラエルをエジプトから導き出して、一方的な恵みによって御自分のものとされたのです。なぜそんなことをしてくださるのですか、と言わざるを得ないような出来事でした。だから「贖われた民」「買い取られた民」という自己認識をもって歌われているのです。それは彼らが今あるを得ているのは、まさに神御自身の一方的な恵みであることを示しているのです。

 神の敵ではなくて、そのような神のものとされた民の中にいる。その民の中にいるゆえに「主はわたしの神」と言える。その幸いを歌っているのがこの歌なのです。単に危機を脱してよかったという歌ではないのです。

 私たちが讃美をする時に、何を考えて讃美をしているのでしょうか。神の一方的な憐れみによって贖われた民の中にいること、イエス様が十字架で血を流してくださって御自分のものとされた教会の中にいること、そこにおいて「主こそわたしの神」と言えること、そのことを喜びながら主をたたえること。私たちの賛美はそのようなものとなっているでしょうか。


2024年4月21日日曜日

「他の人との比較ではなく」

ヨハネによる福音書 21:15-25 

 「食事が終わると」と書かれていました。この前に書かれていたのは、復活されたイエス様との食事の場面です。夜通し働いていた弟子たちをイエス様が迎えてくださいました。炭火を起こし、魚を焼いて、パンを用意して迎えてくださいました。主は言われます。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。弟子たちは喜びをもって主と食を共にしました。

 その食事の描写によって指し示されているのは、私たちが今日も行います「聖餐」です。そして、聖餐卓の周りに集められ、迎えられてささげる主の日の礼拝です。夜通し働いて何も捕れなくても朝は来ます。同じように、私たちがどんなに辛い一週間を過ごしたとしても、必ず日曜日は来るのです。そして、復活の主が私たちを迎えてくださいます。復活の主が既に豊かな命の糧を備えていてくださいます。そして、私たちは命の糧に養われます。今日お読みしているのは、そのような復活の主との食事に続く場面です。

わたしに従いなさい
 その食事が終わると、主はペトロに問いかけました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(15節)。そこからペトロとイエス様との間の非常に印象的な対話がはじまります。そのやりとりはどこに行き着くかを先に見ておきましょう。イエス様はペトロに言われるのです。「わたしに従いなさい」(19節)。

 命の糧にあずかったペトロはイエス様から「わたしに従いなさい」と言われます。「わたしについて来なさい」と言われるのです。しかし、「ついて来なさい」と言われているこのペトロは、かつてイエス様から「あなたは今ついて来ることはできない」と言われたペトロであることを思い起こさねばなりません。

 それはイエス様が十字架にかかられる前夜、最後の晩餐でのことでした。イエス様は御自分が間もなく捕らえられ、十字架にかけられることをご存じの上で、弟子たちにこう言われたのです。「『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく」(13:33)。するとペトロは驚いて尋ねるのです。「主よ、どこへ行かれるのですか」。するとイエス様はペトロにこう答えられました。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」(13:36)。これを聞いたペトロは言うのです。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」(同37節)。

 ペトロは本気だったと思います。どこまでもついていくつもりだった。命を捨てるようなことになっても、ついていくつもりだったのです。他の福音書ではこうも言っています。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(マルコ14:29)。たとえ他の人がつまずいて、ついていかなかったとしても、わたしはつまずきません。わたしはどこまでも従ってまいります。そう語るペトロは本気だったと思います。

 しかし、その時イエス様はペトロに言われました。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言いうだろう」(13:38)。――そして、そのとおりになりました。イエス様には分かっていたのです。「あなたは今ついて来ることはできない」。しかし、それでよかったのです。なぜならそこには彼らがついて来なくても、イエス様がひとりで成し遂げなくてはならないことがあったからです。

 世の罪を取り除く神の小羊として、この世の罪を代わりに自らの身に負うこと。罪の赦しをもたらすために、十字架の上で罪の贖いを成し遂げること。それはペトロがついて行っても一緒にはできないことでした。人間がいかなる形においても手を貸すことができないことでした。救いはただイエス様の成し遂げられることにかかっているのであって、人間はただその恵みにあずかるだけなのです。そして、イエス様はひとりで成し遂げられました。主は「成し遂げられた」(19:30)と言って、息を引き取られた。そのようにヨハネによる福音書は伝えています。

 ただひとりで罪の贖いを成し遂げられたイエス様は、復活されて再び弟子たちに出会います。ペトロにも出会ってくださいました。イエス様はペトロをも迎えてくださいました。イエス様はペトロにも命のパンを差し出してくださいました。そして、ペトロは聞いたのです。「わたしに従いなさい」と言われる主の御声を。

 もうイエス様は「あなたはついて来ることはできない」とは言われません。ペトロはイエス様についていくのです。だからこそ、イエス様とペトロとの、このやりとりもまた必要だったのです。三度イエス様を否んだペトロが、ついて行くことができなかったペトロが、そこから再びイエス様についていくためでした。

わたしを愛しているか
 食事が終わると主はペトロに尋ねました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(15節)。「この人たち以上に」つまり「他の弟子たち以上に」と主は問われます。もうペトロは、「この人たち以上に」とはいいません。「あなたのためなら命を捨てます」とも言いません。ペトロはあの時のことを思い起こしたことでしょう。胸を痛めながら、それでも精一杯の思いを込めて彼は答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。主は言われました。「わたしの小羊を飼いなさい」。

 そして、二度目に主は言われました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。もうイエス様も「この人たち以上に」とは言われません。主が聞きたいのはそんなことではないからです。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。ペトロは答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。主は言われました。「わたしの羊の世話をしなさい」。

 そして、三度目に主は言われました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。イエス様が三度も尋ねたのでペトロは悲しくなって言いました。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」。

 しかし、本当は、ペトロは悲しむ必要などありませんでした。主が三度尋ねられたのは、ペトロの言葉を信用していないからではないからです。主が三度尋ねられたのは、三回主を否んだペトロが三回「愛しています」と口にすることができるようにするためでした。そして、それで十分だったのです。

 イエス様は「わたしを愛しているか」としか問いませんでした。ペトロの過去がどうであったかを問いませんでした。「あなたのためなら命を捨てます」というあの言葉はどうなったかと問いませんでした。自分の言葉に誠実であったかを問いませんでした。主はこれまでペトロがどうであったかを問いませんでした。主は、過去の失敗を一つ一つ打ち消すかのように、「わたしを愛しているか」とだけ問うたのです。そして、ペトロに答えるチャンスを与えてくださいました。主によって重要なことは、過去がどうであったかではなく、今、主を愛しているか、ついて行こうとしているか、ということだからです。

それは私の話であり、あなたの話です
 「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えるペトロに、主は言われました。「わたしの羊を飼いなさい」。そして、さらに主はこう続けられます。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(18節)。

 「手を伸ばす」というのは、古代の教会においては「磔にされる」ことを意味しました。ここで語られているのは、ペトロが殉教するということです。彼は、その晩年が決して自分の思うようにならないこと、そして、最後には悲惨な死を遂げなくてはならないことを示されたのです。しかし、驚くべきことに、聖書はこのように続けるのです。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」(19節)。

 与えられた使命を立派に果たして、大きな働きの実りを後世に残して神の栄光を現すというならば話は分かりやすいでしょう。しかし、イエス様はそのような話をされませんでした。「他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」そのようなことになると主は言われたのです。それでもなおペトロは神の栄光を現すことになるとイエス様は思っておられたのです。それでもなお、単に「連れて行かれる」のではなくて、ペトロはキリストに従う者であり得る。イエス様はそう思っておられたのです。だから主はそのように話してから、ペトロに「わたしに従いなさい」と言われたのです。

 この言葉を、私たちもまた、「わたしを愛するか」という問いと共に聞いています。「他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」。確かにそのようなことはあります。迫害の時代に生き、殉教の死を遂げることになるペトロだけの話ではありません。決して私たちの手の内には収まらない、私たちの人生があります。どのように生きるかだけでなく、どのように死ぬかということも、私たちの思い通りにはなりません。実際、そうではありませんか。

 しかし、それでもよいのです。それでもなお私たちが生き、そして死ぬことは、神の栄光となり得るからです。単に「行きたくないところへ連れて行かれる」のではなく、どこまでもイエス様についていくことはできるからです。死の向こうまでイエス様についていくことはできるのです。

 私たちの人生において本当に重要なことは何が起こるかではありません。願った通りになるか否かでもありません。イエス様の「わたしを愛するか」という問いにどう答えるのか、そして、「わたしに従いなさい」という招きにどう答えるのかということだけなのです。誰か他の人の話ではありません。それは私の話であり、あなたの話です。

 ところがペトロは自分自身が問われ、自分が招かれているのに、こんなことを口走っています。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(21節)。まことに愛すべき人物です。そこに見るのも私たち自身の姿でしょう。それに対するイエス様の答えは極めて明快でした。「わたしの来るときまで(つまりキリストの再臨まで)彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」そうです、主はあくまでも言われるのです。「あなたは、わたしに従いなさい」と。他の人の話にしてはなりません。これは私の話であり、あなたの話です。

2024年4月17日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 14:1~31

 出エジプト記 14:1-31

 「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」(13節)。

 そのとおり、彼らは主の救いを見ることになりました。その神の救いの業は、イスラエルの歴史を通じて語り継がれることとなりました。そして、大事なことは、彼らがそのような主の御業を見たのは、最初にして最大の危機に置かれ、望みが絶たれた時だったということです。

 モーセに率いられてエジプトから脱出した「イスラエルの人々は、意気揚々と出て行った」(8節)と書かれていました。ところが、彼らが出て行った後、エジプト王とその家臣は彼らを去らせたことを後悔し、「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは」(5節)言い出します。そして、ファラオは自ら軍勢を率いてイスラエルの後を追ったのでした。そして、ついにピ・ハヒロトの傍らで宿営していた彼らに追いつきます。

 イスラエルの民が宿営していたのは海辺でした。もはや逃げることはできません。前は海、後ろは追い迫るエジプト軍。イスラエルの民は絶体絶命の窮地に陥ります。彼らは恐怖におののきました。しかし、そこでモーセは民に言ったのです、「恐れてはならない」と。そして言いました。「今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」と。

 「見なさい」と言われていますけれど、実は、彼らは既に神のなさることをたくさん見てきているのです。神様が解放してくださらなければ、奴隷であるイスラエルの民がエジプトを脱出することなど、できるはずがなかったのですから。それは明らかに神がしてくださったことなのです。しかし、神様がどんなに大きなことをしてくださっても、人は見ているようで見ていないものです。人間の行っていることしか見ていないのです。先にも触れたように、彼らは「意気揚々と出て行った」と書かれているのです。それまで奴隷であった者たちが、解放された喜びをもって家族ごとに荷物をまとめてエジプトを脱出しようとしている。――そう、そんな自分たちの姿、お互いの姿、そのような人間の業しか見ていなかったのだろうと思います。

 しかし、彼らは今や、人間の力ではどうすることもできないところに追い詰められたのです。当然彼らは恐れざるを得ない。しかし、そこで彼らは「恐れてはならない」という言葉を聞いたのです。「あなたたちは見なさい」と。そうです、そこでこそ見なくてはならないことがあるのです。そこでこそ神の御業に目を向けなくてはならないのです。

 しかし、神の救いを見る前に必要なことがあります。モーセは言いました。「落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」。まず落ち着かなくてはならない。しかし、「落ち着く」とはどういうことでしょう。実は、「落ち着いて」と訳されている言葉は、もともと「立ちなさい」という言葉なのです。あるいは「自ら立つ」「自らを立たせる」という意味です。モーセは「立ちなさい、そして見なさい」と言っているのです。今いるところにしっかり立つこと。それが「落ち着く」ということの内容です。今いるところは彼らにとっては葦の海の海辺です。そこにしっかり立たねばならないのです。

 モーセが「落ち着きなさい。立ちなさい」と言われたのは、今いるところに自ら立っていなかったからです。その直前に彼らが何と言っているか聞いてみましょう。彼らはモーセに言いました。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」(11‐12節)。

 「我々を連れ出したのは」とは、「《あなたが》我々を連れ出したのは」という意味です。「一体、何をするために」とありますが、「一体、《あなたは》何をするために」と言っているのです。つまり彼らはモーセが導き出したと言っているのです。これはモーセがしたことだと言っているのです。

 モーセという人間によって連れ出されたから今のこの危機的状況にいるのだ。モーセという人間がしたことのゆえに、今、絶体絶命の海辺にいるのだ。そう思っている限り、今いる場所にしっかり立つことなどできません。「『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」と彼らは言っているのです。誰かのせいで仕方なく来てしまった。誰かのせいで仕方なくて今ここにいる。そう思っている限り、今いるところにしっかり立つことなどできません。

 しかし、彼らを連れ出したのはモーセではないのです。主なる神なのです。そもそも、海辺にいるのは主が命じられたからでした。主はモーセに言われたのです。「イスラエルの人々に、引き返してミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営するよう命じなさい。バアル・ツェフォンの前に、それに面して、海辺に宿営するのだ」(2節)。そして、彼らは確かに主の命令を聞き、その上で従ったはずなのです。「彼らは言われたとおりにした」(4節)と書かれているとおりです。

 ならば、今ここにおいても、彼らはモーセにではなく、彼らに命じ、彼らを導いてきた主に思いを向けなくてはならないのです。主なる神が導き出してくださって、主が今いるところに置かれたのです。そして、主がそこに置かれたのならば、そこには目的があるのです。荒れ野で死なせるためではないのです。

 彼らは言いました。「ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます」と言ってたではありませんか、と。そのように、彼らは確かにエジプト人に仕えていたのです。しかし、その彼らを主が導き出されました。それは、エジプト人に仕えていた者たちが、主に仕える者となるためなのです。彼らが導き出されたのは、荒れ野で死なせるためなどではありません。エジプト人に仕え、エジプトの神々に仕えていた者たちが、主に仕える神の民となるためなのです。主に仕える神の民として、この世界に主の御業を告げ知らせる尊い目的に仕えるようになるためなのです。

 主が導かれて今のところにおり、主が目的をもって置いていてくださる。その事実を受け止めてこそ、今のところにしっかりと立てるのです。そうして、初めて人はそこで主の御業を見ることができるのです。今いるところにしっかり立とうとしない人は主の御業を見ることができません。人間のことしか見ようとせず、人間のせいでこうなったとしか考えられず、人間のことに不平や不満を言い続けている限り、主の救いの御業を見ることはできません。モーセは言うのです。「落ち着いて、しっかり立って、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」と。

 そして、モーセは言いました。「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」(14節)。しかし、彼らが見たのは、ただ単に、追い迫るエジプトの軍隊を主が戦って打ち破ってくださるということではありませんでした。もちろん、結果的に彼らは主が戦われる姿を見ることになります。今日お読みしたとおりです。しかし、まず彼らが見ることになったのは、彼らの行く手を阻んでいた海の中に道が開かれるという主の御業だったのです。いわば《終わり》でしかなかったそのところに、《終わり》を突き抜けて進み行く新しい道が神によって開かれるのを、彼らは目の当たりにすることとなったのです!

 主は道を開いてくださいます。それは彼らが全く思っても見なかった方向に開かれた道でした。主はそのように、私たちが思いも及ばない方向に道を開かれるのです。しかし、神によって道が開かれるということは、そこを歩いて通らなくてはならないということを意味します。主はモーセにこう言っておられます。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい」(15節)。

 救いを叫び求める時は終わりました。イスラエルの民は出発しなくてはなりません。イスラエルの民は進んでいかなくてはならないのです。道を開かれるのは主です。しかし、実際にその足で歩いていくのは主の民です。誰も代わって歩いてはくれません。

 海に開かれた道を見た時、それは望みのなかったところに望みが開かれたのですから、そこには喜びもあったことでしょう。しかし、海に開かれた道を歩いて行くことはまた、この上なく恐ろしいことであるに違いありません。「水は彼らの右と左に壁のようになった」(22節)と書かれていますから。

 彼らが渡りきるまで道が開かれている保障はどこにもありません。そもそも、その中を渡りきることができる保証はどこにもありません。後からはエジプト軍が追い迫っているのですから。海の中を行く彼らは何の確かさも持ち合わせていませんでした。ただ信じるしかありません。約束の地へと導かれる主の真実と、彼らを救い出された神の恵みを信じるしかなかったのです。そのように、彼らは信仰によって歩くことを求められたのです。

 主が戦われます。主が救いの業を現されます。主が道を開かれます。そうです、主は新しい道を開いてくださいます。しかし、そこで私たちがなすべきことがあります。どこまでも主に信頼して歩くことです。私たちが主に信頼し、主に導かれて歩んでいるならば、主に仕える民であり、約束の地へと向かう主の民であるならば、いかなるものも私たちにとって《終わり》ではあり得ません。そうです、最終的に神は、キリストの復活によって、《死》さえも、私たちにとって終わりではないことを示してくださったのです。

 モーセは「静かにしていなさい」と言いました。私たちはつぶやいてはなりません。疑ってはなりません。絶望してはなりません。希望のない者のように、嘆き悲しんではなりません。私たちは口を閉ざし、静まるべきです。そして、ただ主の真実と恵みに寄り頼んで、主が開いてくださった道を進んで行くのです。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」。これは私たちにも語りかけられている言葉です。


2024年4月14日日曜日

「嘆きを喜びに変えてくださる神」

イザヤ書 61:1-3

 私たちが信じている神様は、嘆きを喜びに変えてくださる神様です。本日の第一朗読にそのことが記されていました。今日の説教題はイザヤ書61章3節から取りました。主は灰に代えて冠を与えてくださる。主は嘆きに代えて喜びの香油を与えてくださる。主は暗い心に代えて賛美の衣を与えてくださる。これはまことに、嘆いている人に与えられている喜ばしい神の約束です。

嘆きに代えて喜びの香油を
 しかし、この恵みの言葉が向けられている「嘆いている人」とはいかなる人のことでしょうか。彼らは「シオンのゆえに嘆いている人々」と表現されています。彼らは単に災いを嘆いているのではありません。身に降りかかってきた不幸を嘆いているのではありません。彼らはシオンのゆえに、すなわち、エルサレムのゆえに嘆いているのです。

 なぜなら、エルサレムがいまだに廃墟だったからです。主が選ばれ、主が礼拝されていた場所が、平和と喜びに満ちているはずの場所が、いまだに荒れ果てているからです。そして、その荒廃をもたらしたのは人間の罪のゆえであり、それは他ならぬ彼らの罪のゆえであることを知っているからです。それゆえに彼らは嘆いているのです。重く暗い心をその内に抱き、嘆いているのです。

 この世では、いつも明るく元気である人が好まれます。深刻な顔ばかりしているとネクラと呼ばれて疎まれるかもしれません。この世界や自分自身を見て嘆いているよりは、自分の可能性と人類の可能性を信じて生きていく人――そのような人は「前向きな人」「ポジティヴな人」として賞賛されるのでしょう。

 しかし、聖書によるならば、喜びの香油は《嘆きに代えて》与えられるのです。賛美の衣は《暗い心に代えて》与えられるのです。真に嘆くことを知る人だけが、神から来る喜びを知ることになるのです。

 聖書は「嘆き」を人生にとって不要な要素とは見ておりません。嘆くことは必要なことなのです。かつて、預言者ヨエルは人々に向かってこう叫びました、「主は言われる。『今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け』」(ヨエル2:12‐13)。また、新約聖書においては、ヤコブも次のように書いています。「罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい」(ヤコブ4・8‐9)。

 実際、私たちの罪と不信仰が、私たちの生活に、あるいは教会に、あるいはこの社会に、この世界に、荒廃をもたらしているのに、もし嘆くことも悲しむことも全くできないとするならば、それは、本当はとても不幸なことなのでしょう。人間の罪と不信仰によって、目の前に荒れ果てている現実があるのに、嘆くことも悲しむこともできないで、ただ自分たちの平安や安泰を望んでいるとするならば、それは、本当はとても不幸なことなのでしょう。その先に天来の喜びが、真の喜びが満ちることはあり得ないからです。主の与えてくださる喜びの香油は、嘆きに代えて与えられるのです。

正義の樫の木と呼ばれる
 そこで、私たちはなおしばらく、この《シオンのゆえに嘆いている人々》が意味することについて、御言葉に耳を傾けたいと思います。

 主は預言者に聖霊の油を注いで遣わされます。主は良い知らせを伝えさせます。嘆きに代えて喜びの香油を与えるためにです。その知らせが向けられている人々が、1節では様々な言葉をもって表現されています。

 良い知らせが伝えられるのは「貧しい人」に対してです。主の癒しに包みこまれるのは「打ち砕かれた心」です。自由と解放が告知されるのは「捕らわれ人」に対してであり、「つながれている人」に対してです。

 ここで「貧しい人」と言われているのは、単に経済的に困窮している人のことではありません。旧約聖書においてこの言葉がまず意味するのは、力がないために押し潰されて、苦しんでいる人たちです。この世のどこにも拠り所を持たない、持ち得ない人々です。それゆえに、ただひたすら神に望みを置き、神を呼び求める人々です。弱いから、乏しいから、ただ神の憐れみを乞い求めるしかない。そのような人々です。それゆえに、この「貧しい人」という言葉は、しばしば詩編などにおいて、苦難の中にある信仰者を意味する言葉として用いられています。

 そして、ここには「貧しい人」について語られているだけではありません。「打ち砕かれた心」についても語られております。「打ち砕かれた心」は、よく知られています詩編51編にも、次のよう一節として出てきます。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(詩編51:19)。

 このように、「打ち砕かれた心」とは「悔いる心」です。「悔いる心」とは、同じ詩編に歌われていますように、「咎をことごとく洗い、罪から清めてください」(同4節)と願い求める心です。つまり、ここに語られているのは、自分の無力さ、乏しさを知るだけでなく、自分の罪深さを知る人のことなのです。神に「助けてください」と祈るだけでなく、「赦してください」と祈る人です。

 先にも申しましたように、彼らは災いを嘆いていたのではないのです。荒廃した現実を見て、誰かを悪者にして、嘆いていたのでもないのです。そこにあったのは、自分の罪に対する嘆きであり、《自分を含めた》この世界の罪に対する嘆きなのです。ですから「灰に代えて」という言葉も出て来る。灰をかぶるのは、神の赦しを乞い求める、悔い改めの姿です。

 また、ここでは「捕らわれ人」と「つながれている人」についても語られています。この預言が語られたのは、時代としては、バビロン捕囚後と言われていますから、直接的にはバビロンにおける捕囚状態を意味しているわけではありません。象徴的な表現と見ることもできるでしょう。いずれにせよ、それがどのような状態であれ、捕らわれ人、つながれている人は、自分で自分を救うことができない人です。ならば、救いは外からもたらされるしかありません。ここに書かれているのはそのような人たちです。

 このような「貧しい人」「打ち砕かれた心」「捕らわれ人」「つながれている人」のような言葉をもって表現され得るのが、この「シオンのゆえに嘆いている人々」です。要するに、彼らは荒れ果てた目の前の現実を自らの力でどうすることもできないのです。廃墟をもたらした罪の負い目をも、自分でどうすることもできないのです。そもそも、自分の力でどうにかできるなら、嘆いてなどいないのです。

 そして、良き知らせを聞くのはそのような人々だと、預言者は語っているのです。彼らにこそ神の救いの使信が届けられるのです。喜びの香油は嘆きに代えて与えられるのです。いや、ここにはさらに驚くべき言葉が語られております。「彼らは主が輝きを現すために植えられた、正義の樫の木と呼ばれる」(3節)と預言者は語っているのです。

 主が輝きを現すのは、力があり、富んでおり、自信に溢れている人々、嘆きとは無縁の人々によるのではありません。嘆くことしかできない人々こそ、主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木に他ならないと言うのです。そして、彼らこそが、とこしえの廃墟を建て直し、古い荒廃の跡を興すのだと、続く4節に語られているのです。

 ここには、聖書の語る不思議な世界があります。「私たちが建て直すのだ。シオンの未来は私たちの手にかかっているのだ」と言う人々が廃墟を建て直すのではないのです。廃墟を建て直すことなどできない者たちが、廃墟を建て直すのです。無力で乏しい人たち、我が身一つどうすることもできない捕らわれ人たちこそが、廃墟を建て直すのです。嘆きながら主を待ち望むことしかできないそのような人たちこそが、廃墟を建て直すのです。

復活節を過ごす私たちとして
 さて、イースターからペンテコステに向かうこの復活節に、今、この御言葉が読まれていることには大きな意味があるように思います。復活の主に相まみえたあの弟子たちの姿が、ここに語られている「貧しい人」「打ち砕かれた心」の人々、ひたすら外からの力による自由と解放を待ち望むしかない「捕らわれ人」「つながれている人」、そのような「シオンのゆえに嘆いている人々」と重なってくるからです。

 復活したキリストにお会いした彼らは、キリストを十字架につけたこの世界のただ中に置かれることになりました。そのような世界にあって、彼らは全く無力な人々でした。いや無力であるだけでなく、自分たちもまた、キリストを十字架につけたこの世界の一部であることを嫌というほど思い知らされた人々でした。彼らはキリストの十字架の御前において、一度、神によって完全に打ち砕かれてしまった。そのような人々でした。

 しかし、彼らの嘆きは確かに喜びに変えられたことを私たちは知っています。貧しい者は良い知らせを告げられ、打ち砕かれた心は包まれました。救いは外からもたらされました。灰に代えて冠が、嘆きに代えて喜びの香油が、暗い心に代えて賛美の衣が与えられました。それだけではありません。彼らは集まって心を一つにして祈り、神の霊を待ち望み、やがて神の霊に満たされた彼らは、この世に遣わされていきました。「彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる」――そう、私たちは主が彼らを通してこの世界に輝きを現されたことを知っています。すべては、嘆きを喜びに変えてくださる神がなしてくださったことでした。

 その同じ神を信じて、私たちはここに集まっております。同じ神を信じて、今、ペンテコステへと向かう復活節を過ごしている私たちです。この復活節をどのように歩むべきか、主の導きを求めて祈りましょう。


2024年4月7日日曜日

「死によって奪われない希望」

ペトロの手紙一 1:3-9

 本日の第2朗読ではペトロの手紙が読まれました。小アジア地方の諸教会に宛てた手紙です。6節に「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」とありますように、この手紙が宛てられている人々は、様々な苦しみを経験していた人たちです。具体的には迫害のもとにあって苦しんでいたということでしょう。彼らは人々からの軽蔑や嘲笑を耐えなくてはなりませんでした。悪人呼ばわりされ、不当な苦しみを強いられていました。そのような人々に宛てて、この手紙は書かれました。

生き生きとした希望
 迫害に限らず、苦しみというものは、往々にして「未来に期待して待ち望む心」を人から奪っていきます。希望を奪っていくのです。苦しみによって、希望がむしばまれていくと言い換えてもよいでしょう。実際、そうではありませんか。昨日は苦しかった。今日も相変わらず苦しかった。すると明日も苦しい一日であるに違いない。どうしても、そう思えてくるのでしょう。未来は過去から現在への延長にしか見えない。真っ暗闇のトンネルの中を歩いていて、百歩進んでもなお先に光が見えなければ、二百歩進んでも、千歩進んでも暗闇で、永遠に暗黒が続くと思えて来るのでしょう。そのようにして、人は未来に期待する心を失っていく。待ち望むことを止めてしまう。それは彼らに起こり得ることであったし、ここにいる私たちにも起こり得ることだと思います。

 しかし、だからこそペトロは彼らにこう書き送ったのです。3節からもう一度お読みします。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(3-4節)。

 彼は苦しみの中にある人々に、「生き生きとした希望」について語るのです。これは直訳すれば「生きている希望」という言葉です。大変味わい深い表現です。「生きている希望」というのは、「死んでしまわない希望」ということです。苦しみの中にあっても、苦しみによってむしばまれない、死んでしまわない、命に溢れた希望です。

 先ほど「苦しみによって希望がむしばまれる」と言いましたけれど、だからこそ、苦しみによってむしばまれない、失われない、「生きている希望」が必要なのです。どんな困難の中にあっても、真っ暗闇のトンネルが続く中であっても、「生きている希望」があるならば、人もまたそこで、本当の意味で生きることができるからです。未来に顔を向けて、今を生きることができるのです。

 そして、その「生き生きとした希望」、「生きている希望」は、既に私たちに与えられているのだ、とペトロは語るのです。それはどのようにして与えられたのでしょう。いったい何によって?ペトロは言います。「死者の中からのイエス・キリストの復活によって」と。

 ご存じのように、ペトロはイエス・キリストが捕らえられた時、三度もキリストを「知らない」と言った男です。キリストが十字架にかけられた時、主を見捨てて逃げてしまっていた、そういう男です。キリストが葬られた後も、自分が同じ目に遭わされるのではないかと、家の中に閉じこもり、戸を閉ざしてビクビクしていた、そのような男です。――取り返しのつかないことをしてしまったという罪責感。自分の弱さや醜さに対する深い絶望。もう全ては終わったのだ。そう思わずにはいられなかったに違いない。そうです。何もかも、終わってしまった。あの御方の死と共に、終わってしまった。それでもなお、彼が生きて行くとするならば、死人のように生きていくしかなかったのでしょう。未来に何も待ち望むものを持たないまま、何も希望を持たないまま、生きていくしかなかったのです。すべては終わったのですから。

 しかし、そのようなペトロが、再び立ち上がり、前を向いて希望をもって生きるようになった。それはなぜなのでしょう。未来に向かって顔を上げ、歩み始めることができた。それはなぜなのでしょう。――それは「死者の中からのイエス・キリストの復活によって」だ、と彼は言うのです。

 どこからどう見ても、全く救いのない十字架の死さえも、それで終わりではなかったのです。十字架の死の先にさえ、復活の命の世界が開かれていたのです。十字架においては、「死」というものが、それ以上ないほどに残酷な姿を呈していたことでしょう。しかし、ペトロは知ったのです。そのような残酷な死の先にさえも、待ち望むべき命の世界がある。その死の先にさえも待ち望むべき未来が開かれている。ペトロは確かにそのことを知り、それゆえに語っているのです。

 そのように、どんなことがあっても、何によっても奪われることのない未来、死によっても奪われることない未来、ここにいる私たちもまた期待して待ち望むことができる未来を、彼は次のように表現しました。「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(4節)と。

 この「朽ちず、汚れず、しぼまない財産」がいったい何かは分かりません。しかし、それが何であれ、財産を受け継ぐというのですから、喜ばしい未来が表現されていることには間違いはありません。そしてまた、「受け継ぐ」というのですから、明らかにそれは自分が蓄えたものではありません。自分の行ってきたことに対する報酬でもありません。蓄えにせよ報酬にせよ、自分が積み上げてきたものならば、そんなものはたかが知れているでしょう。しかし、そうではないのです。それは純粋に神が備えてくださっているものなのです。

 そのように、私たちは信仰によって、どんな時にも、最終的には人生の終わりにおいてもなお、神が備えてくださっている喜ばしい未来を待ち望むことができるということです。死の床においてさえ、期待をもって最後まで生きることができる。実際、わたしは既に召された人たちの中に、そのような方々を幾人も思い起こすことができます。人は信仰によって、人生最後の一秒に至るまで、最後の一呼吸に至るまで、神の備えてくだっている未来を待ち望みながら生きることができるのです。イエス・キリストの復活によって、神が「生き生きとした希望」を与えてくださったからです。

新たに生まれさせ
 そのように、苦しみによってむしばまれない、失われない希望、「生きている希望」は神から来るのです。他からは来ない。――だからこそ、その希望に生きるために決定的に重要なもう一つのことがあるのです。それは希望の源である神との関係です。

 それゆえにペトロは、ただ「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えてくださった」とだけ書くことはせず、その前に、こう書き記すのです。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」――それに続けて、「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えてくださった」と書いているのです。

 「新たに生まれさせ」と聖書に書かれていることは何を意味するのでしょう。――人は二度生まれることができるということです。一度目の誕生は、通常の意味における誕生です。「お誕生日おめでとう」を繰り返す、あの誕生のことです。しかし、聖書によるならば、人はもう一度誕生することができるのです。二度目の誕生。それは信仰による誕生です。一度目の誕生において、この世の親の子供として生まれたように、二度目の誕生においては、「神の子供としてのわたし」が生まれます。一度目の誕生において、この世の家族の中に生まれたように、二度目の誕生においては、「神の家族の中にいるわたし」が生まれるのです。

 イエス様は「天にまします我らの父よ」と祈りなさいと教えられました。そのように、神の子供として、「天にまします我らの父よ」と祈りながら生き始める。そのようにして、私たちは二度目の誕生による新しい人生を神の家族の中で生きていく。それが信仰生活であり教会生活なのです。

 そして、ここに語られているように、二度目の誕生は「神の豊かな憐れみ」によるのです。先ほど「二度目の誕生においては、『神の子供としてのわたし』が生まれます」と申し上げましたが、話はそう単純ではありません。

 ペトロはこの直前において、あえて「わたしたちの父である神」ではなくて、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」と言っていますでしょう。その御方は第一には、イエス様が「父よ」と呼んでいた神様なのです。その神様を、私たちもイエス様と同じように「父よ」と呼べることは、決して自明のことでではありません。私たちはイエス様と違って、幾度となく神に背きながら生きてきた者だからです。イエス様と違って、私たちはどう考えても「神の子供」に相応しくない。そのような私たちが神の子供にしていただけるとするならば、それは一重に神の憐れみによるのです。私たちの罪を赦してくださる神の豊かな憐れみによるのです。

 そして、神の憐れみは具体的な形を取って現されたのです。神は独り子を世に遣わされました。罪なき御子を私たちの罪を贖う犠牲とされました。イエス様は、「天にまします我らの父よ」と祈りなさいと言ってくださいましたが、それは神の憐れみを知っている方の言葉です。神の憐れみの現れとしてこの世に来られた方の言葉です。神の憐れみの現れとして、十字架にかかるためにこの世に来られた方の言葉なのです。

 その御方によって、どんな人であっても、新しく生まれた神の子として生き始めることができる。それはまさに福音です。良き知らせです。

 希望に生きるために決定的に重要なもう一つのことがある。それは希望の源である神との関係であると申しました。もうお分かりでしょう。大事なのは、福音を信じて、神の子供たちとして生きることです。形式的、名目的にキリスト者であることではなくて、具体的、実質的に神の子供たちとして神と共に生きることです。

 神との関係がそのような親子関係であるならば、もう安心です。たとえ今がどんなに暗くとも、大丈夫です。良き親なる神様が関わってくださるならば、いつでも未来に期待を抱き続けることができるからです。私たちは、そのようにして、人生最後の時に至るまで、良き未来を待ち望み、生き生きとした希望に生きることができるのです。

2024年4月3日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 13:1~22

 出エジプト記 13:1-22

 前回は過越祭の規定について書かれている箇所をお読みしました。13章に入りまして、さらに除酵祭の規定について読んでいくことになります。13章の冒頭には「初子の奉献」について書かれていますが、これが11節以下と関係していますので、後に扱うことにします。まず3節以下の除酵祭の規定に目を向けましょう。

 この規定も、約束の地に入って後にも行われることを前提として語られています。「主が、あなたに与えると先祖に誓われた乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ヒビ人、エブス人の土地にあなたを導き入れられるとき、あなたはこの月にこの儀式を行わねばならない」(5節)。この月というのは4節に語られている「アビブの月」のことで、今の3~4月頃に当たります。その月に「七日の間、酵母を入れないパンを食べねばならない。七日目には主のための祭りをする」ということが命じられているのです。

 これは明らかに共同体を形作り、さらには共同体が存続していくためのものだということは8節以下からよく分かります。「あなたはこの日、自分の子供に告げなければならない。『これは、わたしがエジプトから出たとき、主がわたしのために行われたことのゆえである』と。あなたは、この言葉を自分の腕と額に付けて記憶のしるしとし、主の教えを口ずさまねばならない。主が力強い御手をもって、あなたをエジプトから導き出されたからである。あなたはこの掟を毎年定められたときに守らねばならない」(8-10節)。

 「主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである」という言葉が3節と9節に置かれています。ちょうど除酵祭の規定は、この二つによって囲まれるようにして書かれているのです。つまり除酵祭の規定は、このことを伝えるために定められているということです。

 なぜ「酵母を入れないパン」なのかは、前の章に書かれていたとおり、「発酵させる時間がないから」というのが脱出時の直接的な理由でした。「彼らはエジプトから持ち出した練り粉で、酵母を入れないパン菓子を焼いた。練り粉には酵母が入っていなかった。彼らがエジプトから追放されたとき、ぐずぐずしていることはできなかったし、道中の食糧を用意するいとまもなかったからである」(12:39)。

 前回お話ししたように、「ぐずぐずしていることはできなかったし、道中の食糧を用意するいとまもなかった」という言葉は、すなわちこれが人間による綿密な計画によって実現したのではないことを示しています。もし人間が「脱出計画」を立てるならば、そして、脱出できることを前提にしているならば、道中の食事のことまで考えて相当に周到な準備をするに違いないからです。つまり、これは人間がまさに信じられないようなことを、想定できないようなことを、神の圧倒的な力によって、一方的に与えられたことを示しているのです。

 これを13章では「主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである」と表現しているのです。そして、この認識がカナンの地に入ってから後においては、極めて重要になるのです。なぜなら彼らは土地を得て、農業を営むことになるからです。そうすると「豊作」に関心が向くことになります。言い換えるならば、「繁栄」に関心が向くことになるのです。そうしますと宗教もまた、繁栄を獲得するための手段へと変化していく可能性が出てきます。

 実際、彼らが入って行くことになるカナンの地には、既にそのような土着のバアル礼拝が存在しているのです。それは彼らが共同体として保持すべき信仰、すなわち「本来ならば滅びていたはずなのに、一方的な神の御業によって救われたのだ。その神の恵みに応えて生きていくのだ」という信仰の在り方とはまったく異なるのです。だからこそ、そのように変質しないためにも、「主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである」を思い起こすことが必要になるのです。

4.初子の奉献
 それは、この章の冒頭に書かれていた「初子の奉献」の命令とも関係しています。「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである」(1-2節)。

 「聖別して神にささげる」とは、具体的には犠牲として屠って献げることを意味します。 そこで重要なのは「人であれ家畜であれ」と書かれていることです。家畜の中には、牛や羊だけでなく、ろばなども含まれているからです。家畜の中で、羊や牛ならば、初子をそのまま屠って献げることになります。しかし、例えば「ろば」などの場合はどうでしょうか。ろばは古代から祭儀には用いられていませんでした。そのような動物の場合は、羊をそのろばの代わりにするのです。「ただし、ろばの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わねばならない」(13節)とはそういうことです。

 しかし、もっと重要なのは「人であれ」と言われていることです。人間の場合はどうなるのでしょう。次のように書かれています。「あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない」(13節)。そのように、人間の初子の場合も、基本的にろばと同じです。「贖わねばならない」とありますが、具体的にどのような動物を代わりにするかは書かれていません。しかし、ろばと並べて書かれているので、同じく「小羊をもって」と考えてよいでしょう。

 ここでろばと同じように「贖わねばならない」と書かれているということは、人間の初子も、あのエジプトの裁きの時と同じように、本来ならば殺されなくてはならないということを意味します。しかし、本来ならば殺されなくてはならなかったはずの初子が、特別に神のものとされ、小羊によって贖われて、生きることを赦されるのです。それが「初子の奉献」の儀式が意味するところなのです。

 そして、それを子供に見せることに大きな意味があります。「これにはどういう意味があるのですか」と問わせるのです。特に重要なのは、「初子」である子供に見せることでしょう。本来なら死んでいるはずの「初子」である子供に見せることです。そこで、あの時主は「エジプトの国中の初子を、人の初子から家畜の初子まで、ことごとく撃たれた」のだと伝えるのです。そして、本来同じように死ぬはずだったイスラエル人の初子が裁きを過ぎ越されて死ななかったことを伝えるのです。

 ただ一方的な恵みによって救われたことは、記憶され、語り継がれなくてはなりません。「主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである」が最後にまた繰り返されているのはそういうことです。カナンの地に入ってからこそ、これが決定的に重要な意味を持つことになるのでしょう。繁栄のために神を利用するのではなく、神の恵みに応えて生きるようになるために、そのことがどうしても必要になるのです。

 さて、エジプトを出発したイスラエルの民が、約束の地、カナンの地に至る最も近道は、地中海に沿ったペリシテ街道を行くルートでありました。しかし、神は彼らをそこへは導かれず、「葦の海へと通じる荒れ野の道に迂回させられた」(18節)と書かれています。エジプトを出た民について最初に書かれているのは、彼らが遠回りをしたということです。

 なぜ遠回りをしたのか。そこには神の配慮があったことが教えられています。地中海沿岸を進み、そこに住む人々と戦わなくてはならなくなったら、彼らは後悔してエジプトに帰ろうとするかもしれない。神はそう考えて、荒れ野へと彼らを導かれたのです。私たちは後に、神の判断が間違ってはいなかったことを知らされます。民には確かにその弱さがありました。戦いに遭遇する以前に、荒れ野の旅路の厳しさの中で、既に彼らは不平を言い始めるのです。

 神はしばしば人間の弱さに対する配慮から、遠回りの道へと導かれます。もちろん、その神の意図は、人の目には隠されているのであって、それゆえに、それは人間にとってしばしば不愉快なことでしかないのでしょう。しかし、神の配慮は後になって明らかになってくるものなのです。

 さらに、私たちはあえて「葦の海に通じる荒れ野の道」と書かれていることをも見落としてはなりません。これは続く14章に直接関係するからです。葦の海で何が起こりますか。そこでイスラエルの民は、《前は海、後ろは追い迫るエジプト軍》という絶体絶命の危機に陥ることになるのです。しかし、神の奇跡により海が分かれ、彼らは海の中にできた道を進んでいくことになります。これが後々まで語り継がれることになる「葦の海での奇跡」です。イスラエルの民はそこで、彼らの救いが完全に神の恵みによることを経験するのです。

 このように、ただ人間の弱さへの配慮ということだけではなく、積極的な意味において、神は特別な目的のゆえに、民を遠回りの道へと導かれます。彼らには、約束の地に入る前に経験しなくてはならないことがあったのであり、彼らが経験すべき神の恵みは、遠回りを通して初めて得られるものであったのです。彼らが進むべき道は、近道ではなく、「葦の海に通じる荒れ野の道」でなくてはならなかったのです。

 私たちはさらに「モーセはヨセフの骨を携えていた」(19節)と書かれていることにも注目しなくてはなりません。これはヨセフの言葉に基づくものです。「『わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。』それから、ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。『神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください』」(創世記50:24‐25)。

 つまり、単にヨセフとの約束を守るという意味だけではないのです。「神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます」という神の約束を携えて上ったということなのです。遠回りであっても、ただ神の約束に信頼して従っていく。それが、たとえ遠回りであっても、火の柱、雲の柱に従っていくということだったのです。


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