2022年1月30日日曜日

「あなたの体は聖なる神殿です」

コリントの信徒への手紙一 6:12‐20

知らないのですか
 今日お読みした聖書箇所において、パウロは「知らないのですか」という言葉を繰り返しています。それは、彼らが当然知っていなくてはならないことだったからです。それは何でしょう。パウロは言います。「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」(15節)。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(19節)。

 当然知っていなくてはならないこと――それは自分の体がキリストの体の一部だということです。また、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であるということです。要するに、自分は何者であるかということです。どのような存在であるかということです。正確に言うならば、神がどのような存在として見ていてくださるか、キリストがどのような存在として見ていてくださるかということです。

 私たちは、人がどう見ているかを気にしながら生きています。ですから、「自分がどのような存在であるか」ということを、人の言葉や人の扱いによって決めてしまうようなことも起こってまいります。人から称賛され、認められ、大切に扱われれば、自分が価値ある存在だと思う。逆に、人から粗末に扱われ、人から無価値なもののように言われれば、自分が無価値な存在であると思う。そのようなことも起こります。

 しかし、「自分がどのような存在であるか」を決めるのは、人の言葉ではないのです。神の言葉なのです。人がどう見るか、どう言うか、どのように扱うかではないのです。そうではなく、神が私たちをどのような存在として見ていてくださるか、キリストが私たちをどのような存在として見ていてくださるかということなのです。

 それをコリントの信徒たちは当然知っていなくてはならない。なぜなら、神の言葉は既に宣べ伝えられているからです。彼らは、人の言葉ではなく、神の言葉によって、自分自身をどう見るかを決めなくてはならないのです。なぜなら、自分をどう見るかで人の生き方は決まってくるからです。だからこそ、パウロは、キリスト者が当然知っているはずのことを改めて語っているのです。思い起こさせるのです。「自分はどのような存在であるか」ということを。

あなたがたの体はキリストの体の一部です
 その第一は、「自分の体がキリストの体の一部である」ということです。パウロは言います。「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」(15節)。

 これを書いているパウロは、かつて教会の迫害者でした。エルサレムの教会を迫害するだけでなく、その迫害の手をダマスコにまで伸ばそうとしていたのです。その時の様子は使徒言行録9章に記されています。「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった」(使徒9:1‐2)。しかし、そのダマスコへの途上でキリストに出会うのです。天からの光が彼の周りを照らし、彼は地に打ち倒されました。そして、彼はこう呼びかける声を聞いたのです。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」。パウロは声の主に問いかけます。「主よ、あなたはどなたですか。」すると答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。

 パウロが迫害していたのは教会です。個々のキリスト者です。しかし、キリストは「あなたが迫害しているイエスである」と言われました。それはイエス様御自身に対する迫害だったのです。迫害されている一人一人の苦しみや痛みは、イエスにとって御自分の苦しみであり痛みでした。なぜなら教会はキリストの体だからです。パウロが出会ったのは、十字架にかかられ、復活されたキリストでした。しかし、さらに言葉を加えるならば、復活して、教会を御自分の体として生きておられるキリストだったのです。

 「キリストの体の一部だ」ということは、キリストにとって私たちは掛け替えのない大切な存在だということです。言い換えるならば、《キリストが》私たちを必要としていてくださる、ということです。私たちがキリストを救い主として必要としている。それは言うまでもありません。しかし、私たちがキリストを必要としているだけでなく、キリストが「体」として私たちを必要としていてくださるのです。

 そう言いますと、「わたしは何もできませんから、教会にもイエス様にも必要ではないでしょう」と思う人がいるかもしれません。しかし、この手紙の後の方で、パウロはこう言うのです。「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(12:21‐22)。これは「不可欠だ」という言葉です。不可欠。誰がそう思っていてくださるのですか。キリストです。キリストが必要としていてくださる。私たちが自分を役に立つと思うか否か。そんなことはどうでもよいのです。キリストが必要としていてくださる。そして、キリストが用いてくださる。それが「キリストの体の一部だ」ということです。

 今日の福音書朗読では、イエス様が重い皮膚病を患っている人をいやされた話を読みました(マルコ1:40‐45)。イエス様はその手を差し伸べてその人に触れました。手がその人をいやしたわけではありません。いやしたのはイエス様です。しかし、この世の体がなかったら、具体的には手がなかったら、その人に手を伸ばして触れることはできなかったのです。イエス様はその時、手を必要としたのです。私たちは、その「手」なのです。イエス様がこの世において人々に触れ、救いをもたらすために、この世に存在する手を必要としているのです。

 それが私たちです。私たちの体です。それがこの体をもって生きる私たちの人生です。だから大切にしなくてはならないのです。価値ない者のように扱ってはならないのです。今日の箇所では具体的に「みだらな行いを避けなさい」とパウロは言っています。性的な不品行のことです。それは不道徳なことだから止めなさいとパウロは言っているのではありません。そうではなくて、私たちの体がキリストの体の一部であり、神にとって、イエス様にとって、どれほど大事な存在かを語るのです。「それはイエス様の体です。大事で必要な体です。そんなことしていいのですか」と。

 「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」。私たちも、そのことを知らなくてはなりません。私たちが自分をどう見るかで、私たちの生き方が決まってくるからです。

あなたがたの体は神殿です
 そして、さらにパウロは言います。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(19節)。私たちがキリストにとって必要な体だというだけでなくて、「あなたがたの体は神殿だ」とまで言うのです。

 この手紙が書かれた時点では、まだエルサレムに神殿がありました。ローマ軍によって破壊される前のことです。かつてイエス様と弟子たちがエルサレムに上った時、弟子の一人がその神殿を見てこう叫びました。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」(マルコ13:1)。紀元前20年にヘロデ大王によって修復・増築が開始され、石材を運ぶために千台の車が用意され、熟練した職人一万人が工事に当たったとも言われるエルサレムの神殿です。神の住まいとして、公の礼拝の場として、神に献げられた壮麗な建物でした。それがパウロの知っている「神殿」なのです。

 そのことを考えます時に、そのパウロが「あなたがたの体は神殿だ」と言っていることは、まことに驚くべきことです。明らかにギャップがあります。この手紙の宛先であるコリントの教会は、先ほど触れましたように性的な不品行に陥っている人がいると思えば、もう一方において「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」などと言って分裂して争っている。そんな教会です。そんな信徒たちです。それが「神殿」ですか。どう見ても、穴だらけ破れだらけのあばら屋でしかありません。もちろん、それは他人事ではありません。もし実物の神殿を私たちが知っていたら、この言葉を簡単には口にできないと思います。あまりにもギャップがありすぎますから。

 しかし、大事なのは人がどう見るかではないのです。神様がどう見ていてくださるかなのです。どんなあばら屋であっても、神様が大枚はたいて買い取って、御自分が住まうと言われたら、それは神殿なのです。神様が私たちを御自分のものとするために差し出された代価、それは独り子の命でした。私たちはキリストの血潮をもって贖われたのです。買い取られたのです。言い換えるならば、このあばら屋にそれほどの価値を見てくださり、そこまでして御自分のものとされたのです。だからパウロは言うのです。「あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」と。

 そう考えますと、私たちが自分自身けなしたり、くさしたり、価値のないもののように扱うことは、買い取ってくださった神様に対するとんでもない侮辱であるとも言えるでしょう。自分のものだったら、何を言おうとどう扱おうと勝手です。しかし、もう自分のものではないのですから。この世のものでも、他人様が大枚はたいて買ったものを悪く言ったり貶めたりしたら失礼です。神様のものならなおさらです。

 神様のものは大切にしなくてはなりません。神様が御自分のものとされたこの体、この体によって営まれるこの人生は大切に扱わなくてはなりません。聖書は言います。「あなたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」と。買い取られた体。キリストの命の値が付けられた体です。そのようにして神の栄光を現すための体となりました。そのことをひたすら考えて生きるべきなのです。

 私たちの体はキリストの体の一部です。私たちの体は、神の霊が宿ってくださる神殿です。神様は私たちをそのように見ていてくださいます。まずは、私たちもしっかりとそのように自分を見ることが大事です。私たちが自分をどのように見るか。そのことによって私たちの生き方は決まってくるのですから。
(祈り)

2022年1月26日水曜日

祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 2:16~23

 コロサイの信徒への手紙 2:16-23

 先週お読みした箇所に「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません」(8節)と勧められていました。そして、主にその根拠を説明している部分に耳を傾けてきました。そのように、勧められているのは、実際にはコロサイの教会が大きな誘惑に直面していたからに他なりません。「人間の言い伝えにすぎない哲学」「むなしいだまし事」と呼ばれているのは、具体的にはコロサイの教会に入り込んでいた異端の思想を指しているのです。

 それがどのようなものであったかを、今日の聖書箇所に垣間見ることができます。「だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません」(16節)。ここに「祭りや新月や安息日」が出て来るので、その異端はある種のユダヤ主義的な傾向をもったものであると想像できます。そうしますと、「食べ物や飲み物のこと」というのも、律法に定められている食物規定などと関係しているのでしょう。

 そのように、コロサイの教会の異邦人キリスト者にもユダヤ人の戒律を守らせるべきだという教えが入ってきていたものと思われます。そして、守っていない異邦人キリスト者は、そのような教えを信奉する人たちから批評(批判)されるのです。

 さらに言うならば、パウロが「それは世を支配する霊に従っており」と語り、また「支配や権威」という目に見えない霊的な支配力に言及しているところから、そこには天体の運行と関わっている霊的な力を信奉する異教由来の要素も混交していると考えられます。もともと異教的な背景を持つ異邦人キリスト者にとって、それは恐ろしいことでもあります。

 また、そこには「偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません」(18節)とも書かれています。先に触れた異教由来の要素がよい色濃く記されています。それは東方の密儀宗教やグノーシス思想と結びついたものと思われます。それは一面においては「謙遜」な表情を持っています。直接神に近づくのはあまりにも畏れ多い。なので、間にあって取り次いでくれる霊的な存在を求めるということでもあるのです。

 しかし、霊的な存在との直接的なかかわりを主張する思想からは本当の謙遜は生まれないのです。むしろ、霊的な体験が人間をますます傲慢にするからです。「こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです」(18-19節)とパウロは言います。しかし、キリストとしっかり結びついて生きることの大切さが分からないと、どうしても彼らの持っている神秘体験の方に目が行きます。そして、そのような“霊的な人”から「不利な判断」を下されることは、恐ろしいこととなるのです。

 恐れがあるところには誘惑があります。だからパウロは「批評されてはなりません」「不利な判断を下されてはなりません」と言うのです。その意味合いは、批評されることや不利な判断を下されることを恐れてはなりません、ということです。その本質をしっかりと見抜かなくてはならないのです。

 ユダヤ人に与えられた食物規定や祭り、新月、安息日の規定。「これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります」とパウロは言います。その規定自体が大事なのではなくて、キリストが大事なのです。

 食物規定にせよ、安息日の規定にせよ、それは彼らが神の民とされたゆえに与えられたものでした。すなわち、彼らが神のものとされ、聖なる民とされ、他の民族と異なるものとされたゆえに与えられたものだったのです。食べ物がかかわるのは毎日の生活です。その毎日の生活において、彼らは聖なる民であることを意識せざるを得ない。他の律法の規定も同じです。それは彼らが聖なる民であることを表しているのです。しかし、それは「影」なのです。やがてそれが指し示す実体が来るのです。それはキリストです。

 キリストの到来において、神の民がまさに神のものであり聖なる民であることが明らかになるのです。なぜなら、御子の血によって買い取られることになるからです。そこで人は自分が神のものであることを決定的な仕方で知ることになるのです。だからこそ、そこでは個々の規定を守ることよりも、「キリストに結ばれて歩む」ことが重要になるのです。

 そこに天使礼拝や幻を見るなどの神秘体験の要素が加わってきても同じです。「頭であるキリストにしっかりと付いていない」人々がどのような判断を下して来ようが、それを恐れてはならないのです。なぜなら決定的に重要なことは「キリストに結ばれて歩む」ことだからです。

 さて、ここで特に「頭であるキリスト」と語られていることは重要です。その一つの意味は10節にあるように、「キリストはすべての支配や権威の頭です」ということです。そこにいかなる霊的な力の表れがあったとしても、恐れてはならないのです。そして、もう一つは「この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです」と続いていることから分かるように、そのような「体の頭」であるということです。その体は明らかに教会を指しています。すなわち、「教会の頭であるキリスト」ということです。

 異端を奉じる彼らは個人的な神秘体験や戒律を遵守した一見敬虔な生活を持っているかもしれません。しかし、「教会の頭であるキリスト」にしっかりと付いていないのです。そして、それはコロサイの信徒たちにとっても大きな誘惑なのです。「キリストに結ばれて歩みなさい」という勧めを聞く時に、それは「教会の頭であるキリスト」であることを見失ってはならないのです。

 さて、実際には批評されることへの恐れ、不利な判断を下されることへの恐れから、異端の思想と生活様式に引きずり込まれそうになっていたのがコロサイの信徒たちでした。そこでパウロは彼らが「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられた」(12節)ことを思い起こさせて、現在の誤りと本来の姿を指し示すのです。20節以下において、まず「キリストと共に死んだ」ことと矛盾する現在の状態を明らかにしていきます。そして、3章1節以下において、キリストと共に復活させられた者として生きるとはどういうことかを語るのです。

 20節以下を読みますと、彼らは「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られた生活をしていたことが分かります。しかし、それは今だに「世に属しているかのように生き」ていることなのだというのです。結局、思いは戒律を守っている自分にしか向いていない。神に、天に向いていないのです。それゆえに、「これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです」(23節)とパウロは痛烈な言葉を投げかけます。しかし、これは深く心に留めるべき言葉なのでしょう。私たちの信仰生活が、敬虔そうに見えてもつまるところ自分のことしか考えていない、「肉の欲望を満足させるだけ」のものになってしまうことは、十分あり得るからです。

(祈り)

2022年1月19日水曜日

祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 2:11~15

 コロサイの信徒への手紙 2:11-15

 「肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです」(2:13)。異邦人の無割礼が象徴しているのは、神との交わりの喪失でした。これをパウロは「死んでいたあなたがたを」と表現します。神から離れていることを、霊的に「死んでいる」と表現しているのです。

 神との関係、人間の霊的な状態というものは、この世における具体的な生活と深く結びついています。目に見えるものは目にみえないものと深く結びついているのです。死んでいるならば、それが「霊的な死」であっても、それは現実に目に見える形になって現れてくる。ですから、パウロはまた、特に「罪の中に死んでいた」と語っています。「罪」と訳されている言葉は、他の箇所では「過ち」と訳されている言葉です。もともとは「道を踏み外すこと」を意味します。人生はそのような意味における過ちに満ちています。ですからここで「罪」は複数で書かれているのです。

 私たち人間は神にかたどって創造されました(創世記1:27)。私たちは神の栄光のために創造されたのです。しかし、私たちはその道を踏み外してきたのです。私たちが道を踏み外して犯してきた数え切れない罪の中で死んでいたのです。その「罪」こそ、私たちが霊的に死んでいることの現われです。ですからパウロは、「罪の中にいて死んでいたあなたがた」と言うのです。それが神の目に映っている人間の姿です。

 しかし、パウロはコロサイの信徒たちに言うのです。「罪の中に死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。」私たちは自分自身を生かすことは出来ません。霊的に死んでいる人を生かすことができるのは神様です。ではどのようにして私たちを生かしてくださったのでしょうか。

 第一に、私たちの罪を赦すことによってです。罪が赦されることなくして、私たちが再び神様との交わりを回復する道はないからです。パウロは言います。「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」(13‐14節)。

 私たちの罪と過ちは、神様の前にある多額の借金のようなものです。借金であるならば、私たちの負債を明らかにし、返済を要求する借用証書が存在します。借金を無くすには返済するしかありません。しかし、私たちの借金はどれぐらいの額なのでしょう。

 イエス様は私たちの罪を一万タラントンの借金に喩えられました(マタイ18:24)。これは一人の労働者が休みなく働いて約17万年分の給料に相当します。私たちが道を踏み外し、神の栄光を汚してきた罪過、そしてこれから犯すかも知れない罪過は、それこそ一万タラントンに匹敵する莫大な額に上るではありませんか。私たちは人に対して犯してきた罪についてさえ、完全に償うことができない。ましてや、神の栄光を汚してきた諸々の罪を償うことはとうてい出来ないでしょう。

 しかし、驚くべきことに、神様はこの借用証書を破棄してしまわれたと言うのです。「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」(13‐14節)。

 借用証書が合法的に破棄されるためには、借金が返済されなくてはなりません。ここで言われていることは、私たちの罪の代価がすでに支払われたということです。キリストがその命をもって支払ってくださったのです。私たちの罪の代価を、罪のない神のひとり子が肩代わりしてくださったのです。十字架にかかられたキリストの血潮の価値は、私たちの理解を超えています。その価値は神にしか分かりません。しかし、私たちにわかっていることはあります。その十字架の死によって借金は支払われ、借用証書は破棄されたということです。

 既に代価は支払われました。そして、キリストを信じる信仰によって、私たちはキリストと一つとなり、キリストが為してくださった借金返済を、あたかも自分自身が為した借金返済であるかのように、その恵みに与ることができるのです。

 それを最も良く表しているのが、信仰をもって受けるバプテスマです。12節でパウロはこう言っています。「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」

 バプテスマを受けるとは、キリストと共に死ぬことを意味します。すなわち、キリストがその死によってなしてくださった一切のことを、自分のこととして受け取るのです。そして、一度死んだ者とみなされ、一切の罪を赦され、証書を破棄されて、キリストと共に復活するのです。私たちは復活したものとして、罪を赦され生かされた者として、神と共に歩み始めるのです。

 そして、神は第二に、悪魔の力からの解放によって私たちを生かしてくださいます。「そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました」(15節)。「支配と権威」というのは、当時使われていた表現であって、様々な霊的な力、目に見えない力を表しています。パウロはそのような表現を用いて、この世界に働いている悪しき霊的な力、悪魔の力について語っているのです。すなわち、人を神から引き離し、霊的な死をもたらす力です。パウロはそのようなもろもろの支配と権威について、「神はそのような力の武装を解除してしまったのだ」と言うのです。

 ここで用いられているのは、勝利の凱旋将軍の比喩です。かつて、戦争に勝ってローマに凱旋してきた将軍は、自ら戦車の上に立ち、武装解除された敵の捕虜たちをそのあとに従えてさらしものにしたのです。同じように、十字架にかかられ、復活されたキリストは、すでに悪魔の力に対して決定的な勝利を取っておられるのです。悪魔はキリストの前に力を失っているのです。それゆえに、10節においては「キリストはすべての支配や権威の頭です」と書かれていたのです。キリストは既にあらゆる霊的な力の頂点にいるのです。

 私たちはキリストの十字架によって罪を赦され、神との交わりに入れられました。このようにして霊的に死んでいた私たちは生かされたのです。しかし、この新しい命を自分の手で守らなくてはならないならば、私たちの信仰生活は極めて心もとないものとなるでしょう。

 しかし、私たちは弱くともキリストは弱くありません。キリストは力ある方です。そして、先に13節に見ましたように、神は私たちを「キリストと共に生かしてくださった」のです。ならばキリストと共に歩んだらよいのです。6節には何と書かれていましたか。「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい」。

 ですからパウロは8節でこう言っていたのです。「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。」どんなに魅力的な教えも、崇高に見える思想も、キリストから私たちの目を逸らさせるものであるならば、警戒しなくてはなりません。キリストを抜きにした救いの道を説くむなしいだまし事によって人のとりこにされてはならないのです。

(祈り)

2022年1月16日日曜日

「神によって備えられた出会い」

使徒言行録 9:1‐20

 使徒パウロ。彼を抜きにしてキリスト教会の歴史を語ることはできません。しかし、パウロはもともと教会の迫害者でした。神はよりによって教会の迫害者をお選びになりました。それまで迫害されてきた教会に、神は迫害者を加えられたのです。暴力を振るわれ仲間を殺されてきた人々の中に、暴力を振るい殺してきた人物を加えられました。そして、苦しめてきた人物と苦しめられてきた人々が、一緒に主を礼拝し、一緒に福音を宣べ伝えるようにされたのです。そんなあり得ないようなことが、この世界において、事実として起こりました。

 神を信じて生きるということは、あらゆる可能性に開かれた人生を生きることです。神は私たちの思いを超えたことを、私たちが絶対に思いつかないような仕方で実現されます。時として最悪としか思えない出来事を通して、神は最善のものを手渡されるのです。その極みはキリストの十字架に他なりません。人間が神の子を十字架にかけるという最悪の出来事を通して、神は罪の贖いを実現し、この世界に救いを与えられました。そのような神の救いにあずかって、そのような神を信じて生きるようにと、私たちは招かれて、今ここにいるのです。

迫害者サウロ
 今日は使徒言行録9章をお読みしましたが、パウロ、またの名をサウロという人物が初めて登場してきますのは7章においてステファノが殺害される場面です。「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた」(7:57‐58)。

 7章の記述を読む限り、ステファノの処刑は明らかに合法的な処刑ではありません。非合法なリンチです。しかし、そこに「証人たち」と書かれていることは注目に値します。律法に定められている通り、まず証人が最初の石を投げたのです。少なくとも形においては、ステファノの殺害を、合法的な処刑の形式で行ったということです。そこには彼らの正義の主張があります。それはあくまでも彼らの正義に基づいての処刑だったのです。

 ステファノが石で打たれて血みどろになって死んでいくのを冷静に見守り、これに賛意を表明していたのが、このサウロという人でした。「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた」(8:1)と書かれています。なんと残酷なことか、と私たちは思います。しかし、このサウロという人も石を投げつけていた他の人々も、いわゆる悪人やならず者ではありません。恐らくそこにいたほとんどの人は律法を守り秩序を大切にする正しい人々なのです。

 ある意味では、本当に残酷なことは、正義の名のもとにしか為され得ないと言うことができます。人間は自分が悪いと知りながら積極的に残酷にはなれないからです。人と人との間でも、国家と国家の間にも言えることです。いじめにせよ、殺人にせよ、戦争にせよ、テロにせよ、そこにはそれなりの正義の理論があるのでしょう。正義の理論がある時に、人は自らの残忍さに気付かないまま、残酷なことをするのです。本当の罪深さは、罪深いと思わないで罪深いことをしているところにあるのです。

 ステファノの殺害に賛成していたサウロは、徹底的に教会を迫害し始めました。「一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」(8:3)と書かれています。そして、ついに彼は迫害の手をシリアのダマスコにまで伸ばします。今日お読みした箇所には次のように書かれていました。「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった」(1‐2節)。

 迫害するのも楽ではありません。そこには相当な労力が要求されます。しかし、サウロは労をいとわずダマスコにまで向かおうとしていたのです。正しいことをしていると信じていたからです。正義のための行動には喜びが伴います。それがたとえどんなに残酷な行為であっても、正義のための行動には喜びが伴います。そこで人は自分の存在意義を見出します。生きている実感を手にします。ですから、人はそこで労苦を惜しみません。

 しかし、神はサウロが正義の闘士としてダマスコに到着することをお許しになりませんでした。キリストが彼の行く手を阻んだのです。キリストがサウロを打ち倒されたのです。次のように書かれています。「ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。』同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた」(3‐7節)。

 サウロは地に打ち倒されました。そして、サウロが再び立ち上がった時、彼の目は見えなくなっておりました。彼は人々に手を引かれてダマスコに向かうことになりました。自分がしっかりと正義の側に立っていると信じて疑わなかったサウロが打倒されました。自分には正しいことが見えていると信じていたサウロの目が見えなくなりました。自分が正しく立っていると思っていたこと、正しいことが見えていると思ってきたこと自体が間違いであったことを神によって思い知らされる、実に象徴的な出来事でした。

 しかし、打ち倒されて見えなくされて、暗闇の中に置かれて、それで終わりではありませんでした。彼はそこで声を聞いたのです。「サウル、サウル」と彼の名を呼ぶ声を聞いたのです。キリストが呼んでくださっていた。それはサウロが迫害してきたキリストでした。しかし、それはまたサウロのためにも十字架にかかられたキリストでした。サウロが耳にしたのは、彼の罪を赦し、もう一度立ち上がらせ、彼に未来を与えようとしておられるキリストの声だったのです。

 そのようにキリストは思いもよらない仕方で、サウロの人生に入ってこられました。そして、人間の思いを遙かに超えた赦しと救いを与えられたのです。しかし考えてみれば、そのように人間の思いを超えた仕方で神が行動されたと言うならば、形は違えども、私たちに対しても同じなのではありませんか。だから私たちは今ここにいるのでしょう。

主によって備えられた出会い
 しかし、神が人の思いを超えた仕方で行動される時、神は全てを御自分でなさろうとは思われないようです。その中に人間を取り込んでいかれる。神は人の思いを超えた仕方で、人間を用いられるのです。

 主はダマスコにいるアナニアという弟子にも、幻の中に現れました。そして主は、驚くべきことを彼に命じられました。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ」(11‐12節)。

 思いも寄らぬ仕方で二人の人間が出会います。そのようなことを私たちも経験いたします。そのように主によって備えられ、与えられる出会いは、必ずしも望ましく思えるものばかりではありません。「なんでこんな人と一緒にいなくてはならないのか」。「なんでこんな人と関わらなくてはならないのか」。そう思わずにはいられないこともあるのでしょう。アナニアにとってサウロは決して「出会いたかった人」ではありませんでした。関わりたかった人ではなかったのです。

 アナニアには、サウロを拒否すべき、ありとあらゆる理由がありました。ダマスコには、エルサレムから逃れてきた多くの人々がいるのです。アナニアの周辺には、この憎きサウロによって仲間を殺され、平和な生活を奪われた、数多くの人々がいたことでしょう。アナニアはそのような人たちの話をたくさん聞かされてきたに違いない。そして今や、アナニア自身にも迫害の手が伸ばされようとしているのです。そのような男の元へなど、行きたいはずがありません。

 当然のことながら、アナニアは抵抗いたします。このサウロがいかなる人物であるかを主に説明して、主の導きに対して不平を申し述べるのです。しかし、主は、「行け」と言われます。その理由は単純でした。「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」(15節)。「わたしが選んだのだ。」――それ以上の理由は与えられませんでした。そして、主は「行け」と言われるのです。

 アナニアは主の御言葉であるゆえに従います。サウロのもとに赴きます。そして、彼の上に手を置いてこう言いました。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」(17節)。

 「兄弟サウル」――かつての迫害者サウロを、アナニアはそう呼びました。アナニアが特別に寛容な人だったからではありません。彼はただ、出会わせてくださった神の選びと御計画を受け入れたのです。主がサウロを、アナニアのまことの「兄弟」とされたのです。その事実を、アナニアは主の御前で受け止めたのです。

 言い換えるならば、アナニアは、神の御計画が人間の想像を超えていることを受け入れたということです。今はよく分からないけれども、確かに神は私たちが想像もしない仕方で良きことをなさっている。そう信じて、主に信頼して従ったのです。信仰によって、アナニアはサウロに呼びかけました、「兄弟サウルよ」と。

 サウロの目からうろこのようなものが落ち、元どおり見えるようになりました。サウロは身を起こして洗礼を受け、主の教会に加えられました。しかし、ある意味では目からうろこが落ちたのは、アナニアも同じであろうと思います。かくして、迫害してきた者が迫害されてきた者たちと共に、主を礼拝し、主に仕え、主を宣べ伝えることとなりました。そのように、人間の思いを超えた神の御業が一方にあり、神の御業を受け入れる人間の信仰がもう一方にある。それが一つとなって、神の御業が目に見える形で実現していくのです。私たちもまた、信じて、期待して、私たち自身を捧げ、従ってまいりましょう。
 (祈り)
 憐れみ深い主よ、
 天地の造り主であるあなたを、いつも私たちのちっぽけな頭の中に閉じこめようとしている不遜な私たちを赦してください。私たちの思い測ることから少しでも外れたことが起こると、つぶやいたり、腹を立てたり、うろたえたりしている私たちです。主よ、憐れんでください。私たちの思いや私たちの心よりも大きなあなたが、計り知れないほどに大きな御業によって、私たちの罪を赦し、新しく生かしてくださったことを思い起こし、そのようなあなたに信頼して、ここから歩み出すことができますように。感謝と喜びと期待とをもって、この週を歩み出すことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2022年1月12日水曜日

祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 2:6~15

コロサイの信徒への手紙 2:6‐15

 今日は特に6節、7節に注目したいと思います。8節以下は次回もう一度お読みいたします。「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい」(6‐7節)。

 パウロはこの手紙において実にしばしば「神に対する感謝」ということについて書き記しています。既に見てきましたように、この手紙の本文は父なる神に対するパウロの感謝から書き始められていました(1:3)。また、コロサイの人々もまた父なる神に感謝するようにと祈っています(1:12)。さらに3章15節では、いつも感謝しているようにと勧めています。3章17節では父である神に感謝しなさい、と書いています。そして、4章2節では感謝を込めて祈るべきことを記しています。

 パウロは本日お読みしました2章7節においても「あふれるばかりに感謝しなさい」と書き記します。それは単独の命令文として書かれているのではありません。これは「感謝に溢れて」という言葉であって、6節の「キリストに結ばれて歩みなさい」という勧めの説明として書かれているのです。つまり「感謝に溢れて」いるということと「キリストに結ばれて歩んでいる」ということは切り離せない関係にあるのです。「感謝に溢れて」いないとするならば、「キリストに結ばれて歩んでいる」か否かを省みる必要があるのです。これは信仰の問題なのです。

 実際、私たちから溢れているのは感謝でしょうか。それとも何か他のものでしょうか。教会では賛美歌を歌います。神様を誉めたたえます。神様を誉めたたえるのは神様に対する私たちの感謝の表現でもあります。このように、私たちの口からは感謝と賛美が溢れるのですが、日々の生活においては私たちから何が溢れているのでしょうか。神への感謝でしょうか。現状に対する不満でしょうか。神に対するつぶやきでしょうか。

 不平や不満が心から、また口から溢れてくるのには、もちろん外的な理由があるはずです。理由なくしてブツブツつぶやくことはないでしょう。かつてイスラエルの人々が荒れ野で不平を口にした時、そこには水や食料がないという外的な理由がありました。そして、水や食料がないことが解決されなくてはならない問題だと思っていのでしょう。しかし、そうではないのです。悪いものが満ち、悪いものが溢れてくるとするならば、外的な要因が問題ではないのです。そうではなく、それは信仰の問題なのです。

 「キリストに結ばれて歩んでいる」ということを考える時には、その前提に触れないわけにはいきません。6節をご覧下さい。パウロは次のように記しています。「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから…」。このようにパウロがここで語っている事柄全ての大前提は、コロサイの信徒たちが「主キリスト・イエスを受け入れた(受け取った)」ということです。

 キリスト者とは、キリストを受け入れた(受け取った)人を言います。キリストを受け取ることができたのは、もちろん神がキリストを与えてくださったからです。まず神のアクションがあるのです。神が私たち全ての者のために救い主キリストを用意してくださったのです。それは私たちがキリストを受け入れて救われるためでした。神はキリストを世に遣わされ、キリストは私たちの罪のために十字架で死なれました。私たちの罪が赦され、救われ、神と共に生きることができるために必要な全てのことは、キリストが成し遂げてくださったのです。

 そのキリストをコロサイの人たちに伝えたのはエパフラスでした。彼らはキリストを遣わされた神の愛の使信を聞きました。コロサイの人々が聞いたのはエパフラスの言葉でした。しかし、神はエパフラスの言葉を通して、コロサイの人々にキリストを与えようとしておられたのです。そして、彼らはキリストをその恵みと共に受け取りました。そうです、神の福音が語られるところにおいて、その福音の言葉を通して、神はキリストを私たちに与えようとしておられるのです。

 この頌栄教会においても、福音が語られ、キリストの救いが差し出されているのです。いかなる罪人も、キリストを信じ、受け入れるとき、その罪は赦され、神と共に生きるものとなるのです。神がキリストを与え、人間がキリストを受け取る。それは聖霊の働きによって実現する信仰のリアリティなのです。そのように「主キリスト・イエスを受け入れる(受け取る)」こと以外に、キリスト者としての信仰生活の入口はありません。そして、それこそがまた感謝に溢れた生活の根拠なのです。

 このように、コロサイの信徒たちは確かにキリストを受け入れた人々でした。然るべき入口を通って信仰生活に入ったのです。その信仰生活を具体的に進めることをパウロは「キリストに結ばれて歩みなさい」と表現しているのです。キリストを受け入れたなら、キリストに結ばれて《歩む》のです。キリストを《受け入れる》ということは一つのことであり、そのキリストに結ばれて《歩む》ということはもう一つの別なことなのです。「歩む」という言葉は「生活」を意味します。ただ礼拝に集まる時だけではなく、礼拝から礼拝へと向かう日常生活の話なのです。

 そこでキリストに結ばれて歩むということについて、その後に説明がなされています。「根を下ろす」「造り上げられる(建て上げられる)」という二つの言葉が用いられています。これは比喩です。キリストに結ばれて歩むとは植物が大地に根を下ろすように、キリストに根をしっかり下ろすことです。そして、キリストを土台として建物のようにその上に建て上げられることなのです。

 私たちは植物のように深く根を下ろさなくてはなりません。そうでなければ倒れてしまいます。もっとも植物ならば、根は自然に大地の深いところへ向かうでしょう。根はちゃんと向かうべきところを知っています。ところが人間はそうはいきません。あっちに延び、こっちに延びしているうちに、いつの間にか根が宙を舞っているようなことが起こります。少しも大地であるキリストの中に入っていないならば、すぐに倒れてしまいます。向かうべき先を明確にしなくてはなりません。信仰生活の中心的関心事はキリストに向けられなくてはなりません。長い信仰生活をしていても、少しもキリストに根が延びていないなら、それはまことに悲しむべきことです。そしてまた、私たちはしっかりとした土台の上に建て上げられなくてはなりません。キリストこそ私たちの存在そのものを支えることのできる土台です。私たちは自らの生活の土台、教会の土台をどこに求めているでしょうか。

 これらが意味するところは、結局、「教えられた通りの信仰をしっかり守る」と言い換えることができます。次回に触れたいと思いますが、8節以下にはコロサイの教会に入り込んでいた異端的な教えについての警告が記されています。彼らはキリストの福音以外のものに絶えず関心を奪われ、振り回されていたのです。だから、ここで「教えられた通りの信仰をしっかり守る」べきことについて書かれているのです。

 私たちから溢れているのは何なのでしょう。パウロは感謝に溢れるべき十分な理由があるのだし、また事実、感謝に溢れて生きることが出来るのだということを示します。それはキリストを受け入れた者として、キリストに結ばれて歩むことなのです。

(祈り)
 

2022年1月5日水曜日

祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 2:1~5

 コロサイの信徒への手紙 2:1-5

 「わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい」(1節)。

 パウロの一生は労苦の連続でした。他者の為の労苦によって費やされた人生でした。ここで、パウロはまだ一度も会ったことのない人々の為に労苦して闘っていると言います。パウロは実に、愛するということが労苦することであることを良く知っていた人であり、またそのように生きた人でありました。

 では、パウロは今まで具体的に、どのような労苦してきたのでしょうか。この箇所の直前にはこう書かれています。「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています」(1:28‐29)。

 このように、その第一は宣教の労苦であり、第二は牧会の労苦であることが分かります。「すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように」労苦してきたのです。「完全な者」とは「大人」を意味する言葉です。キリストを信じ、キリストによって救われ、キリストによって新しく生まれた者が、さらにキリストとの結びつきの中で成長し、大人の信仰者になることです。パウロの労苦はそのための労苦でした。

 実際、コロサイの信徒たちはまだ霊的な幼子でした。ですから、異端的な思想が入り込んできたときに対処できなかったのです。彼らの弱さはパウロの苦しみでした。ですからパウロは具体的に、「あなたがたとラオディキアの人々のために…」と語ります。あなた方のために労苦しているということを知ってほしい、と言うのです。ある意味で押しつけがましい言葉とも言えます。しかし、コロサイの教会の人々には必要な言葉でした。なぜなら、彼らの教会は、信仰の危機に瀕していたからです。ですから、パウロはこの手紙が書かれている時もなお、彼らがキリストにある大人になれるように、キリストに対する固い信仰を持つことが出来るように苦闘していたのです。

 ところでパウロの労苦とは、この手紙が書かれている時点では、具体的にどのようなものだったのでしょうか。パウロはこの時、牢獄に監禁されていたのです。ですから「すべての人を諭し、教えています」とは言っているものの、実際にはコロサイの教会に赴くということはできなかったのです。パウロが教えるために採れる手段は、せいぜいこうして手紙を書くことぐらいでした。ある意味で手も足も出ない状況だったのです。

 そこで明らかなことは、パウロの苦闘とは、この時点において、具体的にはこのように手紙を書くことと祈ることだったということです。祈りにおける苦闘です。実際、パウロはこの手紙にこう記しています。「わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り」(1:3)、「こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています」(1:9)。これが獄中にあっても為しうるパウロの愛の労苦でした。

 私たちは投獄されてはいないにせよ、同じように手の伸ばし得ない問題、手が届かない問題、もはや何も為しえない事柄はあるのでしょう。どうしますか。諦めてしまいますか。いいえ、いかなる状況においても為しえる愛の労苦があるのです。苦しみもがきながらでも祈ることです。

 さて、私たちはパウロの労苦して闘っている姿を見てきました。パウロはこのことを知ってほしい、と言うのです。しかし、この闘いは決してただ悲壮感に満ちたものではありません。私たちは5節において次のような言葉を見て改めて驚きを覚えます。「わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます」(2:5)。

 パウロの霊がコロサイの教会と共にあるということは、もちろん、霊が体を離れて飛んでいったということではありません。しかし、パウロは確かに物理的には訪れることのできないコロサイの教会と関わっているのです。まさに彼らと共にいるのです。それが祈りのリアリティなのです。

 しかし、それにしても、「喜んでいる」とはどういうことでしょうか。喜べるような状態であるならば、危機感を覚えつつこのような手紙を書く必要もないのです。パウロは何を喜んでいるのでしょうか。「あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます」と言うのです。これも奇妙な話です。コロサイの教会に正しい秩序が崩れ始めているからこそ手紙を書いているのです。キリストに対する固い信仰があって、異端思想などによってびくともしないならば、この手紙を書くこともなかったのです。

 実は、ここに私たちの学ぶべきもう一つの大切な事柄があるのです。祈るとはどういうことか、ということです。パウロは既に見ているのです。彼らがキリストに対する固い信仰によってしっかりと立っている姿を見ているのです。見て喜んでいるのです。どのようにしてでしょうか。信仰の目によってです。

 パウロは2節に記されているように、コロサイやラオディキアの信徒たちが心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るように、そのために苦闘していました。パウロの苦闘の祈りの一部は、1章9節以下にも記されています。パウロはそのように、彼らがキリストに対する信仰によって固く立つことを祈り求めてきたのです。本気で祈り求めてきたのです。そして、本気で祈り求めた者だけが見ることの出来る信仰の世界があるということを私たちは知らなくてはなりません。

 パウロは祈り求めたことは既に与えられたとの確信がありました。これはイエス様ご自身も言われたことです。イエス様は言われました。「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」(マルコ11:24)。パウロはこの信仰の目をもってコロサイの教会を見ていたのです。信仰の目によって、既に変えられたコロサイの教会の姿を見て喜びに溢れていたのです。

 私たちは何を見ているのでしょう。目に見える現実だけをあきらめの気持ちをもって見ているのでしょうか。それとも信仰によって来たるべき神の御業を見ているのでしょうか。私たちもまた信仰の目によって現実を越えた姿を見、喜ぶことが出来るまで祈らなくてはなりません。祈るとはそういうことです。神の力ある働きが現わされた現実を先取りして、それを信仰の目をもってしっかりと見ることが出来るまで、祈りの苦闘を続けなくてはならないのです。そうあるならば、祈りの苦闘は同時に大きな喜びでもあり得るのです。

2022年1月2日日曜日

「人と共にいることを望まれる神」

ゼカリヤ書 8:1‐6

彼らは喜びの地を荒廃に帰させた
 新年の最初の聖書朗読として与えられているのは、預言者ゼカリヤを通して語られた主の御言葉です。 預言者ゼカリヤが活動したのは、紀元前6世紀、エルサレムにおいて神殿の再建が進められていた時代でした。

 神殿の「再建」と申しましたのは、かつての神殿は破壊されてしまったからです。遡ること約70年、かつて繁栄を極めたユダの王国はバビロニアによって滅ぼされ、その時に神殿も破壊されました。人々は散らされ、主だった人々は異国の地へと捕らえ移されることとなりました。この章の直前には次のように書かれています。「わたしは彼らを、彼らの知らなかったあらゆる国に散らした。その後に、地は荒れ果て、行き来する者もなくなった。彼らは喜びの地を荒廃に帰させた」(7:14)。

 何故そのようなことになってしまったのでしょうか。少し遡って7章を見ておきましょう。かつて主が預言者たちを遣わして繰り返し語られた言葉が、9節と10節に要約されています。「万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁き、互いにいたわり合い、憐れみ深くあり、やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者らを虐げず、互いに災いを心にたくらんではならない」(7:9-10)。

 このような言葉が語られなくてはならなかったのは、実際にはそうなっていなかったからです。正義と真理に基づいてではなく、偏見と利害関係に基づいて裁きは行われている。人々は互いに自分のことしか考えず、他者のことには無関心になり、互いに自分の権利の主張ばかりを繰り返している。やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者たちなど、権利を自分で守り得ない力ない者たちは隅に追いやられ、抑圧され、力ある者の食い物にされている。皆、互いに災いを心にたくらみながら生きている。それがイスラエルの民の現実だったのです。

 そのような彼らに、神は預言者を送り、語り続けられたのです。しかし、彼らは耳を傾けようとはしませんでした。「ところが、彼らは耳を傾けることを拒み、かたくなに背を向け、耳を鈍くして聞こうとせず、心を石のように硬くして、万軍の主がその霊によって、先の預言者たちを通して与えられた律法と言葉を聞こうとしなかった」(11‐12節)と語られている通りです。

 ここで一つ一つの悪い行いが責められているのではないことに注意してください。問題はそれ以前のことなのです。神に対してかたくなであり、神の言葉に耳を傾けようとしない生き方そのものです。かたくなに背を向けて耳を塞いで生きようとするその石のような心こそが問題なのです。

 そのようなかたくなさに対して、神は正しく彼らを裁かれました。ユダの国は滅び、人々は散らされました。地は荒れ果て、行き来する者もいなくなりました。しかし、ここで「神の怒りがエルサレムを荒廃させたのだ」と語られてはいないことに注意してください。「《彼らは》喜びの地を荒廃に帰させた」(14節)と聖書は語るのです。神が彼らに与えたのは、本来喜びの地であったはずでした。それが荒廃することは、本来の神の意図ではありません。それをもたらしたのは、本質的には神でもバビロニアの大軍でもないのです。彼ら自身なのです。神は喜びの地の上に人を生かそうとしておられます。しかし、神に逆らう人間のかたくなさが、与えられている喜びの地を荒廃させてしまうのです。

わたしはシオンに熱情を注ぐ
 しかし、神は荒廃をもって終わりにしてしまわれません。神は荒廃をもたらした人間の過去と惨めな現在だけを見ておられるのではありません。神は彼らの未来を見ておられるのです。神は散らされたイスラエルの民を再び呼び集め、こう言われるのです。「わたしはシオンに激しい熱情を注ぐ」。

 ここは、以前用いていました聖書協会訳では次のようになっていました。「わたしはシオンのために、大いなるねたみを起こし、またこれがために、大いなる憤りをもってねたむ」。新共同訳で「熱情」と訳されているのは、他の訳では「ねたみ」となっているのです。「ねたむ神」という表現は非常に強烈です。しかし、このような表現は聖書の中に珍しくはないのです。

 神はねたむ神です。そこに表現されているのは、神の民を完全に自分のものにしようとされる神の熱意です。ねたむ神である主は、神の民が完全に神のものとして生きることを求められます。ねたむ神である主は、神の民が他に向くことを許されません。神の民が、背を向けることを許されません。神の言葉に耳を塞いでしまうことを許されません。神の愛に背く人間の罪を憎まれます。罪に対して憤られるのです。

 神はねたむ神であるということ、それは私たちにとって、本当はこの上なく喜ばしいことなのです。それは言い換えるならば、神は人間に対して無関心ではあり得ないということだからです。それはやがてそのシオンにおいて、ひとりの御方を通して現される神の熱情に他なりません。イエス・キリストによって、その十字架において、罪に対する神の憤り、そして人を求めてやまない神の熱情は完全に現されることになるのです。

神による回復
 そのように熱情を注ぎ給う主は、さらに「わたしは再びシオンに来て、エルサレムの真ん中に住まう」と言われます。主は、人々のただ中に住まおうとされるのです。神は自ら人と共にいて、人と共に生きることを望まれます。主はエルサレムの真ん中に住まうと言われます。

 しかし、主が住み得るところとなるために、都は一度破壊されなくてはなりませんでした。ソロモンの神殿は一度破壊されなくてはなりませんでした。神に背を向けたままの繁栄は、一度奪い去られねばなりませんでした。そうして一度荒れ果ててしまった都に対して、主はそこに住まう、と言われるのです。主が来られる時、荒れた都は回復されるのです。

 主が来られ、共に住まわれる時、回復された都とはどのようなものとなるのでしょうか。4節以下には次のように書かれています。「万軍の主はこう言われる。エルサレムの広場には、再び、老爺、老婆が座するようになる、それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして。都の広場はわらべとおとめに溢れ、彼らは広場で笑いさざめく」(4‐5節)。

 これが、神の回復しようとしておられる都の姿です。私たちはここに、神が人間に与えようとしておられる世界がどのようなものであるかを示す、一つの映像を与えられているのです。それは回復された都の広場の映像です。

 主が来られて共に住まわれる時――ここではかつてソロモンの時代のような繁栄と栄華が回復されるとは語られていません。主が語られたのは、主御自身が回復された平和の内に、長寿のゆえに杖を手にして座している老爺、老婆の姿でした。

 年老いた人々が広場に安心して座っている。そこに見えてくるのは、人が安心して存在することのできる世界です。もはや何にも脅かされることはない。先行きの不安、死の恐れに脅かされることもない。何かが出来なくなったからと言って、誰からも疎んじられることもない。何かが出来なくなったからと言って、自分で自分を疎んじることもないし、自分の存在意義を見失うこともない。主が来られて共に住んでくださる時、人は自らが生きていることそのものを肯定することができる。生きていることそのものを喜べる。そのような世界を、主は平和の内に広場に座る老爺、老婆の姿をもって私たちに示しておられるのです。

 そして、その同じ広場にはわらべとおとめがいます。子どもたちが溢れています。回復された平和の広場には、彼らが笑いさざめく声が満ちているのです。主が来られて共に住まわれる時、そこでは子どもが子どもとして生きることができる。子どもたちは安心して笑い戯れることができるのです。そこには彼らを害する大人たちはいません。疎外されることも虐待されることもありません。彼らを待っている未来に脅かされることもありません。主が来られ、主が共に住まわれるところにおいて、子どもたちは喜びをもって現在を生き、未来に向かって生きることができるのです。

 主の御目はそのような神の都の広場を既に見ています。そうなると主は言われるのです。しかし、これを語ったゼカリヤの目には、そのような広場はまだ見えていません。彼の目の前に広がるのは、いまだ人間の罪とその結果によって荒れ果ててしまったエルサレムでしかなかったことでしょうから。

 それは私たちにおいても同じです。私たちの目の前に広がっているのは、やはり同じように荒れ果てた世界です。それは本質的にはコロナがもたらした荒廃でも、異常気象がもたらした荒廃でもありません。神に耳を傾けることを拒み、かたくなに背を向け、耳を鈍くして聞こうとせず、心を石のように硬くしてきた、私たち人間の罪が作り出してきた荒廃です。私たちの目には、人が幼い時も、年老いた時も、本当に喜びをもって共に生きることのできる世界は見えてきません。この世界は、笑いさざめく声ではなくて、生きることよりも死ぬことを求める嘆きの声に満ちています。それがゼカリヤの見ていた世界であり私たちが見ている世界です。

 しかし、預言者はそれでもなお言葉をついでこう語るのです。「万軍の主はこう言われる。そのときになって、この民の残りの者が見て驚くことを、わたしも見て驚くであろうかと、万軍の主は言われる」(6節)。面白い表現です。私たちにとって驚きであることも、神にとっては驚きではない。すなわち、神は私たちの想像を超えることを成し遂げることができるということです。神が来られて共に住まわれるとはそういうことだ、と。

 私たちの希望は、人間の持っている可能性にではなく、ただこのように語られる神にこそあるのです。私たちの希望は、その熱情をもって私たちのただ中に来て共に住んでくださる神にこそあるのです。それゆえ、私たちにとって一番大事なことは、神の民として、神のものとして、神と共に生きることなのです。そして、望みを失わず、主が与えようとしておられる世界を私たちもまた求めて生きるのです。「御国が来ますように。御心が天になるごとく、地にもなりますように」と祈りながら。
(祈り)

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