2020年1月26日日曜日

「自ら同行される主」

出エジプト記33:12-23

一緒には行かない
 「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました」。今日の聖書箇所はこのモーセの言葉から始まりました。確かに神はモーセに「この民を率いて上れ」と言われました。どこに?約束の地にです。「カナンの地」、主がイスラエルに約束された「乳と蜜が流れる土地」にです。

 かつてモーセがミディアンの羊飼いであった時、神は燃える柴の間から「モーセよ、モーセよ」と呼ばれました。そして、モーセに言われました。「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(3:9‐10)。そのように、当時エジプトの奴隷であったイスラエルの民をエジプトから脱出させ、彼らを率いて約束の地に導き入れることを求められました。確かに主は「この民を率いて上れ」とモーセに言われたのです。

 しかし、ここでモーセが言っているのは、あの初めの時の話ではありません。この33章の初めに書かれていることです。話の流れは以下のとおりです。

 イスラエルの民はモーセに率いられてエジプトを脱出し、荒れ野へと導かれました。彼らは荒れ野を旅してシナイ山のふもとに到着します。モーセは彼らを置いてひとりでシナイ山に登り、そこで四十日四十夜を過ごしました。そのときに「十戒」を与えられたという話が20章に出ております。

 しかし、モーセが山に留まっている間に、人々はモーセの兄、アロンにこのように要求したのでした。「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」(32:1)。そこでアロンは人々の身に着けている金の耳輪を集め、それで金の子牛の鋳造を造ったのでした。すると彼らは「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言い、その前に祭壇を築き、金の子牛を拝み始めたのです。

 これは神に対する冒涜と反逆に他なりませんでした。神は背く民を滅ぼすと言われます。しかし、そこでモーセは民のために執り成し、赦しを求めて言いました。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください」(32:31-32)。このようにモーセは自らが滅びることさえ厭わずに、民が赦されることを求めて神に執り成し祈ったのでした。

 その祈りを聞かれた主はモーセに次のように言われました。「さあ、あなたも、あなたがエジプトの国から導き上った民も、ここをたって、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『あなたの子孫にそれを与える』と言った土地に上りなさい。わたしは、使いをあなたに先立って遣わし、カナン人、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出す。あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である」(33:1‐3)。今日の箇所で「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました」とモーセが言っているのは、このことです。

 神様はここで三つのことを語っておられます。「約束の地に向かって上っていきなさい」。「わたしは使いを先立って遣わす」。「しかし、わたしは一緒には行かない」。約束の地には入れそうです。荒れ野の困難な旅は終わりそうです。そして、とても豊かな土地に入ることができるようです。神様が「あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい」と言われるのですから。しかも、神様は使いを先立って遣わしてくださる。「使い」とは天使のことです。天使が先立っていくならば、約束の地に入ることはほぼ確実に順調に実現するのでしょう。しかし、そこで主は言われるのです。「わたしは一緒には行かない」。

 目的とすることが幸福の獲得と困難からの解放であるならば、その目的はある意味で実現されるのです。乳と蜜の流れる土地には入れるのですから。荒れ野の旅は終わるのですから。しかし、これを聞いて民は嘆き悲しんだというのです。これを良い知らせとは受け取らなかったのです。「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾りを身に着けなかった」(33:4)。それは神様が、「わたしはあなたの間にあって上ることはしない」と言われたからです。神が一緒に行ってくださらないことが彼らにとっては悲しみとなったのです。明らかに彼らの内で何かが変わりつつありました。

 もともと彼らは金の子牛を拝んでいた人たちです。これを偶像礼拝と言います。偶像礼拝の問題とは何か。単に神の像を造ることではありません。礼拝の対象には本質的に関心がないということです。そこから何を得られるかということにしか関心がない。礼拝の対象は何だってよいのです。金の子牛でもよいのです。求めているものが得られればよいのです。極論するならば、求めているものが得られれば、神が共にいなくてもよいのです。それがもともとの彼らの姿だったのです。

 しかし今、主が「わたしはあなたの間にあって上ることはしない」と言われた時、彼らは悲しみ嘆いたのです。明らかに何かが変わりつつあった。何が本当に大事なことなのかを彼らは知り始めていたのです。そのような彼らのために、モーセは神に語ります。それが今日お読みした箇所なのです。

一緒に行ってください
 「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました」。実は、日本語に訳されていないのですが、最初に「御覧ください」という言葉があるのです。そして、これは13節の後半に対応しているのです。「どうか、この国民があなたの民であることも目にお留めください」。ここで同じ言葉が「目にお留めください」と訳されています。あなたはわたしを名指しで選んで、好意を示すと言われました。そのわたしに「率いて上れ」と言われる「この民」とは、「あなたの民」なのですよ、ということを強調しているわけです。「あなたの民」を「どうぞ御覧ください」と。

 そして、わたしに御好意を示してくださるのなら、「どうか今、あなたの道をお示しください」とモーセは神に求めるのです。その「道」とは、神が行かれる「道」です。すなわち、神と共に歩むことのできる「道」のことです。そのような言い方で、要するに「神様、どうぞ一緒に行ってください」と願い求めているのです。

 そこで主は言われます。「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」。その意味合いは明らかに主が自ら「モーセに」同行するということです。モーセとは共にいて「あなたに安息を与えよう」と言われるのです。しかし、モーセにとって大事なのは「わたし」ではないのです。あくまでも「わたしたち」なのです。神が「わたしたち」と共にいてくださることなのです。

 それゆえに、「わたしが自ら同行する」と言われる神に、モーセは言うのです。「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください」(15節)。その意味するところは、「あなた御自身が《わたしたち》と共に行ってくださらないのなら・・」ということです。そして、執拗に「あなたの民」という言葉を繰り返して訴えるのです。「 一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう」(16節)。

 そして、神は執り成し祈るモーセの言葉を聞き入れられたのでした。主は言われます。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである」。そのように、神は彼らを「神の民」と見なし、神が彼らと共に歩んでくださることとなりました。

 神の言葉から明らかなように、それはあくまでもモーセの願いを聞き入れたのであって、イスラエルの民が神と共に歩むに値するからではありません。神は一緒に行かないと言われたのです。「途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である」と主は言われたのです。神が共にいるならば、本来なら彼らは滅びるのです。にもかかわらず、彼らが滅びることなく神と共に生き、神の民として歩むことができるとするならば、それは一重に仲保者であるモーセの執り成しのゆえなのです。そして、そこにおいて現された神の赦しと憐れみによるのです。

 ここに見る神とモーセとのやり取りは、神に導かれる民がどのように成立するのか、人が神と共に生きるとはどういうことなのかをはっきりと示していると言えるでしょう。

 人間の手によって造られた金の子牛であるならば、そのような金の子牛によって私たちの在り方が問われることはありません。人間が思い描いた神、人間の心が造り出した神ならば、そのような神によって私たちの在り方が問われることはありません。しかし、それが生けるまことの神であるならば、その御前において私たちの在り方が問われます。私たちが神に背いてきたならば、神が共に歩まれることは、私たちの滅びを意味するのです。

 それゆえに、そこでなお神に立ち帰り神と共に生きようと願うなら、神が自ら同行してくださることを願うなら、それは神の赦しによる以外、あり得ないのです。仲保者モーセの存在とその執り成しとは、そのことを表しているのです。神の赦しなくして、人が神と共に生きる道はないのです。

 その意味において、神と民との間に立って執り成し祈る仲保者モーセの姿は、来るべき完全な仲保者を指し示していると言えるでしょう。十字架において私たちの罪を贖ってくださった神の独り子、今も神の右において執り成していてくださるイエス・キリストです(ローマ8:34)。

 御子キリストが私たちと共にいてくださる。それゆえに御父もまた共にいてくださる。それゆえに第二朗読において私たちが聞いたこともまた実現しているのです。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」(1ヨハネ1:3‐4)。

(祈り)

2020年1月19日日曜日

「主よ、お話しください」

1サムエル3:1‐10

主よ、お話しください
 私が子供の頃に通っていた教会がまだ古い小さな会堂であった頃、会堂の両隅に二枚の絵がかけられていました。右にあったのは、イエス様がゲッセマネの園で祈っている絵。左にあったのは、巻き毛のかわいらしい男の子が正座をして手を合わせて祈っている絵でした。後にレイノルズの「幼きサムエル」という絵であることを知りました。今日の聖書箇所に出て来た少年サムエルの絵です。主が「サムエルよ」と呼び掛けると、サムエルは言いました。「どうぞお話しください。僕は聞いております」。私が子供の頃に使っていた口語訳聖書では「しもべは聞きます。お話しください」という言葉となっていました。子供の頃に暗唱した聖句の一つです。礼拝堂の絵とセットになって今でも心の中に残っています。

 「どうぞお話しください。僕は聞いております」。「しもべは聞きます。お話しください」。そのように「お話しください」と祈ることのできる神様。私たちが信じているのはそのような神様です。私たちが語りかけるだけでなく、私たちに語りかけてくださる神様です。それゆえに、私たちの信仰生活においては、「聞く」ということが極めて重要な要素となっています。信仰生活とは神の言葉を聞きながら生きていくことです。

 私たちが主の日に集まる時に聖書が朗読されるのは、神の言葉を聞くためです。聖書朗読の時間に他のことを考えていてはなりません。私たちは心の耳を澄ませて神様の語りかけに集中して聞かなくてはなりません。また聖書朗読の後に説教が語られるのも同じ理由です。礼拝説教は聖書の説き明かしです。解き明かしがなされるのは、神の言葉を聞くためです。皆さんは「牧師のお話」を聞くために集まっているのではありません。私たちが信じる神様は、語りかけてくださる神様です。ならばこのサムエルの祈りは私たちの祈りでもあります。「どうぞお話しください。僕は聞いております」。

 しかし、今日お読みした聖書箇所は、「どうぞお話しください。僕は聞いております」という祈りから始まるのではありません。次のような言葉から始まるのです。「少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」(1節)。

 サムエルは幼い日にシロにあった聖所にあずけられ、聖所に仕える祭司エリのもとで育てられました。さぞや宗教的に恵まれた環境で信仰を育まれたかと思いきや、実際にはそうでなかったことが前の章において次のように書かれています。

 「エリの息子はならず者で、主を知ろうとしなかった。この祭司たちは、人々に対して次のように行った。だれかがいけにえをささげていると、その肉を煮ている間に、祭司の下働きが三つまたの肉刺しを手にやって来て、釜や鍋であれ、鉢や皿であれ、そこに突き入れた。肉刺しが突き上げたものはすべて、祭司のものとした。彼らは、シロに詣でるイスラエルの人々すべてに対して、このように行った。そればかりでなく、人々が供え物の脂肪を燃やして煙にする前に、祭司の下働きがやって来て、いけにえをささげる人に言った。『祭司様のために焼く肉をよこしなさい。祭司は煮た肉は受け取らない。生でなければならない。』『いつものように脂肪をすっかり燃やして煙になってから、あなたの思いどおりに取ってください』と言っても、下働きは、『今、よこしなさい。さもなければ力ずくで取る』と答えるのであった。この下働きたちの罪は主に対する甚だ大きな罪であった。この人々が主への供え物を軽んじたからである」(2:12‐17)。

 「少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた」とは、このような人々と一緒に聖所で仕えていたということなのです。しかも、「主に仕えていた」と書かれているのですが、もう一方において7節では「サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった」と書かれています。ですから「主に仕えていた」と書かれているのは単純に聖所で仕事をしていたという意味なのです。実際に行っていたのは祭司の下働きとして日々繰り返されるルーチンワークです。そして、恐らく年老いて目がかすんで見えなくなっていた祭司エリの生活のお世話をしながら、毎日を送っていたのです。

 さて、先ほど「幼きサムエル」の絵のことに触れましたが、実際には幼子ではなかっただろうと思います。歴史家ヨセフスによれば既に12歳を越えていたとされています。当時においては立派な青年です。堕落した祭司たちが仕切っている祭壇に人々が形式的に犠牲を捧げに来る。それがシロの聖所の日常でした。そのような祭儀に仕えることが、若いサムエルにとって喜びと興奮に満ちた仕事であったとは思えません。

 しかし、日々の平凡な仕事の繰り返しにおいて、そして老人エリに仕えることにおいて、彼は大切なことを学んでいたのです。それは何か。忠実に仕えることです。忠実に聞き従うことです。今日お読みした場面には同じ出来事が三回繰り返されています。主がサムエルを呼ばれます。サムエルは「ここにいます」と答えて、エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言うのです。サムエルの答えは三回とも原文において一字一句違わず同じです。ここに愚直なまでのサムエルの従順、そして忠実さが表現されているのです。それがサムエルの日常だったのです。しかし、そのように日々忠実に仕える中で彼は準備されていたのです。そのようにして初めて主の言葉がサムエルに臨んだのです。

 四度目に主から呼ばれた時、サムエルはこう言っています。「どうぞお話しください。僕は聞いております」(10節)。これはエリから教わった言葉でした。サムエルはエリに言われたとおり、主に答えたのです。しかし、これまで忠実さと従順とを学び続けてきたサムエルにとって、この言葉は単なる教わった言葉のオウム返しではなかったに違いありません。本当に聞くつもりで、そして忠実に従うつもりで、サムエルは「主よ、お話しください」と言っていたに違いないのです。

 先ほど、「私たちの信仰生活において『聞く』ということは重要な要素である」とお話ししました。そして、「どうぞお話しください。僕は聞いております」という祈りは私たちの祈りでもあると申しました。それは確かにそうなのです。しかし、同時に「どうぞお話しください」と祈る私たち自身がその祈りに向けて備えられなくてはならないことも事実です。「どうぞお話しください」と祈る私たちとして、まず忠実さと従順とを学ばねばならないのでしょう。この世の事柄において忠実であり得ない者が、神の言葉に従うことにおいて忠実であるということはあり得ないでしょうから。

 そして、サムエルに見るように、そのような学びの場は、毎日の身近なところにあるのです。それはおよそ信仰とは関係のないように見える日々のルーチンワークかもしれません。ある東方教会の教師は次のように書いています。「修道院にいる修道士のほうが家庭にいるあなたがたより、従順になる練習をする機会が多いというわけではないのである。あなたがたは仕事の中でも隣近所のつきあいの中にでも同じようにその機会を見つけるであろう」。

それを話されたのは主だ
 さて、「どうぞお話しください」と祈るサムエルに主が語られました。続く話は、神の言葉を聞くということについて、さらにもう一つの大事なことを私たちに伝えています。

 サムエルに語りかけられた主は、サムエルを預言者として立て、主の言葉を伝えることにおいて最初の務めを与えられました。なんとその最初の務めは、祭司エリの家に対する裁きを告げることだったのです。サムエルは次のようにエリに告げることを求められたのでした。

 「見よ、わたしは、イスラエルに一つのことを行う。それを聞く者は皆、両耳が鳴るだろう。その日わたしは、エリの家に告げたことをすべて、初めから終わりまでエリに対して行う。わたしはエリに告げ知らせた。息子たちが神を汚す行為をしていると知っていながら、とがめなかった罪のために、エリの家をとこしえに裁く、と。わたしはエリの家について誓った。エリの家の罪は、いけにえによっても献げ物によってもとこしえに贖われることはない」(3:11‐14)。

 15節には「サムエルはエリにこのお告げを伝えるのを恐れた」とあります。それは無理ありません。彼はどんなにか苦しんだことでしょう。しかし、この与えられた務めにおいてこそ、サムエルは主の言葉に対する忠実さと従順とを問われたのです。彼が預言者として召されたのならば、人の望む言葉ではなく、主の告げられる言葉を語らねばなりません。サムエルはエリに聞いたことを残らず語りました。

 エリはすべてを聞いてこう語ります。「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように」(18節)。サムエルに「主よ、お話しください。僕は聞いております」と祈ることを教えた祭司エリは、自らもそのように主の言葉を聞いたということでしょう。語られた言葉は、祭司エリの罪を明らかにする厳しい裁きの言葉でした。しかし、そこに語られている自分の罪を認め、その裁きの言葉を裁きの言葉として受け止めること、それがエリにとっては主の言葉を聞くということだったのです。エリは確かに神の言葉を聞いたのです。

 このサムエルとエリとのやりとりは、この書物が記された時代の人々にとって、大きな意味を持ったに違いありません。というのも、国家の滅亡とバビロン捕囚を経験したイスラエルの民は、いったいいかなる言葉を聞いて受け入れるのかを問われていたからです。ある人々は神の名によって、救いと解放の時がすぐにでも訪れることを語っていました。「主はこう言われる。わたしはこのように、二年のうちに、あらゆる国々の首にはめられているバビロンの王ネブカドネツァルの軛を打ち砕く」(エレミヤ28:11)。それは多くの人々が聞きたがっていた言葉でした。しかし、それに対して預言者エレミヤは、速やかな救いを告げる預言者たちの言葉に反対し、国家の滅亡を神の裁きとして受け止めるようにと語ったのです。今こそ自分たちの罪を認めて、立ち帰らなくてはならない、と。サムエル記を含むこの聖書の歴史物語は、エレミヤのような預言者の言葉の延長上にあるのです。

 私たちが自分の聞きたい言葉、耳に心地良い言葉を尋ね求めている限り、私たちの祈りは本当の意味で「主よ、お話しください。僕は聞いております」とはならないでしょう。神は神であり私たちは人間です。神は神として私たちに語られます。私たちは神の御前にある罪深い人間として神の言葉を聞くのです。それゆえに神の言葉は時として、私たちの現実を照らし出し、私たちの罪を明らかにする厳しい言葉として臨むこともあるのでしょう。しかし、それは必要なことなのです。なぜなら、神の恵みの言葉は、裁きの言葉とは別のところにあるのではなく、その向こうにあるからです。私たちが願う言葉ではなく、神の言葉を求めてこそ、真の慰めと救いの言葉をも聞くことができるのです。

(祈り)

2020年1月12日日曜日

「傷ついた葦を折ることなく」

イザヤ42:1‐9

見よ、わたしの僕
 今日の第一朗読では、神様が私たちに「見よ」と言って一人の人物を指し示しています。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」(1節)。その人は「わたしの僕」と呼ばれています。僕は仕える者です。彼は主に仕えるために選ばれた人です。

 このイザヤ書の言葉は、マタイによる福音書12章にも引用されています。話の流れは次のとおりです。

 それはある安息日のことでした。イエス様はいつものように会堂に入られました。するとそこに一人の片手の萎えた人がおりました。悪意を抱いている人々は、イエスを試そうとしてこう言います。「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか。」イエスはきっとその人を放ってはおけないだろうと彼らは思ったのです。だからきっと癒すに違いない。そして、もし癒したならば、安息日の律法違反として訴えようと企んでいたのです。

 彼らの魂胆を知っているイエス様は、このように答えられました。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」(マタイ12:11‐12)。そう言って、あえて安息日にもかかわらず、いや、安息日であるからこそ、その人を癒されたのです。

 この出来事はユダヤ人たち、特にファリサイ派の人々の憎しみを引き起こすことになりました。そこでこう書かれています。「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」(同15‐17節)。そして、今日読まれたイザヤ書の言葉が引用されているのです。つまり福音書は、このようなイエス様のお姿の中に、あのイザヤ書の預言が成就しているのを見ているのです。

 神様は私たちに「見よ」と言って、一人の人物を指し示します。そして、その指先の方向に目を向けると、そこにはキリストがおられるのです。

傷ついた葦を折ることのない主の僕
 「見よ、わたしの僕、わたしが支えるものを。わたしが選び、喜び迎えるものを」。その「主の僕」については、「彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す」と語られています。それが主の僕に与えられた使命です。

 しかし、「国々の裁きを導き出す」とは何を意味しているのでしょう。「裁き」という日本語は、教会の中で聞かれる時、あまり肯定的な響きを持ってはおりません。「あの人は他人を裁く人だ」と言った場合は否定的な評価ですし、「神の裁き」と聞くと、多くの人は恐ろしさしか感じないことでしょう。しかし、ここで「裁き」と訳されている言葉は、もともと否定的なニュアンスを持った言葉ではありません。以前の聖書協会訳では「彼はもろもろの国びとに道をしめす」と訳されておりました。

 イザヤ書においてこの言葉は神の定められた計画を意味しているものと思われます。ですから、そこには「裁き」も含まれます。神の正義が貫かれることが含まれます。神の道が示されることも含まれます。すべては救いが実現することへと向かっているのです。そのような神の意志と計画をこの僕は示し、またそれを実現するのです。

 しかもここで「国々の」と書かれていることは重要です。国々というのは、イスラエルの民以外の諸国民です。「異邦人」と言い換えてもよいでしょう。4節には「島々は彼の教えを待ち望む」と書かれています。地中海の島々は、当時の認識では「世界の果て」です。神様の救いの御計画は諸国民に及び、地の果てにまで及ぶのです。神様の関心の対象は常に世界の全体です。イスラエルの民だけではありません。信仰者だけではありません。神様の関心は常に外へと向かいます。

 しかし、ここで注目したいのは、そのような世界の果てにまで及ぶ働きをする主の僕が、次のように描写されている点です。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」(2‐3節)。

 「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」。そのように、彼は人々の耳に、人々の心に、無理矢理に入って行こうとはしないのです。そのような形で人々を動かそうとはしないのです。人々を支配しようとはしない。そのような主の僕の姿がここに描かれているのです。

 しかも、彼は「傷ついた葦」を折りません。傷ついた葦とは何でしょうか。同じ言葉が別の箇所では「折れかけの葦の杖」(列王下18:21)と訳されています。ある人は、杖ではなくて燭台の支柱のことだと説明しています。杖であろうが支柱であろうが、折れかけていたら役に立ちません。そんなものは危ないので、折って捨てるものです。ところが、主の僕は、その《役立たず》にあえて目を向けます。彼はそれを折らないのです。捨ててしまわないのです。

 また、彼は「暗くなってゆく灯心」を消すこともしないのです。暗くなってゆく灯心とは何でしょう。それは火がくすぶって煙を出している灯心です。役に立たないだけならまだ良いでしょう。暗くなってゆく灯心は煙を出すので存在するだけで迷惑です。そんなものは消してしまうものです。ところが、主の僕はその迷惑な存在に目を向けます。彼はその火を消しません。再び明るく輝くのをじっと待つのです。

 傷ついた葦や暗くなってゆく灯心に関わり合うのは面倒なことです。叫ぶことなく、巷に声も響かせず、そんな事をちまちまとやっていたのでは事は進みません。世界に及ぶ働きのために立てられた主の僕が、そんなことをしていてよいのでしょうか。しかし、そのような「主の僕」を指さして、神様は「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」と言うのです。

主の僕であるキリストの体として
 神様が「見よ」と言っているのは、私たち人間が往々にして全く別な方向を見ているからでしょう。

 この預言の言葉がもともと語られたのは紀元前6世紀のことでした。それは世界が大きく変わりつつあった激動の時代でありました。その時代の立役者となったのはペルシアの王キュロスという人物です。彼が率いるペルシアは東方から勢力を伸ばし、メディアを征服し、リディアを征服し、ついにバビロンに入城を果たし、バビロニア帝国をも征服してしまいました。こうして、彼は古代オリエントの勢力図を完全に塗り替えてしまったのです。

 人々はそのような世界の有り様を目の当たりにしていました。力が世界を変えていく有り様を間の当たりにしたのです。人々はまさにその中心となっているキュロスという人物とその力に目を注いでいたのでしょう。

 確かに今日の私たちが見ているのも「力がものを言う」という世界です。力を持つ者が世界を動かしているように見えるのです。それゆえに、教会もまた人々と同じ方を見て、神の御計画の実現のためには、神の救いが世界に及ぶためには力が必要であると考えてしまうかもしれません。政治的な力、経済的な力、あらゆるメディアの力。今日では声を巷に響かせるぐらいでは人々の耳と目に届きません。人々の耳と目と心の中に無理矢理にでも入り込んでいこうとするならば、ありとあらゆるメディアを駆使することになるのでしょう。

 しかし、そのような私たちに神様は「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を」と言われるのです。そして、私たちは、神様の指先が誰を指し示しているのかを既に知らされているのです。

 それは全くこの世の権力やカネの力とは無縁であった御方です。金持ちや為政者を動かすような大きな運動を展開しようともしなかった御方です。神の国を告げ知らせ、神の救いの御計画を実現するために来られたイエス様は、それどころか、人々が熱狂的にイエスのことを触れ回ろうとした時、御自分のことを言いふらさないようにと戒められたのです。

 私たちは聖書の中に「大勢の群衆が従った」という言葉を読みます時に、イエス様が当時の世界において誰もが注目するような一大ムーブメントを巻き起こしたかのように錯覚しやすいのですが、すべては所詮あの狭いユダヤの世界の中での出来事に過ぎません。実際、福音書などの教会の文書を除くと、当時のイエスに関する歴史的記録はほとんど残ってはいないのです。要するにこのイエスという御方に関して、世間は私たちが思うほど注目していなかったということです。世界史の観点からするならば、イエス様に起こった出来事は、ローマ帝国に起こった諸々の出来事の中に埋もれてしまうような、小さなことに過ぎないのです。声は巷に響き渡ってなどいなかったのです。

 そのような中で、イエス様はまさに傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、箸にも棒にもかからないような弟子たちと共に忍耐強く歩まれ、誰からも顧みられない人々にちまちまと関わりながら生き、そして十字架の上で死なれたのです。そのキリストの十字架は、まさにこの世の片隅に立てられたのです。

 しかし神は、このキリストを指し示して、「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」と言われるのです。十字架にかかられたその御方は、復活して今も生きておられます。そして、キリストの体である教会を通して今も働いておられるのです。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、ひとりひとりの人間に忍耐強く関わり続けておられるのです。そのようなキリストであるからこそ、私たちもまたここにいるのでしょう。そのようにして、神の救いの御計画は確実に現され、進められているのです。

 ならば神の救いの御業が実現するために必要なのは、この世の力ではありません。キリストの体がまことにキリストの体としてこの世に存在することです。すなわち、傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことのない御方の体として、私たちもまた、傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことのない者であり続けることなのです。

(祈り)

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