2022年10月30日日曜日

「あなたの中にある光は消えていませんか」

ルカによる福音書 11:33‐36

全身が輝いている人

 今日の福音書朗読では、「あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」(36節)というイエス様の言葉が読まれました。これだけ読みますと、何か良く分からない不思議な言葉です。しかし、「全身は輝いている」という言葉にはとても惹かれます。確かにそうありたいと思います。輝いている人。輝いている信仰者。全体としても輝いている教会。「全身が輝いている」という表現ですから、それはどれほどの輝きでしょう。

 先ほどの言葉から分かりますように、「全身が輝いている」という表現は「ともし火」という言葉と関係しています。「ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように」と書かれていますから。その「ともし火」とは何でしょうか。それはイエス様御自身です。

 イエス様は33節で「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」と言っています。イエス様は群衆に御自分のことについて話しておられるのです。いわばイエス様は、燭台の上に置かれた「ともし火」だと言うのです。穴蔵の中や升の下に置かれているのではなく、誰もがその光を見ることができるように燭台の上に置かれた、そのような「ともし火」なのです。

 「ともし火」であるイエス様の放つ光は、神の愛の光です。イエス様は、いわば神の愛の光を輝かせるためにこの世に置かれた「ともし火」なのです。イエス様は言葉をもって神の愛と赦しを語られました。いや、言葉をもって語るだけでなく、その行動をもって語られました。

 帰ってきた放蕩息子を喜んで迎える父の話をされたイエス様はまた、自ら罪人たちと食事を共にされました。汚れた者とされている人に自ら手を置き、長く苦しんできた病める人々を癒されました。神の権威をもって、罪の赦しを宣言されました。最終的には、父の御心に従って十字架への道を歩まれました。神が私たちを赦すため、この世の罪の贖いを成し遂げるために十字架におかかりになりました。神は確かに御自身に背いたこの世界を愛された。神は私たちが罪人であるにもかかわらず、私たちを愛してくださいました。

 キリストを通して神は御自身の愛を現されました。イエス様という存在は、まさに神の愛の輝きそのものでした。イエス様はまさに燭台の上に置かれたともし火でした。

 その「ともし火」であられた御方が、「あなたの全身は輝いている」と言われるのです。イエス様がそう言われるならば、それはまさにイエス様と同じ光によって輝いている、天からの光、神の愛の光で輝いているという意味になるのでしょう。ならば私たちはそのように輝いて生きることを求めてよいし、求めるべきなのです。

 私たちは確かにいろいろな願いを持ち、いろいろな求めを抱き、実際に神様に願い求めます。いろいろな夢を持ち、夢を追い求めて必死に努力している人もあるでしょう。しかし、本当は「何になるか」ということよりも、「どのような人になるか」ということの方がはるかに大事なことであるはずです。

 その意味では、本当に求めるべきことは、何をするにしても、どのような状態にあるにしても、健康であろうが病気であろうが、若い人であろうが年を取っていようが、主が言われるような「全身が輝いている人」となることなのだと思います。本当の意味で輝いている人、天からの光、神の愛の光で輝いている人、その輝きによって多くの人が神の愛を知るようになる、そのような人になること。そのことをこそ、追い求めるべきなのでしょう。

目が濁っていると
 では、どうしたらよいのでしょうか。イエス様はこう言っておられます。「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」(34‐35節)。

 これもまた少々分かりにくい言葉です。しかし、一つのことははっきりしています。体が明るいか暗いかは、輝いているかいないかは、「目」の問題だと言うのです。目が澄んでいるか、濁っているかの問題だと。

 その「目」の話ですが、昔の人は「目」を体の「窓」のように考えていたようです。確かに目をつぶると真っ暗になる。目を開けると光が再び入ってくる。そのような窓が澄んでいるか、濁っているかで明るさも違ってくる。確かにそうなりますでしょう。

 そこで少しだけややこしい話をいたします。

 先ほど、イエス様は「ともし火」だと申しました。燭台の上に置かれた「ともし火」だと。燭台ということを考えますと、通常は「ともし火」は家の中にあるものです。「入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」とイエス様も言っておられますように、一般的にはそうなのです。

 しかし、ここで「ともし火」が中にあるというイメージで読むと話が見えなくなるのです。主は明らかに、自らは外に立っている存在として語っておられるからです。「ともし火」としてのイエス様は外におられるのです。いわば窓の外にともし火がある。光は「窓」を通して入ってくる。そのようなイメージなのです。ですからその場合、「窓」がその人にとって「ともし火」であるとも言えます。ともし火の光は「窓」から入ってくるのですから。それゆえに主は言われるのです。「あなたの体のともし火は目である」と。

 だから実際にはともし火は変わらず輝き続けていても、目の状態で光が入りもすれば入らなくもなる。明るくもなり、暗くもなる。ここに語られているのはそのような話です。つまり、私たちが明るいか暗いか、輝いているか輝いていないかは、「ともし火」であるイエス様の側の問題なのではなくて、私たちの「目」の状態、すなわち「窓」の状態によるのだ、私たちの側の問題なのだ、ということなのです。

 イエス様の側は変わりません。「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」と言われたように、イエス様は自らを燭台の上に置かれました。イエス様は秘密結社を作りませんでした。イエス様は語るべきことを常に公に語っておられました。たとえ当時の宗教家たちの妬みや反感を買い、憎まれることになろうとも、イエス様は罪人と共に食事をし、罪の赦しを宣言し、神の圧倒的な愛の支配が到来していることを言葉と行動をもって宣べ伝えられたのです。

 いや、イエス様は復活の後もなお燭台の上のともし火であり続けられました。教会を通して主は語り続けられ、イエス様御自身とその救いについて、世界中に語り伝えられることを良しとされました。そして、現に極東の地にある日本にさえ、キリストの福音は語り伝えられました。その意味でイエス様はこの国においても燭台の上のともし火であり続けられましたし、いまもそうあり続けておられます。

 にもかかわらず私たちの全身が暗いとするならば、それは「ともし火」が隠れてしまっているからではなく、私たちの目の問題なのです。「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い」と主は言われるのです。「澄んでいる目」とは「一心に向けられた目」を意味します。素直に真実に一心にイエス様に向けられた目のことです。そうしますと「濁った目」(直訳すると「悪い目」)とは、もはやそのようにはイエス様に向けられなくなった目のことでしょう。

 かつてイエス様と出会ったとき、イエス様のことをいつも考えて、イエス様のことを知りたくて、福音の真理を知りたくて一生懸命聖書を読み、説教に耳を傾けていた人。朝に夕に祈りの時を持ち、神の愛の光が入ってくるようにと窓を全開にして、とにかくひたすら一心に、イエス様に向けて、神の愛の光に向けて開かれていた目。皆さんにも覚えがあるでしょう。

 しかし、それがいつも同じ状態にあるとは限りません。いつの間にかその目が濁ってしまった、ということが起こります。他のあらゆるものに心を奪われ、心が散り散りになり、明らかに目から光が入ってきていない。かつて内側に入ってきていた神の愛の光が、いつの間にやら暗くなってしまっている。生活から天の光の輝きが消えてしまった。私たちに、そんなことが起こっているかしれません。

 もちろんいろいろ理由はつけられるのでしょう。あの人が悪い、あの出来事さえなければ、コロナ禍がなければ、などなど。今の状態になった理由はいろいろ挙げられる。しかし、本当は分かっているはずです。目が濁ってしまっていること。それで暗くなっているのだということ。

 イエス様は言われました。「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」と。「あなたの中にある光」と言っても、それはもともとあった光ではありません。一心にイエス様に向かっていたときに、「ともし火」から入っていた光です。その光が暗くなっていませんか。それを点検しなさいと主は言われるのです。

 新型コロナウイルスのパンデミックになる前には、毎年10月最後の主日に大掃除をしていました。今年も大掃除はいたしません。しかし、教会の窓を掃除しないとしても、私たちの心の窓はきれいにしたいものです。澄んだ目を取り戻しましょう。一心にイエス様に向けられた目、イエス様に向けられた生活を取り戻しましょう。「ともし火」は燭台の上にあります。私たちが主を求め、神の愛の光を求めるつもりなら、その光はすぐ近くにあるのです。具体的に始められることがあるはずです。その意味で、今日は私たち自身の大掃除の日なのかもしれません。

(祈り)

2022年10月26日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙二 2:1~10a

ペトロの手紙二 2:1‐10a

 私たちは使徒信条の最後において「罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命を信ず。アーメン」と唱和いたします。そのとおり、私たちは罪の赦しを信じています。そして、神が赦してくださるならば、もはや私たちを滅ぼすものはないと信じています。復活と永遠の命を信じています。神による罪の赦しにはいかなる限界もないことを信じています。どんなに大きな罪を犯した人であっても、神に赦された者として新しく生きることができる。神に赦された者として永遠の命にあずかることができます。

 そのように神が罪を赦すことができるのは、神が罪を裁くことのできる御方だからです。このことを忘れてはなりません。罪を正しく裁き、断罪し、滅ぼす権威をお持ちの方だからこそ、その権威をもって他の誰も取り消すことのできない罪の赦しの宣言をすることができるのです。わたしは皆さんの罪を赦し、救うことはできません。私は皆さんを断罪し滅ぼすこともできないからです。

 しかし、そのように神が正しく裁かれる御方であり、自分たちもまた神の裁きのもとにあるという事実から目を背けさせる人々は昔からいたのです。「かつて、民の中に偽預言者がいました」(2:1)とペトロは言っていますが、この「偽預言者」とはそのような人たちです。そのような偽預言者の実例は旧約聖書の至るところに見いだされます。例えば預言者ミカはこう語っています。「頭たちは賄賂を取って裁判をし、祭司たちは代価を取って教え、預言者たちは金を取って託宣を告げる。しかも主を頼りにして言う。『主が我らの中におられるではないか、災いが我々に及ぶことはない』」(ミカ3:11)と。神が不正を憎まれ、罪を正しく裁かれる御方だということを抜きにして、「災いが我々に及ぶことはない」と語っているならば、それは偽預言者なのです。また、神は預言者エレミヤを通し、当時の祭司たちや預言者たちについてこう語っています。「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』と言う」(エレミヤ6:14)。これが偽預言者というものです。

 それと同じことが教会でも起こっているではないかとペトロは言っているのです。「同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません」(1節)。実際には既に諸教会において偽教師の働きは始まっているのです。彼らが持ち込んできた異端の教えが具体的にどのようなものであったかは分かりません。しかし、そのような教師たちの特徴と、彼らの影響がどのような形で教会に現れていたかは明らかです。彼らを特徴づけていたのは「みだらな楽しみ」(2節)です。これは特に性的な放縦を意味しています。彼らが放縦にふけっていただけではありません。彼らは教師ですから、多くの人々がその行いを見倣ったというのです。しかも、その影響は教会内だけに留まりません。そのように乱れた生活をしているゆえに、宣べ伝えられている福音そのものが謗られていたのです。

 具体的にどのようなことが行われていたのかは、来週読みます2章後半に書かれています。例えば「彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています」(13‐14節)というようなことが起こっていたのです。

 「宴席」と書かれていますが、もともとこれは教会における愛餐なのです。それが単なるどんちゃん騒ぎと姦淫の温床になっていたのです。彼らはキリストによる罪の贖いを信じていたのでしょう。彼らは確かにキリストによって贖われた者として罪の赦しを信じていたに違いありません。しかし、神が罪を赦すことができるのは、罪を正しく裁く御方でもあるからだという認識が抜け落ちていることは明らかです。

 そのような偽教師たちについて、「自分たちを贖ってくださった主を拒否しました」と書かれていることは重要です。繰り返しますが、彼らは確かに主によって贖われた者なのです。しかし、彼らの行為は、その贖ってくださった主を拒否していることになるのだ、というのです。実際には、彼らは贖いを否定していないであろうし、意識して「主を拒否している」わけではないでしょう。主をあからさまに拒否していたら、教会の中において教師であり続けることができるはずがありませんから。そのような「教師」についていくほど皆も愚かではないでしょう。しかし、それでもなお聖書は彼らを「自分たちを贖ってくださった主を拒否しました」と表現しているのです。

 その理由は「贖う」ということの意味を考えれば明らかになってまいります。「贖う」とは「代価を払って買い取る」ことです。確かにキリストは代価を払ってくださいました。私たちの罪の負債を代わりに支払ってくださったのです。私たちが罪を赦されたとはそういうことです。しかし、それはまた私たちが主のものとされたということでもあるのです。主のものとされたのなら、もはや自分自身のものではないのです。パウロもコリントの信徒への手紙で言っているとおりです。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(1コリント6:19‐20)。

 そうです。これが主によって贖われたということなのです。しかし、悔い改めようとせず、神を侮り、その体を自分の情欲と放縦にゆだねているとするならば、それは確かに「自分たちを贖ってくださった主を拒否」していることになるでしょう。

 そこでペトロは神が正しくお裁きになる御方だということをいくつかの事例を挙げて思い起こさせます。まず罪を犯した天使たちに対して。「神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました」(4節)。これは旧約聖書外典の「第一エノク書」という書物に由来する話です。その書物は紀元前2~1世紀に書かれたもので、この手紙が書かれた頃には広く読まれていたものでペトロもそれを例証に用いているのです。次に挙げられているのは、良く知られているノアの箱舟の話です。第三に挙げられているのは、ソドムとゴモラが滅ぼされたという話です。どれもたいへん恐ろしい話です。

 恐ろしい話をあえて記しているのは、教会の人たちに偽教師たちとその教えを警戒して欲しいからなのです。かつて偽預言者たちが現れた時、彼らの言葉はミカやエレミヤの言葉よりも歓迎されたのです。同じように偽教師たちの教説は人々を引きつけるかもしれません。しかし、何かが教会において語られる時、それが耳に心地よいかどうかではなく、それが神からのものであるかどうかを聞き分ける耳を持っていなくてはならないのです。神の御心にかなったことが起こっているかどうか見分ける目を持っていなくてはならないのです。

 次週の箇所では、実に激しい言葉をもって偽教師たちを糾弾しています。それはどうしても読者にとって、私たちにとって必要なことだから、あえてそうしているのです。彼らに引かれてはならないからです。ペトロは私たちに、神の権威を侮り、自分たちを贖ってくださった主を拒否するようになって欲しくないのです。むしろロトのように心を痛める者であって欲しいのです。

(祈り)
 

2022年10月23日日曜日

「思い悩みの源はどこにある」

ルカによる福音書 12:13‐31

 イエス様は言われます。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」(22節)と。

 この「食べるもの」「着るもの」は、無いと困るものの代表です。無いと困るもの、不足すると困るものってありますでしょう。いろいろなものが考えられるわけですが、私たちはしばしばそれらのことで思い悩みます。無くなってからではなく、《無くなる前から》思い悩むわけです。だから「思い悩むな」と繰り返されるイエス様の言葉については、「そんなの、無理でしょう」とも思います。

 しかし、私たちは「だから、言っておく」という小さな前置きを見落としてはなりません。「思い悩むな」という勧めの言葉は、その前に語られていた話の続きだということです。

あらゆる貪欲に用心せよ
 そこでまず13節以下を御覧ください。こう書かれています。「群衆の一人が言った。『先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。』イエスはその人に言われた。『だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。』そして、一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである』」(13‐15節)。

 ここで「群衆の一人」がしたことは、私たちの目には奇異に映ります。しかし、当時の社会においては決して珍しいことではありませんでした。地域住民のトラブルを解決するために、ユダヤ教の教師が調停人の役割を果たすことはいくらでもあったからです。

 さらに言えば、この人の言っていることも常識内の話です。遺産相続に関しては定められている規定があります。この人が「わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と、訴えているところを見ると、律法によって保証されている彼の相続分を兄弟に騙し取られたということなのでしょう。

 そのように、この人がしていることは、社会的に見たら間違ってはいないのです。しかし、イエス様はそこで調停人となることを拒否なさいました。いやそれだけでなく、この出来事を足がかりとして、「どんな貪欲にも注意せよ」と語られたのです。この人としては実に不愉快なことだったでしょうね。この人は当然の権利を主張しているだけだから。どうしてこれが「貪欲」の話につながるのでしょうか。

 そこで一つのことに注目したいと思います。ここで主は、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と言っているのです。いわゆる貪欲らしい「貪欲」について語っているのではなさそうです。誰の目にも明らかな貪欲ならば、あえて「用心しなさい」と言う必要はないからです。

 そのように、「貪欲」の中には、注意を払わないと分からない貪欲があるようです。イエス様は、ごく普通の日常的な事柄、全く当然に思える要求や主張の中にこそ潜む、私たちが気付かないような「貪欲」があることを言っておられるのです。そして、続くたとえ話は、そのことを明らかにするために語られているのです。

 16節以下を御覧ください。ある金持ちの家が豊作でした。この人が倉を建て替えることは、ある意味で当然のことです。彼は殊更に貪欲な人でしょうか。いいえ、彼の判断は極めて適切です。しかし、神はその人を「愚かな者」と呼ばれました。倉の再建計画を立てたその晩に、命を失うことになるからでしょうか。豊作も蓄えも無駄になってしまうからでしょうか。いいえ、そうではありません。実は、彼の問題は彼の言葉の中にはっきりと現れているのです。

 実は、残念ながら、それは日本語訳の聖書では分からないのです。あえて言葉を加えて訳すならば、実は、彼はこう言っているのです。「どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。」そして思い巡らしてこう言います。「こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに私の穀物や私の財産をみなしまい、私の命に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。」

 お気づきになりましたでしょう。問題は、くどいほど繰り返されている「私の」という言葉にあるのです。極めつけは、19節です。「自分に言ってやるのだ」と訳されていますが、これは、今申しましたように、「私の命に言ってやるのだ」というのが直訳です。すると、この神様の語られた言葉の意味合いも分かってきます。この人は「私の命に言ってやるのだ」と言う。すると神様は言われるのです。「愚か者よ。お前が『私の命』と言っている、その『お前の命』とやらは、今夜取り上げられるぞ。」

 財産は確かに「私のもの」に思えます。豊作で得た物も「私のもの」に思えます。しかし、「命」ほど「私のもの」と思いたいものはないでしょう。他の誰の手にも渡したくない。最後まで自分の思い通りになる「私のもの」であって欲しい。それが「命」です。でも、実際にはどうですか。思い通りにはならないでしょう。この世における「命」。この世における人生。絶対に自分の思い通りにはならない。つまり、本当は「私のもの」ではないのです。私たちは、本当は、分かっているのです。

 では誰のものなのでしょう。神様のものです。「お前の命は取り上げられる」。これはもともと「要求する」という言葉です。「返しなさい」と要求することです。つまり、命とは神様から一時的に託されていたものだ、ということです。私たちはその厳粛な事実を認めなくてはなりません。この世における命は神から一時的に託されているものに過ぎない。その命を、では誰が支えていたのか。神様なのです。神様が神様のものをもって、本来神様のものである命を支えてくださっていたのです。しかし、彼はそれを認識しなかった。だから彼はその言葉において「私の、私の」を繰り返していたのです。

 そこに人間の「貪欲」があるのだ、と主は言われるのです。一時的に託されているにすぎない《神のもの》を《私のもの》と主張して生きているところにこそ貪欲がある。しかし、「私の、私の」と言っていることは、この世の観点からするならば、たいていは不当なことではないのです。「わたしのお金、わたしが使いたいように使って何が悪いの」。「わたしの命、わたしの体、どう扱おうとわたしの勝手じゃない」。――だから気付かないわけです。それゆえ、そのような貪欲に「注意を払い、用心しなさい」と主は言われるのです。

思い悩むな
 それに続いて、「思い悩むな」という話が来るのです。多くの人が悩みと心配を抱えています。しかし、多くの人は自分が殊更に貪欲だとは思っていないでしょう。しかし、22節の「だから言っておく」という言葉は、「貪欲」と「思い悩み」を結びつけるのです。そこに、主が語られる重大なメッセージがあるということです。

 主はここで、烏を養われる神について語られます。さらに野原の花をソロモン以上に装われる神様のことを語っておられます。実は、ここで語られていることも、本質的には先のたとえで語られていることと同じなのです。そこには神様から食べ物を受けて生かされている鳥たちがいるのです。自ら労して紡ぐわけではないのに、ただ神によって美しく装われている野の花々がある。彼らの姿こそ、命や体はいったい誰のものであるのかを雄弁に物語っているのです。

 そのように、父なる神は、烏さえも生かしていてくださる。烏にさえ、この地上における命を託し、またその命を支えるために必要なものを与えていてくださる。ましてあなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか、と主は言われるのです。また父なる神は、一日で枯れてしまうような草をさえ装われる。まして、あなたがたにはなおさらのことである、と主は言われるのです。この命にもこの体にも父の慈愛のまなざしが向けられ、この地上の命とこの地上の体のために、神から与えられているものがあるのです。すべては神から来ているのです。

 しかし、先にも見ましたように、私たちはしばしばすべてが神から来ていることを忘れてしまう。そして傲慢にも身の回りにあるものが本質的に「私のもの」であるかのように主張し始めるのです。「私の、私の」と。この世の目には見えない、隠れた貪欲です。

 そして、イエス様はその隠れた貪欲が思い悩みと深く結びついていることを良くご存じだったのです。先に申しましたように、私たちの思い悩みは「無いと困るもの」を巡っての悩みです。だから、思い悩みというものは「欠乏から来る」と考えているものです。食べ物や着る物の不足や欠乏だけではありません。ある時にはお金が足りない。時間が足りない。能力が足りない。夫の愛情が足りない。妻の愛情が足りない。助け手が足りない。周りの人々の思いやりが足りない。――それが思い悩みの種なのだと思っているのです。

 しかし、本当は何かが欠けているところに問題があるのではないのです。そうではなくて、むしろ満ちているところに問題があるのです。何が満ちているか。「私の」という言葉が満ちているのです。「私」が満ちて「神」が欠けているのです。そこにこそあらゆる思い悩みの源があるのです。だから、主はここで「信仰の薄い者たちよ」と言われるのです。思い悩みに深く関わっているのは、実は周りの状況ではないのです。何かの不足ではないのです。そうではなくて、思い悩みに深く関わっているのは、神との関係であり信仰なのです。

 このように、思い悩みは欠乏そのものから来るのではありません。だから、不足しているものをひたすら求めても思い悩みの解決にはなりません。その不足が満たされても、別の不足によって思い悩むことになるからです。では、どうしたらよいのでしょう。まず求めるべきものがある、と主は言われるのです。「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」(31節)。

 「神の国を求めなさい」。――「神の国」は遠いところにあるのではありません。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(17:21)と主は言われるのです。「神の国を求めなさい」。その直前には、「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」と書かれています。私たちの必要をご存じである神、その神を「わたしたちの父」として、すべてをこの父の手からいただいて、神の支配のもとに感謝して共に生きる生活。そのような父なる神の支配する救いの世界。ただ「神の国を求めなさい」と主は言われるのです。

(祈り)

2022年10月19日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙二 1:12~21

ペトロの手紙二 1:12‐21

 前回は、私たちに何が与えられているかということに目を留めました。使徒であるペトロと「同じ尊い信仰」を与えられていること。すなわち信仰の価値は信じる人によって決まるのではなく、与えてくださった方によって決まるのであり、それはキリストの血潮の価値なのであり、その信仰を与えられているということ。さらには信仰と同じ尊い信仰が与えられただけではなく、「命と信心とのかかわるすべて」、言い換えるならば「信仰生活にかかわるすべて」が既に与えられているということ。そして、現在の信仰生活のために必要なものを与えられているだけではなく、私たちが待ち望むべき「尊くすばらしい約束」もまた与えられているということ。すなわちそれはキリストの再臨の約束であり、永遠の御国に確かに入れるという約束です。

 そこでペトロは「従って、わたしはいつも、これらのことをあなたがたに思い出させたいのです」と語ります。「思い出させる」のは知らないことを教えるのとは違います。キリスト者であるならば、福音の真理は確かに知っているはずであるし、待ち望むべき約束も受け取っているはずです。その真理に基づいて生活しているのです。12節に書かれているとおりです。しかし、それでもなお何が与えられているかは、繰り返し思い出させられる必要があるのです。

 ペトロ自身は、既に世を去るべき時が来ていることを身近に感じているようです。「わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです」と書かれているとおりです。だからこそ、まだ仮の宿である体をもって生活している間に、思い起こさせなくてはならないと考えているのです。いやそれだけではありません。ペトロは自分が世を去った後にも、絶えず思い起こして欲しいと願っているのです。そのためにこのような手紙を書いているわけでしょう。実際、そのことのために福音書なども書かれたわけですし、手紙も収集されて、今日のような聖書が残されてきたのです。

 そのように思い起こさせる必要があるのは、「奮起させる」ためであるとペトロは言っています。「奮起させる」というのは「目覚めさせる」という意味の言葉です。嵐の船の中でイエス様が寝ていた時、弟子たちはイエス様を起こしましたでしょう。それと同じ言葉です。そうです、キリスト者は繰り返し目覚めさせられなくてはならないのです。そうでなければ眠りこけてしまうからです。福音を知らないわけじゃない。約束を信じていないわけじゃない。でも実際の生活の中ではそれを忘れて眠りこけたような信仰生活を送ってしまうのです。ですから、繰り返し使徒たちを通して手渡された福音の真理を聞いて、絶えず思い起こすということはとても大事なことなのです。

 そのように与えられている約束を繰り返し思い起こして目覚めていないと、一つには迫害や困難に耐え得なくなってしまうということがあります。それはペトロの第一の手紙で見てきたことです。しかし、それだけではありません。既に述べてきたように、この手紙で問題になっているのは偽教師の存在なのです。福音の真理によって目覚めていないと、いくらでも異なる教えによって足をすくわれてしまうことになるのです。

 そこでペトロは偽教師たちの存在を念頭に置きながら、次のように続けます。「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです」(16‐18節)。ペトロが言及しているのは、マタイ17:1以下とその平行記事によって伝えられている、「山上の変貌」の出来事です。

 すぐに気付きますことは、ペトロが実際に目撃したこと、また実際に聞いたこと、すなわちそれが事実であることに、非常にこだわっているということです。あえて「わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではない」と言っているのです。「作り話」とは「神話」と訳せる言葉です。ペトロは「神話じゃないんだ。事実なんだ」と言っているのです。その当時、宗教的な思想を伝えるためにはいくらでも神話が用いられていたのです。教会において力を持っていた「グノーシス」と呼ばれる異端にも、いわゆる「グノーシス神話」があったのです。しかし、イエス・キリストの力に満ちた来臨(すなわちキリストの再臨と神の国の到来)を宣べ伝えるのに用いたのは、神話ではなく、イエスという御方について実際に見たり聞いたりしたことであると言っているのです。

 なぜでしょうか。それは「約束」や「希望」は単なる思想であってはならないからです。それは事実でなくてはならないからです。キリストが再臨するとするならば、神の裁きがあるとするならば、それは事実でなくてはならないからです。本当に罪が赦されて救われると語られているならば、それは単なる思想であってはならないのです。単に信じている人にとってだけの真理であってはならないのです。そうならば、それは気休めにはなっても、本当の希望とはなり得ないのです。ペトロがここで語っていること、そして世々の教会が伝えてきたのは、単なるキリスト教思想ではなく、歴史の中に現れたイエス・キリストに関する事実なのです。

 ここでペトロは「山上の変貌」について言及していますが、もちろんそれ以上に決定的な出来事はキリストの復活でしょう。実際、山上で三人の弟子たちが経験した出来事は、後に他の弟子たちが経験するキリストの復活顕現を先取りした出来事であったと言えます。それについても、教会は復活が単なる思想ではなくて「事実」であることにこだわってきました。ですから「証人」という言葉を用いたのです。

 ペトロや他の弟子たちがイエスという御方について見たこと、聞いたこと、すなわち、神がその御生涯において、そして十字架と復活において、主イエスに栄光を与えたその「事実」が、旧約の時代から語られてきた神の救いの希望を確かなものとしたのです。「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています」と語られているとおりです。「預言の言葉」とは聖書が語る約束の言葉です。それが確かなものとなっているからこそ、キリストが再臨する終わりの時に至るまで、暗闇を照らす真の光となり得るのです。ペトロは言います。「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください」(20節)。

 この世界は「夜が明け」るまで、闇に閉ざされています。その暗闇は私たちの心にも及びます。しかし、わたしたちの心には「暗い所に輝くともし火」が与えられているのです。確かな約束が与えられ、確かな希望の言葉が与えられているのです。この「ともし火」を失ってしまうならば、この世の暗闇に支配されてしまうでしょう。ですから「預言の言葉」、聖書の言葉に留意しなくてはならないのです。しかも、それは恣意的な個人的な解釈によって伝えられた言葉ではなく、キリストの到来によって確かにせられた聖書の約束として心に留めなくてはならない。繰り返し思い起こして、心に留め続けなくてはならないのです。


2022年10月16日日曜日

「流した涙が拭われる時」

イザヤ書 25:1‐9

わたしはあなたをあがめます
 今日は第二朗読において「ヨハネの黙示録」が読まれました。「黙示録」と呼ばれるこの書物は、一読して新約聖書の中で異質な存在であることが分かります。ヨハネの黙示録には、直接的には何を指すのかが良く分からない謎に満ちた表現が多用されています。そして、書かれている内容は、世の終わり、すなわちこの世の終末に関わっているのです。

 そのような文書はヨハネの黙示録だけではありません。断片的にはイエス様の言葉として福音書の中にも見られます。また、旧約聖書の中にも見られます。今日の第一朗読において読まれたのも、そのような箇所の一つです。どうぞ第一朗読の箇所をお開きください。

 今日はイザヤ書25章が読まれました。通して読むと良く分かるのですが、24章から27章までは一つのまとまりとなっています。このまとまった部分はしばしば「イザヤの黙示録」などと呼ばれてきました。そこにおいて、数々の謎に満ちた表現をもって語られているのは、ヨハネの黙示録と同じように、世の終わり、終末に関わる事柄です。

 さて、そのような「イザヤの黙示録」にせよ、また第二朗読で読まれた「ヨハネの黙示録」にせよ、謎に満ちた言葉が多様されているのには、ある共通の背景があります。それは、この世の巨大な権力による支配であり、そのような権力によって抑圧されている人々、不当な苦しみを負わせられている人々の存在です。

 「イザヤの黙示録」の場合には、いつの時代を背景にしているのか、必ずしも明らかではありません。巨大な権力の主(ぬし)はバビロニア帝国かもしれませんし、その後のペルシア帝国かもしれません。ヨハネの黙示録の場合にははっきりしていまして、それはローマ帝国の支配です。そして、その支配のもとに起こった迫害が背景となっています。

 容易に想像できると思いますが、そのような大きな権力の支配下にある場合、事柄をあからさまに語ることは困難なのです。例えばローマ皇帝を名指しで批判することはできないのです。それゆえに、謎に満ちた象徴的な表現を用いることになります。言い換えるなら、そのような時代状況にあるからこそ、神様が幻という形で真理を示し、謎に満ちた仕方で語らせたとも言えます。

 いずれにしても、そこで語られているのは「もう一つの支配」についてです。この世の巨大な権力による支配よりも、さらにその上にあるもう一つの支配、すなわち神の支配について語られているのです。

 人間の肉の目には人間の支配しか見えないのです。人間がしていることしか見えないから、人間が世界を動かし、歴史を動かしているように見えるのです。人間の力が人間の運命を左右しているように見えるのです。しかし、神が霊の目を開いてくださると、そうではないのだ、ということが見えてきます。この世界を支配しているのは、人間ではなく神なのだということが見えてくるのです。

 神がこの世界を支配しておられる、ということは、言い換えるならば、神が最終的にすべてのことに決着を付けてくださるということです。正義のない世界に、神が正義を貫かれるのです。神が最終的に正しい裁きを行われるのです。この世に満ちている「なぜですか」という叫びに対しても、最終的に神が答えてくださる。すべて不当なこと、不条理なことについても、神が報いてくださるのです。

 この人は霊の目によって、その現実を見ているのです。だからこの人は神を賛美しているのです。「主よ、あなたはわたしの神、わたしはあなたをあがめ、御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された、遠い昔からの揺るぎない真実をもって」(1節)と。先ほどもいいましたように、ここに書かれている言葉は苦難の時代を背景としています。本当は彼もまた苦しみの中にあるのです。しかし、そこで彼は神を賛美するのです。人がそのように生きることは可能なのです。

人間の築き上げたものの崩壊
 人間の巨大な力が支配しているように見えるこの世界のただ中にあって、神がこの人に見せてくださったのは、巨大な帝国の都が崩壊して瓦礫の山と化した姿でした。「あなたは都を石塚とし、城壁のある町を瓦礫の山とし、異邦人の館を都から取り去られた。永久に都が建て直されることはないであろう」(2節)。

 もちろん、現実にはそのようなことは起こってはいないのです。肉の目に映っているのは、決して揺らぐことはないと思われる、人間が築いた帝国なのです。その都の姿なのです。人間が建て上げた城壁に囲まれた町がそこにあるのです。しかし、人間がその力を誇り、自らの力で打ち立ててきたもの、積み上げてきたものが崩壊する様を神は見せられたのです。そのようにして、人間が真の支配者ではないのだということを神が明らかにされたのです。

 さて、ここに書かれていることは、部分的には、歴史の中において実際に起こってきたことだと言えます。かつて繁栄した古代の都はやがて滅びていきました。私たちは人間の力もその支配も絶対ではないことを知っています。揺るぎないと思えたものも崩壊することを私たちは知っています。それは確かに歴史において明らかにされてきた現実です。そして、それが究極的な形で明らかにされるのが世の終わりであると言えるでしょう。最終的に神が神であり、人間は人間に過ぎないことが明らかにされるのです。

 その事実が、ここでは人間の建てたものが崩壊する姿として描かれています。それはある意味では恐ろしいことです。しかし、人間の造ったものがやがては崩壊するのだということに目が開かれる時、人間は何に依り頼むべきであるのか、ということにも目が開かれるのです。私たちは誰に対してへりくだらねばならないのか。誰に依り頼むべきなのか。「主よ、あなたはわたしの神、わたしはあなたをあがめ、御名に感謝をささげます」と彼は歌いました。その人は、さらにこう口にするのです。「まことに、あなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦、豪雨を逃れる避け所、暑さを避ける陰となられる」(4節)。

 現実には豪雨に遭っているのです。また一方で日照りの暑さに苦しんでいるのです。そのように喩えられる苦難のただ中にいるのです。しかし、彼には砦があるのです。まことの支配者が誰であるかを知っているからです。だからその御方に信頼し、賛美をささげて生きるのです。

喜び躍る時が来る
 そして、さらに彼が見たのは万軍の主が開かれた祝宴でした。6節以下には「すべての民」「すべての国」という言葉が繰り返されています。この世界を統べ治めておられる神による救いは、すべての民族、すべての国々に関わっているのです。

 後にパウロはこう言っています。「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです」(ローマ10:12‐13)。

 実際、ここに語られていることは、明らかにイスラエルに固有のことではありません。すべての人間に関わることです。それは「死」に関することだからです。死は全ての人間に関わっています。死を免れないということについては、権力があろうがなかろうが、支配する側であろうが支配される側であろうが、まったく関係ありません。

 だからこそ、主のなされることが次のように語られているのです。「主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである」(7‐8節)。

 ここに語られている終末の希望は、そのまま新約聖書に受け継がれています。今日の第二朗読はヨハネの黙示録7章12節まででしたが、その続きを読みますと16節以下に次のように書かれています。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」(黙示録7:16‐17)。

 新約聖書においては、終末の描写にも、さらなる確信が加えられていると言えるでしょう。ならなら、既にメシアは来られたからです。そして、そのメシアは十字架にかかられて罪の贖いを成し遂げてくださり、死から復活されたからです。イザヤ書に語られ、新約聖書に受け継がれている終末の出来事は、すでにキリストと共に始まっているのです。言い換えるならば、死を滅ぼしてくださる神、目の涙をぬぐい取ってくださる神の御救いを、私たちは既に味わい始めているのです。

 9節にはこう書かれていました。「その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう」(9節)。今、目に映るこの世界の有様がどうであれ、目に映る私たち自身の姿がどうであれ、その日は来るのです。救いを祝って喜び躍る時が来るのです。だから、私たちは今から共に、喜び祝い始めるのです。その意味で祝宴は既に始まっているのです。私たちが今日、聖餐を行うとはそういうことです。共にキリストを喜び祝い、礼拝をささげる生活が与えられているとは、そういうことなのです。

(祈り)

2022年10月12日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙二 1:1~11

 ペトロの手紙二 1:1‐11

 今日からペトロの手紙二に入ります。これまで読んできましたペトロの第一の手紙は、主に迫害の中にあるキリスト者を励ますために書かれたと申しました。第二の手紙はそれとは異なる必要から書かれています。それは2章に出て来る「偽教師」の問題です。教会に異端の教えが入り込んできたのです。そして、その教えによって教会に混乱が生じていたのです。

 教会に危機をもたらすのは外からの迫害だけではありません。往々にして内側からの崩壊の方が危険なのです。キリスト者の信仰生活は必ずしも外からの圧力によって妨げられるのではありません。そうではなくて、間違った教えによって、そこから入り込む罪によって妨げられるのです。私たちは信仰生活において、困難や苦難との戦いだけを考えていてはなりません。そうではなく、間違った教えが入って来ること、また罪が入って来ることと戦わなくてはならないのです。

 それゆえに、この手紙の最後でペトロはこう言っています。「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい」(3:18)と。そうです、私たちは成長しなくてはならないのです。その成長は「知識においても成長すること」を含みます。知るべきことを知り、認識すべきことをしっかりと認識して生活することです。

 そこで重要なことは、まず既に与えられているものをしっかりと認識することです。ペトロは次のような挨拶から書き始めます。「イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」(1‐2節)。

 一方において、イエス様と共に生活し、その力ある業と栄光とをその目で見ることを許され、その信仰を直接手渡された使徒たちがいます。ペトロはその一人でした。そして、もう一方には、この手紙を読んでいる教会の信徒たちがいます。偽教師たちの教えに翻弄されているまことに心許ないキリスト者たちであるとも言えます。しかし、ペトロは言うのです。「わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ」。すなわち、「あなたがたの信仰は尊さにおいてわたしたちの信仰と同じだよ」と言っているのです。

 命をかけてキリストを宣べ伝え、最後まで信じ抜いて殉教していったペトロの信仰と、ここにいる私たちの信仰。ずいぶん違うと思うかもしれません。しかし、ペトロは言うのです、「同じだよ」と。信仰の尊さというものは、信じている人によって決まるのではない、ということです。

 もしかしたら、誰か他のキリスト者の姿を見て、「あんな人がキリスト者だというならば、キリスト教信仰なんて価値ないじゃない」と言う人がいるかも知れません。しかし、信仰の価値は信じる人によって決まるのではなくて、与えてくださる御方によって決まるのです。私たちの信仰は「わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって」与えられたのです。「義によって」とは「救いの御業によって」と言い換えてもいいでしょう。イエス・キリストを十字架にまでおかけになるという神の御業です。私たちに与えられている信仰の価値は、私たちが何をしたかによって決まるほど安くはありません。それはキリストの血潮の価値なのです。要は尊いものを尊いものとして扱っているかどうか。それによって信仰生活が決まってくるのです。

 さらに私たちが与えられているものについて、ペトロは次のように語っています。「主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです」(3節)。

 わたしたちには「命と信心とにかかわるすべてのもの」が与えられていると語られています。このことを私たちは深く心に留めなくてはなりません。私たちは使徒たちが受けた信仰と同じ尊い信仰が与えられただけではありません。「命と信心とのかかわるすべて」言い換えるならば「信仰生活にかかわるすべて」は既に与えられているということです。「信心」とは「敬虔な生活」のことです。真に神と共に歩む生活のことです。そのように生活するために必要なすべては既に与えられているのです。言い換えるならば、与えられている尊い信仰を、まことに尊いものとして生きることができるように、そのためのすべては既にイエス様によって与えられているのです。

 イエス様はどのようにして、それを与えてくださったのでしょう。それは自ら実際にこの地上において生活してくださったことによってです。イエス様が、この地上において神の力を現しながら、神を示して生きてくださったのです。そのことによって、神を「認識させてくださった」のです。神をイエス・キリストの父なる神として知るようになり、愛なる神として知るようにさせてくださったのです。御子は受肉によって、私たちに神の認識をもたらしてくださったのです。

 その神の認識がまず使徒たちに与えられました。その使徒たちから、世々の教会へと伝えられました。そして教会を通して、聖霊のお働きを通して、私たちにも必要なすべてが伝えられているのです。つまりキリストは今も御力によって神を認識させ、信仰生活のために必要なすべてを与えてくださっているのです。そのように、私たちの信仰生活に必要なものは、私たち人間の内側から出て来るものではなくて、聖書を通し、教会を通し、聖霊のお働きを通してキリストによって与えられているのです。

 そして、私たちは現在の信仰生活のために必要なものを与えられているだけではなく、私たちが待ち望むべき「尊くすばらしい約束」もまた与えられているのです。それはこの後3章に述べられることになりますが、キリストの再臨の約束であり、また11節の言葉で言えば、「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に入れる」という約束です。

 神の国に入れるということは当然の権利なのではなく、ただ一重にキリストの十字架を通して特別に恵みの賜物として与えられた「約束」です。ですから当然ですが、罪を赦されてその約束が与えられたのは、「後はどう生きてもよいのだよ」ということではないのです。そうではなく、わたしたちが「情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるため」(4節)なのです。すなわち、この世と一緒に腐ってしまわないためなのです。罪の泥沼に呑み込まれて一緒に腐ってしまわないためです。そうではなくて、神の性質を共有する者となるのだ、というのです。神の像として造られ、神の似姿に造られた本来の人間になるためなのです。

 そのように、既に与えられている尊いものがあるのです。その尊いものを尊いものとして受け止めて生きることが重要なのです。それゆえに、私たちは信仰生活における成長、この世の退廃を免れて神の本性にあずかるところへと向かっていく具体的な歩みを求めていかなくてはならないのです。

 私たちは確かに罪人のまま、「そのまま」で神に赦され、受け入れられ、救われました。しかし、だからこそ本来清められるはずのない罪が清められて、今こうしていることの重みを忘れてはならないのです。十字架の血の重さを持つ特別な恵みによって、神の国の約束を与えられていることを忘れてはならないのです。そうあってこそ、「ありのまま」で受け入れられた人が、その「ありのまま」から踏み出して生きるようになるのです。もしそうでないとするならば、キリストの十字架のゆえに罪が赦されたことを忘れているか、近眼になって目の前のことしか見えずに、神の国のことが考えられなくなっているということです。9節に書かれているのは、そういうことです。

 私たちは5節以下に書かれているような、成長を求める具体的な信仰生活の訓練を実践していかなくてはなりません。そうあるならば「決して罪に陥りません」とペトロは言います。「罪に陥る」と訳されている言葉の原意は「つまずいてよろめく」ことです。つまり個々の罪に陥ることというよりも、信仰生活そのものが壊れてしまうことです。「これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります」と書かれていますように、私たちは、つまずきながら、よろめきながらではなく、永遠の御国を目指しつつ、成長を求める信仰生活の確かな足取りをもって生涯を全うしたいものです。

2022年10月9日日曜日

「勝利者となるために弱くされた人」

創世記 32:23‐33

ヤコブという名を持つ男
 今日の聖書箇所にはヤコブという人物が出てきました。彼は兄エサウと双子の兄弟でした。その双子は母親の胎内にいたときから既に先を争っていたようです。そして、生まれた時、先に出てきたエサウのかかとをつかんで出てきたのが弟のヤコブでした。「先に行かせてたまるか!」という格好で生まれたのです。

 「かかと」はヘブライ語で「アーケーブ」と言います。これが動詞になりますと、「かかとをつかむ」という言葉になりまして、私たちの言葉で言いますと、「足を引っ張る」とか「出し抜く」というような意味になります。ヤコブという名前は、そのような言葉に由来すると聖書では説明されています。

 「名は体をあらわす」と言われます。ヤコブという人物は、その名の通り「人の足を引っ張り、人を出し抜く人」として成長していきました。彼は産まれた時には長子になれませんでした。しかし、策略を用いて兄エサウから長子の特権を奪います。また、父のイサクを騙して、長子の祝福を奪います。その話は創世記25章と27章に出ていますので、後でゆっくり読んでみてください。

 望むものをまんまと手に入れたヤコブでした。しかし、当然の事ながら、彼は兄エサウから憎まれることになります。兄エサウは必ず弟のヤコブを殺してやると心に決めていました。それを知ったヤコブは、兄のもとから母の故郷であるハランへと逃れていくことになりました。そして、実にその逃亡生活は20年に及ぶことになるのです。

 そのようなヤコブに、ついに故郷に帰るべき時がやってきました。主が夢の中でヤコブに告げたのです。「さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい」。ヤコブとその家族は主の導きに従い、ハランを後にしました。しかし、そこにはまだ大きな問題が未解決のまま残されておりました。そうです、まだエサウと和解してはいないのです。

 ヤコブは、あらかじめ兄エサウのもとに使いを遣わしました。すると、使いはエサウがこちらへ向かっているとの知らせをもって帰ってきました。しかも、エサウは四百人もの野郎共を引き連れてやってくると言うのです。ヤコブは震え上がりました。そこでヤコブが祈った言葉が32章10節以下に記されています。

 「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。 …どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と」(32:10‐13)。

 ヤコブは、そのように神に救いを祈り求めます。しかし、もう一方において、彼は取り得る方法を思い巡らしておりました。これまで人の足を引っ張り、人を出し抜くために用いてきた頭脳をフル回転させて、ヤコブはこの危機を乗り切るための策を講じます。彼は自分の持ち物の中から兄エサウへの贈り物として、山羊や羊、らくだや牛などを選びました。そして、それぞれの群れを召使いに託して、贈り物の行列を作ったのです。彼は召使いにこう言わせることにしました。「これはあなたさまの僕ヤコブのもので、御主人のエサウさまに差し上げる贈り物でございます。ヤコブも後から参ります」と。

 そのように、私たちもまた、目の前に問題があれば、その問題をなんとか解決しようとして策を講じます。その問題そのものを解決し、取り除こうといたします。しかし、聖書はいつでも、本当の問題は何なのかと私たちに問いかけます。実は、ヤコブにとって解決されなくてはならない最大の問題は、兄エサウとの関係ではなかったのです。そうではなく、神との関係だったのです。今日の聖書箇所はそのことを私たちに示しているのです。

祝福してくださるまでは離しません
 23節以下を御覧ください。「その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言ったが、ヤコブは答えた。『いいえ、祝福してくださるまでは離しません』」(32:23‐27)。

 まことに奇妙な話が書かれています。「何者かが」と書かれていますが、これは何者なのでしょう。これは人のようであるし、天使のようであるし、後の言葉からすれば神でもあるようです。良く分かりません。しかし、いずれにせよ、このような表現をもって、その夜のヤコブの経験が描写されているわけです。確かに、不安と恐れに満ちた夜を過ごすヤコブにとって、その夜の経験というものは《何者かとの格闘》――究極的には神との格闘――に他ならなかったのです。

 では、その格闘の中で一体何が起こったのでしょう。聖書は何と伝えているでしょう。――ヤコブの腿の関節がはずれたのです。それは相手に打たれたからです。打たれて弱くされたのです。それまでヤコブは強かったのです。相手を打ち負かすほどに強かったのです。しかし、そのヤコブが打たれて弱くされました。腿の関節がはずれたらどうなるでしょう。足を引きずらざるを得ません。もはやエサウが襲ってきても、戦うことはできません。逃げることすらできません。絶体絶命です。

 そのように、神が人に関わられ、その人生に入って来られる時、神は時としてこのような弱さを与えられます。神は人間を打って、あえて弱さを与えられるのです。それまで自分の力でどうにでもなると思っていた人間が、神にさえ打ち勝てると思っていた人間が、神に打たれて徹底的に弱くされるのです。もはや自分の力で戦うこともできません。逃げることすらできなくなります。

 その時、人はどうしたら良いのでしょう。ヤコブはどうしたのでしょうか。ヤコブはしがみついたのです。「祝福してくださるまでは離しません」と言ってしがみついたのです。彼はそのように、ただひたすら神の祝福を求めたのです。彼は気が付いたのです。エサウとの関係が問題なのではない。それ以前に神との関係が問題なのだ、ということに。

お前の名はイスラエル
 しがみついて離さないヤコブに対して、その人は尋ねました。「お前の名は何というのか」。彼は「ヤコブです」と答えます。先ほど申しましたように、ヤコブという名前は「足を引っ張る」「出し抜く」という意味の言葉に由来します。「わたしはヤコブです」――そう答えることは、彼がこれまでどのように生きてきたかを認める、ということに他なりませんでした。

 「わたしはヤコブです。出し抜くものです。そのように人を出し抜いてでも、前に出ようとしてきた者です。そのように自分の力によって、未来を切り開こうとしてきた人間です。そうです、そのようにして、自分の力で、この危機をも乗り越えようと、いろいろ考えを巡らしました。策を講じました。しかし、今や、わたしは弱くされました。もはや逃げることすらできません」。――「わたしはヤコブです」とは、そのように彼の生き様とその破れと弱さのありのままを神の前に認めることに他なりませんでした。

 しかし、「わたしはヤコブです」と答えた彼に、その人は――すなわち神は――こう言われたのです。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」(29節)。ヤコブは新しい名前を与えられました。もうヤコブではありません。イスラエルです。「イスラエル」という名前が正確に何を意味するのかは難しい問題ですが、ここでは「神と人と闘って勝った」から、と説明されています。なんと驚くべき言葉でしょうか。そこにいるのは、打たれて弱くされて、もはや足を引っ張ることも出し抜くこともできない、ただすがりつくことしかできないようなヤコブなのです。しかし、そのようなヤコブに対して、神は「お前こそイスラエルだ。真の勝利者なのだ」と言われたのです。

 この出来事を経験した場所は、「ヤボクの渡し」(23節)という場所でした。その場所をヤコブは「ペヌエル」と名付けます。それは「神の顔」という意味です。それはヤコブが「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言ったからだ、と説明されています。

 先に見たように、ヤコブにとって最大の問題は、エサウと顔を合わせることにありました。少なくとも彼はそう思っていたのです。しかし、本当に顔を合わせなくてはならない相手は、エサウではありませんでした。そうではなくて神だったのです。そして、エサウと顔を合わせることがヤコブにとって危機を意味するように、それ以上に、神と顔を合わせるということは危機を意味したのです。なぜなら、罪ある人間が神と向き合うことは死を意味するからです。

 しかし、「わたしは顔と顔とを合わせて神と見たのに、なお生きている」とヤコブは言いました。これはすなわち「わたしは赦された」ということに他なりません。神の祝福は、神の赦しと共に与えられたのです。それはエサウから赦されること以前に、まずヤコブにとっては必要なことだったのです。

 そして、「ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った」(32節)という印象深い描写が続きます。彼は足を引きずっています。彼は神に打たれて弱さを与えられました。しかし、不安と恐れの闇夜はもはやそこにはありません。彼は確かに朝の光の中を歩んでいるのです。そのような朝を、後のイスラエルの民もまた幾度となく経験しました。そして、私たちもまた同じです。私たちもまた、ヤコブからイスラエルとされた者として、闇夜に身を置く者から朝の光の中を歩く者へと招かれているのです。

(祈り)

2022年10月5日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙一  5:8~14

 ペトロの手紙一 5:8‐14

 「身を慎んで目を覚ましていなさい」とペトロは言います。「身を慎んで」とは、既に4章において語られていた勧めです。先に申しましたように、これは「醒めていること、冷静であること」を意味する言葉です。その反対は陶酔であり熱狂です。4章では「万物の終わりが迫っています」という言葉に続いて、終末に向かう者の姿勢として語られておりました。この章においては、「身を慎んで、目を覚ましている」ことのもう一つの理由が書かれています。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(8節)と言うのです。

 この世の一般的な感覚からすれば、「身を慎んでいなさい」、すなわち、「冷静でいなさい、醒めていなさい」と語られた直後に悪魔の話が出て来るのは、いささか奇異に思われるかもしれません。というのも、悪魔の話などを始めるのは、どちらかと言えば狂信的な人や現実から遊離している人であると思われているからです。

 しかし、聖書が語るところは全くその逆なのです。既に触れましたように、この手紙の読者は迫害の中にあるのです。そこではどうしても、自分に不当な苦しみを与える人、侮辱したり中傷したりする人に目が行ってしまうのです。あるいは自分が直面している困難や苦難に目が行ってしまうのです。しかし、そこでこそ「身を慎んで目を覚ましていなさい」という言葉を聞かなくてはならないのです。目覚めてこそ、本当の敵が見えてくるのです。本当の敵は人間ではないことが見えてくるのです。本当に戦って克服しなくてはならないのは、苦難そのものに対してでもないことが見えてくるのです。本当の敵は悪魔であるということが冷静になれば見えてくるのです。

 ならば重要なことは一つだけです。悪魔の目的は神から引き離して滅ぼすことにあるのですから、その悪魔に対する抵抗は、神から引き離されないことです。信仰に留まることです。それゆえに「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」(9節)とペトロは励ましているのです。具体的には、前とのつながりで言えば、神の力強い御手の下で自分を低くすることです。すなわち、思い煩いを、何もかも神にお任せするということです。他ならぬ神御自身が、わたしたちのことを心にかけていてくださる。心配していてくださる。その神を信じることです。

 また、神に目を向けると共に、周りにも目を向けなくてはなりません。「あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです」(9節)。悪魔は苦しみを用いて、神の愛を疑わせようとするでしょう。あなたは神に愛されてなどいないのだ。神に見捨てられてしまったのだ。そもそも神などいないのだ。信じているお前が愚かなのだ、と。しかし、その時に苦難の中にいるのは自分だけではないことを知らなくてはならないのです。サタンに立ち向かっているのは、自分たちだけではないことを、この手紙の読者たちは知らなくてはならないのです。

 それは私たちも同じです。私たちは当時のような迫害の中にいるわけではありません。しかし、信仰のゆえにちょっとした困難にぶつかると、すぐに心が萎えてしまうものです。神を信じているのに、どうして?と。しかし、そのような時には、今の時代にあっても、迫害や無理解の中で、あるいは貧困や不安定な社会情勢の中で、苦難を耐え忍びながら御言葉を宣べ伝えているキリスト者たちがいることを考えなくてはならないのです。さらに歴史を辿るならば、私たちがこうして福音にあずかるまでには、おびただしい人たちが涙を流し、血を流して信仰に留まり、福音を宣べ伝えてきたという事実があるのです。私たちは、そのような人々のことを忘れてはならないのです。そのような人々が信仰にしっかり踏みとどまってきたように、私たちも信仰にしっかりと踏みとどまるべきなのです。

 そして、さらに私たちは前に目を向けなくてはなりません。私たちに与えられている希望に目を向けなくて、どうしてサタンに抵抗することができるでしょう。ペトロは言います。「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」(10節)。

 そこには「永遠」と「しばらくの間」の対比があります。苦しみは永遠ではありません。「しばらくの間」です。私たちが招かれているのは「永遠の栄光」です。それは一時的なものではありません。「しばらくの間」のことのゆえに、「永遠」の救いを投げ捨ててしまってはならないのです。一杯の食べ物のゆえに、長子の権利を譲り渡したエサウのようであってはならないのです。

 神御自身が「しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」と約束してくださっています。「完全な者とする」とは、完成するという意味の言葉ではありません。「破れたものを修復する」というような意味です。

 もしかしたら、迫害によって肉体的に加えられる危害のことが考えられているのかもしれません。あるいは、様々なものを失うことが考えられているのかもしれません。いずれにせよ、人であれ悪魔であれ、肉体や心にいかなる危害や傷を加えたとしても、あるいは何を奪っていったとしても、神が苦しみの後には完全に修復してくださるのです。すべてを回復してくださるのです。完全な者としてくださる。

 さらには強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださる。今は信仰にしっかりと踏みとどまることは戦いです。揺らぐことが起こってくるから、踏みとどまらなくてはならないのです。しかし、そのような状態が永遠に続くわけではありません。最終的に、完全な勝利の中で、もはや揺らぐことはないようにしてくださるのです。それはすべて神によるのです。ですから、自分が力を得ることが重要なのではありません。「力が世々限りなく神にありますように」とペトロは言っているのです。

 そして、結びの言葉として、「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました」と言っています。「これこそ」とは、この手紙に書かれている内容です。すなわち、この手紙の中に書かれ、また勧められているような、苦難と試練の中にありながら、なおも喜びと希望をもって生きることの信仰生活です。これこそが「神のまことの恵み」だと言うのです。神の恵みは、苦難を免れさせるところにあるのではありません。神の恵みは苦難を突き抜けさせるところにあるのなのです。
(祈り)

2022年10月2日日曜日

「世界の救い、世界の希望」

ヘブライの信徒への手紙 9:23-28

死後裁きをうける私たち
 本日の聖書箇所には、次のような言葉が記されていました。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(27節)。このように、聖書は確かに、死後の裁きについて語っています。そして、死後の裁きについて語る言葉は、人間に恐怖の念を引き起こします。キリスト教会には、そのような恐怖をあえて呼び起こしてきたという歴史もあります。中世に描かれた地獄絵図などは、その典型です。そのように、「死後の裁き」の教えが引き起こす感情は、第一には恐怖であると言って間違いないでしょう。

 しかし、「死後の裁き」という言葉が、恐怖としか結びつかないとするならば、それはそれで極めて浅薄な、一面的な理解であるとも言えます。

 そもそも人は、この世に不当なことが行われているのを見るならば、正しい裁きを求めるものでしょう。もし自分が不当な苦しみを負うことになれば、正しい裁きが行われて不当な苦しみが取り除かれることを求めるものだろうと思います。仮に自分が不当な苦しみを負ったまま死ぬことになるとするならば、死んで後でもいいから、正しく報いられることを人は望むものだろうと思うのです。

 もう何年も前のことですが、シリアの内戦で負傷してまもなく亡くなった三歳の男の子が、最期に語った言葉がネット上で話題になりました。その子はこう言って死んだのです。――「神様に全部言いつけてやるから」。

 この子の訴えは、この子の叫びは神様に取り上げられるのでしょうか。大人たちの様々な思惑のもとに踏みにじられた小さな命は省みられるのでしょうか。その小さな命が受けた不当な苦しみは報いられるのでしょうか。神がまことの神ならば、この子の叫びが放置されるはずはない。死後であっても正しい裁きが行われるはずだ。行われて欲しい。誰でもそう思うのではないでしょうか。

 この世においては必ずしも正しいことが完結するわけではありません。この世に生きている間に、すべての決着が付くわけではありません。それは私たちも分かっているのでしょう。ならばその意味において、たとえ死後であっても、正しい裁きが行われるということは、人間にとって希望なのです。

 また「死後の裁き」の教えは、私たちの一生を最終的に判断するのはいったい誰なのか、ということに関わっています。私たちは往々にして、人の評価、人の判断、人の言葉に振り回されながら生きているものです。しかし、聖書は死後における神の裁きについて語るのです。最終的に人の一生を判断するのは神である、ということです。人間ではないのです。人間が見ていようがいまいが、人間に誤解されようが、馬鹿にされようが、軽く見られようが、神様は正しく見ていてくださる。神が裁かれるとはそういうことです。その意味においても、死後に裁きがあることは、人間にとって希望なのです。

多くの人の罪を負うために
 そのように、人は一方において正しい裁きを求めているし、死んだ後でもよいから、正しい裁きがなされることを求めていると言えます。しかし、もう一方において、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」という言葉には、ある種の「恐ろしさ」が伴っていることも事実です。「死後裁きにあう」という言葉を見て、単純に「ああ、嬉しい!」と思えない。それはなぜか。私たちが皆、必ずしも自分が正しく生きてはいないことを知っているからでしょう。そこでは、他の誰かではなく、私たち自身の罪が問題となるのです。

 だからこそ、続く28節が重要になるのです。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(28節)。そもそも、この手紙はただ死後に裁きがあること自体を語りたかったのではありません。本当に語りたかったのはこの28節なのです。

 「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた。」

天そのものに入られたキリスト
 この言葉の背景にあるのは、ユダヤ人社会において一年に一度行われる「贖罪日」の礼拝です。遡って6節以下をお読みします。「以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます」(6‐7節)。

 「第一の幕屋」と「第二の幕屋」が出て来ますが、これは幕屋が二つあるということではありません。一つの幕屋が垂れ幕によって二つに仕切られているのです。垂れ幕の手前が「第一の幕屋」あるいは「聖所」と呼ばれ、垂れ幕の向こうは「第二の幕屋」あるいは「至聖所」と呼ばれていました。

 一般の祭司たちは第一の幕屋までしか入れません。その奥の第二の幕屋には入れないのです。そこには大祭司だけしか入れません。しかも年に一度だけです。大祭司が第二の幕屋に入る前に、罪の贖いのための犠牲が屠られます。人々の罪が赦されるために代わりの動物が死ぬのです。大祭司はその血を携えて垂れ幕の向こうに入ります。自分自身と人々の罪が赦されるために、定められた贖いの儀式を行い、血を携えて神の御前に出るのです。

 このように動物を屠って、その血を携えていくという儀式は、今日の私たちの感覚からすれば極めてグロテスクなものと映ります。いったいどうして神はこのような儀式を行うことを命じられたのでしょう。――それは、このような目に見える儀式をもって、目に見えない世界において起こることを教えるためだったのです。本当に意味あることは、目に見えない神の御前で起こることです。天において起こることなのです。しかし、それは目に見えない。私たちには分かりません。だから目に見える「写し」が必要なのです。それは目に見えないことを示しているからです。

 24節にはこう書かれていました。「なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです」(24節)。大祭司が第二の幕屋に入るのは、ある意味では神の御前に出ることだったわけですが、それはあくまでも「写し」としての儀式に過ぎません。しかし、キリストは本当の意味で神の御前に出てくださったのです。

 大祭司はその手に犠牲の血を携えていました。罪の贖いのための血です。しかし、それはあくまでも「写し」に過ぎません。大祭司が毎年この儀式を繰り返したのも、それは「写し」に過ぎないからです。しかし、目に見えないことが、一度限り、決定的なこととして起こりました。「また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました」(25‐26節)。

 これが「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた」ということです。キリストが私たちのためにしてくださったことです。目に見えるところにおいては、十字架上において惨めに死んでいったキリストです。しかし、目に見えない世界において、目に見えない神の御前において、私たち人間にとって決定的に重要なこと、すなわち罪が取り去られるということが起こったのです。私たちの罪を負うために、キリストは身を献げてくださったのです。

救いをもたらすために現れてくださる
 そして、聖書はさらに言葉を続けます。28節全体をお読みします。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(28節)。

 このように聖書は、キリストが一度目に来られた時に私たちのためにしてくださったことだけでなく、二度目に来られて私たちのためにしてくださることについて語っています。一度目のことは既に起こったことです。二度目のことはまだ起こっていないことです。私たちの現在の教会生活はその二つの間にあります。

 この二つの間にあるということは、キリストの成し遂げてくださったことによって罪の赦しは受けているけれど、完全な救いはまだ待ち望んでいる状態だということです。罪を赦された者として神の前に生きることはできるけれど、完全な救いを待望する者として忍耐が求められているということです。実際、この手紙には「忍耐」という言葉が繰り返し出てきます。

 キリストが「救いをもたらすために現れてくださる」。これは、救いは向こう側から来るということです。私たちが到達するのではありません。救いは向こう側から来るのです。それはいつか。「その日、その時は、だれも知らない」(マルコ13:32)とキリストは言われました。それがいつかは分からないけれども、はっきりしていることがあります。いかなる苦しみも永遠ではないということです。それは次の瞬間には終わっているかも知れない苦しみなのです。救いは向こうから来るからです。

 そのように、私たちのために、この世界のために、既にキリストがしてくださったことがある。そして、私たちのために、この世界のために、キリストがしてくださることがある。その意味でキリストは既にこの世界に与えられた救いです。そして、この世界の希望なのです。そのことを覚え、世界中の教会と共に、聖餐を行い、喜び祝いましょう。

(祈り)

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