2024年12月29日 主日礼拝説教
聖書:マタイによる福音書 2:1‐12
遠くに及ぶ神の招き
今日の説教題の「喜びに溢れた人々」というのは、今日の聖書箇所に登場した、「東の方」から来た学者たちのことです。10節に「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」と書かれている、その学者たちのことです。「東の方」が具体的にどこを指すのかは定かではありません。古来から「アラビア」、「バビロン」あるいは「ペルシャ」と、様々な憶測がなされてきました。いずれにしても、もともと遠いところにいた人たちです。
いや、彼らは単に地理的に遠いところにいただけではありません。彼らは「占星術の学者たち」だったと書かれています。これは原文では「マゴス」という言葉です。「魔術師たち」とも訳される言葉です。彼らは異教の世界の占い師であり魔術師の類だったということです。占いや魔術などは、旧約聖書において厳しく禁じられています。ですから、そのようなことを行っている東方の占星術師たちは、聖書の見方からするならば、いわば神に背くことを行ってきた人たちであり、救いから最も遠いと見なされる人たちだったのです。
今日お読みしたのは、そのような遠いところにいた占星術の学者たちが、星に導かれて東の方からメシアのもとにやってきたという話です。現実には「星」が人を導くことはありませんから、導いたとするならば、それは神様です。要するに、ここに書かれているのは、わざわざ救いから最も遠いように見える遠くにいた人たちを、神様はあえて選んで、彼らを導いて、メシアに出会わせ、喜びに溢れさせたという話です。
このような話が聖書に記されて伝えられてきたのは、明らかにこれが一つの象徴的な出来事だからです。どんなに救いから遠くにいる人であろうが、どんなに神に逆らって生きてきた人であろうが、救い主のもとに導いて、救いを与えて、喜びに満ち溢れさせたい。この出来事は、そのような神様の胸の内を現している出来事として記されているのです。
ですから、神様があの時に現された御心は、後にこの世界に実現していくことになるのです。イエス様が三十歳ぐらいの時に公の宣教の働きを開始した時、そこに集まってきたのは、救いから遠いと見なされ軽蔑されていた徴税人や罪人たちでした。後に教会がキリストを宣べ伝えていった時、礼拝の場所に集まって喜びに溢れたのは、ユダヤ人たちではなくて、救いから遠いと見なされていた異邦人だったのです。
そして、ここにいる私たち自身を見ても、その神の御心が実現しているのを見ているのでしょう。まさに神様の救いから遠くにいた、まことに罪深い私たちが、神に導かれて今ここにいるのです。
これが神の招きというものです。神の招きは人間の計り知れないほど遠くにまで及ぶのです。そして、また彼らの言葉は、その神の招きが、決して単純なものではないことをも示しています。
彼らは言いました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(2節)。神は、彼らが既に持っていた占星術の知識を用いられました。それだけではありません。そこには東方に離散していたユダヤ人たちの宗教的な影響もあったに違いありません。それなくしては、ユダヤ人の王として生まれるメシアに関心を持つことはなかったでしょうから。
実際、私たちにおいても同じでしょう。ある人はクリスチャンホームで育ちました。ある人は、学校にクリスチャンの先生がいて、大きな影響を受けました。ある人は友人に誘われて初めて教会に足を踏み入れました。大きなきっかけと思えるようなこと以外にも、それに先だって、既にいくつもの神様からの働きかけがあったに違いありません。それらすべてが神の招きを構成しているのです。単純ではありません。神の招きと導きには、あらゆる形における神の準備があり、働きかけがあるのです。彼らが言う、「わたしたちは東方でその方の星を見たので」とはそういうことです。
そのように、神はありとあらゆる仕方で人をメシアのもとに、また大きな喜びの内に招かれます。そして、繰り返しますが、その招きは人の思いを遥かに超えて遠くにまで及ぶのです。ならば、そこで重要になるのは、人間の側の応答です。
招きに対する人間の応答
神の招きと導きに対する応答は、この占星術の学者たちの場合、旅に出ることでした。実際にその体をもってメシアにまみえ、ひれ伏し、献げ物を献げるために旅に出るということでした。ただ心と考えの中で応答したのではなく、実際にその体をもって、行動をもって応答したのです。彼らは言うのです。「拝みに来たのです」と。
見た星について調べることは学問的にも行うことはできます。古代の占星術の世界にはそれなりに学問的な体系があったようですから。あるいは離散のユダヤ人たちを通してメシアについての知識を得ることもできたでしょう。しかし、実際に出会うためには、そして礼拝するためには、立ち上がって、自分の場所を後にして旅に出なくてはなりません。それは、安全な場所に身を置いて、外から、上から眺めるようにして、「神とは何ぞや」「キリストとは何ぞや」と言って調べるのとは、根本的に異なることです。具体的な応答がなければ、彼らが喜びに溢れることもなかったのです。
実際、この箇所には全くその逆を行った人々も出て来るのです。ヘロデという王様です。あるいはエルサレムの人々です。祭司長や律法学者たちも同じです。実に皮肉な話です。「メシアはどこに生まれることになっているか」と質問された時、彼らはすぐに「ユダヤのベツレヘムです」と答えることができました。知識は既にあるのです。彼らには既に神様の働きかけがなされていたということです。ユダヤ民族として考えるならば、既に何百年という神様の備えがあり、働きかけがあり、既に彼らは招かれていたのです。
しかも彼らがいたエルサレムからベツレヘムまで、せいぜい10キロぐらいしか離れていないのです。行こうと思えばすぐに行けるのです。占星術の学者たちがそこに行こうとしていることも知っているのです。同行しようと思えばできるのです。しかし、彼らは一歩を踏み出さなかったのです。
踏み出さなかったとは、単に場所的なことだけではありません。彼らは、今まで自分たちが生きてきた自分の世界、馴染んできた自分の世界から一歩も踏み出そうとはしなかったのです。むしろ踏み出さなくても済むように、自分の生きてきた世界をなんとしても守ろうとしたのです。ヘロデは自分が王様でいられる世界をなんとしても守って確保しておきたかったのです。他の人たちも皆同じです。自分が変わらないで、今までどおりいられる世界に留まっていたかった。異邦人より先に、まず招かれていたのは、彼らであったはずなのに!
そのように、一方において神の招きと導きがあるならば、もう一方において人間の側の応答が大きな意味を持つのです。占星術の学者たちは自らの体をもって礼拝するために旅に出ました。そして、そのような彼らについてこう書かれているのです。「学者たちはその星を見て喜びに溢れた」(10節)。
溢れる喜び
ところで、彼らについては「その星を見て」喜びに溢れたと書かれています。明らかに、その星のもとに、尋ね求めてきたメシアのいる家があったからです。まだメシアにはまだお会いしていません。にもかかわらず、既に彼らは喜びに溢れているのです。
ならばその扉を開いた時の喜びはどれほど大きかったことでしょう。母マリアと共にいる幼子を実際に見た時の喜びはどれほど大きかったことでしょう。幼子イエスを礼拝し、実際に献げ物を献げた時の喜びはどれほど大きかったことでしょう。その喜びによって、長い旅の疲れなど吹き飛んでしまったに違いありません。国に帰るためにはまた長い旅を続けなくてはならないのでしょう。しかし、そんな先行きの心配など吹き飛んでしまったに違いありません。本当の喜びとはそういうものでしょう。
そこにいるのは幼子のイエス様です。ただそこに寝ているだけのイエス様です。まだ何をしてくれたわけでもありません。神の力によって彼らを奇跡的に癒してくれたわけでもなければ、奇跡的に食べ物を増やして与えてくれたわけでもありません。ただ寝ているだけのイエス様です。しかし、そのイエス様にお会いして、礼拝して、献げて、彼らはこの上ない喜びに溢れていたのです。イエス様がそこにいるだけで、もう他には何も要らない。そう言えるような、そんな喜びに溢れていた彼らの姿が目に浮かぶようです。
しかし、イエス様と共にいるということは、本来そういうことなのでしょう。ここに見る学者たちの喜びはまた、代々の教会が経験してきた喜びでもあったのです。たとえ迫害があったとしても、苦難の中にあったとしても、先行きが見えない不安の中にあったとしても、日曜日がやってくるのです。週の初めの日に主の食卓を囲んで集まるのです。みんなイエス様を求めて集まってくる。そして、主の聖餐に与りながら、イエス様と共にあることを喜び、イエス様を礼拝し、賛美を捧げ、心からの献げ物を献げる。そのようにして救いの希望の中に身を置く人々の喜びがそこにあるのです。
もちろん、それで迫害がなくなるわけではないでしょう。それで苦難がなくなるわけではないでしょう。いや、むしろ集まっていればますます迫害は激しくなるのです。しかし、そこには喜びがある。溢れる喜びがあるから、その喜びを携えて、また新たな旅路に踏み出すことができる。力強く歩んでいくことができる。それが代々の教会の経験してきたことだったのです。
そして、代々の教会が伝えてきた、そのような礼拝の喜びが私たちにも与えられているのです。私たちの週毎の歩みは、星に導かれた学者たちと同じように、御子にお会いするための歩みであると言えます。そして、その週毎の旅を繰り返しながら、私たちは終わりの日に、文字通り御子にお会いするところへと向かっているのです。私たちの人生そのものが、またこの世界の歴史そのものが、御子にお会いするための旅路に他ならないのです。私たちは、最終的にイエス様にお会いする時に与えられる計り知れない喜びを、今、前もって少しだけ味わわせていただいているのです。やがてその全てを味わう時が来る。そこに向かっているのが、主の日の礼拝を中心とした私たちの信仰生活です。