2024年12月29日日曜日

「喜びに溢れた人々」

2024年12月29日 主日礼拝説教

聖書:マタイによる福音書 2:1‐12

遠くに及ぶ神の招き
 今日の説教題の「喜びに溢れた人々」というのは、今日の聖書箇所に登場した、「東の方」から来た学者たちのことです。10節に「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」と書かれている、その学者たちのことです。「東の方」が具体的にどこを指すのかは定かではありません。古来から「アラビア」、「バビロン」あるいは「ペルシャ」と、様々な憶測がなされてきました。いずれにしても、もともと遠いところにいた人たちです。

 いや、彼らは単に地理的に遠いところにいただけではありません。彼らは「占星術の学者たち」だったと書かれています。これは原文では「マゴス」という言葉です。「魔術師たち」とも訳される言葉です。彼らは異教の世界の占い師であり魔術師の類だったということです。占いや魔術などは、旧約聖書において厳しく禁じられています。ですから、そのようなことを行っている東方の占星術師たちは、聖書の見方からするならば、いわば神に背くことを行ってきた人たちであり、救いから最も遠いと見なされる人たちだったのです。

 今日お読みしたのは、そのような遠いところにいた占星術の学者たちが、星に導かれて東の方からメシアのもとにやってきたという話です。現実には「星」が人を導くことはありませんから、導いたとするならば、それは神様です。要するに、ここに書かれているのは、わざわざ救いから最も遠いように見える遠くにいた人たちを、神様はあえて選んで、彼らを導いて、メシアに出会わせ、喜びに溢れさせたという話です。

 このような話が聖書に記されて伝えられてきたのは、明らかにこれが一つの象徴的な出来事だからです。どんなに救いから遠くにいる人であろうが、どんなに神に逆らって生きてきた人であろうが、救い主のもとに導いて、救いを与えて、喜びに満ち溢れさせたい。この出来事は、そのような神様の胸の内を現している出来事として記されているのです。

 ですから、神様があの時に現された御心は、後にこの世界に実現していくことになるのです。イエス様が三十歳ぐらいの時に公の宣教の働きを開始した時、そこに集まってきたのは、救いから遠いと見なされ軽蔑されていた徴税人や罪人たちでした。後に教会がキリストを宣べ伝えていった時、礼拝の場所に集まって喜びに溢れたのは、ユダヤ人たちではなくて、救いから遠いと見なされていた異邦人だったのです。

 そして、ここにいる私たち自身を見ても、その神の御心が実現しているのを見ているのでしょう。まさに神様の救いから遠くにいた、まことに罪深い私たちが、神に導かれて今ここにいるのです。

 これが神の招きというものです。神の招きは人間の計り知れないほど遠くにまで及ぶのです。そして、また彼らの言葉は、その神の招きが、決して単純なものではないことをも示しています。

 彼らは言いました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(2節)。神は、彼らが既に持っていた占星術の知識を用いられました。それだけではありません。そこには東方に離散していたユダヤ人たちの宗教的な影響もあったに違いありません。それなくしては、ユダヤ人の王として生まれるメシアに関心を持つことはなかったでしょうから。

 実際、私たちにおいても同じでしょう。ある人はクリスチャンホームで育ちました。ある人は、学校にクリスチャンの先生がいて、大きな影響を受けました。ある人は友人に誘われて初めて教会に足を踏み入れました。大きなきっかけと思えるようなこと以外にも、それに先だって、既にいくつもの神様からの働きかけがあったに違いありません。それらすべてが神の招きを構成しているのです。単純ではありません。神の招きと導きには、あらゆる形における神の準備があり、働きかけがあるのです。彼らが言う、「わたしたちは東方でその方の星を見たので」とはそういうことです。

 そのように、神はありとあらゆる仕方で人をメシアのもとに、また大きな喜びの内に招かれます。そして、繰り返しますが、その招きは人の思いを遥かに超えて遠くにまで及ぶのです。ならば、そこで重要になるのは、人間の側の応答です。

招きに対する人間の応答
 神の招きと導きに対する応答は、この占星術の学者たちの場合、旅に出ることでした。実際にその体をもってメシアにまみえ、ひれ伏し、献げ物を献げるために旅に出るということでした。ただ心と考えの中で応答したのではなく、実際にその体をもって、行動をもって応答したのです。彼らは言うのです。「拝みに来たのです」と。

 見た星について調べることは学問的にも行うことはできます。古代の占星術の世界にはそれなりに学問的な体系があったようですから。あるいは離散のユダヤ人たちを通してメシアについての知識を得ることもできたでしょう。しかし、実際に出会うためには、そして礼拝するためには、立ち上がって、自分の場所を後にして旅に出なくてはなりません。それは、安全な場所に身を置いて、外から、上から眺めるようにして、「神とは何ぞや」「キリストとは何ぞや」と言って調べるのとは、根本的に異なることです。具体的な応答がなければ、彼らが喜びに溢れることもなかったのです。

 実際、この箇所には全くその逆を行った人々も出て来るのです。ヘロデという王様です。あるいはエルサレムの人々です。祭司長や律法学者たちも同じです。実に皮肉な話です。「メシアはどこに生まれることになっているか」と質問された時、彼らはすぐに「ユダヤのベツレヘムです」と答えることができました。知識は既にあるのです。彼らには既に神様の働きかけがなされていたということです。ユダヤ民族として考えるならば、既に何百年という神様の備えがあり、働きかけがあり、既に彼らは招かれていたのです。

 しかも彼らがいたエルサレムからベツレヘムまで、せいぜい10キロぐらいしか離れていないのです。行こうと思えばすぐに行けるのです。占星術の学者たちがそこに行こうとしていることも知っているのです。同行しようと思えばできるのです。しかし、彼らは一歩を踏み出さなかったのです。

 踏み出さなかったとは、単に場所的なことだけではありません。彼らは、今まで自分たちが生きてきた自分の世界、馴染んできた自分の世界から一歩も踏み出そうとはしなかったのです。むしろ踏み出さなくても済むように、自分の生きてきた世界をなんとしても守ろうとしたのです。ヘロデは自分が王様でいられる世界をなんとしても守って確保しておきたかったのです。他の人たちも皆同じです。自分が変わらないで、今までどおりいられる世界に留まっていたかった。異邦人より先に、まず招かれていたのは、彼らであったはずなのに!

 そのように、一方において神の招きと導きがあるならば、もう一方において人間の側の応答が大きな意味を持つのです。占星術の学者たちは自らの体をもって礼拝するために旅に出ました。そして、そのような彼らについてこう書かれているのです。「学者たちはその星を見て喜びに溢れた」(10節)。

溢れる喜び
 ところで、彼らについては「その星を見て」喜びに溢れたと書かれています。明らかに、その星のもとに、尋ね求めてきたメシアのいる家があったからです。まだメシアにはまだお会いしていません。にもかかわらず、既に彼らは喜びに溢れているのです。

 ならばその扉を開いた時の喜びはどれほど大きかったことでしょう。母マリアと共にいる幼子を実際に見た時の喜びはどれほど大きかったことでしょう。幼子イエスを礼拝し、実際に献げ物を献げた時の喜びはどれほど大きかったことでしょう。その喜びによって、長い旅の疲れなど吹き飛んでしまったに違いありません。国に帰るためにはまた長い旅を続けなくてはならないのでしょう。しかし、そんな先行きの心配など吹き飛んでしまったに違いありません。本当の喜びとはそういうものでしょう。

 そこにいるのは幼子のイエス様です。ただそこに寝ているだけのイエス様です。まだ何をしてくれたわけでもありません。神の力によって彼らを奇跡的に癒してくれたわけでもなければ、奇跡的に食べ物を増やして与えてくれたわけでもありません。ただ寝ているだけのイエス様です。しかし、そのイエス様にお会いして、礼拝して、献げて、彼らはこの上ない喜びに溢れていたのです。イエス様がそこにいるだけで、もう他には何も要らない。そう言えるような、そんな喜びに溢れていた彼らの姿が目に浮かぶようです。

 しかし、イエス様と共にいるということは、本来そういうことなのでしょう。ここに見る学者たちの喜びはまた、代々の教会が経験してきた喜びでもあったのです。たとえ迫害があったとしても、苦難の中にあったとしても、先行きが見えない不安の中にあったとしても、日曜日がやってくるのです。週の初めの日に主の食卓を囲んで集まるのです。みんなイエス様を求めて集まってくる。そして、主の聖餐に与りながら、イエス様と共にあることを喜び、イエス様を礼拝し、賛美を捧げ、心からの献げ物を献げる。そのようにして救いの希望の中に身を置く人々の喜びがそこにあるのです。

 もちろん、それで迫害がなくなるわけではないでしょう。それで苦難がなくなるわけではないでしょう。いや、むしろ集まっていればますます迫害は激しくなるのです。しかし、そこには喜びがある。溢れる喜びがあるから、その喜びを携えて、また新たな旅路に踏み出すことができる。力強く歩んでいくことができる。それが代々の教会の経験してきたことだったのです。

 そして、代々の教会が伝えてきた、そのような礼拝の喜びが私たちにも与えられているのです。私たちの週毎の歩みは、星に導かれた学者たちと同じように、御子にお会いするための歩みであると言えます。そして、その週毎の旅を繰り返しながら、私たちは終わりの日に、文字通り御子にお会いするところへと向かっているのです。私たちの人生そのものが、またこの世界の歴史そのものが、御子にお会いするための旅路に他ならないのです。私たちは、最終的にイエス様にお会いする時に与えられる計り知れない喜びを、今、前もって少しだけ味わわせていただいているのです。やがてその全てを味わう時が来る。そこに向かっているのが、主の日の礼拝を中心とした私たちの信仰生活です。

2024年12月22日日曜日

「イエスという名の救い主」

  2024年12月22日 クリスマス主日礼拝説教

聖書:マタイによる福音書 1:18‐23

本当のクリスマスを祝うため

 本当のクリスマスを祝おうと思うなら、二つのことを退けなくてはならない。エミール・ブルンナーという神学者がそう言っていました。その二つとは何でしょうか。第一は現代社会の不安によってクリスマスの喜びを失ってしまうことだと彼は言います。確かに不安に満ちた社会に私たちは生きています。不安要素を数えれば切りがない。個人的にも、お互い多かれ少なかれ問題を積み残しにしたまま年を越していくのでしょう。しかし、それでもなお私たちはクリスマスの喜びを奪われてはならないのです。「それは悪魔の望むところである」と彼は言います。すべての悪は喜びの喪失から生まれる、と。私たちは喜びを失うことによって、悪魔を喜ばせてはならないのです。

 しかし、退けなくてはならない第二のことがあります。それは、人為的なクリスマスの喜びに溺れないことだと彼は言うのです。人為的なクリスマスの喜びとは、現実逃避の喜びです。「今がどんな悪い時代であるか、そんなことなど忘れてしまおう。少なくとも今日はクリスマスなのだから」。――そのような喜びのことです。そのような麻薬中毒のような喜びを悪魔は奪おうとはしません。悪魔には都合のよいものだからです。

 私たちはここに、ただクリスマス気分に一時酔いしれるために集まっているのではありません。そのようなものは、この場所を出て寒い風に当たれば吹き飛んでしまいます。私たちは、どんな寒い風が吹こうが、嵐の中に置かれようが、絶対に奪われない喜び、悪魔に奪われることのない本当の喜びに生き、また生き続けるためにここにいるのです。

罪からの救い
 そのような私たちに与えられているのは、マタイによる福音書の御言葉です。こう書かれていました。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)。聖霊による懐胎。いわゆる「処女降誕」の話です。しかし、強調されているのは、その受胎の不思議さではありません。この物語の中で、アンバランスとも言えるほど強調されているのは、名前とその意味です。「イエス」という名。そして、「インマヌエル」という呼び名とその意味。マタイは名前の意味にかなりこだわっているようです。

 そこでまず、私たちはその名前に注目することにしましょう。21節以下を御覧ください。「『マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(23節)。

 「イエス」という名前。それはユダヤ社会においてはごくありふれた名前でした。その名は旧約聖書に現れる「ヨシュア」という名前に相当します。「ヨシュア」とは「主は救い」という意味です。その名の通り、こうして生まれた方は救い主なのです。何から救ってくださるのでしょう。聖書は言います。「この子は自分の民を罪から救うからである」(21節)と。

 「罪から救う」。――当たり前のように書かれていますが、私たちの日常において、「罪から救う」という表現はほとんど耳にすることはありません。「貧困から救う」とか「病気から救う」なら分かります。しかし、「罪から救う」という表現は一般的に用いられている表現ではないので、ある程度の説明を要します。

 例えば、こんなことを考えてみてください。皆さんが教会の帰りに下北沢東口近くで小さな男の子が泣いているのを見かけたとします。迷子のようです。お母さんが買い物をしている間に、ちょろちょろと歩き回ってはぐれてしまったようです。さて、皆さんはその男の子を助けたいと思います。お昼時です。随分お腹も減っているようです。そこで頌栄教会のAさんは、その男の子をマクドナルドまで連れていってハンバーガーを買ってあげました。そして、そのハンバーガーを渡すと、東口まで連れていって「バイバイ」と言って駅の中に入っていきました。

 次にBさんが通りかかりました。男の子はハンバーガーを持ったまま泣いています。優しいBさんは思いました。「ひとりでずっとここにいたんだな。寂しかったに違いない。」そこでBさんはその子と遊んであげました。確かにその子は泣きやみました。もう泣いてはいません。そこでBさんは少し遊んであげると「ああ、泣きやんだね。じゃあね」と言って、駅に入って行ってしまいました。

 そこにCさんが通りかかりました。Cさんは既に泣きやんでいたその子と一緒に、お母さんを捜して歩きました。そして、ついにお母さんのもとにその子を連れていくことができました。男の子はお母さんに抱っこされて、本当の笑顔が戻りました。

 さて、その男の子を本当に助けることができたのは誰でしょうか。――最後のCさんでしょう。迷子は親に抱かれて初めて救われます。人間も同じです。必要を満たされることも大事です。寂しさを癒されることも大事です。しかし、人は神のふところに抱かれてこそ、本当の意味で救われるのです。それを聖書は「罪から救う」と表現しているのです。

 「罪」とは、神に背いて、自分勝手に歩んで、神から離れてしまった状態です。羊飼いの声に聞き従わずに、群れから離れて迷子になった小羊のような状態です。迷子のような状態なのですから、不安で寂しくて苦しいのも無理はありません。そのように、神から離れたこの世界が不安に満ちているのも無理ないことなのです。

 しかし、そんな迷子のような私たちを神様は憐れんでくださいました。そんな私たちを本当の親である神のもとに立ち帰らせるために、イエス様を救い主として送ってくださったのです。イエス様は神を示してくださっただけではありません。神を離れ、神に背いて自分勝手に生きてきた私たちが赦されるために、そして、神に赦された者として、神との交わりに生き、神の子供として生きることができるように、イエス様は十字架にかかって私たちの罪を贖ってくださったのです。イエス様は罪から救うために来られたのです。

 ですから、その幼子はまた「インマヌエルと呼ばれる」と語られているのです。その名は「神は我々と共におられる」という意味です。イエス様が来られたのは、まさに私たちが「インマヌエル(神は我々と共におられる)」と腹の底から喜んで言えるようになるためなのです。

 どんなことがあろうと、辛い現実があろうと、涙にくれるようなことがあろうとも、神に愛されている子供として「神が共におられる」と言うことができるなら、既にその人は救われているのです。ちょうどさっきの迷子の男の子が母親に抱きかかえられたように。その救いの喜びこそ、神が与えてくださったクリスマスの喜びなのです。何によっても奪われないクリスマスの喜びなのです。

苦しみを引き受けた人々
 しかし、私たちはここでもう一つの事実に目を向けなくてはなりません。そのような罪からの救い主、「インマヌエル」と呼ばれる御方が誕生するためには、そのために苦しみを引き受けた人々がいたのだ、ということです。そして、神の御計画を信じて、身を献げた人がいたということです。ご存じ、マリアとヨセフです。

 「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)。これは何よりもまずマリアにとって恐るべきことでした。いったいどこの誰が「聖霊によって身ごもった」なんていう話を信じるでしょう。この出産がユダヤ人社会において全く受け入れられないであろうことは火を見るより明らかでした。

 一方、このことがヨセフにも深い苦悩をもたらしたことは言うまでもありません。当初、ヨセフも「聖霊によって身ごもった」ということを信じてはいませんでした。「ひそかに縁を切ろうと決心した」と書かれていることから分かります。それは悩み抜いた末の決心だったのでしょう。そのヨセフが夢を見ました。主の天使が夢に現れて言ったのです。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(20節)。ヨセフは信じました。そして、マリアを迎え入れることにしました。

 しかし、ヨセフの苦悩が終わったわけではありません。いや、むしろ始まりだったのです。ヨセフは信じたかもしれない。けれど他の人は信じないでしょう。マリアを迎え入れるということは、マリアと一緒に苦しみを担っていくことを意味したのです。そのように、マリアもヨセフもいわば苦しみを引き受けたのです。神のなさっていることがあることを信じて、神の御計画が進んでいることを信じて、その神が「恐れるな」と言われる言葉を信じて、苦しみを引き受けたのです。

 私たちの喜びであるクリスマスの物語には、そのような、苦悩に満ちたヨセフやマリアが出て来るのです。イエス・キリストは罪からの救い主として来てくださいました。しかし、この物語に見るように、誰かが救いに与り、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」と喜びをもって語れるようになるためには、誰かが身を献げて、苦しみを引き受けるということが必要なのです。ヨセフやマリアのような人たちが必要なのです。実際、私たちが今こうしてクリスマスを喜び祝っているのは、ここに至るまでに多くの人々が身を献げ、労苦を引き受けてきたから実現していることなのです。

 私たちはクリスマスを喜び祝うためにここに集まっています。誰によっても、この世のいかなることによっても、このクリスマスの喜びを奪われてはなりません。しかし、それは単に私たち自身のためではないのです。私たちは、この喜びを抱きかかえるようにしてここから出て行くのです。それは、今度は私たちが、誰かの喜びのために、誰かの救いのために、誰かが「インマヌエル」と言えるようになるために、神の御計画を信じて、身を献げて、自分の負うべき十字架を背負って生きていくためなのです。

2024年12月18日水曜日

祈祷会用:ホセア書 2:16~25

ホセア書 2:16‐25

 今日は2章16節からお読みしました。その最初の言葉は「それゆえ」です。この言葉によって、前の節につながっていることが分かります。その前には何と書いてあるでしょう。「バアルを祝って過ごした日々について、わたしは彼女を罰する。彼女はバアルに香をたき、鼻輪や首飾りで身を飾り、愛人の後について行き、わたしを忘れ去った、と主は言われる」(15節)。

 彼女というのはイスラエルの民です。夫を忘れ去った淫行の女に等しいイスラエルの民を、主は罰すると主は宣言されたのです。その処罰の宣言に続いて「それゆえ」と言われております。当然、私たちは、処罰に関する言葉が続くと考えます。しかし、予想に反して、そこで私たちが耳にするのは、まったく驚くべき言葉です。主は、御自分に背いた民について、次のように言われるのです。「それゆえ、わたしは彼女をいざなって、荒れ野に導き、その心に語りかけよう」(16節)

 これまで読んできたところを振り返ってみましょう。先週読みました箇所において、主は背く民に対して激しい裁きの言葉を投げかけておりました。「それゆえ、わたしは刈り入れのときに穀物を、取り入れのときに新しい酒を取り戻す。また、彼女の裸を覆っている、わたしの羊毛と麻とを奪い取る。こうして、彼女の恥を愛人たちの目の前にさらす。この手から彼女を救い出す者はだれもない。わたしは彼女の楽しみをすべて絶ち、祭り、新月祭、安息日などの祝いをすべてやめさせる」(11‐13節)。主は、これまで豊かに与えていたものをすべて取り去ると言われるのです。そして、事実、ヤロブアムの治世において人々が享受していた繁栄と平和はやがて失われ、やがて国家は滅び、民は捕囚とされることになります。

 しかし、主は16節以下において、「それゆえ」と語り、その驚くべき真意を明らかにされるのです。彼らが神の裁きにおいて経験することは、確かに、乳と蜜の流れる地、神の約束の地を失って、再び荒れ野へと逆戻りすることに他なりません。しかし、ここで主は「わたしは彼女を荒れ野に追いやる」とは言われません。「わたしは彼女をいざなって荒れ野に導く」と言われるのです。荒れ野に追いやるのではなくて、荒れ野に導くということは、他ならぬ神が荒れ野にまで共に行かれるということです。豊かさを失い、楽しみを絶たれたその苦しみの荒れ野へと、神が共に行かれるということです。何のためでしょう。その心に語りかけるためです。

 神は御自分に背き、心をかたくなにしている者たちに語りかけられるのです。そのようなどうしようもない淫行の女に等しい彼らを、なおも御自分の民として取り戻すために、何とかしてその心を動かすために、神は荒れ野へといざなってその心に語り掛けられるのです。

 そして、その荒れ野において、主は彼女にぶどう園を与えると言われます。かつて肥沃な地にあったぶどう園は、茂みに変えられ、野の獣によって食い荒らされてしまいました(14節)。しかし、荒れ野において再びぶどう園が与えられるのです。それは荒れ野におけるぶどう園なのであって、それゆえに、主の恵みによっていただいたことは明らかなのです。そのようなぶどう園です。

 そして、主は、「アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える」と言われるのです。このアコルの名前の由来はヨシュア記7章に出てきます。そこは、罪を犯したアカンという者とその一族が、裁かれ滅ぼされた場所です。「彼らは、アカンの上に大きな石塚を積み上げたが、それは今日まで残っている。主の激しい怒りはこうしてやんだ。このようなわけで、その場所の名はアコルの谷と呼ばれ、今日に至っている」(ヨシュア7:26)。このように、アコルの谷の名前の由来は人間の罪、また罪に対する刑罰と関わっているのです。

 つまり、その谷によって象徴されているのは、罪の結果としての災いであり苦悩なのです。確かに、繁栄を失い、国を失ったイスラエルがいたのは、そのような意味におけるアコルの谷であったに違いありません。そして、誰もが知っているように、苦悩が己の罪と結びついている時、そこには希望がありません。罪の結果としての苦悩には希望がないのです。

 その希望がない苦悩に希望をもたらすことができるとするならば、それは苦悩から罪を取り除くことのできる御方だけです。それは罪を赦すことのできる主なる神だけなのです。淫行の妻に等しきイスラエルの民をなおも赦し、愛し、語り給う主なる神であるゆえに、苦悩の谷は苦悩の谷のままではないのです。主は、アコルの谷を希望の門として与えることができるのです。

 そこには主の目的があります。主なる神が望んでおられるのは、その希望の門において、彼らが神の語りかけに応えることなのです。主と共に荒れ野を歩んだ初めの頃に戻って、彼らが応えることなのです。エジプトから導き出され、シナイの荒れ野において主なる神と契約を結んだあの時に戻って、主と結ばれた妻として、彼らがもう一度主の語りかけに応えることなのです。

 そして、背いたイスラエルの民において、主が最終的に何を実現しようとしているかが、18節以下に語られております。主は繰り返し、すべてが成就する「その日」について語られるのです。「その日が来ればと主は言われる。あなたはわたしを、『わが夫』と呼び、        もはや、『わが主人(バアル)』とは呼ばない。わたしは、どのバアルの名をも、彼女の口から取り除く。もはやその名が唱えられることはない」(18‐19節)

 このところを読みますと、バアル化したヤハウェ祭儀においては、バアルという呼び名とヤハウェという呼び名が区別なく用いられていたことが分かります。バアルという名そのものは「主人」という意味であったので、それはある意味では仕方がないことだったのかも知れません。しかし、名前が区別されなくなるということは、その内容も区別されなくなることを意味します。実際、彼らの礼拝は、カナンの豊穣神礼拝と区別がつかないようなものとなっていたのでした。そこでは、信仰の民と神との関係は、もはや妻と夫の関係ではなくなっていたのです。

 主は、そのような彼らの口からバアルの名を取り除くと言われます。彼らは繁栄と自らの欲望の満たしを求める宗教から解放され、主との愛の関係へと回復されねばなりません。主が荒れ野へと導かれたのは、この関係へと回復されるためでした。先に「彼女はもはやわたしの妻ではなく、わたしは彼女の夫ではない」(4節)と叫んでいた夫の、本当の願いは、妻の口に「わが夫よ」という心からの呼びかけが取り戻されることだったのです。

 そして、さらに主は言われます。「その日には、わたしは彼らのために、野の獣、空の鳥、土を這うものと契約を結ぶ。弓も剣も戦いもこの地から絶ち、彼らを安らかに憩わせる。        わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。わたしは、あなたと契りを結び、正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。わたしはあなたとまことの契りを結ぶ。あなたは主を知るようになる」(20‐22節)。

 「野の獣」「空の鳥」「土を這うもの」の三者によって、この自然界が代表されています。主は、自然界をも契約の内に置かれます。ここで語られているのは、この自然界もまた神との関係において回復せられるということです。また、人間世界から争いが取り除かれ平和が訪れると語られているのです。弓も剣も絶たれるのです。その平和は、人と神との正しい関係が回復することによって成就すると語られているのです。

 これは逆を考えてみれば、理解できるでしょう。人間が主を忘れ、バアルを追い求め続ける時、すなわち繁栄の追求、欲望の充足にのみ心を向ける時、自然界は荒廃し、滅びに向い、人の世には争いと流血が絶えないのです。現実にそうなっていることが4章の冒頭において次のように語られております。「主の言葉を聞け、イスラエルの人々よ。主はこの国の住民を告発される。この国には、誠実さも慈しみも、神を知ることもないからだ。呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり、流血に流血が続いている。それゆえ、この地は渇き、そこに住む者は皆、衰え果て、野の獣も空の鳥も海の魚までも一掃される」(4:1‐3)。

 これは実に身につまされる言葉です。しかし、主は既に見てきたように、その限りない愛をもって、この現実を覆そうとされるのです。主は、そのことが成就する時を待ち望みつつ、御自分の民に関わられるのです。

 こうして、主は立ち帰った民と契りを結ばれます。この「契り」というのは「婚約」に当たる言葉です。壊れた夫婦が回復するというのではありません。裏切った妻であるのに、まったく新たに、初めて結婚するかのように、主は契りを結ばれると言うのです。そして、この新たに与えられた関係は、五つの言葉によって表現されています。それは「正義」「公平」「慈しみ」「憐れみ」「まこと(真実)」です。夫と妻との関係が本物であるためには、この五つがなくてはなりません。それは、イスラエルの民には、まったく欠けていたものでした。それゆえ、正義も公平も慈しみ、憐れみ、真実も、すべてまず夫である神が示して下さったのです。そして、そのことを通して、これらは神の民に与えられるのです。これらが神の民において実現するのです。こうして、まことに主を知る民となるのです。

 そして、さらに主は言われます。「その日が来れば、わたしはこたえると主は言われる。わたしは天にこたえ、天は地にこたえる。地は、穀物と新しい酒とオリーブ油にこたえ、それらはイズレエル(神が種を蒔く)にこたえる。わたしは彼女を地に蒔き、ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ、ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって、『あなたはアンミ(わが民)』と言う。彼は、『わが神よ』とこたえる」(23‐25節)。

 ここで再び、ホセアの三人の子らの名前が挙げられます。イズレエルの名のごとく、再び神の民は約束の地に蒔かれ、豊かな実を結びます。本来であるならば、ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)でしかない者が、神に憐れまれる者となります。本来ならばロ・アンミ(わが民でない者)であり、到底神の民ではあり得ない者が、「アンミ(わが民)」と呼ばれるようになります。既に見てきましたように、このことが起こるとするならば、それはただ一方的な神の愛と赦しの御業に他なりません。

 新約聖書を読みますと、このように語られるホセア書の神こそ、イエス・キリストを世に遣わし、私たちを召してくださった方であることが分かります。ペトロは言います。「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです」(1ペトロ2:9‐10)。

 今、私たちがこうして神の民として礼拝を捧げているのは、既にホセア書に見てきたように、ただ神の愛と赦しによるのです。そして、私たちはまことに主を知る民となる「その日」の完成へと向かって導かれているのです。


2024年12月15日日曜日

「神に打ち明けなさい」

 2024年12月15日 主日礼拝説教

聖書:フィリピの信徒への手紙 4:4-7

喜びなさい

 アドベントの第三週となりました。アドベントに灯される三番目のキャンドルは「喜びのキャンドル」と呼ばれます。その「喜びのキャンドル」を灯した礼拝において、先ほど第2朗読において、フィリピの信徒への手紙が読まれました。この手紙は「喜びの手紙」とも呼ばれます。この手紙には「喜び」という言葉が繰り返されているからです。今日お読みした箇所にも次のように書かれていました。

 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(4節)。

 ある意味では、とても不思議な言葉です。「喜びなさい」と言われて、人は喜べるものではありません。感情は自由にコントロールされ得ないことを私たちはよく知っています。しかも、喜べない理由を山ほど抱えている時にはなおさらでしょう。だから普通私たちは他の人に、やたらに「喜びなさい」とは言いませんし、誰かから「重ねて言います。喜びなさい」などと言われても困ります。

 にもかかわらず、この手紙には当たり前のように「喜びなさい」という言葉が繰り返されているのです。この手紙を書いているパウロにしても、この手紙を受け取っている教会にしても、喜べない理由はいくらでもあった――にもかかわらずです。実際、フィリピの教会には分裂や仲違いがありました。教会内部の問題だけではありません。外からの迫害もありました。実際、パウロはこの時、獄中にいるのです。思い返せば、福音の宣教のために働き始めてからというもの、彼の人生は苦難の連続でした。喜べない理由を挙げるなら、それこそ数限りなくあったはずです。しかし、そのパウロが言うのです。「喜びなさい」と。

 どうしてなのか。そこには喜ぶべき決定的な理由があるからです。そうでなければ「喜びなさい」という言葉はそもそも意味をなしません。その決定的な理由とは何か。パウロはそれを「主において」という短い言葉をもって表現しています。「主において」という言葉は、パウロの手紙に実によく出てくる言葉です。同じ言葉が他の箇所では「主に結ばれて」とも訳されています。主に結ばれている。それが理由です。

 信仰によってキリストと結ばれているのです。キリストの内にいるのです。そのキリストとは、私たちを愛し、御自身を献げてくださったキリストです。私たちの罪の贖いのために十字架にまでおかかりくださったキリストです。その御方と結ばれて、私たちは罪を赦された者として、救われた者として、愛されている者として、今生かされているのです。

 この世界は移り変わっていきます。人間が置かれる状況も教会が置かれている状況も刻一刻と変化していきます。幸いの絶頂にあった人が、次の日には奈落の底にいるということも起こり得るのがこの世の中です。この世のことだけを見ているならば、過去を悔い、未来を思い煩いながら生きざるを得ないのかもしれません。この世界は移り変わるからです。

 しかし、ここで語られている「主において」という事実は、主に結ばれているという事実は、何が起ころうと変わらないのです。どのような状況に置かれても変わらないのです。パウロのように投獄されても変わらないのです。さらに言うならば、死んでも変わらない。迫害いよって命を奪われても変わらないのです。パウロは別の手紙で言っています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」(ローマ8:35)と。誰もできない、ということです。

 そのような決定的な理由があるのです。それは変わらないのです。要はその事実に目を向けているか否かということです。信仰によって歩んでいるのか、それともこの世のことだけ見て生きているのか、ということです。だからパウロは、見るべきところに目を向けさせて、つまり「主において」という事実を指し示して、「喜びなさい」と言うのです。いや「喜びなさい」だけではありません。「常に喜びなさい」とさえ言うのです。変わることのない理由があるからです。

 皆さん、私たちは毎週毎週、相も変わらず、このように変わらないことを繰り返しています。しかし、これは大きな恵みなのです。私たちの人生に何が起こったとしても、この世界に何が起こったとしても、絶対に変わらず必ず日曜日は来るのです。その日には、神が礼拝へと招いてくださるのです。私たちには、変わらない神の愛の内にあることを共に喜び、共に感謝をささげ、私たちは共に変わらないものを土台として生きる人生が備えられているのです。そうです、ここにいる私たちだけではありません。私たちはパウロとも同じ土台に立って生きているのです。だからこそ、この言葉も意味を持つのです。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」。

広い心が知られるように
 そして、さらにパウロは言います。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」(5節)。主から来る「喜び」はただ「喜び」として人間の内に留まるのではありません。その「喜び」は「広い心」となって他者へと向かうものとなるのです。

 それはある意味では当然のことです。主によって罪を赦された喜びは、他者を赦す心を生み出すのです。主によって受け入れられた喜びは、他者を受け入れる心を生み出すのです。主の広い心が私たちの喜びなら、その喜びは私たちの内に広い心を生み出すのです。

 ですから、「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」とは、要するに、「主において常に喜びなさい。その喜びをもって人々と共に生きていきなさい」ということに他ならないのです。大事なのは「喜び」なのです。そして、その源である「主にあって」という事実なのです。主との関係なのです。ですからここでパウロは一言付け加えるのです。「主はすぐ近くにおられます」(5節)と。

 このアドベントに思い巡らすべき大事なテーマの一つはキリストの再臨です。キリストが再び来られることを私たちは信じているのです。しかし、そのことをずっと遠い所からやってくるように思い描く人がいるかもしれません。しかし、初代教会が持っていたイメージは異なるのです。そうではなくて、「戸の外に立っておられるキリスト」なのです。もうすぐにでも戸を開けて入ってこられる。救いをもたらすために入ってこられる。そのようなイメージです。

 それは二千年経ってしまった今でも同じはずなのです。やがて主が来られる。今にでも来られる。その時、私たちははっきりと知ることになるのです。主に赦されているとはどういうことか。主によって愛されているということがどういうことか。救われているとはどういうことか。やがて私たちは知ることになるのです。この世界が過ぎ去っても変わることのないものを、その事実を、はっきりと見ることになるのです。そして、それは思いの外近いのかもしれません。「主はすぐ近くにおられます」とパウロは言うのです。

思い煩うのはやめなさい
 それゆえに、さらにパウロは、「思い煩うのはやめなさい」と語るのです。喜ぶことと思い煩わないことは、同じ主に結ばれた生活の裏と表です。積極的な側面と消極的な側面と言っても良いでしょう。それゆえに「主は近い」と語ったパウロは、さらに具体的な勧めとして、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と勧めるのです。つまり、「主において」生きる生活は、先にも触れましたように、祈りと礼拝という具体的な形を取るのだということです。

 パウロにしても、フィリピの信徒たちにしても、喜びを奪っていく要因、思い煩いの種は数え切れないほどあったに違いありません。しかし、そこにおいて思い煩わないで生きるために必要なことは、思い煩いの種を必死になって取り除くことではないのです。そうではなく、主にある者として生き、神に祈り、変わることなく神を礼拝して生きることなのです。

 パウロはここで「神に打ち明けなさい」と言っています。これは単なる願いごと以上のことです。それは「感謝を込めて」という言葉が伴っていることからも分かります。しかしながら、「感謝を込めて」というのは、無理をして、表面だけをとり繕って、感謝の言葉を神に捧げるということではありません。そうではなくて、いかなる言葉をもって祈ったとしても、その祈りの根底に変わらぬ神への信頼と感謝があるということなのです。

 そこで重要になるのが、先ほどから語っています「主において」ということなのです。祈りが「主において」なされるということです。それは主によって赦され、救われた感謝と喜びをもって献げる祈りであるということです。そのように祈りがなされる時に、それはまた「神は私たちを愛しておられて、私たちに最善を為してくださる」という神への信頼に基づいて献げられる感謝の祈りともなるのです。

 では、そのように「神に打ち明ける」時に、いったい何が起こるのでしょうか。パウロはこう言うのです。「そうすれば、あらゆる人知を越える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(7節)。

 人において本当に守られなくてはならないものは何か。それは「心と考え」です。ここで語っているパウロは、獄中にいるのです。いつ引き出されて処刑されるかも知れぬ身なのです。彼は自分の命を自分で守ることができません。しかしパウロは、人知を越える神の平和によって、心と考えとを守られているのです。そのような人をこそ、私たちは「神に守られている人」と呼ぶべきでしょう。

 一生懸命に自分の身を守り、立場を守り、メンツを守り、病気から肉体を守り、経済的な困窮から生活を守ろうとするうちに、そのように自分を守ることに一生懸命になっているうちに、いつの間にか本来の喜びを失って、心と考えがボロボロの雑巾のようになってしまうことは起こり得ます。私たちは、神の平和によって、まずは心と考えとを守っていただかなくてはなりません。パウロと同じ土台に立って、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」という言葉をしっかりと受け止めることができる状態に、私たちの心も考えも守っていただかなくてはならないのです。


2024年12月11日水曜日

祈祷会用:ホセア書 2:4~15

ホセア書 2:4‐15

 先週に引き続き、ホセア書を読んでまいります。先週も申し上げましたとおり、ホセア書の最初の3章には、断片的にではありますが、預言者ホセアの個人的な結婚生活の消息が伝えられております。1章では他者による報告の形をとって三人称によって語られ、3章では本人による報告の形をとって一人称で語られているのです。そして、この1章と3章に挟まれる形で、2章の韻文による預言の言葉が記されております。

 今日は2章4節から15節までをお読みしました。この部分は妻を断罪する夫の激しい怒りの言葉から始まります。4節から7節前半までをご覧ください。

 私たちがまずここに聞きますのは、ホセア自身の怒りの声であることには間違いないでしょう。「告発せよ」という言葉から、場面としては法廷を考えることができます。しかし、実際の訴訟がなされていると考える必要はありません。後の方を読みますと、このような表現はあくまでも形式に過ぎないことが分かります。いずれにせよ、この場合、4節で「彼女」と呼ばれているのはホセアの妻であるディブライムの娘ゴメルです。また、6節において「その子ら」と呼ばれているのは、妻が不貞によって身ごもった子供たちということになります。

 しかし、その先を15節まで読んできますと、この部分では単純にホセアとゴメルの個人的な関係のみを語っているのではないことが分かります。15節には、「バアルを祝って過ごした日々について、わたしは彼女を罰する。彼女はバアルに香をたき、鼻輪や首飾りで身を飾り、愛人の後について行き、わたしを忘れ去った、と主は言われる」と書かれているのです。

 つまり、これはあくまでも預言の言葉、すなわち神の言葉なのです。単にホセアの個人的な感情から出た言葉ではないのです。ここで怒りをもって語っているのは、明らかに主(すなわちヤハウェ)なる神なのです。その場合、彼女と言われているのは、主に背いたイスラエルの民なのです。このように、この箇所に語られている預言の言葉においては、二つの関係が重ね合わされているのです。一つは、ホセアとゴメルの不幸な関係です。もう一つは、主なる神とイスラエルの民の間の不幸な関係です。ここに響いているのは、妻の不貞を怒るホセアの声であると同時に、イスラエルの民の不貞を怒る神の声なのです。

 まさに、この二重の関係こそが、ホセア書のメッセージを独特なものとしているのです。ホセアが預言者として神の言葉を聞き、民に語るということは、単に超自然的な神秘体験の中で神のメッセージを聞き、そして伝えるということではなかったのです。そうではなくて、ホセアは自らの崩壊した家庭という現実の痛みの中で、その痛みを通して、神の御心を知り、そして語ったのです。まさにその預言の言葉において、ホセアの苦悩と神の苦悩が一つとなっているのです。

 そのことを踏まえた上で7節の後半に目を向けましょう。ここで「彼女」と呼ばれているのは、ホセアの妻であり、同時にイスラエルの民です。もちろん、ここに書かれていることを、そのままホセアの妻ゴメルが不貞に走った理由として読むことには無理があるでしょう。結婚の破綻の原因はこんなに単純ではないでしょうから。

 しかし、そのことを弁えつつも、なお聖書独特の仕方で単純化されたこの言葉に耳を傾けることには意味があろうかと思います。聖書は、この不貞の妻をどう描いているのか。彼女は、夫との真実な関係よりも、物質的な豊かさと欲望の充足を求めた愚かな女として描かれているのです。そして、この愚かな女の姿こそ、主に背いた愚かなイスラエルの民の姿に他ならないと預言者はここで語っているのです。

 イスラエルの民にとっての「愛人たち」とは、カナンの地においてもともと地方ごとにまつられていた、通常「バアル」として知られている神々でありました。それはいわゆる生産の神であり豊穣の神なのです。「バアル」という言葉自体は、「主人」あるいは「所有者」という意味です。その名のとおり、バアルは各地方ごとに、その地域の所有者とされていたのです。そして、その所有者である男性神バアルと大地の女神との性的な関係において生じるのが大地の産物であると考えられていたのです。

 半遊牧生活をしていたイスラエルの民がカナンの農耕地帯に移住した時から、このような豊穣神礼拝、バアル礼拝は様々な形において、イスラエルの民に関わってきました。バアル祭儀は、常にイスラエルの民の心を引き付け、そして深くその生活に入り込んでいったのです。私たちはそのようなイスラエルとバアルとの関わりを、旧約聖書の中の多くの部分に見いだすことができます。

 それはホセアが活動した時代においても同じでした。ホセアが活動を開始した頃、ヤロブアム二世の時代、それはまだ繁栄と平和の時代でありました。そして、そこには、経済的な繁栄の中で、さらなる豊かさを求め欲望の充足を求めて、豊穣の神であるバアルを慕い求めるイスラエルの民の姿がありました。そこには国を挙げて主なる神から離れ、バアルを求めるイスラエルの姿、より正確にはバアル化したヤハウェ礼拝において豊穣の神を求める民の姿がありました。そのイスラエルの姿は、まさに欲望に動かされて愛人を求め、不貞に走った愚かな妻の姿と同じであることを、主はホセアに示されたのです。

 主なる神とイスラエルの民との関係は、本来ホセア書に見るとおり、結婚における真実な愛の関係にたとえられるものなのです。それは妻と夫との関係なのです。申命記には「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4‐5)という言葉があります。このように、主に愛されている者として主を愛して生きる。主の恵みに応えて、主への信頼と従順に生きる。それが主を礼拝する者の本来の姿であるはずでした。

 しかし、往々にして、人は主御自身に関心を向けるのではなく、自分の願望の実現、欲望の充足にしか関心を向けていないものです。しかし、もしそうならば、主を礼拝していると言いながら、実際には求めているのは豊穣の神バアルに他ならないのです。神が何を与えてくれるか、ということにしか関心がないならば、それはバアル礼拝でありバアル宗教なのです。それは夫との関係を捨てて、「愛人たちについて行こう。パンと水、羊毛と麻、オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ」と言っている愚かな女の姿と同じなのです。

 このような妻に対して、夫は行動を起こします。彼は何をしようとしているのでしょうか。先にも見ましたように、この箇所は妻に対する夫の激しい怒りの言葉から始まりました。夫は、「彼女はもはやわたしの妻ではなく、わたしは彼女の夫ではない」と叫んでいたのです。

 しかし、ここを読み進んで行きますと、奇妙なことに、その言葉の通りには展開していないことに気づきます。もはや妻でも夫でもないならば、当然の帰結は「離縁」でしかないでしょう。あるいは、モーセの律法によるならば、不貞は死罪に当たりますから、石で打って殺してしまうこともできるのでしょう。しかし、この夫はそのように事を進めないのです。

 8節をご覧ください。夫が願っていることは、妻との関係を断ち切ることでも滅ぼすことでもありませんでした。そうではなくて、妻が帰って来ることだったのです。私たちはここに至って、あの怒りの叫びは愛するゆえの叫びでもあったことを知ることになるのです。妻でも夫でもないという激しい怒りの言葉は、真に妻と夫の関係であることを求めているゆえの叫びであったのです。主は、ホセアを通して激しく叫びます。「彼女はもはやわたしの妻ではなく、わたしは彼女の夫ではない!」しかし、これと同じほど激しく、主は背いている御自分の民を求めておられるのです。主は人が立ち帰ることを求めておられるのです。どんなことをしてでも、取り戻そうとされるのです。そのためには、茨で道をふさぎ、石垣で遮り、道を見いだせないようにさえするのです。

 それが具体的にどのようなことを指すかは、10節以降に記されています。聖書は、物質的な豊かさそのものを悪であるとは言いません。それは主が与えたものだ、と言うのです。しかし、豊かさを追い求めることが主の愛を見失わせ、主との真実な関係を失わせるならば、主は自ら与えていたものを取り戻すこともされるのです。ここで語られているのは、具体的にはヤロブアムの時代に人々が享受していた繁栄を主が自ら取り去るということを意味していたのです。

 そしてさらに13節以下で、主はイスラエルの礼拝祭儀をやめさせると言われます。ヤロブアムの時代に、神殿における祭儀がどれほど盛大に行われていたかは、預言者アモスが伝えています。しかし、それがどれほど盛大に行われていようが、それが人間の欲望の投影でしかなく、実質的にはバアル礼拝でしかないならば、主はそれをすべてやめさせる、と言われるのです。そして、主は言われるのです。「バアルを祝って過ごした日々についてわたしは彼女を罰する」(15節)と。

 主は御自分の民を罰せざるを得ません。主を忘れ去っている民を愛するゆえに、罰せざるを得ないのです。確かに、この箇所に聞くのは大変厳しい言葉であるに違いありません。しかし、私たちは、このような厳しい預言の言葉の中にこそ、主に背く者たちを見捨てることなく、なおも関わり続けようとされる主の真実を見るのです。    

2024年12月8日日曜日

「天から差し込んだ光」

2024年12月8日 主日礼拝説教

聖書:マタイによる福音書 13:53-58 


つまずいた人々
 イエス様が故郷のナザレに帰ってきました。かつて大工の子として生活していた場所、マリアの子として、ヤコブやその他の兄弟として知られていた場所に帰ってきたのです。もとの生活に戻るためではありません。宣教のためです。イエス様はカファルナウムでしていたのと同じように、ナザレにおいても会堂で教え始められました。

 人々の反応は「驚き」でした。彼らは驚いてこう言ったのです。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」(54節)。

 彼らが注目したのはイエス様の語られる「知恵」でした。またイエス様の持っておられる「奇跡を行う力」でした。奇跡については今日の聖書箇所の最後に「あまり奇跡をなさらなかった」と書かれてはいますが、皆無ではなかったでしょうから、実際に目撃した人もいたのでしょう。あるいは自分で直接目撃していなかったとしても、既にイエス様のなさったことについては広く知れ渡っていましたから、彼らが既に伝え聞いていたことは少なからずあったに違いありません。

 そのように人々はイエス様の「知恵」と「奇跡を行う力」に驚きました。それだけを聞くならば、その驚きはおおむね肯定的なものであると想像できるかもしれません。しかし、聖書はそう伝えてはいないのです。彼らの反応は極めて否定的なものでした。今日の箇所にはこう書かれています。「このように、人々はイエスにつまずいた」。知恵に驚こうが、その力に驚こうが、結局はイエスにつまずいた。イエスを受け入れることはなかったのです。

 なぜイエス様の語られる「知恵」に驚きながらも、それを受け入れることができなかったのでしょうか。それは既に彼らの慣れ親しんできた宗教的な「知恵」があったからです。過去から受け継いできた、それぞれが宗教的コミュニティから受け取ってきた知恵があったからです。その彼らの受け継いできた「知恵」からすれば、イエスの「知恵」はあまりにも異質だったのです。

 そして、彼らはイエス様の「奇跡を行う力」に驚いた。しかし、それを受け入れることができなかった。なぜでしょう。それは「奇跡」とは馴染みのない、「奇跡」とは無縁な彼らの宗教的な生活があったからです。神が権威を現され、力ある業をなさることを求めることもない、期待することもない、宗教的なしきたりを守るだけの生活がそこにあったからです。

 そうです、彼らは宗教的ではあったのです。それはナザレという小さな村の共同体での話です。そこでは誰もが生まれて八日目に割礼を受け、幼い時から律法を学び、先祖からの言い伝えを大切にし、それぞれが宗教的な戒律を守って信心深い生活をしている、そんな信心深い共同体を形づくっていたのです。

 そこにイエス様が帰って来られたのです。入って来られたのです。そして、イエス様という存在はあまりにも異質だったのです。今日お読みしたところには「故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると…」と書かれていますでしょう。しかし、本当は原文では「《彼らの会堂》で教えておられると」と書かれているのです。そうです、それは「彼らの会堂」だったのです。そこには彼らの会堂を中心とした彼らのコミュニティがあり、彼らの宗教的な生活があったのです。その生活にとって、イエス・キリストという存在はあまりにも異質だったのです。

 いや、彼らの宗教的な生活があり、それが妨げになっただけではありません。そこには彼らが既に持っていたイエスについての理解がありました。「人間イエス」としての理解がありました。彼らは言います。「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」(55‐56節)。

 「大工の息子」という言葉自体に軽蔑的なニュアンスはありません。この「大工」というのは家を建てる仕事ではなく、農具や家具を作る仕事であったと考えられています。決して卑しめられるような仕事ではありませんでした。ごく普通のユダヤ人の家庭なら、大工の息子は当然のように小さい時から父親の仕事を手伝うものです。ですからマルコによる福音書では「大工の息子ではないか」ではなくて「この人は、大工ではないか」と書かれているのです。

 そのようにイエス様自身、大工として知られていたようです。あるいは、父親のヨセフは早くに他界していたと考える人も少なくありません。ならばイエス様は父亡き後、母と弟妹たちのために、一生懸命働いて家計を支えてきたのでしょう。イエス様のことです、コミュニティの中でも、ヨセフの家の良い息子として、評判は決して悪くなかったものと思われます。

 ですから、「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」という言葉は、決して軽蔑的なニュアンスで語られているわけではないのです。ただ、帰ってきたイエス様は、その言葉にせよ、その行いにせよ、明らかに彼らの既に良く知っているヨセフの息子ではなかったのです。明らかに異質だったのです。

 もし、イエス様が彼らの知っている「人間イエス」の延長上にあったなら、つまずかなかったに違いありません。評判の良い人、親孝行な息子、人格的にすぐれた人、立派な模範的な人格者、という枠内に収まっていれば、彼らはつまずかなかったのです。むしろ、それこそ尊敬し、受け入れ、その生き方を模範にしたことでしょう。しかし、そうではなかった。イエス様は異質だったのです。

天の国が近づいたのだから
 しかし、それはある意味では起こるべくして起こったことでした。なぜなら、イエス様がナザレに帰ってきたのは、ナザレでの元の生活に戻るためではなく、宣教のためだったからです。そして、「宣教」とは、ある意味では「異質なもの」を持って来ることに他ならないからです。

 イエス様の宣教の始まりは、4章に次のように書かれていました。「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ』そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」(4:12‐17)。

 「天の国は近づいた」と主は言われました。「天」というのは「神」の言い換えでもあります。ユダヤ人はそのように言い換えるのです。ですから、「天の国」は「神の国」と意味としては同じです。「国」が意味するのは領土ではなくて、王としての支配です。王としての神の支配が近づいたということです。天の方から近づいてこられるのです。

 神が近づいてこられ、天が近づいてこられるならば、そこでは決定的に新しいことが始まるのです。今まで慣れ親しんできた生活、過去からの延長上にある未来ではなく、全く新しいことが始まるのです。人間が人間に対して行う水平の次元のことではなく、神が人間に対して行う垂直の次元のことが起こるからです。それはマタイがイザヤ書を引用して語っているように、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」という出来事が起こるのです。そうです。天から光が差し込んでくるのです。

 そのことが既に始まっているのだということをイエス様は語っておられたのです。それはイエス様の到来と共に始まっているのです。それを示していたのがイエス・キリストの言葉であり、そこに語られている知恵でした。また、それを示していたのがイエス・キリストの奇跡であり、奇跡を行う力だったのです。

 そのように、イエス・キリストの宣教はこの世の知恵からすれば異質なのです。単なる「より優れた知恵」ではないのです。イエス・キリストの行為も、単なる「より良い行い」ではないのです。キリストの行為が示していたのは、神のあからさまな介入なのであって、それは垂直の次元のことだったのです。

 そのように「天の国は近づいた」のです。イエス様が来られて、神様のなさる決定的に新しいことが既に始まっているのです。暗闇の中に光は差し込んできているのです。

 ならば、そこで今度はこちら側が問われるのです。神が近づいてこられ、天が近づいてこられているのに、同じ生き方を続けるのですか。慣れ親しんできたそれまでの生き方をずっと続けていくのですか。人間のことだけ考えて、人間がしてきたこと、人間から受けたこと、人間にできること、人間がしなくてはならないこと、それだけを考え続けて、水平の次元のことだけを考えながら、これからも生きていくのですか。そうやって水平の次元のことだけを考えていても、宗教的には生きられるのです。あのナザレの人々のようにです。しかし、そんなセミの抜け殻のような信仰生活に何の意味があるのでしょう。

 イエス様は「天の国は近づいた」という宣言と共に、こう言われたのです。「悔い改めよ」。それは単に悪い行いを正せという意味ではありません。方向を変えることです。生きる方向を変えることなのです。この世界にとっては異質なイエス様を受け入れ、「天の国は近づいた」という宣言を受け止め、そして神がなさっておられることに思いを向け、私たち自身の生き方の方向を変えることなのです。

 そこで求められているのは信仰です。不信仰に留まるならば、これまで慣れ親しんだ生活が続いていくだけなのであって、天の国が近づいていることも、それにより全く新しいことが神によって始まっているという現実も、決して見ることはないでしょう。いみじくも今日の箇所にこう書かれているとおりです。「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」(58節)。

 さて、私たちは今年も御子の御降誕の祝いの日を迎えようとしています。天からの光がこの闇の世界に差し込んだことを祝おうとしているのです。そこに向かうアドベントの時がこうして毎年与えられています。天からの光を見るために、神の御業を見るために、生活の方向を変え、新たに歩み出す時が、こうして恵みとして与えられているのです。


2024年12月4日水曜日

祈祷会用:ホセア書 1:1~2:3

ホセア書 1:1‐2:3

 今日からだいたい20回くらいに分けてホセア書を読むことにします。その表題には「ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアに臨んだ主の言葉」(1:1)と書かれています。そこに列挙されているユダの王は、イザヤ書の冒頭に挙げられているのと同じです。彼は、預言者イザヤとほぼ同時期に活動した預言者です。イザヤが南のユダ王国において活動したのに対して、ホセアの活動の舞台となったのは北のイスラエル王国でした。

 イスラエル王国には、ホセアに先だって、アモスという預言者が現れました。彼が神の言葉を語ったのは、主に1節に挙げられていますヤロブアム(ヤロブアム二世)の治世です。それは平和と繁栄の時代でした。アモスは、そのような時代に現れ、民の罪を告発し、神の裁きを激しく語り、イスラエルの崩壊を告げたのです。そして、事実、ヤロブアムの死後、イスラエルは坂道を転げ落ちるように、崩壊への一途をたどったのでした。その時代の様子は、列王記下15章から17章に記されています。最終的に、イスラエル王国の都サマリアはアッシリアによって陥落せられ、王国は滅亡に至ります。預言者ホセアが活動したのは、まさに王国が滅亡に至る数十年、その激動の時代でありました。

 しかし、アモスと同じようにイスラエルの罪を告発し、神の裁きを語りながらも、ホセアの預言の論調はアモスのそれとはまったく異なっています。その違いをもたらした決定的な要因は、彼の個人的な家庭における経験でした。この預言書における最初の三つの章において、私たちは、彼の悲しみに満ちた結婚と家庭の状況を垣間見ることになります。そこに見ますように、ホセアにとって、神の言葉を聞き、そして語るということは、単に超自然的な神秘体験の類ではなかったのです。そうではなく、彼は現実の痛みと悲しみの中で、神の御声を聞いたのです。そのような彼でなければ聞き得ない言葉を聞き、そして語ったのでした。

 それでは内容に入っていきましょう。2節以下をご覧下さい。ここで「淫行の女をめとれ」という言葉だけを読みますと、既にみだらな生活をしている女性を、神があえてホセアと結婚させたように見えます。しかし、もしゴメルが淫らな女であることが初めから前提とされている結婚ならば、後に2章4節以下の怒りに満ちた告発の言葉は理解できません。これは明らかに信頼を裏切られた者の言葉です。それゆえに、ゴメルが実際に淫行の女となったのは、ホセアの結婚の後であったと考えるほうが良いようです。

 ならば、2節の主の言葉は、ホセアにとって、当初、全く理解不能であったに違いありません。なぜ、自分の妻となる女性が淫行の女と呼ばれているのか、なぜ「淫行の子らを受け入れよ」などと語られているのか、ずっと後になるまで分からなかったことでしょう。ホセアは、ごく当たり前の結婚として、ディブライムの娘ゴメルをめとったのです。

 やがて、そのようなホセアとゴメルとの間に子供が産まれます。最初の子供は、「イズレエル」と名付けられました。それは「神が種を蒔かれる」という意味でありまして、聖書には地名としても人名としても用いられています。その名前自体は何ら特別な名前ではありません。

 しかし、奇妙なのは、続く二人の子供の名前です。ホセアは次に産まれた女の子に「ロ・ルハマ」と名付けます。それは「憐れまれぬ者」という意味です。そして、次に産まれた男の子は「ロ・アンミ」と名付けられました。これは「わが民でない者」という意味です。なぜそのような名前を子供たちに付けたのか。主がそのように命じられたからだ、と聖書は説明します。

 もちろん、結論から言えばその通りなのです。しかし、人間はよほどのことがない限り、そのような無茶苦茶な名前を自分の子供に付けたりしないものです。そこで私たちはやはり考えざるを得ないのです。このロ・ルハマとロ・アンミがホセアの実の子たちではないのではないか。ホセアが受け入れるべき「淫行の子ら」とは彼らのことではないか、と。

 事実、3節の「彼女は身ごもり、男の子を産んだ」という部分の原文には「彼(ホセア)に」という言葉が入っているのですが、第二子と第三子については「彼に」という言葉はありません。そして、2章6節に至って、私たちは次のような言葉に出会います。「わたしはその子らを憐れまない。淫行による子らだから。その母は淫行にふけり、彼らを身ごもった者は恥ずべきことを行った」(2:6‐7)。

 このように読んできますと、神がホセアに語られ、神の命じる通りに子供たちに名前を付けたということは、それほど単純なことではないことが分かります。何も問題のないところで、あたかも占い師の言葉に聞くように、「あなたの子供にはこう名付けなさい」「はい、分かりました」と言って名前が付けられたのではないのです。ホセアは、妻の不貞と家庭の崩壊という現実の苦悩の中で、その嘆きと怒りの中で、神の言葉を聞いたのです。そのようにして、名前が付けられたのです。

 もう一度、子供たちに付けられた名前を見てみましょう。最初の子供はイズレエルと名付けられました。先にも申しましたように、イズレエルは地名としても聖書に出てきます。その美しい山間には、かつてイスラエルの王アハブと女王イゼベルの避暑地がありました。しかし、そこはまた血塗られた革命の舞台でもあったのです。当時、将軍であったイエフは、その地においてアハブの子ヨラムとその母イゼベルを殺し、さらにサマリアにおいてアハブの一族を全滅させたのです。こうして、アハブ王朝は滅び、イエフ王朝が誕生したのでした(列王記下9、10章)。

 しかし、ホセアは、こうして生まれたイエフの王家もまた、神の裁きのもとにあることを知るのです。彼はイエフ王家の滅亡を思いつつ、自分の子供にイズレエルという名前を付けたのでした。しかし、やがてホセアは、人間の罪の問題を、単に国家と社会、聖所を中心とした宗教的な体制において見るだけでなく、最も身近な家庭の問題を通して知ることになるのです。彼は妻であるゴメルに裏切られるのです。

 彼はどれほど怒り、嘆き、苦しんだことでしょう。その苦悩の生活の中に、さらに二人の子供が生まれます。先にも申しましたように、この子供たちが2節に語られている「淫行の子ら」であることは十分に考えられます。いずれにせよ、子供が生まれた時に、彼は主の言葉を聞くのです。「その子をロ・ルハマと名付けよ。わたしは、もはやイスラエルの家を憐れまず、彼らを決して赦さないからだ」(1・6)。「その子をロ・アンミと名付けよ。あなたたちはわたしの民ではなく、わたしはあなたたちの神ではないからだ」(1・8)。

 人から裏切られた時には、自分を裏切ったその人、そして裏切られた自分のことしか考えられないものです。しかし、彼は怒りと嘆きによって閉塞した生活の中において、その外から響いてくる神の言葉を聞いたのです。それは単に彼を慰める言葉でも、励ます言葉でもありませんでした。彼はそこで神の怒りの言葉を聞いたのです。彼は、自分自身の怒りにではなくて、神の怒りへと心を向けさせられるのです。

 自分が妻の淫行によって嘆いているのと同じように、主を離れて淫行にふけっているこの民のゆえに、主自らが怒り、そして嘆き悲しんでおられることをホセアは知らされたのでした。そこには「わたしは、もはやイスラエルの家を憐れまず、彼らを決して赦さない!」と叫ばざるを得ない神がおられるのです。そこには「あなたたちはわたしの民ではなく、わたしはあなたたちの神ではないからだ!」と叫ばざるを得ない神がおられるのです。その主の怒りと悲しみを知ったがゆえに、ホセアは主が示されるままにその子たちに驚くべき名を付けたのでした。ロ・ルハマ――すなわち「憐れまれぬ者」、ロ・アンミ――すなわち「わが民でない者」と。

 ところが、2章に入りますと、そこには一転して次のように語られていることに驚かされます。「イスラエルの人々は、その数を増し、海の砂のようになり、量ることも、数えることもできなくなる。彼らは、『あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)』と言われるかわりに、『生ける神の子ら』と言われるようになる。ユダの人々とイスラエルの人々はひとつに集められ、一人の頭を立てて、その地から上って来る。イズレエルの日は栄光に満たされる。あなたたちは兄弟に向かって『アンミ(わが民)』と言え。あなたたちは姉妹に向かって『ルハマ(憐れまれる者)』と言え」(2・1‐3)。

 ここにはイスラエルの回復が預言されています。明らかに、既に民の滅亡が現実となった、後の日の預言の言葉がここに入れられているのです。1章とのつながりは、明らかに良くありません。また、2章4節以下にもつながりません。しかし、この預言の言葉がここにあることは、私たちに大切なことを示しております。それは、1章の最後に見た神の叫びは決して最後の言葉ではない、ということです。裁きと断罪の宣言は、最後の言葉ではないのです。神は最終的に、そのようなロ・ルハマ(憐れまれぬ者)、ロ・アンミ(わが民でない者)と呼ばざるを得ない者たちを、あえてルハマ(憐れまれる者)、アンミ(わが民)と呼ぼうとされるのです。「わが民でない者」は、「生ける神の子ら」と呼ばれるようになるのです。神自ら、受け入れ難きを受け入れ、赦し難きを赦そうとされるのであります。

 赦し難き者を赦すとするならば、自らが痛み、苦しみ、犠牲を払わなくてはなりません。ホセアの結婚における現実は、そのことをよく示しています。私たちは、このホセア書を読み進むにつれて、本来ならば到底神の民などとは呼ばれ得ない者が、その赦しに基づいて神の民と呼ばれ、憐れまれる者と呼ばれることの重みを、さらに深く知る者とされることになるのです。

2024年12月1日日曜日

「夜が更けたなら、夜明けは近づいている」

 2024年12月1日 主日礼拝説教

聖書:ローマの信徒への手紙 13:8-14 

 教会の暦においては今日から新しい年に入りました。今日からクリスマスに至るまでの期間はアドベント(待降節)と呼ばれます。「アドベント」という呼び名は、「到来」を意味するラテン語に由来します。アドベントは、かつてイスラエルの民がキリストの到来を待ち望んだことを思い起こす時であると同時に、世の終わりにおけるキリストの到来(再臨)を思う時でもあります。

 その意味では、この期間は教会暦の冒頭に置かれていますが、内容的には「始まり」よりも「終わり」に深く関わっている期間です。終わりを思いながら、新たに歩み出す。そのような時であると言えます。その期間を私たちはどう過ごすのか。今日与えられている御言葉に聴きたいと思います。

愛の負債を抱える者として
 本日はローマの信徒への手紙が読まれました。そこで私たちがまず耳にしたのは、「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」(8節)というたいへん不思議な言葉でした。

 「愛する」ということが「借り」すなわち「負債」として語られています。だれに対しても借りがあってはならない。ただし、お互いに他者を「愛する」という「借り」は別です。そのようにパウロは言っているのです。「愛する」という負債だけは残っていてもよい。どうしてでしょう。――「愛する」という借りは、とうてい返しきれないからです。

 この不思議な表現を理解するのに助けになるのは、ヨハネの言葉です。彼は手紙の中でこう書いています。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(1ヨハネ4:11 445頁)。

 この「愛し合うべきです」と訳されている言葉は、「互いに愛することについて借りがある」というのが直訳です。借りがあるのはどうしてか。「神がこのようにわたしたちを愛されたから」だと言うのです。つまり、私たちはまず、《神様に対して》莫大な愛の借りがあるということです。

 神がまず、私たちを愛してくださいました。罪人である私たちを愛してくださいました。神に敵対していた私たちを愛してくださいました。裁かれて滅ぼされて然るべき私たちを愛してくださいました。その直前には「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:11)と書かれています。「神がこのようにわたしたちを愛された」とはそういうことです。

 私たちの信仰生活は、いわば莫大な愛の借りがある人が、とても返しきれるものではないのだけれど、せめて愛の僅かばかりを神様にお返しして生きていく、そんな恩返しの人生に他なりません。しかし、そのように神様に愛をお返ししようとする時に、神様は私たちに言われるのです。「もしあなたが返そうと思うなら、わたしにではなく、あなたの兄弟に、あなたの隣人に返しなさい」と。

 だから、「愛する」という借りは残るのです。莫大な愛の負債を抱えている者が、それを少しずつでも隣人に返すという形で神に返していくのです。莫大な愛の負債を抱えているお互いが、お互いに愛を少しずつでも返していくのです。それこそが神の求めていることなのです。

 神の求めていること、それを「律法」と言います。そして、「人を愛する者は、律法を全うしているのです」とパウロは言うのです。律法を守るから神が愛してくださるのではありません。先に神が愛してくださったという事実があるのです。莫大な愛の負債が先にあるのです。莫大な愛の負債を抱えている者が、それを少しずつでも隣人に返していく。そのことが律法を全うすることになるのです。

 自分が莫大な愛の負債者であることを自覚するならば、律法を行ったとしても、他者のために何をしたとしても、それは誇りにはならないでしょう。私たちが莫大な愛の負債者であることを自覚するならば、まわりの人々について「愛がない」と言って裁くこともないでしょう。「わたしにこうしてくれない、ああしてくれない」と言って責めることもないでしょう。むしろそこにおいて、愛する機会、愛の負債を返す機会が与えられていることを喜ぶことができるはずです。

目覚めるべき時が来ています
 そして、互いに愛し合うという借りがある私たちを、今日の聖書箇所はさらに「終わりに向かう」という文脈の中に置くのです。このように続きます。「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」(11節)。

 先ほど、アドベントという期間は「終わりを思いながら、新たに歩み出す」という時であると申しました。しかし、そこで重要なのはどのような「終わり」を思うかということです。パウロは何を思っているのか。そこに「救い」を見ているのです。「救い」に向かっている者として語っているのです。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」と。

 そのことを彼はさらに「夜は更け、日は近づいた」と表現しています。「夜は更けた」という言葉には、時の流れが表現されています。「更けた」と訳されているのは、前に進むことを表現する言葉なのです。実際、私たちは時の流れがそのようなものであることを知っています。決して後戻りすることはありません。

 後戻りしないという事実は、一般的には喜びとは結び着かないことも多いだろうと思います。12月に入りました。一年はあっという間に過ぎていきました。そうして一つ歳をとります。肉体は弱り、精神も衰えていきます。時の流れに伴って、人は多くのものを失いながら生きていきます。そして最後はこの世の命を失います。行き着くところは墓以外のどこでもない。それはこの世界についても同じです。この世界の有様を真面目に見るならば、その行き着くところはやはり破局と崩壊しか見えてこない。それはちょうど夜が更けていくといよいよ暗さが増していく様子と重なります。

 しかし、聖書はただ「夜は更けた」とだけ語りはしません。こう続くのです。「夜は更け、日は近づいた」と。逆戻りすることのない時の流れに、もう一つの事実を見ているのです。朝が刻一刻と近づいている、という事実です。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」と。

 どうしてそう語り得たのか。莫大な愛の負債者として生きているからです。既に圧倒的な神の愛によって愛されていることを知っているからです。だから、たとえ今苦しみの中にあったとしても、「夜は更けた」としか言いようのない真っ暗闇の中にいたとしても、それが「終わり」ではないことが分かるのです。これはまだ途中なのだということが分かるのです。夜明けは必ず来るのです。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」。その「救い」とは、「神に愛されている」という事実が完全に現される時です。そのような夜明けが必ず来るのです。

 だからこそ、また、「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と語られているのです。「救い」という「終わり」に向かっていることを忘れて眠りこけてしまっていることがあるからです。そのような私たちであるからこそ、「終わりを思いながら、新たに歩み出す」というアドベントの期間も必要なのです。そこで私たちは今年も「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と呼びかけられているのです。

 それは、消極的に表現するならば、「闇の行い」を脱ぎ捨てることである、とパウロは言います。汚い服を脱ぎ捨てるように、闇の行いを脱ぎ捨てることです。時は確実に流れていきます。私たちに与えられているこの時は、莫大な愛の負債者として少しでも愛を互いに返していくための大切な時間です。やがて朝の光の中で愛してくださった御方にまみえる時に備えるための大切な時間です。その時間を、闇の行いによって無駄にしてはならないのです。

 その描写は具体的です。パウロは三組の言葉をもってこれを表しています。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」です。理性と引き替えにして享楽に身を委ねることに、この貴重な時を費やしてはならないのです。欲望を満たすことを追い求めながらその欲望に振り回され、他者を傷つけ自らを傷つけて生きることに、この貴重な時を費やしてはならないのです。果てしない争いとねたみのために、この大切な時を費やしてはならないのです。

 私たちは朝を待つ者として生きるようにと招かれているのです。朝の日差しに、罪の悪臭漂うぼろぼろの惨めな服は相応しくありません。パウロは「そんなものは脱ぎ捨ててしまいなさい」と言うのです。

 それは積極的に表現するならば、「光の武具を身に着けましょう」となります。さらには「主イエス・キリストを身にまといなさい」と勧められているのです。「人を愛する者は、律法を全うしているのです」と先ほどお読みしましたが、その究極はやはりこの世を生きられたイエス・キリストの御姿なのでしょう。そのキリストを身にまとうということです。

 「身にまとう」という表現は、当時の言葉遣いにおいては、「一体となる」ということを意味します。そのような意味において「主イエス・キリストを身にまとう」ということが何を意味するのかは、愛の負債者である私たちが置かれているそれぞれの状況によって異なることでしょう。

 「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と呼びかけられているこのアドベントの期間、「主イエス・キリストを身にまとう」とは具体的に何を意味するのか深く思い巡らし、救いである終わりを思いつつ、新たに歩み出したいものです。

2024年11月27日水曜日

祈祷会用:レビ記 25:1~17

 レビ記 25:1‐17

 25章には安息の年とヨベルの年に関する規定が記されています。その前半部分を群読しました。今日、私たちは、これらを命じられた主の意図がどこにあり、それが私たちにとって何を意味するのかを、御一緒に考えたいと思います。

 「安息の年」という言葉は、私たちに耳慣れない言葉であるかもしれませんが、これが私たちの良く聞く「安息日」と関連があることは明らかです。そこでまず「安息日」についていかなることが語られていたかを思い起こしてみることにしましょう。「安息日」については、十戒の中に次のように定められていました。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(出20:8‐10)。

 「安息日」という言葉は、「中止する」という言葉に由来します。考えてみれば、まことに不思議な命令です。「怠けずに働き続けろ」と命じるのではなくて、「働くことを中止せよ。休め。働いてはならない」と主は命じられるのです。聖書の神は、自ら休み、私たちに休むことを命じられる神なのです。

 神が休みを命じられるのは、ただ私たち自身の休息のためだけではありません。「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」(同10節後半)と書かれています。これは何を意味するのでしょう。申命記のほうでは、その意図がより明確に記されています。「そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」(申命記5:14)。つまり、この命令は、周りの人々をも解放し、休ませるためでもあるのです。休まない人がいると、周りの人々は休めないのです。特に奴隷など、弱い立場の人は休めません。だから、神はあえて他者を解放して「休ませる」ためにもあなたが「休みなさい」と命じられるのです。

 このように見てきますと、本日の箇所に記されています「安息の年」に関する律法は、「安息日」の律法の意図を、さらに拡張したものであることが分かります。解放して休ませるべきであるのは、奴隷や家畜までに留まりません。土地もまた休ませなくてはならないと言うのです。「七年目には全き安息を土地に与えねばならない」(4節)と主は言われるのです。そのためには、七年に一度、人間が休まなければなりません。種を蒔くことを休み、耕すことを休み、ぶどう畑の手入れを休むのです。

 では、その間に自然に生えたものはどうするのか。「休閑中の畑に生じた穀物を収穫したり、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めてはならない」(5節)と書かれています。これは食べてはいけない、という意味ではありません。土地の持ち主が「この土地は私のものだから、そこに生じたものも私のものだ!」と主張して自分たちだけのためにそれらを集めてはならないということです。

 食べることはかまわないのです。ただし皆で仲良く分け合って食べなくてはならない。「安息の年に畑に生じたものはあなたたちの食物となる。あなたをはじめ、あなたの男女の奴隷、雇い人やあなたのもとに宿っている滞在者、更にはあなたの家畜や野生の動物のために、地の産物はすべて食物となる」(6‐7節)とはそういうことです。このように、「これは私のものだ!」という人間の所有者意識から解放されてこそ、初めて土地は完全に安息できるのです。これが安息の年に関する律法です。

 そして、このことをさらに徹底したのが「ヨベルの年」に関する律法です。安息の年が七回繰り返され49年を経たその翌年、50年目には、さらに徹底した解放と安息の年である「ヨベルの年」がおとずれるのです。ヨベルとは雄羊の角のことです。「その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る」(9‐10節)。

 このヨベルの年には、通常の安息の年のように、土地に安息が与えられるだけではありません。土地はすべてもとの所有者に戻されるのです。貧しさのゆえに先祖から受け継いだ土地を手放さざるを得なかった人は、その土地を離れなくてはなりません。土地を失った家族は生きるための糧を得なくてはなりませんから、必ずしも先祖伝来の土地で生活していたように、家族一緒に生活できるとは限りません。しかし、ヨベルの年には、その土地の返却を受け、離れて生活していた人も家族のもとに帰ることができるのです。

 これらのことに伴い、すべての負債が免除され、貧しさのゆえに身売りした人も解放されます。このようにして、土地だけでなく、人間もまた解放されるのです。それはただ債務を負っていた者だけが解放されるという意味ではありません。そこには債権者の解放もあります。そこには、あらゆる所有欲からの解放もまた起こるのです。

 このようにして、社会の中に生じた貧富の格差が五十年に一度是正されることになります。はたして、実際にこのようなことがイスラエルにおいて行われたのでしょうか。そのことに関する学者の見解は否定的です。しかし、少なくとも、神が求めておられることを理解することは重要です。神が求めておられるのは、土地が完全に原状に戻され、完全な安息を与えられることです。そして、その土地の上で、人間もまた解放され完全な安息を得ることです。そのようにして新たに皆が共に生きられるようになることなのです。それがヨベルの年に関する律法です。

 さて、私たちはここで、安息の年とヨベルの年に関する律法の根底にある信仰そのものに目を向けることにいたしましょう。安息の年やヨベルの年の律法について考えます時、当然のことながら次のような問いが生じてくるに違いありません。「七年目に種も蒔いてはならない、収穫もしてはならないとすれば、どうして食べていけるだろうか」(20節)。そうです、この世の声は言うのです。「神の言葉に従うなんてことを言っていて、現実生活が成り立つものか。そんなことを言って、食べていけるものか」と。

 しかし、神の言葉は私たちにこう語ります。「わたしがあなたがたを養い生かすのだ」と。次のように書かれております。「わたしは六年目にあなたたちのために祝福を与え、その年に三年分の収穫を与える。あなたたちは八年目になお古い収穫の中から種を蒔き、食べつなぎ、九年目に新しい収穫を得るまでそれに頼ることができる」(21‐22節)。七年目には種を蒔きません。八年目に種を蒔いたとしても、すぐに収穫できるわけではありません。しかし、それに先立つ六年目に、二年分余計に収穫を与えると主は言われるのです。人に命じる神は、備えてくださる神でもあるのです。信頼し従うことを求める神は、信頼する者を支えてくださる神でもあるのです。

 そして、さらに収穫を生じさせる土地そのものが主のものなのだ、と語られております。「土地はわたしのものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者にすぎない」(23節)。レビ記の言葉が語られている場面は、まだ約束の地に入る前です。イスラエルの民は荒れ野にいるのです。ならば、与えられると約束されている土地が、本質的には彼ら自身に属してはいない、ということは良く分かるはずです。それは主のものなのであり、彼らはその土地の上に寄留させていただき、土地を利用させていただく者に過ぎないのです。

 大事なことは、実際に約束の地に入っても、そのことを忘れないということです。そのためにも、この安息の年とヨベルの年の律法は大きな意味を持っているのです。なぜなら、安息の年にしても、ヨベルの年にしても、そこで命じられていることは、何ら特別なことではなく、結局は《主のものを主のものとして生きる》ということに尽きるからです。

 さて、このように約束の地の上に寄留し滞在する者とされたイスラエルの民は、この世界の中に生かされている人類全体の縮図であると言えるでしょう。この世界は神の創造された世界です。神の創造ということを考えない人でありましても、少なくともこの世界が本質的に人間に属するものではないことは認めざるを得ないでしょう。これは人間が造った世界ではないからです。私たちは、そこに滞在することを許されている寄留者に過ぎません。神は恵み深く、私たちをこの世界に住まわせ、そして私たちを養い、生かしてくださっています。この世界を我がもののようにして生きているところに、私たち人間の罪があります。本当の解放と安息は、この世界を主のものとして生きるところにこそあるのです。

 といころでイエス様は、ナザレの会堂において預言者イザヤの書を朗読されました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。主の恵みの年とは「ヨベルの年」のことです。そして、イエス様はこの朗読の後に、こう宣言されたのです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)。このように、まことにイエス様は、私たちを救い、本当の解放と安息を与えるためにおいでくださったのです。


2024年11月24日日曜日

「世の終わりまで、いつも主は共に」

 2024年11月24日 主日礼拝説教【宣教150周年感謝礼拝】

聖書:マタイによる福音書 28:16-20

行きなさい
 今日は、この教会の宣教開始から150周年の節目において、皆で主に感謝の礼拝をささげるために集まっております。その150年の半分近くをこの教会で過ごし、主の御業を見てこられた小山田小八郎兄に証しをしていただきました。もちろん、証しで語られたのは、主の御業のごくごく一部に過ぎません。イエス様がこれまでに、この教会を通して成してこられた救いの御業は、私たちには計り知ることができません。私たちはただ、主を礼拝し、感謝をささげるばかりです。

 そのような礼拝において、私たちは主の御言葉に耳を傾けたいと思います。今日の福音書朗読において、主は私たちに「行きなさい」と語っておられます。今日読まれましたのは、マタイによる福音書28章、大宣教命令と呼ばれる聖書箇所です。宣教開始から150年。もちろん、ここが終着点ではありません。主は私たちに「行きなさい」と語られ、新たな教会の歴史の中へと送り出されるのです。

 「行きなさい」。その言葉を最初に聞いたのは、ペトロを初めとする最初の弟子たちでした。「行きなさい」。それは何のためでしょう。主は言われました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と。

 「すべての民」というこの「民」は複数で書かれています。他の箇所ではほとんどの場合「異邦人」と訳されています。「すべての民」というのは、「ユダヤ人」という枠を越えた、全世界のあらゆる国々の人々という意味合いです。キリストの最初の弟子たちは皆ユダヤ人でした。しかし、イエス様は初めから、ユダヤ人社会の中に彼らを留め置くつもりはありませんでした。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言って、全世界に向けて送り出されたのです。

 そのように全世界に向けて送り出されているのが教会です。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」。代々の教会はこの言葉を文字通りに受けとめてきました。だから遠いカナダからこの日本にまで宣教師が送られてきたのです。だからこそ、この教会も存在するのです。だからこそ、ここに私たちがいて、同じ御言葉を聞いているのです。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」。

洗礼をさずけよ

 その具体的な内容が二つ書かれています。「洗礼を授けること」と「教えること」です。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と主は言われるのです。

 イエス様は「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と言われました。洗礼とは何でしょう。「洗礼」について、パウロが次のように語っています。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:4)。

 「洗礼によってキリストと共に葬られ」と書かれていました。「葬られる」――誰によって葬られるのでしょうか。神様によってです。神様が私たちを葬ってくださる。言い換えるならば、神様が、私たちを死んだ者として見なしてくださるのです。そのように、一度葬られるのは何のためか。「新しい命に生きるため」、と聖書は教えているのです。一度死ぬのは新しく生きるためです。その意味において洗礼は古い自分の葬りであると同時に、新しい自分の誕生でもあるのです。

 この世において新しい命が生まれたなら、その子がこの世に生きていくことができるように生活の仕方を教えられることでしょう。同じように、洗礼によって新しく生まれた人もまた、新しい生活の仕方を学んでいくのです。キリストの弟子として生きる新しい生活の仕方がしっかりと伝えられていかなくてはなりません。主はそのことを弟子たちに託されたのです。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と。そのようにして、イエス様が最初の弟子たちに教えたことが今日の私たちにまで伝えられているのです。私たちがしっかりと受け取り、それを手渡していくためです。

世の終わりまでいつも共にいる
 さて、そのように主は「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言って教会を全世界に送り出されました。「行く」ことも、「洗礼を授ける」ことも「教える」ことも、すべて人間が行うことです。しかし、イエス様は「頑張ってあなたがたの力でこれを成し遂げなさい」とは言われないのです。この命令は「だから」という言葉から始まるのです。この命令には前提があるのです。

 その前には何が言われていますか。18節において主はこう言っておられます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。これが大前提です。そして、最後はこう締めくくられているのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。天と地の一切の権能を授かっている御方が、世の終わりまで、いつも共にいてくださる。このことなくして、主の命令はナンセンスです。このことなくして、今日に至るまで教会が存続することはあり得なかったのです。

 あの最初の弟子たちのことを考えてみてください。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」(16節)と書かれていました。なぜガリラヤに行ったのか。イエス様が「行きなさい」と言われたからです。イエス様が復活された時、婦人たちに現れてこう言われたのでした。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。

 そのようにイエス様は「ガリラヤへ行け」と言われた。その時にイエス様はあの弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼ばれたのです。イエス様が捕らえられた時、見捨てて逃げ去ったあの弟子たちのことです。その中には、あからさまに三度もイエスを知らないと言ったペトロもいるのです。そのような弟子たちへの言葉です。「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。

 本当ならば、イエス様に会わせる顔もない、そんな弟子たちだったはずです。しかし、イエス様はそんな彼らを「わたしの兄弟たち」と呼んでくださり、そんな彼らをガリラヤで待っていてくださると言ったのです。「そこでわたしに会うことになる」と。

 だから彼らはガリラヤへ行ったのです。イエス様が指示しておられた山に登ったのです。イエス様が招いてくださったからです。こんな者をイエス様が招いていてくださったから。こんな者でもなおイエス様が許して、兄弟として迎えてくださるから。だからその山に登ったのです。

 イエス様が指示しておられた山に着くと、そこには確かにイエス様がおられて彼らを待っていてくださいました。「そして、イエスに会い、ひれ伏した」(17節)と書かれています。それは「礼拝した」という意味の言葉です。その山はイエス様に招かれた者の礼拝の場となりました。皆さん、弟子たちが招かれたあの山に当たるのが、今、私たちが身を置いている礼拝堂なのです。招かれた者の礼拝の場所です。

 その礼拝の場において主は言われたのです。恵みによって集められた彼らに言われたのです。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」。ただ御前にひれ伏すことしかできない弟子たちに、主はこのとてつもない命令を与えたのです。本来ならば、どう考えてもできっこない、担い得るはずがないのです。どだい彼らには無理な話だったのです。しかし、そこで主は言われたのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。そして、言われたのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と。

心を合わせて熱心に祈っていた

 それから2000年近くの月日が経ちました。彼らがいたところから約8500キロ離れたところにいる私たちが、同じように礼拝の場に集まり、キリストを礼拝しているという事実がここにあります。これはただ人の力によって実現したことではありません。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。主はその言葉どおりになさったということです。

 実際、あの弟子たちは、ただ人間の力や人間の持っているものによってこれを実現しようとはしなかったのです。今日の第二朗読は、教会の宣教の歴史がまさに始まろうとしている、その直前の彼らの姿を私たちに伝えているのですが、そこにはこう書かれていました。「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒1:13‐14)。

 「天と地の一切の権能を授かっている」その御方の権能が地上に現されることを彼らは祈り求めたのです。心を合わせて熱心に祈っていた。そこに天から聖霊が降ったのでした。教会の宣教の歴史はそのように開始したのです。

 そして、今も継続していることを私たち確かに目にしています。それはイエス様が「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われた、その事実を目にしているということです。主は確かに私たちと共にいてくださいます。その主は「世の終わりまで」と言われました。私たちは終着点ではありません。教会の歴史は世の終わりまで続きます。150周年の節目は、新たな出発でもあります。主と共に、ここから新たに歩み始めましょう。

2024年11月20日水曜日

祈祷会用:レビ記 19:1~18

 レビ記 19:1‐18

 前回は16章を読みました。そこには贖罪日(ヨーム・キップール)に関する規定が書かれていました。それに続く17章から26章のまとまりは「神聖法集」と呼ばれます。この部分については19章と25章を取り上げることにします。今日は19章です。

 今日は特にその前半部分をお読みしたわけですが、3節以下は二つに区分することができます。まず3節から8節までは、大まかに言いまして、十戒の前半部分に対応しています。申命記の言葉を借りるならば、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という言葉でまとめることができるでしょう。

 ここで、興味深いのは、最初に「父と母を敬いなさい」という言葉が置かれていることです。主を愛し、主を畏れる生活が形作られることにおいて、親の存在は極めて大きな意味を持っているということであろうと思います。そして、さらに言いますならば、主を愛して生活するということは、単に心情的なことではなくて、具体的に神を礼拝して生きることを意味するのです。ですから、ここでも礼拝に関することが語られております。「わたしの安息日を守りなさい」、「偶像を仰いではならない」、「和解の献げ物を主にささげるときは、それが受け入れられるようにささげなさい」というようにです。

 この「和解の献げ物」については、より多くの言葉が費やされております。これがレビ記の特徴でもあります。既に見てきましたように、レビ記にはまず犠牲の献げ方が延々と述べられています。このような記述が後々にまで伝えられたことには大きな意味があります。このような犠牲の献げ方を書き記し、それを伝えた人々には明確な一つの意識があったことが明らかだからです。それは《犠牲をささげるときは、それが受け入れられるようにささげなくてはならない》という意識です。言い換えるならば、《犠牲にはふさわしい献げ方があるのであり、神を礼拝するには、ふさわしい礼拝の仕方があるのだ》ということです。

 神を愛し、神を礼拝しようとするならば、私たちがしたいように礼拝するのではなくて、神の望まれる礼拝をささげることが大事なのです。それは私たちがどのように神を礼拝するかということについて、神は決して無関心ではないからです。レビ記の記述は、そのことをはっきりと示しているのです。

 そして、9節から18節は主に十戒の後半部分に対応しています。この部分は、18節の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉でまとめることができます。ご存じのように、主イエスは先の申命記の言葉とこの言葉をもって律法の全体をまとめられました。

 レビ記には先に申しましたように、祭儀の規定が詳細に記されております。しかしもう一方で、ここに見ますように日常生活のあらゆる領域に渡る神の命令が記されているのです。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない」(9‐10節)ということまで書かれております。

 このように、神はただ礼拝の場にいる私たちの姿にのみ関心を持っておられる御方ではありません。私たちの日々の生活を御覧になっておられるのです。特に、私たちが他者とどのように関わって生きているかということに大きな関心を抱いて御覧になっておられるのです。神にとって重要なのはただ日曜日の私たちの姿ではありません。月曜日から土曜日も同じように重要なのです。

 それはある意味で当然のことです。なぜなら、神の求めは、2節に記されているように、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(2節)ということだからです。

 「聖なる」という言葉は、本来、神にのみ用いることのできる言葉です。神のみが聖なる御方です。「聖なる」は本来、人間の特質を描写する言葉ではありません。どんなに清く正しい人であっても、そのことによって「聖なる者」になるわけではありません。物や人間が「聖なるもの」となるのは、《聖なる神のものとなることによって》なのです。祭儀のための聖具は、神のために聖別されて、神のものとなって、聖具となります。神のものでなければ、どんなに立派な器であっても、聖具とはなりません。人間も同じです。聖なる神のものとなって「聖なる者」となるのです。

 ですから、ここで語られている「あなたたちは聖なる者となりなさい」という言葉は、取りも直さず、「神の民として生きなさい。完全に神のものとして生きなさい」ということに他なりません。そして、神のものとして生きるということは、ただ神を礼拝するということだけでなく、生活のあらゆる領域に関わることなのです。そのことを、レビ記は示しているのです。

 そこで私たちは、「あなたたちは聖なる者となりなさい」という言葉の意味をより深く理解するため、さらに幾つかのことを考えたいと思います。

 第一に、私たちはこの言葉が神の恵みに基づくことについて考えねばなりません。「あなたたちは聖なる者となりなさい」。この言葉をイスラエルの民がモーセを通して聞いているのはシナイの荒れ野においてです。彼らはエジプトにおいてこれを聞いているわけではありません。神は彼らを奴隷状態から解放し、エジプトから導き出されたのです。エジプトにおける苦役からの解放は人々の願いでありました。神は彼らの叫び声を聞き、御力をもって彼らを救い出されたのです。

 しかし、苦しみからの解放は、彼らに備えられている大きな恵みの計画の、いわば出発点に過ぎません。出エジプト記19章を御覧ください。エジプトの国を出て三月目に、主はモーセにこう語られました。「ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である」(出19:3‐6)。

 神はイスラエルを解放するだけでなく、彼らと契約を結ばれました。神が彼らと結ぼうとしておられた契約は、彼らを神の民とするための契約でありました。この契約によって、彼らは神の宝の民とされたのです。祭司の王国となり聖なる国民とされたのです。確かに神が苦難から解放してくださることは人間にとって喜ばしいことであるかもしれません。しかし、神が人を神の民としてくださること、神が人と共に生きようとしてくださること、そして人に対して大きな目的と計画を持っていてくださることは、もっと喜ばしいことであるに違いありません。そのように、「聖なる者となりなさい」という言葉は、神の側から一方的に示してくださった神の驚くべき恵みに基づく言葉なのです。

 第二に、私たちはこの言葉が、神の限りない忍耐と寛容を前提としていることについて考えねばなりません。「聖なる者となりなさい」というこの言葉は、天使たちに語られたのではなく、意のままに動かせる人形に対して語られたのでもなく、現実にこの地上に生きている罪深い人間に対して語られた言葉です。苦難から解放されても、喉元過ぎれば熱さを忘れ、「エジプトのほうが良かった。エジプトに帰ろう」などと言い出す、そのような人間に対して語られた言葉なのです。実際、レビ記に続く民数記においては、神が驚くべき忍耐をもって、まことに罪深い人間の現実に関わり続けられる姿を見ることになるのです。

 そして、第三に、「聖なる者となりなさい」というこの言葉には、神の忍耐と寛容だけでなく、目指すところを実現し給う神の熱情が秘められていることを知らねばなりません。私たちはイエス・キリストを通して、そのことを知らされているのです。

 神はイスラエルの民とシナイにおいて契約を結ばれました。しかし、イスラエルはその契約を破ったのです。後に預言者エレミヤが語っているとおりです(エレミヤ31:32)。しかし、人間がどんなに不真実であっても、そのことをもって神を挫折させることはできません。神はこの地上に聖なる民を持つことを諦めることはありませんでした。契約の目的そのものを放棄することはありませんでした。神は、古い契約が破られたゆえに、罪の赦しに基づいて「新しい契約を結ぶ」と言われたのです。そのために御自分の御子をさえ地上に送られ、罪の赦しを与えるために十字架にかけられたのです。

 この新しい契約のゆえに、私たちもまた神の民としてここに存在しています。この神の驚くべき熱情のゆえに、私たちは聖餐において、あの主イエスの御言葉――「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」――というあの御言葉を聞くことができるのです。私たちが聖餐にあずかることは、そのような新しい契約の杯にあずかることに他なりません。それゆえに、ペトロはかつてイスラエルに対して語られたあの主の言葉を、教会に対して再び語り直しているのです。「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあるからです」(1ペトロ1:14‐16)。

 今日は特に「神聖法集」を読む上で大事であると思えることをお伝えしました。一つ一つ命じられていることについては、それぞれお読みください。そこから聞こえてくる神の思いに耳を傾けましょう。ここには、今日の私たちには直接当てはまらないと思えることや無縁に思えることも多く語られているかもしれません。しかし、私たちはそれらの記述を含めたこれらの書の全体から、神の民として生きるとはどういうことであるのか、神のものとして、聖なる者として生きるとはいかなることであるのかを、聞き取っていく必要があるのです。共に神の民としての生活が真に形作られることを祈り求めてまいりましょう。

2024年11月17日日曜日

「それでも神は手を伸ばされる」

 2024年11月17日 主日礼拝説教

聖書:使徒言行録 3:11-19

体の癒し以上のこと
 エルサレムの神殿に「ソロモンの回廊」と呼ばれる場所がありました。そこにいたペトロとヨハネのもとに大勢の民衆が集まってきた。そこでペトロは彼らにイエス・キリストを宣べ伝えた。今日読まれたのは、そのような話です。

 なぜ民衆が集まってきたのか。ひとりの人が奇跡的に癒されたからです。事の顛末は3章前半に書かれています。生まれながら足の不自由だった男が癒されたのです。しかし、彼に起こったのは、単なる肉体の癒し以上のことでした。彼は、「躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」(3:8)と書かれているのです。

 癒されて嬉しかった。それはそうでしょう。しかし、体を癒されて喜んだ人が、必ずしも神を賛美する人になるとは限りません。神を礼拝するために神殿へと向かうとは限りません。彼は神を賛美し、神を礼拝するために神殿に入っていったのです。それは肉体の癒し以上のことです。人生の方向が変わったのです。彼は神に向いて、神と共に生きる人となったのです。

 単に体が癒された喜びであるならば、次に困難に出会った時には、かき消されてしまうかもしれません。実際、今まで物乞いであった彼には、今後も生活の困難はついてまわるのでしょう。癒しは即、幸いな生活を約束するものではなかったはずです。

 しかし、人生の方向が変わることは、神に向かって生き始めることは、一時的なことではありません。それは永続の意味を持つのです。さらに言うならば、永遠の救いに関わる意味を持つことになるのです。ですから、この話はただ一人の男の足が癒されたという話で終わらないのです。その先にはペトロが語るべきことがあるのです。人々が聞かなくてはならない言葉があるのです。ここにいる私たちもまた聞かなくてはならない言葉があるのです。それが今日の聖書箇所において語られていることなのです。

信仰によって
 外見的には、その癒しはペトロによって起こりました。しかし、ペトロは集まって来た人々にこう言うのです。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか」(12節)。そのように、ペトロは自分に注目している人々の目を、キリストへと向けるのです。ただ人間に目を向け、人間に求めている限り、本当の救いは来ないからです。

 重要なのは、キリストとの関係なのです。ですから、ペトロは、この癒された男についても次のように語ります。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」(16節)。

 さて、ここで一方において「イエスの名が強くした」と言い、他方において「イエスによる信仰が…いやしたのです」と言っていることに注意してください。「イエスの名が強くした」というのは、「イエスが強くした。イエスがいやした」という意味です。事をなさるのはあくまでもイエス様御自身なのです。しかし、それだけでは完結しないのです。そこにはまた「イエスによる信仰が」いやしたのだ、という事実がある。イエス様がなさることを、人間は「信仰」によって受け取らなくてはならない、ということです。

 ペトロとこの男の間に起こったことは、ある意味で象徴的な出来事でした。ペトロは、彼に、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)と命じたのです。そして、命じただけでなくペトロはこの男に向かって手を伸ばしたのです。「右手を取って彼を立ち上がらせた」(7節)と書かれているのです。

 もちろん、この男の手は動くわけですからペトロの手を払いのけることもできるわけです。払いのけても不思議ではありませんでした。彼は施しを期待していたのです。しかし、ペトロは「わたしには金や銀はない」と言うのです。しかも、生まれつき足が不自由な彼に、「立ち上がり、歩きなさい」と言うのです。それは彼が期待していたこととは異なるのです。しかし、この男はペトロの手を払いのけなかったのです。彼は神の恵みを信じて受け取ったのです。

 その意味でペトロが彼の手を取って起こした姿は象徴的な姿であったと言えます。そして、彼に起こったことはまた全ての人にも起こり得ることなのです。先にも言いましたように、彼に起こったのは、体の癒し以上のことなのです。人生の方向転換なのです。神と共に生きる人、神との交わりに生きる人となることへの方向転換です。だからこそ、ペトロは13節以下の説教を語り始めたのです。

手を払いのけた人々
 語り始めの言葉はこうでした。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」(13‐15節)。

 ここで繰り返されているのは「拒んだ」という言葉です。そして、最終的には「殺した」という言葉が出て来る。これは究極的な拒絶です。もはや自分に決して関わることがないように抹殺してしまうわけですから。そのようにあなたがたは拒んだのだ、とペトロは言います。誰を。「命の導き手である方」を。

 「命への導き手」、それは他の翻訳では「いのちの君」「命の創始者」などと訳されている豊かな内容を持つ言葉です。真の命をもたらしてくださる御方ということです。真の命とは何でしょう。わたしは生きているのか。あなたは生きているのか。確かに生きているから、礼拝堂に集まっているのでしょう。しかし、聖書にはこんな言葉も出て来るのです。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」(黙示録3:1)。何かを行っているのだから「生きている」のでしょう。しかし、その行いを知っている神から見るならば、「あなたは死んでいる」と言うのです。 そのように、真に命があるということは、単に肉体的に生きているということではないのです。

 では何なのか。命とは交わりなのです。命の源であり、命そのものである神との交わりなのです。イエス様は、神の愛を示し、神との豊かな交わりの中にある真の命、永遠の命を見せてくださった方でした。そして、神との愛の交わりにある命へと導くために、イエス様は来られたのです。いわばイエス・キリストは、神の伸ばされた手なのです。私たち人間を御自身との交わりへと招くために伸ばされた手なのです。生きているとは名ばかりで実は死んでいる者を起き上がらせるための手なのです。真の命によって起き上がらせるために伸ばされた神の手なのです。

 しかし、あなたがたはその手を払いのけてしまったのだ、とペトロは言っているのです。いやもう二度とこちらに向かって手を伸ばせないように、十字架の上に伸ばして釘を打ち付けてしまったのです。「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいました」。それは究極の拒絶です。

それでも神は手を伸ばされる
 ならばもう終わりでしょう。もうその先はないでしょう。それが当然の帰結だと思うのです。しかし、神はそうなさらなかったのです。人間が終わりにしても、神は終わりになさらないのです。ペトロはこう続けるのです。「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」(15節)。

 神はキリストを十字架にかけた人々を見捨てられませんでした。それはすなわち、神はこの世界を見捨てなかったということです。罪深く頑なで傲慢で、神の恵みの御手さえ払いのけてしまうような私たち人間を、神は見捨てなかったということです。神は、拒まれ殺されたイエス・キリストを復活させ、永遠に命の導き手なる方として、永遠の主として立ててくださったのです。神はそのようにして、なおも私たちを命へと招き、私たちに御手を伸ばしていてくださるのです。

 それゆえにペトロは彼らにこう語りかけるのです。「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(17‐19節)。

 なおも御手を伸ばしてくださったということは、そこに神の赦しがあることを意味します。それは「メシアの苦しみを、このようにして実現なさった」という言葉からもわかります。それは罪の贖いのための苦しみです。それを神が実現なさったのです。そのようにして、神が罪を消し去ってくださる。これは「拭い去る」という意味の言葉でもあります。そのように、神の恵みを拒絶し続けてきた私たちの罪を完全にぬぐいとってくださるのです。

 そのために「悔い改めて立ち帰りなさい。」とペトロは言います。「悔い改めて立ち帰る」とはどういうことでしょう。神の御手を払いのけて、命の導き手を十字架に釘付けしてしまった人間にとって、悔い改めて立ち帰るとはどういうことでしょう。それは命の導き手なる御方を信じて受け入れるということです。神が再び伸ばしてくださったその手を、今度はしっかりと握って、「立ち上がり、歩きなさい」という言葉を聞いた者として、立ち上がらせていただき、歩き出させていただくことです。

 エミール・ブルンナーという神学者は、「信仰とはイエス・キリストにおいて差し出された神の手を握ることだ」と表現しました。まさにその信仰こそ、神が求めておられることなのです。私たちは信仰によって、罪を赦され、神との交わりに入れられるのです。そこにおいて、あの生まれながら足の不自由であった男に起こったことが、私たちにも起こるのです。私たちは神をほめたたえ、神を礼拝し、真に命あるものとして生きるのです。

2024年11月13日水曜日

祈祷会用:レビ記 16:1~34

レビ記16:1-34

 今日お読みした16章に記されているのは贖罪日に関する規定です。贖罪日(ヨーム・キップール)は第7の月の10日です。太陽暦ですとだいたい9月から10月のどこかになります。

 今日は群読しませんでしたが、29節以下にはこう書かれています。「以下は、あなたたちの守るべき不変の定めである。第七の月の十日にはあなたたちは苦行をする。何の仕事もしてはならない。土地に生まれた者も、あなたたちのもとに寄留している者も同様である。なぜなら、この日にあなたたちを清めるために贖いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責が主の御前に清められるからである。これは、あなたたちにとって最も厳かな安息日である。あなたたちは苦行をする。これは不変の定めである」(29~31節)。

 「苦行をする」とは、具体的には断食することです。断食が定められているこの一日は、そこに書かれていますように、一年に一度、「すべての罪責が主の御前に清められる」特別な日です。31節にあるように、それはユダヤ人にとって「最も厳かな安息日」として守られてきました。これは直訳しますと「安息日の中の安息日」という言葉です。この特別な安息日は現代でもユダヤ人によって守られていまして、それこそ普段安息日を守らない人であっても、贖罪日にはシナゴーグに行く人が多いそうです。

 これまで見ましたように、この日に限らず、祭司によって罪の贖いの儀式は行われるのです。しかし、この日についてはあえて「あなたたちのすべての罪責が主の御前に清められるからである」と語られているのは、大祭司によって行われるその日の罪の贖いの儀式」があるからこそ、その他の日に祭司によって行われる罪の贖いの儀式は意味を持つということなのでしょう。だからこそ、この日には人間の罪、自分の罪にしっかりと目を向ける日でもあるのです。それは悲しみ嘆く日であって、喜び祝う日ではありません。だからその日には「苦行」すなわち断食が定められているのです。

 この日に行われることにおいて、最も大きな意味を持つのは、大祭司が垂れ幕の奥に入るということです。それは聖所と至聖所を分ける垂れ幕です。その垂れ幕が示しているのは、罪ある人間は神に近づくことはできないという厳粛な事実です。本来、人は神に近づくならば死ぬのです。だから「決められた時」すなわち、贖罪日以外には入ることはできないのです。「決められた時以外に、垂れ幕の奥の至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づいて、死を招かないように」(2節)と書かれているとおりです。

 その主の言葉が語られる前提として、1節には次のように書かれています。「アロンの二人の息子が主の御前に近づいて死を招いた事件の直後、主はモーセに仰せになった」(1節)。この事件については10章に書かれていました。「贖罪日」に関する規定が、この事件を前提として語られていることには大きな意味がありますので、その出来事を振り返っておきましょう。

 それはアロンによる献げ物の初執行当日の出来事でした。その日に、アロンの長男と次男は「規定に反した炭火」をささげたのです。すると主の御前から火が出て二人を焼き殺したのでした。

 彼らの献げた「規定に反した炭火」というのは、直訳すると「異なる火」という言葉です。火は、本来、神が天から与えた火が燃やし続けられているところから取らなくてはならないのです。しかし、彼らは別なところから、人間が点火した火から取ってきたのです。それが意味するのは、いわば人間から生じた礼拝です。「人間がこうしたい」ということが優先される礼拝と言ってよいかもしれません。しかし、そのように人間がしたいように神に近づくならば、神は御自身が聖なることを示されるのです。つまり神が本当に神であることを示される。それは人間にとって裁きとなるのです。

 しかし、16章においては、彼らの死について「アロンの二人の息子が主の御前に近づいて死を招いた事件」と語られており、アロンに対して「決められた時以外に、垂れ幕の奥の至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づいて、死を招かないように」と告げられているのです。それはすなわち、彼らが安易に至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づこうとしたことを示していると考えられるのです。そのようにして彼らは自らに死を招いたのです。

 繰り返しますが、16章はこの事件を前提として語られているのです。何を意味するのでしょう。神に近づくのには、人間がではなく、神が定めた近づき方があるということです。そして、神はその仕方を定めてくださったのです。アロンの二人の息子が死んで、それで終わりではないのです。主はモーセに「あなたの兄アロンに告げなさい」と言って、神が定めた近づき方を教えてくださったのです。それはとてつもなく大きな恵みなのです。

 「まず、贖罪の献げ物として若い雄牛一頭、焼き尽くす献げ物として雄羊一匹を用意する」(3節)というところから始まります。しかし、雄牛と雄羊をどうするかが語られる前に、まず大祭司の衣装について語られているのです。

 大祭司には本来大祭司が着ることになっている衣装があることは既に8章に見たとおりです。「そしてアロンに長い服を着せ、飾り帯を付け、上着を着せ、更にその上にエフォドを掛け、その付け帯で締めた。次に胸当てを付けさせ、それにウリムとトンミムを入れた。 また頭にターバンを巻き、その正面に聖別の印の黄金の花を付けた」(8:7~9)。

 大祭司が着るのは、かなり仰々しい衣装です。しかし、アロンはその衣装を一旦全部脱がなくてはならないのです。そして、亜麻布の白い衣に着替えます。それはどうしてか。着替えた後に、「アロンは、自分の贖罪の献げ物のために雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行う」(6節)と語られているからです。これをまずしなくてはならないのです。彼は、大祭司である前に、一人の罪ある人間として神の前に立たねばならないのです。

 実際に何をするかは、11節以下に次のように書かれています。「アロンは自分の贖罪の献げ物のための雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行うため、自分の贖罪の献げ物の雄牛を屠る。次に、主の御前にある祭壇から炭火を取って香炉に満たし、細かい香草の香を両手にいっぱい携えて垂れ幕の奥に入り、主の御前で香を火にくべ、香の煙を雲のごとく漂わせ、掟の箱の上の贖いの座を覆わせる。死を招かぬためである。次いで、雄牛の血を取って、指で贖いの座の東の面に振りまき、更に血の一部を指で、贖いの座の前方に七度振りまく」(11~14節)。

 彼は定められた仕方で、垂れ幕の奥に入ります。その時、定められた炭火を取って香炉に満たし、香を携えていきます。しかし、それ以上に重要なのは、その後に書かれているように「贖いの座」の東の面と前方に振りまくための「血」を携えているということです。それは「自分の贖罪の献げ物」の血に他なりません。そのように、まず自分のために贖いがなされる必要がある。これが神の定められた近づき方なのです。

 その上で民のために罪の贖いが行われます。具体的に何がなされるかは15節以下に書かれています。民の贖罪のためには二匹の雄山羊が用意されます。7節以下に説明がなされていますが、一匹は犠牲として屠るための雄山羊です。そして、もう一匹は荒れ野に放たれるための雄山羊です。これは前もってくじ引きで決めておきます。伝承によれば、「主のため」「アザゼルのため」と書かれた木札が用いられたと言われます。

 民の罪の贖いのために垂れ幕の奥に入る場合もまた、アロンは贖罪の献げ物の血を携えていきます。血を携えることなくして、神に近づくことはできません。しかし、民の罪の贖いにおいてやはり目を引くのは、「アザゼルのため」の雄山羊でしょう。この「アザゼル」が何を意味するのかは、よく分からないのですが、重要なのはその雄山羊がどのように用いられるかです。一匹は殺されて献げられるのですが、もう一匹については、21節以下に次のように書かれているのです。「アロンはこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移し、人に引かせて荒れ野の奥へ追いやる。雄山羊は彼らのすべての罪責を背負って無人の地に行く。雄山羊は荒れ野に追いやられる」(21-22節)。

 「荒れ野に追いやられる」という言葉が意味しているのは、この山羊はもう二度と戻ってこないということです。それは実に象徴的なことであり、またこれは罪の贖いがなされるイスラエルの民に実際的に必要な儀式だったとも言えます。

 例えば、詩編103編に次のように書かれています。「天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。父がその子を憐れむように/主は主を畏れる人を憐れんでくださる」(詩編103:11-13)。

 あるいはミカ書7章には、次のように語られています。「あなたのような神がほかにあろうか/咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に/いつまでも怒りを保たれることはない/神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ/我らの咎を抑え/すべての罪を海の深みに投げ込まれる。」(ミカ7:18-19)

 このような聖書の言葉を読むと、どうしてアザゼルのための山羊が必要であったかが分かります。神の赦しにおいては「わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる」のであり、「海の深みに投げ込まれる」のですが、それを信じることが難しい時もあるのでしょう。しかし、贖罪日において、彼らは、自分たちの罪が遠く離れて行って見えなくなるのを山羊の姿として実際に目にするのです。あの山羊はもう戻ってこないのです。罪の赦しとはそういうものだ、ということを彼らは目で見ることができたのです。

 さて、ここで私たちは以前祈祷会でヘブライ人への手紙を読んだ時に、その手紙の9章に次のように書かれていたことを思い起こす必要があります。「しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます」(9:7)。これは今日お読みしたレビ記16章を背景として語られているのです。

 そして、さらに次のように書かれていました。「けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(9:11-12)。

 今日お読みした旧約の規定は、いわばキリストにおいて実現することを指し示す予型なのです。それは毎年繰り返されなくてはなりませんでした。今もユダヤ人がしているようにです。しかし、キリストはただ一度、決定的なことを私たちのために行ってくださったのです。次のように書かれています。「また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました」(9:25-26)。


2024年11月10日日曜日

「わたしたちが祝福を受けるため」

2024年11月10日【子ども祝福礼拝】

聖書:ガラテヤの信徒への手紙 3:6-14

キリストは呪いとなって
 今日は子どもたちと共に「子ども祝福礼拝」をお捧げしています。先ほど、私たちは子どもたち一人 一人のために祝福を祈りました。今日の聖書箇所にも「祝福」という言葉が繰り返し出てまいります。しかし、先ほど朗読された時に気づかれたと思いま すが、そこにはまた「呪い」という言葉も繰り返し出てくるのです。「祝福」の対極にある「呪い」について語ることなくして、「祝福」については語り得ないということなのです。

 「呪い」ということについては、次のように書かれていました。13節を御覧下さい。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」(13節)。

 「キリストは、わたしたちのために呪いとなってくださった」とはどういうことでしょう。「呪いとなった」とは「呪われた者となっと」という意味です。呪われた者となる とは、言い換えるならば神から完全に見捨てられるということです。それがキリストの苦しみだったのです。磔にされて単に肉体的に苦しんだということではないのです。

 それゆえ に、キリストは十字架の上で叫ばれたのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)。そのようにキリストは実際に捨てられたのです。愛する天の父から捨てられたのです。そこにこそキリストの最大の苦しみがあったのです。

 人は神に見捨てられていないこと、神に愛されていることさえ信じることができれば、苦難に耐えていくことができるのです。かつてブレーズ・パスカルは病気の苦しみの中にこう祈りました。「主よ、わたしをどんな時にも、あなたの御心にかなう者にしてください。今のように病気をしている時には、自分の苦しみの中であなたをあがめさせて下さい。」そのように祈れるのは、見捨てられていないと知っているからなのです。 この手紙を書いているパウロもまた、そのような人のひとりです。多くの苦難を耐え忍んできましたが、そこには常に神の愛と希望の光が差し込んでいるのです。

 しかし、逆に言えば、この神から見捨てられてしまうということは、もはや一筋の光も差し込むことのない、完全な絶望の暗闇に置かれるということを意味するのです。キリストが「呪いとなってくださった」とは、そういうことなのです。

律法の呪いから贖い出してくださった
 それは何のためですか。私たちを「呪いから贖い出す」ためだと聖書は教えているのです。「呪いから贖い出す」とは「呪いから救い出す」という意味です。私たちが呪いを受けないためだ、というのです。これは何を意味しますか。キリストが呪いを受けてくださらなかったら、私たちが呪いを受けていたということです。本来、呪われた者となるべきであったのは、神から見捨てられるはずだったのは、私たちだったということなのです。

 どう思われますか。もしかしたら多くの人は、このような箇所を読んで、「いや、私は神から呪われたり、見捨てられたりするほど悪い人間ではない」と思うかもしれません。真面目に生きてきた人ならなおさらそう思うことでしょう。

 しかし、本当にそうなのでしょうか。この世の人間関係を考えてみてください。私たちの考えること、語っていること、行なっていることの大部分は人の目から隠されています。もし、仮にすべてがさらけ出されたらどうでしょう。心の中で考えていることまで、そのすべてがつまびらかにされたならどうでしょう。人はそれでも、なおあなたを愛するでしょうか。それとも、あいそをつかされ、軽蔑され、見捨てられることになるでしょうか。

 もっとも人と人との間であるならば、それは「お互い様でしょう」ということにもなるかもしれません。しかし、神と人との間においては、そうはなりません。聖なる神の前にすべてが明らかにされたならどうでしょう。いや、既に神に御前においては全てが明らかなのです。そこで問題となるのは、人と比較して良いか悪いかということではないのです。だからあえて「律法の呪い」と言われているのです。人からどう見られるかと言うことではないのです。神がどう見られるかということが問題となるのです。ならば、そのような神の前において、「私は呪いではなく祝福を受けるにふさわしい人間です」と胸を張って言える人間ははたしてここにいるのでしょうか。正直に自分自身を振り返るなら、確かに私たちは、本来、神から呪われて、永遠に見捨てられても仕方のない者なのだろうと思うのです。

 しかし、そのような私たちを、神は見捨てなかったのです。私たちのすべてをご存じの上で、私たちがどんな人間かをご存じの上で、また、この世がどれだけ罪に汚れているかをご存じの上で、それでもなお愛してくださったのです。それゆえに、私たちの罪をすべてキリストの上に置かれ、キリストを裁かれ、私たちの代わりに御子キリストを捨てられたのです。キリストが、わたしたちのために呪いとなってくださった、呪われた者となってくださった。それは私たちが呪いを受けないためなのです。見捨てられないためです。

 「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」。キリストが呪いとなってくださったので、呪いを受けてくださったので、私たちが受けるべき呪いはもう残っていません。あとは私たちが祝福を受け取るだけなのです。そうです。信じて、感謝して、受け取るだけなのです。そして、神に感謝しながら、神と共に生きたらよいのです。その時、もはや何ものも私たちを神の愛から引き離すことはできないのです。もはや死でさえも神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。

ただ信仰によって
 そのように、ただ信じて、感謝して、受け取ったらよい。しかし、もう一方において、それが時として人間にとって難しいことも事実です。というのも、私たちはギブ・アンド・テイクの世界に慣れ過ぎているからです。ですから、単純に受け取ることができない。祝福を受け、救われるためには、まず人間の側から何かを差し出さなくてはならないと考えるのです。

 この手紙を受け取ったガラテヤの人たちも、そのように考えていたようです。彼らはユダヤ人ではないのに、ユダヤ人のように割礼を受け、律法を守らなくてはならないと考えた。律法にかなった善い行いをまず差し出すことによって、救いを得ようと考えたのです。 いや、彼らが考え出したわけではありません。そのように教える人たちがいたのです。彼らは惑わされたのです。

 確かに、ガラテヤの人たちにとっても、またいつの世の人にとっても、「ただ信じて、感謝して受けるだけ」というよりも、「救われるためには、律法を守らなくてはならない」という教えの方が分かりやすいのかもしれません。先にも申しましたように、何かを得るためには、代価を支払わねばならないと考える世界に慣れ過ぎていますから。

 しかし、そのようなこの世界においても、例えば、既に代価が払われているものを受け取るのに、改めて代価を払って受け取ろうとしたら、それは愚かなことでしょう。いや、それは愚かであるだけでなく、悪しきことでもあります。それは代価を払ってくださった方の善意を踏みにじることでもあるからです。実際には、キリストにおいて支払われたのは、とてもなく大きな代価なのです。それはキリストの命ですから。それほどの代価を払ってくださった方の善意を踏みにじることになるのです。

 さらにいえば、そこから感謝の生活は絶対に生み出されることはありません。自分の行いと引き換えに、神の祝福と救いを得るならば、そこに生まれてくるのは感謝ではありません。自分の正しい行いによって獲得したという誇りです。熱心になればなるほどますます自らを誇るようになるのでしょう。その熱心さは、世にも恐るべき傲慢な人間を造り出す。パウロは自らの経験から、そのことをよく知っているのです。

 間違ってはなりません。救いは私たちの行いと引き替えに獲得するのではないのです。祝福を受けるのは、私たちが何かを行うことによってではないのです。求められているのはただ一つ。「信仰」です。信じて、感謝して、受け取ることだけです。

 それゆえに、彼はアブラハムを引き合いに出すのです。彼こそは、まさに、ただ神の言葉を信じ、感謝して、受け取って、祝福を受け継いだ人だからです。そして、パウロは次のように断言するのです。「それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」(9節)。

 ここにいる私たちにも、同じ祝福と救いの約束は与えられています。今も神様は、私たちに対してキリストの十字架を通して語りかけてくださっているのです。キリストが私たちの受くべき呪いをすべて受けて下さった。もはや私たちは呪われた者として生きる必要はありません。もはや見捨てられた者のように絶望する必要はありません。どんなときにも神に愛されている者として、神と共に生きることができる。神は十字架を通して語っていてくださるのです。必要なことはただ一つ。信じて、感謝して、受け取り、感謝をもって神と共に生きることです。祝福され、救われた者を、もはや何ものも、死でさえも、神の愛から引き離すことはできないのです。

2024年11月6日水曜日

祈祷会用:レビ記 12:1~8

レビ記12:1‐8

 前回は食物規定が記されている11章を読みました。食べるという行為は、どこまでも人間の主体的な行為です。「わたしが食べる」のです。しかし、その食物について、神が命令を与えます。神は「これを食べて良い」と言い「これは汚れたものである」と言われる。それは人間が区別するのではありません。神が区別するのです。その区別を受け入れるということは、すなわち神の主権を受け入れるということです。イスラエルの民は、まず食べ物において、神の主権に服するということを学んだのです。

 それは11:45とも関係しています。「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」と書かれていました。「聖なる」とはもともと「区別する」という言葉から来ています。区別された者として生きること、それが「聖なる者となる」ということです。つまり、他の民から区別された「神の民」として生きること、神のものとして生きること、そのアイデンティティをしっかり持つことです。

 そこで「食物規定」は大きな意味を持つのです。食べる度に、料理をする度に、自分たちは神の民なのだということを意識せざるを得ないからです。まさに、「食べ物を区別する神が、わたしを他の民から区別して神の民としていてくださるのだ」という恵みを強烈に意識させるのが、この食物規定だったのです。

 そして、今日お読みした12章から15章にかけて、「出産」「重い皮膚病」「一般的な漏出」に関する規定が続きます。これらは人の内から生じる汚れに関する規定です。この部分については、一つ一つ細かく見て行くことはいたしません。この中で「出産」に関する規定だけを取り上げます。大事な事柄は共通していますので、重い皮膚病や一般的な漏出に関してはそれぞれ読んでいただくことにします。

 まず「出産」に関する規定の内容を概観しておくと、最初に書かれているのは男児を出産した場合(2~4節)です。その時には当然出血するわけです。また、悪露(おろ)が続きます。このような血液や体液の流出は、一般的に「汚れ」と見なされます。それは15章に書かれている一般的な漏出にも共通しています。

 この汚れには二段階あります。最初の段階は、男児を生んだ場合は七日間です。この間は何かに触れた場合、触れるものが全て汚れるので、当然、食事の準備等はできません。家事全般ができなくなります。これが2節に書かれている七日間です。これが終わると、触れることによっては汚れを移さない期間に入ります。男児の場合、8日目に割礼を施すことになりますが、母親は安心して息子の割礼にも立ち会うことができます。

 しかし、一般的に何かに触れても汚れを移さなくはなるのですが、続く33日間は家に留まることが命じられています。また、「聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない」と命じられています。言い換えるならば宗教的な行事には「汚れた者」として参加することはできないのです。

 続いて簡単に書かれているのは、女児を出産した場合(5節)です。この場合は、最初の段階が14日間続きます。女児の場合は割礼がないので、ある意味では支障ありません。続く段階も66日間で男児の場合の倍になります。なぜ倍になるのかは分かりません。神様がそうお決めになったらそうなるのです。ただ一般的には、古代社会においては、女児を産んだ場合の方が出血期間が長く、肥立ちも悪いと考えられていたようではあります。

 続いて書かれているのは、清めの期間が完了した時の祭儀です。ここでは焼き尽くす献げ物と贖罪の献げ物を献げることが規定されています。そこで、とても印象的なのは8節の規定です。産婦が貧しい場合の規定です。その場合は鳩でもよいのです。これは一般的な犠牲奉献の話にも出てきました神様の配慮です。この実際を、私たちはイエス様の誕生に関連して見ることができます。ルカ2:22の「清めの期間」とは、男児の場合の33日間のことです。その時に、マリアとヨセフは羊を買うことができなかったので、鳩を献げているわけです。

 さて、12章から15章までを通じて、このような規定についても大事なことは、11章の食物規定と同様に、第一には神の主権を認めることです。神がお決めになったから、そのように行うのです。しかし、そこにはまた神の善意に満ちた温かい配慮を見ることができます。一つは衛生的な観点においてです。水がふんだんに使えない社会において、疫病が蔓延する速度は比較になりません。そこで血液や体液の「漏出」については、特に気をつけなくてはならなかったのです。血液にせよ膿にせよ、そこにはウイルスによる伝染の危険が常に存在するからです。それゆえに、漏出全般を「汚れ」として規定して、とにかく触れないように、距離を置かせるようにしたことは、まさに神の特別な配慮だったと言えるのです。

 また、特に出産に関して言うならば、汚れたとされた産後の女性は、7日間あるいは14日間、とにかく汚れを移さないように、何かに触れないように気をつけることでしょう。しかし、これは裏を返せば、何かが産婦に触れないように気をつけさせることにもなるのです。体力的にも弱っている女性に、人であれ物であれ、何かが触れることは極力避けられることになる。それは衛生環境が整っていない社会においては、産後の女性にとって実に望ましいことなのでしょう。

 そしてまた、この規定は産後の女性に十分な休息を与えることにもなるのでしょう。汚れているならば触れることはできません。なので気兼ねなく家事から離れることができるのです。神は、誰も産婦に家事を強制できない状況を造り出したのです。そして、それは宗教的な様々な義務からも解放するものでした。40日間、あるいは80日間は、とにかく家が関わる行事に携わらなくてよいのです。

 実際に女性の立場が弱かった古代社会においては、こうでもしなければ女性を守ることはできなかったとも言えます。一般的に言いまして、特別な配慮は時として受ける側に負い目を負わせることになります。しかし、「あなたは汚れているのだから」ということならば女性は心理的にも負い目を負うことはありません。神はその意味で、本人が負い目を感じることなく配慮を受けることができるよう、特別な配慮をなさったと言えるのです。

 そして、これらの規定に関してもう一つ重要なことは、これらの規定が霊的な事柄を象徴的に表現しているということです。この場合の霊的な事柄とは「人間の罪」ということです。神の御前における罪、人間の罪とはどのようなものであるか、ということを象徴的に表しているのです。

 もちろん、このように言う時には注意が必要です。ここで語られている「汚れ」と人間の「罪」とは全く別次元の話です。それらを混同することは避けなくてはなりません。出産した時、女性は「汚れている」とされますが、それはその時、出産した女性がいかなる意味においても特に罪深いという意味ではありません。

 しかし、繰り返しますが、この「汚れ」というものは、「罪の現実」を象徴的に表していると言えるのです。子どもは「汚れ」の中において生まれてきます。つまり出血を始めた時点で既に汚れているのだから、血の汚れの中に赤ん坊は生まれてくるのです。何を象徴しているか明らかでしょう。子どもは人間の罪の中に罪人として産まれてくるということです。

 人間の自然な感性からすると、赤ん坊は「天使」に近く見えるのであって、罪がない、清い、真っ白な存在と見えるのです。しかし、聖書はそう言いません。人間は生まれながらの罪人であると言うのです。アダムとエバが、神の禁じられた木の実を食べた時、神がエバに言われたのは、「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む」(創世記3:16)と語られています。つまり人間の罪と出産とが、最初の物語で既に結びつけられているのです。出産の苦しみは、人間の根源的な罪を指し示すものとして機能することになります。そして、この「汚れ」に関する規定も、その延長上にあるのです。人間の根源的な罪について、生まれながらの罪について考えるようにと、この規定は象徴的な意味を持つものとして機能するのです。

 ですから、聖書は他のところでもやはり同じことを語っているのです。「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです」(詩編51:7)これは聖書が語る、とても深い罪認識です。これをまずしっかりと心に留めるとき、もう一つのことがはっきりと見えてきます。イエス様もまた、この出産の「汚れ」の中に生まれてきたのだ、ということです。それはまさに人間の罪の世界の中に、私たちの一人として生まれてきてくださった、ということなのです。

 最後に、清めの期間が終わった時に、焼き尽くす献げ物と贖罪の献げ物が献げられることについても、短く触れておくことにします。

 焼き尽くす献げ物は、奉納者の献身を表すことについては既に見てきたとおりです。親となって汚れの期間が終わった時に、まず為すべきことは献身なのです。親となるとはそういうことだからです。それは献身的な親になるということではなくて、神に自分を献げるということです。

 子どもは親に「与えられた」のではありません。親が作ったのではないし、親のものになったのでもありません。与えられたのは養育の責任です。言い換えるならば、その務めのために、親が自分を神に献げるのです。それが人の親になるということなのです。

 それゆえにまた、贖罪の献げ物を捧げてスタートすることになります。それは罪の赦しを求めての献げ物です。赦しなくして親にはなれないのです。親は自分が罪のないものであるかのように、子どもに向かうことは許されません。子どもに指し示すのは神の正しさであって、自分の正しさではありません。親が求めるべきことは、子どもが神を畏れることであって、親を恐れることではないのです。親は神の正しさの前で自分もまた一人の罪人に過ぎないのだという認識をもって子どもに関わらなくてはなりません。親の公式の務めは焼き尽くす献げ物と贖罪の献げ物をもって始まるのだという原則は、実際に動物犠牲を献げることはない今日においても変わらないことを忘れてはなりません。


2024年11月3日日曜日

「受け継がれてきた信仰」

イザヤ書 51:1-3            

 今日は「聖徒の日」です。天に召された方々を記念して礼拝をお捧げする日です。この日、私たちにはそれぞれ思い起こす人がいることでしょう。しかし、この日はただ私たちの身近な人たちを思い起こす日ではありません。先に召された代々の聖徒たちを思い起こす日でもあります。私たちが今ここに身を置くまでには、長い教会の歴史があるのです。信仰者たちの歴史があるのです。代々の聖徒たちは何を受け継いできたのか。神は私たちに何を受け継がせようとしているのか。そのことに思いを馳せる日でもあるのです。

アブラハムの信仰
 そのような日に与えられているのは、先ほど読まれた御言葉です。こう書かれていました。「わたしに聞け、正しさを求める人/主を尋ね求める人よ。あなたたちが切り出されてきた元の岩/掘り出された岩穴に目を注げ。あなたたちの父アブラハム/あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。わたしはひとりであった彼を呼び/彼を祝福して子孫を増やした。」(1-2節)。

 アブラハムとその妻サラ、そしてその子孫の物語が旧約聖書に記されています。それは、たったひとりのアブラハムから子孫が増え広がってイスラエル民族となったという話です。ですから、「わたしはひとりであった彼を呼び/彼を祝福して子孫を増やした」と書かれているのです。

 しかし、内容はそう単純ではありません。アブラハムとサラには子供がありませんでした。しかも、長い間ありませんでした。年老いてなお子供がありませんでした。神が誰かをイスラエル民族の祖先にするつもりならば、既に子供がいる人を選んだ方が早かったと思います。しかし、神はあえて可能性の見えない人たちを選ばれました。見込みのない人たちを選ばれたのです。しかも、もっと見込みがなくなるように、可能性がつぶれていくように、約束の実現を先延ばしにされたのでしょう。

 なぜそのようなアブラハムを選ばれたのでしょう。なぜ可能性がなくなるようにアブラハムを待たされたのでしょう。――それはアブラハムが人、によって実現されることではなく、神によって実現されることを信じて待ち望むようになるためでした。アブラハムが人間の可能性にではなく、ただ神のなされることに信頼するようになるためでした。神はアブラハムに信仰を求められたのです。

 それはどうしてでしょう。神はただ一つの民族をこの世に加えようとしていたのではないからです。そうではなく、「信仰の民」「主を信じる民族」を創ろうとしていたのです。アブラハムは信仰の民の祖先となるのです。だから、まずアブラハムに信仰を求めたのです。アブラハムをただ一民族の父ではなく、信仰の父にしようとしていたのです。

 そして、アブラハムは信仰をもって神に応えました。聖書にこんな話が書かれています。子供のいないアブラハム(その時はまだアブラムという名前)が主に言いました。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」すると主は言われるのです。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」さらに主は満天の星空を見せてこう言われました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」。そして、言われます。「あなたの子孫はこのようになる」と。創世記15章に書かれている話です。その時、アブラハムはどうしたでしょうか。聖書にはこう書かれています。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)。

 これがアブラハムの信仰です。このアブラハムの信仰を、第2朗読で読みましたローマの信徒への手紙において、パウロは次のように表現しています。「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました」(ローマ4:18)。そうです、アブラハムは望み得ない状況においてなおも望みを抱いて信じたのです。そのように神を信じるアブラハムにおいて、「わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした」という祝福の物語が実現していったのです。

 これが「切り出されてきた元の岩」です。これが「掘り出された岩穴」です。そこに目を注げと主は言われるのです。そこから切り出されてきたならば、そこから掘り出されてきたならば、元の岩と同じものを持っているはずだからです。同じものが与えられているはずだからです。同じ神との関わりが与えられており、その神に応えたアブラハムの信仰が与えられているはずだからです。人によって実現されることではなく、神によって実現されることを、信じて待ち望む信仰が与えられているはずだからです。つまり、「切り出されてきた元の岩」に目を注げとは、自分が何を受け継いでいるのかに目を注げ、ということでもあるのです。

荒れ野をエデンの園とする
 さて、この「あなたたちが切り出されてきた元の岩/掘り出された岩穴に目を注げ」という主の言葉を、最初に耳にしたのは今から約2500年前のエルサレムの人々でした。主が預言者を通して彼らに「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ」と語られたのは、彼らがその言葉を聞かなくてはならない状況があったからです。それは続く言葉からわかります。

 「主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」(イザヤ51:3)。そのように預言者は語ります。そのように語るのは、人々が廃墟を目にしていたからです。荒れ野を目にし、荒れ地を目にしていたからです。そこには喜びがなく、楽しみもなく、感謝の歌声が響いてもいなかったからです。

 エルサレムが廃墟となっていた時代がありました。バビロニアによって破壊されたのです。それから約五十年の時を経て、バビロニアからペルシャの時代へと移り変わりました。エルサレムへの帰還と再建が許可される時代となりました。その時を待ち望んでいた人々は、希望に胸を膨らませ、祖国再建の燃えるような情熱をもって、エルサレムへと帰っていきました。

 しかし、彼らを待っていたのは冷たい現実でした。城壁は崩れ落ち、かつて神殿が存在していたところは瓦礫の山でした。しかも、この再建を快く思わない人々による激しい妨害に遭うことになりました。どう考えても無理だ。荒れ野はこれからも荒れ野なのであって決して変わらない。そう思わずにはいられない状況がそこにありました。彼らは希望を失っていきました。

 荒れ野は永遠に荒れ野なのであって、決してエデンの園にはならない。そのような思いはいつの時代の人の内にも根強く存在するものでしょう。荒れ野とは何でしょうか。「荒れ野」と聞いて、ある人は、毎日の生活を思うかもしれません。あるいは夫婦の関係、問題を起こす子供たち、職場における人間関係を思う人がいるかもしれません。そう、変わって欲しいと思うけれど、荒れ野は荒れ野であり続けるとしか思えない現実が、確かにこの世にはいくらでもあるのです。

 しかし、本当はまず変わらなくてはならないのは「荒れ野」や「荒れ地」ではないのです。そうではなくて、荒れ野を見ているその人自身の心なのです。諦めに支配され、不信仰に支配されているその人の心なのです。だから主はまず彼らの心に向かって、「わたしに聞け」と言われたのです。そうです。その前に聞かなくてはならないことがある。聞いて変わらなくてはならないものが自分自身の内にあるのです。外にあるものが変わることを願うなら、その前に自分の内側にあるものが変わらなくてはならないのです。

 だから主は言われたのです。「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ」。アブラハムとサラの信仰の物語に目を向けさせるのです。エルサレムで廃墟を見ていたあの人たちは、もう一度先祖から受け継いできた信仰、そして神が受け継がせようとしている信仰に、もう一度目を向けなくてはならなかったのです。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。そのように彼らもまた、まず主を信じる者となる必要があったのです。

 いや2500年前のあの人たちだけではありません、教会もまた同じ岩から切り出されてきたのであり、同じ岩穴から掘り出されてきたのです。いやパウロに言わせれば、教会こそまさにアブラハムの信仰を受け継いでいるものなのです。希望するすべもないときに、なおも希望を抱いて、信じる者として生きる者とされているのです。

 なぜなら、キリストが十字架にかかられ、そして復活されたことによって、もはや何ものによって私たちは絶望する必要のないことが明らかにされたからです。人間の罪がいかに絶望的な荒れ野をもたらしたとしても、人間にはどうすることもできない死の力が私たちの人生をもこの世界をも支配しているように見えたとしても、それでもなお私たちは絶望する必要がないことを、神はキリストにおいて語ってくださったからです。

 いわば神はキリストを通して、「わたしは荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とする」と宣言してくださったのです。私たちを罪と死から救い、「そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」と宣言してくださったのです。

 そして神はアブラハムに対してそうであったように、主は御自分が語られたことを実現されるのです。しかし、そこにおいて主が求めておられることがあるのです。それはただ信じることです。アブラハムの信仰です。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた。神によって義とされたこの信仰こそ、代々の聖徒たちが受け継いできたものであり、神が私たちに受け継がせようとしているものなのです。

2024年10月30日水曜日

祈祷会用:レビ記 11:1~46

レビ記11:1‐46

 10章までは、犠牲の献げ方、また祭司の任職など、礼拝に関わることが記されていました。11章からは、さらに、そのように礼拝する者に生活の仕方が示されています。礼拝は礼拝、生活は生活というように、分けてしまわないことが重要です。全生活が神のものとなることについて、レビ記は語っているのです。11章45節に「わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」と書かれているのは、そういうことです。

 その生活の仕方に関する記述の最初に置かれているのが11章に見る「食物規定」なのです。なぜまず食べ物の話なのか。――食べるということは、生活における最も中心的な行為だからです。万人に共通する生活の要素だからです。まさに、毎日のこと、日常のことの代表だからです。

 食べてよいものは主として三種類です。陸上動物、魚、鳥、昆虫です。これは創世記の天地創造物語の分類とほぼ同じです。あの天地創造物語も祭司たちが伝えてきたので、共通な部分があるのはある意味で自然なことです。

 陸上動物については、条件が二つあります。ひづめが別れていることと反芻することです。魚については、ひれとうろこがあるものです。ちなみに「汚れたもの(ターメー)」と「汚らわしいもの(シェケツ)」という表現の違いは、触れて汚れるか汚れないかの違いです。《汚れたもの》は触れると汚れるものです。《汚らわしいもの》は食べると汚れるけれど、触れただけでは汚れません。そして、鳥については、食べてはいけないのは鷲とかみみずくのたぐい、すなわち猛禽類です。他の肉や死体を食べる鳥はアウトだということです。ちなみに、昆虫は、原則としてはすべて汚らわしいものです。ただ、いなごなどは食べてよいことになっています。洗礼者ヨハネはいなごと野蜜を食べていました。

 ところで、ここに書かれていることは、今日の生物学的な見地からすればかなり大雑把です。野ウサギは反芻しません。もぐもぐやっているだけです。こうもりは鳥類ではありません。しかし、実際にそのようなことが重要なのではないのです。重要なのは、区別があるということです。食べてよいもの、悪いもの――、その区別を神が決めているということが重要なのです。これについては後で触れます。

 今日みんなで読んだのは23節まででしたが、24節以下にも簡単に触れておきましょう。この部分は、その前と重複する記述が多いのですが、主に死骸の扱いについて書いています。簡単に言えば、死骸に触れるなということです。

 死骸の触れる場合というのは、例えば、持ち運ぶ場合です。持ち運ぶならば、夕方まで汚れます(28節)。その他、不可抗力の場合もあります。例えばは爬虫類などが死んで何かの上に落ちる場合です。するとそのモノが汚れます。器や道具の類は水に浸しておく必要がありますが、土器の場合は染みこんでしまうので、その土器は壊す必要があります。かまどや焜炉に落ちたら、それも壊す必要があります。その他、泉や溜池に死骸が落ちた場合などについては、その水は清いので飲むことができます。泉を埋めたり、溜池を埋め立てたりする必要はないのです。また、種もみに死骸が落ちた場合は、種もみは清いということになっています。しかし、水に浸されていて、そこに死骸が落ちた場合は、種もみは汚れます。こうしてざっと見てみると、かなり実際的な衛生的な側面が見えてくるように思います。

 さて、以上見てきたような食物規定が意味することは何でしょうか。それを理解する上で重要なのは冒頭で触れた45節です。「わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」。

 出エジプトは、単に奴隷の民を苦しみから解放するための出来事ではないのです。主は「あなたたちの神になるために」エジプトから導き上ったのだといわれるのです。言い換えるならば、彼らを神の民とするために、聖なる者、すなわち「神のもの」とするために、そうしたのだということです。「神のものである」ということは、第一には、神の主権を認めるということです。わたしが主であるのではなく、神が主人であるということです。

 何かを食べるという行為は生活の根幹です。そして、それは人間の主体的な行為なのです。「わたしが食べる」のです。しかし、その「食べる」という行為について、神が命令を与えるのです。神は「これを食べて良い」と言い「これは食べてはいけない」と言われるのです。それは人間が区別するのではないのです。神が区別するのです。

 その区別の理由は何か、根拠は何か。ここには何も書かれていません。神は説明なさらない。そうです。神には説明の義務がないのです。神がイエスと言ったらイエスなのであり、神がノーと言ったらノーなのです。それを人間が受け入れる。それが神の主権を認めるということです。それが一番よく現れているのが、この食物規定なのです。


 私たちは、勘違いしているようなところがありまして、往々にして神は全てのことについて私たちに説明する責任があるかのように考えているのです。だから、神のなさることについて「分からない」、とか「おかしい」とか、「理にかなわない」とか「不公平だ」とかかぐだぐだ言うのです。しかし、本当はわからなくても良いのです。神は説明する義務などないのです。これを食べるなと言ったら食べてはいけないのです。往々にして私たちは神に向かってぐだぐだ言いすぎるのです。

 イスラエルの民は、まず食べ物において、神の主権に服するということを学んだのです。もし食べてはならないものしかなかったら、食べないで死ぬわけです。極端なことを言えば、それを良しとするということ、それが神の主権を認めるということなのです。

 そのように、食物規定についての根拠は、基本的には書かれていないので分からないと思ってよいと思います。しかし、それでもなお見えてくるものもあります。それが昔からラビによってなされてきた「解釈」です。

 ユダヤ人のラビたちは、この食物規定については、節制を学ばせる上で有効である、と解釈してきました。そこには神の教育的な配慮があると見てきたのです。つまり、そこには食べてはならないものを食べないという訓練として、これを理解してきたのです。これは必ずしも文字通りの食べ物だけではありません。自らに制限を加えなくてはならない場面は人生においてたくさんあるのです。区別して退けなくてはならないものはあるのです。例えば、この世には多くの楽しみ方があります。しかし、ある楽しみは良しとしても、他のものは退けなくてはならないのです。あるいは、例えば、男と女がひかれあって恋愛をする。結婚をする。それはOKなのです。しかし、他人の妻を欲してはいけないのです。食べてはいけないものを食べるということは、つまり節制できないということは、自分を地獄にたたき込むことにもなるのです。そうならないために、節制をする練習をさせる神の配慮が、この食物規定にはるとラビたちは解釈してきたのです。

 あるいは、先に少し触れましたように、これは衛生的な観点からも解釈されてきました。そこには民の健康を守るための神の配慮があると見てきたのです。実際に荒れ野の旅にしても、その後の定住後にしても、水がふんだんにあるわけではありません。そのような中で何を食べるか、衛生をどう保つかは死活問題だったのです。そのような配慮がここに見られるというのは、死骸に関する記述からも分かりますし、猛禽類を食べるなということからも分かります。「いのしし」すなわち豚肉を食べるなというのも同じです。それはあぶないのです。

 つまり一方において、私たちは無条件に神の主権を重んじることが求められているわけですけれど、その背後に神の善意があることを信じて良いということです。神は説明なさらないこともあります。ですから、私たちには分からないこともあるのです。しかし、そこで大事なことは、黙して神の善意を信じるということなのでしょう。

 そして、もう一つ大事なことを45節に見ることができます。「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」と主は言われるのです。「聖なる者となる」とはどういうことか。「聖なる」とはもともと「区別する」という言葉から来ているのです。区別された者として生きること、それが「自分自身を聖別する」ということであり「聖なる者となる」ということなのです。つまり、他の民から区別された「神の民」として生きることです。神のものとして生きることです。

 そのためには、常に自分たちが「神の民なのだ」ということを意識している必要があるのです。そこで「食物規定」はとても役に立つのです。なぜなら食べ物は毎日のことだからです。食べる度に、料理をする度に、自分たちは神の民なのだということを意識せざるを得ないわけでしょう。まさに、「食べ物を区別する神が、わたしを他の民から区別して神の民としていてくださるのだ」という恵みを、強烈に意識させるのが、この食物規定だったのです。

 さて、この食物規定との関連で非常に重要な出来事が、新約聖書に書かれています。使徒言行録10:9-20です。これは異邦人伝道にとって決定的に重要な出来事となりました。そこで重要な言葉は「神が清めた物を清くないなどと、あなたは言ってはならない」という言葉です。つまり、異邦人を神が清めたならば、もう清くないと言ってはならないのです。これがあるから、異邦人である私たちも教会に加えられているのです。

 しかし、だからこそなおさらに、私たちがそのような区別された民に加えられたことを意識していなくてはならないのです。クリスチャンであってもなくても同じです。洗礼を受けていても受けていなくても同じです、などとゆめゆめ言ってはなりません。食物規定は私たちには適用されません。私たちは異邦人ですから。しかし、食物規定を与えられた神の思いそのもは、しっかり私たち異邦人も受け止めなくてはなりません。すなわち、私たちは神の民なのだという意識はしっかりと保っていなくてはならないのです。



2024年10月27日日曜日

「恐れてはならない」

 マタイによる福音書 10:26-33

覆われて見えないだけだから
 「人々を恐れてはならない。」そのように書かれていました。それだけではありません。今日の福音書朗読で読まれたのは短い箇所ですが、そこに三回「恐れるな」という言葉が繰り返されています。恐れていない人に「恐れるな」と語る必要はありません。イエス様が繰り返し「恐れるな」と言われるのは、弟子たちがどれほど人を恐れながら生きているかを知っていたからでしょう。そうです。イエス様は、人間の内に起こってくる恐れというものをよくご存じなのです。

 今日の聖書箇所の直前には、迫害の予告が語られています。人から拒絶される時、どれほどの恐れが起こるのか。人から中傷される時、人から敵意を向けられる時、どれほどの恐れが起こるのか。人から憎まれる時、暴力にさらされる時、どのような恐れが起こり、どれほどの恐れに捕らわれることになるのか。そうです、イエス様は分かっておられるのです。

 だから主は言われるのです。「人々を恐れてはならない」と。それは「恐れる必要などないのだ」ということです。なぜなら、主が「恐れるな」と言われる時、そこには確かな理由があり根拠があるからです。主はこう続けるのです。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」

 人間の隠し事がやがては明らかになるという話ではありません。これは神様の話です。救いの話です。既に救いが到来しているのです。しかし、それは「覆われているもの」と表現されています。まだ覆われているのです。まだ目に見えないのです。

 実際にそうでしょう。私たちの目に映っているのは、いまだに救われていない世界です。嘆きの叫びが絶えない悲惨な世界です。希望のない世界です。いまだに人間の罪が満ちている世界です。そして、人間の罪のゆえに、ただ崩壊へと、滅びへと向かっているとしか見えない世界です。その中で人は苦しみと痛みを背負いながら生きているのです。

 先に触れましたように、この言葉の前には迫害の予告が書かれています。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂でむち打たれる」、「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」というようなことが書かれているのです。救い主が来られたのに、よりによって救い主を信じる者が苦しみを受けるのです。救い主が来られたとしても、依然としてそのような世界なのです。

 しかし、それにもかかわらず、主は言われるのです。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」やがて覆いが取り除かれる時が来ると主は言われるのです。神の救いが完全に現れる時が来るのです。

 言い換えるならば、今は単に覆われているに過ぎない、ということです。今は覆われているゆえに見えないだけなのだ、と言っているのです。見えなくても、既に救いは与えられているのです。既に決定的なことは起こっているのです。だから主は言われるのです。「人々を恐れてはならない。恐れる必要はないのだ!」と。

既に起こっていることがある
 既に決定的なことが起こっているという事実は、イエス様御自身の言葉の中にもよく現れています。主は言われました。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」(29節)。

 さらっと読み飛ばしてしまいそうですが、実は重大な言葉が、そこには含まれているのです。「あなたがたの父」という言葉です。そのように主は確かに言っておられます。天地の創造主を指して「あなたがたの父」と言っておられるのです。ここだけではありません。この福音書において繰り返し主が発せられる言葉です。救い主が来られて、「あなたがたの父」と言われるのなら、確かに神は「私たちの父」なのです。私たちは神の子どもたちとされているのです。この世界のただ中で、そのような大きな出来事が既に起こっているのです。

 主が「あなたがたの父」と呼ばれる方は、いったいどのような御方なのでしょう。主は言われます。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」。ここで「あなたがたの父のお許しがなければ」と書かれているのは意訳です。直訳すれば、「あなたがたの父なしに地に落ちることはない」と書かれているのです。

 売られたとしても大した値段にならない雀。その雀が地に落ちる。つまりそれは「死ぬ」ということです。そんな雀一羽が地に落ちても誰も気に留めないし、雀は誰にも知られることなく死んでいくのでしょう。しかし、そのことは「あなたがたの父なしには起こらない」と主は言われるのです。つまりそこにも父が共におられるということです。そこで一羽の雀は父の慈愛の御手の内にあるということです。雀一羽だって孤独で死ぬことはない。父なしにそのことは起こらないのです。

 もちろんイエス様は雀の話をしたいわけではありません。「ましてやあなたがたは!」ということでしょう。雀一羽さえも心にかけておられる神は、私たちの天の父なのです。そこで「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」と主は言われる。私たちが自分を知る以上に、私たちのことを知っていてくださる父なのです。なにが私たちにとって良きことで、何が私たちにとって災いであるかも、私たちが知る以上に知っていてくださる御方なのです。

 実際、イエス様の言われた迫害の予告は現実となっていきました。この世において、ある人たちは、平和な家の中で家族に看取られながら死んでいくのでしょう。しかし、弟子たちのある者は迫害の中で、時には家族も知らないところで、死んでいったのだと思います。しかし、いずれにしても、「あなたがたの父なしに地に落ちることはない」と主は言われるのです。何が起こったとしても、そこには父がおられるのです。父の慈愛の御手の中にあるのです。「だから、恐れるな」と主は言われるのです。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と。

信仰の言葉を告げ知らせよ
 既にそのような天の父の子どもたちとされているのです。救い主が来られて、既に決定的なことは起こっているのです。一見すると何も起こっていないように見えるこの世界のただ中で、私たちは既に救われた者として生きることができるのです。

 そして、既に起こっていることは、いまだに覆われているとしても、やがては現れることになるのです。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」。人間の隠し事ですら時を経て表に現れるのなら、ましてや神様がなさっていることが表に現れないはずがありません。私たちの目がはっきりと見る時が来るのです。

 それゆえに、覆いが除かれるまで、私たちの目が神の救いをはっきりと見るまで、私たちは目に見えるものによらず、信仰によって歩むのです。信仰によって歩むとは、神の言葉を信じて歩むということです。私たちは、この世からの言葉ではない、この世の外からの言葉によって生きるのです。目に見えるものではなく、目に見えないものを語ってくれる信仰の言葉によって生きるのです。私たちの目には見えない、覆いの向こう側を語ってくれる主の言葉によって生きるのです。

 そして、私たちに語りかけられる言葉は、ただ私たち自身が救われた者として生きるために与えられているのではないのです。私たち自身が慰めと励ましを受けるために与えられているのではないのです。主は言われるのです。「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」(27節)。

 この「暗闇であなたがたに言うこと」という表現は、特に迫害の中にあった教会にとっては、とてもリアルに響いたに違いありません。というのも、彼らはしばしば集まっていることが知られないように、戸を閉じ、光が漏れないように暗い中で礼拝をしていたからです。ある時には、それこそ光の入らない地下墓地に集まって礼拝していたのです。まさに暗闇の中で、主は確かに語りかけていてくださっていたのです。そして、主は言われるのです。「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」。

 実際、教会は迫害の時代にあっても、救いを宣べ伝えることをやめませんでした。主の御言葉を宣べ伝えることをやめなかったのです。生きようが死のうが、神の救いの中にあることを知っていたからです。父なしに地に落ちることはないと知っていたからです。父の完全な慈しみの御手の中にあることを知っていたからです。だからこそ、その救いは伝えられて、こんな極東の遠い国にまで届いたのです。

 主は言われました。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(28節)と。イエス様が言っておられるように、人間が出来ることは体を殺すことまでです。人を神の愛の外に放り出すことはできません。神の救いの外に投げ出すことも、地獄で滅ぼすこともできません。

 そのことについては、迫害の中を生きたパウロもまた、一つの手紙の中でこう語っています。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:38‐39)と。

 主はここから私たちをこの世へと遣わしてくださいます。信仰の言葉、主の御言葉を携えて、主の愛を携えて、ここから日々の生活の場へと出て行くように、私たちを祝福し、送り出してくださるのです。現実には、私たちがどれほど人を恐れながら生きているかということを主は知っていてくださいます。だからこそ、主は今日も私たちに語っていてくださるのです。「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と。

2024年10月23日水曜日

祈祷会用:レビ記 10:1~20

レビ記10:1‐20

 前の章は、アロンが手を上げて民を祝福すると、主の栄光が民全員に現れ、主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くしたところで終わっていました。主の御前から火が出るということは、本来、恐るべきことであるはずです。それは主の裁きをも意味するからです。しかし、民の反応は次のように書かれていました。「これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した」(9:24)。

 主の臨在の火が喜びとなるのは、それが主の裁きではないことを民は既に知らされていたからです。すなわち、そこで行われているのは罪の贖いであることが知らされていたからです。焼き尽くされたのは民ではなく、献げられた犠牲でした。民はそこで、大祭司が存在すること、祭儀が存在することの意味を、改めて思わざるを得なかったに違いありません。天からのものによって、礼拝は成り立つのです。天からの火はまさにそのことを示すものでした。その火を「祭壇から絶やしてはならない」(6:2)と命じられていたのです。礼拝は人間の灯した火からはじまるのではないのです。

 しかし、そこで一つの事件が起こります。それが今日お読みしたところに書かれていたことです。話としては9章から続いていますから、アロンによる献げ物の初執行の当日の出来事です。その日、アロンの長男ナダブと次男アビフが「規定に反した炭火」をささげました。すると主の御前から火が出て二人を焼き、彼らは主の御前で死んでしまいました。この直前において、人々の喜びとなった臨在の火が、ここでは一変して裁きの火となったのです。それはなぜであるかを考えねばなりません。

 「規定に反した炭火」と訳されている言葉は、直訳すると「異なる火」です。彼らは礼拝において「異なる火」をどこからか持ってきたということです。本来は天から与えられた火が燃やし続けられ、そこから取らなくてはならない火を、彼らは別なところから、人間が点じた火をもってきたということです。

 人間から生じたものをもって、自己流に自分のしたいように神に近づくならば、神は御自分が聖なることを示されます。すなわち神が人間とは区別された、本来人間が近づくことのできないまことの神であることを示されるということです。「『わたしに近づく者たちに、わたしが聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現そう』と主が言われたとおりだ」(3節)とモーセが言っているのはそういうことです。

 さらに言うならば、ナダブとアビフは幕屋の垂れ幕の奥にまで近づいたということも考えられます。後に16章において次のように書かれているからです。「アロンの二人の息子が主の御前に近づいて死を招いた事件の直後、主はモーセに仰せになった。主はモーセに言われた。あなたの兄アロンに告げなさい。決められた時以外に、垂れ幕の奥の至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づいて、死を招かないように。わたしは贖いの座の上に、雲のうちに現れるからである」(16:1‐2)。

 規定に反する火を持ってきた彼らが、垂れ幕の奥にまで行って、安易に神に近づけると思ったことは考えられます。なぜ安易に近づいたのか。罪の贖いの犠牲がささげられたから、というのは考えられる一つの理由です。罪の赦しが神への畏れを失わせるなら、それは災いをもたらすのです。

 あるいは、自分たちは特別であると彼らは考えたのかもしれません。しかし、むしろ神に近づける立場に置かれたからこそ、神を畏れなくてはならなかったのです。これはキリスト者においても同じです。神に近づくことが赦された祭司とされています。しかし、だからこそ私たちはそのことを、畏れをもって受け止めねばならないのです。

 「『わたしに近づく者たちに、わたしが聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現そう』と主が言われたとおりだ」。そうモーセは言いました。それは息子二人を失った直後のアロンに対する言葉としては、無慈悲な言葉に聞こえるかもしれません。しかし、そこで「アロンは黙した」と書かれているのです。この箇所を読んで、モーセの言葉に対しても、神に対しても、「ひどいではないか」と思う人はいるかもしれません。しかし、アロンはわかっていたのです。災いが起こった今は、神に不平を言う時ではない。御前に畏れ、黙するべき時だ、と。

 さて、通常ならば死んだ子どもを葬るのは家族がすることです。しかし、モーセはアロンにも残された二人の息子にも、遺体をさわらせませんでした。「モーセはアロンのおじウジエルの子、ミシャエルとエルツァファンを呼び寄せて、『進み出てきて、あなたのいとこたちを聖所から宿営の外に運び出せ』と命じた。彼らは進み出て、モーセの命令に従い、祭服を着たままの二人を宿営の外に運び出した」(4-5節)。

 それはなぜでしょうか。遺体に触れたら祭儀的には汚れたことになるからです。祭儀的にけがれたら、祭儀を続行することができなくなるのです。後で見ることになりますが、アロンには、まだやるべきことが残されているのです。それは、献げられたものを「食べること」です。贖罪の犠牲は、血を聖所の中にもっていって場合、すなわち大祭司と民全体の罪のためにささげる贖罪の献げ物の場合はその一部を焼き捨てることになります。しかし、聖所の中にもっていかない場合は聖域で食べることになっているのです。

 だから、彼らはナダブとアビフが死んだとしても、祭司の務めはつづけなくてはならないのです。だから祭司は遺体に触れてはならないのです。しかも、ここでモーセはアロンと残された二人の子(祭司)であるエルアザルとイタマルに言うのです。「髪をほどいたり、衣服を裂いたりするな。さもないと、あなたたちまでが死を招き、更に共同体全体に神の怒りが及ぶであろう」(6節)。

 つまり通常の葬儀においては行われることを、あなたはしてはならないというのです。あなたは悲しんではならない。むしろ、畏れをもって祭司の務めを継続することこそ、あなたがたのなすべきことである、とモーセは言っているのです。今本当にやらなくてはならないことは、ナダブとアビフの死によって示されたことをしっかりと受け止めることではないか、ということです。それは何か。祭司の務めの重さです。他の者たちは悲しんでよいし、悲しむべきです。しかし、彼らはだめなのです。なぜなら、「あなたたちは主の聖別の油を注がれた身だからである」(7節)と言うのです。
 
 確かに、血縁関係というものは重いものです。祭司は家族が任職されますから、祭司としてのアイデンティティと家族としてのアイデンティティは混同されやすかったかもしれません。しかし、アロンは、それらははっきりと区別されなくてはならないことを知らされたのでした。そして、重んじられるべきであるのは、祭司として任職されたという事実の方なのです。さて、これはキリスト者という祭司として神に近づけられていることのアイデンティティは、私たちにとって、どれほどの重さを持っているのでしょうか。

 続いて、主はアロンに仰せになりました。「あなたであれ、あなたの子らであれ、臨在の幕屋に入るときは、ぶどう酒や強い酒を飲むな。死を招かないためである。これは代々守るべき不変の定めである」(9節)。これは極めて印象的な言葉です。というのも、古代オリエントの周辺世界においても、宗教的な儀式はあり、祭儀を司る者たちはいるわけですが、通常は恍惚状態になって祭儀を行うのです。そのために酒や薬が用いられたのです。しかし、イスラエルの祭司はしらふでいることを求められたのです。

 宗教的であるということは恍惚状態や熱狂状態になることではなくて、醒めていることだということです。それはなぜなのか。次のように書かれています。「あなたたちのなすべきことは、聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること、またモーセを通じて主が命じられたすべての掟をイスラエルの人々に教えることである(10-11節)。彼らは区別しなくてはならないのです。すなわち判断しなくてはならないのです。

 清いものと汚れたものを区別する、とは神の喜ばれるものと忌み嫌われるものを判断するということです。御心にかなったものと、主は憎まれるものを判断することです。そして、それを教えることが彼らの務めなのです。だから醒めていること、判断できることが重要なのです。もちろん、それはキリスト者という祭司にも求められていることであって、新約聖書においては「身を慎んでいましょう」(1テサロニケ5:6)と勧められているのです。「身を慎む」と訳されているのは「しらふでいる」ことを意味する言葉です。

 さて、モーセは9章で献げられたものを「食べること」をアロンと生き残ったエルアザルとイタマルに求めました。食べることもまた主が定めた祭儀の中のことだからです。それゆえに、それが正しく執行されたか否かをモーセは気にしました。しかし、聖域で食べられるべき贖罪の献げ物が食べられないで焼き尽くされてしまっていたのです。

 モーセは怒って彼らに言いました。「なぜ贖罪の献げ物を聖域で食べなかったのか。あれは神聖なものであり、共同体の罪を取り除き、主の御前で彼らの罪を贖う儀式を行うためにあなたたちに与えられたものである」(17節)。

 先にも言いましたように、贖罪の献げ物には、血を聖所に持って行くものと行かないものがあるのです。そして、血を聖所に持っていかないものは祭司が食べるのです(6:18)。しかし、アロンは言いました。「確かにあの者たちは今日、贖罪の献げ物と焼き尽くす献げ物を主の御前にささげました。しかし、わたしにこのようなことが起きてしまいました。わたしが今日、贖罪の献げ物を食べたとしたら、果たして主に喜ばれたでしょうか」(19節)。

 アロンは二人が神に裁かれて死んだことを小さなこととは見ませんでした。これは大祭司の罪でもあり、民全体に及ぶ罪の贖いが必要だと考えたのです。すなわち、献げられた贖罪の献げ物については、これを「大祭司の罪のため、イスラエル共同体全体に及ぶ罪のための贖罪の献げ物」と見なしたのです。もし、そうであるならば食べてはならないのです。目の前で悲しむべきことが起こったのです。しかし、それをアロンは神の前で自分の罪として認めたのでした。そして、エルアザルもイタマルも、また問いただしていたモーセもまた、そのことを理解したのでした。


2024年10月20日日曜日

「目標を目指して走るため」

フィリピの信徒への手紙 3:12-21

後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ
 「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません」(12節)。今日の聖書箇所において、パウロはそのように語っています。ここでパウロがそのように語っている理由については後に触れるとしまして、まず注目したいのは、そのように語っている彼の意識です。自分はまだ途上にあるという意識です。そして、その意識をもって断言している13節のこの言葉です。「なすべきことはただ一つ!」

 こういう言葉というものは、なかなか人が口にできるものではないでしょう。「なすべきことはただ一つ!」その一つとは何でしょう。それは「目標を目指してひたすら走ることです」と彼は言うのです。その「目標」とは何なのか。そこには何が待っているのでしょうか。彼はこう言うのです。「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために」と。

 単に「賞を得るために」ではありません。「神が……お与えになる賞を得るために」と言っているのです。そのように、意識の中心にあるのは「賞」そのものではなくて、与えてくださる「神」なのです。先ほど、「何が待っているのでしょうか」と言いましたが、正確には正しくありません。「誰が待っているのでしょうか」と言うべきなのでしょう。そこには神が待っておられるのです。神にお会いしておほめにあずかりたい。要するに彼はそう言っているのです。その目標を目指して走ることだ、と。

 そしてパウロは、どこに向かって走るべきか、ということだけでなく、どのように走るべきかについても語っています。先ほどお読みした箇所で、パウロは次のように言っているのです。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、…目標を目指してひたすら走ることです」と。

 ここでイメージされているのが競技場で走る選手であることは言うまでもありません。選手はひたすら前を見て走らなくてはならないのです。神から賞を受けるために走るのも同じことです。後ろを見ながら走ることはできません。「後ろのものを忘れ」――それは、目標を目指してひたすら走るためには確かに必要なことです。

 もちろん、「後ろのものを忘れ」と言いましても、「忘れてはならないこと」はあります。パウロは自分がかつて迫害者であったことを決して忘れませんでした。この章の6節でも触れていますが、他の手紙においても、「わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました」(ガラテヤ1:13)と語り、また、「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さなものであり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」(1コリント15:9)とも語っています。

 実際、使徒言行録の伝えるところによるならば、パウロは復活のキリストとの出会いにより、神の光に照らされて、自分がしてきたことは、まさにキリスト御自身を迫害することに等しい、とてつもなく大きな罪であることを知らされたのです。パウロは神によって知らされた事実を、自分が罪を犯したという事実を、生涯忘れることはなかったのです。

 ちなみに、ペトロについても同じことが言えます。彼は、あの日、キリストを三度も「知らない」と言ったことを、生涯忘れなかったはずです。それどころか、折に触れては自分のしたことについて語ったに違いない。だから、その出来事が聖書に記されて二千年後にまで知られているのです。

 そのように、「後ろのものを忘れ」というのは、単に「忌まわしい過去なんて忘れたらいいよ」と言っているのではないのです。パウロにせよペテロにせよ、単に暗い過去を《忘れる》ことによって使徒パウロ、使徒ペトロとして立っていたわけではないのです。彼らは自分のしてきたことも、過去の自分をも忘れなかったのです。

 しかし、パウロにせよ、ペトロにせよ、自らの過去をただ罪の重荷として引きずりながら走っていたのではないということもまた事実です。彼らが罪の重荷を引きずっていたならば、前に体を伸ばそうとすればするほど、罪の重荷は強烈に後ろへ引き戻す力となって働くことになるでしょう。しかし、実際どうでしょう。そのような走り方をしているパウロを、私たちは聖書の中に見出すことができません。使徒言行録にも、彼の書いた手紙の中にも、どこにもそのような姿を見ることはできないのです。私たちが見るのは、まさに彼が言うように、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」走っている人の姿なのです。

 彼は自らの罪を忘れませんでした。彼はただ自分の過去から目を背け、臭いものには蓋をして、何事もなかったかのように生きていたわけではないのです。そうではなくて、彼はただ神の救いの恵みによって、罪を赦してくださる神の恵みに寄り頼んで、生きていたのです。神が世に遣わされた救い主、イエス・キリストの十字架に寄り頼んで、罪の贖いの十字架に寄り頼んで生きていたのです。

 ですから、先ほど「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さなものであり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」というパウロの言葉を引用しましたが、その続きはこうなっているのです。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」。

 人が本当に神を信じて生きようとするならば、神の光に照らされることになります。そこでは自分の過去も現在も光のもとにさらされることになるのです。神に背いて生きて来た現実を突きつけられることになる。 しかし、パウロには分かっていたのです。神が光に照らして罪を認識させるのは、後ろを向いて、自らを責め苛んで、自分を痛めつけながら生きるためではない、ということを。

 もっと大事なことがあるのです。それは神の恵みに応えて生きることです。キリストによって罪を赦してくださった神、キリストによって上へ召してくださった神に、ただ喜んでいただくことを目指して生きることです。目標を目指して走るとはそういうことです。終着点には、私たちを愛して、赦して、新しく生かしてくださった神が待っていてくださる。その神のおほめにあずかることを、ひたすら求めて走ることです。

わたしに倣う者になりなさい
 そして、パウロは「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」(17節)と語ります。パウロ自身が表明しているように、自分が完全であるからではありません。そうではなく、ただひたすら神の恵みに寄り頼み、恵みに応えて生きようとしている者として言っているのです。「わたしに倣う者となりなさい」。そして、そのように語らざるを得ない状況があったのです。18節には次のように書かれています。「今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。」

 この背景にありますのは異端の教え、間違った教えとの戦いです。パウロの対極には、「わたしは完全に達した」と言い張る人々がいるのです。12節でパウロが「わたしは…既に完全な者となっているわけでもありません」と言っているのは、その異端の教えを意識してのことです。彼らは自分自身を完全に達した人、特別な霊的な人間であると主張しているのです。

 そのような主張の背景には、それなりの神秘体験があるのです。確かに、神秘的な体験をするならば、人は自分が特別な霊的な人間になったように思うものなのでしょう。そして、特別な霊的な人間にとっては、もはやキリストの十字架は必要ないのです。罪の贖いも必要ないのです。「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」とパウロが言っているのは、そのような人々です。

 先ほど、パウロは神の救いの恵みによって、罪を赦してくださる神の恵みに寄り頼んで、生きていたと申しました。イエス・キリストの十字架に寄り頼んで、罪の贖いの十字架に寄り頼んで生きていたと申しました。しかし、「キリストが身代わりに十字架にかかってくださったから、わたしは罪を赦されたのだ」という言葉は、聞きようによっては、はなはだ「虫のいい話」に聞こえなくもありません。自分のしてきたことを、自分の罪を、軽く考えているように見えるかもしれません。そんなキリストの十字架による罪の赦しの教えより、神秘的に神と一つになり、特別な霊的な人間になることを求める異端の教えの方が、ある意味では分かりやすかったのだと思います。

 しかし、実際は全くの逆なのです。パウロほど自分のしてきたこと、自分の罪、人間の罪というものを重く見た人はいないのです。人間の罪は、自分を苦しめたり、少しばかり良い人間になったぐらいで埋め合わせができるほど、軽くはないのです。人間にはどうすることもできないのです。ならば神に赦していただくしかないのです。ただキリストに身代わりになっていただくしかないのです。

 だからパウロは涙を流して語るのです。「彼らの行き着くところは滅びです」と。十字架に敵対するならば、十字架を不要として退けるならば、自らの罪は自分で背負うしかないのです。自分ではどうすることもできない自分の罪を、自ら背負って生き、自ら背負って死ぬしかないのです。その行き着くところは滅びです。

 パウロは十字架に敵対する人々について、「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」と語ります。パウロがそのように語るのは、彼がただ「この世」のことだけを考えているのではないからです。先に見たように、パウロは「行き着くところ」と考えているのです。最終的に神にお会いするところまでを考えているのです。14節に見たように、「神がキリスト・イエスによって上へ召して」くださっているからです。

 それをパウロは「しかし、わたしたちの本国は天にあります」と表現します。既に天を本国とする民とされているのです。そのように、キリストの十字架に敵対せず、キリストの十字架によって救われた者として、パウロは天を本国とする者として生きているのです。

 既に神の恵みによって天を本国とされている者とされているのです。だからこそ、彼はこの地上においては、ただひたすら前を向いて走るのです。神からおほめにあずかることだけを考えて、ひたすら走るのです。そのような者として、「皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」とパウロは語り掛けます。そして、二千年の時を経て、ここにいる私たちもまた同じ言葉を聞いているのです。主は私たちに語りかけておられます。皆一緒にパウロに倣う者となりなさい、と。

2024年10月16日水曜日

祈祷会用:レビ記 9:1~24

レビ記  9:1‐24
 
 9章に入りまして、ここにはアロンが祭司として初めて献げ物をささげた次第が記されています。その初めに、次のように書かれていました。「八日目に、モーセはアロンとその子ら、およびイスラエルの長老たちを呼び集め、アロンに言った。無傷の若い雄牛を贖罪の献げ物として、また同じく無傷の雄羊を焼き尽くす献げ物として、主の御前に引いて来なさい。またイスラエルの人々にこう告げなさい。雄山羊を贖罪の献げ物として、無傷で一歳の雄の子牛と小羊を焼き尽くす献げ物として、また雄牛と雄羊を和解の献げ物として主の御前にささげ、更にオリーブ油を混ぜた穀物の献げ物をささげなさい。今日、主はあなたたちに顕現される」。

 主が神の民に顕現されるのです。神が彼らの前で栄光を現されるのです。それは言い換えるならば、彼らは確かに神の前にいるのだということをはっきりと示されるということです。神の御前にあってこそ、礼拝は成り立つのです。そこで、役割を持つのが祭司です。

 罪ある民が、そのまま神の前に立つということは、本来は死を意味するのです。彼らが死なないでなお神の御前に立つことができるのは、一つには神の定めた祭儀があるからです。犠牲の献げ方については、既に述べてきたとおりです。そして、もう一つ重要なのは、祭司という存在なのです。祭司が神と民との間に立ってとりなすのです。そして、この章においては、アロンが初めてその務めを行うことになるのです。

 さて、先週申し上げたとおり、律法によって定められた祭司制度は、いわば予告編であり、本編を指し示すものに過ぎません。本編が到来して、キリストが十字架の上で血を流され、よみがえられてからは、キリストを信じる者すべてが祭司となったのです。その祭司たちは、イエスという大祭司のもとにあり、その大祭司がまず私たちのために執り成してくださっているのです(ヘブライ8:1)。それゆえに、このアロンによる犠牲の初執行もまた、私たちの姿を指し示しているものとして、祭司の務めを任されている私たち自身の働きとして、読む必要があるのです。

 そこで、まず心に留めたいのは冒頭の「八日目に」という言葉です。それはすなわち、その前に七日間があるということです。その七日間については、先週見てきました。任職の儀式の七日間です。そこで重要なのは、「あなたたちは七日にわたる任職の期間が完了するまでは、臨在の幕屋の入り口を離れてはならない」と書かれていることです。そして、こう命じられているのです。「あなたたちは臨在の幕屋の入り口にとどまり、七日の間、昼夜を徹して、主の託せられたことを守り、死ぬことのないようにしなさい」(8:35)。それは徹底的に畏れをもって神の御前に身を置く七日間です。まず、彼らが神の御前に留まらなくてはならないのです。人の前に出る前に、神の御前に居続ける日々が必要なのです。そのことを、彼らは徹底的に知る必要があったのです。

 なぜなら、これから彼らは祭儀の執行にかかわることになるのですが、祭儀において重要なのは人間が人間に関する務めを果たすことではないからなのです。そこで神がなされることがあって、初めて祭儀、すなわち礼拝は成り立つのです。それが先に見たように、「今日、主はあなたたちに顕現される」(4節)と表現されているのです。人は祭儀すなわち礼拝を、実に容易に「人間の業」にしてしまうものです。そこで人間のことしか考えないようになる。祭司たちが過ごしたのは、そうならないための七日間だったのです。アロンが人々の前で祭儀を行ったのはあくまでも「八日目に」なのです。

 ゆえにこれが、「人の業」ではないことが共同体全体にも宣言されることになります。「彼らがモーセに命じられたとおりの献げ物を臨在の幕屋の前に持って来ると、共同体全体は進み出て、主の御前に立った。モーセは言った。これは主があなたたちに命じられたことであり、主の栄光があなたたちに現れるためなのである」(5-6節)。

 そして、モーセはアロンに言います。「祭壇に進み出て、あなたの贖罪の献げ物と焼き尽くす献げ物とをささげて、あなたと民の罪を贖う儀式を行い、また民の献げ物をささげて、彼らの罪を贖う儀式を行いなさい。これは主が命じられたことである」(7節)

 主の命じられたことに従って、アロンはまず、自分のために贖罪の献げ物をささげます。任職の時だけでなく、民のために仕える度に、彼は自分のために贖罪の献げ物をささげることになるのです。

 まずアロンは「自分の贖罪の献げ物」「自分の焼き尽くす献げ物」を屠ります。ちなみに8節の「若い雄牛」は「子牛(エーネル)」という言葉です。これは出エジプト記32章にも用いられていました。民が求め、アロンが作った、あの金の子牛の像について用いられていたのと同じ言葉です。かのエーネルは罪をもたらし、今献げるエーネルは罪を贖います。思い見れば、本来ならばアロンはこの贖罪の犠牲を献げることなく、既に滅ぼされていても不思議ではありません。しかし、アロンは滅ぼされることなく、かつて金の子牛を造ったアロンが、まさに自分の贖罪の献げ物をささげなくてはならないアロンが、今、祭司として立っている姿を聖書は描き出しているのです。

 そして、これは大きくは、レビ記そのものの存在と深く関係しているとも言えます。レビ記がまとめられたのは、捕囚後の時代であると言われます。一度、バビロニアによって神殿が破壊された後、バビロンからの帰還民によって再び神殿が建てられた時代です。

 かつて子牛の像がベテルとダンに置かれていました。分裂後、北王国イスラエルの初代の王ヤロブアムが造って置いたのです。その後の王たちについては、「イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を繰り返した」という言葉が繰り返されています。ヤロブアムの罪を離れなかった北王国はやがて滅びます。南ユダは北王国の罪とその滅びを見ていたはずなのに、悔い改めることなく、やがて南王国も滅びます。エルサレムは破壊され、神殿は焼き払われてしまいました。本来ならば、それで神の民の歴史は終わりであったはずでした。

 しかし、やがて神の恵みによって、再び神殿が建て直され、祭儀が行われることになります。レビ記がまとめられたのはその頃です。レビ記をまとめた人たちは、このアロンの祭儀の初執行をどんな思いで書き記したのでしょうか。少なくとも彼らは、祭儀を行えること、礼拝を行うことができることが、ただ神の恵みによることを思わずにはいられなかったに違いありません。

 アロンが「自分の贖罪の献げ物」「自分の焼き尽くす献げ物」を献げた後、さらに命じられたとおり、彼は「民の献げ物」をささげました。血が祭壇に注ぎかけられました。そして、22節において「手を挙げて民を祝福した」と続きます。

 実際には、その後に書かれているように、「彼が贖罪の献げ物、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物をささげ終えて、壇を下りると、モーセとアロンは臨在の幕屋に入った」というのが先です。その後に、「彼らが出て来て民を祝福すると」と続くのです。祝福の前に、彼らが臨在の幕屋に入ったのは、定められていたように罪の贖いの血を振りまき、香を焚く祭壇の四隅の角に塗るためです(4:6、7他)。

 臨在の幕屋に入ることは、神に近づくわけですから、それは本来ならば死を意味します。犠牲が受け入れられなければ、すなわち携えていった罪の贖いの血が受け入れられなければ、彼らは幕屋から再び出てくることはありません。彼らが臨在の幕屋に入り、再び彼らの前に現れたということは、すなわち屠られた犠牲が神に受け入れられたことを意味するのです。そのような彼らが民の前に再び現れて、民を祝福した。それが22節の「アロンは手を上げて民を祝福した」という言葉の意味することなのです。

 その祝福の言葉はここには記されていませんが、主がアロンとその子らに与えられた祝福の言葉は民数記6:24~26に記されています。

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
 主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。
 主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。」

 そのような祝福に民があずかることができるのは、民の行いによるのではなく、ただ献げられた贖罪の犠牲が受け入れられたからであり、流された血が受け入れられたからなのです。そして、このこともまた、キリストの出来事を指し示す予型でもあるのです。主は自らを罪の犠牲として捧げられ、三日の後、キリストは復活されました。いわば主は臨在の幕屋が指し示すまことの幕屋から出て来て、その贖罪が完全であることを明らかにされたのです。そして、キリストは弟子たちを祝福して天に昇られたのです。

 このアロンによる犠牲の初執行においては、モーセとアロンが出て来て祝福した後、「主の栄光が民全体に現れた」と書かれています。さて、それはどのような形で現れたのでしょう。次のように書かれています。「そのとき主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くした」(24節)。それは本来、恐るべき光景であったはずです。主の御前から炎が出ることは、主の裁きをも意味し得るからです。実際10章では同じ火が裁きとして現れたことを見ることになるのです。しかし、印象的なのは、この恐るべき出来事を見た人々の描写です。「これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した」と書かれているのです。

 主の御前から出た火が「喜び」となったのは、最終的にアロンの祝福に至る、祭儀を見てきたからでしょう。すなわち、罪の赦しをもたらす神の恵みによって定められた祭儀が行われてきたのを見ているからです。言い換えるならば、主が命じられた祭儀の意味を悟ったということでしょう。大祭司が存在すること、祭儀が存在することの意味、礼拝が成り立つことの意味を悟ったのです。その時、主の臨在は恐れをもたらすのではなく、大きな喜びをもたらすものとなるのです。しかし、それはまた厳粛なことでもある。もし赦しに基づいた火さえも人間が侮るならば、そこにはもはや赦しは残されていない。それが続く10章で現されることになるのです。

2024年10月14日月曜日

「損得勘定で生きていきますか」

ヨハネによる福音書 11:45‐57

損か得か
 今日の聖書箇所の冒頭には、「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた」(45節)と書かれていました。「イエスのなさったこと」とはこの直前に書かれています。死んで四日経ったラザロをイエス様が生き返らせたという奇跡の話です。

 奇跡を見てイエスを信じた人はいました。そうです、確かにいたのです。しかし、奇跡は必ずしも信仰をもたらすとは限りません。同じように奇跡を見ても、なお信じようとしない人たちはいるのです。実際、あの時にもいました。同じ奇跡を見ていながら、イエスをむしろ危険人物として密告する人たちがいたのです。「しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた」(46節)とはそういうことです。

 さて、イエス様のなさったことについての密告を受けた祭司長たちとファリサイ派の人々は、最高法院を召集して言いました。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」(47、48節)。

 彼らはイエス様が「多くのしるしを行っている」ということを認めています。イエス様がなさった数々の御業に目を留めてはいるのです。しかし、彼らの関心はどこにあるのでしょう。彼らは、このイエスという方が真にメシアであるか、そうでないのか、ということには関心がありません。イエスという方が本当に神から遣わされた方であるかどうか、神の子であるかどうかということには関心がありません。信ずべき御方であるのか、そうではないのかということには関心がありません。なぜなら、彼らの関心は別のところにあったからです。

 彼らの関心はどこにあるのか。それはナザレのイエスというひとりの人物の存在が、彼らにとって《得になるか損になるのか》ということだったのです。そして、彼らの結論は《損になる》ということだったのです。イエスが存在することは、彼らにとって決定的な損失になる。「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」。

 これは最高法院が招集された時の発言であったと書かれています。このことを懸念していたのは、特に祭司長たちだったと思われます。彼らは貴族的な特権階級に属します。彼らが望んでいるのは一にも二にも現状維持です。平穏無事であることです。騒ぎは起きて欲しくないのです。メシアが到来したの何だのと言って騒いで欲しくないのです。

 実際エルサレムにおいて騒ぎが起こるなら、ローマの軍隊が介入してくることが予想されました。彼らは帝国を揺さぶるような騒ぎに対しては、情け容赦なく介入してきます。そして、それは祭司長たちにとって決定的な損失となります。だからそのような事態を恐れたのです。「イエスという男が奇跡を用いて民衆の支持を得るならば、まずは自分たちの立場が危ない。いや、それどころか、そのような危険な動きをローマ当局が察知したならば、必ず軍隊を送り込んで来るに違いない。その結果、彼らは神殿をたたき壊し、イスラエルの民を滅ぼしにかかるかもしれない」と。

 ですから、その後に大祭司カイアファが発した言葉も十分理解できます。彼は言うのです。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(49、50節)。要するにカイアファが言いたいのは、「あいつには死んでもらうことにしよう」ということです。その方が「好都合」だからです。これは原文では「得である」という意味の言葉です。

 彼らにとって最も大事なこととされているのは、何が真理かということではないのです。何が神に従うことなのか、ということでもないのです。そうではなくて、どちらの方が人間にとって、我々にとって都合が良いのかということなのです。どちらが得かということなのです。

 やがてこの同じ最高法院において、イエスが裁かれることになります。処刑が決定されるのです。その罪状は表面的には「イエスが神を冒涜した」ということでした。しかし、それは建前に過ぎなかったと聖書は言うのです。本音は別のところにありました。イエスに死んでもらうことは、彼らにとって「好都合」だったからだ、彼らにとって得だったからだと聖書は言っているのです。

 今日の聖書箇所が伝えているように、キリストの十字架は、直接的には、彼らの打算によってもたらされました。彼らはイエス様の言葉を聞き、イエス様のなさったことを見ていました。その御方が数々のしるしを行っていることも知っていました。しかし、イエス様を信じるに至りませんでした。彼らの打算がそれを阻んだからです。損得勘定が信仰を妨げたからです。自分にとって得になるか損になるかということからしかキリストを見ることができなかったからです。

わたしたちのために
 このように損得勘定とキリスト教信仰とは、本質的に相容れないもののようです。打算から近づく限り、キリストを信じるには至らない。キリストを信じることが損か得か。そこから近づくならば、キリストを信じるには至らない。

 それはある意味では必然であるとも言えます。なぜなら、神がキリストにおいて私たちにしてくださったこと、キリストが私たちのためにしてくださったこと自体が、そもそも打算からはずれたことだからです。それは人間的な損得勘定からするならば、はなはだ愚かなことに他ならないことだったからです。

 カイアファは「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」と言いました。しかし、聖書は大変不思議な説明を加えています。「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである」(51節)。

 カイアファは損得の話をしていたのです。都合が良いか悪いかの話をしていたのです。しかし、彼の考えとは全く関係なく、図らずもそれがキリストについての預言となっていたというのです。神様がカイアファの言葉をさえ用いて真理を示しておられたのです。それは何か。それはキリストの死は確かに「身代わり」としての死であったということです。

 カイアファは「国民全体が滅びないで済む方があなたがたに好都合だ」と言いました。しかし、人を最終的に滅ぼすのは、軍隊ではないのです。彼らを滅ぼすのはローマの軍事力ではないのです。人を最終的に滅ぼすのは人の力ではないのです。では、人を本当に滅ぼすのは何か。それは人間の罪なのです。そして、罪がもたらす神との断絶なのです。人間にとって本当に絶望的な状況はただ一つのことによるのです。悔い改めて神に立ち帰ることもなく、神の赦しを求めることもなく、神の愛と憐れみを信じることもなく、神から離れたままであるという現実こそが人を滅ぼすのです。神というまことの光を失うならば、人間は本当の暗闇の中に身を置くことになるのです。

 祭司長たちはローマの軍隊を見ていました。キリストの目は人間の罪を見ていました。祭司長たちは自分たちの特権の危機を見ていました。キリストは神から離れた人間の危機を見ていました。祭司長たちは自分たちの都合のためにキリストを殺そうとしていました。キリストは人間の救いのために自ら命をささげようとしていました。そうです、キリストは人間が罪を赦され、神と共に生きることができるように、人間のすべての罪を代わりに背負い、十字架において罪を贖おうとしておられたのです。これが人間の罪とキリストの愛のコントラストです。人間の打算と、打算を超えた愛のコントラストです。

 キリストは愛によって十字架に向かわれました。それは人間的に見るならば愚かなことでした。しかし、愛するということは、時として、あえて愚かになることを意味するのです。あえて損をするという選択を意味するのです。キリストはあえて損をすることを選び、身代わりとして十字架にかかられることを選ばれたのです。

 それゆえに、その方を信じようとするならば、打算によって信じることはできません。キリストを信じることが損になるか得になるかで信じることはできません。キリストの十字架の愛に目を向け、その愛に応えていくこと、それがキリストを信じることであり、キリストに従うことなのです。そこでは打算が沈黙するのです。キリストの愛によって、そこでは打算を越える決断が起こるのです。

 今から300年ほど前のこと、デュッセルドルフの美術館にあった一つの絵の前に長い時間立ち尽くしていた青年がいました。彼の名はニコラウス・フォン・ツィンツェンドルフ。後にモラビア兄弟団という信仰共同体の監督となり、霊的指導者として後世に大きな影響を与えることとなった人物です。彼が見つめていたのは、「この人を見よ」と題されたキリストの十字架の絵でした。茨の冠をかぶせられ十字架に釘づけられているキリストの姿でした。その絵のもとにはラテン語でこう記されていたそうです。「わたしはあなたのためにこのことをなした。あなたはわたしのために何をするのか。」彼はそこで確かにキリストの語りかけを聞いたのだと思います。そして、そこにおいてはもはや何が得であるか何が損であるかなどということは、どうでもよいことだったのです。彼は自らの人生を、そのままキリストに差し出したのでした。

 私たちのための身代わりの十字架。その姿は私たちに向かっても同じことを語っているのでしょう。「わたしはあなたのためにこのことをなした」と。私たちはどうお応えするのでしょう。

2024年10月9日水曜日

祈祷会用:レビ記 8:1~36

レビ記 8:1‐36

 今日お読みしたところには、祭司の任職について書かれています。祭司は、人々に代わって、人々を代表して神に近づきます。もう一方で、祭司は人々に律法を教えます。律法があるからこそ、罪もまた明らかになります。そこで祭司は教えるだけでなく、人々の弱さをたずさえて、神の御前に出て、神に語るのです。聖所の中に入ることができるのは彼らだけであり、人々は間接的にのみ神に近づくことができたのです。

 しかし、それはいわば予告編なのであって、本編を指し示すものに過ぎません。本編が到来して、キリストが十字架の上で血を流され、よみがえられてからは、キリストを信じる者すべてが祭司となりました(1ペトロ2:9)。また、イエス様ご自身が私たちの大祭司となり、神の右の座におられて、私たちのために執り成してくださっているのです(ヘブライ8:1)。それゆえ、8章から10章にかけては、祭司について書かれているのですが、そこにおい私たちは、大祭司であるキリストについて学ぶことができますし、また、祭司の務めを任されている私たち自身の働きについて学ぶことができるのです。そこで、今日は特に8章に書かれている任職式の様子から学びたいと思います。

 主は既に、シナイ山の上でモーセに、アロンとその子らの任職式に関して指示を与えています(出エジプト記29章)。ここに書かれていることは、まさに出エジプト記において主が命じられたことが実行されている次第が伝えられているのです。「これは主が命じられたことである」(5節)とモーセが語っているとおりです。
 ここでアロンと4人の息子が祭司となるための儀式が行われています。彼らが神のものとなり、神から託された働きを行うことができるように聖別されるのです。彼らは、そのままで主に用いられることはできません。アロンがモーセの兄という理由で用いられることはありません。また、息子たちがアロンとの血縁関係があるという理由で用いられることはありません。まず、主が望まれる仕方で、主の御言葉に従って聖別されなくてはならないのです。

 何のためにこんな儀式が必要なのかと問うことは無益です。主が定められたからという答えしかないからです。また主は、イスラエルの全会衆が祭司の任職式に集うように命じておられます。もちろん、現実的には全員が集まることはできないでしょうから、おそらく代表のイスラエルの長老たちが臨在の幕屋の入り口に近づいているものと思われます。しかし、いずれにせよ、祭司が任命されることは、主の御言葉に従って、公になされねばならなかったのです。

 今日、祭司としてのキリスト者が地上に存在することについても、主が定められたことがあります。キリストとの関係において「私的に」キリスト者になることはできません。なぜ十字架を通しての罪の赦しなのか。主が定められたからです。なぜ十字架を信じてバプテスマを受けることが必要なのか。主が命じておられるからです。なぜ聖餐を行うのか。主が命じておられるからです。それは個人的なことではなくすべて共同体的なことです。病床洗礼においてさえそうなのです。また、教会のすべての働きは共同体的なことであり、公のことなのです。教会とは関係なく、神の民と関係なく、個人的にキリスト者であり祭司であることはあり得ないのです。

 祭司の任職において、彼らはまず水で清められる必要がありました。祭司は神と人との間に立つのですから、その務めは汚れを帯びていてはなりません。しかし、その清さは自分自身で獲得するのではありません。人間から生じる清さが人を働きにふさわしくするのではないのです。それはまず「洗われる」ことによって得られるのです。つまり、この水による洗いは、《神によって》清められることを象徴しているのです。

 そして、彼らは新しい装束を得ることになります。彼らは長い服を着せられ、飾り帯を締め、頭にターバンを巻きます。その一つ一つの意味が何であれ、大事なことは、「着せられる」ということです。外から、神から着せられるのであって、その人の中から出て来るものではないのです。その人が祭司にふさわしいから祭司になるのではないのです。その務めは「着せられる」のです。逆に言えば、それが純粋に外から来るゆえに、その恵みに応答する責任、忠実さが求められることになるのです。

 キリスト者という祭司になるのもまた同じです。外から洗われて務めに就くのです。それが洗礼です。清めるのは神であって、清くなったから洗礼を受けるのではありません。また、その務めに就かせられるのは、着せられることに他なりません。「キリストを着る」(ローマ13:14,ガラテヤ3:27)という表現が新約聖書に出てくるのは、そういうわけです。

 続いて油が注がれます。まず幕屋と外庭にあるあらゆる用具に油を注ぎます。これらを聖別するためです。聖別とは、他のものと区別して、ただ神のものとして用いることを意味します。これらの用具、例えば、12個のパンを置く机は、他の机と区別されて、主を礼拝するためだけに用いられることになります。そのために油が注がれるのです。

 興味深いのは、続いてアロン自身にも油が注がれたということです。頭から聖別の油の一部が注がれるのです。祭具を聖別した後なら意味もはっきりします。基本的には聖別された机と一緒です。他の用途に用いてはならないということです。完全に神のものとして、神への奉仕だけに用いられる器として聖別されるということです。

 さらに、贖罪の献げ物と焼き尽くす献げ物が献げられます。私たちがこれまで見てきたように、決められた手順でいけにえがほふられます。まず、雄牛の上に手を置く。これはこの動物が、確かに自分自身であり、自分の身代わりになったことを示します。そして、この動物をほふられ、血が流されます。それを取って、祭壇をきよめるのです。ここでは水で清めるのではなく、血で清めることになります。ここにおいては、明らかに罪の赦しが問題となっているからです。そして、雄牛を解体して、脂肪と内臓の部分は祭壇の上で焼きます。肉や皮や汚物など、その他の部分は宿営の外に持っていき、そこで焼き捨てます。これは、私たちの主が、エルサレムの町の外で、神に遺棄されたものとして、十字架につけられ、死なれたことを指し示すものです。

 贖罪の献げ物は、罪を自覚することなくして献げることはできないことについては、既に申しました。祭司の務めを果たすとき最初に向き合わなくてはならなかったのは、自分が罪ある人間であるという事実でした。まず、自分の罪が贖われなくてはならないという事実を、自分自身がまず目の前で死んでいく動物の姿を通して見なくてはならなかったのです。そのことを知ってこそ、はじめて神にお仕えし、神に用いられるようになるからです。それは確かに、キリスト者が祭司としてのキリスト者として生きる上で、まず知らなくてはならないことなのでしょう。

 そして、祭司は罪を赦された自分自身を献げるのです。それを象徴しているのが焼き尽くす献げ物です。自分が罪深い人間であると知った上で、その自分の身を主におささげするのです。

 続いて、任職の献げ物が献げられます。任職の献げ物とされる雄羊については、その流された血を、祭司になる人の耳たぶと手足の親指に塗ったことが記されています。任職の献げ物においては、このことが特徴的であると言えるでしょう。すべて右側に付けられていますが、聖書では右は権威や活動の象徴です。それはすべて神の権威に服することを示しています。耳たぶに血が塗られるのは、私たちが聞くことにおいて服従することを意味します。右手の親指に血が塗られるのは、祭司の働きが神の権威に服するものとであることを示しています。手を動かすことによって、私たちは働きます。この手は、主が喜ばれることのみに用いるのです。そして、右足の親指に血が塗られるのは、私たちの歩みが聖別されるためです。私たちの足がどこに向かうかということもまた、神に服するものでなくてはならない。耳と手と足、要するに生活のすべてが聖別され、神に服するものとなるということを、この聖別の献げ物は示しているのです。

 そして、30節に示されているように、祭服には聖別の油がそそがれます。さらには祭壇の血が取られ、振りまかれて、祭服には血の染みがつけられます。それは既に述べてきたように罪の赦しと神による聖別によって務めに立っていることが、誰からの目にも明らかになるように、いつでも公にされるようにということです。それはキリスト者であることについても言えるでしょう。罪が赦された者であり、神のものとして生きていること。それが誰の目にも見えるようになっていることは、本当はとても大事なことなのでしょう。

 さて、そのような任職式は7日間続きます。33節以下においては、アロンとその子らに対して、その間、臨在の幕屋の入り口から離れてはならないという指示が出されています。それは何のためか。「死ぬことのないように」と書かれているのです。アロンとその子らは畏れをもって、その指示を聞かなくてはならなかったことでしょう。

 それは自分が何のために召されたかを徹底的に知る七日間に他ならなかったはずです。確かに、自分が資格を獲得したのではないのです。まったく恵みによって選ばれたのです。その務めも自分の内から出たものではなく着せられたものです。しかし、だからこそ畏れをもって応答し、仕えていくことが求められているのです。それこそがキリスト者の本来のあり方なのです。自分が何者であるか。何者とされているのか。私たちもまた、徹底的にそのことを見つめる期間が必要なのではないかと思います。

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