2022年5月29日日曜日

「永遠の命とは」

ヨハネによる福音書 17:1-5

永遠の命などいらない?
 使徒信条の最後の言葉は「とこしえの命を信ず」です。今日の福音書朗読にも「永遠の命」という言葉が出てきました。ヨハネによる福音書には何度もこの言葉が出てきます。よく知られているのは3章16節でしょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)。

 イエス・キリストが来られたのは、私たちが「永遠の命」を得るためだと聖書は言います。しかし、そう言いますと、「永遠の命などいらない」と仰る方もおられます。そんなのまっぴらごめんだ、と。確かに、「永遠の命」をただ「ずっと長く生きること」と理解するならば、その言葉もうなずけます。生きることが苦しみの連続である人にとっては、それが終わらないということは地獄以外の何ものでもありません。「永遠の命」が「不死」を意味するならば、「そんなものいらない」と言う人がいても不思議ではありません。

 「不死」ではないにせよ、日本は世界一の長寿国です。様々な健康法が開発され、医学も進歩しました。iPS細胞による再生医療が実用化するならば平均寿命は飛躍的に伸びるかもしれません。しかし、日本人は長寿であるから幸せかと問われるならば、必ずしもハイとは答えられないでしょう。明らかに、人間にとって重要なのは単に命の「長さ」ではないのです。そうではなくて命の「質」なのです。どのように生きているのか、ということなのです。

 聖書が「永遠の命」について語る時、それは「長さ」の問題ではないのです。それは「質」の問題なのです。どのように生きるのか。人はどのように生き得るのかということなのです。そこで心に留めたいのは、今日の福音書朗読の中で読まれたイエス様の言葉です。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(3節)。

永遠の命とは神を知ること
 主はまず「唯一のまことの神であられるあなたを知ることです」と言われました。神を知ること。それは単に神についての知識を得ることではありません。神を知ること。それは愛と信頼における神との交わりです。それが何を意味するのかは、この祈りそのものがよく表しています。

 これは最後の晩餐において最後に捧げられた祈りです。主は間もなく捕らえられ、裁かれ、十字架にかけられることを知っているのです。ですから主は祈りの中でこう言われます。「父よ、時が来ました」(1節)。それは十字架にかけられる時に他なりません。しかし、そこで主はこう続けるのです。「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」。

 これは驚くべき言葉ではありませんか。「時が来ました」。その十字架の時は、イエス様が最も惨めな姿で死んでいく時なのでしょう。しかし、イエス様にとって、それは父の栄光を現す時なのです。イエス様は父なる神への愛と信頼のゆえに、ただ父の栄光を現すことを願うのです。

 父の栄光を現すこと――イエス様にとってそれは、自分に与えられた使命を果たすことに他なりませんでした。主は心の中で既に十字架にかけられた自分自身を見ています。しかし、それが全てではありません。既にその先を見ているのです。すべてを成し遂げて父のもとに帰って行く時を思いつつ祈っているのです。「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と。既に成し遂げた喜びに溢れているのです。

 十字架を前にして、しかし喜びに溢れて、愛と信頼をもって「父よ、父よ」と繰り返されるイエス様の祈りの姿。これが父を知る子の姿です。「知る」とはこういうことです。単なる知識ではありません。愛と信頼における交わりです。そのようにイエス様が見せてくださった父なる神との交わりに、私たちもまた入れられること。そのように永遠なる神を「知る」こと。それが永遠の命だと言うのです。それは「長さ」の問題ではなくて「質」の問題なのです。人はそのように生き得るのです。

永遠の命とはイエス・キリストを知ること
 しかし、イエス様はただ「唯一のまことの神であられるあなたを知ることです」とだけ言われたのではありません。続けて「あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と言われたのです。この二つは、イエス様の中では切り離すことのできない一つのことだったのです。

 イエス様は既に成し遂げられたかのように、喜びに溢れて「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と祈りました。そして、福音書を読み進んでいきますと、その同じ言葉を人々は十字架の上から聞くことになるのです。イエス様は十字架の上で叫ばれたのです。「成し遂げられた」と。ヨハネによる福音書においては、これがイエス様の最後の言葉です。「イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた」(19:30)。

 何が成し遂げられたのでしょう。「行うようにとあなたが与えてくださった業」とは何なのでしょう。それは「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)となることでした。世の人の罪を代わって背負って死んでいく犠牲の小羊となること、罪を贖う犠牲となることでした。何のためですか。私たちが、罪を赦された者として、神との交わりに入れられるためです。イエス様が見せてくださった父と子との交わりに、私たちもまた入れられるためだったのです。すなわち、神を知るためです。ですから、それはまた神が遣わされたイエス・キリストを知ることでもあるのです。

 そのように、人はイエス・キリストの成し遂げてくださった救いの御業のゆえに、罪を赦された人として、永遠なる神との交わりに生きることができるのです。そのように唯一のまことの神を知ること。神が遣わされたイエス・キリストを知ること。それが永遠の命です。それは「長さ」の問題ではなくて「質」の問題なのです。人はそのように生き得るのです。

 そして、神を知ること、イエス・キリストを知ることが永遠の命であるならば、その命は何ものによっても奪われることはないのです。それはいかなるこの世の権力によっても、あるいは不治の病によっても、死によっても奪われることのない命です。なぜなら、何ものもイエス・キリストにおける神の愛から私たちを引き離すことはできないからです。神との交わりを奪うことはできないからです。それが「永遠の命」です。

この世において永遠の命を生きる
 さて、今日は5節までお読みしましたが、この祈りは、さらに弟子たちのための祈りへと続きます。そこで、「永遠の命」について、さらにもう一つのことに目を向ける必要があります。主はこのように祈っておられます。「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」(11節)。

 「わたしたちのように」と主は言われます。既に見てきたように、それは父と子との間における愛と信頼における交わりです。それは主が見せてくださった「永遠の命」そのものでした。そして、私たちをその交わりに招いてくださった主は、「わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」と祈られるのです。父と子との交わりが、私たちお互いの間にも実現するようにと祈っておられるのです。

 一つとなることは困難であることを私たちは知っています。なぜなら、人間はどこまでも自己中心だからです。自分が何を得られるかということが関心の中心にあるからです。他者に与える時にも、他者に仕える時にも、それによって《自分》が何かを得られるかという動機がその奥にあります。だから、その何かが得られなければ不満が生じ、怒りが生じ、決裂が起こります。そのような人間が複数存在する時に、一つとなることは難しい。それがたった二人であっても、一つとなることは難しい。私たちはそのことを良く知っています。

 しかし、主は、「わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」と祈られるのです。父なる神と御子なるイエスは、愛と信頼に満ちた交わりにおいて、永遠の命を見せてくださいました。その父と子とのように、私たちが、この世にあるお互いの関係において、永遠の命を生きることを、主は望んでおられ、祈っておられるのです。

 そして、私たちはその主が捧げられた祈りの具体的な実現を、私たちは主の日の礼拝において実際に経験させていただいているのです。自己中心の人間世界に生きている私たちが、それゆえに一つとなることが難しい私たちが、主の日の礼拝における主との交わりにおいて、私たち自身が一つとされることを経験させていただいているのです。言い換えるならば、私たちはここにおいて永遠の命を味わい始めているのです。主の日の礼拝とはそのような場なのです。

 間違えてはなりません。私たちは単に自分の宗教的なニーズを満たすために集まっているのではありません。もしそうならば、自己中心である人間のこの世の営みの延長に過ぎません。そうではなくて、神の民が主の御前においいて一つとされ、永遠の命を生きるようにと集められているのです。そして、その永遠の命を生きる者として、この世へと遣わされていくのです。永遠の命を与えるために来られたキリストの御救いを証しするために。
(祈り)

2022年5月22日日曜日

「他者のために祈る」

創世記18:20‐33

わたしは降って行き、見て確かめよう
 今日の聖書箇所には「ソドムとゴモラ」という二つの町の名前が出てきます。神に滅ぼされた町として知られる二つの町です。そのような聖書箇所ですので、ここを読むに当たりましては、やはり「神の裁き」について考えることは避けて通れません。そこでまず、主がこの二つの町について語っている言葉に耳を傾けることにしましょう。20節を御覧ください。「主は言われた。『ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう』」(18:20)。

 ここは注意深く読まねばなりません。ソドムとゴモラの悪に対する神の判断が先にあるのではありません。人間の判断が先にあるのです。神の裁きが下される前に、人間が神に訴える叫びがあるのです。原文では「ソドムとゴモラの叫び」となっていますので、外からの叫びではなく、内部からの叫びと言ってよいでしょう。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い」と訴える内部の人間の叫びがあるゆえに、主はその現実が叫びの通りであるかどうかを確認しに降りてくる。そのような書き方がされているのです。

 このように人間の訴える声の方が先にあるという記述は、私たちの経験とも符合していると言えます。実際そうではありませんか。私たちは神によって指摘されるまでもなく、この人間世界に罪があり悪があることは分かっているのです。私たち自身がこの世の悪、隣人の悪によって不当に苦しめられているならば、なおさらその悪の存在ははっきりと認識できるのでしょう。実際、私たちは自分に対するものでなくても、悪が放置されることを望みません。この世の悪が正しく裁かれることを願うのでしょう。

 確かに多くの人は「神の裁き」という言葉を好まないかもしれません。「最後の審判」という言葉が大好きであるという人にお会いしたことはありません。しかし、もう一方において、人は正しい裁きを求めているものです。神が裁く前に、この世の悪を訴え、正しい裁きを求める人間の叫びがあるのです。

 しかし、神は人間の訴えに従ってこの世を裁くのではありません。事実に基づいて裁かれるのです。ですから、事実を調べに降りてこられるのです。ここではそのような書き方がされております。そのように、決定的に重要なのは、《神が》どうご覧になるのか、ということなのです。

 そうでありますならば、他者の悪を訴えて叫んでいる時、降って来られた神の目には別の事実が目に留まっているかもしれません。叫んでいる人は自らを正しい人の側に置いて叫んでいるのでしょう。しかし、そこではその人自身の罪という事実が目に留まっているかもしれません。いずれにせよ、審判はすべての事実を《神が》どう判断されるかに基づいて下されるのです。

正しい者がいるならば滅ぼさない
 しかし、話はそこで終わりません。ここには実に奇妙なことが書かれています。しかも、そのためにかなりのスペースが割かれております。アブラハムと主なる神との間に、あたかも《値引き交渉》のようなやりとりが展開するのです。アブラハムは、主なる神から「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう」(26節)という言葉を引き出します。そして、ついにその五十人を十人にまで引き下げることに成功するのです。主は「その十人のためにわたしは滅ぼさない」(32節)と言われるのです。

 このやりとりの内容については後で触れるとしまして、そもそもどうしてこのような対話となったのかを考えてみましょう。それは言うまでもなく、ソドムとゴモラに対する神の裁きの計画をアブラハムが知ったからです。より正確に言いますならば、主なる神が自らアブラハムに打ち明けたのです。17節にこう書かれています。「主は言われた。『わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか』」。主なる神が明かしてしまったためにこの《値引き交渉》になったのですから、そもそもその種を蒔いたのは主なる神御自身に他なりません。

 考えてみますと、このように神が誰かに御自分の裁きの計画を話される場面は、聖書の中に一つや二つではありません。有名なノアの箱舟の話もそうでしょう。神は御自分の計画をノアに事前に打ち明けるのです。また、聖書に数多く登場する「預言者」という存在もまた、その事実を示しています。神は預言者を通して裁きの計画を人々に語り聞かせるのです。

 もし悪を行う者を滅ぼすことが本来の意図であり神の願いであるならば、神は黙ってそれを行えばよいはずではありませんか。しかし、神はそうなさらない。要するに、ここから明らかなことは、罪を裁いて滅ぼしてしまうことが神の本来の意図であり願いではない、ということなのです。

 そのような神の御心は、このアブラハムとのやりとりの中にも良く現れております。アブラハムが最初に問うたのは、「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」(23節)ということでした。その町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼされるのかと問うたのです。しかし、アブラハムはさらにこう問いかけました。「その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。」明らかにここには論理の飛躍があります。正しい者と悪い者を一緒に滅ぼすことが理不尽ならば、正しい者だけを救えばそれで良いはずです。なにも町全体をお赦しになる必要はありません。しかし、神はこの飛躍した論理を受けとめて、こう答えられるのです。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、《町全部を赦そう》」(26節)。

 そこから、先に触れましたように、アブラハムの交渉が始まります。彼は言いました。「もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか」。すると主は言われます。「もし、四十五人いれば滅ぼさない」。そして、主の言葉は最終的に「その十人のためにわたしは滅ぼさない」というところにまで至ります。そこでこの場面はやや唐突な仕方で閉じられることになります。「主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った」(33節)。

 なぜ十人までで話をやめてしまったのでしょう。それは恐らくアブラハムには主の言わんとしていることが分かったからだと思います。これを読んでいる私たちの目にも明らかです。この対話を読んで「ああ九人ではだめなのだな」と考える人はよほど鈍い人です。主は人数を問題にしているのではないのです。正しい者が本当に存在するか否かを問題にしているのです。ソドムとゴモラの罪を覆い、滅びから救うことができるほどに正しい人間がいるかどうかを問題にしているのです。ですから、究極的には《一人でも》本当に正しい人がいるならば、神は「町全部を赦そう」と言われるのです。

ただ一人の正しい御方
 そして、そのような究極的な神の赦しの御心は、後に預言者を通して明らかにされることになります。イザヤ書53章をお開きください。(1149ページ)。52章13節から始まるこの箇所は「苦難の僕の歌」として知られている箇所です。本当はこの全体をぜひじっくりと読みたいところですが、ここでは最後の部分だけをお読みいたします。この歌は次のような主の言葉によって締めくくられています。「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」(イザヤ53・11後半‐12)。

 細かい話になりますが、今読みました最初の部分は「義なるわが僕は…」と訳すことができる言葉でありまして、そのように訳している聖書も少なくありません。私もその方が良いと思います。ここには一人の正しい人が出てくるのです。この人は、たった一人で多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをするのです。そして、彼のゆえに多くの人がその罪を赦され、正しい者とされるのです。主なる神は、この一人の正しい人のゆえに、多くの人を赦される。それが神の御心なのです。

 しかし、問題はあのアブラハムと神との対話の場面と同じです。そのような正しい人が本当にいるのかどうか、ということです。人数の問題ではないのです。たった一人でもそのような正しい人がいるかどうかなのです。果たして、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをすることのできる正しい人が本当にいるのでしょうか。この私やあなたの過ちを担い、背いた私やあなたのためにも執り成してくれる正しい人が本当にいるのでしょうか。

 その切実な問いに対して、聖書は「いる。確かにいるのだ」と答えているのです。そして、一人の御方を指し示すのです。十字架の上ですべての人の罪を担い、「父よ、彼らをお赦しください」と執り成し祈られる一人の正しい御方、イエス・キリストを指し示しているのです。

 その正しい一人のお方がおられなかったら、罪ある私たちのいかなる祈りも意味を持たないでしょう。私たち自身も神の正しい裁きのもとにあるのですから。何を祈ろうが、私たち自身、滅びを宣告されて終わるだけでしょう。ただ一人の正しいお方がおられなかったら、罪あるこの世についてのいかなる祈りも、他者のためにささげるいかなる祈りも意味を持たないでしょう。罪あるこの世界は、滅びを宣告されて終わるだけの話です。

 しかし、聖書は「そうではない」と語るのです。この世界はキリストが来られた世界です。唯一の正しいお方が、すべての罪を担って十字架におかかりくださった世界です。だから、私たち自身が祈ることには意味がある。自分のためだけでなく、罪に満ちたこの世界のために祈ることにも意味がある。その意味において、ソドムとゴモラのために神の前に立ち続け、赦しを求めたあのアブラハムの姿は私たちのあるべき姿でもあります。私たちは、このキリストのゆえに、私たちのために執り成し祈るキリストと一つになって、キリストの体として、私たちもまた他者のために、この世界のために祈ることが許されているのです。

(祈り)

2022年5月18日水曜日

祈祷会用:ヤコブの手紙 2:14~26

 ヤコブの手紙 2:14‐26

 今日の箇所との関連で、一つの聖書箇所を開いておきます。ローマ4:1以下です。「では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』とあります。ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」(ローマ4:1‐5)。

 行いによって義とされ救われるのではない。信仰によって義とされ救われるのである。――この教理は「信仰義認」と呼ばれます。ローマの信徒への手紙において、パウロが引用しているのは、創世記15:6の言葉です。その時にアブラハムにはまだ子供が与えられていませんでした。しかし、主は彼を外に連れ出してこう言われたのです。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」と。そして、「あなたの子孫はこのようになる」と言われました。その言葉に続いて、先の引用の言葉が来るのです。信仰が義と認められたのです。その同じ言葉を、今日の箇所でヤコブも引用しています(23節)。ですから、ヤコブの手紙においても「信仰義認」の教理は前提なのです。その上でこれらのことが語られているのです。

 それゆえ、この手紙を読むに当たって、私たちもまた、まず「信仰義認」をしっかりと受け止めておく必要があります。私たちは何かを行うことによって神に義と認められるのではありません。何かを行うことによって、その報いとして救われるのではないのです。救いは恵みによるのです。私たちはただ信じて救われるのです。しかし、そのことを踏まえた上で、なお聞くべきことがある。それがヤコブの手紙のメッセージです。

 14節にはこう書かれています。「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。」ここを読みますと、信仰義認を踏まえた上で、なお聞くべき言葉がある理由が見えてきます。要するに「行いの伴わないキリスト者」の問題です。行いが伴わないことが、悔い改めの方向に向かうのならよいのです。そうではなくて、行いが伴わなくても「自分は信仰を持っている」と主張して、それで十分なのであると開き直る人々がいたということです。「人は行いによるのではなく、信仰によって義とされるのである。行いが伴わないことに何の問題があるか」という主張です。

 言い換えるならば、それは「行い」と「信仰」とを切り離してしまうという問題です。18節には「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」という言葉で表現されています。ちなみにこれはヤコブから見た「あなた」「わたし」ですから、本人が言っている言葉そのものは「わたしには信仰があり、あなたには行いがある」となります。いずれにしても、そのように両者を切り離すことはできるのでしょうか。いや、それはできないのだ、というのがここに語られているテーマなのです。

 「信仰」と「行為」は切り離せない。それは単純に考えてみればすぐに分かることです。私たちの日常において、「信じること」と「行動」は密接に結びついているからです。

 例えば、私たちは食べ物に毒が入っていないと「信じている」から、口に入れます。落ちないと「信じている」から飛行機にも乗ります。それが信じられなかったから決して口に入れないし、飛行機にも乗らないでしょう。「信じること」には、必然的に信じた者の行動が伴うのです。口でいくら「信じている」と言っても、行動がそれを否定していたら、信じていることにならないのです。

 ヤコブは、何も与えないでいて、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言う人の場合を例に挙げています。「満腹するまで食べなさい」という言葉は、何か食べるものを与えてこそ意味を持つのです。同じように、「信じます」という言葉は、信じるゆえの行動が伴ってこそ、意味を持つのです。そうではない、ただ「信じます」という言葉だけが行いから分離されるならば、それは何の役にも立たない、とヤコブは言うのです。

 このような話が出てくる背景には、教会の中に定型化した信仰告白の言葉が生まれてきたという事情があります。最古の信仰告白の言葉の一つとして知られているのは、1コリント12:3にも出てきます「イエスは主である」という言葉です。他にも、たとえば1コリント15章に、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(1コリント15:3‐4)というほぼ定型化した信仰告白の言葉が出てきます。今日私たちが唱える使徒信条は、その発展した形です。

 そのような信仰告白の発展は、異端との戦いにおいて絶対に必要なことでした。教会は自分たちが何を信じているのかを明確にする努力をしてきたのです。しかし、もう一方において信仰というものが信仰箇条に対する知的な同意であるかのように見なされる危険がありました。そして実際に、信仰箇条に同意し受け入れれば「信仰によって義とされる」のだと考える人たちも出てきたのです。

 そのような考えに対して、この手紙では「神は唯一である」という旧約時代からの定型化した信仰箇条を例として反論しています。信仰が行いから切り離され、信仰箇条に同意するだけならば、そんなことは悪霊どもだってそうしている、とヤコブは言うのです。本当に重要なのは、信仰箇条を受け入れ、同意を言い表すことではないのです。そうではなくて、言い表しているその信仰を実際に生きているかどうか、なのです。

 そのことを旧約時代の二人の信仰者を例に挙げて説明しています。一人はアブラハムです。先にも引用しましたように、彼については「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」と語られています。しかし、それはただ神様が与えてくださった約束に対して、「信じます」と告白したということではありません。彼は信じたように生きたのです。

 ここで取り上げられているのは創世記22章に書かれている「イサク奉献」の物語です。神様はアブラハムに「わたしが命じる山の一つに登り、彼(イサク)を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(創世記22:2)と言われました。アブラハムは、実際に献げようとした。どうしてですか。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」と言われた主を信じたからでしょう。

 目に見える現実としては、その約束は実現しないように見えるのです。たった一人の子孫が死んでしまうのですから。しかし、アブラハムは主を信じるゆえに、その言葉に従ったのです。そして、そのように行動したのです。その行動によって、あの星空のもとで主を信じたその信仰が全うされたのです。

 ですから、この出来事を引用して「これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」と言うのです。その意味するところは明らかでしょう。パウロの語る信仰義認を否定しているのではありません。人が義とされるのは、行いから切り離された「信仰だけ」によるのではない、ということです。もう一つの娼婦ラハブの例も同じです。なぜ、敵であるはずのイスラエル人をかくまったのか。「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」と信じたからです。それが言葉だけではなかったからです。

 行いから切り離された「信仰だけ」――それはヤコブに言わせれば死んだ信仰です。辛辣な言葉です。しかし、ヤコブは読者を断罪するために書いているのではありません。ヤコブは、私たちが何の役にも立たない死んだ信仰の中に開き直って留まるようなことが決してないようにと心から願っているのです。

2022年5月11日水曜日

祈祷会用:ヤコブの手紙 2:1~13

ヤコブの手紙 2:1‐13

 今日の箇所では、「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」(1節)と語られています。ただ「人を分け隔てすることは良くないことだから、人を分け隔てしてはなりません」と語られているのではありません。そうではなく、主イエスを信じる信仰と分け隔ては本来相容れないものであるはずだ、ということです。

 以前にも触れましたが、初期の教会が社会に与えた強烈なインパクトの一つは、本来なら共にいないはずの人々が同じ食卓についていることでした。ユダヤ人と異邦人がパンを裂いて食べている。奴隷の階級の人と自由人とが、富める者と貧しい者が、同じ部屋にいて共に賛美して食事を共にしている。これはあり得ないことだったのです。

 そのようなあり得ないことがどうして起こったのかと言えば、それはイエス・キリストを信じる信仰の絶大な価値を認識していたからです。信じて洗礼を受けていること、キリストの体の一部とされていること、キリストにあって神を父と呼べること、神の国を受け継ぐ者とされていること、その絶大な価値のゆえに、その他のこの世的な違いなど、一気に色あせてしまったのです。

 その事実をパウロは次のように表現しています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:26‐28)。

 ここでヤコブが「栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じていながら」と言っているのはそういうことなのです。そのような信仰を持っているはずなのに、分け隔てをしていたらおかしいでしょう、とヤコブは言っているのです。

 しかし、現実の教会においては、そのようなおかしなことが起こります。2節から4節にかけて、一例が挙げられています。裕福な人が特別席に案内され、貧しい人には席がないという話です。恐らくヤコブが例に挙げているようなことは、あちらこちらの教会で現実に見られたことだったのでしょう。私たちのルーツであるメソジスト教会にも、かつて教会に有料の特別席が設けられていた時代がありました。富裕層が前の方の席を買い占めるわけです。ちょうどこの教会が産声を上げた今から150年前頃、アメリカのメソジスト教会ではそのようなことが実際に起こっていたのです。

 私たちの教会ではどうでしょう。お金持ちのための特別席などはありませんが、様々な形での分け隔てや差別は起こっているかもしれません。そもそも、初期の教会で「立派な身なりの人」が優遇されていたとするならば、それは明らかにそのような人の存在が教会にとって有利であると見なされたからです。貧しい人が多かった初期の教会。実際の活動も困難であったに違いありません。聖餐のパンや食事も、裕福な人が主に用意したのです。集会の場所も裕福な人たちが提供していたのです。6節以下にあるように、この世の富裕層からしばしば教会が酷い目に遭わされたり脅かされたりする時、教会の中に富裕層の人たちがいることは安心をもたらすことになるでしょう。教会の中に起こる分け隔てや差別というものは、単にこの世的な差別意識が持ち込まれたという単純なものばかりではありません。そうではなくて、自分たちにとって有利な存在であるか不利な存在であるかによって起こるのです。

 ですから、それはこの例のような金銭的な富だけでなく、能力や年齢、性別などによっても起こり得ます。例えば、日本の多くの教会において、「若い人がもっと教会に来て欲しい」と言う声が聞かれます。それは純粋に若い人たちを愛して、若い人たちに福音を伝えたいという願いから出た言葉であるかもしれません。しかし、同じ言葉であっても、「日本の教会は高齢化しているから、もっと若い人たちに来て欲しい」という意味であったらどうでしょう。教会を維持するために必要だというだけならば、今日の聖書箇所に書かれている事例と内容的には少しも変わりません。それは「お金持ちがもっと教会に来て欲しい」と言うのと変わらない。そのように、今日の聖書箇所のようなあからさまな形でなくて、時として非常に見えにくい形で、分け隔てや差別は起こってくるのです。

 そのようにキリストを信じる信仰とは相容れないことが、現実のこの地上の教会においては起こり得ます。私たちはどうしたら良いのでしょう。そこで注目すべきは4節です。「あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。」結局、信仰とは相容れないことが起こっているのですから、問題は信仰に関わる部分にあるのです。信仰によって本当に見るべきところに目を向け、信仰によってのみ認識できる価値を認識しているかどうかなのです。そうなっていない時の判断、それが「誤った考えに基づいて判断を下した」と書かれている内容なのです。世の人が「差別をするのは間違っている。それは間違った考え方だ」と言うのとは違うのです。あくまでも信仰を問題にしているのです。

 ですから「よく聞きなさい」と言って、ヤコブは見るべきところに目を向けさせようとするのです。「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」(5節)。どこに目を向けていますか。肉の目が見ているのは、教会の中にいる貧しい一人の信徒です。しかし、ヤコブが指し示しているのは、神が選ばれたという事実です。信仰に富ませてくださったという事実です。

 そうです、既にこの上なく豊かなのです。そして、神の国を受け継ぐ者とされているという事実です。神の国は、神を愛する者に約束された国ですから、大事なことは神を愛しているということです。それ以上に大事なことはないのです。そのように、クリスチャンとされ、神を愛する者とされたという驚くべき事実に目を向けるなら、この世の富によって富んでいるか貧しいかの違いはまったく小さなものとなるはずなのです。その神様がしていることに目を向けないから、教会にとって有利にならないと考えて、「貧しい人を辱める」ということが起こるのです。

 そして、もう一つ注目したいのは先週お読みした1:25の言葉です。「しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります」。この「完全な自由の律法(直訳)」とは、神によって愛されている者として愛することだと先週申しました。神様が求めておられることは、それに尽きるのです。その律法に照らすならば、人を分け隔てすることは明らかに律法違反となるでしょう。「しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者と断定されます」(9節)。分け隔てを行うことは罪であるという認識が重要なのです。

 モーセの律法でありましても、例えばわたしは人殺しをしたけれど、姦淫はしていないから違反者ではない、などということはあり得ないわけです。その人は違反者とみなされる。同じように、愛するということに関しても、どんなに伝道熱心であっても、どんなに大きな愛の奉仕をしていたとしても、教会の中で差別が起こっていたら、その教会はあの自由の律法に違反していることになるでしょう。ですから「自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい」と勧められているのです。

 さて、そのように語り、またふるまうということは、私たちの教会において、また、それぞれ置かれている日々の生活の場において、いかなることを意味するのでしょうか。

(祈り)
 

2022年5月8日日曜日

「集められたのは何のため」

ヨハネによる福音書 13:31-35

今や、栄光を受けた
 今日の福音書朗読は、最後の晩餐の部屋からユダが出て行ったという場面です。その直前にはイエス様がユダにパン切れを渡して、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われたことが書かれていました(27節)。ユダがしようとしていたこと、それはイエスを裏切ってユダヤ人たちに引き渡すことでした。

 「この御方は私が裏切ろうとしていることを知っている」――ユダにははっきり分かったと思います。そう、ユダとイエス様だけが知っていた。他の弟子たちには何のことか分かりませんでした。「祭りに必要な物を買いなさい」と言われたのだと思った人がいました。貧しい人に何か施すようにと言われたのだと思った人もいました。本当のことは、ただユダとイエス様だけが知っていました。そして、ユダは出て行きました。

 そこでイエス様は言われたのです。「今や、人の子は栄光を受けた」(31節)。――いや、それはおかしいでしょう。イエス様はこう言うべきではありませんか。「今や、人の子は栄光を失った」。信頼していた弟子に裏切られたのですから。ユダが出て行ったことで、ちょうど時限爆弾のスイッチが入れられたように、確実に十字架刑に向かって時計の針は動き始めていたのです。それゆえにまもなく自分が捕らえられ、鞭打たれ、十字架にかけられることも、イエス様には分かっていたのです。言い換えるならば、栄光とは対極に向かっているということです。

 にもかかわらず、そこでイエス様は「今や、人の子は栄光を受けた」と言われるのです。いや、それだけではありません。「神も人の子によって栄光をお受けになった」というのです。どう考えてもおかしいでしょう。神の遣わされた独り子が裏切られるならば、神御自身も侮辱を受けたことになるではありませんか。御子は人間によって有罪とされるのです。御子が人間によって鞭打たれてボロボロにされるのです。十字架につけられて殺されるのです。それは父なる神御自身が人間によって辱めを受けることではありませんか。ユダが出て行った。今やそうなることが決定的になりました。しかし、イエス様は言われたのです。「神も人の子によって栄光をお受けになった」と。

 このような箇所を読むと、「いったい栄光とは何なのか」と、改めてそう問わざるを得なくなります。

 イエス様が「栄光」と呼んでおられるものについては、少なくとも一つのことがはっきりしています。それは、人から何を受けるかということとは関係ないということです。この世から何を受けるかということとは全く関係ないということです。人間から裏切りを受けようが、侮辱を受けようが、どう扱われようが、そんなことは「栄光」とは全く関係ないということです。

 むしろイエス様が言われる「栄光」は、何を受けたかではなくて何を与えたかに関わっていると言えます。与えたのは愛であり命です。イエス様は愛するために来られたのです。イエス様の命は愛して与えるための命だったのです。イエス様は後にこう言っています。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)。まさにその愛が実現する時、それが十字架にかかられる時なのです。だからそれは栄光の時なのです。なぜならそれは愛が全うされる時だからです。

 それは父なる神においてもそうなのです。神は独り子をこの世に遣わされました。それは神がこの世を愛しておられるからです。その愛は、一方において人間によって踏みにじられたと言えます。そうです、人間は神の愛を徹底的に踏みにじりました。しかし、それでも神は栄光を受けられたのです。神の愛の計画は全うされたからです。御子において全うされたからです。人間が侮辱しようが、十字架にかけて殺そうが、神の愛の業は全うされたのです。神の愛は貫かれたのです。御子によって御父が栄光を受けることを人間はいかなる仕方においても妨げることはできませんでした。御子によって神は栄光を受けられたのです。

互いに愛し合いなさい
 そして、そのように十字架へと向かわれる主がこう言われたのです。そのように愛を全うして父のもとに帰ろうとしている主がこう言われたのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34節)。

 今日の第1朗読では次のような律法の言葉が読まれました。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」(レビ記19:18)。隣人を愛すること、ユダヤ人が古くから伝えられてきた神の掟でした。しかし、主は弟子たちに「新しい掟」を与えると言われるのです。その新しさとは、キリストがしてくださったことによる新しさです。神が御子を通して実現してくださったことによる新しさです。

 ですから、主はもはや「自分自身を愛するように・・・愛しなさい」とは言われません。「わたしがあなたがたを愛したように」と言われるのです。主が言っておられるのは十字架の愛です。命を捨てる愛です。しかし、ここである変換が起こっています。主は「わたしが命を捨てたように、互いに命を捨てなさい」という意味で言っておられるのではないのです。原文では、「わたしがあなたがたを愛したように」とは一回限り決定的に起こったこととして表現されています。それに対して、「互いに愛し合いなさい」は継続的なこととして表現されているのです。

 イエス様が私たちを愛してくださいました。それは一回限りの決定的な出来事として起こりました。イエス様は私たちの救いのために命を捨ててくださいました。そして、そのようにあなたがたも愛しなさいと言われます。しかし、私たちはイエス様が命を捨てたのと同じ意味において命を捨てることはできません。私たちはいかなる意味においても誰か他の人の罪の贖いとして自分の命を差し出すことはできません。

 イエス様は命を捨ててくださいました。その事実を私たちの内において変換しなくてはなりません。ただ一度決定的な仕方で起こったことを、私たちの毎日の事柄に、継続的な事柄に変換しなくてはなりません。私たちは命の捨て方ではなくて、命の用い方、日々繰り返される命の与え方を見出さねばならないのです。

 そのように「互いに愛し合いなさい」と主は言われます。「互いに」という言葉は、自分以外に少なくとも誰か一人が共に存在していることを前提としています。自分一人では「互いに」は成り立ちません。誰かが他にいるということです。

 その他にいる「誰か」は何のためにそこに存在しているのでしょう。私たちは往々にして他にいる「誰か」を見る時に、何かを求める対象としてしか見ていないものです。自分に与えてくれる人。自分を愛してくれる人。自分を守ってくれる人。自分を幸せにしてくれる人。親にしても、子どもにしても、夫にしても、妻にしても、友人にしても、コンビニの店員にしても、私たちは誰かがそこにいるならば、何らかの要求をもってその人を見ているものです。「わたしの望んでいるもの、与えてよ。わたしの願っているようにしてよ」と。そして、しばしばその要求は満たされない。欲しいものが与えられない。すると腹が立つのです。怒りが起こる。そうやって争いが起こります。そうしている限り「互いに愛し合う」ということは実現しません。

 自分の他に誰かがいる。その「誰か」は何のためにそこに存在しているのでしょう。私たちが何かを要求するためではなく、私たちが愛することができるようにと、神はその人を共に置かれたのです。私たちが命を用いることができるようにと、神はその「誰か」を与えてくださったのです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」というイエス様の言葉が実現するために、「互い」が存在しているのです。

 そして、既にお気づきのことと思いますが、この「互いに」が第一に意味しているのは、親子でもなければ、友人関係でもなければ、店員さんと客との関係でもありません。それは教会です。主は言われました。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(35節)。

 牧師と信徒との関係においても、信徒同志の関係においても、教会の「お互い」をただ要求の対象としか見ていないならば、そこからは欲求不満と怒りと争いしか生まれてきません。そのようにしている限り「互いに愛し合う」ということは実現しないでしょう。

 弟子たちはイエス様によって集められました。そのようにして、彼らは互いのために命を用いる機会を与えられたのです。互いを愛する機会を与えられたのです。仕える機会を与えられたのです。時には赦しを与えなくてはならないかもしれません。そのように赦す機会を与えられたのです。

 イエス様はあえて互いに異なる人々を集められました。そこには漁師もいれば徴税人もいれば熱心党出身者もいたのです。お互いが違えば違うほど、与える機会は多くなります。仕える機会も多くなります。赦し合う機会も多くなるでしょう。そのようにして命を用いる機会は多くなるのです。そのようにして、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という言葉が目に見える形で実現するのです。

 2年前の春、新型コロナウイルスの蔓延によって、教会に集まることが困難になりました。忘れもしません、2020年3月29日の日曜日、この礼拝堂には誰もいませんでした。完全に集まることができなくなりました。

 しかし、それはまた、何のために集められているのか、何のために牧師や信徒は共にいるのかを改めて問われるという経験だったのだと思います。そこで私たちが自分の必要を満たすこと、他者に要求することしか考えられなければ、新型コロナウイルスのパンデミックが終わっても、互いに愛し合うという関係は残らないでしょう。

 今こそ私たちは、集められていることの意味と自分の命の用い方を本気で考え、祈り求めなくてはならないのだと思います。主は言われます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」そして、さらに言われます。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。

(祈り)

2022年5月4日水曜日

祈祷会用:ヤコブの手紙 1:19~27

ヤコブの手紙 1:19‐27

 この手紙の宛先は、「離散している十二部族の人たちに挨拶します」と書かれています。聖書の中の他の書簡には見られない、独特の書き方です。このような手紙はもちろん教会に対して書かれたものであって、そこにはユダヤ人もいれば異邦人もいるわけです。しかし、あえて「十二部族」と書かれているところを見ると、この読者の中にはユダヤ人キリスト者がいることが初めから念頭に置かれていることが分かります。

 ユダヤ人キリスト者というのは、律法の世界の中からキリスト者となった人たちです。それはすなわち、もともとは律法の行いによって義とされ救われると信じて疑わなかった人たちだ、ということです。そのような人たちが、「真理の言葉」(18節)に出会って、人は律法の行いによってではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救われると知ったのです。そのような人たちが念頭に置かれていることが分かると、今日の聖書箇所も理解しやすくなります。

 ヤコブは言います。「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」(19節)。ここに出てくる「怒る」というのは、単に誰かから酷いことをされて怒ることではありません。そうではなくて、いわば正義の怒りです。ですから、「人の怒りは神の義を実現しない」という話になるのです。不義に対する怒り、正義が失われていることに対する怒りです。

 ユダヤ人キリスト者たちはもともと律法の世界にいたのです。それは少なくとも表向きには、神の定められたことを守り、正しく生きることが重んじられる世界です。それは言い換えれば、定められたことを守らないこと、正しく生きていないことは厳しく裁かれる世界です。裁かれないように自分自身に正しさを要求するならば、当然、人にも要求するようにもなります。人の正しくない部分が目につきます。批判したくなます。正したくなります。律法の世界からキリスト者になった人には、そのような残渣が残っていたに違いない。そして、そのような在り方は周りの異邦人キリスト者にも影響を与えます。

 しかし、ヤコブは勧めるのです。「聞くのに早く、話すに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」それはなぜか。「人の怒りは神の義を実現しない」からなのです。人の怒りは神の目から見て正しいことを実現することはないのです。人の怒りによって神の目から見て正しい神と人との関わりは生まれないのです。「人の怒りは神の義を実現しない」。まずしなくてはならないのは、怒って何かを語ることではありません。別なことです。ヤコブは言います。「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。」

 この「素直に」は、「捨て去る」にかかると読むこともできますが、その後につながっていると読むこともできます。つまり、「心に植え付けられた御言葉を素直に受け入れなさい」とも読めるのです。この「素直に」というのは、「へりくだって」という意味の言葉です。御言葉はまず私たち自身に語られているのです。他の誰かではありません。私たち自身の罪と悪を明らかにするのです。その言葉を受け入れるには「へりくだり」が必要なのでしょう。そして、示された悪を捨てるのにもまた、へりくだりが必要なのです。

 さて、律法の世界の残渣を残したユダヤ人キリスト者がいる一方で、反対の方向に極端に触れてしまった人々もまたいたようです。すなわち、「人は行いによるのではなく、信仰によって救われるのだから、もはや行いはどうでもよいのだ」と考えてしまった人たちです。そのような人たちを念頭に置いた言葉はこの後にも繰り返し出てくるのですが、ここもまたそのようなものと考えられます。ヤコブは言うのです。「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(22節)と。

 御言葉を聞く時に、私たちは、本当は分かっているのです。これは自分に対して語られたのであり、神の言葉は私たち自身の応答を求めている、と。しかし、その一方で私たちは自分自身を欺きにかかるのです。「でも、御言葉に応答しないとしても、私たちはどうせ赦されるのだから。御言葉を行っても、行わなくても、どちらにしても救われるのだから」と。すると、もはや応答を前提として御言葉を聞くことはできなくなります。それこそ「ただ聞くだけ」になってしまう。

 それは「生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています」とヤコブは言います。鏡に映すように、私たちは御言葉によって私たちの現実を見せられるのです。実際の自分の姿を見せられるのです。しかし、応答することを前提とせずにただ聞くならば、結局は自分の姿を見せられても、意味がなくなってしまいます。どうせその姿は忘れ去られるだけですから。鏡を離れたら自分の姿を忘れてしまうように!

 そうならないために大事なことは、「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る」ことなのです。律法の行いによって救われるのではないからと言って、律法を軽んじるのではなく、むしろ「自由をもたらす完全な律法」に目を注ぐべきだというのです。これは「完全な自由の律法」が直訳です。完全な自由の律法とは、キリストによって神の愛を啓示された者として、愛する者となることです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」というキリストの律法です。福音の真理は、ただ神の愛を示すだけでなく、愛し合う生活へと向かわせるのです。愛することを求める律法は、神の要求を満足させるために与えられているのではなくて、私たちの幸いのためであり、私たちの祝福のためなのです。ですから、「このような人は、その行いによって幸せになります」と語られているのです。

 そしてさらに、ここで語られている「行い」というものが、いわゆるユダヤ人的な信心深さとは異なることをヤコブは語ります。祭儀的な事柄をきちんと守り、様々な戒律を落ち度なく守ったとしても、自分の舌を制御せずに、父である神を賛美したその同じ舌をもって隣人を呪っているとするならば、それは本当に神を崇めていることになるのか、と言うのです。舌が問題となるのは、それはまさに「愛する」ということに深く関わっているからなのです。

 そして、舌を制御することに加えて、「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること」を挙げています。みなしごとやもめは、社会の中において弱い立場にある人々を代表しています。私たちは、「すべての人を愛し、すべての人を受け入れます」などと言う必要はありません。なにも大きなことが求められているのではないのです。すぐ目の前に助けを必要としている人がいる。支えを必要としている人がいる。その人を助け支える。それは具体的なことです。そのためには世捨て人になってはなりません。信仰者はこの世のただ中に生きなくてはならないのです。御子があえて肉を取られてこの世のただ中で生活されたようにです。だからこそ世の汚れから自分を守ることが課題となるのです。

 身近な人間を愛することを抜きにした清さや信心深さとは何なのか。怒りばかりが燃え立っている《正しさ》の主張とは何なのか。何が本当に神の望んでおられることなのか。改めて問われているように思います。私たちが一心に目を向けるべきは完全な自由の律法、救い主であるキリストが与えてくださった律法です。

2022年5月1日日曜日

「神は心にかけていてくださいます」

ペトロの手紙一 5:6‐11

悪魔に抵抗しなさい
 今日は第二朗読でペトロの手紙が読まれました。8節をご覧ください。「身を慎んで目を覚ましていなさい」(8節)。そう書かれていました。「身を慎んで」とは、「醒めていること、冷静であること」を意味する言葉です。その反対は熱狂であり陶酔です。そうなってはならない。それはなぜか。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(8節)。それが理由です。

 今日の一般的な感覚からすると、これは奇妙に聞こえるかもしれません。例えば皆さんが誰かに「悪魔がライオンのように歩き回っているから気を付けなさい」という話をしたら、その人はどう思うでしょう。恐らくその人はあなたを狂信的な人か現実から遊離している人と見なすでしょう。とても冷静に物事を考える人とは見てくれないに違いありません。しかし、ここでペトロが言っていることこそ、まさに冷静で醒めているために必要なことだと言うのです。

 それはなぜか。それはこれを読んでいた人たちのことを考えると分かります。この手紙の読者は、迫害を受けていた教会の人たちです。他の人たちから苦しめられている人たちです。そのような状況に置かれたら、どうしても自分に不当な苦しみを与える人、侮辱したり中傷したりする人に目が行ってしまうものす。だからこそ、本当の敵が誰であるかをペトロは語るのです。

 本当の敵は人間ではなく、「悪魔」なのです。「悪魔」という言葉に抵抗があるならば、「悪そのもの」と呼んでもよいでしょう。人間を相手にした戦いや争いの泥沼に呑み込まれてしまってはならないのです。身を慎んで、冷静に正しい判断をなすことができなくなるからです。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」というこの言葉を、現代に生きる私たちもまた、自分自身のこととして聞かなくてはならないのです。

 人間相手の戦いならば、こちらが相手よりも強くなることが重要になるのでしょう。しかし、悪魔が敵であると認識するならば、戦い方もおのずと違ってまいります。ペトロは何と言っていますか。「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」(9節)とペトロは言います。そうです、悪魔相手の戦いならば、何よりも重要なことは、信仰にしっかりと踏みとどまることなのです。

信仰にしっかり踏みとどまって
 「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」ということとの関連で、既に大事なことが前の方で語られていますので、そこも見ておきましょう。今日の第2朗読は6節からでした。もう一度お読みいたします。「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(6‐7節)。

 その直前には「皆互いに謙遜を身に着けなさい」ということが書かれています。今日の箇所はその続きです。しかし、単に謙遜を美徳として勧めているだけならば、「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」とか「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」という言葉は必要ありません。明らかにこれは、読者が苦しみの中にあるから書かれているのです。その中で悪魔との戦いの中にあるからこそ書かれているのです。

 苦しみの中にある時、特に、特定の誰かから苦しめられている時、まず考えなくてはならないのは、「わたしは神の御前でへりくだっているか」ということなのです。いつの間にか神に対して恐ろしく不遜な態度を取っていることがあるからです。お互いに謙遜を身に着ける以前に、そもそも神に対して謙遜を身に着けているか。そのことを問わなくてはならないのです。なぜなら、神の力強い御手の下でへりくだることがなかったら、その次に書かれているように、思い煩いを神にお任せするということもできないからです。

 神の力強い御手を侮ってはなりません。私たち自身が、神の力強い御手の下で自分を低くしなくてはなりません。神に対して謙遜を身に着けなくてはなりません。そうしてこそ、《力強い御手を持った神》がまた、《私たちを心にかけていてくださる神》であることを知るようになるからです。

 「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」と書かれています。「心にかけてくださるからです」ではありません。「いつか心にかけてくださるでしょう」と言っているのではありません。「いつも心にかけていてくださっている」と言っているのです。

 私たちが高ぶって、神を忘れていたり、不遜な態度を取っていたときにも、神の方は、心にかけていてくださったのです。私たちがそのお方に背を向けて、自分の力に頼って生きていたそのときでさえ、神は私たちを心にかけていてくださったのです。

 神はいつだって心にかけていてくださる天の父です。しかし、私たちが傲慢な態度を取っている限り、その真実は見えてきません。力強い御手の下に低くなった時にこそ、今に至るまで心にかけていてくださった御方の真実に触れることができるのであり、そうあってこそ初めて、思い煩いをゆだねることができるのです。

 「信仰にしっかり踏みとどまる」とは、そのようなことなのでしょう。何か自分が強い者になることではありません。揺るぎない信念を持つようなことでもありません。へりくだることなのです。神の力強い御手の下に身を低くする。そして、心にかけていてくださる御方に私たちの目を向け続けることなのです。それこそが悪魔に対する抵抗ともなるのです。

完全な者としてくださいます
 そして、ペトロは「信仰にしっかり踏みとどまりなさい」と言うだけでなく、信仰に踏みとどまろうとする彼らをつっかえ棒で支えるかのように、彼らが忘れてはならない大事な言葉を付け加えます。「あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです」(9節)。

 日本の教会だけを考えていたら見えてこないかもしれませんが、今の時代であっても、迫害や無理解の中で、あるいは貧困や不安定な社会情勢の中で、私たちの想像も及ばないような苦難を耐え忍びながら、なおも信仰に踏みとどまって言葉と行いをもってキリストを証ししているキリスト者たちが現にいるのです。さらに歴史を遡るならば、私たちがこうして福音にあずかるまでには、おびただしい人たちが涙を流し、血を流して信仰に留まり、福音を宣べ伝えてきたという事実があるのです。苦難の中で神の愛を疑って背を向けるのではなくて、苦難の中でこそ神の変わらない愛を味わい知り、神は確かに心にかけていてくださるということを知って、喜びに溢れて生きてきた人たちがいるのです。実際、これを書いているペトロもそのような一人だったのです。そのような人々のことを忘れてはならないのです。

 そして、さらにペトロはもう一本のつっかえ棒を加えます。こう書かれています。「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」(10節)。

 ここには「永遠」と「しばらくの間」の対比があります。苦しみは永遠ではありません。「しばらくの間」です。私たちが招かれているのは「永遠の栄光」です。それは一時的なものではありません。苦しみのその先に、永遠の栄光に招いてくださった神御自身が「しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」と約束してくださっているのです。

 「完全な者とする」とは、「破れたものを修復する」というような意味の言葉です。もしかしたら、迫害によって肉体的に加えられる危害のことが考えられているのかもしれません。あるいは、様々なものを失うことが考えられているのかもしれません。いずれにせよ、人間であれ悪魔であれ、肉体や心にいかなる危害や傷を加えたとしても、あるいは何を奪っていったとしても、苦しみの後には最終的に神が責任をもって完全に修復してくださり、すべてを回復してくださるのです。

 さらには強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださるとの約束が続きます。今は戦いがあります。信仰にしっかりと踏みとどまることは戦いです。悪魔との戦いです。揺らぐことも起こるでしょう。倒れそうになることもあるでしょう。しかし、そのような状態が永遠に続くわけではありません。最終的に、完全な勝利の中で、もはや揺らぐことはないようにしてくださるのです。もう揺るがない。もう倒れる心配もない。戦いが終わる時が来るのです。

 それはすべて神によるのです。それまで私たちが頑張って強くならねばならないのではありません。繰り返しますが、大切なことは、神の力強い御手の下で身を低くすることです。へりくだることです。ですからここでもペトロは「力が世々限りなく神にありますように、アーメン」と言って締めくくっているのです。

 そうです、私たちにとっても大事なことは、御前にへりくだって、力ある神、そして、心にかけていてくださる神に信頼して、ペトロと共にこう唱和することなのです。「力が世々限りなく神にありますように、アーメン」。


(祈り)

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