ルカによる福音書 4:1‐13
教会の暦では、キリストの御受難を覚えるレントに入りました。その第一主日である本日、与えられていますのは、イエス様が洗礼を受けた後、荒れ野において悪魔から誘惑を受けたことを伝えている聖書箇所です。私たちはこの箇所を通して、主が受けられた誘惑について思い巡らし、私たちが打ち勝たねばならない誘惑とは何であるかを共に考えたいと思います。
人はパンだけで生きるものではない
初めに1節から4節までをお読みしましょう。「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。『神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。』イエスは、『「人はパンだけで生きるものではない」と書いてある』とお答えになった」(4:1‐4)。
この場面を想像してみてください。ここで「石」は単数です。ならば出てくるパンも一つです。空腹の時に、その欠乏を一つのパンによって満たそうとすることが、そんなに悪いことなのでしょうか。こんなつまらないことを要求するために、悪魔は現れたというのです!悪魔なら悪魔らしく、もっと悪いことを要求すべきではないでしょうか。空腹ならば強盗でもして金を奪え、と言っているならば、いかにも悪魔らしいと言えるでしょう。しかし、これが悪魔の誘惑なのだと聖書は伝えているのです。大きな悪への誘いだけが悪魔の誘惑なのではありません。むしろ「どこが悪いのか」と思えるような小さな行為への誘いにこそ、悪魔の誘惑があるのです。
この場合、何が問題なのでしょう。イエス様の答えを聞いてみましょう。主は申命記の言葉を引用して、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」と答えられました。ということは、悪魔のこの小さな誘いの中に、「人はパンだけで生きられる」と思わせる誘惑があるということです。実は、主の引用された申命記の言葉は、次のように続きます。「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)。つまり、「人はパンだけで生きられる」と思わせる誘惑とは、言い換えるならば、「人は神の言葉によって生きる」という真理から引き離す誘惑に他ならないのです。
実際、こんなことを考えてみてください。ある人の生活上に困難な問題が生じたとします。そして、彼は自らにこう語りかけます。「こんな大変な時に、教会どころじゃないだろう。聖書なんか読んでいる場合じゃないだろう。」そのようなことは私たちの誰にでも起こり得ると思いませんか。空腹の時には「パンさえあれば」と考える。何かが足りなくて困っている時には、必要なものさえ与えられればと思うものです。何か悩みがあれば、この悩みさえ解決すればと考える。そのようにして、神の言葉を求めること、神の御心を尋ね求めることは二の次、三の次になってしまいます。
神の言葉を求めずに、ただパンだけを求めていたら、実際その人はパンを得るかもしれません。悩みの解決を得るかもしれません。それは喜ばしいことに見えるでしょう。しかし、ただ欠乏が満たされて一件落着となってしまうなら、その人はその後、「人はパンだけで生きるものではない」と語る人になるでしょうか。「困難の中にあるからこそ神の言葉を求めよう。大変な時だからこそ、神の言葉によって生きるのだ。」そのように自らに語り、また他の人に語り得る人になるでしょうか。ならないでしょうか。こうして改めてそこに自分の身を置いてみると、イエス様が受けられた極めて特殊な誘惑は、私たちにとっても非常に身近な誘惑であることが分かるのです。
あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ
次に5節から8節までをお読みしましょう。「更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。『この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。』イエスはお答えになった。『「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある』」(4:5‐8)。
これが第二の誘惑です。少なくとも「石をパンにせよ」という第一の誘惑よりは分かり易いように思えます。人類の歴史において、まさに悪魔に心を売り渡すようなことをして権力と繁栄を手に入れようとした人は星の数ほどいるからです。
しかし、改めてよく考えますと、話はそれほど単純ではありません。そもそも、キリストが自分の欲望を満たすために国々の権力や繁栄を求めるでしょうか。いくら悪魔でも、いや悪魔だからこそ、そのくらいのことは分かるはずです。そうしますと、ここで語られているのは、「正しい道を外れてでも権力と繁栄を手にしなさい」といった単純な誘惑ではなさそうです。
確かに、人が私利私欲のために権力と繁栄を求めるとするならば、そこに悪魔の誘惑があるということはとても分かり易いと思います。しかし、これが良きことの実現のためであったらどうでしょう。神の国の実現のために、権力と繁栄を得るということであったらどうでしょう。例えば、教会を考えてみてください。教会が国々の権力と繁栄を得るという事態が起こった時に、果たしてそこに悪魔の誘惑があると教会は考えるでしょうか。
仮に、有力な政治家が、あるいは各分野において指導的な立場にある人々が、影響力の大きい著名人や有名人が洗礼を受けキリスト者となったらどうでしょう。それは喜ばしいことであるには違いありません。しかし、それは一人の罪人が神のもとに立ち帰ったことにおける喜びであるはずです。しかし、その時、教会はそのことを喜ぶのではなくて、教会に影響力や支配力が加えられたことを喜ぶようになるかもしれません。そこに悪魔の誘惑があることを果たして考えることができるでしょうか。
実際に、イエス様が誘惑を受けた時から約300年後、ローマの皇帝コンスタンティヌスが回心してキリスト者となりました。それまで迫害を受けていた教会は、ローマの国教となりました。教会はまさに「国々の権力と繁栄」を手にするようになりました。教会はそれを《教会の勝利》と見なしました。しかし、そこに悪魔の誘惑はなかったでしょうか。
イエス様は「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と言って悪魔を斥けました。そこには確かに「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」ということから引き離す誘惑があったのです。先に述べたようなことが教会に起こる時、誰も自分が悪魔にひれ伏して、悪魔を拝んでいるなどとは考えないでしょう。しかし、いつの間にか、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という神の言葉から引き離されてしまうということが起こり得ます。それよりも力や繁栄を与えてくれる他のものの方が重要に思えてくるのです。 その時、人は知らないうちに、悪魔の誘惑に陥り、悪魔に膝をかがめているのかもしれません。その意味で、これは信仰者個人としても、教会としても身近な誘惑であると言えるのです。
あなたの神である主を試してはならない
最後に9節から13節までをお読みしましょう。「そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。『神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。「神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。」また、「あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。」』イエスは、『「あなたの神である主を試してはならない」と言われている』とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」(4:9‐13)。
私は高いところが苦手です。痛いことは嫌いです。勇敢でもありません。ですから、勇敢な人を羨ましく思います。命がけで行動した人の話を聞くと単純に感動します。そのような人を神が奇跡的に助けられたという話ならなおさらです。しかし、それは私だけではないかもしれません。神に信頼して大きな決断をなした人を、神が奇跡的に助けられたという話を、信仰の証しとして耳にすることがあります。それを聞いた人は、「わたしもあのようでありたい」と思うかもしれません。
しかし、注意しなくてはなりません。聖書はそのようなところにも悪魔の誘惑があると語るのです。悪魔はイエス様に、神の子として神に信頼した命がけの行動を求めたのです。悪魔は要求の正当性を、聖書を引用して裏付けることさえしています。もし、イエスが飛び降りるなら、その行為は父なる神への揺るぎ無い信頼の証となる。また、その信頼に応えてくださる神の愛を実証することになる。そして、人々がそれを見て神を信じるようになる。――それは喜ばしいことではないでしょうか。しかし、主はこう言って悪魔の要求を斥けたのです。「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」。
一見すると命がけの信仰の決断と行為が、実は神を試みることでしかない。そのようなことが起こります。何が欠けるとそうなるのでしょう。それは神への従順です。そして、神に従順であり得るのは、神の御心を求める人だけです。神の御心に関心のない人は、神が求めもしないのに神殿の屋根から飛び降りるようなことをするのです。それは信仰の行為ではなく、神を試みる行為でしかありません。
他者の信仰的な行為に感動し触発されて何かをしようとしている時、私たちは注意せねばなりません。神が他の人に求めたことをあなたにも求めているとは限らないからです。それは悪魔の誘惑かもしれません。
イエス様は、悪魔の求め従って神殿の屋根から飛び降りるようなことはしませんでした。主にとって重要なのは、父なる神が願っていることを実現することだったからです。イエス様が父への信頼を示されたのは、神殿の屋根の上ではなく、十字架の上でありました。主は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)と言って、息を引き取られたのです。主は最後まで悪魔の誘惑に屈しませんでした。
私たちも、主の助けを求めつつ、悪魔の誘惑に打ち勝たねばなりません。そのためには、御言葉に耳を傾け、何が悪魔の誘惑であるのかをしっかりと見極めねばならないのです。
(祈り)
2023年2月26日日曜日
「悪魔の誘惑に要注意」
2023年2月19日日曜日
「招き、迎え、天からの恵みを分かち合う」
ルカによる福音書 9:10-17
主が迎えられるなら
「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13節)。そうイエス様は弟子たちに言われました。「彼ら」とは集まっていた大群衆です。男だけでも五千人はいたと言います。女性と子どもを合わせたら一万人を越えていたことでしょう。
なぜそのような大群衆がそこにいたのか。イエス様がベトサイダにいることが知れてしまったからです。「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った」と書かれています。しかし、それだけではありません。なぜそこに大群衆がいたのか。イエス様が彼らを「迎え」たからです。「イエスはこの人々を迎え」と書かれている。11節に使われているのは「喜んで迎える」という意味の言葉です。
弟子たちからすれば想定外のことでした。「イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた」(10節)と書かれていますように、予定としては彼らとイエス様だけで静かに過ごすはずだったのです。イエス様はどうして「予定がある」って言って断ってくれなかったのでしょう。「弟子たちも宣教旅行の後で疲れているのだから」とどうして言ってくれなかったのでしょう。
ともあれイエス様はそうなさいませんでした。「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」(11節)。もちろんスケジュールはイエス様がお決めになるのです。仕方ありません。イエス様がお働きを終えたら、ともかく群衆を早々に解散させたらよいと弟子たちは考えていたと思います。
やがて日も傾いてきました。十二人の弟子たちはそばに来てイエス様に言いました。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」(12節)。
ユダヤ人の社会では旅人をもてなすことが美徳と考えられていました。あの大群衆も個々人については旅人ですから、それぞれ散り散りに村々に行くならば、彼らを迎え入れてくれる家もあるでしょう。食事を出してくれる家もあるでしょう。なければお金を出して宿を取り、食べ物を買うまでのことです。
ところがイエス様は弟子たちにこう言われたのです。「《あなたがたが》彼らに食べ物を与えなさい」。「彼ら」とはイエス様が迎えた人々です。そうです、イエス様が迎えたのです。しかし、今度は弟子たちがこの大群衆を迎えなくてはならなくなりました。「あなたがたが食べるものを整えて、彼らを迎えてもてなしなさい」と主は言われるのです。そのように、イエス様が彼らを迎えたのなら、弟子たちもまた彼らを迎えることになるのです。
さて、私たちはしばしば喜びをもって、どんな人をも受け入れてくださるイエス様について語ります。「イエス様は全ての人を愛しておられます」「イエス様は全ての人を招いておられるのです」と口にします。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というイエス様の言葉を愛唱している人は少なくありません。しかし、私たちはよくよく考えなくてはなりません。イエス様がすべての人を受け入れてくださるなら、わたしの隣にはいて欲しくない人がいることになるかもしれません。イエス様が招かれるのなら、私たちもまた招き迎えることになるのです。その意味で、「すべての人を招き迎える教会」という今年の年度主題を改めて考えさせられる聖書箇所であるとも言えます。
天からの恵みを分かち合う
さて、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われた弟子たちは、すぐさま「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」(13節)と答えました。
もちろん弟子たちはすべての人々のために食べ物を買いに行くつもりなどありません。要するに「無理です」と言っているのです。パン五つと魚二匹しかないのに、彼らに食べ物を与えるのは絶対に無理です、と。 しかし、彼らが持っているもので足りないことなど、イエス様は重々ご承知なのです。その上で彼らを人々に向かわせられたのです。
五つのパンと二匹の魚を手にして途方に暮れている弟子たちに、主はこう命じられました。「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」(14節)。弟子たちはただ主の言われるままに、人々を座らせました。その後に起こった出来事は、次のように記されています。「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」(16‐17節)。
いったい、そんなことがあるものか。どうしてそんなことが起こり得ようか。そう思う人がいても不思議ではありません。実際、そこで何が起こったのかは、良く分かりません。しかし、この物語が伝えようとしているメッセージそのものは明瞭です。群衆が満たされたとするならば、それは弟子たちの持っていたものによってではなかった、ということです。
弟子たちは群衆を満たすだけのものは持っていませんでした。しかし、それを弟子たちはイエス様に差し出した。イエス様がそれを受け取られた。そして、イエス様が祝福し、裂いて弟子たちに渡してくださった。弟子たちはそれを汗水流して人々のもとに運んだのです。そうです、それが「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」という言葉の意味するところだったのです。
では、そこで弟子たちがキリストから受け、群衆に手渡したものはいったい何だったのでしょうか。群衆が受けたものはいったい何だったのでしょうか。パンと魚。食べる物。確かにそうです。しかし、群衆がただパンと魚を食べて満腹したというだけならば、本質的には私たちがバイキングに行って腹いっぱいになるのと変わりません。そんなことを伝えるためにこの物語が四つの福音書に記されているのではないのです。
彼らは単にパンと魚によって満たされたのではありません。そうではなくて、天の恵みを共に分かち合う喜びによって満たされたのです。そのパンが弟子たちの懐からではなく天から与えられていることは明らかだったからです。彼らの多くは、かつてイスラエルが荒れ野において「マナ」と呼ばれる天からのパンによって養われたことを思い起こしたことでしょう。あるいは詩編において「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(詩編23:1)と歌われていることを思い起こしたことでしょう。そして、メシアの王国が到来する時に、そこで祝宴が行われるという人々が抱き続けてきた希望を思い起こしたことでしょう。群衆が味わっていたのは、まさに神と人とが共にあり、人と人とが共にあって恵みを分かち合う神の国の喜びだったのです。
これはわたしの体である
考えてみれば、それは本来、集まっていた群衆と全く無縁のものではなかったはずです。というのもイエス様がそこで口にした賛美の祈りの言葉は、恐らくユダヤ人なら誰でも知っている祈りの言葉であったに違いないからです。食事において捧げられる讃美の祈りがある。それは本来食事というものが、天から与えられて分かち合われるものであることを意味します。それは神と人との交わり、人と人との交わりを指し示しているものであるはずなのです。
そのように食事というものが本来持っているはずの喜びが、ここで改めてリアルに手渡されることになりました。天の恵みを共に分かち合う喜びが、とてつもなく豊かに手渡されることになりました。なぜでしょうか。その食卓の主としてパンを手渡しているのが、他ならぬイエス・キリストだからです。神と人とが共に住み、人と人とが共に住む神の国をもたらすために、私たちの救いのためにこの世に来られたメシアだからです。
この福音書を読んでいきますと、この場面と同じように、食卓の主人として祈りを捧げるキリストの姿に行き当たります。22章に記されている最後の晩餐の場面です。「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』」(22:19)。
そして私たちは、その主の言葉どおりに事が進んでいったことを知っています。「これはわたしの体である」と言われた主は、その言葉のとおり、パンだけでなく、自分自身をも裂いて渡してしまうおつもりでした。――その翌日、主は十字架にかけられて死なれたのです。イエス様は私たちの罪の贖いのために、自らの体を、自らの命を裂いて渡してくださいました。私たちが罪を赦された者として、神と共に生き、人と共に生きるようになるためです。あのガリラヤの草の上で人々が味わい知ったことが、本当の意味で実現するためでした。
そのようにキリストは神に感謝して御自分の体を裂いて私たちに手渡してくださいました。しかし、それはただ私たち自身が満たされるためではありません。主が迎えられる人々がいるのです。主は言われるのです。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。主が迎えられる人々を、私たちもまた迎えるのです。主の命を手渡すために迎えるのです。それは、命の糧を手渡し、天からの恵みを分かち合い、共に喜びに満たされるために他なりません。それが主の望まれる教会の姿です。
(祈り)
2023年2月15日水曜日
祈祷会用:ヨハネの手紙一 4:1~10
ヨハネの手紙一 4:1‐6
これまで度々グノーシスという異端の話が出て来ましたが、そもそもどうして当時の教会の中にそれほどこの異端が広まったのでしょう。一つには、その背景となっている哲学的な思想体系が知的な人々の欲求を十分に満足させるだけの内容を持っていたということが理由として挙げられます。異端の教師たちはある意味では当時の哲学的な思想に精通していた人々でありましたから、その教えの前には、教会が伝えてきた受肉や贖罪の思想があまりにも素朴で単純に思えたことでしょう。正統的な信仰に留まっている信者は時代に取り残されているかのように感じたかもしれません。
しかし、それでもなお知的な魅力だけでは、それほど教会の中に異端が広がることはなかっただろうと思うのです。ではなぜ広がったのか。そこには感覚に訴えるものがあったからです。つまり異端の教えには神秘的な現象や霊的な体験が伴っていたということです。肉体という牢獄から解放されるという教えには、実際に肉体から解放されるような恍惚感の体験が伴っていたのでしょう。そのような霊的な体験や現象というものに教会は弱いのです。不思議なことが起これば、それは神から来ていると思ってしまう。神秘的な体験が伴うところで語られることは無条件で真理であると単純に思ってしまうものなのです。
だからこそ、ヨハネはこう語っているのです。「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです」(1節)。神秘的な現象が必ずしも神からのものとは限らない。霊的な体験が必ずしも神からのものとは限らない。霊的な力を行使して奇跡を行うような人が語る言葉が、必ずしも神からの言葉とは限らない。そういうことです。そこで語られる言葉は吟味されなくてはならないのです。私たちは神から出たものかどうかを確かめなくてはならない。きちんと判断しなくてはならないのです。
ではどのように判断したら良いのでしょう。ヨハネはこう言うのです。「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります」(2節)。
ここで問題となっているのはキリストの「受肉」を信じる信仰です。そして、キリストが肉を取って来られたのは、十字架にかかって罪の贖いをするためですから、「受肉」を信じる信仰は、「贖罪」を信じる信仰と不可分の関係にあります。ですから、ここでは「受肉」についてだけ語っていますが、4章のこの後の部分では「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:10)と語られているのです。要するに、判断の基準は「受肉」と「贖罪」を信じる信仰を告白しているか否かです。ということは、人間の罪の問題ときちんと向き合っているということです。言い換えるならば、罪の問題が隠れてしまう暗闇の中を歩いているのではなく、光の中を歩いているということです。
以前も申し上げましたように、グノーシスの異端は受肉と贖罪を否定していました。御子なる神が肉体を取って十字架にかかって死なれたということを否定していたのです。彼らは否定することができたのです。贖罪を否定することは問題にならなかったのです。なぜなら罪そのものの重大さを認めていなかったからです。罪の贖いがなくても、体から解放されるような神秘体験を得ていれば、もうそれで神の結ばれているように思えたし、救われているようにも思えたのです。だからいくら肉体が罪を犯していても、もはや問題にはならなかったのです。肉体をもって憎み合っていても、問題にはならなかったのです。受肉したキリストがかかられた十字架がなくてもやっていけたのです。
十字架なしでもやっていけるように思わせてしまう神秘体験が、実はどれほど恐るべきものであるか考えてみてください。十字架抜きで、神秘体験そのもので神と結ばれているように思ってしまったら、もはや罪の悔い改めはあり得ないでしょう。罪が明らかにされる光の中に身を置く必要も感じないでしょう。自分は恍惚感の中にあって神と結ばれているように思いながら、実際には行動としては神の律法に背き続け、罪の負債を抱えたままで、もはや神の赦しも憐れみも求めることができない者となってしまう。それは恐ろしいことでしょう。そのような霊的体験は、まさにキリストに逆らうものではありませんか。キリストが来られた目的と真っ向から対立するものではありませんか。ですから、「反キリストの霊です」とまで言われているのです。
判断基準は受肉と贖罪です。キリストの十字架です。ここから引き離すものは、すべてキリストに逆らっているのであり、反キリストです。聖書は、様々な霊的な現象や霊的な体験があることを否定していません。それは霊的な体験について「それは脳内物質の分泌の問題である」とか、奇跡を目撃した時に「これは偶然が重なっただけである」といった仕方で合理的に説明する必要はありません。合理的な説明を超えたことは起こるのです。占いの類は確かに当たるのであり、だからこそ古代から絶え間なく行われてきたのです。奇跡的な癒しは起こるのです。それもまた古代から人間が目撃してきたことなのです。今日でもいくらでも起こっていることです。ですから今日でも奇跡を売り物にするYoutuberは存在しますし、その手の書物は枚挙にいとまがないほどです。しかし、それは必ずしも神からのものではなく、往々にしてそれは反キリストの霊であるということを私たちは忘れてはならないのです。
特に、人々が喜んでいる時には、そのことをよく考えなくてはなりません。誰かが奇跡的に癒されて喜んでいたら、単純にそれは良いことだと思うわけでしょう。未来予知の能力を持つ人が誰かの人生についてアドバイスすることによって、その人が安心を得たり、悩みが解決していったりしたら、それは良いことだと思うわけでしょう。グノーシスの異端にしても、必ずしも不道徳の種を撒き散らしていただけではなくて、人々に幸福感を与えたり、喜びを与えたり、悩みの解決を与えたりしていたのだろうと思うのです。しかし、それでもなお、もしそれで人が罪の悔い改めから遠ざけられたり、十字架による救いから遠ざけられたりするならば、それはまさに恐るべき反キリストの霊の業に他ならないのです。
そうしますと、教会における戦いというものは、まさにこの反キリストの霊との霊的な戦いであることが分かります。外からの迫害についても、本当は迫害者そのものが敵なのではなく、人間そのものと戦ってはならないのと同じように、異端の問題にしても異端の教師たちやその追従者が敵なのではなく、そこにおいても人間そのものに憎しみを向けたり戦ったりしてはならないのです。反キリストの霊との戦いなのです。
ところで、この霊的な戦いということについて、ヨハネの手紙を読んでいるこの教会はどのように感じていたのでしょうか。グノーシスの異端の方が実は外に対する伝道も進んでいたのです。ギリシアの文化圏の人にとっては、グノーシスの異端の方がはるかに受け入れやすかった。また世の人々にとりましても感覚に訴える体験的な内容も魅力であったに違いありません。ですから正統的な信仰を保とうとしている人たちは、自分たちがかなり劣勢にあると感じていたのではないでしょうか。私たちも、グノーシスの異端ではありませんが、この世に働いている、キリストから引き離そうとする諸々の力に対して、教会は極めて劣勢であるかのように感じることがあるかもしれません。
しかし、ヨハネは言うのです。「子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです」(4節)。「世にいる者」とは悪魔のことです。神の方が悪魔よりも強い。当たり前のことです。それゆえに、もう既に教会は異端に勝っている、とヨハネは言うのです。実際どうですか。グノーシスの異端は歴史から消えていきました。私たちは心配しなくてはよいのです。ただ必要なことは、きちんと見分けることです。
2023年2月12日日曜日
「差し伸べられたイエスの御手」
ルカによる福音書 5:12-16
あの時起こった驚くべきこと
今日の聖書箇所にはまことに驚くべき出来事が伝えられています。その一つは、重い皮膚病がたちどころに癒されたということです。目の前でこの癒しが起こったらどれほど衝撃的であるかは容易に想像することができます。しかし、実はそれ以上に、そこに居合わせた人たちにとってはわが目を疑うような驚くべき出来事が少なくとも二つ記されています。一つは、重い皮膚病を患っている人が自らイエス様に近づいたということであり、もう一つは、イエス様が手を差し伸べてその人に触れたということです。
ところで「重い皮膚病」は、1997年以前の版では「らい病」となっていました。「重い皮膚病」と表記されるようになったのは、それが狭い意味でのハンセン病を指す言葉ではなく、かなり広い意味を持っている言葉だからです。いずれにせよ、ここで重要なことは、その病気が当時のユダヤ人社会においては「汚れ(けがれ)」として認識されたということです。
この病にかかった人は、他の人々に近づくことが許されていませんでした。いや、それどころか、人々が誤って触れることがないように、歩く時には「わたしは汚れた者です」と叫びながら歩かなくてはなりませんでした。この病にかかった人は家族から追い出されました。町の中に住むことは許されませんでした。重い皮膚病を患うということは、ユダヤの社会において、いわば社会的な生命を断たれることを意味したのです。
しかし、「汚れている」と見なされることの本当の苦しみは、ただ社会的な隔離に起因するものではありませんでした。「汚れ」の宗教的な意味こそが、その人を苦しめたのです。人々は彼を指さして言ったことでしょう。あの病人が出た家は呪われている。きっと先祖が罪を犯したか、あるいは本人が罪を犯したからに違いない、と。そして、病気の人自身も、自らをそのように見ざるを得なかったのです。私は神に打たれたのだ。私は神から見捨てられたのだ、と。不幸な出来事に遭遇した時に、私たちも「神から見捨てられた」と感じることはあるかもしれません。しかし、重い皮膚病の人が神との間に感じていた断絶感はもっと深くリアルなものだったのです。
そのような重い皮膚病を患っていた人が、自分の方からイエス様に近づいていきました。しかも、まさにイエス様の手の届くところまで近づいたのです。それは常識的にはあり得ない驚くべきことでした。弟子たちや共にいた人々の驚愕と怒りに満ちた表情が目に見えるようです。そのようなことをすればただでは済まないことは本人もまた分かっていたはずです。
それにもかかわらず、「自分は汚れている」と思っていたであろうこの人が、イエス様に近づいたのです。その驚くべき行動を起こさせる何かが、イエスの内にあったということでしょう。実は、似たようなことが同じこの章の後半にも書かれています。罪人や徴税人たちがイエス様の周りに集まるようになるのです。それもまた実に驚くべきことです。しかし、そうさせる何かが、イエス様の内にあったのです。
それは何であったのか。徴税人たちや罪人たち、そしてあの重い皮膚病の人が、イエスに現れた神の権威や力を見ただけならば、絶対に近づくことはなかったでしょう。しかし、そうではなかった。彼らはイエスの内に《神の憐れみ》を見たのです。イエスの内に見た神の憐れみにすがるようにして、その人は言ったのでした。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と。
そして、この場面において、まさに神の憐れみがはっきりと形を取って現わされたのです。人々はもう一つの驚くべきことを見たのです。主はこの重い皮膚病の人に、その手を伸ばされた。そんなことをする人は今の今まで誰もいなかったはずです。しかし、主はその伸ばされた御手をもって、誰も触れることのなかったこの人に触れたのです。それはその人にとって、まさに神が憐れみをもって伸ばされた神の御手に他なりませんでした。彼は神の憐れみに触れたのです。
今も起こっている驚くべきこと
「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去った」(13節)。そう書かれているとおり、長年彼を苦しめていた病気は癒されました。しかし、それで「めでたし、めでたし」という結末ならば、今日の朗読箇所は半分以下の長さになるでしょう。
しかし、実際にはそうなっていません。話は次のように続きます。「イエスは厳しくお命じになった。『だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい』」(14節)。
癒されたこの人は、嬉しかったことでしょう。喜びのあまり有頂天になっていたに違いない。しかし、その人に対して主は厳しく命じられます。「だれにも話してはいけない。」癒されたことを言いふらすな、ということです。これについては後で触れます。
もう一つの命令は、「行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい」ということでした。これは何かと言うと、社会復帰のための正式な手続きなのです。つまりイエス様はきちんと手続きをして「社会に戻れ」と言っているのです。これまでは共同体の外に隔離されていたのです。ある意味では人と関わらないで生きてきた。しかし、彼は今や、人間との社会的な関わりの中に戻っていかなくてはならないのです。
それは、場合によっては自分を追い出した家族のところに戻っていかなくてはならないということです。そうでなかったとしても、いずれにせよ、彼は自分を一度は追い出した共同体の人間関係に戻っていかなくてはならないのです。ただ喜んで浮かれている場合ではないのです。イエス様はその現実に彼を向き合わせるのです。
人と人との関係に戻ると、そこで何が起こってきますか。様々な葛藤の中に置かれることになるでしょう。それは私たちもよく知っていることです。そして、人間関係における葛藤の中においてこそ、本当の意味で自分の汚れが見えてくるようになるのです。これまで彼は皮膚病のゆえに「汚れた者」とされていました。しかし、人間社会における葛藤において、彼は自分の内にある汚れを見ることになるのです。自分の内にねたみがある。悪意がある。貪欲がある。憎しみがある。時には殺意さえも存在する。自分の内に汚いものがいっぱいあることを知ることになるのです。
イエス様御自身、あるところで、人間を本当の意味で汚すものについてこう言っています。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」(マルコ7:20‐23)。
だから彼は病気が癒されて、それで救われたような気になっていてはならないのです。癒されたことだけを喜んで、それを言いふらすようなことであってはならないのです。それゆえに主は「だれにも話してはいけない」と言われたのです。話すべき時はまだ先なのです。本当の救いが語られるためには、自らの罪について、そしてキリストについて、知るべきことがあるのです。
今までは病気のゆえに神との断絶を意識していたのでしょう。しかし、神との断絶をもたらしているのは病気そのものではないのです。内にある自分の罪なのです。そのことを知ってこそ、彼は本当の意味で救いを求めることになるのです。キリストのもとにかけよって、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言って、本当の意味で神の憐れみにすがることになるのです。
そう考えてみますと、ここに描かれている重い皮膚病の人の姿は、後に罪からの救いを求めることになるであろう彼自身の姿を示していると言えるでしょう。そして、さらには、後にキリストの救いを求めることになるすべての人の姿をも指し示していると言えるのです。そうです、これは私たちの姿でもあるのです。
そして、ここに描かれているように、キリストのもとにかけよって、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言って、神の憐れみにすがるなら、キリストが手を伸ばして私たちに触れてくださるのです。その時、その「キリスト」とは、十字架において私たちの罪を贖い、三日目によみがえって今も生きておられるキリストです。その御方に触れていただかなくてはならない。「よろしい。清くなれ」という言葉と共に。
それは今日、どのようにして起こるのでしょう。それはキリストの霊が注がれて誕生した教会の宣教において起こるのです。あの時起こったことが、今も確かに起こっているのです。復活のキリストによって。その体である教会を通して――。今、私たちがここに身を置いているということは、そういうことなのです。
今日の福音書の場面を想像してみてください。深く憐れんで、手を差し伸べて、あの重い皮膚病の人に触れておられたイエス様の姿を想像してみてください。「よろしい。清くなれ」と言われたイエス様の御声を想像してみてください。自ら汚れを覚えているあの人を主は退けられませんでした。「汚れた者よ、離れろ」とは言われませんでした。そうではなく、主は深く憐れんで自ら手を伸ばしてくださいました。そうです、主は同じように、私たちを退けず、主の御手は同じように私たちにも伸ばされました。だから今、私たちはここにいるのです。それは驚くべきことです。
そして、主が御手を伸べて私たちに触れてくださる目に見える形、それが洗礼なのです。そして、神の伸ばされた御手は私たちに触れ続けてくださる。最終的に私たちが完全に清められ救われる終わりの時まで。その目に見える形が聖餐なのです。今日、聖餐式は行われませんが、変わることなく聖餐卓はここに置かれており、私たちはその周りに集められています。そのことの意味を、そこに与えられている驚くべき恵みを、深く思い巡らしたいと思います。
2023年2月8日水曜日
祈祷会用:ヨハネの手紙一 3:19~24
ヨハネの手紙一 3:19‐24
私たちは既に神の子です。私たちは既に死から命に移っています。既に永遠の命を与えられています。繰り返しますが、もちろん、その全てを私たちが自分自身の上に見るのは将来においてです。しかし、今既にすべては与えられているのです。だから神の子であることも、死から命に移っていることも、私たちの信仰生活の中で経験されていくことになります。どこにおいてそれが経験され味わわれるかと言えば、それは互いに愛し合うところにおいてなのです。それはキリストが私たちを愛してくださったことに基づきます。
ですから16節には「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」と書かれているのです。愛するとは命を捨てることです。しかし、それは何も身代わりになって死になさいということではありません。与えられている命、また命に関わるすべてをどう用いるかということなのです。誰かのために、私たちの命、そして私たちの命に関わるものを用いる。そのような具体的なことです。特に教会の中のこととして書かれているので、私たちにとっては、具体的には「献金」のことや「奉仕」のことも含まれることを先週申し上げました。そのように具体的なことですから、「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」と言われていたのです。
さて、今日はその続きです。今日の箇所もまた、少々読みにくいところです。今日の箇所の読みにくさは、特に「心に責められることがあろうとも」という言葉と、「心に責められることがなければ」という言葉が出て来るところにあります。そうしますと、何か「心に責められることがある人」と「心に責められることのない人」という二通りの人の話のように思ってしまいやすい。あるいは「何か悪いことをして心に責められるとき」と「何も悪いことをしていないから心に責められないとき」という二つの場合の話のように思ってしまいます。しかし、ここは一つの話の流れになっているのです。
「これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます」(19節)とヨハネは言います。「これによって」が指し示しているのは、これまで見て来たことです。すなわち、死から命に移っていることは、互いに愛し合うところにおいて経験されるということです。それはまた、「わたしたちは自分が真理に属していることを知る」という経験ともなるのです。私たちが福音の真理なることを知るのは観念的なことではありません。キリスト者の交わりにおいて具体的に経験的に知るのです。それゆえに、またそれは「神の御前で安心できます」という経験にもなるのです。
そこにはある意味で不思議なことが書かれています。「心に責められることがあろうとも」(20節)と続くのです。普通に考えるならば、心に責められることがあったら、「神の御前で安心できます」と言えないではありませんか。しかし、そこには明確な理由が付け加えられております。「神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです」。
ここまで読みますと、話の流れが明確に見えてまいります。そもそも、どうして「心に責められることがあろうとも」という言葉が出て来ると思いますか。それは光の中を歩もうとしているからなのです。グノーシスの異端に流れれば、心に責められることなどないのです。罪を正当化できるのですから。不道徳を行おうが、兄弟を憎もうが、心に責められることなどないのです。
しかし、そうではなく真理に属する者として、光の中を歩み、互いに愛し合って生きようとすれば、どうしたって「心に責められること」が出て来るのです。本気で「わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきである」という言葉を受け止めて生きようとしたら、どうしても完全に愛することができない自分、命を捨てるほどに自分の人生を他者のために遣い尽くすことのできない自分を目の当たりにせざるを得ないのです。
私たちは既に神の子です。そして、神から生まれた者は罪を犯さないのです(3:9)。それが本来の私たちなのです。しかし、神から生まれた者であることを自覚すればするほど、神の子という本来の自分からかけ離れている自分を目の当たりにせざるを得ないわけでしょう。「心に責められること」が生じてくるのです。
しかし、そのようなことが起こっても、なお私たちは自分が真理に属することを知り、神の御前で安心することができるのだ、というのです。「神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだから」。
私たちの「心」は、私たち自身を責めるのです。「心」は「あなたは神の子としては失格だ。あなたは赦されるはずがない」と言うのです。そうです、「心」は責めて断罪するのです。しかし、神は私たちを責めてやまない私たち自身の心よりも大きな方だというのです。「心」が「お前は赦されない」と言ったとしても、心より大きな神様が「あなたは赦されている」と言ってくださる。「心」が「お前は駄目だ」と言ったとしても、「心」よりも大きな神様が「あなたのことは初めからすべて分かっている。そのようなあなたを召して神の子としたのだ」と言ってくださる。
神様は全てご存じなのです。「心」よりも大きいということはまた、「心」よりも上にあるということでもあるのです。「心」が「お前は駄目だ」と言ったとしても、それよりも偉い方が「お前は大丈夫」と言えば、そちらの方が有効なのです。私たちはどちらの言うことを聞くのか、ということです。「愛し合いなさい」と命じられた方はまた、私たちの心よりも大きい御方なのです。
私たちは、そのように私たちの心よりも大きな方、そしてすべてをご存じで、それゆえに私たちの罪を贖うためにキリストを十字架にかけられた神様に目を向けるのです。そのことによって、初めて私たちは「心の責め」から解放されて、安心して神の前に立つことができるのです。それは暗闇に身を置いて罪を罪としないで心の責めを免れるのとは、根本的に異なることなのです。
そのようにして、私たちは心の責めから解放されて、「心に責められることのない」ようになるのです。ならばそこで私たちは大胆に神の御前において、祈り願うことができるのでしょう。「愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます」。
「確信を持つ」と訳されていますが、これは「大胆になる」という言葉です。ヘブライ4:15以下にこう書かれていますが、そこで用いられている言葉です。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4:14‐16)。
そうです、大胆に祈りと願いを御前に注ぎ出し、何でもかなえられることを期待したらよいのです。たとえ不完全であり、心の責めが生じるようなことがあったとしても、とにかく神の掟を守り、御心に適うことを行っているならば、そのために必要なすべては御前に祈り願ったらよいのです。
神の掟とは、「神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(23節)と、改めて語り直されています。信仰と愛、それこそが神の求めたもうことであるということ。その掟を与えた神は私たちの心よりも大きいこと。それゆえに、私たちは安心して大胆に御前に立ち、祈ることができるということ。これらがいわばセットになっているのです。贖罪信仰と神の御前における安心と祈りとを離れた愛の教えは、ただ心の責めと偽善とを生み出すだけになってしまうか、あるいは愛することができない罪深い自分を正当化するために神を離れて暗闇に逃げ込んでしまうかのいずれかになってしまうのです。
2023年2月5日日曜日
「豊かな実りのために必要な忍耐」
ルカによる福音書 8:4‐15
神の言葉という種
「聞く耳のある者は聞きなさい」。そうイエス様は言われました。ルカによる福音書ではわざわざ「大声で言われた」と書かれています。「聞く耳」の話が出て来るのは、もう一方において「語られる言葉」があるからです。その言葉とは、もちろんイエス様の語る言葉です。宣教の言葉です。今日は4節からお読みしたのですが、8章の始めには次のように書かれています。「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった」(8:1)。イエス様は「神の国」を宣べ伝えていたのです。福音(良き知らせ)を告げ知らせていたのです。
「すぐその後」とありましたが、その直前にはこんな話が書かれています。イエス様がファリサイ派の人に招かれて、一緒に食事をしていた。すると一人の女がそこに入ってきた。その女が香油の入った石膏の壺を持って来て、「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」その後の展開は割愛しますが、最終的にイエス様はその女にこう語っています。「あなたの罪は赦された」(7:48)。そして、さらに言うのです。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(同50節)。
ここには、イエス様の宣教の中心が何であったか良く現れています。それは罪の赦しと救いです。イエス様は神の権威をもって罪の赦しを宣言し、救いを宣言されたのです。
そのようにイエス様は語られました。単に言葉をもって神の国の福音を宣べ伝えただけではなく、行動をもって宣べ伝えたのです。神の赦しと救いへの招きをただ語るだけでなく、行動をもって宣べ伝えられた。この罪深い女のエピソードもその一つです。イエスという存在そのものが語っている。いわばイエス・キリストという存在そのものが神の言葉だったのです。
「神の言葉」に限らず、「言葉」はそれ自体の内に力をもっています。何かをもたらし、何かを引き起こす力を持っています。しかし、言葉が何をもたらすかは言葉自体によっては決まりません。受け取る側によって左右されるのです。実際、ある言葉がある人には喜びをもたらします。しかし、同じ言葉が別な人には怒りをもたらします。そのように、何をもたらすかは、受け取り手によって左右されます。
その意味で「言葉」は「種」に似ています。「種」はその内に実りをもたらす力を持っています。しかし、実りは「種」だけによって決まるのではありません。それを受け入れる「土地」によって左右されるのです。ですから、今日の箇所でもイエス様は種蒔きのたとえ話をするのです。神様はキリストを通して神の言葉を語られました。キリストの言葉によって、その行動によって、最終的には十字架と復活によって、神の言葉をこの世界に与えられました。そして、キリストの体なる教会を通して御言葉が今も宣べ伝えられています。
宣べ伝えられている神の言葉は、人間を救う力を持っていますし、救いの実りを豊かに実らせる力を持っています。しかし、救いをもたらすか否かは、神の言葉だけによって決まるのではありません。それを聞く側によって左右されるのです。ですから、イエス様は種蒔きのたとえ話をして、そして大声で言われたのです。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。種が蒔かれたならば、後は聞く耳の問題だ、ということです。
種は百倍の実を結ぶ
さて、たとえ話の内容は極めて単純です。イエス様は種が落ちた四種類の土地について語っておられます。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」(5‐8節)。
道端に落ちた種については、イエス様がこのように説明しています。「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである」(12節)。神の言葉が蒔かれた。しかし、そこで実りが見られないことがある。その一つの場合がこれです。道端というのは、人が通って踏み固められた、畑の中に出来た道のことです。道端に落ちた種は「人に踏みつけられ」と書かれています。いかにも受け入れられないで粗末にされている感じがイエス様の言葉に表れています。
イエス様の宣教の言葉、イエス様の行為、イエス様の存在が受け入れられない――そのような事は現実に起こっていました。イエス様の周りに集まる群衆の中には、ファリサイ派の人たちや律法学者たちもいたのです。敵意と反感をもって聞いている人たちです。彼らは初めから受け入れる気がありません。既に踏み固められた道のように、固まってしまっている自分の考えがあるのです。自分の考えていることと同じような考えならば受け入れます。自分の考えていることと異なるならば受け入れません。自分の既に持っているものが基準です。だから福音が入っていきません。せっかく蒔かれた種は悪魔が持っていってしまいます。そのようなことはイエス様に対しても起こりましたし、今も起こり得ることです。
石地に落ちた種については、イエス様がこのように説明しています。「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである」(13節)。この場合、神の言葉は受け入れられたのです。喜びをもって。しかし、喜びが与えられた、というだけで満足しているならば、それは根が深く降ろされていない種のようなものなのです。根が降ろされていなければ、やがて枯れてしまいます。試練が起こってきた時に「身を引いてしまう」、すなわち信仰から離れてしまう。それが石地に落ちた種の場合です。
茨の中に落ちた種については、イエス様がこのように説明しています。「そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである」(14節)。茨の方が麦よりも成長が速いのです。なので茨があると覆われて、成長が妨げられてしまいます。
その茨とは、第一に「思い煩い」だと言います。思い煩いが生じるのは不足や困窮の場合です。もう一方で茨とは「富や快楽」だと言います。富や快楽が問題となるのは、満ち足りている場合です。不足していても、満ち足りていても、そこには成長を妨げるものがあるということです。思い煩いや富や快楽の方が大きくなれば、成長はストップしてしまいます。それが茨の中に落ちた種です。
さて、このようなたとえ話を通してイエス様が仰りたいのは、「あなたはこの三つの内のどれですか」ということではなかろうと思います。主は「聞く耳のあるものは聞きなさい」と叫んでおられるのです。イエス様は聞いて欲しいのです。さらにはその蒔かれた種が豊かな実を結ぶことを望んでおられるのです。農夫ならば当然です。収穫を期待して蒔くのです。
先に道端、石地、茨の地という三通りの土地について見てきましたが、これらは別々の場所にある三種類の土地の話ではなく、一つの畑の話です。繰り返しますが、道端というのは、人が通って踏み固められた、畑の中に出来た道のことです。石地とは、畑の中で取り除ききれなかった石が残った場所のことです。茨もまた、根っこを取り除ききれなくて、残っていた根から生え出た茨が麦と一緒に伸びてきたという話です。
ですから、道端や石地や茨の地が永遠にそのままであるとは限らない。皆、良い土地になり得る一つの畑です。イエス様が本当に語りたいのは、良い土地についてなのです。主は言われました。「また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」(8節)。
「百倍の実を結んだ」という言葉を聞いて、私たちは過去の偉大なキリスト者を思い浮かべる必要はありません。ジョン・ウェスレー、マルチン・ルーサー・キング牧師、マザー・テレサなどを思い浮かべる必要はありません。確かにそこには神の言葉の結んだ豊かな実りがあったことでしょう。しかし、それらの人々は決して特別な人々ではないのです。蒔かれているのは、同じ種なのです。私たちに蒔かれているのと同じ種。私たちに蒔かれているのも、私たちが生きている場において、百倍の実を結ぶことのできる同じ種なのです。
主は言われました。「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」(15節)。まずは聞き方です。「立派な善い心で御言葉を聞き」と主は言われます。別に立派な人間になれと言っているのではありません。聞き方の話です。「立派な善い心で御言葉を聞き」とは、これまで見た三種類の土地の逆を考えたらよいのでしょう。御言葉を受け入れ、そこに留まることです。
ですから、「よく守り、忍耐して」と書かれているのです。ただ最初の喜びで満足しているのでなく、受け入れた種が自分の内にしっかりと根を降ろすことを求めていくことです。そのような信仰生活を妨げたり、そこから引き離そうとしたりするものはいくらでもあります。試練があり、困難がある。富や快楽への誘惑がある。しかし、そのような中で信仰の生活に留まり、共に神を礼拝し、主の御言葉に耳を傾ける生活に留まるのです。そこには忍耐が必要とされます。忍耐強く留まることは、私たちがすることです。そして、神が豊かな実りを与えてくださいます。
実際、どうでしょう。コロナ禍の三年間は私たちの忍耐が問われた三年間だったのではないでしょうか。私たちは御言葉に留まってきたでしょうか。信仰に留まってきたでしょうか。私たちの信仰生活はこの三年間を経てどうなったでしょうか。忍耐を経て豊かな実を結んできたでしょうか。道端も、石だらけの地も、茨の地も、良い地になり得る一つの畑です。私たちは本来の私たちのあるべき姿に立ち帰りたいと思います。神の与えてくださる豊かな実りのために。
2023年2月1日水曜日
祈祷会用:ヨハネの手紙一 3:11~18
ヨハネの手紙一 3:11‐18
これまで読んできたことを思い起こしてください。私たちは「今既に神の子である」(2節)と書かれていました。もちろん神の子であることが完全に現れ、御子に似た者となるのは将来のことですが、それでも事実として今既に神の子なのです。それと同じように、私たちは既に「死から命へと移った」(14節)と聖書は語ります。もちろん永遠の命に完全に与るのは将来のことですが、私たちは既に命に移された者としてこの永遠の命を経験し始めるのです。
では、どこにおいて死から命に移されたという事実を経験するのでしょう。どこにおいて永遠の命を味わうのでしょう。14節にはこう書かれています。「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです」(14節)。このように、永遠の命は愛することにおいて経験されるのです。永遠の命の経験は、互いに愛し合う交わりの中にあるのです。
さて、このことは、私たちの救いの完成についても、大切なことを教えています。救いが完成するということは単に私たちが個人として完成することではないのです。交わりが完成することなのです。それは神との交わりであると同時に隣人との交わりです。永遠の命は、そのような愛の交わりの中にあるのです。
そもそも命の源である神御自身が、その内に愛の交わりを持っているのだと、私たちは教えられております。神が三位一体の神であるとはそういうことです。神は本質的に愛の交わりを持っているのです。人間はこの神の似姿として造られました。ですから、救いの完成である永遠の命は、愛の交わりの中にこそあるのです。
そして、そのような永遠の命を、私たちはこの地上における不完全な愛の交わりの中においても、既に経験し始めるのです。しかし、全く逆のことも起こり得ます。人が愛において永遠の命を経験するように、人は憎しみにおいて死を経験するのです。続けてヨハネが次のように語っているとおりです。「愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません」(14節後半‐15節)。
「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」とは実に激しい言葉です。ヨハネは、憎しみというものがいかに命から遠いかを良く知っているゆえに、このような激しい言い方をしているのでしょう。誰かについて「こんな人はいない方が良い」と考えているならば、単に心の中で憎んでいる人であっても、実際に人を殺す人であっても変わりません。その思いそのものが、永遠の命とは対極にあるからです。人を憎んでいる時、そして憎んでいる自分を正当化している時、その人は生物学的に生きていたとしても、経験しているのは永遠の死そのものなのです。
では人はいかにして憎む者ではなく、愛する者となるのでしょう。「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからだ」と言っていますが、その愛も命も、もともとヨハネが持っていたものではありません。その愛は与えられた愛なのです。愛は愛を通してのみ与えられます。愛されて、愛を知らされて、愛する者とされるのです。ですから、その後に「愛を知った」という話が出て来るのです。
ヨハネはどこにおいて愛を知ったのでしょうか。16節は、原文では「ここにおいて愛を知った」という言葉から始まります。彼はひたすらに、ただ一点を指し示すのです。「ここなのだ」と。その指の先にはキリストがおられるのです。彼は言います。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました」(16節)。彼が指し示すその指の先には、十字架にかけられているキリストがおられるのです。十字架においてこそ、私たちは愛されていることを知るのです。それ以外のところではありません。
キリストが命を捨てるほどに私たちを愛してくださった。その愛によって私たちは死から命に移されたのです。ですから、「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました」で終わらないのです。当然、その先があるのです。何と書かれていますか。「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」(16節)。
では「兄弟のために命を捨てる」とはどういうことでしょうか。誰かの身代わりになって死ぬことでしょう。いいえそうではありません。ヨハネはすぐにこれを身近な具体的な事柄に置き換えて語り直します。彼はこう言うのです。「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(17‐18節)。
そのように、「兄弟のために命を捨てる」と言いましても、何もそこで死に方を考える必要はないのです。結局そこにあるのは、《この命をどう用いるのか。この地上の生をどう用いるのか》という問題だからです。そして、《この命をどう用いるのか》と言いましても、何も大きなことを考える必要はないのです。皆がインドのカルカッタに行ってマザー・テレサのようになる必要はないのです。兄弟は身近にいるからです。重要なのは、ごく当たり前の日常のことであり、そこで私たちがこの地上の生活と、生活に関わるすべてのモノを身近な兄弟のためにどう用いるか、ということなのです。
このヨハネの言葉の背景にあるのは、富める者が貧しい者を支えることによって成り立っていた、当時の教会の状況です。使徒言行録を読みますと、そこには皆が持っているものを使徒たちのもとに集め、それが必要に応じて分配されるという、初期の教会の姿が描かれています。そもそも、「主の晩餐」がそのように行われていたのです。初めの頃の教会においては、「主の晩餐」と通常の食事(愛餐)の区別は必ずしも明確ではありませんでした。そこでは食べ物を提供することのできる者がそれぞれ持ち寄り、それが神に奉献され、分かち合われて食事がなされたのです。そこでは貧しい者も食べることができました。富める者も貧しい者も皆が食事をする――そこに愛し合う者たちによって捧げられる、主の食卓を囲む礼拝があったのです。
さて、今日の私たちは持ち寄った食べ物によって聖餐を行うわけではありません。しかし、かつて行われていたことは、形を変えて残っております。何でしょう。献金です。私たちは礼拝において献金をいたします。教会員であれば月次献金を献げます。これはもちろん神に献げるから「献金」と呼ばれているのです。しかし、もう一方において、私たちの献金によって教会のすべての営みは支えられています。すなわち、私たちの献げ物は、他の誰かの信仰生活を支えているのだ、ということです。「兄弟のために命を捨てる」ということは、そのように私たちの「献金」においても起こるのであり、そこにおいても私たちは永遠の命を経験するのです。
また、それは私たちの奉仕においても起こることです。「この世の富」は、今日の私たちにとって、必ずしもお金とは限りません。私たちの持っている能力であるかもしれませんし、時間であるかもしれません。それを互いのために差し出すことにおいて、「兄弟のために命を捨てる」ということは起こります。互いに愛し合うという具体的な経験なのであり、それはすなわち永遠の命の経験に他ならないのです。
繰り返しますが、この「兄弟のために命を捨てるべきである」という言葉は、「イエスは、わたしたちのために命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」という言葉に続いています。その前提と切り離すことはできません。ですから、何よりも大事なことは、ヨハネがひたすら指し示しているその方向に私たちの目を向け、「わたしたちは愛を知りました」と言い表して生きる者となることなのです。
(祈り)