2018年12月23日日曜日

「さあ、ベツレヘムへ行こう。」

ルカ2:8-20

 「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(15節)。そう言って羊飼いたちは出発しました。

 「主が知らせてくださったその出来事」。それは野宿をしていた羊飼いたちに主が天使を遣わして知らせてくださったことでした。羊飼いが聞いたメッセージはこのようなものでした。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(10‐12節)。

恐れるな
 「恐れるな。」これが羊飼いたちの聞いた天使の第一声でした。「恐れるな」と語られたのは、羊飼いたちが非常に恐れていたからでした。単に天使を目撃したからではありません。「主の栄光が周りを照らした」と書かれています。それはすなわち、神がまさにそこにおられるということです。羊飼いの側からすれば、《自分たちは、まさに今、神の御前にいるのだ》と自覚したということです。神が共におられる。しかし、その認識は、単純に喜びをもたらしはしませんでした。それは恐ろしいことだったのです。

 宗教的なユダヤ人社会での出来事です。彼らも天地を造られた神について耳にしたことはあったでしょう。しかし、羊飼いたちは、ユダヤの社会においては、完全にアウトサイダーでした。彼らの仕事柄、宗教的な戒律を守って生活することは不可能でした。清めの祭儀を守ることができなければ、宗教的には汚れた者と見なされます。人々は彼らを神から遠い存在と見ていたでしょうし、彼ら自身、たとえ神はいたとしても、自分たちとは関係がないと思っていたことでしょう。
 しかし、羊飼いたちが、自分は神とは無縁の存在だと思っていたとしても、神様の方はそう思っていませんでした。彼らが意識してようとしていまいと、彼らは神によって生かされてきたのだし、神様と無関係であったことは一瞬たりともなかったのです。その神様が羊飼いたちの生活の中に入って来られました。羊飼いたちは、神が共におられ、自分たちが神の御前にあることを知ったのです。しかし、繰り返しますが、そのことは単純に喜びをもたらしはしませんでした。

 それはこの羊飼いに限ったことではありません。聖書において、様々な形における神と人との出会いが描かれていますが、多くの場合、人々の内に起こる反応は「恐れ」です。

 神に対する「恐れ」はどこから来るのでしょう。聖書において、その「恐れ」の歴史を辿ってみると、ほとんど聖書の初めにまで遡ることになります。最初の人間であるアダムとエバです。彼らが神に背いた時、初めて「恐れ」という言葉が聖書に出て来ます。主なる神が近づいてきた時、彼らは「園の木の間に隠れた」と書かれています。神がアダムを呼ばれると、アダムはこう言うのです。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」(創世記3:10)。

 裸のままで、ありのままで、神に向い、神を喜ぶことができない。どうしてですか。神に背いたことが分かっているからです。自分が正しくないことを知っているからです。かつて預言者イザヤも同じような体験をしました。神殿において自分が聖なる神の御前にあることを知った時、彼はこう叫んだのでした。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザヤ6:5)。

 そのように、神が近づいて来られること、神が共におられることは単純に喜びにはならないのです。それは二つの事実によるのでしょう。神は聖なる御方であるということ。そして、私たち人間は正しくも清くもないということです。

 もちろん、それでもなお私たち人間は、自らの正しさを主張し合うことはあります。正しさの主張がぶつかるから争いも起こるし、戦争も起こります。しかし、人に対してではなく、聖なる神に向き合う時、同じことが言えなくなります。自分は正しいと言えなくなります。自分は清いと言えなくなります。正しい神を意識し始めるならば、そこでは自分の不真実、不誠実、心の汚れをも意識せざるを得なくなります。そこに生じるのは罪の意識です。それは喜びではなく、恐れをもたらします。あの羊飼いたちは、自分たちが神の御前にあることを知った時、――恐れたのです。

 しかし、まさにその時、神様の方から声がありました。天使を通して、主は言われたのです。「恐れるな」と。主は「恐れなくてよい」と言ってくださいました。ならば、もう神の顔を避けて、園の木の間に隠れる必要はありません。「災いだ。わたしは滅ぼされる」と怯える必要もありません。私たちは恐れずに神に向かって顔を上げることができる。私たちを責め、断罪する神としてではなく、救いの神として仰ぎ望むことができるのです。

救い主がお生まれになった
 そして主は、「恐れるな」と語られた後、御使いを通して、喜びの知らせを聞かせてくださいました。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。

 「主が知らせてくださったその出来事」とは、救い主の誕生でした。それを天使は「民全体に与えられる大きな喜び」と呼びました。「民全体」という言葉は狭い意味ではイスラエルの民全体を指しますが、恐らくこの主が意図しているのは全世界です。この12月に新しい聖書翻訳が出ましたが、その新しい聖書では「すべての民」となっています。

 救い主の誕生が、すべての民に与えられた喜びとして、全世界のすべての人に与えられた喜びとして告げ知らされました。そして、それを真っ先に知らされたのが「羊飼いたち」だったことは重要です。先ほども言いましたように、ユダヤの宗教的な社会において、彼らはアウトサイダーでした。救いから遠い汚れた人々。そのように見なされていましたし、自分もそう思っていた、そのような彼らに対して、神様は天使を通してこう言ったのです。「《あなたがたのために》救い主がお生まれになった!」と。

 私たちがこうして祝っている救い主イエス・キリストの誕生。その御方は「すべての民」のために生まれたとも言えるし、全世界のために生まれたとも言えます。しかし、神様が伝えたいことは恐らくそうではないのです。――「あなたのために」「あなたがたのために」ということなのです。これまでどんな生き方をしてきた人であっても、どれほど神に背いてきた人生であっても、自分は汚れ果てて神の救いとは全く縁がないと思っている人であっても、主が知らせたいのは、「そのような《あなたのために》《あなたがたのために》救い主はお生まれになった」ということなのです。

 では、その御方はどのような意味において、わたしの、私たちの「救い主」なのでしょうか。実はその当時、「救い主」と呼ばれていた人物は既にいたのです。ローマの初代皇帝「アウグストゥス」です。彼は長い戦乱の世に終止符を打ち、後に「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」と名付けられる「平和」をもたらしました。それは武力によって実現した平和でした。大きな力が支配する時、小さな争いは押さえ込まれます。戦争や紛争が無くなることが「平和」であり「救い」であるならば、確かにローマ皇帝は「救い主」ですし、彼によって救いがもたらされたと言えるでしょう。

 しかし、大きな力が支配する時、そこには必ずと言っていいほど、抑圧される人々が存在するものです。実はこの章は「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」(1節)という言葉から始まります。全住民の数が調べられたのは、人頭税を課するためであったと言われます。それは、被占領民族であるユダヤ人たちの上にも、大きな重荷となったことでしょう。

 支配され抑圧されているユダヤ人たちは、当然のことながら皇帝を「救い主」とは呼びません。彼らはローマ人の支配から解放してくれる、彼らの「救い主」が現れることを待ち望んでいました。それは当然のことながら、皇帝よりもより大きな力を持つ救い主でなくてはなりません。力を覆すには力をもってするしかありませんから。

 しかし、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げた御使いは、さらにこう続けたのです。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(12節)。なんと!ダビデの町にお生まれになった救い主は、「救い主アウグストゥス」とは正反対の姿でそこにいるのです。ユダヤ人たちが求めている「力ある救い主」ともかけ離れた姿でそこにいるのです。それは何を意味するのでしょうか。神が与えようとしている救いは「力」をもって実現するのではない、ということです。

 そもそも救いを必要としている人間の根源的な悲惨はどこにあるのでしょうか。それは先ほど、聖書を遡って創世記に見たアダムの姿から明らかです。人が神の顔を避けて、園の木の間に隠れていることです。聖なる神の御前において、私たちは自らの罪を思い、恐れざるを得ないという現実です。まずそこから救われなくてはなりません。そのためにこそ神は「恐れるな」と言って、この世界のただ中に救い主を置かれたのです。もはや誰も恐れる必要がないほどに、無防備な姿で、貧しい姿で。人が安心して神と共に生きられるためにです。そして、その救い主はやがて後の日に、力によってではなく、十字架にかかられることにより、私たちの罪を代わりに背負われることにより、私たちの救いを全うすることになるのです。

 これが主の知らせてくださった出来事です。これが主によって私たちにも知らされている出来事です。羊飼いたちは、言いました。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」そう言って彼らは出発しました。そして、ついに飼い葉桶に寝かされている乳飲み子を探し当てました。もちろん、それで彼らが苦しみのない別世界に移されたわけではありません。依然として、ローマの支配下にある苦しい生活が、厳しい労働が彼らを待っていたことでしょう。しかし、彼ら自身は以前と同じではありません。彼らは神の救いの内を既に生き始め、味わい始めているのです。何と書かれていますか。彼らは「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(20節)。そして、同じことがここにいる私たちにおいても始まっているのです。
(祈り)

2018年12月16日日曜日

「私たちに対する神の御心」

1テサロニケ5:16-24

神が望んでおられること
 礼拝堂のアドベントクランツの第3のキャンドルが灯されました。クランツのキャンドルには一本一本意味がありまして、第一のキャンドルは「希望」、第二のキャンドルは「平和」、そして今日灯された第三のキャンドルは「喜び」です。ちなみに、来週灯される第四のキャンドルは「愛」を意味します。来週は本来、アドベントの第四週ですが、慣例に従いまして「クリスマス礼拝」として御子の御降誕を併せて祝います。

 ということで、第三のキャンドルが灯された今日、与えられているテーマは「喜び」です。第二朗読において、次のような御言葉が読まれました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(16‐18節)。

 これはパウロの書いた手紙の一部です。結論部分に書かれている大事なことです。しかし、以前のパウロならば、全く違ったことを書いていたに違いありません。彼は生粋のユダヤ人でした。生まれて八日目に割礼を受け、幼き日より律法を学んで育った人でした。後にはガマリエルという高名なラビのもとで厳しい律法の教育を受けた人でした。ファリサイ派のパウロ、またの名をサウロ。以前の彼ならば、きっとこう書き送ったに違いありません。「いつも神の戒めを守りなさい。絶えず神の戒めを守りなさい。どんなことにおいても神の戒めを守りなさい。これこそ、神があなたがたに望んでおられることです」と。

 戒めを守ることがまず先決だったのです。従順であること、律法を遵守する正しい人間であることがなければ何も始まらないのです。何か良きものを神から受けるとするならば、それは神への従順、自分の義を差し出してこそ、はじめて受けることができる。救いでさえも、永遠の命でさえも、律法遵守の報いであると信じていたのです。かつてイエス様のもとに来て、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねた青年がいました。その問いは、パウロの問いでもあったはずです。どんな善いことをしたらよいのでしょうか。これで十分でしょうか。まだ不十分でしょうか。いったい何をしたらよいのでしょうか。

 しかし、そのようなパウロが、キリスト・イエスを通して、驚くべき神の御心を知ったのです。神はわたしたちを愛しておられる。まことに愛されるに値しない私たちを、神は愛しておられる。独り子を賜うほどに、独り子を十字架にかけて罪の贖いの犠牲とするほどに、そのようにして私たちに罪の赦し、私たちを救おうとされるほどに、――それほどまでに私たちを愛しておられる!その驚くべき事実を知ったのです。

 そのように、キリストにおいて完全に現された神の愛と恵みの前で、神との取引は意味を持たなくなりました。これだけ律法を守りました。祝福してください。救いをください。そんな取引は無意味となりました。パウロは「イエス・キリストにおいて神が望んでおられること」を知ったのです。神が望んでおられるのは、神の好意を得ようとして一生懸命に差し出す熱心さではない。神が見たいと望んでおられるのは、私たちが十分に従順であるというアピールではないのです。そうではなくて、神が見たいと望んでいるのは、神の子供たちの輝いた笑顔なのです。天の父に向けられた、輝いた笑顔なのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

いつも喜んでいなさい
 とはいえ、「いつも喜んでいなさい」という言葉に出会う時、私たちの自然の反応は、「それは無理でしょう!」ということであるかもしれません。なぜなら、私たちの生活には、私たちから喜びを奪うに十分な、ありとあらゆる要因が満ちているからです。しかし、当然の事ながら、パウロはそのようなことを重々承知の上でこれを書いているのです。彼自身、喜びを奪うような幾多の苦難を味わってきた人ですから。また、宛先であるテサロニケの教会はパウロ自らが伝道して生まれた教会です。パウロが初めてテサロニケを訪れ、福音を宣べ伝えた時には、反対者による暴動が起きたのです(使徒17章)。パウロとシラスは夜逃げをするようにしてテサロニケを後にしたのです。パウロが去った後、テサロニケの信徒たちがどれほど大きな苦難の中に置かれているかは、よく分かっているのです。分かった上で、それにもかかわらず、パウロは彼らに言うのです。「いつも喜んでいなさい!」

 ここで私たちは、もう一度パウロがこれを書いている理由を思い起こさねばなりません。神の子供たちが「いつも喜んで」いることは、他ならぬ神が望んでおられることなのです。神が望んでおられる――ならば神が与えてくださる、ということでもあります。ここで語られている喜びは、明らかにこの世が私たちに提供する喜びではありません。そのような喜びであるならば、苦難によって奪われてしまうのでしょう。これは神が与えてくださる喜びです。天来の喜びです。

 パウロが別の箇所でこう言っています。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ14:17)と。確かに信仰者の生活経験には、聖霊によって与えられる喜び、天来の喜びというものがあることを私たちは知っています。そして、暗闇が深ければ深いほど星の輝きが際立つように、天来の喜びもまた苦難や悲しみの闇の中において輝き出でることを知っています。パウロとシラスがフィリピにおいて不当に鞭打たれ、投獄されてもなお、その獄中で喜びに満ちて神を賛美していたことを聖書は伝えています(使徒16:25)。三年半前にネパールで大地震がありましたが、まだ震災の傷癒えぬ被災地をお訪ねした時、礼拝に集まってきた人たちの内に見たのは、災害によっても奪われることのない天来の喜びでした。神と共にあることの喜び。魂の底から湧き上がる聖霊による喜び。そのような喜びを神が与えてくださる。私たちは聖書からも、身近な信仰者の証しからも、あるいは多かれ少なかれ自らの生活経験からもそのことを知っています。

 要は、そのような神から来る喜び、聖霊の与えてくださる喜びが、私たちの生活の基調音となっているか、私たちの生活全体を支配するようになっているか、ということなのでしょう。「いつも喜んでいなさい」とパウロは言うのです。苦難や悲しみや思い悩みが私たちの生活を支配するのではなく、神から来る喜びが私たちの生活を支配し続けるようになるには、いったいどうしたらよいのでしょうか。そこでパウロはさらに「絶えず祈りなさい」と言うのです。また、「どんなことにも感謝しなさい」と言うのです。

祈りと感謝
 「絶えず祈りなさい」。これはいったい何を意味するのでしょうか。それを理解するには、そのように言っている人に目を向けるのが良いのでしょう。パウロは絶えず祈っていた人なのでしょう。それが「ひざまずいて祈りの言葉を口にする」ことを意味しないことは明らかです。実際、この手紙を書いている時には、パウロはそのような意味で祈っているわけではありませんから。パウロの場合、手紙を書く時には口述筆記だったでしょうから、パウロはテサロニケの信徒を思いつつ、手紙の文章を語っているのです。

 しかし、彼はそのように文章を語りながら手紙を書いているのですが、そこに自然と「祈りの言葉」が入るのです。例えば、3章の終わりは手紙が一区切りするところなのですが、そこでパウロはこのように語るのです。「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン」(3:12‐13)。このような祈りの言葉は他の手紙にも見られます。

 つまりこの手紙を書いている時も、パウロは常にパウロは神の臨在を意識しながら生きているのです。神との交わりの中にあるのです。パウロはまさに神と共に生きているのです。パウロが「絶えず祈りなさい」と言っているのは、こういうことなのでしょう。

 そのように神と共に生きる生活、「絶えざる祈りの生活」はどのように形づくられていたのでしょうか。興味深いことに、この手紙の冒頭には、挨拶に続いて次のような言葉が書かれています。「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」(1:2)。この場合、「わたしたち」はパウロとシルワノ(シラス)とテモテです。「祈りの度に・・・」と言う時、それは三人が集まって祈る時を指しているのかもしれません。あるいは個々の祈りの時を指しているのかもしれません。恐らく両者でしょう。いずれにせよ、それは実際に神に向かって文字通り祈っている、「祈りの時」を指しているのです。

 逆説的ですが、このように、絶えず祈る生活は、ある特定の「祈りの時」によって形づくられるのです。「いつでも祈れる」と思って、具体的に祈りの時を持たない人は、往々にして「いつでも祈らない」人になってしまうものです。神の臨在を常に意識する生活は、神の臨在を特別に意識する時間を持つことによって形づくられるのです。

 そして、そのように形づくられる、神の臨在を常に意識し、神と共に生きる生活、絶えず祈る生活は、当然のことながら、絶えず神に信頼して生きる生活ともなるのでしょう。それゆえパウロはこう続けるのです、「どんなことにも感謝しなさい」と。感謝は神への信頼の具体的な現れです。

 その対極にあるのはどのような姿かを思う時、思い起こされるのは荒れ野を旅していた時のイスラエルの民の姿です。彼らはエジプトから救い出されました。彼らは葦の海の中に道を開かれる神の御業を見せていただきました。彼らは、昼は雲の柱によって、夜は火の柱によって導かれました。しかし、彼らは荒れ野で欠乏を経験した時、つぶやいたのです。彼らは不満を言い、不平を述べ立てたのです。エジプトから導き出されたのに、荒れ野の旅も主に導かれているのに、彼らは言ったのです。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった」(出エジプト16:3)。不信仰の具体的な表現は不平、不満、つぶやきです。信頼の具体的な表現は感謝です。パウロは言います。「どんなことにも感謝しなさい」。

 そのように「絶えず祈りなさい」、「どんなことにも感謝しなさい」と共にあって、初めて「いつも喜んでいなさい」という言葉が意味を持つのです。そのようにして、神から来る喜びが私たちの生活を支配し続けるようになるのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。


 さて、アドベントの第三週にこの御言葉が与えられて、私自身は、実際に自分がこの御言葉の示している生活からいかに遠いかを思わずにはいられませんでした。皆さんはどうでしょうか。しかし、今どれほど遠くても、私はこの御言葉が指し示している生活に憧れます。そこに近づきたいと願います。メソジスト教会の創始者であるジョン・ウェスレーは、この聖書箇所について次のように書いていました。「これがキリスト者の完全である。わたしたちはこれ以上すすみ得ない。そして、これに到達しないで留まる必要はない。」そうです、これに到達しないで留まる必要はありません。共に、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する信仰生活を求めてまいりましょう。

(祈り)

2018年12月9日日曜日

「希望の源である神」

ローマ15:7‐13

互いに相手を受け入れなさい
 「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」(7節)。そのように勧められていました。「だから」という言葉で始まっていますように、この勧めは前に書かれていることを前提としています。この直前には次のような祈りの言葉が記されています。「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」(5‐6節)。「忍耐と慰めの源である神」へのこの祈りを前提として、「あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」と勧められているのです。

 パウロの祈り求めている内容は、要するに「心を合わせ声をそろえて、礼拝させてくださるように」ということです。そのように一つとなって礼拝をささげる教会となることを祈り求めているのです。しかし、これを「祈り求めている」ということは、とりもなおさずこのことが容易なことではないからでしょう。人間の力で実現できることならば祈り求める必要はないからです。実際、これとは逆のことが教会には起こります。この手紙を受け取っているローマの教会においても、一つとなって礼拝することを妨げるようなことが起こっていました。詳細はこの前の14章に書かれていますが、簡単に言えば、キリスト者は肉を食べてもよいか、それとも食べてはいけないのか、ということを巡っての意見の対立があったのです。

 ローマの教会の話を持ち出すまでもなく、私たち自身経験的に知っています。同じ思いをもって生きられるようになることは容易なことではありません。ましてやすべてが神の御前にある礼拝において、真に心を合わせて声をそろえて父である神をたたえられるようになることは、本当はとてつもなく難しいことなのでしょう。少なくともそこに向かうためには、少なくとも互いが互いを受け入れるということが必要になってまいります。しかし、互いに相手を受け入れるということ自体、簡単なことではありません。時として相当な忍耐を必要とします。

 私たちは皆、忍耐することを好みません。水が低い方に自然に流れるように、自然な傾向としては忍耐を要しない方向に向かいます。建て上げるよりは壊すほうに、一つになろうとするよりは、分裂する方向へと自然に向かいます。そのようにして、似た者たち、もともと同じ考えを持ち、もともと同じ感じ方をする者たちだけで共にいることを求めます。それは共同体の分裂という形で起こりますし、異質な者の排除という形を取ることもあります。自分自身が出て行くという形を取ることもあるでしょう。いずれにせよ、忍耐を要する関係は切ってしまった方が楽になります。そのように、私たちの自然の性質は忍耐を要する関係からの逃げ道を求めます。

 しかし、忍耐を要する人間関係から私たちが逃げ回って生きることを、神様は望んでおられません。神は、互いに異なる者が共に生きることを望んでおられるのです。さらには、互いに異なる者たちが、心を合わせ声をそろえて礼拝する者となることを望んでおられるのです。教会という存在自体が既にそのような神の心が表れです。教会はもともと同じ思いを抱いている者が「集まった」のではありません。キリストにより、背景の異なる様々な者たちが「集められた」のです。何のために?集められた者たちが、心を合わせ声をそろえて主を礼拝するためにです。

 そのように、神様は私たちが互いに相手を受け入れ、一つとなっていくことを求めておられる。そのような神様であるからこそ、神様はまた私たちに対して、「忍耐と慰めの源である神」となってくださるのです。今日の説教題は「希望の源である神」です。13節に書かれています。しかし、その「希望の源である神」は、「忍耐と慰めの源である神」なのです。そのような神だからこそ「希望の源である神」でもあるのです。

 ちなみに「忍耐と慰めの源である神」というのは意訳です。原文には「忍耐と慰めの神」と書かれているのです。その第一の意味は、確かに新共同訳にあるように、「忍耐と慰めの源である神」ということなのでしょう。私たちに必要な慰め(励まし)を与え、忍耐を与えてくださる神様であるということです。神様が望んでいることの実現に必要なものは、神様が与えてくださるのです。だからその御方にパウロは祈り求めているのです。

 しかし、「忍耐と慰めの神」とは、「忍耐強く慰めに満ちた神」という意味でもあります。実際、聖書には神が忍耐強い御方であることが繰り返し語られています。そして、私たちたちがキリストを通して見いだす神は、まさに「忍耐強く慰めに満ちた神」であると言えるでしょう。神がまず私たちを耐え忍んでくださいました。神がキリストにおいて、私たちを赦してくださいました。神がキリストにおいて、私たちを受け入れてくださいました。私たちは当たり前のように今ここにいますけれど、ここに私たちが集まっていること自体、まさに神の忍耐と慰めの賜物なのでしょう。本来ならば、遠の昔に打たれて滅ぼされていても不思議でない私たちです。しかし、神は確かに私たちに対して「忍耐と慰めの神」でした。

 この「忍耐と慰めの神」への祈りがあってこその、今日の勧めの言葉です。「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」。そのようにあろうとするならば、「忍耐と慰めの神」こそが源泉です。水源から切り離された川は涸れてしまいます。私たちの忍耐が神から切り離されるならば、それは干乾びた「やせ我慢」にしかなりません。干乾びた我慢は対立を克服する力を持ちません。むしろ怨念を増大させ亀裂を深めます。干乾びた我慢ではなく、命に満ちた、真に力に満ちた忍耐と慰めを神に求めましょう。神は「忍耐と慰めの神」なのですから。

希望の神
 そして、この「忍耐と慰めの神」こそが、「希望の神」でもあるのです。この「希望の神」にパウロはこう祈っています。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(13節)。この祈りに見られる「喜び」にしても「平和」にしても「希望」にしても、私たちが生きるために不可欠なものでしょう。それらを与えてくださるのは「希望の神」です。そして、「希望の神」は「忍耐と慰めの神」なのです。

 「忍耐」と「希望」。この二つは切り離すことができません。実は、この二つが切り離せないことは、この同じ15章において既に語られているのです。「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」(4節)。「かつて書かれた事柄」とは「聖書に書かれている事柄」ということです。この聖書から「忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」と言うのです。「忍耐と慰めを学ぶ」とは、既に語ってきた「忍耐と慰めの神」を知るということでしょう。その神を知ってこそ、「希望の神」をも知ることができるのです。

 先にも申しましたように、神は互いに異なる者が共に生きることを望んでおられます。互いに異なる者たちが心を合わせ声をそろえて礼拝する者となることを望んでおられるのです。パウロの時代において、互いに異なる者たちの代表は「ユダヤ人」と「異邦人」でした。最初の教会にはユダヤ人しかいませんでした。しかし、神のビジョンの中には初めからユダヤ人以外、すなわち異邦人たちも含まれていたのです。神はその両者が共に心を一つにして礼拝することを望んでおられたのです。それは既に旧約聖書において語られていたことでした。

 パウロはここで次のような旧約聖書の言葉を引用しています。「異邦人よ、主の民と共に喜べ」(10節)、「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」(11節)。それら旧約聖書の言葉が描き出しているのは、まさに全世界が心を合わせ声をそろえて主を礼拝している姿です。キリストが来られたのは、まさにそのためであったとも言えるのです。「それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです」(8‐9節)と書かれているとおりです。

 一方、私たちが現実に周りを見回せば、それとは正反対の世界があります。そこには人間の罪のゆえにズタズタに引き裂かれた世界があります。互いに傷つけ合い、憎み合い、殺し合っている世界があります。最も小さな単位であるはずの家族でさえ喜びをもって共に生きることはしばしば困難です。親と子は引き裂かれ、夫婦の関係も引き裂かれている。それがこの世界の姿です。そして、残念なことに、それはまたこの世界に存在する現在の教会の姿でもあります。

 しかし、私たちはもう絶望しなくてよいのです。もう諦めたり、逃げ出したり、投げ出したりしなくてよいのです。この世界はキリストの血潮が流された世界だからです。神が御子の血を流してまで、赦し、受け入れ、忍耐をもって担おうとしておられる世界だからです。そのように、私たちをも赦し、受け入れ、忍耐をもって担っていてくださるのです。だから私たちは、神のビジョンの中に既にあるように、身近な人間関係においても、さらには全世界についても、一つとなって心を合わせ声をそろえて礼拝するその時を希望をもって待ち望んでよいのです。私たちは、希望をもって喜んで生きてよいのです。「忍耐と慰めの神」は「希望の神」でもあるからです。

 私たちが身近な小さな対立を乗り越え、互いに受け入れ合うことなど、ある意味では世界の片隅における本当にちっぽけなことかもしれません。しかし、その小さな現実の中で私たちが「忍耐と慰めの神」と共に生きていくことは、この世界に「希望の神」を指し示すことでもあるのです。「忍耐と慰めの神」に祈りつつ、教会が心を合わせ声をそろえて礼拝しようとしていることは、この世界に「希望の神」を指し示すことでもあるのです。私たちは「忍耐と慰めの神」に、命に満ちた、真に力に満ちた忍耐と慰めを祈り求めましょう。そのようにして、「希望の神」をも知る者とならせていただきましょう。そして、「希望の神」をこの世界に指し示す教会にならせていただきましょう。
(祈り)

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