2020年2月23日日曜日

「主が導かれる荒れ野の旅」

申命記8:1‐6

豊かさを与えられる神
 本日の第一朗読では旧約聖書の申命記が読まれました。申命記はモーセの説教です。いや、モーセの遺言であると言って良いかもしれません。モーセはまもなく自分が世を去ることを知っていたからです。一方、イスラエルは、四十年に渡る荒れ野の旅を終え、いよいよヨルダン川を渡り、約束の地に入ろうとしていました。そこで去りゆくモーセは、今、イスラエルの民にこう語りかけるのです。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい」(2節)。

 今こそ、彼らは荒れ野の旅を思い起こさなくてはならないのです。それはなぜか。彼らは荒れ野から、神のくださる良い土地に入ろうとしていたからです。今日は6節までお読みしましたが、実は今日の聖書箇所の直後には、こう書かれているのです。「あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地であり、石は鉄を含み、山からは銅が採れる土地である」(7‐9節)。

 神は彼らを荒れ野で生活させるために、エジプトから導き出したわけではありません。神は彼らをカナンの地、乳と密の流れる地、約束の地に導き入れようとしておられたのです。それこそが神の望んでおられたことでした。神の本来の意図は、人間が困窮に喘ぎながら、苦しみもだえながら、欠乏を嘆きながら生きることではありません。人間が神の与えてくださる真の豊かさの中に生きることを、神は望んでおられるのです。

 それは聖書が1ページ目から教えていることです。天地創造の物語を思い起こしてみてください。神は全てのものを創造し、この世界のすべてを備えた上で、第六日目の最後に人間を創造されました。人間が最初に創造されて、全てが欠乏しているところから、順次必要なものを満たしていったという話ではないのです。既に備えられた豊かさの中にあって人間が創造された。それが聖書の人間理解です。

 続くエデンの園の物語にしても同じです。神は、豊かな園を備えた上で、そこに人間を置かれました。その園については、「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ・・・」(創世記2:9)と書かれているのです。エデンの園は豊かな園だったのです。神は人間が豊かな園に生きることを望まれ、人間が神の与えてくださる豊かさを喜び楽しむことを望まれたのです。

 そのような神が、あえてイスラエルの民を荒れ野に導かれたのです。そして、私たちもまたしばしば荒れ野に導かれる。ならばそこには理由があるのでしょう。与える神の側ではなく、受け取る私たちの側の問題があるからです。すなわち、神が私たちに豊かに与えたとしても、それが必ずしも私たちの幸いとはならないという問題です。私たちが豊かに受け取ることによって、私たちがかえって本来の人間の姿を失い、幸いを失うということが起こり得るということです。

 乳飲み子には乳が与えられます。お乳が与えられなくては生きていけませんから。しかし、本来乳飲み子にとって、お乳よりも大事なのは、お乳を与えてくれるお母さんです。乳飲み子は、お乳と共に母親の愛情を受け取っているのです。そうやって、乳飲み子の内には、母親への愛と信頼とが育まれていくのでしょう。そのことこそが本当の意味で乳飲み子が受けている豊かさなのでしょう。

 神がこの世界において豊かに与えてくださっているものも、本来は乳飲み子にとってのお乳と同じです。それがなんであれ、本来は皆、神との交わりの媒介なのであって、神の愛情を受け取っているのです。それは人が天地創造の主である神を喜び、感謝し、神を愛し、神に信頼し、神に従順に生きるためのものなのです。

 しかし、現実には必ずしもそうはならない。与えられれば与えられるほど、神との交わりから遠ざかっていくということが起こり得ます。受ければ受けるほど、人間が神への愛と従順から遠ざかっていくということも起こり得る。それは受ける側の問題です。与えられたもの、人間の外にあるものの問題ではなく、人間の内にあるものの問題なのです。

 そして、やっかいなことに、人間の内にあるものは、往々にして外からは見えないのです。アダムとエバが禁じられた木の実を食べた後、すぐにいちじくの葉をつづり合わせて自分の裸を覆ったように、人間は内なるものはそのままにして、外側だけを取り繕うものだからです。だから外からは見えなくなる。そして、外から見えなくなると、しばしば自分自身の目にも見えなくなります。自分の内に問題があっても、それが見えなくなるのです。

試みられる神
 しかし、そのように普段は隠れている内なるものが外に現れてきてしまうことがあります。それは人間が危機的状況に置かれる時です。欠乏、、困窮する時です。苦しみの内に置かれる時です。悲しみが襲ってくる時です。その時に、内にあるものが外に現れてくる。そうです、それが荒れ野の四十年間に起こったことでした。

 モーセは言います。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた」(2節)。本当は、神が「知ろうとされた」というのは変な表現なのです。神はそのようなことをしなくても知り得るはずだからです。しかし、ここで聖書の言わんとしていることは明らかです。隠れて外から見えないものが、心の内にあるものが、外に現れるようにされた、ということです。

 私たちは、そのようなことがイスラエルだけでなく、今日の教会、今日の私たちにも起こることを知っています。私たちもまた、荒れ野の欠乏の中に置かれることがあるのです。それは必ずしも経済的なことばかりではないでしょう。ある人にとっては、信頼していた人々を失うことであるかもしれませんし、またある人にとっては、自分が寄り頼んでいた能力が衰えていくことであるかもしれません。大丈夫であると思っていた健康を損なうことであるかもしれません。いずれにせよ、自分の拠り所、命の拠り所が危ぶまれる時、そこにおいて、私たちの心にあるものが外に現れてくるのです。

 しかし、神がイスラエルの民を荒れ野に置かれ、飢えさせられたのは、ただ彼らの心の内にあるものを露わにするためではありませんでした。モーセはこの四十年の荒れ野の旅を回顧して、こう語るのです。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」(3‐4節)。

 神が与えられた飢えの苦しみは、マナによる養いという恵みの御手の上に置かれていた苦しみでした。すべては神の支えの御手の上に置かれていた苦しみでした。ですから、そこには明確な神の意図があり、目的があるのです。学校が生徒にテストを課すのは、単にその成績を明らかにするためだけではありません。学校は生徒を教育するのです。それこそが真の目的です。神は、イスラエルの内にあるものを明らかにされた上で、彼らに大切なことを教えておられたのです。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きること」。それは彼らがどうしても学んで置かねばならないことでした。そのために、神は彼らを荒れ野において訓練されたのです。そして、私たちをも訓練されるのです。

 そして、最初に申し上げたとおり、すべては彼らが約束の地に入るためでした。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きること」を学んでいないなら、与えられた豊かさは人を神から引き離すことになるでしょう。イスラエルの荒れ野における訓練は、やがて入るべき約束の地に備えての訓練でした。まず内なるものが備えられねばならなかったのです。

 それはこの世において神が私たちに良きものを与えてくださることについても言えますし、最終的に神の国を与えてくださることについても言えるでしょう。この世においても神が私たちに本当に良きものを与えようとなさるなら、そのために神は私たち自身を備え、整える必要があるでしょう。最終的な御国のためにも、私たちを備え整える必要があるでしょう。神の国は、神のみが支配しておられる世界です。そこではすべてが満ち足りています。しかし、神の国に入る前に、まず私たちの心が神の支配に向けて備えられねばなりません。

 いかなる訓練においても、重要なことは訓練を与える者と受ける者の意図が一致することです。神の訓練が訓練として、神の愛の教育が教育として受け取られるのでないかぎり、訓練が訓練として機能することはありません。ですから、モーセはこう言うのです。「あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい」(5節)。そして、「あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい」と勧めるのです。

 大切なことは、荒れ野の旅の中においても、神の良き意図が貫いていることを信じることです。神の良き御心がそこにあることを信じることです。荒れ野での生活を与えることが神の最終的な目的ではありません。私たちは約束の地へと導かれているのです。主の善意を信じ、呟くことなく、主に信頼して、主に育てていただきましょう。

(祈り)

2020年2月16日日曜日

「試練から生まれるもの」

ヤコブ1:2‐5

誘惑と試練
 本日の第2朗読は「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(2節)という言葉から始まりました。「試練」と訳されているこの言葉は、多くの場合「誘惑」と訳されます。「試練」と「誘惑」は、日本語としてはかなり意味合いが異なりますが、原文では同じ言葉です。

 この手紙の文脈において「試練」と訳されている言葉が指し示している具体的な事柄は明らかです。信仰者の身に降りかかってくる苦難です。当時のキリスト者にとっては、迫害ということが大きな割合を占めていたに違いありません。しかし、ここに「いろいろな試練」とありますように、苦難の内容は必ずしも迫害だけではありません。ある場合は、教会の中に生じた混乱が苦しみの原因であったかもしれません。あるいは、パウロが経験したように、肉体に与えられた棘、すなわち病気が苦しみの大きな原因となっていたかもしれません。いくつかの苦しみは互いに絡み合っているものです。苦難の内容は必ずしも単純ではありません。

 いずれにせよ、それがいかなる苦難であれ、苦難は確かに「誘惑」としても働きます。人間を神から引き離す力として働くのです。苦難は神への「信頼」から「疑い」へと導きます。そして、人間を罪へと引きずり込む力として働きます。人間を死へと導く力として働きます。苦難は確かに人間に対して悪魔の力として働くのです。

 しかし、そのように苦難が悪魔の力として働く場面はまた、そこにおいて私たちの信仰が試される場面でもあります。それは私たちの信仰の内実が問われる場面であると言ってもよいでしょう。私たちはいったい誰を信じているのか。何を信じているのか。どのように信じているのか。そのことが問われるのです。

 毎週の礼拝において信仰告白を唱和していること、それはいったい何を意味しているのでしょうか。信仰を言い表して洗礼を受けたこと、信仰を言い表して聖餐に与っていること、それはいったい何を意味しているのでしょうか。そのことが問われます。私たちは確かに具体的な苦難の中で、悪魔の力が神から私たちを引き離そうと働く中で、信仰が試され、普段私たちが信仰と呼んでいるものの内実を問われるのです。

 そこでヤコブの手紙は次のように私たちに語りかけるのです。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(ヤコブ1:2)。もし、苦難が誘惑でしかないならば、悪魔の力としての意味しか持たないならば、どう考えてもそれは喜びにはなりません。しかし、そうではないのです。既に述べたように、私たちが経験するのは、単なる誘惑以上のことなのです。

 信仰が問われること、試されることは、それ自体悪ではありません。それはむしろ時として人間に必要なことなのです。そうです、それは神にとって必要なのではありません。私たちの信仰を知るために、わざわざ神が人間にテストを課す必要はありません。それは神にとって必要なのではなく、人間にとって必要なのです。それは良きものが私たちの内に生じるためです。その良きものとは何でしょうか。聖書はそれを「忍耐」と呼びます。「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」(3節)と書かれているとおりです。

 ここで言われている「忍耐」とは、人間の性質としての「我慢強さ」のことではありません。我慢強さということならば、生来我慢強い人もいれば、そうでない人もいます。しかし、ヤコブが語っているのは、そのような人間の性質のことではありません。彼がここで「わたしの兄弟たち」と言って語りかけていることに注意してください。彼は信仰における兄弟たちに語りかけているのです。ここで話題とされているのは、あくまでも信仰に関することなのです。この「忍耐」という言葉はもともと「留まる」という言葉に由来します。それはあえて留まることのできる力です。どこに留まるのでしょう。信仰に留まることです。

 信仰に留まると言いましても、その信仰の内容が明瞭でないならば、留まることはできないでしょう。誰を信じているのか。何を信じているのか。どのように信じているのか。漠然としているならば、留まることはできないでしょう。しかし、既に申しましたように、試練の中で、信じている私たちが問われます。信仰の中身を問われるのです。ですから、私たちも自らに問わざるを得なくなります。「私は誰を信じているのか。何を信じているのか。どのように信じているのか」と。

 そして私たちは、既におぼろげに見えているものを、もう一度はっきり見ようと望むようになります。かすかに聞こえていたものをはっきりと聞き取ろうとするようになります。目を凝らします。耳を澄ませます。するとより良く見えてきます。より良く聞こえてきます。漠然としていたことがはっきりとしてきます。信仰の内容がはっきり見えてくるならば、信仰と共に希望がはっきりと見えてくるのです。それが試練の中で起こることです。

 こうして講壇に立って皆さんと共に礼拝をしていると良く分かります。試練の中にある人の目の輝きが変わってくる。聖書を開く顔つきが変わってくる。礼拝をしている時の姿勢が変わってくる。そのようなことが起こります。そのように、信仰が試される場は、信仰が確かにされる場ともなり得ます。希望が確かにされる場ともなり得ます。そのようにして、人は信仰に留まる力を与えられるのです。忍耐が与えられるのです。

 そして、信仰に留まるということは、時として与えられている具体的なその場にあえて留まるということをも意味いたします。放棄しないことです。逃げ出さないことです。神の御心がそこにあるならば、留まり続ける。それが忍耐です。信仰が試されることで、そこに忍耐が生じるのです。

 そして、ヤコブはさらにこのように言います。「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(4節)。「あくまでも忍耐しなさい」というのは、「忍耐を十分に働かせなさい」という表現です。忍耐が働き始める時、忍耐はさらに良きものをもたらすのです。

 しかし、それにしても「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」というのは言い過ぎではないでしょうか。確かに、これが単なる私たちの努力目標であるならば、とうてい受け入れることはできないでしょう。しかし、これはあくまでも信仰に留まるところにおける神の御業として語られているのです。ここの「完全」という言葉は「大人」を表す言葉です。そこにイメージされているのは成長です。そして、成長させてくださるのは神ご自身なのです。

 この箇所との関連で思い起こされるのは、ローマの信徒への手紙5章のパウロの言葉でしょう。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3‐4)。ちょうど、ヤコブが言っていることは、この「練達」に当たります。これは金属に例えますならば、精錬を経て純度が上げられ、合格の品質となったことを意味する言葉です。そのように神が私たちを精錬してくださるのです。忍耐の働きは無駄におわりません。私たちを信仰者として成長させ、完成へと向かわせ、神の国へと備えるのです。そのことにおいて、私たちの内には大きな希望がますます確かにされていくのです


知恵を求めよ
 しかし、それでもなお現実の信仰生活において、「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」というヤコブの勧めは、やはり困難な勧めであると言えるでしょう。こうして静かに礼拝の場に座っている時は良いけれど、いざ日常の生活の中に置かれる時、なかなか聖書の言葉と現実とが結びつかないということが起こってまいります。抽象的な概念ではなく、具体的な「試練」については、なかなか「この上ない喜び」とは思えないものです。

 しかし、そのような私たちであるからこそ、さらに次のように書かれているのです。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」(5節)。

 ここでも語られているのは一般的な意味における「知恵」ではありません。苦難に満ちた世を上手に渡っていくための処世の知恵でもありません。そのような知恵ならば、何も神に求める必要はないでしょう。しかし、もし私たちが、単に苦難を回避するだけでなく、今直面している現実の中に神が与えてくださっている意味、神が持っておられる目的を見出して生きていこうとするならば、神から与えられる洞察力、神からの知恵が必要となります。だから神に求めねばならないのです。

 実際、私たちの日常には、「なぜ」と問わざるを得ないことは少なくありません。「なぜこんなことが起こるのか」。「なぜよりによってこの私に起こったのか」。「なぜ私ばかりこんな目に遭うのか」。自分の周りを見回しても、わけの分からないことがあまりに多いように思えます。しかし、考えてみてください。私たちが「なぜ?なぜ?」と口にしている時、必ずしも答えを求めているとは限らないでしょう。「ああ、分からない」と言っている時、私たちが本当に分かりたい、知りたい、と思っているとは限らないでしょう。

 もし本当に答えが欲しいなら、もし本当に分かりたいと思うなら、知りたいと思うなら、やはり私たちは宙に向かってボヤいたり、人に向かって問うていたりするだけではだめなのです。神に向かわなくてはならないのです。そして、神に向かうとするならば、本気で向かうべきなのです。現実を理解するための知恵を、本気で神に求めるべきなのです。私たちは、神に求め、神から受けるのでなければ、結局は人の知恵、自分の知恵、自分の理解力をもって生きるしかありません。そして、自分の知恵をもって生きるなら、結局は、一生「なぜ、なぜ」を繰り返しながら生きるか、あるいはどこかで諦めて、問うことを終わりにするしかないのでしょう。

 苦難は自動的に忍耐を生み出し、練達へと導くわけではありません。それは自ずと信仰者の成長へと結びつくわけではありません。先にも申しましたように、それは第一に誘惑として働くのです。悪魔の力として働くのです。そのような誘惑に陥らないために必要なのは神からの知恵です。ですから、ヤコブが言うように、私たちは神に知恵を願い求めるのです。神は「誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えくださる神」であると書かれています。神に問うてもとがめられることはありません。神は惜しみなく与えてくださいます。
(祈り)

2020年2月9日日曜日

「永遠の真理と愛」

2ヨハネ1‐13

真理と愛
 本日の礼拝ではヨハネの書いた二番目の手紙が読まれました。とても短い手紙です。全体で13節しかありません。私信のようにも見えます。第一の手紙と続けて読むと分かりますが、内容的には第一の手紙とほとんど重複しています。そんな手紙が聖書に含まれているのはとても不思議なことにも思えます。

 しかし、逆に言えば、内容が重複している短い手紙を聖書に入れなくてはならないほど、ここで扱われている問題は当時の教会にとっても、後の教会にとっても極めて深刻な問題であったということでもあります。それは異端の問題です。教会が正しい教えからはずれて行ってしまうという問題です。ですから、何度でも同じことが語られなくてはならなかったし、繰り返し心に刻まれなくてはならなかったのです。

 ところで、これは私信のようにも見えると申しましたが、宛名は「選ばれた婦人とその子たち」としか書かれていません。私信であるならば、名前を書いて良いはずなので、「婦人」と約されている「キュリア」という言葉は固有名詞だろうとも言われてきました。そうしますと「キュリアさんとその子どもたちへの手紙」ということになります。

 しかし、もう一つの解釈があります。この「婦人」とは教会を指し、「その子たち」は教会員を指すという解釈です。ギリシア語で「教会(エクレシア)」は女性名詞ですから「婦人」という言い方で表現できなくもありません。旧約聖書ではエルサレムが「彼女」と呼ばれ、また「シオンの子ら」などという表現も出て来ますので、ちょうどそのような表現に相当すると考えられます。「真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています」(1節)という表現も、単に個人とその子供たちについて語っているというよりは、むしろ「真理を知っている人は教会を愛する」と語っていると考えられるわけです。

 そのようにいろいろ解釈はありますが、それが教会に対してであれ、個人とその子らに対してであれ、今日ここで注目したいのは「真理」と「愛」とが結びつけられているという点です。「真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています」。

 その前に書かれている1節の前半についても同じことが言えます。そこには「わたしは、あなたがたを真に愛しています」と書かれています。これは「あなたがたを真理において愛しています」というのが直訳です。また、3節にもこう書かれていますでしょう。「父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります」(3節)。ここでも真理と愛が結び付けられています。

 また、4節には、「あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました」とあります。「掟どおりに、真理に歩んでいる」のです。その「掟どおり」ってどういうことですか。次にこう書かれています。「さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです」(5節)。そのような掟どおりに真理に歩むのです。「互いに愛し合う」という掟どおりに真理に歩むのです。ここでもまた真理と愛とが結びつけられていますでしょう。

 このように、私たちがこの短い手紙を通して、まず聞き取らなくてはならない大切なメッセージは「真理と愛を切り離してはならない」ということなのです。

 「真理」とは、この場合、「正しい信仰」のことです。「正しい教え、正しい教理」と言い変えても良いでしょう。もう一方で異端のことについて話しているわけですから。教理的に正しくあること、正しい信仰に踏みとどまること、それはとても大事なことなのです。同じような手紙を送り、繰り返し語られなくてはならないほどに、大事なことなのです。しかし、その真理はすでに見てきたとおり、「愛」と結びついてこそ意味を持つのです。「御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる」ことが重要なのです。

 逆に言えば、「真理に歩んでいる」と言いながら、「御父から受けた掟どおり」に歩んでいなかったら、何かが間違っていると思わなくてはならない、ということです。「わたしは正しい信仰を持っている。わたしは真理を知っている。わたしは神を知っているし、わたしはキリストとの交わりがある」と言いながら、教会を愛することがない、互いに愛することもない。他の人との関係を考えることなく、ただ神と自分との関係、キリストと自分の関係しか考えられないとしたら、それは何かが間違っている、ということです。愛から切り離された真理はあり得ないのです。

神が具体的に愛してくださったのだから
 どうして、このようなことがあえて語られなくてはならないのでしょうか。どうしてここで真理だけでなく「御父から受けた掟」について語られなくてはならないのでしょうか。ヨハネは7節でこう説明しています。「このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとはしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです」(7節)。

 ここで「人を惑わす者」と繰り返されていますが、彼らは後に「グノーシス主義者」と呼ばれるようになる異端の人たちです。ここに書かれているように、彼らはキリストが肉となって来られたこと――キリストの受肉――を否定する人たちでした。キリストが私たちと同じ体を持った人間となられたことを否定するのですから、当然のことながら、その体をもって成し遂げられた罪の贖いも信じません。というよりも、そもそも罪の贖いを必要としていなかったのです。

 彼らはこの目に見える体も、この物質世界も本質的に無価値で無意味であると考える人たちでした。ですから、その体が物質世界において何を行うかは本質的に何の意味もないのです。この体が悪を行おうが善を行おうが、それはどうでもよいことなのです。ですから、自らの罪を悔いることもなければ、神に赦しを願い求めることもありません。ただ魂の牢獄である体から魂が解放されることこそが救いなのです。

 そのような「人を惑わす者」が大勢世に出て来たと語ります。しかし、そのようなグノーシスの異端には、それはそれとして層の厚い哲学的思想的背景があるのです。それはちょっと何かを語ったぐらいで否定できるようなものではないのです。いや、思想的背景だけではありません。異端の人たちには、それなりの神秘的な体験もあるのです。それもまた簡単に否定できることではないのです。

 ですから「これが正しい信仰だ」と言って、ただ単に受肉や贖罪に関する教理的な言葉をオウム返しに繰り返していても、彼らに対しては何の力もないのです。そんなことでは簡単に足下をすくわれてしまいます。「キリストが肉となられた」「キリストは十字架において罪の贖いを成し遂げられた」と言うならば、その信仰理解が目に見える現実の信仰生活を作り出しているのでなければならないのです。そこでキーワードとなるのが「愛」なのです。

 神はキリストを通して、単に正しい教えを与えてくださったのではありません。そうではなくて、神は私たちを「愛してくださった」のです。そして、愛は観念ではないのです。愛は具体的な行為です。具体的であるためには、そのために「体」が必要なのです。ですから、神は御子に「体」を取らせたのです。神がこの世界を、私たちを、具体的に愛するためです。それが極まるところが十字架なのです。その体をもって成し遂げられた罪の贖いなのです。

 その神の具体的な愛を、第一の手紙ではこのように表現していました。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:9‐10)。

 ゆえに「真理」というのは、単に観念的な「正しい信仰」ではないのです。真理とは、神が肉となって体をもって現してくださった具体的な愛なのです。ですからイエス様は「わたしは真理を教えてあげよう」と言わないで、「わたしが真理だ」と言われたのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と。ですから、この受肉と贖罪の信仰を真理として受け取るということは、神の具体的な愛を真理として受け取るということなのです。

 ならばそこでは、当然のことながら、私たちもまた「体」を持っているということが極めて大きな意味を持つことになります。神の具体的な愛を知ったならば、グノーシスの異端のように、「目に見える物や目に見えるこの世界には意味がない。この肉体には意味がない。肉体が何を行うかは重要なことではない」とは言わないはずなのです。真理を知ったということは、この世の体が具体的に愛を現すための体だということを知ったということでもあるのですから。この体をもって生きる人生は、具体的に愛をこの世界に現すために与えられた人生であると知ったということですから。

 それゆえに、先ほど引用した1ヨハネの言葉はこう続くのです。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(1ヨハネ4:11)。これが既に述べられている「御父から受けた掟」です。その掟は、神の具体的な愛を通して与えられたのです。それゆえに「真理」に歩もうと思うならば、この「掟どおりに真理に歩む」ことが重要なのです。

 そしてさらに、ヨハネは次のように勧めます。「この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません」(10節)。家に入れない。挨拶もしない。それは愛にもとる行為ではありませんか。 ――いいえ、それほど単純な話ではありません。というのも、この場合、「あなたがたのところに来る者」とは一般的な人の話ではなくて伝道者の話であるからです。また、当時は今日のような教会堂などありませんから、比較的広い家に集まって礼拝していたのです。ですから、「家に入れる」とか「挨拶する」とは一般的な意味ではなく、教会に受け入れたり、仲間であることを表明したりする話なのです。

 真理をないがしろにして、真理に目をつぶって、異なる教えを教会に受け入れるようなことがあってはならないとヨハネは言っているのです。そのように真理をないがしろにすることは、本当の意味で誰をも愛することにならないからです。愛から切り離された真理はない。しかし、真理から切り離された愛もないということです。

(祈り)

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