申命記8:1‐6
豊かさを与えられる神
本日の第一朗読では旧約聖書の申命記が読まれました。申命記はモーセの説教です。いや、モーセの遺言であると言って良いかもしれません。モーセはまもなく自分が世を去ることを知っていたからです。一方、イスラエルは、四十年に渡る荒れ野の旅を終え、いよいよヨルダン川を渡り、約束の地に入ろうとしていました。そこで去りゆくモーセは、今、イスラエルの民にこう語りかけるのです。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい」(2節)。
今こそ、彼らは荒れ野の旅を思い起こさなくてはならないのです。それはなぜか。彼らは荒れ野から、神のくださる良い土地に入ろうとしていたからです。今日は6節までお読みしましたが、実は今日の聖書箇所の直後には、こう書かれているのです。「あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地であり、石は鉄を含み、山からは銅が採れる土地である」(7‐9節)。
神は彼らを荒れ野で生活させるために、エジプトから導き出したわけではありません。神は彼らをカナンの地、乳と密の流れる地、約束の地に導き入れようとしておられたのです。それこそが神の望んでおられたことでした。神の本来の意図は、人間が困窮に喘ぎながら、苦しみもだえながら、欠乏を嘆きながら生きることではありません。人間が神の与えてくださる真の豊かさの中に生きることを、神は望んでおられるのです。
それは聖書が1ページ目から教えていることです。天地創造の物語を思い起こしてみてください。神は全てのものを創造し、この世界のすべてを備えた上で、第六日目の最後に人間を創造されました。人間が最初に創造されて、全てが欠乏しているところから、順次必要なものを満たしていったという話ではないのです。既に備えられた豊かさの中にあって人間が創造された。それが聖書の人間理解です。
続くエデンの園の物語にしても同じです。神は、豊かな園を備えた上で、そこに人間を置かれました。その園については、「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ・・・」(創世記2:9)と書かれているのです。エデンの園は豊かな園だったのです。神は人間が豊かな園に生きることを望まれ、人間が神の与えてくださる豊かさを喜び楽しむことを望まれたのです。
そのような神が、あえてイスラエルの民を荒れ野に導かれたのです。そして、私たちもまたしばしば荒れ野に導かれる。ならばそこには理由があるのでしょう。与える神の側ではなく、受け取る私たちの側の問題があるからです。すなわち、神が私たちに豊かに与えたとしても、それが必ずしも私たちの幸いとはならないという問題です。私たちが豊かに受け取ることによって、私たちがかえって本来の人間の姿を失い、幸いを失うということが起こり得るということです。
乳飲み子には乳が与えられます。お乳が与えられなくては生きていけませんから。しかし、本来乳飲み子にとって、お乳よりも大事なのは、お乳を与えてくれるお母さんです。乳飲み子は、お乳と共に母親の愛情を受け取っているのです。そうやって、乳飲み子の内には、母親への愛と信頼とが育まれていくのでしょう。そのことこそが本当の意味で乳飲み子が受けている豊かさなのでしょう。
神がこの世界において豊かに与えてくださっているものも、本来は乳飲み子にとってのお乳と同じです。それがなんであれ、本来は皆、神との交わりの媒介なのであって、神の愛情を受け取っているのです。それは人が天地創造の主である神を喜び、感謝し、神を愛し、神に信頼し、神に従順に生きるためのものなのです。
しかし、現実には必ずしもそうはならない。与えられれば与えられるほど、神との交わりから遠ざかっていくということが起こり得ます。受ければ受けるほど、人間が神への愛と従順から遠ざかっていくということも起こり得る。それは受ける側の問題です。与えられたもの、人間の外にあるものの問題ではなく、人間の内にあるものの問題なのです。
そして、やっかいなことに、人間の内にあるものは、往々にして外からは見えないのです。アダムとエバが禁じられた木の実を食べた後、すぐにいちじくの葉をつづり合わせて自分の裸を覆ったように、人間は内なるものはそのままにして、外側だけを取り繕うものだからです。だから外からは見えなくなる。そして、外から見えなくなると、しばしば自分自身の目にも見えなくなります。自分の内に問題があっても、それが見えなくなるのです。
試みられる神
しかし、そのように普段は隠れている内なるものが外に現れてきてしまうことがあります。それは人間が危機的状況に置かれる時です。欠乏、、困窮する時です。苦しみの内に置かれる時です。悲しみが襲ってくる時です。その時に、内にあるものが外に現れてくる。そうです、それが荒れ野の四十年間に起こったことでした。
モーセは言います。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた」(2節)。本当は、神が「知ろうとされた」というのは変な表現なのです。神はそのようなことをしなくても知り得るはずだからです。しかし、ここで聖書の言わんとしていることは明らかです。隠れて外から見えないものが、心の内にあるものが、外に現れるようにされた、ということです。
私たちは、そのようなことがイスラエルだけでなく、今日の教会、今日の私たちにも起こることを知っています。私たちもまた、荒れ野の欠乏の中に置かれることがあるのです。それは必ずしも経済的なことばかりではないでしょう。ある人にとっては、信頼していた人々を失うことであるかもしれませんし、またある人にとっては、自分が寄り頼んでいた能力が衰えていくことであるかもしれません。大丈夫であると思っていた健康を損なうことであるかもしれません。いずれにせよ、自分の拠り所、命の拠り所が危ぶまれる時、そこにおいて、私たちの心にあるものが外に現れてくるのです。
しかし、神がイスラエルの民を荒れ野に置かれ、飢えさせられたのは、ただ彼らの心の内にあるものを露わにするためではありませんでした。モーセはこの四十年の荒れ野の旅を回顧して、こう語るのです。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」(3‐4節)。
神が与えられた飢えの苦しみは、マナによる養いという恵みの御手の上に置かれていた苦しみでした。すべては神の支えの御手の上に置かれていた苦しみでした。ですから、そこには明確な神の意図があり、目的があるのです。学校が生徒にテストを課すのは、単にその成績を明らかにするためだけではありません。学校は生徒を教育するのです。それこそが真の目的です。神は、イスラエルの内にあるものを明らかにされた上で、彼らに大切なことを教えておられたのです。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きること」。それは彼らがどうしても学んで置かねばならないことでした。そのために、神は彼らを荒れ野において訓練されたのです。そして、私たちをも訓練されるのです。
そして、最初に申し上げたとおり、すべては彼らが約束の地に入るためでした。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きること」を学んでいないなら、与えられた豊かさは人を神から引き離すことになるでしょう。イスラエルの荒れ野における訓練は、やがて入るべき約束の地に備えての訓練でした。まず内なるものが備えられねばならなかったのです。
それはこの世において神が私たちに良きものを与えてくださることについても言えますし、最終的に神の国を与えてくださることについても言えるでしょう。この世においても神が私たちに本当に良きものを与えようとなさるなら、そのために神は私たち自身を備え、整える必要があるでしょう。最終的な御国のためにも、私たちを備え整える必要があるでしょう。神の国は、神のみが支配しておられる世界です。そこではすべてが満ち足りています。しかし、神の国に入る前に、まず私たちの心が神の支配に向けて備えられねばなりません。
いかなる訓練においても、重要なことは訓練を与える者と受ける者の意図が一致することです。神の訓練が訓練として、神の愛の教育が教育として受け取られるのでないかぎり、訓練が訓練として機能することはありません。ですから、モーセはこう言うのです。「あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい」(5節)。そして、「あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい」と勧めるのです。
大切なことは、荒れ野の旅の中においても、神の良き意図が貫いていることを信じることです。神の良き御心がそこにあることを信じることです。荒れ野での生活を与えることが神の最終的な目的ではありません。私たちは約束の地へと導かれているのです。主の善意を信じ、呟くことなく、主に信頼して、主に育てていただきましょう。
(祈り)