2025年11月2日 聖徒の日 主日礼拝説教
聖書:ヨハネによる福音書 14:1-7
今日は聖徒の日です。天に召された方々の御家族、御親族も大勢見えています。共に礼拝できることをうれしく思います。今日は天に召された方々を思い出しながら、天と地が一つとされているところに身を置いていることを思いつつ、共に礼拝をおささげできたらと思います。
心を騒がせるな
そのような今年の召天者記念礼拝に与えられている聖書の言葉が先ほど読まれました。今日は特に福音書朗読において読み上げられたイエス様の言葉を心に留めたいと思います。主は言われました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(1節)。
「心を騒がせるな」と主は言われます。それは人間がしばしば平安を失い、心を騒がせることを知っておられるからでしょう。そして、まさにその時弟子たちはそのような状態にあったのです。
主がそう言われたのは、最後の晩餐の席においてでした。イエス様は御自分の死が目前に迫っていることを知っておられました。御自分が間もなく捉えられ、鞭打たれ、十字架にかけられることを知っておられました。今日読まれました聖書箇所の直前にはペトロとのこんなやり取りが記されています。
イエス様がペトロに言われました。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」。イエス様は十字架に向かっているのです。そこにペトロは、今はついて行くことはできないと主は言われたのです。しかし、ペトロにはイエス様が言っておられる意味が分かりません。しかし、生と死に関わることを主が言っておられることだけは分かったのでしょう。ペトロは言いました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」(13:37)。
ペトロがそう言わざるを得ないほどに、イエス様の上に、そして弟子たちの上に、命の危険が迫っていることを彼らは感じ取っていたのです。確かに死の力が彼らに押し迫ってきているのです。それゆえに弟子たちは心を騒がせずにいられなかったのです。
それは二千年後の私たちにもよく分かります。死の力に人間は勝てないことを私たちも知っていますから。いかなる人間も、どんなに大金持ちであろうが、どんな権力者であろうが、死の力には勝てない。だから死がその片鱗を現す時に、そして、最終的に押し迫ってくる時に、人間が平安を保つことは困難です。心が騒ぐのを抑えることはできません。
しかし、主は言われるのです。「心を騒がせるな」と。それは「心を騒がせる必要はない」ということでもあります。それはどうしてか。弟子たちは既に誰を信じたら良いかを知らされているからです。イエス様と共に歩んだ三年半の間に、弟子たちは繰り返しイエス様が言われるのを聞いてきたはずです。「神を信じなさい」と。そして、多くの人々に主がこう語るのを聞いてきたはずなのです。「あなたの信仰があなたを救った!」と。
イエス様は今一度、最後の晩餐において、弟子たちにそのことを思い起こさせているのです。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と。「神を信じなさい」だけではありません。「わたしをも信じなさい」と主は言われるのです。
まもなく捕らえられることを知っている主が、十字架にかけられて殺されることを知っている主が言われるのです。自分の無残な死に様を見ることになる弟子たちに、それでもなおイエス様は言われるのです。「わたしを信じろ」と。
イエス様がそう言われるのは、御自分の死が何を意味するかを知っているからです。そして、弟子たちにも繰り返し語り聞かせてきたのでしょう。今こそ弟子たちは――心が騒いで仕方ない弟子たちは――思い起こして信じなくてはならないのです。それゆえに、「わたしを信じろ」と言われた主は、御自分の死が何を意味するのかを静かに語り始めるのです。それが今日の聖書箇所です。
場所を用意しに行く
主は弟子たちに言われました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」(2節)。イエス様は死の力に飲み込まれて滅びるのではないのです。主は十字架の向こうに「父の家」を見ているのです。自分が帰るべきところを見ているのです。
今日は読まれませんでしたが、最後の晩餐の場面は次のような言葉で始まります。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(1節)。
自分が父の家に帰ることを知っていたイエス様は、弟子たちにこう言っておられました。「あなたがたのために場所を用意しに行く」と。そうです、イエス様は場所を用意しにいくのです。それはイエス様が行くところに、弟子たちもまた行くことができるようになるためです。ですから主はさらにこう言われるのです。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(3節)。
そのように父のもとに行くのはイエス様だけではないのです。弟子たちもまた、イエス様のもとに迎えられるのです。父の家に迎えられることになるのです。これが「心を騒がせるな」と言われるイエス様の約束の言葉です。「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われるイエス様の約束の言葉です。確かに、そう言われるイエス様を信じるならば、もはや心を騒がせる必要はないはずなのです。
イエス様が帰っていく父の家に、私たちもまた迎えられる。これこそ代々の教会もまた信じてきたことです。しかし、考えてみれば、これは驚くべきことでしょう。罪を犯すことのなかったイエス様と同じところ私たちも迎えられるのです。罪ある私たちが迎えられるのです。十字架の死に至るまで神に従い通したイエス様と同じところに、私たちも迎えられるのです。神に背いてばかりいる私たちが迎えられるのです。父の家に私たちの場所があるとするならば、それはまことに驚くべきことです。いったい私たちの誰が真顔で、「神様、あなたのもとに私の場所があることは当然です。あなたの家に迎えられるにふさわしく生きてきましたから」と言えるでしょう。それは本来、あり得ないことなのです。
だからこそ、イエス様はわざわざ「あなたがたのために【場所を用意しに行く】」(2節)と言われたのです。「場所を用意しに行く」ということは、つまり用意されるまでは「ない」ということです。はじめから私たちの場所があるわけではない、ということです。父なる神のみもとに、私たちの場所があるとするならば、それはイエス様が用意してくださったから場所があるのであって、私たちが何かをしたからではありません。ひとえにイエス様がしてくださったことによるのです。
イエス様は場所を用意しに行くと言われました。そして、どうされましたか。主は十字架にかかって死なれたのです。言い換えるならば、イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかられることによって、私たちの場所を用意してくださったのです。私たちの罪を代わりに負うことによって、罪人である私たちが父に迎えられるようにしてくださったのです。
わたしは道である
いや、イエス様はただ場所を用意してくださっただけではありません。主は、わたしは道である」と言われたのです。その道は父のみもとに行くための道です。キリストは十字架にかかり、私たちの罪を代わりに負い、私たちの罪を贖うことによって、私たちの通るべき道ともなってくださったのです。
実際、私たちは、キリストの十字架による罪の赦しという道を通って、父なる神のみもとにいくしかないのです。なぜなら、神の目から見るならば、私たちは皆、償いきれない罪の負い目を負っているからです。私たちが自分の罪を償いきれないならば、キリストの十字架に寄り頼んで、罪を赦していただくしかないのです。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とは、そういうことです。
それは、「あなたが自分の罪を償いきれない罪人であったとしても、わたしを通って父のもとに行きなさい」という呼びかけでもあるのです。主は言われるのです。「わたしがその道だ」と。
目的地へと通じる道があるならば、その道から外れない限り、必ず目的地に行き着きます。「父のもとに行く」ための道ならば、最後まで道と共にある限り、必ず父のみもとに行き着くのです。最後まで道と共にあるということ、――それは最後までイエスと共にあるということです。最後まで信じて共にあることです。
主は言われました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。私たち誰もが直面しなくてはならない死の力に対して、「わたしを信じろ」と言ってくださる方がおられるということは、本当にありがたいことです。この世の誰も、どんなに私たちを愛してくれる近しい人であっても、そんなこと言ってくれないし、言うこともできないでしょう。死の力に直面して心騒ぐときに「わたしを信じろ」と言ってくださるのは、この御方だけです。
そして、さらに言うならば、この「わたしを信じなさい」という言葉は、「わたしを信じ続けなさい」という意味合いの言葉なのです。大事なことは最後まで信じ続けることです。繰り返します。それが父のみもとに至る道ならば、最後までその道と共にある限り、必ず父のみもとに行き着くのです。