今日の箇所には「エルサレムの人々」が出てきます。これは今まで出できた「ユダヤ人たち」や「群衆」と区別されています。ユダヤ人たちは、32節では「祭司長たちとファリサイ派の人々」と言いかえられています。ユダヤ人社会の権力者たちです。彼らはイエスを捕らえて殺そうと画策しています。一方、群衆は地方から祭りのためにエルサレムに上ってきた人々と考えられます。群衆の間ではイエスについていろいろとささやかれていました(12節)。今日の箇所では、群衆の中にイエスを信じる者も大勢いたことが書かれています(31節)。しかし、それは既に語られていたように、しるしを見て信じた人々と同じでした。
今日出てきたエルサレムの人々は、ユダヤ人たちが敵意をもってイエスを捜し回り、捕らえて殺そうとしていることは知っているようです。そのイエスが祭りの最中に現れて、神殿の境内で教えていたのに驚いたのでしょう。彼らの中にはこう言う者たちがいました。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか」(26節)。もちろん、そのような事が起こっているはずもなく、手出しをしなかったのは、イエスを取り巻く群衆が騒ぎを起こさぬよう、密かに捕らえることが難しかったためなのでしょう。
しかし、重要なのはエルサレムの人々の言葉の続きです。彼らはこう言ったのです。「 しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ」。イエスがガリラヤのナザレ出身であることは既に広く知られていたと思われます。一方において「メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出る」という理解がありました。しかし、もう一方において、メシアは人に知られることなくある日突然現れるという思想は広く行き渡っていました。恐らくはミカ書3:1に由来するものと思われます。それゆえに「どこの出身かを知っている」ということがメシアと信じる妨げとなったのです。いや、それだけではありません。彼らは神の都エルサレムの人々です。彼らにとっては「ナザレ出身のメシア」など、到底承認することはできなかったのです。ガリラヤ出身のナタナエルでさえ、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言っていたのですから。
そのようなエルサレムの人々の言葉を耳にした時、神殿の境内で教えていたイエス様は彼らに大声でこう言いました。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである」(28節)。
彼らは確かにイエスがどこから来たのかを知っている。しかし、本当の意味でどこから来たのかは知らないのです。イエス様にとって決定的に重要なのは、ご自分が父なる神のもとから来たということです。そして、これまで見てきたように、このことはイエス様ご自身が人々に公に語ってきたことなのであって、恐らく同じことを神殿の境内でも語っていたでしょうし、彼らも聞いていたはずなのです。しかし、彼らの頭の中にはイエスが「ナザレから来た」ということがあるから、「父から来た」ということがまっすぐ心に入らない。イエス様がどんなに父について語っても、それが入りません。だからイエス様は言われるのです。「あなたたちはその方を知らない」と。
エルサレムの人々は、「あなたたちはその方(神)を知らない」と言われて、それは腹が立っただろうと思います。知っていると思っていますから。ですから人々(彼ら)はイエスを捕らえようとしたのです。しかし、あえて手をかける者はいませんでした。実際的な理由としては、ユダヤ人たちが捕らえ得なかったのと同じで、巡礼に来ていた群衆の中にイエスを信じる者が大勢いたからなのでしょう。騒ぎを起こすことは避けたかった。しかし、聖書は「イエスの時はまだ来ていなかったからである」と説明するのです。イエス様は父によって遣わされたのであって、ただ父の定められた「時」に向かっていたのです。
さて、既に見てきたようにエルサレムの人々の中に「議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか」という声が聞かれ、また群衆の中においても「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」とささやかれていることを耳にしたファリサイ派の人たちは、祭司長たちと共に、公然と話をしているイエスを捕らえるために下役たちを遣わします。「下役たち」というのは神殿の警備に当たっている役人たちです。彼らを送ったところで実際には逮捕はできないのですが、威嚇してイエスが神殿で教えることを止めさせることはできると考えたのでしょう。
しかし、イエス様は怯むどころか、下役たちに対して、さらには彼らの背後にいるユダヤの当局者たちにはっきりとこう語られたのです。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」(33‐34節)。ここにはっきりと語られているように、御子は敵対する彼らのためにも遣わされていたのです。イエス様は父から遣わされた方として、彼らにも神の言葉を語っておられたし、彼らは確かに耳にしていたのです。それは恵みの時であったと言えます。しかし、それは永遠に続くのではありません。「今しばらく」なのです。終わりの時が来るのです。遣わされている時に受け入れないならば、もはや捜しても見つけることはできない。イエスがいる所、すなわち父のみもとに彼らはいることはできないと主は語られたのです。
これを聞いてユダヤ人たちは互いに言いました。「・・・いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか」(35節)。イエスが父のもとから来られたことを信じない彼らは、「わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」という言葉がいかに深刻な事態を意味するかを理解することもなかったのでした。
2020年4月29日水曜日
2020年4月26日日曜日
「さあ、来て、食事をしなさい」
ヨハネによる福音書 21:1‐14
「その後」という言葉から始まる21章に入りまして、場面はエルサレムからガリラヤのティベリアス湖畔に移ります。ペトロをはじめ、他の弟子たちは、もともと彼らがいた生活の場に戻っています。今日お読みした箇所において弟子たちがしていることは、彼らイエス様と出会う前、三年半ほど前まで、日々繰り返していたことと基本的には変わりません。ペトロが言います。「わたしは漁に行く」。他の弟子たちも言いました。「わたしたちも一緒に行こう」。そのようにして共に漁に出ます。あいにく、その夜は何も取れませんでした。大漁の日もあれば不漁の日もある。それが漁師の日常です。魚がとれないときの惨めさや虚しさ、疲れ果てて迎える朝。それもまた彼らがこれまで幾度となく味わってきたことであるに違いありません。
表面的には三年半前と何も変わっていないように見えます。しかし、それにもかかわらず、決定的に異なることがあるのです。既にキリストが復活されたことです。そして、彼らはそのキリストの弟子であるということです。
弟子たちに現れたキリスト
今日の聖書箇所が伝えている情景を思い描いてみましょう。朝が白々と明けてきました。イエス様が岸に立っておられます。しかし、弟子たちにはイエス様であることが分かりません。主は彼らに呼び掛けました。「子たちよ、何か食べ物があるか」。要するに「魚は捕れたか」と言っておられるのです。「捕れていません」と答える彼らに、主は言われました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(6節)。彼らがその声に従って網を打ってみますと、なんと夥しい魚が網にかかりました。もはや網を引き上げることができないほどです。
その時、「主の愛しておられたあの弟子」が言いました。「主だ!」彼は思い出したのでしょう。あの日の出来事を。――三年半ほど前のあの日も、彼らは夜通し働いて何もとれませんでした。虚しく朝を迎え、疲労困憊した彼らに、あの日イエス様は言われたのでした。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(ルカ5:4)。シモン・ペトロは言いました。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」そう言って主の言葉に従って漁に出た。すると、「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」(同5:6)と書かれています。皆、この事実に驚き、恐れます。すると主はペトロにこう言われたのでした。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。
「主だ!」と口にしたあの弟子が思い出したのは、その時のイエス様の姿であったに違いありません。いわばイエス様があの時の情景を再現して、彼らに思い出させてくださったとも言えます。そのようにして、かつて彼らを弟子として招いたキリストが、復活して今も共にいることを示してくださったのです。「主だ!」というその言葉を聞くと、ペトロは上着をまとって湖に飛び込みました。裸で主にお会いするわけにはいかないとでも思ったのでしょう。彼は二百ペキス(約90メートル)を泳いで主のもとへと急ぎました。他の者は舟で陸まで戻りました。
そこで非常に印象的な描写が続きます。陸に上がってみると、炭火が起こしてありました。イエス様が自ら食事を準備していてくださったのです。そこには魚がのせてあり、パンもありました。そして、主は、「パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた」(13節)と書かれています。
イエス様がパンを裂いて弟子たちに与えられ、魚も同じように弟子たちに分けられた時、彼らはもう一つの場面を思い起こしていたに違いありません。そう言えば、このようにイエス様がパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、私たちに分けてくださったことがあった。魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えてくださったことがあった。それは、ここ、ティベリアス湖の畔でのことだった。――そうです、キリストが五つのパンと二匹の魚を分けて群衆に食べさせられた時のことです。この福音書の6章に書かれています。あの時、人々にパンと魚を分け与えられたイエス様が、復活して弟子たちに現れ、同じようにパンと魚を分けてくださったのです。
考えて見れば、ほんの少し前まで泥のように疲れていた彼らだったのでしょう。夜通し働いて何もとれず、ただただ疲れ果てて朝を迎えた彼らだったはずです。しかし、その彼らがイエス様と共にあって、まさに生き返っている姿を私たちはここに見ることができるのです。それは、最後の最後で大漁を得たからでしょうか。いいえ、そうではないでしょう。確かに大漁は嬉しかったに違いない。しかし、それ以上にうれしかったのは、復活の主が共にいることに気付かせていただいたことではありませんか。あの弟子の「主だ!」という言葉を聞いて、ペトロもまた気付かされたのでしょう。そして、その時にはもう大漁の喜びなんて吹っ飛んでしまって、とれた魚には目もくれず、すぐに湖に飛び込み、主のもとにはせ参じたのです。
そして、キリストは彼らと共にいることに気付かせてくださっただけではありません。主は彼らのために食事を整えていてくださっていた。それはかつてのパンの奇跡を思い起こさせる食事でありました。そう言えばあの時、人々にパンと魚を分けられた主は、次のように語られたのでした。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)。彼らは確かにそこで、「命のパン」である主御自身による養いを受け、命の満たしを受けていたのです。
私たちに現れてくださるキリスト
こうして見てきますと、ここに描き出されているのはただその時の弟子たちの姿だけでなく、後の弟子たちお姿もまたそこに重ね合わされていることに気付かされます。そこに描かれているのは、私たちの姿でもあるのです。
20章には、弟子たちがまだエルサレムにいた時、イエス様が彼らに二度にわたって姿を現されたことが記されていました。一回目はキリストが復活された週の初めの日の夕方。二回目はそれから「八日の後」のことです。「八日の後」とは私たちの言う「一週間後」ということですから、やはり日曜日のことです。私たちはキリストの弟子たちが、後にエルサレムを本拠地とすることを知っています。初代の教会はエルサレムから始まるのです。
しかし、ヨハネによる福音書はあえて21章を加えて、「その後」という言葉をもって三回目のイエス様の現れを語るのです。そこはエルサレムではなくてガリラヤなのです。彼らはそこで漁をしているのです。いわば彼らの日常生活の場において、主が三度目に現れてくださったことを伝えるのです。
20章が日曜日のことを語っているとするならば、ある意味で21章は残りの六日間を語っていると言ってもよいでしょう。主の日の集まりから生活の場に戻れば、そこにはキリストを信じる前でも後でも、同じ生活があるのでしょう。初期の信徒には奴隷の身分の者が少なくありませんでした。信じる前に奴隷であったならば、信じた後にも奴隷であるわけです。日常には同じ生活が待っている。しかし、そこには決定的に異なることがあるのだと、今日の聖書箇所は言うのです。なぜならキリストは復活されたからです。
確かに、生活の場における経験は、漁に例えるなら常に「大漁」とは限りません。いや、一晩中働いてまったく何もとれなかったあの弟子たちのように、まる一日かけてやったことが全部無駄に思える日もあるかもしれません。労苦が報われなかったり、善意が受け入れられなかったり、愛が実を結ばなかったりすることはいくらでもあるのでしょう。この世の罪や自分自身の罪との戦いにおいて疲れ果て、まさに砂を咬むような虚しさと惨めさを味わうことも、日常生活においてはいくらでもあるのでしょう。
しかし、キリストは復活されたのです。主は生きておられます。そのキリストが呼びかけてくださるのです。「魚は捕れてるか」と。そのように、遣わされた
者としてこの世に生きる私たちの生活に目を留め、心にかけていてくださる方がそこにおられるのです。この世において私たちが経験する惨めさや虚しさもわかっていてくださる方がおられるのです。そして、主は言われるのです。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と。そのように主が私たちにも語りかけ、導いてくださるのです。
主が語りかけ、導いてくださるのは、何も日曜日だけではありません。毎日の生活の中で、私たちは主に耳を傾け、主に導かれて生きるのです。そして、私たちは様々な場面で気付かされるのです。「主だ!」と。復活の主が確かに共にいてくださることに気付かされるのです。これは主の御業だ。主が共にいて、主がしてくださったことだ!と。その時、「主だ」と口にしたあの弟子のように、また湖に飛び込んだあのペトロのように、私たちの心は喜びに満ちあふれ、主を慕い求めるのです。
そして、主を慕い求め、主のもとに馳せ参じるなら、命のパンである主御自身が豊かにもてなしてくださるのです。「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と主は言われたではありませんか。そして、キリストが命の糧を豊かに与えてくださるのは、ただ主の日だけではないのです。聖餐の時だけではないのです。キリストはティベリアス湖(ガリラヤ湖)の畔で、漁師の日常生活のただ中で、炭火をおこし、魚を焼いて待っていてくださったではありませんか。
頌栄教会は3月29日以来、礼拝堂に集まることを控えて、それぞれが自分の生活の場所で礼拝をささげることとしました。主日礼拝の場所が、半ば強制的にそれぞれの生活の場所へと移動させられたとも言えます。日曜日に教会に集まることができなくなって、かえって信仰生活の主たる場所は、教会堂の中ではなく、自分の生活の場所であることを、否が応でも認識せざるを得なくなりました。それは私たちにとって、今、本当に必要なことだったのだと思います。
キリストは復活されました。私たちはその弟子たちとして、与えられている場において、一日一日を生きるのです。今週も、日々、生ける主の導きに気づかせていただきたい。生ける主の御業に気づかせていただきたいと切に願います。「主だ!」と口にしたあの弟子のように。そして、日々主の養いを受けて、命に溢れて仕える者でありたいと切に願います。それは、私たちの祈りであると共に、そのような生活をどのように築いていくかという私たち自身の課題がそこにあるとも言えるでしょう。
(祈り)
「その後」という言葉から始まる21章に入りまして、場面はエルサレムからガリラヤのティベリアス湖畔に移ります。ペトロをはじめ、他の弟子たちは、もともと彼らがいた生活の場に戻っています。今日お読みした箇所において弟子たちがしていることは、彼らイエス様と出会う前、三年半ほど前まで、日々繰り返していたことと基本的には変わりません。ペトロが言います。「わたしは漁に行く」。他の弟子たちも言いました。「わたしたちも一緒に行こう」。そのようにして共に漁に出ます。あいにく、その夜は何も取れませんでした。大漁の日もあれば不漁の日もある。それが漁師の日常です。魚がとれないときの惨めさや虚しさ、疲れ果てて迎える朝。それもまた彼らがこれまで幾度となく味わってきたことであるに違いありません。
表面的には三年半前と何も変わっていないように見えます。しかし、それにもかかわらず、決定的に異なることがあるのです。既にキリストが復活されたことです。そして、彼らはそのキリストの弟子であるということです。
弟子たちに現れたキリスト
今日の聖書箇所が伝えている情景を思い描いてみましょう。朝が白々と明けてきました。イエス様が岸に立っておられます。しかし、弟子たちにはイエス様であることが分かりません。主は彼らに呼び掛けました。「子たちよ、何か食べ物があるか」。要するに「魚は捕れたか」と言っておられるのです。「捕れていません」と答える彼らに、主は言われました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(6節)。彼らがその声に従って網を打ってみますと、なんと夥しい魚が網にかかりました。もはや網を引き上げることができないほどです。
その時、「主の愛しておられたあの弟子」が言いました。「主だ!」彼は思い出したのでしょう。あの日の出来事を。――三年半ほど前のあの日も、彼らは夜通し働いて何もとれませんでした。虚しく朝を迎え、疲労困憊した彼らに、あの日イエス様は言われたのでした。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(ルカ5:4)。シモン・ペトロは言いました。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」そう言って主の言葉に従って漁に出た。すると、「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」(同5:6)と書かれています。皆、この事実に驚き、恐れます。すると主はペトロにこう言われたのでした。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。
「主だ!」と口にしたあの弟子が思い出したのは、その時のイエス様の姿であったに違いありません。いわばイエス様があの時の情景を再現して、彼らに思い出させてくださったとも言えます。そのようにして、かつて彼らを弟子として招いたキリストが、復活して今も共にいることを示してくださったのです。「主だ!」というその言葉を聞くと、ペトロは上着をまとって湖に飛び込みました。裸で主にお会いするわけにはいかないとでも思ったのでしょう。彼は二百ペキス(約90メートル)を泳いで主のもとへと急ぎました。他の者は舟で陸まで戻りました。
そこで非常に印象的な描写が続きます。陸に上がってみると、炭火が起こしてありました。イエス様が自ら食事を準備していてくださったのです。そこには魚がのせてあり、パンもありました。そして、主は、「パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた」(13節)と書かれています。
イエス様がパンを裂いて弟子たちに与えられ、魚も同じように弟子たちに分けられた時、彼らはもう一つの場面を思い起こしていたに違いありません。そう言えば、このようにイエス様がパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、私たちに分けてくださったことがあった。魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えてくださったことがあった。それは、ここ、ティベリアス湖の畔でのことだった。――そうです、キリストが五つのパンと二匹の魚を分けて群衆に食べさせられた時のことです。この福音書の6章に書かれています。あの時、人々にパンと魚を分け与えられたイエス様が、復活して弟子たちに現れ、同じようにパンと魚を分けてくださったのです。
考えて見れば、ほんの少し前まで泥のように疲れていた彼らだったのでしょう。夜通し働いて何もとれず、ただただ疲れ果てて朝を迎えた彼らだったはずです。しかし、その彼らがイエス様と共にあって、まさに生き返っている姿を私たちはここに見ることができるのです。それは、最後の最後で大漁を得たからでしょうか。いいえ、そうではないでしょう。確かに大漁は嬉しかったに違いない。しかし、それ以上にうれしかったのは、復活の主が共にいることに気付かせていただいたことではありませんか。あの弟子の「主だ!」という言葉を聞いて、ペトロもまた気付かされたのでしょう。そして、その時にはもう大漁の喜びなんて吹っ飛んでしまって、とれた魚には目もくれず、すぐに湖に飛び込み、主のもとにはせ参じたのです。
そして、キリストは彼らと共にいることに気付かせてくださっただけではありません。主は彼らのために食事を整えていてくださっていた。それはかつてのパンの奇跡を思い起こさせる食事でありました。そう言えばあの時、人々にパンと魚を分けられた主は、次のように語られたのでした。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)。彼らは確かにそこで、「命のパン」である主御自身による養いを受け、命の満たしを受けていたのです。
私たちに現れてくださるキリスト
こうして見てきますと、ここに描き出されているのはただその時の弟子たちの姿だけでなく、後の弟子たちお姿もまたそこに重ね合わされていることに気付かされます。そこに描かれているのは、私たちの姿でもあるのです。
20章には、弟子たちがまだエルサレムにいた時、イエス様が彼らに二度にわたって姿を現されたことが記されていました。一回目はキリストが復活された週の初めの日の夕方。二回目はそれから「八日の後」のことです。「八日の後」とは私たちの言う「一週間後」ということですから、やはり日曜日のことです。私たちはキリストの弟子たちが、後にエルサレムを本拠地とすることを知っています。初代の教会はエルサレムから始まるのです。
しかし、ヨハネによる福音書はあえて21章を加えて、「その後」という言葉をもって三回目のイエス様の現れを語るのです。そこはエルサレムではなくてガリラヤなのです。彼らはそこで漁をしているのです。いわば彼らの日常生活の場において、主が三度目に現れてくださったことを伝えるのです。
20章が日曜日のことを語っているとするならば、ある意味で21章は残りの六日間を語っていると言ってもよいでしょう。主の日の集まりから生活の場に戻れば、そこにはキリストを信じる前でも後でも、同じ生活があるのでしょう。初期の信徒には奴隷の身分の者が少なくありませんでした。信じる前に奴隷であったならば、信じた後にも奴隷であるわけです。日常には同じ生活が待っている。しかし、そこには決定的に異なることがあるのだと、今日の聖書箇所は言うのです。なぜならキリストは復活されたからです。
確かに、生活の場における経験は、漁に例えるなら常に「大漁」とは限りません。いや、一晩中働いてまったく何もとれなかったあの弟子たちのように、まる一日かけてやったことが全部無駄に思える日もあるかもしれません。労苦が報われなかったり、善意が受け入れられなかったり、愛が実を結ばなかったりすることはいくらでもあるのでしょう。この世の罪や自分自身の罪との戦いにおいて疲れ果て、まさに砂を咬むような虚しさと惨めさを味わうことも、日常生活においてはいくらでもあるのでしょう。
しかし、キリストは復活されたのです。主は生きておられます。そのキリストが呼びかけてくださるのです。「魚は捕れてるか」と。そのように、遣わされた
者としてこの世に生きる私たちの生活に目を留め、心にかけていてくださる方がそこにおられるのです。この世において私たちが経験する惨めさや虚しさもわかっていてくださる方がおられるのです。そして、主は言われるのです。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と。そのように主が私たちにも語りかけ、導いてくださるのです。
主が語りかけ、導いてくださるのは、何も日曜日だけではありません。毎日の生活の中で、私たちは主に耳を傾け、主に導かれて生きるのです。そして、私たちは様々な場面で気付かされるのです。「主だ!」と。復活の主が確かに共にいてくださることに気付かされるのです。これは主の御業だ。主が共にいて、主がしてくださったことだ!と。その時、「主だ」と口にしたあの弟子のように、また湖に飛び込んだあのペトロのように、私たちの心は喜びに満ちあふれ、主を慕い求めるのです。
そして、主を慕い求め、主のもとに馳せ参じるなら、命のパンである主御自身が豊かにもてなしてくださるのです。「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と主は言われたではありませんか。そして、キリストが命の糧を豊かに与えてくださるのは、ただ主の日だけではないのです。聖餐の時だけではないのです。キリストはティベリアス湖(ガリラヤ湖)の畔で、漁師の日常生活のただ中で、炭火をおこし、魚を焼いて待っていてくださったではありませんか。
頌栄教会は3月29日以来、礼拝堂に集まることを控えて、それぞれが自分の生活の場所で礼拝をささげることとしました。主日礼拝の場所が、半ば強制的にそれぞれの生活の場所へと移動させられたとも言えます。日曜日に教会に集まることができなくなって、かえって信仰生活の主たる場所は、教会堂の中ではなく、自分の生活の場所であることを、否が応でも認識せざるを得なくなりました。それは私たちにとって、今、本当に必要なことだったのだと思います。
キリストは復活されました。私たちはその弟子たちとして、与えられている場において、一日一日を生きるのです。今週も、日々、生ける主の導きに気づかせていただきたい。生ける主の御業に気づかせていただきたいと切に願います。「主だ!」と口にしたあの弟子のように。そして、日々主の養いを受けて、命に溢れて仕える者でありたいと切に願います。それは、私たちの祈りであると共に、そのような生活をどのように築いていくかという私たち自身の課題がそこにあるとも言えるでしょう。
(祈り)
2020年4月19日日曜日
「週の初めの日の出来事」
ヨハネによる福音書20:19-23
安全な交わりを求めて
「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(19節前半)と書かれていました。「週の初めの日」とは日曜日のことです。今日がその日です。
「その日」に弟子たちが集まっていました。彼らは後の教会の礎となる人たちです。彼らが集まっているところに既に教会があったと言えなくもありません。既に主の日の集まりがそこにありました。しかし、「ユダヤ人を恐れて」と書かれていましたように、それは恐れている者たちの集まりでした。逃げ場所を求める者たちの集まりでした。安全を求める者たちの集まりでした。だから彼らは集まっていた家の戸に鍵をかけていたのです。
この最初の弟子たちの最初の集まりは、教会が取り得る一つの形を示していると言えるでしょう。この世の敵意や葛藤から逃れて来ることのできる場所。安心して身を置ける安全な場所。もちろん、そのような安全な場所であるためには、ただ外の脅かす者から守られるというだけでは不十分です。安全な場所であるためには、互いに脅かすことも脅かされることもない安全な人間関係が必要です。
あの最初の弟子たちの最初の集まりはどうだったのでしょうか。――確かに互いに安全な人間関係がそこにあったと言うことはできるでしょう。しかし、それは全員がイエスの弟子だったからではありません。福音書に描かれているイエスの弟子たちの姿を思い起こしてみてください。彼らは常に誰が一番偉いかと争っていたのです。そもそも、元熱心党員であるシモンと元徴税人であるマタイが同居しているような弟子の群れなのです。どう考えても安心して身を置ける安全な関係ではなかったはずです。
ですから、あの鍵をかけた部屋の中に、互いに安全な関係があったとするならば、それは彼らがイエスの弟子たちだったからではありません。むしろ、イエスの弟子にふさわしくない自分であることを思い知らされた人たちだったからです。イエスの弟子としてのプライドも、命がけで従いますという決意も何もかも打ち砕かれた人々だったからです。すなわち既に互いに弱さをさらけ出してしまった人たちだったからです。
弱さを分かち合い、弱さを認め合っている交わりは、確かに安全です。彼らはユダヤ人たちを恐れて鍵を閉めていましたが、その部屋の中で互いを恐れる必要はなかったのでしょう。それは後に出てくるトマスと他の弟子たちの姿を見てもわかります。トマスはたとえ自分一人だけであっても「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と平気で口にすることができました。そして、そんなトマスを、伝えても信じようとしないトマスを誰も責めない。次の日曜日にはトマスも一緒にいるのです。
安心して身を置ける安全な場所。安全な交わり。このように、この最初の弟子たちの最初の集まりは、教会が取り得る一つの形を示していると言えます。
主によって赦される
しかし、私たちがただ安全な場所、安全な交わりを求めているだけならば、教会は極めて閉鎖的な集団にならざるを得ないでしょう。やたらに人が入ってきてもらっては困りますから。安心して身を置くことの妨げとなる人は排除しなくてはなりません。安心できる交わりを保たなくてはなりません。そのためには鍵をかけることが必要になります。
そこで大事なことは19節が前半だけで終わっていないということです。それは後半に続くのです。このように書かれています。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(19節後半)。
彼らの集まりは、ただ安心を求めての集まりに終わりませんでした。互いに安全な人たちの集まりに留まりませんでした。最も重要なことは、そこにイエス様が来てくださったということです。そして、こう言われたのです。「あなたがたに平和があるように」。
復活の主が「あなたがたに平和があるように」と語ってくださった。このことは何を意味するのでしょう。主はこの言葉と共に、二つのことをなさいました。この主の行為が、「あなたがたに平和があるように」という言葉の意味をはっきり示していると言えるのです。
第一に、主は「あなたがたに平和があるように」と言って、手とわき腹とをお見せになりました。なぜ手とわき腹をお見せになったのでしょう。それはそこに大きな傷跡があるからです。手には十字架にかけられた時の釘の跡があります。わき腹には槍で刺された時の大きな傷跡があるのです。
その大きな傷跡は弟子たちに彼らの罪を改めて思い起こさせるに十分であったに違いありません。彼らは逃げたのです。愛する主を見捨てたのです。そして主は十字架の上で死んだのです。イエス様はそのような彼らの罪を突きつける手の釘跡、わき腹の傷跡を隠しませんでした。まさにそこに立っていたのは《彼らが見捨てたキリスト御自身》に他なりませんでした。
彼らはそのような形で自分自身の罪と向き合う必要があったとも言えます。イエス様は「あなたがたに罪はない」とは言われないのです。主を十字架にかけたのは自分たちの罪だという事実から、彼らは目をそらしてはならないのです。そのように主が手とわき腹をお見せになった時、改めて自らの罪と向き合わされることとなりました。
しかし、そのような彼らがそこに見ていたのは、彼らを断罪するキリストではありませんでした。本当は責められて当然なのに、断罪されて当然なのに、滅ぼされて当然なのに、イエス様はそうなさいませんでした。主は「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。そう言って、手とわき腹をお見せになったのです。
その御言葉と共に彼らが受け取ったのは罪の赦しに他なりませんでした。だから「弟子たちは主を見て喜んだ」と書かれているのです。手の釘跡とわき腹の傷跡を示してキリストが現れたら、本来は喜べないはずでしょう。しかし、彼らは喜んだ。「あなたがたに平和があるように」とその御方が言ってくださったから。彼らの喜びは、赦された者として再び主と共に生きることができる喜びに他なりませんでした。
そのことが主の日の集まりにおいて起こるのだと聖書は伝えているのです。今日、私たちは礼拝堂に集まることはできませんが、それぞれの場所において心を合わせて礼拝する私たちのただ中にイエス様はいてくださいます。私たちはただ人間同士で罪深い者であることを認め合って生きるのではありません。私たちは主の御前において罪を示され、主の御前において自らの罪を言い表すのです。そして、その主から赦しを受け取るのです。復活のキリストが私たちにも言ってくださるのです。「あなたがたに平和があるように」と。
主によって遣わされる
そして、第二に主がなさったこと、それは次のように書かれています。「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(21‐22節)。
息を吹きかける主の動作。それはやがて彼らに起こることを指し示すものでした。それから五十日目の五旬祭の日に、彼らに聖霊が降るのです。そして、彼らは世界に遣わされていくことになるのです。「聖霊を受けなさい」と主が言っておられることが実現するのです。
しかし、この主の動作はまた、主の日の集まりにおいて繰り返し起こる出来事をも示しているのです。それゆえにヨハネによる福音書では、あえて日曜日に主がこう言われたことが伝えられているのです。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。
私たちは単にこの世の様々な敵意から逃れて、脅かされることのない人間関係を求めて教会に集うのではありません。単に安心して身を置くことのできる逃げ場を求めて教会に集まるのではありません。私たちはキリストによって聖霊に満たされ、この世界に遣わされるために集まるのです。
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。確かに主はそう言われました。父なる神が御子キリストを遣わしてくださって、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださいました。私たちに罪の赦しを与えてくださいました。そのキリストが私たちを遣わしてくださるのです。私たちが受けた神の恵みと赦しを手渡すために遣わされるのです。私たちもまた「あなたがたに平和があるように」と語ることができるのです。ですから、主は彼らにこう言われたのです。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23節)。
「罪は赦される」「赦されないまま残る」という受身の表現は、「神が赦してくださる」「神が赦さないまま残す」ということを言い換えたユダヤ的表現です。罪を最終的に赦すことができるのは、神様であって、弟子たちではありません。しかし、弟子たちが赦すならば、神が赦してくださると主は言われたのです。いわば罪の赦しの言葉が弟子たちに託されたのです。私たちに託されているのです。
主はそのような私たちに「聖霊を受けよ」と息を吹きかけ、この世界へと私たちを送り出してくださいます。そのことがあの日彼らに起こり、今日それぞれの場所において共に礼拝を捧げている私たちに起こります。そのことが主の日の集まりにおいて起こるのです。
(祈り)
安全な交わりを求めて
「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(19節前半)と書かれていました。「週の初めの日」とは日曜日のことです。今日がその日です。
「その日」に弟子たちが集まっていました。彼らは後の教会の礎となる人たちです。彼らが集まっているところに既に教会があったと言えなくもありません。既に主の日の集まりがそこにありました。しかし、「ユダヤ人を恐れて」と書かれていましたように、それは恐れている者たちの集まりでした。逃げ場所を求める者たちの集まりでした。安全を求める者たちの集まりでした。だから彼らは集まっていた家の戸に鍵をかけていたのです。
この最初の弟子たちの最初の集まりは、教会が取り得る一つの形を示していると言えるでしょう。この世の敵意や葛藤から逃れて来ることのできる場所。安心して身を置ける安全な場所。もちろん、そのような安全な場所であるためには、ただ外の脅かす者から守られるというだけでは不十分です。安全な場所であるためには、互いに脅かすことも脅かされることもない安全な人間関係が必要です。
あの最初の弟子たちの最初の集まりはどうだったのでしょうか。――確かに互いに安全な人間関係がそこにあったと言うことはできるでしょう。しかし、それは全員がイエスの弟子だったからではありません。福音書に描かれているイエスの弟子たちの姿を思い起こしてみてください。彼らは常に誰が一番偉いかと争っていたのです。そもそも、元熱心党員であるシモンと元徴税人であるマタイが同居しているような弟子の群れなのです。どう考えても安心して身を置ける安全な関係ではなかったはずです。
ですから、あの鍵をかけた部屋の中に、互いに安全な関係があったとするならば、それは彼らがイエスの弟子たちだったからではありません。むしろ、イエスの弟子にふさわしくない自分であることを思い知らされた人たちだったからです。イエスの弟子としてのプライドも、命がけで従いますという決意も何もかも打ち砕かれた人々だったからです。すなわち既に互いに弱さをさらけ出してしまった人たちだったからです。
弱さを分かち合い、弱さを認め合っている交わりは、確かに安全です。彼らはユダヤ人たちを恐れて鍵を閉めていましたが、その部屋の中で互いを恐れる必要はなかったのでしょう。それは後に出てくるトマスと他の弟子たちの姿を見てもわかります。トマスはたとえ自分一人だけであっても「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と平気で口にすることができました。そして、そんなトマスを、伝えても信じようとしないトマスを誰も責めない。次の日曜日にはトマスも一緒にいるのです。
安心して身を置ける安全な場所。安全な交わり。このように、この最初の弟子たちの最初の集まりは、教会が取り得る一つの形を示していると言えます。
主によって赦される
しかし、私たちがただ安全な場所、安全な交わりを求めているだけならば、教会は極めて閉鎖的な集団にならざるを得ないでしょう。やたらに人が入ってきてもらっては困りますから。安心して身を置くことの妨げとなる人は排除しなくてはなりません。安心できる交わりを保たなくてはなりません。そのためには鍵をかけることが必要になります。
そこで大事なことは19節が前半だけで終わっていないということです。それは後半に続くのです。このように書かれています。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(19節後半)。
彼らの集まりは、ただ安心を求めての集まりに終わりませんでした。互いに安全な人たちの集まりに留まりませんでした。最も重要なことは、そこにイエス様が来てくださったということです。そして、こう言われたのです。「あなたがたに平和があるように」。
復活の主が「あなたがたに平和があるように」と語ってくださった。このことは何を意味するのでしょう。主はこの言葉と共に、二つのことをなさいました。この主の行為が、「あなたがたに平和があるように」という言葉の意味をはっきり示していると言えるのです。
第一に、主は「あなたがたに平和があるように」と言って、手とわき腹とをお見せになりました。なぜ手とわき腹をお見せになったのでしょう。それはそこに大きな傷跡があるからです。手には十字架にかけられた時の釘の跡があります。わき腹には槍で刺された時の大きな傷跡があるのです。
その大きな傷跡は弟子たちに彼らの罪を改めて思い起こさせるに十分であったに違いありません。彼らは逃げたのです。愛する主を見捨てたのです。そして主は十字架の上で死んだのです。イエス様はそのような彼らの罪を突きつける手の釘跡、わき腹の傷跡を隠しませんでした。まさにそこに立っていたのは《彼らが見捨てたキリスト御自身》に他なりませんでした。
彼らはそのような形で自分自身の罪と向き合う必要があったとも言えます。イエス様は「あなたがたに罪はない」とは言われないのです。主を十字架にかけたのは自分たちの罪だという事実から、彼らは目をそらしてはならないのです。そのように主が手とわき腹をお見せになった時、改めて自らの罪と向き合わされることとなりました。
しかし、そのような彼らがそこに見ていたのは、彼らを断罪するキリストではありませんでした。本当は責められて当然なのに、断罪されて当然なのに、滅ぼされて当然なのに、イエス様はそうなさいませんでした。主は「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。そう言って、手とわき腹をお見せになったのです。
その御言葉と共に彼らが受け取ったのは罪の赦しに他なりませんでした。だから「弟子たちは主を見て喜んだ」と書かれているのです。手の釘跡とわき腹の傷跡を示してキリストが現れたら、本来は喜べないはずでしょう。しかし、彼らは喜んだ。「あなたがたに平和があるように」とその御方が言ってくださったから。彼らの喜びは、赦された者として再び主と共に生きることができる喜びに他なりませんでした。
そのことが主の日の集まりにおいて起こるのだと聖書は伝えているのです。今日、私たちは礼拝堂に集まることはできませんが、それぞれの場所において心を合わせて礼拝する私たちのただ中にイエス様はいてくださいます。私たちはただ人間同士で罪深い者であることを認め合って生きるのではありません。私たちは主の御前において罪を示され、主の御前において自らの罪を言い表すのです。そして、その主から赦しを受け取るのです。復活のキリストが私たちにも言ってくださるのです。「あなたがたに平和があるように」と。
主によって遣わされる
そして、第二に主がなさったこと、それは次のように書かれています。「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(21‐22節)。
息を吹きかける主の動作。それはやがて彼らに起こることを指し示すものでした。それから五十日目の五旬祭の日に、彼らに聖霊が降るのです。そして、彼らは世界に遣わされていくことになるのです。「聖霊を受けなさい」と主が言っておられることが実現するのです。
しかし、この主の動作はまた、主の日の集まりにおいて繰り返し起こる出来事をも示しているのです。それゆえにヨハネによる福音書では、あえて日曜日に主がこう言われたことが伝えられているのです。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。
私たちは単にこの世の様々な敵意から逃れて、脅かされることのない人間関係を求めて教会に集うのではありません。単に安心して身を置くことのできる逃げ場を求めて教会に集まるのではありません。私たちはキリストによって聖霊に満たされ、この世界に遣わされるために集まるのです。
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。確かに主はそう言われました。父なる神が御子キリストを遣わしてくださって、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださいました。私たちに罪の赦しを与えてくださいました。そのキリストが私たちを遣わしてくださるのです。私たちが受けた神の恵みと赦しを手渡すために遣わされるのです。私たちもまた「あなたがたに平和があるように」と語ることができるのです。ですから、主は彼らにこう言われたのです。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23節)。
「罪は赦される」「赦されないまま残る」という受身の表現は、「神が赦してくださる」「神が赦さないまま残す」ということを言い換えたユダヤ的表現です。罪を最終的に赦すことができるのは、神様であって、弟子たちではありません。しかし、弟子たちが赦すならば、神が赦してくださると主は言われたのです。いわば罪の赦しの言葉が弟子たちに託されたのです。私たちに託されているのです。
主はそのような私たちに「聖霊を受けよ」と息を吹きかけ、この世界へと私たちを送り出してくださいます。そのことがあの日彼らに起こり、今日それぞれの場所において共に礼拝を捧げている私たちに起こります。そのことが主の日の集まりにおいて起こるのです。
(祈り)
2020年4月12日日曜日
「恐れることはない」(イースター礼拝)
マタイによる福音書28:1‐10
週の初めの日の明け方、イエス様が葬られた墓を訪れた婦人たちに、主の御使いがこう語りかけました。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」(マタイ28:5‐7)。そして、伝えられた言葉はさらに伝えられ、ついに私たちのところにまで届けられ、こうして今、耳にしているのです。
恐れるな
彼らが聞いた最初の言葉は「恐れることはない」でした。「恐れるな」と語られているということは、とりもなおさずこの婦人たちが恐れていたことを意味するのでしょう。実際、その直前には、恐れのあまり死人のようになっていた人々について書かれています。「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」(4節)。私たちはこうしてイースターを喜び祝っていますが、あの朝起こったことは、もともと人間にとっては、恐ろしいことだったのです。
その恐ろしさとは何でしょうか。聖書には「主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである」(2節)と書かれています。なるほど、目の前でそのようなことが起こったら、恐いことであるに違いありません。しかし、聖書が伝えようとしているのは、ただ単に不思議な現象の恐ろしさではないのです。ここには天使が出てきます。聖書において、「天使」という存在によって表現されているのは、神の御業なのです。つまり、神がこの世界のただ中で、神の力ある御業がなされているということです。
そして、天使が石を動かしたというのも、単に墓の入口を開いたということではありません。墓の石など人間でも動かそうと思えば動かせるのです。そこで語られているのは、それ以上のことです。すなわち、墓に象徴されている死の支配そのものが破られたということです。ですから、ここで語られている恐ろしさとは、究極的には生ける神の現臨に触れた恐ろしさであり、死という現実を覆すほどの神の恐るべき力に触れたという恐ろしさなのです。
さて、ここに人間にとって最大のジレンマがあります。人間が救いを求めるとするならば、人間を本当の意味で救うことのできる「生けるまことの神」(1テサロニケ1:9)を求めねばなりません。そのような神との出会いによらずして、人は救いを見出すことはできないのです。しかし、ここに見るように、生けるまことの神に出会うことは、実に恐ろしいことでもあるのです。
なぜ恐ろしいのでしょうか。それは人間が神に背いているからです。その事実を見事に描き出している物語が旧約聖書にあります。エデンの園の物語です。エデンの園において、アダムとエバは神に背き、禁じられていた木の実を食べました。その結果どうなったでしょう。「アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると…」(創世記3:8)と書かれています。「主なる神の顔を避けて」――これが人間の現実です。人間の手によってどうにでもできる神、人間が造った神――これを「偶像」と聖書は呼びますが――そのような神を人間は恐れることはありません。しかし、真に力ある神、生けるまことの神に出会うなら、罪ある人間は恐れて死人のようにならざるを得ないのです。
しかし、そのような人間に対して、神の側から「恐れるな」と語りかけてくださいました。それがキリスト復活の後、いわば人類に与えられた最初の言葉だったのです。
十字架と復活
そして、さらに主の御使いはこう続けました。「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」(5‐6節)。ここで重要なことは、「十字架」と「復活」とが結びつけられているということです。
イエス様は繰り返し罪の赦しについて語られました。そして、罪の赦しについて語られた主は、自らが罪を贖う犠牲となるために、十字架に向かって歩まれたのです。イエス様が捕らえられる直前に弟子たちと共にされた食事の席で、主は彼らにこう言われました。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(26:27‐28)。そして、その言葉のとおり、主は十字架の上で血を流して死んで行かれたのです。キリストは確かに御自分の体を、罪を贖う犠牲として捧げられたのでした。
しかし、私たちはここで立ち止まって考えねばなりません。犠牲は捧げられただけでは意味がないのです。犠牲は神によって受け入れられて、初めて意味を持つのです。はたして父なる神は、罪を贖う犠牲を受け入れてくださったのでしょうか。神は、キリストの犠牲のゆえに、本当に罪ある人間を赦されるのでしょうか。神に背いてきた人間を受け入れて、救ってくださるのでしょうか。――これは私たちにとって極めて重大な問いであるに違いありません。そして、私たちはその問いの答えを、今日、この聖書箇所を通して聞いているのです。
実は、ここに「復活なさったのだ」と書かれていますが、正確には「復活させられたのだ」と書かれているのです。キリストが自分で復活したのではないのです。父なる神によってキリストが復活させられたという表現になっているのです。それはなぜなのか。これが父なる神の答えに他ならないからです。「十字架につけられたイエス」の「復活」こそが神の答えなのです。父なる神は、キリストの犠牲を受け入れてくださったのか――その通り!キリストが罪の贖いの犠牲として受け入れられたからこそ、キリストは死の中に捨て置かれず、復活させられたのです。
後にパウロという人は、コリントの教会に宛てて次のように書きました。「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです」(1コリント15:17‐18)。まさにそのとおりです。キリストの復活がなければ、教会が罪の赦しを信じ、罪の赦しを語る根拠など、どこにもありません。そして、罪の赦しがないならば、神と断絶したままであるならば、人間は死んで滅びるしかありません。もはや、どこにも希望はないのです。
しかし、あの朝、墓に行った婦人たちは聞いたのでした。「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われたいたとおり、復活させられたのだ」。この地上において、完全なる罪の贖いの犠牲が捧げられ、神によって受け入れられたのです。それゆえに、人はもはや神に見捨てられた者として死んでいく必要はありません。望みなく滅びていく必要はないのです。
そして、これこそが、天使の「恐れるな」という言葉の根拠でもあるのです。あの恐るべきジレンマは完全に取り除かれました。私たちが呼び求める神は、十字架につけられたキリストを復活させた神に他ならないからです。だから、私たちは恐れずに生けるまことの神を求めることができるのです。
ガリラヤに行け
そして、さらに御使いは婦人たちに、弟子たちのもとに行って次のように伝えるように指示しました。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」この指示は復活したキリストの口によっても繰り返されます。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。
この弟子たちについては、イエス様が捕らえられる場面において、「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(26:56)と書かれていました。そのような弟子たちです。ペトロについては、三回もイエスを否んだことまでが詳細に語られているのです。しかし、今やそのような弟子たちにも、キリスト復活のメッセージが伝えられるのです。「ガリラヤに行きなさい。復活したキリストはそこで待っておられる。そこであなたたちは主にお目にかかれるのだ」という言葉が伝えられるのです。
ガリラヤは、弟子たちが最初にイエス様にお会いした場所です。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という主の言葉を耳にした場所です。そして、燃える心をもってイエス様に従い始めた、いわば彼らの原点です。そこにイエス様が待っておられるのです。そこから彼らはもう一度、イエス様に従い、主と共に生きることができるのです。
それはどういうことでしょうか。単にこの三年余りの時間の経過がなかったかのように、時間軸上を逆戻りするということではありません。ただ単に「振り出しに戻る」ということではありません。ガリラヤで待っているのは、死者の中から復活されたキリストなのです。彼らは復活したキリストに新たに従い始めるのです。つまり、そこでは全く新しいことが始まるのです。いわばあのイエスを見捨てた弟子たちは一度死んだものとされるのです。そして、新しい命を与えられた者として復活のキリストに従い始めるのです。そのような彼らをキリストは「わたしの兄弟たち」と呼ばれるのです。
どうしてそのようなことが可能なのでしょう。それは十字架にかけられた御方が復活させられたからです。罪の贖いが成し遂げられたからです。罪の赦しが与えられているからです。キリストの十字架と復活によって、そのような新しい時が既に始まっているからです。だからあの弟子たちも、罪の赦しにあずかり、新たに復活のキリストに従い始めることができるのです。これが「ガリラヤに行け。そこでわたしに会う」と語られたことの意味なのです。
さて、私たちは今、教会において復活祭を祝っているわけですが、このように今日教会がこの地上に存在するのは、あの日の「ガリラヤに行け。そこでわたしに会う」があったからに他なりません。教会はキリストの十字架と復活の実りです。私たちはその恵みの中に生かされているのです。それゆえに、私たちは今もなお罪の赦しにあずかり、新しく生まれた者としてキリストと共に生きることができるのです。今日は礼拝堂に集まることのできない礼拝ですが、私たちに共に与えられている恵みの大きさを思いつつ、主の御復活を心から喜び祝いましょう。
(祈り)
週の初めの日の明け方、イエス様が葬られた墓を訪れた婦人たちに、主の御使いがこう語りかけました。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」(マタイ28:5‐7)。そして、伝えられた言葉はさらに伝えられ、ついに私たちのところにまで届けられ、こうして今、耳にしているのです。
恐れるな
彼らが聞いた最初の言葉は「恐れることはない」でした。「恐れるな」と語られているということは、とりもなおさずこの婦人たちが恐れていたことを意味するのでしょう。実際、その直前には、恐れのあまり死人のようになっていた人々について書かれています。「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」(4節)。私たちはこうしてイースターを喜び祝っていますが、あの朝起こったことは、もともと人間にとっては、恐ろしいことだったのです。
その恐ろしさとは何でしょうか。聖書には「主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである」(2節)と書かれています。なるほど、目の前でそのようなことが起こったら、恐いことであるに違いありません。しかし、聖書が伝えようとしているのは、ただ単に不思議な現象の恐ろしさではないのです。ここには天使が出てきます。聖書において、「天使」という存在によって表現されているのは、神の御業なのです。つまり、神がこの世界のただ中で、神の力ある御業がなされているということです。
そして、天使が石を動かしたというのも、単に墓の入口を開いたということではありません。墓の石など人間でも動かそうと思えば動かせるのです。そこで語られているのは、それ以上のことです。すなわち、墓に象徴されている死の支配そのものが破られたということです。ですから、ここで語られている恐ろしさとは、究極的には生ける神の現臨に触れた恐ろしさであり、死という現実を覆すほどの神の恐るべき力に触れたという恐ろしさなのです。
さて、ここに人間にとって最大のジレンマがあります。人間が救いを求めるとするならば、人間を本当の意味で救うことのできる「生けるまことの神」(1テサロニケ1:9)を求めねばなりません。そのような神との出会いによらずして、人は救いを見出すことはできないのです。しかし、ここに見るように、生けるまことの神に出会うことは、実に恐ろしいことでもあるのです。
なぜ恐ろしいのでしょうか。それは人間が神に背いているからです。その事実を見事に描き出している物語が旧約聖書にあります。エデンの園の物語です。エデンの園において、アダムとエバは神に背き、禁じられていた木の実を食べました。その結果どうなったでしょう。「アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると…」(創世記3:8)と書かれています。「主なる神の顔を避けて」――これが人間の現実です。人間の手によってどうにでもできる神、人間が造った神――これを「偶像」と聖書は呼びますが――そのような神を人間は恐れることはありません。しかし、真に力ある神、生けるまことの神に出会うなら、罪ある人間は恐れて死人のようにならざるを得ないのです。
しかし、そのような人間に対して、神の側から「恐れるな」と語りかけてくださいました。それがキリスト復活の後、いわば人類に与えられた最初の言葉だったのです。
十字架と復活
そして、さらに主の御使いはこう続けました。「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」(5‐6節)。ここで重要なことは、「十字架」と「復活」とが結びつけられているということです。
イエス様は繰り返し罪の赦しについて語られました。そして、罪の赦しについて語られた主は、自らが罪を贖う犠牲となるために、十字架に向かって歩まれたのです。イエス様が捕らえられる直前に弟子たちと共にされた食事の席で、主は彼らにこう言われました。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(26:27‐28)。そして、その言葉のとおり、主は十字架の上で血を流して死んで行かれたのです。キリストは確かに御自分の体を、罪を贖う犠牲として捧げられたのでした。
しかし、私たちはここで立ち止まって考えねばなりません。犠牲は捧げられただけでは意味がないのです。犠牲は神によって受け入れられて、初めて意味を持つのです。はたして父なる神は、罪を贖う犠牲を受け入れてくださったのでしょうか。神は、キリストの犠牲のゆえに、本当に罪ある人間を赦されるのでしょうか。神に背いてきた人間を受け入れて、救ってくださるのでしょうか。――これは私たちにとって極めて重大な問いであるに違いありません。そして、私たちはその問いの答えを、今日、この聖書箇所を通して聞いているのです。
実は、ここに「復活なさったのだ」と書かれていますが、正確には「復活させられたのだ」と書かれているのです。キリストが自分で復活したのではないのです。父なる神によってキリストが復活させられたという表現になっているのです。それはなぜなのか。これが父なる神の答えに他ならないからです。「十字架につけられたイエス」の「復活」こそが神の答えなのです。父なる神は、キリストの犠牲を受け入れてくださったのか――その通り!キリストが罪の贖いの犠牲として受け入れられたからこそ、キリストは死の中に捨て置かれず、復活させられたのです。
後にパウロという人は、コリントの教会に宛てて次のように書きました。「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです」(1コリント15:17‐18)。まさにそのとおりです。キリストの復活がなければ、教会が罪の赦しを信じ、罪の赦しを語る根拠など、どこにもありません。そして、罪の赦しがないならば、神と断絶したままであるならば、人間は死んで滅びるしかありません。もはや、どこにも希望はないのです。
しかし、あの朝、墓に行った婦人たちは聞いたのでした。「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われたいたとおり、復活させられたのだ」。この地上において、完全なる罪の贖いの犠牲が捧げられ、神によって受け入れられたのです。それゆえに、人はもはや神に見捨てられた者として死んでいく必要はありません。望みなく滅びていく必要はないのです。
そして、これこそが、天使の「恐れるな」という言葉の根拠でもあるのです。あの恐るべきジレンマは完全に取り除かれました。私たちが呼び求める神は、十字架につけられたキリストを復活させた神に他ならないからです。だから、私たちは恐れずに生けるまことの神を求めることができるのです。
ガリラヤに行け
そして、さらに御使いは婦人たちに、弟子たちのもとに行って次のように伝えるように指示しました。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」この指示は復活したキリストの口によっても繰り返されます。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。
この弟子たちについては、イエス様が捕らえられる場面において、「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(26:56)と書かれていました。そのような弟子たちです。ペトロについては、三回もイエスを否んだことまでが詳細に語られているのです。しかし、今やそのような弟子たちにも、キリスト復活のメッセージが伝えられるのです。「ガリラヤに行きなさい。復活したキリストはそこで待っておられる。そこであなたたちは主にお目にかかれるのだ」という言葉が伝えられるのです。
ガリラヤは、弟子たちが最初にイエス様にお会いした場所です。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という主の言葉を耳にした場所です。そして、燃える心をもってイエス様に従い始めた、いわば彼らの原点です。そこにイエス様が待っておられるのです。そこから彼らはもう一度、イエス様に従い、主と共に生きることができるのです。
それはどういうことでしょうか。単にこの三年余りの時間の経過がなかったかのように、時間軸上を逆戻りするということではありません。ただ単に「振り出しに戻る」ということではありません。ガリラヤで待っているのは、死者の中から復活されたキリストなのです。彼らは復活したキリストに新たに従い始めるのです。つまり、そこでは全く新しいことが始まるのです。いわばあのイエスを見捨てた弟子たちは一度死んだものとされるのです。そして、新しい命を与えられた者として復活のキリストに従い始めるのです。そのような彼らをキリストは「わたしの兄弟たち」と呼ばれるのです。
どうしてそのようなことが可能なのでしょう。それは十字架にかけられた御方が復活させられたからです。罪の贖いが成し遂げられたからです。罪の赦しが与えられているからです。キリストの十字架と復活によって、そのような新しい時が既に始まっているからです。だからあの弟子たちも、罪の赦しにあずかり、新たに復活のキリストに従い始めることができるのです。これが「ガリラヤに行け。そこでわたしに会う」と語られたことの意味なのです。
さて、私たちは今、教会において復活祭を祝っているわけですが、このように今日教会がこの地上に存在するのは、あの日の「ガリラヤに行け。そこでわたしに会う」があったからに他なりません。教会はキリストの十字架と復活の実りです。私たちはその恵みの中に生かされているのです。それゆえに、私たちは今もなお罪の赦しにあずかり、新しく生まれた者としてキリストと共に生きることができるのです。今日は礼拝堂に集まることのできない礼拝ですが、私たちに共に与えられている恵みの大きさを思いつつ、主の御復活を心から喜び祝いましょう。
(祈り)
2020年4月5日日曜日
「真理とは何か」
ヨハネによる福音書 18:28‐40
妬みと偽り
「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった」(28節前半)と書かれていました。人々はイエスを総督に訴えました。この男は悪いことをした、と言って訴えたのです。死刑に価する悪いことをした、と。ただ死刑にする権限は彼らにはありませんでした。ですからその権限を持つローマの国家権力に訴え出たのです。人々はイエスを訴えた、と言いましたが、その人々とは一般的な民衆ではありません。大祭司カイアファのところから来た人々です。すなわちその中心にいるのは宗教的な権威者たちです。
宗教的な権威者たちがイエスを憎んで殺そうと考えるようになったのには、それなりのいきさつがありました。それは11章まで遡りますと分かります。祭司長たちとファリサイ派の人々が最高法院を召集してこう言っているのです。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」(11:47‐48)。
イエスという存在は、当時の宗教的な権威者たちにとっては、まさに脅威でした。それはそうでしょう。皆がイエスに引きつけられていったわけですから。ナザレのイエスという御方は当時の宗教的な教師たちとは全く異なる存在でした。人々はイエスを通して、宗教的な教えや戒律に触れたのではないのです。そうではなくて、神の愛のリアリティに触れたのです。それゆえに多くの人々がこの御方について行きました。
するとどうなりますか。それまで宗教的な権威と見なされていた彼らの立場が脅かされることになります。彼らがイエスに敵意を抱いた理由の一つがここにあります。マルコによる福音書には、もっとあからさまに、「(ピラトには)祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていた」(マルコ15:10)と書かれているのです。
しかも、人々が熱狂的にイエスに従うようになると、さらに困ったことが起こりかねません。ローマに対する反乱と見なされる可能性があるからです。もしそのようなことにでもなればローマ人たちは軍隊を送り込んでくるでしょう。彼らが「我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」と危惧している事態になりかねないのです。そのように彼らは宗教的にも政治的にも脅威にさらされていたのです。
だからこそ大祭司カイアファはこう言ったのです。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(11:49‐50)。つまり、イエスを抹殺してしまえば済む話ではないか、と言っているのです。そして、その後にこう書かれているのです。「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」(同53節)。
彼らは妬みと自己保身から一人の人間を抹殺しようとしていました。そのような彼らが、自らの正義を振りかざしてイエスを訴えている。それが今日お読みしたこの場面なのです。イエスは悪だ。自分たちは正しい。そう言って訴えているのです。実際にはそこに嘘があるわけでしょう。
しかも皮肉なことに、こう書かれているのです。「彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである」(28節後半)。彼らはイエスをなんとしてでも死刑にするためにローマの国家権力に頼りました。しかし、本心を言えばローマ人なんてイヌやブタと一緒だと思っているのです。ユダヤ人にとっては汚れた者なのです。汚れた者の住んでいるところに入れば自分が汚れてしまう。宗教的に汚れてしまうのです。だから汚れないで過ぎ越しの食事をするために、総督官邸には入らなかったのです。
実に皮肉な描写ではありませんか。彼らは汚れることを避けているのです。しかし、他者を汚れた者と見なしながら、いかにも「われわれは清い人間だ」という顔しながら、自分の内にある醜い思い、汚れた心に気づかない。他人をイヌやブタのごとくに見下しながら、そういうことをしている自分の下劣さに気づかない。人を罪に定めながら、自分の罪に気づかない。汚れることを避けながら、本当に汚れているということがどういうことか分からない。それがここに描かれている姿です。
しかし、これこそまさにこの世の姿なのでしょう。聖書に描かれるまでもなく、私たちは、そういった嘘で塗り固められた醜い現実を、うんざりするほど見聞きしているわけではありませんか。そして、さらにうんざりすることは何かと言えば、そうやってこの世の有り様にうんざりしている私たち自身が、まさにそのような醜いこの世の一部になっているという事実です。ここに描かれている姿は、誰か他の人々の姿などではありません。他ならぬ私たち自身の姿でもあることを私たちは良く知っているのです。
しかし、そんな私たちに、今日の聖書箇所は何を伝えてくれていますか。そんな醜いこの世界のただ中に、うんざりするような人間の醜さのただ中に、キリストが立っておられるのです。そこに救い主が立っておられる。それが今日お読みしている場面なのです。そこでイエス様はこう宣言されるのです。「わたしの国はこの世に属していない」(36節)と。そうです。イエス様はそこで、この世に属さない、この世の一部ではない、もう一つの王国のことを語られたのです。
真理の王国
しかし、その場面を想像してみてください。その言葉はピラトには相当滑稽に聞こえたに違いありません。それはそうでしょう。縛られて、ボロ雑巾のようにされて、殺されようとしている無力な男が、「わたしの王国」について語っているのですから。だからピラトはこう言ったのです。「それでは、やはり王なのか。」明らかにバカにして言っているのです。それに対してイエス様はお答えになりました。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」と。
細かいことを言いますと、これは「わたしが王だとは、あなたが言っているのであって、実際にはそうではない」という意味ではないのです。この世の王だと誤解されないために、こういう言い方をしているだけです。この言葉は、「わたしが王であるとは、あなたが言うとおりだ」とも訳せるのです。「わたしの王国」について語っておられたのですから、ここでもやはりイエス様は自らが王であると主張しておられると見るのが正しいのでしょう。
しかし、イエス様は自らが王であることを語られた上で、こう続けられました。「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(37節)。そのようにキリストの王国は、真理によって形づくられるのです。ならば、そこで問題となるのは何ですか。「真理とは何か」ということでしょう。ですから、ピラトも尋ねているのです。「真理とは何か」と。
ここでいう「真理」とは「見せかけのもの」に対する「見せかけでない本物」、「嘘や偽り」に対する「嘘や偽りではないもの」を意味する言葉です。その意味では「真実」と訳すことも可能です。それゆえに、ここで語られているのは、私たちにとって、本当に身近な話なのです。なぜなら、先に見たように、私たちはうんざりするほどの嘘や偽りに満ちた世界に生きているからです。そのような世界のただ中にイエス様は立って言われるのです。「真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た」と。
いったい何が真実なのか。いったい何が見せかけでない本物なのか。いったい何が本当に信頼できる真実なるものなのか。イエス様は何を証しするためにこの世に来られたのか。――それは神の愛なのです。嘘と偽りに満ちたこの世を、罪と汚れに満ちた私たちを、それでもなお愛して赦して受け入れ、救おうとしていてくださる、その神の愛なのです。神の愛という、唯一真実なるものを証しするためにイエス様は来られたのです。
イエス様は神の愛をどのように証しなさるつもりだったのでしょう。それがこの先に書かれていることなのです。私たちの罪の贖いとして十字架にかかることによってなのです。私たちのために血を流し、命を与えることによってです。ですから、ヨハネはその手紙において次のように語っているのです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:10)。その意味でキリストは神の愛そのものです。
その御方が、もう一つの王国について語っておられるのです。目に見えるこの世界のただ中に、この世に属さない、目に見えない王国が到来しているのだと言っておられるのです。見せかけではない愛、嘘や偽りではない愛、決して変わらない真実なる愛、神の愛の王国が到来しているのです。神の愛そのものであるキリストと共に到来しているのです。そして、私たちはそこに招かれたのです。
今日はこのように、礼拝堂に集まることはできません。それぞれが自宅において、礼拝をささげています。しかし、それぞれ体は離れていても、一つの王国に生きるようにと呼び集められた者として、礼拝をささげているのです。
ならば私たちは、この世に満ちる嘘や偽りだけを見て、人間の不真実だけを見て、絶望する必要はないのです。この世の罪だけを見て、他の人や自分自身の罪だけを見て、絶望する必要はないのです。私たちは、この世のただ中にあって、もう一つの王国に生きることができるからです。神の愛の支配の中に、真実なる神の愛に信頼して生きていくことができるからです。
神の真実はこの世の不真実よりも強いのです。神の愛はこの世の罪よりも強いのです。キリストが十字架において証ししてくださった永遠なる真理、永遠に真実な神の愛の方が強いのです。その神の愛が、この世界を必ず救ってくださる。私たちを必ず救ってくださる。醜く汚い私たち自身からも救ってくださる。既に救いは始まっているのです。私たちは既に始まっている救いの中にいるのです。私たちはただひたすら、キリストが証ししてくださった神の愛を信じて生きるのです。それが私たちの信仰生活です。
(祈り)
妬みと偽り
「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった」(28節前半)と書かれていました。人々はイエスを総督に訴えました。この男は悪いことをした、と言って訴えたのです。死刑に価する悪いことをした、と。ただ死刑にする権限は彼らにはありませんでした。ですからその権限を持つローマの国家権力に訴え出たのです。人々はイエスを訴えた、と言いましたが、その人々とは一般的な民衆ではありません。大祭司カイアファのところから来た人々です。すなわちその中心にいるのは宗教的な権威者たちです。
宗教的な権威者たちがイエスを憎んで殺そうと考えるようになったのには、それなりのいきさつがありました。それは11章まで遡りますと分かります。祭司長たちとファリサイ派の人々が最高法院を召集してこう言っているのです。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」(11:47‐48)。
イエスという存在は、当時の宗教的な権威者たちにとっては、まさに脅威でした。それはそうでしょう。皆がイエスに引きつけられていったわけですから。ナザレのイエスという御方は当時の宗教的な教師たちとは全く異なる存在でした。人々はイエスを通して、宗教的な教えや戒律に触れたのではないのです。そうではなくて、神の愛のリアリティに触れたのです。それゆえに多くの人々がこの御方について行きました。
するとどうなりますか。それまで宗教的な権威と見なされていた彼らの立場が脅かされることになります。彼らがイエスに敵意を抱いた理由の一つがここにあります。マルコによる福音書には、もっとあからさまに、「(ピラトには)祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていた」(マルコ15:10)と書かれているのです。
しかも、人々が熱狂的にイエスに従うようになると、さらに困ったことが起こりかねません。ローマに対する反乱と見なされる可能性があるからです。もしそのようなことにでもなればローマ人たちは軍隊を送り込んでくるでしょう。彼らが「我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」と危惧している事態になりかねないのです。そのように彼らは宗教的にも政治的にも脅威にさらされていたのです。
だからこそ大祭司カイアファはこう言ったのです。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(11:49‐50)。つまり、イエスを抹殺してしまえば済む話ではないか、と言っているのです。そして、その後にこう書かれているのです。「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」(同53節)。
彼らは妬みと自己保身から一人の人間を抹殺しようとしていました。そのような彼らが、自らの正義を振りかざしてイエスを訴えている。それが今日お読みしたこの場面なのです。イエスは悪だ。自分たちは正しい。そう言って訴えているのです。実際にはそこに嘘があるわけでしょう。
しかも皮肉なことに、こう書かれているのです。「彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである」(28節後半)。彼らはイエスをなんとしてでも死刑にするためにローマの国家権力に頼りました。しかし、本心を言えばローマ人なんてイヌやブタと一緒だと思っているのです。ユダヤ人にとっては汚れた者なのです。汚れた者の住んでいるところに入れば自分が汚れてしまう。宗教的に汚れてしまうのです。だから汚れないで過ぎ越しの食事をするために、総督官邸には入らなかったのです。
実に皮肉な描写ではありませんか。彼らは汚れることを避けているのです。しかし、他者を汚れた者と見なしながら、いかにも「われわれは清い人間だ」という顔しながら、自分の内にある醜い思い、汚れた心に気づかない。他人をイヌやブタのごとくに見下しながら、そういうことをしている自分の下劣さに気づかない。人を罪に定めながら、自分の罪に気づかない。汚れることを避けながら、本当に汚れているということがどういうことか分からない。それがここに描かれている姿です。
しかし、これこそまさにこの世の姿なのでしょう。聖書に描かれるまでもなく、私たちは、そういった嘘で塗り固められた醜い現実を、うんざりするほど見聞きしているわけではありませんか。そして、さらにうんざりすることは何かと言えば、そうやってこの世の有り様にうんざりしている私たち自身が、まさにそのような醜いこの世の一部になっているという事実です。ここに描かれている姿は、誰か他の人々の姿などではありません。他ならぬ私たち自身の姿でもあることを私たちは良く知っているのです。
しかし、そんな私たちに、今日の聖書箇所は何を伝えてくれていますか。そんな醜いこの世界のただ中に、うんざりするような人間の醜さのただ中に、キリストが立っておられるのです。そこに救い主が立っておられる。それが今日お読みしている場面なのです。そこでイエス様はこう宣言されるのです。「わたしの国はこの世に属していない」(36節)と。そうです。イエス様はそこで、この世に属さない、この世の一部ではない、もう一つの王国のことを語られたのです。
真理の王国
しかし、その場面を想像してみてください。その言葉はピラトには相当滑稽に聞こえたに違いありません。それはそうでしょう。縛られて、ボロ雑巾のようにされて、殺されようとしている無力な男が、「わたしの王国」について語っているのですから。だからピラトはこう言ったのです。「それでは、やはり王なのか。」明らかにバカにして言っているのです。それに対してイエス様はお答えになりました。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」と。
細かいことを言いますと、これは「わたしが王だとは、あなたが言っているのであって、実際にはそうではない」という意味ではないのです。この世の王だと誤解されないために、こういう言い方をしているだけです。この言葉は、「わたしが王であるとは、あなたが言うとおりだ」とも訳せるのです。「わたしの王国」について語っておられたのですから、ここでもやはりイエス様は自らが王であると主張しておられると見るのが正しいのでしょう。
しかし、イエス様は自らが王であることを語られた上で、こう続けられました。「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(37節)。そのようにキリストの王国は、真理によって形づくられるのです。ならば、そこで問題となるのは何ですか。「真理とは何か」ということでしょう。ですから、ピラトも尋ねているのです。「真理とは何か」と。
ここでいう「真理」とは「見せかけのもの」に対する「見せかけでない本物」、「嘘や偽り」に対する「嘘や偽りではないもの」を意味する言葉です。その意味では「真実」と訳すことも可能です。それゆえに、ここで語られているのは、私たちにとって、本当に身近な話なのです。なぜなら、先に見たように、私たちはうんざりするほどの嘘や偽りに満ちた世界に生きているからです。そのような世界のただ中にイエス様は立って言われるのです。「真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た」と。
いったい何が真実なのか。いったい何が見せかけでない本物なのか。いったい何が本当に信頼できる真実なるものなのか。イエス様は何を証しするためにこの世に来られたのか。――それは神の愛なのです。嘘と偽りに満ちたこの世を、罪と汚れに満ちた私たちを、それでもなお愛して赦して受け入れ、救おうとしていてくださる、その神の愛なのです。神の愛という、唯一真実なるものを証しするためにイエス様は来られたのです。
イエス様は神の愛をどのように証しなさるつもりだったのでしょう。それがこの先に書かれていることなのです。私たちの罪の贖いとして十字架にかかることによってなのです。私たちのために血を流し、命を与えることによってです。ですから、ヨハネはその手紙において次のように語っているのです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:10)。その意味でキリストは神の愛そのものです。
その御方が、もう一つの王国について語っておられるのです。目に見えるこの世界のただ中に、この世に属さない、目に見えない王国が到来しているのだと言っておられるのです。見せかけではない愛、嘘や偽りではない愛、決して変わらない真実なる愛、神の愛の王国が到来しているのです。神の愛そのものであるキリストと共に到来しているのです。そして、私たちはそこに招かれたのです。
今日はこのように、礼拝堂に集まることはできません。それぞれが自宅において、礼拝をささげています。しかし、それぞれ体は離れていても、一つの王国に生きるようにと呼び集められた者として、礼拝をささげているのです。
ならば私たちは、この世に満ちる嘘や偽りだけを見て、人間の不真実だけを見て、絶望する必要はないのです。この世の罪だけを見て、他の人や自分自身の罪だけを見て、絶望する必要はないのです。私たちは、この世のただ中にあって、もう一つの王国に生きることができるからです。神の愛の支配の中に、真実なる神の愛に信頼して生きていくことができるからです。
神の真実はこの世の不真実よりも強いのです。神の愛はこの世の罪よりも強いのです。キリストが十字架において証ししてくださった永遠なる真理、永遠に真実な神の愛の方が強いのです。その神の愛が、この世界を必ず救ってくださる。私たちを必ず救ってくださる。醜く汚い私たち自身からも救ってくださる。既に救いは始まっているのです。私たちは既に始まっている救いの中にいるのです。私たちはただひたすら、キリストが証ししてくださった神の愛を信じて生きるのです。それが私たちの信仰生活です。
(祈り)
2020年4月1日水曜日
祈り会用:ヘブライ人への手紙、10:1-18
前回お読みしました9章の後半には、キリストが自らの体を贖いの犠牲として献げ、ただ一度限りの、罪の贖いの祭儀を行ってくださったことについて書かれていました。今日お読みしました10章おいては、そのことについてさらに詳しく語られています。
「いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません」(1節)とこの著者は語り始めます。既に見てきましたように、ここで考えられているのは、主に祭儀律法です。「礼拝の規定と地上の聖所」(9:1)に関することです。特にここで取り上げられているのは罪の贖いの儀式に関することです。律法で定められて行われてきた罪の贖いの儀式は影に過ぎない。実体がない。つまり本当の意味で罪は贖われてはいないということです。それは来るべき良いこと、本当のこと、実体としての罪の贖いと罪の赦しを指し示すものに過ぎないのだということです。既に述べられていたように、その実体とはイエス・キリストにおける罪の贖いです。
そのように罪を贖う実体のない祭儀によっては、罪は実際には取り除かれないのですから、どんなに毎年犠牲が献げられても、「神に近づく人たちを完全な者にすることはできません」。この場合、「完全な者」とは、神に近づけるという意味での完全です。「神との間に何の隔てもない」と表現してもよいでしょう。人間が献げる犠牲は、神との間の隔てを完全に取り除くことはできないのです。
もし人間の献げる動物犠牲で隔てが取り除かれているならば、一回犠牲を献げた後には、「礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか」と彼は言います。この場合、「罪の自覚がなくなる」という表現は、誤解を招くかもしれません。むしろ「わたしは赦されていないという意識」と言い換えて理解したらよいでしょう。罪の贖いの犠牲を献げるけれど、そこで起こるのは「罪の記憶がよみがえって来る」ことだけだというのです。わたしはまだ赦されていないという思いをもって、毎年、それこそ一生懸命に犠牲を献げるのです。罪を赦してもらうために毎年犠牲を献げるのです。どうしてそうなるのでしょうか。「雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないから」なのです。
これに対して、キリストが献げられた犠牲とは何であるかが語られます。ここで引用されているのは詩編40編です。(ギリシア語訳聖書からの引用ですので、私たちが持っている詩編とは若干言葉が異なります。)その詩編がキリスト預言として読まれています。というよりも正確には、キリストが世に来られる時に(いわば受肉の直前に!)こう言われたのだ、このような意図をもって来られたのだと読まれているのです。
神は律法に従って献げられる犠牲、罪を贖う犠牲を「望みもせず、好まれもしなかった」。もし神様がそれを「望んでいた」とするならば、罪の贖いというものは、いわば「神様の望んでいるものをあげますから、罪の赦しをくださいね」という人間と神との間の取り引きのようなものになるでしょう。しかし、そうではないのだ、と聖書は語っているのです。そうではなくて、神が望んでいること、神の御心としていることは別にあったのです。その御心を行うために、キリストは来られたのだというのです。その御心とは何でしょうか。「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです」(10節)。これこそが神の望んでおられたことなのです。
さらにこう書かれています。「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです」(11‐13節)。キリストが犠牲を献げるのは一回限りです。その後は永遠に神の右の座についてくださったのですから、もう二度と犠牲を献げることはありません。あの犠牲は一回にして完全に有効なのです。「なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです」。これがキリストを信じて救われるということです。永遠に完全な者とされるのです。神との間に隔てのないものとされるのです。永遠に!あのエレミヤ書の預言にも書かれていたとおりのことが起こるのです。「もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない」。神が新しい契約においてこう宣言されるならば、もはや罪を贖う犠牲は不要なのです。
ここで私たちの礼拝のあり方をよく考えてみる必要があろうかと思います。私たちが毎週の礼拝において、繰り返し罪の悔い改めの祈りを捧げ、罪の赦しを求めるのは、かつてイスラエルの人たちが罪の贖いの犠牲を献げていたのとは根本的に異なるのです。私たちのための贖いの犠牲は既に献げられたのです。私たちは、その一回限りの犠牲によって、永遠に完全にされているのです。私たちは赦されているのです。既に赦されている者として、罪の赦しを求めて御前に出るのです。
それは丁度、既に完全に子どもを赦している親のもとに、子どもが「ごめんなさい」と言って帰ってくるのに似ているでしょう。子どもが「ごめんなさい」と言ったから、あるいは償いをしたから、初めてそこで赦されるのではないのです。しかし、親は子どもが自分の罪を認めて赦しを求めて帰って来ることを望みます。それは交わりが妨げられないためなのです。私たちの礼拝は赦されている者が、神との交わりに生き続ける営みに他ならないのです。
私たちが為さねばならないのは、罪の赦しを得るために繰り返し犠牲を献げるような類のことではありません。まだ罪が赦されていない、十分に赦されていないという意識を持ちながら、その隔てを取り除くために何かを行い、神の望まれるものを献げて、その代わりに罪の赦しを得ようとすることではありません。キリストは、敵ども、すなわちサタンとその勢力が御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられると書かれているのですから、そのために仕えることこそが重要なのです。
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