マタイ4:12-17
キリストはガリラヤへ退かれた
今日の福音書朗読としてお読みしたのは、イエス様が公に宣教を開始したという場面です。イエス様の宣教活動はエルサレムの都ではなく、北のはずれのガリラヤから始まりました。イエス様がまずガリラヤに向かった次第について聖書はこう伝えています。「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」(12節)。
「ガリラヤに退かれた」という表現からは、イエス様がガリラヤへと逃げて行ったという印象を受けます。しかし、ヨハネを捕らえたヘロデの領地であるガリラヤへと向かったのですから、明らかに「逃げた」のではありません。「退く」とは単純に中央のエルサレムから離れたガリラヤへと移動したという意味です。
イエス様はあえてガリラヤへと移動し、そこから宣教を開始しました。それはなぜなのか。聖書は次のように説明しています。「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ』」(14‐16節)。つまりイエス様がゼブルンとナフタリの地方から宣教を開始したのは、旧約聖書に表されている神の御心が実現するためだったのだ、と語られているのです。
イエス様が父なる神の御心に従って向かわれたガリラヤですが、引用された聖書箇所では「異邦人のガリラヤ」と表現されていました。もとよりガリラヤは古代イスラエルに属する地域です。そこに出て来ゼブルンやナフタリはイスラエルの部族の名前です。にもかかわらず、ここで「異邦人のガリラヤ」と呼ばれている。それにはそれなりの理由がありました。
ガリラヤは北の境に位置するため、繰り返し北からの侵略にさらされた地域です。紀元前8世紀に決定的な出来事が起こりました。列王記下15章に次のように書かれています。「イスラエルの王ペカの時代に、アッシリアの王ティグラト・ピレセルが攻めて来て、イヨン、アベル・ベト・マアカ、ヤノア、ケデシュ、ハツォル、ギレアド、ガリラヤ、およびナフタリの全地方を占領し、その住民を捕囚としてアッシリアに連れ去った」(列王記下15:29)。ガリラヤは完全にアッシリアの占領下に置かれることとなりました。「異邦人のガリラヤ」と呼ばれたのはそのゆえです。さらにはその後、バビロニア、ペルシア、マケドニアと次々に諸外国の支配下に置かれることとなりました。その間に入植者との混血も進みました。宗教的にも文化的にもイスラエルとしての純粋性は失われていきました。それゆえに「異邦人のガリラヤ」という表現はまた侮蔑を込めた呼称ともなっていきました。
そのような「異邦人のガリラヤ」へとイエス様は向かわれました。中央のエルサレムからではなく、「異邦人のガリラヤ」から宣教を開始したのです。なぜならそれが父なる神の御心だったからです。神はそこで何をなさろうとしておられたのでしょう。次のように表現されていました。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。これが神のなさろうとしていたことでした。神が望んでおられるのは、暗闇に住む民が光を見ることです。真っ暗闇の中にいる者のところに、光が差し込んでくることなのです。神は人間が暗闇の中に生きることを望まれません。光の中を生きることを望んでおられるのです。
暗闇に住む民のところへ
しかし、その「暗闇」とは何でしょう。「暗闇に住む民」と書かれていますが、それは何を意味するのでしょう。私たちは確かに世の中や人生や心の状態を表現する時に、「明るい」とか「暗い」という言葉を使います。明るい社会。暗い世の中。暗い心。暗闇に住むとはいったいどういうことでしょうか。
先ほど、ガリラヤの置かれていた歴史的な事情に触れました。しかし、度々侵略を受けたことが暗闇なのでしょうか。アッシリアに占領されてしまったから暗闇なのでしょうか。異民族に支配されていることが暗闇なのでしょうか。そのような可哀想な人々だから「暗闇に住む民」と言われているのでしょうか。
いいえ、そうではないのです。イザヤ書においても、また先ほど引用しました列王記におきましても、北方地域が占領されたことは、ただ可哀想で気の毒な出来事として書かれているのではありません。そうではなくて、それは神に背き続けてきたイスラエルの歴史における出来事として書かれているのです。すなわち、ガリラヤがアッシリアに占領され、さらにはイスラエル王国が滅ぼされてしまうしまうわけですが、そこに描かれているのはイスラエルの不信仰とその結果としての歴史なのです。確かに国を失ったことは不幸です。災いです。災いを受けることは暗闇の中に置かれることでもあると言えます。しかし、本当の暗闇は災いそのものの暗闇ではないのです。そうではなくて不信仰の暗闇なのです。神を失っている暗闇なのです。
神を失っている暗闇と申しましたが、さらに言うならば、それは神の愛に背を向けている暗闇とも言えるでしょう。神様がどんなに愛してくださっていても、神様がどんなに呼びかけても振り返ろうとはしない。神様がどんなに手を伸ばし続けてくださっていても、神の方に向こうとはしない。神の愛を信じようとはしない。そのような暗闇です。
そのような神を失った暗闇の中に「住む民」と語られているのです。細かいことを申し上げますと、実は引用元であるイザヤ書では「住む」ではなくて「歩く」という言葉が使われているのです。しかし、マタイはわざわざ「住む」という言葉を使いました。これは「住む」という意味でもありますし、「座る」という意味でもあります。「歩く」に対しては「座る」の方がイメージしやすいでしょう。「暗闇の中に座っている民」。そこに座り込んで動こうとはしない。暗闇を自分の場所としている。これが自分の居場所なんだと思っている。そういうことです。
実際、イエス様がガリラヤで出会った人たちはそのような人たちだったのです。徴税人たちは自分が神に愛されているなんて、思ったこともなかったに違いありません。罪人たちは、自分たちはもうとうの昔に神から見捨てられていると思っていたことでしょう。神など私には全く関係ない。そうやって生きてきたのだろうと思います。イエス様が出会われた病気の人たち。自分は神から呪われているからこんな病気になったのだと言われてきた人たち。自分でもそう思ってきた人たち。暗闇が自分の場所だって思って、もう何年も何年も生きてきたに違いない。どんなに苦しくても辛くても、神様に背を向けたまま生き続ける暗闇。そのような暗闇を自分の場所として座っている人々。
しかし、そのような徴税人や病気の人たちを神から遠い人々と思っていたファリサイ派の人たちはどうだったのでしょう。彼らは実に宗教的な人々です。一生懸命に神の律法を守って生きていました。しかし、それは厳しい父親の目を気にしながらビクビクして生活してる子供のようなものです。神に気に入られるように一生懸命にやってきたけれど、無条件で神から愛されている安心感など、生まれてこのかた経験したことがなかっただろうと思うのです。それもまた暗闇であると言えます。その暗闇の中に座っていた。彼らもまた暗闇の住人でした。
悔い改めよ。天の国は近づいた
そのような暗闇の中に座っている人々のところにイエス様は向かわれたのです。それが神の御心だったからです。そして「暗闇に住む民は大きな光を見た」と書かれているのです。神はイエス・キリストを光として与えてくださったのです。暗闇の中に光は射し込んでいるのです。だから、人はもう暗闇の中に座っていなくてよいのです。暗闇こそが私の場所だ、なんて言っていなくて良いのです。イエス様が、暗闇を照らす光として来てくださったからです。イエス様は神の完全な現れとして来てくださいました。イエス様が完全な罪の赦しと共に、完全な神の愛を携えて来てくださったのです。だから、もう暗闇の中に座っている必要はないのです。
それゆえに、主はこう言われたのです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(17節)。「天の国は近づいた」ということは、「救いは近づいた」ということです。そうでしょう。もう既にイエス様が光として来てくださったのですから。
「暗闇に住む民は大きな光を見た」と書かれていますが、光を見るために必要な唯一のこと、それは光の方を向くことです。方向転換です。それを聖書は「悔い改め」と呼ぶのです。「天の国は近づいた」。これは神様がしてくださったことです。神様の方から救いをもって近づいてくださいました。しかし、暗闇の中に座っていることをやめて立ち上がり、光の方に向き直り、光の中を生き始めるようになるのは本人がすることです。プレゼントを差し出されても、自分で受け取らなければ自分のものにはなりません。太陽が昇っても、自分でカーテンを開けなければ、部屋は明るくなりません。どんなに光が照らしても、背を向けたままならば、見るのは自分の暗い影だけです。暗闇に住む民が大きな光を見るためには、その光の方に向き直らなくてはなりません。これは神様のすることではなく、人間がすることです。主は言われます。方向転換しなさい。悔い改めなさい。救いは近づいた。暗闇はあなたの住む場所ではないと主は呼び掛けておられます。
さて、ここにいる私たちはどうなのでしょう。私たちが暗闇を感じているとするならば、それは新型コロナウイルスの感染が拡大しているからではありません。教会において、人数制限のために毎週礼拝に集まれないからでもありません。暗いとするならば、それは光に向いていないからです。ここに集まることのできない日曜日はどうでしょう。暗いとするならば、光に向いていないからです。どんなに社会が暗かろうと、日曜日は七日経ったら必ず巡って来るのです。この世にこられたキリストが、そして復活して今も生きておられるキリストが私たちを御もとに呼び集めてくださいます。そこで光の方を向いたら良いのです。光の方に向き直らない限り、光を見ることはありません。どんな状況に置かれても、ここに集まれなくても、主の日の礼拝をやめてはなりません。「暗闇に住む民は大きな光を見た」。そのように光の中を歩んでいきましょう。さらにはこの世界を光の中に招く神の呼び声として、この世に出ていきましょう。
(祈り
2021年1月24日日曜日
「暗闇に差し込んだ光」
2021年1月17日日曜日
「魚をとる漁師から人間をとる漁師へ」
マタイ4:18-25
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:10)。かつてガリラヤ湖畔において主がペトロとアンデレに語られた言葉です。そして、この物語が教会において朗読されるたびに、代々の教会が自分たちへの語りかけとして聞いてきた言葉です。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。主は今日ここに集まっている私たちにも、そう呼びかけておられます。
わたしについて来なさい
「わたしについて来なさい」。主はペトロとアンデレに言いました。その時、ペトロとアンデレは湖で網を打っていました。彼らは漁師でした。その彼らに「わたしについて来なさい」と主は言われた。彼らは「すぐに網を捨てて従った」。そう書かれています。主はそこから進んで、別の二人の兄弟、ヤコブとヨハネを御覧になりました。彼らは父と一緒に、舟の中で網の手入れをしていました。イエス様は彼らをお呼びになりました。彼らにも「わたしについて来なさい」と言われたのでしょう。「この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」。そう書かれています。そのように、「わたしについて来なさい」という言葉と共に、今日の箇所において語られているのは「イエスに従った」人々の姿です。彼らはついて行ったのです。
今日の福音書朗読はさらに25節までをお読みしました。イエス様が「ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(23節)という話です。かなり広い範囲から大勢の群衆がイエス様のもとに集まって来ました。恐らくイエスの癒しの奇跡を聞きつけて人々は集まって来たのでしょう。しかしこの部分にしても、ただ群衆がイエスのもとに来たとだけ書かれているのではありません。「大勢の群衆が来てイエスに《従った》」と書かれているのです。先ほどのペトロやアンデレたちについて書かれていたのと同じ言葉です。
この箇所を読む限り、この「大勢の群衆」の大部分は病気の人かあるいは病気の人を連れて来た人です。病気の人も病気の人を連れて来た人もそれぞれ苦しみを負っていたのでしょう。もちろん、イエス様はその苦しみを見て心を動かされたに違いない。しかし、明らかにイエス様が関心をもって目を向けておられたのは彼らの背負っている苦しみだけではありませんでした。苦しみにしか目を向けていなければ、病気が癒されて苦しみが取り除かれた時に、イエス様が関心を向けていたものも無くなるわけです。イエス様とその人を繋げていたものも無くなるではありませんか。
しかし、そうではないのです。イエス様は病気を見ておられるのではなく、人間を見ておられるのです。病気の人であろうが連れてきた人であろうが、イエス様は人間に目を向けておられるのです。だから苦しみが取り除かれた後にも「従う」という関係は残るのです。あるいは苦しみがたとえそこで取り除かれなかったとしても、「従う」という関係は存在し得るのです。「大勢の群衆が来てイエスに従った」。既に癒された人もまだ癒されていない人も。
そのように、イエス様が開始された宣教の働きにおいて、イエス様は人間に目を向けられ、人間を求められた。そこには元気な漁師たちもいたし、ただ病気を癒して欲しいという一心だった人たちもいた。しかし、マタイによる福音書はそこに「イエスに従う人々」を見ているのです。そして、イエス様は彼らを見て山に登られる。人々はその後についていく。そこでイエス様は山上の説教を語られるという流れになっているのです。いわばそこに教会の原型を見ているのです。そして、その延長上に私たちもまたいるのです。主は御自身がガリラヤにおいて開始された宣教の働きを、お一人で進めてはいかれないのです。主は人間を求められます。従う人々を求められます。そして、主に従う人間を用いて宣教の働きは進められるのです。
人間をとる漁師
そこで注目したいのは、主がペトロとアンデレに言われた言葉です。主は「わたしについて来なさい」と言われ、さらにこう続けられました。「人間をとる漁師にしよう」。この言葉にもよく現れています。人間を用いた宣教の働きにおいて、イエスの関心はどこまでも「人間」に向けられているのです。
ユダヤ人たちがローマ帝国の支配下にあった時代です。ローマ人の支配が打ち倒されて、イスラエルの王国が建て直されることを多くの人々が待ち望んでいた時代です。人々のメシア待望とは、まさにそのような社会体制の変革を実現してくれる力ある王の到来を待ち望むものでした。もう一方において武力をもって異邦人の支配に対抗しようとする人々がいました。武力によって体制の変革を実現しようとする人々がいました。熱心党と呼ばれていた集団です。イエス様が歩いておられたガリラヤは、そのような熱心党運動の発祥の地であり拠点でした。後にイエス様の弟子となる人たちの中にも、熱心党出身者がいたことが知られています。「熱心党のシモン」(10:4)と呼ばれた男です。
しかし、イエス様御自身は熱心党運動に全く関心を示しませんでした。イエス様が数々の奇跡を行った時、人々はやがてこの人がその驚くべき力をもってローマ帝国を揺り動かすだろうと期待を膨らませたに違いありません。事実、ヨハネによる福音書には、人々がイエス様を王にしようとする動きがあったことを伝えています。しかし、イエス様はそのような人々の動きをむしろ遠ざけられました。イエス様がその気になりさえすれば、恐らく大きな政治的権力や影響力を獲得することはいとも容易いことだったに違いありません。しかし、そのために御自分の力を用いようとはなさいませんでした。
イエス様の心が向けられていたのは、いつでも一人ひとりの人間でした。それは時として誰も目に留めないような一人の貧しいやもめであったり、社会の構成員とは見なされなかった重い皮膚病の人であったり、軽蔑の対象でしかなかった徴税人であったり、そして、ごく当たり前の日常を来る日も来る日も変わることなく送っている漁師たちでした。イエス様が関心を向けておられたのは、そのような一人一人の人間でした。その人間が神に立ち帰ること、まことの父である神に立ち帰ること、そして一人一人の人間が神の救いにあずかり、神との交わりに生き、神をほめたたえて生きる者となることを求められたのです。それはいわば、人間を神のもとに獲得すること、神のもとにすなどることに他なりません。ただそれだけを求められたのです。
それゆえに、御自分に従ってくるペトロやアンデレたちを、神のもとに《人間を》すなどる漁師にすると言われたのです。彼らは世界を覆す必要はなかったのです。彼らは世界を救う英雄になる必要はなかったのです。彼らはただ目の前の一人一人の人間を追い求めていればよかったのです。それが彼らに託されたことだったのです。そして、それがここにいる私たちにも求められていることなのです。
教会はただ漠然とこの世に向き合うのではありません。教会はあくまでも人間と向き合い、個々の人間と関わり続けます。教会は十把一絡げの伝道はしません。ホースで水を撒くような仕方で洗礼を授けることはしません。それぞれ固有の名前を持ち、固有の人生を歩んできた固有の人格と関わり、一人が神に立ち帰ることを求めます。そして、神の救いにあずかる一人のゆえに喜ぶのです。それが教会です。
わたしがしてあげよう
そのように、主は「人間をとる漁師にしよう」と言われたのでした。「わたしが人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたのであって、「あなたは人間をとる漁師になりなさい」と言われたのではありません。
それにしても、「人間をとる漁師にしよう」というのは何度聞いても不思議な言葉です。不思議な自信に満ちた言葉です。その時にペトロがどれほどの能力を持っていたか、どれほどの可能性を持っていたかなど関係がないかのようです。いや、実際そんなことはどうでもよかったのでしょう。イエス様はペトロの資質や能力ではなく、ペトロという一人の人間を求められたのだし、そのペトロが従ったという事実だけが重要だったのです。
実際、そのペトロはイエス様に従う歩みにおいて様々な失敗をしでかします。弱さを露呈することになります。しかし、それでもペトロは従っていけばそれで良かったのです。それでイエス様には十分でした。イエス様はその言葉のとおり、ペトロは人間をとる漁師になりました。また、同じように、イエス様が十字架につけられた後、ユダヤ人を恐れて家の中に隠れていたあの小さな群れを、イエス様は人間をとる漁師とすることができました。
そして、後の教会もまた同じです。確かに教会の歴史を見る限り、そこには人間的な弱さや過ちが絶えることがありませんでした。しかし、それでもなおイエス様は「わたしについて来なさい」と語り続け、その呼び声に従った人々によって、教会は人間をとる漁師であり続けたのです。
また、今日の箇所において、ペトロやアンデレと同じように「従った」と語られている「大勢の群衆」の多くが病気であったり、病気の人を連れて来た人であったことをもう一度思い起こしてください。先に申しましたように、病気が癒される前であっても後であっても、イエス様がそこに見ていたのは「病人」ではなく、一人一人の「人間」だったのです。そのように、私たちもまた様々な弱さをかかえながらここにいるのかもしれないけれど、それでもなお主は一人一人の人間として私たちを招いてくださっているのです。主は私たちにも言われます。「わたしについて来なさい」。
今、私たちは毎週礼拝に集まることができるわけではありません。教会生活の在り方は昨年春から大きく変わってしまいました。しかし、だからこそ私たちに改めてこの御言葉が与えられているのでしょう。「わたしについて来なさい」と主は言われます。その招きの声に、私たちは具体的にどのようにお応えしたらよいのでしょうか。「人間をとる漁師にしよう」と言われる主の御言葉は、私たちにおいてどのように実現していくのでしょうか。
(祈り)
2021年1月10日日曜日
「開かれた天から響く神の言葉」
マタイによる福音書 3:13-17
正しいことをすべて行うために
「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである」(13節)と書かれていました。多くの人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けていました。その長蛇の列の中に、イエス様は立っておられたのです。そして、ヨハネの前に立たれたのでした。
洗礼者ヨハネは自分の前に立っているのが誰であるかをよく知っていたようです。彼は言います。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(14節)。そう言って、思いとどまらせようとしました。そこには、ヨハネが何を知っていたのかがはっきりと現れています。この方は洗礼を受ける必要はない。なぜならこの方には罪がないから。罪がないというのは、神の前において罪がないということです。そのような方をヨハネは前にしていたのです。
真っ白な方の前に立つ時、自分の汚れを思わずにはいられなくなる。明るい光の前に立つ時、自分の内に暗闇があることを知らされます。この御方の前に立つ時、自分こそ罪人であり、罪を悔い改めなくてはならない者であると思わずにはいられない。イエスを知るとはそういうことです。だからヨハネは言ったのです。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。
しかし、そのときイエス様はこう言われました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(15節)。イエス様が洗礼を受けるために来られたのは、それが「正しいこと」だから――それが理由でした。その「正しいこと」は「義」という訳語でこの福音書に繰り返し出て来ます。神の目から見て「正しいこと」です。神の御心に適うことであり、言い換えるなら「神が望んでおられること」です。
いいえ、それだけではありません。イエス様は、「正しいことを《すべて》行うのは」と言われました。イエス様が念頭に置いておられるのは、罪人の一人として洗礼を受けることだけではありませんでした。罪人と一緒に水の中に立ったら、それだけでは終わらないことを主はご存じだったのです。続きはこの福音書に書かれています。イエス様の御生涯は十字架に向かうことになるのです。罪人の一人として水の中に沈まれたイエス様は、やがて罪人の一人として裁かれ、十字架にかけられることになるのです。
それが主が言われる「正しいこと」、すなわち神が望まれたことでした。罪のない救い主が、罪人の一人として、すべての人の罪を代わりに背負って死なれるということです。なぜなら、あの方は、罪からの救い主だから。十字架への歩みは、洗礼において既に始まっていたのです。
天から響く声
そして、そのように「正しいこと」として洗礼を受けた時、イエス様の身に起こった出来事を聖書は次のように伝えています。「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」(16‐17節)。
「そのとき、天がイエスに向かって開いた」。他の人にではなくイエスに向かって、です。イエス様御自身の体験です。また神の霊が降ってくるのを御覧になった。「御覧になった」のはもちろんイエスご自身です。そして、声が聞こえた。これも明らかにイエス様に聞こえたということでしょう。マルコによる福音書では、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1:11)となっていまして、もっとはっきりとイエス様が聞いた言葉として書かれています。イエス様は確かに、開かれた天から響く神の言葉、父なる神の愛の言葉を聞いたのです。「あなたはわたしの愛する子だ」と。
この世的な観点から言えば、「神の愛」と「苦しみ」は恐らく結びつかないのでしょう。むしろ相容れないものであるとみなされる。「苦しみ」があるならば「神の愛」はない。「神の愛」があるならば「苦しみ」はないはずだ、と。いやそれはキリスト者も同じであって、苦しみに遭う時に、苦しみが続くときに、「わたしは神から愛されていないのではないか」と信仰が揺さぶられた経験を持つ人は決して少なくはないのでしょう。
しかし、聖書ははっきりと一つの事実を示しています。「あなたはわたしの愛する子だ」と言われたイエス様は、苦しみを免れはしなかった。むしろ苦しみを受けることが「正しいこと」だった、と。
イエス様においては一つのことがはっきりしています。イエス様は罪のない御方ですから、自分の罪の故に苦しむ必要はありませんでした。イエス様の人生には、自分の罪が招いた苦しみはありませんでした。その苦しみは純粋に他者のための苦しみであったと言うことができるでしょう。それは明らかに《メシアとして》この世に来られたゆえの苦しみであり、神の救いの御計画が成就するための苦しみでした。それはイエス様においても、「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と口にした時点でわかりきっていたことであったはずです。
その御子なるイエスに、父なる神が「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と語られたことをことさらに伝えているのでしょう。聖霊によって結ばれた、天の父と地上における御子との愛と信頼に満ちた交わりは、もちろんこの時だけの一瞬の出来事でに終わるものではないでしょう。天を仰ぐ御子に天から父が語り掛けられる。開かれた天からの言葉が地上に与えられる。その絶えざる天の父との交わりは十字架へと向かうイエスの生涯を貫いていたことを私たちはこの福音書に見るのです。「神の愛」があるなら「苦しみ」はないはずだ?――いいえ、「神の愛」があるから「苦しみ」を担い得るのです。
神に愛されている子供たちとして
そして、この場面に見る天の父と御子キリストとの関係は、ここにいる私たちにも深く関わっているのです。もう一度この場面に目を向けてみましょう。
イエス様が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の語りかけを聞いているのは、「ヨルダン川」においてでした。イエス様が、人間の一人として、罪人の列の中に並んで洗礼を受けたという場面においてです。イエス様は永遠に父なる神と共におられる御子なる神として、「あなたはわたしの愛する子」という声を聞いているのではないのです。そうではなく、イエス様はあくまでも洗礼を受けている人間として、私たちと同じ人間としてそこに立ちながら、神の言葉を聞いておられるのです。ならばイエス様が受けられた洗礼と、私たちが受ける洗礼とは無関係ではなくなります。
ですからマタイによる福音書は、イエス様が受けられた洗礼の話だけで終わらないのです。この福音書の最後で弟子たちにこう命じているのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:18‐20)。最後には「洗礼を授けよ」とイエス様が命じたという話が出て来るのです。教会が授ける洗礼の話が出て来るのです。
イエス様の受けた洗礼。教会が授けよと命じられている洗礼。その二つの間には何がありますか。3章と28章の間には何がありますか。十字架と復活の出来事があるのです。「洗礼を授けよ」とイエス様が命じられる前に、イエス様が「正しいこと」をすべて行ってくださったのです。神の御心に従って十字架へと歩みを全うされ、救いの御業を成し遂げてくださったのです。この救いの御業のゆえに、教会が授ける洗礼は意味を持つのです。成し遂げられた救いの御業のゆえに、あのヨルダン川で起こったことが、今日の教会において私たちの間にも起こるのです。
あの時、「天がイエスに向かって開いた」。同じように神の裁きのもとにあった私たちにも天が開かれるのです。イエス様が罪の贖いを成し遂げてくださったからです。主の御業のゆえに、開かれた天は私たちに対して決して閉ざされることはないのです。そして、「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」。同じように、私たちにも神の霊が与えられます。このことについて、パウロはこう語っています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ8:15)。
それゆえに神御自身が私たちにもこう言ってくださるのです。「あなたはわたしの愛する子供だ」と。そのように、私たちもまた、イエス様が耳にした神の愛の言葉を聞きながら、愛されている神の子供たちとして生きていくのです。今、私たちがここに身を置いて、「天にまします我らの父よ」と祈る者として共に礼拝をささげているとはそういうことなのです。私たちは現在、毎週、この場所に集まることができるわけではありません。他の週はそれぞれの場所に身を置いているのでしょう。しかし、それでもなお私たちは週毎に集められ、開かれた天から響く神の言葉を聞いて生きている。いや、生かされているのです。
既に見てきたように、それは必ずしも苦難を免れることを意味しません。いいえ、むしろ主は弟子たちにこう言われたのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(16:24)。私たちは礼拝からこの世へと遣わされキリストに従って歩みます。そこには負うべき十字架があります。キリストに従うゆえに、神と人とに仕えるべく世に遣わされているゆえに、負うべき十字架が確かにあります。しかし、私たちは開かれた天からの御言葉をいただいた者として、愛されている神の子供たちとして、十字架を担っていくのです。開かれた天から響く神の言葉をいただいた者として。
(祈り)