2025年10月19日日曜日

「神の愛と真実は変わらない」

2025年10月19日 主日礼拝説教 

聖書:ヨハネの黙示録 7:9‐17

ヨハネの見た幻
 今日はヨハネの黙示録をお読みしました。この書物が書かれたのは紀元一世紀も終わり頃であると言われます。それはローマ帝国において皇帝礼拝が強要された時代でした。皇帝を神として礼拝すること、またローマの神々を礼拝することを拒否する者には容赦ない迫害が加えられたのです。それは教会にとってまさに艱難の時代でした。

 そのような時代においてもなお、キリスト者は礼拝のために集まりました。それはある意味では命がけのことでした。信仰を公にせず、隠れて個人的にキリストを信じ、表面的には皇帝を礼拝して生きていけば危険はなかったのです。しかし、彼らはそうしませんでした。共に集まって聖餐を行うこと、共に祈ること、互いに信仰を励まし合うことを、ある意味では自分の命よりも大事なこととして考えていたのです。そして、ヨハネの黙示録とは、そのような人々のために書かれた書物だったのです。

 ヨハネの黙示録の1章には、こんな言葉があります。「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(1:3)。そのようにこれは朗読されるために書かれたのです。朗読されるのは、命を賭して皆が礼拝のために集まっている場所においてです。その書物が今日、ここにおいても朗読されているのです。ならば、ある意味では私たち自身の姿勢も問われるのでしょう。共に集まって礼拝することは、私たちにとってどれほど大事なこととされているのでしょうか。それほど尊い恵みであると考えられているのでしょうか。

 今日は、そのようなヨハネの黙示録の第7章が朗読されました。そこには大群衆の姿が次のように描かれています。「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである』」(9-10節)。

 実際にそこに大群衆がいたわけではありません。ヨハネが見ているのは幻です。神が見せてくださった幻です。その大群衆は神の玉座の前と小羊(キリスト)の前に立っていると言われていますから、これは地上の話ではなく、天において礼拝している人々の姿です。ヨハネがそのような幻を見せていただいたのは、「ある主の日のこと」(1:10)であったと書かれています。それはある主の日の礼拝における出来事でした。

 もしかしたらヨハネ一人で捧げていた礼拝だったのかもしれません。ヨハネはその時、パトモス島という島に、島流しにされていましたから。しかし、そこで主はヨハネに天の大群衆を見せてくださったのです。神を礼拝している大群衆を見せてくださったのです。ヨハネは決して一人ではなく、天の大群衆と共に主を讃えて礼拝しているのだ、ということを、主は見せてくださったのです。

大きな患難から抜け出て来た者たち
 そのように神が見せてくださった、礼拝をささげている天の大群衆について、ヨハネは質問を受けました。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」ヨハネは答えました。「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」。すると次のような言葉が返ってきました。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(14節)。

 「彼らは大きな苦難を通って来た者だ」。別の翻訳ではこうなっています。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです」(7:14新改訳聖書)。実は、この方がむしろ直訳に近いのです。もう一回お読みします。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」

 ヨハネが目にしていた人々が、特に「大きな患難から抜け出て来た者たち」と表現されていたことが重要です。それは迫害の時代を背景としていることを考えるとよく分かります。

 教会は神の愛とキリストの救いを宣べ伝えているのです。しかし、そのような教会に現実には苦難が次々と襲いかかってくるのです。迫害の中で無残に殺されていく人々がいるのです。現実を見る限り、そこにおいて神の助けは全くないかのように見えるのです。神は本当におられるのか。神は本当に真実な御方なのか。その神を信じることに意味はあるのか。そう問わざるを得ない状況がそこにあるのです。

 しかし、そこで神はヨハネに幻を見せたのです。目に見えるところによるならば、患難の中で神の助けも守りもないままに無残に殺されていったように見えるかもしれない。しかし、その彼らが、なんと天において大声で神を誉め讃えているのです。そして、彼らはこう呼ばれているのです。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たち」であると。

 ここには驚くべき逆説が語られています。この世的に見るならば、患難の中において神の守りはなかったように見える。神に守られず殺されてしまった人々は、この世的に見れば、神から見捨てられたように見えたかもしれません。しかし、実はそうではなく、神に完全に守られて、むしろ患難から取り出されたのだというのです。そして、彼らは神の玉座の前にいるのです。彼らは神に近いところにいるのです。守られなかった?とんでもない!彼らは神の近くに、玉座の近くに招かれていた人たちなのです。

 そして、こう書かれています。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」(17節)。

 玉座の中央におられるのは小羊です。しかし、その御方はまたまことの牧者、羊飼いでもあります。ここで詩編23編を思い起こす人も多いかもしれません。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、 魂を生き返らせてくださる」(詩編23:1-3)。葬儀においても良く読まれる詩編です。そこに歌われていたことが、まさに天において実現しているのをヨハネは見たのです。まことの羊飼いによって命の水の泉に導かれた人々がそこにいるのです。地上の苦しみの中で飢え渇き求めていた本当の命はそこにおいて豊かに満たされるのです。

 そして、神御自身が涙の涙をことごとくぬぐってくださる。「ことごとく」です。全部です。すなわち流された涙のすべてを神は知っておられるということです。その全てを、ぬぐい取ってくださる。流した涙の全てが、ことごとく報われるのです。

小羊の血によって
 そのような天の大群衆をヨハネは見せていただいたのです。そして、彼らについては殊更に「白い衣を着た者たち」と書かれています。なぜ彼らは白い衣を身に着けているのでしょう。14節にはこう書かれています。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(7:14)。そのように、その衣は小羊の血によって白くされたのです。

 先ほどから、迫害の時代に大きな苦難を受けた人々の話をしています。しかし、彼らは殉教したから白い衣を着ているのではないのです。苦難を耐え忍んだから白い衣を着ているのではないのです。それは小羊の血によるのです。小羊の血とは、私たちの罪のためにキリストが流してくださった罪の贖いの血潮です。そこに語られているのはキリストの血による罪の赦しなのです。 天において「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」と大声で賛美している人々は、キリストの血によって罪を贖われた人々なのです。

 その意味においては、ここにいる私たちも同じです。私たちもまた、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。それ以外には白くしようがないのです。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」。その通りです。私たちはただそれを受けるしかないのです。

 だからこそヨハネの見たこの幻は、時代を超えて代々の教会を通して伝えられてきたのです。この地上の生活において、神の愛と真実は時として見えなくなることは、迫害の時代ならずとも、いつの時代でもあるからです。辛いことが続く時、祈っても事態は何も変わらないように見える時、なんでこんなことが起こるのかと思えるようなことが起こる時、神の愛と真実が見えなくなる。そのようなことはあるのです。

 しかし、ヨハネが見せられたように、そして教会に書き送ったように、神の愛と真実とは始めから終わりまで貫かれているのです。神は真実な神であり続けておられるのです。苦難の黒雲は神の真実という太陽を覆い隠す時があるかもしれません。しかし、太陽が無くなるわけではないのです。神の真実は変わらない。やがて患難から抜け出た者たちとして、神によって涙をことごとくぬぐわれて、はっきりとその事実を見る時が来るのです。ヨハネが見せられたあの大群衆のようにです。

 ならばこの地上において礼拝している私たちにとって大切なことは何なのでしょうか。見えないならば、信じることです。神の真実が目に見えない時こそ神の真実を信じることです。神の愛が見えなくなった時こそ、キリストの十字架において表された神の愛を信じることです。そして、信仰に踏みとどまることなのです。

 疑いと恐れに心を支配させてはなりません。そのために神はヨハネに幻を見せました。そのためにヨハネは教会に書き送りました。そのために教会はこの書を二千年近くの長きにわたって伝えてきました。そのようにして、私たちもまた同じ信仰の言葉を耳にしているのです。私たちが信仰によって生きるためです。

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