2025年10月5日 主日礼拝説教
聖書:マタイ19:13‐26
永遠の命を得るには
一人の男がイエス様のもとに来てこう尋ねました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19:16)。
この男は何者でしょう。22節では「青年」と呼ばれています。また、「たくさんの財産を持っていた」(22節)とも書かれています。他の福音書によれば、彼は最高法院に議席を持つ「議員」でもあったようです。彼はユダヤ人として、モーセの律法については、「みな守ってきました」(20節)と言っています。そのような言葉に、彼の生い育ってきた家庭環境が伺えます。ユダヤの伝統的な堅実な家庭に育ち、敬虔な父母のもとにあって、幼い時から良い宗教教育を受けてきた人なのだと思います。
ある意味では、人々が望む多くのものを既に手にしていた人でした。彼には若さがありました。財産もありました。地位も名誉も得ていました。良い家庭環境にも恵まれていました。このような人を世の中では幸福な人と呼ぶのでしょう。
しかし、彼のはわかっていたのです。この世で目にするもの、手にするものが全てではない。どんなに良いものであっても、それはみな過ぎ去るものだ。本当に良きものはまだ見ていない。まだ手にしていない。本当の喜びをまだ私は知らない。本当の幸福をまだ私は知らない。味わっていない。それは天において神によって、過ぎ去らない永遠なるものとして備えられている。――それを聖書は「永遠の命」と表現するのです。彼はまだ見ていない、手にしていない、味わっていない、神が与えてくださる完全な救い、「永遠の命」を求めてやまなかったのです。
その「永遠の命」を得るにはどうしたらよいのか。彼はその答えを求め続けてきたのでしょう。そして、そのような彼の前に、ナザレのイエスと呼ばれる人物が現れたのです。このラビは他のラビとは全く違う。この先生こそ、答えを持っているに違いない。ついに彼は意を決して、イエスのもとを訪ねました。彼は勇気を振り絞って、一つのことを問うためにやってきたのです。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。
しかし、驚いたことに、イエス様の口から返ってきたのは何ら特別な答えではありませんでした。「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」(17節)。そして、イエス様は挙げられたのは、十戒のいくつかと、レビ記の言葉だけでした。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」。――そんなことなら、どこのラビでも言いそうなことです。しかし、この人は、なんとかして本当の答えをイエス様の口から引き出そうと粘ります。彼は言いました。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」。
この人は本当に知りたいのです。何をしたらよいかを知りたいのです。どんな善いことをしたらよいかを知りたいのです。涙が出るほど真面目な人です。しかし、その人に対して、イエス様はこう言われたのでした。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)。イエス様の言葉はこの青年の肺腑をえぐりました。この青年は、もうそれ以上主に問うことなく、悲しみながら立ち去って行きました。
よりによって、この裕福な青年にとって最も行うことが困難であると思えることを、あえて主は求められたのです。彼に対する意地悪でしょうか。いいえそうではありません。マルコによる福音書では、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」(マルコ10:21)と書かれているのです。意地悪ではない。彼を愛するが故に言われた言葉でした。では、イエス様の意図はどこにあったのでしょう。
「善いこと」ではなく「善い方」
そこで私たちはもう一度、青年とイエス様との対話の最初に戻りたいと思います。この人がイエス様に尋ねました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。それに対して、イエス様はすぐに「どうしたらよいのか」を答えておられないのです。その前に奇妙な一言が置かれているのです。
「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである」(17節)。――変だと思いませんか。この人は「善いこと」について尋ねているのです。それに対してイエス様は「善い方はおひとりだ」と言われる。明らかに食い違っています。しかし、この食い違いこそが決定的に重要なことを示しているのです。
この人は為すべき「善いこと」に関心があるのです。なぜですか。その「善いこと」をもって「永遠の命」を得ようとしているからです。言い換えるならば、神様と取り引きをしようとしているからです。自分の行う「善いこと」をもって、いわば「永遠の命」を買おうとしているのです。「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」とは、そういうことです。
しかし、イエス様は、「どんな善いことをすればよいのか」を教えるために来られたのではないのです。神様との効果的な取り引きの仕方を教えるために来られたのではないのです。そうではなくて、ただひとりの「善い方」を指し示すために来られたのです。私たちが、ただひとりの「善い方」と共に生きるようになるために来られたのです。
神が「善い方」だということは、言い換えるならば、私たちを愛していてくださる、愛なる御方だ、ということです。神は私たちを愛して、本当に善きものを豊かに与えたいと思っておられる。本当の喜び、本当の幸い、完全な救いを与えようとしておられる。永遠の命を与えようとしておられる。そのためには独り子さえもこの世に遣わされ、罪の贖いとして十字架にだっておかけになる。――「善い方」であるとは、そういうことです。そのような「善い方」である神を私たちが知り、そのような神の子どもたちとして、「善い方」共に生きるようになるために、イエス様は来られたのです。
この青年にも、自分の為しえる「善いこと」ではなく、「善い方」の方に向いて欲しかったのでしょう。だからあえて主は、この人にできそうもないことを言われたのです。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」(21節)。神様との取り引きを推し進めて行くならば、ここにまで至るのです。
自分で買おうと思うならば、全額支払わなくてはならない。いや、たとえ全財産を売り払って、貧しい人々に施したとしても、それで永遠の命が買えるわけじゃない。ですからイエス様は「そうすれば永遠の命を得られる」とは言われませんでした。「そうすれば、天に富を積むことになる」と言われただけです。神の救いは、人間の善い行いで買えるほど安物ではないのです。
そうではなく、救いは「善い方」からの一方的な恵みとして来るのです。大事なのは、神様が「善い方」だと知ることなのです。「善い方」を信じることなのです。「善い方」と共に生きて行くことなのです。
この話の直前には、イエス様が子供たちを祝福したという話が出ていました。イエス様はその時こう言われました。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」(14節)と。子供たちは神様と取り引きなどしないのです。「これだけのことを神様のためにしました」と胸を張ったりしないのです。
ただイエス様によって手を置いてもらって、神様に愛されていることを思いながら喜んでいる子供たち。目に見えるようではありませんか。こんな風に、私たちも「善い方」に信頼して、すべてを善意で満ち溢れている神の御業として受け取りながら、「善い方」の子供たちとして共に生きていくことこそ大事なのでしょう。
それが私たちに与えられている信仰生活なのです。週毎に集めていただき、共に礼拝をささげ、共に聖餐にあずかり、神に愛されている子供たちとしてこの世界に出て行く。そして、どこにあっても、どのような状態に置かれても、一日一日「善い方」と共に生きて行く。そのような生活が既に与えられているのです。
あの青年が悲しみながら立ち去った時、イエス様は弟子たちにこう言われました。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(23‐24節)。
「金持ち」とありますが、これは「富んでいる者」という言葉です。ですから、何も財産のことだけではありません。むしろこの人の場合、神様と取り引きができるくらい富んでいたのは、小さい頃から積み重ねてきた律法の行いと善行だったのかもしれません。彼はそれを手放して、何も神様に差し出すものがない、あの子供たちのようになる必要があったのです。そこでこそ、イエス様がこう言われた言葉が意味を持つのです。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」。そうです。神様にはおできになる。人間を救うことも、永遠の命を与えることもおできになる。そして、神様はそうしてくださる。神様は善い方だから。
そして、本当に私たちが為すべき「善いこと」というのは、「善い方」と共に生きる生活から生み出されてくるものなのです。本日の第2朗読にもありました。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(エフェソ5:1‐2)。
そのとき、ある場合には、イエス様が言われたように、全財産を処分して貧しい人々に施すということももしかしたら自発的に起こってくるかもしれない。様々なものを主の御名のために捨てることも起こってくるかもしれない。そのとき、その「善いこと」は、もうそれは、神との取り引きの代金などではないのです。