ルカによる福音書 2:1-20
ローマの平和
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(14節)。羊飼いに現れた天使たちはそのように歌いました。今日は特に、その後半、「地には平和、御心に適う人にあれ」という言葉を心に留めたいと思います。
「地には平和があるように」。そう天使は言いますが、しかし、ある意味では既に「平和はあった」とも言えます。その時代、ローマ帝国の領土には、後に「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」と名付けられる「平和」がありました。それは力によって、武力によって実現した平和でした。
その平和は今日の朗読に登場した、ローマの初代皇帝「アウグストゥス」によって確立されました。長い戦乱の世に終止符を打った彼は「救い主」とも呼ばれました。大きな力が支配する時、小さな争いは押さえ込まれます。戦争や紛争が無くなることが「平和」であるならば、確かにそこにはローマ皇帝という「救い主」によって実現した「ローマの平和」がありました。
しかし、もう一方において、そこには依然として「平和」はなかったとも言えます。ローマ皇帝が住民登録をせよとの勅令を出しました。人々は皆、登録をするために自分の町へ旅立ちました。奴隷も含めて全住民の数が調べられたのは、人頭税を課するためであったと言われます。それは、特に貧しい人々の上に、ずっしりと重い重荷を負わせることになりました。しかも登録のために、生活の場を離れて旅をしなくてはなりません。そのこと自体、多くの人々の生活が脅かされることを意味しました。力ある者によって力ない者がその生活を脅かされる社会。そこに「平和」はあると言えるのでしょうか。
それは単に権力を持つ者だけの問題ではありません。あの日の出来事を、聖書は次のように淡々と綴っています。「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2:6‐7)。
何一つ必要なものが揃っていないその場所で、産湯も使わせてもらうことなく、不潔な飼い葉桶の中に、産まれたばかりの赤ん坊が寝かされていました。側には命がけの出産を終えて、極度の緊張と疲労のためにぐったりとしている母親がいました。同じように緊張のために疲れ果てている父親がそこにいました。それは世にも悲惨な光景であったに違いありません。
「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。そう書かれていました。しかし、単純に場所がなかったということなのでしょうか。本当はただ泊まる場所がなかったのではなく、場所を分け合って、自分たちの居る場所を犠牲にしてでも、彼らのために場所を作ってやろうという人がいなかっただけなのでしょう。マリアが身重であるのは、誰の目にも明らかだったはずです。馬や牛じゃあるまいし、家畜小屋で簡単に赤ん坊を産み落とせるわけがありません。出産となれば、生死に関わることは、誰の目にも明らかだったはずです。しかし、みんな自分のことで精一杯だったのです。彼らのことは気にはなったでしょう。でも自分の場所を確保することの方が大事だったのです。――そこに本当に「平和」はあるのでしょうか。
今年の2月24日、ロシアはウクライナに本格的な軍事侵攻を開始しました。この一年は戦争の話題で持ち切りでした。ウクライナに起こったことは他人事ではないと多くの人は感じているのでしょう。そのような中で、日本政府は今後5年間で防衛費を43兆円に拡大することを閣議決定しました。43兆円はさておき、世論調査によるならば、何らかの形での軍事力拡大を支持する人は少なくないようです。それは時代の流れとしては当然の結果と言えるのかもしれません。しかし、その先に――本当の平和はあるのでしょうか。
キリストの平和
あの時、天使たちは神を賛美して言いました。「地には平和、御心に適う人にあれ」。「地には平和があるように」と天使たちがそう言っているのは、実際には、地に平和がないからなのです。「地には平和があるように」。そこに求められているのは、明らかに「ローマの平和」のようなものではありません。人間が力をもって、武力をもって実現できる平和のことではありません。天使たちが口にしているのは、神様が与えてくださる平和です。それはただ争いがないということではありません。神の救いによって、神によって与えられる平和です。それは神と共にある平和です。
それは神が特別に与えてくださる平和です。ですから「御心に適う人にあれ」と天使たちは言うのです。「御心に適う人」とは、「神に喜ばれている人」「神が喜びとする人」という意味です。そのような人に、神が平和を与えてくださる。天使たちは歌います。「地には平和、御心に適う人にあれ」と。
では「御心に適う人」「神が喜びとする人」とはいったい誰なのでしょう。――天使たちは「羊飼いたち」に現れて、その目の前で神を賛美してこう言ったのです。当然のことながら、「地には平和、御心に適う人にあれ。しかし、あなたたちはその中には入りません」ということではないでしょう。そうではなく、意味合いとしては「地には平和、あなたがた御心に適う人にあれ」ということです。
それはある意味で、とても不思議な言葉であると言えます。なぜなら当時の一般的な理解では、羊飼いたちは「御心に適う人」とは見なされない人たちだったからです。「御心に適う人」と言われるならば、真っ先に除外される人たち、それが羊飼いたちだったのです。
彼らはいわゆる宗教的な人々ではありませんでした。ユダヤ人としての宗教的な戒律をきちんと守っていた人々ではありません。そもそも仕事柄、そんな生活はできないのです。ですから羊飼いたちは汚れた人々と見なされていましたし、神から遠い人々と見なされていたのです。もちろん、自分たちもまたそう思って生きてきたのでしょう。「神様?関係ないね」と。
しかし、そのような羊飼いたちこそ、「御心に適う人」「神に喜ばれている人」と呼ばれ、神の与える平和、神の与える救いへと真っ先に招かれたのです。
それは、本来なら羊飼い自身にとっても不可解なことであったに違いありません。自分を「御心に適う人」とは思っていなかったでしょうから。しかし、羊飼いたちはこの天使の言葉を、大きな喜びをもって受け止めたのです。それはなぜか。既に聞いていた言葉があったからです。この直前に彼らが耳にしていたのは、こういう言葉でした。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(10‐12節)。
ローマ皇帝という「救い主」ではなく、神がお送りくださった「救い主」がお生まれになった。「《あなたがたのために》救い主がお生まれになった」という言葉を彼らは聞いたのです。自分たちは除外されてはいない。こんな私のためにも、救い主はお生まれになった。そのことを彼らは知らされたのです。そのしるしは、「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」でした。家畜が餌を食べる不潔なところに乳飲み子は寝ている、と。
「御心に適う人」と言うならば、もともとそう呼ばれるに相応しくないのは羊飼いだけではないはずです。乳飲み子を飼い葉桶に追いやった人間社会そのものが、そもそも相応しくないのです。そのように、御心に適わないことばかりをしている私たち人間です。神の喜びとされるどころか、神を悲しませるようなことばかりをしている私たち人間です。私たちが形づくっているのは、エゴイズムによって汚れた、汚い飼い葉桶のような世界です。
しかし、神はそれでもなお「救い主」を送ってくださったのです。神は私たちを喜びとしてくださったのです。だから家畜小屋のような、飼い葉桶のような私たちのこの世界のただ中に「救い主」を送ってくだったのです。乳飲み子をあえて飼い葉桶に寝かせられたのです。そして言われるのです。「地には平和、あなたがた御心に適う人にあれ」と。
私たちが相応しいからではありません。すべては神の恵みによるのです。ならば人間のなすべきことは、ただその恵みの招きに応えて、救い主のもとに行くことなのでしょう。羊飼いたちは言いました。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(15節)。
そして、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を見た彼らは、再び野宿していた場所に戻ります。しかし、ただ再び元の生活に戻って行ったのではありませんでした。「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」と書かれています。まことの「救い主」の与える平和が、「ローマの平和」ならぬ「キリストの平和」が、既に彼らの内に始まっていたのでした。そして、飼い葉桶の中の「救い主」を礼拝するために集まった、この私たちの内にも始まっているのです。
(祈り)
2022年12月25日日曜日
「地には平和、御心に適う人にあれ」
2022年12月21日水曜日
祈祷会用:ヨハネの手紙一 2:12~17
ヨハネの手紙一 2:12‐17
先週お読みした箇所には、「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません」(10節)と書かれていました。そして、その真逆についても、「しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです」(10‐11節)と書かれていました。
既にキリストによって神の愛が完全に現され、真昼の太陽のように輝き渡っているにもかかわらず、自ら目をつぶってしまうならば、暗闇の中を歩くことになります。「兄弟を憎む」とはそういうことであって、そのように闇の中を歩くならば、必ずつまずくことになるのです。いや、つまずくだけでなく、自分がどこへ行くかを知らずに進むことになる。それはつまずくことよりも怖いことです。暗闇の中を歩いてはならないのです。
しかし、ヨハネがこのように語るのは、教会の人たちを断罪するためではないことは言うまでもありません。彼は、既に恵みの中にある神の家族として語りかけているのです。既に神の恵みにあずかっているからこそ、このことを聞かなくてはならないのです。
それゆえに、ヨハネは「子たちよ」「父たちよ」「若者たちよ」と語りかけ、彼らが既にどのようなものとされているかを語り直します。これらの呼びかけは、教会の中のそれぞれの世代として考えることもできるでしょう。しかし、ここに書かれていることは、全てのキリスト者について共通に語られ得ることでもあります。その意味では全てのキリスト者が「子たち」、「父たち」、「若者たち」であるとも言えるのです。
まず、私たちは「子たち」であり「子供たち」です。12節と14節で訳語が違うのは元の言葉が違うからです。それらの言葉に大きな差はありません。しかし、「子たち」であり「子供たち」であるというのは、二つの面を持っています。一つは「親」に対する「子」ということです。もう一つは「大人」に対して「子供」であるということです。
私たちは、まず親に対して子であるという面を持っています。私たちは父なる神の子としていただいたのです。共に神を「アッバ、父よ」と呼ぶ者としていただいて、父なる神との交わりに入れられたのです。また、もう一方においては、まだ成長しなくてはならない者という意味でも子どもです。子どもが成長するためには教育や訓練が必要なように、信仰の成熟のための教育と訓練を必要としているのです。
そのような「子たち」であり「子供たち」である者として自覚しなくてはならないことがあります。それはまず「イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されている」(12節)ということです。罪は複数です。諸々の罪ということです。その罪の赦しはただ一重に「イエスの名」によるものです。なぜなら、イエス・キリストこそ唯一、罪の贖いを成し遂げることのできる御方であり、また事実、私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださった御方だからです。
そのイエス・キリストによる罪の赦しがあったからこそ、父の子として御父を知る者となることができたのです。「あなたがたが御父を知っているからである」と語られているとおりです。そのようにキリストによって罪を赦されて、その上で「子供たち」とされているのだ、という自覚が大事なのです。
次に「父たち」と呼びかけられています。「父たち」で直接的に呼びかけられているのは、群れに気を配り成長を助ける長老たちを指していると言えます。しかし、ある意味で私たちは皆、この「父」としての側面を持っているのです。さらなる教育と訓練を必要とし、さらに成熟していかなくてはならない「子ども」であるだけでなく、他の子どもたちのケアをし、成熟を助ける「父」としての側面を持っているのです。というのも、教会には新しい信仰の子どもたちが絶えず生まれ続けるからです。何年信仰生活をしていても自分の信仰のことだけで精一杯、というようなことで良いはずがありません。
「父たち」に対しては繰り返し、「あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである」と言われています。「初めから存在なさる方」というのは、この手紙の冒頭に書かれているように、御子なるイエス・キリストのことです。その御方を「知っている」。「知る」というのは、御父についても言われていますが、これは単なる知的認識ではありません。交わりです。私たちが、他の子どもたちに対して「父」としての側面において生きるために、どうしても重要なことはキリストを知っている、キリストとの交わりにあるということなのです。ともすると間違えやすいのですが、私たちの能力や私たちの人生経験によって、他の子どもたちのケアをし成熟を助けるのではないのです。
第三「若者たち」と呼びかけられています。これはキリスト者における「戦う者」「戦士」としての側面です。私たちはただ単に、この人生を平安に生きることができるようにと信仰へ導かれたのではありません。そうではなくて、戦うために召されたのです。この世を支配している悪魔の力と、人間を捕らえて離さない罪の力と戦うために召されたのです。人間を闇の力から救い出し、御子の支配下に取り戻すための戦いです。かつて誰かが戦士として戦ってくださったからこそ、今の私たちがあるのです。今度は私たちが主の戦列に加わる番です。その点においては、実際に年齢的に若者であるか否かは関係ありません。
そこで重要なのは若者たちに繰り返し語られていることです。「あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである」。私たちの目にはまだ戦いが進行中に見えます。いやそれどころか形勢不利にさえ見えることもあるのです。しかし、ヨハネは言います。「既に勝っている!」と。それは既にイエス様が十字架と復活において、決定的な勝利を取ってしまわれたからです。それゆえに私たちの戦いは、キリストによって私たちが既に悪魔に打ち勝っているその勝利の現実が目に見える形で現れるための戦いのです。
それは私たち自身の強さによるのではなく、ただ福音の力によってのみ実現するのであって、それゆえに二回目に「若者たち」に語られる時には、「若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが強く、神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである」と書かれているのです。あくまでも福音が内において生きていること、神の言葉が内に留まっていることが重要なのです。
さらに15節では「世も世にあるものも、愛してはいけません」と勧められています。既に述べられたように、私たちは「子ども」であり「父」である「若者」です。そのような者としてこの世に生きるように召されているのです。御子が肉体をとってこの世を生きられたように、私たちもこの世に生きるのです。グノーシスの異端の人々のように、肉体から解放された霊の人にとってもはや肉体が何を為すかは問題ではないのだ、などとは言いません。あくまでもこの世にあって、この体をもって責任的に関わって生きるのです。
それゆえにまた、この世においてどう生きるかが重要になってくるのです。この世とどのように関わるかということです。世にあるものが神から私たちを引き離すことを許してはならないのです。
実際、ヨハネが「世」と言う時に、それは多くの場合悪魔が支配しているこの世を意味するのであって、ここで語られているのもそういうことです。悪魔が支配しているこの世は、確かに人間を神から引き離すものとして働くのです。神から出たのではない、すなわち悪魔から出た「肉の欲、目の欲、生活のおごり」が神から人間を引き離すものとして働くのです。それはキリスト者にとっても、そのように働くのです。ですから、「世も世にあるものも、愛してはなりません」と語られているのです。
しかし、それは世と一切かかわりを持たない「世捨て人」になることを意味しません。繰り返しますが、キリスト者はこの世に責任的に関わって生きるのです。そこで思い起こすべきは最後の晩餐におけるキリストの祈りでしょう。主はこう祈られました。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」(ヨハネ17:15‐18)。世を愛さないとは、世を捨てることではなく、世に遣わされた者として常に神の御心を尋ね求め、「神の御心を行う人」(17節)となっていくことなのです。
(祈り
2022年12月18日日曜日
「お言葉通り、この身になりますように」
ルカ1:26‐38
この世界に先駆けて
本日の福音書朗読において読まれましたのは「受胎告知」として知られている場面です。今日、礼拝後にページェントが上演されますが、この場面が子どもたちによって演じられます。
ここに出て来る一人の女性、マリア――それはある特定の個人でありますが、同時に、ある象徴的な存在でもあります。マリアに起こった出来事は、ある意味でこの世界に起こることの「先駆け」とも言えるからです。
マリアに告げられたのは救い主がマリアの胎に宿ったという知らせでした。そして、やがて時満ちて救い主がこの世に誕生することになります。するとこの世界が救い主を宿す世界となるのです。マリアの胎に宿り、そしてこの世界に宿った。その意味でマリアに起こった出来事は、この世界に起こることの先駆けです。
そう考えますと、マリアはここで「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」という言葉を聞いているのですが、マリアは世界に先駆けてそれを聞いているとも言えます。これはやがて救い主の誕生において神がこの世界全体に語ろうとしていることでもあるのです。「おめでとう。主があなたと共におられる」。
「主は共にいてくださる」とはどういうことでしょう。それは「罪に満ちたこの世界」と共にいてくださるということです。人間同士が互いに傷つけあい、殺し合っているこの世界。そのようにして人間が自らを暗闇の中に閉じ込めているこの世界。しかし、神はこの世界を決して見捨てない。「主は共にいてくださる」とはそういうことです。ならば、この世界はもはや希望のない滅びゆく世界ではありません、救い主を宿した世界、主が共にいてくださる世界です。私たちの人生もまた希望なく虚しく死に向かう人生ではありません。主が共に生きてくださる人生なのです。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。マリアは確かに聞きました。この世界に先駆けて、神の救いを知り、神の恵みを知ったのです。ですから、今日はお読みしませんでしたが、この同じ章に、マリアの讃美の歌が記されているのです。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と彼女は歌うのです。
さて、ここにいる私たちもまた、ある意味ではこのマリアと同じことをしていると言えるでしょう。この世界に告げ知らされるべき良き知らせを、マリアと同じように世界に先駆けて聞いているのです。そして、救いの神を賛美しているのです。教会とはそういうものです。信仰生活とはそういうものです。救い主が来られたことを告げられ、「主があなたと共におられる」という恵みの言葉を告げ知らされ、世界に先駆けて主を賛美し、主と共に生き始める。それが信仰生活です。
実際、まだこの世界全体が救い主の到来を喜び祝っているわけではありません。確かに街はクリスマスのデコレーションで飾られています。しかし、皆が救い主の到来を祝っているわけではありません。そのようなこの世界の中で、私たちはこの世界に先駆けて、まず先に、こうして救い主の到来を祝います。主が共にいてくださることを喜び、マリアのように讃美の歌を共に歌うのです。その意味では、ここに描かれているマリアという存在は教会を象徴的に表していると言うこともできるでしょう。
主があなたを用いられる
しかし、「主があなたと共におられる」という言葉を聞くということは、ただこの世界に先駆けて主の救いと恵みを知るということに留まりません。ただ先に主の救いを讃美する者となるということに留まらないのです。
マリアに与えられたお告げは、単に喜ばしい知らせに留まりませんでした。マリアに告げられたのは、救い主の誕生だけではありません。彼女はキリストの母として生きていくことになるのです。これは神様が彼女の人生を用いようとしているというお告げに他なりませんでした。「主があなたと共におられる」とは、そのことをも意味しているのです。「あなたを用いようとしておられる主が共におられる」ということでもあるのです。
天使はマリアのところに、ある意味では全く想定外の人生を一方的に携えてきたと言えます。マリアは、ヨセフと婚約していました。彼女は幸せな家庭を夢見ていた、ごく普通の乙女であったに違いありません。しかし、そのようなささやかな望みが、この天使の言葉で、打ち壊されてしまいました。天使はこう告げたからです。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」(31節)。
マタイによる福音書によれば、いいなづけであるヨセフは「ひそかに縁を切ろうと決心した」(マタイ1:19)と書かれております。当然、そうなるでしょう。マリアにしてもヨセフにしても、この受胎がユダヤの社会においてどのように受け止められるかをよく知っていたはずです。そして、これはマリアが全く想定していなかった、波乱の人生の始まりに他なりませんでした。
そして、明らかなことは、天使ガブリエルは、これらすべてについて、マリアの意向を打診しに来たのではないということです。「受け取りますか」と言っているのではないのです。天使はあくまでも告知するために来たのです。
さて、このような天使が現れてお告げを伝える場面は、ページェントの一場面としては良いけれど、実際には非現実的な話に聞こえるかもしれません。私たちの現実の生活と無関係に思えるかもしれません。しかし、考えてみますと、これは極めて現実的な話であり、私たちと深く関わっている話なのです。
実際どうでしょう。私たちの人生には想定外のことはいくらでも起こります。思いがけない重荷を背負わされること、険しい道のりを歩かされるようなことも起こります。その時に「受け取りますか」と打診されることはありません。こちら側の意向とは関係なく、一方的に与えられるのです。
それはまさに天使がいきなり携えてきて、一方的に告知するようなものではありませんか。要するに、私たち凡人には天使が見えたり、その声が聞こえたりしないだけの話で、起こっている事自体は私たちに起こっていることと基本的には同じなのです。人生とはまさにこういうものなのです。
そこでもし、「幸福とは、自分の願った通りに生きられることだ」と考えるならば、自分の願っていないことが一方的に与えられるということは「不幸」なことでしかないと言えるでしょう。そして、そのように考えているかぎり、人は決して幸福にはなれないとも言えます。なぜなら人生には、自分の願わないことが一方的に与えられることのほうが遙かに多いわけですから。年齢を加えていけば思い通りにならないことの方が圧倒的に多くなります。最後に必ず迎える死は、それこそ人間の思い通りにならないことの最たるものでしょう。
しかし、マリアが聞いたのは、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」という言葉だったのです。彼女は、想定外の人生を与えられましたが、不幸な人ではありませんでした。主が彼女と共にいて、彼女を用いようとしておられたからです。何のために?――人間の救いのために。この世界の救いのためにです。「主があなたと共におられる」とはそういうことだったのです。
お言葉どおり、この身になりますように
そこでマリアはどうしたでしょうか。彼女はこう言ったのです。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)。これが「主があなたと共におられる」というお告げに対するマリアの応答でした。マリアは、共におられる主に、自分の体を差し出したのです。自分の人生を差し出したのです。神のために。そして、この世界のために。そして、私たちは知っています。主は確かにマリアの体と人生を、この世界の救いのために用いられた。その生涯は永遠の意味を持ったのだ、と。
先ほど申しましたように、マリアは教会の原型でもあります。信仰に生きるとはどういうことかを指し示している存在です。私たちはこの世界に先駆けて「主はあなたと共におられる」という言葉を聞きました。そのような私たちを主は用いようとしておられるのです。この世界に「主はあなたと共におられる」ということを現わすために、この世界に主の救いを現わすために、主は私たちと共におられて、私たちを用いようとしていてくださるのです。
そこで、私たちに必要なことは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と言って、自分自身を差し出すことだけなのです。私たちは何ができるか、何を持っているか、若いか年老いているか、健康であるか病気であるか――関係ありません。必要なことは、ただ自分を差し出すことです。
(祈り)
2022年12月14日水曜日
祈祷会用:ヨハネの手紙一 2:7~11
ヨハネの手紙一 2:7‐11
前回お読みしたところにこう書かれていました。「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」(2:3‐4)。
ここに語られている「神を知っている」と言っている人というのは、先週触れました、後にグノーシスと呼ばれる異端の人々のことです。彼らは神を知り、肉体の牢獄から解放されるための特別な知識(グノーシス)を得ていると主張していたのです。彼らは自らを「霊の人」と呼びました。しかし、「霊の人」として、肉体から解放されているという思想のゆえに、肉体が行うことについて責任を持たないことが正当化されていたのです。不道徳に身を任せ、目に見える兄弟をも愛することなく、この世における倫理的な責任をも放棄してしまっている。そのような人々について、実際に神の掟を守っていないなら、どうして「神を知っている」と言えようか、とヨハネは言っているのです。まさにそのような生活が異端の内に真理がないことを暴露しているのだ、と。
異端の人々についてこのように語っているのは、教会の中にいまだにその教えに惹かれている人たちが少なからずいたからです。それゆえに、ヨハネは彼らに「神の掟」が何であるかを改めて思い起こさせます。ここで語られているのは、キリストが最後の晩餐の時に語られた、「新しい掟」のことです。すなわち「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と主が言われたことです。
教会の人たちは、その言葉を既に良く知っているはずです。ですから、ヨハネは「これは初めて語られることではありません」という意味で、次のように語ります。「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です」(7節)。
しかし、ヨハネはこの既に教会の人たちが聞いたことのある言葉を、改めて新しく語り直さなくてはならないと感じています。「しかし、わたしは新しい掟として書いています」(8節)と言うのです。もちろん「新しい掟」という表現を最初に使ったのはイエス様御自身です。しかし、ヨハネは、あの時なぜイエス様があえて「新しい掟」と言われたのか、そのことを思い起こさせようとしているのです。それが「新しい掟」であるのは、イエス様にとっても真実であり、それはまた教会の人たちにとっても真実であるはずだからです。
その新しさとは何だったのでしょう。ヨハネは言います。「闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」(8節)。「闇はもう去ってしまった」と言える、決定的な出来事が既に起こったのです。それは言うまでもなく、イエス・キリストの十字架と復活を指しています。
後に、その決定的な出来事についてヨハネはこう書いています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:9‐10)。
「闇が去って、既にまことの光が輝いている」とは何を意味するのか、もう明らかでしょう。1章5節には「神は光である」と書かれていました。その光とは、さらに言うならば神の愛の光なのです。イエス・キリストを通して現してくださった、神の愛の光なのです。その光は既に現され、ちょうど太陽が昇った後のように私たちを照らしているのです。
そのように神がまず私たちを愛してくださったという決定的な出来事の光の中で、「あなたがたは互いに愛し合いなさい」と言われているのです。ただ「愛せよ」と命じられているのではないのです。そこにこそ新しさがあるのです。イエス様が「新しい掟」と言われ、ヨハネが改めて「新しい掟として書いています」というのは、そういうことです。
そのように、神の愛が完全に現され、「闇が去って、既にまことの光が輝いている」という中にあるにもかかわらず、そこでなお神の光を退け、「互いに愛し合いなさい」という新しい掟を退けるということは、何を意味するのでしょう。それはちょうど、太陽が既に昇っているにもかかわらず、部屋の窓を閉め、カーテンを引いて、部屋を真っ暗闇にしているようなものではありませんか。
あるいはもっと適切な例を挙げるなら、既に明るい中を歩いているはずなのに、あえて自ら目をつぶって、その本人としては真っ暗闇の中を歩いているようなものです。ですからヨハネはこう言うのです。「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」(9節)。
誰でもそうだと思うのですが、神秘的な体験や神のリアリティに触れるような体験をした人は自分が「光の中にいる」ような思いになるのです。「他の人に見えないことが、わたしには見えている」と思うのです。現に異端の人たちは「光の中にいる」と主張していたのです。しかし、それが目に見える兄弟を愛することにつながらないで、相変わらず憎んだり争ったりしているならば、実際には、既にまことの光が輝いているにもかかわらず自分を暗闇の中に閉じこめてしまっているようなものなのだ、と聖書は語っているのです。
さて、そのように暗闇の中に自分を閉じこめてしまうならば、何が起こるでしょうか。実際に、目をつぶったまま歩いたり走ったりしたら何が起こるかを考えてみてください。必ず何かにつまずくことになるでしょう。ですからヨハネはこう言うのです。「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです」(10‐11節)。
「つまずく」というのは、もちろん信仰がつまずくことです。信仰がつまずいて神からも離れてしまうことです。光の中にいるならばつまずかないのです。しかし、愛することを止めて、憎しみが支配するならば、つまずくようになります。実際にそうではありませんか。信仰がつまずくときは、たいてい他の人との関係においてつまずくのです。そのような時、「誰かのせいでわたしはつまずいた」と思うのです。しかし、聖書によればそうではなくて、愛することを止めて、暗闇の中に身を置いたからつまずくのです。
いやつまずくだけだったら、まだ良いのです。そこにはもっと恐ろしいことが書かれています。「兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません」(11節)。目をつぶったまま、歩き続けていたり、走り続けている姿を考えて見てください。すぐにつまずいて倒れたなら、まだ良いのでしょう。そうではなくて、そのまま走って行ってしまうなら、それこそ恐ろしいことになります。その先には崖があるかもしれません。そのように兄弟を憎むという暗闇の中にあって、どこへ行くかを知らないまま進んでいくならば、何が先に待っているか分からないのです。それは滅びへと向かうことになってしまうかもしれません。憎しみを抱いたまま先へと進んでいくということは、そういうことなのです。
もとより理由なく誰かを憎むということはあり得ません。そこには必ず何らかの理由があるのでしょう。理由があって憎んでいる場合、自分は正しい側の人間になっているはずです。しかし、その正しさを主張したまま先へ先へと進んでいくことは、極めて危険なことなのです。暗闇の中にある人は、自分がどこへ行くかを知らないからです。闇の中にいることを知ったなら、立ち止まらなくてはなりません。暗闇の中を歩いたり走ったりしてはなりません。まず光の中に立ち戻ることが先決なのです。
(祈り)
2022年12月11日日曜日
「神と共に喜ぶ時が来る」
ゼファニヤ書 3:14‐17
「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ」。今日の第一朗読において、そのように呼びかけられています。今日お読みしたのは、全体で3章しかない短い預言書、ゼファニヤ書でした。今日はこのゼファニヤ書を一緒にお読みしたいと思っております。
「娘エルサレムよ、心の底から喜び踊れ」――しかし、この短い預言の書そのものは「喜び踊れ」という呼びかけから始まっていたわけではありません。実は、この預言書は裁きの言葉から始まるのです。
地の表からすべてのものを一層する
1章をお開きください。「わたしは地の面からすべてのものを一掃する、と主は言われる」(1:2)。これがこの書に記されている最初の預言の言葉です。この世界全体に対する神の裁きの預言です。次のように続きます。「わたしは、人も獣も取り去り、空の鳥も海の魚も取り去る。神に逆らう者をつまずかせ、人を地の面から絶つ、と主は言われる」(1:3)。この激しい裁きの言葉は、ノアの箱舟の物語を思い起こさせます。かつて主はノアに言われました。「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」(創世記6:13)。
そのように全世界に対して神が裁きを宣言なされるのは、全地に罪が満ちているからです。神の御前においては、すべての人間には罪がある。しかし、神はその矛先を神の民イスラエルに向けられます。彼らもまた、この世界のただ中にあって例外ではないということです。それゆえに、この世界がどうであるかという以前に、まず神の民イスラエルがどうであるかを主は問題とされるのです。
主は言われます。「わたしは、ユダの上とエルサレムの全住民の上に手を伸ばし、バアルのあらゆる名残とその神官の名声を、祭司たちと共に、この場所から絶つ。屋上で天の万象を拝む者、主を拝み、主に誓いを立てながらマルカムにも誓いを立てる者、 主に背を向け、主を尋ねず、主を求めようとしない者を絶つ」(1:4-6)。
ここを読みますと、その具体的な罪が何であったかがはっきりと語られています。そこにはカナンの豊穣神礼拝、バアル礼拝がありました。また、アッシリアの影響下にあって天体が神として礼拝され、その祭壇が主の神殿の中にまで置かれておりました。その他にも、ソロモンの時代から連綿と続くアンモン人の神マルカムへの礼拝が行われていました。
彼らは「主(ヤハウェ)」を礼拝していなかったわけではありません。「主も」礼拝していたのです。しかし、何でも礼拝の対象とするということは、要するに本質的には神そのものには関心がないということを意味します。信じて礼拝する対象は何でもいい。それよりも、何を得られるかが重要だということです。
ですから、彼らは「主を尋ねず、主を求めようとしない者」と呼ばれているのです。そのように主を求めようともしていないのですから、主が現実的にこの世界に介入されることをも信じてはいません。そんな彼らが主を侮って語った言葉が12節に引用されています。彼らは言うのです。「主は幸いをも、災いをもくだされない」(1:12)と。
しかし、主は侮られる方ではありません。「そのときが来れば、わたしはともし火をかざしてエルサレムを捜し、酒のおりの上に凝り固まり、心の中で『主は幸いをも、災いをもくだされない』と言っている者を罰する。彼らの財産は略奪され、家は荒れ果てる。彼らは家を建てても、住むことができず、ぶどう畑を植えても、その酒を飲むことができない。主の大いなる日は近づいている。極めて速やかに近づいている。聞け、主の日にあがる声を。その日には、勇士も苦しみの叫びをあげる。その日は憤りの日、苦しみと悩みの日、荒廃と滅亡の日、闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である」(1:12-15)。
さて、このような激しい裁きの言葉が見られるのは、何もゼファニヤ書に限ったことではありません。そして、そのように怒りを露わにして語られる神、災いを下すことを宣言し、国家の滅亡を予告する神の姿に、抵抗を覚える人もあろうかと思います。
しかし、神がただ怒りをもって災いを下し、国家を滅亡させることを望んでおられるならば、本来、このような預言の言葉など必要ないのです。何も言わずに災いを下し、国家を滅亡させたらよいのでしょう。しかし、聖書の神はそうされないのです。預言者を通して、あえて裁きの預言を語られ、人々に呼びかけるのです。
それはなぜですか。主が望んでいるのは彼らが滅びることではないからです。主が望んでおられるのは悔い改めなのです。厳しい裁きの預言の背後にあるのは、罪人が滅びることを望まれない、神の憐れみなのです。
しかし、人間は悔い改めへの呼びかけにさえ耳をふさぐのです。耳を傾けようとはしない。そこにこそ人間の罪の最も深い闇があるのです。彼らは耳を傾けませんでした。3章において次のように語られています。「災いだ、反逆と汚れに満ちた暴虐の都は。この都は神の声を聞かず、戒めを受け入れなかった。主に信頼せず、神に近づこうとはしなかった」(3:1)。
そこで主は改めて裁きを宣言されます。「わたしは諸国の民を集め、もろもろの王国を呼び寄せ、彼らの上に、憤りと激しい怒りを注ぐことを定めたからだ」(3:8)。そして、その言葉の通り、ユダの王国は紀元6世紀に滅亡することになりました。
娘シオンよ、喜び叫べ
さて、これが今日朗読された聖書の言葉の背景です。神に背き続けたユダ王国の滅亡です。それは国家規模の災いです。人が災いに遭ったとき、そこに起こるのは「嘆き」です。それは国家規模の大きな災いであろうが、一人の人生に起こる災いであろうが変わりません。災いにおいて起こるのは嘆きです。
しかし、災いにおいて生じる「嘆き」には二通りあります。一つは、災いそのものを嘆く嘆きです。失ったものを思っての嘆きと言っても良いかもしれません。国を失ったこと、エルサレムの都と神殿を失ったこと、それまでの平穏な生活を失ったこと、将来の夢と希望を失ったこと、彼らの嘆きは尽きなかったと思います。そのような嘆きは多かれ少なかれ私たちにも経験があります。
しかし、もう一つの嘆きがあります。それは災いにおいて、在りし日を振り返り、自らの生きて来た道筋を振り返り、自らの罪を嘆く嘆きです。神に背いてきたこれまでの歩みを嘆く嘆きです。
1章から見て来たゼファニヤの裁きの預言が、今もこのように読むことができるのは、実際に国家が滅亡した後にも後生大事に保存し、伝えてきた人々がいたからです。彼らは何を考えてそうしたのでしょう。彼らの嘆きはどのような嘆きだったのでしょう。
彼らは災いにおいて、イスラエルの歩んできた道筋を振り返ったのです。そして、神の呼びかけに背を向けてきた自らの罪を思ったのです。彼らの嘆きは、ただ災いそのものを嘆く嘆きではありませんでした。そうではなくて、神に背いて生きて来た、自らの罪を嘆く嘆きだったのです。だからこそ、神の裁きの言葉を残したのです。そして、そのような嘆きには希望があるのです。なぜなら、人間は過去に帰ることはできないけれど、生きる方向を変えて神に帰ることはできるからです。
そして、そのように自らの罪を嘆き、神に立ち帰る人々に対して、今日お読みした14節以下の言葉は語られているのです。
「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。主はお前に対する裁きを退け、お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない」(3:14‐15)。彼らは確かに災いを味わいました。しかし、それは神から見捨てられたことを意味しませんでした。災いを経てなお、神はイスラエルの王として、彼らのただ中にいてくださる。そのように主は言われるのです。
そして、さらに驚くべきことが語られています。それは王なる主がこのことを誰よりも喜び楽しんでいるという描写です。「その日、人々はエルサレムに向かって言う。『シオンよ、畏れるな、力なく手を垂れるな。お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる』」(同16‐17節)。
これがこの預言者の冒頭において「わたしは地の面からすべてのものを一掃する」と語られ主に他ならないのです。ユダに怒りを注ぎ、エルサレムを破壊されるにまかせた神に他ならないのです。言い換えるならば、激しい裁きの言葉と下された恐るべき災いというそのすべての背後に隠されていた神の真意が、ここに至って明らかに語られているのです。
私たちはここを読みますとき、イエス様がたとえ話をもって語られたことを思い起こします。一匹の羊を見いだしたゆえに狂喜する羊飼い。一枚の銀貨を見いだしたゆえに「一緒に喜んでください」と近所中を駆け回って人々を呼び集める女。息子が帰ってきたと言って、老いた体を揺さぶりながら走り寄り、首を抱きかかえ接吻をし、さらには大きな祝宴を催す父親。そのようにイエス・キリストが神の独り子として父の心を語り出す600年以上も前に、既に旧約の預言者がその神の御心を知り、語っていたのです。
さて、私たちは待降節においてこの箇所を読んでおります。再臨のキリストを待ち望む私たちは、やがて裁き主であるキリストが来られ、全地に最終的な正しい裁きがなされることを信じています。そこにおいて、私たちが思い起こさなくてはならないのは、預言者が目を向け、そしてキリストが目を向けていた、神の真意です。一人の罪人が立ち返るならば、天において大いなる喜びがある!神の喜びが天に満ち溢れ、その喜びを私たち自身もまた与って共に喜ぶ時が来ることを信じて、主を待ち望み、共に仕えたいと思います。
(祈り)
2022年12月7日水曜日
祈祷会用:ヨハネの手紙一 2:1~6
ヨハネの手紙一 2:1‐6
先週からヨハネの手紙の学びに入りました。ヨハネは自分たちが見、また聞いたこと、すなわちイエス・キリストを伝えようとしています(1:3)。しかし、この手紙が宛てられている人々に関して言うならば、実はもう既にキリストを知っている人、キリストを信じている人なのです。5章13節を御覧ください。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」
そのように、この手紙は、既に信者である者に、改めて福音を語り直している、そのような手紙であることが分かります。特に、冒頭から明らかなように、ヨハネはイエス・キリストが「目で見たり、手で触れた」りすることができたこと、すなわちキリストの受肉を強調しています。また、今日お読みしたところに、キリストが受肉したのは「全世界の罪を償ういけにえ」となるためであったことが書かれていまして、それは4章でも繰り返されています。
そのような福音の基本的な事柄が語り直されているのは、教会の信仰が危機に瀕していたからです。既にペトロの手紙の学びにおいても見てきましたように、教会は外からの迫害だけでなく、内側から崩壊させる力を持つ異端の教えによる危機に直面していたのです。キリストの受肉や罪の贖いが語り直されているのは、現実には受肉や贖罪を否定する人たちがいたからなのです。
後にその異端はグノーシスと呼ばれるようになり長い間教会を苦しめることになります。その教えの特徴を簡単に申し上げますと、その根底にあるのは霊肉二元論です。霊的なもの精神的なものは善であり実在し、物質的なものは悪であり本当は実在などしないとする考えです。ですからキリストが物質的な肉体をとられたとは信じません。肉体を持って死んだのも「そのように見えただけ」とするのです。ですから罪の贖いをも信じない。キリストは十字架にかかるために来られた御方なのではなくて、目に見えない霊の領域から目に見える肉の領域に降って来た神であり、人間の魂を牢獄である肉体から解放して霊の領域に帰らせるために来られ、自分自身もまた霊の領域に帰っていく神なのです。
彼らはこの解放者であり啓示者であるキリストによって救いの知識(グノーシス)を得て、肉体の牢獄から解放され、神との神秘的な合一を得た霊的な人になっていると考えました。そのような人にとっては物質的な肉体が何を行うかということは本質的に重要なことではなかったのです。ですから、いくらでも不道徳に甘んじることができたし、当然、この世における倫理的な責任を果たす必要もなかったのです。
そのようなグノーシスの異端というものは、形を様々に変えながら、今日に至るまである意味では続いていると言えます。キリストの受肉も十字架をも必要としない信仰。ただひたすら神秘的な体験とそれによる特別な知識を求める信仰。そして、それを得たら何か特別な人間にでもなったかのように考える。その一方において、目に見える世界を意味無しとするゆえに、自らの罪の問題とは向き合わず、悔い改めを重要なこととも考えない。この世における責任ということも考えない。現実の体をもって他の人々と共に生きるということも重要に考えない。そのような信仰のあり方が、いくらでも教会に入ってくることはあり得るのです。だからこそ、改めて福音が語り直されなくてはならなかったのです。
そこでヨハネは言います。「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです」と。この手紙において、「罪を犯す」という言葉は、狭い意味においては、既に述べてきた異端に転じないということを指しています。しかし、それはまた広い意味においても「罪を犯さないようになるため」ということでもあります。先にも触れましたように、グノーシスの異端は罪の問題と向き合う感覚を麻痺させてしまうからです。それは、神と交わりを持っていると言いながら、罪に目を向けないで済む暗闇の中を歩いているようなものなのです。ですからヨハネは光の中を歩くようにと語るのです。光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められることを語るのです。それは「罪を犯さないようになるため」なのです。
そこでさらにヨハネはさらに次のように語ります。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」(1‐2節)。
「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者…がおられます」は、それだけ取り出して読めば、罪の容認に見えなくもありません。確かにイエス・キリストが罪を償ういけにえであるという教え、ただイエス・キリストを信じる信仰によって義とされるという教えは、罪を許容する教えであるかのように誤解される危険はありますし、また実際に誤解されてきたことも事実です。しかし、それでもなおこれは本来、私たちが「罪を犯さないようになるため」に与えられているものなのです。
御父のもとには弁護者がおられることを知らないゆえに、また、全世界の罪を償ういけにえが既に屠られたことを知らないがゆえに、人は光なる神を遠ざけて暗闇の中に逃げ込むのです。現実と向き合わなくなるのです。罪が現実にあるのに、その罪の問題と向き合わなくなるのです。
そのように光の中を歩み、感謝をもって神の御心を行うようになることこそ、神を知るということなのです。ただ神秘的な神との合一を求め、そのような体験によって神の知識を得たと思っても、それは本当の意味で神を知っていることにはならない。それゆえにヨハネは言います。「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。 『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」(3‐4節)。
「掟」という言葉は、一般的に肯定的な印象を与えない言葉でしょう。しかし、これを読んでいた教会は、それが何を意味するか分かっていたのです。その掟とは――「愛すること」です。互いに愛し合って生きることなのです。次の章にはこう書かれています。「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(3:23)。さらにこうも言われています。「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(4:21)。
この掟はイエス・キリストに由来します。最後の晩餐の席において、イエス様は弟子たちに言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。そのように、神の掟を守ることの中心にあるのは互いに愛し合いなさいというキリストの掟です。
神を知るということと愛するということは不可分の関係にあります。それは御子として御父との交わりの中に生きられたイエス様御自身が示してくださったことです。イエス様は父なる神の内にあり、父との交わりの中に留まるということがどういうことかを見せてくださいました。それゆえに、ヨハネはこのように記しているのです。「神の内にいつもいる(留まる)と言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まねばなりません」(6節)。イエス様は自ら肉となられてこの地上の世界を歩まれ、具体的に目に見える世界と目に見える現実の人間を愛して生きられたのです。
(祈り)
2022年12月4日日曜日
「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに」
イザヤ書 55:1-11
渇いている者は来るがよい
今から2600年ほど前の話です。かつて繁栄を極めたユダ王国の都エルサレムは、今や無残な廃墟となっていました。バビロニア軍によってユダ王国は滅ぼされ、エルサレムは破壊され、主だった人々はバビロンに捕らえ移されていったからです。
それから50年近くの月日が流れました。時代は変わりました。バビロニアに代わって古代オリエント一帯をペルシアが支配する時代となりました。支配者の交代――それはバビロンに捕らえ移された捕囚の民にとって決定的な意味を持つことになりました。というのも、バビロンを征服したペルシアの王キュロスの統治の仕方はそれまでのものとは全く異なっていたからです。彼は占領下にある諸民族を支配するに当たり、それぞれの民族の文化と宗教を重んじるという政策を採りました。その結果、バビロンに捕囚となっていたユダの人々もまた、ユダの地に帰還し、エルサレムを再建することが許されたのでした。
今日の第一朗読は、そのような時代を背景として語られた言葉です。主は預言者を通して語られました。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」(1節)。
これは何を意味するのでしょうか。ただ祖国に帰れる時が到来したのではない、ということです。そうではなくて、神のもとに帰るべき時が来たのです。今までの生活を後にして、渇きを癒す水のもとに行くべき時が来たのです。魂の飢えを満たしてくださる神のもとに帰るべき時が来たのです。いわば、信仰の生活をもう一度建て直すべき時が来たということです。
バビロンが与えてくれるものを追い求める時代は終わりました。もう既に彼らは知っていたはずなのです。バビロンから何を得たとしても、何をもって自分を満たそうとしても、本当の飢え渇きはこの世からのものでは満たされないということを。主も言われるのです。「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか」(2節)と。
本当の満たしは主から来るのです。主は言われます。「わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」(3節)。いや、それだけではありません。さらに主はこう続けます。「わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」(同)。「《とこしえの》契約」です。それはすなわち、ぜったいに関係が切れないということです。主は絶対に見捨てられない。そのような関係に入れられるということです。
これらの言葉がバビロンの捕囚民にどれほど大きな意味を持っていたかを改めて思います。現実に彼らがバビロンを後にしてエルサレムへと帰還するとするならば、そこには様々な困難が予想されるでしょう。不安や恐れもあることでしょう。しかし、それでもなお彼らは旅立ったのです。それは単に祖国への旅立ちではなく、まさに主のもとへと立ち帰る旅立ちだったのです。主のもとにこそ良きものがある。主のもとにおいてこそ魂は豊かさを楽しむことになる。主のもとにおいてこそ、魂に命を得るのだ。そして、我らは永遠に失われることのないとこしえの関係に生きるのだ。彼らの旅立ちは、そのような信仰生活の再建へと向かう旅立ちに他ならなかったのです。
近くにいますうちに
しかし、そのようにエルサレムへと帰還した捕囚民を待ち受けていたのは、予想していたとはいえ、実に厳しい現実でした。彼らが目の当たりにしたのは崩れ落ちた城壁であり、焼け落ちた神殿でした。
廃墟となったエルサレム。しかし、そこで彼らが直面したのは単に生活上の困難ではありませんでした。そうではなく、彼らが改めて目にしたのは、イスラエルの罪とその結果だったのです。彼らが目の当たりにしたのは、神に背き続けるということが、どれほどの悲惨をもたらすのかという現実だったのです。彼らは神の呼びかけに背き続けた先祖の罪を思ったことでしょう。しかし、それは彼らにとって他人事ではなかったはずです。彼らは自らの罪、バビロンで生きてきた自分たちの罪をも思わずにはいられなかったに違いないのです。
そのように、神のもとに行こうとするならば、信仰に生きようとするならば、神の御前における自分自身の罪とどうしても向き合わざるを得なくなるのです。そこで人は、聖なる神と罪ある人間との間にある大きな隔たりを認めざるを得なくなるのです。自分自身の罪を思うなら、本来神に近づくことなど到底できない自分自身であることも知ることになるのです。
しかし、主はそのような彼らに対し、預言者を通してこう語られたのです。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる」(6‐7節)。
なんと、主は自ら近くにいてくださると言うのです。主は罪ある人間の近くにいてくださる!誰でも尋ね求めさえすれば見いだすことができるほどに近くにいてくださる。呼び求めることができるほどに近くにいてくださる。罪人を断罪し滅ぼす御方としてではなく、憐れんでくださる御方として、豊かな赦しをもって近くにいてくださるのです。ならば、人間がすべきことは、立ち帰ることなのです。主の憐れみを信じて、豊かな赦しを信じて、立ち帰ることなのです。
わたしの道は異なる
とはいえ、罪の結果が厳然として目の前にある時に、罪の赦しを信じることが難しいことも事実です。そして、罪のもたらした廃墟が回復することを信じることはさらに難しい。彼らは神の裁きによって廃墟となったエルサレムを前にして、神の赦しを信じることができたのでしょうか。その廃墟が本当に建て直されると信じることができたのでしょうか。
しかし、主は彼らに言われるのです。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」(8‐9節)。
私たちも時として思わずにはいられないのでしょう。「こんなわたしは赦されるはずがない」と。しかし、それは人間の思いです。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる」のです。「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」これが主の思いです。
「この廃墟が建て直されるはずはない」。それもまた人間の思いです。「天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」と主は言われます。廃墟は永遠に廃墟であるように人には思えます。荒れ野は永遠に荒れ野であるように思えるのです。しかし、51章にはこのような言葉があります。「主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」(51:3)。これが主の思いです。それは私たちの思いを、高く超えているのです。
エルサレムの廃墟に直面した彼らに必要なことは、ただ彼らの分を弁え、へりくだることだったのです。そうです、私たちに必要なことも、私たちの思いと主の思いは異なる、私たちの道と主の道は異なるということを認めてへりくだることです。そして、私たちの思いとどれほど異なろうが、ただ主が語られる言葉に信頼することなのです。
主はこう言われます。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(10‐11節)。私たちの思いとどれほどかけ離れていようと、私たちの道とどれほど異なっていようと、最終的に神の御言葉こそが成就するのです。
さて、私たちはアドベントの季節にこの御言葉を耳にしています。キリストの到来を思いつつ、この言葉を聞いています。このように語られた主は、預言者を通して語られるだけでなく、最終的に独り子を世に遣わされて語られました。まさに御自分の御言葉そのものであられるキリストを世に遣わされて決定的な仕方で語られたのです。
キリストは言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(同35節)。そして、「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と言われたとおり、キリストは十字架において父なる神の御心を成し遂げられたのです。神の御子の血による罪の贖い!それは私たち人間には想像することもできなかった神の思いであり、私たち人間の道とは大きく異なる神の道に他なりませんでした。
私たちはキリストの到来と、そのキリストにおいて成し遂げられた神の御業を知る者として、改めて今日の御言葉を聞いているのです。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」。そして、主は言われます。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに」。
(祈り)