2023年3月29日水曜日

祈祷会用 ヨハネの手紙一 5:16~21

ヨハネの手紙一 5:16‐21

 前回お読みしたところを少し思い起こしたいと思います。

 「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」そう書かれていました。そして、永遠の命を持っているということは、ただ死んだ後や終末にのみ関わるのではありません。そうではなくて、これは今のことに関わっている。すなわち永遠の命を与えられているということは神との交わりが与えられていることであり、神の子供として生きることに他ならないからです。私たちは既に神の子なのです。

 ですから、その後に祈りの話が出て来ます。私たちは神の子供として、父に大胆に祈ることができるのです。そして、御心に適った願いは神が聞き入れてくださる。ならば本当に大事なことは、父の御心を知る子供になることなのです。父の願いを自らの願いとして生きる子供になることなのです。そのような子供であるならば、もはや何も心配する必要はない。父が聞き入れてくださるからです。聞き入れられた祈りの応えが地上に現れるのが、たとえ将来においてであったとしても、御心に適っていることさえ知っているならば、「ああ、既に聞き入れていただいているんだ!」という安心をもって待つことができる。「神に願ったことは既にかなえられていることも分かる」とさえヨハネは言うのです。

 さて、そのような御心に適った願いの代表として挙げられているのが、「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい」(16節)ということです。ここに「死に至らない罪」という言葉が出て来ます。後には「死に至る罪」という言葉が出て来ます。そのことについては後で触れるとしまして、まずここで考えなくてはならないのは、とにかく「罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい」と書かれていることです。

 実際、どうでしょう。私たちが「祈り」とか「願い」ということを考える時、真っ先にこのことが出て来ますか。これを書いているヨハネは、「神に願う」ということを考える時、真っ先にこのことが出て来る、そういう人だったということです。ヨハネにとって、祈りとはまず罪を犯す誰かのために執り成し祈ることだったのです。

 「罪を犯している兄弟を見たら」というのは、罪を犯している現実の目撃の話です。その時にどうするのか、という話です。そこでまず為すべきことは、神に代わって裁くことではなくて、神に願うことだ、というのです。その人が裁かれて滅びることを求めるのではなくて、人が悔い改めて赦しを得、命を得ることを願うことなのです。そうするならば、「神はその人に命をお与えになります」というのです。

 つまりそれは神の御心に適う願いだということです。神は人を滅ぼすことを願ってはおられない。人が永遠の命に生きるようになることを願っておられるのです。その願いを、私たちもまた共有することを願っておられるのでしょう。私たちが願い、神がそれを実現するという形で、罪を犯した人が命を得ることを望んでおられるのです。なぜなら、それこそまさに主が愛してくださったように互いに愛し合うという交わりの実現に他ならないからです。互いに愛し合うということは、互いに赦し合い、互いに罪を執り成し合うということと不可分のことなのです。そのようにして、罪が死に至るものでなくなる。これが「死に至らない罪」です。

 しかし、もう一方で「死に至る罪があります」とヨハネは語るのです。それは明らかに「もはや赦されることのない罪」ということであり、「滅びに至る罪」ということです。このように書かれていますと、私たちはどうしても「死に至る罪とは何だろう」と考えてしまうわけでしょう。しかし、それはあえて言うならば「死に至らない罪」というのが標準で、「死に至る罪」というのは、何か特別な悪いことであるかのように考えているわけです。しかし、そこで私たちは立ち止まって考えてみる必要があるのです。本当に「死に至らない罪」の方が標準なのでしょうか。そうではなく本来すべての罪は「死に至る罪」であるはずなのではないでしょうか。パウロが「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)と語っているとおりです。

 それにもかかわらず私たちの罪が赦されて命を得られるのは、ひとえにイエス・キリストによる罪の贖いのゆえなのです。「死に至らない罪」があり得るのは、イエス・キリストのゆえなのです。私たちは罪の赦しを得られることを、当たり前のことのように思ってはならないのです。悔い改めたのなら赦されて当たり前だろうなどと思ってはならないのです。キリストによる贖いによって、初めて罪の赦しがあり得るのです。ですから、先ほどのパウロの言葉はこう続くのです。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

 ならば「死に至る罪」とは、本来のとおり罪が罪としてそのまま裁かれるという場合です。それはすなわち、イエス・キリストによる罪の贖いを拒否した場合です。「主キリスト・イエスによる永遠の命」は「神の賜物」だと言われていたことを思い起こしてください。それは「プレゼント」です。AさんがBさんにプレゼントをあげたとします。Bさんは確かにプレゼントを受け取りました。しかし、BさんがAさんの前でそのプレゼントを投げ捨てたとします。その時に、あなたはAさんに、「Bさんにプレゼントあげてください」とお願いしますか。それを当然のことのように願えますか。願えないでしょう。ここでヨハネが言っているのは、そのような話です。具体的にはイエス・キリストの福音を捨てて背教した人たち、あるいは受肉と贖罪の信仰を捨てて異端に行った人たちの話が考えられているのでしょう。それを「死に至る罪」と呼んでいるのです。なぜならキリストの十字架を投げ捨てるならば、罪は罪としてそのまま裁かれるしかないからです。

 もちろんヨハネは、そのような人たちではなく、キリストを信じ、その信仰に留まっている人たちに対して語っているのです。しかし、そのような人たちは一方において迫害の中にあり、またもう一方において異端の誘惑の中にあることは事実です。そのような彼らが、「自分もまたいつかキリストの十字架を投げ捨てるのではないか。自分も異端に陥るのではないか。自分も結局は悪魔に屈して滅びに至るのではないか」と不安に思ったとしても不思議ではありません。

 だからこそヨハネは18節以下で「わたしたちは知っています」を繰り返しているのです。「わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません」(18節)。悪い者、すなわちサタンの手に陥ることを恐れることよりも、むしろ自分が神から生まれた者であることに、もっともっと信頼すべきなのです。本来罪を犯さない神の子供としてのわたしが既に生まれているのです。神の独り子であるイエス・キリストの兄弟とされているのです。ならば兄弟であるキリストが守ってくださることに、もっと信頼すべきなのでしょう。

 さらにヨハネは言います。「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です」(19‐20節)。

 この世は「悪い者の内に横たわっている(直訳)」。それは事実です。しかし、目を向けるべきは、そちらではありません。私たちは真実な方の内にいるのです。「真実な」というのは偽物ではなく、本物であるということです。本物の生ける神の内にいるのです。そして、キリストの内にいるのです。そのことにこそ目を向けるべきなのでしょう。既にそのようなものとされているのです。だから偽物を避けたらよいのです。異端の教えを含め、一切の偽物を避けること。ですからヨハネは「子たちよ、偶像を避けなさい」という勧めで手紙を締めくくっているのです。

2023年3月26日日曜日

「捨てられた石はそのままで終わらない」

ルカによる福音書 20:9-19

力を行使できる神

 「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た」(9節)とイエス様は語り始めました。この話はある意味で彼らに身近な話でした。彼らはぶどう園を生活圏内にいくらでも目にすることができたでしょうし、オーナーが遠くに住んでいて農夫たちに管理が任されているぶどう園は決して珍しいものではなかったでしょうから。

 話は次のように続きます。「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した」(10節)。今日の私たちの感覚からするとあり得ないような話に思えますが、治安維持のシステムが確立されていない社会においては、いくらでも起こりえることでしょう。そこではただ力関係だけがモノを言うわけですから。

 主人がある程度の力を持っていれば問題は起こらないのです。しかし、農夫の集団の方が強ければ、このようなことは起こり得ます。遣わされた僕は、主人が力を持っていてこそ、ぶどう園の収穫を回収することができるのです。主人が侮られるならば、その僕も袋だたきにされて追い返されます。

 さらに話は続きます。「そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した」(11‐12節)。こういう展開になりますと、力関係ははっきり見えてきます。明らかに農夫集団の方が強いのです。主人は僕を送り続けますが、事態は何も変わりません。

 そこで主人はある決断をします。「そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう』」(13節)。これが賢い決断であったかどうかは別としまして、主人が農夫よりも弱くて、力による解決ができないなら、これも交渉のための選択肢として考えられなくもありません。

 しかし、そこに主人の無力さを見た農夫集団はぶどう園を一気に自分たちのものにしようと目論みます。「農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった」(14‐15節)。当時の社会において、農園の持ち主が跡取りのないまま死んだ場合には、その農園が農夫のものになるということは実際にあったようです。

 いずれにせよ、このような話は誰が聞いても不快なものです。力ある者たちの暴力によって正義がねじ曲げられ、正しくない者が得をして勝ち誇る。そんな結末で良いはずがないと誰もが思います。この悪い農夫たちをなんとかせねばならない!そこでイエス様は話を続けます。「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」(15‐16節)。

 なんと!弱いと見えた主人は、実は弱くはなかったという話です。彼は武装集団を配下に持っていたのです。そして、悪い農夫たちは成敗されました。このような話が好まれるのは古今東西変わりません。「水戸黄門」に出てくる悪代官も最後には必ず成敗されることになっているのです。そうでなければ、収まりがつかない。イエス様の話を聞いていた人たちにも、恐らくたとえ話の結論は見えていたはずです。悪い農夫は滅ぼされることになる。ですから「そんなことがあってはなりません」という聴衆の言葉は、農夫たちが成敗されたことを言っているのではありません。

 人々はこのたとえ話を、「主人は侮られたままではない」という話として聞いているのです。主人は力を行使することができる。そして、彼らはこれが神についての「たとえ話」だということも分かっていたはずです。なぜなら、旧約聖書において、ぶどう園の主人に喩えられているのは主なる神だからです。神は侮られる御方ではない。全能の力を行使することのできる神である。実際、彼らは主をそのような神として信じているのです。

 だからこそ、彼らは律法を守ることを大切にしていたのです。神が怒りをもって力を行使するような事態を引き起こしてはならないと思っていたからです。この主人が神であるならば、このたとえ話のようなことは起こってはならないのです。だから彼らは言ったのです。「そんなことがあってはなりません!」

力をあえて行使しない神
 しかし、「そんなことがあってはなりません」と言う彼らをイエス様は見つめて、こう言われました。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった』」(17節)。これは詩編118編3節の引用です。イエス様は問われます。それは何を意味するのか。イエス様の問いは、このたとえ話を前提としています。その問いに答えるためには、先のたとえ話をもう一度思い巡らす必要があります。

 実はあの主人は弱くなどなかった。主人は侮られたままではないという結論。そこからこの「たとえ話」をもう一度読み返してみますと、このストーリーはそもそもあり得ない話であることが見えてきます。

 「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した」。この時点で農夫たちは既に反乱を起こしているのです。そして、主人は武力をもって反乱を鎮圧することができるのです。にもかかわらず彼はほかの僕を送るのです。その僕が袋だたきにされれば、三人目を送ります。

 それはこの世においては起こりえないことです。しかし、これが神のなさってきたことだとイエス様は言われるのです。滅ぼす力を持ちながら、それでもなお力を行使せずに僕を送るのです。馬鹿にされようが、侮られようが、見くびられようが、それでもなお忍耐強く呼びかけ続けるのです。そして、実際にイスラエルの歴史において神は預言者を送り続けたのです。

 しかし、イエス様の話はそこに留まりません。主人は言うのです。「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」。直ちに滅ぼすことのできる力を持っているとするならば、この主人の行動はあり得ません。この主人の行動は常軌を逸しています。これほど愚かな行動はありません。「この子ならたぶん敬ってくれるだろう」――息子だからと言って敬うはずはないではありませんか。

 にもかかわらず、主人は息子を送るのです。もはや結末を知りながらあえて送ったとしか言いようがありません。息子がぶどう園の外に放り出されて殺されるかも知れないことを承知の上で送ったとしか言いようがない。そうです、イエス様はそのように送られた息子としてこの「たとえ話」を語っておられるのです。「これがわたしを遣わした父なる神だ」と。

 そうです、イエス様は分かっておられるのです。御自分がこの息子のように、外に放り出されて殺されること。間もなくしてエルサレムの外で、十字架につけられて殺されること。――分かっているのです。御自分が詩編に歌われている「家を建てる者の捨てた石」となることも分かっているのです。

 しかし、捨てられた石はそのままでは終わらないのです。詩編は「これが隅の親石となった」と続くのです。イエス様が心の目で見ておられるのは、御自分が捨てられるところまでではありません。その先を見ておられたのです。独り子さえこの世に送られた神の忍耐と寛容は、十字架によって無に帰してしまうのではありません。むしろ、そこから新しいことが始まるのです。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」そう書かれていることが実現するのだ、と主は言われるのです。

 そして、そのとおりになったと聖書は私たちに教えているのです。キリストを隅の親石とした新しい家が建てられました。それが教会です。捨てられて十字架にかけられたイエス・キリストは、無に帰したのではなく、私たちの罪を贖う犠牲となりました。キリストは復活して隅の親石となられました。そこからイエス・キリストが宣べ伝えられ、罪の赦しの福音が宣べ伝えられるようになりました。ですから、これを書いているルカは、第2巻をも書くのです。「使徒言行録」――教会の物語です。

 主は言われました。「その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」(18節)。これは単なる裁きの言葉ではありません。その向こうに救いが見えているのです。

 教会の宣教によって、人はキリストに出会います。十字架にかけられて復活されたキリストに出会うのです。隅の親石となったキリストに出会うことになるのです。そして、キリストとの出会いの中で、自分こそまさにあの農夫たちの一人であることが見えてくる。神を侮って生きてきた自分自身であること、神の忍耐も寛容も軽んじて生きて来た、自分の罪深さを知ることになるのです。

 そのようにして、ある人はキリストという石の上に落ちる。ある人はキリストという石の下敷きとなる。砕かれたり押しつぶされたりすることになるのです。しかし、そこにこそ人間の救いがある。神を侮ったままで人が救われることは決してないからです。

 これを書いているルカは、そのように砕かれ押しつぶされ、そして救われた人を、少なくとも一人、身近に知っています。ルカが宣教の旅を共にしたパウロです。隅の親石なるキリストとの出会いは、パウロの救いでした。そして、私たちの救いもそこにあるのです。

 このように、このたとえ話は、神は侮られる方でないこと、最終的な裁きを行う力をお持ちの御方であることを語っています。しかし、それだけではありません。その神が限りない忍耐と寛容を示していてくださること、今も私たちに呼びかけてくださっていること、そして、その神が私たちの救いのためにキリストという隅の親石をしっかりと据えてくださったことを指し示しているのです。
(祈り)

2023年3月22日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 5:9~15

ヨハネの手紙一 5:9‐15

 今日は9節からお読みしました。「わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです」(9節)。

 「わたしたちが人の証しを受け入れる」というのは一般的な話です。証しというのは事実についての証言です。何かを見た人が、「わたしは見た」と言えば、それを自分は見ていなくても、「ああ、そうなんだな」と言って信じる。そういうことがあるわけでしょう。裁判などでは、二人または三人の証言によって事実が確定されるわけです。実際に裁判官が事実を見ていなくても証言が受け入れられるならば、事実が確定されるのです。そのように、私たちは確かに「人の証しを受け入れる」ということをしています。

 それと同じように、受け入れられるべき「神の証し」があると言うのです。神が証言しておられて、それを私たちが信じて受け入れることを神は望んでおられる。それは「御子についてなさった証し」(10節)だと言います。神が御子について証言しておられる。どのようなことを語っておられるのでしょう。11節には次のように書かれています。「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。」

 神は御子について何を証言しているのか。二つのことが書かれています。「神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと」と「この命(永遠の命)が御子の内にあるということ」です。これは後の方から考えた方が分かり易いと言えます。

 神は「永遠の命が御子の内にあること」を語られました。そして、永遠の命が御子の内にあることを私たちに語っているのは何のためか。要するに神は「わたしがその御子をあなたたちに与えたということは、御子の内にある永遠の命をあなたたちに与えたということなのですよ」と語っておられるのです。「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。」

 実際に、どのように神はそのことを語られたのでしょうか。どのように証言されたのでしょうか。ここには書かれておりません。しかし、ここまでの流れで明らかでしょう。グノーシスの異端の人たちが受け入れなかったこと、すなわち受肉と贖罪によってです。御子に肉をとらせて人間とされたこと。そして、その肉をとった御子を十字架にかけて罪の贖いとされたこと。そして肉を取られた御子、イエス・キリストを復活させたこと。これらすべてが御子についての証言なのです。「御子の内に永遠の命がある。その永遠の命が内にある御子をあなたがたに与えた。それは永遠の命をあなたたちに与えるためだった。」これが、イエス・キリストにおいて神が語っておられること、証言しておられることです。

 そうです、神は既に与えてくださっているのです。ならば、必要なのは私たちが受け取ることだけです。永遠の命は、人間が何らかの努力によって昇っていって獲得するものではないのです。それは上から下に、既に与えられているのです。私たちは受け取るだけなのです。

 しかし、永遠の命だけを単純に受け取るということはできないのです。神が証言しておられるように、神はそれを御子の受肉と御子による贖罪という仕方で与えられたのですから。御子の内にある永遠の命として与えられたのですから。だから、私たちは肉を取られた御子、イエス・キリストを受け入れるという仕方で、永遠の命を受け取るのです。

 ですから、次のように書かれているのです。「御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません」(12節)。この部分は、以前の口語訳の方が直訳に近いのでそちらも挙げておきます。「御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」(12節口語訳)。

 「御子と結ばれる」とか「御子を持つ」ということは、信仰によって起こる霊的な現実です。御子を持っているのか、持っていないのかは目に見えないことです。しかし、教会は目に見えない霊的な現実に直接かかわっている《目に見えるもの》をも大切にしてきたのです。すなわち、洗礼と聖餐です。ですから御子を持つということは、具体的には信仰によって洗礼を受け、聖餐に与るということです。

 この手紙を読んでいるのは、既に洗礼を受け、聖餐に与っているキリスト者たちです。異端の人たちは、その交わりから出て行ってしまいました。残った彼らは、いくばくかの不安を抱えていたことは既にお話ししたとおりです。しかし、ヨハネは言うのです。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」(13節)と。彼らは神の証しを受け入れたのです。御子を受け入れたのです。具体的には洗礼を受けて、「御子を持った」のです。御子の内には永遠の命がある。ならば彼らは既に永遠の命を得ているのです。

 さらに14節には次のように書かれています。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」(14節)。「永遠の命を持っていることを悟らせる」という話から祈りの話に飛ぶのはいささか唐突にも思えます。しかし、実はそうではありません。永遠の命を持っているということは、死んだ後や終末にのみ関わるのではなく、今、ここにおいて私たちが生きることに関わっているからです。ここまでの話で明らかなように、永遠の命とは神との交わりに他なりません。それは言い換えるならば神の子供として生きることに他ならないのです。

 神の子供としての姿の具体的な一面は大胆に神に近づいて祈る姿です。今、「大胆に」と申しましたが、実は14節にある「確信」という言葉は、「大胆に」という意味の言葉なのです。これはヘブライ人への手紙において「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4:16)という呼びかけに用いられている言葉です。

 3章に書かれていたように、「神から生まれた人は皆、罪を犯しません」(3:9)。この章でも繰り返されています。「わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません」(18節)。神の子供としての本来の私たちは罪を犯さない。言い換えるならば、神の心と一つになっているということです。現実には肉のゆえに罪を犯してしまうゆえに、神に告白して清めていただく必要があるのですが(1:9)、永遠の命に生きている新しく生まれた人としては、神の心をわが心として生きているのです。そのような内なる人が確かに信仰によって生まれているではありませんか。

 そのような神の子供として祈る祈りが、ここでは「御心に適った願い」と言い表されています。そして、その願いは必ず聞き入れられるのです。あのラザロの墓の前でイエス様が祈られたようにです。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています」(ヨハネ11:41‐42)。このイエス様のように生きることができる。それが永遠の命をいただいた者として生きるということです。そのような命を、私たちは既に与えられているのです。

 言い換えるならば、私たちが人生において心を用いるべきことは、本来的な神の子供として生きること、イエス様と同じように父の心と一つになって生きることだけなのであって、その他の一切の思い煩いは本来的に不要なのだ、ということなのです。人間の目から見て可能か不可能かということは問題にならないということです。それが既に永遠の命を与えられているということであり、既に神の子供とされているということなのです。
(祈り)

2023年3月19日日曜日

「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて」

コリントの信徒への手紙二 3:4-18

主と同じ姿に

 「自分が変われば、天地も変わる。自分が変わらなければ、なんにも変わらない。自分が変わらずに、周囲のすべてを変えようといくら願っても、それは不可能だ。」聖書の教えではありません。あるところで目にした言葉です。このような言葉は人間関係で悩んでいる人の心を捕らえます。それまではやっかいな相手を変えようと一生懸命でした。しかし、思うようには行きません。相手が変わらないことに苛立ちます。関係はますます悪化します。そこで先のような言葉に出会います。「まずあなたが変わらなければなりませんよ。」そう言われてハッとします。その通りだと納得します。それから自分を変えるための努力が始まります。すると、不思議なことに相手の態度も変わります。互いの関係も変わります。めでたし、めでたし。

 それはありえるケースです。しかし、必ずしもこのようなめでたい話ばかりでもありません。自分を変えようと頑張ります。少しは変わったつもりになります。しかし、相手はなかなか変わってくれません。腹立たしいことです。気が付くと、腹を立てている以前の自分に戻っています。自己嫌悪に陥ります。自己憐憫にも陥ります。それは全部相手のせいだと考えます。結局、人間関係はますます悪化します。これも考え得るケースです。

 自分が変わること。確かに大事なことです。人生の喜びも悲しみも、それに関わっているのですから。しかし、そのことは百も承知の上であえて問いたいと思います。私たちが変わらねばならないということは、ただ単に周囲の状況や相手を変えるためとか、人間関係を変えるためという程度のことなのでしょうか。

 「相手を変えるためにはまず自分が変わらねばならない」などと、聖書は教えません。そんなこととは無関係に、私たちは変わらねばならない、と教えるのです。そして、私たちが変わって行かねばならない方向を聖書は指し示します。本日与えられている聖書箇所には次のように書かれていました。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント3:18)。「主と同じ姿に」――これが聖書の指し示す方向です。それは、キリストの御姿です。

 しかし、主と同じ姿に変えられるとは、具体的にはどのように変えられることなのでしょうか。実は、この章はパウロが自らの職務について語っている箇所なのです。彼は使徒としての職務を与えられたことについて、次のように語っています。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました」(3:6)。そして、その新しい契約に仕える務めについて、古い契約に仕えたモーセの職務と対比させながら語っているのです。先ほどお読みしました18節は、そのような流れの中にあります。ですから、「主と同じ姿に造りかえられる」ということに関しても、これを「新しい契約」との関連で理解しなくてはならないのです。

心に記される神の律法
 では、その「新しい契約」とは何でしょう。実は「新しい契約」という言葉は、旧約聖書のエレミヤ書に出て来るのです。少々長くなりますが、31章31節から34節までをお読みします。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレミヤ31・31‐34)。

 簡単に概略のみを申し上げます。かつて神はイスラエルの民をエジプトから導き出し、十戒を与えて彼らと契約を結びました。彼らは神の民となり、神は彼らの神となられました。その契約に仕えたのがモーセです。彼らはモーセを通して与えられた律法に従い、この世界に神の支配と神の救いの計画を指し示す民となるはずでした。しかし、彼らは神の戒めに背きました。神との契約を破ったのです。旧約聖書はその不従順な民の罪の歴史を誤魔化すことなく記しています。神もまた彼らとの契約を破棄されました。

 しかし、神は御自分の民を、そしてこの世界を、見捨ててしまわれたのではありません。神の救いの計画はイスラエルの不従順にもかかわらず進められてゆきました。神はエレミヤに「新しい契約」の預言を与えられたのです。神は再び人と契約を結ばれます。罪の赦しに基づいて、新しい契約を結ばれるのです。

 そこで主は言われます。「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」と。古い契約において、律法は石の板に刻まれました。しかし、イスラエルの民はその律法を守れませんでした。それゆえ、新しい契約において、神はその律法を心に記すと言われるのです。

 ここで聖餐式の度に読まれる御言葉を思い起こしてください。キリストは、最後の晩餐において、杯を取って感謝の祈りをささげ、こう言われたのです。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」(1コリント11:25)。エレミヤの預言がここに実現しています。キリストが十字架にかかられて流された血によって、新しい契約が立てられました。今日も同じ主の言葉が語られ、聖餐が行われます。キリスト者となって聖餐に与るということは、この新しい契約の中に生きていくことを意味します。教会は、キリストの血によって立てられた新しい契約による神の民です。ですから、使徒パウロは自分自身を新しい契約に仕える者として語っているのです。

 新しい契約において、律法は石の板ではなく、心に記されます。心に記されるべき律法が何であるかは、既に十戒において示されております。主イエスはこの律法を二つの最も重要な戒めとして要約されました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(マルコ12:29‐31)。律法が心に書き記されるということは、この戒めが私たちの内に実現することに他なりません。すなわち、私たちがまことに神を愛し、人を愛する者となることです。

 新しい契約に生きる私たちにとって、人生の目的は単純明快です。人生の目的は、神を愛し、人を愛することにあります。家庭生活、社会生活における人生の課題のすべてはこの原則の応用問題です。私たちは変わらねばなりません。その方向は明瞭に示されています。神を愛し、人を愛する者となることです。その完成はどのような姿となるでしょう。それが「主と同じ姿」なのです。キリストこそ、まことに父なる神を愛し、そして人を愛された方だからです。その愛の真実は十字架に向かう歩みにおいて現され、その栄光は復活において現されました。私たちは、その姿へと向かっているのです。やっかいな相手を変えるためにまず自分を変えねばならない、などというみみっちい話ではありません。これは人生の大目標であり、人類の歴史の大目標なのです。

主の霊によって
 さて、周りを変えるために自分を変えるという程度の話ならば、少々努力すればなんとかなるかも知れません。しかし、まことに神を愛し、人を愛する者となり、主と同じ姿となるということであるならば、人間の努力目標などということではなくなります。ですから、パウロはここで、主と同じ姿に「造りかえられていきます」と語ります。人間はあくまでも受け身です。人間は、自分の心に律法を書き記すことはできません。書き記していただくしかないのです。それゆえに、「これは主の霊の働きによることです」と言われているのです。

 主と同じ姿に変えられることが、「主の霊」によるならば、そこで最も重要なのは主イエスとどのような関係にあるかということです。「主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」と書かれています。パウロがこのように書くのは、同胞であるユダヤ人のことを考えているからでしょう。相変わらず、モーセの律法の書が読まれます。彼らは律法を遵守するために真剣に努力します。しかし、心には覆いがかかったままなのです。

 覆いは取り去られねばなりません。そのためには、心に律法を書き記すのは主の霊の働きであることを認めて、主の方に向き直って生きていくことなのです。主に向き直るということは、観念的なことではありません。単に心情的なことでもありません。主に向いて生きていく生活は、具体的な形を取ります。それは、聖餐において主の体と血とにあずかりながら生きる生活として形作られるのです。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」という言葉を聞き、聖餐卓を囲んで主を礼拝して生きる生活です。そのように具体的に主に向く生活を重んじることをしないで、「私は少しも変わらない」と嘆いても、それは全く意味のない嘆きです。

 一方、私たちが新しい契約の民として主に向いて生きていくならば、「私は少しも変わらない」と思えたとしても、少しも心配する必要はありません。主の霊が私たちを主と同じ姿に造りかえてゆくのです。それは私たちの努力を越えた、主の救いの御業なのです。私たちが新しい契約の中に生きるなら、その御業がやがて完成する時が来るでしょう。パウロはフィリピの信徒への手紙においてこう言っています。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(フィリピ1:6)。私たちもまた主の約束に信頼し、パウロのこの言葉に喜びと感謝をもって「アーメン」と唱和したいと思います。


2023年3月12日日曜日

「キリストをいつも思っていなさい」

テモテへの手紙二 2:8-13

いつも思っていなさい
 「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」(8節)と書かれていました。この「思い起こしなさい」はただ今一度のことを言っているのではなく、原文では継続を表す表現が用いられています。「繰り返し思い起こしなさい」あるいは「いつも思っていなさい」という意味です。

 「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」。そうパウロがテモテに書き送ったのには理由がありました。この章の始めにはこう書かれているのです。「そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい」(1節)。強い人にはこう言う必要はありません。テモテが弱さを覚えていたからこそ、パウロはこのように語っているのです。

 この手紙が書かれた頃、パウロは獄中に囚われの身となっていました。テモテはエフェソの教会の世話をしながら、パウロに代わって小アジアの諸教会の指導に当たっていました。しかし、テモテの働きは困難を極めていました。それはテモテに宛てられた二つの手紙を読むとよくわかります。彼は肉体的にも精神的にも弱さを覚えていました。

 そのようなテモテに対してパウロは言うのです。「そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい」。一見すると「そんな弱いことでどうするか。もっと強くなれ!」と叱咤激励しているように見えなくもありません。しかし、そうではないのです。「強くなりなさい」とありますが、正確には「強くされなさい」と受け身で書かれているのです。誰によってですか。何によってですか。「キリスト・イエスにおける恵みによって」です。

 弱さを覚えている時であるからこそ、重要なのはキリストなのです。強さを必要としている時であるからこそ、重要なのはキリストなのです。ですから、今日お読みした箇所においてもパウロは言っているのです。「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」すなわち「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」と。

死者の中から復活されたキリストを
 「いつも思っていなさい。」――そうです、信仰生活とはキリストのことを繰り返し思い起こす生活です。自分に思いを向けて、ひたすら自分を振り返る生活ではありません。自分は変わったか、自分の弱さは克服されたか、自分は強くなったかをひたすら確認しながら生きる生活ではありません。キリストをいつも思っている生活です。

 その生活を具体的に表しているのが毎週の礼拝です。そこで行われる「聖餐」です。私たちが行う「聖餐」は、イエス様が「わたしを記念してこのように行いなさい」と言われた言葉に基づいて行われます。「記念して」とは「思い起こして」という意味です。そのように、繰り返し思い起こして、いつもキリストのことを思って生活するのです。

 しかし、「キリストのことを思い起こす」とはどういうことでしょう。キリストをどのような御方として思い起こすべきなのでしょう。今私たちは受難節の中にあります。キリストの御苦しみを思う季節です。そこで繰り返し思い起こされるのは苦しんでおられるキリストの姿でしょう。

 ところが、今日の箇所でパウロが思い起こすように言っているのは、キリストが苦しんでいる姿ではありません。「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」に続けてパウロはこのように言っているのです。「わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです」(8節)。

 思い起こすべきはダビデの子孫として生まれたキリストです。待ち望まれたまことの王として来られたキリストです。神がすべての名の上に置かれ、権威と力を与えられたキリストです。

 その王なるキリストは「死者の中から復活された」お方です。もちろん「死者の中から」というのは十字架を前提とした言葉ですから、十字架にかけられたキリストを思い起こすことも含まれていると言えるでしょう。しかし、キリストは十字架に留まってはおられないのです。墓の中に留まってもおられないのです。細かいことを申し上げますと、「死者の中から復活された」というのは、過去の出来事として語られているのではなくて、「復活されて今も生きておられる」というニュアンスの表現が用いられているのです。

 「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」。そのイエス・キリストとは復活されて今も生きておられるまことの王です。そうです、パウロ自身もその御方を思いながらこの手紙を書いているのです。ですから彼はこう続けます。「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」(9節)。

持つべき強さは自分の外に
 パウロは復活して今も生きて支配しておられるまことの王を告げ知らせながら、その一方においてその福音のゆえに鎖につながれています。そこにはパウロの弱さがあります。パウロの限界があります。パウロより大きな力を持つ人々によって、パウロは自由を奪われました。パウロよりも強い人間によって投獄されました。もはや自由に語ることもできません。パウロの願いはあっても、願い通りには動けない。そこには弱さがあります。

 しかし、そこでパウロは言うのです。「しかし、神の言葉はつながれていません」。パウロが弱かろうが、制約を受けようが、パウロの願い通りに動けなかろうが、なんら問題はないのです。なぜなら、パウロは弱くてもキリストは弱くないからです。

 王なるキリストは生きておられる。ならばキリストの御業は人間の弱さにかかわらず前進していくのです。神の言葉は前進していくのです。人間を鎖につなぐことはできても、神の言葉の宣教は鎖につなぐことはできないのです。実際、王なるキリストは、かつて鎖につながれるどころか、十字架に釘づけられて、殺されて、墓に葬られて、大きな石で封じ込められました。しかし、それでもなお人間はキリストを閉じ込めることはできなかったのです。神の言葉はつながれることはなかった。だから今もなお御言葉の宣教は続いているのです。

 「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」。テモテは弱さを覚えている時であるからこそ、キリストを思い起こし、思い続ける必要がありました。人が弱さを覚える時、必要なのは《自分の内に》強さを持つことではありません。そうではなくて、《自分の外に》強さを持つことなのです。本当に必要な強さは、キリストにこそあるのです。

自分の忍耐と誰かの救い
 そのことを知るゆえに、パウロはある意味でたいへん不思議なことを書いているのです。「だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです」(10節)。

 ここで「あらゆることを耐え忍んでいます」というのは、具体的には獄中生活を指しています。かつてのように各地を旅して宣教することはできません。ただ今置かれている状態を耐え忍ぶしかないのです。彼は弱い者としてそこにいます。弱い者はただ耐え忍ぶことしかできないのです。

 しかし、パウロは、彼が「あらゆることを耐え忍んでいる」のは、「彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るため」であると言うのです。こちらにおける弱さのゆえの忍耐。あちらにおける誰かの救い。この二つは普通どう考えてもつながらないではありませんか。

 実際、何かを耐え忍んでいる時は、ただ無意味な時間ばかりが過ぎていくように思えるものです。それが何か意味あることにつながっているとは思えない。しかし、パウロはそこでキリストを思い起こしているのです。今も生きておられ治めておられるまことの王を思い起こしているのです。その御方の支配の中に、そのご計画の中に、自分が耐え忍んでいる時間もまた存在していることを知っているのです。その忍耐を誰かの救いのために用いることができる御方を知っているのです。この御方が、つながりようのない二つをつなげてくださることを知っているのです。

 もちろん、パウロの忍耐と誰かの救いについて、その論理的なつながりは語ろうと思えば語れなくはありません。例えば、パウロの獄中生活があったからこそ、そこから書かれた手紙が後に新約聖書の一部として読まれることになった。その人間の救いに果たした役割は計り知れない。そのようなことは語り得るでしょう。

 しかし、恐らくパウロにとって自分の忍耐と他者との救いの間の論理的なつながりなど、どうでもよかったのです。どうつながるかは主が知っておられる。主が知っておられればよいのです。パウロにとっては困難の中にあって弱さを覚える時こそ、特に、復活して今も生きておられる王なるキリストを思う時だったのです。そのように、弱さを覚えるテモテにも繰り返しキリストを思い起こして欲しかったのです。私たちはただ、すべてを治めておられる王なるキリストに目を向けて生きていたらよいのです。この言葉はここにいる私たちに対しても語られています。「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」。

(祈り)

2023年3月8日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 4:13~21

ヨハネの手紙一 4:13‐21

 今週も先週の箇所と同じ表現が出て来ました。「神は愛です」(4:16)。グノーシスの異端の人たちは「神を知っている」と言っていました。しかし、神を知るということは、ヨハネに言わせるならば、愛である神を知ることなのです。ヨハネがあふれる喜びをもって「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています」(16節)と語っているとおりです。

 「わたしたちに対する神の愛、神がわたしたちに抱いていてくださる愛」を知った。そして、今なお知っている。いや、知っているだけではありません。彼は信じているのです。愛を信じることができる。愛を信じて生きていける。いや、「生きていける」だけではなく、愛を信じているということは、愛を信じて死んでいくこともできるということなのです。なぜなら神の愛は永遠だからです。これが神を知るということです。愛なる神を知るということなのです。

 ヨハネは神の愛をどのように知ったのか。それは先週お話ししたことを思い起こしてください。10節でヨハネはこう言っていました。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:10)。彼の指先は十字架にかかったキリストを指し示しています。そして、もし彼が礼拝の場にいたならば、彼は聖餐のパンとぶどう酒を指差してこう言ったことでしょう。「ここに愛がある」と。ここに私たちの罪を償ういけにえがある。神自ら備えてくださった、罪の贖いがある、と。

 今日の箇所との関連で、「エデンの園の物語」を思い起こしてください。アダムとエバが禁じられた木の実を食べてしまった後の描写は次のとおりです。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」(創世記3:8‐10)。

 ここに聖書で初めて「恐れ」という言葉が出てきます。さわやかな風が吹く中、野の草花や空の鳥たち、造られたものすべてが神を喜び、神が与えてくださった命を喜んで生きている中、アダムとエバは木の陰に隠れているのです。神の顔を避けて!もはやまっすぐに神に顔を向けて生きられない。そこにあるのは恐れです。これは昔々の話などではありません。今もなお変わらない私たち人間の姿そのものです。

 しかし、そうやって神の顔を避けて、木の間に隠れて生きていた私たちを、神様が追い求めてくださいました。「アダムよ、どこにいるのか」と神様が呼びかけたように。そして、神自らが罪の償いの犠牲を用意して、その犠牲を屠られたのです。イエス・キリストを十字架にかけられたとは、そういうことです。

 それは何を意味しますか。神様があくまでも愛の手を伸ばし続けられたということです。そこにあるのは「あなたは罪人だ。しかし、それでもわたしはあなたを愛している」という神様の意思表示なのです。そう言って、愛の御手を伸ばし続けられた。それが神自ら罪の償いの犠牲を備えてくださったということです。それがキリストの十字架です。だからヨハネは言うのです。「ここに愛がある」と。

 この愛を受け入れ、感謝をもって、この愛を信じて生きていく。さらにはその愛に応えて、互いに愛する者として生きていく。そのことをヨハネは、「愛にとどまる」と表現しているのです。それこそが、愛なる神と共に生きることであり、さらに言うならば、愛なる神と一つになって生きることなのです。「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」と書かれているとおりです。

 そのように、私たちが愛にとどまるということが大事なのです。確かに神は愛です。愛は神から来るのです。しかし、神の愛は一方通行では完成しないのです。私たちが愛を受け入れ、愛を信じて生き、さらに互いに愛し合って生きる時に、神の愛は全うされるのです。そして、そこにはさらに驚くべきことが書かれております。「こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです」(17節)。

 「イエスのようである」は、原文では「彼のようである」と書かれているのですが、新共同訳のように、内容的にはイエス様のことを言っていると考えてよいでしょう。皆さんは、「この世でわたしは、イエスのようである」と言えますか。「そんなこと、絶対にありえない」と思いますでしょうか。しかし、わたしたちが「愛にとどまる」ならば、そのように言えるのです。「この世でわたしは、イエスのようである」と言えるのです。どのような意味においてでしょう?ただ一点においてです。すなわち、父なる神との関係においてです。神との関係において、「わたしはイエスのようである」と言えるのです。

 神の顔を避けて隠れているイエス様、想像できますか。それはありえないことでしょう。なぜですか。罪のない御方だからです。ですから、イエス様はいつでもまっすぐに父なる神に向かって、「父よ」と呼びかけておられたのです。そして、私たちもそのようなイエス様のように生きることが許されているのです。なぜですか。既に述べましたように、罪を償う犠牲が屠られたからです。だから、もうアダムのように、「あなたの足音が聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております」などと言う必要はないのです。この世にあって、私たちもまた顔を上げて、「父よ」と呼びかけることができるのです。イエス様のように。ならばヨハネが言うように、最終的な裁きの日さえも、もはや恐怖の対象とはなり得ないでしょう。

 ですから彼はさらにこう言っているのです。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです」(19節)。ここで言われている愛、「完全な愛」とは、これまでの流れから明らかなように、償いの犠牲として御子を与えてくださった神の愛です。「神は愛です」――この愛こそが、恐れを外に放り出してくれるのです。ここに「恐れは罰を伴い」と書かれていますが、意味合いとしては「恐れと罰は関係している」ということです。そのように訳している聖書も少なくありません。確かに様々な恐れというものがありますが、究極的に恐ろしいのは神に処罰されることであるに違いありません。アダムも「恐ろしくなり、隠れております」と言いましたでしょう。確かに、「恐れと罰は関係している」のです。

 ならばその恐れを締め出してくれるのは、神の愛以外にはあり得ません。神の愛が人間にとって最も根源的な恐れを外に放り出して締め出すのです。「恐れる者には愛が全うされていないからです」とヨハネは言いました。大事なことは、自分の身を必死で守ろうとすることではないのです。「愛の内に全うされること(直訳)」なのです。キリストにおいて現された神の愛を受け入れ、神の愛を信じて生きること、完全に神の愛の中に身を置いて生きるようになることなのです。

 そのように、神がまず私たちを愛してくださいました。そのような神の愛を知ることは、既に繰り返し語られているように、互いに愛し合って生きることへと導くはずです。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」とヨハネは言いました。これこそが本当の意味で神を知る人の言葉です。そのように私たちも言えるように、そのように神を知るようにと、私たちは十字架のみもとに集められ、今ここにいるのです。
(祈り)

2023年3月5日日曜日

「神の国は既に来ている」

ルカによる福音書 11:14‐26

汚れた霊が友達連れて戻って来る
 本日朗読されました福音書において、イエス様はこんな話をしておられました。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」(ルカ11:24‐26)。

 汚れた霊が人から出て行ったり、砂漠をうろついて休む場所を探してみたり、他のお友達連れて戻って来たり、という話は、ある意味では私たちには馴染みのない話です。しかし、もう一方において、イエス様が言わんとしていること、何となく分かるような気もする不思議な話です。「確かにあるある、こういうこと」って、そう思いませんか。

 例えば、人と喧嘩ばかりしている人がいるとします。争いの絶えない人。いつも心に怒りを溜めているような人。いつも他者に悪意を抱いている人。そんな人が、ある日、ふと思い立ちます。私はこんなことをしていていいのだろうか。こんな自分はいやだな。平和な穏やかな人になりたいな。そう思って、とにかく努力を始めます。穏やかな人になろうと努めます。一生懸命心の中から怒りと悪意を追い出そうといたします。そして、ある程度追い出しに成功するわけです。しばらくは、実に穏やかな人として過ごしている。周りの人も「あの人、変わったわねえ」なんて言っている。それがまた嬉しい。

 しかし、残念ながら長く続きません。あることで怒りが爆発し、口汚く誰かを罵ってしまう。すると周りの人から「やっぱり前と同じだね。少しも変わってない」とか言われます。自分でも自分が情けなくて、もう「どうでもいいや」と思ってしまう。どうせ自分はこういう性格に生まれついた不運な人間なんだ。育った環境がいけなかったんだ。そもそも親が悪い。小学校の時の教師が悪かった。そんなことを延々と考えるようになったりする。そして、気付いてみると、前よりも状態が悪くなっている。まるで出て行ったはずの「怒り」という汚れた霊が、「自暴自棄」や「自己憐憫」というお友達を連れてきたみたいです。ありそうな話だと思いませんか。

 これに類することはいろいろと考えることができるでしょう。悪いものを追い出して、クリーンな心を実現しようとする努力は、ある程度は成功するように思います。しかし、どうも長続きしない。一度失敗すると元の木阿弥となってしまう。いや、失敗した自分を責めている内に、さらに様々な悪い思いが心の中に満ちてきて、状態は以前よりずっと悪くなってしまうことも起こります。このように、汚れた霊がお友達を連れて帰って来るというイエス様の一風変わったお話は、今日の私たちにとっても極めて身近な話のように思います。

神の国は来ている
 しかし、それは身近な話であるかもしれませんが、それだけだったら救いがないと思いませんか。結局、努力したってだめなんだ。頑張って心を掃除して整えてみたところで、どうせ汚い霊がお友達連れて帰って来る場所を作っているだけなんだ、という話ならば、まことに救いのない話です。

 もちろん、イエス様はそのようなことを仰りたいのではありません。実は、この話はその前から続いているのです。その前には、口の利けない人が癒されたという話が出ています。そして、それにつづくイエス様の言葉として、この話が記されているのです。

 14節をご覧ください。そこには「口の利けない人がものを言い始めた」と書かれています。実際、この人はどれほど嬉しかったことか知れません。嬉しかったのは、ただ言葉が話せたからではありません。もともとこのような口の利けない人や「悪霊に憑かれている」と見られる人は、宗教的に差別されているのです。汚れた人として、神から遠ざけられている人として見なされるのです。罪を犯したからこんなことになったのだとも言われるのです。自分でもきっとそう思っていたに違いない。その人にとって、神は遠い遠い存在だったのです。

 しかし、そのような人のところに、イエス様が来てくださった。福音を携えて、罪の赦しの言葉、救いの言葉を携えて来てくださった。いや言葉だけでなく、イエス様のなさることそのものが神の恵みの現れでした。口が利けるようになった人の内に喜びがあったとするならば、それは神の恵みに触れた喜びなのです。神様に見捨てられてなどいない。そうではなくて神様から顧みられ愛されている。そのことを知った喜びなのです。

 ではその癒された人だけが神の恵みにあずかっていたのでしょうか。解放され癒された人だけが殊更に神に愛されているのでしょうか。いいえ、そうではありません。主はこう言われたのです。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(20節)。

 癒された人だけに神の恵みが来たのではありません。イエス様のなさっていることはしるしなのです。神の国が来ていることのしるしなのです。神の恵みの支配が既に到来している。救いは到来している。イエス様の周りに集められた人々のところに既に来ているのです。癒された人だけではありません。その周りにいる人にも、苦しみから解放された人にも、いまだに苦しんでいる人にも、神の圧倒的な恵みは既に来ているのです。メシアであるイエス様が来られたとは、そういうことなのです。

喜べなかった人たち
 神の国は既に来ている。その喜びがイエス様の周りには満ち溢れていたに違いありません。しかし、もう一方でそれを喜べない人たちがいました。彼らは言いました。「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」(15節)と。こう言っていたのは誰でしょう。この福音書には書かれておりません。マタイによる福音書には「ファリサイ派の人たち」と書かれています。

 彼らは極めて真面目なユダヤ人たちです。自分の内から悪いものを追い出して、生活からも悪いものを追い出して、宗教的にも道徳的にも清く生きることを願っていた、そういう人たちです。汚れたものは大嫌い。汚れた生活をしている異邦人などとは絶対に付き合わない。律法を守ろうとしない連中となど、絶対に一緒に食事などしない。とにかく清い者となることは、一大関心事だった。そういう人たちです。それはとても良いことでしょう。しかし、彼らは神の恵みが悪霊に憑かれた人たちに現されることを喜べませんでした。

 考えてみてください。もしこれが、戒律を厳格に守り、清さを求めている人たちに神の恵みが現されたというのなら、彼らは文句を付けなかったと思います。あるいは一生懸命に努力している自分たちに、神の特別な恩恵が現されたというのならば、決して文句をつけることはなかったと思うのです。しかし、律法を守らない人たち、自分が見下している人たち、自分が汚れた人と見なしている人たちに無条件で神の恵みが現されることは、喜べませんでした。また、そのように教え、行動されるナザレのイエスはまことに赦しがたい存在だったのです。

 そのような人たちにこそイエス様は、友達連れて戻ってくる汚れた霊の話をされたのです。自分で頑張って掃除してきれいにしたつもりでいると、汚れた霊が友達連れて戻ってくるよ、と。実際、この福音書を読み進んでいきますと、そのことが明らかになってまいります。そのことがイエス様との関わりで明らかになるのです。彼らの内に、妬み、憎しみ、敵意、殺意のようなものが満ち満ちてくるのです。そして、結局それらがイエス様に対して噴出することとなるのです。いや、彼らだけではありません。民の長老たちや祭司長たちに煽動された民衆も、やがて「十字架につけろ!」と叫び出すことになるのです。これが清さを求めていた人々の内に満ちてしまったものです。汚れた霊の悪友たちです。

主の住まわれる家を造ること
 そうならないために大事なことはなんですか。イエス様はこう言われました。「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」(21‐22節)。ここで「強い人」とはサタンのことです。そして、「もっと強い者」とはイエス様のことです。もっと強い者が神の無条件の恵みを携えてきてくださいました。もっと強い者が「神の国はあなたたちのところに来ている」と言ってくださいました。この「もっと強い者」なるイエス様に来ていただくことです。私たちの心に、そして私たちの生活の中に。そして、あなたたちのところに来ていると言われる「神の国」、神の恵みの支配をもたらしていただくことです。

 信仰生活とは一生懸命に努力して自分を清める作業ではありません。信仰生活とは、悪いものを追い出してきれいな空き家をつくるのではなく、神の恵みを携えて来てくださったイエス様をお迎えすることです。私たちの心に、そして私たちの生活に。恵みをもって治めてくださる「もっと強い者」なるイエス様をお迎えし、主が住まわれる家を造ることなのです。

(祈り)

2023年3月1日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 4:7~12

 ヨハネの手紙一 4:7‐12

 これまで度々グノーシスの異端について述べられてきました。グノーシスとは「知識」という意味です。彼らは神についての特別な知識(グノーシス)を持ち、神との特別な交わりが与えられていると主張していたのです。2章に「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」(2:4)と書かれていました。そのように、彼らは「神を知っている」と主張していたのです。

 既に申し上げましたように、彼らが言う知識、そして、その交わりは霊的なものであって、この物質世界に属するいかなるものによっても、決して妨げられることはないと考えられたわけです。この世の生活における倫理的な事柄を問題にするキリスト者は、彼らから見るならば、一段も二段も低いところにいたのです。

 しかし、そのような異端の教えを背景に、ヨハネは教会に対して全く違うことを語っています。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(7‐8節)。

 「愛する」ということは、この物質世界の中で営まれる具体的な生活に関わっている言葉です。現に存在する隣人とどのように共に生きるのか、ということに関わっている言葉です。そのように具体的に愛して生きるということを欠いているならば、どんなに特異な神秘体験を持っていようが、どんなに特別な知識を持っていようが、どんなに霊的な神との交わりがあると主張しようが、その人は神を知らないのだ、とヨハネは言うのです。それはなぜでしょうか。彼は言います。「神は愛だからです」。

 「神は愛です」とは教会で良く耳にする言葉です。しかし、よくよく考えてみると、これをどう理解するかということは、そう単純ではありません。神は本当に愛なのでしょうか。奇跡的に病気が癒されて「神は愛である」と感謝する人もいます。しかし、病気の癒しが「神は愛である」と語る根拠にならないことは明らかです。自分が経験してきた数々の幸運のゆえに「神は愛である」と言う人もいるでしょう。しかし、その人が不運に見舞われるならば、「神は愛である」と言っていた舌をもって神を呪うことになるかもしれません。

 「神は愛である」という言葉が、単純にこの世の経験から出てこないことは明らかです。なぜなら、この世に満ちている理不尽な出来事、私たちもしばしば経験するこの世の不条理やそれに伴うやり場のない悲しみや怒りは、「神は愛である」という言葉と激しく対立するからです。考えてみてください。ヨハネは悲しみや痛みとは無縁の、平和で幸いに満ちた生活をしていたから、このようなことを書いているのではないのです。迫害の中にあった教会にとって、理不尽な苦しみや悲しみは、むしろ身近な日常の経験だったのです。そして何よりも、ヨハネは最も理不尽な出来事を知っているのです。すなわちイエス様がどれほど惨たらしい仕方で殺されたかを知っているのです。

 「パッション」という映画をご存じでしょう。目を覆いたくなるような残酷なシーンが続きます。しかし私は、あの映画において、残酷さが殊更に強調されているとは思いません。実際に起こっていたことは、もっと残酷であったに違いないとさえ思います。鞭で打たれて飛び散った血と肉によって真っ赤に染まった敷石の上をキリストが引きずられていく場面と「神は愛である」という言葉は結びつきますか。結びつかないだろうと思うのです。そうです、ヨハネはこの世界の中に起こっていることが、まさにそのような事であることを重々承知の上で書いているのです。ですから、「神は愛である」という言葉は、単純にこの世界の一般的な経験の中からは出てきた言葉ではないのです。

 ではどこからでしょうか。実は、10節は「ここに愛があります」という言葉で始まるのです。日本語とは順序が逆になります。「ここに愛がある」――どこに?ヨハネはこう言っているのです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました」。これこそがヨハネの見つめている一点なのです。

 ここで重要なのは、「わたしたちの罪を償ういけにえ」という言葉です。これは旧約の背景を持った言葉です。その言葉が前提としているのは、「罪の赦しを必要としているわたしたちである」ということです。ヨハネは、自分の罪、そして全世界の罪について考えているのです。そして聖なる神と罪深い人間を隔てる、越えがたい深淵を見ているのです。

 自分自身の罪と深刻に向き合うことがないならば、人はいくらでも神に近づくことができると考えることでしょう。自分が近づこうと思いさえすれば、神に近づくことができると思うのです。人間の努力によって、修練によって、積み重ねた善行によって、あるいは瞑想によって、神秘体験によって、いくらでも神に近づき、神に触れ、神と一つになることさえできると考えるものです。そして、そのような神と一つになる体験を得るために、酒や薬物の助けを借りるということも、人間が昔からしてきたことです。

 しかし、私たちが真に光の中に身を置くならば、どうしても私たち自身の罪が問題となるのです。神と人とを隔てる深淵が問題となるのです。いったいその深淵に橋渡しはなされ得るのかが問題となるのです。そこで少なくとも一つ明らかなことは、人間の側から橋はかけられない、ということです。この断絶は人間の罪の故の断絶だからです。神の方から橋をかけてくださるしかない。そして、神はそうしてくださったのです。御子が肉を取って来られた。受肉です。そして、その肉をもって罪を贖ってくださった。贖罪です。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

 このキリストの出来事に目を向けつつ、ヨハネは「神は愛である」と語っているのです。「神を知る」ということは、そのように十字架において御自身の愛を示された神を知ることに他なりません。それはすなわち、自分に与えられている神との交わりは、百パーセント神の愛に負っていることを知ることに他ならないのです。要するに、私たちは神さまに借りがあるということです。こうして私たちは当たり前のように神に祈るために集まっているのですが、その私たちは本来神さまに対して莫大な愛の借りがあるのです。

 「神は愛です」。その愛なる神を知るならば、その一生は当然のことながら、神に愛をお返ししていく一生となるはずです。もとより返せるような負い目ではありません。そのような私たちのせめてもの恩返しの一生です。しかし、そのように神に愛をお返ししようとする時に、神は私たちに言われるのです。「もしあなたが返そうと思うなら、わたしにではなく、あなたの兄弟に、あなたの隣人に返しなさい」と。ヨハネはそのことを次のように表現しています。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(11節)。

 「愛し合うべきです」という表現は、「愛することを負っている」というのが直訳です。負債がある、ということです。負っているのは神に対してですが、返すのは隣人に対してです。それは神が大きな橋を自らかけてくださったように、私たち自身も小さな橋をかけることを意味するのかもしれません。その場合、神の方から御赦しをもって橋をかけてくださることが神の愛であったのですから、私たちが誰かを愛するということは、私たちの側から橋をかけることを意味するのでしょう。こちらから橋をかけなくてはならない人は誰ですか。

 いずれにせよ、神を知るということは、そのように必然的に私たちが互いに愛し合うという形を取るのです。それゆえに、このように書かれていたのです。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」


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