2022年11月30日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 1:1~10

ヨハネの手紙一 1:1‐10

 ヨハネはここでひとりのお方のことを伝えようとしています。父なる神と共におられた「命の言」、永遠の命そのものであられるお方は、この世界に来られ、この歴史の中に現れ、私たちが見ることができ、手で触れることができる存在となられました。人となられた御子なる神、イエス・キリストのことです。

 「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです」(1:3)とヨハネは続けます。イエス・キリストを伝えるのは「交わりを持つようになるため」です。伝道とは交わりへの招きです。

 その交わりとは「御父と御子イエス・キリストとの交わり」であるとヨハネは言います。ヨハネたちは既に御父と御子イエス・キリストとの交わりに入れられています。そのような彼らが、イエス・キリストを宣べ伝えて、さらに他の者を交わりへと招きます。教会が二千年間続けてきたことは、まさにこのことです。そして、私たちにも伝えられ、私たちもその交わりへと招かれたのです。信仰生活とは、この交わりに生きることに他なりません。

 ヨハネがこれを書くのは、すなわちキリストを伝え、交わりへと招くのは、「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるため」であると言っています。「わたしたち」というのは、別の写本では「あなたたち」となっています。「あなたがた」を含めた「わたしたち」と言っても良いでしょう。そのように、交わりへの招きは満ちあふれる喜びを共有するためです。

 このように私たちの信仰生活において、「交わり」は本質的な意味を持っています。「個人的に神を心の中で信じていればよいではないか」という考えはキリストの福音とは無縁です。私たちは、既に存在する交わり、すなわち御父と御子と世々のキリスト者との交わりへと加えられることにおいて、神と共に生きるのです。御父と御子との交わりを基とした信仰における兄弟姉妹との交わりに生き、さらに隣人をその交わりへと招くところにおいてこそ、私たちは満ちあふれる喜びを経験するのです。

 そこでさらにこの交わりについて考えてみましょう。「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」。すなわちそれは「神との交わり」でありますから、そこでは当然のことながら、《神はどのようなお方であるか》ということが大きな意味を持つことになります。そこでヨハネはこう言っています。「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです」(5節)。

 「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」――この言葉によって思い描くべき一つの姿は、私たちが明るい光の中を共に歩いている姿です。この正反対の状態も思い描いてみましょう。私たちが真っ暗闇の中を歩いている姿です。「光の中」と「闇の中」、その決定的な違いは、一方で見えるものが他方では見えない、ということです。

 私たちは通常は、物が見えることは望ましいことだ、と考えて生活しているものです。ですから昼間はカーテンをあけて太陽の光を部屋に取り込み、夜は人工的な光をもって部屋を照らします。停電などで真っ暗になってしまうと、本当に困ったことになります。

 しかし、私たちは常に何でも見えることが良いと考えているわけではありません。見えないほうが良いと思っているものもあるのです。その代表は何でしょう。それは「罪」です。私たちの罪深い行い、私たちの罪深い姿が見えてしまうことは、私たちにとって都合の悪いことです。ですから、罪について言うならば、それは他の人に見えないことが望ましい。自分にも見えないことが望ましい。そのために、あえて光を遠ざけて闇の中に身を置く、ということが私たちの人生には起こってまいります。

 「神は光である」とヨハネは言いました。しかし、その光を遠ざけて、闇の中に身を置くならば、見えるべきものが見えません。罪が罪として認識されません。言い換えるならば、闇の中にいる限り、人間は自分の罪深い行いを、いくらでも正当化できるということです。8節にありますように、「自分には罪がない」と言うことができるのです。

 この手紙が書かれた当時、「自分には罪がない」という主張のために援用されていたのはギリシア的な霊肉二元論に関する哲学的思弁や様々な神話でした。そのように、人間はいかなる論理を用いてでも「自分に罪がない」と言い張るものなのです。

 今日の私たちは、当時の人々と異なる論理を用いて、自分を正当化しているかもしれません。いずれにせよ、それは闇の中において可能なことです。ですから、私たちは本当は、「自分には罪がない」という主張が神の明るい光に耐え得ないことを知っているのです。実際、私たちが普段言い張っていることを神の御前で本当に主張することができるか、と問われるならば、口を閉ざさざるを得ないでしょう。

 そして、もう一つ明らかなことがあります。それは闇の中でどんなに「自分には罪がない」と言い続けても、そこに本当の喜びなどない、ということです。思い描いてみてください。真っ暗闇の中を歩いている自分を、そして真っ暗闇の中を歩いている隣人を、闇の中における人間社会の営みを。それは確かに「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」というヨハネの言葉とは対極にある姿ではありませんか。「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません」(6節)とヨハネは言います。まことに彼の言うとおりです。

 それゆえ、私たちは闇の中を「歩いて」はならないのです。すなわち、闇の中で生活し、その生活を継続してはならないのです。たとえ闇の中に自らを置いてしまうことがあったとしても、その闇の中に留まり続けてはならないということです。そこで必要なのは悔い改めです。私たちは神のもとに立ち帰り、光の中に立ち帰らなくてはならないのです。

 光の中を歩むなら、罪が罪として見えてくるでしょう。自分の為してきた悪がはっきりと見えてくるでしょう。もはや「自分には罪がない」とは言えません。そこには心の痛みが伴います。しかし、それでもなお、光の中に身を置くべきなのです。なぜなら、私たちには約束が与えられているからです。「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(7節)。私たちが光の中にいるかぎり、御子イエスの血が私たちの罪を清め続けるのです。

 そして、そのような光の中においてこそ、闇の中にはなかった互いの真実な交わりも成り立つのです。それは具体的に次のように言い換えられています。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(9節)。

 光の中を歩むために与えられている公の場所、それは私たちが共に集まり神を礼拝する場所です。光の中を歩くということは、単なる精神的な事柄を言っているのではありません。それは共に神を礼拝して生活するという具体的な形を持っているのです。そして、そのような具体的な公の場に、私たちは罪を告白する者として共に立つのです。

 私たちは毎週詩編51編を交読します。「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。」この言葉を、私たちは公に口にします。これを単なる形式的なお題目にしてはなりません。もし私たちが真実に神の前でこの言葉を告白するならば、それは私たちが悔い改めて、いかなる罪を正当化することをも放棄することを意味するのです。

 そして、私たちが自分の罪を神の御前で認める時、そこに全く逆説的なことが起こるのです。「神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」。

 真実で正しい方であるならば、その後に来る言葉は「赦し」ではなくて「裁き」であるはずでしょう。しかし、赦してくださると言うのです。なぜでしょうか。2章2節に書かれていますように、イエス・キリストがわたしたちの罪、全世界の罪を償ういけにえとなってくださったからです。だから、真実で正しい方が赦してくださるのです。罪を償ういけにえとなられた御子イエスの血が私たちの罪を清めるのです。

 私たちの互いの交わりは、そのような礼拝から始まります。そこから光の中における交わりが始まるのです。神の恵みを共有する、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」が始まるのです。そして、私たちはイエス・キリストを宣べ伝え、その交わりへとさらに隣人を招きます。真の喜びが満ちあふれるようになるために!

(祈り)
 

2022年11月27日日曜日

「農夫のように忍耐強く、実りの時を待ち望む」

ヤコブの手紙 5:7‐11

●主が来られるときまで忍耐しなさい
 「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」(ヤコブ5:7)と語られていました。今日の箇所において語られておりますこの「忍耐」は、「試練」ということを背景として語られております。この手紙の一章を読みますと、例えば「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」(1:2)、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」(1:12)ということが語られております。

 この試練が、具体的にどのような状況を意味するのかは定かではありません。恐らく、教会に対する迫害を彼らは経験していたことでしょう。あるいは、富める者や権力者たちによる抑圧に苦しむ貧しい人々がいたことでしょう。いずれにせよ、ここで「いろいろな試練」と書かれておりますから、その具体的状況は一つではなかろうと思います。実に様々な場面において、信仰者はその信仰が問われます。試されるのです。この世はキリストを主とし王として従っている世界ではありません。その中において、キリストに従って生きようとするときに、ありとあらゆる事柄が、信仰の試練となり得ます。その点においては、ヤコブの手紙の時代も現代も変わりません。

 そのような「試練」を背景として「忍耐しなさい」と語られております。ところで、新約聖書において「忍耐」と訳される言葉は一つではありません。大きくは二通りに分かれます。一つは「留まる」という言葉に由来します。どんな困難があろうとも、今置かれた状況下にあえて留まること。それを「忍耐」と言います。有名な箇所としては、例えば、「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3-4)というパウロの言葉が挙げられます。そこで語られている「忍耐」とは、「留まること」です。

 しかし、もう一つの「忍耐」があります。それは「留まること」というよりも、「待つこと」と関係しています。今日読まれた7節で用いられている「忍耐」という言葉はもともと「気を長く持つ」ことを意味する言葉なのです。

 試練は永遠ではありません。すべての試練には終わりがあります。そのことを知っている人は、試練の中で耐え忍んで待つことができます。試練の向こう側を考えることができます。私たちは、その終わりを聖書において教えられております。私たちが信じるキリストの再臨こそ、究極的にはすべての試練の終わりです。

 もちろん、それは裁きの時でもあります。この世と一つになり、神に敵対しているならば、キリストが到来するその時は、世と共に裁かれる時となるでしょう。しかし、神を愛し、キリストを主とし、その御体に連なり、主を待ち望んでいる者にとっては、まさにキリストの再臨こそ最終的な希望であり、神の報いの時であり、試練の終わりの時に他ならないのです。ですから、ここで「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」(7節)勧められているのです。

 それは農夫が忍耐強く実りの時を待つのと同じです。農夫は待つことを知っています。農夫は実りの時までにはプロセスがあることを知っています。種まきの直後に秋の雨が降ります。そして、実が熟す直前に春の雨が降ります。この定められた時を経なくては実りを見るに至りません。実りをすぐに見られないからと言って、畑を投げ出してしまう愚かな農夫はいないでしょう。彼が待つのは、実りの時が来ることを知っているからです。だから忍耐しながら待つのです。

 それは信仰においても同じです。様々な試練は、人に信仰を投げ捨てさせ、神から引き離す誘惑ともなります。だからこそ、その誘惑に屈してはならないのです。ゆえにヤコブは「心を固く保ちなさい」と勧めます。主が定められた終わりの時まで、心を保ち、忍耐しつつ備えて待たねばならないのです。

●互いに不平を言わないように
 そして、次に、「兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです」(9節)と勧められています。実は、この手紙を含め、言葉に関する勧めや戒めは少なくありません。人間の舌というものの恐るべき力をヤコブは既に3章で語っています。

 「ご覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は『不義の世界』です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」(3:5‐6)。そして、「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません」(3:9‐10)と彼は言います。さらに、4章で、「兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません」(4:11)と勧めているのです。

 なぜ言葉についてヤコブが繰り返し語るのかは分かるような気がします。試練の時には、舌を制御することが、困難になるからです。苦しみや困難が、私たちを不平や不満で満たしてしまうということを、私たちはしばしば経験いたします。かつてエジプトを脱出したイスラエルの民が、荒れ野の旅の苦しさの中で、繰り返し不平や不満をつぶやいたのと同じです。

 普段は穏やかに語れるのに、困窮している時には同じように語れなくなります。普段なら全く気に留めないであろう他人の言動が、妙に気に障るようになる。そのような経験はありませんか。しかし、普段ならば気にならないということは、本当の問題は他人の行為や言葉ではなくて、こちらの状態にあるのです。にもかかわらず、往々にして問題は相手にあると私たちは思い込んでしまうのです。

 その結果、悪口や不平が舌という器官を通して言葉となって外に現れるようになります。教会が外からの迫害と圧迫を受けた時、本当の危機は実は外にではなく、内にありました。教会に不平や不満の言葉が満ちるならば、それは確実に教会の交わりを腐らせていくに違いないからです。崩壊は外からではなく内側から起こります。もちろん、試練のもとにあった当時のキリスト者たちには、互いに解決しなくてはならない問題がたくさんあったに違いありません。しかし、不平や不満が互いの関係を建て上げ、教会を建て上げる力となることは絶対にないのです。

 そこで私たちは何を考えねばならないのでしょうか。ヤコブは続けてこう言います。「裁く方が戸口に立っておられます」(9節)。終末におけるキリストの再臨を空間的に表現するとこうなります。キリストが戸口に立っておられます。そして、ある瞬間に、キリストが戸を開いて入ってこられるのです。そこで、キリストは何を耳にするのでしょう。私たちの言葉です。私たちが今しがたまで語っていた言葉です。いや、もう既にキリストはずっと聞いておられたのです。戸口におられたのですから。

 私たちはそのことを知る時、同じことを語り続けることができるでしょうか。不平を言う時には、自分が正しいと思っているものです。その言葉を、裁く方、すなわち再臨のキリストを前にしても、なお語り続けることができるならば、キリストが来ておられない今、口にすることに何ら問題はないでしょう。しかし、本当に主の前でそう言えるだろうか、ということを一度は考えてみなくてはなりません。その意味においても、再臨のキリストを、戸口に立っておられ、今まさに入って来ようとしておられるキリストとして思い描くことは、私たちにとっても大事なことです。

●預言者たちを忍耐の模範としなさい
 そして、再び話は忍耐のことに戻ります。「兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい」(10節)。旧約聖書に見る預言者たちの姿を考えて見ましょう。彼らは神に召され、神の言葉を語りました。しかし、多くの人々は彼らに耳を傾けませんでした。預言者たちは悔い改めを呼びかけました。しかし、人々は手軽な平和と幸いを求めました。預言者たちは神の裁きを語りました。しかし、人々は耳に好ましいことを語る偽預言者の言葉の方を求めました。預言者たちは国家の滅亡を語りました。しかし、彼らが語った滅亡はすぐに実現したわけではありませんでした。預言者たちは人々の嘲笑と敵意を耐え忍ばなくてはなりませんでした。

 彼らは自分の力によって自分の正しさを示そうとはしませんでした。神の言葉の正しさは神自らが証明されます。彼らは、神の正しい裁きに自らをゆだね、神の時を待ちました。そうです、預言者たちは、まことに神の時を待つ人々でありました。彼らはそのように生き、語り、そして死にました。ヤコブは、預言者たちを指し示し、これが忍耐だと言うのです。

 さらに彼はヨブについて語ります。「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います」と言って、苦難の人ヨブを指し示すのです。なぜヨブが幸いなのでしょうか。「あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています」(11節)とヤコブは言います。私たちは、神が最終的にヨブの繁栄を回復してくださったことだけを考えてはなりません。もっと重要なことは、ヨブが神にまみえたということなのです。ヨブ記に出てくるヨブの最後の言葉は神に対する次のような言葉です。「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(ヨブ42:5‐6)。

 苦しみは私たちを神から引き離す誘惑ともなります。また、そこから生じる不平や不満は、互いの関係を崩壊させる原因ともなり得ます。しかし、苦しみは私たちの信仰を確かにし、純化し、神を目で見るかのように深く知る契機ともなるのです。何が必要なのでしょうか。それは、つぶやかずに神の時を待つ忍耐です。最終的には主が来られるときを待つことのできる忍耐です。

(祈り)

2022年11月20日日曜日

「無力なメシア、まことの王」

ルカによる福音書 23:35-43

無力なメシア
 イエス様がかけられた十字架の上には「これはユダヤ人の王」という札が掲げてありました。ローマ人が掲げた札です。明らかにユダヤ人を見下して馬鹿にして掲げた札です。「この惨めな無力な男がこいつらの王様だってよ!」そんな嘲笑を込めた罪状書です。

 そんなユダヤ人たちを馬鹿にしたような罪状書が掲げられたのは、理由のないことではありません。実際、ユダヤ人たちは、つい数日前まで民衆はその男が彼らの王となると本気で信じていたからです。もっともユダヤ人は「ユダヤ人の王」という言い方はしません。「メシア」と呼びます。イスラエルの民が待ち望んできた力ある王です。このナザレのイエスこそ待ち望んできたメシアに違いないと思って、多くの人々は付いて来ました。実際、その御方は力ある御方でした。悪霊を追放し、病気を癒し、大群衆に食べ物を与えたなどの数々の奇跡について噂は噂を呼び、その御方の周りにはいつも群衆が取り巻いていたのです。

 五日ほど前にエルサレムに入城された時もそうでした。エルサレムに向かう道にはこんな賛美の歌声が響いていたのです。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」(19:38)。力ある王がついにエルサレムに来られた!この御方がユダヤ人の王としてローマ人に支配されている我々を今こそ救ってくださる。この王がイスラエルのために国を建て直してくださる。人々はそんな期待をもってここまで付いて来たのです。

 しかし、今、そのメシアであるはずの人物が、十字架に磔にされているのです。自分の手足すら動かすことができません。「民衆は立って見つめていた」(35節)と書かれていました。彼らが見つめていたのは全く無力なメシアでした。ユダヤ人からすれば、無力なメシアなどあり得ない。無力なメシアなどいらないのです。

 はじめからメシアだとは思っていない議員たちは嘲って言いました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」それは今や民衆の声の代弁でもあったことでしょう。「もしメシアなら!」――いや、もはやメシアなどではあり得ない。この嘲りをローマ人も真似します。彼らはメシアとは呼びません。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。ユダヤ人にせよ異邦人にせよ、もはや誰もが、力ある王などとは思っていません。本当に力ある王でなければ、いらないのです。

 結局、そこに見るのはある意味では普遍的な人間の姿です。自分たちの求めているものが与えられるという期待があれば付いて行くのです。しかし、無力であることが明らかになったら、もういらない。もう必要ないのです。その意味において「十字架につけられたメシア」は普通に考えるならば人間にとって「いらないもの」の代表と言えます。

 しかし、教会は今日に至るまで十字架につけられたメシア(キリスト)を宣べ伝えてきたのです。後にパウロはこう書いています。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(1コリント1:22‐23)。それはなぜなのか。「そんなものいらない」と言われても仕方のない「十字架につけられたキリスト」を教会が今日まで宣べ伝えてきたのはなぜなのか。――その理由をはっきりと示しているのが、その後に書かれている話です。十字架につけられたメシアの傍らで、いったい何が起こっていたのか。それでは続きを読んでいきましょう。

我々を救え
 十字架につけられたメシアの両側には他に二本の十字架が立てられていました。十字架にかけられている一人がイエスを罵ります。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(39節)。先ほどの議員の嘲りに似ていますが、意味合いが少し違います。新共同訳では「自分自身と我々を救ってみろ」となっていますが、原文では「自分自身と我々を救え」という単純な命令文です。彼は嘲っているのではないのです。そこに込められているのは、「自分たちは救われて然るべきだ」という思いです。だからそうしないメシアを罵っているのです。「お前はメシアではないのか。ならば自分自身と俺たちを救え!」

 彼については「犯罪人の一人」と書かれています。いかなる罪を犯したのでしょうか。十字架刑というのは手間と時間がかかる処刑方法です。そのように時間をかけてさらしものにする大きな目的は見せしめです。見せしめにされるのは、主に主人に反抗して反乱を起こした奴隷たちか、ローマの国家権力に対する反逆を企てた活動家たちです。ですから多くの人はこの二人も単なる犯罪者ではなく政治犯であったろうと考えます。わたしもそう思います。

 彼らが政治犯であるならば、イエスを罵った男の言葉は大変よく分かります。彼らは正義のために戦ってきたのです。神のために戦ってきたのです。少なくとも彼らの意識としてはそうなのです。しかし、現実には異教のローマ人たちが勝ち誇り、自分たちは十字架にかけられて苦しみもがいて死を迎えようとしている。正しい者が苦しんで、悪い者がそれを喜んでいる。そんなこと、あってはならないことだという怒りが湧き上がります。神がおられるなら、メシアが来られたというなら、我々は真っ先に救われて然るべきだろう。お前はメシアではないのか。自分を救え。我々を救え!

 彼の抱いた思いは、多かれ少なかれ私たちにも覚えがあるようにも思います。苦しみの中で私たちもしばしば言うのでしょう。「わたしは悪くないのに!」悪い方が苦しんでいなくて、悪くない方が苦しんでいる。もし神がいるなら、もし救い主なるものがいるならば、このような状態のままに置かれているのはおかしいじゃないか!その思いは私自身覚えがあります。

わたしを思い出してください
 しかし、同じような立場で、同じ苦しみの中にあったもう一人の人は、そこで全く違ったことを口にしたのです。彼はこう言いました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40‐41節)。

 お前は神をも恐れないのか!そう彼は言いました。彼自身は苦しみの中にあって、死を目の前にしながら、神の御前に身を置いているのです。彼は神への恐れをもって神と向き合っているのです。誰が正しいとか誰が悪いとかいうこの世の判断の中に身を置いているのではなく、神の判断の前に身を置いているのです。その時に彼は思うのです。わたしは決して正しくなどない!だから、彼は言うのです。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」と。

 彼が言う「自分のやったこと」というのは、単にローマの法律に背くことや、反権力闘争において行ってきた暴力や殺人のことではありません。彼は「自分のやったこと」と、神の御前において言っているのです。そこでは、他の人は知らないかもしれないけれど神は知っておられること、が問題になるのです。他の人は知らないかもしれないけれど神だけは知っている心の最も深いところまでを含めた「自分のやったこと」なのです。ある意味では、神だけが知っている自分の人生のすべて、それこそが「自分のやったこと」です。それが正しく裁かれ、正しく報われるとするならばどうなるのか。彼は自分が十字架の上にいることが当然だと思えたのです。

 その時に、隣にいる十字架につけられたメシアは全く違って見えてくるのです。十字架につけられたメシアなんていらない?とんでもない!彼はメシアが同じ苦しみの中にまで来てくださっていることを見たのです。本来、苦しむ必要のない正しい方が、本当の意味で正しい方が、罪人である我々の苦しみの中にまで来てくださっている。こんなところにまで来てくださっている!そんな思いを込めて彼は言うのです。「しかし、この方は何も悪いことをしていない!」

 彼はそこにメシアを遣わされた神の憐れみを見たのです。神を恐れる者だけが知ることのできる神の憐れみを見たのです。ですから、その憐れみに寄りすがって最後の力を振り絞るようにして、彼はメシアに言いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)。あなたはこの世に来られ、人間の罪の最も深きところにまで来てくださいました。そこで苦しみもがいている私のところにまで来てくださいました。そこで見たわたしを、そこでこう祈ったわたしを、どうか忘れないでください。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」

 するとそこで主はすぐさま彼にこう宣言されたのでした。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」メシアは苦しむ罪人の傍らにまで来てくださって今、十字架の上におられる。しかし、メシアは王なのです。王の権能は裁きを行う権能なのです。メシアは最終的な裁きを行う王なのです。その王が権威をもって十字架の上から宣言するのです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる!」と。それは王が権威をもって宣言する罪の赦しに他なりません。彼は罪を赦された者として、罪のゆえに滅びる者ではなく、イエス様と一緒に楽園にいることになるのです。

 彼は神の国においてではなく、死んだ後にでもなく、生きている間に、依然として苦しみのただ中にある時に、その御方から罪の赦しと救いの宣言を聞くことになりました。これが今日も私たちに起こっていることです。これが十字架につけられたキリストです。教会が宣べ伝えてきた十字架につけられたキリストです。私たちもまた宣べ伝えられた十字架につけられたキリストの傍らにいるのです。あの赦された罪人と同じところにいるのです。

2022年11月16日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙二 3:14~18

 ペトロの手紙二 3:14‐18

 「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」。毎週の礼拝で私たちはキリストの再臨を信じる信仰を言い表しています。この信仰は、イエス様の約束に基づきます。この信仰が教会においていかに重んじられていたかは、聖書の至るところにおいて語られていることからも分かります。聖書全体もキリストの再臨を待望する言葉で締めくくられています。「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」(黙示録22:20‐21)。

 そのように、キリストの再臨と神の最終的な裁きについては多くの言葉が費やされているわけですが、それは裏を返せば、それほど手紙においてもその他の文書においても、語られねばならなかったということです。どれだけこの信仰が危機に瀕していたかということでもあるのです。それはそうでしょう。キリストの昇天後、何十年経っても実現しないわけですから。いや、それどころか二千年経っても実現していないのです。いつの時代においても、「再臨信仰」は大きな問いにさらされてきたのです。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ」(3:4)。

 しかし、先週お読みしたように、神がこの世界をそのままにしておかれることは、すなわち神の裁きがないことを意味しないのです。そのことをペトロは思い起こさせるのです。再臨の約束をあざけり、神の裁きを否定する偽教師たちに惑わされてはならないのです。「主の日は盗人のようにやってきます」。それはイエス様の語られたことでした。私たちはいつでも、そのつもりでいなくてはなりません。しかし、それは最後の破滅を恐れつつ待つのではありません。神の為さろうとしておられるのは世界の再創造なのです。新しい天と新しい地をもたらすことなのです。罪の宿る現在の天地が永遠に存在するのではありません。すべては新しくなります。私たちは「神の義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束によって待ち望んでいるのです」(13節)。

 神の約束によって待ち望む時、それは神が成されるのだから、私たちの側に何も為すべきことがないということではありません。私たちは漫然と何もせずに待つのではありません。否、むしろ私たちは新しい天と新しい地を待つ者であるゆえに、熱心に追い求めなくてはならないものがあるのです。14節に次のように書かれているとおりです。「だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい」(14節)。

 そうです、待ち望んでいる者であるからこそ、まず自分自身が「きずや汚れが何一つない」者となることを追い求めなくてはならないのです。他の人のきずや汚れは目に付きます。気になります。しかし、終末において問題となるのは、他の人がどうであったかではありません。私たち自身なのです。パウロもローマの教会に宛てて書いているとおりです。「わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです」(ローマ14:12)。大事なことは、他ならぬ私たち自身が自ら清められることを求めていくことなのです。

 それにしても「きずや汚れが何一つない」は言い過ぎではないか、と思う人もいることでしょう。しかし、聖書は繰り返しこのことについて語っているのです。パウロも言っています。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(フィリピ1:9‐11)。

 最終的にどのように「きずや汚れが何一つない」者となるのか。そんなことは私たちが案じることではありません。それは神の御業です。私たちはただひたすら望んで追い求めるだけです。パウロのように祈りつつ、神の御業を求めつつ、望んで追い求めるだけです。望むのか、それとも望まないか。そこには大きな違いがあるのです。

 また、私たちが終末を待ちつつ追い求めるもう一つのものは「平和(シャーローム)」です。「平和に過ごしていると神に認めていただけるように」と書かれています。これを読みますと、ただ他の人と平和に過ごしているかどうかが問題であるかのように見えなくもありません。しかし、原文では「平和の内にある者として神から見いだされるように」となっているのです。シャーロームの内にあるかどうか。それが問題とされているのです。

 それは単に他の人と仲良くしているかどうか、ということではありません。シャーロームの内にあるということは、まず神と調和しているということです。神との間が平和であるということなのです。最終的に裁きを行うのは人間ではなく神であるならば、当然、神との間が平和であるかどうかが究極的に問題となるはずです。それを追い求めるべきことは当然のことなのです。

 そこで大きな意味を持っているのが悔い改めと罪の赦しなのです。パウロが言うように、信仰によって義とされた者は既に神との間に平和を得ているのです(ローマ5:1)。しかし、神との間に平和を得ている者として実際にその平和の内を生きるためには、そして、その平和が他の人との間にも広がっていくためには、私たち自身の絶えざる悔い改めと赦しが必要とされるのです。

 シャーロームの内にあるかどうかは常に「今」が問題となります。信仰を持ったのが何十年前であるか、洗礼を受けたのが何十年前であるか、それは関係ありません。今、シャーロームの内にあるのか、そして終わりの日に平和の内にある者として神に見ていただけるのか。それが決定的に重要なことなのです。それゆえ、常にシャーロームの内にあることを、ひたすら追い求めなくてはならないのです。

 そして、この聖書箇所を読んでいる今、私たちにはまだ時間が与えられているということを感謝しなくてはなりません。この手紙の最初の読者もまた、そのことを思ったことでしょう。ですので、ペトロは言うのです。「また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい」(15節)と。そうです、時が与えられている今こそ、また心新たに歩み出す時です。清さを求め、平和を求め始める時なのです。今こそが悔い改めの時であり、赦しをいただいて平和の内を歩み出す時なのです。神様は今もなお忍耐していてくださるのですから。

 さて、この説教においても既に幾度かパウロの手紙を引用しております。ペトロが語っていることは基本的にはパウロが語っていることと同じなのです。ですからペトロも言うのです。「それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。その手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています」(15‐16節)。

 既に見てきた偽教師たちが、パウロの手紙のどのような部分を曲解してきたのかは容易に想像ができます。パウロが信仰による義認を語っている箇所であり、またキリストによる自由を語っている箇所なのでしょう。そのような箇所が不道徳の擁護に用いられたのです。しかし、それは自らに滅びを招くことに他なりません。この読者であるキリスト者たちにはそうなって欲しくないのです。ですからペトロは言います。「それで、愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい」と。

 このようにこの手紙を読んできますと、改めて正しい福音理解、正しい聖書解釈がいかに重要であるかを思わされます。この手紙の学びを始めた最初に申し上げたように、教会に危機をもたらすのは外からの迫害だけではありません。往々にして内側からの崩壊の方が危険なのです。キリスト者の信仰生活は必ずしも外からの圧力によって妨げられるのではありません。そうではなくて、間違った教えによって、そこから入り込む罪によって妨げられるのです。

 ですので、この手紙を締めくくるに当たってペトロが語っている言葉を、私たちはしっかりと心に留めなくてはなりません。「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい」(18節)。そうです、私たちは成長しなくてはならないのです。知識においても成長しなくてはならないのです。

(祈り)

2022年11月13日日曜日

「わたしは必ずあなたと共にいる」

出エジプト記 3:1-15

 今日お読みした聖書箇所にはモーセという人が出てきました。モーセはミディアン地方で羊飼いをしていました。40年前にエジプトから逃げてきたのです。結婚もしました。子どもも産まれました。そこには羊飼いとしての平和な生活がありました。

 しかし、モーセの内には絶えざる痛みがありました。それは一人のイスラエル人としての痛みでした。同胞であるイスラエル人たちが長い間エジプトにおいて奴隷とされ、追い使う者のゆえに苦しめられていたからです。モーセは彼らの苦しみを知っていました。しかし、もう一方においてモーセには分かっているのです。巨大なエジプトの権力を前にして、自分ができることなど何もない、と。実際、苦しむ同胞を見捨てて、モーセはその巨大な権力から逃げてきたのです。

 今日お読みした聖書箇所は、そのようなモーセに神様が現れたという話です。主はモーセに呼びかけられました。「モーセよ、モーセよ」と。そして、主は燃える柴の中からモーセに語りかけられたのでした。

わたしは降って行く
 モーセには、一人のイスラエル人として神様に問いたいことは山ほどあったと思います。なぜイスラエル人であるというだけで産まれたばかりの男の子が皆殺しにされなくてはならなかったのか。なぜイスラエルの母親は子を失った人として嘆きながら生きなくてはならなかったのか。なぜイスラエル人であるというだけで、男たちは馬やロバのごとくに扱われなくてはならなかったのか。その苦しみにはいったい何か意味があるのか。

 しかし、主がモーセに現れた時、主は長きに渡るイスラエルの苦しみについて、何一つ説明してはくださいませんでした。その代わりに、主はこう言われたのです。「わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」(7節)。これがモーセの知らされたことでした。

 神は苦しむ者に目を留めていてくださる。神は苦しむ者の叫びに耳を傾けていてくださる。叫びにも現すことができないその深い痛みをも知っていてくださる。神は見て、聞いて、知ってくださる神であるということ。そのことをモーセは知らされたのです。

 皆さん、私たちが今、礼拝しているのはそのような神様です。そのような神であることをモーセだけでなく、やがてイスラエルは知ることとなりました。そして、長いイスラエルの歴史を通じて、神がそのような神であることを決して忘れなかった人たちが後々にもいたのです。国を失っても、神殿が他国の軍隊によって破壊されるようなことがあっても、捕囚の民として異国の地に捕らえ移されるようなことがあっても、決して忘れることはなかった。だから今もこうして聖書に残されているのです。神は、見て、聞いて、知ってくださる神であるという神御自身の言葉が。

 やがてそのイスラエルの歴史の中にイエス様は来られ、その体をもって神がそのような神であることを現してくださいました。神は苦しむ者に目を留めてくださる。神は苦しむ者の叫びを聞いてくださる。神は知っていてくださる。イエス様がベトザタの池のほとりに横たわっている病人に目を留められたように、主が彼の悲しみに耳を傾けられたように、そして長い間の苦しみを知ってくださったように。

 私たちもこの世の苦難について問いたいことはたくさんあるのでしょう。私たちの人生に起こってくる様々な出来事について問いたいことはたくさんあるのでしょう。神はその全てに必ずしも答えてはくださらない。しかし、知るべきことは知らされているのです。私たちが信じる神様は、苦しんでいる者に目を留めてくださる神様だということ。神は、苦しんでいる者の叫びに耳を傾けてくださる神であるということ。そして、言葉にならない、声にさえならないような深い痛みさえも知ってくださる神であること。たとえ誰も分かってはくれないと思えたとしても、実はそうではないのです。

 いや、神は、見て、聞いて、知ってくださるだけではありません。主はこう言われました。「それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る」(8節)。モーセが知ったのは、「わたしは降って行く」と言われる神様です。私たちが信じているのは、そのような神様です。神は見て、聞いて、知って、そして憐れんでくださる。神が憐れんでくださるならば、その憐れみは天に留まってはいないのです。憐れみの神は降ってきてくださる。この世界において憐れみを現すために。神の憐れみはこの世界の中に形を取るのです。

 出エジプトは、まさに神の憐れみがこの世界に形をとったものでした。いや、神の憐れみはそこに留まりませんでした。神は人となられた、と聖書は伝えます。イエス・キリストの存在そのものが、まさに降って来られた神の現れに他なりませんでした。いや、神の憐れみはそこに留まりませんでした。復活して天に上げられたキリストは、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。聖霊が降って教会が誕生しました。教会が今なお地上に存在すること、私たちが御もとに招かれていること、それはまさに神の憐れみが天に留まってはいないことの目に見えるしるしなのです。

 だから私たちは、ここに集まっているのです。共に祈ります。見て、聞いて、知ってくださる神に祈ります。私たちは神が降りたもう神であり、既に降って来られた神であり、生きて働きたもう神であることを信じているからです。神の憐れみは天に留まってはおられないのです。

今、行きなさい
 しかし、そこでもう一つの大切なことに目を留めなくてはなりません。主はさらにこう言われました。

 「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(9‐10節)。

 主は、「わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出す」と言われたのではなかったでしょうか。しかし、その直後に主は言われるのです。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」話が違うではありませんか。主が降ってきて救い出すはずではないのでしょうか?

 そうです、確かに主が救い出すのです。モーセにできるはずがありませんから。巨大なエジプトの権力に太刀打ちできるはずがないのです。イスラエルの民がエジプトから解放されるとするならば、それはモーセがするのではなく、神様が降ってきてするのです。

 しかし、それでもなお「今、あなたが行きなさい」と主は言われるのです。モーセは行かなくてはならない。行って何をするのでしょう。何ができると言うのでしょう。モーセは言います。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(11節)と。そんなこと、できるわけないでしょう!いったいわたしを何者だと言うのですか!そうモーセは言わざるを得ません。しかし、主の答えはこうでした。「わたしは必ずあなたと共にいる」。

 主が共にいると言われる。ならば、モーセが何者であるか、何者でないかは大して重要ではないのです。実際モーセがしたことは、その後の物語に一つ一つ書かれていますが、すべてモーセに難なくできることでした。例えば、杖でナイル川の水を打つこと。杖を取って池の上に手を伸ばすこと。主に命じられて行ったことは、せいぜいその程度のことです。

 しかし、その程度のことを神は用いて、イスラエルをエジプトから解放されたのです。神は確かに降って来て、エジプト人の手から彼らを救い出されました。しかし、そのために主はモーセの行動を求められたのです。神は単独で事をなされないのです。神は人を用いられるのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」とはそういうことです。

 私たちは神に祈ります。聞いて下さる神に、私たちの苦しみを訴えます。この世界の苦境を訴えます。そして、神は祈りを聞いてくださる。そして、神は祈りに応えてくださる。神は降ってきて、祈りに応えてくださるのです。しかし、神様は単独で事をなされない。祈りに応えてくださる時に、神は私たちを用いられるのです。そこで主は私たちがしなくてはならないことを教えてくださるのです。それらはすべて、私たちにできることです。私たちにできることを、主はしなさいと言われるのです。

 言い換えるならば、私たち自身が祈りの答えの一部となるのです。私たちは祈る者であると同時に、祈りの答えの一部となるために召されてもいるのです。

 実際、今日まで教会が行ってきたこと、計画してきたことは、せいぜい人間ができる範囲のことに過ぎません。教会が祈り求めてきたことはそれよりも遙かに大きいことでしょう。しかし、それでもなお、私たちは私たちにできることを行うのです。愚か者のように杖でナイルを打ち、池の上に手を差し伸べるのです。どれもこれも人間のできる範囲のことでしかないけれど、それでよいのです。そこにはまた見えざる神の御手が動いているからです。神は降って来られる神だからです。

 大切なことは、ただ神が「しなさい」と言われることに従順であることです。「行きなさい」と言われるならば、行くことです。主がさせてくださる小さなことに忠実であることです。あとは神様がなさるのです。主は言われます。「わたしは必ずあなたと共にいる」と。

(祈り)

2022年11月9日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙二 3:1~13

ペトロの手紙二 3:1‐13

 2章前半をお読みしました時に、「罪の赦し」は「正しく裁く権威」と分かち難く結びついていることをお話ししました。神が罪を赦すことができるのは、神が罪を裁くことのできる御方だからです。罪を正しく裁き、断罪し、滅ぼす権威をお持ちの方だからこそ、その権威をもって他の誰も取り消すことのできない罪の赦しの宣言をすることができるのです。しかし、この手紙において問題になっている「偽教師たち」は、かつてイスラエルに現れた偽預言者と同じように、神が正しく裁かれる御方であり、私たちもまたその正しい裁きのもとにあるという事実から目を背けさせる教えを説いていたのでした。そのことが今日の箇所を読みますとよく分かります。

 もともと、神の正しい裁きを信じる信仰は、キリストの再臨を信じる信仰として言い表されてきました。使徒信条において私たちもまた「(主は)かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と告白しております。この信仰告白はもちろんキリストの語られた言葉に基づきます(例えば、マタイによる福音書24、25章を御覧ください)。

 ですから初代のキリスト者たちは、すぐにでもキリストがすぐにでも再び来られると信じて生活していました。自分が生きている間に、キリストの再臨はあるだろうと信じて疑わなかったのです。聖書の中にアラム語のままで「マラナ・タ」という当時の祈りの言葉が記されていますが(1コリント16:22)、それは「主よ、来てください」という意味です。それは彼らにとってリアルな期待だったのです。

 しかし、実際には、再び来られるはずのキリストは、なかなか来られませんでした。初代のキリスト者が次々と死んでいく中にあってもなお、キリストが来られることはありませんでした。いやそれどころか、二千年近くの時を経てもなお、キリストは再び来られてはいないのです。ですから、そこにあざける者も現れてくるのです。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」。

 「終わりの時には」そのような者たちが現れると書かれていましたが、現実には既に紀元一世紀、この手紙が書かれた頃に既にいたのです。この場合、「あざける者たち」とは、既に述べられてきた偽教師たちのことです。当時の教会は、既にそのような人々によって深刻な影響を受けていたのです。大きく揺さぶられていたのです。キリストの再臨を待ち望む信仰がゆさぶられたのです。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ」。それが教会の問いにもなっていたのです。もちろん、その問いは、ここにいる私たちと無関係ではありません。今なお主は再臨してはおられないからです。当時の教会がこのペトロの言葉を聞かなくてはならなかったとするならば、私たちにはなおさら必要です。

 まずペトロは彼らの「天地創造」という言葉を足がかりに、次のように語っています。「彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました」(5‐6節)。

 「地は…水によってできた」というあたりは当時の世界観を反映しているので、今日の私たちとしては理解することが困難です。しかし、それでもなお、全体としてペトロが言わんとしていることは分かります。それは極めて単純なことです。彼らが「天地創造」と言っているように、この世界は神が造られたのであり、神こそが天と地との主なのです。ですから当然、造った御方として裁く権威をもお持ちなのであり、実際にそのことを示された。それがノアの時代の洪水の話です。

 しかし、「滅んでしまいました」とありますが、実際には現在の天と地とが完全に滅ぼされたわけではありません。その意味では、あの洪水は最終的な裁きではなかったのです。ですから、第一の手紙には、キリストが、その時に死んでしまった「捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(1ペトロ3:19)という話が出て来るのです。最終的な裁きだったら、それはあり得ないことです。いずれにせよ、この「水による裁き」は最終的な裁きではありません。その意味において、その他に聖書のここかしこに見られる神の暫定的な裁きを代表していると言えるでしょう。

 ということは最終的な裁きは別にある。それが「火による裁き」として表現されているのです。「しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです」(7節)。あざける者たちは「何一つ変わらない」と言っていました。しかし、もし「何一つ変わらない」とするならば、それは神があえて「そのままにしておかれる」のであって、神の最終的な裁きはない、ということにはならないのです。

 そこで「このことだけは忘れないでほしい」とペトロは語り始めます。一つは、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」ということ。すなわち、神様は私たちと同じ時間感覚の中に生きてはおられないということです。それは既に旧約において語られていたことでした。詩編90編にこのように歌われています。「山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神。…千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」(詩編90:2,4)。

 ならば、私たちの目に事がゆっくりに見えたり、長い間待っているように感じたりしたとしても、神がのんびりと事を進めているわけではなく、予定が遅れているわけでもないということです。神には神の時があるのです。そして、実際に長い間神様が「そのままにしておられる」としても、それはあくまでも神様が「遅れて」いるわけではなくて、むしろ忍耐して待っておられるのだ、とペトロは言うのです。

 そしてまた、「そのままにしておかれる」とは何もしておられない、ということでもありません。神はあのノアの時と同じように、宣教の期間を定められました。宣教の期間は、神の赦しが宣べ伝えられている期間であり、悔い改めることが許されている期間です。神様はそのために働いておられるのです。

 そして、それはあくまでも神様が定める期間でありますから、それがいつまでであるかを人間は知りません。それはいつでも終わりとなり得るのです。ですから「主の日は盗人のようにやってきます」と言うのが正しいのです。もちろん、これはもともとイエス様が言われたことです。ですから、そのような「主の日」に向かっている私たちとしては、それにふさわしい向かい方があるのです。

 それは「待ち望む」ということです。12節にはこう書かれています。「神の日が来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。」神様が定められる終わりの日を「早める」というのは不思議な表現ですが、言わんとしていることは分かりますでしょう。私たちが悔い改めるようにと主が忍耐しているということならば、主の日を早めるということは私たちが悔い改めることであり、また他の人が主に立ち帰るように福音を宣べ伝えるということであり、そのようにして主と共に働くということに他なりません。

 この世界は神の最終的な裁きのもとにあって終わりとなります。しかし、それは新しい始まりなのであって、新しい天と新しい地の始まりなのです。この罪に満ちた世界は終わるのです。そして「義の宿る新しい天と新しい地」が到来するのです。それゆえに、「わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」。

(祈り)

2022年11月6日日曜日

「主に不可能なことがあろうか」

創世記 18:1-15

 今日読まれた旧約聖書にはアブラハムとサラという夫婦が出て来ました。彼らはイスラエルの先祖となる人たちです。神が彼らに与えた約束はこうでした。「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」(13:16)。私たちはその約束が後にイスラエル民族として現実となったことを知っています。しかし、当時、アブラハムにはまだ一人の子供もいませんでした。

 それから長い年月が経ちました。相変わらず、アブラハムとサラにはまだ一人の子供もいませんでした。そして、既にアブラハムもサラも年老いていました。神の約束はどうなったのでしょう。今日お読みしましたのは、そんなある日の出来事です。

天使の来訪
 神様は天使をアブラハムのところに遣わしました。しかし、一目で天使とわかるような姿で遣わしはしませんでした。アブラハムに分からないように、三人の旅人の姿で、天使たちを遣わしたのです。

 三人の旅人がアブラハムの住んでいた天幕(テント)の近くを通りかかりました。本当は天使なのです。しかし、アブラハムは知りません。アブラハムはどうしたでしょう。その旅人たちをとても親切にもてなしたのです。その様子が18章1節から8節にかけて書かれています。彼が旅人をもてなす姿が、極端と思えるほどに際だった形で描き出されています。

 アブラハムは言いました。「水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください」(5節)。そう言って、アブラハムは旅人たちのためにご馳走を用意しました。そして、彼らが食べている間、そばに立って自ら給仕してもてなしたのでした。

 その人たちが神の御使いだからではありません。アブラハムは知りませんから。恐らく普段からそのように旅人をもてなしていたのでしょう。天使に仕えるかのように、人々に親切に仕えることを常としていたのでしょう。そのような生活をもって、はからずも天使たちをもてなすことになりました。それはひいては神様をもてなしたということになろうかと思います。

 それゆえに、新約聖書にこんな言葉が書かれています。「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」(ヘブライ13:2)。誰かのために何かをする時に、「なんでわたしがこんなことをしなくてはならないのか」と不平を言いながら行うこともできます。しかし、「もしかしたら気づかずに天使たちに仕えているのかもしれない」と思いながら行うこともできるのでしょう。ならば、仕え方もずいぶん違ってくるかもしれません。

サラの笑い

 さて、そのように神様から遣わされた、旅人の姿をした天使たちは、アブラハムの心のこもったもてなしを受けました。しかし、彼らは食事をしに来たわけではありません。神の御言葉を伝えにきたのです。

 天使の一人が言いました。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」(10節)。アブラハムはこれを聞いてびっくりしたと思います。そして、気づいたに違いありません。この人たちはただの旅人ではない。この人たちは、「子孫を与える」と言われた神の約束を知っている。この人たちは、神の御言葉を伝えに来てくれたのだ、と。

 しかし、神様の御言葉を信じることは、とても難しいことでした。アブラハムは既に年を取っていましたから。とても男の子が生まれるとは思えません。それは、妻のサラも同じでした。サラもこの言葉を、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていました。そして、聖書にはこのように書かれているのです。「サラはひそかに笑った」。

 この「ひそかに笑った」という言葉は、サラをとても身近に感じさせます。確かにこういうことは私たちにもあるのでしょう。あからさまには笑わないのです。アブラハムもサラも、神様を信じている信仰者ですから。「そんなこと、いくら神様でもできないでしょう」と言って笑い飛ばすようなことはしません。

 でも、ひそかに笑うのです。「そんなことあるかいな」「そんなこと言ったって、現実はそう甘くはないですよ」。「信仰は信仰、現実は現実です」と、そう心の中でつぶやいて、ひそかに笑うのです。「サラはひそかに笑った」。サラの気持ちはよくわかります。

 しかし、人間にとって「ひそかに」であっても、神様はすべてご存知です。彼らの一人が言いました。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。…」(13‐14節)。それはまさにすべてをご存知である神様の言葉でした。ですから聖書には天使が言ったとは書いてない。「主はアブラハムに言われた」と書かれているのです。そう、主が言われたのです。

 サラはドキッとしたことでしょう。神が語られるということは、すべてをご存知である神が語られるということなのです。そこで、サラは恐ろしくなりました。サラは偽りの後ろに隠れようとしました。彼女は打ち消して言います。「わたしは笑いませんでした」。しかし、もとより神様から隠れられるはずがありません。主は言われます。「いや、あなたは確かに笑った」。

笑いを与えてくださる神
 教会生活の中で、神様との関わりの中で与えられる一つの経験は、神様は何もかもご存知だと実感するという経験です。「いや、あなたは確かに笑った」と聞いた時のサラのように。

 しかし、すべてをご存知である御方は、恵み深い御方でもあるのです。「主に不可能なことがあろうか」という問いかけは、ひそかに笑ったサラの不信仰を責める言葉ではありませんでした。そうではなくて、「信じなさい」という呼びかけに他ならなかったのです。ですから、サラのひそかな不信仰にもかかわらず、こう続けられているのです。「主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」(14節)。

 「サラはひそかに笑った。」しかし、主はそんなサラに、本当の「笑い」を与えようとしておられたのでした。

 主の約束のとおり、やがてサラはみごもって男の子を産みました。そして、その子は「イサク」と名付けられることになるのです。その名前は「彼は笑う」という意味です。その時にサラが口にした言葉が次のように記されています。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑いを共にしてくれるでしょう」(21:6)。

 サラは心から笑えるようになりました。神の御言葉を信じることができなくて、心の中でひそかに笑っていたサラでした。しかし、主は、そんなサラが神の御業を見て心から笑えるようにしてくださいました。――「主に不可能なことがあろうか」。

主に不可能なことがあろうか
 それから1800年ほど経ったある日、神様は天使を一人のおとめのところに遣わしました。今度は旅人の姿ではありません。その天使は名はガブリエル。おとめの名前はマリアと言いました。ガブリエルはマリアに、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と告げました。いわゆる「受胎告知」の場面です。マリアは言いました。「どうしてそんなことがありまえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。するとガブリエルはこう言ったのです。「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37)。

 聖書が神の言葉として私たちに語っていることは、老人に子供が生まれることよりも、はるかに大きなことです。神の独り子が人間となりこの世に来られた、というのです。そんなことがあるだろうか。――「主に不可能なことがあろうか」。

 それだけではありません。神の独り子が十字架にかかられ、すべての人の罪を代わりに負って死なれた。すべての人の罪の贖いは成し遂げられた。罪の贖いを成し遂げて死なれたイエスは、復活させられ、天に挙げられ、今も生きておられる。そんなことがあるだろうか。――「主に不可能なことがあろうか」。

 本来何よりも不可能なことは、罪深い私たちが救われることなのでしょう。こんな私たちの罪が赦され、救われ、永遠の命を与えられ、死を越えた希望をもって生きられること。それこそ本当は不可能な、信じがたいことなのでしょう。やがて罪と死から完全に解放されて、神の栄光にあずかることになる。主は私たちの目から涙をことごとく拭い取ってくださる。悲しみの故の涙も、怒りと憎しみのゆえの涙も、挫折と絶望の涙も、すべて過去のこととなるのです。そんなことがどうしてありえるでしょうか。しかし、聖書は言うのです。「主に不可能なことがあろうか」。

 サラにとってそうであったように、私たちにとっても、これは「信じなさい」との呼びかけの言葉に他なりません。主は私たちに「信じなさい」と呼び掛け、やがて本当の笑いを与えてくださるのです。やがて私たちはその約束の実現を見て、心から笑うことになるのです。


(祈り)

2022年11月2日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙二 2:10b~22

 ペトロの手紙二 2:10b‐22

 今日の箇所には、実に激しい言葉が並べられています。そこまで言っていいのか、と思うほどです。しかし、私たちはこの異様なまでの激しい糾弾にこそ、事の深刻さがよく現れていることを見なくてはなりません。

 ここでは偽預言者が非難されているわけですが、実際には多くの人々の目には決して悪人には映っていないのです。むしろ彼らは魅力的であり、自由な人であり、その教説は既成の枠に捕らわれない新しさを感じさせるものであったと思われます。しかし、ペトロの目から見たら、偽預言者とその活動、またその影響というものは、ここに書かれているように見えるのです。ペトロの目にはものすごく深刻な事態なのです。だから深刻な事態として反応し、激しい言葉で語っているのです。

 このような聖書の言葉に触れた場合、むしろ私たちの方が時としてあまりにも無感覚になっているのではないか、あまりにも鈍くなっているのではないか、ということを考えるべきなのでしょう。

 例えば、ここに突然犬が入ってきて糞をしたら、ここにいる皆が一斉に嫌な顔をするはずです。そして、一刻も早くそれをかたづけようとするに違いありません。もし糞が放置されたままで、みんな平気な顔をして祈り会を続けていたら、それこそ何かがおかしいわけです。「ああ、きたない。早く片付けなくちゃ」というのが正常な反応であるわけです。同じように、間違った教えや汚れた行為、神の目に忌むべきことについても、そのように反応できる正常な感覚を私たちは養わなくてはならないのです。私たち自身がまだ感覚が鈍くて反応できない場合には、このように聖書の中に出て来る人たちの反応を見て学んでいかなくてはならないのです。

 ではペトロはいったいどのような事態を深刻に捕らえ、どのような事柄について反応しているのでしょうか。それは偽教師たちの教えによって、異邦人社会において行われている異教的な享楽や性的な放縦が教会の中に持ち込まれているという事態です。具体的な状況は、「彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています」という言葉や、「あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています」という言葉から察することができます。

 「宴席」と言いましても、それは教会の外での宴会の話ではありません。教会の中で行われていた「愛餐(アガペー)」の話です。教会において行われていた愛餐が、このようなものとなっていたということです。偽教師たちの教えが、そのような事態を引き起こしていたのです。

 いったいどのような教えがそのような事態を引き起こしていたのでしょうか。その詳細は分かりませんが、18節以下には次のように書かれています。「彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです」(18‐19節)。それは福音によって与えられる「自由」に関するものであったことが分かります。

 このことに関して恐らく参考になるのは、ヨハネの黙示録に記されている七つの教会に宛てた手紙でしょう。例えば、ティアティラにある教会に対して、次のようなことが主の言葉として語られています。「しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている」(20節)。似たようなことが14節では「バラムの教え」として出てきます。

 「偶像に献げた肉」を食べてもよいのか、それともいけないのか、という話は、実は初期の教会を二分するような問題でありました。実際にはほとんどの肉が一旦偶像に献げられて市場に出回る。その肉を食べてよいのか。ある人は「当然、食べてはいけない」と考えました。しかし、ある人は「私たちはキリストによって自由にされたのだから、すべてのことは許されている」と考えたのです。

 これに対してパウロは基本的に食べることは自由だと考えていたようですが、愛に基づく配慮をもって、「兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(1コリント8:13)とも語っていました。実は既に最初の教会会議であるエルサレム会議(使徒言行録15章)において異邦人が割礼を受け律法を守るべきか否かが論じられた時、その最終的な結論として次のような手紙を送られていたのです。「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります」(使徒15:28‐29)。

 しかし、異邦人を中心とした教会の中に、あえて「自由」を強調する人々が現れてきたのです。そのひとりが例えばティアティラのイゼベルのような人だったわけです。彼女はあえて「偶像に献げた肉」を食べさせたのです。自由にされたのだから食べるべきだ、と。そして、その自由の強調は、「みだらなこと」すなわち性的な不道徳さえも許されているとしたのです。これが14節では「バラムの教え」と呼ばれているのでしょう。

 今日の箇所においてもバラムへの言及がありますから、ペトロが問題にしている偽教師たちもティアティラのイゼベルのような人たちだったのだろうと思われます。キリストの十字架を信じていないわけではありません。しかし、キリストの十字架を、いわば罪を犯すことへの許可証としてしまっていたのです。

 そのような「自由」の教えが、実際には人を自由にはしないということをペトロはよく知っていました。ですから彼はこう言うのです。「その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです」。「滅亡の奴隷」は「罪の奴隷」と言い換えてもよいかもしれません。自由どころか、滅亡をもたらす罪に打ち負かされているではないか。打ち負かされて服従させられているではないか、と言うのです。

 かつてイエス様はこのような話をされました。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」(ルカ11:14‐26)。

 ここでペトロが言っているのは同じことです。「わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります」(20節)。

 偽教師たちがしていることは、結局、世の汚れに「再び巻き込まれて打ち負かされる」ことを助けるような教えでしかなかったのです。イエス様の表現によれば、「どうぞ七つの汚れた霊よ、自由のお入りくださってお住みください」と言うようなものなのです。それは決して自由をもたらす教えではないのです。

 そのように教会はその初めの頃から、外からの迫害だけではなく、キリストの福音と相容れないものが教会の中に、そしてひとりひとりの生活の中に入り込む危険と向き合っていたのです。それは今日においても変わることはありません。私たち自身、先に触れましたように、間違った教えや汚れた行為、神の目に忌むべきことについて、使徒たちが示したのと同じ正常な感覚を養わなくてはならないのです。

(祈り)

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