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2025年3月30日日曜日

「暗闇の中に輝くともし火」

2025年3月30日 主日礼拝説教

聖書:マタイによる福音書17:1-8、ペトロの手紙二 1:16-19

復活の光が射し込んで
 本日の福音書朗読で読まれたのは、山の上においてイエス様の姿が変わったという出来事でした。それだけではありません。ペトロを初めとする3人の弟子たちは、そこでモーセとエリヤがを見たというのです。モーセは律法を代表する人物であり、エリヤは預言者を代表する人物です。この二人で旧約聖書全体を代表していると言うこともできるます。そのような二人が現れてイエス様と語り合っていたのをペトロたちは見たのです。

 イエス様と共にモーセとエリヤが立っている。すなわち、イエス様と共に旧約聖書が立っている。それは、イエス様がこれから受けようとしている苦難は、旧約聖書と無関係ではない、ということを意味しています。それは起こるべきこととして、旧約聖書の預言の言葉によって既に語られていたのです。言い換えるなら、キリストの御受難はすべて神のご計画によって起こったことだ、ということです。

 神のご計画によって起こったことであるならば、苦難は苦難で終わりません。キリストは十字架にかけられて死んで、それで終わりとはなりません。それが神のご計画であるならば、その先があるはずです。そして、事実その先があったのだ、と聖書は私たちに伝えているのです。私たちが毎年イースターに祝っている、キリストの復活です。

 今日の聖書箇所において、あの日、あの山の上でペトロたちが見たキリストの顔は太陽のように輝いていたと書かれていました。服は光のように白くなったと書かれていました。ペトロたちがあの山の上で見せていただいたのは、まさに天の御国の輝き、復活の輝きに他なりませんでした。ちょうど雨雲の隙間から太陽の光が差し込むように、復活の光がイエス様の御生涯の一こまに差し込むのを彼らは前もって見せていただいたのです。

 それはなぜでしょう。彼らはやがてキリストの悲惨な姿を見ることになるからです。この御方が捕らえられ、不当な裁きにかけられ、鞭打たれ、ボロボロにされて十字架につけられるのを見ることになるのです。そして、見捨てられた者として死んでいくのを見ることになるのです。だからこそ、神は彼らに前もって見せてくださったのです。すべては神の御手の中にあり、ご計画の中にあることを。そして、その御心において十字架の先には復活があることを、ペトロたち三人に、先に見せてくださったのです。

キリストの変容
 いやそれだけではありません。彼らが目にしたキリストの御姿の変化には、さらに大きな意味があったのです。そこには「イエスの姿が彼らの目の前で《変わり》」と書かれていました。実はこの「変わる」という言葉ですが、本当は「イエスの姿が《変えられた》」と受け身で書かれているのです。「変わる」のと「変えられる」のでは意味合いが違いますでしょう。

 イエス様は神の御子でありながら、神の側にではなく、人間の側に身を置いて、「(神によって)変えられた」という書き方がされているのです。この御方は神だから栄光の姿を現した――のではなく、私たちと同じ人間として、栄光の姿に「変えられた」のです。

 ならばペトロが見たものは、ただキリストの復活を指し示すだけではありません。それは私たちの復活をも指し示す出来事なのです。救われた人間が神によって最終的にどのように変えられるのか、ということをペトロは前もって見せていただいたのです。

 先ほどの続きを御覧ください。キリストの御姿が変わり、モーセとエリヤと共に語り合っている姿を見たペトロは、イエス様にこう言いました。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(4節)。

 「ここにいるのは、すばらしいことです!」そうペトロが言っているように、山の上における神秘的な体験は、この上ない幸福感に満ちたものだったのでしょう。「仮小屋を三つ建てましょう」という無茶苦茶な提案も、単純にその幸福な山の上に留まりたいという気持ちの表れだったのかもしれません。

 しかし、ペトロたちは山の上に留まっているわけにはいかないのです。やがて光り輝く雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。神自らペトロたちにこう語られたのです。「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。これに聞け」。「聞け」とは「聞き従え」という意味です。

 父なる神は、確かにイエス様について「これはわたしの愛する子」と宣言されました。しかし、その神の「愛する子」は、神秘の山の上に留まっている御方ではないのです。人々が生活する山の下へと向かわれるのです。そして、エルサレムへと、十字架へと向かわれるのです。その御方に聞き従っていくならば、どうなりますか。弟子たちも山の上に留まっているわけにはいきません。弟子たちは山の下で、現実のこの世界のただ中で、キリストに従っていくことになるのです。

 山の下において、現実のこの世界において、神を愛し人を愛しキリストに従って生きようとするならば、何が見えてきますか。キリストに少しで「従おう」とした人なら知っています。そこでは本当の意味で自分の罪深さも見えてくるのです。自分がいかに愛に欠けているか、いかにキリストの姿からかけ離れ、いかに自分が醜いエゴイストであるかが、どうしたって見えてくるのです。

私たちの希望はどこに
 しかし、だからこそ、私たちはあの時、あの山の上にいたペトロの言葉に耳を傾けなくてはならないのです。今日の第二朗読において読まれたペトロの手紙には、次のように書かれていました。「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです」(2ペトロ2:16)。

 一読してわかりますように、ペトロは実際に目撃したこと、また実際に聞いたこと、すなわちそれが事実であるということに、非常にこだわっています。「作り話」ではない、と。この「作り話」とは「神話」と訳せる言葉です。ペトロは「神話ではない。事実なのだ」と言っているのです。

 宗教的な思想を伝えるために多くの神話が用いられていた、そんな時代です。ペトロはそのように数多くの神話が語られている世界だからこそ、あえて断言するのです。イエス・キリストの力に満ちた来臨を宣べ伝えるのに用いたのは、神話ではなく、イエスという御方における出来事として、実際に見たり聞いたりしたことなのだ、と。

 さらに言うならば、ペトロがそう語るのは、自らが世を去る時が近いことを知っているからなのです。今日の箇所の直前にはこう書かれています。「わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです」(同14節)。「仮の宿」とはこの世を生きるために与えられたこの体のことです。この体は一時的な仮の宿に過ぎません。そして、やがて役割を終える時が来るのです。

 そのようにこの世の生を終える時が近いことを悟ったペトロが、まず考えていたのは自分自身のことではありませんでした。そうではなくて、信仰の仲間のことだったのです。「自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます」(同15節)。

 彼らは福音の真理を既に知っているのです。だから「思い出してもらう」と言うのです。知らないわけではない。しかし、お互いによって、絶えず思い起こされる必要があるのです。信仰を励まし合うとはそういうことです。ペトロは自らが世を去る時が近いことを知るゆえに、残された時を用いて彼らの信仰を励まし支えようとしているのです。だからこそ伝えられている真理が事実に基づいていることにこだわるのです。

 先ほど、「現実のこの世界において、神を愛し人を愛しキリストに従って生きようとするならば、自分がいかに愛に欠けているか、いかにキリストの姿からかけ離れ、いかに自分が醜いエゴイストであるかが見えてくる」と申しました。そこで見えてくるのは、自分自身についての「事実」なのです。自分の内にある「罪」という「事実」なのです。

 そして、人間の罪が事実であるならば、罪の赦しも事実でなくてはならないのです。罪からの救いも事実でなくてはならないのです。事実でないならば、言葉そのものはどんなに慰めに満ちていたとしても、所詮は気休めにしかなりません。自分に残された時間が短いならば、語るべき言葉は厳選されていきます。気休めを語っている暇はありません。だから、ペトロは、実際に目撃したこと、確かに耳にしたことをに基づいて希望を語るのです。

 今私たちはレントの期間を過ごしています。悔い改めの期間、それは私たちが実生活の中で御言葉に聴き、私たちの現実と正直に向き合う期間でもあります。自分が見えてくるならば、悔い改めと罪の赦しを求める祈りも切実なものとなるでしょう。また、自分は変わりたい、変えていただきたいという願いも切実なものとなるのでしょう。

 今のままで別に良いではないか、と思っている人には今日の箇所は大して意味を持たないかもしれません。しかし、今の姿が神の子どもたちの本来の姿でないことを知るならば、今日の聖書の言葉は大きな意味を持つことになるでしょう。キリストの姿が変えられた。その姿を指し示して神は私たちに言われるのです。あなたも変えられると。あなたはやがて栄光に輝くキリストと同じ姿となるのだ、と。

 「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。これに聞け」という招きは、そのような最終的な救いの完成に向けて語られているのです。そうです、私たちに救いが完成する夜明けが来るのです。聖書が語る救いの言葉、救いの預言の言葉はキリストにおいて、その十字架の死と復活を経て、いよいよ確かなものとなりました。それゆえに、あの日イエス様の栄光を目撃したペトロはこう書いているのです。「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください」(2ペトロ1:1)。

2022年11月16日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙二 3:14~18

 ペトロの手紙二 3:14‐18

 「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」。毎週の礼拝で私たちはキリストの再臨を信じる信仰を言い表しています。この信仰は、イエス様の約束に基づきます。この信仰が教会においていかに重んじられていたかは、聖書の至るところにおいて語られていることからも分かります。聖書全体もキリストの再臨を待望する言葉で締めくくられています。「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」(黙示録22:20‐21)。

 そのように、キリストの再臨と神の最終的な裁きについては多くの言葉が費やされているわけですが、それは裏を返せば、それほど手紙においてもその他の文書においても、語られねばならなかったということです。どれだけこの信仰が危機に瀕していたかということでもあるのです。それはそうでしょう。キリストの昇天後、何十年経っても実現しないわけですから。いや、それどころか二千年経っても実現していないのです。いつの時代においても、「再臨信仰」は大きな問いにさらされてきたのです。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ」(3:4)。

 しかし、先週お読みしたように、神がこの世界をそのままにしておかれることは、すなわち神の裁きがないことを意味しないのです。そのことをペトロは思い起こさせるのです。再臨の約束をあざけり、神の裁きを否定する偽教師たちに惑わされてはならないのです。「主の日は盗人のようにやってきます」。それはイエス様の語られたことでした。私たちはいつでも、そのつもりでいなくてはなりません。しかし、それは最後の破滅を恐れつつ待つのではありません。神の為さろうとしておられるのは世界の再創造なのです。新しい天と新しい地をもたらすことなのです。罪の宿る現在の天地が永遠に存在するのではありません。すべては新しくなります。私たちは「神の義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束によって待ち望んでいるのです」(13節)。

 神の約束によって待ち望む時、それは神が成されるのだから、私たちの側に何も為すべきことがないということではありません。私たちは漫然と何もせずに待つのではありません。否、むしろ私たちは新しい天と新しい地を待つ者であるゆえに、熱心に追い求めなくてはならないものがあるのです。14節に次のように書かれているとおりです。「だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい」(14節)。

 そうです、待ち望んでいる者であるからこそ、まず自分自身が「きずや汚れが何一つない」者となることを追い求めなくてはならないのです。他の人のきずや汚れは目に付きます。気になります。しかし、終末において問題となるのは、他の人がどうであったかではありません。私たち自身なのです。パウロもローマの教会に宛てて書いているとおりです。「わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです」(ローマ14:12)。大事なことは、他ならぬ私たち自身が自ら清められることを求めていくことなのです。

 それにしても「きずや汚れが何一つない」は言い過ぎではないか、と思う人もいることでしょう。しかし、聖書は繰り返しこのことについて語っているのです。パウロも言っています。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(フィリピ1:9‐11)。

 最終的にどのように「きずや汚れが何一つない」者となるのか。そんなことは私たちが案じることではありません。それは神の御業です。私たちはただひたすら望んで追い求めるだけです。パウロのように祈りつつ、神の御業を求めつつ、望んで追い求めるだけです。望むのか、それとも望まないか。そこには大きな違いがあるのです。

 また、私たちが終末を待ちつつ追い求めるもう一つのものは「平和(シャーローム)」です。「平和に過ごしていると神に認めていただけるように」と書かれています。これを読みますと、ただ他の人と平和に過ごしているかどうかが問題であるかのように見えなくもありません。しかし、原文では「平和の内にある者として神から見いだされるように」となっているのです。シャーロームの内にあるかどうか。それが問題とされているのです。

 それは単に他の人と仲良くしているかどうか、ということではありません。シャーロームの内にあるということは、まず神と調和しているということです。神との間が平和であるということなのです。最終的に裁きを行うのは人間ではなく神であるならば、当然、神との間が平和であるかどうかが究極的に問題となるはずです。それを追い求めるべきことは当然のことなのです。

 そこで大きな意味を持っているのが悔い改めと罪の赦しなのです。パウロが言うように、信仰によって義とされた者は既に神との間に平和を得ているのです(ローマ5:1)。しかし、神との間に平和を得ている者として実際にその平和の内を生きるためには、そして、その平和が他の人との間にも広がっていくためには、私たち自身の絶えざる悔い改めと赦しが必要とされるのです。

 シャーロームの内にあるかどうかは常に「今」が問題となります。信仰を持ったのが何十年前であるか、洗礼を受けたのが何十年前であるか、それは関係ありません。今、シャーロームの内にあるのか、そして終わりの日に平和の内にある者として神に見ていただけるのか。それが決定的に重要なことなのです。それゆえ、常にシャーロームの内にあることを、ひたすら追い求めなくてはならないのです。

 そして、この聖書箇所を読んでいる今、私たちにはまだ時間が与えられているということを感謝しなくてはなりません。この手紙の最初の読者もまた、そのことを思ったことでしょう。ですので、ペトロは言うのです。「また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい」(15節)と。そうです、時が与えられている今こそ、また心新たに歩み出す時です。清さを求め、平和を求め始める時なのです。今こそが悔い改めの時であり、赦しをいただいて平和の内を歩み出す時なのです。神様は今もなお忍耐していてくださるのですから。

 さて、この説教においても既に幾度かパウロの手紙を引用しております。ペトロが語っていることは基本的にはパウロが語っていることと同じなのです。ですからペトロも言うのです。「それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。その手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています」(15‐16節)。

 既に見てきた偽教師たちが、パウロの手紙のどのような部分を曲解してきたのかは容易に想像ができます。パウロが信仰による義認を語っている箇所であり、またキリストによる自由を語っている箇所なのでしょう。そのような箇所が不道徳の擁護に用いられたのです。しかし、それは自らに滅びを招くことに他なりません。この読者であるキリスト者たちにはそうなって欲しくないのです。ですからペトロは言います。「それで、愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい」と。

 このようにこの手紙を読んできますと、改めて正しい福音理解、正しい聖書解釈がいかに重要であるかを思わされます。この手紙の学びを始めた最初に申し上げたように、教会に危機をもたらすのは外からの迫害だけではありません。往々にして内側からの崩壊の方が危険なのです。キリスト者の信仰生活は必ずしも外からの圧力によって妨げられるのではありません。そうではなくて、間違った教えによって、そこから入り込む罪によって妨げられるのです。

 ですので、この手紙を締めくくるに当たってペトロが語っている言葉を、私たちはしっかりと心に留めなくてはなりません。「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい」(18節)。そうです、私たちは成長しなくてはならないのです。知識においても成長しなくてはならないのです。

(祈り)

2022年11月9日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙二 3:1~13

ペトロの手紙二 3:1‐13

 2章前半をお読みしました時に、「罪の赦し」は「正しく裁く権威」と分かち難く結びついていることをお話ししました。神が罪を赦すことができるのは、神が罪を裁くことのできる御方だからです。罪を正しく裁き、断罪し、滅ぼす権威をお持ちの方だからこそ、その権威をもって他の誰も取り消すことのできない罪の赦しの宣言をすることができるのです。しかし、この手紙において問題になっている「偽教師たち」は、かつてイスラエルに現れた偽預言者と同じように、神が正しく裁かれる御方であり、私たちもまたその正しい裁きのもとにあるという事実から目を背けさせる教えを説いていたのでした。そのことが今日の箇所を読みますとよく分かります。

 もともと、神の正しい裁きを信じる信仰は、キリストの再臨を信じる信仰として言い表されてきました。使徒信条において私たちもまた「(主は)かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と告白しております。この信仰告白はもちろんキリストの語られた言葉に基づきます(例えば、マタイによる福音書24、25章を御覧ください)。

 ですから初代のキリスト者たちは、すぐにでもキリストがすぐにでも再び来られると信じて生活していました。自分が生きている間に、キリストの再臨はあるだろうと信じて疑わなかったのです。聖書の中にアラム語のままで「マラナ・タ」という当時の祈りの言葉が記されていますが(1コリント16:22)、それは「主よ、来てください」という意味です。それは彼らにとってリアルな期待だったのです。

 しかし、実際には、再び来られるはずのキリストは、なかなか来られませんでした。初代のキリスト者が次々と死んでいく中にあってもなお、キリストが来られることはありませんでした。いやそれどころか、二千年近くの時を経てもなお、キリストは再び来られてはいないのです。ですから、そこにあざける者も現れてくるのです。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」。

 「終わりの時には」そのような者たちが現れると書かれていましたが、現実には既に紀元一世紀、この手紙が書かれた頃に既にいたのです。この場合、「あざける者たち」とは、既に述べられてきた偽教師たちのことです。当時の教会は、既にそのような人々によって深刻な影響を受けていたのです。大きく揺さぶられていたのです。キリストの再臨を待ち望む信仰がゆさぶられたのです。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ」。それが教会の問いにもなっていたのです。もちろん、その問いは、ここにいる私たちと無関係ではありません。今なお主は再臨してはおられないからです。当時の教会がこのペトロの言葉を聞かなくてはならなかったとするならば、私たちにはなおさら必要です。

 まずペトロは彼らの「天地創造」という言葉を足がかりに、次のように語っています。「彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました」(5‐6節)。

 「地は…水によってできた」というあたりは当時の世界観を反映しているので、今日の私たちとしては理解することが困難です。しかし、それでもなお、全体としてペトロが言わんとしていることは分かります。それは極めて単純なことです。彼らが「天地創造」と言っているように、この世界は神が造られたのであり、神こそが天と地との主なのです。ですから当然、造った御方として裁く権威をもお持ちなのであり、実際にそのことを示された。それがノアの時代の洪水の話です。

 しかし、「滅んでしまいました」とありますが、実際には現在の天と地とが完全に滅ぼされたわけではありません。その意味では、あの洪水は最終的な裁きではなかったのです。ですから、第一の手紙には、キリストが、その時に死んでしまった「捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(1ペトロ3:19)という話が出て来るのです。最終的な裁きだったら、それはあり得ないことです。いずれにせよ、この「水による裁き」は最終的な裁きではありません。その意味において、その他に聖書のここかしこに見られる神の暫定的な裁きを代表していると言えるでしょう。

 ということは最終的な裁きは別にある。それが「火による裁き」として表現されているのです。「しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです」(7節)。あざける者たちは「何一つ変わらない」と言っていました。しかし、もし「何一つ変わらない」とするならば、それは神があえて「そのままにしておかれる」のであって、神の最終的な裁きはない、ということにはならないのです。

 そこで「このことだけは忘れないでほしい」とペトロは語り始めます。一つは、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」ということ。すなわち、神様は私たちと同じ時間感覚の中に生きてはおられないということです。それは既に旧約において語られていたことでした。詩編90編にこのように歌われています。「山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神。…千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」(詩編90:2,4)。

 ならば、私たちの目に事がゆっくりに見えたり、長い間待っているように感じたりしたとしても、神がのんびりと事を進めているわけではなく、予定が遅れているわけでもないということです。神には神の時があるのです。そして、実際に長い間神様が「そのままにしておられる」としても、それはあくまでも神様が「遅れて」いるわけではなくて、むしろ忍耐して待っておられるのだ、とペトロは言うのです。

 そしてまた、「そのままにしておかれる」とは何もしておられない、ということでもありません。神はあのノアの時と同じように、宣教の期間を定められました。宣教の期間は、神の赦しが宣べ伝えられている期間であり、悔い改めることが許されている期間です。神様はそのために働いておられるのです。

 そして、それはあくまでも神様が定める期間でありますから、それがいつまでであるかを人間は知りません。それはいつでも終わりとなり得るのです。ですから「主の日は盗人のようにやってきます」と言うのが正しいのです。もちろん、これはもともとイエス様が言われたことです。ですから、そのような「主の日」に向かっている私たちとしては、それにふさわしい向かい方があるのです。

 それは「待ち望む」ということです。12節にはこう書かれています。「神の日が来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。」神様が定められる終わりの日を「早める」というのは不思議な表現ですが、言わんとしていることは分かりますでしょう。私たちが悔い改めるようにと主が忍耐しているということならば、主の日を早めるということは私たちが悔い改めることであり、また他の人が主に立ち帰るように福音を宣べ伝えるということであり、そのようにして主と共に働くということに他なりません。

 この世界は神の最終的な裁きのもとにあって終わりとなります。しかし、それは新しい始まりなのであって、新しい天と新しい地の始まりなのです。この罪に満ちた世界は終わるのです。そして「義の宿る新しい天と新しい地」が到来するのです。それゆえに、「わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」。

(祈り)

2022年11月2日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙二 2:10b~22

 ペトロの手紙二 2:10b‐22

 今日の箇所には、実に激しい言葉が並べられています。そこまで言っていいのか、と思うほどです。しかし、私たちはこの異様なまでの激しい糾弾にこそ、事の深刻さがよく現れていることを見なくてはなりません。

 ここでは偽預言者が非難されているわけですが、実際には多くの人々の目には決して悪人には映っていないのです。むしろ彼らは魅力的であり、自由な人であり、その教説は既成の枠に捕らわれない新しさを感じさせるものであったと思われます。しかし、ペトロの目から見たら、偽預言者とその活動、またその影響というものは、ここに書かれているように見えるのです。ペトロの目にはものすごく深刻な事態なのです。だから深刻な事態として反応し、激しい言葉で語っているのです。

 このような聖書の言葉に触れた場合、むしろ私たちの方が時としてあまりにも無感覚になっているのではないか、あまりにも鈍くなっているのではないか、ということを考えるべきなのでしょう。

 例えば、ここに突然犬が入ってきて糞をしたら、ここにいる皆が一斉に嫌な顔をするはずです。そして、一刻も早くそれをかたづけようとするに違いありません。もし糞が放置されたままで、みんな平気な顔をして祈り会を続けていたら、それこそ何かがおかしいわけです。「ああ、きたない。早く片付けなくちゃ」というのが正常な反応であるわけです。同じように、間違った教えや汚れた行為、神の目に忌むべきことについても、そのように反応できる正常な感覚を私たちは養わなくてはならないのです。私たち自身がまだ感覚が鈍くて反応できない場合には、このように聖書の中に出て来る人たちの反応を見て学んでいかなくてはならないのです。

 ではペトロはいったいどのような事態を深刻に捕らえ、どのような事柄について反応しているのでしょうか。それは偽教師たちの教えによって、異邦人社会において行われている異教的な享楽や性的な放縦が教会の中に持ち込まれているという事態です。具体的な状況は、「彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています」という言葉や、「あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています」という言葉から察することができます。

 「宴席」と言いましても、それは教会の外での宴会の話ではありません。教会の中で行われていた「愛餐(アガペー)」の話です。教会において行われていた愛餐が、このようなものとなっていたということです。偽教師たちの教えが、そのような事態を引き起こしていたのです。

 いったいどのような教えがそのような事態を引き起こしていたのでしょうか。その詳細は分かりませんが、18節以下には次のように書かれています。「彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです」(18‐19節)。それは福音によって与えられる「自由」に関するものであったことが分かります。

 このことに関して恐らく参考になるのは、ヨハネの黙示録に記されている七つの教会に宛てた手紙でしょう。例えば、ティアティラにある教会に対して、次のようなことが主の言葉として語られています。「しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている」(20節)。似たようなことが14節では「バラムの教え」として出てきます。

 「偶像に献げた肉」を食べてもよいのか、それともいけないのか、という話は、実は初期の教会を二分するような問題でありました。実際にはほとんどの肉が一旦偶像に献げられて市場に出回る。その肉を食べてよいのか。ある人は「当然、食べてはいけない」と考えました。しかし、ある人は「私たちはキリストによって自由にされたのだから、すべてのことは許されている」と考えたのです。

 これに対してパウロは基本的に食べることは自由だと考えていたようですが、愛に基づく配慮をもって、「兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(1コリント8:13)とも語っていました。実は既に最初の教会会議であるエルサレム会議(使徒言行録15章)において異邦人が割礼を受け律法を守るべきか否かが論じられた時、その最終的な結論として次のような手紙を送られていたのです。「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります」(使徒15:28‐29)。

 しかし、異邦人を中心とした教会の中に、あえて「自由」を強調する人々が現れてきたのです。そのひとりが例えばティアティラのイゼベルのような人だったわけです。彼女はあえて「偶像に献げた肉」を食べさせたのです。自由にされたのだから食べるべきだ、と。そして、その自由の強調は、「みだらなこと」すなわち性的な不道徳さえも許されているとしたのです。これが14節では「バラムの教え」と呼ばれているのでしょう。

 今日の箇所においてもバラムへの言及がありますから、ペトロが問題にしている偽教師たちもティアティラのイゼベルのような人たちだったのだろうと思われます。キリストの十字架を信じていないわけではありません。しかし、キリストの十字架を、いわば罪を犯すことへの許可証としてしまっていたのです。

 そのような「自由」の教えが、実際には人を自由にはしないということをペトロはよく知っていました。ですから彼はこう言うのです。「その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです」。「滅亡の奴隷」は「罪の奴隷」と言い換えてもよいかもしれません。自由どころか、滅亡をもたらす罪に打ち負かされているではないか。打ち負かされて服従させられているではないか、と言うのです。

 かつてイエス様はこのような話をされました。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」(ルカ11:14‐26)。

 ここでペトロが言っているのは同じことです。「わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります」(20節)。

 偽教師たちがしていることは、結局、世の汚れに「再び巻き込まれて打ち負かされる」ことを助けるような教えでしかなかったのです。イエス様の表現によれば、「どうぞ七つの汚れた霊よ、自由のお入りくださってお住みください」と言うようなものなのです。それは決して自由をもたらす教えではないのです。

 そのように教会はその初めの頃から、外からの迫害だけではなく、キリストの福音と相容れないものが教会の中に、そしてひとりひとりの生活の中に入り込む危険と向き合っていたのです。それは今日においても変わることはありません。私たち自身、先に触れましたように、間違った教えや汚れた行為、神の目に忌むべきことについて、使徒たちが示したのと同じ正常な感覚を養わなくてはならないのです。

(祈り)

2022年10月26日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙二 2:1~10a

ペトロの手紙二 2:1‐10a

 私たちは使徒信条の最後において「罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命を信ず。アーメン」と唱和いたします。そのとおり、私たちは罪の赦しを信じています。そして、神が赦してくださるならば、もはや私たちを滅ぼすものはないと信じています。復活と永遠の命を信じています。神による罪の赦しにはいかなる限界もないことを信じています。どんなに大きな罪を犯した人であっても、神に赦された者として新しく生きることができる。神に赦された者として永遠の命にあずかることができます。

 そのように神が罪を赦すことができるのは、神が罪を裁くことのできる御方だからです。このことを忘れてはなりません。罪を正しく裁き、断罪し、滅ぼす権威をお持ちの方だからこそ、その権威をもって他の誰も取り消すことのできない罪の赦しの宣言をすることができるのです。わたしは皆さんの罪を赦し、救うことはできません。私は皆さんを断罪し滅ぼすこともできないからです。

 しかし、そのように神が正しく裁かれる御方であり、自分たちもまた神の裁きのもとにあるという事実から目を背けさせる人々は昔からいたのです。「かつて、民の中に偽預言者がいました」(2:1)とペトロは言っていますが、この「偽預言者」とはそのような人たちです。そのような偽預言者の実例は旧約聖書の至るところに見いだされます。例えば預言者ミカはこう語っています。「頭たちは賄賂を取って裁判をし、祭司たちは代価を取って教え、預言者たちは金を取って託宣を告げる。しかも主を頼りにして言う。『主が我らの中におられるではないか、災いが我々に及ぶことはない』」(ミカ3:11)と。神が不正を憎まれ、罪を正しく裁かれる御方だということを抜きにして、「災いが我々に及ぶことはない」と語っているならば、それは偽預言者なのです。また、神は預言者エレミヤを通し、当時の祭司たちや預言者たちについてこう語っています。「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』と言う」(エレミヤ6:14)。これが偽預言者というものです。

 それと同じことが教会でも起こっているではないかとペトロは言っているのです。「同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません」(1節)。実際には既に諸教会において偽教師の働きは始まっているのです。彼らが持ち込んできた異端の教えが具体的にどのようなものであったかは分かりません。しかし、そのような教師たちの特徴と、彼らの影響がどのような形で教会に現れていたかは明らかです。彼らを特徴づけていたのは「みだらな楽しみ」(2節)です。これは特に性的な放縦を意味しています。彼らが放縦にふけっていただけではありません。彼らは教師ですから、多くの人々がその行いを見倣ったというのです。しかも、その影響は教会内だけに留まりません。そのように乱れた生活をしているゆえに、宣べ伝えられている福音そのものが謗られていたのです。

 具体的にどのようなことが行われていたのかは、来週読みます2章後半に書かれています。例えば「彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています」(13‐14節)というようなことが起こっていたのです。

 「宴席」と書かれていますが、もともとこれは教会における愛餐なのです。それが単なるどんちゃん騒ぎと姦淫の温床になっていたのです。彼らはキリストによる罪の贖いを信じていたのでしょう。彼らは確かにキリストによって贖われた者として罪の赦しを信じていたに違いありません。しかし、神が罪を赦すことができるのは、罪を正しく裁く御方でもあるからだという認識が抜け落ちていることは明らかです。

 そのような偽教師たちについて、「自分たちを贖ってくださった主を拒否しました」と書かれていることは重要です。繰り返しますが、彼らは確かに主によって贖われた者なのです。しかし、彼らの行為は、その贖ってくださった主を拒否していることになるのだ、というのです。実際には、彼らは贖いを否定していないであろうし、意識して「主を拒否している」わけではないでしょう。主をあからさまに拒否していたら、教会の中において教師であり続けることができるはずがありませんから。そのような「教師」についていくほど皆も愚かではないでしょう。しかし、それでもなお聖書は彼らを「自分たちを贖ってくださった主を拒否しました」と表現しているのです。

 その理由は「贖う」ということの意味を考えれば明らかになってまいります。「贖う」とは「代価を払って買い取る」ことです。確かにキリストは代価を払ってくださいました。私たちの罪の負債を代わりに支払ってくださったのです。私たちが罪を赦されたとはそういうことです。しかし、それはまた私たちが主のものとされたということでもあるのです。主のものとされたのなら、もはや自分自身のものではないのです。パウロもコリントの信徒への手紙で言っているとおりです。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(1コリント6:19‐20)。

 そうです。これが主によって贖われたということなのです。しかし、悔い改めようとせず、神を侮り、その体を自分の情欲と放縦にゆだねているとするならば、それは確かに「自分たちを贖ってくださった主を拒否」していることになるでしょう。

 そこでペトロは神が正しくお裁きになる御方だということをいくつかの事例を挙げて思い起こさせます。まず罪を犯した天使たちに対して。「神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました」(4節)。これは旧約聖書外典の「第一エノク書」という書物に由来する話です。その書物は紀元前2~1世紀に書かれたもので、この手紙が書かれた頃には広く読まれていたものでペトロもそれを例証に用いているのです。次に挙げられているのは、良く知られているノアの箱舟の話です。第三に挙げられているのは、ソドムとゴモラが滅ぼされたという話です。どれもたいへん恐ろしい話です。

 恐ろしい話をあえて記しているのは、教会の人たちに偽教師たちとその教えを警戒して欲しいからなのです。かつて偽預言者たちが現れた時、彼らの言葉はミカやエレミヤの言葉よりも歓迎されたのです。同じように偽教師たちの教説は人々を引きつけるかもしれません。しかし、何かが教会において語られる時、それが耳に心地よいかどうかではなく、それが神からのものであるかどうかを聞き分ける耳を持っていなくてはならないのです。神の御心にかなったことが起こっているかどうか見分ける目を持っていなくてはならないのです。

 次週の箇所では、実に激しい言葉をもって偽教師たちを糾弾しています。それはどうしても読者にとって、私たちにとって必要なことだから、あえてそうしているのです。彼らに引かれてはならないからです。ペトロは私たちに、神の権威を侮り、自分たちを贖ってくださった主を拒否するようになって欲しくないのです。むしろロトのように心を痛める者であって欲しいのです。

(祈り)
 

2022年10月19日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙二 1:12~21

ペトロの手紙二 1:12‐21

 前回は、私たちに何が与えられているかということに目を留めました。使徒であるペトロと「同じ尊い信仰」を与えられていること。すなわち信仰の価値は信じる人によって決まるのではなく、与えてくださった方によって決まるのであり、それはキリストの血潮の価値なのであり、その信仰を与えられているということ。さらには信仰と同じ尊い信仰が与えられただけではなく、「命と信心とのかかわるすべて」、言い換えるならば「信仰生活にかかわるすべて」が既に与えられているということ。そして、現在の信仰生活のために必要なものを与えられているだけではなく、私たちが待ち望むべき「尊くすばらしい約束」もまた与えられているということ。すなわちそれはキリストの再臨の約束であり、永遠の御国に確かに入れるという約束です。

 そこでペトロは「従って、わたしはいつも、これらのことをあなたがたに思い出させたいのです」と語ります。「思い出させる」のは知らないことを教えるのとは違います。キリスト者であるならば、福音の真理は確かに知っているはずであるし、待ち望むべき約束も受け取っているはずです。その真理に基づいて生活しているのです。12節に書かれているとおりです。しかし、それでもなお何が与えられているかは、繰り返し思い出させられる必要があるのです。

 ペトロ自身は、既に世を去るべき時が来ていることを身近に感じているようです。「わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです」と書かれているとおりです。だからこそ、まだ仮の宿である体をもって生活している間に、思い起こさせなくてはならないと考えているのです。いやそれだけではありません。ペトロは自分が世を去った後にも、絶えず思い起こして欲しいと願っているのです。そのためにこのような手紙を書いているわけでしょう。実際、そのことのために福音書なども書かれたわけですし、手紙も収集されて、今日のような聖書が残されてきたのです。

 そのように思い起こさせる必要があるのは、「奮起させる」ためであるとペトロは言っています。「奮起させる」というのは「目覚めさせる」という意味の言葉です。嵐の船の中でイエス様が寝ていた時、弟子たちはイエス様を起こしましたでしょう。それと同じ言葉です。そうです、キリスト者は繰り返し目覚めさせられなくてはならないのです。そうでなければ眠りこけてしまうからです。福音を知らないわけじゃない。約束を信じていないわけじゃない。でも実際の生活の中ではそれを忘れて眠りこけたような信仰生活を送ってしまうのです。ですから、繰り返し使徒たちを通して手渡された福音の真理を聞いて、絶えず思い起こすということはとても大事なことなのです。

 そのように与えられている約束を繰り返し思い起こして目覚めていないと、一つには迫害や困難に耐え得なくなってしまうということがあります。それはペトロの第一の手紙で見てきたことです。しかし、それだけではありません。既に述べてきたように、この手紙で問題になっているのは偽教師の存在なのです。福音の真理によって目覚めていないと、いくらでも異なる教えによって足をすくわれてしまうことになるのです。

 そこでペトロは偽教師たちの存在を念頭に置きながら、次のように続けます。「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです」(16‐18節)。ペトロが言及しているのは、マタイ17:1以下とその平行記事によって伝えられている、「山上の変貌」の出来事です。

 すぐに気付きますことは、ペトロが実際に目撃したこと、また実際に聞いたこと、すなわちそれが事実であることに、非常にこだわっているということです。あえて「わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではない」と言っているのです。「作り話」とは「神話」と訳せる言葉です。ペトロは「神話じゃないんだ。事実なんだ」と言っているのです。その当時、宗教的な思想を伝えるためにはいくらでも神話が用いられていたのです。教会において力を持っていた「グノーシス」と呼ばれる異端にも、いわゆる「グノーシス神話」があったのです。しかし、イエス・キリストの力に満ちた来臨(すなわちキリストの再臨と神の国の到来)を宣べ伝えるのに用いたのは、神話ではなく、イエスという御方について実際に見たり聞いたりしたことであると言っているのです。

 なぜでしょうか。それは「約束」や「希望」は単なる思想であってはならないからです。それは事実でなくてはならないからです。キリストが再臨するとするならば、神の裁きがあるとするならば、それは事実でなくてはならないからです。本当に罪が赦されて救われると語られているならば、それは単なる思想であってはならないのです。単に信じている人にとってだけの真理であってはならないのです。そうならば、それは気休めにはなっても、本当の希望とはなり得ないのです。ペトロがここで語っていること、そして世々の教会が伝えてきたのは、単なるキリスト教思想ではなく、歴史の中に現れたイエス・キリストに関する事実なのです。

 ここでペトロは「山上の変貌」について言及していますが、もちろんそれ以上に決定的な出来事はキリストの復活でしょう。実際、山上で三人の弟子たちが経験した出来事は、後に他の弟子たちが経験するキリストの復活顕現を先取りした出来事であったと言えます。それについても、教会は復活が単なる思想ではなくて「事実」であることにこだわってきました。ですから「証人」という言葉を用いたのです。

 ペトロや他の弟子たちがイエスという御方について見たこと、聞いたこと、すなわち、神がその御生涯において、そして十字架と復活において、主イエスに栄光を与えたその「事実」が、旧約の時代から語られてきた神の救いの希望を確かなものとしたのです。「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています」と語られているとおりです。「預言の言葉」とは聖書が語る約束の言葉です。それが確かなものとなっているからこそ、キリストが再臨する終わりの時に至るまで、暗闇を照らす真の光となり得るのです。ペトロは言います。「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください」(20節)。

 この世界は「夜が明け」るまで、闇に閉ざされています。その暗闇は私たちの心にも及びます。しかし、わたしたちの心には「暗い所に輝くともし火」が与えられているのです。確かな約束が与えられ、確かな希望の言葉が与えられているのです。この「ともし火」を失ってしまうならば、この世の暗闇に支配されてしまうでしょう。ですから「預言の言葉」、聖書の言葉に留意しなくてはならないのです。しかも、それは恣意的な個人的な解釈によって伝えられた言葉ではなく、キリストの到来によって確かにせられた聖書の約束として心に留めなくてはならない。繰り返し思い起こして、心に留め続けなくてはならないのです。


2022年10月12日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙二 1:1~11

 ペトロの手紙二 1:1‐11

 今日からペトロの手紙二に入ります。これまで読んできましたペトロの第一の手紙は、主に迫害の中にあるキリスト者を励ますために書かれたと申しました。第二の手紙はそれとは異なる必要から書かれています。それは2章に出て来る「偽教師」の問題です。教会に異端の教えが入り込んできたのです。そして、その教えによって教会に混乱が生じていたのです。

 教会に危機をもたらすのは外からの迫害だけではありません。往々にして内側からの崩壊の方が危険なのです。キリスト者の信仰生活は必ずしも外からの圧力によって妨げられるのではありません。そうではなくて、間違った教えによって、そこから入り込む罪によって妨げられるのです。私たちは信仰生活において、困難や苦難との戦いだけを考えていてはなりません。そうではなく、間違った教えが入って来ること、また罪が入って来ることと戦わなくてはならないのです。

 それゆえに、この手紙の最後でペトロはこう言っています。「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい」(3:18)と。そうです、私たちは成長しなくてはならないのです。その成長は「知識においても成長すること」を含みます。知るべきことを知り、認識すべきことをしっかりと認識して生活することです。

 そこで重要なことは、まず既に与えられているものをしっかりと認識することです。ペトロは次のような挨拶から書き始めます。「イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」(1‐2節)。

 一方において、イエス様と共に生活し、その力ある業と栄光とをその目で見ることを許され、その信仰を直接手渡された使徒たちがいます。ペトロはその一人でした。そして、もう一方には、この手紙を読んでいる教会の信徒たちがいます。偽教師たちの教えに翻弄されているまことに心許ないキリスト者たちであるとも言えます。しかし、ペトロは言うのです。「わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ」。すなわち、「あなたがたの信仰は尊さにおいてわたしたちの信仰と同じだよ」と言っているのです。

 命をかけてキリストを宣べ伝え、最後まで信じ抜いて殉教していったペトロの信仰と、ここにいる私たちの信仰。ずいぶん違うと思うかもしれません。しかし、ペトロは言うのです、「同じだよ」と。信仰の尊さというものは、信じている人によって決まるのではない、ということです。

 もしかしたら、誰か他のキリスト者の姿を見て、「あんな人がキリスト者だというならば、キリスト教信仰なんて価値ないじゃない」と言う人がいるかも知れません。しかし、信仰の価値は信じる人によって決まるのではなくて、与えてくださる御方によって決まるのです。私たちの信仰は「わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって」与えられたのです。「義によって」とは「救いの御業によって」と言い換えてもいいでしょう。イエス・キリストを十字架にまでおかけになるという神の御業です。私たちに与えられている信仰の価値は、私たちが何をしたかによって決まるほど安くはありません。それはキリストの血潮の価値なのです。要は尊いものを尊いものとして扱っているかどうか。それによって信仰生活が決まってくるのです。

 さらに私たちが与えられているものについて、ペトロは次のように語っています。「主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです」(3節)。

 わたしたちには「命と信心とにかかわるすべてのもの」が与えられていると語られています。このことを私たちは深く心に留めなくてはなりません。私たちは使徒たちが受けた信仰と同じ尊い信仰が与えられただけではありません。「命と信心とのかかわるすべて」言い換えるならば「信仰生活にかかわるすべて」は既に与えられているということです。「信心」とは「敬虔な生活」のことです。真に神と共に歩む生活のことです。そのように生活するために必要なすべては既に与えられているのです。言い換えるならば、与えられている尊い信仰を、まことに尊いものとして生きることができるように、そのためのすべては既にイエス様によって与えられているのです。

 イエス様はどのようにして、それを与えてくださったのでしょう。それは自ら実際にこの地上において生活してくださったことによってです。イエス様が、この地上において神の力を現しながら、神を示して生きてくださったのです。そのことによって、神を「認識させてくださった」のです。神をイエス・キリストの父なる神として知るようになり、愛なる神として知るようにさせてくださったのです。御子は受肉によって、私たちに神の認識をもたらしてくださったのです。

 その神の認識がまず使徒たちに与えられました。その使徒たちから、世々の教会へと伝えられました。そして教会を通して、聖霊のお働きを通して、私たちにも必要なすべてが伝えられているのです。つまりキリストは今も御力によって神を認識させ、信仰生活のために必要なすべてを与えてくださっているのです。そのように、私たちの信仰生活に必要なものは、私たち人間の内側から出て来るものではなくて、聖書を通し、教会を通し、聖霊のお働きを通してキリストによって与えられているのです。

 そして、私たちは現在の信仰生活のために必要なものを与えられているだけではなく、私たちが待ち望むべき「尊くすばらしい約束」もまた与えられているのです。それはこの後3章に述べられることになりますが、キリストの再臨の約束であり、また11節の言葉で言えば、「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に入れる」という約束です。

 神の国に入れるということは当然の権利なのではなく、ただ一重にキリストの十字架を通して特別に恵みの賜物として与えられた「約束」です。ですから当然ですが、罪を赦されてその約束が与えられたのは、「後はどう生きてもよいのだよ」ということではないのです。そうではなく、わたしたちが「情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるため」(4節)なのです。すなわち、この世と一緒に腐ってしまわないためなのです。罪の泥沼に呑み込まれて一緒に腐ってしまわないためです。そうではなくて、神の性質を共有する者となるのだ、というのです。神の像として造られ、神の似姿に造られた本来の人間になるためなのです。

 そのように、既に与えられている尊いものがあるのです。その尊いものを尊いものとして受け止めて生きることが重要なのです。それゆえに、私たちは信仰生活における成長、この世の退廃を免れて神の本性にあずかるところへと向かっていく具体的な歩みを求めていかなくてはならないのです。

 私たちは確かに罪人のまま、「そのまま」で神に赦され、受け入れられ、救われました。しかし、だからこそ本来清められるはずのない罪が清められて、今こうしていることの重みを忘れてはならないのです。十字架の血の重さを持つ特別な恵みによって、神の国の約束を与えられていることを忘れてはならないのです。そうあってこそ、「ありのまま」で受け入れられた人が、その「ありのまま」から踏み出して生きるようになるのです。もしそうでないとするならば、キリストの十字架のゆえに罪が赦されたことを忘れているか、近眼になって目の前のことしか見えずに、神の国のことが考えられなくなっているということです。9節に書かれているのは、そういうことです。

 私たちは5節以下に書かれているような、成長を求める具体的な信仰生活の訓練を実践していかなくてはなりません。そうあるならば「決して罪に陥りません」とペトロは言います。「罪に陥る」と訳されている言葉の原意は「つまずいてよろめく」ことです。つまり個々の罪に陥ることというよりも、信仰生活そのものが壊れてしまうことです。「これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります」と書かれていますように、私たちは、つまずきながら、よろめきながらではなく、永遠の御国を目指しつつ、成長を求める信仰生活の確かな足取りをもって生涯を全うしたいものです。

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