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2025年12月7日日曜日

「神の言葉は生きている」

2025年12月7日 主日礼拝説教 

聖書:テモテへの手紙二 4:1-8

自分に都合の良いことを聞こうとして
 今日の第二朗読でパウロがテモテにこう言っていました。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」(3‐4節)。この言葉は今日の私たちにも、とてもよく分かります。このようなことはいつの時代にも起こりえることだからです。

 人は自分に都合の良いことを聞きたいものです。自分に都合の良いことを語ってくれる人を求めます。誰かに相談事をする時もそうでしょう。「どうしたら良いのでしょうか」と言いながら、実はどうするかもう自分で決めている。ただ自分のしようと思っていることを肯定してくれる人を求めているだけ、ということが往々にしてあるものです。否定されたら別な人のところに行く。また否定されたらまた別な人のところに行く。そんなことを繰り返すこともあるのでしょう。

 そのようなあり方を、ともすると信仰の世界にも持ち込んでしまいます。自分の願い求めが先にあって、そのような自分の願いを肯定してくれる言葉を求めているだけ。もう先にしっかりと握りしめている自分の見方、考え方、生き方が先にあって、それと折り合いの付く言葉だけしか受け入れない。そんなことも起こります。

 ちなみに、「自分に都合の良いことを聞こうとして」というのは、直訳すれば「聞く耳をくすぐってもらおうとして」という言葉です。耳をくすぐってもらうだけならば、顔を向けている方向を変える必要はありません。向かっている方向も変える必要はありません。そのままで何を変えることもなく、心地よさを味わえるのでしょう。

 しかし、本当のことが語られる時、その言葉は必ずしも耳をくすぐるとは限りません。むしろ本当のことが語られる時、その言葉は往々にして耳に痛いことが多いのです。なぜなら私たちの生活には偽りが多いからです。他者に対してだけではありません。自分自身に対して偽っていることも多いのだと思います。本当は分かっているのに、本当は知っているのに、認めたくない、認めようとしない。そんな実際の生活があり、そんな自分の本当の姿がある。そんな自分の姿を明るみに出すような言葉、本当の言葉は耳をくすぐることはありません。

 ですから、せっかく本当のことが語られても、そのような言葉から耳を背けてしまうことも起こります。今日の聖書箇所にも、「真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」と書かれていましたでしょう。そう、パウロの言うとおり、実際にそのようなことは、後の時代に繰り返し起こってきたのです。

 しかし、本当は、それはまことに不幸なことなのです。「真理」から耳を背けたとしても、「事実」は変わらないからです。現実から目を背けて、「作り話」や神話の中に身を置いたとしても、何も変わらないからです。作り話によって、気休めの言葉によって、真理ではないものによって、たとえ一時的に気を紛らわせたとしても、そこに本当の救いはない。そんなことは分かり切ったことなのです。

御言葉を宣べ伝えなさい
 本当の救いは、私たちがリアリストになるところにあります。現実的になって、現実の自分自身を認めて、自分の暗闇の部分、自分自身の罪深さも認めて、そこから神を仰ぎ、神と向き合うところにしかないのです。そこにおいて神の赦しを求め、神の赦しにあずかり、赦された者として神と共に生きる。そこにしか救いはないのです。だからパウロはテモテに言っているのです。「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい」(2節)。「御言葉」とは「神の言葉」です。神は本当のことを語られるのです。その神の言葉を宣べ伝えなさいとパウロは言っているのです。

 しかし、「御言葉を宣べ伝えなさい」とテモテに対して語られているのは、もう一方において、御言葉でないものを宣べ伝えたくなるという誘惑があるからでしょう。人々が自分の都合の良いことを聞こうとして、真理から耳を背けるという誘惑があるように、伝える側にも、人々が望んでいることを語りたくなる誘惑がある。真理ではなくても、ひとときの気休めになるような言葉を語りたくなる。しかし、教会においてそのような言葉しか語られなくなったなら、そのような言葉しか聞かれなくなったら、教会は教会ではなくなってしまうでしょう。

 ではどのようにして教会は御言葉が語られ、御言葉が聞かれるところであり続けることができるのでしょうか。そこで今日の朗読箇所の直前に書かれていることに目を向けたいと思います。こう書かれていました。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」(3:16‐17)。

 聖書(この場合は旧約聖書)が神の霊の導きの下に書かれたということは、この書物の背後に神がおられ、この書を通して神が語られるということです。それはその後に新約聖書が成立した後にも教会が保持してきた信仰です。日本キリスト教団信仰告白においても次のように言い表されています。「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり」。聖書を離れて「御言葉を語る」ということはあり得ないし、「御言葉を聞く」ということもあり得ないのです。

 先にも申しましたように、人は自分に都合の良いことを聞きたいし、また人はそう望んでいる人に都合の良いことを語りたいものです。だからこそ、私たちは自分に都合よく変えることのできない「聖書」に繰り返し立ち戻らねばならないのです。

 それゆえに、これは今日においても私たちを試す試金石ともなります。教会の様々な営みにおいて聖書が重んじられなくなり、私たちの生活から聖書が失われていくならば、それは由々しき事態です。「御言葉を語りなさい」――これは語る者に対しては至上命令であり、聞く者にとっては命綱なのです。

折りが良くても悪くても
 それゆえにパウロは「折りが良くても悪くても」と付け加えます。先に言いましたように折りが悪くなる時が来ることが分かっているからです。だから人々が求めようが求めまいが、人々が受け入れてくれようが受け入れてくれまいが、御言葉が語られなくてはならない。聖書から語られなくてはならないのです。「しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」(5節)とパウロはテモテに命じているのです。

 パウロがこのことをどのような思いをもって命じているのかは、本日の朗読の最初にこう語られていました。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます」(1節)。

 パウロは目の前のことだけを考えて、今この時だけのことを考えて語っているのではないのです。そうではなくて最終的にキリストの御前に立つ時、終わりの時を思いつつ語っているのです。私たちがどう生きて来たかが神の御前において問われる時を念頭において、パウロは語っているのです。

 その意識は、それは御言葉を語るにしても、聞くにしても、決定的に重要なことなのでしょう。実際、私たちの信仰生活において最も大事なことは何なのでしょう。何を思って聖書の言葉を聞いているのでしょう。この不安に満ちた世の中にあって、少しでも平安に生きられることでしょうか。毎日の生活に役立つ教えを得ることでしょうか。悩みを解決する手だてを得ることでしょうか。もしそれだけのことならば、何も神の言葉が語られなくても、この世の言葉や巧みな作り話でも同等の効果は得られるかも知れません。

 しかし、最終的にキリストの御前に立つ時を思うならば、本当に重要なことは、その時に自分が神との真実な交わりの中にあるかどうかでしょう。信仰を全うした者として神の御前にあるかどうかが決定的に重要なこととなるのでしょう。そのために必要なのは、自分にとって都合の良い言葉や、耳に心地よい言葉ではないはずです。そうではなくて、神の言葉が語られ、聞かれることなのです。

 そのように、パウロはイエス・キリストの再臨とその御国とを思いつつ、語っていたのです。いや、彼はテモテに対して命じるだけでなく、自らそう生きてきたのだと語るのです。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです」(7‐8節)。

 ここだけ読みますと、パウロは自分のしてきたことをただ誇っているかのように見えるかもしれません。しかし、そうではないことはその直前の言葉から明らかです。「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました」(6節)と彼は言うのです。つまりそれは殉教の死が間近いということです。彼は自分の人生の終わりが近いことを知っているのです。自分の人生の終わりが近いなら、人に向かって自分を誇ったところで、大して意味はないでしょう。

 むしろこの世的な誉れなどどうでも良いことが分かっているからこそ、このようなことが書けるのです。死を前にした自分があえてこう語ることによって、本当に大事なことが何かを示しているのです。キリストが義の栄冠をさずけてくださる。そして、これが単に自分のことを語っているのではないことをパウロは付け加えます。「しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」(8節)。


2023年3月12日日曜日

「キリストをいつも思っていなさい」

テモテへの手紙二 2:8-13

いつも思っていなさい
 「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」(8節)と書かれていました。この「思い起こしなさい」はただ今一度のことを言っているのではなく、原文では継続を表す表現が用いられています。「繰り返し思い起こしなさい」あるいは「いつも思っていなさい」という意味です。

 「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」。そうパウロがテモテに書き送ったのには理由がありました。この章の始めにはこう書かれているのです。「そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい」(1節)。強い人にはこう言う必要はありません。テモテが弱さを覚えていたからこそ、パウロはこのように語っているのです。

 この手紙が書かれた頃、パウロは獄中に囚われの身となっていました。テモテはエフェソの教会の世話をしながら、パウロに代わって小アジアの諸教会の指導に当たっていました。しかし、テモテの働きは困難を極めていました。それはテモテに宛てられた二つの手紙を読むとよくわかります。彼は肉体的にも精神的にも弱さを覚えていました。

 そのようなテモテに対してパウロは言うのです。「そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい」。一見すると「そんな弱いことでどうするか。もっと強くなれ!」と叱咤激励しているように見えなくもありません。しかし、そうではないのです。「強くなりなさい」とありますが、正確には「強くされなさい」と受け身で書かれているのです。誰によってですか。何によってですか。「キリスト・イエスにおける恵みによって」です。

 弱さを覚えている時であるからこそ、重要なのはキリストなのです。強さを必要としている時であるからこそ、重要なのはキリストなのです。ですから、今日お読みした箇所においてもパウロは言っているのです。「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」すなわち「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」と。

死者の中から復活されたキリストを
 「いつも思っていなさい。」――そうです、信仰生活とはキリストのことを繰り返し思い起こす生活です。自分に思いを向けて、ひたすら自分を振り返る生活ではありません。自分は変わったか、自分の弱さは克服されたか、自分は強くなったかをひたすら確認しながら生きる生活ではありません。キリストをいつも思っている生活です。

 その生活を具体的に表しているのが毎週の礼拝です。そこで行われる「聖餐」です。私たちが行う「聖餐」は、イエス様が「わたしを記念してこのように行いなさい」と言われた言葉に基づいて行われます。「記念して」とは「思い起こして」という意味です。そのように、繰り返し思い起こして、いつもキリストのことを思って生活するのです。

 しかし、「キリストのことを思い起こす」とはどういうことでしょう。キリストをどのような御方として思い起こすべきなのでしょう。今私たちは受難節の中にあります。キリストの御苦しみを思う季節です。そこで繰り返し思い起こされるのは苦しんでおられるキリストの姿でしょう。

 ところが、今日の箇所でパウロが思い起こすように言っているのは、キリストが苦しんでいる姿ではありません。「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」に続けてパウロはこのように言っているのです。「わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです」(8節)。

 思い起こすべきはダビデの子孫として生まれたキリストです。待ち望まれたまことの王として来られたキリストです。神がすべての名の上に置かれ、権威と力を与えられたキリストです。

 その王なるキリストは「死者の中から復活された」お方です。もちろん「死者の中から」というのは十字架を前提とした言葉ですから、十字架にかけられたキリストを思い起こすことも含まれていると言えるでしょう。しかし、キリストは十字架に留まってはおられないのです。墓の中に留まってもおられないのです。細かいことを申し上げますと、「死者の中から復活された」というのは、過去の出来事として語られているのではなくて、「復活されて今も生きておられる」というニュアンスの表現が用いられているのです。

 「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」。そのイエス・キリストとは復活されて今も生きておられるまことの王です。そうです、パウロ自身もその御方を思いながらこの手紙を書いているのです。ですから彼はこう続けます。「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」(9節)。

持つべき強さは自分の外に
 パウロは復活して今も生きて支配しておられるまことの王を告げ知らせながら、その一方においてその福音のゆえに鎖につながれています。そこにはパウロの弱さがあります。パウロの限界があります。パウロより大きな力を持つ人々によって、パウロは自由を奪われました。パウロよりも強い人間によって投獄されました。もはや自由に語ることもできません。パウロの願いはあっても、願い通りには動けない。そこには弱さがあります。

 しかし、そこでパウロは言うのです。「しかし、神の言葉はつながれていません」。パウロが弱かろうが、制約を受けようが、パウロの願い通りに動けなかろうが、なんら問題はないのです。なぜなら、パウロは弱くてもキリストは弱くないからです。

 王なるキリストは生きておられる。ならばキリストの御業は人間の弱さにかかわらず前進していくのです。神の言葉は前進していくのです。人間を鎖につなぐことはできても、神の言葉の宣教は鎖につなぐことはできないのです。実際、王なるキリストは、かつて鎖につながれるどころか、十字架に釘づけられて、殺されて、墓に葬られて、大きな石で封じ込められました。しかし、それでもなお人間はキリストを閉じ込めることはできなかったのです。神の言葉はつながれることはなかった。だから今もなお御言葉の宣教は続いているのです。

 「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」。テモテは弱さを覚えている時であるからこそ、キリストを思い起こし、思い続ける必要がありました。人が弱さを覚える時、必要なのは《自分の内に》強さを持つことではありません。そうではなくて、《自分の外に》強さを持つことなのです。本当に必要な強さは、キリストにこそあるのです。

自分の忍耐と誰かの救い
 そのことを知るゆえに、パウロはある意味でたいへん不思議なことを書いているのです。「だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです」(10節)。

 ここで「あらゆることを耐え忍んでいます」というのは、具体的には獄中生活を指しています。かつてのように各地を旅して宣教することはできません。ただ今置かれている状態を耐え忍ぶしかないのです。彼は弱い者としてそこにいます。弱い者はただ耐え忍ぶことしかできないのです。

 しかし、パウロは、彼が「あらゆることを耐え忍んでいる」のは、「彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るため」であると言うのです。こちらにおける弱さのゆえの忍耐。あちらにおける誰かの救い。この二つは普通どう考えてもつながらないではありませんか。

 実際、何かを耐え忍んでいる時は、ただ無意味な時間ばかりが過ぎていくように思えるものです。それが何か意味あることにつながっているとは思えない。しかし、パウロはそこでキリストを思い起こしているのです。今も生きておられ治めておられるまことの王を思い起こしているのです。その御方の支配の中に、そのご計画の中に、自分が耐え忍んでいる時間もまた存在していることを知っているのです。その忍耐を誰かの救いのために用いることができる御方を知っているのです。この御方が、つながりようのない二つをつなげてくださることを知っているのです。

 もちろん、パウロの忍耐と誰かの救いについて、その論理的なつながりは語ろうと思えば語れなくはありません。例えば、パウロの獄中生活があったからこそ、そこから書かれた手紙が後に新約聖書の一部として読まれることになった。その人間の救いに果たした役割は計り知れない。そのようなことは語り得るでしょう。

 しかし、恐らくパウロにとって自分の忍耐と他者との救いの間の論理的なつながりなど、どうでもよかったのです。どうつながるかは主が知っておられる。主が知っておられればよいのです。パウロにとっては困難の中にあって弱さを覚える時こそ、特に、復活して今も生きておられる王なるキリストを思う時だったのです。そのように、弱さを覚えるテモテにも繰り返しキリストを思い起こして欲しかったのです。私たちはただ、すべてを治めておられる王なるキリストに目を向けて生きていたらよいのです。この言葉はここにいる私たちに対しても語られています。「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」。

(祈り)

2022年3月20日日曜日

「神の力に支えられて」

テモテへの手紙二 1:8‐14

苦難を共に耐え忍んでください
 本日の第2朗読ではパウロがテモテに書き送った手紙をお読みしました。パウロはこれを獄中から書き送っています。この時、テモテはエフェソの教会の牧会をしながら、パウロに代わって小アジアの諸教会の指導に当たっていたようです。そのテモテにパウロはこう書き送ります。「だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません」(8節)。

 ある意味でとても不思議な言葉です。諸教会の指導者であったテモテが主を証しすることを恥じることなどあり得るのでしょうか。いわばパウロの愛弟子とも言えるテモテが、福音のために投獄されているパウロを恥じることなど、あり得るのでしょうか。「主を証しすること」は、直訳すれば「主の証し」ですから、これはキリストの十字架を指しているものとして読むこともできます。ならばなおさらです。テモテがキリストの十字架を恥じるようなことが、はたしてあり得るのでしょうか。

 しかし、テモテが実際に「恥じて」いたかどうかは別として、その時のテモテの状態を考えるならば、パウロはどうしてもそのことを語らざるを得なかったのです。本日朗読された箇所の直前にはこう書かれています。「そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」(6‐7節)。ここで「神の賜物」と呼ばれているのは牧師としての務めです。それを「再び燃え立たせるように」と言われているということは、要するに《消えかかっていた》ということです。

 かつては神から与えられた務めに燃えていたのです。しかし、今やテモテは燃え尽きる寸前のような状態になっていました。どうしてそうなってしまったのか。テモテに宛てられた二つの手紙を読みますとある程度想像がつきます。テモテの務めは困難を極めていたのです。エフェソの教会には異端の教師の問題がありました。テモテ自身が年若く未熟であったということもありました。彼自身の体の弱さという問題もありました。それらの問題に直面して、思うように事は進まなかったのでしょう。そのような中でかつて燃えていた火も消えかかっていたのです。

 もちろん務めそのものは「神の賜物」であることは分かっています。キリストに召されて牧者としての務めを与えられていることも分かっています。しかし、現実に苦しいものは苦しいのです。もう疲れてしまっているのです。神の御心はどうであれ、困難からは誰だって逃げたいと思うものです。何もかも捨てて故郷のリストラに帰ってしまいたい。そう思ったことは恐らく一度や二度ではなかったに違いない。パウロにはテモテの気持ちが手に取るように分かっていたのです。だからこそパウロはここでテモテに言うのです。「わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません」と。

 考えてみてください。もしここでテモテが逃げ出してしまうならば、苦難を耐え忍んで獄中にいるパウロについて、「彼とわたしとは無関係です」と言っているようなものではありませんか。さらに言うならば、十字架の苦しみを背負われたイエス様についても「彼とわたしとは無関係です」と言っているのと同じでしょう。ならば結局は主の十字架も福音のために囚人となっているパウロの苦しみをも「恥としている」のと変わらないことになってしまいます。

 だからパウロは言うのです。「むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」と。もし主の証し、主の十字架を誇りとするならば、またこのように囚人となっている私を誇りとしてくれるなら、神の力に支えられて私と苦しみを共にしてください。あなたには力と愛と思慮分別の霊が与えられているではないか。だから苦しみを共に耐え忍んでください。そのようにパウロは言っているのです。

 まことに身につまされる言葉です。私たちもまた、困難に直面するとき、苦難の中に置かれるとき、できることなら逃げ出したいと思うことはいくらでもあるからです。しかし、このレントにおいて主の十字架を思う時、またパウロをはじめ、キリストを宣べ伝えるために苦しみを耐え忍んできた代々の聖徒たちを思う時、私たちの心にもこの言葉が響いてまいります。「神の力に支えられて、苦難を共に耐え忍んでください」。

神の力に支えられて
 苦難から逃げ出さないで、そこに留まって耐え忍ぶことができるとするならば、それはパウロの言うように、「神の力に支えられて」のことです。私たちは逃れるためではなく、担わなくてはならないことを担うためにこそ、神の力を求めねばならないのです。そして、その神の力は信仰によって私たちに与えられるのです。主に信頼し、主を待ち望む時、私たちを支え抜く神の力は必ず与えられるのです。

 今日の箇所でもパウロが次のように《神への信頼》を語っています。「この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです」(11‐12節)。

 パウロは福音の宣教者として任命されました。神から福音をゆだねられたのです。ゆだねられたものを守るのは、ゆだねられた側の責任ではないでしょうか。しかし、パウロはここでとても不思議なことを言っているのです。神はパウロに福音をゆだねた。けれど、それを守ってくださるのは神御自身である、と。言い換えるならば、パウロに使命と務めを与えられた神は、自ら責任をもってその使命を遂行させてくださるということです。いつまででしょう。「かの日まで」。つまり終わりの日までです。そうです、最後まで神が守ってくださる。パウロはそのことに信頼しているのです。

 聖書に見るように、パウロは《燃え尽きない人》でした。その理由を私たちは今日知らされています。神が託されたのならば神が守ってくださる。神が与えた使命ならば神が全うさせてくださる。耐え忍ぶことが神の御心ならば、神が責任をもって支えてくださる。そのようにパウロは「自分が信頼している方を知っている」。だから燃え尽きないのです。すべては自分にかかっているなどと、パウロは微塵も思っていないのです。すべては神の御業にかかっている。それが分かっているのです。人間がまず心を向けるべきこと、それは神に信頼することなのです。

すべてに先行する神の恵み
 考えてみますなら、そもそも私たちが何かをする以前に、キリストを信じる者としてここに存在していること自体、私たちの行いによるのではなくて神の恵みの御業なのでしょう。燃え尽きかけているテモテもまた、そのことを思い起こさなくてはならないのです。

 ですからパウロは9節においてこう語っているのです。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです」。そして、さらに「この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです」とパウロは言うのです。

 随分おかしなことが書かれていると思いませんか。「キリスト・イエスの出現によって明らかにされた」という部分はまだ分かります。この地上に人となってくださった御子キリストにおいて、神の恵みは完全に現れた。それはまだ分かります。しかし、その前に書かれていることはどうですか。「この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ」。「永遠の昔に」とまで言われると、私たちの頭は到底ついていけません。

 しかし、パウロがあえてこのような言葉を用いるのは、このような言葉をもってしか、恵みの何たるかは表現できないからなのです。要するにパウロが言いたいのは、すべてにおいて神の恵みが先にあるということなのです。「永遠の昔に」と言ってしまえば、その前はないのですから。とにかく初めに恵みがあるということです。恵みから始まっているということです。

 私たちは常にギブ・アンド・テイクの世界に生きていますから、恵みについてさえも、「わたしが~をしたから恵みが与えられたのだ」という思考になってしまいやすい。しかし、「~をしたから」ではないのです。「この恵みは、永遠の昔に…与えられた」のですから。恵みが無条件に何よりも先にある。パウロはいつもその事実に目を向けてきたのです。そして、その恵みに目を向けさせようとしているのです。

 そのような神、無条件にまず恵みを与えてくださった神が、福音のために私を任命してくださった。そのような神が福音をゆだねてくださった。そして、すべてを恵みから始められた神だから、無条件に最後までゆだねられたものを守ってくださるはずです。パウロは自分が信じている方が、そのような方であると知っているのです。だから苦しみを受けていたとしてもそれを恥とはしない。そこにあえて留まるのです。与えられた使命を放棄して逃げだそうとは思わない。そして、なおも燃え尽きてしまうこともない。

 テモテにもそうあって欲しいと願っているのです。「キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい」(13‐14節)。テモテは確かに「ゆだねられている良いもの」を守らなくてはならない。テモテには与えられている務めがあります。しかし、それを実現するのは恵みによってすべてを始めてくださった神御自身です。神自ら私たちの内に住まわれて、与えられた務めを全うさせてくださる。だから「わたしたちの内に住まわれる聖霊によって」なのです。すべてに先行する神の恵みへの信頼、そして、わたしたちの内に住まわれる聖霊への信頼。それこそが、私たちにとっても、燃え尽きてしまわないために必要なことなのです。

(祈り)

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