2025年2月26日水曜日

祈祷会用:ホセア書 9:1~9

 ホセア書 9:1‐9

 本日はホセア書9章をお読みしました。この預言の背景となっているのは、イスラエルの祭りです。5節に「祝いの日、主の祭りの日」とあります。「主の祭り」と言われた場合、通常は古くからイスラエルで祝われた巡礼祭のうち最も盛大に祝われた「取り入れの祭り」、後に「仮庵の祭り」と呼ばれるようになったものを意味します。その時、人々は年の収穫を喜び、大いに楽しみ祝うのです。しかし、そこに預言者ホセアが現れます。彼はそこで突然、人々の喜びに水を差すようなことを叫び始めるのです。

「イスラエルよ、喜び祝うな。諸国の民のように、喜び躍るな。お前は自分の神を離れて姦淫し、どこの麦打ち場においても姦淫の報酬を慕い求めた。麦打ち場も酒ぶねも、彼らを養いはしない。新しい酒を期待しても裏切られる」(1‐2節)。

 旧約聖書には「喜び祝え」「喜び躍れ」という言葉がしばしば対となって出てきます。例えば詩編97編の冒頭には、「主こそ王。全地よ、喜び躍れ。多くの島々よ、喜び祝え」という言葉が出てきます。詩編などに現れますこのような表現は、ホセアの時代の人々の間においても一般的に知られていたものと思われます。ところが、ホセアはそのような言葉をもじって、祭りの喜びのまっただ中で、まったく逆のことを語り始めるのです。「喜び祝うな。喜び躍るな」。せっかく人々が喜び楽しんでいるのに、どうしてそれを邪魔するのでしょう。

 しかし、ここで私たちはホセアの語りかけに注意深く耳を傾けたいと思うのです。彼は、ただ「喜び躍るな」と言っているのではありません。彼は、「諸国の民のように、喜び躍るな」と言っているのです。つまり、ここにホセアが叫んでいる理由があるのです。彼らの祭りはもはや主の祭りではなく、彼らの礼拝は主への礼拝ではない、ということです。それは異教の神々を拝んでいる諸国の民の祝いと同じだ、ということなのです。

 私たちが教会の礼拝、様々なキリスト教の集会、種々の特別な祝いに出席している場面を思い浮かべてください。皆がその時を喜んで過ごしている時に、突然一人の人が現れて、「こんな祝いはやめてしまえ!こんなものはキリスト教の集会ではない!」と叫び始めたらどうでしょう。それがどれほど異様な光景であるかは容易に想像できるでしょう。まさにホセアがしているのは、そのようなことなのです。もし、私たちがそのような状況に出くわしたら、一斉に反発するに違いありません。「たわけたことを言うな。これは正真正銘、キリスト教の集会ではないか。ここに集まっている多くはクリスチャンではないか。」そう言い返すのではないでしょうか。

 そこにいた人々も同じです。彼らの中には、自分があからさまに異教の神々を拝んでいるなどという意識をもっている人は、ほとんどいなかったはずなのです。彼らが祝っているのは、あくまでも「主の祭り」なのですから。皆、そこでイスラエルの神、ヤハウェを礼拝していると思っているのです。

 しかし、それが「主の祭り、ヤハウェの祭り」と呼ばれているところにこそ、大きな問題があったのです。それが名目上は主の名、ヤハウェの名によって行われているゆえに、その内容が異教化しても、カナンの豊穣神信仰、バアル信仰の影響を受けて変質してしまっていても、人々はそのことに気付かないのです。そこでどうしてもホセアのような預言者が叫ばざるを得なかったのであります。

 彼は言います。「お前は自分の神を離れて姦淫し、どこの麦打ち場においても姦淫の報酬を慕い求めた」。姦淫の報酬とは、人々が求めてやまなかった豊作と繁栄のことです。彼らはこれを求めて祭りをするわけです。繁栄と平和と幸福を与えてくれる神を拝むのです。そして、与えられた収穫を喜び祝うのです。しかし、ホセアは、人々のうちに豊作を喜び楽しみはするけれども、神を喜び、神御自身を求める思はないことを見抜いていたのです。要するに収穫を得られれば、礼拝の対象はどうでもよいのです。主なる神がいかなる御方であるか、ということは人々にとってはどうでもよいことなのです。それでは異教の祭儀と変わらないではないか、とホセアは言っているのです。

 その礼拝において主なる神御自身に関心を持てないならば、その生活において神に関心を向けられないのは当然です。そこからは、神の愛に真実に応えて生きるという生活が生まれてくるはずがありません。

 神が求めておられるのは、真実の愛によって結ばれた結婚にたとえられるような関係です。しかし、自分が喜べれば、自分の欲求が満たされば、相手のことなどどうでも良いというならば、そのような信仰生活はどうしたって本来の結婚にたとえられるものではないでしょう。それは姦淫以外の何ものでもありません。それがどんなに霊的に見えようと熱心であろうと、人間の欲求を中心とした信仰生活は姦淫と同じなのです。人々の求めているのは姦淫の報酬なのです。

 実際、私たちの信仰生活もまた、ただ姦淫の報酬を求めているに過ぎないものとなっているかもしれません。私たちが人間の願望や欲求によって振り回されず、真に礼拝の対象である御方に思いを向け続けるということは何と難しいことでしょうか。教会が、人間の欲求や願望によって振り回されずに、常に正しい信仰を追い求め続けることは何と難しいことでしょうか。

 いつの間にか、神がいかなる御方であり、何が神に受け入れられる礼拝であり、何が正しい信仰であるか、などということはどうでもよくなって、「ただ自分の欲求が満たされればよいではないか、ただ喜び楽しめればそれでよいではないか、熱心であり生き生きとしていればそれでよいではないか」と考えてしまっているかもしれないのです。だからこそ、そこに預言者の声が響くのです。「喜び祝うな。喜び躍るな」と。

 さらにホセアは、それが本質的にはバアル祭儀であり、永遠なる神との結婚関係ではなく姦淫でしかないならば、やがてその喜びに終焉がおとずれることを告げ知らせます。3節以下をご覧ください。

「彼らは主の土地にとどまりえずエフライムはエジプトに帰りアッシリアで汚れたものを食べる。主にぶどう酒をささげることもできずいけにえをささげても、受け入れられない。彼らの食べ物は偶像にささげられたパンだ。それを食べる者は皆、汚れる。彼らのパンは自分の欲望のためだ。それを主の神殿にもたらしてはならない。祝いの日、主の祭りの日にお前たちはどうするつもりか。見よ、彼らが滅びを逃れてもエジプトが彼らを集め、メンフィスが葬る。彼らの銀も宝物もいらくさに覆われ天幕には茨がはびこる」(3-6節)。

 イスラエルの民はもともとエジプトの奴隷でした。その彼らがエジプトから導き出され、荒れ野を導かれ、約束の地に入れられたのは、ただ一方的な主の恵みでした。彼らが与えられた約束の地は、まさに「乳と蜜の流れる土地」(出エジプト3:8)だったのです。しかし、彼らが荒れ野から肥沃な土地に導かれたのは、ただその豊かさを享受するためではありませんでした。彼らは主の民としてそこに生きるために救われ、約束の地に導かれたのです。そこはあくまでも「主の土地」(3節)なのです。主の土地における新しい生活へと導き入れられたのは、主を愛し、主の恵みに応えて生きる主の民として彼らが生きるためだったのです。それは、もし彼らが主を忘れ、ただそこにおける幸いだけを追い求める時、もはや主の土地にとどまりえないことを意味します。人が神の恵みに応えて神に向かって生きるのでないならば、もはや神の恵みによって救われた意味を失うことになるのです。

 ですからここで「エフライムはエジプトに帰ることになるのだ」、と告げられているのです。それは出エジプト以前に戻ってしまうことを意味します。具体的には、アッシリアに捕囚となることです。あるいは他の諸国に散らされることです。いずれにせよ、それは約束の地での生活を与えられた救いの恵みを無にしてしまうことに他なりません。そこでは、もはや「主にぶどう酒をささげることもできず、いけにえをささげても、受け入れられない」(4節)のです。そのような状況に置かれることになります。「偶像に捧げられたパン」は意訳です。直訳は「喪中のパン」です。要するに、主の礼拝のためにささげるに相応しいパンも手に入れられなくなるということです。異教の地に移されるからです。それでも変わらず定められた祝いの日はやってくるでしょう。しかし、その時、もはや祝うことができなくなっている自分を見い出します。主は言われるのです。「その日になってお前たちはどうするつもりか」と。

 私たちは往々にして主を礼拝しようと思えばいつでもできると考えてしまっているものです。主を求めるべき時になったら、いつでも求めることはできると考えているのです。しかし、そうではありません。聖書はそのような私たちにホセアの預言を突きつけます。ホセアが語っていることは、まさにそれから間もなく実現したのです。イスラエルの人々が主を求めようとしたときには、もはや主の神殿のない国に連れ去られていたのです。それは私たちにおいても同じです。今与えられている恵みを軽んじるならば、それを失うことになるのです。

 しかし、そのように語られても、人々は主に立ち帰ろうとはしませんでした。そのような人々に対して、ホセアはさらに次のように語ります。7節以下をご覧ください。

 「裁きの日が来た。決裁の日が来た。イスラエルよ、知れ。お前の不義は甚だしく、敵意が激しいので、預言者は愚か者とされ、霊の人は狂う。預言者はわが神と共にあるが、エフライムは彼を待ち伏せて、その行く道のどこにも鳥を取る者の罠を仕掛け、その神の家を敵意で満たす。ギブアの日々のように、彼らの堕落は根深く、主は彼らの不義に心を留め、その罪を裁かれる」(7‐9節)。

 「預言者は愚か者とされ、霊の人は狂う(狂った者とされる)」というのは、人々がそう見なしていたということです。人々はそのように、預言者を退け、ホセアが語れば語るほど彼を憎んだのでした。そのような彼らについて、彼らの堕落の根深さは「ギブアの日々」のようだと語ります。ギブアの日々というのは、士師記20章以下に記されている出来事です。ベニヤミン族が罪を犯した時、彼らは悔い改めようとせず、むしろ他のイスラエル諸部族に戦いを挑んだのです。「かえってベニヤミンの人々は町々からギブアに集まり、イスラエルの人々と戦おうとして出て来た」(士師記20:14)。その結果、ベニヤミンは自らの身に悲惨を招いたのです。悔い改めようとせず、神の言葉に敵対して立つ者もこれと同じです。神の呼びかけを憎み退けるその頑なさが自らに滅びを招くのです。

 それゆえに、ホセアは既に裁きの日が到来したものとして語ります。「決済の日が来た」と。このような表現は預言の言葉に繰り返し現れます。捕囚になるその時にすべてが決まるのではありません。滅亡が実現する時に、初めて神の裁きが到来するのではありません。主の言葉を憎み退け、偽りの喜びに留まっている時、その人は既に裁きの内にあるのです。それゆえ、いつでも問われているのは「今」なのです。それゆえにまた、主に立ち帰り、主を求め、真の喜びに生きるべき時もまた「今」なのです。


2025年2月23日日曜日

「わたしの恵みはあなたに十分である」

 2025年2月23日主日礼拝説教

聖書:コリントの信徒への手紙二 12:1‐10

 今日の聖書箇所は、「なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」という不思議な言葉で終わっていました。また、今日の箇所には「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」という言葉も出てきました。

 一般的に言うならば、喜びとなり誇りとなるのは「強さ」なのだと思います。だから「強くありたい」と誰もが願います。「弱いよりは強いほうが良いに決まっている」と思います。もちろん、《強さ》と言った場合、その意味するところは様々です。必ずしも肉体的な力の強さばかりではありません。それは意志の力であるかもしれませんし、また特別な能力であるかもしれません。社会的な権力であるかもしれません。あるいは他の人が体験していないことを体験し、他の人の知らないことを知っている、ということであるかもしれません。信仰を求めて教会に来る人の中には、苦しみを乗り越える強さが欲しい、どんな時にも泰然としていられる精神力が欲しい、と思って来られる方もあるかもしれません。

思い上がることのないように
 この手紙が宛てられていたコリント教会の人々の多くも、やはり《強さ》を求める人々であったようです。彼らの場合、特に霊的な能力や神秘的な体験に極めて強い関心があったことが、手紙の内容から伺えます。

 そのような彼らの間にあって、非常に強い影響力をもった教師たちがいました。彼らはパウロがコリントの教会を去った後に入ってきた教師たちです。福音とは相いれない異なる教えを持ち込んできた異端の教師たちです。彼らが教会にもたらした混乱が、この手紙の背景となっています。彼らがいかに強力な支配力をもっていたかは、「実際、あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています」(11:20)という言葉にも現れております。なぜコリントの人々は、そのような偽使徒たちに従うようになってしまったのでしょう。なぜ偽使徒たちがそれほどまでの支配力を持ったのでしょう。

 その理由はいくつか考えられますが、最大の理由は、コリントの人々の求めていた《強さ》を彼らが持っていたところにあったのではないかと思います。つまり彼らは神秘的な体験も豊富であり、能力的にも優れており、かつ雄弁であり、説得力もあったのです。そのような「偽使徒」たちに比べますと、この手紙を書いたパウロははなはだ貧弱に見えたようです。10章10節には、「わたしのことを、『手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』と言う者たちがいるからです」と書かれています。これがパウロの一般的な印象だったのでしょう。そして、そのようなパウロが伝える「十字架につけられたキリスト」よりも、偽使徒の持っている《強さ》のほうがよほど魅力的であったに違いありません。

 そのような事情のもとにあって、今日お読みした言葉は語られているのです。「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう」(12:1)。つまり、偽使徒たちが彼らの神秘体験を誇っているとするならば、そのような体験は私にもなくはない、と言っているのです。それは愚かなことでしょうか。確かに、そのようにして体験を誇るということが無益なことをパウロは重々承知していたのです。本当はそのようなことをしたくはないのです。しかし、彼は無益と知りつつ、あえて語り出します。その先に、どうしても伝えたいことがあるからです。

 パウロが自分の体験を語ることに躊躇を覚えている様子は、その語り口にも現れております。「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです」(2節)と彼は言います。前後の関係から言いますと、パウロが自分について語っていることは明らかです。しかし、意図して他人の事のように語るのです。その言葉によるならば、パウロは14年前、ちょうどアンティオキアで伝道していた頃に、天に引き上げられるような神秘的な体験をしたようです。そこで、彼は、口に出して語るのも畏れ多いような言葉を聞いたのでした。

 この経験が実際どのようなものであったか、ここに書かれている以上のことはわかりません。実際、パウロもまた、この体験について多くを語ることはしていません。彼は自らの神秘体験から、現実の苦しみの体験へと話を移すのです。彼は自分の身に与えられた一つの「とげ」について語り始めるのです。これこそが、彼の語りたかったことなのです。「また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです」(7節)。

 この「とげ」が一体なんであったかは定かではありません。多くの人は、なんらかの病気であったのだろうと想像します。いずれにせよ、耐え難い苦しみが続いていたことは確かです。その苦しみをパウロは「サタンから送られた使い」と呼びます。彼は苦しみそのものを美化することはしません。それはサタンからのものであり、直接的に神からのものではありません。また、「サタンから送られた使い」という表現には、この「とげ」が少なからず宣教の妨げになったという意味合いも含まれているのでしょう。

 しかし、神はサタンからの使いさえも御自分の目的のためにお用いになることができるのです。神がこの「とげ」を、ある目的のために用いていることを、パウロは知るに至ったのでした。そこにあったのは、パウロが「思い上がることのないように」という、神の配慮だったのです。

 「思い上がり」「高ぶり」「傲慢さ」――人間の《強さ》はこれらと常に隣り合わせにあるものです。《強さ》を追い求める者が、《強さ》と共に《思い上がり》を得るということは珍しいことではありません。それは信仰の世界においても同じです。そして、それこそがまさにコリントの教会が直面していた問題でもあったのです。

自分の弱さを誇る
 もちろん、自分の身に与えられた「とげ」について、パウロは初めから「思い上がることのないように与えられたのだ」と悟っていたわけではありません。ですから、彼はこのサタンの使いを離れ去らせてくださるように三度も主に祈ったことを記しています。「三度」ということは、字義通りただ三回ということではなくて、「何度も祈った」ということです。

 パウロは苦しみを取り去って欲しかったのです。弱さを取り除いて欲しかったのです。強くして欲しかったのです。しかし、「とげ」は除かれませんでした。パウロの祈りは答えられなかったのでしょうか。いえ、確かに祈りは答えられたのです。しかし、パウロが願っていたような仕方においてではありませんでした。パウロは祈りの答えとして、次のような主の御言葉を受けたのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(9節)。

 主はパウロの「とげ」を取り去りませんでした。主は彼に弱さを残されました。彼を強くすることはありませんでした。なぜでしょうか。それは「十分である主の恵み」にパウロの目を向けさせるためでありました。人間の弱さの中にこそ完全に現れる主の力に目を向けさせるためでありました。それゆえに、パウロは主の恵みと力に目を向けて、次のように語るのです。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(9‐10節)。

 このように、私たちが追い求めるべきことは、自分自身が強くなることではないのです。本当に誇るべきものは、自分自身の強さではないのです。パウロは、むしろ自分自身については「弱さを誇る」と語るのです。私たちの問題は往々にして弱すぎることではありません。強すぎることです。自分の弱さを本当の意味で認めようとしない者がただ強さを求めていくならば、その先には「思い上がり」しかありません。

 私たちの信仰生活の中心は、自分を改善し、自分を強くすることではありません。何か特別な力を自分のものにすることでもありません。私たちに必要なのは、徹底して自分の弱さを自覚することなのです。キリストの恵みと力なくしては生きられない自分自身であることを認めることなのです。そこから、キリストを求めて生きるのです。キリストにつながって生きるのです。主の御言葉が欲しい。聖餐のパンが喉から手が出るほどに欲しい。主に祈らずには生きていけない。それこそが、自分の弱さを本当の意味で誇り、自分の弱さの中にキリストの力が現れることを求める者の姿です。

 そして、それはキリスト者個人として言えるだけでなく、教会全体としても言えるのでしょう。キリストにつながっていなければ、心を一つにして共に祈ることなくしては、キリストの体としての教会は立ち行かない。自らの弱さを自覚して、キリストの力が現れることを求める姿こそ、教会の本来の姿なのでしょう。

 それゆえに、私たちにとって、弱さを思い知らされる機会というのは、確かに私たちの人生においても教会にとっても必要なものなのだと思います。それはパウロと同じような肉体に与えられる「とげ」であるかもしれません。あるいは、「侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態」(10節)であるかもしれません。それは消極的な意味としては、「思い上がることのないように」必要なのです。しかし、本当に重要なことは、そこにおいて私たちもまた、主の御言葉を聞くことなのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。その御声を聞いて受け止めるならば、私たちもまたパウロと共にこう応えることができるに違いありません。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。わたしは弱いときにこそ強いからです」と。


2025年2月19日水曜日

祈祷会用: ホセア書 8:1~14

 ホセア書 8:1‐14

 本日お読みしたホセア書8章の預言は、ホセアの活動した北イスラエル王国の末期に関わっています。その歴史的状況は、列王記下17章に記されていますが、概略を述べるならばこういうことです。イスラエルの王ホシェアの治世、アッシリアの勢力が脅威となった時、イスラエルはアッシリアに貢ぎを納めて服従するという政策を採りました。しかし、その一方で、エジプト王に密使を送り、エジプトの勢力を背景にアッシリアに対抗することを企てていたのです。ところがその計画がアッシリアの知れるところとなりました。その結果、ホシェアは捕らえられ、北イスラエル王国の都であるサマリアはアッシリアに三年間包囲された後、占領されることになったのです。こうして北イスラエルは滅びていったのでした。

 9節には「アッシリアに上って行き、貢によって恋人を得た」と書かれていますから、ホセア書8章の預言が語られていた時点では、まだ王国が外面的にはアッシリアに服従している時であったと考えられます。ならば、少なくとも当面の危機は回避できたと誰もが考えていた時であったことでしょう。しかし、預言者ホセアはその時既に、イスラエルの崩壊と滅亡を預言していたのでした。

「角笛を口に当てよ。鷲のように主の家を襲うものがある。イスラエルがわたしの契約を破り、わたしの律法に背いたからだ。わたしに向かって彼らは叫ぶ。『わが神よ、我々はあなたに従っています』と。しかし、イスラエルは恵みを退けた。敵に追われるがよい」(8:1‐3)。

 ここで「鷲のように主の家を襲うもの」がアッシリアを指していることは明らかです。アッシリアが襲って来るとホセアは予告しているのです。それは実際的には政治的な策略の失敗によって起こります。しかし、失敗そのものが本質的な原因ではないと、主は言われるのです。そうではなくて、真の原因は、イスラエルが主の契約を破り、主の律法に背いたからだと言うのです。神との関係が崩壊しているゆえに、イスラエルは崩壊し、滅びることになるのです。これはこの預言書に繰り返し現れるモチーフです。

 政治的な危機に直面した時、人々はこれを政治的な事柄としか捉えませんでした。そうして、アッシリアに貢いだり、エジプトに助けを求めたりしたのです。しかし、そのようなことをしても、国は滅びるのだ、とホセアは語るのです。

 その意味するところを私たちは深く心に留めなくてはなりません。私たちもまた、この世の問題はこの世の方法において解決されるべきだと考えているものです。そして、解決する方法とそのための助けとを求めて右往左往するのです。そのような私たちは、主の言葉によって表現されるならば、まさに愚かで悟りがない鳩のようなものです(7:11)。

 本当の危機は神との関係が壊れていることであるのに、多くの場合そのことに気付きません。そのようにして、真に大切なことは棚上げにして、目の前の問題にだけ対処しようといたします。その愚かさを、ホセアの預言は私たちに示しているのです。

 もちろん、イスラエルの人々は決して神に関わる事柄にまったく無関心であったということではありません。彼らは宗教的な国民です。神殿において、宗教的な祭儀は盛大に行われておりました。彼らは言うのです。「わが神よ、我々はあなたに従っています」(2節)と。これは直訳すると「わが神よ、我々はあなたを知っています」という言葉です。しかし、神は言われます。「イスラエルは恵みを退けた」。言葉としてはいくらでも正統的なことを言うのです。神を知っているつもりでいるのです。しかし、現実の生活としては恵みを退けて生きているのです。それは神御自身を退けることに他なりません。

 さらに預言者はさらに厳しく言葉を続けます。4節以下をご覧ください。「彼らは王を立てた。しかし、それはわたしから出たことではない。彼らは高官たちを立てた。しかし、わたしは関知しない。彼らは金銀で偶像を造ったが、それらは打ち壊される。サマリアよ、お前の子牛を捨てよ。わたしの怒りは彼らに向かって燃える。いつまで清くなりえないのか。それはイスラエルのしたことだ。職人が造ったもので、神ではない。サマリアの子牛は必ず粉々に砕かれる」(8:4‐6)。

 ここに「サマリアの子牛」という言葉が出てきます。北王国の都であるサマリアに子牛の像が祀られていたことが分かります。ホセアの時代の二百年ほど前、南北の王国が分裂した当初、北王国の王となったヤロブアム一世は金の子牛を二体造り、ベテルとダンに置きました。それは、北イスラエルの人々が、礼拝のために南ユダに属するエルサレムに行かなくてよいようにするためでした。

 もちろん、最初の意図は、子牛を神として拝ませることではなかったでしょう。子牛像は見えざる神のための台座であったものと思われます。しかし、あくまでも人間的な理由からそれらが置かれたという事実は、人間中心の偶像礼拝に道を開くことになりました。やがてサマリアに子牛の像が置かれる頃には、子牛像そのものが神として崇められるようなことが起こっていたことが分かります。

 そのような人間中心の偶像礼拝は、それがたとえ主の名によって行われていたとしても、主の恵みに対する真実な応答を生み出すことはありません。それによって、人々が主なる神の支配を求め、主の御心が実現することを求めるようになることはありません。そこでは人間中心の欲求や願望がかき立てられるだけなのです。

 その結果は政治的な領域にも現れました。ホセアの時代、次々と統治する王が替わります。しかし、人々はその王が神に従順であるか否かを問いません。神の御心に適っているか否かを問いません。新たに高官たちが立てられます。その高官たちが神に従順であるか、神の御心にかなっているか、そんなことはどうでもよいのです。支配者が代わって国が繁栄し、自分たちの幸福が確保されればそれでよいのです。それゆえに、「それはわたしから出たことではない。わたしは関知しない」と主は言われるのです。

 人が神を忘れて平和だけを追い求める時、決して平和を得ることはないのです。神を忘れて繁栄や幸福だけを追い求める時、むしろそれらは遠ざかってゆくのです。それは未来を開く道ではなくて、滅びへと向かう道なのです。そのように動いている王国は、確実に滅びへと向かっていることをホセアは預言したのです。

 7節以下には次のように語られています。「彼らは風の中で蒔き、嵐の中で刈り取る。芽が伸びても、穂が出ず、麦粉を作ることができない。作ったとしても、他国の人々が食い尽くす。イスラエルは食い尽くされる。今や、彼らは諸国民の間にあってだれにも喜ばれない器のようだ。エフライムは独りいる野ろば。アッシリアに上って行き、貢によって恋人を得た。彼らは諸国に貢いでいる。今や、わたしは諸国を集める。諸侯を従える王への貢ぎ物が重荷となって、彼らはもだえ苦しむようになる」(8:7‐10)。

 種蒔きの時に風が吹いていることは、当時の農法から言えば非常に都合のよいことでした。しかし、刈り取るときには、同じ風ではありますが、嵐になっていると言うのです。つまり、アッシリアに貢を納めてそれで急場をしのいだように見えるかもしれないけれど、最終的にはそのアッシリアによって滅ぼされるということです。

 人が神に立ち帰ることなくしても、急場はしのげることでしょう。その時の困難は回避できるかもしれません。しかし、やがて嵐がやってくるのです。芽は出るかもしれません。しかし、穂は出ないのです。いや、穂も出て麦粉を作れるかもしれません。しかし、それを自ら口にすることはできないと言うのです。これらすべては同じことを言っているのです。人間の罪の問題、神との関係に関わる問題を解決しないなら、目先の問題をうまく切り抜けたように見えても、最終的には滅びを刈り取ることになるのです。

 残念ながら、彼らの祭壇は、もはや神に立ち帰り、神と共に生き始める場ではありませんでした。主は、彼らの礼拝を御覧になられ、次のように語られます。「エフライムは罪を償う祭壇を増やした。しかし、それは罪を犯す祭壇となった。わたしは多くの戒めを書き与えた。しかし、彼らはそれを無縁のものと見なした。わたしへの贈り物としていけにえをささげるが、その肉を食べるのは彼らだ。主は彼らを喜ばれない。今や、主は彼らの不義に心を留め、その罪を裁かれる。彼らはエジプトに帰らねばならない。イスラエルはその造り主を忘れた。彼らは宮殿を建て連ねた。ユダも要塞の町を増し加えたが、わたしはその町々に火を送り、火は城郭を焼き尽くす」(8:11‐14)。

 罪を償う祭壇は多く作られました。しかし、罪を赦された者として神と共に生きることは、もはや彼らの関心事ではありませんでした。罪の償いの祭儀は、具体的な生活とは無縁の、形骸化したものに過ぎませんでした。国家の危機的な状況にあって、人々は競い合うようにして多くのいけにえを捧げました。しかし、それは危機の回避を求めているのであって、神との関係の回復を求めているのではありませんでした。ですから、そこで神の言葉は重んじられません。神が求め給うことが何であるかには関心がありません。人々は、神の戒めを無縁のものと見なしていたのです。

 神の言葉を離れると、献げ物も礼拝そのものも迷信となっていきます。そのような迷信的な礼拝を人々は喜び、それに満足していたかもしれません。しかし、「主は彼らを喜ばれない」とホセアは語るのです。それは裁きをもたらすものでしかありません。そのような彼らは「エジプトに帰らねばならない」とさえ言われます。それは出エジプト以前に引き戻されることを意味します。それは神の救いの恵みを無にしてしまうことに他なりません。彼らは実にそのような危機に瀕していたのです。しかし、「造り主を忘れた」イスラエルは、自分がどのような危機にあるかということに気付きませんでした。

 このようなイスラエルの姿は、教会の歴史においても、決して無縁なものではありませんでした。今でも、私たちのあり方が問われているように思います。主の十字架による罪の赦しが安価な恵みとされ、その裂かれた肉と流された血にあずかる聖餐が形骸化し、私たちの現実の生活とはまったく無縁の儀式となってしまうことはあり得ることです。「わが神よ、我々はあなたを知っています」と告白していながら、現実の歩みにおいては「造り主を忘れた」との責めを負うような信仰者であってはなりません。そのような教会であってはならないのです。


2025年2月16日日曜日

「信仰を生きる生活」

 2025年2月16日主日礼拝説教

聖書:テモテへの手紙一 4:7b‐16

キリスト・イエスの良い僕となるために
 本日の第2朗読は「信心のために自分を鍛えなさい」という言葉から始まっていました。「信心のために自らを鍛える」という言葉は私たちの信仰生活においては、あまり耳にしない表現であるかと思います。そこで、今日は、この内容に入る前に、その前提となっていることを先に見ておきたいと思います。

 その直前には「キリスト・イエスの立派な奉仕者」(6節)という言葉が出てきます。「奉仕者」というのは「召使い」あるいは「僕(しもべ)」とも訳される言葉です。「立派な」と訳されているのは「良い」という言葉ですから、要するに「キリスト・イエスの良い僕」ということです。ここに語られている内容は、大まかに言えば「キリスト・イエスの良い僕として生きる」という話です。

 この手紙を受け取ったテモテはその当時、エフェソの諸教会の牧会を託されていました。そこでパウロは「これらのことを兄弟たちに教えるならば…良い僕になります」とテモテに語っているのです。「これらのこと」というのは、直接的にはその前の3節から5節にかけて書かれていることです。しかし、そこでは「異なる教え」すなわち異端との戦いが問題となっているのですから、より広い意味で「健全な教え」を指していると見てよいでしょう。

 テモテはキリストから特に教えることを託されているのですから、健全な教えを語ることによって、キリストの良い僕となるのです。そして、当然のことながら、良い僕として健全な教えを語るためには、自らが健全な教えによって養われていなくてはなりません。「信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて」(6節)と書かれているのはそういうわけです。

 しかし、より広い見方をするならば、キリスト・イエスの僕となるために召されているのは、何も教えることを務めとするテモテに限ったことではありません。そして、信仰の言葉と善い教えによって養われなくてはならないということもまた、テモテに限らず、誰であっても、キリスト・イエスの良き僕となるためには不可欠であると言えるでしょう。

 要するに、霊的に栄養失調であったなら、良い僕にはなれない、ということです。そこで何を食べるかが重要なのです。私たちはまず「信仰の言葉」を食べなくてはならないのです。当たり前のことですが、この世に満ちている言葉は信仰を前提とはしていません。この世の言葉だけを食べているならば、信仰的には確実に栄養失調になります。福音に基づく信仰の言葉によって養われ満たされなくてはならないのです。

 また、一見宗教的に見えたり、心を揺さぶるような感動的な話であるかもしれないけれど、実のところ福音とは全く相容れない言葉もあります。それをパウロは「俗悪で愚にもつかない作り話」という辛辣な言葉をもって表現します。実際、彼らが当時生きていた世界は、今日の日本よりもはるかに宗教的な世界だったのです。なので、そのような話はいくらでもあったのです。しかし、そのような「俗悪で愚にもつかない作り話」を食べていてはならない。そのようなものは「退けなさい」と言われているのです。そうではなくて、「善い教え」すなわち健全な教えの言葉によって養われなくてはならないのです。

 さて、私たち信仰的なの栄養状態はどうでしょうか。頌栄教会の栄養状態はどうでしょう。そのような信仰の言葉と善い教えの言葉が語られているか。聴かれているか。養われているか。そこにおいて礼拝説教の役割は重要です。しかし、これはただ礼拝説教だけの問題ではありません。新約聖書において繰り返し「励まし合いなさい」と勧められています。信仰の言葉をもって互いに励まし合うということが必要です。頌栄教会におけるお互いの間で交わされているのは「信仰の言葉」でしょうか。それともこの世の言葉でしょうか。

 またその後の教会の歴史を見るならば、パウロの言う、「健全な教え」は「新約聖書」という形で保持されて、伝えられてきたとも言えます。ありがたいことに、私たちはそれを日本語に訳された聖書として手にしているのです。しかし、手にしているだけではだめなのです。私たちは聖書の言葉によって養われなくてはなりません。聖書の言葉そのものに耳を傾けようとしないで、この世のジャンクフードのようなものばかり食べていたら必ず霊的な栄養失調に陥ります。

信心のために自分を鍛えなさい
 そして、今日の箇所において「信心のために自分を鍛えなさい」と続くのです。栄養状態が良いかどうかも重要ですが、パウロはさらに栄養を十分摂った上で、トレーニングが必要だというのです。

 ここで言われている「信心」とは、単に「信じる心」のことではありません。これは「敬虔」とも訳されます。「敬虔」というのは、単に心の中のことではありません。また、礼拝堂の中に限ったことではありません。むしろこの「信心」あるいは「敬虔」ということにおいて重要なのは礼拝堂の外における生活です。重要なのは具体的な生活の仕方です。敬虔な生活とは真に神と共に生きる生活を意味するのです。

 確かに聖書が語るように、人は敬虔であるから救われるのではありません。救いはただ神の一方的な恵みによるのです。しかし、一方的な恵みによって救いにあずかったのなら、その救いは「生活化」される必要があるのです。罪を赦され、神の子どもとされたのですから、神の子どもとして、神と共に生きる生活として具体化されなくてはならないのです。

 それは一方においては聖霊の働きです。聖霊のお働きがなければ、そもそも私たちの信仰生活そのものが成り立ちません。聖霊が私たちの信仰生活を形づくっていくのです。しかし、もう一方において、神と共に生きる生活は、私たちが「身につける」べきものなのです。身につけるべきものは頭ではなく体で覚えなくてはなりません。ここでは明らかに「体の鍛練」との類比で考えられています。実際に水に入って体を動かすことなくして水泳を身に着けることはできません。「信心の鍛錬」も同じことです。

 それゆえに、教会はかなり早い時期に、例えばユダヤ教の伝統から聖書日課を取り入れたり、あるいは朝と夕の祈りに加え、定まった時刻に祈るという習慣を取り入れたりしたのです。(例えば、朝6時、9時、正午、午後3時に祈ることなど)。それはそのように行わなくては救われないという、救いの条件ではないのです。そうではなくて、神と共に生きる生活を形づくる知恵であり体で覚えるための練習だったのです。そのような習慣を現在の我々の教会は持っていませんが、肉の弱さを持つ私たちであるからこそ、そのような練習・訓練が必要であることには変わりありません。私たちに今、与えられているのは日々の聖書日課と、この定められた時に集まってささげる主日礼拝です。

 パウロはここで「体の鍛練も多少は役に立ちますが」と書いています。「多少は」と訳されていますが、原文は「小さい」とか「少ない」という意味の言葉です。そう書かれているのは、死を越えてまで役には立たないからです。あくまでもこの世の命にしか関係していない。実際そうでしょう。しかるに私たちは実際、この世の命のために、健康を保つという目的のために、一生懸命に「体の鍛練」を行うこともするのでしょう。ある人はジムに通い、ある人は朝早く起きてウォーキングをする。ならば、ましてや神と共に生きる生活は、この世だけでなく来るべき世にも関わっているのであり、死んで終わりではないのですから、実際に体を用いた鍛錬によって「身につけること」には、なおさら真剣に取り組んでもよいはずです。

 実際に、このように体を用いた鍛錬によって神と共に生きる生活を「身につけること」「身についていること」の大切さを、私たちは数年前、いやというほど思い知らされたのではありませんか。2020年の3月29日、私たちはこの礼拝堂に集まって礼拝を捧げることができなくなりました。説教も聞くことはできなくなりました。それが6月第2週まで続きました。しかし、考えてみれば、このようなことはコロナ禍でなくても起こり得ることです。

 実際、病気のため、あるいは高齢のため、毎週礼拝に集うことができなくなった方は身近にいくらでもいるでしょう。私たちもやがては集まれなくなります。その時に、信仰生活が「身についている」かどうかは、きわめて重要なことなのでしょう。信心の鍛錬をしてきたか。置かれた状況において、鍛錬を続けているか。それが問われる時は来るのです。今、私たちの信心の鍛錬はどうなっているでしょうか。

 さらにパウロはテモテにこう勧めています。「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」(12‐13節)。先に触れましたように、牧会者であるテモテに託されていたのは、異端の教えがはびこりつつある教会において、正しく「教える」という務めでした。なのでここで再び「聖書朗読と勧めと教えに専念しなさい」と語られています。

 しかし、教えるということは、ただ正しい教理を語れば良いということではありません。やはり教えることを託された者は、「信じる人々の模範となる」という課題を避けて通ることはできないようです。これは牧師にとって最も厳しい言葉です。しかし、これはまた先に救いにあずかった者が後に続く人々の模範(あるいは「見本」)となるという意味において、すべてのキリスト者に当てはまるとも言えるでしょう。

 いずれにしても、ここに書かれていることは既に述べられた「信心の鍛錬」と切り離すことはできないのです。すべては、信仰の言葉と善い教えの言葉とに養われ、かつ具体的な鍛錬によって信仰生活を「身につける」ことによって生まれてくることだからです。すなわち、「模範となる」ということは、神と共に生きる具体的な生活から生じる実りなのです。「模範となる」ということが先に来るのではないのです。神の水源につながって、水の満ちた井戸であってこそ、そこから汲んで清い水を差し出すことができるのです。水源ににちゃんとつながっていない涸れ井戸から無理をして水を汲み出して与えようとするならば、せいぜい泥水を撒き散らすのが関の山です。日々の信心の鍛錬を大切にしましょう。

2025年2月12日水曜日

祈祷会用:ホセア書 6:11b~7:16

ホセア書 6:11b‐7:16

 預言者ホセアが見ていたのは、戦乱と内紛によって引き裂かれ、傷つき、深く病んでいる末期的状況のイスラエルでありました。そこには回復を必要とする国家がありました。そこには癒しを必要とする人々がおりました。そのようなイスラエルの民に、主はホセアを通してこのように語られたのです。

「わたしが民を回復させようとし、イスラエルをいやそうとしても、かえって、エフライムの不義、サマリアの悪が現れる。実に、彼らは偽りをたくらむ。人は家に忍び込み、外では追いはぎの群れが人を襲う。わたしは彼らの悪事をすべて心に留めている。しかし、彼らは少しも意に介さない。今や、彼らは悪に取り囲まれ、その有様はわたしの目の前にある」(6:11b‐7:2)。

 主が望んでおられるのは、イスラエルの民が滅びることではありませんでした。主が与えようとしておられたのは、回復であり癒しでありました。しかし、本当の回復と癒しというのは、ただ事態が元通りになることではありません。ただ荒れ果てた国家が再び繁栄を回復することではありません。ただ危機的状況が過ぎ去ることでも、苦しみが取り除かれることでもありません。主は、傷や病そのものが本当の問題なのではないことを御覧になっておられるのです。問題はもっと深いところにあります。それは人間の罪です。問題は彼らの不義と悪にこそあるのです。

 偽りを企むのは心の中においてです。それは他人の目からは隠れています。盗人が家に忍び込むことも、人々の目の前では行われません。それは人目を忍んですることです。これもまた隠れた事柄です。追いはぎの群れが人を襲うのも町の外においてです。自分たちが捕らえられ、法的に裁かれ、刑罰を科せられることがないように、それを行うのです。このように、人間の不義と悪は、いつでも人間の目と人間の裁きから隠れたところにおいて行われるのです。

 しかし、人の目から隠れていても、神の目から隠れることはありません。主は言われるのです。「わたしは彼らの悪事をすべて心に留めている」と。しかし、続けて言われます。「しかし、彼らは少しも意に介さない」。問題は、神の目を「少しも意に介さない」ところにあるのです。人の目は気にするのです。自分の悪が人目に曝されることは恐れるのです。しかし、神の目は恐れません。神を侮って生きています。

 このように、本当の病根は、神との正しい関係が失われていることにあるのです。社会が神を失い、人生が神を失っていることにこそあるのです。人は、不幸そのものを問題にいたします。苦しみや痛みそのものを問題にいたします。しかし、その根がどこにあるのかに関心がありません。それは木が枯れてしまった時に、葉が落ちてしまうことばかりを嘆いているようなものです。本当は、根が腐っているから木が枯れ、葉が落ちるのです。主は、まさに根が腐っていることを問題にしておられるのです。「今や、彼らは悪に取り囲まれ、その有様はわたしの目の前にある」と言われるのです。主は、その根の腐りきった現実を次のように描写します。

「彼らは悪事によって王を、欺きによって高官たちを喜ばせる。彼らは皆、姦淫を行う者、燃えるかまどのようだ。パンを焼く者は小麦粉をこねると、膨むまで、火をかき立てずにじっと待つ。我々の王の祝いの日に、高官たちはぶどう酒の熱で無力になり、王は陰謀を働く者たちと手を結び、燃えるかまどのようなたくらみに心を近づける。夜の間眠っていた彼らの怒りは、朝になると燃え盛る火のように炎を噴く。彼らは皆、かまどのように熱くなり、自分たちを支配する者を焼き尽くした。王たちはことごとく倒れ、ひとりとして、わたしを呼ぶ者はなかった」(7:3‐7)。

 罪に捕らえられた人間の欲望の炎は「燃えるかまど」として表現されています。彼らのある者はこの世の権力にすり寄り、支配力を求めます。ある者は快楽を求め、倦むところを知りません。イスラエルには不正が満ち、淫行の霊が人々を支配しています。いずれにせよ、彼らを動かしているのは燃えさかる欲望の炎であることには変わりありません。

 そのような中、次から次へとクーデターが起こります。「自分たちを支配する者を焼き尽くした」というのは、そのような事情を指しているものと思われます。欲望の炎は自分を支配する者を焼き滅ぼします。自分が支配する者となるためです。そのようにして、王たちは次々と倒れてゆくのです。イスラエルを統治した王は18人いました。その約半数は殺害されて治世を終えています。それがイスラエルの現実でした。そして、ホセアの時代、王国は末期的状況を呈している瀕死の状態にあったのです。

 しかし、本当に悲しむべき事態は7節の終わりに記されています。「ひとりとして、わたしを呼ぶ者はなかった」と主は言われるのです。他者を殺害して王となった者は、自分自身としては、政治的に安定した社会を求めたに違いありません。しかし、彼らの内に、神を真実に呼び求める者はいなかったと言うのです。いや、それは王だけではないでしょう。新しく王位に着いた者も民衆も共に、支配体制が代わり、新しい世となり、国家に再び繁栄と平和を回復することを望んでいたに違いありません。しかし、神を呼び求める者は一人もいなかったのです。回復と癒しは求めても、神を呼び求める者はいなかったのです。神との関係が壊れているところにこそ問題を見いだし、自らの罪を悔い改め、真実に神を呼び求めようとする者はいなかったのです。それは今日の私たちにおいても同じであるかも知れません。そこに主の深い失望と嘆きがあるのです。

 それゆえ、主はさらに、イスラエルの民の現実について、嘆きつつ次のように語られます。

「エフライムは諸国民の中に交ぜ合わされ、エフライムは裏返さずに焼かれた菓子となった。他国の人々が彼の力を食い尽くしても彼はそれに気づかない。白髪が多くなっても彼はそれに気づかない。イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢である。彼らは神なる主に帰らず、これらすべてのことがあっても主を尋ね求めようとしない。エフライムは鳩のようだ。愚かで、悟りがない。エジプトに助けを求め、あるいは、アッシリアに頼って行く。彼らが出て行こうとするとき、わたしはその上に網を張り、網にかかった音を聞くと、空の鳥のように、引き落として捕らえる」(7:8‐12)。

 イスラエルの民は、主のもとに帰ろうとはしませんでした。神を求める代わりに、彼らはエジプトに助けを求め、あるいはアッシリアに頼って行きます。それは、人間的に見るならば、その時の最善の政策であったのでしょう。しかし、主はそのような姿を、愚かで悟りのない鳩のようだ、と言われるのです。そして、イスラエルが最終的にアッシリアに滅ぼされ、その時エジプトは何の頼りにもならなかったことを思います時に、預言者の言葉は真実であったことを思わされます。

 人が神を求めることをしないなら、危機において「どうしたらよいか」ということしか考えられなくなるのは当然のことです。そのようにして、安易な解決を求めるのです。手軽な回復と癒しの道を求めて動き回るのです。そのように、ただ「どうしたらよいか」ということだけを考えて右往左往している姿は、確かに愚かで悟りのない鳩のようではありませんか。そして、実際それがしばしば私たちの姿であろうかと思うのです。

 そのようなイスラエルはまた、「裏返さずに焼かれた菓子」と表現されています。菓子を裏返さずに焼いたらどうなるでしょう。表がこんがりと良い色に焼けていたとしても、裏は真っ黒に焦げてしまっています。それと同じように、イスラエルは国家としての体裁は整えているかもしれないし、目の前の危機は逃れたように見えるかもしれないけれども、本質的には救いへと向かってはいないのです。むしろ、滅びへと向かっているのです。見えないところで、既に真っ黒焦げになっているのです。他国に頼りながら、実は力を吸い取られている。老衰状態へと向かっているのです。安易な救いを求めることによって、かえって滅びを招いているのです。そして、そのことに気付かないのです。

 そのように、裏返さずに焼かれた菓子のようなイスラエルに対して、主はこう言われます。

「なんと災いなことか。彼らはわたしから離れ去った。わたしに背いたから、彼らは滅びる。どんなに彼らを救おうとしても、彼らはわたしに偽って語る。彼らは心からわたしの助けを求めようとはしない。寝床の上で泣き叫び、穀物と新しい酒を求めて身を傷つけるが、わたしには背を向けている。わたしは、彼らを教えてその腕を強くしたが、彼らはわたしに対して悪事をたくらんだ。彼らは戻ってきたが、ねじれた弓のようにむなしいものに向かった。高官たちは自分で吐いた呪いのために剣にかかって倒れ、エジプトの地で、物笑いの種となる」(7:13‐16)。

 危機的状況そのものが滅亡をもたらすのではありません。神に背いているという事実そのものが滅亡をもたらすのです。「わたしに背いたから、彼らは滅びる」と主は言われるのです。主は彼らを救おうとしておられます。神は彼らが真実に主に立ち帰り、主の名を呼び求めることを期待しておられるのです。しかし、失望と落胆のうちに主は言われます。「彼らは心からわたしの助けを求めようとはしない」。

 もちろん、彼らは「助け」そのものを求めていないわけではありません。いや、むしろ助けは熱心に求めているのです。寝床の上で泣き叫びます。収穫を再び得られるようになることを求めて自分自身の身を傷つけることさえするのです。そうです、人は癒されるために、回復されるために、いかなることをもするものです。しかし、彼らが求めているのは「助け」なのであって、必ずしも「主なる神から来る助け」ではありません。ここに書かれているのは、バアル祭儀の典型的な姿です。泣き叫び、身を傷つけるのです。一見熱心に見えるのです。しかし、繁栄を得、助けを得るためには熱心であるけれども、祈り求める対象は要するに何でもよいのです。助けを与えてくれるものならば、何だってよいのです。それが偶像礼拝の特徴です。そのような姿は、この国にいくらでも見られます。そのような人々に対して、「わたしに背を向けている」と主なる神は言われるのです。

 国内の腐敗と混乱、人間的な思惑による対外政策による破局、熱心ではあるが神との真実な関係を失っている偶像礼拝、これらはみな一つのことがらです。人間のすることはいつの時代でも変わりません。そのようなところに真の回復も癒しもないのです。私たちは、神の嘆きの声に耳を傾けなくてはなりません。現代に生きる私たちもまた、ここで何が問題とされているのかをしっかりと心に留めなくてはらなりません。


2025年2月9日日曜日

「神に造られた尊い存在として生きる

2025年2月9日主日礼拝説教

聖書:ローマ1:18‐25

神の怒り
  今日の第2朗読においては、パウロがローマの教会に宛てた手紙が読まれました。読まれた今日の箇所は、次のような言葉から始まっていました。「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」(18節)。ここには「神の怒り」について書かれています。今日はまず、「神の怒り」について御一緒に考えたいと思います。

 「神の怒り」については、聖書の至るところに書かれています。特に旧約聖書を読むと怒っている神の姿と厳しい神の裁きの記述に繰り返し出会うことになります。それゆえに「旧約の神は怒りの神、新約の神は愛の神」などと言う人もいます。しかし、今日お読みしたように新約にも神の怒りについては書かれているのです。そのように、聖書を読もうと思ったら、「神の怒り」という主題は避けて通ることができません。

 しかしながら、実際には、「神の怒り」の記述に抵抗を覚える人は少なくないと思います。ある人は、怒っている神の描写を読んで、「怒るなんて神様らしくない」と言っていました。皆さんはどう思われますでしょうか。しかし、実際、長年聖書に親しんできた人であっても、心のどこかで「怒るなんて神様らしくない。」「怒りは神にそぐなわない」そのように考えているかもしれません。

 しかし、それは神の怒りと人間の怒りを混同しているから起こることなのだろうと思います。人間の怒りについて考えてみてください。どんな人であっても、怒っている時には「自分が正しい」と思って怒っているものです。自分に正当性があればあるほど怒りは激しくなります。しかし、もう一方において、完全に正しい怒りなどないということも恐らく私たちはよく知っているのです。自分が怒りまくって相手を責め続けた後に、「これでよかったのだ」と腹の底からそう思えるかというと、そうではない。どこか後ろめたい思いを引きずることになるのでしょう。ましてや、他の人の怒りについてはなおさらだと思います。相手が怒って自分を責め続けた時に、相手の怒りは完全に正しいと思えることはそう多くないに違いありません。

 そのような「怒っている自分」「怒っている他者」の姿を神様に投影する時に、確かに「怒るなんて神様らしくない」と思うのは無理もないことかもしれません。しかし、神の怒りを私たちの怒りと同列に考えてしまうことが、そもそも間違いなのです。「正しさ」が怒りの根拠であると言うならば、本当の意味で怒ることができるのは神様だけなのです。「怒るのは神様らしくない」どころか、怒ることにおいて正当であるのは完全に正しい神だけなのです。そのことを、私たちはまず心に留めておく必要があるのです。

 そして、その「神の怒り」――完全に正しい「神の怒り」――が天から現されていると、ここには書かれているのです。この言葉を私たちは厳粛に受け止めなくてはなりません。単に聖書において描写されているだけではありません、聖書において「教えられている」ということでもありません。「現されている」のです。すなわち、この世界には天からの神の怒りが現実のこととして現れているのです。

 どのように現れていますか。それは罪が必ず結果を産むという形において現れているのです。神との正しい関係にないこの世界に、絶えざる苦悩が臨んでいるという事実において現わされているとも言えます。実際、この世界において、どんなに社会の体制が変わろうと、指導者が変わろうと、パラダイスは実現しないというところに、既に現れているのです。いや、厳密に言いますと、これは「現わされつつある」という言葉なのです。まだ完全には現わされていない。最終的に完全に現れるのは終末においてです。それは後に「神が正しい裁きを行われる怒りの日」(2:5)と表現されています。私たちはそのような神の正しい怒りのもとにある世界のただ中に存在しているのだということを、心に留めなくてはならないのです。

不信心と不義に対して
 そして、その神の怒りは何に対して現されているのか。18節をもう一度見てみますと、「不信心と不義に対して」と記されております。この「不信心」をある訳では「不遜」と訳していました。神に対する人間の不遜です。すなわち、神を神として畏れ敬わないことです。21節の言葉を用いるならば、神を神としてあがめず、感謝することもしないことです。この罪については弁解の余地がないと語られています。なぜでしょうか。パウロは言います。

 「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません」(21節)。

 この世界は私たち人間が造ったわけではありません。私たちは朝、自分が造ったのではない世界の中に目覚めます。その一日を生きるために本質的に必要なものは、空気も水も太陽の光も、その他あらゆるものも、私たち自身が備えたわけではありません。私たちは自分が造ったのではない諸々のものを《受ける》ことによって生きています。すなわち、生きているのではなくて、明らかに生かされているのです。そのように神がお造りになり、私たちを生かすために用いているこの世界には、はっきりと現されているものがあるのだ、というのです。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」(20節)。

 ちなみに、「神の永遠の力と神性とは被造物に現れており」ということは、注意して読む必要があります。私たちがこの被造物世界を観察することによって神を理解することができるという意味ではありません。人間の理性によって神を捉えることができると言っているのではないのです。むしろその逆です。人は神を捉えることも把握することもできない。現されているのは「《永遠の》力と神性」と表現されているのです。

 人間は神を理解することも論ずることもできない。ただ畏れ敬い、御前に平伏して御名をあがめ、生かされていることを感謝することしか出来ないのです。神が神であり、私たちは被造物に過ぎないとはそういうことです。それが「神について知りうる事柄」なのです。それこそが「神の永遠の力と神性」を知るということなのです。そのことを知ることが「神を知る」ということなのです。

 ですからそこでは神についてどれだけ理解しているかではなくて、神を崇めて感謝して生きているかどうかだけが問われるのです。そうです、それだけが問われているのです。山に登り、自然に触れて「神を感じる」と言う人は多いでしょう。いやそうではなくても、「私は神が存在することを信じる」と言う人は少なくはありません。しかし、それがどうしたと言うのでしょう。問題は神を感じたかどうかではなく、神が存在していると信じているかどうかではなく、本当に神を崇めて生きているかということなのです。すなわち神を礼拝して生きているか、ということであり、神を誉め讃え、神に感謝して生きているかということなのです。

 そして、明らかなことは、現実のこの世界は神をそのように崇めてはいないし、感謝もしていないということです。それが神との正しい関係を失ったこの世界の姿なのです。

むなしい思いにふけり
 そして、神との正しい関係を失っている事実は、確かに私たちの人間社会の現実の生活の中に現れてまいります。聖書は何と言っているでしょうか。「かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです」(21節後半)と。

 ここで「むなしい思いにふけり」と書かれていることは、ただ単につまらないことを考えるようになった、ということではありません。その考えること、生きることにおいて、無価値な者、むなしい者となってしまった、ということです。言い換えるなら、価値ある者として考え、尊い存在として生きることが、もはや出来なくなってしまった、ということです。そして、心が鈍く暗くなってしまった。ここで「心」とは知性や感情や意志をすべて含みます。人間全体を指すと言ってよいでしょう。それが鈍く暗くなってしまったのです。暗くなったというのは、本来持っているはずの光を失ったということです。存在そのものが暗闇になってしまったのです。

 どこに問題があるのでしょう。崇めるべきお方を崇めていない、礼拝すべきお方を礼拝して生きていないところに本当の問題はあるのです。感謝すべきお方に感謝して生きていないところにこそ、問題はあるのです。なぜなら、創造者との関係においてしか、被造物は自らの本当の価値を見いだすことはできないからです。

 人間が作ったボールペンが、人間の手を離れて、部屋の隅の埃なかにころがっている姿を想像してみてください。もし人間の手を離れたボールペンに意思があって、「わが存在の価値とは何ぞや」と悩んでいたらどうでしょう。滑稽でしょう。人間の手を離れてしまったボールペンの価値など、どんなに考えても見出し得るはずがありません。しかし、人間はそんなことを繰り返しているのです。創造主なる神を神として畏れ敬い、礼拝して生きることを失うならば、神によって造られた自らの尊さをも見失うことにもなるのです。「なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです」とパウロの言うとおりです。これが正しい状態にない、神の怒りのもとにあるこの世界の現実であり、人間の現実なのです。

 しかし、これが結論ではありません。これはまだこの手紙の始まりです。パウロは、このような人間の現実のただ中に、救い主が来られたことを伝えたいのです。それは何を意味するかを伝えたいのです。なぜならキリストの救いのゆえに、人間はもはや人の手を離れてころがっているボールペンのような姿で生きる必要はないからです。創造主なる神を神としてあがめることも感謝することもしないままで、生きていく必要はないからです。創造主によって造られた尊い存在であるにもかかわらず、自らを価値なきもののようにみなして、価値なきもののように自らを扱って生きる必要はないからです。イエス様が、私たちを神、との正しい関係に回復するために来てくださったからです。 

 そして、そのキリストによって実際に集められた私たちはここにいるのです。私たちは、神との関係を回復された者として、週毎に集まり、神を礼拝し、神に感謝を捧げて、そしてまた一週間の生活の場へと出て行くのです。神様は私たちを、神に造られた尊い存在として、神の恵みをこの世界に現し、指し示す存在として生きるように、ここから送り出してくださるのです。

2025年2月5日水曜日

祈祷会用:ホセア書 6:1~11

 ホセア書 6:1‐11

 今日は6章1節からお読みしました。その冒頭には大変敬虔な美しい詩が記されています。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる」 (6:1‐3)

 この前後に記されているのは主の言葉です。主の言葉に挟まれたこの部分は、引用された言葉あるいは歌です。ホセア自身がこのように呼び掛けているというよりは、むしろ人々の口に上っている言葉、あるいは歌をここに引用しているものと思われます。歌であるとするならば、それは礼拝において歌われていた悔い改めの歌であるに違いありません。

 さて、このような悔い改めの言葉が言い表されたり、歌われたりするのはどのような状況においてでしょうか。それは容易に想像できます。それは危機に直面した時です。飢饉や戦争などにおける危機的状況において、人々や王が断食し、悔い改めを言い表すということはイスラエルの伝統でありました。私たちはそのような場面を旧約聖書においていくつも見ることができます。

 ホセア書のこれらの言葉の背景になっているのは、先週も少し触れましたが、シリア・イスラエル同盟軍とユダの軍隊とが戦ったシリア・エフライム戦争であろうと言われます。その戦争は5章8節以下の言葉によって描写されておりました。そして、5章の最後は次のような言葉で終わっていました。「わたしはエフライムに対して獅子となり、ユダの家には、若獅子となる。わたしは引き裂いて過ぎ行き、さらって行くが、救い出す者はいない。わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め、苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで」(5:14‐15)。このように、イスラエルはまさに獅子によって引き裂かれた獲物のような状態となることが予想された時、人々が神殿に集まり、犠牲を捧げ、このような悔い改めの言葉を言い表し、あるいは悔い改めの歌をうたっていたということのようです。

 そこでホセアはそのような人々の言葉を、彼ら自身に対して改めて語り聞かせるのです。自分がいったい何を言っているのかを聞かせるのです。それは人々に対しての問いかけでもあったに違いありません。「『さあ、我々は主のもとに帰ろう。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう』とあなたがたは言う。しかし、それは本当にあなたがたの意味することなのか」と問うているのです。

 悔い改めとは主のもとに帰ることです。それ以外の何ものでもありません。そして、ここに記されているとおり、それは主を知ることを切に求めることに他なりません。「主を知る」ということは「主について知る」ということではありません。その意味するところは、夫婦の間に本来あるべき深い人格的な結びつきに譬えられます。彼らがそのような関係を本当に求めているのかどうかが、ここで問われているのです。

 私たちもまた、しばしば悔い改めを言い表します。礼拝において共に悔い改めを言い表します。時として、私たちはその言葉を美しく歌い上げることさえするでしょう。しかし、そのような私たちもまた、時として、自らの口から出ている言葉を、もう一度自分の耳で聞く必要があろうかと思います。その時、私たちに対して同じ問いが突きつけられるに違いありません。「あなたは、本当に主に立ち帰ろうとしているのか。主を知ろうとしているのか。それとも、ただ苦境から逃れたいだけなのか。ただ癒されたいだけなのか」と。

 実際、イスラエルの民の現実は、そこに美しい敬虔な言葉をもって語られているとおりではありませんでした。危機的状況における彼らの悔い改めの言葉は、豊作と繁栄を求めてバアルに捧げた礼拝と、本質的には何ら変わるところはなかったのです。彼らが本当に求めていたのは、主のもとに帰ることでも、主を知ることでも、主を愛して生きることでもなかったのです。

 往々にして人はそのことを抜きにして、その先に書かれていることを求めるものです。「主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷をつつんでくださる」。その次の「二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる」という言葉も、せいぜい被占領地の奪回や国家の復興ぐらいにしか考えていなかったことでしょう。しかし、本来、神との関係こそ命なのです。人は神と結ばれて初めて「生きる」のです。彼らの悔い改めの言葉そのものは決して間違いではありませんでした。しかし、彼らは自分が何を語っているのかを知りませんでした。

 それゆえ、彼らの悔い改めの言葉に、主の嘆きの言葉が続くのです。「エフライムよ、わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ。それゆえ、わたしは彼らを、預言者たちによって切り倒し、わたしの口の言葉をもって滅ぼす。わたしの行う裁きは光のように現れる。わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」(6:4‐6)。

 エフライムについて、またユダについて、「わたしはお前をどうしたらよいのか」と、主は嘆きの声を上げられます。困惑し、疲れ果てているのは苦境に立たされているイスラエルの民ではありません。苦境の中においても、なお自らの罪を認めて主のもとに帰ろうとしない民を目の前にした神御自身なのです。本当に嘆いているのは民ではありません。嘆いておられるのは神なのです。

 主は、彼らの愛について嘆いて言われます。「お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ」。この「愛」は、4章1節において「慈しみ」と訳されていた「ヘセド」という言葉です。以前お話ししましたように、これは契約に基づいた変わらざる愛を意味します。例えば結婚の誓約において求められているような、いかなる状況においても保持されるべき愛を意味します。単なる「好き」という感情ではありません。聖書の多くの箇所においてそうであるように、「真実」という言葉と並記されるべき「愛」のことです。真実を伴わない「ヘセド」などあり得ません。主は真実と愛による関係、夫と妻との関係が回復することを、どれほど望んでおられることでしょうか。しかし、その本来のヘセドをどうしても御自分の民のうちに見いだすことができないのです。見いだし得るのは、朝の霧のようなものだけなのです。

 本来、愛(ヘセド)が朝の霧のようであるというのは、それ自体言葉の矛盾です。しかし、それがイスラエルの民の現実でありました。そして、それはしばしば私たちの現実であるかも知れません。悔い改めの言葉に伴っているのが真実の愛、「ヘセド」であるのか否かは、自ずと明らかになるものです。

 主に立ち帰る気などなく、主を知ることを求めているのでもなく、ただ苦しみから逃れたいだけの悔い改めならば、その苦境が長く続けば悔い改めの言葉もまた失われることでしょう。あるいはたとえ苦境から逃れることができたとしてもそれは失われるに違いありません。苦しみから逃れれば、もはや神は必要なくなるからです。いずれにせよ、切に求められていたのは主ではなかったことが、そのようにして明らかにされるのです。その愛は朝の霧に過ぎず、日が上れば消えうせる露に過ぎなかったことが明らかにされるのです。

 そこで主は再び裁きを宣言せざるを得ません。「わたしの行う裁きは光のように現れる」と語られます。しかし、主が本当に望んでいるのは、裁いて滅ぼすことではありません。それゆえ、主が何を求めておられるのかを彼らに語られるのです。「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と。

 「私たちはこれだけ多くの犠牲を献げているではないか。祭りの献げ物を献げ、焼き尽くす献げ物を献げ、穀物の献げ物を献げ、肥えた動物を献げ、竪琴の音や讃美の歌声を献げているではないか」と人々は言うかもしれません。事実、彼らがどれほど多くの犠牲を献げていたかは、少し前の時代の預言者アモスが語っております。しかし、多くの犠牲は主のもとに帰ることの代わりにはならないのです。主のために何かを行うことは、主を知ることを追い求める代わりにはならないのです。ヘセドに基づいた関係の代わりにはならないのです。それゆえ主は言われるのです。「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」。

 そして、どれほど宗教的に見えても、神との愛の関係が成り立ってはいないなら、その現実は人と人との間にも自ずと現れます。人と人との間にも愛の関係が成り立たなくなるのです。その結果、イスラエルにおいては、一方では神殿において多くの犠牲を献げながら、もう一方では神の御心からはほど遠い彼らの社会生活がありました。

 主は彼らの現状を次のように告発しておられます。「彼らはアダムで契約を破り、そこでわたしを裏切った。ギレアドは悪を行う者どもの住みか、流血の罪を犯した者の足跡がしるされている。祭司の一団は待ち伏せる強盗のように、シケムへの道で人を殺す。なんという悪事を彼らは行うことか。イスラエルの家に、恐るべきことをわたしは見た。そこでエフライムは姦淫をし、イスラエルは自分を汚した。ユダよ、お前にも、刈り取られる時が定められている」 (6:7‐11)。

 アダムという場所でどのような出来事が起こったので「契約を破った」と言われているのかは定かではありません。アダムの周辺、ヨルダンの低地には鋳造所があったようです(列王上7:46)ので、もしかしたらそこで偶像を造っていたということが告発されているのかもしれません。

 ギレアドについては、ホセアの時代の出来事として、次のように書かれています。「彼(ペカフヤ)の侍従、レマルヤの子ペカが謀反を起こし、サマリアの宮殿の城郭で、五十人のギレアド人と組んで、アルゴブおよびアルイエと共にペカフヤを打ち殺した。こうしてペカが代わって王となった」(列王記下15:25)。このような流血の惨事は、これだけではありません。主が言及しているのは一例に過ぎません。ヤロブアム二世が世を去った後、イスラエルが経験したのはまさにクーデターに次ぐクーデターでありました。

 そして、さらには、「祭司の一団は待ち伏せる強盗のようい、シケムへの道で人を殺す」と書かれています。これは、実際に人を殺したのか、神殿における搾取を言っているのかはっきりしません。しかし、いずれにせよ実際に犠牲を神の前に献げて神の前で祭儀を行っているはずの祭司が、もはや神を神とせず、人を人とも思ってもいなかったということです。私たちは彼らほどひどい状態にはない、と言い得るでしょうか。私たちもまた、痛みと嘆きをもって語られた主の言葉を繰り返し聞かなくてはならないでしょう。「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」。

 「さあ、我々は主のもとに帰ろう。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう」。これが本当に私たちの言葉となることを、主はどれほど望んでおられることでしょうか。主は、いけにえも焼き尽くす献げ物をも求めてはおられません。主が求めておられるのは、私たち自身です。犠牲は主御自身が備えられました。御自分の独り子を十字架にかけられ、愛の祭儀において献げられるべきまことの犠牲とされたのです。それはまことに私たちが主を愛し、主を知る者となるためでした。最初の悔い改めの歌が、本当に私たちの言葉となるためでありました。


2025年2月2日日曜日

「恵みを与えようとして待っておられる神」

2025年2月2日 主日礼拝説教

聖書:創世記 28:10‐22

兄から逃れて
 今日の第一朗読には、ヤコブという人物が登場しました。ヤコブはアブラハムの孫に当たります。のちに「イスラエル」と名前を変えられます。イスラエル十二部族の先祖となる人物です。

 ヤコブはこの時、彼が元々住んでいたベエルシェバから母リベカの故郷であるハランに向かって旅をしていました。いや逃亡していたという方が正確でしょう。彼がハランに向かって長い旅をしていたのは、兄エサウに命を狙われていたからです。それはなぜなのか。事の詳細は創世記25章後半から記されています。その物語はそれぞれお読みいただくとしまして、ざっくりと要約すると、こういう話です。

 エサウとヤコブは双子の兄弟でした。エサウの方がわずかばかり早く生まれてきました。ヤコブは兄のかかとをつかんで生まれてきたという話が25章に出てきます。「先に行かしてなるものか~」と、自分が長男になることへの執念を露わにしながら生まれてきたのが、この弟のヤコブでした。

 さて、長男には長子としての特権がありました。それはいつの時代であっても珍しいことではありません。また長子が受け継ぐ神の祝福がありました。かかとをつかんで生まれてきた弟のヤコブには、それらが兄エサウに行くことが、我慢なりませんでした。エサウに与えられている特権をなんとしても奪ってやりたいと虎視眈々とその機会をうかがっていたのでした。そして、途中の話は割愛しますが、結局、ヤコブは策略をもって、兄エサウから長子の特権を奪い取ることに成功したのです。また、母親のリベカと組んで、年老いて盲目となった父イサクを騙して、本当ならばエサウに与えられるはずの長子の祝福を奪い取ったのでした。さて、どのようにして奪ったのか、まだ読んだことのない人は、ぜひ25章からの話を読んでみてください。

 とにかく、ヤコブは、長年望み続けていたものを得たのです。人の欲に付け込んだだまし討ちであっても、父親の盲目を利用した汚い手段であっても、その方法はどうであれ、望んでいたものを得たのです。しかし、これも世の常ではありますが、望みがかなうことはかならずしもその人に幸福をもたらすとは限りません。彼が、自分の望みを遂げたことの、その代償は大きかった。あまりにも大きかったのです。

 ヤコブは結局、兄のエサウに憎まれて、命を狙われることとなりました。兄エサウは、もともと長子であることに、それほどこだわっているようには見えなかったのです。ですから、その彼から、そこまで憎まれるとは、思っていなかったのかもしれません。しかし、今や兄は本気で自分を殺そうと企んでいる!その殺意を知ったヤコブは、母親の勧めによって、故郷を離れることとなりました。愛する母親からも離れハランに向かうことになったのです。

 さて、今日お読みしたのは、そのような事情で兄から殺されそうになったヤコブが、とぼとぼと孤独な旅をしていた途上での出来事です。そして、ヤコブはそのような旅の途上で神に出会うことになるのです。いや、神が先回りして彼を待っておられたという方が正確かもしれません。ヤコブは神に出会うべくして出会ったのです。そして、そこは暖かい宿があるような場所ではなく、神が待っておられたのは、そして出会いの場所となったのは、石を枕にして寝なくてはならないような荒れ野でありました。

天からの階段
 10節以下をお読みします。「ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった」(10-11節)。

 彼は一つの場所にさしかかりました。その場所は後にヤコブによってベテルと名付けられます。19節には、「ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた」とあります。しかし、ここでヤコブは明らかに野宿をしているのであって、この物語においては、まだその場所に町は存在していません。当時そこはまだ荒れ野だったのです。

 日が沈みました。あたりを暗闇が覆います。彼はそこで一夜を過ごさねばなりません。彼はその場所にあった石を枕にして身を横たえました。実に惨めです。まさかこのような夜が彼の人生におとずれようとは、夢にも思わなかったに違いありません。なぜこんなことになってしまったのか。過去を振り返れば、後悔にかられたことでしょう。未来を思うなら、不安と恐れがつのったことでしょう。かつては、自分の手で幸福を勝ち取り、未来を切り開こうとしてきた彼でした。しかし、今やどこにも希望を見出すことができません。彼を包んでいる闇夜は、彼の人生そのものを象徴しているかのようでした。

 しかし、物語はそこで終わりません。そのような石を枕にして身を横たえている荒れ野こそが、ヤコブにとっては神との出会いの場となったのです。石を枕にして寝ざるを得ないような惨めな夜こそが、まさにヤコブにとっては神を知ることになる夜だったのだと、聖書は教えているのです。

 では、ヤコブはどのように神と出会い、神を知ったのでしょうか。続く12節をお読みします。「すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」(12節)。

 奇妙な表現だと思いませんか。天使が上ったり下ったりしていた」という部分ではありません。天使は上ったり下ったりしていていいのです。そうではなく、「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており」という表現す。私たちならば、「先端が天まで達する階段が《天に向かって伸びており》」と表現するのでしょう。しかし、階段は確かに「地に向かって」伸びていたのです。実際原文でもそのような表現が使われているのです。

 「伸びている」と訳されていますが、直訳するとそこには「立てられている」という言葉が使われています。誰が立てたのでしょう。それは神が立てたのです。だから「天に向かって」ではなくて「地に向かって」なのです。方向はあくまでも《天から地に向かって》なのです。

 小さな違いのように見えますが、これは極めて重要な違いなのです。彼が《地から天に向かう》階段の夢を見たとしても、それは救いにはならないからです。なぜなら、ここで石を枕にしているのは、天に向かって上って行くことはおろか、天に顔を向けることすらできない人間だからです。それは何もヤコブだけではありません。私たちも皆同じです。本当ならば、その罪のゆえに、天に近づくことはもとより、天に顔を向けることすらできない――それが私たち人間というものです。ですから、地から天に向かって伸びている階段を示されても人は救われないのです。

 しかし、神がヤコブに見せてくださった夢は違いました。《神が》階段を《天から》ヤコブのいる《地の方向に》伸ばしていてくださったのです。しかも、「救われたかったら天にまで昇って来い」と言われたのではありません。既にそこには神の御使いたちが上ったり下ったりしていたのです。つまり、神の恵みの御業は天の高いところに留まっているのではなくて、神の恵みの御業は、ヤコブのいる地の上まで届いている、罪深いヤコブのところにまで届いているということです。それがヤコブの見た夢だったのです。神がそのような夢を見せてくださったのです。

見よ、わたしはあなたと共にいる
 そして、ヤコブはまことに驚くべき神の言葉を耳にしたのでした。13節以下を御覧ください。「見よ、主が傍らに立って言われた。『わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない』」(13‐15節)。

 声は天の高いところから響いてきたのではありません。なんと、主はヤコブの傍らにおられたのです。まことに神から見捨てられても仕方がないようなヤコブの人生の直中に、荒れ野の夜に象徴されるような彼の人生のただ中に、主は一緒に立っておられたのです。そして、「見よ、わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを見捨てない」と言ってくださったのです。

 そこでヤコブは目を覚まします。彼は周りを見回します。何も変わっていません。彼を取り巻く闇は変わっていません。彼の置かれている状況は何も変わっていないのです。しかし、石を枕にしていたその場所――悲しみと恐れに満ちていたはずのその場所の意味が全く変わってしまいました。天からの階段が地に向かって伸ばされていること、そして主が傍らに立ってくださったことを知った時に、その場所の意味が変わってしまったのです。

 ヤコブはこう言っています。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と。そして、さらに恐れおののいてこう言ったのです。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」(17節)。石を枕にしていた場所は、相変わらず荒れ野であるにもかかわらず、そこは神の家となり天の門となったのです。

 さて、皆さん、天から地に向かって伸ばされている階段をヤコブに見せてくださった神は、実際に、この世界に向けて、天から階段を伸ばしてくださったのです。どのようにして?神の独り子、イエス・キリストをこの世に遣わされることによってです。私たちが見ているこの世界は相変わらず荒れ野です。しかし、そのただ中に神が独り子をお遣わしくださいました。まさに天から階段が伸ばされて、荒れ野の意味が全く変わってしまったように、この世界の意味が変わってしまったのです。

 この世界は、私たちの人生は、主と共に生きる場となりました。そして、私たちが神の霊によって集められて形作られる教会は、まさに荒れ野のただ中に存在するベテル、神の家としてこの地上に置かれているのです。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった!」とヤコブは言いました。そうです、私たちも知らなかった。しかし、今や私たちは知っています。主は恵みを与えようと、荒れ野のただ中にあるベテルで、待っていてくださる、と。

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