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2023年8月13日日曜日

「信仰と愛と希望によって」

テサロニケの信徒への手紙一 1:1-10

神とキリストとに結ばれて
 今日はパウロがテサロニケの教会に宛てた手紙の冒頭部分をお読みしました。テサロニケの教会はパウロの第2回伝道旅行において誕生した教会です。パウロのテサロニケ滞在については使徒言行録17章に記されています。使徒言行録によるならば、パウロとシラスがテサロニケに滞在したのはわずか四週間たらずでした。しかし、そのわずかな期間に、神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちが福音を信じるに至ったのです。しかし、一方、このことを快く思わないユダヤ人たちは、広場にたむろしているならず者たちを抱き込んで暴動を起こしました。その結果、パウロとシラスはテサロニケを去らざるを得なくなったのです。

 かくして、生まれたばかりのテサロニケの教会は、指導者を失うことになりました。しかもユダヤ人たちの敵意の中に置かれることになったのです。パウロはどれほど彼らのことを心配したことでしょう。テサロニケの信徒たちはどうしているだろうか。どのような迫害を受けているのだろうか。彼らは信仰をしっかりと保っているだろうか。――彼らを案ずるパウロは幾度かテサロニケに行くことを試みたようです。しかし、その願い叶わず、代わりにテモテを遣わすこととなりました。

 テモテはテサロニケにしばらく滞在し、やがて再びパウロのもとに戻ってきました。彼はパウロに、テサロニケの教会の様子を伝えます。それは実に喜ばしい知らせでした。テサロニケの信徒たちはしっかりと信仰を保ち、主に結ばれている(3:8)ことをテモテはパウロに伝えたのです。パウロはどれほど喜んだことでしょう。彼は大きな喜びをもって手紙をテサロニケに書き送りました。それがこの手紙です。

 そのような事情を踏まえて読みますと、この1節の単純な挨拶に込められたパウロの思いが強く迫ってまいります。「父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会」――パウロは万感の思いを込めてこの言葉を記したに違いありません。まさにテモテのもたらした喜ばしい報告は、この事実を明らかにしていたのです。

 なぜ指導者を失った教会が多くの苦難の中においてなおもしっかりと立つことができたのか。それはその共同体がただ伝道者パウロとの関係で成り立っていたのではないからです。もしそうであったなら、パウロが去ったら簡単に崩壊していたに違いありません。しかし、そうではなく、彼らは「父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会」でした。

 また、彼らはただ自分たちの利益や楽しみのために集まって、自分たちのために教会を作ったのではありませんでした。もしそうであったなら、苦難の中において集まることが困難になり不都合が生じたら、簡単に消滅してしまっていたことでしょう。しかし、テサロニケの教会はそうではなかった。それは「父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会」に他ならなかったのです。

 「父である神と主イエス・キリストとに結ばれている」という言葉は、「父である神と主イエス・キリストの中にある」というのが直訳です。これは父なる神とイエス・キリストにおける救いの御業の中にある、ということでもあるでしょう。教会は神の御業において初めて教会となるのです。

 ですから、教会の伝道の働きにおいて問われるのは、福音が真に伝えられ、一人一人が神の救いにあずかり、信仰によってキリストとしっかり結ばれているかどうか、というところにおいてなのです。言い換えるならば、教会がまことの教会として、「父である神と主イエス・キリストとに結ばれている教会」として残るかどうかなのです。そして、テサロニケにはまさにそのような教会が残った。そのことをパウロは心から喜んで、その教会に書き送っているのです。

信仰と愛と希望
 さらにパウロは感謝の言葉を続けます。「父である神と主イエス・キリストとに結ばれている教会」ということで、パウロが具体的に何を考えていたかが、その言葉から分かります。3節の言葉は、今日の私たち自身について考える上でも、非常に重要なことを語っているように思います。パウロが感謝しているのは、次のことでした。「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」(3節)。

 ここには、パウロがしばしば用いる三つの言葉が出てきます。それは「信仰」と「愛」と「希望」です。教会がただ人間に結ばれた人間の集まりではなく、神の救いの御業によってなるまことの教会であるということの現れを、パウロは「信仰」と「愛」と「希望」に見ているのです。

 では「信仰」と「愛」と「希望」があるとは、具体的にどのようなことなのでしょう。パウロはここで、それぞれに対して三つの言葉を結びつけています。「信仰」については「働き」、「愛」については「労苦」、「希望」については「忍耐」です。「信仰」「愛」「希望」は抽象的な概念ではありません。それは具体的な形を取るのです。それは「働き」「労苦」「忍耐」です。一つ一つ見てみましょう。

 第一は、「信仰によって働き」ということです。「働き」とは「行い」とも訳せる言葉です。直訳すれば「信仰の行い」です。

 これを書いているのはパウロです。そして、そのパウロが別の手紙において、人は行いによって救われるのではないことを語っていることを私たちは知っています。例えば、エフェソの信徒への手紙には次のように書かれています。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(エフェソ2:8‐9)。

 そのように、確かに私たちが救われるのは、私たちの行いによるのではありません。救いはイエス・キリストの十字架において現された神の恵みによるのであり、その恵みを信じる信仰によるのです。もし、私たちが自分の行いによって救われるのならば、そこから生じるのは自分の行いを誇る思いでしょう。しかし、私たちがただ神の一方的な恵みによって救われるならば、そこに誇りが入り込む余地はありません。生じるのは、ただ神への感謝です。そして、神への感謝が行動を生み出すのです。それこそパウロが「信仰の行い」と呼んでいるものです。

 私たちが生きているこの世界はギブ・アンド・テイクの世界です。信仰によらなければ、神に対してもギブ・アンド・テイクで関わろうとするのが人間です。自分の善い行いを差し出して、神様に「救いを与えてください」と願うのです。そのように神様と取引を始めるのです。また信仰によらなければ「行い」は常に比較の対象となってくるのでしょう。自分の「行い」と他人の「行い」を比較して、誇ってみたり卑下してみたり。あるいはある人の「行い」と別な人の「行い」を比較して褒めそやしてみたり軽蔑してみたり。

 取引や比較とは無関係な「行い」はただ感謝から生まれてくるのです。一方的な神の恵みに対する感謝の応答として生まれてくるのです。それが「信仰の行い」です。その「信仰の行い」こそが、まことの教会の原動力となるのです。そのような「信仰の行い」をパウロはテサロニケの教会に見たのです。それゆえに神に感謝しているのです。

 次に挙げられているのは「愛の労苦」です。「愛」は単に「好きになること」ではありません。愛するとは隣人になることです。共に生きることです。

 私たちが築いている人間関係は往々にして自己中心です。「私のための誰か」を求めることによって成り立っています。私に優しくしてくれる人。私を助けてくれる人。私の欲求を満たしてくれる人。私を幸せにしてくれる人。私のためになるならば一緒にいるし、私のためにならないならばその人との関係は終わります。

 しかし、そのように「私のための誰か」を求めることを聖書は「愛」と呼びません。愛とは、「私のための誰か」を求めることではなく、「誰かのための私」になることです。誰かの隣人になることです。ですから、そこにはしばしば労苦が伴います。強いられてではない、自発的に愛のゆえに、共に生きるために、あえて労苦を引き受けること、それが「愛の労苦」です。

 その愛の労苦は、まずキリストが私を愛してくださった、という事実から生まれます。キリストが私の隣人になってくださいました。キリストが私を愛し、私のために労苦してくださいました。キリストが私のために十字架にかかってくださいました。キリストが、御自分のすべてを与えてくださいました。このキリストの大きな愛によって押し出されて生まれるもの、それが私たちの小さな「愛の労苦」です。パウロは、テサロニケの教会に、確かにその「愛の労苦」を見ていたのです。それゆえに神に感謝しているのです。

 最後は、「希望の忍耐」です。その希望については、特に「わたしたちの主イエス・キリストに対する」という言葉が加えられています。その意味するところは10節に書かれています。「更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」(10節)。

 ここに語られているのは、「キリストの再臨」というテーマです。そして、実はそれこそがこの手紙で展開されている主要なテーマなのです。それは要するに、完全な救いはまだ実現していないけれど、それは必ず向こう側からやって来る、という信仰です。向こうから必ず来ると信じる人だけが、本当の意味で忍耐をもって待ち望むことができるのです。苦しくても、辛くても、待ち望むことができるのです。パウロは、テサロニケの教会に、確かにその「希望の忍耐」を見ていたのです。それゆえに神に感謝しているのです。

 さて、そのようにテサロニケの教会のことを見てきました。たった四週間たらずの伝道によってでさえ、「父である神と主イエス・キリストとに結ばれている教会」は形成されます。教会を真に教会とするのは神の御業だからです。ですから、私たちもまた求めることができるのです。それは神の御業だからです。私たち自身、父である神と主イエス・キリストに結ばれている教会として、父である神と主イエス・キリストに結ばれている信仰者として、「信仰の行い」「愛の労苦」「希望の忍耐」に生きられるよう祈り求めましょう。
(祈り)

2023年5月14日日曜日

「神の協力者として遣わされた人」

テサロニケの信徒への手紙 3:1‐10

神の協力者として
 今日はテサロニケの信徒への手紙一を共にお読みしました。この手紙が宛てられているテサロニケの教会は、パウロの伝道によって誕生した教会です。テサロニケの教会が生まれた次第は、使徒言行録17章に記されています。しかし、結論から言いますと、パウロは信仰を持って間もないテサロニケの人々を残して、テサロニケの町を後にしなくてはなりませんでした。パウロに反対するユダヤ人たちの扇動によって、暴動と混乱が起こったからです。

 今日は3章からお読みしましたが、今日の箇所の直前には、後に残されたテサロニケの教会への思いが切々と記されています。「兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、――顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが――なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました」(2:17)。この「引き離される」と訳されている言葉は、元々の意味は「孤児とされる」という言葉です。生まれたばかりのテサロニケの教会は、パウロたちを失って、まさに孤児となったような状態にあることを、パウロもまたよく分かっていたのです。

 それゆえに、実際、パウロは一度ならず、テサロニケを訪ねようとしたのでした(2:18節)。しかし、それは実現しませんでした。パウロは「サタンによって妨げられました」と言います。詳しい事情は分かりません。しかし、テサロニケの教会をそのままにはできません。「そこで、もはや我慢できず・・・・」と今日の箇所に続きます。パウロは自分の代わりにテモテを遣わすという決断をするのです。

 テモテは第2回目の伝道旅行の途中からパウロに同行するようになった若者です。パウロがテモテをどれほど信頼していたかは、他の手紙を読んでもよく分かります。そのテモテをテサロニケに送ったということは、パウロがこの派遣をいかに重く見ていたか、ということをも意味します。テサロニケの教会には、どうしてもテモテを遣わすことが必要だったのです。

 もちろん教会は、ただ人間の働きによって保たれるのではありません。先ほど、「テサロニケの教会は、パウロの伝道によって誕生した教会です」と言いましたが、厳密に言えば、それは正しくありません。テサロニケの教会を誕生させたのは神なのです。ですから、テサロニケの教会が困難の中でも生き続けるとするならば、それは神によるのです。テサロニケの信徒たちの内に善き業を始められたのは神なのです。ならば成し遂げてくださるのも神なのです(フィリピ1:6)。

 しかし、パウロは神が自分たちとは関係なく単独で何かを「成し遂げてくださる」とは思っていないのです。ですから、あえてテモテという《人間》を遣わすのです。神は人間を用いて御業を進められ、完成することを信じているからです。それはパウロがテモテについて語っている言葉からも分かります。彼はこう言うのです。「わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました」(2節)。

 パウロはテモテを「神の協力者」と呼びます。「協力者」と訳されているのは「共に働く者」という意味合いの言葉です。細かい話をしますと、ここで共に働くのは誰と誰なのかということで理解が二通りに分かれます。一つの理解は、「神のために共に働く者」という理解です。その場合、共に働くのはパウロとテモテです。それはそれとして、とても大事なことを教えていると言えます。実際に行くのはテモテです。しかし、あくまでもパウロや他の兄弟たちと「共に働く者」として行くのです。教会はスタンドプレーを必要とはしません。チームプレーが重要なのです。それが神のために仕えるというあり方なのです。

 しかし、もう一つの理解があります。「神と共に働く者」という理解です。新共同訳の「神の協力者」という訳はそのように理解から来ています。もちろん神と人とは対等な意味での協力者ではあり得ません。しかし、神はあえて自ら直接事をなさらずに、人間を用いて事をなされるのです。人間を通して、人間と人間との関わりにおいて、事をなされるのです。その意味で、人間は「神の協力者」となり得るのです。

互いに励まし合うために
 では、パウロは神の協力者としてのテモテを遣わして、いったいテサロニケの教会に何をもたらそうとしているのでしょうか。こう書かれています。「それは、あなたがたを励まして、信仰を強め、このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした」(2‐3節)。

 信仰者が信仰をもって生きるためには励ましが必要です。特に苦難の中に置かれているならばなおさらです。もちろん信仰を強めることができるのは、人間ではなく神です。必要とされているのは神の霊による働きであり、神からの励ましなのです。しかし、神の霊による、神からの励ましが与えられるためには、実際にテモテが旅をして、その体を彼らのもとに運んで、その体をもって彼らに会うことによって為されなければならないのです。神の励ましは、人間の言葉を通して、人間の行いを通して、与えられるのです。

 そのように信仰が他の信仰者を通して、他の信仰者との交わりにおいて強められなくてはならないのは、もう一方において、「誘惑する者」(3:5)がいるからです。これは明らかに人間のことではありません。サタンのことです。サタンが惑わすのだと言うのです。その惑わしは、具体的には苦難と共にやってきます。「このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした」(3節)と書かれていましたでしょう。それは、動揺して信仰から離れてしまうことがあり得るからそう書かれているのです。それこそがサタンの「惑わし」なのです。

 この「惑わす」という言葉は「試みる」という言葉です。元の言葉はそれ自体、必ずしも悪い意味に使われるわけではありません。これは良い意味で「試練を与える」ことをも意味します(ヘブライ11:17)。しかし、苦難はまず惑わしとして働くことをパウロは知っているのです。サタンによって神から引き離す力として働くことを知っているのです。なぜなら、パウロ自身、幾多の苦難を経てきたからです。だから励ましが必要なのです。信仰は強められなくてはならないのです。苦難に遭っても動揺しないためです。

 そこで重要なのは、苦難についての正しい認識が与えられることです。パウロはこう言いました。「わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。あなたがたのもとにいたとき、わたしたちがやがて苦難に遭うことを、何度も予告しましたが、あなたがたも知っているように、事実そのとおりになりました」(3‐4節)。

 「定められている」とは、そこに神の御心があることを意味します。神の意図があるのです。しかも、キリスト者に対して、教会に対して定めているならば、それは明らかに滅ぼすためではありません。苦難は神の呪いではないのです。なぜなら、呪いは既にキリストが受けてくださり、呪われたものとして木にかけられてくださったからです(ガラテヤ3:13)。ならばそこに残されているのは、父なる神の善意だけなのです。

 後にペトロもまた、試練の中にある教会に対して、次のように書き送りました。「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(1ペトロ3:5‐7)。また、こうも言っています。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」(同3:12‐13)。

 このペトロの言葉においても明らかなように、この正しい理解において重要なのは、キリストの再臨に目を向けることです。終わりの日の完全な救いに目を向けるということなのです。サタンは、私たちの目を常に手前手前へと引き戻します。目の前の苦しみに私たちの目を釘付けにするのです。そうやって動揺させ、神から引き離そうとするのです。私たちは、サタンに惑わされないために、信仰を強められねばなりません。

 さて、そのようにパウロはテサロニケの信徒たちを励まし、その信仰を強めるためにテモテを遣わしたわけですが、今日の聖書箇所の直後には、そのテモテが持ち帰った知らせによって、パウロたちもまた励まされたことが書かれています。いや、それだけでなく、「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きているといえるからです」(8節)とさえ言うのです。パウロやテモテという人間を用いて神がテサロニケの信徒たちを励まし強めるのと同じように、神はテサロニケの信徒たちを用いて、パウロたちを励まし、復活の命に満たし、「わたしたちは生きている」と口にさせるのです。

 さて、ペンテコステが近づいてきました。私たちはこの季節、聖霊を信じる信仰を新たにせられます。聖霊は天から降り、人の内に住まわれるのです。聖霊を信じるということは、ここに見るように、神が直接事をなされるのでなく、人間を神の協力者とし、用いてくださることを信じることでもあるのです。

 そして、神が人を用いられるとき、パウロとテサロニケの教会に見るように、それは一方通行ではなくて、相互に向かう関係となるのです。そして、ここに見ることができる、聖霊の与えてくださる豊かな交わりは、もちろん、ここにいる私たちにも与えられているのです。互いに信仰を励まし合い、互いに支え、強めるために、主に用いていただきましょう。

2021年11月28日日曜日

「終わりを見つめつつ現在を生きる」

テサロニケの信徒への手紙一 5:1‐11

身を慎んでいましょう
 教会の暦では今日から待降節(アドベント)に入ります。教会暦においては一年の初めということになります。しかし、この季節はむしろ「終わり」について思い巡らす期間とされてきました。世の終わりにおける「キリストの再臨」を思う季節です。

 そのような待降節の最初の主日に読まれたのは次のような言葉でした。「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです」(1‐2節)。

 福音書においてもイエス様がこう言っておられました。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」(マルコ13:32‐33)。

 「その日、その時はだれも知らない」。「子も知らない」。イエス様も知らない。しかし、もし仮にイエス様が知っていたとしても教えなかったに違いありません。なぜなら、イエス様が一番おっしゃりたいのは「目を覚ましていなさい」ということだからです。それは「終わり」ではなく「現在」に関することです。終わりの日を特定したならば、人が問題とするのは「その日」でしょう。しかし、その日が教えられていなければ、常に「現在」が問題となります。それこそが主の意図するところなのです。

 ですから、今日お読みしたパウロの手紙でもこう書かれています。「従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」(6節)。ここには「目を覚ます」という言葉と共に「身を慎む」という言葉が出てきます。これは酔っていないこと、しらふであることを意味する言葉です。と言いましても、これは禁酒の勧めではありません。酔っていないということは、要するに、現実的に生きているということです。

 現実的に生きるとはどういうことか。それは「終わりを見つめつつ現在を生きる」ということです。なぜなら「終わり」が必ず来るというのが「現実」だからです。私たちの人生の終わりが先に来るのか、世の終わりが先に来るのかは分かりません。しかし、終わりは必ず来る。その終わりを考えずに生きることは、聖書の観点から言えば現実逃避なのであって、それは酔っているのと変わらないのです。

 私たちは、終わりが来ないかのように生活している日常から、繰り返し、引き出されなくてはなりません。そして、繰り返し、現実の中に正しく据え直されなくてはなりません。主の日の礼拝というのは、ある意味でそのような時と場でありますし、アドベントもまた、そのために繰り返し与えられている特別な季節であるとも言えます。

 そのように、繰り返し現実の中に正しく据え直されて、私たちが見つめるべき「終わり」は、2節において「主の日」と表現されています。それは神が最終的に正しく世を裁かれる日に他なりません。それは私たちの罪が本当の意味で明らかにされる日でもあります。それは人間のごまかしがもはや通用しなくなる日です。それゆえにまた、それは今日の聖書箇所にありますように、人間が口にする「無事だ。安全だ」という言葉もまた通用しなくなる日でもあります。終わりが来ないかのように生きているなら、それが現実的ではなかったことが明らかになる日でもあります。

 そのような「主の日」が来るのです。しかし、私たちはただ恐怖におののきながらその日を見つめるのではありません。私たちに伝えられていることがあるからです。伝えられている良き知らせがあるからです。今日の箇所にも書かれていました。「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです」(9節)。そのことを私たちは既に知らされているのです。

 「主イエス・キリストによる救いにあずからせる」ために、神はキリストを死に渡されました。10節には、「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」と書かれています。つまりその日が来たときに、私たちが「目覚めていても眠っていても」すなわち、生きていても死んでいても、私たちが主と共に生きることを、神は望んでくださったのです。そのようにして、「主の日」を恐るべき時ではなく、喜びをもって待ち望むべき時としてくださったのです。5節にあるように、「光の子、昼の子」としていただいたとは、そういうことです。

信仰と愛と希望
 ならば、私たちはこの恵みを無駄にしてはならないのです。私たちは、「昼の子」としていただいたのですから、昼に属する者として生きることが求められているのです。それゆえにこう語られているのです。「しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」(8節)。

 私たちは終わりをしっかり見つめつつ現在を生きるために、特にこの言葉を心に留めたいと思います。ここには、パウロがしばしば用いる三つの言葉が出てまいります。それは「信仰」と「愛」と「希望」です。これらを武具のように身に着けなさい。かぶりなさいと言うことです。

 実は「信仰」と「愛」と「希望」がセットで出て来るのはこの手紙において初めてではありません。1章にも次のような表現において出てきます。「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」(1:2‐3)。

 そこには「信仰によって働き」という言葉が出てきました。直訳すると「信仰の行い」となります。また「愛のために労苦し」とも書かれています。直訳すると「愛の労苦」です。そして、「希望を持って忍耐している」と書かれていました。直訳すると「希望の忍耐」となります。「信仰の行い」「愛の労苦」「希望の忍耐」。そのように、「信仰」「愛」「希望」は単に心の中の出来事ではありません。具体的な形を取るのです。「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」という言葉を聞く時にも、そのことを念頭に置いておく必要があるのです。

 「信仰の行い」。――もちろん、私たちは「行い」によって救われるのではありません。聖書が次のように語っているとおりです。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(エフェソ2:8-9)。そのように、救いは一方的な神の恵みによるのであり、その恵みを信じる信仰によるのです。しかし、一方的な神の恵みによって救いにあずかったのならば、そこには当然、感謝の応答として行いが生まれてくるはずです。それが「信仰の行い」です。

 この世の原理はギブ・アンド・テイクです。何かを「行う」ならば「報い」を求める。しかし、そのようなギブ・アンド・テイクを前提にした行いではなくて、純粋に神への感謝から生まれる「信仰の行い」を主は望んでおられる。そのような「信仰の行い」が私たちの人生を形作り、教会を形作るものとなることを主は望んでおられるのです。それこそが、信仰によって救われた者が信仰を身に着けるということなのです。

 次に、「愛の労苦」。――愛するということは、単に好きになることではありません。自分のために誰かを求めることを聖書は「愛」と呼びません。聖書において「愛」が「労苦」と結びつけられていることを、私たちは心に刻んでおく必要があります。それは他者に仕えることと結びついているということです。ならばその源は、神でありキリストであると言うことができます。主は「仕えられるためではなく仕えるために」来られたと言われました(マルコ10:45)。私たちから始まっているのではありません。初めにキリストにおいて現された神の愛の労苦があるのです。神の愛の労苦のゆえに、私たちは今あるを得ているのです。その愛の労苦に応えて私たちが愛する者となり、他者のために愛の労苦を担う者となっていくこと、それこそが愛を身に着けるということなのです。

 そして、「希望の忍耐」。これもまた味わい深い言葉です。「忍耐」について語られているのは苦しみがあるからでしょう。この世においては苦しみがある。それは信仰者においても同じです。いや、迫害の時代には、信仰のゆえにより大きな苦しみの中に置かれることもあったのです。そして、私たちも良く知っているように、苦しみは人を神から引き離す力として働きます。その意味で試練は誘惑ともなり得ます。そこで必要なのは信仰に留まる忍耐です。

 その忍耐はどこから来るのか。それは「希望」なのです。希望こそ苦しみに打ち勝つ力となるのです。特に今日お読みした5章においては「救いの希望」と書かれていました。終わりを見つめつつ現在を生きる。その「終わり」には既に申しましたように、神による完全な救いがあるのです。どのような苦しみの中にあっても、そこから目を離さない。救いの希望を絶対に手放さない。それが「救いの希望を兜としてかぶる」ということです。

 そのように、「信仰」と「愛」と「希望」を身に着けるように勧められているのは、既に与えられているからです。与えられていないものを身に着けることはできませんから。既に与えられているものを、私たちはこの世の生活において、本当の意味で自分のものにしていくのです。そこで重要なのは次の勧めです。「ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」(11節)。

 人が信仰者として生きるには、他の信仰者の助けを必要です。信仰と希望と愛を自分の身に着けるためには、手を貸してくれる他者の手が必要です。私たちはそのような「お互い」となるべく、集められているのです。信仰を励まし合い、支え合う信仰の友を求めましょう。そして、自分自身が信仰を励まし合い、支え合う誰かの友となることを求めましょう。本当の意味で終わりを見つめつつ現在を生きるためには、そのことが必要なのです。

(祈り)

2020年11月1日日曜日

「人生において決定的に重要な時とは」

テサロニケの信徒への手紙一 4:13‐18

神のラッパが鳴り響く時

 本日の第一朗読においては「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(コヘレト3:1)と語られていました。「定められた時」。もちろんお定めになるのは神様です。

 何事にも神の定められた時がある。その中でも、特に、人間にとって決定的に重要な、ある神の定められた時がある。今日の第2朗読では、その決定的に重要な神の定められた時について語られていました。それは何か。「キリストの再臨」です。キリストが再び来られるその時です。私たちが使徒信条においてキリストについて「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と言い表している、その時です。

 テサロニケの信徒たちがどのようにキリストの再臨を信じていたかは、1章において次のように語られています。「すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」(1:9‐10)。

 キリストの再臨の時は、第一には神の最終的な裁きの時に他なりません。この罪と不正に満ちた世界を、神が最終的に正しく裁いてくださる。それが「来るべき怒り」と表現されています。悪が大きな力を持つ時に、それを誰も裁くことができなくなる。それがこの世の現実です。しかし、そのようなこの世のありさまが永遠に続くのではありません。神が最終的に正しく裁き、神が決着をつけられるのです。

 もちろん私たちも罪に満ちたこの世の一人として、罪ある人間の一人として、神の裁きを他人事にはできません。私たちの人生もまた、すべて神の御前にあります。私たちもまた神の裁きのもとにある。しかし、そこで「この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」と聖書は語るのです。

 来るべきキリストは、かつて来られたキリストです。私たち罪人を招いてくださった方、そして私たちの救いのために十字架におかかりくださった御方です。その方が再び来られるのです。だからこそ、私たちはキリストを待ち望むことができる。その御方は私たちの救い主だからです。キリストに再びお会いする時、私たちは、罪の赦しが何であるかを、本当の意味で知ることになるのでしょう。救いが何であるかを知ることになるのでしょう。キリストの再臨の時、それは最終的な救いの時でもあるのです。

 その出来事がどのように起こるのか。パウロは次のように教えています。「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」(1テサロニケ4:16‐17)。

 そこでは「合図の号令」、「大天使の声」、「神のラッパの鳴り響く音」について語られています。それらによって表現されているのは圧倒的な《神の主権》です。「その時」は神が主権をもってお定めになり、一方的に実現するということです。そこには人間の都合や予定などが入る余地など、まったくないということです。「待ってください、まだです」という余地はないということです。私たちは個人の人生の終わりがそのようなものであることを知っています。「待ってください」が通用しない。同じことが、この世界全体にも言えるということです。


空中で主と出会うため

 そして、死者の復活について語られています。これについては後に触れます。まずは生きている間にキリストの再臨があった場合を考えてみましょう。その時には、「わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます」(17節)と書かれています。なぜ「空中」と表現されているのか。それは「地上ではない」ということです。つまりそこで人間に起こることは、この地上の人生の延長ではないということです。

 私たちのこの地上の歩みの延長にないことが起こる。それは私たちが聖書を理解する上でもとても大事なことです。例えば、この手紙の3章には次のようなパウロの祈りが記されています。「そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン」(3:13)。今、私たちが地上で経験していることの延長において、「非のうちどころのない者となる」ということが実現すると思いますか。思えないでしょう。しかし、キリストの再臨における私たちは、単なる地上の歩みの延長にいるのではないのです。

 そのような「神の定められた時」が来るのです。その時について、イエス様ご自身は福音書の中でこう言っておられます。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である」(マルコ13:32)。ならば本来、私たちの人生における一瞬一瞬は、その時となる可能性と共にあるのです。いつかは分からないのですから。私たちは予定を立てます。しかし、そこにはいつでも「御心ならば」がついて回ります。明日のことを考えます。しかし、いつでも「御心ならば」が前提なのです。

 それゆえに、この再臨の信仰は重要です。なぜなら、これがないと、いつも昨日から今日へと引いた線の延長上に明日を考えるようになるからです。そして、実際、人間は通常そのように生きているのでしょう。そのことがしばしば諦めと倦怠をももたらします。昨日から今日の延長に明日があるのなら、諦めるしかないことはいくらでもあるからです。昨日も苦しかった。今日も苦しかった。その延長としてしか明日を見ることができなければ、明日も必ず苦しいに違いないと思うわけでしょう。そのように、苦しみもまた永遠に続くかのように思ってしまう。決定的な「その時」は、神によって定められていることを忘れているからです。


眠りについた人たちも

 さて、先にも触れたようにテサロニケの信徒たちはキリストの再臨を待ち望む人々でした。自分が生きている間にキリストは再び来られると信じていました。それはパウロも同じです(15節)。それがキリストの再臨を信じる本来のあり方です。しかし、そのように信じていた仲間の中に、再臨の前に死んでしまう者が起こってきました。それは大きな動揺を呼び起こしたようです。それゆえにパウロは次のように書き送ります。「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」(13節)。

 「眠りについた人」はどのような状態にあるのか、死後の世界はどうなっているのかについて、聖書はほとんど何も語りません。パウロもそのことについてほとんど関心を向けません。大事なことはただ一つ。死んで終わりでない、ということです。だから「眠り」と表現しているのです。

 そして、終わりではないのですから、「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません」ということも言えるのです。要するに、キリストの再臨のときに、生きていようが死んでいようが関係ないということです。いやむしろ死んだ人の方が先だ、とパウロは言っているのです。

 これは私たちが生きていく上で極めて重要な認識です。なぜなら、私たちは自分の人生を考える時にも、他の人の人生を考える時にも、「死」という「その時」を決定的に重要なこととして考えているからです。自分についても、他の人についても、「あと何年生きられるか」ということは小さなことではないでしょう。また「どのように死ぬか」ということも決して小さなことではないでしょう。若くして事故で亡くなることは、実に不幸なことと見なされます。事件に巻き込まれて亡くなったなら、不幸な人として語られるのでしょう。

 しかし、本当は、人間にとって決定的に重要な時は、「死の時」ではないのです。最初から申し上げていますように、人間にとって決定的に重要な時とは、キリスト再臨の時なのです。その時に生きていていようが、既に死んでいようが、大きな違いはないのです。本当の意味でキリストと相まみえることとなる「その時」こそが、私たちにとって最も重要な時なのです。私たちすべての人間存在は死に向かっているのではなく、神の定められた「その時」へと向かっているのです。

 それは神が定められる時です。人間はそれがいつであるかを知りません。先にも申しましたように、私たちの人生における一瞬一瞬が、その可能性と共にあるのです。ならば、その一瞬一瞬の「今」こそが、人生における最も重要な時であるとも言うことができるのでしょう。それゆえに、イエス様は繰り返し「目を覚ましていなさい」と言われたのです。キリストの再臨を信じる信仰は、「今」を大切にして生きることへと、私たちを向かわせるのです。

(祈り)


2014年1月5日日曜日

「神に喜ばれるために」

2014年1月5日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 2章1~8節


 2014年最初の主日を迎えました。いつものように今日もこうして集まることができたことを感謝したいと思います。私たちがキリストを信じる者として今ここにいるとするならば、それは私たちにキリストを伝えてくれた人たちがいたからです。この日本に教会が存在するのは、日本にキリストを伝えに来てくれた人たちがいたからです。今、この世界に教会が存在し、私たちが教会に身を置いているのは、教会が伝道を続けてきたからです。神は教会が伝道することによってキリスト教信仰が存続することを良しとされました。その意味で「伝道」はキリスト教信仰の本質に属します。今日御一緒に考えたいのはその「伝道」についてです。福音を宣べ伝えられた私たちであること、そして、福音を宣べ伝えるためにこの世に遣わされている私たちであることを思いつつ、聖書の言葉に耳を傾けてまいりましょう。

不純な動機やごまかし?
 そこで今日の礼拝において読まれましたのは、パウロがテサロニケにおける伝道について語っている箇所です。このように書き出します。「兄弟たち、あなたがた自身が知っ
ているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした」(1‐2節)。

 しかし、この続きが変です。いきなり何の脈絡もなくパウロは弁明をはじめるのです。「わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません」(3節)。また5節にもこんなことが書かれています。「あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます」(5節)。

 いささか唐突の感を免れません。しかし、このように書かれているということは、裏を返せば、そのように書かざるを得ない事情があったということでしょう。つまりパウロの宣教について、それが不順な動機によるものだという非難や、彼は人々にへつらって人集め金集めをしているだけだという中傷があったということです。どうして、そのような中傷が起こってきたかは、使徒言行録に書かれているテサロニケ伝道の様子や、あるいは同じ頃に書かれたガラテヤの信徒への手紙を読めばある程度見えてきます。

 使徒言行録17章は次のように始まります。「パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、『メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた』と、また、『このメシアはわたしが伝えているイエスである』と説明し、論証した。 それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った」(使徒17:1‐4)。

 パウロはいつものようにユダヤ人の会堂に行ってイエスがメシアであることを宣べ伝えました。そして、彼らのある者は信じたと書かれています。そう、信じたユダヤ人もいなくはなかった。しかし、信じた人たちの大多数はユダヤ人ではありませんでした。「神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たち」でした。

 「神をあがめる多くのギリシア人」というのは、ユダヤ人ではないけれど会堂に出入りしていた人たちです。彼らは経済的にもユダヤ人の会堂を支えていた人たちです。よりによって、その彼らがパウロとシラスの方に行ってしまいました。いや、そればかりではありません。「おもだった婦人たち」が二人に従った。「おもだった婦人たち」というのは町の有力者の妻たちのことです。彼らまでがパウロたちの方に行ってしまったのです。

 さて、パウロとシラスの行動はユダヤ人たちの目にどのように映ったことでしょう。せっかく会堂に来て律法を学んでいる異邦人をうまい言葉で自分たちの方に引き込んでいるように見えたでしょう。ラビとしての自分の勢力範囲を広げるために、また裕福な婦人たちを騙して金集めをするために動いているように見えたに違いありません。

 そう見えたとしても、ある意味では仕方なかったとも言えます。というのもパウロが宣べ伝えていたのは「神の福音」すなわち「神からの良い知らせ」だったからです。パウロの宣教の中心にあったのは神の恵みによる救いでした。その救いを純粋に福音として語っていたのです。それはガラテヤの信徒への手紙に見るとおり、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」(ガラテヤ2:16)ということだったのです。

 人間の行いによって救われるのではない。十字架にかけられたキリストを信じる信仰によって救われる。そのことを聞いて、神をあがめるギリシア人もおもだった婦人たちも信じたのでしょう。しかし、それは律法を幼い頃から遵守してきたユダヤ人たちからしたらどうでしょう。そんな虫のいい話があるものか。パウロは異邦人の有力者たちにへつらっているだけではないか。ユダヤ人たちが異邦人と全く同じ扱いを受けることは、まことに許しがたいことであったに違いありません。

 パウロやシラスに対する誹謗中傷は、当然パウロが去った後のテサロニケにおいても続いていたことでしょう。テサロニケの教会は、そのような中に置かれているのです。ですからパウロはこう語らざるを得なかったのです。「わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません」と。

神に喜んでいただくために
 しかし、それでもなおパウロは「神の福音」を語り続けたのです。どんな誤解を受けようが中傷されようが、神の恵みによる救いを語り続けたのです。なぜですか。パウロはこう言っています。「わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです」(4節)。そうです、福音はゆだねられているからこそ語るのです。神に喜んでいただくために伝えるのです。

 さて、今日、私たちが神の恵みによる救いを伝えることは、この日本の社会においてどのように受け止められるのでしょうか。人は行いによって救われるのではなく、ただ信仰によって救われるのだという言葉は、この国においてどう受け止められるのでしょう。社会が正しく保たれるためには厳しいルールと、そのルールを守らせる権威が必要である。それが今日の流れなのでしょう。そこで神の恵みを強調するならば、宗教の役割は道徳的行動を神の権威をもって要求することにこそあるのではないか!という言葉が返ってくるかもしれません。そんなことを言っているから日本はだめになるのだ、と。

 しかし、私たちはそれでもなお純粋に神の恵みを語ることを恐れてはならないのです。なぜなら、私たちは神から福音をゆだねられているからです。神の恵みにあずかった者だからこそ、神の恵みを伝えることができるのです。恵みによって集められた教会こそが神の恵みを語らなくてはならないのです。

 「人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです」とパウロは言いました。そのように、伝道というのは神の願い、神の求めに基づくものなのです。「私たちが伝道したいから」というのが伝道の第一の理由ではないのです。私たちが誰かの救いを願う以前に、神御自身がその人を追い求めておられるのです。罪を犯して遠く離れてしまった人間を追い求めておられるのです。そして、恵みをもって救おうとしておられる。神の恵みを伝えようとしておられるのは他ならぬ神御自身なのです。

 思い見れば私たちもそのようにして福音を伝えられたのでしょう。私たちを救う神の恵みを伝えられたのでしょう。私たちに伝えた人は、神を喜ばせるためにそうしたのでしょうか。もしかしたら、そのことを意識していなかったかもしれません。しかし、結果的には神の喜びとなった。そうです、私たちに福音が伝えられ、私たちが福音を聞いたことは、神の喜びだったのです。

 そこでもう一度今日の聖書箇所の冒頭に戻ってみましょう。今日の聖書箇所は、「兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした」という言葉から始まっていました。そして、2節で「無駄でなかったどころか」と続くのです。しかし、改めて読みますと、この1節と2節は続きが悪いと思いませんか。「無駄でなかったどころか、あなたたち神をあがめるギリシア人の多くが救われたのです」とか、「無駄でなかったどころか、あなたたちのような素晴らしい教会が誕生したのです」と続くなら話は分かります。しかし、そうではないのです。「…激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした」とパウロは言っているのです。

 分かりますでしょう。パウロは、ただ「福音を語った」という事実をもって、テサロニケに入って行ったことは「無駄ではなかった」と言っているのです。福音が受け入れられて、誰かが救われて、教会が誕生して、そこで初めて「無駄ではなかった」ということではないのです。

 私たちは福音をゆだねられているから伝道するのです。神に喜んでいただくために伝道するのです。私たち為しえることは、ゆだねられている福音を伝えるところまでなのです。神の恵みを伝えたらよいのです。神の愛を伝えたらよいのです。それがどう受け取られるかは私たちが考えることではないのです。後は聖霊のお働きによって神御自身が人と出会われるのであって、私たちの領域ではありません。神の恵みを福音として純粋に伝えることです。それができたら、それですべては「無駄ではなかった」と言えるのです。神に喜んでいただくためにそのことを行い得たのですから。

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