2012年11月4日日曜日

「わたしは道であり、真理であり、命である」 

2012年11月4日主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 14章1節〜6節
---------------------------------------------------------------

 今日は「聖徒の日」です。天に召された方々を記念して礼拝をお捧げしています。私たちが記念しているのは、既に世を去られた方々です。しかし、この日、私たちが考えるべきことは「死について」ではありません。「命について」です。今日与えられた聖書の言葉は、命について語っている御言葉です。特に心に留めたいのは、ヨハネによる福音書14章6節です。今日の説教タイトルともなっています。「わたしは道であり、真理であり、命である」。ここで私たちは、ここでまことに驚くべき言葉を耳にしています。この御方は、ただ道を示されるだけではありません。「わたしが道なのである」と言われるのです。この御方は、ただ真理を語られるだけではありません。「わたしが真理なのである」と言われるのです。この御方は、ただ命へと導いてくださるだけではありません。「わたしが命なのである」と言われるのです。

父の家には住む所がたくさんある
 この言葉が語られましたのは、いわゆる「最後の晩餐」と呼ばれる場面です。イエス様は、御自分に迫っている恐るべき事態をよくご存じでした。まもなく捕らえられ、裁かれ、十字架にかけられ、殺されるであろうことをご存じであられました。主は確かに受難の道を、十字架の死に至る道を歩んでおられたのです。

 しかし、イエス様の御目は、ただ苦難と十字架だけに向けられていたのではありませんでした。主の眼差しは、十字架のその向こうに、向けられていたのです。先ほどお読みした14章1節以下を御覧ください。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」(1‐2節)。主は十字架の死の向うに、父の家を見ているのです。主は御自分が父のもとに行くのだ、ということをはっきりと意識しておられたのです。

 さらにこう言われました。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(1‐3節)。そのように、父のもとに行くのはイエス様だけではないのです。弟子たちもまた、父のみもとに迎えられるのです。イエス様によって迎えられ、主のおられるところに弟子たちも共にいることになる、と語られているのです。

 イエス様は、弟子たちが行き着くところ、私たちが行き着くべきところを、明確に告げてくださいました。最終的に私たちが行き着くべきところ、それは《父の家》です。父なる神のみもとなのです。このことを意識するかしないかで、私たちの人生は変わります。どこに向かって生きるのかということが、その人の生き方を決定するのです。

 帰るべきところが父のみもとであり、父の家であるということは、私たちの人生を最終的に評価するのは、父なる神であるということです。このことは特にこの弟子たちに語られねばなりませんでした。というのも、弟子たちはこの先、困難と迫害の中を生きていかなくてはならなかったからです。すなわち、人々から憎まれて、何も成し遂げないままに、まるで無駄死にのような仕方で死んでいかなくてはならないことも、あり得るということなのです。そして実際、そのようなことは起こったのです。教会の歴史の中において繰り返し起こったのです。迫害の中で誰からも顧みられることなく、記憶されることなく閉ざされた人生を、いったい誰が評価するのでしょうか。それは父なる神なのだ、というのです。弟子たちは、そのことを知らなくてはならなかったのです。

 それは迫害の中にあるわけではない、私たちにおいても同じです。私たちの働きは、未完成に終わるかもしれません。途中で行き詰まり、あるいは不測の事態に翻弄されることがあるかもしれません。身を粉にして取り組んだことが、必ずしも人から評価されるとは限りません。まったく気にも留められないかもしれません。ありったけの愛を注ぎ込んでも、最後まで拒否されて終わるかもしれません。ただ無駄に失われていったとしか思えない年月があるかもしれません。しかし、それはそれで良いのです。そんなことで人生の意味は決まらないからです。私たちの一生を判断するのは、私たち自身ではないからです。他の誰かもありません。私たちは父のみもとに行くのです。父なる神が私たちを迎えてくださるのです。父が見てくださることこそ、父なる神が評価してくださることこそが、最終的に唯一意味を持つのです。

わたしは道である
 そのように、行くべきところが明確に告げられているということは、実に幸いなことです。しかし、ここで一つの問いが、私たちの心の中に頭をもたげてくるかもしれません。「キリストが父のみもとに帰ったからと言って、そのキリストと同じところに私たちもまた帰ることができると、本当に言えるのだろうか。父なる神が、私たちを受け入れ、迎え入れてくださるということを、本当に信じて良いのだろうか。」――もしそのような問いを持つ人がいるならば、その問いは実に健全な、正しい問いであると思います。なぜなら、事実、私たちとキリストとは異なるからです。

 キリストは父なる神から遣わされた御方として、父の御心だけを行いました。キリストには罪がありませんでした。そのようなキリストにとって、使命を終えて父のみもとに帰って行くということはことは、自明のことでした。父のみもとに場所があることは至極当然のことでした。ですから、十字架において死ぬことは、父なる神のみもとに移されることに他ならなかったのです。

 しかし、私たちは違います。私たちは決してキリストのように罪のない者ではありません。神に背いて、背いて、また背いて。そのようなことを繰り返してきた自分の人生をひっさげて、「神様、あなたのもとに私の場所があることは当然です」と言えるでしょうか。「あなたが私を迎えてくださることは当然です」と本当に言えるでしょうか。言えないだろうと思うのです。父なる神のもとに私たちの行き着くべき場所がある。それはどう考えても、本来あり得ないことなのです。

 しかし、皆さん、2節を御覧ください。そうであるからこそ、イエス様はわざわざ「あなたがたのために場所を用意しに行く」(2節)と言われたのです。「場所を用意しに行く」のです。つまり、それまでは用意されていない、ということです。はじめから私たちの場所があるのではない、ということです。父なる神のみもとに、私たちの場所があるとするならば、それはイエス様が用意してくださったから場所があるのであって、私たちが何かをしたからではないのです。イエス様がしてくださったことによるのです。

 キリストは場所を用意しに行くと言われました。そして、どうされましたか。主は十字架にかかって死なれたのです。言い換えるならば、キリストは、十字架にかかられ、自ら血を流して私たちの罪を贖うことによって、場所を用意してくださったのです。そのようにして、罪人である私たちが父に迎えられるようにしてくださったのです。

 いや、イエス様はただ場所を用意してくださっただけではありません。主は言われたのです。「わたしは道である」と。その道は父のみもとに行くための道です。キリストは十字架にかかり、罪を贖うことによって、私たちの通るべき道ともなってくださったのです。私たちは、イエス・キリストによる罪の贖いという道を通って、父なる神のみもとにいくしかないのです。それゆえ、イエス様は言われたのです。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と。

 ヘブライ語の「道」という言葉は、もともと「踏みつける」という言葉に由来します。道というのは、人が踏みつけて通るものです。「道を通る」とはそういうことです。イエス様は、私たちが踏みつけて通るための道となってくださいました。私たちはそのままでは父のみもとに行けないから、父のみもとに行けるようにと、私たちが踏みつけて通るための道になってくださったのです。イエス様が十字架にかかって、私たちの罪を贖ってくださったとはそういうことなのです。イエス様が、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われたのは、「だから、わたしを通って父のもとに行きなさい。わたしがあなたの罪の代償として苦しみを背負うから、わたしを踏みつけて通って父のもとに行きなさい」ということなのです

 わたしは真理であり命である 
 そのように、イエス・キリストは私たちに道を示してくださったのではなくて、キリスト自らが道となってくださいました。それこそが私たちの知るべき「真理」なのです。その「真理」そのものとして、イエス様は来られたのです。主は言われるのです。「わたしが真理である」と。

 ですから、真理を知るということは、単に「キリストについて知る」ということではありません。「キリストを知る」ということです。《キリストについて知る》ということと、《キリストを知る》ということは、異なるのです。《キリストを知る》ということは単なる知識ではありません。人格的な関係であり、人格的な交わりです。言い換えるならば、それは「信ずる」ことであり、「愛する」ことであり、「礼拝する」ことです。

 ですから、私たちは、週ごとに集まって、聖書の勉強会をするのではなく、キリスト教の勉強会をするのでもなく、礼拝をするのです。単にキリストについて語ったり、聞いたりするのではなく、祈り、讃美をするのです。単にキリストについての信仰箇条を信じるのではなく、キリストを信じるのです。私のために、あなたのために、命を投げ出して、父へと至る道となってくださった、そのキリストというお方を信じるのです。

 そのキリストが「わたしは命である」と言われたのです。ならばここで言う「命」とは単なる活力や生命力のことではありません。活き活きと生命力に満ち溢れて生きられることは素晴らしいことです。しかし、それが最終的に重要なことではありません。なぜなら、活力に溢れている人もまた死ぬからです。死はその人をも確実に呑み込んでいくのです。人間はいかなる状態にあったとしても、どんなに元気な人であっても、《死につつある》存在であることに変わりはありません。ですから、本当の意味で「命」が語られるためには、死が克服されていなくてはならないのです。

 イエス様は、「わたしは命である」と言われました。キリストにこそ、死の完全なる克服があります。キリストがおられるところにおいて、もはや死は力を持ち得ないのです。キリストとの交わりがあるならば、もはや何も恐れる必要はありません。なぜなら、キリストは父のみもとに場所を用意してくださる方であり、私たちが父のみもとへ行くための「道」そのものとなってくださったお方だからです。だからこそ主は「命」なのです。主は言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である」と。

以前の記事