2022年2月23日水曜日

祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 4:2~6

コロサイの信徒への手紙 4:2‐6

 「目を覚まして…ひたすら祈りなさい」と書かれています。「ひたすら祈りなさい」とは「祈り続けなさい」という意味です。「目を覚まして祈り続けよ」という勧めは、ゲッセマネの園において主が弟子たちに言われた言葉を思い起こさせます。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(マルコ14:38)。既に見てきましたように、この手紙が書かれた一つの理由は、彼らの中に異端の教えが入り込んできたために、大きな誘惑に直面していたからでした。内にある誘惑だけではありません。外からの迫害もまた彼らを主から引き離す誘惑となるのでしょう。この手紙だけでなく、他のパウロの手紙を読みましても、当時の教会にとって、誘惑に陥らないように目を覚ましているということが、どれほど重要であったかを思わされます。

 そして、それは彼らだけでなく、私たちにとっても極めて重要な課題なのです。私たちを主から引き離そうとする力は今日においても様々な形で働いているからです。そして、目を覚ましているということは、「ひたすら祈りなさい」という言葉を結び付けられています。祈り続けることなくして目を覚ましていることはできないからです。どんなに活動的に見えても、聖書の知識を蓄えても、キリスト者が祈りの生活を失うとき、霊的には眠りこけているのです。祈ることを他のことに置き換えて信仰生活が成り立っているならば危険信号です。祈ることを他のことに置き換えて信仰生活が成り立っているならば危険信号です。

 さて、パウロは「ひたすら祈りなさい」と勧めた後に、「わたしたちのためにも祈ってください」と続けます。パウロはコロサイの教会のためにひたすら祈っていました。パウロの祈りはこの手紙の1章9節以下に記されており、私たちは既にその祈りについて学んできました。そして、最後にパウロもコロサイの教会に祈りを求めるのです。パウロはどのようなことを祈ってほしいと言っているのでしょうか。牢獄から釈放されることでしょうか。いいえ違います。パウロが求めたのは別のことでした。パウロは自分のために獄の門が開かれることではなく、御言葉のために門が開かれることを求めたのです。そして、伝道者として神の救いの計画、福音の奥義が語れるように祈ってほしいと言うのです。

 ここからいくつかの大事なことを学ぶことができます。第一に、伝道は祈りなくしては為されえないという事実です。神の言葉が語られ、人が神の救いにあずかる。それは人の業ではありません。人間の知恵や力によるのではないのです。もちろん私たちは福音を伝えるために出来る限りのことをすべきでしょう。福音はあくまでも人間の言葉で伝えられますから。しかし、御言葉のために門を開いてくださるのは神様なのです。ですから神様に祈り求めるのです。

 そして第二に、使命を全うするために祈りを求めることの大切さです。パウロの意識の中にはいつも獄の外にいる多くの人々、キリストに出会っていない多くの人々がいたのです。パウロの使命はそれらの人々に福音の奥義を語り伝えることでした。すなわち彼らのために生きることでした。「このために、わたしは牢につながれています」と彼は言っているのです。パウロはその使命を全うするために祈りによる助けを求めたのです。

 キリスト者に与えられた固有の使命は、キリストの証し人として生きることです。私たちは「自分の頭の上の蝿を追うだけで精一杯」というようなキリスト者であってはならないのです。私たちが信仰者とされたのは、キリストの恵みを証しすることにおいて、他者に仕えるためなのです。自分の救いの事だけを考えているエゴイストを造るためにキリストは十字架にかかられたのではないからです。

 そして、キリストの恵みを証しして生きることは人の力によって為され得ることではないのです。私たちは、肉なる者としては、人々のつまずきにしかなれない者です。人々がキリストに近づくのを妨げるようなことしかできないのです。だから祈らなくてはならないのです。神の御力を求めなくてはなりません。そして、そのために互いに祈り合うべきなのです。

 そしてパウロは、福音宣教という関連から、更に二つのことを勧めています。5節と6節をご覧下さい。

 第一は、時をよく用いて賢くふるまうことです。時をよく用いるとはどういうことでしょうか。「時」と訳される言葉は「カイロス」と「クロノス」と二つあります。クロノスはいわゆる「時間」です。これに対して「カイロス」とは、「機会」を意味します。ここで使われているのは後者です。「時間を大切にしなさい」と言っているのではないのです。神の与えてくださったチャンスを生かして用いなさいと言っているのです。

 それはキリストを証しする機会です。それは「外部の人に対して賢くふるまいなさい」と続いていることから分かります。私たちは、当時のキリスト者が「外部の人」との関係にしばしば困難を抱いていたことを忘れてはなりません。皇帝や神々の像に跪かない彼らは、しばしば無神論者であると非難されました。これまで人々と同じように行ってきたことを、キリストを愛する故に断った時、彼らはいわれのない中傷にさらされることになりました。キリストの御名のゆえに、不当な扱いを受けるようになりました。

 だからこそ、「時をよく用いなさい」「チャンスを生かして用いなさい」とパウロは勧めるのです。まさに目覚めていることが求められる瞬間があるのでしょう。例えば、中傷された時に、不当な扱いを受けた時に、目を覚ましているならば、そこにこそ機会がある。そこでこそキリストを証しする機会がある。それは言葉だけであってはならないのです。そこで本当の意味で行動が問われる。「賢くふるまう」ことが求められるのです。パウロがどのように「時をよく用い」、また「外部の人に対して賢く」ふるまってきたかは、使徒言行録を見てもよく分かります。

 そして続いて、「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」と語ります。「快い」と訳されているのは「恵みにおいて(恵みの中で)」というのが直訳です。「親切な」「恵み深い」「優しい」という意味です。そのような言葉を「塩で味付けされた言葉」とパウロは呼びます。そのような言葉を用いる。ひと時だけでなく、いつも用いる。常に誤解と中傷にさらされている人にとっては、そのような「塩で味付けされた言葉」を用いる機会、言ってみれば練習する機会はいくらでもあったに違いありません。興味深いのは、そのようにいつも行っているならば「一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう」というのです。必ずしも好意的でない状況において、キリストを証しする言葉は、必ずしも知識を積み重ねることによって与えられるのではなく、いつも「塩で味付けされた言葉」を用いていることによって与えられるのだということは、心に留めておくべきことでしょう。

 そのように、ひたすら祈りなさいということから始まって、パウロの勧めは語る言葉にまで至りました。これら一つ一つの勧めの言葉は互いに無関係ではありません。時を生かすことも、適切な言葉を語ることも、霊的に目を覚ましていなくては為しえないことです。私たちが目を覚まして感謝をもってひたすら祈るとき、特に福音宣教のために互いに祈り合うときに、私たちはキリストの恵みを証しする機会を捉えることができるのであり、また適切な恵みにあふれた味のある言葉を用いることができるのです。

(祈り)

2022年2月20日日曜日

「互いのために祈りなさい」

ヤコブの手紙 5:12‐20

苦しみにおいても、喜びにおいても
 本日の第2朗読ではヤコブの手紙が読まれました。13節には次のように書かれていました「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい」(13節)。

 苦しんでいるときに、その苦しみを打ち明けることのできる誰かがそばにいる人は幸いです。また、喜びを抱いている時に、その喜びを分かち合い、一緒に喜んでくれる人がそばにいる人は幸いです。しかし、そのような人がいる人であっても、いない人であっても、大事なことは、苦しみの内にある時に、あるいは喜びを抱いている時に、まずは人の所にではなく、神様のところに持って行くということです。苦しみも喜びもそのまま携えていく。「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい」(13節)とはそういうことです。

 苦しい時には、神様に向かって「苦しいです」とそのまま言ったらよいのです。その苦しみを神様の前に携えて行って注ぎ出す。するとそこで何が起こるのでしょう。その苦しみによって、神と人とが結びつくのです。苦しみのゆえに、さらに深く結びつくのです。

 そのような祈りの実例を、私たちは詩編の中に数多く見ることができます。詩編全150編の内の多くは「嘆きの歌」として分類されます。詩編に嘆きの歌が多いということは、言い換えるならば、嘆きの中において人は繰り返し神と共にあること、そして神との豊かな交わりを経験してきたということなのです。

 例えば詩編130編はこのような言葉から始まっています。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」(詩編130:1‐2)。彼が「深い淵の底」と呼んでいる具体的な状況は分かりません。それが病気なのか、人生の失敗なのか、人間関係における苦悩なのか、外敵による迫害なのか分かりません。しかし、そこから彼は声の限りに神を呼ぶのです。「主よ、この声を聞きとってください」と。

 その言葉から分かるように、初めに彼が苦しみの中で経験しているのは、遠くにいる神なのです。だから「この声を聞きとってください」と叫ばざるを得ない。しかし、詩編はこのように続くのです。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです」(同3-4節)。その苦しみの深き淵の底において彼が知ったのは、自らの罪深さであり、そして、その罪を赦してなお共にいてくださる神の恵みだったのです。いわば彼は、深い淵の底にいながらも、そこで救いの神に出会っているのです。それは詩編の中の一例に過ぎません。しかし、確かに聖書は苦しみにおいて神と結びついた多くの人の姿を私たちに示していると言えるでしょう。

 同じことは喜びについても言えます。人は喜びによっても、神と結びつくことができるのです。人が喜びを抱くのは、喜びをもたらす出来事があるからでしょう。それは何でしょうか。願ったことが実現したことでしょうか。あるいは願いもしなかった喜ばしいことが実現したことでしょうか。しかし、本当に大事なことは、その出来事そのものにではなく、その背後におられる神様に目を向けることなのです。喜びにおいて神を賛美するとはそういうことです。

 この世の出来事は過ぎ去り、移り変わります。喜ばしい出来事もそれはやがて過ぎゆく人生の一こまに過ぎません。しかし、私たちは神を賛美することによって、この地上の一時的な出来事を通して、永遠なる神と共にいることができるのです。そして、一時的でない永遠の喜びに触れることができるのです。

誰かに祈ってもらうという関係
 そのように、苦しみにしても喜びにしても、まず神のもとに持って行く。祈りにおいて賛美において神のもとに持っていく。そのような神との関わりに生きる時、人との関係も変わってくるのです。

 14節においてまず語られているのは、教会の長老との関係です。ここで「長老」というのは、今日の教会で言えば「役員」であるとも言えますし、あるいは「牧師」を指すと言うこともできます。「苦しみ」の具体的な一つの例として挙げることができるのは「病気」でしょう。それゆえにヤコブはさらに次のように勧めるのです。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」(14節)。そのように、「病気」という具体的な一つの苦しみが、「誰かに祈ってもらう」という関係を生み出すのです。

 そのような関係を象徴する麗しい出来事を、今日の福音書朗読において読まれた箇所は伝えています。屋根を壊して中風の人をつり降ろした四人の男たちの姿がそこに描かれていました。中風という病気による一人の人の苦しみは何を生み出したのでしょうか。屋根をぶち壊してでもイエス様のもとに連れて行ってあげたいという四人の男と、この中風の人との関係を生み出したのです。そして、彼らの関わりをイエス様も目にしていました。聖書は何と伝えていますか。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」(5節)。まさにそれは、彼らの信仰の目に見える現れだったのです。

 「病気」という具体的な一つの苦しみ生み出した、その人をイエス様のもとに連れて行くという関係――それはまさに、「病気」という具体的な一つの苦しみが、「誰かに祈ってもらう」という関係を生み出すことを指し示す、象徴的な出来事であったといえるでしょう。

 そのような関係における祈りについて、聖書にはさらに次のように書かれています。「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます」(15節)。すなわち、イエス様が癒してくださる、ということです。

 今日の福音書朗読もそうですが、福音書にはイエス様が病気を癒されたという話が繰り返し出てきます。そして、聖書によれば、それはイエス様が地上を歩いておられた時だけでなく、その後にも主は癒しの業を続けておられる、ということが分かります。使徒言行録には、イエス様がなさった癒しの業が、今度は使徒たちと教会を通して行われていることが伝えられています。今日お読みしたヤコブの手紙を見ても、人の祈りを通して、主が癒しの業をなさっていることが分かります。

 実際、教会生活をしていますと、様々な形で神の「癒し」を経験いたします。ところで「癒し」とは何でしょう。聖書的に見るならば、それは神の国のしるしです。神の国の前味と表現しても良いかもしれません。私たちが神の国に入れられるのは将来のことであったとしても、私たちは既に神の国を経験しながら生きているのです。神の国の前味。それが信仰生活です。

 神の国を考えるならば、私たちが今どのような病気を患っていたとしても、最終的には完全に癒されると言うことができます。神の国に病気はないのですから。それは完全に命の支配する世界であり、完全な癒しの世界です。そのような神の国を、私たちは今、信仰生活において、様々な形で味わいながら生きているのです。ですから、神の国の味わいを病気の癒しという形で体験することはあります。もちろん、「病気」そのものは治らないこともあります。人生最後の病気は治りません。しかし、神の国を味わいながら平安の内に天に召されるならば、それもまた、もう一つの癒しの経験であると言えるでしょう。

 そして、さらに、「その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます」(15節)と書かれています。全ての病気を罪と結びつけることは避けなくてはなりませんが、多くの場合において、病気や様々な苦しみが罪に起因することは事実です。主は癒してくださるだけでなく、その根底にある罪をも赦してくださいます。罪を赦すことは最終的には永遠なる神にしかできないことです。そのように、苦しみの中で「誰かに祈ってもらう」時に、あの詩編130編のように、そこで神の赦しにあずかり、永遠の命の世界に触れるということが起こるのです。

罪を告白し合いなさい
 そして、それは教会の長老との間に留まりません。本来は長老であるなしにかかわらず、信徒相互の関係がそのようなものであるはずなのです。それゆえに、ヤコブは次のように続けます。「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」(16節)。罪を告白し合うというのは、自分の最も暗い部分を明らかにすることであり、自分の弱さや惨めさをさらけ出すことです。それを為しえるとするならば、その「お互い」がキリストのもとにあり、十字架のもとにある時だけであると言えるでしょう。

 立派で正しい人であるかもしれないけれど他人を裁いて見下している人に対して、自分の問題を話して「お祈りしてください」と言えるでしょうか。絶対に言えないだろうと思います。私たちが自分の罪に関わる問題を口にして「お祈りしてください」と言えるとするならば、それはそれぞれがイエス様の十字架のもとに身を置いて「わたしの罪を赦してください」と祈る者である時だけなのです。ただ主の恵みによって赦され救われたことを知る者だけが、互いに罪を告白し、祈り合うことができるのです。

 そして、本来、それこそが教会の交わりなのです。教会にしかない互いの関係であるはずなのです。ただ親しい友人というだけならば、何も教会の中だけでなく外にもいるでしょう。人間的な意味では、教会の外の人の方が親しいということもあり得るでしょう。しかし、教会にしかない関係があるのです。それは「お互いのために祈る」という関係です。自分の問題を口にして「祈ってください」と言える関係です。そのような関係を知らないならば、それは教会の交わりを知らないに等しいのです。それは実に残念なことです。私は頌栄教会の人がそのような関係に生きるお互いであって欲しいと思います。

 そのように互いに祈る関係において、人は神の国に触れるのです。この地上において神の御業を見るのです。「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」(16節)とヤコブは言います。その正しさとは、神との関係における正しさです。その意味においては、私たちは皆、イエス・キリストによって罪を贖われ、神との関係において義人とされているのではありませんか。神の国がこの地上に現れるための通路となるのは、何も特別な人ではありません。「エリヤは、わたしたちと同じような人間でした」と書かれています。私たちがお互いのために祈る時、お互いが神の御業の現れるための通路となるのです。

(祈り)

2022年2月16日水曜日

祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 3:18~4:1

コロサイの信徒への手紙 3:18‐4:1

 10節には「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」と語られていました。そして、先週お読みした12節には、さらに具体的に身に着けるべきものが次のように語られていました。「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」(12節)。先週申しましたが、ここに挙げられている「憐れみの心」や「慈愛、謙遜、柔和、寛容」が、実際的に必要になるのは他者との関わりにおいてです。一人で憐れみ深い人になることはできないし、一人で慈愛に富むことも謙遜になることもできません。ですから、このことが実践されるべき場所は、私たちが誰かと共に生きている場においてであり、その第一は私たちが一つの体とされている「教会」であることを私たちは見てきました。

 しかし、話はそこに留まりません。パウロはここで「家庭」の話をするのです。「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」なくてはならないところは、教会の交わりに留まらず、さらに私たちがこの世に遣わされていく場所にまで及ぶのです。遣わされている場において、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」と語られているのです。

 この世界に遣わされて直面する第一の場、それは「家庭」です。それゆえに今日の箇所では最も身近な人間関係である「家庭」の事柄が取り上げられているのです。もっとも奴隷と主人の関係は、当時においては家族の事柄だったのですが、現代の私たちにとってはむしろ労使関係や主従関係が存在する、さらに広いこの世の間関係を考えることができるでしょう。いずれにせよ、遣わされるこの世において、私たちは「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」ることが求められているということです。

 まず、夫婦の関係においてパウロは勧めています。「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない」(18、19節)。当時の女性の地位は大変低いものでした。それはギリシャ人においてもユダヤ人においても変わりませんでした。しかし、パウロはここで、女性は劣っているから、夫の方が偉いから、妻は仕えるべきなのだと言っているのではありません。パウロは何と言っているでしょうか。「主を信じる者にふさわしく」と言っているのです。仕えるのは、それが「主を信じる者にふさわしい」ことだからなのです。

 主イエスを信じ、主に結ばれる時に、「仕える」ことの意味が変わります。なぜなら、主イエス御自身こそ、神の御子であられながら徹底して低くなられ、僕の姿となられ、私たちの救いのために仕えてくださったからです。主は弟子たちに言われました。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)。

 主は最後の晩餐において、弟子たちの足を洗われました。当時の奴隷がしていたことを、あえてなさいました。それはやがて主が十字架につけられて死ぬことが何を意味しているかを表す象徴的な出来事でした。主は僕となって私たちの罪を洗ってくださった。罪の贖いのために死んでくださったとはそういうことです。

 主を信じる者であるとは、言い換えるならば、主に仕えていただき罪を洗っていただいた者であるということです。主に仕えていただいた者が今度は人に仕える者となる。それは主を信じる者にふさわしいことです。そのことが「妻たち」について語られているのです。もちろん「主を信じる者にふさわしいこと」が求められているのは「妻たち」だけではありません。

 それゆえに、夫たちには別の面から「主を信じる者にふさわしいこと」が勧められています。それは「妻を愛しなさい」ということです。それはキリストが教会を愛されて、十字架にかかって命を捨てられたように、それと同じように妻を愛しなさいということです。そこでは、「相手が愛してくれたら仕えなさい」とか「相手が仕えたら愛しなさい」ということは一切語られていません。相手がどうであるかではないのです。まずこちらから仕え、また愛することが求められているのです。実際それがキリストのしてくださったことであり、キリストを遣わされた父なる神がしてくださったことでした。まず神が愛して、神が行動してくださいました。そのことを思います時に、私たちにとって具体的な身近な関係において「主を信じる者にふさわしいこと」もまた見えてくるのです。

 次に、親子の関係についてこのように言われています。「子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです」(20-21節)。ここでも子供が従うべき理由は、子供が親より劣っているからではありません。親の方が人生経験に富んでいるからでもありません。子供が従うことは、「主に喜ばれることです」と書かれているのです。あくまでも主との関わりにおいての話なのです。

 それゆえに、親もまた「どんなことについても両親に従いなさい」と語られて大丈夫であるかどうかを考えなくてはならないのです。そこではただ「子供たち」のあり方が語られているのではなく、親の生き方そのものが問われているのです。子供が従って良いような人生を送っているか、ということです。親が喜びと感謝をもって神に従順であって初めて、子供が親に従順であっても大丈夫なのです。そのことなしに、力をもって子供を服従させようとするとき、ここに書いてあるように「子供をいらだたせる」ことになるでしょうし、子供が「いじける」ことも起こってくるのです。子供たちが希望にあふれた人として神への感謝と従順に生きられるようになるためにも、親と神との関係は重要です。

 次に語られているのは労使の関係です。これはある意味で、私たちが社会生活におけるすべての人間関係においても適用できる言葉であろうかと思います。パウロは「何をするにも、人に対してでなく、主に対してするように、心から行ないなさい」(23節)と勧めます。このようにして私たちは、日常のあらゆる関係において、主キリストに仕えることができるのです。そして、報いは主から来るのです。私たちは、やり甲斐や生き甲斐とは全く無縁と思えるような作業においても、主キリストに仕えることができるのです。そして、報いは主から来るのです。気難しい人々、愛することが困難な人々との関わりにおいても、主キリストに仕えることができるのです。そして、報いは主から来るのです。

 また、私たちが仮に人の上に立つような場合でも、ここでパウロが「主人たち」と呼んでいるような立場に身を置くことがあったとしても、自分の主人が天にいることを忘れてはならないのです。そのようにして主人たる者も主キリストに仕えることができるのです。

 そのように、私たちがイエス様を愛し仕えるチャンスは、この世において無限にあると言えるでしょう。今週、私たちには、どのような機会が与えられるでしょうか。

(祈り)

2022年2月9日水曜日

祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 3:12~17

コロサイの信徒への手紙 3:12‐17

  10節には「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」という言葉が出て来ました。そして、今日の箇所には具体的に身に着けるべきものが語られています。「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」。その後には、互いに忍び合うこと、赦し合うことについて語られています。そして、「 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」と語られています。「きずな」と訳されているのは「帯」という言葉です。ちょうど今お読みしたすべてが着物に喩えられているのです。一つ一つを身に着け、そして帯を結んでまとめます。それは本当の意味で自分のものとすることです。どこかに置き去りにされることなく、生活のあらゆる場面に伴っているということです。そのように身に着けることが求められているのです。

 しかし、その「身に着けなさい」という勧めには前提があります。「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから」と書かれているのです。つまり、「私たちは何を為すべきか」を考える前に、「神は何を為してくださったか」を考えるなのです。神が選び、聖なる者とし、愛してくださった。その事実が先にあるということです。

 ところで、聖書が「選び」について語る時、それは私たちが一般的に「選び」について語るのとは意味合いが異なります。「わたしは選ばれた」と言う時、通常は、「わたしは相応しい資質なり資格なりがあると認められた」ということを意味するのでしょう。例えば、ある人がサッカーの日本代表に選ばれたとするならば、それはすなわち、その人に日本代表チームのメンバーになるに相応しい能力があると認められたことを意味するでしょう。ですから、「選び」は「誇り」と結びつきます。相応しいと認められたのですから。

 しかし、聖書が神の「選び」について語る時、それは全く違う意味合いです。「あなたがたは神に選ばれた」という時、それは神の一方的な恵みを表現しているのです。私たちが救われたのはなぜか、神の子供として生きる者とされたのはなぜか。私たちが何をしてきたかとか、何をしてこなかったかとか、私たちが優れているとか、劣っているとか、そんなことは全く関係ないのです。ただ、神がそう望まれたから。すなわち、私たちの側に資格があったからではなく、ただ一方的な神の恵みによるのです。私たちの側には根拠がない。そのことを表現する時に聖書は「選び」という言葉を用いるのです。

 そのようにして、ただ恵みによって私たちを神のものとしてくださったのです。箸にも棒にもかからないような私たちを、ただ恵みによって拾い上げるようにして、神に属する者としてくださった。これが「選び」であり、この事実を指して「聖なる者とされた」とパウロは語っているのです。そこに現されているのはただ一方的な神の愛です。私たちが愛されるにふさわしいからではありません。にもかかわらず、神は愛してくださった。そのように、「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから」と語られているのです。

 そのように「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」人として、「身に着けなさい」という勧めの言葉を私たちは聞くのです。この順序は逆ではないのです。「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」を身に着けたから愛されるのではないのです。ただ一方的に愛されていることを知った者として、これらを身に着けていくのです。

 ここに挙げられている「憐れみの心」とか「慈愛、謙遜、柔和、寛容」とかが、実際的に必要になるのはどういう時でしょう。それは他者との関わりにおいてです。一人で憐れみ深い人になることはできないのです。一人で慈愛に富むこともできないし、一人で謙遜になることもできないのです。それらが一つ一つ問われるのは、誰か他の人との関わりにおいてです。具体的には、例えば、身近な誰かについて忍耐しなくてはならない時です。受け入れがたい人を受け入れなくてはならない時です。あるいは誰かを赦さなくてはならない時。ですから、パウロは続けてこう言っているのです。「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(13節)。

 そのように、私たちが「造り主の姿に倣う新しい人」を身に着け、具体的に「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」を身に着け、さらに愛の帯を身に着けていくのは、私たちが誰かと共に生きている場においてです。その第一は教会です。「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」と語られている第一の場は教会です。一つの体となるべく私たちが招かれた教会です。ですから、さらにパウロは身に着けるべきものを記した上で、教会生活を具体的にどのように送るべきかを、さらにいくつかの勧めとして記しているのです。

 第一に、「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」ということです。ここで「支配するようにする」と訳されていますが、ここでは特に「審判員にする」という意味の言葉です。そして、「キリストの平和」とは、キリストを通して与えられた神との和解に基づく平和です。それは「この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」というように、私たちが教会とされていることの前提として、私たちの心に、また互いの間に、既にキリストによって与えられている平和です。その「キリストの平和」に審判員になっていただく。ジャッジしていただくのです。教会生活における私たちの心はどうなっていますか。それがキリストの平和と調和しているならば、何をするにせよそこには感謝が満ちているのでしょう。もし調和していないならば、キリストの平和の審判は、私たちを悔い改めへと導いてくださるでしょう。

 そして第二は、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」ということです。これはキリストの語られた言葉ともとれますし、またキリストについての言葉とも理解できます。いずれにしても、今の私たちにとっては、聖書を通して語られる言葉、福音の言葉です。私たちはそのようなキリストの言葉をただ聞くだけでなく、豊かに宿らせなくてはなりません。そしてどうするのでしょうか。知恵をつくして互いに教え、諭し合うのです。そして、感謝して心から神を誉めたたえるのです。キリストの言葉を豊かに宿らせるのは自分のためだけではありません。他者のためであり、また、神に感謝し共に神を誉めたたえるためでもあるのです。ここで、私たちは特に教会の交わり、礼拝における交わりの大切さを教えられます。神様は孤立したひとりよがりの信仰者を望んではおられません。私たちの信仰者としての存在は神のためであり他の者のためであることを忘れてはならないのです。

 そして最後に「何を話すにせよ、行なうにせよ、すべてを主イエスの名によって行ない、イエスによって、父である神に感謝しなさい」と勧められています。私たちはしばしば律法的に「これはしてはよいことか、悪いことか」「罪であるか、罪でないか」というようなことを考えます。しかし、もっと大切な判断基準は、私たちを愛し、私たちのために御自身を捧げてくださったキリストの名によって語れるか、行なえるか、ということなのです。それは言い換えるならば、「私はこのことをしました。このことを語りました。主イエスの御名によって父なる神に感謝します」と感謝の祈りを捧げられるかどうか、ということなのです。

(祈り)

2022年2月6日日曜日

「何を聞いているかに注意しなさい」

マルコによる福音書 4:21‐25

聞く耳のある者は聞きなさい
 今日の福音書朗読ではイエス様の語られたたとえ話が読まれました。「ともし火」と「秤」のたとえ話です。このたとえ話は「また、イエスは言われた」という言葉から始まっていることから分かりますように、単独で語られているのではなく、その前の「種をまく人」のたとえに続いています。この「種をまく人」のたとえは、来週の朗読箇所となっていますので、今日はその詳細には触れませんが、そこに語られていることを念頭に置いて今日の箇所に耳を傾けることは大事です。

 今日の箇所においてイエス様が「ともし火」として語っているのは何なのでしょうか。秤によって量り与えられるのは何なのでしょうか。それはこの前のたとえ話において「種をまく人」がまいていものに他なりません。14節において主はこう言っています。「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」(14節)。そこで「種」として蒔かれていた「神の言葉」が、さらに「ともし火」として語られ、「秤」によって量り与えられるものとして語られているのです。

 ところで、一般的に「たとえ話」は、物事を分かり易く伝えるために用いられます。しかし、イエス様の場合、どうもそうではなさそうです。弟子たちがたとえ話についてイエス様に尋ねた時、主は次のように説明されました。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである」(11-12節)。

 ここで引用されているのはイザヤ書の言葉です。要するに、イエス様の場合、たとえ話を語るのは「外の人々」が理解できないようにするためだというのです。そう言いますと意地悪に聞こえるかもしれませんが、それは言い換えるならば、「外の人々」としてではなく、内側に身を置いてこそ初めて理解できる話だということです。外から眺めるようにではなく、内側に身を置く弟子として、自分に語り掛けられている言葉として聞いてこそ分かる話。それがたとえ話なのです。

 それは「内側」への招きであるとも言えます。だから今日の箇所においても「聞く耳のある者は聞きなさい」(23節)と言われるのです。そこでは聞き方が重要になってくるのです。来週お読みしますが、この前に書かれているたとえ話では、神の言葉が「種」として蒔かれるのです。種には命があります。ですから、良い土地に落ちるならば、三十倍、六十倍、百倍の実りとなります。そこで問題となっているのは聞き方です。それゆえに、同じように命に満ちた種が蒔かれても、道端や石地やいばらの中に落ちたならば実らないのです。

 そのように、御言葉が蒔かれたとしても、実らないことはあり得ます。言い換えるならば、神の言葉の内にある命が隠されたままになる、ということは起こり得るのです。そのようなことは、イエス様御自身の宣教においていくらでもあったに違いありません。いや、後の、教会の宣教においても言えることです。この二千年間における宣教の業においても、蒔かれてきた神の言葉の命が、実りとならないで、多くの人の目には隠されたままになってきたという事実はあるのです。

 しかし、だからこそ今日の箇所で主は言っておられるのです。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」(21節)。人間であってもそうするではないか。ましてや、このともし火は神が持ってこられたのです。神の言葉ですから。その神が持ってこられたともし火を、神が最後まで隠しておくはずがありません。必ず燭台の上に置かれる時が来るのです。主は言われます。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」(22節)。

 神の言葉が語られていたということがどういうことなのか、私たちは何を聞いていたのか、それが全ての人にはっきりと明らかにされる時が来るのです。神の言葉を確かに聞いて、神の命にあずかってきた人は、その事実がはっきりと現れる時が来る。逆に神の言葉が語られてきたにもかかわらず神の言葉を無駄にしてきた人は、無駄にしてきたという事実がはっきりと現れる時が来るのです。

 細かい話になりますが、「ともし火を持って来るのは」と訳されていますが、実は「ともし火が来るのは」と書かれているのです。「ともし火」が来たのです。それゆえに昔から、この「ともし火」はイエス御自身を指すのだという解釈があります。イエス様が語られた言葉もそうですが、究極においてはそのイエス様御自身が、この世界に与えられた神の言葉そのものなのです。そして、隠されていた「神の言葉」が全ての人に明らかにされるとは、イエスという御方が誰であるかが明らかにされるということでもあります。それは最終的にはキリストの再臨において明らかにされるのです。

 その時はまた、私たちが何をどう聞いていたのかが明らかにされる時でもあるのです。繰り返しますが、神の言葉を確かに聞いてきた人は、その事実がはっきりと現れる時が来る。逆に神の言葉を無駄にしてきた人は、その事実がはっきりと現れる時が来るのです。それは最終的に決定的な違いとなるのです。

何を聞いているかに注意しなさい
 ですから主は「聞く耳のある者は聞きなさい」(23節)と言われるだけでなく、さらに進んでこう言われるのです。「何を聞いているかに注意しなさい」(24節)。いったい何を聞いているのか。何を聞いているつもりで聞いているのか。同じ聞いているにしても「何を聞いているか」ということが決定的に重要なことになるのです。

 もともとこの4章は、イエス様が再びガリラヤ湖のほとりで教え始められたところから始まりました。イエス様は舟の上から話をしていました。夥しい群衆が集まってきたからです。3章を読みますと、それはガリラヤ周辺の人々だけではありません。イドマヤからも、ヨルダンの向こうからも、ティルスやシドンのあたりからもやってきたようです。

 この福音書を読みますと、集まってきた人々の求めは様々だったようです。ある人たちは病気を癒してほしくて集まってきました。ある人たちは神の奇跡を見るために集まってきました。また、ある人たちは彼らをローマ人の支配から解放してくれる政治的な解放者を期待して、イエス様のもとに集まってきました。そこには多くの求めがありました。しかし、そこで次のように書かれていることは重要です。「そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた」(1節)。そこに書かれているように、イエス様は様々な求めをもってやってきた群衆との間にあえて距離を取られたのです。そして、そこから「よく聞きなさい」(3節)と言われたのです。

 「聞きなさい」と言われて語られた言葉は、彼らにとって何だったのでしょう。彼らはどのような言葉として聞いたのでしょう。ある人にとっては、主が語られる言葉よりも、病気の癒しの方が大事だったかもしれません。ある人にとっては、主が語られる言葉よりも、神のリアリティが奇跡という形で現れることの方が大事だったかもしれません。ある人にとっては、主が語られる言葉よりも、社会を変革して現実の生活を楽にしてもらう方が大事だったかもしれません。もっとも彼らは皆、ユダヤ人です。ラビが語る律法教えはそれなりに大事だとは思っている人々です。なので、弟子たちに向けて語られる大事な教えとして外から関心しながら聞いていたかもしれません。あるいは普段、ラビから教えを受けていない人は、この機会に律法の教えを聞くのも良かろうと思っている人があったかもしれません。

 それぞれがそれぞれの思いをもって、それぞれの価値判断によって聞いていたのだと思います。だからこそ「何を聞いているかに注意しなさい」と言われるのです。癒しの方が大事だと思っているならば、癒しよりも価値のない言葉として聞いているならば、そのような言葉として与えられることになるのです。そのような言葉よりも政治的なアクションの方が大事だと思いながら、政治的なアクションよりも価値のない言葉として聞いているならば、そのような言葉として与えられることになるのです。単なる律法の教え、有益な教えとして聞くならば、そのような言葉として与えられることになるのです。

 しかし、イエス様は、蒔かれているのは「神の言葉」だと言われるのです。神の言葉は神が語られるのです。そして、神が語られるならば、神にしかなし得ない神の出来事が起こるのです。そのような神の言葉として聞くならば、その人には神の言葉として与えられるのです。いや、それだけではありません。さらに豊かに神の言葉は与えられることになるのです。神の言葉として聞くからです。「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」(24節)とはそういうことです。

 そして、さらに「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」とさえ主は言われるのです。「神の言葉」を持っていないということは、ある意味では全てを失うということでもあるのです。なぜなら、神の言葉を神の言葉として聞いてきたか、それとも神の言葉を無駄にしてきたかは、最終的に必ず明らかにされるからです。

 今はある意味ではまだその価値が隠されていると言えます。それがどれほど大きな私たちの救いであるかは隠されています。なので神の言葉を聞いていても聞かなくても、大きな違いはないように見えるかもしれません。しかし、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」。その違いはやがて明らかにされることになるのです。主は言われます。「聞く耳のある者は聞きなさい」そして、「何を聞いているかに注意しなさい」と。
 

2022年2月2日水曜日

祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 3:1~11

 コロサイの信徒への手紙 3:1-11

 「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」(2:11-12)。異端の思想と行動様式に引きずり込まれそうになっていたコロサイの信徒たちにパウロはそのように語り掛けていました。彼らは今こそ、洗礼を受けたキリスト者であるということがどういうことかをしっかりと認識しなくてはならないのです。

 そして、前回お読みしました2:20以下では、特に「あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もない」ということを根拠に、実際にはまだ世に属しているかのように生き、戒律に縛られて生きている彼らの誤りを指摘していました。今日はその続きです。3章に入って、彼はさらに「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから」ということを根拠に、何を求め、何を捨てなくてはならないかを語るのです。

 「キリストと共に復活させられた」。それがキリスト者に起こっている事実です。私たちはキリストと共に葬られ、一度死んだものであり、そして復活させられて新しい命、復活の命をいただいているのです。ですから、あの復活の朝に主に起こったことは、実際には私たちにも起こっていると言えるのです。「キリストと共に復活させられた」のですから。

 しかし、実際にはそれは人間の目には見えません。キリストが復活した時の栄光の姿は私たちにおいては見えません。与えられた永遠の命も見えません。信仰のない人と同じように、死んでいきます。それを聖書は「神の内に隠されている」(3節)と表現しています。そういえば、復活の時に現れたイエス様の命も、昇天の後、神の右の座に着いてからは、もう目に見える形では見えません。キリストも一旦神の内に隠されました。私たちの命、永遠の命も「キリストと共に神の内に隠されています」。

 そして、当然のことながら、それは永遠に隠されたままではありません。一旦神の内に隠されたキリストが、現れる時が来るのです。キリストの再臨においては、復活させられて天に挙げられ、神の右に座しておられるキリストであることが全ての目に明らかにされるのです。その時には、一緒に隠されていた私たちの永遠の命も現れることになります。私たちが救われているとはどういうことか、既に永遠の命を与えられているとはどういうことか、それがはっきりと現される時が来るのです。

 それが神の内に隠されている命の希望です。それは神の内に隠されているのすから天にあるのです。上にあるのです。それは1章において「あなたがたのために天に蓄えられている希望」(1:5)と語られていたものに他なりません。だからパウロは「上にあるものを求めなさい」というのです。それは「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」(2節)ということです。この世においては、私たちは既に死んでいるのです。

 「だから」とパウロは続けます。「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない」(5節)。

 「捨て去りなさい」という言葉は、直訳すると「殺しなさい」となる、とても強い言葉です。殺さなくてはならないものがあるのです。まず「みだらな行ない」「不潔な行ない」。これらは性的な不品行です。しかし、本当の問題は表に現われてこないところにあります。行ないには必ず根があるのです。それらは「情欲」「悪い欲望」と呼ばれています。悪は心の中に始まります。そして心の中にあるものが表に出てくるのです。

 また、さらに「貪欲を捨て去りなさい」と語られています。問題は単に性的な事柄に対する情欲や悪い欲望だけではないのです。破滅をもたらすのは、もっと広い意味での「貪欲」なのです。ところで、ここに非常に興味深い一文が出てきます。それは「貪欲は偶像礼拝に他ならない」という言葉です。貪欲が私たちを動かしている時、私たちはもはや神を神として生きてはいないのです。神ならぬものを神としているのです。それは偶像礼拝です。

 そしてパウロは、さらに5つの捨てるべきものをリストアップしています。8節に用いられている言葉は着物を脱ぎ捨てる時に使う言葉です。つまり、汚れた服を脱ぎ捨てるように、それらのものを脱ぎ捨てよ、ということです。まず「怒りと憤り」。「怒り」と訳されている言葉は、いつまでもめらめらと燃えている怒りの火を表わします。執念深く怒っていることです。これに対して「憤り」と訳されている言葉は、瞬間湯沸し器のように突然爆発する怒りです。これらが発展して「悪意」になります。これは人を害しようとする意志です。そして、表に現われて「そしり」になったり「恥ずべき言葉」になったりします。さらに互いに対する不誠実な偽りの言葉となって出てきます。口から悪いものが出てくるのです。

 そのように、殺してしまうべきこと、捨て去るべきものがあるのです。それは「地上的なもの」です。それらはすべて地上のものを追い求めるところから、さらには地上のものを追い求める欲望は決して満たされないという事実から出て来ることだからです。それらを追い求めていたのはキリストと共に死んだはずの「古い人」でした。だから、これまで語ってきたことを改めて「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て」(9節)と表現するのです。

 脱ぎ捨てるのは着るためです。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」(9-10節)。人は神にかたどって(神の像として)創造されました。その神の像が回復された姿こそが、キリストと共に復活させられて与えられた「新しい人」に他なりません。それが完全に現れるのは先に述べたようにキリストが現れる時ですが、それはまた私たちが日々身に着け、日々新たにされていくべきものとして語られているのです。

 そして、それは「真の知識に達する」と書かれています。この知識とは神を知る知識、またキリストを知る知識です。それは知的理解ではなく人格的な交わりをも意味します。そして、それこそが私たちの既に与えられている命、永遠の命の本質に他なりません。イエス様御自身が「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17:3)と祈っているとおりです。

 「上にあるものを求めなさい」と勧められていました。それは究極においては、この「真の知識」に完全な形で達すること、すなわち既に与えられている御父と御子との交わりに完全な形で与ること、神の内に隠されている命に完全に与ることを求めることに他ならないのでしょう。そこに向かうからこそ、また「造り主の姿に倣う新しい人を身に着ける」ことが私たちの切なる願いとなり求めとなるのです。そして、それを着たいからこそ、不潔な古い着物を脱ぎ棄てることにも喜びをもって取り組むことができるのであろうと思います。

(祈り)

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