2025年11月26日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 25:1~17

 サムエル記上 25:1~17

  まずは、24章を振り返っておきましょう。ダビデはマオンの荒れ野から逃れ、死海のほとりのエン・ゲディへ移りました。洞窟の多いその地は、彼と六百人の兵士が身を隠すのに適していました。しかし密告により居場所が知られ、サウルは三千の精鋭を率いて「山羊の岩」へ進軍します。ダビデと兵士たちは羊の囲い場近くの洞窟に潜み、ただ通り過ぎてくれることを願いましたが、足音は近づき、ついに彼らの洞窟の前で止まります。緊張の極みにあったその時、洞窟に入ってきたのは兵士ではなくサウル本人であり、しかも一人でした。

 兵士たちは「主が敵をあなたの手に渡すと約束されたのはこの時だ」と促し、サウルを殺すよう勧めました。彼らにとっても命がけの状況であり当然の反応でした。しかしダビデはサウルに手をかけず、ただ上着の端を切り取るにとどめます。そして「主が油を注がれた方に手をかけることを、主は許されない」と語り、兵士たちを説得しました。ここで強調されているのはダビデの寛容さではなく、神への畏れです。ダビデがサウルを殺さなかったのは、サウルは命を狙う者であっても、なお主に油注がれた王であり、その任職は人ではなく神によるものだからです。ダビデは神を畏れたのです。

 洞窟を出たダビデはサウルに声をかけ、上着の端を示して「殺すことができたが罪を犯さなかった」と告げました。彼の目的はサウルの態度を変えることではなく、裁きを神に委ねることでした。「主があなたとわたしの間を裁き、わたしに報復されますように。わたしは手を下しません」と語ったダビデの姿は、詩編に見られる「復讐を神にゆだねる」祈りと同じ信仰の姿を示しています。人はしばしば「心から赦せるか」を問題にしますが、本当に大事なのは「裁きと赦しの権威を持つ神を畏れるかどうか」なのです。

 サウルは涙を流し「お前はわたしより正しい」と告げましたが、本質を悟ってはいません。問題は善意と悪意ではなく、神を畏れるか否かです。ダビデが王となるのも人柄ゆえではなく、神が定められたからです。サウルは一時的に悔いたものの、神への反逆を認めず悔い改めには至りませんでした。結局、彼は館に帰り、ダビデは要害に上って行きます。神との関係が変わらなければ、人間関係も本質的には変わらないのです。

 そして、25章に入ります。1節にはサムエルの死が短く報じられています。しかし、この節は直接的には2節以下に繋がりません。サムエルの死に関しては28章3節にも記されています。これがダビデの逃亡中の出来事であることは間違いないと思うのですが、いつの時点のことであるかは定かではありません。また、「パランの荒れ野に下った」とありますが、「パラン」は地図を見るとわかりますが、シナイ半島の半ばですから、南に逃げたとしても遠すぎます。七十人訳では「マオン」となっていますが、恐らくそちらの方が正しいものと思われます。ダビデは、サムエルの葬りにも当然立ち会うことはできなかったでしょうし、一つの時代の終わりを感じながら、マオンの周辺に従者たちと留まっていたものと思われます。

 続く、2節以下の長いエピソードには、ナバルとアビガイルという夫婦が登場します。「ナバル」という名前は、後にアビガイルが説明していますが「愚か者」を意味します。生まれて来た我が子に「愚か者」と名付ける親はないでしょうから、これは実際の本名ではないでしょう。彼の行動を象徴的に表す名前としてこの物語の中で特別に付けられた名前です。それは妻アビガエルの「賢さ」と対比されているのです。

 しかし、このナバルという人物は、聖書に「頑固で行状が悪かった」(3節)と描写されているように、確かにそのような人物であったとは言えますが、この世的に見るならば、単純に「愚か者」とも言えないのです。

 彼は非常に裕福な人でした。「羊三千匹、山羊千匹を持っていた」(2節)と書かれています。さらに、「彼はカルメルで羊の毛を刈っていた」と書かれています。羊の毛を刈るのは年に一度、春の終わりから初夏にかけてです。その時期は、農業で言うならば収穫感謝祭に当たります。盛大な祝いの時でもあります。

 ちょうどその頃合いを見計らってダビデは従者を十人、ナバルのもとに送ってこう言わせました。「あなたに平和、あなたの家に平和、あなたのものすべてに平和がありますように。羊の毛を刈っておられると聞きました。あなたの牧童は我々のもとにいましたが、彼らを侮辱したことはありません。…この祝いの日に来たのですから、お手もとにあるものを僕たちと、あなたの子ダビデにお分けください」(6‐8節)。

 丁寧な言葉に訳されていますが、要するに、ダビデはいわゆる「みかじめ料」を要求しているのです。当時の社会は、警察が治安を守っているわけではありませんから、羊の群れは常に外からの略奪者の危機にさらされています。そこで略奪者から羊の群れを守ってやる代わりに、分け前を要求するということが起こるのです。以前、ダビデを親分とする、いわばヤクザの一家のような集団が形成されていったと表現しましたが、実際、ここに見るような形でダビデは兵士たちの食べさせていたものと思われるのです。

 これに対してナバルはダビデの要求を拒否します。彼は言います。「ダビデとは何者だ、エッサイの子とは何者だ。最近、主人のもとを逃げ出す奴隷が多くなった。わたしのパン、わたしの水、それに毛を刈る者にと準備した肉を取って素性の知れぬ者に与えろというのか」(10‐11節)。それは愚かなことでしょうか。いいえ、必ずしもそうとは言えません。

 彼は確かに粗野であったかもしれませんが、この世的には成功者です。単なる愚か者では裕福な牧場主などにはなれないでしょう。また、ダビデの要求を拒否したことについては、今日で言えば、暴力団の介入を拒絶した企業のトップに比することができるでしょう。また、実際的な問題として、ダビデに何かを提供することは、常にリスクを伴ってもいたのです。まかり間違えば、サウルによって滅ぼされた祭司の町ノブの二の舞になりかねません。その意味では、彼は適切な判断を下したとも言えるのです。

 しかし、それにもかかわらずなぜ「ナバル(愚か者)」と呼ばれているのか。彼の名前の意味を語るアビガエルの言葉を次回読みますので、その時に改めて考えることにしましょう。今日は、むしろこの一見賢そうに見え、正しそうにも見え、にもかかわらず聖書によって「ナバル(愚か者)」と呼ばれる人物に接した時の、ダビデの対応に注目したいと思うのです。

 私たちは一人の「愚か者」であるサウルに対して、ダビデがどのように対応したかを、この冒頭部分で少し時間をとって振り返りました。それに対して、この章におけるダビデの行動はどうでしょう。

 ダビデの従者は道を引き返して帰り着くと、言われたままをダビデに報告しました。すると、ダビデは兵に、「各自、剣を帯びよ」と命じたのです。戦闘態勢に入ったということです。200人を荷物のところに残し、400人を連れて進軍しました。その意図は、次週読む箇所にこう記されています。「荒れ野で、あの男の物をみな守り、何一つ無くならぬように気を配ったが、それは全く無益であった。彼は善意に悪意をもって報いた。明日の朝の光が射すまでに、ナバルに属する男を一人でも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰してくださるように」(21-22節)。

 この章におけるダビデの姿は24章においてサウルに手をかけなかったダビデの姿とは対照的です。自分よりも強い者によって命を脅かされるという危機には耐えられても、自分より弱い者からの侮辱に耐えられない。そのようなことが確かに起こります。人間は自らが力をもった時、かえって誘惑には弱くなるものなのでしょう。

 しかし、それよりも問題はもっと深いところにあります。今引用した言葉において印象深いのは「彼は善意に悪意をもって報いた」という言葉です。24章において、サウルが声を上げて泣いてこう言ったことを見ました。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した」(24:18)。しかし、先週申し上げたように、サウルは事の本質が分かっていませんでした。これは善意と悪意の問題ではなく、神を畏れているか否かの問題だったからです。

 しかし、今週の箇所では、ダビデが同じ言葉を使っているのです。問題はそこにあります。「彼は善意に悪意をもって報いた」。ダビデにはそのことしか、今、見えていません。しかし、本当に重要なのは、神を畏れるか否かの問題なのです。そして、神に信頼し、裁きを神に委ねるか否かの問題なのです。

 ダビデにはそれが今、見えなくなっています。だから、主を畏れてサウルに自ら手を下すことをしなかったダビデが、一息ついた時に、自ら報復する行動に出ようとしているのです。しかし、主はダビデが自ら罪を犯さないように、一人の女性を用いて働きかけられます。そこで立ち止まることができたことは、ダビデにとって幸いなことでした。


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