ヘブライ人への手紙 2:10-18
先週お読みしたところでは、詩編8編が引用されていました。もともとは人間について、これを神が顧みたもうことの驚きをうたったものですが、ヘブライ人への手紙は、これをメシアにおいて実現する預言の言葉として読んでいます。そして、「すべてのものを、その足の下に従わせられました」(8節)という言葉を、1:13に引用されている詩編110:1と同様、キリストの全き支配を指し示している言葉として受け止めているのです。彼らはキリストの支配する世界、そこに目を向けて生きなくてはならないのです。そうでなければ押し流されてしまうのです。
しかし、キリストの支配を彼らはまだ見ていないことも事実です。それゆえに、これを書いている著者も、読んでいるキリスト者も、皆、苦しんでいるのです。そこでこの著者は、いまだ実現していないことではなく、既に見ていることを指し示すのです。それはキリストの十字架と復活、そして昇天です。キリストは既に、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のです。
ここで著者は、キリストが栄光と栄誉の冠を授けられる前に、十字架の苦しみを受けなくてはならなかったことをあえて語っています。その苦しみとは何のためであったのでしょうか。9節には、「神の恵みによって、すべての人のために死んでくださった」のだと書かれています。今日は、キリストが苦しみを受け、すべての人のために死んでくださったことについて考えてみましょう。
「すべての人のために」とはどういう意味でしょうか。私たちがまず考えるのは、「すべての人に代わって」という意味においてでしょう。私たちの罪を代わりに背負い、裁きを受けてくださった。その意味で確かに、キリストは「すべての人のために」、すなわち私たちのために、死んでくださったのです。
しかし、今日の箇所における強調点は、そこにではなく別なところにあるようです。10節以下で、「すべての人のために」について、さらに言葉を加えて次のように語っているのです。「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方にふさわしい事であったからです」(11節)。要するに、イエス様は完全な者とされるために、苦しみを受けられたのだ、と言うのです。
「完全な者とされるため」と聞きますと、イエス様はそれまで不完全だったのか、という疑問が当然湧いてきます。イエス様は罪のないという意味においては完全であったのであって(4:15)、罪が除かれて完全になるという意味ではあり得ません。ではどのような意味で、苦難を通して完全にされなくてはならなかったのでしょうか。そこで私たちは、イエス様が「彼らの救いの創始者を」と語られていることに注目したいと思うのです。イエス様は罪なき完全な御方なるためではなく、「救いの創始者」として「完全な者」、言い換えるならば「相応しい者」とされなくてはならなかったのです。
ここにある「創始者」と訳されている言葉は、いろいろに訳し得る言葉です。これは隊列の先頭にいる導き手をも意味する言葉です。つまり「救いの創始者」で間違いないのですが、それだけでなく、むしろ、その後に私たちを引っ張っていく先導者という意味合いの方が重要なのです。「多くの子らを栄光へと導くために」と書かれているとおりです。
つまりキリストは、御自分が「栄光と栄誉の冠を授けられ」、栄光にあずかっただけでなく、私たちもまたその後に続き、栄光にあずかることができるように道を開いて下さった「救いの創始者」であると同時に、そこに導いてくださる先導者なのです。
先導者として務めを果たすためには、先導者と先導される者との関係が重要になります。先導の仕方にもいろいろあるからです。父なる神は、キリストを完全な先導者とするために、御子を私たちと全く同じ人間とされたのでした。キリストはその神の計画を受け取られ、まず私たちの兄弟となられたのです。主は私たちを兄弟と呼ぶことを恥となさらなかった。そのことが詩編22:23の引用を用いて語られています。
主が私たちの兄弟となるということについては、さらに次のように語られています。「子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。」それは罪と死と悪魔の支配するこの世界のただ中に飛び込んでくることを意味したのです。それは悪魔の支配のもとに苦しんでいる私たちと苦しみを共有し、死をも共有することを意味しました。
それは先導者として完全であるために、どうしても必要なもう一つのことと関係しています。先導者なるためには、ただ民の一人となるだけでは十分ではないのです。民を導き出すためには、束縛を打ち砕き、自由にしなくてはならないのです。先導者は解放者でもなくてはならないのです。出エジプトの出来事を考えてみてください。モーセはエジプトのファラオの子として育てられた王子でありましたが、彼が主によって遣わされた時、彼はファラオの子ではなく、ヘブライ人の一人として遣わされました。先導者であるために、彼はあくまでもヘブライ人の一人である必要がありました。しかし、それだけでは導き出すことはできません。彼はファラオと闘わなくてはなりませんでした。ファラオの支配を打ち破り、民を解放する必要があったのです。
イエス様も同じことをしてくださったのです。イエス様が肉と血を備えられ、人間の一人となって苦難をも死をも共有してくださった。それは、「それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」(14節)と書かれています。キリストは、人間として自ら死の中に降りました。そして、死を打ち破って復活したのです。悪魔はキリストの復活を留めることはできなかったのです。滅ぼすことはできなかったのです。
しかも、ここで大事なことは、キリストが人間の一人として、人間の代表として、死の力、悪魔の力に打ち勝ってくださったということです。死を打ち破った最初の人となってくださったのです。私たちは、死によって人間を滅ぼそうとする悪魔の業が人間の代表によって打ち破られたことを知ったのです。だから、もはや悪魔は人間を恐怖をもって支配することはできないのです。死の恐れをもってさえ縛ることはできないのですから。そのようにキリストは私たちを悪魔の支配から解放し、先立つ御方として命に向かって先導してくださるのです。
そしてさらに、イエス様が私たちと同じ人間となり、苦しみと死を共有してくださったのは、神の御前において憐れみ深い大祭司となるためでありました。この点については、後に詳細に展開されることになりますが、ここでは簡略に次のように記されています。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(17‐18節)。
私たちを全き救いへと導く創始者・先導者キリストは、ただ私たちをサタンの支配から解放し、道を開いて先立って進んで行かれるだけではありません。導かれて進む荒れ野の旅において、真に憐れみ深く私たちに伴ってくださり、私たちを助けてくださる御方です。なぜならキリストは私たちと同じように試練を受けて苦しまれた御方だからです。だから私たちが受ける試練をご存じなのです。そして、試練は誘惑でもありますから、私たちがその試練の中でしばしば罪に陥ってしまう。そのこともご存じなのです。そのような御方が、自ら私たちのための罪の償いのいけにえとなり、そのいけにえを献げてくださった大祭司として、その犠牲に基づいて常に執り成してくださるのです。
だから私たちは希望を持ち続けるのです。生ける神から離れず、互いに励まし合いながら、聞いてきた福音の言葉にしっかりと錨を降ろして生き続けるのです。
2023年5月31日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 2:10~18
2023年5月28日日曜日
「求めつづけなさい」 ペンテコステ礼拝
ルカによる福音書 11:5-13
聖霊の満たしを
今年も聖霊降臨祭(ペンテコステ)を迎えました。毎年祝うこの日は今から約二千年前の教会の誕生、そして教会の宣教の開始を記念した祝祭です。教会がどのように誕生したのか、そして宣教の歴史がどのようにスタートしたのかは、使徒言行録2章に記されています。今日の第二朗読でお読みしました。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:1‐4)。
そこには大変不思議なことが書かれていました。明らかに私たちの日常の経験とはかけ離れています。しかし、毎年、聖霊降臨祭にはこの箇所が読まれます。そこには私たちが毎年思い起こさなくてはならない大切なことが示されているからです。それは教会が神の霊の働きによって始まったということです。教会の宣教は聖霊のお働きなのです。教会が今日に至るまで、しかもエルサレムから遠く離れた日本にまで存在しているのは、聖霊のお働きなのです。ただ人間の知恵と力によるのではないのです。ただ人間の営みによるのではないのです。神は今この時代においても生きて働いておられます。聖霊は今もなお変わることなく働いておられるのです。
教会はあの時弟子たちが聖霊に満たされたところから始まりました。ならば大切なことは、あの時弟子たちが聖霊に満たされたように、私たち自身もまた聖霊に満たされることなのでしょう。聖霊に満たされるために必要なことは、ただ求めることです。今日の福音書朗読の中で、イエス様がこう言っておられました。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(13節)。
必要なことは求めることです。私たちの信仰生活においても、往々にして欠けているのは努力ではないのです。頑張りでもないのです。求めることなのです。ですから、イエス様はもっと頑張れと言われるのではなく、求めるようにと言われるのです。主は言われました。「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(9節)。今年の聖霊降臨祭においては、このイエス様の励ましの言葉をしっかり受け止めて、ここから新たに求め始める者となりたいと思います。
求めなさい
イエス様は「求めなさい」と言われました。しかし、これは一回求めてそれで終わり、という意味合いではありません。イエス様が用いているのは継続を意味する表現です。「求めていなさい」あるいは「求め続けなさい」という意味です。それはその直前のたとえ話からも分かります。真夜中に友人の家に行きパン三つを求め続けた人の話をイエス様はなさったのです。その他のところでも、イエス様は失望しないで祈り続けることの大切さを教えています(18:1)。
どうして、イエス様はこのようなたとえ話をされたのでしょう。それは求め続けるということが現実には難しいからです。もしそれが容易なことならば、イエス様がそんなことを言わなくても人は求めるでしょうし、求め続けるのです。ここにいる私たちも、あえて「ここから新たに求め始めましょう」などと言わなくても、求め続けているはずなのです。
しかし、現実にはそういきません。真剣に祈り求めたならば、恐らく誰でも経験することになるのです。祈り求め続けるということを妨げるような出来事はいくらでも起こるということを。様々な試練の中で信仰が揺さぶられます。信仰が試されます。このたとえ話のように「起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません」と言われているかのように、神から拒絶されているかのように思えるようなことは実際に起こるのです。
求めて失望するよりは求めない方がよい。期待して落胆するよりは、初めから期待しない方がよい。そのような思いは、神との間にも入り込んでまいります。そして、いつの間にか、人間には多くを求めるけれど、神に求めることはない、もはや神に何も期待することもない――、そんな姿になってしまっているかもしれません。
しかし、だからこそ、イエス様はわざわざこの話をなさって「求め続けなさい」と言われたのです。そして、人間の経験には失望や落胆がいくらでもあることを重々承知に上で、なおもこう言われたのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる」と。そう言って求め続けるよう、励ましていてくださるのです。
探しなさい。門をたたきなさい
それゆえにまた、イエス様は「求めなさい」と言われただけでなく、さらにこう続けられたのです。「探しなさい。そうすれば、見つかる」と。「探す」という言葉は、「尋ね求める」とも訳せる言葉です。誰を尋ね求めるのでしょう。――神様御自身です。かつて預言者エレミヤは言いました。「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」(エレミヤ29:12‐14)。
求めにおいて失望落胆する時、拒絶を感じる時、神がどのような御方であるか見えなくなってくるのでしょう。その意味において、神に求め続けることは大事ですが、神を尋ね求め続けることはもっと大事なことなのです。
イエス様はその御方を「天の父」と呼ばれました。そして、「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」と言われたのです。
子供たちを愛して、求める以上に良きものを与えようとしていてくださる天の父、その天の父を探すのです。尋ね求めるのです。そうするならば「見いだす」とかつてエレミヤを通して語られ、そして、父を本当の意味で知る独り子もまた「探しなさい。そうすれば、見つかる」と言われたのです。
そして、さらにイエス様は「門をたたく者には開かれる」と言われました。良きものを与えてくださる天の父が開いてくださるのです。閉ざされた扉を開いてくださる。押してみようが引いてみようが、自分の力ではどうしたって開くことのできなかった扉、こじ開けようとしても開くことのなかった扉が、向こう側から開かれるのです。イエス様は言われるのです。こちらのすべきことはたたくこと。たたき続けること。扉をこじ開けることができなくても、たたくことならだれでもできます。
そのように、だれでもできることを信じて続けたらよいのです。尋ね求めて、見いだすべき御方を見いだしたなら、それができるのでしょう。良きものを与えてくださる天の父を見いだしたなら、諦めないで、「こんなことして何になる」などと言わないで、安心して続けたらよいのです。門をたたき続けるような小さなことであっても、できることをこつこつと続けることです。
一つになって
そのように、イエス様は「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と言われました。そして、弟子たちに何よりも求め続けて欲しかったのは聖霊に満たされることだったのでしょう。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と主は言われたのです。
だから弟子たちは求め続けたのです。さらに言うならば、彼らは一つとなって求め続けたのでした。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると…」(使徒言行録2:1)と書かれていたとおりです。そして、「すると、一同は聖霊に満たされ」と書かれているのです。
かつて「誰が一番偉いのか」と競い合い、争い合っていた弟子たちでした。しかし、そのような彼らが今や一つになって、集まっていたのです。それはある意味では当然のことでしょう。人間の姿にしか目がいかなければ、人間が行うことにしか目が向かなければ、互いの違いばかりが気になります。互いを比較し、あるいは互いを批判しあい、互いを斥け合うことも起こります。しかし、共に聖霊を求めるならば、共に神のなさることを求めるならば、そこで初めて一同は一つになるのでしょう。
そのようにして、弟子たちが共に聖霊を求め、聖霊に満たされることによって教会は始まりました。その教会が、試練と迫害の中にあっても常に「良きものを与えてくださる天の父」を常に見いだし、門をたたきつづけ、そして、とうてい開かれ得ないだろうと思われた扉が次々に開かれていった。それが使徒言行録の伝える教会の歩みです。そして、その教会の歴史の中に、ここにいる私たちもまた集められているのです。
私たちも共に、この時代に生きて働いておられる神の御業に思いを向けましょう。今も生きて働いておられる神の霊に満たされることを共に求めましょう。求め続けましょう。主は言われました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。この言葉をしっかりと受け止めて、ここから新たに求め始める者となりたいと思います。
2023年5月24日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 2:1~9
ヘブライ人への手紙 2:1‐9
「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」(1節)。
押し流されてしまう、ということが語られているのは、押し流される可能性があるからです。そのような状況があるのです。それは先々週お話しましたとおり、迫り来る迫害です。より広い言い方するならば、信仰生活を破壊し、神から引き離そうとする様々な困難です。そのような意味では、私たちにも襲い来るかもしれないものです。
そのような様々な困難に押し流されてしまわないために必要なのは、「聞いたことにいっそう注意を払う」ということです。「聞いたこと」と言うのですから、既に語られていることがあるわけです。1章1節以下には「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」と書かれていました。イエス・キリストを通して、神は最終的に、決定的な語りかけをなされたのです。
御子は神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れです。その御方が私たちの罪を贖い、神の右に座して私たちのために執り成していてくださる。私たちと神との間におられる唯一の仲保者です。その御方によって語られた言葉こそ、私たちを救う言葉、私たちに与えられた福音です。
この救いの言葉は具体的な教会の宣教によって伝えられます。「この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます」(3‐4節)。そのようにして、このヘブライ人への手紙の読者にも伝えられたのであり、二千年後の私たちにも伝えられたのです。
私たちは、この伝えられた福音の言葉に「注意を払わねばならない」のです。ある学者が大変興味深い説明をしていました。この「注意を払う」と訳されている言葉は、航海に関する用語として用いられた場合、「船の錨を降ろす」という意味になるそうです。そして、「押し流される」と訳されている言葉は、「漂流する」ことを意味するとのこと。ならば、ここで著者が言わんとしていることのイメージを生き生きと捉えることができます。逆風はやってきます。嵐はやってきます。その時に、しっかりと伝えられた福音の言葉に錨を降ろしていなければ、簡単に流されてしまって漂流し、破船してしまうのだ、ということです。
では福音の言葉に錨を降ろすとはどういうことでしょう。これはむしろ逆に、「錨を降ろさないで流される」ということがどういうことかを考えた方が良いかもしれません。今日の箇所では、こう書かれています。「もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば、ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう」(2‐3節)。
「天使たちを通して語られた言葉」というのはモーセの律法のことです。律法はシナイ山においてモーセに与えられたのですが、その時に天使が仲介したと考えられていたのです。確かに、そのように与えられた律法は神の言葉ではありましたが、最終的な言葉ではありませんでした。最終的な言葉、救いに関わる言葉は、天使たちにまさる御方、イエス・キリストによって与えられたのです。このイエス・キリストによってもたらされた大いなる救いにむとんちゃくであること、それが「錨を降ろさない」ということなのです。そうすると漂流してしまうのです。
私たちは、キリストによって啓示された大いなる救いにむとんちゃくであってはならないのです。「いいえ、決してむとんちゃくではありません」と私たちは言うかもしれません。しかし、その場合、「救い」が何を意味するかが重要なのです。教会の宣教を通して与えられる救いが、単にこの世における苦しみを逃れることでしかないならば、迫害を耐え忍んででも、ある場合には命をかけてでも信仰を守るということは意味をなさないでしょう。ただこの世におけることだけを考え、この世的な救いに錨を降ろしているだけならば、確かにこの世的な苦難をもたらす嵐が来たら、簡単に吹き流されて漂流してしまうかもしれません。
私たちは、キリストを通して神が語ってくださった大いなる救いにしっかりと錨を降ろさなくてはならないのです。そのためには、「来るべき世」に目を向けねばならないのです。来るべき世、それはキリストの治める世界です。そのことが6節以下に詩編8編の引用をもって語られています。
ここでの引用はギリシア語訳聖書からなされているので、私たちが持っている詩編8編の言葉とは若干異なります。そして、もともと詩編8編は、人間について、これを神が顧みてくださることに驚きを覚え、その恵みを讃美している詩編です。しかし、ヘブライ人への手紙は、これを人間すべてが共有すべき讃美の言葉であると同時に、人間となられた御子、まさに人間の代表となられたキリストによって成就すべき預言の言葉として読んでいるのです。
そこで重要なのは、8節の「すべてのものを、その足の下に従わせられました」という言葉です。これは1:13で引用された、詩編110編の言葉と同じように、キリストの全き支配を示しているものとして引用されているのです。
しかし、彼はこのキリストの支配を語る言葉を引用した直後にすぐさま語るのです。「『すべてのものを彼に従わせられた』と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。」そうです、だからこそ迫害もあるのでしょう。多くの人が罪の支配のもとに苦しんでいるのでしょう。この世の有り様を見るならば、いったいどこにキリストの支配があるのか、と問わざるを得ない。それは今の私たちにおいても同じであろうと思います。
それゆえに、この著者は、まだ見ていないものではなく、既に見たものに心を向けさせるのです。「ただ、『天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです」。「死の苦しみのゆえに」とはキリストの十字架を指しています。9節の終わりに「すべての人のために死んでくださったのです」とも書かれています。
そして、「栄光と栄誉の冠を授けられた」とは、キリストの復活と昇天を指しています。まだ私たちは万物がキリストに従っているようなキリスト支配の世界を見てはいません。完全な救いの世界を見てはいません。しかし、信仰によって既に見せられていることがあるのです。キリストは既に栄光の中にあるのです。
キリストにおいて既に起こったことは、最終的にキリストにおいて実現することへの希望を与えるものです。私たちは、この悪しき力の支配する暗闇の世界が最終的な姿であると思ってはならないのです。既にキリストは復活されたからです。
そして、さらに言うならば、この手紙の著者は、あえてキリストが「栄光と栄誉の冠を授けられた」こと、すなわち復活と昇天が、「死の苦しみ」、すなわち十字架の先にあったことを語るのです。それは私たちにとっても今の世における苦しみが最終的に与えられているものではないことを示しているのです。その苦しみの先にあるキリストの支配する「来るべき世」、そして、そこにおける全き救いがあることを指し示しているのです。私たちはその大いなる救いを告げる福音の言葉に、しっかりと錨を降ろしていなくてはならないのです。
2023年5月21日日曜日
「備えて待ち望む」
使徒言行録 1:12‐26
エルサレムに留まって
本日の第2朗読では、使徒言行録1章12節以下をお読みしましたが、その冒頭には次のように書かれていました。「使徒たちは、『オリーブ畑』と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た」。イエス様が十字架にかけられ、そして復活してから40日後のことです。今日お読みした箇所の直前には、その日にイエス様が天に昇られたことが記されています。イエス様が昇天されて後、弟子たちはエルサレムに戻っていきました。そして、彼らはエルサレムに留まろうとしていたのです。
これはある意味で不思議なことです。彼らの大部分はガリラヤ出身ですから、エルサレムに生活基盤があるわけではありません。もともとエルサレムに留まらなくてはならない理由はなかったのです。しかも、エルサレムは、弟子たちにとって、決して居心地の良い場所ではなかったはずです。そこにはイエスに敵対していた人々が大勢いたのですから。イエスを憎んでいた人々は彼らをも憎んでいます。弟子たちにとって、そこは極めて危険な場所でした。そのエルサレムに彼らは留まったのです。
なぜでしょう。理由は単純です。イエス様がエルサレムに留まれと言われたからです。「エルサレムから離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(4節)。しかし、彼らはしぶしぶ従ったのではありません。ルカによる福音書によりますと、なんと彼らは「大喜びでエルサレムに帰った」(ルカ24:52)と言うのです。なぜでしょうか。彼らには希望があったからです。待ち望むべき未来があったからです。
もう一度、イエス様の言われた言葉をお読みします。「エルサレムから離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(4節)。父の約束とは、聖霊が与えられるという約束です。父なる神が約束してくださったのです。彼らはやがて神の霊に満たされることになるのです。言い換えるならば、神様御自身が、彼らを通して力強く働き始められるということです。神様が行動を開始されるのです。
自分自身だけを見つめているならば、そこに一縷の望みもありません。現実は極めて厳しいことは、百も承知でした。しかし、彼らは喜んでいたのです。彼らは喜んで困難の中に留まったのです。なぜなら、どんなに貧相な器でありましても、神が用いられるならば話は違ってくるからです。たとえ自分自身には期待できなくても、神に期待して待ち望むことができる人は現実に負けません。自分の弱さという現実にも負けません。私たちが弱かったとしても神は弱くはないからです。私たちは、最初の弟子たちの姿を通して、神に期待し、神を待ち望むことを学ばなくてはなりません。
彼らは熱心に祈った
さて、彼らは、期待して待ち望むゆえに、具体的にはどうしたのでしょうか。13節をご覧ください。「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。」何のために上がったのでしょうか。祈るためでした。14節にはこう書かれています。「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」
彼らは祈りました。熱心に祈りました。イエス様は「待ちなさい」と言われたのです。しかし、期待して待つことの具体的な形は「祈り」です。神に期待する人は祈ります。神に期待しない人は祈りません。
そこにおいて心を合わせて祈っていた人々のリストが簡単に記されています。まず、イスカリオテのユダを除く十一人の使徒の名前が記されています。改めてここを読みますときに、その多様性に驚かされます。熱心党のシモンがそこにいます。熱心党とは、ユダヤ民族主義者の戦闘的集団です。一方、マタイはもと徴税人です。祖国を売り、ローマの手先となって同胞を苦しめていた、いわば売国奴です。普通に考えるならば、どうしたって一つになれない人々です。しかも、彼らを弟子として招いたイエス様は、もう目に見える姿では共におられないのです。
にもかかわらず、そのような人々が「心を合わせて」祈っていたのです。これは驚くべきことです。しかし、当然起こるべくして起こったこととも言えます。ただ神様への期待と待望のみがあるならば、その集まりには一致があるはずだからです。
また、そこに婦人たちについて言及されていることも注目に値します。婦人たちが弟子の群れに加わったことは、ルカによる福音書にも記されていました(ルカ8:2‐3)。しかし、当時の社会的状況において、これは決して当たり前のことではなかったのです。女性の社会的地位は今日と比べものにならないほどに低かったからです。それはユダヤ人の宗教的なコミュニティ一般においても同じでした。例えば、当時の敬虔なファリサイ派の男性が生涯を通して捧げる感謝の祈りの一つは、「天の父よ、わたしは女に生まれなかったことを感謝します」という祈りでした。それが、当時の女性を取り巻く宗教的な環境だったのです。
ですから、ここで婦人たちが使徒たちと同じように、聖霊の満たしを求め、神の霊の働きを期待して祈り求めているということは、それ自体がとても重要なことを語っているのです。そこにおいて世の人がどう評価するか、どう判断するかは、大して重要ではないということです。ファリサイ派の人がなんと言おうと、女性であっても神の霊に満たされて、神の器として神の働きのために用いられる時代が来たのです。
同じ事は、女性についてだけでなく、他の人々についても言えるでしょう。お年寄りについても言えるでしょう。障碍を持っておられる方についても言えるでしょう。病弱な人についても、過去に傷を持つ人についても言えるでしょう。世間の人がどう見るかは大して重要なことではありません。神はどのような人をも聖霊に満たして用いることがおできになるのです。いやむしろ、神の力は弱いところにこそ現れるのです。だから、どのような人であっても、神の霊に満たされて、神に用いられる器となるおとを祈り求めるべきなのです。
彼らは具体的に備えをした
さて、彼らが共に集まり祈り始めて数日が経った頃、既にそこには百二十人ほどが集まるようになっていました(15節)。そこでペトロが皆に一つの提案をしました。それはユダの代わりとなる使徒を選出しようということでした。
本日お読みしたところによりますと、ユダはイエスを売り渡した報酬で土地を買い、その地面にまっさかさまに落ちて、死んでしまったとのことです。今日は、ユダについてこれ以上触れることはいたしません。ここで注目したいのはペトロの提案の内容です。イエス様が選ばれた十二人の弟子のうち、欠けた一人を補充しようということです。これは明らかに将来に対する備えです。ペトロはイエス様のお働きが自分たちを通して継続されることを見ているのです。
やがて広くキリストが宣べ伝えられていくことになる。多くの人々が仲間に加えられることになるだろう。ペトロは、そのような事態を既に見越しているのです。その時のために、具体的な準備をしているのです。
福音が宣べ伝えられ多くの新しい人々が加えられていくとき、いったい何が重要になってくるでしょう。イエス様についての伝承(言い伝え)が正しく伝えられることです。だから十二人目はそれに相応しい人が選ばれなくてはならないのです。それゆえに、ペトロは次のように提案したのでした。「そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです」(21‐22節)。
彼らが、宣教の働きの進展を思い描き、具体的に準備をしたということは、それ自体驚くべきことです。というのも、そこに集まっていたのはせいぜい百二十人に過ぎないからです。百二十人という人数は多いように思えるかもしれませんが、せいぜいこの会堂がいっぱいになった程度の人数です。一方、彼らの前に立ちはだかっているのはユダヤ人社会を統括する、強力な宗教的支配体制です。パレスチナだけでも四百万人ほどいたであろうユダヤ人を支配する彼らにとって、百二十人の凡人が集まっていることなど、ものの数ではなかったに違いありません。常識的に考えるならば、将来的な展望などは、まったく持ち得ない状況だったのです。
にもかかわらず、彼らは具体的な準備を始めたのです。自分たちの力にではなく、神のみに期待していたからです。だから、神を待ち望み、祈り続けた時に、具体的な導きを得たのです。逆説的ではありますが、事を為すのは人間ではなく、神様御自身であることを知った時、本当に人間として為すべきことが見えてくるのです。その意味において、祈りは、神への期待に基づく具体的な行動――今為すべき具体的な行為――へと導くのです。それが、彼らの場合には使徒の補充ということだったのです。
イエス様は弟子たちに、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」と言われました。今日の箇所に記されていたように、神に期待して待つということは、何もせずにボーッとしていることではありません。具体的に「祈る」ということであり、また祈りによって今為すべき具体的な行動へと導かれることなのです。
2023年5月14日日曜日
「神の協力者として遣わされた人」
テサロニケの信徒への手紙 3:1‐10
神の協力者として
今日はテサロニケの信徒への手紙一を共にお読みしました。この手紙が宛てられているテサロニケの教会は、パウロの伝道によって誕生した教会です。テサロニケの教会が生まれた次第は、使徒言行録17章に記されています。しかし、結論から言いますと、パウロは信仰を持って間もないテサロニケの人々を残して、テサロニケの町を後にしなくてはなりませんでした。パウロに反対するユダヤ人たちの扇動によって、暴動と混乱が起こったからです。
今日は3章からお読みしましたが、今日の箇所の直前には、後に残されたテサロニケの教会への思いが切々と記されています。「兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、――顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが――なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました」(2:17)。この「引き離される」と訳されている言葉は、元々の意味は「孤児とされる」という言葉です。生まれたばかりのテサロニケの教会は、パウロたちを失って、まさに孤児となったような状態にあることを、パウロもまたよく分かっていたのです。
それゆえに、実際、パウロは一度ならず、テサロニケを訪ねようとしたのでした(2:18節)。しかし、それは実現しませんでした。パウロは「サタンによって妨げられました」と言います。詳しい事情は分かりません。しかし、テサロニケの教会をそのままにはできません。「そこで、もはや我慢できず・・・・」と今日の箇所に続きます。パウロは自分の代わりにテモテを遣わすという決断をするのです。
テモテは第2回目の伝道旅行の途中からパウロに同行するようになった若者です。パウロがテモテをどれほど信頼していたかは、他の手紙を読んでもよく分かります。そのテモテをテサロニケに送ったということは、パウロがこの派遣をいかに重く見ていたか、ということをも意味します。テサロニケの教会には、どうしてもテモテを遣わすことが必要だったのです。
もちろん教会は、ただ人間の働きによって保たれるのではありません。先ほど、「テサロニケの教会は、パウロの伝道によって誕生した教会です」と言いましたが、厳密に言えば、それは正しくありません。テサロニケの教会を誕生させたのは神なのです。ですから、テサロニケの教会が困難の中でも生き続けるとするならば、それは神によるのです。テサロニケの信徒たちの内に善き業を始められたのは神なのです。ならば成し遂げてくださるのも神なのです(フィリピ1:6)。
しかし、パウロは神が自分たちとは関係なく単独で何かを「成し遂げてくださる」とは思っていないのです。ですから、あえてテモテという《人間》を遣わすのです。神は人間を用いて御業を進められ、完成することを信じているからです。それはパウロがテモテについて語っている言葉からも分かります。彼はこう言うのです。「わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました」(2節)。
パウロはテモテを「神の協力者」と呼びます。「協力者」と訳されているのは「共に働く者」という意味合いの言葉です。細かい話をしますと、ここで共に働くのは誰と誰なのかということで理解が二通りに分かれます。一つの理解は、「神のために共に働く者」という理解です。その場合、共に働くのはパウロとテモテです。それはそれとして、とても大事なことを教えていると言えます。実際に行くのはテモテです。しかし、あくまでもパウロや他の兄弟たちと「共に働く者」として行くのです。教会はスタンドプレーを必要とはしません。チームプレーが重要なのです。それが神のために仕えるというあり方なのです。
しかし、もう一つの理解があります。「神と共に働く者」という理解です。新共同訳の「神の協力者」という訳はそのように理解から来ています。もちろん神と人とは対等な意味での協力者ではあり得ません。しかし、神はあえて自ら直接事をなさらずに、人間を用いて事をなされるのです。人間を通して、人間と人間との関わりにおいて、事をなされるのです。その意味で、人間は「神の協力者」となり得るのです。
互いに励まし合うために
では、パウロは神の協力者としてのテモテを遣わして、いったいテサロニケの教会に何をもたらそうとしているのでしょうか。こう書かれています。「それは、あなたがたを励まして、信仰を強め、このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした」(2‐3節)。
信仰者が信仰をもって生きるためには励ましが必要です。特に苦難の中に置かれているならばなおさらです。もちろん信仰を強めることができるのは、人間ではなく神です。必要とされているのは神の霊による働きであり、神からの励ましなのです。しかし、神の霊による、神からの励ましが与えられるためには、実際にテモテが旅をして、その体を彼らのもとに運んで、その体をもって彼らに会うことによって為されなければならないのです。神の励ましは、人間の言葉を通して、人間の行いを通して、与えられるのです。
そのように信仰が他の信仰者を通して、他の信仰者との交わりにおいて強められなくてはならないのは、もう一方において、「誘惑する者」(3:5)がいるからです。これは明らかに人間のことではありません。サタンのことです。サタンが惑わすのだと言うのです。その惑わしは、具体的には苦難と共にやってきます。「このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした」(3節)と書かれていましたでしょう。それは、動揺して信仰から離れてしまうことがあり得るからそう書かれているのです。それこそがサタンの「惑わし」なのです。
この「惑わす」という言葉は「試みる」という言葉です。元の言葉はそれ自体、必ずしも悪い意味に使われるわけではありません。これは良い意味で「試練を与える」ことをも意味します(ヘブライ11:17)。しかし、苦難はまず惑わしとして働くことをパウロは知っているのです。サタンによって神から引き離す力として働くことを知っているのです。なぜなら、パウロ自身、幾多の苦難を経てきたからです。だから励ましが必要なのです。信仰は強められなくてはならないのです。苦難に遭っても動揺しないためです。
そこで重要なのは、苦難についての正しい認識が与えられることです。パウロはこう言いました。「わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。あなたがたのもとにいたとき、わたしたちがやがて苦難に遭うことを、何度も予告しましたが、あなたがたも知っているように、事実そのとおりになりました」(3‐4節)。
「定められている」とは、そこに神の御心があることを意味します。神の意図があるのです。しかも、キリスト者に対して、教会に対して定めているならば、それは明らかに滅ぼすためではありません。苦難は神の呪いではないのです。なぜなら、呪いは既にキリストが受けてくださり、呪われたものとして木にかけられてくださったからです(ガラテヤ3:13)。ならばそこに残されているのは、父なる神の善意だけなのです。
後にペトロもまた、試練の中にある教会に対して、次のように書き送りました。「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(1ペトロ3:5‐7)。また、こうも言っています。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」(同3:12‐13)。
このペトロの言葉においても明らかなように、この正しい理解において重要なのは、キリストの再臨に目を向けることです。終わりの日の完全な救いに目を向けるということなのです。サタンは、私たちの目を常に手前手前へと引き戻します。目の前の苦しみに私たちの目を釘付けにするのです。そうやって動揺させ、神から引き離そうとするのです。私たちは、サタンに惑わされないために、信仰を強められねばなりません。
さて、そのようにパウロはテサロニケの信徒たちを励まし、その信仰を強めるためにテモテを遣わしたわけですが、今日の聖書箇所の直後には、そのテモテが持ち帰った知らせによって、パウロたちもまた励まされたことが書かれています。いや、それだけでなく、「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きているといえるからです」(8節)とさえ言うのです。パウロやテモテという人間を用いて神がテサロニケの信徒たちを励まし強めるのと同じように、神はテサロニケの信徒たちを用いて、パウロたちを励まし、復活の命に満たし、「わたしたちは生きている」と口にさせるのです。
さて、ペンテコステが近づいてきました。私たちはこの季節、聖霊を信じる信仰を新たにせられます。聖霊は天から降り、人の内に住まわれるのです。聖霊を信じるということは、ここに見るように、神が直接事をなされるのでなく、人間を神の協力者とし、用いてくださることを信じることでもあるのです。
そして、神が人を用いられるとき、パウロとテサロニケの教会に見るように、それは一方通行ではなくて、相互に向かう関係となるのです。そして、ここに見ることができる、聖霊の与えてくださる豊かな交わりは、もちろん、ここにいる私たちにも与えられているのです。互いに信仰を励まし合い、互いに支え、強めるために、主に用いていただきましょう。
2023年5月10日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 1:1~14
ヘブライ人への手紙 1:1‐14
今日から「ヘブライ人への手紙」を読んでいきます。「ヘブライ人」というのはユダヤ人です。ここに書かれていることは、旧約聖書の知識や祭儀に関する知識を前提としている論述が多いので、ヘブライ人に宛てられたものと考えられたのだと思われます。しかし、実際には、そのような旧約に関する知識は異邦人キリスト者にも必要とされていたのですから、必ずしもユダヤ人キリスト者だけを考える必要はないかもしれません。
それよりも大事なことは、内容的に考えて、この手紙の読者が大きな迫害を知っているということです。彼らの指導者たちが迫害の中で死んでいったことを知っているのです。その迫害とは、恐らくは皇帝ネロの時代の迫害(紀元64年頃)であろうと思われます。そして、新たな迫害を予期している。そのような人々に宛てられて書かれているのです。
その内容はこれから少しずつ読んでいくわけですが、そのメッセージを一言で表現するならば、「大祭司イエスのゆえに神に近づこうではないか」と言い表すことができるかもしれません。どうして、「神に近づく」ということが重要になってくるのかと言えば、既に述べたように、信仰生活を続ける上での困難があるからです。その意味においては、具体的な迫害が身近ではない私たちにとっても、やはり重要なテーマが語られていると言えるでしょう。私たちが信仰を保っていくことに大きな困難を覚える時、ヘブライ人への手紙を通して、「神に近づこうではないか」という語りかけが聞こえてくるに違いありません。
そのような手紙の第一章を今日はお読みしたわけですが、ここにはかなりのスペースを割いて、「御子は天使にまさる」ということが書かれています。ここに書かれている話は、私たちにはあまり馴染みがないとも言えます。しかし、当時の教会にとっては大事なことだったのです。というのも、ユダヤ人の民間信仰には天使礼拝のようなものがずいぶん入り込んでいましたし、それが教会の中にまでもたらされることがあったからです。コロサイの信徒への手紙にも、「偽りの謙遜と天使礼拝にふける者」(コロサイ2:18)が出てきます。
どうして「天使礼拝」というものが入り込んできたのでしょう。それは神の超越性が強調されたからなのです。神はあまりにも大いなる御方であり、人間は直接近づくことなど、とうていできない御方であるということです。直接近づくことができなければ、誰かに間に入って仲立ちしていただくしかありません。ですから、そこに天使が入ってくるのです。人間は直接神様を礼拝したり、語りかけたりすることができない。だから天使に語りかけて、天使を礼拝して、お伝えいただくという形になるのです。
確かに神様に直接近づくことができないというのは正しいと言えるでしょう。神に自由にいつでも近づくことができると考える偶像礼拝よりはよほど健全な感覚であるとも言えます。しかし、それでもなお天使が仲立ちとなって神と人間との間が完結してしまうことには大きな問題があるのです。そもそも、人間が神に近づき得ないのは、ただ神の超越性のゆえではないからです。神が単に近づき得ないほどに畏れ多く偉大であるからではないのです。そこには罪の問題もあるのです。罪ある人間がどうして神に近づくことができるのか、という問題があるのです。それはなぜ御子が来られなくてはならなかったのか、なぜ天使ではなくて御子が仲立ちとならなくてはならないのか、ということと関わっているのです。
そこでヘブライ人への手紙の著者は、まず御子がどのような御方であるのか、ということから語り始めます。第一に語られているのは、神は御子によって語られたということです。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(1-2節)。
聖書が私たちに示している神の姿は、語り給う神の姿です。人間が神に近づいて語りかける以前に、神御自身が「語り給う神」であるのです。神の側から自らを現されたのです。預言者を通して語られる神。旧約聖書を読みます時に、それはまさに罪ある人間に語り給う神であることが分かります。神は預言者を通して罪人に自ら近づいて、それこそ多くのかたちで、多くのしかたで忍耐強く語られたのです。
しかし、神の語りかけはそれで完結することはありませんでした。それはあくまでも暫定的、断片的な語りかけだったのです。神は最終的に御子を通して語られたのです。単に預言者の言葉によってではなく、一人の人格を通して御自身を現されたのです。神様の完全な啓示が到来したのです。「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」(3節)でありました。
なぜイエス様の言葉や教えだけが伝えられたのではなく、イエス様の物語が伝えられてきたのですか。それはイエス様の御人格、その御生涯そのものが、神の言葉の受肉そのものだからなのです。それをヨハネは「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)と表現しました。神がどのような御方であるかを知りたければ、イエスという御方を見なさい、ということです。イエス様を神の完全な啓示として受け入れ、この御子を通して父なる神を知る人をキリスト者と言うのです。
この神の決定的な語りかけによって時代は画されました。古い時代、旧約の時代は終わりました。終わりの到来と共に、全く新しい時代が始まりました。既に決定的なことが起こってしまったのですから、この新しい時代は最終的な完成と安息へと向かう時代です。ただ完成と安息だけが残されているのです。天地創造物語で言うならば、7日目へ向かう途上にあるのです。「この終わりの時代には」とは、そういうことです。聖書的な表現によれば、私たちは、その終わりの時代に生きているのです。
そして、御子について、もう一つのことが語られています。御子は「人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」と語られています。
なぜ天使ではなくて、御子が仲立ちとならなくてはならないのか。それは御子こそが私たちの罪を贖い、世の罪を清められた御方だからです。そして、御子が神の右の座に着かれたということが語られています。なぜ神の右の座が出てくるかというと、それは私たちのための「執り成し」と関係しているのです。パウロがローマの信徒への手紙で「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」(ローマ8:34)と語っている通りです。このことが、後に展開される一つのテーマを指し示しているのです。すなわち「大祭司イエス」です。
神と人間との間に立つのは、天使や他のいかなる存在でもありません。仲立ちすることができるのは、私たちの罪を取り除き、私たちのために執り成すことのできる大祭司以外にあり得ないのです。また、その大祭司がおられるからこそ、私たちは全き安心をもってはばかることなく御座に近づくことができるのです。またそれゆえに、イエス様が教えてくださったように、神を「私たちの父よ」とも呼ぶこともできるのです。
2023年5月7日日曜日
「キリスト・イエスにおいて一つ」
ガラテヤの信徒への手紙 3:26‐4:7
キリスト・イエスに結ばれて
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(26節)。そのように書かれていました。
私たちは神の子どもたちです。私たちには、どんな時にも、どんなところからも、呼び求めることができる天の父がいます。私たち自身がもはや何もなし得なくなった時にも、それこそ人生の最後の日を迎えた時にも、全幅の信頼を置いて呼び求めることのできる天の父がおられます。「アッバ、父よ」という言葉が今日の聖書箇所に記されていました。「アッバ」とは子どもが家庭において父親に呼びかける言葉です。親しみと愛情を込めた呼びかけです。どんな時にも、私たちは「アッバ、父よ」と、天の父を呼び求めることができるのです。
「アッバ、父よ」とは、もともとイエス様の祈りの言葉でした。イエス様が、苦しみの極みにあったゲッセマネにおいても口にされた祈りの言葉です。まさに神の子としての祈りの言葉でした。それは、本来イエス様だけが口にすることができる呼びかけの言葉でした。 しかし、今や聖書は私たちにこう言うのです。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」と。私たちもまた、イエス様と同じように祈ることができる。「アッバ、父よ」と呼びかけて生きることができるのです。
罪のないイエス様が祈ったように、同じように、罪ある私たちが祈ることができる。生涯を通して神に従い通したイエス様と同じ言葉で、神に背いてばかりいた私たちが、それでもなお神の子どもたちとして、父を呼ぶことができる。それは本来ならば、あり得ないことです。
ですから、パウロはただ単純に、「あなたがたは皆、神の子なのです」とは言いません。「あなたがたは皆、信仰により、《キリスト・イエスに結ばれて》神の子なのです」と言うのです。「キリスト・イエスに結ばれて」というのは、「キリスト・イエスの中にあって」というのが直訳です。
私たちは、キリストの中に身を置くのです。私たちのために十字架におかかりくださったキリストを信じて、その中に身を置くのです。言い換えるならば、キリストが与えてくださった罪の赦しの恵みの中に身を置くのです。その具体的な目に見える形は洗礼です。ですから先の言葉はこのように続くのです。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(27節)と。
「キリストに結ばれて」「キリストの中にあって」という言葉が「キリストを着ている」と言い換えられました。意味は同じであることはすぐに分かります。しかし、「キリストを着ている」とは実に味わい深い言葉です。私たちはキリストの中に身を置きます。言い換えるならば、キリストを着せていただくのです。私たちは裸で神の前に立てないから、キリストを着せていただくのです。キリストを信じるとはそういうことです。
キリストを着せていただくということは、神は罪人である私たちを直接ご覧になるのではないということです。神はキリストを通して見てくださる。キリストを着ている者として、キリストによって罪を贖われた者として、私たちを見てくださるのです。だからこそ、私たちはイエス様と同じように神の子どもたちとして父を呼ぶことができるのです。罪を赦していただいた者として、私たちは、キリストを着た神の子どもたちとして父を呼び求めることができるのです。
キリスト・イエスにおいて一つ
そして、キリストを着ているということが神との関係において極めて大きな意味を持つだけでなく、これは私たちお互いの関係においても大きな意味を持つのです。先の言葉はこのように続きます。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(28節)
当時の教会にはユダヤ人がおりギリシア人がいました。この両者は異なる者たちの代表です。またそこには奴隷がおり自由な身分の者がいました。男がおり女がいたのです。異なる者が共にいるということは、時として極めて不快な状況を作り出すことがあります。異なる者が共にいてなお一つとなるということは、往々にしてとても難しいことです。それは私たちも良く知っています。
しかし、彼らは頑張って努力して違いを乗り越えて、互いに理解し合うことによって一つになるのではないのです。あるいは共通の目標を目指すことによって、あるいは強力なリーダーによって統率されることによって一つとなるのでもないのです。そうではなくて、「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだから」と語られているのです。決定的に重要なのは「キリスト・イエスにおいて」ということなのです。
「キリスト・イエスにおいて」と訳されていますが、これは先に出てきた「キリスト・イエスに結ばれて」と同じ言葉です。これまでの話から、これをさらに「キリストを着て」と言い換えてもいいでしょう。そこにはキリストを着ているユダヤ人がいるのです。キリストを着ているギリシア人がいるのです。キリストを着ている奴隷がおり、キリストを着ている自由人がおり、キリストを着ている男と女がいるのです。
そして、「キリストを着ている」ということが決定的に重要なこととなるならば、当然のことながら、その服の中にいるのがユダヤ人であるかギリシア人であるかは重要性を失うことになるのです。この世における様々な違いは重要性を失うのです。ここで言われているのはそういうことです。
そのように、ユダヤ人であろうが、ギリシア人であろうが、この世においていかなる立場の違いがあろうが、置かれている境遇の違いがあろうが、さらに言うならば物事の考え方の違いがあろうが、感性の違いがあろうが、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」と語られているのです。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と。
子であれば相続人でもあります
そして、さらに今日の箇所においては4章5節にも「神の子とする」という言葉が出てきます。4節からお読みします。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(4:4‐5)。
日本語では「神の子となさる」と訳されているのですが、実は原文では「養子とする」という言葉が用いられています。口語訳では「わたしたちに子たる身分を授けるためであった」となっています。こちらの方が直訳に近いのです。
当時のギリシア・ローマの世界では、買い取った奴隷をあえて解放して、家族の一員として迎えるというような制度があったそうです。その奴隷は、代価を払って買い取られた時点で新しい主人のものとなるのですが、その主人が「お前はわたしの息子になるのだよ」と言うならば、もはや奴隷ではなくなるわけです。そして、息子になったと同時に、その主人の財産の相続人ともなるのです。
パウロが思い描いているのはそのようなことです。これが私たちにも起こったのだ、と言うのです。それゆえに7節ではこう書かれているのです。「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」(7節)。
相続人であるということは、将来受け取るものがあるということです。まだ見ていないもの、手にしていないものが将来私たちを待っているということです。この手紙の5章5節にはこう書かれています。「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです」。
私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされました。罪人でありながら、神によって義とされました。私たちはそのままキリストを着せられて神の子とされました。ですから、その意味において、私たちは救われたと言えます。しかし、私たちが既に見ているもの、信仰生活において経験することは、まだ与えられた救いのほんの一部であり、その片鱗でしかありません。
私たちはやがて、自分が神の養子にされたということがどういうことかを、本当の意味で知ることになるでしょう。その時、私たちが神の子どもたちとして神の国の栄光を一緒に見る時、この世においてキリストを着せられていたということがどれほど大きな恵みであったかを知ることになるでしょう。そのような途轍もなく大きな恵みに共にあずかっていたのに、しばしばそのことを一緒に喜べず、互いの違いばかりに目を向け、互いを批判し合い、互いに不平を言い合い裁き合っていたことが、どれほど愚かなことであったかを、本当の意味で知ることになるでしょう。
私たちは今、御言葉によって、自分が何者であるかを今一度心に刻みたいと思うのです。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」このことを共に喜び祝うことができるところにおいてこそ、そしてこの大いなる恵みを共に伝えていくところにおいてこそ、教会は一つとなることができるのです。
2023年5月3日水曜日
祈祷会用:ユダの手紙 14~25
ユダの手紙 14‐25
今日はユダ書の後半です。問題になっているのは、教会に入り込んできた異端の教師たちであったことは先週お話ししたとおりです。ユダは特にこの手紙では教えそのものよりも、彼らの乱れた生活を問題にしています。教えそのものが広がるよりも、不道徳な行いはもっと速く広まり、影響を及ぼすからです。それゆえに、この手紙においては、ここまで言うかと思えるほどに激しい言葉が異端の教師たちに向けられているのです。
今日はその続きですが、14節ではエノクという名前が出て来ます。エノクというのは、唯一「死んだ」と書かれていない人物です。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」(創世記5:24)と記されているのです。そこから聖書における代表的な義人の一人とされ、彼にまつわる書物も書かれていました。ユダがここで引用しているのは、当時親しまれていた「エノク書」という書物です。
異端の人たちは、この世に属する体をもって何を行おうが、永遠なる霊的な救いとは無関係であると教えていました。しかし、ユダはそうではないことをエノク書を引用して語っているのです。すなわち、神を恐れぬ不信心な生き方が最終的に裁かれること、神は人がこの世で行い語ることを問題にされることを語っているのです。彼が引用しているのは聖書の言葉ではありませんが、もちろんこれは聖書もまた語っていることです。
ところで興味深いのは偽りの教師たちの行いと言葉について次のように語られていることです。「こういう者たちは、自分の運命について不平不満を鳴らし、欲望のままにふるまい、大言壮語し、利益のために人にこびへつらいます」(16節)。
「彼は不平不満を鳴らし」ています。「自分の運命について」となっていますが、具体的には自分の人生や日常について不平不満を鳴らすという意味合いなのでしょう。その一方で、彼らは「欲望のままに」ふるまっているのです。彼らにとってこの世に属する道徳律は意味がないのですから。
しかし、なんとも皮肉な話です。欲望の赴くままに生きていながら、もう一方において生活は不平や不満だらけだったということです。しかし、それは理解できることです。欲望のままに生きるなら、その欲望は決して満たされることはないのです。欲望のままに生きられることを幸いと呼ぶならば、その人は決して幸いになることはありません。
そして、もう一つ。大言壮語をしながらこびへつらっている。これもまた皮肉な話です。彼らは自らを大いなる者としながら、実際には自分の欲望の奴隷なのですから、その欲望を満たすために人に媚びへつらうことになるのです。
さて、そのような偽教師たちが教会に入り込んで来ている中で、ユダの切なる願いは彼らが共に救いにあずかることだった、と前回申しました。ですから、彼らにこのように勧めるのです。「愛する人たち、わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語った言葉を思い出しなさい。彼らはあなたがたにこう言いました。『終わりの時には、あざける者どもが現れ、不信心な欲望のままにふるまう。』この者たちは、分裂を引き起こし、この世の命のままに生き、霊を持たない者です」(17‐19)。
このユダの言葉を理解するには、偽教師たちが自らを「霊の人」と呼んでいたことを知らなくてはなりません。彼らによれば、動物も植物も人間もこの世の命(プシュケー)を持っているのです。しかし、霊(プネウマ)は特別な人しか持っていない。そのように自らを位置づけて、いまだにこの世の命の使い方ばかり考え、「この世においていかに生きるか」などということを考えている人たちをあざけっていたのです。
しかし、ユダは彼らを「霊の人」とは呼ばないのです。この世の欲望のままにふるまっている彼らこそ肉の人なのであって、この世の命しかもたず、神の霊を持たない者なのだ、と。そして、キリストを信じる人々に言うのです。「しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい」(20‐21)。あなたたちに与えられた「最も聖なる信仰」こそがよりどころだ、というのです。
これは正統的な信仰、イエス・キリストの受肉と贖罪を信じる信仰を指していることは既にお話ししたとおりです。私たちの救いは自分が特別な体験をしたかとか自分が何か特別な人間になっているとか、そのようなことによるのではないのです。すべては神によるのです。私たちは自分にではなくて、神に寄り頼むのです。私たちの神との交わりにしても、私たちの祈りにしても、それが成り立つのは聖霊によるのです。私たちが滅びから守られるとするならば、それは神の愛によるのです。私たちが永遠の命を与えられるとするならば、それはイエス・キリストの憐れみによるのです。これこそが聖なる信仰です。その信仰をより所として生活するのです。
そして、先週も触れましたが、大事なことは「共に救いにあずかる」ということなのです。ただ自分がそのような信仰に立てればそれでよいのではありません。自分の救いのことだけを考えていてはならないのです。ユダは言います。「疑いを抱いている人たちを憐れみなさい。ほかの人たちを火の中から引き出して助けなさい。また、ほかの人たちを用心しながら憐れみなさい。肉によって汚れてしまった彼らの下着さえも忌み嫌いなさい」(22‐23)。
「疑いを抱いている人たち」とは、異端の教説によって正統な信仰を揺さぶられている人たちです。中には既に火の中に入ってしまっているような状態の人もいます。そのように信仰が危うくなっている人を批判するのではなくて、憐れみなさい、助けなさいとユダは言うのです。恐らくはしっかりと信仰に立っている人たちと、ぐらついている人たちとの間に亀裂が入っていたのでしょう。そのようなことは起こり得ることです。教会には様々な信仰の状態の人がいます。すべての人が健康な状態にあるわけではありません。そのような時、ともすると私たちは他者の状態をただ批判的に見るだけに留まってしまうのです。しかし、「共に救いにあずかる」ことを考えるならば、そうあってはならないのでしょう。もし相手が不信仰に陥っていたり、不健全な状態に陥っているならば、批判しているのではなくて、どうしたら信仰を励まし、あるいは倒れないように支え、あるいは火の中から助け出せるかを考えなくてはならないのです。
もちろん異端の教説は他に影響を及ぼしますし、それ以上に不道徳な生活は他に強い影響を及ぼします。ですから、あえてユダは「用心しながら憐れみなさい」という言い方をしています。こちらが影響されないように、悪しきものに支配されないように注意しなくてはならない。
しかし、基本は「憐れみ」の心です。それを失ってはならない。「肉によって汚れてしまった彼らの下着さえも忌み嫌いなさい」という言い方はいささか「憐れみ」とは相反するように見えますが、実はそうではないのです。この文章は前の文にかかっているのです。「肉によって汚れてしまった彼らの下着さえも忌み嫌いながらも、(だからこそ用心することは必要なのだけれども)憐れみなさい」ということなのです。不道徳な生活、間違った教えなど、忌むべきものは忌むべきものとしなくてはならないのです。しかし、その本人に対する憐れみを失ってはならないのです。
とはいえ、自分自身についても、他者についても、絶望的な思いになることもあるのでしょう。ユダも、またこの手紙を受け取った教会の信徒たちも同じであったに違いありません。それゆえに、ユダは最終的に救いを実現することのできる御方に目を向けさせるのです。私たちは、共に、喜びに溢れて、完全に清められた者として、栄光に輝く神の御前に立つことができる。神はそのことを実現することができるのです。