2016年11月13日日曜日

「この親にしてこの子あり」

2016年11月13日 子ども祝福礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 5章43節~48節

(この日は説教に先立って、子どもたち一人ひとりの上に神さまの祝福を祈り求めました。)

 祝福を受けた皆さん、どこに座っていますか。もう一度手を挙げて見せてください。神様は今日皆さんをここに招いて祝福してくださいました。今日は、特に祝福を受けた皆さんにお話ししたいと思います。よく聞いていてくださいね。そして、わたしがお話しするだけでなく、神様が皆さんの心に語りかけてくださいますから、よく耳を澄ませて聞いてください。

敵を無くす方法
 さて、わたしが小学生の時、近所にW君という友だちが住んでいました。彼はいい奴なのですけど、時々ふざけて腹を殴ってきたりします。それがちょうどみぞおちに当たるととても痛いわけです。痛いから、「何するんだよ!」とこちらも殴り返します。殴り返す時は、少し力が入ってしまうものです。すると相手は、「そんなに強く殴ったかよ」と言って今度は結構強く殴り返してくる。「お前からやってきたんだろ」と言ってわたしは本気で殴り返す。こうして、やがてとっくみあいの喧嘩が始まります。そういうことが度々ありました。

 とはいえ、所詮は子どものケンカです。大したことはありません。しかし、「やられたらやり返す」ということで、世の中では殺し合いにまでなることがあります。大きくなれば戦争も起こります。テロも起こります。毎日、何人死者が出たというニュースが流れます。小さいことから大きいことまで、「やられたらやり返す」の繰り返しです。

 残念ながら、人間の世界には、このように「やられたらやり返す」が絶えません。だからいつもどこかに敵がいます。やり返したりやり返されたりする敵がいる。敵がいるって、幸せなことでしょうか。そのような敵対関係があるって、幸せなことでしょうか。そうではありませんね。では敵を無くすにはどうしたら良いでしょう。

 敵を無くす方法はあります。方法その1。敵をみんなやっつけてしまうことです。これはゲームの世界でお馴染みです。敵が出現すると、全部やっつけたら一面クリア。しかし、そのようなゲームばかりやっていると、いつの間にか、「敵がいるならやっつけたら解決するんだ」って思ってしまうようになります。

 実際、この世の中の多くの大人たちはそう思っています。相手をやっつけて、「もう降参です」って相手が言えば解決すると思っているものです。しかし、本当に解決するのでしょうか。いいえ、そこに憎しみは残ります。そして、憎しみは必ず違った形で現れてきます。違った形で敵対関係が残ります。

 どうしたらよいのでしょう。イエス様は、普通では思いつかないような、もう一つの方法を教えてくださいました。先ほど読んだ聖書の箇所に書いてありました。「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。そうイエス様は言っていました。

 敵を無くすもう一つの方法は、敵を友に変えてしまうことです。仲間に変えてしまうことです。敵を友に変える方法は?愛することです。最初に話したことで言うならば、相手が殴ってきた。そこで、やられたらやり返すのではなく、相手を殴ろうとした手をおろして、仲良くしようと言って手を差し出すことです。そして、愛することです。

神様の方法
 しかし、それはとても難しい。現実的とも思えない。しかし、イエス様がそれを言うのには理由があるのです。それは、それが「神様の方法」だからなのです。

 イエス様はこんなことも言っています。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(45節)。「父」というのはイエス様の父なる神様のことです。神様は悪人にも善人にも太陽を昇らせてくださる。悪人というのは、ただ「悪い人」という意味だけでなくて、神様に逆らっている人という意味です。神様に背いている。神様の敵になっている人と言ってもいいかもしれない。

 でも、悪人、神様に敵対している人には、太陽が昇らないということってありますか。そんなことはないですね。どんな悪い人の上にも太陽は昇る。あるいは、正しくない人の畑にだけ雨が降らない。そんなことってありますか。ないですよね。正しくない人の上にも雨は降る。そうでしょう。

 いや、太陽が昇るとか、雨が降るとかだけではありません。本当に言いたいことは、神様が愛していてくださるということでしょう。正しくない人でも神様は愛して生かしてくださる。滅ぼしてしまうことはなさらない。考えてみてください。神様は不遜にも敵対する人は全員滅ぼしてしまうこともできるのです。敵を無くす第一の方法は、敵を全部やっつけてしまうことだから。神様にはできるはずです。でも、神様はそうならさらないのです。

 わたしは祝福を受けた皆さんと同じように、小学校の時に教会で祝福を受けていたものでした。みんなと一緒に礼拝して、讃美歌を歌っていた。でも、中学生ぐらいから、信じなくなったのです。神様を侮って、信じている大人たちのこともバカにするようになりました。

 そのように神様を侮って、バカにして、信じている人もバカにしていた私を、神様はすぐに滅ぼすこともできたと思います。地獄に落とすこともできたと思います。しかし、神様はそうなさいませんでした。神様はわたしを愛してくださいました。ぼくがバカにしていた信じている大人たちは、わたしに言い続けてくださいましたよ。「神様はあなたを愛してるよ」って。それは神様がその人たちを通して、教会を通して、わたしに言い続けてくださったことだと思います。

 神様は、神様に背いているこの世界を滅ぼしてしまいませんでした。そうではなく、敵である私たちを愛してくださったのです。神様は、「わたしはあなたを愛している」と呼びかけ続けて、最後には独り子イエス様をさえこの世界に送ってくださったのです。敵である私たちを愛するためです。愛していることを示して、呼びかけるためです。帰ってきなさい。敵であることをやめなさい、と。神様は今も愛して呼びかけていてくださるのです。

天の父の子となるために
 そう、イエス様はそれが神様の方法だって分かっていたのです。敵を愛することが、父なる神様の方法だってわかっていた。だからその父の独り子であるイエス様は、父なる神様と同じようになさったのです。敵を愛したのです。

 イエス様はやがて捕らえられて十字架にかけられることになりました。イエス様は自分を十字架にかけようとしている人々をやっつけることができたと思います。イエス様は奇跡を行う力があるのですから。しかし、イエス様はそうなさらなかった。そうではなくて、敵を愛されたのです。迫害する者のために祈ったのです。

 十字架にかけられた時、イエス様は御自分を十字架にかけた人々のために祈りました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。イエス様は彼らを愛しました。そして、背いていた私たちをも愛してくださいました。

 「この親にしてこの子あり」。今日の説教題です。まさにこの言葉が一番ぴったり来るのは、天の父とイエス様の関係でしょう。しかし、イエス様は言われるのです。神様は、あなたたちの天の父でもあるのですよ、と。今日の箇所でもイエス様は言っておられます。「あなたがたの天の父の子となるためである」って。

 これは敵を愛したら神の子どもにしてもらえるという意味ではありません。イエス様は既に「あなたがたの天の父」という言葉を使っているのです。他の箇所でも繰り返し「あなたがたの天の父は」と言っておられる。実際、イエス様に教えられて「天にまします我らの父よ」と祈っているではありませんか。

 神様は敵であった私たちをも愛して、立ち帰るように呼びかけて、みもとに招いてくださって、背き続けてきた私たちの罪をも赦して、神の子どもにしてくださったのです。だからこそ「天の父の子」になるのです。天の父の子として生きるのです。天の父がしてくださったように、私たちも同じようにしなさいとイエス様は言ってくださるのです。聖書の別の箇所にはこう書かれています。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(エフェソ5:1)。

 「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。確かに難しいかもしれません。しかし、せっかく神様の子どもとして生き始めたのですから、「やられたらやり返す」ではなくて、神様の方法に倣いたいと思います。「この親にしてこの子あり」。そんな子どもたちになりたいものです。

2016年11月6日日曜日

「良き羊飼いと幸いな羊たち」

2016年11月6
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 詩編 23章1節~6節

 今日は先に天に召された方々を記念して礼拝をお捧げするためにここに集まりました。今年は初めてご出席のお返事をいただいた御遺族のために「御遺族席」を用意しました。すると礼拝堂の半分は遺族席になりました。これはある意味ではとても嬉しいことです。天に召された方々のご家族がそれだけ大勢、この礼拝のためにお集まりくださったということですから。

 先に召された方々も、ご家族の皆さんが今この礼拝の場に身を置いているのを見て、主と共に喜んでおられることと思います。中にはそれらの方々が地上にある時には、一緒に礼拝を捧げる機会を得なかったご家族もあるのでしょう。あるいは、故人が召された時にはまだ小さかった、お孫さん、ひ孫さんもこの中にはおられるのでしょう。そのお一人お一人が、今、この礼拝の場に一緒にいるということは、天においてどれほど大きな喜びをもたらしていることかと思います。

 ここは天と地が一つとなるところです。天に召された方々も、今、ここにいる私たちも同じ神様を仰ぎ、同じ神様を礼拝しているとはそういうことです。その意味で礼拝堂とは天と地が一つとなるところなのです。今日お集いになられた方々は、その意味において、先に召された方々と一緒にいるのだという思いをもって、この礼拝の時をお過ごしいただけたらと思います。

わたしには欠けることがない
 さて、そのような今年の記念礼拝において読まれましたのは、詩編23編の言葉です。もう一度、1節から3節までをお読みします。

    賛歌。ダビデの詩。
    主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
      主はわたしを青草の原に休ませ
    憩いの水のほとりに伴い
    魂を生き返らせてくださる。
                           (23・1‐3a)
 「ダビデの詩」いう表題が付けられています。ダビデ本人が作った歌かもしれませんし、あるいはダビデを思いながら後の人が作った歌であるかもしれません。しかし、ダビデにせよ、他の誰かにせよ、明らかにこれはその人の若い日の歌ではありません。内容からすると、むしろ長い人生を歩んできた人のその晩年における歌であると察せられます。

 この詩は、神様を羊飼いとして、そして自分をその羊飼いに養われる羊として歌ったものです。しかし、人生の夕暮れにさしかかった時、この人が歌ったのは、「わたしはここまで真面目な羊として羊飼いに立派に従ってきました」という歌ではありませんでした。そうではなくて、「良き羊飼いのもとにいて、わたしは幸せな羊でした」と言って喜んでいる歌です。

 それにしても「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」という言葉は不思議な言葉でもあります。人は生きていれば、「欠け」を経験することはいくらでもあるからです。不足する。乏しさを覚える。何かを失っていく。何かが奪われていく。そのようなことが人生の途上でいくらでも起こります。ある意味で、一つ一つを失いながら生きていくのが人生だとも言えます。親を失い、友人を失い、自分の健康を失っていく。できたことができなくなっていく。そして、最後はこの地上の命を失うことになる。

 失っていくものに目を留めれば、確かにそうです。失ったものを思えば乏しさを覚えることはある。欠けを覚えることはあるのでしょう。しかし、この人はそう言わない。今与えられているものに目を留めるのです。与えてくださっている御方に目を留めるのです。一緒にいてくれる羊飼いのことを考えているのです。「主は羊飼い」。そして、それで十分なのです。「わたしには何も欠けることがない」と。

死の陰の谷を行くときも
 そして、続く3節と4節にはこう書かれています。

     主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。
   死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。
   あなたがわたしと共にいてくださる。
    あなたの鞭、あなたの杖
    それがわたしを力づける。
                              (23・3b‐4)
 ここで一つの変化が起こっていることに気づきます。これまで「主は羊飼い」「主はわたしを青草の原に休ませ」「主は…正しい道に導かれる」と語ってきたのですが、いつしか「あなたが…」と神様に向かって語り始めるのです。「あなたがわたしと共にいてくださる」「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」と。

 「主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる」。そう語った時、彼は神様がこれまでどのような道を導いてくださったのか、改めて思い起こし、思い巡らしたことでしょう。それは必ずしも平坦な道ではなかったに違いありません。「死の陰の谷を行くときも」と彼は言っていますから。実際にこの人は「死の陰の谷」を行くような経験をしてきたのでしょう。

 ならば、そのようなこれまでの人生を思い起こし、「死の陰の谷を行く」ときについて語る時に、「あなたが」という言葉が口をついて出て来たとしても不思議ではありません。なぜなら、彼は「死の陰の谷」を行く時に、そこで繰り返し繰り返し神様を呼び求めながら、神様に呼びかけながら、神様に祈りながら生きてきたに違いないからです。確かにその人は「わたし」と「あなた」という関係において神と共に生きてきた。「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」とはそういう言葉です。

 ある程度長く生きていれば「死の陰の谷」を通ることは人生において避けられないことなのかもしれません。さらに言うならば、人は必ずその人生の最後には、本当の意味で「死の陰の谷」を行くことになるのでしょう。その時に共にいてくださる羊飼いに向かって、「あなたがわたしと共にいてくださる」と呼びかけることのできる人は幸いです。

 実際、ここを読みながら、そのようにして最後の「死の陰の谷」を通って行った人たちの姿が思い起こされます。また、「死の陰の谷」を行く中で、そこで初めて羊飼いに向かって語り始めた幾人かの方々の姿を思い出すのです。そう、彼らは決して一人ではありませんでした。

わたしを苦しめる者を前にしても
 そして、「あなたは」と言って彼が向き合っている神様の姿がここで変わっていきます。羊飼いから家の主人に変わっていくのです。それもまた彼が知ってきた神様の姿です。
 
    わたしを苦しめる者を前にしても
        あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
    わたしの頭に香油を注ぎ
    わたしの杯を溢れさせてくださる。             
                    (23・5)
 そこには敵によって苦しめられている者を受け入れ、豊かにもてなしてくれる家の主人がいます。彼は苦しめる者のただ中にある。それは変わらない。しかし、そのような苦しい現実のただ中にあって、そこで家の主人として豊かにもてなし、力づけ、喜びに満たしてくださる神様について語られているのです。

 私たちはそこでもしかしたら、言いたくなるかも知れません。「神様、食事どころではありません。敵に囲まれているのですから。苦しめられているのですから。彼らを追い払うか、私を安全なところへ逃がしてください。」しかし、神様は必ずしもただちにそうしてくださるとは限らない。この詩編に描き出されている神様は、あたかもこう言っておられるかのようです。「いや、まずあなたは豊かな霊の食事に与りなさい。今いるそこで力を得なさい。そこで喜びを得なさい。元気になりなさい。私がそうしてあげよう。」

 これこそ死の陰の谷を行くときも「あなたが共にいてくださる」と言っていたこの人が、人生において繰り返し経験してきたことであったに違いありません。「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる」と。
 
主の家に帰ろう
 そして、彼はこの詩編をこう締めくくります。

    命のある限り
    恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
    主の家にわたしは帰り
    生涯、そこにとどまるであろう。              
                    (23・6)

 良き羊飼いと共にある羊の幸いなることを歌ってきた彼は、帰るべきところ、とどまるべきところについて語ります。それは「主の家」です。それは「神殿」を意味します。それは共に礼拝する場所です。まさに「あなたがわたしと共にいてくださる」と言える場所、そして主御自身が食卓を整えてくださる場所。そう、私たちもまた今、そこに身を置いているのです。ここは天に召された皆さんのご家族が、繰り返し繰り返し帰ってきて身を置いていた場所です。

 そして、それは永遠なる神の世界とつながっているのです。この地上の「主の家」はあくまでもひな形に過ぎません。その実体は天にあります。私たちには帰るべきところがあるのです。

 6節の後半にある「生涯」という言葉は、しばしば「永遠に」と訳される言葉です。帰るべきところ。それは永遠に主と共に住まう主の家です。この人生において慈しみ深く導き続け、養い続けてくださった方のもとに私たちはやがて帰っていきます。そして、永遠にそのお方と住まうのです。

 私たちは既に召された方々を記念して礼拝していますが、私たちもまたやがて彼らの列に加えられることになります。やがて終わりの来る一生。残された人生において「何をするか」ということも大切ではありますが、どこに目を向けて生きているかということはもっと大切なことでしょう。導かれるべきお方に導かれ、帰るべきところに向かっていてこそ、私たちの限られた人生もまた永遠の意味を持つのです。

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