2019年8月25日日曜日

「主人が給仕をしてくれる時」

ルカ12:35‐40

それがいつかはわからない
 毎週礼拝において使徒信条を唱和しますが、その中に次のような言葉があります。「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」。「かしこより」来られるのはイエス・キリストです。復活された後、天に挙げられたキリストです。キリストが世の終末において再び来られる。このことを教会は「キリストの再臨」と呼び習わしてきました。今日の聖書箇所は、このキリストの再臨を信じる信仰と関係しています。

 キリストの再臨を信じる信仰は、教会が宣教を開始したその初めから、中心的な意味を持っていました。初めの頃の教会は、それこそすぐにでもキリストが再臨されるという緊迫感の中で福音を宣べ伝えていました。パウロも自分が生きている間にキリストの再臨があると考えていたことが、パウロの初期の手紙からもうかがえます(「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません」1テサロニケ4:15)。パウロの別の手紙の中には、元のアラム語の発音のまま「マラナ・タ」という祈りの言葉が記されています。「主よ、来てください」という意味ですが、それは教会の初めから皆の口にあった祈りの言葉でした。

 しかし、キリストが天に挙げられて40年以上の歳月が経ちました。それがこのルカによる福音書が書かれた時代です。時を経てなおキリストの再臨はありませんでした。いや、40年どころか、二千年近く経た今日においてなお、キリストの再臨は起こっておりません。ペトロの手紙の中にはこんなあざけりの言葉が出て来ます。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」(2ペトロ3:4)。手紙が書かれた時代には、既にそのような言葉が聞かれていたのでしょう。ならば二千年近くの歳月を経た今では、なおさらそのような言葉が聞かれても不思議ではありません。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。」

 二千年近く経ってもなおキリストの再臨はありません。その事実は、確かに、キリストの再臨を信じることを難しくするように思えるかもしれません。しかし、だからこそ、今日読まれた主の御言葉が大きな意味を持つのです。実のところ、二千年経とうが三千年経とうが、それはキリストの再臨を信じることの本質的な妨げとはならないのです。なぜなら、キリストの再臨を信じる信仰において決定的に重要な要素は、それが《いつかはわからない》ということにあるからです。

 今日の聖書箇所においてイエス様はこう言っておられます。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい」(35‐36節)。

 イエス様はあえて《婚宴から帰って来る主人》をたとえに用いました。なぜ「婚宴」なのか。帰って来るのが《いつかはわかrなあい》ということを最も良く表現できるからです。今日であるならば、結婚式に出席した人の帰宅時間はだいたい予測が付くのでしょう。しかし、当時の習慣ですと、結婚の祝宴はだいたい一週間ほど続きます。婚宴の期間、皆が最初から最後までそこにいるわけではありません。ですから、主人が婚宴のために外出したのなら、いつ戻るかは予測がつかないのです。

 そして、39節まで飛びますと、到着時間がさらに予測できないもう一つのものを、主はたとえとして取り上げています。それは「泥棒」です。「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(39‐40)。

 さて、今日の朗読箇所の冒頭部分から一気に最後の部分に飛びました。実は、この初めと終わりの部分が、この話の外枠となっているのです。繰り返しますが、大事なポイントは、それが《いつかはわからない》すなわち予測不能であるということです。「人の子は思いがけない時に来る」(40節)と主は言われました。それこそがキリストの再臨を信じる信仰においては本質的な要素なのです。

 それが《いつかはわからない》ままに、既に二千年近く経ってしまいました。それはもしかしたらさらに二千年先かもしれません。誰にもわからない。そのように、いつ来られるかわからないキリストの再臨を信じることに、はたしていかなる意味があるのでしょうか。――それを明らかにしているのが、この外枠の部分なのです。

 主人が帰ってくるのがいつであるか、もしわかっているならば、帰りが近くなったら迎える準備をしたらよいのでしょう。つまり重要なのはあくまでも《その時》なのです。しかし、それが《いつかはわからない》のであるならば、重要なのは《その時》ではなくて《今》なのです。いつかわからないならば、常に備えている必要があるからです。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」とはそういうことです。その節に対応しているのは40節ですが、そこには「あなたがたも用意していなさい」と書かれています。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」にせよ「用意していなさい」にせよ、それは《現在》に関する勧めです。

 そのように、いつ来られるかわからないキリストの再臨を信じる信仰は、私たちの信仰生活を徹底的に《今、この時》に向かわせます。未来ではなく過去でもなく《現在》にです。それゆえに、今日の朗読箇所が、直前の「思い悩むな」という主の勧めに続いて書かれていることもまた大きな意味を持っているように思います。思い悩んでいる時には、現在私たちが何かを行っていたとしても、意識は現在に向かわずに、未来のどこかをさまよいながらぐるぐると同じところを巡っていたりすることが起こるからです。そこに恨み辛みの要素が加われば、あるいは未来ではなく、過去のどこかをさまよいながら巡っているかもしれません。

 しかし、そのように私たちの意識が《現在》から離れてしまう時、主はグイッと《現在》へと引き戻されるのです。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と。同じことが別の聖書箇所では「目を覚ましていなさい」という言葉をもって繰り返されています。大事なことは、《今、この時》です。主人が託してくださっている《今、この時》に対して目覚めていることです。《今、この時》を目覚めている僕として生きているということです。今、目覚めている僕として、主人にお会いする備えができているということです。

主人が給仕してくださる
 しかし、それはいつ帰ってくるかわからない主人を、常に戦々恐々として待っていることを意味しません。少なくとも今日朗読された聖書箇所に関する限り、明らかに主はそのような《現在》について語っているのではありません。

 最初に外側の枠組みについて見てきました。その内側には、繰り返されている言葉があります。「幸いだ」という言葉です。「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」(37節前半)。「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」(38節)。主が語りたいのは、このような幸いな僕の姿なのです。

 どうしてその僕たちは幸いなのでしょうか。その二つの「幸いだ」に挟まれるようにして、このたとえの真ん中に置かれているのは次のような言葉です。「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」(37節後半)。

 イエス様は時折、皆が「えっ!?」と驚くような、極端なたとえを語られます。ここに語られている僕に対する主人の振るまいは、当時の常識では全くあり得ないことです。このたとえにおいて、主人は目覚めて仕えてきた僕、備えて迎えてくれた僕たちの労苦をねぎらって、まず自ら僕たちを食事の席に着かせてくださるのです。そして、自分は僕のように仕えてくださるのです。そんなことはどう考えてもあり得ない光景です。しかし、やがて帰って来られる「主人」とは、このような御方なのだとイエス様は言われるのです。

 この時、イエス様はまだ来るべき「人の子」が誰であるかについて、あからさまに語ってはおられません。しかし、この福音書を読む者は分かります。今これを読んでいる二千年後の私たちにも分かります。これはイエス様御自身のことだ、と。

 考えてみれば、そのような愛と謙遜に満ちた主人の姿には覚えがあります。まさに、イエス様御自身が、そのような姿を見せてくださったことを私たちは思い起こすことができるからです。例えば、ヨハネによる福音書における最後の晩餐の場面で、イエス様が弟子たちの足を洗われた姿。「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」(ヨハネ13:3‐5節)。

 いや、その時だけでなく、イエス様がこの世に来られた目的そのものが仕えるためだとイエス様は言われました。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)と。イエス様は、私たちの罪を贖うためにその命を差し出して仕えてくださいました。まさに、十字架の上において、仕える「人の子」の姿をはっきりと現してくださったのです。

 「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」。そのような主人であることを、イエス様はこの地上において現してくださいました。その御方が再び来られるのです。私たちは未知なる恐るべき審判者が来るのを戦々恐々としながら待っているのではないのです。私たちは、主人がどのような御方であるかを知っている僕として、喜びをもって仕えながら、準備を整えて主人の帰りを待つのです。そのようにして、今の時を大切にし、今この時を主の僕として生きるのです。

 私たちはそのような幸いな主の僕なのだということを、繰り返し思い起こさせていただいています。次週もここで行われる聖餐式においてです。これはイエス様が命を献げて私たちに仕えてくださったことを指し示す食事であると共に、主がその僕たちを席に着かせてくださる神の国の食事を指し示すものだからです。それゆえにその聖餐はまた、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」「用意していなさい」という御言葉を心に留める時でもあるのです。

(祈り)

2019年8月18日日曜日

「必要なことはただ一つ」

ルカ10:38‐42

何ともお思いになりませんか
 イエス様とその一行は宣教の旅の途上にありました。今日の聖書箇所は、エルサレムへと向かう旅の途上における出来事を伝えています。「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった」(38節)と書かれていました。イエス様がその村を訪れるのは、初めてのことではありません。そこにはイエス様が御言葉を宣べ伝えるために場所を提供してくれる、一つの家がありました。マリアとマルタという姉妹が住んでいる家でした。

 「するとマルタという女が、イエスを家に迎え入れた」(38節)と書かれています。もちろん、迎えたのはイエス様だけではありません。弟子たちが同行しています。必ずしも十二人だけではありません。この章の始めには、72人の弟子たちについて語られています。弟子と呼ばれる人たちは大勢いたのです。またイエス様が来られれば、御言葉を聞くために集まってくる人たちも迎えることになります。ですから、イエス様を家に迎え入れるということは、実はとても大変なことなのです。食事の支度から宿泊の準備まで、為さねばならぬことは山ほどあったに違いありません。とにかく、人々に仕え、彼らの多くの必要を満たさなくてはならないのです。

 しかし、マルタにとって、そこにいた多くの人々に仕えることは、イエス様に仕えることに他なりませんでした。人々の必要を満たすことは、すなわちイエス様の必要を満たすことでした。そして、イエス様に仕え、イエス様の必要を満たすために奉仕することは、マルタにとって何よりも大きな喜びであったに違いありません。その意味において、マルタは「イエスを家に迎え入れた」のです。恐らく何日も前から準備をしてきたのでしょう。輝いた笑顔。讃美の歌声。イエス様を迎えるために喜びに溢れていそいそと立ち働いているマルタの姿が目に見えるようです。

 さて、そのように「イエスを家に迎え入れた」マルタだったのですが、その心の中に、やがて一つの変化が生じてきます。主の足もとに座って、その話に聞き入っているマリアのことが気になり始めます。人々の必要を満たすために為さねばならないことが山ほどあるのに、まったく無頓着なマリアがそこにいるのです。主に仕える働きを人に押しつけて平気な顔をしているマリアがそこにいるのです。ついにマルタはイエス様に訴えました。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と。

 しかし、おかしいと思いませんか?――手伝おうとしないマリアの態度が問題であるならば、マリアの耳をひっぱって部屋の外に連れて行き、「ちょっとは手伝いなさいよ!」言えば済むことであるはずです。ところが、マルタはそうしませんでした。

 確かにマリアの態度は不愉快です。しかし、本当に物申したい相手は、マリアではなくてイエス様だったのでしょう。マルタは言いました。「何ともお思いになりませんか。」――マルタはイエス様に《何かを思って》欲しかったようです。原文では、マルタがここで用いているのは「気に懸ける」という意味の言葉です。マルタは気に懸けて欲しかったのです。何を?マリアが「わたしだけ」にもてなしをさせていること。「わたしだけ」――そう、「わたしだけ」が大変な思いをしている。この「わたしだけ」という事態を、イエス様にも少しは気に懸けて欲しかったのです。

 マルタだけが大変な思いをしている時に、イエス様は人々に話をしておられました。当然のことながら、イエス様の視線は、聴衆に向けられています。そのイエス様の視線の先に、足もとで話を聞いているマリアもまたいるのです。一方、一人で立ち働いているマルタは、イエス様の視界の外にいるのです。それはマルタにとって、とても悲しいことだったに違いないし、また、腹立たしいことであったに違いありません。「わたしだけ」が大変な思いをしているのに、イエス様はぜんぜん気に懸けてくれない!

マルタ、マルタ
 そんなマルタの訴えを聞いて、主は静かに口を開かれました。「主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない』」(41‐42節)。

 「マルタ、マルタ」。印象的なのは、主がマルタの名前を繰り返すこの呼びかけです。同じように繰り返して名前を呼ばれる人が、この後、22章にも出て来ます。シモン・ペトロです。

 イエス様が十字架にかかられる日の前夜、最後の晩餐の席において、イエス様はシモン・ペトロにこう言われます。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22・31‐32)。

 これはシモン・ペトロがやがてイエス様を見捨てて逃げていくことを予告した言葉です。弟子たちは皆、襲い来る試練の中で主を見捨てて散って行きます。ペトロもまた、主の弟子であることを三回も否定するであろうことを、イエス様はご存じでした。しかし、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と主は言われます。ペトロのために、主はペトロの知らないところで、祈っておられたのです。イエス様はペトロのことを心底気に懸けておられたのです。そんなイエス様の思いが表れているのが、イエス様の呼びかけです。「シモン、シモン」――主は、そうペトロに呼びかけられた。主はペトロのことを気に懸けておられたのです。

 ちなみに、ルカによる福音書に続く第二巻目、使徒言行録まで行きますと、同じように呼びかけられている人がもう一人出て来ます。サウロ、またの名をパウロという人です。かつて教会の迫害者であった人です。そのサウロがダマスコに向かう途中、光に照らされ、「サウル、サウル」と呼びかけるイエス様のみ声を聞いたのでした。パウロ自身の証によるならば、そこでイエス様は彼にこう言われたそうです。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」(使徒26:14)。イエス様は迫害される教会だけでなく、迫害者であるサウロ自身のことをも気に懸けておられたのです。

 「マルタ、マルタ」――。主はそう呼ばれました。今日お読みした聖書箇所において、イエス様が一番気に懸けておられるのは、他ならぬマルタなのでしょう。マルタはイエス様の視界に入っていなかったでしょうか。イエス様は見ていなかったのでしょうか。気に懸けていなかったのでしょうか――とんでもない!イエス様はマルタが「多くのことに思い悩み、心を乱している」ことをちゃんと見ておられました。そんなマルタの心の状態を誰よりも心配し、気に懸けておられたのはイエス様だったのです。

必要なことはただ一つ
 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」。主はそう言われました。「必要なことはただ一つ」――それは誰にとって「必要なこと」なのでしょうか。「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と主は言われました。「それを取り上げてはならない」のは、それが《マリアにとって》必要だからです。そして、それは《マルタにとって》必要なただ一つのことでもあったはずです。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」。

 マルタの関心は、「多くのこと」に向かっていました。それはイエス様にとって必要と思われる「多くのこと」であり、人々にとって必要な「多くのこと」でした。その多くの必要を満たすために、彼女は汲々としていました。「多くのこと」に向かう彼女の心は散り散りになっていました。しかし、そんなマルタにイエス様は「必要なことはただ一つ」と言われました。イエス様にとって必要なことでも、人々にとって必要なことでもありません。《マルタにとって》必要な一つのことでした。

 マルタが一生懸命もてなしをしていたこと自体が責められているわけではありません。それは良いことなのです。他者の必要を満たすために身を粉にして働くことは悪いことではありません。それは良いことですし、必要なことでもあります。誰かが行わなくてはなりません。働く人は必要なのです。しかし、そのように働く《マルタにとって》必要なことがありました。それは、マリアからだけでなく、マルタからも取り上げられてはならない一つのことなのでした。その一つのこととは何でしょうか。

 最初に申し上げたように、主は宣教の旅の途上にありました。それはエルサレムへと向かう旅でした。先週朗読された聖書箇所にはこう書かれていました。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(9:51)。この地上における残された時の短いことをイエス様はご存知でした。向かうエルサレムで何が待ち受けているのか、イエス様はご存知でした。御自分が十字架につけられることになることをご存知の上で、主はエルサレムへと向かっておられたのです。それは御自分の命をもって、この世に救いをもたらすためでした。

 そのイエス様が来てくださって、救いの言葉を語っていてくださるのです。その御言葉を受け取るということは、命を与えるほどに愛してくださったイエス様の愛を受け取ることに他ならないのでしょう。それはマリアにとって必要なことでした。いや、究極においては、マリアが人生において必要としているのはそのことだけとも言えるのでしょう。「必要なことはただ一つ」。だからマリアから取り上げてはならないのです。そして、それはまたマルタにとっても必要なただ一つのことなのです。

 受けることなくしては、与えることはできません。涸れ井戸から一生懸命に水を汲み出せば、泥水をまき散らすことになります。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」しかし、そんなマルタが、今、イエス様の前にいるのです。「マルタ、マルタ」と呼びかけてくださる御方と、こうして向き合って、そこに身を置いているのです。

 この小さな物語を改めて読みますと、ここにはイエス様が人々に語った言葉は何一つ記されていないことに気付きます。足もとに座っていたマリアが聞いた言葉すら記されていません。ただマルタに語りかけられた言葉だけが書き残されているのです。

 イエス様に苛立ちながら訴えたマルタは、結果として静かにイエス様と向き合い、イエス様に愛されている人として、その語りかけを聞くことになりました。主は確かにマルタを心に懸け、マルタが必要なただ一つを失わないでいることを望んでおられました。そして主は、私たちにもそのことを望んでおられるのです。
(祈り)

2019年8月11日日曜日

「後ろを振り返らず主に従う」

ルカ9:51‐62

人の子には枕する所もない
 「一行が道を進んで行くと、イエスに対して、『あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります』と言う人がいた」(57節)。

 マタイによる福音書によりますと、この人は律法学者であったようです(マタイ8:19)。罪人や徴税人と共に食事をし、罪深い女に罪の赦しを宣言するイエスに従うことを公に表明した律法学者がいたこと自体驚きです。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と彼が口にするまでには、その背後に並々ならぬ決意があったに違いありません。

 真剣に主に従おうとする人に対して、主も真剣に向き合われます。イエス様は彼に安易な招きの言葉をかけられませんでした。「イエスは言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない』」(58節)。この言葉をもって主は、「あなたはどこへでも従って行くと言うけれど、その言葉が意味することが分かるか」と問い返しておられるのです。

 「枕する所」――それは安息の場です。イエス様には、この地上に安息の場はありませんでした。そのことはイエス様御自身が一番良くご存じだったのです。それは51節以下に書かれている象徴的な出来事の中にもよく現れています。

 エルサレムに向かう途中、イエス様とその一行はサマリヤ人の村に宿りを得ようとしました。しかし、村人たちはイエスを歓迎しなかったのです。イエス様も弟子たちも、そこに安息の場所を得ることはできませんでした。そこで弟子たちは腹を立てました。人々から拒絶されたことに腹を立てました。安らぎの場所を得られなかったことに腹を立てました。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」これがヤコブとヨハネの言葉でした。しかし、主は振り向いて二人を戒められました。イエス様にとっては、拒絶され、宿を得ることができず、安息を得なかったことは、何ら腹を立てるべきことでも、驚くべきことでもなかったのです。この地上に安息の場はない。そのことを主はよく知っておられたのです。

 実際、そのようなキリストの歩みは、既に誕生の時から始まっていたと言えます。この福音書だけが伝えているイエス様の誕生の場面を皆さんもよくご存じでしょう。主は産まれた時、飼い葉桶に寝かされたのでした。ページェントに見るような美しい場面ではありません。聖書には「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(2:7)と書かれているのです。イエス様はこの世に場所を持たない方として、その人生をスタートしたのでした。

 そして今、天に上げられる時期が近づいたことを知り、エルサレムに向かう決意を固められたイエス様は、最後までこの地上に安息の場を持つことはないことを知っておられたのです。そして、事実そうであったことをルカによる福音書は伝えているのです。

 やがてエルサレムにおいて主は捕らえられ、十字架にかけられることになります。その十字架の上における最後の言葉を、この福音書はこのように伝えているのです。「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます』」(23:46)。主が口にされたこの言葉は、ユダヤ人の間においては何ら特別な言葉ではなく、ごく普通の就寝の祈りの言葉でした。いわば神に語りかける「おやすみなさい」です。主は十字架の上で「おやすみなさい」と言われたのです。イエス様はついに枕する場所を得たのでした。しかし、それは十字架の上だったのです。それが地上から上げられたところであったのは実に象徴的です。地の上における生活の中には、最後まで本当の意味で枕するところはなかったということです。

 「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と彼は言いました。しかし、イエス様に従うということは、地上に安息の場を得なかった方に従って行くことを意味するのです。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」実際、その御方に従っていくならば、この人もまた律法学者として持っていた安息の場を、彼は失うことになるのでしょう。

 しかし、それでもなお安息の場を持たなかったこの御方に従って行くとするならば、それはこの御方のもとにこそ救いがあるからです。確かにイエス様はこの地上に枕する所を持ちませんでした。安息の場を持ちませんでした。しかし、もう一方においてイエス様は常に安息の場を持っていた方でもあるのです。主の唯一の安息の場は、この地上のどこかにある「枕する所」ではなく、父なる神のもとにこそありました。どこにいても絶えることのなかった父なる神との交わりの中にこそあったのです。

 だからこそ、十字架の上においてさえ、主は安心して「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言うことができたのです。十字架の上においてさえ、神に向かって「おやすみなさい」と言えたのです。イエス様に従うということは、そのように変わることのない父なる神の内にこそ「枕する所」を持っていた御方に従うことを意味するのです。死においてさえ、その安息の場を失うことのなかったイエス様に従うのです。

 私たちは主と同じように、目に見えない永遠なる神との交わりの中で共に生きるのです。最終的に私たちもまた「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言える、そのような父との交わりの中にあって共に生きるのです。実際、そのように生き、そして死んでいった多くの仲間を私たちは知っているではありませんか。そして、私たちもまた彼らと共に、神の支配のもとにこそ、神の国にこそ、本当の意味で「枕する所」、すなわち全き救いと安息が備えられていることを信じる者として生きていくのです。

 そのような人生へと主が招いてくださいました。主が「わたしに従いなさい」と声をかけてくださいました。私たちがここに集められているとは、そういうことです。これは大きな恵みです。しかし、私たちはそこでさらに聞くべき言葉があるのです。主が何と言っておられるか、共に耳を傾けましょう。

後ろを振り返らずに
 59節以下をお読みいたします。「そして別の人に、『わたしに従いなさい』と言われたが、その人は、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った。イエスは言われた。『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい』」(59‐60節)。

 イエス様はその人に「わたしに従いなさい」と言われました。その人もまた主に従うことを決意していたのでしょう。そこで彼は、「まず、父を葬りに行かせてください」と願ったのです。父親が亡くなって間もなくのことだったのでしょう。ユダヤ人にとりまして、葬儀を丁重に行うことは、すべてに優先される宗教的義務でした。そのためには安息日の規定さえも免除されたと言われます。父の葬儀に関して息子が義務を果たすのは当然のことです。この人の願いは私たちにも十分理解できます。

 しかし、主は彼に言われたのです。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」。もちろん、文字通りの意味ではないでしょう。「死んでいる者たち」が何を意味するのかは良く分かりません。しかし、それが誰であれ、要するに葬儀のことは他の人にまかせよ、と言っておられるのです。

 理不尽な言葉でしょうか。しかし、考えてみれば、確かに、葬儀のことを他の人々に任せるということは、絶対に不可能なことではありません。誰かが代わりに行うことは可能です。一方、「わたしに従いなさい」という主の招きに応えることは、本人にしかできないことです。他の人が代わりに信じたり従ったりすることはできないのです。一人の人生の方向を決定する一歩は、あくまでも本人が踏み出さなくてはなりません。そして、それが救いに関わることであるならば、永遠なる神との関係に関わっていることならばなおさらです。

 さらにもう一人の人に主が語られた御言葉に耳を傾けましょう。61節以下を御覧ください。「また、別の人も言った。『主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。』イエスはその人に、『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』と言われた」(61‐62節)。

 実は、たいへん良く似た場面が旧約聖書に出てきます。今日の第一朗読において読まれました、預言者エリヤがエリシャを後継者として召し出す場面です。預言者エリヤは、畑を耕していたエリシャに出会うと、彼に自分の外套を投げかけました。これは預言者が自分の後継者を指名する仕草です。「私に従ってきなさい。私の後継者になって私の働きを継承しなさい」ということです。すると、エリシャはエリヤの後を追ってこう言いました。「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」(列王記上19:20)。その時、エリヤは「行ってきなさい」と言ってそのことを許可したのです。その後、エリシャは一軛の牛を屠って料理し、人々に振る舞って食べさせます。そして、「それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた」(同19:21)と書かれています。

 エリシャは、家族にいとまごいをすることが許されました。しかし、今日の箇所に出てきたその人は、「まず家族にいとまごいに行かせてください」という言葉を退けられました。厳しい。あまりにも厳しい。そう思います。しかし、あえてイエス様がここまで言われたのは、この人についてよくご存じであったからでしょう。他の人はどうであるか分かりません。しかし、《その人にとっては》、家族のもとに行き、家族と顔を合わせ、主に従うことを先延ばしにすることが、まさに「鋤に手をかけてから後ろを顧みる」ことになってしまうからでしょう。そのことが分かっていたからこそ、主はその求めを退けられたのです。

 「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者」――鋤とはこの場合、牛につけて畑を耕す道具です。鋤に手をかけ牛が動きはじめてから後ろを振り返るならば、耕してできる畝が曲がってしまうのです。後ろをちょっと見ること、それは小さなことのように思えるかもしれません。しかし、実際に曲がってしまった畝を元に戻すのは容易なことではありません。

 「まず家族にいとまごいに行かせてください」という求めに対して語られた、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」という主の言葉は、確かに極端に厳しい言葉に思えます。しかし、それだけにまた、私たちの心に切り込んで、大事なことを思い起こさせてくれる言葉でもあるのです。

 「家族へのいとまごい」云々については、ここにいる私たちには直接当てはまらないかもしれません。しかし、確かに私たちにも、振り返ってはならないことはあるのでしょう。後戻りしてはならないことはあるのでしょう。先延ばしにしてはならないことはあるのでしょう。確かに、ちょっとした小さなこと、これくらいのこと、と思えることが、キリストに従う道から、信仰の道から私たちを大きく引き離してしまうということがあるのです。

 ならばなおさら、今、ここにおいて再び「わたしに従いなさい」と主によって招かれていることは、恵みなのであり、恵み以外の何ものでもありません。もう後戻りしてはなりません。まっすぐに前を向いて、キリストに導かれながら、神の国における救いの完成を目指して、信仰の道を歩んでいきたいと思うのです。
(祈り)

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