ルカ12:35‐40
それがいつかはわからない
毎週礼拝において使徒信条を唱和しますが、その中に次のような言葉があります。「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」。「かしこより」来られるのはイエス・キリストです。復活された後、天に挙げられたキリストです。キリストが世の終末において再び来られる。このことを教会は「キリストの再臨」と呼び習わしてきました。今日の聖書箇所は、このキリストの再臨を信じる信仰と関係しています。
キリストの再臨を信じる信仰は、教会が宣教を開始したその初めから、中心的な意味を持っていました。初めの頃の教会は、それこそすぐにでもキリストが再臨されるという緊迫感の中で福音を宣べ伝えていました。パウロも自分が生きている間にキリストの再臨があると考えていたことが、パウロの初期の手紙からもうかがえます(「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません」1テサロニケ4:15)。パウロの別の手紙の中には、元のアラム語の発音のまま「マラナ・タ」という祈りの言葉が記されています。「主よ、来てください」という意味ですが、それは教会の初めから皆の口にあった祈りの言葉でした。
しかし、キリストが天に挙げられて40年以上の歳月が経ちました。それがこのルカによる福音書が書かれた時代です。時を経てなおキリストの再臨はありませんでした。いや、40年どころか、二千年近く経た今日においてなお、キリストの再臨は起こっておりません。ペトロの手紙の中にはこんなあざけりの言葉が出て来ます。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」(2ペトロ3:4)。手紙が書かれた時代には、既にそのような言葉が聞かれていたのでしょう。ならば二千年近くの歳月を経た今では、なおさらそのような言葉が聞かれても不思議ではありません。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。」
二千年近く経ってもなおキリストの再臨はありません。その事実は、確かに、キリストの再臨を信じることを難しくするように思えるかもしれません。しかし、だからこそ、今日読まれた主の御言葉が大きな意味を持つのです。実のところ、二千年経とうが三千年経とうが、それはキリストの再臨を信じることの本質的な妨げとはならないのです。なぜなら、キリストの再臨を信じる信仰において決定的に重要な要素は、それが《いつかはわからない》ということにあるからです。
今日の聖書箇所においてイエス様はこう言っておられます。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい」(35‐36節)。
イエス様はあえて《婚宴から帰って来る主人》をたとえに用いました。なぜ「婚宴」なのか。帰って来るのが《いつかはわかrなあい》ということを最も良く表現できるからです。今日であるならば、結婚式に出席した人の帰宅時間はだいたい予測が付くのでしょう。しかし、当時の習慣ですと、結婚の祝宴はだいたい一週間ほど続きます。婚宴の期間、皆が最初から最後までそこにいるわけではありません。ですから、主人が婚宴のために外出したのなら、いつ戻るかは予測がつかないのです。
そして、39節まで飛びますと、到着時間がさらに予測できないもう一つのものを、主はたとえとして取り上げています。それは「泥棒」です。「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(39‐40)。
さて、今日の朗読箇所の冒頭部分から一気に最後の部分に飛びました。実は、この初めと終わりの部分が、この話の外枠となっているのです。繰り返しますが、大事なポイントは、それが《いつかはわからない》すなわち予測不能であるということです。「人の子は思いがけない時に来る」(40節)と主は言われました。それこそがキリストの再臨を信じる信仰においては本質的な要素なのです。
それが《いつかはわからない》ままに、既に二千年近く経ってしまいました。それはもしかしたらさらに二千年先かもしれません。誰にもわからない。そのように、いつ来られるかわからないキリストの再臨を信じることに、はたしていかなる意味があるのでしょうか。――それを明らかにしているのが、この外枠の部分なのです。
主人が帰ってくるのがいつであるか、もしわかっているならば、帰りが近くなったら迎える準備をしたらよいのでしょう。つまり重要なのはあくまでも《その時》なのです。しかし、それが《いつかはわからない》のであるならば、重要なのは《その時》ではなくて《今》なのです。いつかわからないならば、常に備えている必要があるからです。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」とはそういうことです。その節に対応しているのは40節ですが、そこには「あなたがたも用意していなさい」と書かれています。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」にせよ「用意していなさい」にせよ、それは《現在》に関する勧めです。
そのように、いつ来られるかわからないキリストの再臨を信じる信仰は、私たちの信仰生活を徹底的に《今、この時》に向かわせます。未来ではなく過去でもなく《現在》にです。それゆえに、今日の朗読箇所が、直前の「思い悩むな」という主の勧めに続いて書かれていることもまた大きな意味を持っているように思います。思い悩んでいる時には、現在私たちが何かを行っていたとしても、意識は現在に向かわずに、未来のどこかをさまよいながらぐるぐると同じところを巡っていたりすることが起こるからです。そこに恨み辛みの要素が加われば、あるいは未来ではなく、過去のどこかをさまよいながら巡っているかもしれません。
しかし、そのように私たちの意識が《現在》から離れてしまう時、主はグイッと《現在》へと引き戻されるのです。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と。同じことが別の聖書箇所では「目を覚ましていなさい」という言葉をもって繰り返されています。大事なことは、《今、この時》です。主人が託してくださっている《今、この時》に対して目覚めていることです。《今、この時》を目覚めている僕として生きているということです。今、目覚めている僕として、主人にお会いする備えができているということです。
主人が給仕してくださる
しかし、それはいつ帰ってくるかわからない主人を、常に戦々恐々として待っていることを意味しません。少なくとも今日朗読された聖書箇所に関する限り、明らかに主はそのような《現在》について語っているのではありません。
最初に外側の枠組みについて見てきました。その内側には、繰り返されている言葉があります。「幸いだ」という言葉です。「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」(37節前半)。「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」(38節)。主が語りたいのは、このような幸いな僕の姿なのです。
どうしてその僕たちは幸いなのでしょうか。その二つの「幸いだ」に挟まれるようにして、このたとえの真ん中に置かれているのは次のような言葉です。「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」(37節後半)。
イエス様は時折、皆が「えっ!?」と驚くような、極端なたとえを語られます。ここに語られている僕に対する主人の振るまいは、当時の常識では全くあり得ないことです。このたとえにおいて、主人は目覚めて仕えてきた僕、備えて迎えてくれた僕たちの労苦をねぎらって、まず自ら僕たちを食事の席に着かせてくださるのです。そして、自分は僕のように仕えてくださるのです。そんなことはどう考えてもあり得ない光景です。しかし、やがて帰って来られる「主人」とは、このような御方なのだとイエス様は言われるのです。
この時、イエス様はまだ来るべき「人の子」が誰であるかについて、あからさまに語ってはおられません。しかし、この福音書を読む者は分かります。今これを読んでいる二千年後の私たちにも分かります。これはイエス様御自身のことだ、と。
考えてみれば、そのような愛と謙遜に満ちた主人の姿には覚えがあります。まさに、イエス様御自身が、そのような姿を見せてくださったことを私たちは思い起こすことができるからです。例えば、ヨハネによる福音書における最後の晩餐の場面で、イエス様が弟子たちの足を洗われた姿。「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」(ヨハネ13:3‐5節)。
いや、その時だけでなく、イエス様がこの世に来られた目的そのものが仕えるためだとイエス様は言われました。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)と。イエス様は、私たちの罪を贖うためにその命を差し出して仕えてくださいました。まさに、十字架の上において、仕える「人の子」の姿をはっきりと現してくださったのです。
「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」。そのような主人であることを、イエス様はこの地上において現してくださいました。その御方が再び来られるのです。私たちは未知なる恐るべき審判者が来るのを戦々恐々としながら待っているのではないのです。私たちは、主人がどのような御方であるかを知っている僕として、喜びをもって仕えながら、準備を整えて主人の帰りを待つのです。そのようにして、今の時を大切にし、今この時を主の僕として生きるのです。
私たちはそのような幸いな主の僕なのだということを、繰り返し思い起こさせていただいています。次週もここで行われる聖餐式においてです。これはイエス様が命を献げて私たちに仕えてくださったことを指し示す食事であると共に、主がその僕たちを席に着かせてくださる神の国の食事を指し示すものだからです。それゆえにその聖餐はまた、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」「用意していなさい」という御言葉を心に留める時でもあるのです。
(祈り)