2025年11月16日日曜日

「『わたしは主である』と言われる神」

2025年11月16日 主日礼拝説教 

聖書:出エジプト記 6:2-13

わたしは主である

 神はモーセに言われました。「わたしは主である。」今日の聖書箇所において繰り返されています。それはモーセがどうしても聞かなくてはならない言葉でした。そこには、どうしても聞かなくてはならない事情があったのです。そこでまず、「わたしは主である」とモーセに語られるまでの出来事を簡単に振り返っておきましょう。

 イスラエルはエジプトの国における奴隷の民でした。苦しみ叫ぶイスラエルを救うため、主はモーセを選ばれました。ミディアンの地で羊飼いをしていたモーセに主は言われました。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(3:10)。

 それは人の目から見るならば、どう考えても不可能でした。だからモーセは断るのです。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(同11節)。すると帰ってきた答えはこうでした。「わたしは必ずあなたと共にいる」。

 細かい話は割愛しますが、結局モーセは神に押し切られ、神に従うのです。彼はファラオのもとに向かったのでした。モーセはファラオに言います。「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい」と」(5:1)。もちろん、そのような要求をファラオが受け入れるはずがありません。案の定、ファラオは要求をはねつけました。

 いや、それだけではありません。次のように書かれています。「ファラオはその日、民を追い使う者と下役の者に命じた。『これからは、今までのように、彼らにれんがを作るためのわらを与えるな。わらは自分たちで集めさせよ。しかも、今まで彼らが作ってきた同じれんがの数量を課し、減らしてはならない。彼らは怠け者なのだ。・・・』」(同6‐8節)

 わらはれんがを作る時のつなぎです。それまでは脱穀した後に残ったわらを与えられていました。これが与えられなくなったら、畑に残っている切り残しを自分で抜いて来るしかありません。これはれんが作りよりもさらに辛い作業となります。モーセが主に従ったために、イスラエルの民は苦境に立たされることになりました。モーセはイスラエルの民から責められることになりました。

 モーセは主に従ったのです。しかし、それは結果的にイスラエルの民を救うことにはなりませんでした。いや、かえって彼らを苦しめることになったのです。それはただ自分が苦しむこと以上に苦しいことだったに違いありません。モーセは苦しみの中から主に訴えます。すると主は言われたのです。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる」(6:1)。

 「今や」と主は言われます。その「今」とは、事態がますます悪くなっていくように見える「今」です。モーセもイスラエルの民も苦境に立たされている「今」です。しかし、そのような「今」こそ、「あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう」と主は言われるのです。「わたしがすること」すなわち「神がすること」を見るであろう、と。

 そこで主はモーセに言われたのです。「わたしは主である」と。

「主である」とは
 「主」と訳されているのは「ヤハウェ」という言葉です。「わたしはヤハウェである」と神はモーセに言われたのです。アルファベットで言うならばYHWHという子音4文字の単語なので、どう発音するか正確には不明です。学者は恐らく「ヤハウェ」と読んだのだろうと推測します。しかし、大事なのは発音よりも意味です。その意味するところは、既にモーセに知らされているのです。

 3章まで遡ると、こんなことが書かれています。まだファラオのもとに行く前のことです。モーセは主にこう尋ねました。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」。すると主はこう答えたのです。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」(3:14)。

 これこそまさに「ヤハウェ」という神の名前の意味するところなのです。「わたしはある」。普通の言い方ですと「わたしはいる」となります。しかし、「わたしがいる」と言っても、自分と無関係な神がどこかに「いる」ということならば大した意味はないでしょう。明らかにここで言われているのはそういうことではありません。「わたしがいる」とは、モーセと共にいる、ということです。「ヤハウェ」という神は、「共にいる神」なのです。そのような意味において、今日の箇所においても「わたしは主である。わたしはヤハウェである」とモーセに語っておられるのです。「わたしは共にいる神だ」と。

 いや、「わたしは主である」という言葉は、ただモーセだけが聞けばよいのではありません。イスラエルの民もまた聞かなくてはならないのです。ですから、主はモーセに言われるのです。「それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である」と。主はイスラエルの民にも「わたしはヤハウェである。共にいる神である」と語ろうとしておられたのです。

イスラエルの人々に言いなさい
 6節から8節にかけて、モーセが民に語るために与えられた言葉が記されています。それは「わたしは主である」という言葉に始まり、「わたしは主である」という言葉に終わります。そこには「わたしは主である」という言葉が何を意味するのか、神が「共にいる神」であるとはどういうことかが明瞭に語られているのです。

 「わたしは主である」と言われる主は、さらにこう続けます。「わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」(6節)。そのように神は腕を伸ばされる神なのです。「腕を伸ばす」とは、神がこの地上の現実において力を現すことを意味します。

 神はこの世界の歴史に介入し、この地上において営まれる私たちの生活に介入される神なのです。神は観念の神でもなければ、ただ心の中におられる神ではありません。神は腕を伸ばして、奴隷であったイスラエルをエジプトから解放される神なのです。

 主の言葉はさらにこう続きます。「そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる」(7節)。このような関係を聖書は「契約」と呼びます。「わたしは主である」と言われる神は、人と契約を結ばれる神なのです。

 「契約」と聞きますと、私たちの感覚からすると、なんとなく心の伴わない、冷たい、法律的な関係に聞こえるかもしれません。しかし、聖書の言わんとしていることに一番近いのは、恐らく結婚関係なのです。なので、聖書には神とイスラエルの民との関係が、しばしば結婚関係に喩えられているのです。

 結婚をすると、お互いはお互いにとって単なる「一人の男性」、単なる「一人の女性」ではなくなります。「あなたはわたしの夫」「わたしはあなたの妻」という関係になるのです。主はそのような関係を求められる神なのです。神を信じて生きるとは、単に「神が存在する」ということを信じることではなくて、「あなたはわたしの神、わたしたちはあなたの民」と言って生きることなのです。それを聖書は「契約」という言葉で表現するのです。

 さらに主はこう言われます。「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える」(8節)。「土地を与える」。それは彼らが世代を超えて地上に存続するためです。「あなたはわたしの神です。わたしたちはあなたの民です」と言って生きる人々が、具体的に目に見える形で、この世界のただ中に存続することを主は望んでおられるということです。皆さん、モーセの時代から三千数百年を経た今日もなお、教会が存在し、私たちたちがここに集まって主を礼拝しているとは、そういうことなのです。

 「わたしは主である」。苦しみの中にあったモーセに神はそう語られました。モーセは苦しみの中にあるイスラエルの民にこの主の言葉を伝えました。「わたしは主である」。ファラオが支配しているとしか見えないエジプトの世界のただ中において、彼らは「わたしは主である」という言葉を確かに聞いたのです。

 もっとも、「彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった」と書かれています。しかし、彼らはやがて見ることになるのです。神が「わたしは主である」と言ってくださるということは、どういうことであるか。彼らは目の当たりにすることになるのです。それが出エジプト記に記されている出来事です。

 そして、同じ言葉を私たちは今日、耳にしているのです。「わたしは主である」と。もちろん、私たちはエジプトの奴隷であったかつてのイスラエルの民とは置かれている状況は異なります。しかし、私たちが自らの力ではどうすることもできない様々な力の支配のもとに置かれ、しばしば振り回され、翻弄されて生きているという意味では変わらないとも言えます。私たちは実際、この世界のことはおろか、わが身一つどうすることもできない者ではないですか。しかし、そのような現実のただ中で、私たちは「わたしは主である」という言葉を聞くのです。そう言ってくださる方がおられるのです。

 その神こそ、イエス・キリストを通して御自身を現された神です。まさに私たちと共にいてくださる神であることをキリストによって現してくださった神です。だから私たちは今週も、「あなたはわたしの神です。私たちはあなたの民です」と信仰を言い表して生きて行くのです。

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