ヘブライ人への手紙 10:26‐39
今日お読みしましたところには、たいへん恐ろしい事が書かれていました。「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです」(26‐27節)。
私たちの生活を思い起こしますと、必ずしも罪と知らずに罪を犯してしまう時ばかりではありません。罪と分かっていて罪を犯してしまう。故意に罪を犯してしまうことが確かにあるのでしょう。その時に、罪の中にあえて留まり続けない、罪を犯し続けないことは確かに大事なことです。
しかし、ここで念頭に置かれているのは、一般的な「罪」ではなく、ある特別な意味における「罪」です。それは背教の罪なのです。それは29節以下において三つの表現をもって言い表されています。「神の子を足げにし」「自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし」「恵みの霊を侮辱する」ということです。
「神の子を足げにし」とは、もちろん十字架にかかってくださった神の子を足げにすることです。すなわち、私たちのために罪の贖いの犠牲となってくださった方を踏みにじることです。その犠牲を踏みにじることです。イエス様の成し遂げてくださった罪の贖いを全く意味がないものとして扱うことです。
「自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし」とは、契約の血を効力のないものと見なすことです。私たちの罪を完全に贖う力のある主イエスの血、新しい契約を完全に有効なるものとする力ある主イエスの血、それゆえに、私たちが信頼しきって、真心から神に近づくことができるようにしてくれる主イエスの血を、あたかも何の力もない汚れた血のごとくに見なすことです。
私の罪は赦されていない。私は神から見捨てられている。神に近づくことはできない。礼拝することも祈ることもできない。そのようにして、神に近づくことを拒否するならば、それは契約の血を汚れたものと見なすことになるでしょう。
「恵みの霊を侮辱する」とは、聖霊の働きを認めないということです。教会に起こっているすべてのことは聖霊の働きによる現実なのです。洗礼にせよ、聖餐にせよ、説教にせよ、教会の交わりにせよ、それは聖霊の働きによる聖なる現実なのです。もし洗礼を受けていることを軽んじ、「あれはただ水をかけただけ」ぐらいに思わなければ、聖餐を単なる形式的な儀式ぐらいにしか考えなければ、説教を「いいお話」程度にしか考えなければ、聖徒の交わりを、「所詮人間の集団だよ」ぐらいにしか考えなければ、それは聖霊の働きを認めず、恵みの霊を侮辱することになるでしょう。総じていうならば、キリスト者とされれていること、教会とされていることを無意味なことと見なすことです。恵みの霊を侮辱するとはそういうことです。
そのようにして、信仰を与えられ、救いの恵みに与りながら、真理の知識を受けた後にも、なおも神に近づくことをせず、神の恵みに背を向けて生き続けるとするならば、もはやその罪を贖ういけにえは残っていませんよ、ということが書かれているのです。
それはある意味では当然のことであると言えるでしょう。既に見てきましたように、繰り返し献げられてきた動物犠牲の血は、罪の贖いの実体を持ってはいないのです。本当の犠牲は、ただ一度、十字架の上で流されたキリストの血だけなのです。その血による贖いに、聖霊のお働きによって、洗礼と聖餐を通してあずかっているのです。しかし、その唯一決定的な罪の赦しの恵みを受け取りながら、あえてそれを投げ捨ててしまい、そのままにし続けるならば、もはや罪の赦しの恵みはどこにもない。それは当たり前の話です。人間には一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているのです。その時に、十字架の血の贖いも、永遠の大祭司のとりなしも、あえて放棄し続けた者として立つならば、罪の重荷はただ自分一人で背負わなくてはならないのでしょう。「ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです」(27節)とはそういうことです。
ところで、ここに書かれていることは、6章で読んだところと大変良く似ています。6章にも非常に厳しい警告が記されていました。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」(6:4‐6)。しかし、そこには続いて励ましの言葉が記されていたのであって、全てはその励ましを語るためだったのです。この箇所においても同じです。この著者の目的は、彼らを脅かして絶望に至らせることではありません。そうではなくて、むしろ励まして前に進ませるためだったのです。
今日お読みした聖書箇所において、著者が最終的に言いたいことは、約束されたものを受けるためには忍耐が必要なのだ、ということなのです。だから、確信を捨ててはならないということなのです。そのために、まず「初めのころのことを、思い出してください」(32節)と言うのです。
先週読んだところには、「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう」(25節)と書かれていました。そのようなある人たち、集会を怠る人たち、恐らくは困難な信仰生活を放棄して、もはや集まることも礼拝することもやめてしまった人たちがいたということです。また、この手紙の読者も、それに倣ってしまうことがあり得たということでしょう。その前に「希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう」と語られているということは、現実には彼らもまた希望を失いかけていたということに違いありません。
しかし、彼らはもともといい加減な信仰者だったわけではないのです。むしろ、迫害を耐えてきた人たちなのです。戦ってきた人たちなのです。しかし、そのような信仰者でありましても、弱ってしまうときがあるのです。彼らはここまで耐えてきた。しかし、疲れてしまったのです。迫害にあったり、財産を取り上げられたり、あざけられたり、苦しめられたりするのが長引くにつれて、そしてその中で自分の弱さと罪深さが分かれば分かるほど、疲れてしまうのです。著者はそのことを良く知っているのです。
考えてみれば、状況は違っても、同様なことは私たちにもあるわけです。問題は違えども、試練が続いたり、苦しみが長引いたりすると、信仰生活の中に疲れが生じることはあるのでしょう。そのような時には、どうしたらよいのでしょうか。この説教者は初めのころのことを思い起こせというのです。
初めのころとは、彼らにとってどのような時だったのでしょうか。彼らは、キリスト者が迫害を受けることを重々知りながら、それでもなおキリストの弟子になった人々です。なぜでしょう。それはキリストの愛が分かったからです。神の愛が分かったからです。そして、その恵みに答えていこうとしていたのです。だから、自分たちが迫害に合っても喜んで耐え忍んだのです。
そうです、34節には「喜んで耐え忍んだ」と書かれているのです。私たちにも喜んで耐え忍んだ時があったはずです。喜べた時があったはずです。今、喜んで耐え忍ぶことができないとするならば、その時と今とは神の恵みが変化してしまったのでしょうか。そうではないはずです。神様は変わらないのです。変わったとするならば、それはこちら側です。神様の恵みも、約束も、永遠の報いも、いっさいは変わっていません。私たちにそれらが見えなくなっているだけなのです。だから、思い起こさなくてはならないのです。喜んで耐え忍んでいたときを思い起こさなくてはならないのです。初めの時に戻らなくてはならないのです。そして、あの初めのころに戻るときに、私たちに欠けていたのは神の恵みではなくて「忍耐」なのだ、ということが分かるのです。
ここで著者はハバクク書2章3-4を文字通りにではありませんが引用して、神様は真実であり、約束を守られ、私たちに必ず報いられるのだということを示します。神様の側は約束に向かって進んでいるのです。だから、私たちも希望を捨ててはならないのです。「正しい者は信仰によって生きる」のです。
2023年9月27日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 10:26~39
2023年9月24日日曜日
「信心は利得の道であるのか」
テモテへの手紙一 6:1-12
神の愛を現す機会に
初期の教会には奴隷の身分の人たちが少なくありませんでした。新約聖書に度々奴隷の身分の人たちへの勧めが記されているのはそのような事情によります。今日お読みしたのもそのような箇所の一つです。
ここでパウロは、まず1節において、主人が信者でない場合について、次のように勧めています。「軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません」(1節)。
もともと尊敬できる主人の下にいるなら何の問題もないのです。このような勧めは必要ありません。しかし、実際には必ずしもそのような主人ばかりではないのでしょう。そのような主人から不当な扱いを受けていたらどうなるでしょう。表面的には恭しく主人に仕えているように見えながら、その心の内において主人を軽蔑するということも起こるのでしょう。
そのような奴隷がキリスト者になった場合、不信心な主人を心の中ではいよいよ見下すようになるということも起こり得ることです。私は救いの真理を知った。主人は偉そうにしているけれど、最も大切な真理を知らない。私はキリストによって救われた。主人は救いのなんたるかを知らない。神の国も永遠の命も知らない、と。しかし、そのように人を見下す思いがあると、表面を繕っても、行動の端々に出てしまうものです。鼻持ちならない態度として現れてしまいます。
主人は思うでしょう。「キリストの教えとやらは人を生意気にさせる。この教えは実に鼻持ちならない人間を作り出す教えだ」と。そして、キリストを罵るようになるかもしれません。どうでしょう。彼の態度は、主人に神の御名と教えとを冒涜する機会を与えてしまうことにもなってしまいます。だからパウロは、「軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名とわたしたちの教えが冒涜されないようにするためです」(1節)と言っているのです。
さらに2節においては、主人がキリスト者の場合について書いています。そこでは別の問題が起こってまいります。主人と奴隷は主の御前においてはまったく平等な兄弟となるのです。すると、それまでただ上下関係のゆえに従っていた人は、従順さを失うことになるかもしれません。
だからパウロは言うのです。「主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです」(2節)。そうです、むしろ今こそ主人を重んじて熱心に仕えるべきだというのです。なぜでしょうか。主人は「神に愛されている者だから」だとパウロは言うのです。
つまり主人に仕えることの意味が変わったのです。かつてはただ上下関係のゆえに、あるいは恐れのゆえに従順に仕えていたかもしれません。しかし、今は違うのです。仕えることは、「神に愛されている者」に、神の愛を現す機会となるのです。奴隷が主人を愛して仕える時、彼は神の愛を運ぶ器となるのです。そのように、同じ仕えるにしても、その意味が変わるのです。
信仰を持ったからと言って、キリスト者になったからと言って、この世における立場が変わらないことはいくらでもあります。いや、通常はそうなのでしょう。置かれている環境が全く変わらないこともあります。しかし、そこにいる意味が変わるということは起こり得るのです。人は置かれている環境に不満を抱き、不平を言いながら生きることもできます。しかし神は、その時と場所を、神の愛を現す機会に変えることができるのです。
利得の道としての信心なら
そして、パウロは言います。「これらのことを教え、勧めなさい」と。「これらのこと」が何を指しているのかは必ずしも明確ではありません。しかし、そう語る理由ははっきりしています。3節にありますように「異なる教え」を説いている教師たちがいるからです。彼らは5節では「信心を利得の道と考える者」と表現されています。すなわち、彼らは信心を「自分が何かを得る手段」としか考えていなかったということです。
恐らくパウロが具体的に念頭に置いていたのは「お金」の話です。9節に「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります」と書かれていることから分かります。実際に彼らは、信心を金持ちになる手段と考え、そのように教えていたようなのです。そして、そのような教えは二千年を経てなお今日にも見られます。キリストを信じるなら物質的にも豊かになるという教えです。「繁栄の神学」や「繁栄の福音」など呼ばれます。
実のところ、そのような「利得の道」はいつの時代も多くの人々の心を惹きつけてきたのです。特に、先に触れた奴隷の身分の人たちや様々な形で社会において抑圧されている人、不当に扱われている人々の心を惹きつけたであろうことは想像に難くありません。小さいから、弱いから、持っていないから軽んじられるのだと思うなら、大きくなること、強くなること、持っている側の人間になることを願って、「利得の道」を求めるようになることはあり得ることでしょう。
しかし、そのような「利得の道」と考えられた信心は、いったい何をもたらすのでしょう。もしかしたら、本当に儲かるかもしれません。豊かになれるかもしれません。それは確かにあり得ることです。現代においても成功の道を説く多くの人が語っているように、人間の強烈な願望が成功や富をもたらすことはあり得ることなのです。実際、彼らの語る「利得の道」が結果を出していなかったら、放っておいても消えていったことでしょう。恐らくは結果を出していたのです。しかし、改めて問いたいと思うのです。そのような「利得の道」は、いったい何をもたらすのでしょう。
パウロはこう書いています。「その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです」(4‐5節)。これが彼の見ていた現実だったのです。確かに、富や力に限らず、要するに「自分が何を得るか」ということにしか関心がなければ、自分の欲求が満たされるか否かにしか関心がなければ、「信心を利得の道と考え」ているならば、そのような神信心から「ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じる」のは無理のないことだとも言えるでしょう。
そして、もう一つ確かなことがあります。少なくとも、そのような信心からは、最初にみた奴隷の身分の人に対する勧めや、「仕えることによって神の愛を運ぶ器になることができるのだ」「神はこの状況を、神の愛を現す機会としてくださったのだ」という理解は生まれてこない、ということです。
真の利得の道
しかし、そこまで言いながらも、パウロはもう一方において「信心が利得の道であること」を一面的に否定はしません。「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です」(6節)と彼は言うのです。なぜでしょう。彼は続けます。「なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです」(7節)。
「世を去るときは何も持って行くことができない」――それは誰もが知っていることです。ならば残るものは何かということも明らかです。それは裸のわたし自身です。この世の命を生きてきたわたし自身です。神との関わり、そして人との関わりの中に生きてきたわたし自身です。ならば、この世に置いていくものをどれだけ得たかということよりも、どう生きてきたかということの方が遙かに重要なことなのでしょう。神と共にどう生きてきたのか。人と共にどう生きてきたのか。それだけが残るのです。
そして、もう一つのことも明らかです。何も持っていくことができないならば、本当に得なくてはならないものは、向こう側にあるということです。こちら側で得るものは全て置いていかなくてはならないのですから。私たちが本当に求めなくてはならないもの、得なくてはならないもの、それを聖書は「永遠の命」と表現します。そうとしか表現できない、神が与えてくださる最終的な救いです。それこそが、それだけが人間にとって真の利得なのです。だからこそパウロは「大きな利得の道です」と言うのです。
そこでパウロはテモテに言います。「しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」(11‐12節)。
「永遠の命を手に入れよ」とパウロは言います。自分の行為や努力と引き替えに「永遠の命を手に入れよ」と言われているわけではありません。永遠の命は、私たちが差し出せる何かと引き替えにできるような、安っぽいものではありません。それはただイエス・キリストの十字架のゆえに、成し遂げられた罪の贖いのゆえに、私たちに与えられる賜物です。代価を払ってくださったのはキリストであって、私たちが支払うのではありません。私たちはただ神に召され、「命を得よ」と語られたのです。そのようにして、備えられている永遠の命に向かってスタートしたのです。
しかし、恵みによって備えられている命を獲得するに至るまでには、それを妨げようとする力が働くのです。それは迫害であるかもしれませんし、罪の誘惑であるかもしれません。それゆえに、なおも走り抜こうとするならば、そこには戦いがあるのです。
だからこそ、この世においても追い求めるべきものがあるのです。それはあの教師たちが追い求めていた利得とは異なります。それとは異なるものを追い求める必要があるのです。「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」と語られているのはそういうわけです。それこそが、信仰の戦いを戦い抜くために必要だからです。そして、私たちがひたすら求めていくときに、誰が与えてくださるかも知っています。それは永遠の命を与えてくださる神御自身です。その意味においても、信心は大きな利得の道なのです。
2023年9月17日日曜日
「さあ、目を上げなさい」
創世記 13:1-18
説教:森野真理牧師(福野伝道所、福光教会)
失敗から主に立ち帰らされる
今日ご一緒に聴く聖書の言葉は、のちのアブラハムの物語です。アブラムという名前は、後に神様によってアブラハムという名前に改名します。「イスラエルの信仰の父」と呼ばれるアブラムですが、なぜそのように呼ばれるのか、どのような人物であるのか、その人物の歩みを通して私たちに何が語られているのか、今日の聖書からご一緒にお聴きしましょう。
アブラムの旅についてダイジェスト版でお話しするところから始めたいと思います。アブラムの旅は、カルデアのウルという場所から始まりました。アブラムはまずカナンの地に導かれました。このカナンの地をあなたとあなたの子孫に与えるという約束の土地を、アブラムに見せるためであったからです。その場所において、アブラムは祭壇を築き、神様を礼拝しました。次に導かれた土地でも、アブラムは祭壇を築いて主の御名を呼び、礼拝をささげたと書かれています。75歳から始まった神様と人生を共にするアブラムの旅路は、神様を礼拝することと共にありました。
しかし、旅の序盤で最初のつまづきの出来事が起こりました。いわば信仰の試練です。それはアブラムたちが滞在していた場所で飢饉が起こったときでした。飢饉は命の危機ですから、家のリーダーであるアブラムは家族にとって一番いい方法を考え抜いたすえ、エジプトに逃れるという選択をしました。ナイル川があるために土地が肥えていて作物がよく実る大国エジプトには、アブラムと同じように飢饉から逃れてきた人々がたくさんいたでしょう。人の目から見れば、これはとても良い、安全な選択であったに違いありません。でも神様の目には、このアブラムの選択は良しとされなかったのです。なぜなら、危機に直面したアブラムが頼ったのは、自分の知恵であり大国エジプトという人間の力であったからです。そればかりか、アブラムは自分の美しい妻を妹と偽って保身を図り、その偽りによって大きな財産を得ました。しかし、神様が与えると約束してくださった土地から離れ、神様を信頼することのできなかったアブラム・・・ではなく、エジプトの人々が災難に遭います。それはエジプトの人々に主なる神様の力をあらわすためでした。アブラムが嘘をついていたせいで災難を被ったのですから、普通ならばここで殺されてもおかしくない状況です。でもそうならなかったのは、アブラムの命が奪われることのないように、神様がその力をエジプトの人々にあらわされたからです。命どころか、エジプトで得た豊かな財産も奪い返されることなく、アブラムは旅を再開し、彼が祭壇を築いて最初に主の御名を呼んだ場所、神様を礼拝した場所に戻ってきました。
神様を礼拝する場所に戻ってきたのは、アブラム自身が選び取って、まずここに帰ろうと考えたからかもしれません。自分は神様に導かれて旅を始めたのだから、その旅の原点に帰って自分を見つめ直そうと考え、自分が築いた礼拝の祭壇の場所に戻ってきたのだと思います。私は、何かをするために部屋の中を移動して、目的の場所に到着したら、何をするために移動してきたのか忘れてしまった、ということがときどきあります。何をするのか思い出すために、来た道を逆戻りして、本来の目的を思い出そうということなのですが、もしアブラムが自分で考えて原点に戻ったのなら、それと同じことだと思います(エジプトから直接カナンに戻らずネゲブ地方を経由している)。
一方で私は、神様がアブラムを導いてエジプトから連れ出し、旅の原点に連れてこられたのだろうと思います。アブラムは自分の知恵で失敗して、きっとおおいに自信を失っていたからです。アブラムが自分の意志で来た道を辿ったのではなく、神様がアブラムが歩んだ道を振り返りつつ、原点にまで導かれたのでしょう。
豊かさが起こす争い
さて、エジプトから豊かな財産を携えて原点に帰ってきたアブラムですが、今度はその豊かさゆえの危機に直面します。
アブラムの甥であるロトも、エジプトまでの旅に同行し、そしてエジプトから帰ってくる道のりをも共に旅していました。エジプトのファラオからたくさんの財産を贈られたのは、ロトも同じであったようです。これが元となって、問題が生じてしまいました。その問題とは、13章5〜7節にある通りです。「アブラムと共に旅をしていたロトもまた、羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていた。その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた(13:5-7)」。
この旅において、アブラムたちはどこまでも異邦人、仮住まいの旅人です。「そのころ、その地方にはカナン人もペリジ人も住んでいた(7b節)」とあるとおり、旅で滞在する土地には別の民族が住んでおり、彼らが天幕を広げて生活を営める場所は限られていました。そのため、なおのこと争いを続けるわけにはいきませんでした。カナン人やペリジ人、つまり神様を知らない人々の前で争いを続けることは、そこに共同体の弱さ・脆さを見せつけることになるからです。そればかりか、異邦人たちに主なる神様なんて大したことないと思わせることになりかねないのです。
弱さから出た提案
このような危機に直面したアブラムは、これまで旅を共にしてきた甥と、行く道を別れることを提案します。さらには、年長者の自分から行き先を決めるのではなく、先に甥のロトに選ばせ、自分はその反対に行こうという提案をしました。ロトは自分にとっての利益をもたらすものは何かという考えに基づいて、よく潤っている土地を選択し、アブラムは甥とは反対の道を行くという選択をしました。
ここでのアブラムの提案は、確固たる神様への信頼があり、謙遜で、信仰の父として呼ばれるにふさわしいと言えるでしょう。年長者の自分よりも、甥が好きな土地を選べるようにさせ、自分の進む道は神様に委ねたからです。
しかしここには、もう一つの見方があります。このときのアブラムの選択は、彼の弱さゆえの決断の放棄とであるという見方です。飢饉に直面したとき、神様に信頼するよりも自分で自分の身を守ろうとしたアブラムは、今度は自分の行く道を年下の甥に委ねるという弱さを発揮したということです。エジプトでの出来事のあと、彼は自信を失ったままだったのかもしれません。そう考えますと、甥のロトは自分と家族のため、また自分と共に歩む者のために、最善と思われる道を決断したと言えます。人の目によく潤っていて、自分たちが路頭に迷うことのなさそうな、そういう道を選び取ったのです。年長者のアブラムに対して遠慮がないとも言えますが、でも人として当たり前の判断をしたのです。もし創世記がイスラエルの歴史を残すためだけの書物であるなら、むしろロトのほうが人間的に優れた家長としてさえ描かれるかもしれません。しかしここで揺るがないことは、どのような弱さを持っていようが、聖書はアブラムをイスラエルの歴史の始まりとして、また信仰の父として語っているということなのです。そのように神様がアブラムを選んだからです。
アブラムは、ネゲブ地方で飢饉に遭い、自分の知恵を頼りにエジプトに逃れることを選びました。そして、そこでなんとか生き残り、かつ自分に利益をもたらすために妻を妹と偽りました。危機に直面したときこそ、その人の生き方が問われるし、弱い部分が表にあらわれます。アブラムや私たちにおいては、危機に直面したときに、いかに神様に委ね、信仰に立ち続けるかということであろうと思います。エジプトでの出来事を通して、アブラムは劇的に回心して、信仰の父としてふさわしい姿を見せたのかもしれません。もうあのような失敗はしない、自分の行く道は、自分の知恵によって定めるのではなくて、いつも神様に委ねて進んでいくのだと決意した、それが13章のアブラムの姿であると言えるでしょう。しかし一方で、私たちの弱さは簡単に変わるものではないこともまた、事実であろうと思います。
ロトが去っていたあと、アブラムはきっと自分の弱さに打ちひしがれていたでしょう。これが神様に示された道だ、さあ行こう、と肚を括って前に進んでいくよりも、自分のしたことに嘆いていたかもしれません。もしかしたら、アブラムの家畜を飼う人々からは、なぜロトにあんないい土地を譲ったんですか、年長者のあなたが先に選べばよかったじゃないですかと責められていたかもしれません。そうなったらいよいよ自分の弱さばかりを見てしまいます。自分の弱さと罪に打ちひしがれ、自信をなくして下を向いていたであろうアブラムに、神様は「さあ、目を上げなさい」と語りかけます。
(結び) さあ、目を上げなさい
ロトとアブラムが道を分かつ場面には、 「目を上げて」という言葉が2回出てきます。1回目の「目を上げて」は、ロトがアブラムに促されて進む道を選ぶときでした。そして彼が目を上げて見た「よく潤っていた」土地は、自分が求めるもの、つまり自分に利益を与えるのはどこかという視点で見つけたものでした。2回目の「目を上げて」は、神様がアブラムに「目を上げて・・・見渡しなさい(14b節)」と言われたときでした。アブラムの目に映ったのは、神様から与えられる土地、神様からいただく恵みでした。アブラムは、神様から見える限りの土地をあなたとあなたの子孫に永久に与えるという約束を聞き、ヘブロンという土地にあるマムレの樫の木のところに来て、そこにしばらく留まりました。そしてそこでも神様を礼拝して生活したのです。
このマムレの樫の木というのは、アブラムの人生にとって象徴的な場所であると思います。マムレの樫の木のそばに住んでいるときに、神様はアブラムに星空を見せて、あなたの子孫はこの星の数のようになると約束されました。また、アブラムのもとに訪ねてきた三人の御使をもてなしたのも、アブラムの息子イサクの誕生が告げられたのも、このマムレの樫の木のそばにいるときでした。そして、彼の妻サライを葬るために、アブラムはマムレの樫の木の近くに土地を買い、それがアブラムがその生涯で与えられた唯一の土地となりました。弱さに打ちひしがれていたアブラムに、神様が約束された土地のほんの一部が与えられ、アブラムは地上の歩みを終えました。
アブラムに与えられたのは本当にほんの一部の土地でした。しかし確かに、ほんの一部の小さなところから、神様の約束は実現されていったのです。その約束の実現は、目を上げて、私の与えるものを見なさい、という神様の言葉を受け取らなければ、見ることのできないものでした。このあとのアブラムの姿は、劇的に変わっていつも信仰の父たる者の姿だった、とは言えません。サライとの間にイサクが与えられることを神様から告げられたアブラムは、そんなこと起こるわけないと信じず、神様にひれ伏しながらも笑っていました。またゲラルという場所に滞在したときにも、サライのことを妹と偽りました。このように、アブラムは変わらず弱さを持っていました。しかしそれ以上に、神様の約束は変わることなく、アブラムを用いてご自分の約束を実現されていったのです。「目を上げて」神様の約束を見る、とは、私たちの弱さ、罪の姿を丸ごと受けとめ、深く憐れみ、深く愛する神様のご計画が、自分のためのものだと受けとることなのです。
長い間、私はアブラムあらためアブラハムという人は、信仰的な失敗のない人というイメージを持っていました。「信仰の父」と呼ばれるにふさわしい部分だけを蓄積させていったからだと思います。でも創世記をじっくり読み、アブラムの人生の旅路を味わえば味わうほど、彼は小心者で、自分に自信がなくて、信仰が問われる場面では神様から離れる選択をしてしまう、私たちの姿を重ね合わせられる人だなあと思わされます。そういうアブラムが、また私たちが、神様よりも自分の知恵や利益を優先させて失敗しても、神様はあきらめない、見放さない、神様と共に歩む道へと再び導いてくださる。そのことをアブラムの旅路を追う私たちに語られているのです。アブラムが「信仰の父」と呼ばれるのは、信仰的失敗によって何度落ち込もうとも、そのたびに神様の語りかけに応えて、その約束の実現を信じながら旅を続けたことにあるのだと思います。
神様が信仰の父アブラムになさった約束は、私たちにまで広がり、イエスさまの十字架と復活の出来事を通して、すでに成就されました。この救いの約束の実現を信仰によって受け取りましょう。そして目を上げて、神の国で生きる永遠の命が与えられるという、さらなる約束の実現を待ち望みたいと願います。私たちが先のことを案じても、できることは限りがあります。しかし神様はそのような私たちのために、永遠の希望を約束してくださっています。どんなに私たちが弱く、罪に生きる愚かな姿をさらそうとも、神様は約束を放棄されません。それどころか、そのような私たちのために折に触れて語りかけてくださるのです。「さあ、目を上げて、私の約束を見なさい」。私たちは、順調なときも、危機に直面して自分の弱さに打ちひしがれるときも、目を上げて、神様の約束を希望にして歩んでいくのです。
2023年9月13日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 10:19~25
ヘブライ人への手紙 10:19‐25
「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています」(19節)。
ここまでの話で明らかなように、ここで「聖所に入れる」と言われているのは、エルサレムの神殿の聖所に入れるということではありません。本当の意味で神の御前に出るということです。神に近づくということです。神との交わりに入り、神と共に生きることです。22節の終わりにも、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」と勧めています。これまでの話は全て、私たちは聖所に入れるのだ、私たちは神に近づくことができるのだ、ということを語るためだったのです。
度々お話ししていますとおり、この手紙が書かれた時点では、教会は既に大きな迫害を経験しており、なお様々な困難の中にありました。それぞれの試練の中に生きていたのです。そのような彼らに対して、この著者は、いかに苦難を切り抜けるかということを語るのではなくて、神に近づくべきことについて語るのです。
人は苦境から解放されることを望みます。悩みが取り除かれること、悲しみが癒されることを求めます。そして、求めて良いのだと思います。しかし、人間にとって本当に必要なことは、そして最終的な救いとなることは、たとえ困難の直中にあっても神に近づけることなのです。神との交わりが与えられることなのです。その交わりの中で、真に神の与えてくださる希望をもって、天の故郷を目指して生きることなのです。そのような意味において、「兄弟たちよ、わたしたちは聖所に入れるのだ」と語っているのです。
それはただ一重に「イエスの血によって」なのです。天の聖所の写しである地上の聖所に仕えていた大祭司という存在が指し示していたまことの大祭司として、キリストはただ一度完全なる罪の贖いの祭儀をなしてくださり、またその大祭司は永遠に生きていて、常に生きていて、私たちのために執り成していてくださる。しかも、その大祭司が罪の贖いの犠牲として捧げたのは、動物の血ではなくて、御自分の血でありました。イエス様は、そのように大祭司となり犠牲となってくださった。それが「イエスの血によって」という言葉に込められている意味です。
それがここでは別な表現を得ています。「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」(20節)。つまり、イエス様のしてくださったことは何であるのかと言えば、それはイエス様が私たちのために道を開いてくださった、ということなのです。聖所への道を開いてくださった。すなわち神の御前に出る道を開いてくださったのです。
実は、細かいことを言いますと、「御自分の肉を通って」という翻訳よりは、「御自分の肉を通って行く」とした方が良いように思われます。この訳ですと、イエス様が御自分の肉を通って道を開いたことになりますでしょう。もちろんそれも訳の一つの可能性です。しかし、もう一つの訳の可能性は、「御自分の肉を通って行く、新しい生きた道を開いてくださった」です。すなわちそこを通るのはイエス様ではなくて、私たちなのです。そして、その方が正しいように思われます。なぜならここでは「垂れ幕、つまり、御自分の肉」と言われているからです。
既に見てきたように、それまでは神殿の垂れ幕にしても、幕屋の垂れ幕にしても、大祭司以外は通ることができなかったのです。それを通る道はなかったのです。しかし、その垂れ幕を「通って行く」道が開かれたのです。どのようにしてでしょう。垂れ幕が裂かれることによってです。
そこで私たちが思い起こしますのは、福音書が伝えている十字架の場面です。「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マルコ15:37-38)。そのように伝えられています。ヘブライ人への手紙の著者が念頭に置いているのも、恐らくはこの出来事であろういと思われます。
イエス様の肉が、ちょうどあの最後の晩餐のパンのように裂かれたその時に、神殿の垂れ幕も裂かれたのです。そのようにして聖所への道が開かれたのです。人は、いわば裂かれたキリストの体を通って、聖所へと入っていくのです。キリストの肉を通って聖所へと入っていく、新しい生きた道を、キリストはわたしたちのために開いてくださったのです。そして、それは「生きた道」と呼ばれているように、決して死んでしまわない道、閉ざされてしまわない道なのです。永遠に開かれた道なのです。
ここにおいて、私たちが神に近づき、礼拝し、祈るということのイメージがはっきり見えてきます。私たちは礼拝する時、祈るとき、天の至聖所に入っていくのです。垂れ幕で仕切られていた所に入っていくのです。そのように、本来私たちが決して近づき得ない聖なる御方に近づいていくのです。それが礼拝であり、祈りなのです。
かつて大祭司が雄羊と雄牛の血を携えていったように、私たちもまた見えざるキリストの血を携えて神に近づくのです。キリストの血潮による罪の赦しなくして、罪人である私たちは神に近づき得ないからです。そして、私たちが聖所に入っていくのは、キリストが開いてくださった道を通ってです。そこにあったはずの垂れ幕は既に引き裂かれてしまっています。十字架において裂かれたキリストの体、裂かれたパンによって表されているキリストの体です。私たちは裂かれたキリストの御体を通して開かれた見えざる道を通って天の聖所に入り、神に近づくのです。
そこには血を流してくださった方が復活されて、偉大なる祭司として仕えていてくださいます。私たちのためにこの方が執り成していてくださるのです。私たちはもはや良心の咎めによって苦しむ者ではありません。特にこの大祭司のもとにおいて授けられる、「洗礼」という聖礼典が、見える形でこの恵みを表わしています。「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われている」と書かれています。そのような者として神に近づくことができるのです。ですから、聖書は私たちに次のように力強く勧めるのです。「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」と。
私たちにそのように神に近づく道が開かれていること、神に近づこうではないかと勧められていることは、直接私たちの希望を関係しています。というのも神に近づいてこそ、困難の中にあってなお、希望を保ち続けることができるからです。
人はいかにして現実を突き抜けて未来に思いを向けることができるのか。それは未来を手にしておられる方の真実なることを知り、その御方に信頼することによってです。未来を手にしておられる真実なる神は、私たちに約束を与えてくださっているのです。既に語られましたように、「神の安息にあずかる約束」(4:1)が与えられているのです。「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と書かれているのであって、神の業は既に出来上がっているのです。時間の中にいる私たちにはまだ見えません。しかし、必ずそれが現れる時が来るのです。その安息に与る約束を与えられているのです。その希望を保ち続けるためには、繰り返し繰り返し、神に近づくことが必要なのです。
しかし、またそれは互いに励まし合いながらでなくてはできないことです。だから「互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか」(24‐25節)と語られているのです。神に近づくこと、また励まし合うことの意味を知る人ならば、困難の中にある時こそ、集まって共に礼拝することを切に求めるようになるはずです。
2023年9月10日日曜日
「キリストの十字架こそが誇り」
ガラテヤの信徒への手紙 6:14-18
誇りたいため
今日はパウロがガラテヤの教会に宛てた手紙の最後の部分をお読みしました。手紙の最後に至って、パウロはこう言っています。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(14節)。言い換えるならば、キリストの十字架こそがわたしの誇りだ、ということです。あくまでも「このわたしには」という話です。一般論ではありません。「すべての人がそうあるべきだ」という主張は、ここにはありません。
そのように、あくまでもパウロ自身の話なのですが、このような言葉に出会いますと、やはり私たち自身のことを考えざるを得なくなります。ではパウロではなく、「このわたしには」何が誇りなのだろう。何を誇りとして生きているのだろう。何によっても奪われない、最後まで失わない誇りとは何なのだろうか。今日、この箇所を共に読んでいる私たちには、改めてそのことが問われているようにも思います。
何を誇りとして生きているのか。実は、今日の聖書箇所の直前には、別の誇りに生きる人たちのことが書かれているのです。「割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます」(13節)。それに対して「しかし、このわたしには…」とパウロは語り初めているわけです。
「あなたがたにも割礼を望んでいます」。ガラテヤの信徒たちが割礼を受けることを望んでいる人たちがいました。その前には「あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」という言葉もあります。ガラテヤの信徒たちのほとんどはユダヤ人ではなかったと思われます。割礼を受けていない人たちです。異邦人がイエス・キリストの福音を聞いて信じてキリスト者となりました。その彼らに割礼を受けさせ、ユダヤ人にしようとしていた人たちがいたというのです。
彼らがガラテヤの信徒たちに割礼を受けさせようとしていたのは「誇りたいため」だと言います。自分たちが誇るために、彼らをユダヤ人にしようとしていた。もちろん「私たちが誇れるように、あなたがたは割礼を受けなさい」などと露骨に言う人はいないでしょう。彼らは「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた教師たちなのです。そうです、救われるために「割礼を受けなさい」と言っていたのです。
しかし、彼らは「あなたがたの肉について誇りたい」だけだとパウロは言うのです。パウロ自身はユダヤ人です。だから分かるのです。かつて彼もそのように生きていましたから。そうです、誇りたいのです。「誇りたい」というのは誰に対してですか。もちろん他の人間に対してです。どうして人に対して誇りたいのか。他の人間が自分をどのように見なすかが重要だからです。だから人に対して優位にあること、自分の価値あることを示したいのです。
紀元一世紀の頃のユダヤ教世界においては、異邦人への伝道が盛んに行われていたことが知られています。実際、ユダヤ教の世界に惹かれて会堂に出入りする異邦人は少なくありませんでした。会堂に出入りする異邦人は、「神を畏れる人たち」と呼ばれていました。その中にはローマの百人隊長であったコルネリウスのような人までいたことが伝えられています(使徒10:1)。
そのように異邦人が教えを乞い、会堂に出入りし、さらには割礼を受けてユダヤ人のコミュニティの一員になるということ――それはユダヤ人にとって、自分たちの優位性の証明でもあり、人間の内にある「誇りたい」という欲求を十分に満足させるものだったのです。
ガラテヤの異邦人キリスト者に割礼を受けさせようとしているユダヤ主義者たち。彼らはそうしている限り、同胞であるユダヤ人からの迫害を免れることができるでしょう。しかし、それだけではありません。パウロは彼らの内に、他のユダヤ人と同じ、「誇りたい」という動機があることを、パウロは知っていたのです。
そのように宗教的な世界にさえ、そのような「誇りたい」という思いがついてまわります。そのような「誇りたい」という思いは、繰り返しますが、常に人に対してです。人に対して誇りたいのは、人からどう見なされるかが重要だと思っているからです。人に対して優位にあること、自分の価値あることを示したいのです。
十字架こそが誇り
しかし、ここでパウロは言うのです。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」。そこでパウロはイエス・キリストを指し示すのです。しかも、惨めな、無残な、十字架にかかっている姿を指し示すのです。そして言うのです。この十字架こそわたしの誇りだ、と。
パウロが指し示す、イエス・キリストの十字架に目を向けてみましょう。そこには何が見えてくるでしょう。まず、そこに見えてくるのは神の正しい裁きです。神が正しく裁かれるとは、こういうことだということです。
十字架にかけられているキリスト。なぜキリストは十字架にかけられているのか。なぜそこで血を流し、苦しんでいるのか。なぜキリストは呪われた姿で死んだのか。聖書は言います。それは私たちの罪を代わりに負われたからだ、と。私たちに代わってキリストは死なれた。それは何を意味しますか。キリストが身代わりになってくださらなければ、そこにいるのはわたしであり、あなただということです。神が正しく裁かれるならば、十字架の上で呪われた者として滅びていくのは、わたしであり、あなただということです。
その意味において、私たちのつまらない誇りなどは、十字架の前では意味を全く失います。そこで向き合うことになるのは、私の全てをご存じであり、全てを見ておられる方だからです。何が本当に善なることであり、何が本当に悪であるのかを分かっておられる方だからです。その御方を前にして、自分自身を誰かに対して誇ったところで、そんな誇りなど、神の正しい裁きの前においては、簡単に吹っ飛んでしまうようなものでしょう。
わたしがしてきたこと、あなたがしてきたこと、それが神の御前で正しく裁かれるならば、本来いるべきところは十字架の上ではないか。――十字架が示しているのは、そういうことです。十字架の前に身を置くならば、神の正しい裁きの前に身を置くならば、人はもはや何も誇れなくなります。そこにおいては、どんな人であっても、ただの一人の罪人に過ぎないからです。
しかし、イエス・キリストの十字架をさらに見つめるならば、もう一つのものが見えてきます。正しい神の裁きの向こうに見えてくるのは神の愛に他ならないのです。そこに釘づけられているのは、わたしではないのです。あなたではないのです。そうではなくて、神の独り子なのです。その御方が十字架にかけられているのです。わたしの代わりとして、あなたの代わりとして。
キリストはただ「全人類のために」十字架にかかられたのではありません。パウロは、この同じ手紙の中で次のように語っています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(2:20)。そうです、パウロは「全人類のために身を献げられた神の子」とは言わないのです。「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」と彼は言うのです。
そのように、イエス様は全人類のためではなくて、わたしの代わり、あなたの代わりになってくださったのです。言い換えるならば、わたしが救われるためには、あなたが救われるためには、独り子を十字架にかけても良い、御子を身代わりにしても良いと神は思われたということです。私たちが罪を赦されて、神の子として生きるようになるためには、どれほど大きな犠牲を払っても厭わない。そう神は思われたということです。それほどに私たちを価値ある存在として見てくださったということです。
だからこそ、イエス・キリストの十字架こそがわたしの誇りだとパウロは言うのです。人に対する誇りではありません。もはや人に誇る必要などないからです。人がどう見なすかは関係ないからです。そもそも、それが本来あるべき姿なのでしょう。人がどう扱うか、人が何を言うか、人がどう見なすかによって、自分の価値を決めさせてはならないのです。人間の価値は神が決めるのです。神が価値ある存在として見てくださったなら、人が何を言おうと、どう扱おうと関係ないのです。
ですからパウロはさらにこう続けるのです。「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」(14節)。世はわたしに対しては死んだもの、わたしは世に対しては死んだもの。だから、世が何を言おうが、世がどう見なそうが、どう扱おうが関係ないのです。その意味で「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」(12節)と語られている人々とは対極にいるのです。
実際、パウロは迫害の中にいるのです。世は彼を疫病のような人間と呼びました。世のクズのように扱い、お前などいないほうがよい、と言うのです。しかし、それで何が変わるわけでもありません。何も損なわれることはない。パウロにとっては十字架こそが誇りだからです。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」。
この言葉の前に、改めて問われています。私たちは何を誇りとして生きているのでしょう。人に対して一生懸命に誇りながらこれからも生きていくのでしょうか。人の言葉や扱いによって自分を値踏みしながら生きていくのでしょうか。私たちの内にある誇りは、最後まで失われずに残るものなのでしょうか。「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」このパウロの言葉を前に、私たち自身について、よく考えたいと思うのです。
2023年9月6日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 11:1~18
ヘブライ人への手紙 10:1‐18
8章の始めに要約として書かれていたことを、もう一度振り返っておきましょう。「今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです」(8:1‐2)。
そこでまずは聖所とそこにおける大祭司の務めに目が向けられ、最初の契約における地上の聖所は天の聖所の写しであり影に過ぎないのだ、ということが語られてきました。地上の聖所と祭司制度は天にあるものを指し示すものであり、また来るべきまことの大祭司の務めを指し示すものに過ぎないのだということです。そして、その写しによって指し示されていた本当の聖所に仕える大祭司が現れてくださったのであり、今も執り成していてくださる。それがイエス様であるということなのです。
さらにその要約は、次のように続けられていました。「すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません」。
この「献げる物」については、前回お読みしました9章の後半に次のように述べられていました。「また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました」(9:25‐26)。キリストは、自らの体を贖いの犠牲として献げ、ただ一度限りの、罪の贖いの祭儀を行ってくださったのです。今日お読みしました10章は、そのことについてさらに詳しく展開しています。
今日の箇所において、「いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません」(1節)とこの著者は語り始めます。既に見てきましたように、ここで考えられているのは、主に祭儀律法です。「礼拝の規定と地上の聖所」(9:1)に関することです。特にここで取り上げられているのは罪の贖いの儀式に関することです。
律法で定められて行われてきた罪の贖いの儀式は影に過ぎない。実体がない。つまり本当の意味で罪は贖われてはいないということです。それは来るべき良いこと、本当のこと、実体としての罪の贖いと罪の赦しを指し示すものに過ぎないのだということです。それはでは予告編を見せられてきたに過ぎないのです。しかし、ついに本編を見る時がきたのです。既に述べられていたように、その実体とはイエス・キリストにおける罪の贖いです。
そのように、動物犠牲が献げられた祭儀には罪を贖う実体がないわけですから、罪は実際には取り除かれないのです。だから、どんなに毎年犠牲が献げられても、「神に近づく人たちを完全な者にすることはできません」と書かれているのです。
この場合、「完全な者」とは、神に近づけるという意味での完全です。「神との間に何の隔てもない」と言い換えてもよいでしょう。人間が献げる犠牲は、神との間の隔てを完全に取り除くことはできないのです。
もし人間の献げる動物犠牲で隔てが取り除かれているならば、一回犠牲を献げた後には、「礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか」と彼は言います。この場合、「罪の自覚がなくなる」という表現は、誤解を招くかもしれません。むしろ「わたしは赦されていないという意識がなくなる」と言い換えて理解したらよいでしょう。
罪の贖いの犠牲を献げるけれど、そこで起こるのは「罪の記憶がよみがえって来る」ことだけだというのです。「わたしはまだ赦されていない」という意識が残っているのです。「わたしはまだ赦されていない」という思いをもって、毎年、それこそ一生懸命に犠牲を献げるのです。罪を赦してもらうために毎年犠牲を献げるのです。どうしてそうなるのでしょうか。「雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないから」なのです。
これに対して、キリストが献げられた犠牲とは何であるかが語られます。ここで引用されているのは詩編40編です。(ギリシア語訳聖書からの引用ですので、私たちが持っている詩編とは若干言葉が異なります。)その詩編がキリスト預言として読まれています。というよりも正確には、キリストが世に来られる時に(いわば受肉の直前に!)こう言われたのだ、このような意図をもって来られたのだと読まれているのです。
神は律法に従って献げられる犠牲、罪を贖う犠牲を「望みもせず、好まれもしなかった」。もし神様がそれを「望んでいた」とするならば、罪の贖いというものは、いわば「神様の望んでいるものをあげますから、罪の赦しをくださいね」という人間と神との間の取り引きのようなものになるでしょう。しかし、そうではないのだ、と聖書は語っているのです。
そうではなくて、神が望んでいること、神の御心としていることは別にあったのです。その御心を行うために、キリストは来られたのだというのです。その御心とは何でしょうか。「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです」(10節)。これこそが神の望んでおられたことなのです。
さらにこう書かれています。「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです」(11‐13節)。
キリストが犠牲を献げるのは一回限りです。その後は永遠に神の右の座についてくださったのですから、もう二度と犠牲を献げることはありません。あの犠牲は一回にして完全に有効なのです。「なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです」。これがキリストを信じて救われるということです。永遠に完全な者とされるのです。神との間に隔てのないものとされるのです。永遠に!あのエレミヤ書の預言にも書かれていたとおりのことが起こるのです。「もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない」。神が新しい契約においてこう宣言されるならば、もはや罪を贖う犠牲は不要なのです。
ここで私たちの礼拝のあり方をよく考えてみる必要があろうかと思います。私たちが毎週の礼拝において、繰り返し罪の悔い改めの祈りを捧げ、罪の赦しを求めるのは、かつてイスラエルの人たちが罪の贖いの犠牲を献げていたのとは根本的に異なるのです。私たちのための贖いの犠牲は既に献げられたのです。私たちは、その一回限りの犠牲によって、永遠に完全にされているのです。私たちは赦されているのです。既に赦されている者として、罪の赦しを求めて御前に出るのです。
それは丁度、既に完全に子どもを赦している親のもとに、子どもが「ごめんなさい」と言って帰ってくるのに似ています。子どもが「ごめんなさい」と言ったから、あるいは償いをしたから、初めてそこで赦されるのではないのです。しかし、親は子どもが自分の罪を認めて赦しを求めて帰って来ることを望みます。それは交わりが妨げられないためなのです。私たちが礼拝において罪の赦しを求めるのは、既に赦されている者が、神との交わりに生きることを妨げられないようにするためなのです。神との交わりに生き続ける営みに他ならないのです。
私たちが為さねばならないのは、罪の赦しを得るために繰り返し犠牲を献げるような類のことではありません。まだ罪が赦されていない、十分に赦されていないという意識を持ちながら、その隔てを取り除くために何かを行ったり、神の望まれるものを献げて、その代わりに罪の赦しを得ようとすることではありません。既に赦されているのです。
そこには何と書かれていますか。「キリストは、敵ども、すなわちサタンとその勢力が御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられる」と書かれているのです。ならば、赦された者として神との交わりの中に留まり続け、「サタンとその勢力がキリストの足台となるその時のために、主の戦いに参加し、主に仕えることこそが重要なのです。
2023年9月3日日曜日
「お返しができない人を招きなさい」
ルカによる福音書 14:7-14
お返しができない人を招きなさい
ある安息日にイエス様はファリサイ派の議員に招かれて食事の席に着かれました。そこでイエス様は自分を招いてくれた人にこんな話をなさいました。
「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(12‐14節)。
招いた人からこんなことを言われたらどうでしょう。少々ムッとしたかもしれません。しかし、彼がファリサイ派の人ならば、イエス様の語っている内容そのものには反発しなかったはずです。ファリサイ派の人たちが大切にし、励んでいる善行の中には「施し」も含まれていたからです。ですから、イエス様の話は多少極端に聞こえたかもしれませんが、貧しい人を招きなさいという教えには心から同意したはずなのです。
さらに言うならば、イエス様の言っておられるのは、要するに「お返しができない人を招きなさい」ということです。言い換えるならば「人からの報いを求めるな」ということです。なぜか。本当の報いは神から来るからです。「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」とはそういうことです。最終的に神の国に入れられるときに、神様が報いてくださる。――それはファリサイ派の人ならば誰だって信じていることなのです。彼らは死んで終わりだとは思っていない人たちです。その点においては同じユダヤ人でもサドカイ派の人たちとは異なります。彼らは神の国を信じています。神の国における報いをも信じているのです。ですから「報いは神の国において」という教えには喜んで同意したはずなのです。
それゆえに、今日の朗読箇所には含まれていませんが、話はこう続くのです。「食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、『神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう』と言った」(15節)。これを言った人は間違いなくファリサイ派の人です。彼はイエス様の話を聞いて心から同意したのです。そして、神の国における神からの報いを思ってこう言ったのです。
そのように、「お返しができない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」という教えは、ある意味ではファリサイ派の人にはとても分かりやすいのです。しかし、イエス様は、ファリサイ派の人も常々口にしているような、単純な「報いを求めない善行の勧め」として、これを語っておられたのでしょうか。
上席を選ぶ様子を見て
ある言葉が語られた場合、その言葉がどのような場面で語られたのか、ということはとても重要です。語られた場面によって、同じ言葉も全く違って聞こえてくることがあるからです。それでは、この場面そのものに目を向けてみましょう。
最初に申しましたように、イエス様はファリサイ派の議員に招かれて食事の席に着かれました。しかし、食事に招かれたのはイエス様だけではなく、他にも招待客がいたようです。そして、イエス様が目にしたのは招待を受けた客が上席を選ぶ様子でした。そこで彼らにこんなたとえ話をなさいました。
「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる」(8‐10節)。
イエス様が言っておられることは、なるほどもっともな話です。そして、それは昔から語られてきたことでもあります。本日の第一朗読でも「高貴な人の前で下座に落とされるよりも、上座に着くようにと言われる方がよい」(箴言25:7)と読まれましたでしょう。
にもかかわらずイエス様があえてこの話をなさったのは、これが単なる食事の席の問題に留まらないからです。イエス様はここで「たとえ話」をなさっているのです。ただの食事の話ではありません。「婚宴に招待されたら」という話をしたのです。そのような「婚宴」のたとえ話をしたのは、「婚宴」あるいは「祝宴」が神の国を象徴的に表すものとして、旧約の時代から用いられてきたからです。イエス様は単なる謙遜の勧めをしているのではなく、「神の国」の話をしているのです。
上席を選ぶ彼らの様子。それは単に食事の席だけの話ではありません。それは神の国に対する彼らの態度でもあったのです。彼らが上席を選んでいたのはなぜですか。自分こそ上席にふさわしいと考えていたからでしょう。自分こそ招待されるべき人間だと思っていたからでしょう。そのような思いは神の国についても同じだったのです。自分こそ神の国の上席にふさわしい人間だ、と。自分こそ神の国において報いられるべき人間である、と。実際、招待客の一人は言っていましたでしょう。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」。当然、神の国で食事をする人の中に自分は入っているのです。
そのような人たちに、イエス様は「婚宴」のたとえ話をされたのです。神の国の話をされたのです。そして、こう締めくくったのです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)。
罪人のわたしを憐れんでください
そのように、これは一般的な意味における謙遜の勧めではありません。神の国の話です。「高ぶる者」「へりくだる者」についても、一般的な話ではなく、神との関係における話なのです。
実は、この「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉は、18章においてほとんど同じ形でもう一度出て来ます。そこに至りますとイエス様の意味していることがより明確に現れてきますので、そこも読んでおきましょう。18章9節以下には次のように書かれています。
「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる』」(18:9‐14)。
ここに出て来るファリサイ派の人は、明らかに人と人との比較の世界に生きている人です。それこそ「上席」「末席」の世界に生きているのです。だから自分と比較して徴税人を見下すのです。しかし、この徴税人は違いました。人と比較して自らを語っているのではありません。神の御前において自分を正直に認めて、憐れみを乞うているのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と。イエス様が「へりくだる者」と言っているのは、そのような人間の姿です。そのような意味において「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と主は言われたのです。
神の国への招きとは
そして、最初に見たように、「お返しができない人を招きなさい」という話をなさったのです。なぜ、お返しができない人を招くのか。それは単なる施しの勧めではないのです。単に人から報いを求めなくても神様が報いてくださいますよ、という話でもないのです。
イエス様は神の国の話をしておられるのです。なぜお返しができない人を招くのか。貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人、お返しができない人たちが招かれた祝宴こそが、神の国を指し示すものとなるからなのです。神の国とはどのようなものなのか。神の招きとはどのようなものなのか。それを指し示す食事となるからなのです。神の国にはお返しができない人が招かれるのです。そうです。神はお返しができない人を招かれるのです。そのことを、上席を取り合っていた招待客たちは知らなくてはならなかったのです。自分たちこそ神の国にふさわしいと思っていたファリサイ派の人たちは知らなくてはならなかったのです。
お返しができない人の招かれた祝宴が何を意味するのか。――それは、あのファリサイ派のところではなく徴税人のところに身を置いてこそはっきりと見えてきます。他の人と自分を比較して、他の人を見下しているところではなく、自ら胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈るところに身を置いてこそ見えてくるのです。そこに何が見えてくるでしょう。招かれても全くお返しができない貧しい人、ただただ感謝して御厚意を受け取ることしかできない人。それはまさしく神の御前における私の姿ではないか、ということです。
実際、イエス・キリストによって救われるとは、そういうことでしょう。「罪人のわたしを憐れんでください」としか祈ることのできない私たちが、そんな私たちが憐れみを受け、罪を赦され、義とされ、主の食卓に招かれるのです。それはまさに、お返しができない貧しい人が招かれるということではありませんか。
お返しができないわたしが招かれている神の国の祝宴――それをはっきりと指し示しているのが、この後に行われる聖餐なのです。ここには、お返しできない者を招いてくださる神の恵みが満ちあふれています。お返しできない私たちが、キリストの体と血を受けて、お返しできない私たちが神の完全な赦しと愛とを受け取るのです。
お返しのできない者が祝宴に招かれている!――その感謝からこそ、本当の意味で、報いを求めない愛の業が生まれてくるのです。そこで改めて、「お返しができない人を招きなさい」という主の言葉を改めて受け取ることができるのです。「そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」という言葉を、本当に幸いな人として、聞くことができるのです。