2018年11月25日日曜日

「後戻りしない神の計画」

サムエル記下5:1-5

全イスラエルの王となったダビデ
 「イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした」(3節)。

 ダビデはイスラエル12部族の内、ユダ族の出身です。この時点でダビデは既にユダ族の王となっていました。そこに「イスラエルの長老たち」がやってきます。この場合、「イスラエル」というのは、ユダを除いたイスラエル諸部族のことです。この少し前まで、イスラエルはユダ族と他の諸部族に分裂し、内戦状態にありました。しかし、今日の聖書箇所に至って、ついに他の諸部族の長老たちがやってきてダビデに油を注ぎ、「イスラエルの王」としたというのです。

 このことにより、ダビデは晴れて全イスラエルの王となりました。それが今日の箇所の伝えるところです。ですから、ダビデの統治についてのまとめとして、次のように書かれているのです。「ダビデは三十歳で王となり、四十年間王位にあった。七年六か月の間ヘブロンでユダを、三十三年の間エルサレムでイスラエルとユダの全土を統治した」(4‐5節)。

 このダビデ王家は、その後400年以上にわたり、イスラエルとユダ王国を治めることになります。このダビデ王朝という背景なくしてメシア待望はありません。そして、キリストはまさにこの章で誕生するダビデ王家の末裔として、この世に来られることになるのです。その意味において、ここに書かれていることは人類の歴史において決定的な意味をもった出来事であると言えるでしょう。

人の知恵と力によらず
 さて、今日朗読されましたこの箇所を理解するためには、ここに至るまでの流れを見ておく必要があります。そこで理解の鍵となるのは「アブネル」という人物です。彼はサウルの軍隊の司令官でした。血筋においてはサウルの従兄弟に当たります。

 今日はサムエル記下5章をお読みしましたが、このサムエル記下は「サウルが死んだ後のことである」という言葉から始まります。イスラエルの王サウルの軍隊はペリシテ人との戦いに敗れました。サウル王もその息子のヨナタンも戦死してしまいました。ペリシテ人の支配は一気に拡大し、イスラエルの王国は崩壊の危機に直面することとなりました。

 そこで立ち上がったのが軍の司令官アブネルでした。彼は生き残っていたサウルの息子であるイシュ・ボシェトを王として擁立し、敗戦後のイスラエルの再建に着手しました。いったんヨルダンの東に退いて、人々をまとめ上げながら時を待ったのです。

 しかし、その矢先、イスラエルの一部族であるユダ族が単独でダビデに油を注いで彼らの王とするということが起こりました。先ほども触れましたように、ダビデはまずユダ族の王となったのです。それは一面においては、ダビデが王となるという神の約束が、まずユダにおいて実現した出来事であったと言えます。しかし、アブネルからすれば、それはサウル王家に対する反逆以外の何ものでもありません。ユダ族が正統な王家に逆らった、と。この結果、イスラエルは内戦状態に陥ることになりました。アブネルは将軍ヨアブが率いるダビデの軍隊と戦うこととなりました。

 しかし、もとよりこれはアブネルが望んでいたことではありませんでした。アブネルの望みはあくまでもイスラエル全体の再建なのです。この事態は望ましくないと思いました。アブネルは停戦を呼びかけました。そして、停戦が実現しました。ところが、今度はアブネルが擁立したイシュ・ボシェトとアブネルの間に亀裂が生じます。イシュ・ボシェトは擁立された王ではありましたが、彼にはこの難局を乗り切る実力はありませんでした。アブネルからすれば傀儡に過ぎなかったのです。しかし、イシュ・ボシェトはそれを良しとしませんでした。

 イシュ・ボシェトと決裂したアブネルは、サウル家に見切りをつけ、大きな方向転換を決断します。彼は今まで敵であったダビデを、全イスラエルの王とすべく動き始めるのです。ダビデを中心に、イスラエルをまとめあげようとしたのです。アブネルはイスラエルの中でダビデに好意的であった長老たちを取りまとめるために奔走しました。しかし、困難なのはベニヤミン族でし。サウルのお膝元ですから。しかし、反対するベニヤミン族を説得し、ついにダビデとの直接交渉に至りました。そのようなことが3章に書かれています。

 ダビデとの会談は終始和やかな雰囲気のもとに進められました。アブネルがそこでダビデに約束した言葉がこう記されています。「わたしは立って行き、全イスラエルを主君である王のもとに集めましょう。彼らがあなたと契約を結べば、あなたはお望みのままに治めることができます」(3:21)。原文ではもっとあからさまな表現です。「私が立ち上がり、私が行き、私が全イスラエルを主君である王のもとに集めましょう」と。お分かりになりますか。アブネルは、「ダビデよ、あなたを全イスラエルの王にできるのは私だ!」と言っているのです。これはまことに有能な人が言いそうな言葉です。しかし、残念なことに、その有能さが彼の身を滅ぼすことになりました。彼はこの直後に、ダビデの軍の司令官、ヨアブに暗殺されることになるのです。

 その暗殺の場面は極めて奇妙です。ヨアブがアブネルに「静かなところで話したい」と申し出るのです。彼は二十人の部下を連れていたはずなのに、一人でヨアブと城門の中に入っていくのです。まるで暗殺してくれと言っているようなものです。そこにアブネルの驕りがあったと言わざるを得ません。それはダビデを統一王国の王にできるのは私以外にはいないという驕りです。そこにはダビデとその家臣たちの未来にとって自分は無くてはならぬ存在だという自負があったのです。

 それはある意味で無理からぬことでした。実際、ユダ族の大多数は他の諸部族との和平推進派であったのです。兵士たちは皆、アブネルの提示したプランが実現することを望んでいました。イスラエルとユダの和平が成立して、ダビデが統一王国の王となることを皆が望んでいたのです。そこで誰の目から見ても、その鍵を握っていたのはアブネルという人物なのです。

 しかし、その自負が、その驕りが、まことに皮肉なことですが、彼の身に滅びを招いたのです。そして、これもまた皮肉なことに、彼がいなくても、いずれにせよダビデは統一王国の王となったのです。実権を握っていたアブネルがいなくなったことで、サウル王家が崩壊することになったからです。そのように人間の策略が無に帰したところで、それでもなおダビデは王となったのです。誰によってですか。神によってです。それが今日の聖書箇所の伝えているところなのです。

成就する主の約束
 今日の箇所に戻ります。アブネルが暗殺され、サウル王家のもとにあった体制が崩壊した時、イスラエルの長老たちはダビデのもとに来て、ダビデと契約を結び、彼に油を注いでイスラエルの王としました。ここで注目に値するのは、彼らがダビデに語った言葉です。「主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と」(2節)。

 これは恐らくかつてアブネルが言って回っていた言葉に由来するのでしょう。アブネルがダビデ擁立に向けてイスラエルの長老たちを取りまとめようとしていた時に、彼が長老たちに届けた言葉はこうでした。「あなたがたは、これまでもダビデを王にいただきたいと願っていた。それを実現させるべき時だ。主はダビデに、『わたしは僕ダビデの手によって、わたしの民イスラエルをペリシテ人の手から、またすべての敵の手から救う』と仰せになったのだ」(3:17‐18)。このようにアブネルはイスラエルの長老を説得するに当たって主の約束の言葉を用いたのです。そして、長老もまたその約束の言葉を引き合いに出して、ダビデを王としたのです。

 アブネルが実際には、ダビデを王とするのは自分の実力によると信じて疑わなかったことは既に見て来たとおりです。また、イスラエルの長老たちが、主の約束を本当に信じていたのかどうか、それも疑わしいと言えなくもありません。実際に彼らが注目していたのは指導者としてのダビデの実力でしょうし、単に政治的な理由からダビデ擁立に賛同したのかもしれません。

 しかし、人間が信じようと信じまいと、そんなこととは無関係に神は約束の実現に向けて事を進められるのです。イスラエルの長老たちが信じようが信じまいが、とにかく彼らの言葉を通して、この油注ぎが確かに主の約束の成就であることを、聖書は私たちに伝えているのです。

 主の約束――それは元を辿れば遠い昔、ダビデがまだ少年であった時に与えられたものでした。サムエルがダビデの住んでいた町を訪れ、羊を飼っていた末の子であるダビデに油を注いだのです(サムエル上16章)。サムエルはこの世に対して公にダビデの即位を宣言したわけではありませんでした。それはこの世からは隠された油注ぎでした。その後、ダビデは当時の王であったサウルに妬まれ、命を狙われ、荒れ野を逃げ回れる厳しい期間を過ごすことになりました。しかし、隠された油注ぎは、時満ちて公の油注ぎとして人々の前に現されることになったのです。

 その時、ダビデは37歳、既に最初の油注ぎから二十年を経過しておりました。この二十年間、少なくともユダの王であった7年半を除いた期間、ダビデは王の姿ではありませんでした。否、むしろ人の目から見るならば、神の約束が反故になったかのように見える期間があったのでしょう。しかし、神の計画はあの最初の油注ぎの時から、人の目に隠れたところで確実に進んでいたのです。人間の力や思惑とは全く関係なく!

 このことは、ダビデの子孫として来られるメシアについて予表となるような出来事であったとも言えます。ナザレのイエスというお方は、来るべき真の王として神に油注がれたお方でした。しかし、その最初の到来の時、主は十字架の上で死なれたのであって、その十字架に掲げられた「ユダヤ人の王」という言葉は嘲笑の材料にしかならなかったのです。その王なることは肉の目には隠されたままでした。今日もなおキリストはこの世においては全被造物世界の王として認められてはいない。今日もなお侮られているのです。しかし、やがてその覆いが取り除かれる時が来るのです。後の日にダビデの公の油注ぎがあったように、やがてキリストが真の王であることが明らかにされる時が来るのです。そして、今、人の目には隠されていますが、確実に歴史はその時へと向かっているのです。それがキリストの再臨です。

(祈り)

2018年11月4日日曜日

「神の憐れみの物語」

創世記9:8‐17

 今日は先に天に召された方々を記念して礼拝をお捧げするためにここに集まりました。先に召された方々のご関係の方々が、今日は大勢お見えになっています。こうして共に礼拝できますことを嬉しく思います。

 ここは天と地が一つとなるところです。天に召された方々も、今、ここにいる私たちも同じ神様を仰ぎ、同じ神様を礼拝しているとはそういうことです。その意味で礼拝堂とは天と地が一つとなるところなのです。今日お集いになられた方々は、その意味において、先に召された方々と一緒にいるのだという思いをもって、この礼拝の時をお過ごしいただけたらと思います。

神の憐れみによって
 さて、そのような今年の記念礼拝において読まれましたのは、旧約聖書の中のたいへん有名な話です。残念ながら全部を読むことができないので、最後の部分だけお読みしました。「ノアの箱船」の話です。神様がこの地上に大洪水を起こされたという話です。その時に箱船を乗り込んだノアとその家族、動物たちが救われたという話です。

 「ノアの箱船」の物語は、創世記の6章から始まります。事の発端は次のように描かれております。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(6:5‐6)。そして「神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた」(同12節)。この「肉なる者」というのは、この場合、人間のことです。さらに言うならば、聖書に書かれているように「常に悪いことばかりを心に思い計っている」人類のことです。これは何千年も前に書かれた物語ですが、神様が御覧になっている世界の有様は昔も今も少しも変わらないものだと改めて思わされます。

 それにしましても、神様が「後悔し」たり、「心を痛められ」たりするのは、ある意味ではとても不思議な表現でもあると思います。当然のことながら、このような疑問は起こるでしょう。「どうして神は後悔するような事態を未然に防ぎ得なかったのか。どうして神は堕落しないように人間を造らなかったのか。造れなかったのか。」しかし、当然起こるであろうそのような疑問に対して、聖書には全く説明も弁明もありません。どうも聖書はそのような「なぜ」に直接答えることには、あまり関心を持っていないようです。

 聖書の関心は、《どうしてそうなったのか》ということよりも、《現実はどうであるか》ということに向かっているようです。分からないことについて「なぜ」と問い続けていることより、現実と向き合うことの方が大事だからです。確かにこの地上には人の悪が満ちている。人間は常に悪いことばかりを心に思い計っている。そのような現実があるのです。「地は堕落し」とありましたが、肉なる者が神の前に堕落しているという現実があるのです。どうしてそうなったかはさておき、聖書が描き出しているこの世界のありさま、否定しようのない現実があるのです。

 そこで物語は次のように展開していきます。そのような世界を御覧になった神様は、悪に満ちたこの世界を神は滅ぼすと宣言します。聖書には次のように書かれています。「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」(6:13)。(ちなみに、「地は堕落し」とありましたが「堕落し」という言葉と「滅ぼす」という言葉は、日本語ではずいぶん違いますが、原文ではもともとは言葉なのです。「滅びる」というのは、神様が滅ぼして滅びるのではなくて、「堕落している」ということ自体、神に背いているところにおいて、既に滅びは始まっているのだという理解があります。)

 ともあれ、いずれにしても、この物語においては神様が「わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」と言われて、この言葉を実現するために、神は洪水を起こされたという話が続くのです。

 さて、この話は一面においては大変恐ろしい話です。災いをもってこの世界を滅ぼされる神。そのような神の厳しさを示して、読者に恐れを抱かせ、改悛を促すという、いわゆる教訓物語としてこの話を読むこともできるのでしょう。そのような話は古今東西、様々な形で存在していますから。

 しかし、このノアの物語について言うならば、洪水という「災いの話」は、恐らくは物語の中心ではないのです。神の恐ろしさ、神の裁きを示すことが目的ならば、ずっと短い話で済むからです。実際にはそうではなくて、この物語は今日お読みした9章まで続くのです。それはなぜなのでしょうか。

 注目すべきは、神の言葉と神の行動の間の奇妙な矛盾です。神は「《すべて》肉なる者を終わらせる」と言われたのです。にもかかわらず、「箱船を造りなさい」(6:14)とノアに命じるのです。《すべて》を滅ぼすと言いながら、明らかに《すべて》を滅ぼすつもりはないのです。

 そもそも「すべて肉なるものを終わらせる時が来ている」という言葉を、当の「肉なるもの」の一人であるノアに話していること自体、おかしいではありませんか。その上で「箱船を造れ」と言われる。結果的には、箱船を造ったノアが残されるのです。いや、ノアだけならまだ分かります。実際には、ノアだけでなく、その家族も残されるのです。さらには箱船に乗り込んだ地上の動物たちも残されるのです。

 洪水が起こって5ヶ月ほどすると、水が引き始めます。箱舟はアララト山という山の上にひっかかりました。そして、洪水が始まって一年後、完全に水がひきました。ノアと家族と動物たちは船を出て、神を礼拝します。その時、神はこう言われるのです。「人のために大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ」(8:21)。洪水によって良い人間だけが残ったから「大地を呪うことはしない。もう滅ぼすことはしない」と言っているのではありません、人間が悪くなくなったから「滅ぼさない」と言っているのではないのです。これからも多分悪いに違いない。「人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ」と神は言われるのです。しかし、それでもなお神は地を呪わない、神は滅ぼさないと言われたのです。

 この物語は私たちに何を伝えているのでしょう。神の憐れみです。この洪水の物語は、「神の裁きの物語」ではなく、結論から言いますならば、これは「神の憐れみの物語」なのです。少なくとも、これを大切に伝えたイスラエルの民にとって、これは単なる過去の話ではありませんでした。なぜなら、彼らは憐れみによって残されるということを経験してきた人々だからです。特に、国家の滅亡と捕囚を経験した人々にとっては過去の話ではなかった。残されたノアとその家族と動物たち――そこに彼らは自分の姿を見たのです。これは神の憐れみの物語なのです。

 聖書の物語を読む時に、そこに自分自身を見いだすということは、聖書を読む上で大切なことなのでしょう。私たちが神の裁きによって滅ぼされるのではなく、今なお神の恵みの中に残されています。この世界もまだ残されています。それは、本当は当たり前のことではないのです。この世界は神の憐れみによって成り立っている世界なのであり、その上に営まれている私たちの生活は、まさに神の憐れみによって与えられている生活なのです。

神によって立てられた契約
 本日朗読されたのは、そのような物語の最後の部分です。注目すべき言葉は、今日の朗読においてくどいほどに繰り返されている「契約を立てる」という言葉です。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」(9:9‐11)。

 私たちは通常「契約を立てる」という言い方はいたしません。「契約を結ぶ」と言います。聖書には「契約を結ぶ」と訳される言葉が別にあります。日本語では契約を「結ぶ」ですが、もともとのヘブライ語では契約を「切る」と表現します。実際の行為としては、契約を結ぶ時、当事者たちは二つに切り裂かれた動物の間を通るということをいたします。そうすることによって、契約を破ることは死を意味することを承認するのです。こうして契約が結ばれます。そのように、契約を「切る」と表現する時には、両者が関わるのであり、両者の真実が問われるのです。

 ところが、ここでは神が「契約を立てる」と言っているのです。立てるのは神です。立てることに関わっているのは神だけです。その意味では一方的に結ばれる関係です。

 先にも見ましたように、裁きの対象となっていたのは「すべて肉なるもの」でありました。ノアもその家族も、その「すべて肉なるもの」の内にありました。そして、「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている」と言われていたように、本来、すべて肉なるものと神との関係は終わっているのです。それはノアとその家族、残された動物たちも同じなのです。にもかかわらず、ただ一方的な神の憐れみによって残されたのです。そして、神の側から、まったく一方的に、神とすべて肉なるものとの間に、契約が立てられたのだというのです。

 そして、その契約のしるしは「虹」であると語られていることも重要です。虹は代々にわたって現れます。そのように神は代々にわたってこの契約に心を留めてくださるのです。「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」(9:16)と主は言われるのです。

 私たちはいったいこの世界をどのように見ているのでしょう。そこに生きる私たち自身をどのように見ているのでしょう。この世界の中にある私たちの人生をどう見ているのでしょう。この世界もそこに生きるすべてのものも、ただ滅びに向かっているだけの意味のない存在なのでしょうか。いいえ、そうではないと聖書は教えているのです。

 この世界は、神によって立てられた永遠の契約の対象なのです。この世界はそのような世界なのです。すべて肉なるものはそのような存在なのです。そのゆえに神は、すべて肉なるもののために壮大な救いの計画を立てられ、そのひとり子をこの世界に遣わされたのです。神はひとり子を「肉なる者」の一人とすることさえ厭われなかったのです。

 「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」(8:21)と主は言われました。確かに主の言われるとおりです。この被造物世界は今もなお、そのような人間の罪のゆえに、苦しみと嘆きの声が絶えることのない世界です。確かにそのような世界の中に私たちは生きています。しかし、そのような世界にも、繰り返し虹が立つのです。これは繰り返し虹の立つ世界です。すなわち、今もなお神の愛と憐れみの対象とされている世界です。

 そしてこの大地は罪の贖いの十字架が立てられた大地であることを私たちは知っています。そのような大地の上に私たちは生かされているのです。神の憐れみの中に生かされているのです。そして、神の憐れみによって語りかけられ、神の憐れみによって呼びかけられているのです。

(祈り)

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