2019年7月28日日曜日

「あなたの罪は赦された」

ルカ7:36-50

主イエスのもとに来た「罪深い女」
 シモンというファリサイ派の人がイエス様を食事に招待しました。イエス様はその家に入って食事の席に着かれました。すると、突然、その町で罪深い女として知られていた女性が泣きながら入ってきました。そして、後ろからイエスの足もとに近より、涙で足をぬらしては自分の髪の毛でぬぐい、足に接吻して香油を塗り始めました。それが今日の聖書箇所の伝える出来事です。

 本来ならば絶対にあり得ないことが起こっていました。客が食事しているところに、ずかずかと赤の他人が入ってきたこと、ではありません。それは当時の習慣としてあり得ることでした。その人が客の足もとに近寄って接吻したということ、でもありません。それもまた当時の習慣としてはあり得ることでした。というのも、食事をする人は、今日のように椅子に座っているわけではなかったからです。食事をする人は身を横たえて、肘をつきながら食事をするのです。ですから足もとに近寄ることは難しくありません。テーブルの下に潜り込んだわけではないのです。

 本来なら絶対にあり得ないこと――それは彼女がよりによってファリサイ派のシモンの家に入ってきたことです。彼女は「罪深い女」と呼ばれています。恐らくは娼婦です。娼婦であれ何であれ、そのような「罪深い女」として知られていた人が、ファリサイ派の家に入ってくることはあり得ません。神の律法を厳格に守り、清く敬虔な生活をしているファリサイ派の一人として知られているシモンの家に彼女が入ってくることはまずあり得ないことだったのです。

 では、なぜそのようなあり得ないことが起こったのでしょうか。考えられる理由は一つしかありません。そこにイエス様がおられたからです。彼女は人目も憚らずファリサイ派の家に入った。それはイエス様のもとに行きたかったからでしょう。それ以外に理由は考えられません。

 ここを読む限り、明らかに彼女は既にイエス様のことを知っています。どのようにして知ったのかは書かれていません。集会に参加してイエス様の言葉を聴いたことがあったのか。あるいはイエス様が罪人たちと食事をするのを見ていたのか。病める人々に神の愛を示し、癒しの業をなさるのを見たことがあったのか。彼女が《どのようにして》イエス様を知ったのかは分かりません。

 しかし、《どのような御方として》イエス様を知っていたのかは分かります。明らかに彼女はイエス様を《罪人が近づくことのできる方》として知っていたのです。だから近づいたのです。――ありのままの自分として近づき、その御方のもとで泣くことができる。罪ある者が自分の罪に泣きながら近づくことができる。そのような御方としてイエス様を知っていたのです。だから彼女はファリサイ派の家にまで入って近づいたのです。イエス様のもとで泣いたのです。

 彼女は「罪深い女」と呼ばれながらも、ユダヤ人社会の中に生きてきた人です。宗教的な世界に身を置いて生きてきたのです。後ろ指を指されながら、敬虔な人々から断罪されながら生きてきたのです。精一杯突っ張って生きてきたのだと思います。いちいち自分の罪深さに泣いていたら生きていけないでしょう。自分が惨めにならないためには、他人を見下して、軽蔑して生きるしかない。表向きは敬虔な顔をしながら、裏で女を買っている男どもを軽蔑しながら生きるしかない。罪深いのは私だけではないだろう。私を汚いというならば、男どもも皆同じじゃないか。そう自分に言い聞かせながら、生きてきたのだろうと思うのです。

 しかし、どんなに突っ張って生きてみたところで、自分の惨めさは自分が一番良く知っているのです。どんなに「私だけが悪いわけじゃない」と言ったところで、自分が神に背いて生きてきているならば、それは自分で良く分かっている。かつて、神に背いて、罪を覆い隠していたダビデが、こう言っていました。「わたしは黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました」(詩編32:3)。そう、誰が知らなくとも自分と神様だけは知っている。心の奥底の、絶え間ない呻きを知っている。彼女もまた同じでしょう。

 そんな彼女が、本当は辛くて、苦しくて、悲しくて仕方のない、そんな自分をそのまま持って行ける御方を知ったのです。この方のところでなら、自分のありのままの姿を素直に認めて、泣くことができる。安心して涙を流すことができる。それがイエス様だったのです。だから彼女はあたりを憚ることなく、イエス様に近づき、足にすがりつくようにして泣いたのです。そして、涙に濡れたイエス様の足を、自分の髪の毛で拭ったのでした。

 そのように、彼女がイエス様のもとで涙を流すことができた。それはまた、後に主が語っておられるように、彼女が神の赦しを知ったからです。多くの罪を赦されている自分自身を知ったからです。イエス様を通して、罪人を裁いて滅ぼす神ではなく、罪人を赦して新しく生かしてくださる神を知ったからです。だからこそ、彼女はイエス様のもとに近づいたのです。それは赦しと憐れみの神に近づくことに他ならなかったのです。その意味において、彼女が流していた涙は、ただ自分の罪を悔いる涙であったのではありません。神の赦しを知った者として、神の憐れみを知った者としての喜びの涙でもあったのです。

赦されることの少ない者
 しかし、そのようにイエス様に近づいていった彼女と対照的だったのは、ファリサイ派のシモンでした。彼はイエスを食事に招いた本人です。しかし、彼自身はイエス様に近づこうとはしませんでした。彼は遠巻きに観察しながら、心の中でこう言ったのです。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」(39節)。

 そこでイエス様はシモンにこんなたとえ話をなさいました。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」(41‐42節)。シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えました。それを聞いてイエス様は、「そのとおりだ」と言われたのです。

 この罪深い女がイエス様について見聞きしてきたことは、同じようにシモンも見聞きしてきたはずなのです。イエス様は公に語り、公に行動してきたわけですから。否、むしろ彼女よりもファリサイ派のシモンの方が、イエス様について知ることのできる機会は多かったかもしれません。このようにイエス様を食事にまで招待できるわけですから。罪深い女には、したくてもできないことです。

 しかし、同じようにイエス様について見聞きしたとしても、一方にとっては、イエス様という存在が嬉しくて、慕わしくて、どんなことをしてでも近づきたいと思うほどであるのに、もう一方にとってはそうでもない、ということが起こります。むしろ不愉快な存在にすらなる。違いが出てくるのです。この罪深い女とシモンのように。

 どこが違うのでしょうか。それは五百デナリオンの借金を帳消しにされた人と五十デナリオンの借金を帳消しにされた人の違いだとイエス様は言われるのです。もちろん、イエス様は罪の赦しの話をしているのです。多く罪を赦された方が嬉しい。そして、救い主に感謝し、救い主を愛する者となる。自分は正しいと思って他の人を裁いている人にとっては、罪の赦しは嬉しくともなんともないわけです。ですから、イエス様はシモンにこう言われたのです。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。

 「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。――しかし、借金のたとえから分かりますように、厳密に言えば、これは赦しの絶対量の話ではありません。これは罪の認識の話です。多くの罪を犯し、大きな罪を犯している人が、必ずしもそれを多くの罪、大きな罪と認識しているとは限りませんから。世の中には「わたしはこんな悪いこともしてきました、あんな悪いこともしてきました」と自分が犯してきた罪を自慢げに話したがる人はいるものです。そのような人が必ずしも自分のしてきたことを本当に神の前に大きな罪であったと認識しているとは限りません。ですから、先のイエス様の言葉は、「多く赦されたことを認識できない人は、愛することも少ない」と言い換えることもできるでしょう。

 そう考えますと、五百デナリオンの借金を五百デナリオンの借金として認識できること自体、既に神の恵みだとも言えます。他の人を悪者にし、他の人を軽蔑し、「私は悪くない」という鎧に身を固めて生きるのではなくて、本当は自分の魂が良く知っている自分の罪深さや惨めさを素直に認めてイエス様のもとに行くこと、行けること、それ自体が神の恵みなのです。イエス様のもとで泣くことができる、それ自体が神の恵みなのです。

 神様は私たちにその恵みを手渡そうとしているのでしょう。私たちが、今ここにいるとは、そういうことではありませんか。繰り返し礼拝の場へと招かれているとは、そういうことでしょう。

 それはキリストを通してあの女性に与えられた宣言を、私たちにもまた与えるためなのです。主は彼女に宣言しました。「あなたの罪は赦された」。そして、さらにこう言われたのです。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と。そこにこそ、人が新しく生きる道が開かれるのです。救われた者として、神と共に生きていく道が開かれるのです。

 「あなたの罪は赦された」という言葉を聞いて、人々は自問しました。「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」。私たちは、その人が何者かを知らされています。その御方こそ、私たちを救うためにこの世に来てくださった救い主です。その御方こそ、私たちの罪を贖うために十字架にかかってくださった救い主です。その御方こそ、十字架の上で罪の贖いを全うし、復活して今も生きておられる救い主です。その御方こそ、今も同じ救いの言葉を与えてくださる救い主です、「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と。

(祈り)

2019年7月21日日曜日

「神の憐れみを誰も止められない」

ルカ7:11‐17
私たちには身近でない話
 あるやもめのひとり息子が亡くなりました。棺が町から運び出されます。嘆き悲しむ母親に大勢の町の人が寄り添いながら進みます。墓へと向かう長い葬列が続きます。本日、朗読されましたのは、そのような物語です。

 ここに書かれているのは、ある意味では私たちにとても身近な話です。この箇所を読みますと、これまで私が司式をしましたいくつもの葬儀のことが思い起こされます。礼拝堂から棺が運び出される様子が思い起こされます。あるいはまた、私自身の身内の葬儀が思い起こされます。親しい友人の葬儀を思い出します。皆さんの中にも、ご家族を亡くして、あるいは親しかった友人を亡くして、涙を流しながら棺を運び出したその場面を思い出しながら、今日の聖書朗読を聴いた人が少なくなかったに違いありません。ここに書かれているのは、ある程度長く生きているならば、必ず身近に経験することになる、そのような場面です。

 さて、「私たちにとても身近な話」と申しましたが、もう一面において、この聖書箇所が伝えているのは、私たちにとって全く《身近ではない話》とも言えます。私たちの経験とは明らかに異なるのです。私たちが棺を運び出した時、向こうからイエス様は来てくださいませんでした。イエス様が来て、亡くなった人を生き返らせてはくださいませんでした。棺の中の人は生き返らなかった。棺はそのまま火葬場へと運ばれて行きました。ですから、「今日の箇所に書かれている話は、明らかに私たちの経験してきたことと違う!」と、そう言いたくなるかもしれません。

 しかし、考えて見ますと、この箇所を読んでそう思うのは、何も私たちが最初ではないはずなのです。この福音書が書かれた頃の教会も同じだったに違いないのです。迫害の中の教会はどうだったのでしょう。指導者が捕らわれていきました。父親が、母親が捕らえられていきました。そして、殺されてしまいました。死体となって帰ってきました。ボロボロにされて血を流しているその遺体をイエス様が生き返らせてくださったという話を、私は聞いたことがありません。そうではなくて、皆、嘆きながら、涙を流しながら、精一杯ていねいに埋葬したのです。

 皆さん、そのような教会が、そのような人々が、それでもなおこの話を伝えてきたのです。イエス様が死者を生き返らせたという話を、大切に伝えてきたのです。こんなの嘘っぱちだ!などとは言わなかったのです。この物語から福音を聴いてきたのです。希望と慰めを聴いてきたのです。それはいったいどういうことなのか。それを御一緒に考えながら、御言葉に耳を傾けたいと思うのです。

主は憐れに思い
 もう一度13節を御覧ください。そこにはこう書かれています。「主はこの母親を見て、憐れに思い――」。イエス様はこの母親を見て憐れに思ったというのです。「憐れに思う」という言葉は、「内臓・はらわた」という言葉に由来します。はらわたが引きちぎられるような思いを表現していると言えます。日本語としては「胸が張り裂ける」という表現が近いかもしれません。

 その母親は文字通り、胸が張り裂けんばかりの悲しみを覚えていたに違いありません。しかし、その痛みと悲しみを感じていたのは、彼女ひとりではなかった。そこに同じように、はらわたが引きちぎられるような、胸が張り裂けるような思いを抱いている方がおられたのです。そのように彼女の痛みを自らの痛みとして感じていた方がそこにおられたのです。「主はこの母親を見て、憐れに思い」とはそういうことです。

 この母親はやもめであったと書かれています。どのくらい前のことであるかは分かりませんが、彼女は涙を流しながら、同じように夫の棺を町から運び出したのでしょう。その彼女にひとり息子がいました。ひとり息子だけが頼りだったのだと思います。しかし、よりによって、そのひとり息子が亡くなってしまいました。どうして、よりによってやもめがひとり息子まで失わなくてはならなかったのでしょう。どうしてこの人は、そのような悲しみを味わわなくてはならなかったのでしょう。――分かりません。説明がつきません。少なくとも私には説明ができない。

 いや、説明をしようとする人は世の中にいくらでもいるだろうと思います。当時には、何か不幸があると因果応報で説明しようとする人はいくらでもいたのです。しかし聖書は、なぜこのやもめがひとり息子を失ったのか、説明してはくれません。イエス様もそこで彼女に、そんな話は一言もしてはいません。イエス様はただ、一緒に悲しんだのです。一緒に心を痛めたのです。一緒に苦しんだのです。皆さん、私たちはこのイエス様の姿に、何を見ているのでしょう。――私たちはそこに、他ならぬ神の心を見ているのです。

 この不幸な母親だけではありません。私たちは毎日のように、「なぜこんなことが起こるのか。なぜこの人がこんな不幸に遭うのか」と思わざるを得ないことを見聞きしています。時に自分自身にもそのようなことが降りかかります。その時、ある人は「神などいない」と思い、ある人は神を呪うこともあるでしょう。

 しかし、神がイエス・キリストを遣わされた時、神はキリストによって自らの弁明をしようとしたのではないのです。なぜ不幸があるのか、説明しようとしたわけでもないのです。あなたがたの罪が不幸を招いているのだ、と言って人間の罪を責めるためにキリストを送られたのでもないのです。不幸になりたくなければ悔い改めろ、と迫るためにキリストを送られたのでもないのです。そうではなくて、神様がどんな思いでこの世界を見、私たち一人ひとりを見ておられるかを、キリストを通して表されたのです。

 先ほどはルカによる福音書の7章をお読みしたのですが、実は、この「憐れに思い」という言葉は、良く知られているキリストのたとえ話にも出てきます。放蕩息子のたとえです。家を出て、父を離れていった息子が、飢饉の中で飢えて疲れてボロボロになって帰ってきた。その息子を父親が遠くから見つけるのです。そこにはこう書かれています。「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(15:20)。――父親は息子を見つけて憐れに思った。

 父親はその息子に「なんでこんな目に遭ったか分かるか?お前が悪いんだぞ」などと、一言も説教じみたことを言いませんでした。父親はただ息子を見て《憐れに思った》のです。どんなに苦しんできたか、辛かったか、そのことを思って胸も張り裂けんばかりの痛みを覚えたのです。そして、「それが神様なのだ」と主は言われるのです。そして、そう言われるだけでなく、自らその神の思いをもって人を御覧になられたのです。神の心をもって人に関わられたのです。イエス様の言葉だけでなく、イエス様の姿そのものが天の父の心の現れだったのです。イエス様はその母親を憐れに思った。そうです、神様はその母親を憐れんでおられた。

もう泣かなくともよい
 そして、神がそのように憐れに思ってくださるならば、そこには希望があるのです。そのことを、主は身をもって示してくださいました。主は言われます。「もう泣かなくともよい」。母親を見て憐れに思った主の言葉です。慰めの言葉です。しかし、神が憐れに思っていてくださるのならば、それは単なる慰めの言葉で終わらないのです。そこで止まらないのです。その先に向かうのです。「泣かなくともよい」と言われるだけでなく、現実に涙を完全にぬぐい取ってしまうところまで止まらないのです。

 物語はこのように続きます。「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった」。涙はぬぐい取られました。もう泣く必要はなくなりました。

 実際に何が起こったのか。その息子は単に仮死状態だっただけなのか。そんなことを詮索しても意味がありません。重要なのは、この出来事が一つのしるしとなった、ということです。神が憐れんでくださるとはどういうことなのかを指し示す、一つのしるしとして記憶され、そして私たちに伝えられているということです。そして、神の憐れみを誰も途中で止められないという事実は、やがてキリストにおいて完全に現されることになるのです。

 この時、イエス様はナインの町におられました。しかし、そこは旅の終点ではありませんでした。イエス様は最終的にエルサレムに向かっておられたのです。罪の贖いが成就するための十字架へと向かっておられたのです。イエス様は知っておられたのです。神の憐れみは止まらない。独り子を罪の贖いの犠牲にしてでもすべての人に罪の赦しを与えるところまで止まらない。そして、さらに十字架の先には復活があるのです。神の憐れみは、死の力を打ち砕き、陰府の扉をたたき壊すところまで止まらないのです。罪と死に捕らえられている人間を完全に救うところまで止まらないのです。

 そして、誰もキリストが十字架にかかることを止めることはできませんでした。誰もキリストの復活を止めることはできませんでした。そうです、誰も神の憐れみを途中で止めることはできないのです。その意味で、ナインの町で起こったことは、一つのしるしとなりました。絶対に誰も止めることのできない神の憐れみを指し示すしるし。そして、それゆえにキリストにおいて完全に現される神の救いを指し示すしるしとなりました。

 あの母親に対して現された神の憐れみ、そしてキリストの十字架と復活において現された神の憐れみが、私たちにも向けられています。これからも、私たちの人生には様々な痛みや苦しみがあることでしょう。この世界には終わりの日に至るまで苦しみが無くなることはないでしょう。なぜこんなことがあるのか。なぜこんなことが私に起こるのか。その問いに対して、神様は弁明することも、説明することもしてはくださらないかもしれません。最後まで納得できないことは残るに違いない。しかし、今日の聖書箇所を通して、私たちは知らされているのです。神はそんな私たちと共に苦しんでいてくださる。私と共に悲しんでいてくださる。私の心が張り裂けそうになっているとき、神の心も張り裂けんばかりに苦悩していてくださる。私たちの苦しみは神にとって決して他人事じゃない。神はそのように私たちを憐れんでいてくださるのです。

 神が憐れんでいてくださる。そのことさえ知っていれば十分なのです。それでもう大丈夫なのです。神の憐れみは、私たちを完全に救うまで止まらないからです。私たちは、多くのことについて取り返しがつかないと思って涙を流してきたんでしょう。自分のしたこと、為しえなかったことについて、時には激しく自分を責めながら、涙を流してきたのでしょう。しかし、神の憐れみは、私たちの罪を完全に赦し、すべてを回復し、すべてを新しくし、私たちの目から涙を完全にぬぐい取ってくださるまで止まらないのです。誰も神の憐れみを途中で止めることはできないのです。

 神の憐れみが行き着くところを、聖書は次のように記しています。今日、もう一箇所お読みしたところです。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(黙示録21:4)。

 冒頭において、この話は私たちの経験とは異なる、全く身近ではない話であると申しました。しかし、最終的にはやはり「私たちにとても身近な話」ということになるのでしょう。なぜなら、私たちにも、あの母親と同じように、神の憐れみが向けられているのですから。

(祈り)

2019年7月14日日曜日

「大声で賛美しながら戻ってきた人」

ルカ17:11‐19

信頼して出発した十人
 イエス様の一行はエルサレムへ上る旅の途中にありました。サマリアとガリラヤの間を通られた時、ある村に入りますと、十人の人たちがイエス様の一行を出迎えました。彼らは重い皮膚病を患っている人たちでした。彼らは遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて言いました。「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」。

 遠くから叫んでいたのには理由がありました。彼らは人に近づくことが許されていなかったからです。「重い皮膚病」と訳されているその病にかかりますと、その人は「汚れた者」とみなされるのです。その病気については様々な決まり事がありました。この病気にかかった人が道を歩く時には、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と声を上げることが定められていました。人々が誤って触れないようにするためです。また、この病気にかかった人は、人々の居住地区に住むことは許されませんでした。人々が住んでいない、集落の外に住まなくてはならなかったのです。それがこの十人の置かれていた状況でした。

 それゆえに彼らは遠くから叫んだのです。「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」。「憐れんでください」と叫んでいたのは、「憐れんでくださる」と信じていたからでしょう。汚れた者と見なされてきた彼らです。忌み嫌われてきた彼らです。人々からはそのように扱われてきました。しかし、イエス様は違う。この御方は憐れんでくださる。イエス様は私たちを斥けない。私たちを見捨てない。必ず憐れんでくださる。彼らはそう信じたからこそ、遠くから大声で叫んだのです。「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」。

 彼らがそう信じたのは間違いではありませんでした。以前、こんなことがありました。イエス様が活動を開始して間もない頃のことです。ある町にやはり同じ重い皮膚病にかかった人がいました。その人は遠くから叫んだのではなく、大胆にもイエス様に近づいてひれ伏し、こう言ったのです。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。周りにいた人たちは恐らく顔をしかめたと思います。しかし、なんとイエス様は汚れていると見なされているその人に、手を伸ばして触れたのです。そして、言われました。「よろしい。清くなれ」。するとその病は癒されたのでした。確かにイエス様はその人を憐れんでくださった。そのような出来事がルカによる福音書5章に書かれています。

 そんなイエス様の話をこの十人も伝え聞いていたのでしょう。人々が汚れた者と見なそうが、人々が忌み嫌おうが、イエス様だけは憐れんでくださる。彼らはそう信じて叫びました。「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください!」

 するとイエス様は彼らにこう言われました。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい。」これは彼らが期待していた答えではなかったに違いありません。彼らが期待していたのは、恐らくイエス様が近づいてこられて、かつてなされたように手を伸ばしてくださることだったのでしょう。その手で触れてくださり、その場で癒してくださることだったのでしょう。しかし、イエス様はそうしてはくださいませんでした。主は言われたのです。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」。

 祭司たちに体を見せるのは、社会復帰のための手続きです。先ほども触れましたように、この病気にかかると隔離されて通常の社会生活が送れなくなります。しかし、この病気が治った場合、再び社会に戻ることができるのです。その判定をするのは祭司たちです。彼らが調べて、治っていたら清めの儀式を行うのです。その手続きを経て、癒された人は社会に戻ることができるのです。

 しかし、この十人はまだ癒されてはいないのです。何も変わってはいないのです。当然のことながら、病気が治っていなかったら祭司に見せても意味がありません。にもかかわらず、イエス様は彼らに、祭司たちのところへ行けと命じました。何を意味しているのでしょうか。「信じなさい」ということです。

 彼らはイエス様に「憐れんでください」と叫びました。憐れんでくださると信じていたからです。ならば、信じたように行動すべきなのでしょう。憐れんでくださると信じたのなら、憐れみの主に信頼して、その御言葉に従って、具体的な一歩を踏み出すことが大事なのでしょう。そして、実際彼らはそうしたのです。彼らはまだ癒されていないにもかかわらず、祭司たちのところに向かったのです。まだ何も起こってはいません。イエス様の憐れみは目に見えません。にもかかわらず、イエス様の御言葉に従って彼らは祭司たちのところに向かいました。そして、こう書かれています。「彼らは、そこへ行く途中で清くされた」(14節)。まさに、彼らが信じたとおりになりました。

大声で賛美しながら戻ってきた一人
 さて、これが単に癒しの奇跡の話ならば、このエピソードは14節で完結です。ところが、今日の聖書箇所はそうなってはおりません。続きがあるのです。どうも本当に重要なメッセージは15節以下にあるようです。話はこのように続きます。

 「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。『清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか』」(15‐18節)。

 「ほかの九人はどこにいるのか」と主は言われます。おかしいと思いませんか。イエス様はよくご存知のはずです。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われたのはイエス様なのですから。だから彼らは御言葉に従って出発したのであり、今、恐らくは祭司たちのところに行く途中にいるのです。

 ならばなぜ10人ではなく9人なのか。なぜ一人は帰ってきたのでしょうか。彼は「大声で神を賛美しながら戻って来た」と書かれています。イエス様も言っています。「この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」。このサマリア人を際立たせているのは、ただ彼が戻ってきたということだけではありません。彼が神を賛美している姿です。彼は大声で神を賛美していたのです。大声で賛美をしていたら、道行く人々からは変に思われることでしょう。しかし、それでもなお賛美の声が大きくなったのは、抑えきれないほどの喜びがそこにあったからに違いありません。

 そして、抑えきれないほどの喜びに溢れていたのは、恐らく他の9人も同じだったはずなのです。長い間苦しんできたのですから。そして、その苦しみの根源であった病気が癒されたのですから。長い苦しみから解放されたのですから。それは嬉しかったことでしょう。抑えきれないほどの喜びがそこにあったに違いありません。

 彼らの喜びが病気の癒されたことについての喜び、苦しみから解放されたことについての喜びであるならば、その喜びをもって行うべきことは明白です。イエス様が言われたように、祭司に体を見せ、正規の手続きを経て社会復帰することです。そして、実際彼らはそうしたのです。

 しかし、この一人のサマリア人は違っていたのです。彼は明らかに、ただ病気が癒されたこと、苦しみから解放されたことを喜んでいたのではないのです。はじめに彼を含めた10人が何と叫んでいたか、思い起こしてください。彼らは声を張り上げて「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください!」と叫んでいたのです。すべての人が自分たちを忌み嫌っても、この方だけは、必ず憐れんでくださる。そう信じて叫んだのです。

 そして、実際、イエス様は彼らを斥けませんでした。見捨てませんでした。憐れんでくださいました。そして、確かなことは、彼らが癒された時に、初めてイエス様が憐れんでくださったのではないということです。彼らがまだ病に苦しんでいた時に、イエス様は憐れんでいてくださった。彼らが苦しみの中から「憐れんでください」と叫んでいた時に、既にイエス様は憐れんでいてくださった。「祭司たちのところに行きなさい」とは、イエス様の憐れみの言葉だったのです。初めから既にイエス様の憐れみの中にいたのです。このサマリア人の喜びはそこにあったのでしょう。だから、憐れんでくださったイエス様のもとに帰って行ったのです。

 いや、それだけではありません。癒しそのものは明らかに奇跡として起こりました。そこに現れたのは神の癒しです。イエス様の憐れみを通して彼が出会ったのは、神の憐れみだったのです。癒された“その時”に神が憐れんでくださったのではありません。彼がまだ苦しみの中にあった時、既に神の憐れみの内にあったのです。

 それは彼にとっては大きな驚きであったに違いありません。重い皮膚病の人は、いかなる形における礼拝にも参加することはできないのです。汚れた者とされているからです。彼はずっと思ってきたに違いありません。私は汚れた者であるから、神から遠ざけられているのだ、神から忌み嫌われているのだ、と。そんな彼が、イエスという御方を通して、神に愛されていることを知ったのです。彼は神の憐れみの内にあったのです。病気が治ってからですか。清くされてからですか。いいえ、重い皮膚病であった時に、汚れた者とされていた時に、既に神の憐れみの御業は始まっていたのです。イエス様を通して!

 それは彼にとって病気が癒されたこと自体よりも重大なことでした。だから彼は、社会復帰のための手続きをすることも忘れて、一心に神を賛美し始めたのです。大声で神を賛美しながらイエス様の元に戻ってきたのです。その人にイエス様はこう言われました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(19節)。癒されたのは10人でした。しかし、救いの宣言を聞いたのは、この一人でした。確かにこの人は救われました。そして、それは病気が癒されること以上のことでした。

 なぜこの話は14節で終わっていないのか。既に明らかであろうと思います。イエス様のみもとで感謝と喜びに溢れて神を賛美しているこの人の姿こそ、まさに救われた人の姿だからです。そして、彼の立っているところに、私たちもまた招かれているのです。私たちもまたイエス様を通して神の憐れみを知り、週毎に神を賛美するために主のみもとに戻ってくるのです。そして、主の御言葉によって再びこの世に送り出されるのです。主は言われます。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。


(祈り)

2019年7月7日日曜日

「神の喜びが天に満ちる時」

ルカ15:1‐10

徴税人や罪人との共食
 「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは『この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」(1‐2節)。

 神に背いて生きていると見なされていた徴税人たち。宗教的な戒律を守らず、ユダヤ人社会からはじき出されていた「罪人」と呼ばれている人たち。安息日ごとに会堂で朗読されている神の律法も、代々にわたって伝えられてきた神の偉大な救いの物語も、神を誉め讃える詩編の言葉も、全く自分とは無関係だと思って生きてきたに違いありません。神の国?神の救い?――わたしには関係ありませんよ!そのように生きてきた彼らは、弟子を連れて歩いているラビ、宗教的な指導者たちを見かけても絶対に近づかなかったはずです。見下され、軽蔑されていることが分かっているから。呪われた者と見なされ、断罪されていることが分かっているから。

 しかし、そんな彼らが、不思議なことに、鉄が磁石に引き寄せられるように、イエス様に引き寄せられてきたのです。「話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」と書かれています。起こりえないことが起こっていました。彼らは自ら近寄って来たのです。神様の話が聞きたくて。神の国の話が聞きたくて。神の救いを知りたくて。「話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」。原文では「常々そういうことが起こっていた」というニュアンスで書かれています。この時だけでなく、いつもイエス様の周りで起こっていたことでした。

 「話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」。そんな彼らをイエス様はいつも喜んで迎え入れられたのだと思います。喜んで彼らに神の国を語り、喜んで彼らに神の救いを語り、喜んで彼らと共に食事をしていたのです。ユダヤ人たちにとって、一緒に食事をするということは、一緒に礼拝するということでもありました。共に神の恵みの糧を分かち合い、共に喜び、共に祈り、共に神を賛美していたのでしょう。その食事は、さながら神の国を既に味わっているような、そんな食事であったに違いありません。

 ところがそこに、一緒に喜んではいない人たちがいたのです。この光景を見て顔をしかめていた人たちがいました。「ファリサイ派の人々や律法学者たち」と書かれています。律法を厳格に守っていた真面目な人々です。彼らの多くは本当に神に従順に生きたいと思っていた人たちでした。人々から尊敬もされていた、模範的なユダヤ人であり、敬虔な人々です

 そんな彼らが――そんな彼らだからこそ――イエスの姿を見てつぶやいたのです。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と。そこでイエス様は彼らに三つのたとえ話をなさいました。今日は特にその一つ目に注目したいと思います。

馴染み深い話
 イエス様は次のように語り始めました。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば…」。ユダヤ人にとって、羊というのは極めて身近な動物でした。ですから、イエス様が語っている状況というのは、容易に思い描くことができたはずです。実際、百匹の羊というのは一つの群れとしては一般的な数であったようです。羊を飼っていれば、百匹の内の一匹を見失ってしまうということも、あることだったのでしょう。そのような意味で、イエス様の話は、「ファリサイ派の人々や律法学者たち」にとっても、馴染み深い話であったと言えるでしょう。

 ちなみに、「その一匹を見失ったとすれば」とありますが、マタイによる福音書では「その一匹が迷い出たとすれば」となっています。意味合いとしては、そういうことです。つまり羊飼いの注意散漫によるのではありません。羊が羊飼いの声についていかなかった、ということです。

 ヨハネによる福音書にも、やはりイエス様が羊の話をしていますが、そこにはこう書かれています。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」(ヨハネ10:3‐4)。ある解説によりますと、実際にそのような羊の飼い方がなされていたようです。羊飼いが声を上げながら囲いから羊を導き出し、牧草のあるところに連れて行く。そして、再び声を上げながら羊を囲いの中へと導くのです。ところが時として、羊飼いの声を聞いてついていかない羊がいるのです。するとその羊は迷子になってしまいます。羊飼いの声が届かないところにまで迷い出てしまうと、もう自分では戻ることができません。それがここで語られている「見失われた羊」です。

 そのような羊はいるものです。これを聞いている、「ファリサイ派の人々や律法学者たち」にとっては、まさに「徴税人や罪人」こそ、「見失われた羊」なのでした。神の声に従わないで、律法に従わないで、「イスラエル」という神の羊の群れから、自分勝手に迷い出た連中。まさに「見失われた羊」です。その意味でも、イエス様の話は彼らにとって、「馴染み深い話」であったはずです。

馴染み深くない話
 ところが、イエス様はその「馴染み深い話」を「全く馴染み深くない話」にしてしまったのです。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば…」と語られた上で、こう続けられたのです。「九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」

 有名なたとえ話を何度も聞いているうちに、新鮮な驚きを失ってしまうということは起こりえます。もうかれこれ二十年も前になりますが、まだ大阪にいた時に、ある家庭集会でこの聖書箇所を読みました。そこに定年退職した一人の年輩の男性が来ていまして、その方は生まれて初めてこの箇所を読んだのです。読んだ直後にその人は言いました。「そんなアホな!」しかし、これが本来のあるべき反応なのだと思います。

 実際、イエス様が話していたのは、そこにいた人が全員「えっ!」と思うような極端な話なのです。「九十九匹を野原に残して」と書いてありますが、その「野原」というのは、ほとんどの場合「荒れ野」と訳される言葉です。洗礼者ヨハネが現れた「荒れ野」。イエス様が悪魔から誘惑を受けられた「荒れ野」。この「野原」と同じ言葉です。そんな荒れ野に九十九匹を放り出したまま、迷い出た一匹を「見つけ出すまで捜し回らないだろうか」と主は言われたのです。「そんなアホな!」

 しかし、天の父なる神は、そのような御方なのだと主は言っておられるのです。それは聞きようによっては非常に不愉快な話にもなるのでしょう。この九十九匹のところに身を置いている人が聞くならば、これは実に腹立たしい話に違いありません。先ほども触れましたように、「ファリサイ派の人々や律法学者たち」にとって、迷い出た一匹とは「徴税人や罪人」なのです。それに対して自分たちは、羊飼いの声に聞き従い、迷い出ることのなかった九十九匹の中にいるのです。

 一匹と九十九匹のこの話が、「ファリサイ派の人々や律法学者たち」にどう受け取られるかは、イエス様も分かっていたのでしょう。ですから、この一つのたとえ話をイエス様はこうに締めくくられたのです。「 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(7節)。

 「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」。イエス様はあえてそう表現しました。それこそ彼らの自己認識だったからです。しかし、本当にそうなのでしょうか。彼らは「悔い改める必要のない正しい人」なのでしょうか。徴税人や罪人を見下し、断罪していた彼らは、本当に悔い改める必要のない人なのでしょうか。徴税人や罪人が神の元に帰ってきたことを喜べない彼らは、本当に悔い改める必要のない人なのでしょうか。本当の意味で正しい人なのでしょうか。本当に迷い出てはいない人なのでしょうか。彼ら自身は神から遠く離れてはいないのでしょうか。

失われた一匹のところに身を置いて
 イエス様がこのたとえ話において語っておられるのは、天の父なる神の心です。迷い出て遠く離れてしまった羊を、追い求め、追い求め、一匹のその羊のことしか考えられないほどに、どこまでも追い求めて、見つけ出すまで捜し回る羊飼いの心です。そして、迷い出た羊を見出した、羊飼いの心にある大きな喜びです。失われた羊が、今やわたしと共にいるではないか!その羊飼いの爆発的な喜びが、それこそ極端に過ぎるほどの描写をもって語られているのです。「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」(5‐6節)。

 そのように大喜びする羊飼いの喜びを、「ファリサイ派の人々や律法学者たち」もまた、本当は間の当たりにしていたのでしょう。イエスという御方の周りに集まってきた罪人たちの姿に、共に食事をしている彼らの姿に。しかし、彼らはそんな天の父の喜びを共有できませんでした。彼らは真面目な人たちだったかもしれない。しかし、天の父の心から、天の父の喜びから、遠く離れてしまっていました。そう、戻れないほど遠くまで。その意味では、彼らもまた迷い出て見失われた羊であったということなのでしょう。彼らが身を置くべきところは九十九匹のところではありませんでした。そうではなくて、迷い出て見失われた一匹のところだったのです。

 そして、ここにいる私たちが身を置くべきところも、九十九匹のところではありません。迷い出て失われた一匹のところです。そこに身を置いて耳を澄ませる時、何が聞こえてきますか。

 羊飼いはここにいる私たちをも、追い求め、追い求め、捜し求めてくださいました。それこそ、独り子を罪に満ちたこの世界に遣わすことまでして、十字架にかけられることまでして、そして、遠く離れたこの国に教会を遣わしてまでして、私たちを追い求めてくださり、私たちを見出してくださいました。今、あの徴税人や罪人たちと同じように、私たちもまた、主の食卓のあるところに身を置いているとはそういうことです。

 「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください。」ここに描かれている羊飼いの大きな喜びは、今も天に満ちている神の喜びです。私たちが今日、神のもとにいることにおいて、天に満ちている神の喜びです。私たちが何かをするからではありません、何かができるからでもありません。あの羊は何もしていないでしょう。ただ羊飼いに見出され、担がれているだけです。羊飼いにとってはその存在そのものが喜びなのです。

 そうです、何をするからではありません。何ができるからでもありません。私たち一人一人の存在そのものが神の喜びなのです。それゆえに、私たち自身もまた、私たち自身の存在を喜び、お互いの存在を喜び、そのようにして神の喜びを共有しながら、共に信仰の歩みを進めてまいりましょう。
  
(祈り)

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