出エジプト記 18章1節~27節
今日の箇所には、「モーセのしゅうとで、ミディアンの祭司であるエトロ」(1節)という人物が出てきます。出エジプト記4章以来、久しぶりの登場ですので、まずこの人物について振り返っておきたいと思います。
なぜヘブライ人であるモーセのしゅうとがミディアン人の祭司なのか。そのいきさつは出エジプト記2章に出ています。モーセは、もともと人を殺してミディアン地方に逃れてきた逃亡者でした。その彼が、ある井戸の近くで、乱暴な羊飼いたちの手からミディアン人の娘たちを救います。このことをきっかけに、彼女たちの父であるエトロ(またの名をレウエル)という祭司と出会ったのでした。
モーセはミディアンに留まる決心をし、エトロの娘のひとりツィポラをめとりました。彼らの間に生まれた長男は、ゲルショムと名付けられました。ゲールとは寄留者という意味です。モーセが、「わたしは異国にいる寄留者(ゲール)だ」と言ったからである、と説明されています。もう一人の子供は今日の箇所によればエリエゼルという名前でした。「神は我が助け」という意味です。
ミディアンの地に、モーセは約40年間、羊飼いとして暮らしていました。しかし、ある日、燃える柴の中から語りかける声を聞くことになります。主との出会いでした。「主」と訳されているのは「ヤハウェ」という言葉です。その意味は「わたしはある」という意味で、神はまさに共にいる神としてご自身を現されたのです。そこで召命を受けたモーセは主から受けた使命を果たすため、エジプトに帰って行くことになりました。
そのときモーセは、しゅうとのエトロのもとに帰って、「エジプトにいる親族のもとへ帰らせてください。まだ元気でいるかどうか見届けたいのです」(4:18)と言いました。主との出会いのことはまだ伝えてはいませんでした。エトロは「無事で行きなさい」と言って送り出します。モーセはツィポラと息子たちを連れてエジプトへ向かいます。それがエトロとの別れとなりました。その後、ツィポラと息子たちだけはエトロのもとに帰したものと思われます。
そのエトロが出エジプトの出来事を伝え聞きました。彼はさっそく、ツィポラと子供たちを連れてやってきます。それが今日お読みした話です。次のように書かれていました。「モーセのしゅうとで、ミディアンの祭司であるエトロは、神がモーセとその民イスラエルのためになされたすべてのこと、すなわち、主がイスラエルをエジプトから導き出されたことを聞いた」(1節)。
この「すなわち、主が」という言葉は特に注目に値します。彼はモーセが出会った神、後にイスラエルを通してご自分を現わされ、最終的にイエス・キリストを通してこの世にご自身を啓示される唯一の生ける神「主(ヤハウェ)」のことを伝え聞いたのです。
そのエトロが神の山に宿営しているモーセのところに来たのです。神の山と言ってもシナイ山ではありません。どこであるのかは不明です。話の流れからすればレフィディムということになります。ともかく、やってきたエトロと安否を尋ね合い、天幕に入って、モーセは「証し」を始めました。いわば家族伝道です。
モーセは何を語ったのでしょうか。しゅうとが伝え聞いていたこと、すなわち「主」が何をしてくださったかということを話したのです。「モーセはしゅうとに、主がイスラエルのためファラオとエジプトに対してなされたすべてのこと、すなわち、彼らは途中であらゆる困難に遭遇したが、主が彼らを救い出されたことを語り聞かせると」(8節)とある通りです。つまり、モーセはどれほど自分が苦労したかという話をしたのではないのです。自分が労苦してイスラエルの民を導き出したという話をしたのでもありません。「主がなさったこと」を語ったのです。これが「証し」というものです。
モーセが主のなさったことを伝えたら、エトロはどうしたでしょうか。「エトロは、主がイスラエルをエジプト人の手から救い出し、彼らに恵みを与えられたことを喜んで」(9節)と書かれています。モーセたちが無事であったことを喜んだのではありません。主が恵みを与えられたことを一緒に喜んでくれたのです。そして、こう言ったのでした。
「主をたたえよ/主はあなたたちをエジプト人の手から/ファラオの手から救い出された。主はエジプト人のもとから民を救い出された。今、わたしは知った/彼らがイスラエルに向かって/高慢にふるまったときにも/主はすべての神々にまさって偉大であったことを」(10-11節)。
こうして異教の祭司エトロは主を知るようになりました。そして、一緒に礼拝し、「共に神の御前で食事をした」と書かれています。エトロにとって、それは名のない神ではなく、イスラエルにおいてご自身を現わされた主なる神に他なりませんでした。
続いて書かれているのは、そのエトロがモーセに助言したという話です。エトロはモーセのやり方が「良くない」と言いました。これはいわば「入信間もない人の声」のようなものです。外から来て間もない人の方が、大切なことがよく見えているということは確かにあるものです。しかし、普通に考えるならば、エジプトから大群衆を導きだして、ここまでやってきた人に助言や諫言をすることは、そう簡単なことではありません。それは単に彼がモーセの「しゅうと」だからできたということではないでしょう。なぜそれができたのか。それはモーセが語ったことと関係するのです。
先にも触れたように、モーセは自分がいかに大きなことをして、苦労してここまでやってきたかを語りませんでした。主がなさったことを語ったのです。そこにおいては、モーセはそこではあくまでも一人の人間モーセ、弱さを持ち、間違いも犯し得るモーセなのです。いかなる仕方においても神格化されることはありません。エトロは、そのようなモーセであるからこそ、語ることができたのです。
また、モーセもそのような認識であるから、いわば入信間もない人の助言に耳を傾けられたとも言えます。事もなげに書かれていますが、これは共同体において、あるいは指導者にとって、しばしばとても難しいことなのでしょう。特にその歴史が長くなればなるほど、難しいこととなります。「ここまでどれだけ苦労してきたと思っているのだ。何にも分からないくせに」というようなことが自然に起こり得るからです。しかし、共同体にとってはそれこそが大きな問題となるのです。
エトロが言ったのは、仕事を分担しなさいということでした(22節)。しかし、それは単にモーセの重荷を軽減するということではありませんでした。モーセが本当の意味で「任に堪える」(23節)ようになるためです。それは持ちこたえるということだけではなく、本当になすべきことを行えるということです。
なすべきこととは何か。エトロはこう言いました。「あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい」(19、20節)。ここで「民に代わって」とありますが、これは「民のために」と訳しても良い言葉でして、むしろそちらの方がよいかもしれません。民のために神の前に立つこと、それはすなわち祈ることです。
人々の前に立つことよりも、まず神の前に立つことだとエトロは言ったのです。それは異教世界ではあっても、「祭司」をしてきた者だからこそ口にした言葉だったのでしょう。そして、その上で人々には「掟と指示」を示すのです。それは神の言葉です。その「任に堪える」ようになるために、エトロの助言は極めて大きな意味を持つものだったのです。
2024年5月29日水曜日
祈祷会用:出エジプト記 18:1~27
2024年5月26日日曜日
「キリストの働きを受け継ぐ」
ヨハネによる福音書 14:8‐14
キリストの行う業を行う
「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」(12節)。そうイエス様は言われました。
「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行うのだ」と主は言われます。イエス様と同じことをする。言い換えるならば、イエス様のなさっていることを引き続き行うということ、継承するということです。「わたしが父のもとへ行くからである」と主が言っておられるように、イエス様が父のもとに行った後の話です。イエス様が目に見える姿でこの世界におられなくなった後の弟子たちの話です。すなわち、教会の話です。ならば、それはここにいる私たちの話でもあるのです。イエス様が目に見える姿でこの地上におられなくなった後は、私たちが主の御業を継承するのだということです。
では、継承すべき主の御業とは何でしょうか。イエス様の言われる「わたしが行う業」とは何を意味するのでしょうか。
イエス様のなさったこととしてすぐに思い出されるのは福音書に書かれている数々の奇跡でしょう。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行う」。同じように奇跡を行う。――確かに、聖書を読みますと、弟子たちもまた数々の奇跡を行っています。ペトロもそうでした。パウロもそうでした。
しかし、イエス様が単に「奇跡」の話をしているかと言うと、どうもそうではないらしいのです。その前にこう言っておられるからです。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである」(10節)。イエス様を通して父なる神が語られる。イエス様を通して父なる神が働いておられる。それこそがイエス様の言われる「わたしが行う業」だったのです。
私たちはここで同じ福音書に書かれている言葉を思い起こさねばなりません。そもそもなぜイエス様がこの世におられたのか。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)。そう書かれています。神は世を愛されたのです。御自分に背を向けているこの世界を愛されたのです。御自分に敵対しているこの世界を愛されたのです。神様はこの世界を愛して救うために、独り子を遣わされたのです。御子はこの世界に対する愛の現れでした。その神が独り子を通して語られ、御子を通して働かれたのです。愛するためです。イエス様の言われる「わたしが行う業」とは、父なる神の愛の現れに他ならないのです。
だからイエス様はフィリポにこう言っておられますでしょう。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ」(9節)。イエス様を見たなら、既に父を見ているのです。この世を愛しておられる父、独り子をお与えになるほどにこの世を愛しておられる父を既に見ているのです。
そのイエス様がこう言われるのです。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行う」と。この世を愛しておられる神が、イエス様を通して語られたように、今は、信じる者を通して語られるのです。この世を愛しておられる神が、イエス様を通して愛を現されたように、今は、信じる者を通して愛を現そうとしておられるのです。
「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行う」。そのように、神はキリストを信じる者に明確な目的を持っておられます。キリストを信じる者は、ただ自分の幸いのためにキリストを信じるのではありません。ただ自分が救われるために、キリスト者になったのではありません。キリストの業を行うようにと、神は私たちを召されたのです。神様は私たちを通して、御自分の愛を伝えようとしておられるのです。言葉と行いをもって御自分の愛を現そうとしておられるのです。
教会は自分たちの平安と喜びのために存在しているのではありません。この世においてキリストの行う業を行うために存在しているのです。教会を用いて、神様は御自分の愛を伝えようとしておられるのです。
そして、イエス様はこうも言われました。「また、もっと大きな業を行うようになる」(12節)。これは驚くべき言葉です。イエス様よりももっと大きな業を行うようになる。しかし、これはまた歴史的な事実でもあります。イエス様の働きは、狭い地域に限られていました。イエス様はその公の働きにおいてパレスチナから外へは出なかったのです。そこから外に出て、ユダヤからサマリアへ、さらにはギリシャ、ローマへと働きを拡大したのは、後の弟子たちによってでした。
そして、神の御業は広がって、この日本にまで至ったのです。「もっと大きな業を行うようになる。」確かにそのようになりました。しかし、もちろん、ここが終着点ではありません。今はここにいる私たちにも言われているのです。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」と。
わたしの名によって願いなさい
イエス様は、直接目の前の弟子たちに対して「あなたたちは、わたしが行う業を行い、またもっと大きな業を行うようになる」と言われたのではありません。「わたしを信じる者は」と言われたのです。その意味では、あの場にいた弟子たちと、私たちの区別はありません。使徒であるかないかも関係ありません。「わたしを信じる者は」と主は言われたのです。それだけです。ですから、さらに言うならば、信仰暦が長いか短いか、経験があるかないか、大人か子どもか、元気であるか病気であるかも関係ありません。これは信じる者すべてに与えられている約束です。大事なことは「信じている」ということだけなのです。
そこで気がつきますことは、「信じる者」に共通して与えられているものがあるということです。この世における一切の違いにかかわず、信じる者に共通して与えられているもの――それは「祈り」です。イエスを信じる者に与えられているのは、イエスの御名による祈りです。ですから、イエス様はこのように話を続けられるのです。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(13‐14節)。
イエス様は「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行う」と言われたのです。キリストの業を行うと言われたのです。キリストの業に似たような「人間の業」を行うのではないのです。「キリストの業を行う」のです。ならば、どうしても重要になりますのは「祈り」です。人間が人間の業を行うだけならば「祈り」は必要ありません。しかし、キリストの業を行うならば、「祈り」なくしてはあり得ない。だから私たちはイエス様の名によって願うのです。私たちが「願い」、キリストが「かなえる」という仕方において、キリストの業がなされていくのです。
実は、これと似たような表現が16章に出てきます。「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(16:23‐24)。そこでは、「父はお与えになる」となっています。「キリストがかなえてくださる」というのは、「父がお与えになる」ということでもあるのです。私たちが「祈り」、キリストが「かなえてくださる」という仕方において、父が御自身の愛を現し、父が与えようとしている救いの御業が実現していくのです。
どうですか。聞いていて、とてもまどろっこしいと思いませんか。不思議なことです。神様はどうしてそんな回りくどいことをなさるのでしょう。どう考えても効率が悪い。そんな回りくどいことをなさらないで、私たちが願うとか祈るとかとは無関係に、直接的に御自分の愛を現し、御自分の愛を伝え、御自分の救いの御業を進めた方が、はるかに効率がよいのでしょう。
しかし、これが神様のやり方なのです。神様はどうも効率重視の御方ではないのです。神様は効率よりも、私たちの存在というものを重んじてくださるのです。私たちの意志を、すなわち願うこともでき、願わないこともできる、そのような私たちの意志をも重んじてくださるのです。私たちとは無関係に事を進めようとはなさらない。あくまでも、祈りにおける交わりの中で、「一緒にやろう」と言ってくださるのです。
それは何のためですか。16章でイエス様ははっきりと言っています。「あなたがたは喜びで満たされる」と。神様は私たちの喜びのことを考えていてくださるのです。実際、そうではありませんか。人が救われることに関心のない人は、人が救われる喜びをも知ることはないでしょう。私たちが誰かの救いを心から願い、切に切に祈り続け、そして自分が神の御業のために用いられたなら、そのようにして神の愛が伝わって神が救いを現してくださったなら、そこに大きな喜びが満ち溢れることでしょう。
教会が本当の喜びに満ち溢れるとするならば、それは単に和気藹々と楽しく過ごすことによってではないのです。そうではなくて、私たちが人々の救いを真剣に祈り求め、そして、その救いが実現していくところにおいてなのです。そのように誰かが救われるために私たちが用いられるところにおいてなのです。キリストの業がそのようにして現れ、さらに大きな業が現れることによってなのです。
「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」それは私たちの祈りを通して実現していきます。ならば、私たちの周りの人々の上に、この地の上に、キリストの御業が現れるように、神の愛がはっきりと形を取って実現するように、大いに祈り求めようではありませんか。「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」と主は言ってくださるのですから。
2024年5月22日水曜日
祈祷会用:出エジプト記 17:1~16
出エジプト記 17:1‐16
イスラエルの民は、マナを与えられるという恵みを味わったシンの荒れ野を出発しました。「主の命令により」と書かれています。彼らは雲の柱、火の柱に導かれながら旅を進め、レフィディムに宿営することとなりました。そして、聖書は「そこには民の飲み水がなかった」と伝えます。
前にも触れましたが、これは水が尽きてしまったということを意味しません。水の蓄えなくして旅をすることはあり得ないからです。期待していたところで水の補給ができなかったということです。尽きてしまったわけではありませんが、水は次第に少なくなってまいります。水を節約しなくてはなりません。喉の渇きは民の間に不平を生じさせました。聖書には、民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」(2節)と言ったことが記されています。民の不平はモーセとの間に争いを生じさせました。
しかし、興味深いのは、モーセがただ「なぜ、わたしと争うのか」と言うだけでなく、「なぜ、主を試すのか」と言っていることです。モーセに「水を与えよ」と要求することが、どうして「主を試す」ことになるのでしょうか。
それは7節の説明から理解することができます。「彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試したからである」(7節)。つまり、彼らはただ水を要求したのではないのです。そもそも水がないと分かっている場所で、モーセという人間にただ「水を与えよ」と要求しても意味がありません。そうではなくて、「主が本当に我々の間におられるなら、水出せ」と言って要求したということなのです。
恐らく、彼らはマラの苦い水(15:23)のことを覚えているのです。飲める水がなかった場所で、主が苦い水を甘い水に変えてくださった、あの奇跡です。また、その後のシンの荒れ野においても、主が食べ物のない場所でマナを与えてくださったことを思ったことでしょう。主が共におられるならば、水だって出せるはずだろう、と彼らは言ったのです。
思い起こしてください、苦い水しかないマラにいた時、本当はその先のエリムにおいて主は十二の泉を備えていてくださったのです。彼らはただ主に信頼していればよかったのです。マナを与えてくださったときも、主が望んでいたのは、彼らが主を信頼して生きるようになることでした。
しかし、いくら神の奇跡を経験しても、その神様に信頼して生きるようになるとは限らないようです。むしろ、奇跡を起こせる神様を試して、自分の望みをかなえるために使おうとすることも起こってきます。まさに、イスラエルがそうだったのです。そのような信頼の欠如は、繰り返し「不平を言う」という形で現れてまいります。彼らは言うのです。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」。そうではないでしょう。主は約束の地に導くと言われたのです。ならば、主の御言葉に信頼していればよいはずなのです。
そのように、この箇所に見るのは主を試す彼らの不信仰です。しかし、この箇所にはそのような民の不信仰以上に、そのような彼らに対する神の恵みの大きさが語られているのです。主はモーセに言われました。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる」(5,6節)。
「岩を打て」と主は言われます。何で打つのか。「ナイル川を打った杖」で打つのです。ナイル川をその杖で打ったのはエジプトにいた時でした。ナイル川が血に変わりました。それはエジプトに対する一連の神の裁きのはじまりでした。そして、そのクライマックスは、「主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた」(12:29)という出来事です。神の裁きが初子を撃った時の、その「撃つ」という言葉は、岩を「打つ」のと同じ単語です。
本来ならば、エジプトと共に撃たれていても不思議ではなかったイスラエルの民でした。かし、恵みによって裁きは過ぎ越し彼らは救われたのです。そのイスラエルが、なおも神を信じないならば、今度こそイスラエルが撃たれてしかるべきなのでしょう。しかし、主はイスラエルを撃てと言われたのではなくて、「岩を打て」と言われたのです。そして、水が出て民は飲むことができる、と。ここでもう一度、神の赦しの恵みが現わされたのです。
代わりに岩が打たれて民は赦され、むしろ打たれるはずだった者が命の水にあずかった。――そこで何を思いますか。キリストではありませんか。だから、パウロはそう言っているのです(1コリント10:4)。もちろん実際には岩が着いてきたのではなく、神の赦しの恵みがずっと伴っていたのです。その事実を象徴的に表す打たれた岩、それはまさにキリストの予表であったと言えるのでしょう。
そして、この章に書かれているもう一つのエピソードはアマレクとの戦いです。
アマレクというのは、シナイ半島を移動する遊牧民の一つです。時として他の民族を襲って略奪することもしながら、水源や食料を確保し、存続していた人々です。他に聖書に出て来るミディアン人も同じです。「アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦った」という書きかたからすると、岩をモーセが打った時に開かれた水源を奪いに来たということが示唆されているのかもしれません。
アマレクの襲来というこの事態に際して、イスラエルの民は自らの存亡をかけて戦わざるを得ませんでした。モーセはヨシュアに命じます。「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい」(9節)。そうは言うものの、イスラエルの民は、もともと戦闘の訓練など受けたことのない人たちです。つい二月ほど前まで奴隷だったのですから。武器も十分にそろっていたとは思えません。しかし、この聖書箇所を見るかぎり、彼らはヨシュアの召集に応じたと思われます。彼らはアマレクと戦うために立ち上がったのです。
17章前半の彼らの姿とずいぶん違います。不信仰でブツブツ言っていた彼らでしたが、もはや不平など言っている場合ではなくなりました。アマレクが襲来してきた時に、不平を言ってモーセを石で打ち殺しても何ら解決にならないことは明らかです。いわば、彼らは強いられて、戦いのために立ち上がらざるを得なかったとも言えます。もはや他人の責任にして不平を言っている場合ではなくなる時が来る。自ら苦難に立ち向かわざるを得なくなる時が来る。それは神の恵みが現れるプロセスとして必要なことなのかもしれません。
しかし、もう一方において、たいへん奇妙なことに、この物語は実際に戦っている人々に注目して語ってはいないのです。注目されているのは、戦場ではなく、遠く離れた丘の頂きです。そこにはモーセ、そしてアロンとフルがいるのです。そして、こう書かれています。「モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった」(11節)。
ここに聖書の語る重大な教えがあります。事の成り行きは現場のみによって決定するのではない、ということです。まったく無関係に見える別の場所におけることが、事態を左右するのです。そのような例は他にもたくさん出てきます。後の時代、エリコに勝利したイスラエルの民が、アイという小さな町に敗北したのは、アカンという一人の人物の罪が原因であったと聖書は語ります(ヨシュア記7章)。ソロモンの後の時代に王国が分裂したのは、単に政治的な理由ではなく、主に対するソロモンの背信のゆえであったと聖書は語ります(列王上11章)。ヒゼキヤの時代に、アッシリアに包囲されたエルサレムが救われたのは、ヒゼキヤが神殿に上って祈ったからだと聖書は語ります(列王下19章)。もちろん、もっとも際だっているのは、イエスの十字架です。聖書は、私たちの罪の赦し、永遠の運命が、あのゴルゴタの上での出来事で決まったと言っているのです。
なぜ、丘の上のモーセと戦場で戦っているイスラエルの民とが結びつくのでしょうか。それは、イスラエルの兵士とモーセだけがいるのではないからです。彼らの間には、現実に生きて働き給う神がおられるからです。神がおられる限り、戦いのゆくえは、ただイスラエルとアマレクの力関係だけでは決まらないのです。
「モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった」。古来より、ユダヤ教の伝統においても、キリスト教の伝統においても、手を高々と上げるモーセの姿の中に、人々は祈る人の姿を見てきました。この場面は祈りの何たるかを鮮やかに示していると言えます。
モーセとヨシュアとは、場所は遠く離れていても、共に戦いの中にいるのです。祈る者は現場において戦う者と共に、戦いに参与しているのです。だから、どんなに手が重くなろうとも、モーセの手は上げられ続けなくてはなりませんでした。そのために、アロンとフルがモーセを助けたのです。モーセは石の上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えます。丘の上で必死になって手を上げ続ける人、それを必死になって支える人たち。人の目には、おおよそ彼らの行為は滑稽以外の何ものでもありません。戦場の戦いとはまったく無関係に見えるのでしょう。祈りはしばしばそのようなものとして人の目に映ります。祈って何になるか、と。しかし、そうではないのです。丘の上の彼らも、戦場のヨシュアも、共に生ける主のもとにいるのです。
それゆえ、戦いが終わった時、モーセはヨシュアの功績を称えたり、戦勝碑を建てたりしませんでした。そうではなく、祭壇を築いて、それを「主はわが旗」と名付けたのです。その旗は、いわば「勝利の旗」に他なりません。主こそ勝利の旗。祈りの丘と現場の戦場とが一つとなって勝利が得られた時、そこにおける本当の勝利者が誰であるかは、誰の目にも明らかであったに違いないのです。それは生ける神なる主御自身に他なりませんでした。
2024年5月15日水曜日
祈祷会用:出エジプト記 16:9~36
出エジプト記16:9-36
イスラエルの民は十二の泉があるエリムから、再び荒れ野に向けて旅立つように導かれました。彼らは荒れ野に入るとすぐにモーセとアロンに向かって不平を言い始めます。彼らの言いぐさはこうでした。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」(3節)。
彼らは人間に向かって不平を言っているつもりなのでしょう。しかし、モーセは言います。「あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ」(8節)。そして、前回の箇所には「主が聞かれた」という言葉が繰り返されていました。主は不平の言葉をしっかりと聞いておられたのでした。そうです。主が聞かれるのは、祈りの言葉だけではありません。私たちの口にする不平も聞いておられるのです。
さて、イスラエルの民の不平を聞かれた主は、彼らに対してどのようになさったのでしょうか。モーセがアロンに、「あなたはイスラエルの人々の共同体全体に向かって、主があなたたちの不平を聞かれたから、主の前に集まれと命じなさい」(9節)と指示を出します。アロンはそのとおりイスラエルの人々に伝えます。これは恐るべき言葉だったに違いありません。集められて滅ぼされても不思議ではありませんから。しかも、彼らが荒れ野の方を見ると「見よ、主の栄光が雲の中に現れた」(10節)と書かれています。「主の栄光」とは、言い換えるならば主の臨在です。主が確かにそこにおられることを示されたのです。罪が明らかにされた上で主がリアルに臨まれることほど恐ろしいことはありません。
しかし、そこで彼らはモーセを通して驚くべき言葉を聞くのです。「あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」(12節)。なんと主は、「エジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった」と言っている人々を、なおも恵みをもって生かそうとしておられるのです。
モーセが民に告げたことは現実となりました。主の言葉のとおり、夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆います。朝には宿営の周りに露が降り、その露が蒸発すると、うろこのような薄い食物が、大地の霜のように地表を覆いました。彼らはそれをマナと名付けます。それはまさに天からのパンでありました。彼らは荒れ野の旅路において、この天からのパンによって生かされ、養われることになるのです。
主がこのようにしてくださったのは、明らかに、彼らが受けるにふさわしいからではありません。既に見てきたように、彼らは決して、正しい人々、敬虔な人々、信心深い人々ではなかったのです。そして、不平を繰り返している彼らの現在のありさまも、かつてエジプトにいた時と少しも変わってはいなかったのです。
主は「主の前に集まれ」と言われる。本来ならばむしろ集められて滅ぼされるのがふさわしいことなのでしょう。しかし、主はそうなさらない。それはただ神の一方的な恵みによるものでした。そのような彼らがなおも天からのパンを受けるということは、彼らに相応しい正当な報いではなく、恵みであり、恵み以外の何ものでもなかったのです。
不平を言う民になおも与えられる天からのパン。この場面と、私たち自身の信仰生活、特に主の日に集められて行われる「聖餐」とが重なってまいります。考えて見れば、私たちが今こうしているのもまた、主の一方的な恵みであるに違いありません。どんなに良きものを与えられて喜びに満たされたとしても、次の瞬間には感謝を忘れ、不平不満を述べているような私たちです。本来ならば、とうの昔に見捨てられていても不思議ではない私たちなのでしょう。とうの昔に滅ぼされていても不思議ではないような私たちが、それでもなお全てを備えられて生かされているのです。私たちが日々生かされているのは、本当は天からのマナを与えられる以上の奇跡に他ならないのでしょう。
しかも、私たちはただ生かされているだけではなく、は今もなお命の御言葉が与えられ、キリストの体もキリストの血も、変わることなく与えられているのです。そのようにして、私たちは天からの命に生かされて続けているのです。それは私たちに相応しいことだからではありません。相応しくない私たちに、それでもなお主は恵みを表してくださっているのです。
この驚くべき主の恵みを、私たちは決して軽んじてはなりません。不平を言うイスラエルの民に、それでもなお天からのパンを与えられる主が、いったい何を望んでおられたのか、何を求めておられたのか――私たちはそのことをしっかりと聞かなくてはならないのです。
12節において主はこう言っておられます。「あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」と。主が恵みを示される目的ははっきりと述べられています。マナを降らせるのは、単に彼らを満腹にするためではありません。「こうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」と。主は、御自分が彼らの神であることを知ってほしいのです。そのために、あえて恵みを示されるのです。さらに言うならば、彼らがまことに主を知る者として生きるようになること、彼らが恵み深い主との命の交わりに生き、主を愛し、主を畏れ、主に心から信頼し、主に従って生きるようになることを主は望んでおられたのです。
そのことは主が与えられ具体的な指示にもあらわれています。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からのパンを降らせる」(4節)と言われただけではありません。さらにこう言われたのです。「民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す」(4節)と。
「試す」と主が言われるのは、もちろん民が「指示どおりにする」ことを望んでのことです。主は彼らが毎日、必要な分だけ集めることを望まれた。つまり翌日の分まで集めないということです。これは何を意味するのか。一日、一日、明日のことを思い煩うのではなくて、今日この日を主に信頼して生きるということです。そのような民となることを主は望まれたのです。
16節には主の指示が具体的に次のように伝えられています。「あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。」――必要な分だけ集めるのであって、余計に集めて備蓄してはならないということです。「だれもそれを、翌朝までは残しておいてはならない」(19節)とはそういうことです。そのように、彼らは一日一日、主を信頼して生きることを学ばなくてはならなかったのです。
さらに重要なことは、安息日に関することです。六日目になると彼らは二倍の量を集めました。具体的に書かれていませんが、これもまた主の指示によるものだったのでしょう。モーセは次のように告げています。「これは、主が仰せられたことである。明日は休息の日、主の聖なる安息日である。焼くものは焼き、煮るものは煮て、余った分は明日の朝まで蓄えておきなさい」(23節)
六日目は翌日まで残してよいのです。ただし翌日は何も捕れません。その日は、主に信頼して休まなくてはならないのです。そうです、本当の意味で休むことは、主への信頼なくしてはできないことなのです。実際、七日目に休まなかった人たちのことが出ています。「七日目になって、民のうちの何人かが集めに出て行ったが、何も見つからなかった」(27節)。愚かなことでしょう。しかし、このようなことを実際には私たちもまた繰り返しているのだろうと思います。主は彼らに言われました。「あなたたちは、いつまでわたしの戒めと教えを拒み続けて、守らないのか。よくわきまえなさい、主があなたたちに安息日を与えたことを。そのために、六日目には、主はあなたたちに二日分のパンを与えている。七日目にはそれぞれ自分の所にとどまり、その場所から出てはならない」(28-29節)。
このように、主がパンを与えられるのは、ただ彼らを満腹にするためではなく、「わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」ことを求めてのことであり、彼らが主に信頼し、従順な民として生きるようになるためだったのです。
さらに、主は次のように命じられます。「その中(集めたマナの中)から正味一オメルを量り、代々にわたって蓄えよ。わたしがあなたたちをエジプトの国から導き出したとき、荒れ野で食べさせたパンを彼らが見ることができるためである」(32節)
荒れ野での生活の記憶として伝えるためにマナを保存するのです。具体的にモーセは次のように指示を出しました。「壺を用意し、その中に正味一オメルのマナを入れ、それを主の御前に置き、代々にわたって蓄えておきなさい」(33節)。それは明らかに、彼らが荒れ野の旅を終える時が来ることを前提としています。マナが与えられる時がいつかは終わるのです。それは約束の地に入った時です。
そのように考えると、どうして荒れ野での生活を記憶し伝えることが大事なのか、また、そもそも約束の地に入る前にどうして荒れ野の旅をする必要があったのか、その理由も見えてまいります。
やがて彼らは約束の地に入ります。それは乳と蜜の流れる地、肥沃な土地なのです。彼らは半遊牧民として羊を飼って生きてきましたが、約束の地に入った後は農業を始めることになるのです。農業の世界は備蓄の世界です。収穫した穀物は備蓄できるのです。そのような世界に身を置いた時にも、それでもなお主が日々、恵みによって生かしていてくださることを覚えていなくてはならないのです。主に一日一日信頼して生きることを覚えていなくてはならないのです。そのような民であってこそ、主の民だからです。
ならば、それは約束の地に入る前に学んでおかなくてはなりません。豊かになって、たくさんの備蓄が出来て、もはや主に信頼しなくても生きていけるようになって、「わたしは主を知らない」と言わないために、それは必要なことなのです。それは私たちにとっても同じこと。私たちがしばしば荒れ野を通されるのは何のためであるのかをよく考えねばなりません。私たちにも必要だからなのです。「わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」ことを主が求めておられるからです。
2024年5月12日日曜日
「天に上げられたキリストの霊を受け継いで」
列王記下 2:1‐15
エリヤとエリシャの別れの日
今日の第一朗読にはエリヤという人が登場しました。彼はモーセと並んで旧約聖書を代表する人物の一人です。彼は紀元前9世紀にイスラエルにおいて活動した預言者でした。預言者というのは、神の言葉を告げ知らせる人です。預言者は誰に対しても神に遣わされた者として神の言葉を語ります。神が遣わされるならば、王に対してもはばかることなく神の言葉を語ります。もしその王が神に従おうとしない王であるならば、当然のことながら預言者は迫害を受けることになります。
エリヤが預言者として活動を開始した頃、イスラエルを治めていたのはアハブという王でした。この王の治世は預言者たちにとって、まさに苦難の時代でした。もっとも主の預言者たちを憎み、迫害を指示したのは王自身ではなく、その后イゼベルであったようです。実際に彼女が主の預言者たちを切り殺したことを聖書は伝えています(列王記上18:4)。そのような苦難の時代に、他の預言者たちを指導し、自ら神の言葉を語り続け、神の御心に背いた王国に立ち向かったのが、このエリヤという人物でした。
本日、エリヤと並んで登場しますもう一人の人物はエリシャです。エリヤとエリシャの出会いは列王記上19章に書かれています。エリシャはもともと農夫でした。その時、彼は畑を耕していたのです。するとエリヤが彼に近づき、エリシャのそばを通り過ぎる際に、黙って自分の外套を彼に投げかけました。言葉は交わされずとも、エリシャはすぐに悟りました。自分が預言者として召されていることを。
エリシャはエリヤの後を追います。彼は言いました。「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」。エリヤは言います。「行って来なさい。わたしがあなたに何をしたというのか」と。わたしが招いたのではない。神があなたを召されたのだ。そのことを信じるなら着いて来なさい。――要するに、そういうことです。もちろんエリシャはそのつもりでした。神が呼んでおられる。それゆえに、預言者としての訓練を受けるため、彼はエリヤに従い、エリヤに仕えてきたのです。これがエリヤとエリシャの出会いでした。
しかし、出会いがあれば別れがあります。この世における交わりは永遠ではありません。今日朗読されましたのは、エリヤの人生最後の日を伝える聖書箇所です。エリヤとエリシャの別れの時は近づいておりました。それは通常の言葉で言うならば「死別」ということになるのでしょう。しかし、今日の箇所に見るように、エリヤは死を見ることなく天に移された者として伝えられています。
いずれにせよ、エリシャはエリヤが取り去られる時が近いことを予感していました。ですからこの日も、ギルガルに残るようにと言われても、エリシャはエリヤを離れようとはしませんでした。「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません。」そう言ってエリシャはひたすらエリヤについていくのです。
エリヤが向かった先は、ベテルとエリコでした。そこには預言者の仲間たちがいたからです。迫害の中を生き延びた人々です。彼らは、エリヤが世を去った後、なおも苦難の時代を預言者として生き抜かなくてはなりません。既にアハブは世を去りましたが、イゼベルは依然として王の母として君臨しています。それでも彼らは主の言葉を語り続けなくてはならない。そのような人々を心にかけ、彼らを力づけるために、エリヤは足を運んだのでした。世を去ろうとしている者が、世に残る者に、最後の言葉を与えるために。
もちろん、エリヤはベテルとエリコの預言者たちに、あからさまに別れを告げたわけではありません。しかし、共に主に仕えてきた預言者の仲間たちには、その時が来ていることが分かっていたのです。神はエリヤをこの世から取り去ろうとしている。もう二度とお会いすることはないだろう、と。ですから彼らはエリヤに最も身近に仕えていたエリシャに語りかけます。「主が今日、あなたの主人をあなたから取り去ろうとなさっているのを知っていますか」。エリシャは答えます。「わたしも知っています。黙っていてください」。
いつかはこの日が来る。分かっていたのです。自分が召されたのは、エリヤが世を去った後にも、なおも主の言葉を世に語り続けるためであると、エリシャにはよく分かっていたのです。しかし、分かってはいても、この世における別れは悲しい。身を引き裂かれるように辛い。「わたしも知っています。黙っていてください」。この言葉からエリシャの悲しみ、苦しみがひしひしと伝わってまいります。
エリヤの神、主はどこにおられますか
エリヤとエリシャは、そのようにベテルとエリコを訪問した後、ヨルダンのほとりにたどり着きました。そして、「エリヤが外套を脱いで丸め、それで水を打つと、水が左右に分かれたので、彼ら二人は乾いた土の上を渡って行った」(8節)と書かれています。かつてイスラエルの民は、このヨルダンを渡って約束の地に入り、そこに王国を築きました。しかし、今エリヤは、そのヨルダンを逆に渡って約束の地から出て行くのです。それはエリヤが、いわばイスラエルの歴史の外へと歩み出ることを象徴するような行為でした。エリヤは神から与えられたイスラエルに対する責任を解かれたのです。エリヤの時代は終わりました。
そのことをはっきりと示した上でエリヤはエリシャに尋ねます。「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい」。エリシャは答えます。「あなたの霊の二つ分をわたしに受け継がせてください」(9節)と。律法によれば親の財産を分与される時、長子は二倍の分け前を得ます(申命記21:17)。エリシャが「霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」と言った時、彼は長子としてエリヤの跡継ぎになること、霊的な後継者とされることを求めたのです。
もともとエリシャがエリヤの後継者であることは、誰の目にも明らかでした。しかし、エリシャはそれで満足しませんでした。真にエリヤの働きを継続するために、自らが霊的に備えられることを求めたのです。エリシャには分かっているのです。エリヤがしてきた戦いは、ただ上からの力による戦いであったということ、神の霊による戦いであったことを。そのようにエリヤの内に働いていた霊を、「わたしにも受け継がせてください」とエリシャは願ったのです。
エリヤは答えました。「あなたはむずかしい願いをする。わたしがあなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる。もし見なければ、願いはかなえられない」(10節)。真にエリヤの後継者となるためには、見るべきものがある、と言うのです。何を見なくてはならないのでしょう。エリヤが「取り去られる」ということです。
「取り去られる」とは、その後に見るように、「天に上げられる」ということです。つまり、これは単なる悲しい別れなのではなくて、エリヤは《神によって》取り去られるのだ。天に上げられるのだ。神がエリヤを天に引き上げるとするならば、その働きは神が後継者に託すのです。そのようにして、「天に上げられたエリヤ」の業が継続されることになる。そのことをエリシャは見て悟らなくてはならないのです。そうしてこそ、本当の意味でエリヤの後継者となることができるのです。
そして、確かにエリシャは「見る」ことになりました。「彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った」(11節)。エリシャは叫びます。「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」。そう叫んで彼は衣を引き裂きます。それは悲痛な叫びでした。しかし、エリシャだけに見えたこの出来事を通して、彼は、エリヤが確かに神の御心によって取り去られたこと、そして天に上げられたことを悟ったのです。
ですから、エリシャは別れの嘆きの中に留まってはいませんでした。彼の上にエリヤの外套が落ちてきたのです。あの出会いの時、エリヤが投げかけてくれたあの外套です。彼はそれを拾い、ヨルダンの岸辺に引き返して立ちました。エリヤの外套を取って水を打って、彼は叫びました。もう彼は「エリヤはどこに行ったのですか」とは言いません。天に上げられたことが分かっているからです。エリヤの外套で水を打ってエリシャは叫びました。「エリヤの神、主はどこにおられますか」。
すると、あの時と同じように、水が左右に分かれました。それが答えでした。エリヤの神、主は――エリシャと共におられる。エリヤの霊はエリシャの上にとどまっている。エリヤを通して働かれた主は、エリシャを通しても働かれるのだ。そのことが示されたのです。彼は分かれた水の間を通って、再びヨルダンの西側、約束の地に渡るのです。彼は勇気をもってイスラエルの歴史の中に、エリヤの後継者として入っていくのです。神の言葉を伝えるために。
キリストの昇天を覚えて
さて、このエリヤとエリシャの物語がこの日曜日に読まれたのには理由があります。ペンテコステの一週間前の今日は、「キリストの昇天」を覚えて礼拝を捧げる主日だからです。弟子たちは、キリストが十字架にかかられたこと、そして三日目に復活したことだけでなく、復活したキリストが天に上げられたことを宣べ伝えました。ちょうどエリヤが天に上げられるのをエリシャが見たように、キリストが天に上げられるのを弟子たちは見た。そのことを語り伝えたのです。だから、私たちにまで伝えられているのです。
エリヤは目に見える姿では共にいなくなりました。しかし、エリシャはエリヤの霊を受け継いで、エリヤの働きを続けたのです。エリヤを通して働かれた主は、エリシャを通しても働かれたのです。同じように、キリストは目に見える姿でこの地上を歩まれることはありません。しかし、弟子たちは悲しみませんでした。私たちも悲しんではいません。キリストは天に上げられたことを知っているからです。そして、キリストの霊が私たちに宿ってくださり、神の愛を現し人間を救うキリストのお働きは、地上においてなお継続されていることを知っているからです。
ならば、私たちは真剣に、神の霊のお働き、聖霊の御業を求めるべきなのでしょう。人間の意志や人間の力によってなし得ることではなくて、聖霊の御業、神御自身がなし得ることを祈り求め、期待し、待ち望む。そのような私たちでありたいと思うのです。私たちはエリシャの位置にいるのです。私たちは天に上げられたキリストが地上において働きを続けるための体であり、一人一人はその部分なのです。私たちを通してキリストの御業が継続されることを求めてまいりましょう。
2024年5月5日日曜日
「神の愛から引き離されることはない」
ヨハネによる福音書 16:25‐33
はっきり父について知らせる時が来る
「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」(16:25)とイエス様は言われました。ここで「たとえ」と言われていますが、これはいわゆる「たとえ話」のことではありません。意味が隠されている言葉、直接的には語られていない言葉、そのような言葉であるということです。つまり弟子たちはイエス様の言葉を今は理解できない、はっきりとは分からないということです。
それまでイエス様は確かに父なる神について語って来られました。イエス様は弟子たちにとって、父なる神を指し示してくださる存在でした。自ら父に祈り、父と共に生きる姿を見せてくださいました。しかし、今日お読みした箇所においてイエス様は弟子たちに対して、「まだ、あなたがたは父についてはっきり知らされてはいない」と言っておられるのです。しかし、ずっとそうなのではありません。今、主は、「はっきり父について知らせる時が来る」と言われるのです。
ところで、今日お読みしましたのは、最後の晩餐における最後の部分です。この数時間後にイエス様は逮捕されることになるのです。そして、裁判にかけられ、十字架にかけられ、殺されることになるのです。イエス様はそのことをご存じでした。今日お読みした28節にも、「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」と書かれています。ですから、イエス様は明らかに十字架にかけられた後のことについて語っているのです。
「はっきり父について知らせる時が来る」。そう主は言われます。十字架にかけられた後に、イエス様御自身がはっきり父について知らせてくださると言うならば、それは、もちろん死んでしまった御方としてではなく、復活された御方として、です。復活して父のもとに帰られた御方として、語ってくださるのです。さらに言うならば、父のもとに帰られた復活のキリストが、「真理の霊」である聖霊のお働きを通して、はっきり父について語ってくださるのです。
「はっきり父について知らせる時が来る」。父について「はっきり」知らされなくてはならないこととは何なのでしょう。それは27節にあるように、父御自身がわたしたちを愛していてくださるということです。
イエス様は、父との愛の関係を見せてくださいました。御父は御子を愛しておられました。御子は御父の愛に信頼して歩まれました。その父と子との間に見られた愛が、私たちにも向けられているということです。父なる神が私たちを愛していてくださる。どれほどに?私たちのために独り子さえ惜しまずに与えられるほどに、です。私たちの罪を赦すため、御子を十字架にかけられるほどに、です。それほどに私たちを愛していてくださる。イエス様の十字架を通して、そのような父として「はっきり父について知らせる時が来る」と主は言われるのです。
そして、その時は確かに来たのです。既に来ているのです。主の御復活から既に始まっているのです。イエス様は、十字架の上で罪の贖いを成し遂げ、復活して永遠に生きておられる御方として、そのような父について、はっきり知らせてくださっているのです。今も聖霊のお働きによって、教会を通して、復活されたキリストが語っていてくださるのです。実は、私たちもそのようにして、父が私たちを愛していてくださることを知らされたのです。イエス様が知らせてくださったのです。
私たちの祈りの生活というものは、そのようにイエス様がはっきり父について知らせてくださったことに基づいて形作られるのです。主は続けてこう言われます。「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである」。イエス様が父を呼び求めたように、私たちも、私たち自らが「わたしたちの父よ」と呼ぶのです。父に愛されている子どもたちとして、父を呼び、父に信頼して生きるのです。
安心しなさい
そのように、私たちにはっきり父について知らせてくだり、父御自身が私たちを愛していてくださることを知らせてくださったイエス様は、さらに33節においては、次のように語っておられます。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(33節)。
イエス様は、はっきり父について知らせてくださる御方であるだけではありません。自ら、そのような父と共にあって勝利を取られた御方として、私たちを励まし支えてくださるのです。「勇気を出しなさい」と。
イエス様がこのように語られたのは、弟子たちの弱さを知っていたからです。弟子たちは胸を張って信仰を言い表していました。「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」(30節)と。つまり、あなたがメシアであると信じますと言っているのです。しかし、イエス様はそのように信仰を言い表す弟子たちが、弱さをさらけ出すであろうことを知っていたのです。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」(31‐32節)。
そのように、主は弟子たちの弱さをご存じであるからこそ、イエス様はあえて御自分の持っている強さを示されたのです。イエス様の強さはどこにあるのか。それは「父が、共にいてくださる」というところにあるのです。人々から捨てられ、弟子たちにも裏切られ、誰も味方になってくれなくとも、誰も一緒に闘ってくれないとしても、「わたしはひとりではない」と言える強さ。「父が、共にいてくださる」と言える強さです。この強さがあるゆえに、明らかに絶望的な情勢へと向かっている時にさえ、イエス様はこう宣言することができたのです。「わたしは既に世に勝っている」と。
「世」というのは、よってたかってイエス様を十字架にかけようとしている「世」です。しかし、その「世」に既に勝っている。もう勝利は決まっていると主は宣言されたのです。世に勝つとはどういうことですか。世に勝つのは、御自分に敵対する人々を滅ぼすことによってですか。いいえ、そうではありません。御自分を憎む者を愛し抜くことによってです。そして世を罪から救うことによってです。イエス様は世の罪を贖い、救いを成し遂げることができると、確信をもって語っておられるのです。それゆえに勝利を宣言しておられるのです。なぜですか。「父が、共にいてくださる」と言える強さがあるからです。
そのような本当の強さを見せてくださったイエス様が、父と共にあって勝利宣言をされたイエス様が、私たちに言われるのです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい」と。
確かに、この世にある限り苦難は避け得ません。悪魔が支配している世にある限り、苦難はあるのです。特に、そのような世において、キリストに従って生きようとするならば、苦難は避け得ないのです。そのような世に生きる私たちに主は言われます。「勇気を出しなさい」。
既にお話ししたことから分かりますように、「勇気を出しなさい」と言うのは、いざとなったら出せるような勇気が弟子たちの内に元々あったからではありません。イエス様は、いざとなったら逃げ出してしまうような弟子たちであることを重々承知の上で語っておられるのです。
実はこの言葉は、聖書の中のたいへん印象的な場面で使われています。弟子たちが舟に乗ってガリラヤ湖に漕ぎ出した時の話です。彼らは逆風のため漕ぎ悩んでいました。彼らの苦闘は夜明けまで続いたのです。彼らはへとへとに疲れ果て、近付いてくるイエス様を幽霊と間違える程に、恐れと不安の中にいたのです。主はそんな彼らにこう言われました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(マルコ6:50)。この「安心しなさい」というのが同じ言葉なのです。
まさに真っ暗な湖の上を逆風のため漕ぎ悩んでいるような弟子たちに対して、イエス様は言われるのです。「安心しなさい」と。「勇気を出しなさい」とはそういうことです。あなたがたには世で苦難がある。しかし、安心しなさい。勇気を出しなさい。そうイエス様は言われるのです。
どうしてですか。イエス様が既に勝利しているからです。本当の強さによって勝利しているからです。父が共にいてくださることによって勝利しているからです。そして、大事なことは、その強さはイエス様だけが持っているのではない、ということです。それを私たちにも与えてくださるのです。「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである」と言ってくださる。だから私たちもまた、「わたしはひとりではない。父が、共にいてくださる」と言うことができるのです。それゆえに、イエス様はまた、私たちに「安心しなさい。勇気を出しなさい」とも言われるのです。
本日の第二朗読では、イエス・キリストによって、はっきり父について知らされ、父と共にある本当の強さを与えられたパウロが、ローマの信徒に宛てた手紙を読みました。それこそ、パウロという人は、ありとあらゆる苦難を経験してきた人でした。しかし、それでもなお彼はローマの信徒たちにこう語るのです。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」(ローマ8:37)。これは文語訳聖書では「勝ち得て餘(あまり)あり」と訳されていました。私はこの訳が大好きです。ただ負けないだけではない。やっと勝つのでもない。「勝ち得て餘あり!」
そこにはイエス様から与えられた確信があるからです。パウロはこう続けます。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:38‐39)。そうです、何によっても、神の愛から引き離されることはありません。私たちもまた、パウロと共に宣言して、主を讃えましょう。「勝ち得て餘あり!」と。
2024年5月1日水曜日
祈祷会用:出エジプト記 15:22~16:8
出エジプト記 15:22-16:8
前回は「海の歌」として知られている部分をお読みしました。それは「神の偉大な御業をうたった歌」でした。それは具体的には神が敵を滅ぼされたこととして歌われています。その「敵」とは単にイスラエルの敵という意味ではありません。既にみてきたように、問題は神への敵対にあるのです。私たちが読んできたのは、かたくなに敵対し続ける者の話だったのです。そのように敵対する者を神が「わらのように焼き尽くす」(15:7)と言われるのです。エジプトと言えば、当時において他に並ぶもののない超大国なのですが、それでも「わらのように焼き尽くす」のです。神は「息をふきかけるだけ」で超大国の軍隊を滅ぼせる神なのです。
その歌がどうして喜びの歌となり得るのか。彼らは神に敵対する者ではなく、「神のもの」とされた民の中にいるからです。その民の中にいるゆえに「主はわたしの神」と言うことができる。その幸いをこそ歌っているのがこの歌なのです。彼らが単に神の奇跡によって危機的状態を脱して、そのことを喜んでいる歌ではないのです。
そのような賛美の歌が記されている直後に、今日お読みしたエピソードが出て来るのです。神のものとされている幸いを歌った直後に、その舌の根のかわかぬうちに、「民はモーセに向かって不平を言った」と書かれているのです。
「モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた」(15:22)と書かれていました。彼らは奇跡の余韻に酔いしれていることは許されませんでした。彼らが熱狂して賛美を捧げているその場所に神は彼らを留まらせませんでした。彼らは旅立たねばならない。どこに向かって?「シュルの荒れ野」です。
私たちも教会で讃美を喜び歌います。しかし、そこに留まるわけではなく、現実の「荒れ野」の中に旅立たせられます。そこに送り出されるならば、それまで歌っていた賛美の内容を実際にそこで生きることができるかが問われるのでしょう。
彼らは荒れ野において「贖われた民」として生きることが求められるのです。「この方こそわたしの神」として実際に生きることが重要なのです。しかし、どういうことが起こってくるか。荒れ野においては、「賛美は賛美。信仰は信仰。生活は生活」と分離することが起こってくる。「信仰は告白するけれど、現実はそうはいきませんよ」言い始めるようなことが起こってくる。ここにお読みしているのは、そのような私たちにも身近な現実を考えさせられる場面です。
そこには「彼らはシュルの荒れ野に向かって、荒れ野を三日の間進んだが、水を得なかった」と書かれていました。これは水が尽きてしまったということを意味しているのではありません。水の蓄えなくして旅をすることはあり得ないからです。そうではなくて、期待していたところで水の補給ができなかったということなのです。無くなったわけではないが、水が少なくなってきている。すると「無くなったらどうしよう」と考え始めるのです。
しかも、そこに期待はずれが起こります。マラというところに着いたら水があったのです。彼らは大喜びしたに違いありません。しかし、「そこの水は苦くて飲むことができなかった」というのです。そこで、ますます未来に向かって恐れがやってきます。民はモーセに対して言うのです。「何を飲んだらよいのか」と。何を飲んだらよいのか。蓄えている水を飲んだらよいのです。しかし、まだ水があるにもかかわらず、彼らはあたかも水が尽きてしまったかのように生きているのです。終わりであるかのように生きているのです。
彼らはそこで思い起こすべきなのでしょう。前には海、後ろにはエジプト軍。絶対に「終わり」としか見えなかった時に、そこに道が開かれたこと、そして、神の約束があるかぎり決して「終わり」にはならなかったこと。そして、そのような神を「わたしの神」として賛美したこと。しかし、彼らが口にした賛美を、その信仰を、実際には生きていないのです。
そのように民はモーセに不平を言いました。モーセはどうしたでしょう。モーセは祈った。すると主は一本の木を示され、そこで奇跡を起こされたのです。その木を水に投げ込むと、もはや苦くて飲めない水ではなくなっていました。
民は恐らく狂喜したことでしょう。少なくなっていく水をふんだんに補給することができたのですから。しかし、その後を見ますと、次のように書かれています。「彼らがエリムに着くと、そこには十二の泉があり、七十本のなつめやしが茂っていた。その泉のほとりに彼らは宿営した」。実は、神は彼らの行く先には、なつめやしが青々と茂るオアシスを既に用意しておられたのです。だから、「一本の木」の奇跡は、本当は必要なかったとも言えます。神に信頼して、神の備えを信じて旅をしていればよかったのです。彼らが賛美した信仰を、そのまま生きていればよかっただけの話なのです。
そして、16章に入ります。「イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった」(16:1)と書かれていました。彼らはエリムのオアシスに留まることは許されませんでした。雲の柱が移動したら、そこから再び荒れ野に歩み出さなくてはなりません。
たしかに神は豊かに与えてくださいました。しかし、彼らは神が与えてくださったものに頼るのではなく、与えてくださった神に信頼して生きていくのです。神に信頼して、オアシスを後にして荒れ野に旅立つのです。
さて、15章にも出てきましたが、16章に入って殊更に繰り返されているのは「不平」という言葉です。彼らの不平の言葉は3節に記されています。彼らはモーセとアロンに言うのです。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」(16:3)。
この言葉は、既に見てきたストーリーを踏まえた上で読まなくてはなりません。そうしますとき、これは驚くべき言葉であることが分かります。
第一に、ここで不平を述べている人々は、出エジプトの出来事において神の救いの御業を経験した人々なのです。もともと彼らはエジプト人に仕える奴隷でした。彼らは苦しみの中から神に叫びました。「その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた」(2:23)と書かれているとおりです。彼らが解放されたのは、神がこの叫びに耳を傾けられ、恵みによって行動を起こされたからでした。わずか一月ほど前に、彼らはその恵みを経験した人々なのです。
第二に、ここで不平を述べている人々は、葦の海の奇跡において神の恵みを経験した人々なのです。先にも述べたように、背後からエジプト軍が追い迫ってきた時、彼らの前に広がっていた葦の海は、彼らの終わりを意味していたはずでした。しかし、神はその海の中に道を開かれたのです。終わりを突き抜けてなお先へと進み行く道を、絶望を突き抜けて先へと進み行く道を、神は彼らの前に開かれたのです。彼らは神の恵みによって開かれたその道を、確かに自分の足をもって歩いたはずでした。
第三に、ここで不平を述べている人々は、かつて自らの口をもって、神の恵みを高らかに讃美した人々なのです。「主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し、馬と乗り手を海に投げ込まれた。主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる」(15:1‐2)。これが彼らの歌だったのです。
第四に、ここで不平を述べている人々は、神によって泉のほとりに導かれ、この直前まで、泉のほとりに宿営していた人々なのです。神は雲の柱、火の柱によって、神は彼らを泉のほとりにまで導いて来てくださいました。そのように彼らはこの直前まで、ただ神の恵みによってその豊かさを経験していたはずでした。
不平を述べているのは、そのような人々です。彼らは神を賛美していたその同じ口をもって不平を述べているのです。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった」と言っているのです。「あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と。
何という恩知らず。何という恥知らず。しかし、今日に至るまでの教会の歩みを思い、また私たち自身の生活を思います時に、ここに見るのと同じような姿を私たちは繰り返し見出すのではないかと思います。もしかしたら同じことが今日もまた起こるかも知れません。この祈祷会において、主の救いの御業をほめたたえ、主の泉のほとりに時を過ごしている私たちが、今日の午後に不平を言っているかもしれないのです。
そのように、今日読みました箇所には、私たちにたいへん身近な「不平」という言葉が繰り返されている。そのような箇所です。しかし、繰り返されているのは「不平」という言葉だけではありません。同じように繰り返されている言葉があります。それは「主が聞かれた」という言葉です。これは恐るべき言葉です。彼らはモーセとアロンに対して不平を言っているのです。私たちが不平を言う時、私たちの視界には人間の姿しか入っていないかもしれません。しかし、モーセはこう言うのです。「あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ」(8節)と。
主はかつてイスラエルの民が助けを求める声を確かに聞かれました。イスラエルがエジプトを脱出することができたのは、確かに主が叫び求める祈りの声を聞いてくださったからでした。しかし同じ主は、民が不平を述べる声をも聞かれるのです。私たちは祈る時、主が聞く耳を持っておられることを前提にしています。ならば、私たちが不平を言っているときにも、主が同じように聞く耳を持っておられることを前提としていなくてはならないはずです。